アラビヤ夜話

                 法政大学教授 森田草平 訳



     例言

一、本書は『日本児童文庫』のために、私が新たに書き下ろしたものでございます。
一、私は前にウイリヤム・レーン訳の『千一夜物語』を邦語に訳しましたが、その中から児童の読み物として適当だと思はれる話を八つ選んで、それをなるたけわかり易い文体に書き直して見たのでございます。たゞ一つ最後の『アリ・ババと四十人の盗賊』の話だけは、アレキサンドリー版の原書に拠つたレーンの訳には載つてゐません。で、これはバアトンの訳に拠つて、カイロー版の原書から補充したものを採用しました。
一、御承知の通り、この『アラビヤ夜話』なるものは、元来児童のために作られたものではないので、いろ/\な点で児童の読み物に適しないのが多い。で、あれだけ数ある話の中でも、本当に児童に読ませて差し支へないと思はれるのは、まづこの書に収録した九つの話ぐらゐなものだらうと思ひます。なほこゝに採用したものゝうちでも、いかゞはしいと思はれるところは多少改作した点もありますから、あらかじめ御承知置きを願ひます。
一、世に行はれてゐる類書の中で、この書の特徴として挙げ得られるものがあるとすれば、在来の『アラビヤ夜話』は、多くは西洋人が選択して、西洋人が西洋の児童のために書き直したものをそのまゝ翻訳もしくは抄訳したものが多いように思はれるのに対して、この書は最初から私が選んで、私が書き直したといふ一事にあります。従つて、よくもわるくも、本書の責任は一に私にあるのでございます。以上。
  昭和二年八月一日
                    森田草平しるす

目次
ユーナン王と学者ヅーバンの話
ハサンと馬丁の話
若い獅子と大工の話
アラ・エ・デイーンの話
ひようきん者ハサンの話
賢婦ヅムルツドの話
馬どろぼう
エス・シンヂバードの航海譚
 動く島の話
 金剛石の谷の話
 人食ひ猿の話
 食人種の話
アリ・ババと四十人の盗賊




アラビヤ夜話




装  幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・深沢省三




   ユーナン王と学者ヅーバンの話

 昔、ぺルシヤの国に、ユーナン王といふ王様がありました。この王様は数多の宝物と強い軍隊とを持つてゐて、何一つ不自由のない身の上でございました。が、気の毒なことには、恐ろしい癩病を病んで、国中の医者も学者も、それを直して差し上げることが出来ませんでした。又、ありとあらゆる医薬も、療治も、なんのきゝめもありませんでした。
 ところが、ある日この王様の都へ、ヅーバンといふ年をとつた学者がやつてまゐりました。この学者は、古代と近代とを問はず、諸国の学問に通じてゐるばかりか、いろんな病を直す上にも優れたうでまへを持つてゐました。
 ところで、ヅーハンは、二三日この都に滞在してゐる間に、ふと王様の病と、誰にもそれを直すことが出来ないといふ噂とを耳にしました。その夜、彼は自分の室に閉じ籠つたまゝ、一人で考へあかしました。で、何やら思ひついたことがあると見え、明くる朝になると、一番立派な服に着代へて、王様の御前にまかり出でました。そして、王様の前に平伏しながら、
「陛下よ、畏れ多いことではありますが、私は陛下のご病気と、どんな医者もそれを直すことが出来ないといふ噂を蔭ながら承りました。で、私は飲み薬にも塗り薬にも薬といふものは一切用ひないで、陛下のご病気をそのまゝ直して差し上げたいと存じまして、かうしてまかり出でた次第でございます」と、申し上げました。
「なに、薬を用ひないでわしの病気を直してくれる。どうしてそんなことが出来るのぢや」
と、王様はびつくりして云はれました。
「もしお前がわしの病気を直してしてくれたら、お前自身は申すに及ばず、子々孫々に至るまで何不自由なく暮すことの出来るようにしてあげるよ。だが、そんなことがほんとうに出来るのかね」
「何しに嘘を申し上げませう。もしもそれが出来なかつたら、即座に命を召し上げられても厭ひませぬ」と、学者はきつぱり申し上げました。
「さうか、では、ほんとうに飲み薬も塗り薬も用ひないで、わしの病気を直してくれると云ふのだな」
と王様は、改めておたづねになりました。
「いかにもさようでございます。私は玉体に少しも気味のわるい思ひをおさせ申さないで、そのまゝ御病気を直して差し上げます」と、学者は再び答へました。
 王様はすつかりあきれ返つてしまはれたが、急に勇み立つて、一日も早く治療を加へてくれるように御依頼になりました。
 学者はそこで王様の御前を退いて、別に一軒の家を借り入れた上、その内に書籍を始めいろ/\な薬剤を搬び入れました。そして、柄の中が空になつてゐるごるふ杖をつくつて、その柄の中へ一種の薬を填めました。別に又うまくそれに合うような球も造りました。で、それがすつかり出来上つた時、再び王様の御前へ出て、「すぐさま競馬場へお出ましになつて、ごるふをお遊びなさいませ」と、申し上げました。王様は、大勢の侍従どもを随へて、早速競馬場へお出ましになりました。すると、学者のヅーバンは、かねて用意した球とごるふ杖とを王様にお渡しゝて、次ぎのように申し上げました。
「この杖をかう握つて、馬を駈けさせながら、これで力一杯球をお打ち下さいませ。それも、あなたの全身が汗でしつとりなるまで、打つて/\打ち据ゑるのでございます。さうしますと、この杖の中に仕込んである薬が自然に手に浸み込んで、だん/\体中に廻ります。で、一わたりお遊びが済んで、薬が体中へ廻つた時分に御殿へお帰りになつて、一風呂浴びてぐつすりお寝みなさいませ。お目覚めになつた時は、もう御病気はすつかり直つてゐることでございませう」
 で、王様は学者からごるふ杖をお受け取りになると、それを手に握つたまゝ、とつとつとと、馬を競馬場の真中へ進められました。すると、お相手がほどよく球を王様の前へ投げました。王様は馬を駆つてそれを追ひかけながら、ありたけの力を出してお打ちになりました。かうして、何回となくこの遊戯を繰り返した後、御殿へお帰りになりましたが、入浴しておやすみになるまで、一々学者の言葉通りになさいました。で、目を覚ましてから、そこら中を撫でて御覧になると、不思議なことには、あのしつこい癩病の跡形さへ残つてゐません。まるで白銀のように皮膚がすべ/\してゐるんですね。王様はもう夢かとばかり、有頂天になつて喜ばれました。
 次ぎの朝ヅーバンがまゐりますと、王様は御自分で階の下までお出迎へになつて、お側に並んで坐らせながら、宮廷の賓客としておもてなしになりました。そして、さま/゛\な御馳走を下すつた上、高価な衣装や珍しい財宝に添へて、一千片の黄金までたまはりました。で、ヅーバンも面目を施して退出しましたが、その後御殿へ上るたびに、王様はいよいよ彼を大切に扱はれました。
 ところが、大臣達のうちに、一人強欲で大そう嫉み深い男がありました。彼は王様がヅーバンをお友達のようにして、後から/\といろ/\な御褒美を賜はるのを見て、やけてやけてたまらなくなりました。そして、ひそかによくない考へを懐くようになりました。ある日のこと、彼は王様の前に近づいて、
「陛下、私はどうしても陛下に申し上げなければならないことがあるのですがね、それは容易ならぬことでございます。しかも、ことは他人の身の上に関したものではありますが、私がなまじ隠し立てをして申し上げずに置いたら、到底不忠不臣の罪を免れませぬ。で、陛下のお許しさへあれば、私は直ちに申し上げる覚悟でございます」と、いかにも様子ありげに申し立てました。
 大臣が突然こんなことを云ひ出したので、王様も大そう御心配になつて、
「一体それは何事ぢや」と、せき込んでおたづねになりました。そこで、大臣は一そう真顔になつて、次ぎのように申し上げました。──
「まことに畏れ多いことではありますが、今や陛下はあやまつた道を取つていらせられます。陛下は陛下の敵に、陛下の不幸を望んでゐる者に、さま/゛\な恩寵を加へられました。前例のない程その者を厚遇されました。そして、その者を無二の親友のように信頼していらせられます。ですから、私はこの先どんなことが持ち上らうかと陛下のためにひそかに心を痛めてゐるのでございます」
これを聞くと、王様はさつと顔色をお変へになつて、
「お前は何を云つてるのだ。わしの敵といふのは何者ぢや。誰をわしは無二の親友のように信頼してゐるか」と、言葉鋭くおたづねになりました。大臣はいよ/\真面目くさつて、
「あゝ陛下よ、あなたはまだ夢を見ていらつしやる。どうぞお目を覚まして下さいませ。私は、学者のヅーバンのことを云つてゐるのでございます」と、答へました。
「いや/\」と、王様は頭を左右に振りながら仰せられました。「あの学者は、わしのためには大事な命の親ぢや。あれはたゞあの杖をわしの手に握らせただけで、わしの病を直してくれた。医者といふ医者がみんな匙を投げたわしの病を、たゞそれだけのことで直してくれた。たとひ世界中を西から東まで捜して廻つても、あんな偉い男がまたと一人見出されるものではない。それだのに、お前は又どうしてそんなことを云ひ出したのぢや。わしはあの男に生涯年金を黄金一千片づゝ下げてやる積りぢやが、それだけではまだ少な過ぎるくらゐに思つてゐるのぢや。たとひこの王国の一部を割いてやつたとしても、まだあの男に酬いるには足りまい。それだのに、一体なんと思つてそんなことを云ふのか。わしには、どうもお前があの男のことを妬んでゐるとしか思はれないがね」
 かう云つて王様は一向大臣の言葉を取り上げようとせられませんでした。が、大臣もさるもの、なか/\悪智慧にはたけてゐましたので、そのまゝ引込むようなことはいたしません。つべこべともつともらしい嘘を並べ立てた末、
「陛下よ、あなたがあの学者を信頼していらつしやるのも、まつたく無理のないことだとは存じます」と、改めて云ひ出しました。
「実際あの男は不思議な力をもつてゐます。ですが、そこを考へて下さいませ。その不思議な力を持つてゐることが、また実に油断のならぬところでございますからね。なぜかと申しますと、あの男はたゞあなたのお手に何かしら握らせただけで、たゞそれだけで永々の御病気を直したではございませんか。して見れば、あなたは同じようにたゞ手に何かしら握らせられるだけで、いつ、あの男に殺されるか知れない。それも覚悟していらつやらなければいけませんよ。さう考へると、実際少しの油断もあつたものではございません。私は心の底からそれを心配してゐるのでございますよ」
「なるほど、それもさうじやな」と、王様はとう/\大臣の言葉に惑はされてしまひました。
「お前の云ふことはもつともぢや、云はれて見れば、どうもあの男はわしを殺すために入り込んだまはしもののように思はれる。そして、いつわしの手に怪しいものを握らせて、わしを殺すか知れたものぢやない。それを思ふと、ほんとうに一時も油断はならんな。お前はなか/\忠義ものぢや。で、わしはあの男をどうすればいゝだらうな」
 大臣は「しめた」と、思ひましたが、色にも見せないで、又次ぎのように申し上げました。
「すぐに、あいつをよび出して、首を刎ねておしまひなさいませ。つまり、こちらが先廻りをして、あいつの命を取つてしまふのですよ。それが何より安心でございますからね」
 その言葉に従つて、王様はすぐに学者をよび寄せました。そんなことゝは夢にも知らない学者は、喜び勇んで、王様の前に参りました。すると、驚くではありませんか。自分の命は今日限りだと云ふ仰せでございます。彼には、最初は何が何やらわかりませんでした。が、やがて真青な顔を上げて申しました。──
「あゝ陛下よ、あなたはどうして私を殺さうとなさるのですか。一体私は、殺されねばならないような、どんな悪いことをいたしましたでせう。」
「わしはお前がまはしもので、わしを殺すために入り込んだものだと云ふことを聞き知つたのぢや。そこで、わしは先ずお前を殺して、世の見せしめにしようと思ふのだよ」と、王様は平然として仰せられました。それから役人どもに向つて、
「さあ、すぐにこの反逆者の首を刎ねろ」と、申し渡されました。
「それはあまりに御無体な」と、学者はあわてゝ申しました。「私はあなたの御病気を直した外に、何一つ悪いことをした覚えはございませぬ。それを無理無体に殺そうとなさるのは、まるで私に鰐の酬いを返されるのではありませんか。どうぞもう一度思ひ返して下さいませ」
「その鰐の酬いといふのは、どんなことか」と、王様は珍しそうに聞き返されました。
「それはかようでございます」と、学者はその話を始めました。
「昔、一匹の鰐がナイル川から匐ひ上つて、だん/\砂漠の方へ行くうちに、へと/\に疲れて、喉は渇くが水はなし、もう少しで死にそうになりました。そこへ一人の旅人が駱駝をつれて通りかゝつたので、鰐は言葉ひくゝしながら、『どうか自分を駱駝の背に載せて、ナイル川の岸まで連れて行つて下さい。さうすりや、わたしもあなた方を自分の背中に載つけて、あの河を渡して上げますよ』と、一しよう懸命に頼みました。しかし、相手が恐ろしい鰐のことですから、旅人も用心して、『そりやあいゝが、河岸へ着いてから、さかさまに取つて食はれても大変だからね』と云つて断りました。ところが、鰐の方でも絶体絶命の場合とて、『いゝえ、そんなことは断じていたしませぬ。どこ迄もご恩は忘れませぬから』と、ぼろ/\涙をこぼして頼みますので、旅人も可愛そうになつて、鰐の云ふなりに、ナイル河の岸まで連れて来てやりました。ところが、水際に着いて、駱駝の背からおろしてやるや否や、鰐は前の約束を破つて、大きな顎をあんぐり開きながら、一口に旅人を噛み殺そうとしました。旅人は駱駝を捨てゝ置いたまゝ、命から/゛\逃げのびました。そこへ狐が飛んで来たので、旅人はくやしそうにありし次第を話して聞かせました。後から追つかけて来た鰐がそれを引つ取つて、『なに、この旅人が俺に恨みを持つて、息が絶えるかと思う程固く駱駝の背に結ひつけたからだよ』と、云ひ張りました。狐はそれを聞いて、『なるほど、さういふわけなら、あなたが旅人を殺そうとするのも無理はないが、私も間に立つたからには裁判は公平にしたいから、ともかく一件を始めから終ひまで私の目の前で繰り返して見せて貰ひたいものだね』と、申しました。鰐もそれを承知して、自分から進んで駱駝の背に結ひつけられたまゝ、再びもとの沙漠の中へ連れて行かれました。が、そこへ着くや否や、旅人は狐の指し図で、いきなり鰐を砂の上へ放り下ろして置いて、どん/\逃げて来てしまひました。まあ、かう云つた話もあるのでございますから、陛下に於かせられても、どうかもう一度お考へ直しの上、命ばかりはお助けなされて下さいませ」
 が、王様はそれを聞くと、ヅーバンが自分の悪口を云ふために、わざとこんな話を始めたのだと思つて、いよ/\腹をお立てになりました。そして、役人どもを振り返つて、
「早くせんか、何をぐづ/\してゐる」と、叱りつけました。役人どもゝ学者が可愛そうだとは思ひましたが、王命なれば是非もないので、まづヅーバンの眼を縛つて置いてから、そのうしろへ廻つて、すらりと剣を抜きました。その音を聞くと、ヅーバンはおい/\声を上げて泣きながら、
「どうかお助け下さいませ」と、繰り返して申しました。「すれば、神様もきつとあなたを助けて下さいませう。神様の罰が恐ろしかつたら、どうか私を助けて下さいませ」
 が、王様はどうしても承知して下さいませんでした。そこでヅーハンも、最早これまでと覚悟をきめたと見えて、
「陛下よ、では、どうあつてもお許し下さいませんのなら、せめてしばらくの御猶予を願はれますまいか。実は、私は世にも希な一冊の書物をうちに秘蔵してゐるのでございます。今生の思ひ出に、それを陛下に献上して、永く宮中の書庫に納めて置いて頂きたうございますから」と、思ひ込んで申し出でました。
「で、その書物には何が書いてあるのぢや」と、王様はおたづねになりました。
「それはもう、一々挙げてゐられない程多くのことが書いてございます」と、ヅーバンは答へました。「その中の一番小さなことを申して見ましても、先づかようでございます。あなたが私の首をお刎ねになりました時、その本を開いて、三枚ばかりはぐつてから、左側の頁を三行程お読みになりますれば、首がものを云つて、なんでもおたづねになることに御返事をいたしますよ」
「何ぢやと、お前の首がものを言ふと」
「はい、さようでございます。まつたくそれは不思議なものでございます」
 それを聞いて、王様は何よりもその本が欲しくてたまらなくなりました。そこで、近衛兵の監視の下に、一旦ヅーバンをその家へ送り返すことにいたしました。学者は自宅へ戻つて、その日のうちに支度をとゝのへた上、翌日再び御殿へ上りました。その時御殿の広庭には、王族や、大臣や、侍従や,代議員や、その他国家の重臣どもがまるで花でも咲いたように、ずらりと並んでゐました。その中を、学者は一冊の古い書物と小さな粉薬の壺を捧げたまゝ、しづ/\と王様の御前へ進みました。そして、一つの盤をお貸し下さるようにお願ひいたしました。そこで、早速一つの盤をその前へ持つてまゐりました。彼はその中へ粉薬をあけて、それを掻きひろげながら、次ぎのように申しました。
「陛下よ、どうぞこの書物をお持ち下さいませ。しかし、私の首が飛ぶのを御覧になるまでは、何事もなすつてはいけません。で、私の首が胴を離れましたら、その首を拾ひ上げてこの盤の上に載せ、粉薬の中へ押しつけるように命じて下さいませ。さうすると、流れる血がとまりますから、その時この書物をお開け下さい」
 この言葉が終るか終らぬうちに、ヅーバンの首は刎ねられてしまひました。そして、学者の言葉通りに、それを盤の上に載せました。で、いよ/\王様はその書を開かうとなさいましたが、その一枚々々がぴつたりくつついてゐるので、なか/\思ふように開かれませんでした。王様は止むを得ず指先を舐めて、それでしめしながら、やつと最初の一枚を開きました。が、二枚目も、三枚目も、どれもこれも唾でしめさないでは開けることが出来ませんでした。かうして六枚目まで開くことは開きましたが、見ると、何一つ書いてありません。王様は不思議に思つて、
「おい、何も書いてないではないか」と、首に向つてたづねられました。すると、盤の上の首が口を開いて、
「もつと/\おはぐりなさい」と、答へました。
 云はれるまゝに、王様は指先を舐めてははぐり、はぐつては砥めて行きました。ところが、書物にはその一枚毎に毒が浸みこませてあつたからたまりません。しばらくするうちに、王様の全身にはすつかり毒が廻つて、どつと仰向けに倒れてしまひました。




   ハサンと馬丁の話

 昔、カイロの都に、それは/\器量のいゝ兄弟の男の子がありました。兄はその名をシエムと云ひ、弟はヌーアと申しました。二人ともその当時世に名高い宰相の子でございました。王様は深くこの兄弟を可愛がつてゐられたので、父の宰相が死んだ後は、二人とも宰相の役につけて、一週間づゝ代る/゛\朝廷へ出て勤めさせるようにいたしました。
 ある時、この王様が国内を旅行されることになりました。お供は兄の宰相の番に当つてゐました。で、兄はいよ/\旅に出ようといふ前の夜、弟に向つて、次ぎのように云ひました。
「しばらくお前とも別れてゐなければならないね。ところでその前に相談して置きたいことがあるのだが、どうだね、私達二人はどうかして同じ晩に結婚するようにしようぢやないか」
「これは又変つたお話ですね。ですが、私は何事によらず兄さんの仰しやる通りにいたすつもりですよ」と、弟は答へました。
「さうか、では、さう云ふことに約束したよ。で、もし運よくだね、二人の妻が同じ日に子供を産んで、お前には男の子を、私には女の子が授かつたら、どうだね、お互にその子をめあはせて夫婦にしてやらうぢやないか」
「さう云ふことになれば結構ですね」
「ところで、娘の支度金としてはどれくらゐくれるつもりだい」
「さあ、兄さんのお考へは」
「さうさね。私の考へぢや、まあ黄金三千枚に、果樹園が三つ、それに畠地を三箇所ぐらゐ添へたところが至当だらうと思ふがね」
これを聞いて、弟は思はず声を上げました。
「めつそうな、そんなに出せるものですか。二人が真実の兄弟で、しかも同じ王様に仕へる宰相ぢやといふことを忘れたんですね。本来なら支度金なんかどうだつていゝんですよ。それに、どうしても女よりは男の方が尊いわけですからね」
「なんだと、男の方が尊いんだつて」と、兄はいきなり腹を立てゝ、どなりました。「お前の息の方が私の娘よりも尊いなぞと、よくもそんな事が私の前で云へたものだね。それに、聞いてゐりや、なんだと、同じ王様に仕へる宰相──宰相が聞いてあきれるね。私はたゞお前が可愛そうだと思へばこそ、宰相の仲間へ入れて、私の手助けをさせてやつてるんだよ。それも知らずに、勝手なことをほざきをる。だが、お前がさう云ふ心でゐるからには、どんなことがあつても私の娘はやるわけにいかないから、よく覚えてゐるがいゝ」
「えゝ、私の方だつて貰ひませんとも」
 こんな工合で、最初は冗談のようなことから、仲のいゝ兄弟がとう/\喧嘩をしてしまました。
 あくる朝になると、兄の宰相シエムは予定どほり旅に出ました。が、弟のヌーアは、前夜のことを思ひ出すと腹が立つてたまらないので、こんな国にゐるよりか、いつそどこかよその国へ行つて身を立てようと決心しました。そして、一対の鞍嚢に黄金を一杯つめて、その馬に跨つたまゝ、ひとり広い野原をさして出て行きました。が、どつちの方角をさして進んだものか自分でもわかりませんので、たゞ来る日も/\あてのない旅をつゞけてゐる間にとう/\エル・バスラーの都へ着きました。
 その日もうす暮れ方のことでした。ヌーアがとある旅館に着いて、そこでひと休みしてゐると、この都の宰相がその前を通りかゝりました。宰相は先づヌーアの馬に眼をとめました。それから、その人品骨柄をつく/゛\見やりながら、これはどうもたゞ人ではないと考へました。そこで彼は相手に近づいて、いろ/\話し込んで見ると、云ふこともしつかりして、一器量ある人物だといふことがわかりましたので、とう/\自分の邸へ連れて来て立派な部屋をあてがつた上、手厚くもてなしました。かうして彼が親切をつくしたのは少し考へがあつたからで、実はこの宰相には一人の美しい娘があつて、それの婿にしたかつたのでございます。ヌーアも宰相からこのことを打ち明けられた時は、あまりの意外に下を向いたまゝ、しばらく返事をいたしませんでした。が、自分も国を離れてからは、別段どうするあてもない身でございますので、喜んで宰相の言葉に従ふことにいたしました。宰相も大そう喜んで、早速二人を結婚させました。
 ところで、兄のシエムはどうしたかといふに、彼はしばらくの間王様のお供をして旅行をつゞけてゐました。まさか弟が留守の間に家出をしようとは思はなかつたのですね。で、家に帰つて、始めてそれと知つた時には、本当に驚いてしまひました。あゝして一時の気まぐれで喧嘩はしたものゝ、もと/\骨肉をわけた兄弟のことですから、心から憎いわけではありません。「ほんとうにあんなことを云はなければよかつた」と、シエムは非常に後悔して、四方八方へ使ひを出して弟のありかを探らせました。けれども、ヌーアはとうにエル・バスラーに行つてゐましたからわかる筈がありません。どうにも仕方がないので、シエムもとう/\諦めましたが、そのうちにカイロの市のある商人の娘と結婚いたしました。不思議なことには、それはヌーアが宰相の娘と結婚したのと、全く同じ晩でございました。処で、それよりもまだ不思議なことには、まもなくシエムの妻は女の子を産み、又ヌーアの妻は男の子を挙げました。そして、二人とも満月のような美しい子どもで、男の子はその名をハサンと云ひ、女の子はシツテルとよばれました。かうしていつか兄弟の冗談に話し合つたことが、そつくりそのまゝ事実となつてあらはれたのでございます。
 ところでヌーアは、父宰相の取りなしによつて、自分も宰相の役を授けられました、まもなく父の宰相はなくなりましたが、それでも親子三人、何不足なく暮してゐるうちに月日の経つのはまことに速いもので、ヌーアの子のハサンはとう/\十五の春を迎へました。が、思ひがけなくも、こゝに悲しむべきことが起りました。不幸にも父のヌーアが重い病気にかゝつたのですね。ヌーアはもう死期が遠くないことをさとつたので、一日わが子のハサンを枕もとによび寄せました。そして、涙を流しながら、
「わしはもう長くは生きられまいと思ふからな、わしの云ふことをようく覚えて置いて、忘れないようにしておくれよ」かう云つて、懇ろにいろ/\な教訓を与へました。そして、最後に、
「わしにはカイロの市に一人の兄があるがね、ふとしたことから仲違ひをして、わしは一人こちらの方へ来てしまつたのだ。だが、お前に取つては真実の伯父に相違ないのだから、これから先何か困ることでも、起つたら、伯父さんの所へ訪ねて行くがよい。こゝにその宛名と道筋とを書いた紙きれがあるからね。で、若し伯父さんに会つたら、わしが会ひたい、会ひたいと思ひつめながら、知らぬ他国で死んで行つたと告げてくれるんだよ」
と、云ひながら、一枚の紙きれを取り出して渡しました。そして程なく息をひき取つてしまひました。
 父をなくしたハサンは、もう全くよるべない身の上になつてしまひました。彼はよく父の墓の前に坐つては、さめ/゛\と泣きくらしました。そして、ある日のことでしたが、まるで子供のように墓の上に寝ころびながら、泣き寝入りに寝入つてしまひました。かうして眠つてゐる間に、とう/\夜になつて、美しい月の光がそれにもまして美しい彼の顔を照らし始めました。
 ところで、この墓地には信心深い火霊どもが棲んでゐましたが、一人の女火霊が出て来て、ハサンの姿を一目見ると、その美しさにすつかり見とれてしまひました。彼女は間もなく一人の魔霊をつれて来ました。魔霊はしばらく若者の顔を見てゐましたが、やがてびつくりするような大きな声を挙げて叫びました。──
「これは不思議だ。私はたつた今エジプトで、この若者と瓜二つと云ふ程よく似た娘を見て来たよ」
「では、どうぞその娘のことを話して下さいな」と、女火霊はたづねました。
そこで、魔霊は次ぎのように語つて聞かせました。──
「その娘といふのはその国の宰相の娘ですがね、王様がその美しさを耳にして、父の宰相に向つて『わしの妻にするから連れてまゐれ』と、仰しやつたのですよ。ところが、宰相はそれに答へて、『陛下よ、どうかそればかりはおゆるし下さいませ。私は妻があの娘を生んだその日から、これは弟の息でなければ誰にもめあはせないと、固い/\誓ひを立てました。それには深いわけがあるのでございます』と、云ひながら、十五年以前、弟が家出をするようになつた顛末を詳しく申し上げたのです。ところが、王様はひどく怒つて、『わしがお前のような者の娘を望むのに、それを拒むばかりか、つべこべと理窟を云つて、わしをへこますとは何事だ。よし、さう云ふ了簡なら、お前の娘は極めて身分の低い者と結婚させるから、さう思つてをれ』と、云ひながら、世にこれ以上醜いものはあるまいと思はれるような、よく/\ひどい傴僂の馬丁を、宰相の娘の許嫁にしてしまつたんですね。何しろ国王の命令だから、どうにも仕方がない。とう/\今夜その婚礼がある筈ですよ」
 女火霊はすつかり宰相の娘に同情してしまひました。それに、目の前の若者がその娘に似てゐるところから、どうかすると二人は従兄妹同志かも知れないと思つたので、急に勢ひこんで云ひ出しました。
「では、二人でこの若者を担ぎ上げて、その娘のところへ連れて行つてやらうではありませんか」
「それがいゝでせう」
 かう云つて、魔霊はすぐと若者を抱き上げたまゝ、大空高く飛び上りました。女火霊もその後から一しよに飛んで行きました。そして、カイロの都に着くと、宰相の家の入り口にある腰掛けの上へ若者をおろして、それから目を覚まさせました。ハサンは父親のお墓へ詣つてゐたつもりだのに、眼を開いて左右を見廻すと、まるで様子が変つてゐるものだから、胆をつぶして、もう少しで泣き出さうとしたくらゐでした。が、魔霊はその時一基の燭台に火を点して、それをハサンの手に渡しながら、
「安心なさい、あなたをここへ連れて来たのは私だからね」と、云ひました。「私はこれでも神様のために、あなたの手助けをしようと思つてゐるのだ。だから、この燭台を持つて、あの広間へはひつていらつしやい。誰も恐がるには及びませんよ。それから、あなたは傴僂の花婿の右手に座つて、髪結ひでも、歌ひ女でも、腰元でも、召し使ひでも、前へ来た者には、誰にでも一掴みづゝ黄金をくれてやるのだ。ぽつけつとへ手を入れさへすれば、いつでも黄金が一杯はひつてゐるからね。いくら掴み出してもなくなる心配はないよ。ではすぐにはひつていらつしやい」
 これを聞いて、ハサンも一時は狐につまゝれたような気がしたが、思ひ切つて広間へはひつて行きました。そして万事魔霊から、いひつけられた通りにいたしました。ゐならぶ人達は、図らずもそこへはひり込んで来た若者を見て、最初はちよつと異様に思ひましたが、ほどなくその美しさに見とれて、何事も忘れてしまひました。それにハサンが、みんなに一掴みづゝ金貨をくれましたので、しまひにはみんなハサンが大すきになつて、宰相の婿になるものはハサンを措いて他にない。あの綺麗な娘があんな醜い傴僂のものになつてたまるものかと、誰も彼も考へるようになりました。全く、その夜を晴れと着飾られた花嫁御の美しさは、まるで天女のように見えました。それに引き代へ、婿の傴僂の醜さと云つたら目も当てられぬくらゐでございました。およそ何がふつりあひだと云つて、これほどふつりあひな縁組みが他にありませうか。ですもの、誰でも新月のように美しいハサンと花のようにきれいな花嫁とをめあはせたいと思ふのは自然の人情でございます。
 さて、おひ/\時刻も移つて、お客も帰つて行きましたので、傴僂はひとり自分に当てがはれた部屋へ引き取りました。それと見ると、魔霊はすぐさま二十日鼠の姿になつて、その部屋へはひつて行きました。そして、傴僂の前に蹲つたまゝ「ちゆう、ちゆう」と、鳴きました。傴僂は醜い顔をしかめながら、
「貴様はどこから来た」と、どなりました。
 二十日鼠は見る/\大きくなつて猫のようになりました。つゞいて犬ぐらゐの大きさになりました。そして「うわう、うわう」と、吠えました。傴僂はびつくりして顔色を変へながら、
「あつちへ行きやあがれ、この畜生」と、叫びました。が、犬はそれからもめき/\ふくれて、とう/\驢馬の姿になりました。そして、傴僂の鼻のさきで「へつく、へつく」と、嘶きました。それを聞くと、傴僂は泣き声を立てゝ「助けてくれいつ」と、叫びました。が、どうでせう、だん/\大きくなるばかりで忽ち水牛の姿に変つてしまひました。傴僂はもうべつたりと尻もちをついたまゝ、がた/\と歯の根も会はずに顫へてゐました。水牛になつた魔霊は、可笑しさをぢつとこらえて、
「こらつ、馬丁、貴様はなんと思つて俺の仲間と結婚なぞする気になつたのだ。貴様が宰相の娘だと思つてゐるのは、あれはその実、牝の水牛だぞ」と、ありもせぬことを云つて脅かしつけました。
「私が悪いのぢやない、みんなひとから無理にさせられたことですよ。それに、あの娘があなたのお仲間とは夢にも知りませんでしたからね。どうかまあ御勘弁なすつて下さい」
と、馬丁は平あやまりにあやまりました。
「さうか」と、魔霊は云ひました。「では、かうして置くから、お前はちよつとでも動いてはならんぞ。また日の出る前に、一言でも声を出さうものなら、お前の命はないのだぞ」
 それから魔霊は傴僂の頭を下に、足を上にして、石畳の床の上に逆立ちをさせました。
 かうしてゐる間に、一方ハサンと花嫁とはめでたく結婚してしまひました。が、夜明け近くなると、なんと思つたのやら魔霊は女火霊にすゝめて、まだ寝てゐるまゝのハサンを二人で抱き上げながら、再び空高く飛び上つてしまひました。ずいぶん可愛そうなことをしたものですね。で、神様もあんまりひどいことをすると思し召したのでございませう。一人の天使に命じて、その魔霊を目がけて火の流星を投げさせました。それにはさすがの魔霊もたまりません。たちまち焼き殺されてしまひました。が、女火霊は若者の身に過ちがあつてはならないと思つて、それを庇ふようにしながら、そつとその下の都におろしました。ちようど、そこはダマスカスの都の城門の前でございました。
疲れ切つたハサンは、寝巻一枚身につけたまゝ夜の明けたのも知らずにぐつすり眠つてゐました、往来の人達はこの様を見て、やれ大きな捨子だの、酔つぱらひだのと、口々に勝手なことを云ひ合ひました。程なくハサンも人々の騒ぎに眼を覚ましました。が、見ると、自分は城門の前に、しかも多くの人に取り巻かれながら、まる裸も同様の姿で寝てゐるのではありませんか。一旦そこへ気が附いては、もう恥かしくて坐つても立つてもゐられません。で、大急ぎに市場を駈けぬけて、とある町の料理店の中へ逃げ込みました。
 料理店の主人は一目ハサンの可愛らしい顔を見ると、もう相手がぞつこん気に適つてしまひました。そして、「まあ、そんななりをして、一体お前さんはどこからやつて来たのだね」と、たづねました。そこでハサンは、今迄あつた事を残らず話してしまひました。それを聞いて、料理人はそのあまりに不思議な事件なのに驚いてゐましたが、一そう打ちとけた調子で、かう云ひ出しました。──
「さう云ふわけなら、当分このうちに遊んでいらつしやい。幸ひわしも子供がないから、なんならわしの養子になつてこの店を引き請けてくれるといゝんだがね」
 こんなわけで、ハサンはとう/\料理屋の養子になつて、それからは主人の手つだひをしたり、帳場に坐つて勘定を受け取つたりするようになりました。
 ところで、後に残つた花嫁は、せつかく美しい婿が出来て、やれ嬉しやと思ふまもなく、まだ自分が寝てゐるうちに、その婿君はどこかへ姿を隠してしまつたので、悲しくなつて、しく/\泣いてゐました。そこへ父の宰相がはひつて来ましたが、昨夜からの様子を聞いて不審に思ひながら、婿の部屋へ行つて見ると、どうでせう、そこには例の馬丁が昨夜のまゝ、まだ逆立ちをしてゐるではありませんか。
「おい、お前はどうしたのだ」と、宰相は声をかけて見ました。が、馬丁は魔霊がやつて来たのだと思つて、一言も返事をしませんでした。
「なぜ物を云はんか。黙つてゐると、この剣で突き刺すぞ」と、宰相は再び大きな声をあげてどなりつけました。それを聞いて、馬丁は思はず悲鳴を上げました。──
「魔霊さま、どうぞ勘弁して下さい。私はあなたに云はれた通り、昨夜から一言も物も云はなければ、かうして身動きもしませんでした。ですから、あなたも少しは私を可愛そうだと思つて下さい」
 それを聞いて、宰相はいよ/\わけがわからなくなりました。「お前は何を云つてるんだ。俺はそんな魔物ぢやない。花嫁の父親の宰相ぢやぞ。さあ立て/\」と云ひながら、馬丁に手をかけて引き起さうといたしました。
「いゝえ、いけません/\」と、馬丁はやつぱり逆立ちになつたまゝ、あわてゝ、申しました。「そんなことをして私の命を取らうたつて、その手には乗りませんよ。私は魔霊にいひつかつて、かうしてゐるんですからね。それよりも、あなた、命が惜しいと思つたら、あの恐ろしい魔霊の来ぬうちに、さつさとこゝを引き上げなさい。今にあいつがやつて来たら、旦那だつてどんな目に遭ふか知れませんよ」
 宰相も、こいつ変なことばかり云ふなとは思ひましたが「一体誰がお前をこんな目に遭はせたのだ」と、改めてきいて見ました。すると、馬丁は昨夜からの一部始終を委しく話して聞かせた上、「旦那もひどい方ですな、水牛の仲間なぞを自分の娘だと云つて、私にめあわせるなんて。本当に今度と云ふ今度は懲り懲りしましたよ。何しろ私は、夜の明けるまではかうして逆立ちをつゞけてゐないと、大事の命がありませんからね」
 そこで宰相はもう夜が明けたと教へてやると、「さうですか、それでやつと助かつた」と云ひながら、馬丁はほう/\の体で逃げて行つてしまひました。
 その後で、宰相は再び娘の部屋へ取つて返して、そこらを捜して見ると、枕頭の椅子の上に、一本の頭巾と黄金の沢山はひつた財布とが残してあるのを見つけました。で、それを裏返して見ると、「カイロの都に生れたヌーアの伜ハサン」と、ちやんと署名がしてありました。宰相シエムは、それを見ると、思はず大きな声をあげて、そのまゝそこに倒れてしまひました。が、やがて正気に返ると、すぐに又娘に向つて申しました。──
おゝ、娘や、お前は誰がお前の婿になつたか知つてゐるかい」
「いゝえ」と、娘は首を振りました。
「あれは私の弟の子だよ。ね、お前の叔父さまの子なんだよ」と、宰相は小躍りしながら繰り返しました。それから、なほよく検べて見ると頭巾の縫ひ目から一枚の書き附けが出て来て、それには弟がエル・バスラーの宰相の娘と結婚した日附けを始めとして、息の誕生の日附けから、自分が死んだ時の年にいたるまで、一々明細に書き留めてありました。それで、いよ/\、何もかもわかつてしまつたのでございます。
 その後、宰相の娘は満月のような男の児を生み落しました。云ふまでもなく、それはハサンの子で、その美しさは父親に優るとも劣らぬくらゐでございました。お祖父さんのシエムは非常に喜んで、その子にアジーブといふ名をつけて、それは/\大切に育てました。が、こゝに一つ困つたことには、同じ学校の子供達がアジーブの顔さへ見れば、声を揃へて「やあい、父なし子やあい、お父さんのない子はあつちへ行け、お父さんのない子とは遊ばないよ」なぞと囃し立てるのですね。アジーブはあまりの悲しさに、泣きながらお母さんのシツテルに訴へました。「お母さん、僕のお父さまはどこにゐるの。ね、本当のことを聞かせてよ。でなきや、僕はこの短剣で死んでしまひますよ」これを聞いて、母親は胸を掻きむしられる思ひをしながら、これもわつと泣き伏してしまひました。かうして母子が抱きあつて泣いてゐるところへ、お祖父さんの宰相が何気なくはひつて来ました。そして、二人の様子に眼を円くしながら、「お前方は一たいなんで泣いてゐるのだ」と、たづねました。が、そのわけを聞くと、お祖父さんもまた一しよになつて泣いてしまひました。
 こんなことのあつた後、宰相はとう/\決心をして、国王にお暇を戴いた上、アジーブの父の行方を捜しに出ることにいたしました。そして、アジーブとその他二三の召し使ひを連れて、カイロの都を出発しました。一行はやがて、ダマスカスに到着しましたが、かねて美しい都と聞いてゐましたので、しばらく逗留してその名所を見物することにしました。アジーブも召し使ひに連れられて、あちこち町の中を歩き廻りました。そのうちに、はからずもハサンの店の前へ出てまゐりました。
 ハサンもそれがわが子であらうとは知る筈がないが、それでも言はず語らずのうちに親子の情が通じたものでせう、すつかりアジーブの方へ心を吸ひ寄せられました。アジーブにしてもやつぱり同じことだと見えて、見ず知らずのハサンがわけもなく懐かしくてたまらなかつたのですね。で、召し使ひがとめるのもきかずに、ずん/\店の中へはひつて行きました。ハサンは大そう喜んで自分の拵へた柘榴の砂糖漬けを出して来て、
「あなた方が寄つて下すつたので、こんな嬉しいことはございませぬ。どうぞ沢山召し上つて下さい」と、云ひながら、それをすゝめました。
「小父さん、どうもあり難う」と、云ひながら、アジーブは遠慮なくそれを食べました。
「これで僕も会ひたいと思つてゐる方に会ふことが出来たら、何も云ふことはないんだがね」
「へえ、あなたはそんなお小さい姿をして、もうどなたか大事な方と生き別れをなすつたのですか」と、ハサンは思はず聞き返しました。
「さうなんだよ。僕の一番大事なお父様がどこへいらしつたかわからないのだ。だから、僕はかうしてお祖父様と一しよに方々捜しに出たのだよ」と、云ひ/\、気の弱いアジーブはもう泣いてゐました。
 しばらくして、少年と召し使ひとはハサンの店を出ました。なんだか掌中の玉をなくしたような気がして、ハサンは一時も落ち着いてゐられませんでした。で、すぐに後から駈け出して、二人の後を追つかけました。それを見て、アジーブの召し使ひはうしろを振り返りながら、「何の用があつて、貴様は後をつけて来るのだ。さつさと帰れ」と、叱りつけました。が、それ位のことでは、なか/\帰りそうもなかつたので、今度はアジーブが腹を立てました。そして、そこらに落ちてゐた石を拾つたかと思ふと、いきなりハサンの顔を目がけて投げつけました。それが運わるく額に当つたからたまりません。ハサンの顔は血だらけになつてしまひました。それでもハサンは「あゝ、私が悪かつた。あんまりしつつこくついて来たもんだから、とう/\あの子の機嫌を損ねてしまつた」と、相手を恨まないで、かへつて自分の身を責めながら、すご/\と元来た道を引き返して行きました。
 アジーブは尋ねる父に廻りあつたとも知らぬばかりか、父の顔に石まで投げつけて、そのまゝお祖父さんと一しよにこの都を立ち去りました。そして、程なくエル・バスラーの都へまゐりました。お祖父さんはハサンの残して置いた書き附けからヌーアがこの都にゐたことを知つてゐますので、あはよくばハサンを捜し出すことも出来ようかと心が急いてをりました。で、すぐ様国王に謁見を願つて、わが身の上を詳しく物語つた上、元の宰相のヌーアは自分の弟であると申し上げました。国王は思はず声をあげて、
「おゝ、左様であつたか。だが残念なことに、ヌーアは十二年前一人の男の子を遺して死んで行つてな。それに、その子もどこかへ出奔して、皆目行方が知れぬのぢや。しかしその子の母に当るヌーアの妻は、俺の手許にまだ存命でゐるよ」と、仰せられました。甥の母親がまだ生きてゐると聞いて、宰相シエムは大そう喜んで、
「では、どうぞその母親に会はせて下さいまし」と、お願ひしました。
 国王は直ぐさまそれをお許しになりました。そこでシエムは、早速甥の母親を訪ねて行つて、はる/゛\やつて来た理由を詳しく語つて聞かせた上、これがあなたの孫だと云つてアジーブに引き合はせました。お祖母さまはアジーブの傍へ駈け寄つて、両手に抱きしめたまゝ、しばらくはうれし泣きに泣いてゐました。が、シエムは彼女に云ひました。──
「さあ、さうして泣いてゐても仕方がないから、私どもと一しよにあなたもカイロの都へいらつしやい。さうしたら、いつかは又この子の父親に会ふことも出来ませうから」
 それから宰相の一行は、弟の妻を加へて、いよ/\帰国の旅に上りました。そして、ダマスカスに着くと、今度はこゝで国王へ差し上げる土産物を調へることにしました。それがためには、どうしても一週間ばかり逗留せねばなりませんでした。で、その間に、アジーブは又例の石を投げつけた料理人のことを思ひ出したので、召し使ひに向つて、
「もう一度あの料理人のところへ行つて見ようよ。あんなに親切にしてくれたのに、怪我までさせて、ほんとうに済まないことをしたからね」と、云ひ出しました。そして、再びハサンの店へやつてまゐりました。ハサンはちようど柘榴の砂糖漬けを拵へ上げたところでしたが、アジーブは、その姿を見ると、いきなり駈け寄つて、
「いつかはほんとうに悪いことをしたね。だが、勘忍しておくれよ。私はお前がなつかしくて、かうして訪ねて来たのだからね」と、申しました。すると、ハサンもにこ/\して、
「いゝえ、あんなことちつとも気にしちやゐませんよ。でも、本当によく来てくれましたね。さあ、それではもう一度私の料理を召し上つて下さいな」と、さも/\なつかしそうに云ひました。
「でも、今度はもう/\後からついて来たりしては厭だよ。それだけはきつと約束するね」と、アジーブが申しました。
「えゝえゝ、それはもうきつと約束しますとも」
 そこで、二人はまたおいしい石榴の砂糖漬けを腹一杯食べました。そして、帰つて見ると、アジーブのお祖母さまがやつぱり柘榴の砂糖漬けを膳に上せました。が、たつた今同じものを食べて来たばかりなので、アジーブはいくらすゝめられても手を出さうとはしませんでした。しまひには、ちよつとなめるようにして見て、
「だつて、これは少し甘味が足りないんだもの。僕はもつとおいしいのを腹一杯食べて来たんだよ」と、子供だけに、とう/\ほんとうのことを云つてしまひました。
 それを聞くと、お祖母さまもいつになく腹を立てゝ、
「何をお云ひだえ、えゝ、これは私が手づからこしらへたものだよ。そして、お前のお父さんの外には、一人だつてこんなにおいしくこしらへるものはないんだよ」と、申しました。「でも、さつき町で食べた石榴の砂糖漬けは、そりやあおいしかつたよ。ほんとうだよ」と、アジーブはあくまで云ひつのりました。「よし、そんなことを云ふなら」と、お祖母さまも負けない気になつて、すぐさま召し使ひに命じて、同じ店からその砂糖漬けをとつて来させるようにいたしました。それをお祖父さまに差し上げて、どちらがおいしいかきめて頂かうと云ふのでございます。
 召し使ひは早速ハサンの店へ行つて、お祖母さまと孫とのいさかひをありのまゝに話して聞かせた上、さう云ふわけだから、アジーブの負けないように、一つ特別上等の砂糖漬けを売つて貰ひたいと云ひ入れました。それを聞いて、ハサンはにつこり笑ひながら、
「はい、畏まりました。ですが、こいつの拵へ方にかけては、私と私のお母さまに優るものは世間にありつこないから、その点は安心していらつしやい。そしてそのお母さまは今遠い所にゐるんですからね」と、云ひ/\皿に一杯の砂糖漬けを掬つてくれました。
 で、それを受け取ると、召し使ひは急いで戻つてまゐりました。お祖母さまは待ち構へてゐて、先づその風味を味はつて見ましたが、それだけでもう誰がこしらへたかを悟りました。そして、あまりの意外に気を失つて、その場に倒れてしまひました。さあ、一同の驚きは容易でありません。顔に水を振りかけるやら背中をさするやら、大騒ぎをいたしましたが、それでも程なく息を吹き返しました。そして、眼を見ひらくと同時に、
「あゝ、私の息がまだ生きてゐたのだ」と、叫びました。「この砂糖漬けをこしらへたものは、私の息の他にない。ハサンだ、なんと云つてもハサンに相違ない。この拵へ方を教へたのは誰でもない、この私なんだからね」
 これを聞いた宰相の喜びは、またアジーブの喜びは、とても言葉には尽くされますまい。宰相は早速召し使ひにいひつけて、ハサンをよび寄せました。かうしてハサンは思ひがけなくも母親に会つた上、それとも知らなかつたアジーブとは親子の対面をして一時は夢に夢見る思ひをしてゐました。が、いろ/\と長い物語を聞くにつれて、その不思議な運命に驚くと共に、深く心の底から喜びました。
 やがて、一同連れ立つて、カイロの都に帰つてまゐりました。宰相の娘シツテルの喜びは、まあ、どんなであつたでせう。




   若い獅子と大工の話

 昔、一番の雄孔雀と雌孔雀とが、ある海岸に住んでをりました。そこには他の鳥や獣を捕つて食べるような、恐ろしい野獣を始めとして、いろ/\な獣類が沢山住んでゐました。で、孔雀どもはそれが恐ろしさに、夜間は木の上へとまるようにして、朝になつてから餌をあさつて廻りました。かうしてしばらくは何事もなく暮してゐましたが、だん/\恐ろしさが嵩じて来たので、どこか他へ行つて、もつと気楽な住みかを求めようといたしました。そしてだん/\捜し廻つてゐる間に、ふと一つの島を見つけましたが、それは木や草が茂つて、きれいな清水の流れてゐる、まことに住みよさそうな所でございましたので、いよ/\その島に移つて住むことにいたしました。
 その島へ移つてから、二羽の孔雀は、毎日果物を取つて食べたり、小川の水を飲んだりしながら、それまでとは違つて、至極おだやかな暮しをしてゐました。が、ある日のこと一羽の鴨がいかにも狼狽へたような様子をしながら、彼等の側へ近づいてまゐりました。 それを見ると、雄孔雀は、これはきつと何事か異変が起つたに相違ないと思ひましたので、鴨に向つて、
「どうしてあなたは、そんなにきよと/\してゐるのです」と、たづねました。鴨はこれに答へて、
「どうしてつて、あなた、私はどうにも恐くて/\、ほんとに命も縮まるほどですよ。と云つて、それは野獣なぞが恐いのではありません。私の恐いのは、あの人間といふ奴ばらですよ。まつたく人間くらゐ恐ろしいものはありませんものね。ですから、あなたがたも人間を見たら御用心なさいましよ」と、云ひました。
「まあ安心なさい。お前さんも私達のところへ来たからには、もう大丈夫ですからね」と、雄孔雀は相手を力づけるように申しました。
「それでは、どうぞあなたがたのお仲間に入れて下さいまし。他に頼る所とてない身でございますから」と、鴨はさも嬉しそうに申しました。
 その時、雄孔雀も木の枝から降りて来て、「私達もあなたが来て下すつたので、賑やかになつて喜んでゐますよ。今においしい物を沢山上げますから、安心して落ちついていらつしやい。かうして海の真中の島にゐるんですもの、どうして人間などが私どもに近づいて来られませう。陸からも、海からも、どつちからだつてやつて来られやしませんわい。ですから、もうなんにも心配しないがいゝんですよ。で、その人間がどんなことをしましたかい。それを一つ私どもに聞かせてくれませんか」と、たづねました。
 そこで鴨は次ぎのように話して聞かせました。
「私はこれまでこの島で、別段恐ろしい目にも遭はないで、極めて穏やかに暮らして来ました。ところが、ある夜、夢に、私が人間の姿をした男と話をしてゐると、どこからともなく、かう云つて私に注意してくれる言葉が耳に聞えて来るんですね。『鴨よ、人間に気を許すな、あんな者の云うことに瞞されてはいけないぞ。あいつ等はお前なぞの思ひもよらぬほど計略がうまいのだからね。どうして容易に悪がしこいんぢやないのだ。まるで嘘で固めたような悪ものばかりだよ。その証拠に、あいつ等は魚をごまかして水から引き上げるし、土のたまで鳥を打つし、あの大きな象でさへ罠にかけて捕まへてしまふよ。まつたく、どんな者でも人間の悪戯にかゝつては叶はないね。鳥でも、野獣でも、人間の手から免れるわけには行かないよ。だから、お前方も用心しなけりやいけないね』と、かう云ふたですよ。それを聞いて、私はがた/\顫へながら眼をさましました。そして、それからといふものは、いつその計略にかゝるか、いつその罠に落ちるかと、たゞもう人間の怖さ、恐ろしさに、生きた心地もありませんでしたがね、とう/\ゐたゝまらなくなつて、あてどもなくひとりでさまよひ出したのですよ。
 で、その日も暮れかゝつた頃には、おなかはなくし、精も根も尽き果てゝ、この末どうなることかと心配しい/\、疲れた羽がひに鞭打ちながら、だん/\やつて参りました。そして、あそこに見えるあの山へ行き着いた時、洞穴の入り口に、一疋の黄色い色をした若い獅子がしやがんでゐるのを見ました。若い獅子は大そう喜んで私を迎へてくれました。私の美しい羽色や、優しい姿があの方の気に入つたものと見えるんですね。で、私に声をかけながら、『もつと近くへ来ないか」と、云ふのですよ。で、私が傍へ行くと、「お前の名はなんと云つて、どういふ連中の仲間かね」と、たづねました。そこで私は「私の名は鴨と云つて空飛ぶ鳥の仲間でございます』と、有様を答へましたが、今度はこつちからどういふわけで、あなたは今頃こんな処にぶら/\していらしつたのです」と、たづねて見ました。すると、若い獅子の云ふには、『それはかう云ふわけなんだ。二三日前から、人間に気をつけろ、人間に気をつけろと、しきりに親爺が云つてゐたが昨夜とう/\人間の姿を夢に見たんだよ』かう云つて、どうでせう、私が今あなた方にお話したと丸で同じような夢の話をして聞かせるぢやありませんか。そこで私は、『獅子さん、私はあなたにお願ひして人間を殺して貰はうと思つて、こゝまで来たんですがね、一つ思ひ切つてやつつけて下さいよ。あなたは野獣の中の帝王ぢやありませんか」と、熱心に勧めて見ました。すると、彼はなんと思つたか、ふいに立ち上つて尻尾でぴちや/\自分の背中を打ちながら、ゆるゆると歩き出しました。私もその後からついて行きました。
 私どもはだん/\道を下つて行きました。すると、目の前に埃が立ち上つて、その中から裸の驢馬が一疋こちらを目がけて駈け出して来ました。それを見て、獅子が声をかけると、驢馬はすなほに彼の前へやつてまゐりました。『どう云ふわけで、お前はこちらへ逃げて来たのだ』と、獅子がたづねました。『人間が恐いからです』と、驢馬は答へました。『あいつ等に殺されようとでもしたのかい』と、再び獅子がたづねました。すると、驢馬は次ぎのように答へました。『いえ、さうではありません、私があいつ等を恐がるのは、あいつ等が私を乗り廻すからです。あいつ等は鞍といふものを持つてゐて、それを私の背中に載つけるばかりでなく、腹帯といふものを私の腹にまきつけ、鞦といふものを私の尻尾の下へ挟むんです。また馬銜といふ物を持つて来て、それを私の口に食ませたり、突く棒といふ物を拵へて、それで私をつつ突いて走らせたりするのですよ。とにかく、あいつ等は、私の力以上に走らなければ承知しないのですからね。で、もし私がうつかり躓きでもしようものなら、さん/゛\に私を罵ります。嘶くと、謗ります。そして、私が年寄りになつて、もう走れなくなると、あいつ等は私の上に木の荷鞍を置いて、私を水売りの手に渡します。すると、水売りは川から水を汲んで、山羊の革嚢だのに詰めた上、私の背につけて運ばせるんですよ。かうして、私は死ぬまでこき使はれたあげく、いよ/\死んだ時には、芥の山へ捨てられて、犬の餌食になるんです。まつたく、これぢや死ぬにも優つた苦しみぢやないでせうかね』それを聞いて、獅子は、『お前はこれからどこへ行かうとしてゐるのだ』とたづねました。驢馬は『私は夜明け前に人間の姿を見かけました。で、かうして一目散に逃げて来たのですがね。たゞもう、一時も早くよい隠れ場所が見つけたいばかりですよ』と、申しました。
 ところで、驢馬がまだぐづ/\してゐる間に、また埃の雲が彼方の空に舞ひ上つて、それが消えると、その中から一疋の黒馬があらはれました。その馬は、額と蹄の近くに白いところのある、脚のすらりとして細い、まことに美しい馬でございました。若い獅子はまた、『お前がこの広い砂漠を飛んで来たのは、どうしたわけだね』と、たづねて見ました。すると、その馬は「人間が恐いからですよ」と、同じように答へました。そこで、若い獅子は馬の言葉に内心驚きながら、「そんな事をいふな、そんな事をいふのはお前の恥だぞ。お前はさうして背の高い、丈夫な獣ぢやないか。それ程大きなずうたいをして、人一倍にはやい脚を持つてゐながら、どうして人間なぞを恐がるのだ。見たまへ。僕はこんな小さな体をしてゐても、鴨を助けて、一つ人間と戦つてやらうと考へてゐるんだよ。お前がその蹄で、蹴つたら、あいつ等一たまりもなく死んでしまつて、お前に手向ふことなぞは、とても出来なさそうなものだがね」と、申しました。すると、馬は声を挙げて笑ひました。『どうして/\、飛んでもない、私なぞがあいつ等を征服するなんて考へも及ばないことですよ。何しろ、あいつ等はありあまる程の悪智恵を持つてゐるのですからね。そして、棕櫚の毛でつくつた二本の縄を私の手足にかけて、私の頭を高い棒杭に結びつけるんですもの、寝ることも横になることも出来やあしません。またあいつ等が私に乗らうと思ふ時には、鐙といふ金具を私に結ひ着けた上、鞍といふものに二本の腹帯を通して、私の背中に載せつけるのですよ。そして、口には馬銜を食ませ、それに手綱といふ鞣し皮の紐を結ひつけるんです。で、その手綱をしつかり握つて、自由自在に私を動かすのですね。又その鐙で時々血の出る程私の横腹を蹴るんです。こんなにして使つて置きながら、私が年を取つてはやく走れなくなると、あいつ等は私を粉挽き屋へ売り渡して、朝から晩まで臼のまはりを廻らせますよ。さうしていよ/\動けなくなつた時は、私を屠殺者の手に渡して屠らせるんですね。すると、そいつ等はまた私の皮を剥ぐ、尻尾を引きぬいて篩屋に売る、おまけに私の脂までも溶かして何かに使ふんですからね」
 かうして獅子が馬と話してゐる間に、また埃が立ち上つて、今度は駱駝がやつてまゐりました。若い獅子は相手が大きくていかにも丈夫そうなのを見て、これが人間だなと考へました。そして、今にも飛びかゝらうとしたのでした。けれども、私が側から「あれは駱駝といふ獣ですよ』と、教へてやつたので、何事もなく済みました。そこで若い獅子はまた前のようにたづねました。すると、これもやつぱり人間の手から逃げて来たと云ふのでございます。「えゝ、そんな大きな体格をしてゐる癖に、どうして人間なぞを恐がるのだ」と、獅子は眼を丸くしてたづねました。『お前がその脚で蹴飛ばしてやつたら、ちつぽけな人間なんか一度で死んでしまふだらうぢやないか」すると、駱駝はそれに答へました。「なか/\さう容易くは行きませんよ。まつたく、あいつ等の計略のうまさと云つたら、そりやあお話するようなものぢやありませんからね。お聞き下さい。まあ、かうですよ。あいつ等は私の鼻に鼻環といふものを通して、頭にたづなといふものをつけるんです。それから、私を小さな子供の手に渡すんですがね、子供はその紐でもつて、こんな大きなずうたいをしてゐる私を自由自在に引き廻すんだから叶ひませんや。またあいつ等は私に重い荷物を背負はせて、一緒に長い道中をさせます。かうして永い歳月の間、夜昼休みなしに苦しい労働をさせるんですが、いよ/\私が年を取つて、あいつ等の役に立たなくなると、情容赦もなく私を屠殺者の手に売り渡すんですよ。すると、そいつ等は又私の皮を鞣し皮屋に売つて、肉を料理人に売るんですね。ほんとに、考へて見てもぞつとしますよ』それを聞いて、若い獅子は、
『一体お前はいつ人間の手から遁れて来たのか』と、たづねました。「ほんの少し前逃げ出して来たばかりですがね、ひよつとしたら、今頃は途中まで追ひかけて来てゐるかも知れませんよ』と、駱駝はさう云ふ下からびく/\顫へてゐました。すると、若い獅子は『まあ、そんなに狼狽へるにや及ばないよ。しばらくお待ちなさい。今にこのわしがあいつ等を引つ裂いて、その肉をお前方に御馳走した上、その骨を折つて、その血を啜る所を見せて上げるからな』と、申しました。
 すると、どうでせう、この話が終るか終らないうちに、瘠せた、背の低い老人が、何気なくこちらへやつてまゐりました。彼は片手に大工の道具を入れた籃を提げて、頭の上には木の枝と八枚の板とを載せてをりました。そして、二人の子供の手を曳いてゐました。彼が私どもの前まで来た時、若い獅子は彼の前へ進んで行きました。すると、老人は獅子に向つて、『私は悪い奴等に苦しめられてゐるものです。どうか私を助けて下さい』と、云ひながら、獅子の前に立つて泣いたり、歎いたり、溜め息をついたりして見せました。『お前は一体何者だ』と、若い獅子は相手の様子を見やりながら、かうたづねました。『お前に似たようなものを、わしは未だ生れてからまだ一度も見たことがないがな』そこで大工は答へました。『私は大工です。(大工は貧乏で始終他人から苦しめられてゐるので、かう云つたのです)で、私を苦しめる奴等と云ふのは人間なんですがね。明日の朝はそいつ等がきつとこゝを通りますよ』それを聞いて、若い獅子は武者ぶるひをしながら、『よし、今夜は朝まで起きてゐることにしよう。そして、人間を殺してやるまでは、どうあつても帰らないぞ』と、大きな声で叫びました。それからその大工に向つて、『見たところ、お前の脚はどうも短いようじやが、それで他の野獣と歩調を揃へて歩くのは随分困難ぢやらうな。そこできくがね、お前は一体どこへ行くつもりなんだい』と、たづねました。すると、大工は次ぎのように申しました。『はい、私は山猫さまのところへ伺はうとしてゐるのです。と云ふのは、この地方へ人間が入り込んだといふ噂をお聞きになつて、あの方が大そう御心配になりましてね、私の許へわざ/\使ひをよこされたのですよ。そして、人間がやつて来ても自分の傍へは近寄れないように、一つ家を建てゝくれないかと、かう仰しやるんですね、で、私はこの通り板ぎれを持つて、あの方の許へ出かけて来たのですよ』
 それを聞いて、若い獅子は急に山猫が羨ましくなりました。そして、大工に向つて、『山猫の方は後廻しにして置いて、先づその板ぎれで俺のうちを建てゝくれないか』と、しきりに頼みました。すると、大工は『それは困りましたね,何しろ山猫さまの方は先口ですから、それを建てゝからでないと、どうもあなたのお言葉に従ふわけには参りませんよ』と、わざとすげなく申しました。が、さう云はれると、若い獅子は一そうしつつこくなつて、
『お前が俺のうちを造つてくれるまでは、どんなことがあつてもこの場は去らせないよ』と、云ひながら、なほも大工の機嫌を取らうとして、その前に這ひつくばつたり、肩へ飛びついたりして見せました。その拍子に、大工はよろ/\として、手に持つた籃を放り出したまゝ、仰向けに倒れてしまひました。それを見て、獅子は『なんといふお前は弱い奴だらう本当に力がないね。これぢや人間を怖がるのも無理はないよ』と、笑ひに笑ひました。大工は腹を立てましたが、相手が相手ですから、わざとその色を隠して、にこ/\笑ひながら、『では、あなたから先に造つて上げませうよ』と、云ひました。そこで持つて来た板ぎれを適当の長さに切つて、それを釘づけにして箱の恰好に拵へました。そして、幾本かの釘を手に握つたまゝ、若い獅子に向つて、さあ出来ましたから、『この入り口からうちの中へはひつて見て下さい。そして、手足ををつて、小さく蹲んで御覧なさい』と、云ひました。獅子は大そう喜んで、云はれるまゝに箱の中へはひりました。が尻尾だけはまだ箱の外にはみ出してゐました。さう云ふわけで、少し窮屈なところから、獅子はそのまゝ後へ退つて、箱から出ようといたしました。すると、大工はあわてゝ、『まあお待ちなさい、尻尾も一しよにはひるかどうか見てあげますからね』と、云ひ/\、獅子の尻尾を箱の中へ押し込んで、その上から手早く蓋をした上、とん/\と釘を打ちつけてしまひました。『おい、お前の造つてくれたうちはどうも窮屈でたまらないね。早く出してくれないか』と、若い獅子は大きな声で呼ばはりました。『どうして/\、かうなつてから出してやつてたまるものか。お前もとう/\檻の中へ入れられたね。いくら後悔したつて、もう後の祭だよ』と、大工は手を打つて笑ひました。若い獅子は、この時になつて始めて、大工が人間であることに気がついたのでした。私はもう最初から怖ろしくてたまりませんでしたが、ずつと離れた所へ遠退いて、ぶる/\顫へながら見てゐました。すると、どうでせう。そいつは箱の近くに溝を掘つて、その中へ箱を転がし込んでから、どん/\薪を投げ入れて可愛そうに、その若い獅子を焼き殺してしまひましたよ。それを見て私はもう顫へ上つてしまひました。そして、余りの怖ろしさに、この二日間といふもの、後をも見ないで、ただもう逃げ通しに逃げて来たんですよ」
 この話を鴨から聞いた時、孔雀どもは非常に驚いてゐました。が、やがて、雌孔雀は、鴨に向つて「だが、もう心配することはありませんよ。こゝだけは大丈夫ですからね」と云つて慰めてやりました。そして、お互に仲のよい友達になる約束をして、その夜は一緒に飲み食ひをして過ごしました。




   アラ・エ・デイーンの話

 昔、バグダツドの教王の御家来に、アラ・エ・デイーンといふ若者がございました。大そう教王のお気に入つて、一日としてお側を離れたことがありませんでした。ところが、妻のズベイデエに死なれてからといふものは、毎日泣いてばかりゐて、一向御殿へも上がらないようになりました。教王もそれを御心配になつて、なんとかして彼を慰めてやりたいものだと、いろ/\お考へになつた末、宰相のジヤーフアルを召し寄せて、
「どうだらう、アラ・エ・デイーンもあゝしてゐては仕方がないから、新たに妻でも持たせて見ては」と、仰せになりました。
「それも宜しいが、あのズベイデエに勝るような女は、この国中にもないでせうから、多分あの男が承知しますまいよ」と、ジヤーフアルは申し上げました。
「さうか」と、教王は重ねて仰せになりました。「では、せめてあの男を連れ出して、気晴らしでもさせてやつてくれんか。さうしたら、ちつとはあれの心も休まるだらうからな」
 宰相はかしこまつて御前を退出しました。そして、あまり気の進まぬアラ・エ・デイーンを無理に連れ出して、ぶら/\市中を遊んでまはりました。ところが、その日市場に奴隷の市が立つてゐました。その当時は、男でも、女でも、外国から捕虜にして来たものを奴隷にして売ると云ふようなことがあつたのですね。見ると、一人の若い、それは/\美しい娘が台の上にのせられて、せりにかけられてゐました。それを買はうとしてゐるのは、この都の警視総監の息で、ハバズラムといふ醜い男でございました。娘奴隷はその男に買はれるのが厭だと見えて、しく/\泣いてゐるのですね。それを見ると、アラ・エ・デイーンは急に可愛そうになつて、どうかしてその女を救つてやりたいと思ひました。で、つか/\と前へ出て、自分が黄金の一千枚でそれを買ひ取らうと云ひ出しました。すると、ハバズラムもやつきとなつて、
「では、俺も黄金をもう一枚増さう。一千一枚で買つた」と、どなりました。
「では.黄金二千枚」と、アラ・エ・デイーンも叫びました。
 かうして、ハバズラムが黄金一千枚づゝ、せり上げるたびに、アラ・エ・デイーンの方では一千枚づゝ増して行きました。それを見て、ハバズラムは非常に腹を立てました。が、腹を立てたところで、どうにもならない。とう/\その娘奴隷は黄金一万枚でアラ・エ・デイーンの手に買ひ取られました。で、彼は一たんその女を家に連れて帰つた後、すぐに解放してやらうといたしました。が、女の方では、彼の恩に感じて、どうしてもこのうちに置いてくれと云ふので、とう/\その望みに任せました。そして、教王に願つて、あらためて結婚した上、二人で仲よく暮すようになりました。
 一方ハバズラムは、もうがつかりしてしまつて、まるで病人のようになつて家に帰りました。そして、すぐさま床をとつて寝ましたが、それからは食物もとらなければ、夜も眠らないので、だん/\衰へて行くばかりでございました。かうなると、お母さんはもう心配でなりません。どうしたものかと、毎日気を揉んで暮してゐるうちに、ある日のこと、ふいに一人の婆さんが訪ねてまゐりました。
 この婆さんは、カマーキンといふ盗賊の母親でございました。そして、そのカマーキンといふのは、どんな厚い壁でも切り破れば、どんな固い錠前でもねぢ千切るといふ、どえらい大泥坊なんですね。ところが、さすがのカマーキンも、ある時大金を盗んだことから足がついて、役人の手に取りおさへられた上、とう/\監獄へ入れられてしまひました。泥坊でもわが子ですから、母親が心配して、どうかして警視総監の妻の取りなしで、わが子を監獄から出られるようにしてやりたいと、しげ/\通つてまゐりました。この日もそのためにやつて来たのですが、相手が心配そうな様子をしてゐるのを見て、
「一体、どうなさいました」と訊ねました。
「どうもハバズラムのかげんが悪くつてね、この頃ぢやもう命もあぶないんだよ」と、総監の妻は答へました。そして、かうなつたわけを残らず打ちあけて話しました。それを聞いて、婆さんは膝を進めながら、
「もしこゝに、その女を取り戻して、あなたの息さんの命を助けるものがございましたら、あなたはどうなさいますか」と、云ひました。
「どうなさいますつて、お前、そんなことが出来るのかね」
「出来ますとも」と、婆さんは答へました。「伜のカマーキンにやらせたら、きつと取り戻してお目にかけます。たゞ困つたのは、あいつが今監獄へ入れられてゐるのですよ。ですから、どうか教王様に取りなして、一日も早く放免していたゞくように、あなたから旦那様にお願ひして下さいましな。あれが出て来さへすれば、あなたの息さんの思ひをかなへるくらゐはわけありませんからね。それに、今度といふ今度はあれも後悔してますから、きつと真人間になるでせうよ」
 総監の妻は婆さんの話を聞いて、なるほどと思ひました。そして、総監が家に帰つて来た時、泣いたり、くどいたりして、そのことを夫に頼みました。総監もとう/\妻子の愛にひかれて、それを承知しました。そして、カマーキンに鎖をつけたまゝ、教王の御前へ出て、いゝようにそこを取りなしました。何も御存じない教王は、カマーキンが後悔したと聞いて、すぐにその罪をお許しになりました。かうしてカマーキンは、その場から放免されたばかりでなく、新たに夜警の隊長に任命されました。
 ところで総監の妻は、その後婆さんの顔を見るたびに、息の方のことはどうしてくれるのだと催促するのですね。婆さんも約束だから仕方がない、伜に最初からの話をしてなんとかしてやつて貰へまいかと相談を持ちかけました。が、カマーキンはもと/\泥坊でもするような男ですから、
「なに、そんなことはいと易い話だ。今夜にも一つやつつけて見ませうよ」と、わけなく引きうけました。
 で、その夜人の寝ついた頃を見計らつて、彼は大胆にも教王の宮殿に忍び入りました。そして、お伽の者どもが居眠りしてゐる間に、お居間の次ぎから教王が日頃大事にしていらつしやる玉のらんぷを始め、二三の珍らしい宝を盗み取つて、ふたゝび屋根づたひに出てまゐりました。そして今度はその足でアラ・エ・デイーンの家にはひりました。アラ・エ・デイーンの家では、その晩結婚の披露をして二人とも疲れてぐつすり寝込んでゐました。カマーキンはまづ広間へ忍び込んで、床の石を一枚剥がして、その下に盗んで来た宝物を入れました。そして、石の板をもとのように直して置いてから、又こつそりと出てまゐりました。で、盗んだ物は何もかもその家に置いて来ましたが、たゞ洋燈だけは余程気に入つたと見えて、
「こいつあいゝ。こいつを前に置いて酒を飲んだら、さぞうまからうな」と、独言を云ひ云ひ、自分の家に帰つてまゐりました。
 明くる朝、教王が眼をお覚ましになると、例の品々が紛失してゐるのですね。それを御覧になつた教王の驚きと怒りとは、一通りではありませんでした。そこへカマーキンが警視総監と一緒に、何食はぬ顔をしてやつてまゐりました。そこで、教王は昨夜の出来事を二人にお話しになつた上、更に警視総監に向つて、
「近々のうちに盗まれた品を取り返して来ればよし、さもなければ、お前の首を刎ねてしまふぞ」と、どなりつけられました。
「御尤もでございます」と、総監は申し上げました。「ですが、私の首を刎ねられる前に、まづカマーキンの首をお刎ねになつたらよろしからう。これはどうしても夜警の隊長の責任でございますから」
「なる程、私の責任に相違ござりませぬ」と、カマーキンはわるびれもせすに申し立てました。
「で、この盗賊は飽くまで私が詮議してお目にかける所存でございます。それについては、どうか検事を二人と、警官を十人ばかり私につけて下さいませ」
「うむ、それはお前の云ふ通りにしてやる」と、教王は仰せになりました。「だが、だが、第一番に、まづわしの宮殿から捜索するがいゝぞ。盗人は近い所にあるといふからな。で、犯人が明白になつた際には、たとひわが子であらうとも容赦はせぬから、きつとさう心得てゐるがいゝ」
 そこでカマーキンは、手に真鍮と銅と鉄とで造つた棍棒を握つたまゝ、役人どもをつれて、いよ/\捜索に取りかゝりました。まづ宮殿の中から始めて、次ぎには宰相の邸を調べました。それから侍従や士官どもの邸とだん/\検べて行つて、とう/\アラ・エ・デイーンの邸へやつてまゐりました。アラ・エ・デイーンは夢にもそんな覚えはないから、
「さあ/\、どこなりとも捜索して下さい」と、戸を開いて一同を招じました。
 で、警視総監を先頭に、一同どや/\とはひつて行つて、部屋から部屋と検べにかゝりました。そのうちに、カマーキンは広間へはひつて、一つ/\床石を叩いて見ながら、例の石の上まで来ると、棍棒の先で力任せにそれを突きました。すると、それが幾つにも破れて、破れた石の間から、何やら光る物が見えました。それを見ると、カマーキンは急に大声を上げて、
「どうやら盗人は見つかりましたぞ」と、よばはりました。
 その声を聞いて、検事も警官もあわてゝそこへ駈け着けました。そして、その床石を上げて見ると、案の定その下から盗難の品があらはれたのですね。かうなつてはもう、いくら身に覚えがなくとも仕方がない。アラ・エ・デイーンは高手小手に縛り上げられたまゝ引つ立てられました。
 その間に、アラ・エ・デイーンの妻も、カマーキンの手に捕へられて、有無を言はせず警視総監の妻の手許へ連れて行かれました。息のハバズラムは、一目彼女の姿を見るや、もう元気が恢復して、にや/\しながら、彼女のそばへ近寄らうとしました。が、彼女はいきなり帯の間から懐剣を抜き出して、そばへでも寄らうものなら、相手を殺して、自分も死んでしまひそうなけはひを示しました。で、寄るには寄れず、ハバズラムはいよ/\思ひが募るばかりで、再びどつとわづらひついてしまひました。総監の妻も非常に腹を立てゝ、打つたり、つめつたり、さんざいぢめぬきました。が、固い女の決心はどうするわけにも行きません。とう/\持てあまして、汚い着物に替へさせたまゝ、台所へ追ひ下ろして、下働きの女奴隷にしてしまひました。
 ところで、アラ・エ・デイーンは、床下から出た宝物と一緒に、教王の御前に引き据ゑられました。教王はそれ等の品々を検べて見られましたが、その中に肝心のらんぷが一つだけ足りませんでした。で、相手を睨みつけるようにしながら、
「らんぷはどうした」と、おたづねになりました。
「私はなんにも盗んだ覚えはござりませぬ。また、何も存じませぬ。見たことさへござりませぬ」と、アラ・エ・デイーンは答へました。
「知らぬ筈はない。この場に臨んで嘘をつくとは何事だ、この恩知らずめが。わしはあれ程お前を可愛がつてやつたのに、そのわしを裏切つて、盗みをするとは何事だ」と、教王は言葉鋭く仰せられました。そして、時を移さず彼を絞首台へかけるように命ぜられました。
 ところで、アラ・エ・デイーンづきの隊長に、アーマツドといふ男がございました。この男はかねてデイーンの正直で潔白なことを知つてゐましたので、彼がいよ/\絞首台にかけられるといふ噂を聞いて、いかにも気の毒に思ひました。で、どうかして助ける工夫はないかと考へた末、牢番の許へ駈けつけて、鼻ぐすりを使つて、一わたり牢の中を見せて貰ひました。そして、死刑になりそうな囚人の中から一人アラ・エ・デイーンによく似た男を引き出して、その男を連れて、ふたゝび絞首台の下へ駈け着けました。そこにはアラ・エ・デイーンがもう眼を白い布で縛られたまゝ立つてゐました。それを見ると、アーマツドは役人どもに向つて、
「おい、この男を代りに絞首台へ上せてくれ。アラ・エ・デイーンはおれが預かつた」と、いきなりどなりました。
 役人どももそれには驚きました。が、かねてアーマツドのがむしやらなことは知つてゐるし、それにアラ・エ・デイーンのことも可愛そうだと思つてゐたところなので、黙つてアーマツドに引き渡しました。そして、その代りに、アーマツドの連れて来た囚人を絞首台に上らせました。
 それからアーマツドはアラ・エ・デイーンを自分のうちへ連れて来ました。そして、
「一体、どうしてこんなことになつたのです」と、あらためてたづねました。
 そこでデイーンは自分が無実の罪に陥つたことを委しく話して聞かせました。
「が、いくら無実の罪でも、あなたはもうバグダツドに住んでゐることは出来ますまい。教王の眼をのがれるのは、なか/\容易なことぢやありませんからね。が、まあ安心していらつしやい。私が手引きをして、無事にアレキサンドリーの町へ落して上げますよ」と、アーマツドは頼もしそうに云ひました。そして、その日の中に支度をして、アラ・エ・デイーンを連れたまゝ、バグダツドの都を後に出発しました。
 で、二人は途中いろ/\な目に遭ひながら、日を重ねてアヤースの港へ着きました。そこから船に乗つて、とう/\目指すアレキサンドリーの港へ上陸しました。で、まづ市場の方へ出かけて行くと、そこに一人の仲買ひ人がゐて、一軒の店をせり売りにかけてゐました。アラ・エ・デイーンは黄金一千枚で、その店を買ひ取りました。それから鍵を貰つて、その店を開けて見ると、倉庫の中には、帆だの、帆綱だの、革の鞍だの、鐙だの、ないふだの、鋏だのといふようなものが一杯詰まつてゐました。つまりその店の持ち主はもと古道具屋をしてゐたらしいのですね。かうして彼はそれ等の物をそつくり手に入れて、大した元手もなしに商売を始めることが出来ました。それを見て、アーマッドも安心したので、三日の間そこに滞在した後、再び、バグダツドを指して帰つて行きました。
 一方、警視総監の息のハバズラムは、どうしてもヤーセミン──これはアラ・エ・デイーンの妻の名でございます──が思ふようにならぬので、気を揉み/\、とう/\死んでしまひました。ところで、そのヤーセミンはどうかと云ふと、その家に女奴隷となつて働いてゐながら、ちようどアラ・エ・デイーンと結婚して一年目に、玉のような一人の男の子を生み落しました。そして、その名をアスラーンとつけました。アスラーンとはアラビヤ語の獅子といふことでした。ところで、アスラーンはその名のように丈夫な子で、不自由の多い生活の中に、病気一つせずに育つて行きました。かうして又二箇年の月日が経ちました。ある日、彼の母が台所で用をしてゐる間に、アスラーンは一人で広間の階段を上つて行きました。その広間には、警視総監のカーリツドが坐つてゐましたが、アスラーンがあんまり可愛らしい顔をしてゐるので、思はず抱き上げて膝に載せました。そして、つくづくその子の顔を眺めながら、
「親子とは云へ、さてもよくアラ・エ・デイーンに似てゐるものだな」と、思つてゐました。
 そこへ母親のヤーセミンがその子を捜しながらはひつてまゐりました。アスラーンは母親の顔を見ると、すぐに警視総監の膝を離れて、そちらへ行かうとしました。が、彼はそれをやらぬように、しつかりと抱きしめながら、母親に向つて、
「この子も父なし子になつて可愛そうなものだね」と、云ひました。
 ヤーセミンは下を向いたまゝ黙つてゐました。
「これからは俺がこの子の親代りになつてやるよ」と、カーリツドはつゞけて云ひました。
「で、この子が成長して、わたしのお父さんは誰かときくようになつたら、警視総監のカーリツドがお前の親だと教へてやるがいゝ。なに、そんなことに遠慮はいらないからな」
 ヤーセミンは、心の中に厭なことだとは思ひましたが、相手は主人のことではあるし、どうするわけにも行きませんから、
「はい、かしこまりました」と、答へました。そして.それからはカーリツドのことを「お父さん、お父さん」と、呼ばせるように仕向けました。
 で、カーリツドもいよ/\その子が可愛くなつて、何くれとなく自分の手許で面倒を見ました。そして、少しく大きくなつてからは、いろ/\な学問を始めとして、投げたり打つたりする戦の術まで教へました。ですから、アスラーンが十四歳になつた頃には、一角馬術にも達して、勇気の勝れた、立派な若武者になりました。
 その後になつて、ある日アスラーンは大盗賊のカマーキンに出会ひました。そして、二人はお友達になりました。アスラーンは彼について酒屋へまゐりました。すると、どうでせう、カマーキンは玉で飾つたらんぷを取り出して、それを前に据ゑたまゝ、その光で酒を飲むんですね。そして、だん/\酔ひが廻はつて来ました。アスラーンは何心なく、
「隊長さん、そのらんぷをわたしにくれないか」と、云つて見ました。
「いや、これはやれないよ」と、カマーキンは答へました。
「どうして」と、アスラーンは聞き返しました。「くれてもいゝぢやないの」
「いや、こればかりはやれないよ」と、カマーキンは再び云ひました。「このらんぷのためにや、大勢の人が命を落してゐるからな」
「どんな人が命を落したの」
「アラ・エ・デイーンといふ男さ」
「よく根掘り葉掘り聞きたがるね」と、カマーキンは笑ひました。「だが、まあいゝや、お前にだけは教へてやらう。実はお前にはハバズラムといふ一人の兄さんがあつたのだ。その兄さんが年頃になつても嫁の来手がないものだから、お父さんは一人、娘奴隷を買つて息に宛てがはうとしたんだがね」
 かう云つて、カマーキンはだん/\話を進めて、ハバズラムが病気になつたことから、アラ・エ・デイーンが罪もないのに死刑に処せられたことまで、残らず語つて聞かせました。それを聞いて、アスラーンは虫が知らせるのか、心の中に「どうもその娘奴隷といふのは、お母さんのヤーセミンのことらしい。アラ・エ・デイーンといふのも、どうかするとわたしのお父うさんかも知れないよ」と、思ひました。そして、カマーキンと別れて、悲しそうな顔をしながら、しほ/\として出て行きました。
 ところで、同じ店に隊長のアーマツドも酒を飲んでゐました。そして、アスラーンがしほしほと出て行く後姿を見て、よくアラ・エ・デイーンに似た子供もあるものだなと、ひとり心に驚ろきました。で、すぐ後から追つかけて来て、少年をよびとめながら、
「お前のお母さんの名はなんと云ふかね」と、たづねました。
「わたしのお母さんは女奴隷のヤーセミンと云ひます」と、アスラーンはありのまゝに答へました。
「やつぱりさうだつたか」と、アーマンドは手を打つて云ひました。「では、教へて上げるがね、お前のお父さんはアラ・エ・デイーンと云ふのだよ。嘘だと思つたら、帰つて、お母さんに聞いて御覧な」
 返す/゛\も不思議なことばかり聞くので、アスラーンは急いで立ち帰りました。そして、母親の顔を見ると、いきなり、
「わたしのお父さんは誰ですか」と、たづねました。
「お前のお父さんは、警視総監のカーリツドがそれだよ」
「いえ/\、違ひます。本当はアラ・エ・デイーンと云ふのでせう」
 それを聞いて、母親は思はずわつと泣き出してしまひました。そして、涙の中から、「一たい誰からそんなことを聞いたのだえ」と、聞き返しました。
 アスラーンはそれに答へました。「隊長のアーマツドから聞いたのです」
「さうかえ、それぢや、もう隠し置いても仕方がないから、本当のことを云つて聞かせますがね。実はお前はアラ・エ・デイーンさまのわすれがたみなんだよ」
 かう云つて、彼女は夫が無実の罪に落ちて死んだことから、自分がこの家へ連れて来られて、いろんな目に遭ひながら、今日迄わが子を育てゝ来たことまで、委しく話して聞かせました。それから又言葉をついで、「さう云ふわけだから、お前さんも今度アーマツドに出会つたら、どうかわたしを助けて親の敵を討たせて下さいとお願ひして見るがいゝんだよ。さう云ふ親切な方なら、又どんな力になつて下さるまいものでもないからね」と、申しました。
 そこで、アスラーンは早速アーマツドを訪ねて、
「わたしは生みの父がアラ・エ・デイーンだといふことを確めてまゐりました。お願ひですから、どうぞ私を助けて、親の敵を討たせて下さい」と、頼みました。
「だが、一たい誰がお前の父親を殺したと云ふんだね」と、アーマツドはたづねました。
「あの大盗賊のカマーキンですよ」
「ふむ、どうして又それがわかつたかね」
「わたしはあの人が玉のらんぷを持つてゐるのを見ました」と、少年は答へました。「そればかりぢやない、あの人が教王のお居間へ忍び込んでらんぷと一緒にいろんな宝物を盗んで来た。そして、それをわたしの父の家に隠して置いたといふことまで、現在あの人の口から聞いたんですよ」
「ふむ」と、つく/゛\それを聞いてゐたアーマツドは云ひました。「さう云ふことなら、私も力をかして上げてもいゝが、しかしこれはなか/\むづかしいね。何しろ向かうも今では教王の臣下になつてゐるのだから、教王のお許しがなけりや討つことは出来ない」
 かう云つて、アーマツドは、「とにかくお前さんも今の父親の警視総監にお願ひして、あの方と同じように、毎日物の具に身を固めて、教王のお身を守護することの出来るように取り計らつてお貰ひなさい。そして、そのうちに、何か一つ手柄を立てたら、こちらの願ひも聞き届けていたゞけよう」と、助言してくれました。
 アスラーンは喜び勇んで家に帰りました。そして、そのことを総監のカ−リツドに頼むとカーリツドもすぐに承知して、そのように取り計らつてくれました。それから彼は、毎日物の具に身を堅めて教王の御前へ伺候するようになりました。ある日のこと、教王は多くの軍卒どもを引き連れて、都の外のごるふ場へおなりになりました。そして、しばらくの間侍従どもを相手にそのお遊びをしてゐられました。これは一人がごるふ棒を取つて球を飛ばすと、他の一人がそれを打ち返す遊びでございます。ところが、軍卒どもの間に、一人敵国の廻し者が忍んでゐて、教王をなきものにしようと附け覘つてゐました。そして、教王のお顔を覘つて球を投げつけたのですね。が、アスラーンは早くもそれと知つて、教王とその男との間に馬を駈け入らせながら、投げつけた球をそのまゝ打ち返してやりました。それが相手の胸にあたつたからたまりません。真つ逆さまに落ちて、廻し者はその場に取り押へられてしまひました。危い命を助かつた教王は、非常に喜んで、すぐさまアスラーンを御前へお召しの上、
「この褒美には、なんでもお前の欲しいものを望んだがいゝぞ」と、仰せられました。
 アスラーンはこゝぞと思つて
「お願ひでございますから、どうぞ父の仇を討たせて下さいませ」と、申し上げました。
 教王はその言葉を不審に思つて、
「お前の父は立派に生きてゐるではないか」
「いえ、あれは仮の親でございます。まことの父はアラ・エ・デイーンの外にござりませぬ」と、アスラーンは答へました。
 それを聞いて、教王は急に顔を曇らせながら、
「あれはわしの物を盗んだ裏切り者だよ。いくらお前の願ひでも、あんな者のことは聞くわけに行かんぞ」と、仰せられました。
「いゝえ、それは無実の罪でございます」と、アスラーンは一しよう懸命に申し上げました。
「その証拠には、アラ・エ・デイーンの家をおしらべになつた時、他の物と一緒に、あの玉のらんぷもあなた様のお手に戻りましたか。それが戻つてゐませんでしたら、どうか先づそのらんぷから詮議をして下さいませ」
「ふうむ」と、教王もお考へになりました。
「して、それがどうしたと云ふのだ」
「それを隊長のカマーキンが持つてゐるのでございます」
 かう云つて、アスラーンはカマーキンが居酒屋でそのらんぷを出して見せて、このらんぷのためにはアラ・エ・デイーンが命を捨てたが、その起りはかう/\だと、彼がその場でしやべつたことを逐一申し立てました。そのことをお聞きになつた教王は、憤然として、
「すぐさま、カーマキンを召し捕れ」と、命ぜられました。
 役人どもはすぐにカマーキンに縄をかけて、御前に引き据ゑました。教王はそれから隊長のアーマツドを振り返つて、
「その方一つカマーキンの身体を検べて見ろ」と、仰せられました。
 アーマツドはお言葉にかしこまつて、カマーキンに近寄りながら、まづそのかくしに手を突つ込んで見ました。すると、たちまちその中から玉のらんぷがあらはれました。それを見ると、教王はまた/\真赤になつて、
「こらつ。そのらんぷはどこから持つて来た」と、どなりつけられました。
「私はそれを買ひましたのでございます」と、カマーキンはこの場になつても、まだしらを切らうとしました。が、役人どもが寄つてたかつて革の鞭で打ちのめしたので、とうとう彼も包み切れないで、実はこれ/\かう云ふわけで、総監の妻に頼まれて、御殿へ忍び込んで奪ひ取りました。と、残らず泥を吐いてしまひました。
 その白状を聞いて、教王は警視総監まで即座に搦め取らうとなさいました。が、アスラーンも彼のために命乞ひをしましたし、もともと総監は自分の妻の悪だくみを知らないでやつてゐたことですから、とくにアスラーンの母を元の身分にして、取り上げた品々を返してやるだけで、とくに御赦免にあづかりました。教王はなほ総監に命じて、アラ・エ・デイーンの家に貼りつけた封印を剥がさせた上、その家と財産とを悉くアスラーンに返されました。
 で最後に教王はアスラーンに向つて、
「かうなつた上は、なんでもお前の欲しいものを望むがいゝぞ。これまでの償ひにきつとかなへてやるからな」と、ふたゝび懇ろに仰せられました。
「別に欲しいものとてござりませぬ」と、アスラーンはそれに答へました。「私はたゞもう一度父に会ひたいだけでございます」
「それだけはどうもかなへて遣れぬな」と、教王も涙ぐんで云はれました。「あれは絞首台にかけられて、とうに死んでゐるからな、しかし、あれが万一にも生きてゐると知らせてくれるものがあつたら、わしはその者にどんな願ひでも聞いてやるつもりだよ」
「本当にどんな願ひでも聞いていたゞけますか」と、アーマツドが急に前へ出て来て平伏しました。「それなら申し上げますが、私は確にアラ・エ・デイーンの現在生きてゐる所を知つてをります」
「なに、そちの云ふことはそりや本当か」と、教王もびつくりして聞き返されました。
「何しに嘘を申し上げませう。現在この私が絞首台の上からあの方を救ひ出して、他の囚人を身代りに立てゝ置いたまゝ、アレキサンドリーの町へ連れて行つて、現在あそこに住ませてあるのでございますから」と、アーマツドは逐一申し立てました。そして、その後からすぐに云ひ添へました。「この事を申し上げました代りに、前のお言葉に拠つて、どうか私の国法を犯しました罪はお許し下さいませ」
 それを聞くと、教王は大そうお喜びになつて、アーマツドの罪を赦されたばかりでなく、御褒美までたまはりました。そして、すぐさまアラ・エ・デイーンを迎へ取りに、この男を遺はされました。
 一方アラ・エ・デイーンは、その間にアレキサンドリーから知らぬ他国に渡つて、さまざまな艱難辛苦に出遭つてをりました。が、間もなくアーマツドの迎ひを受けて、ふたゝびバグダツドへ帰つてまゐりました。教王も彼が久し振りに帰つて来たのを見て、大そう喜こばれましたが、すぐに大盗賊のカマーキンを牢屋から引き出させて、
「アラ・エ・デイーンよ、何事もこいつから起つたので、こいつがお前の敵ぢや。ぞんぶんに復讐したがいゝぞ」と、仰せられました。
 そこで、彼は腰の剣を抜いて、一打ちにカマーキンの首を斬り落しました。
 それから教王は、臣下どもを集めて、アラ・エ・デイーンのために盛大な祝宴を張られました。そして、彼を再び重い役目に任命せられました。かうして彼の一家は、親子三人とも、幸福な一生を送りました。




   ひようきん者ハサンの話

 ハサンはお父さんがなくなつてから、急にお金が自由になり出したので、毎日友だちを沢山集めては、酒盛りを催ほしたり、物見遊山に出かけたりして、遊んでばかりゐました。さうして、面白をかしく、われを忘れて日を送つてゐるうちに、ふと気がついて見ると、さしも金銀財寳を山のように積んだ父親の遺産も、いつのまにやらすつかりなくなつて、後にはもう何一つ残つてゐませんでした。ハサンは悪い夢が覚めたように、ぼんやりしてしまひました。が、さうしてもゐられませんから、それまで一しよに飲んだり騒いだりした友達を訪ねて、内情を打ちあけた上、応分の助力を頼んで見ました。ところが、相手は顔をそむけたまゝ、こちらの話を聞いてくれませんでした。聞いても、返事をしてくれませんでした。甚だしいのは居留守を使つて、玄関から追ひ返すのもございました。生れて始めてこんな目に遭つたハサンは、手の裏を返すような友だちの冷やかな態度に呆れ果てました。呆れ果てたあげく、つく/゛\世の中がいやになりました。で、がつかりしながら、とぼ/\うちへ戻つて来て、お母さんにその話をすると、お母さんは真面目な顔をして、
「あなたも、身に泌みてよく覚えていらつしやい。世の中といふものはさういふものですよ」と、懇々と云ひ聞かせました。「あなたにお金のある間は、やい/\云つて側へ寄つて来ますが、お金がなくなつた日には、急に知らぬ顔をして洟もひつかけない。それが当世の人情ですよ」
「はい、私もつく/゛\さう思ひました」
「そこへ気がつけば、それでよろしい」
 かう云つて、お母さんは自分のお部屋へ戻つて、戸棚の奥から大きな金包みを三つ取り出して来ました。そして、それをハサンの前に並べながら、かう云ひました。──
「かね/゛\かう云ふこともあらうかと思つて、私はお父さんがなくなつた時、財産を二つに分けて、半分だけあなたに渡しましたが、後の半分は別にしまつて置きました。さあこれを上げるから、この後はきつと心を入れ代へて、二度とこんなことのないようにして下さいよ」
 ハサンは、自分の不心得から一文なしになつたと思つてゐたのに、母親のお蔭で又元の通りの金持ちになることが出来ましたので、もう夢かとばかり喜びました。そして、母親にあつく謝しながら、以後はきつと心を入れ代へて、これまでのような失敗は断じて繰り返さないと約束しました。
 けれども、生れつきのんき者のハサンは、お金が手にはひると、もうぢつとしてゐられないと見えて、いつかまた以前と同じように酒盛りや物見遊山に耽るようになりました。ただそれからと云ふものは、決して近所の友達や知人とは交はらないで、通りがゝりの旅人を捕へては、自分の家へつれて来い/\いたしました。そして、その旅人を相手に飲んだり騒いだりして遊ぶのでございます。つまりハサンが心を入れ代へると云つたのは、以後信用の出来ない友達とは決して一しよに飲まない、知らない旅人とばかり飲むといふことでございました。が、いくら知らない旅人でも、永く一しよに酒を飲んでをれば、どうしても友だちになつてしまふ。友だちになれば、信用が出来なくなる。さう云ふわけで、ハサンはどんな旅人でも、一晩は一しよに酒を飲んで泊めてもやるが、二晩とは泊めてやらない。明くる朝になると、「をとゝひ来い」と云つて、玄関から追ひ出してやるようにいたしました。そして、その後は、途中で逢つても知らない顔をして、横を向いたまゝ通り過ぎました。
 かうして、ハサンは一年間程暮しました。で、ある日の夕方、いつものように、誰か来そうなものだと思ひながら橋の上に立つてゐると、そこへ教王のエル・ラシードが二人の従者を連れて、三人とも旅人のように変装して通りかゝられました。一体、この王様はその国の歴史でも有名な、慈悲深い、賢明な王様で、時々かういふ風に旅人に変装しては、一人二人お伴を連れて市中を御微行になりながら、下々の様子を視察して廻られるのが癖でございました。ところで、ハサンは、それが教王であらうとは元より知る由もないから、主従らしい三人の姿を見かけると、すぐにその側に近寄つて、
「いかゞでせう、今晩御都合がよかつたら私どもへ入らしつて、音楽でも聴きながら、一口召し上つて下さいませんか。決して御迷惑はかけませんよ」と誘ひました。
 王様は、かね/゛\人民と直接話しをして、よく下々の事情を探りたいと思し召していらしつたのですから、
「いや、それはどうも御親切にありがたう」と、おつしやつて、すぐにハサンの招待に応じられました。
 で、ハサンも大そう喜んで、先に立つて三人の客をわが家へ連れて来ました。元よりこれが教王だとは知る筈もないが、人品風体から云つても、卑しからぬ人物だとは思ひましたから、奥の一間へ通した上、いろ/\御馳走を並べ立てゝ、一しよう懸命に饗応しました。それからうち中の一番きれいな女中を連れ出して、琵琶を弾かせ、その撥音につれて歌を唄はせました。その声は銀の鈴のように美しうございました。教王もそれが大そうお気に召したと見えて、なんどもその女に歌を唄はせては聴いておいでになりました。
 ハサンは紅玉のように赤い色をして、麝香のように高い香をもつた葡萄酒を持ち出して、がらすの盃を王様の前にすゝめながら、
「どうかこの盃でもう一杯飲んで下さいまし。今夜別れてはもう二度とはお目にかゝれないのですから、別れて後も心残りのないように、これで一つぐつと乾して行つて下さいまし」と申しました。
「どうしてそんな悲しいことを云はれるのです」と、王様は不審そうに聞き返されました。
 そこでハサンは、自分が友だちを信用しなくなつたわけを、これ/\かう/\と委しく語つて聞かせました。それを聞いて、腹をかゝへてお笑ひになりました。
「いや、それはごもつともだ。さういふことなら、あなたが私どもと友だちになるのは厭だといはれるのも道理ですよ」
 かう云つて、王様はしばらく首をかしげて考へてゐられましたが、やがてハサンに向つて、「どうです、あなたは日ごろから何かかうして貰ひたいとか、又はかうなつたらよからうとか思つていらつしやることはございませんか」とおたづねになりました。
「いや、それは幾らもありますよ」と、ハサンは言下に答へました。「まづ第一に、私がどうかして貰ひたいのは、お隣りの寺に住んでゐる糞坊主ですよ。私がいゝぐあひに朝寝坊をしてゐると、それを邪魔するように、わざ/\早く起きて鉦を叩くのです。もつとも、それは向かうもお勤めだから仕方がありませんが、どうもそいつは強欲でけちん坊で、召し使ひの女を四五人も使つて、全く近所の憎まれものでございます。もし、私にあゝいふ人間をどうにでもする権力があつたら、第一番にあの坊主を千の笞刑に処して、寺を放逐してやりたいと思つてゐますよ。さうすれば、私も安心して朝寝坊が出来ませうからな」
「さあ、そのお願ひもきつとかなふ時期が来るでせうよ」
 かう云つて、王様は、相手に知られないようにそつと懐から麻酔剤を出して、それを自分の前の盃の中へお入れになりました。そして、それをハサンに勧められました。ハサンがそれを受け取つて、ぐつと一口に飲み乾したかと思ふと、急に人心地がなくなつて、床の上に倒れてしまひました。王様は立ち上つて、玄関まで出て行かれました。かねて見え隠れにお伴をして、王様の身を守護してゐる兵卒どもがそこに待つてゐましたので、それ等の者どもに命じて、ハサンを輿の上にかつぎ載せられました。そして、酔うて正体のないハサンを一しよに連れながら、宮中へお帰りになりました。それから、そのハサンを御自分の寝室へ連れて行つて、いつも御自分のおやすみになる寝台の上に寝かせるように御命令になりました。それから奥御殿に仕へてゐる老女や腰元どもに向つて、
「明日の朝この青年が眼を覚ましたら、お前方はわしに云ふとほりにこの青年にものを云つて、わしにしてくれる通りにこの青年にもして上げなければいけないよ。つまり、この青年がわしだと思つて仕へさへすればいゝのだ。わかつたか」と、仰せられました。
 それからなほ宰相だの、侍従だの、警視総監だのと云ふような、朝廷の主だつた人々をお召し寄せになつて、やはり同じようにいひつけられました。一同は謹んで陛下の御命令に従ふ旨をお答へいたしました。そこで王様はかあてんのうしろへはひつて、おやすみになりました。
 あくる朝、ハサンは王様の寝台の上で目を覚ましました。そして、きよとんとした顔をしながら、自分を取り巻いてゐる多くの侍従や腰元どもの姿を見やりました。彼等はハサンの前に跪いて、頭をたれてゐるのでございました。その時一人の腰元が前へ進んで、
「陛下、もうお目覚めでいらつしやいますか。表御座所の方では、、一同陛下のお出ましを待ちかねてをります」と申し上げました。ハサンはそれを聞いて、鼻の先で「ふゝん」と笑ひました。そして、横を向いてしまひました。が、今度は金や群青を塗つた壁だの、刺繍したかあてんだのが眼につきました。その他金銀の皿や、陶器や、水晶の壺や、香炉や燭台やと云ふようなものが、眩しいように、ずらりと並んでゐました。それを見ると、彼は急に頭がぐら/\とするような気がいたしました。そして、「一体俺はまだ夢を見てゐるのか知ら。それとももう死んで天国へでもやつて来たのかな」と、口の中で呟きました。が、そこらを見廻してゐるうちに、だん/\不安になつて、頤を胸の上へ垂れたまゝ、ぢつと考へ込んでしまひました。それから又眼を開いて、交る/゛\自分の手を見てゐましたが、いきなりそれを口へ持つて行つて、がちりと自分で自分の拇指を噛んで見ました。彼は思はず「あ痛つ」と大きな声でわめきました。全く眼の玉の飛び出るほど痛かつたのでございます。彼は自分ながら腹が立つて来ました。そこで、自分の前に立つてゐる腰元の一人をそばへよびました。すると、その女は二三歩前へ進んで跪きながら、
「陛下よ、何御用でいらせられますか」と、丁寧にたづねました。ハサンは少し考へた後で、「お前は俺がどう云ふ人間で、今どう云ふ所へ来てゐるか知つてゐるかい。知つてゐるなら、そこで云つて御覧よ」とたづねました。
「はい、陛下はこの国の教王でゐらせられます。そして、たゞいまは宮殿の中の御自分の寝台に腰かけていらつしやいます」と、その腰元は真顔で答へました。
「あれ/\、あんなことを云つてやがる」と、ハサンは心の中に考へました。「しかし、俺はもう何が何だかさつぱりわからなくなつた。それとも頭が馬鹿になつてしまつたのかな。いや、どうも俺はまだ寝てゐるらしい。それにしても、昨夜来たお客は何者だらう。きつとあれは悪魔か魔法使ひに違ひないよ。そして、俺をこんな風に馬鹿にして遊んでやがるんだ」
 その間、教王は始終かあてんのうしろへ隠れて、ハサンの方からは見られないようにしながら、じつとその様子を窺つてゐられました。ハサンはまた侍従長の方へ向き直つて、自分の側へよび寄せました。すると、侍従長は彼の前へ進んで、床に額のつくほど低く頭をたれながら、「をゝ、わが教王陛下よ」と申し上げました。ハサンは相手の言葉をさへぎつて、
「一体、誰が教王陛下なんだい」と、せき込みながら聞き返しました。
「はい、あなた様でございます。あなた様がこの国の教王陛下でいらせられます」と、侍従は落ちつき払つて申しました。
「お前は俺を瞞さうとしてゐるな」と、ハサンはさも憎々しげに侍従長の顔を睨みつけました。それから今度は他の侍従を前へよんで、「どうかわしにほんとうのことを云つてくれ。わしはほんとうにこの国の教王陛下なのかね」とたづねました。すると、その侍従もやはり同じように答へました。ハサンはもう、見るもの聞くもの悉くわからなくなつてしまひました。実際、考へれば考へるほど、ハサンにはわけがわからないのでございます。で、眼をぱちくりしながら黙つて坐つてゐました。その時、一人の侍従が彼の前へ進んで、彼の足下に一足の靴を並べました。それは金糸や銀糸の織り物で拵へて、宝石を鏤めた、ほんとうに見事なものでございました。ハサンはそれを手に取つて、長い間珍らしさうに眺めてゐましたが、やがて何も云はずにそれを袖の中へ隠しました。それを見て、侍従はびつくりしたように申しました。
「陛下、それは足に穿くものでございます」
「なるほど、これは足に穿くものだつたね。どうもあんまり綺麗なものだから、かうして置くとよごれるかと思つて、ちよつと懐へ入れて見たのだよ」と、ハサンはきまりの悪そうにそれを袖の中から取り出して、あらためて足に穿きました。
 まもなく又一人の腰元が、黄金の盥と銀の水差しとを持つてはひつて来ました。そして、彼の手にぬるま湯を注いでくれました。かうして顔を洗つてしまふと、侍従どもは彼を案内して、教王の先祖の御霊が祀つてある礼拝堂へつれて行きました。ハサンはどうしてお詣りをしたものかよくわからないので、自分のうちでしてゐたように、ぽん/\と柏手を打つて、なんべんもその前に平伏しました。そして、心の中では、「いや、俺はどうしても教王陛下に相違ないよ」と考へました。「でないとすれば、それは夢だが、夢の中で物事がかうはつきりしてゐる筈はない。第一、さつき指を噛んで見た時も、あんなに痛かつたではないか」
 かう云ふように、とう/\自分でも王様の気になつてしまひました。が、いよ/\朝の礼拝を終つて、黄金の王冠だの、紫の袍だのと云ふような、きらびやかな教王の衣裳をきせられる段になると、彼は又心配になり始めました。で、玉座についてからも、右の袖を見たり、左の側を見たりしながら、前の言葉を打ち消して、かう申しました。──
「いや、これはどうしても幻に違ひない。魔法使ひのする業に相違ないよ」
 その時一人の侍従が彼の前に跪いて、
「陛下よ、たゞいま宰相がお目通りを願つて、あちらに控へてをりますが、いかゞとりはからひませう」と申し上げました。
「あゝすぐこれへ通すがよい」と、ハサンは鷹揚に答へました。すると、扉の蔭から白い鬚を生やした、もつともらしい顔の宰相があらはれました。老宰相はハサンの前に跪いて、その日の政治を一つ/\奏上いたしました。ハサンはそれに対して、いゝ加減に返事をしてやりました。すると、老宰相は一々かしこまつて、即座にその通りにとり行ひました。かう云ふように、なんでも自分の云ふことが通つて、誰も彼も自分に服従されて見ると、ハサンも再び気が迷つて、どうも自分はやつぱり教王に違ひないかなと云ふような気になりました。そして、だん/\嬉しくなつてまゐりました。
 その時、彼は急に思ひついたことがあつたので、「警視総監をよべ、警視総監を」と、大きな声でどなりました。すると、すぐに警視総監がやつて来て、彼の前に跪きながら、
「陛下よ、何御用でいらせられますか」と、恐る/\申し上げました。
「あゝ、お前が警視総監か」と、ハサンは云ひました。「では、お前に申しつけるが、これこれかう/\云ふ街に、ハサンといふ者の老母が住んでゐるから、そこへ訪ねて行つて、教王からの贈り物だと云ふので、金子一千両だけ届けるがよい。それから、その隣りの寺に一人の坊主が住んでゐるが、あの坊主は不都合な奴だから、一千の笞刑を加へた上、都の外へ放逐してしまへ」
 警視総監は委細かしこまつて、教王の御前を退出しました。そして、即日その言葉どほりに執り行ひました。
 ハサンは日が暮れるまで政治を執つてゐましたが、やがて廷臣どもを残らず退出させた上、自分も奥御殿へひきとりました。そこで彼は一人の侍従をよんで、「どうも腹が減つてたまらないが、何か食べるものはないか」と、たづねました。侍従はかしこまつてさがりましたが、まもなく見事な食卓がその前に並べられました。そして、十人の美しい腰元が彼の背後に立つて給仕をいたしました。ハサンはその一人にたづねました。──
「一体、こゝにかうして飯を食つてゐる俺は誰だらうね」
「あなた様はまぎれもない教王陛下でいらつしやいます」と、その女は答へました。
「又俺を瞞さうと思つてやがるな。この馬鹿ものめ」と、彼は急にむら/\となつて云ひ放ちました。
「まあめつそうな」と、その女はびつくりしたように申しました。「私どもは、陛下の御命令とあれば、いつ命を召し上げられても仕方のない身でございますもの、どうして陛下をお笑ひ申すようなことが出来ませう」
 それを聞いて、ハサンはまた考へ直しました。
「ぢや、俺はやつぱり教王陛下になつたのかな」
 そこへ又、前よりも美しい十人の腰元が、手に/\琵琶だの、笛だの、鞨鼓だのと云ふような楽器を持つて出て来て、それを弾いたり、吹奏したり、打ちならしたりしながら、その音に合せて歌を唄ひました。
「いや、これはいかん」と、ハサンはわれとわが心を引きしめて云ひました。「どうしてもこれは魔法使ひの仕業に違ひない。あゝ一刻も早くこんな怖ろしい所から遁れたいものだ」
 かうは思ひながらも、ハサンはやつぱり楽の音に聞き惚れて、しきりに盃を重ねました。その時一人の腰元は、かねて教王の命を受けてゐたので、そつと盃の中へ麻酔剤を投じて、それをハサンの手に渡しました。ハサンはそれを一息に飲み乾しましたが、そのまま気を失つて倒れてしまひました。
 あくる朝ハサンが眼をさました時には、もう自分のうちの自分の寝間に寝てゐました。呑んだ麻酔剤の酔ひがまだ醒めないうちに、彼を輿に乗せてうちへ連れ戻すように、王様が侍従どもに命じて、おとりはからひになつたのでございました。さうとも知らない彼は、眼をさまして見るとあたりが真暗なので、
「おい、侍従はゐないか、腰元のセンジエレーはゐないか」と、大きな声で呼んで見ました。が、誰も返辞をするものがない。彼はいら/\して来て、つゞけざまにどなりました。お母さんはびつくりして隣りの部屋から飛んで来ました。そして、「まあお前、何を云つてゐるんだえ。気違ひにでもなつたんぢやないか」と、思はず入り口に立ちどまつてたづねました。
「お前は誰だ」と、ハサンはえらい権幕で母親を睨まへながら叱りつけました。「この狸婆あめ。苟も教王陛下に対してさような無礼なことを申す法があるか。一体お前は何者だ」
「私はお前のお母さんだよ。お前は私がわからないのかえ」と、母親はおろ/\声で云ひました。
「嘘をつけつ。俺は教王だ。お前のようなけちな母親は持たないぞ」と、ハサンは一段声を高くして叱りつけました。
「あれ、いよ/\私がわからないのだ。情ないことになつてしまつたわねえ」と云ひながら、彼女はいきなりそこへ跪いて祈祷の呪文を唱へ始めました。が、急に又立ち上つて、わが子のそばへ寄りそひながら、「ハサンや、お前はさういふ夢を見たのだよ、きつとさうだよ。しつかりおし、しつかりしてゐないと、悪魔につけ入られるよ。あゝさうだ」と、彼女は何か思ひ出したように、なほも言葉を続けました。「お前に聞かせて上げることがあるんだがね。そりやお前が聞いたらさぞ喜びそうな、ほんとうにいゝことなんだよ」
「そりやなんです」と、ハサンはたづねました。
「それはね」と、母親は語りつゞけました。「教王陛下の御命令だと云つて、昨日警覗総監がお隣りのお寺へお出でになつてね、住職を千の笞刑に処した上、隣り近所の迷惑になるようなことをしたといふ角目で、即日都の外へ放逐しておしまひになつたんだよ。それから私の許へもお立ち寄りになつて、丁寧な御挨拶があつた上、陛下の御命令だと云ふので、黄金千両を私に下げて下すつたんだがね、なんとまあお有難いことではないかえ」
 母親の言葉を聞いてゐるうちに、彼の顔色は見る/\変つて来ました。そして、思はず大きな声を張り上げながら、
「あの住職を笞刑に処して放逐するように命じたものは、誰でもないこの俺だよ。千両の金をお前にとゞけさせたのも、やつぱりこの俺だよ。して見ると、俺はどうしても教王陛下に相違ない」
 かう云つて、彼はすつくと立ち上りながら、ありあふ木の杖を取つて、さん/゛\に母親を打ち据ゑました。母親はひい/\声を挙げて泣きわめきました。それを聞きつけて、とう/\近所の人が仲裁にはひつて来ました。が、彼はなほも母親を打ち据ゑながら、「この狸婆あめ。まだ俺を瞞そうと思つてやがるな。俺は畏れ多くも教王陛下だが知らないか」とどなり立てました。そこで近所の人々も、いよ/\ハサンの気が違つたのだと思つて、皆なが寄つてたかつて、可愛そうに後手に縛り上げてしまひました。それから彼を瘋癲病院へ引き渡しました。
 その後十日間ほど経つて、お母さんが病院へ見舞ひに来ました。ハサンは母親の手に縋りついて、自分のみじめな境遇をいろ/\と訴へました。それを聞いてお母さんは「だから云はないことぢやありませんよ。お前さんがほんとうに教王陛下なら、こんな所に入れられて、こんな目に逢ふ筈がないぢやありませんか。そこへ気がついたら、どうか一日も早く心を入れ代へて、正気にかへつて下さいよ」と、懇々説いて聞かせました。
「なるほどお母さんの仰しやる通りだ。私はどうも夢を見てゐたらしいですよ。だが、もう夢はすつかり醒めましたから、どうか一日も早くこゝから出られるようにして下さい」と、ハサンはうなだれたまゝ、しほ/\として云ひました。
「あゝ、さうだとも。お前さんは夢を見てゐたんだよ。だが、これからはよつぽどしつかりしてゐなくちやいけませんよ。悪魔に魅入られると、なか/\これ位のことでは済みませんからね」
「えゝ、私もこれからは気をつけて、きつとこんなことのないようにいたします」と、固く将来を誓ひましたので、お母さんも近所の人々に頼んで、瘋癲病院から出られるようにとりはからつてやりました。
 病院から出たハサンは、先づ銭湯へ行つて、よく体の垢を落しました。それから、久しぶりにうちの食卓に向ひましたが、いくらおいしい御馳走を並べても、一人で食べるのは彼にはどうも面白くありませんでした。で、母親がしきりに止めるのも耳にかけないで、彼はまた酒の相手をつれて来るために、例の橋の上へ出かけて行きました。そして、欄干に腰かけたまゝ待つてゐると、どうでせう、そこへまた教王が商人に変装してやつて来られました。ハサンを宮中から送り返して後、毎日のようにこゝへやつて来られたのですが、今日まで彼に会へなかつたのでございます。で、ハサンは相手の顔を見るや、すぐに大きな声で罵りました。
「や、ようこそいらつしやいましたね。この魔法使ひめ。そんな真面目な顔をしてゐたつて、もう今度は瞞されないぞ」
「はゝあ、私があなたにどんな悪いことをしましたかね」と、王様はおちついておたづねになりました。
「おい/\、いゝ加減にとぼけるなあよせやい。ほんとうにいま/\しい魔法使ひだな。私はお前さんのお蔭で、瘋癲病院へ入れられて、ひどい目にあはされたんだよ。それをどうしてくれるんだい。私はお前さんを自分のうちへつれて行つて、ありつたけの御馳走をして、一しよう懸命にもてなして上げたばかりだよ。それだのに、私を悪魔の手へ渡して、朝から晩までさんざ私を玩具にさせたぢやないか。えゝもうお前さんのような人には、こつちは用がないから、どこへでもさつさと行つてしまつて下さい」と、ハサンは腹立ちまぎれにつけ/\云ひました。
「まあ、さう仰しやるものでない」と、王様は笑ひたいのをこらへながら、ものしづかに云はれました。「きつとなんでせうよ。私たちがお宅を出る時に、表の戸に錠をかけることを忘れて置いたから、それで悪魔がそこから飛び込んで来て、あなたにそんな悪戯をしたのでございませうよ」
「なんで表の戸を明け放しにして置いたのです。それからしてよくないですよ」
「だつて、わざ/\明け放しにして置いたわけではないから、勘弁して頂く外ない。とにかく」と、王様は急に言葉の調子を変へながらつゞけられました。「さういふ災難にいくつも出あひながら、かうして無事に戻つて来られて、再びこゝでお目にかゝれると云ふのはめでたい話ぢやありませんか。あなたのためにお祝ひ申しますよ」
「いや、何がどうせうと、私はもう二度とあなたをうちへつれて行くような真似はいたしませんよ。どうせ後でろくなことがないのは知れきつてゐますからね」と、ハサンはそんな手に乗るものかと云はんばかりの態度で申しました。
「あなたはさう仰しやるが、とにかく私があつたればこそ、あなたもあのお隣りの住職をへこまして、かねての鬱憤を一度に晴らすことが出来たんぢやありませんか」と、王様はやつぱりにこ/\しながら云はれました。
「それはさうですな」と、ハサンも正直に答へました。
 王様はそこへつけこんで、再び云はれました。──
「ねえ、あなたがもう一度私のいふことを聞いてくれたら、前よりももつといゝことがあなたの身に起つて来るでせうよ」
「で、それはどうするんです」と、ハサンは聞き返しました。
「たゞ今夜もう一度、あなたのお宅へ私どもを招待して下さればいゝのですよ」と、王様は静かにお答へになりました。
 それを聞いて、ハサンは暫く思案してゐましたが、
「今度は誓つて私をあんな悪魔どもの玩具にさせないと、固く約束して下さいますなら、私は喜んであなたがたを御招待いたしますよ」と、ハサンはとう/\云ひ出しました。
「えゝ、約束しますとも」と、王様もお答へになりました。
 そこで再びハサンは、王様と従者二人とを自分のうちへ案内した上、又もやありつたけの御馳走を並べて饗応しました。白や赤の葡萄酒も追ひかけ/\出しました。で、一同はだん/\陽気になつて来ました。ことに主人のハサンは人一倍いゝ心持ちになつて、
「ねえ君、僕にやどうしてもわけがわからないんだよ」と、そろ/\王様に向つてくだを巻きかけました。「さうぢやありませんか。僕はかう見えても、一度は教王の位についたんですぜ、玉座に上つて、堂々と教王の権威を実行しましたよ。いえ、夢ぢやない。誰が何と云つても、あれは夢ぢやありませんよ」
「でも、頭の疲れた時には、いろんな夢を見るものですからね」
 かう云ひながら、王様は麻酔剤をそつと盃の中へ落されました。そして、それをハサンの前へ差し出しながら仰せられました。「あなたの御無事を祝つて一つ差し上げますよ。どうかぐつと器用に乾して下さい」
「えゝ、頂戴しますとも」
 ハサンはその盃を受けて一息に飲み乾しましたが、それが胃の腑に納まるか納まらないうちに、がつくりとうなだれたまゝ、そこへ倒れてしまひました。
 それから王様はすぐに立ち上つて、従者どもに命じて、再びハサンを宮殿の中へ運んで行かせた上、前と同じように自分の寝台の上へ寝かせました。それからなほ腰元どもに云ひつけて、眠つてゐるハサンのまはりをとり巻きながら、その眠りをさまさない程度に、しづかに笛だの、琵琶だの、鞨鼓だのを奏させました。そして、自分はかあてんのうしろへ隠れて、そつと様子を窺つてゐられました。
 あけがた近くハサンはようやく目をさましましたが、いつになく妙なる楽の音が聞えてゐるので、自分ながら不安になつてまゐりました。で、声を張り上げて、
「お母さん」とよんで見ました。
すると、大勢の腰元どもが彼の前に跪いて、
「陛下よ、もはやお目ざめでいらせられますか」
「陛下よ、よい朝でござります」
「陛下よ、何御用でいらせられますか」と、口々にしやべり立てました。それを聞いて、彼は思はず声をあげておい/\泣き出しました。
「あゝ、こりや助からない。飛んだことになつてしまつた。今度はきつと前よりも一層ひどい目に遭はされるだらうよ」かう云つて、彼は自分が瘋癲病院へ入れられて、殴つたり、蹴つ飛ばされたりしたことを思ひ出しました。そして、その時受けた笞の痕をそつとさすつて見ました。それから腰元や侍従どもを一巡見廻しながら、じつと考へ込んでゐましたが、急に傍にゐた一人の侍従を見返りながら、
「一たい俺は眠つてゐるのか、それとも起きてゐるのかね」と云ひ出しました。「それがはつきりわかるように、お前一つこの耳朶を思ひ切り噛んで見てくれないか」
「どう仕りまして」と、その侍従はおそる/\答へました。「あなた様は畏れ多くも教王陛下でいらせられますもの、どうして私なぞにあなた様のお耳を噛むと云ふような、失礼なことがいたされませう。この儀ばかりは、平に御免なされて下されませ」
「俺が教王ならなぜ俺の命令に従はないのか。たつて従はないに於いては、即座にお前の首を刎ねてしまふぞ」と、ハサンは大きな声でどなりました。
「はい/\、それでは仰せのとほり噛みまするでござります」と、侍従はあわてゝ申しました。そして、ハサンの後へ廻りながら、上下の歯ががちりと出会ふほど、烈しくその耳を噛んでやりました。すると、ハサンは思はず「きやつ」と悲鳴をあげながら、飛び上りました。
 それを聞くと、前に居並んでゐた腰元や侍従どもを始めとして、かあてんのうしろに隠れてゐた王様まで、われを忘れてふき出してしまひました。そして、笑ふ下から、その耳を噛んだ侍従に向つて、
「こら、その方は気狂ひになつたのか。陛下のお耳を噛むなんてどうしたのだ」と、口々に叱りつけてゐました。
 一人ハサンは泣き出しそうな顔をしながら、一同の者に向つて云ひました。
「おい/\、お前たちもこれだけ俺をひどい目に遭はせたら、もう沢山ぢやないか。いゝ加減に勘弁してうちへ帰してくれよ。いや、お前方が悪いのぢやない、悪いのはお前方の親分のあの魔法使ひなんだよ。だから、決してお前方を恨みはしないから、早く帰しておくれ」
 それを聞いて、かあてんのうしろに隠れてゐた王様は腹をかゝへてお笑ひになりました。そして、その後から出て来ながら、
「いや、ハサンよ。お前はほんとうによくわしを笑はせてくれた。このまゝでつゞけば、しまひには殺されるかも知れないよ」と云ひ/\、又ひとしきりお笑ひになりました。そこで始めて、ハサンも自分の家へ招待した旅人が誰であつたかと云ふことをはつきり悟りました。で、床の上に額をすりつけながら、だん/\の無礼を幾重にもお詫び申し上げました。王様もいゝ御機嫌で、即座に時服一重ねと黄金二千両とを取り出して、ハサンに賜つた上、なほこの後は宮中の道化役に召しかゝへると云ふお言葉でございました。




   賢婦ヅムルツドの話

 昔、クラーサンの国に、アリーといふ一人の若者がありました。アリーのうちは町でも相当大きな商人でしたが、毎日遊んでばかりゐた上に、お金を湯水のように費つたものですから、しまひにはその日/\のくらしにさへ困るようになりました。
 ある日のこと、アリーは朝飯さへ食べることも出来ないで、夕方近くまでぼんやり考へ込んでゐました。その時、妻のヅムルツドは箪笥から一つの財布を取り出して、それを夫の手に渡しながら、
「大方こんなこともあらうかと思つて、私は用心に少しばかりお金をしまつて置いたのですがね。けれども、これを費つてしまつたら、それこそ二人は餓ゑ死にをしなければならないのですよ」と、云ひました。
「あゝ、あり難い」と、アリーは嬉し涙をこぼして云ひました。「もう懲りたから、今度といふ今度は、決して無駄使ひなぞはしないよ。私もしみ/゛\後悔したからね」
「では、すぐに市場へ行つて、二人のために何か食べ物を買つて、それから残つたお金でかあてんになるような絹のきれと、七色の絹糸とを買つて来て下さい」と、ヅムルツドは云ひました。
 そこでアリーは早速市場へ出かけて、妻に云はれた通りの品々を買つてまゐりました。そして、その夜は久しぶりに、おいしい御馳走を二人で食べました。
 さて、次ぎの朝になると、ヅムルツドはその絹のきれに、七色の絹糸で美しい鳥獣の形を縫ひ取りした上、なほ金糸や銀糸でそれを飾りました。かうして八日の間に、それはそれは立派なかあてんを仕あげました。彼女はそれを夫の手に渡しながら、
「さあ、これを市場へ持つて行つて、銀の五十片で売つて来て下さい。ですが、決して通りがゝりの人なぞに売つてはいけませんよ。それが二人の別れるもとになるかも知れませんからね」と、云ひました。
 アリーは何もかもヅムルツドの云つた通りにいたしました。その後、彼は八日目毎に一つづゝかあてんを妻の手から受け取つて、それを市場へ持つて行つて売りました。そしてそのお金で何不自由なく暮らすことが出来ました。
 かうして一年の月日は経ちました。ある日のこと、アリーはいつものようにかあてんを持つて市場へ出かけて行きました。そしてそれを仲買ひ人の手に渡そうとしてゐると、そこへ一人の基督教徒がやつて来て、それを銀の六十片で売つてくれないかと申しました。アリーはそれを断りました。が、基督教徒はだん/゛\金高を増して行つて、しまひには銀の百片で買はうと云ひ出しました。百片と云へば、何しろ今までの値段の倍ですから、とうとうアリーも売る気になつてしまひました。そして、お金を受け取つてうちへ帰つてまゐりました。ところが、例の基督教徒はどこまでも彼の後をついて来るぢやありませんか。アリーも「どうも変な男だな」と、思ひながら、振り返つて、
「どうしてあなたは私の後からついて来るんです」と、たづねて見ました。
「いや、別にあなたの後をついて来たわけではない。たゞこの街の突き当りまで行つて見ようと思つてゐるんですがね。いづれにしても、あなたの御迷惑になるようなことはしませんよ」と、その基督教徒は答へました。そして、とう/\アリーのうちまでついて来てしまひました。アリーも、変なことをする奴だなと、少し癪に障つたので、
「一体、どこまでついて来る気です」と、相手をどなりつけました。
 すると、基督教徒はぴよこ/\頭を下げながら、
「いや、決して悪気があるわけぢやありませんがね、どうにも喉が渇いてたまらないのですよ。後生ですから水を一杯やつて下さいな」と、あはれげに申しました。
 かう云はれると、気の弱いアリーには断りきれないので、すぐに家の中へはひつて、水を一杯持つて来てやりました。基督教徒は、そこに立つたまゝ、さもうまそうに、ごくごくとそれを飲み干しましたが、
「いや、お蔭さまで喉のかわきはとまりました。で、つけ上るようではございますが、何か少々食べる物をいたゞけないでせうか、こゝにお金がこれだけありますから」と、一片の金貨を取り出して、
「これで何か見つくろつて買つて来ていたゞきたいのですがね」と、云ひ添へました。
 アリーも面倒だとは思ひましたが、おなかのすいてゐる人を捨てゝも置けませんから、自分で駈け出して行つて、大急ぎで五六品の食べ物を買つて来ました。基督教徒はそれを見ると、
「ずいぶん沢山ありますね。これぢや、十人で食べても食べきれませんよ。なんならあなたも御一しよに召し上つて下さいませんか」
「いや、私は沢山です」と、アリーは辞退しました。けれども、
「まあ、さう云はずに、おつきあひをして下さいな」と、相手は無理にすゝめるし、それに、まさかそんな悪いたくらみがあらうとは知りませんから、とう/\そこに坐つて一しよに食べることにしました。すると、基督教徒は、ばなゝの皮を剥いで、それを二つに折つて、その間へそうつと麻酔剤を塗りつけました。それから、そのばなゝをずぶりと蜂蜜の中へ突き込んで、
「さあ、どうぞこれを召し上つて下さいな」と、云つてすゝめました。せつかく、出されたものを食べないのも悪いと思つたので、アリーは、云はれるまゝに、それを取つて食べました。そして、そのばなゝが胃の腑へ落ち着くか落ち着かないに、そこへ打つ倒れたまゝ正体もなく眠り込んでしまひました。
 それを見た基督教徒は、アリーの腰から居間の鍵を奪ひ取つて、一目散に自分の兄の家へ駈けつけました。この基督教徒はその名を、バルスームと云ひ、兄の名はラシードと云ひました。ところで、このラシードはかねてヅムルツドを奪ひ取らうとして、弟を手先に使つて、始終附け狙つてゐたのでございます。で、弟の報告を聞くと、非常に喜んで、早速馬に跨がつて、四五人の従者を引き連れながら、アリーのうちへやつてまゐりました。そして、いきなりヅムルツドの部屋へ踏み込んで、声を立てると殺すぞと威かして、むりやりに彼女を引つ立てゝ行きました。
 一方、アリーはそこに打つ倒れたまゝ、次ぎの日まで眠りつゞけました。そして、その日も午近い頃になつて、やう/\正気にかへりましたが、ヅムルツドの名をよんで見ても返事がない。びつくりして、うち中さがして見ましたが、どこにも姿は見当りません。さてはあの基督教徒にしてやられたのだな、と、彼はその時になつて始めて気がつきました。「ああ、飛んだことになつたものだ、あんな奴にかあてんを売りさへしなかつたら、こんなことにはならずに済んだものを」と、いくら後悔してももう及びません。彼は泣いたり、わめいたりしました。しまひには気狂ひのようにとり乱して、ヅムルツドの名をよびながら、あてもなく町中を駈けまはりました。が、ヅムルツドはその時分はもうラシードの家の一間に押し籠められてゐましたから、どうしたつてわかる筈がありません。で、日の暮れるまで歩きまはつた末、アリーは目も当てられぬ程しほれて、とぼ/\と自分のうちへ戻つてまゐりました。その様子を見て、隣りのお婆さんは非常に心配しながら、
「まあアリーさん、お前さんは何をそんなにがつかりしてるんだね」と、親切にたづねてくれました。
 そこでアリーは自分の家に起つた不幸をすつかりお婆さんにうちあけて話しました。すると、このお婆さんは、もと/\同情にあつい女でしたから、「をゝ、それは御心配なことですねえ」と、しばらくは一しよになつて泣いてゐましたが、どうやら思ひついたことがあると見えて、ちようと膝を打ちながら、
「では、かうなさるとようござんすよ。これからすぐに市場へ行つて、金の編み籠を一つ買つた上、その中へ腕輪だの、指輪だの、耳輪だの、その外女の欲しがるような装身具を仕入れていらつしやい。さうしたら、私が小間物屋になつて、それを頭の上に載つけて方々のうちを廻りながら、あの方を捜して来て上げますからね」
 アリーは大そう喜んで、云はれた通りに、早速それ等の品々の用意をいたしました。そこでお婆さんは、頭の上に編み籠を載せたまゝ、路地から路地へと、隈なく町中を廻つて歩きました。そして、ある日のこと、とう/\ラシードの家の前までやつてまゐりました。ところが、ふとその家の中から悲しそうな声が聞えて来るのですね。「どうかすると、あれがヅムルツドさんかも知れないよ」と、お婆さんはひとり心にうなづきながら、その家の戸口に近づきました。そして、
「小間物を売りに参りましたが、どうぞ一つ買つて下さいましな」と、云ひいれました。すると、そこにゐあはせた女どもは、
「あゝ小間物屋さんかえ。とにかく見せてごらんな」と、云ひながら、お婆さんを家の中へ連れ込みました。そして、そのぐるりに寄つてたかつて、あれを見たりこれを見たりしました。お婆さんの方では、もと/\儲ける気がないのですから、思ひきり値段を安くしました。そこで、女どもはわれがちにそれを買い取りました。が、お婆さんは、さうしてゐるまも、どこからあんな泣き声が聞こえて来たかと、八方に眼を配つてゐました。ところがその部屋の隅つこの方に、厳重に手足を縛られた一人の女が、床の上に突伏したまゝ、しくしく泣いてゐるではありませんか。よく見ると、それがたづねるヅムルツドなのですね。お婆さんも思はずはつとしましたが、それとさとられないように、わざと平気な顔をしながら、
「まあ、可愛そうに、この娘さんはどうしてこんな目に遭つてるのです」と、たづねました。すると、一人の女が、
「この女が強情をはつて、どうしても旦那様の云ふことをきかないからよ。こんな目に遭ふのも心柄ですわ」と、云ひました。
「どんな悪いことをしたのかは知りませんが、これではあんまり可愛そうですね。私がお願ひしますから、どうぞこの娘の縄をといてやつて下さいな。そして、旦那様のお帰りになる頃、また元のように縛つて置いたらいゝでせう」と、
 お婆さんは涙を流して頼みました。女どももそれに動かされて、ヅムルツドの縄目をといてやりました。それからお婆さんは、他の女どもの気がつかないように、そつとヅムルツドの傍へ近寄つて、
「今夜アリーさんがこゝへやつて来て、塀の外に立つて口笛を吹くからね、さうしたらお前さんの方でも吹き返すのだよ。そして、すぐに窓から脱け出していらつしやいな」と、その耳に囁きました。
 かうして置いて、お婆さんは急いでアリーのもとへ帰つてまゐりました。そして、ヅムルツドのありかが知れたことから、今夜連れ出すようにした手筈まで、一々教へてやりました。アリーは夢かとばかり喜びましたが、約束の時間が来るのを待ちきれないで、早くからラシードの家へ出かけて行きました。そして、塀の外の捨て石に腰かけたまゝ、時間がたつのを待つてゐましたが、何しろ毎日の心配にひどく疲れてゐたものだからたまりません。ついそのまゝ、ぐつすりと眠つてしまひました。
 そのうちに、をり悪しく一人の泥棒がこの横丁へやつて来ました。ちようどその時、ヅムルツドは窓のそばへ寄つて、そとを覗いて見ましたが、暗闇に立つてゐる泥棒の姿を見ててつきりアリーだと思ひ込んでしまひました。で、彼女はいそ/\として合図の口笛を吹きならしました。すると、泥棒の方でもそれを吹き返しました。そこで、彼女は用意の縄を窓から垂らして置いて、それに縋るようにして、する/\と地面の上へ降りて来ました。ところが、下に待ち受けてゐたのは、その当時有名な大泥棒のアーマツドを頭とする四十人の盗賊の一人でしたからたまりません。いきなり彼女を引つかついだまゝ、どん/\町の外にある自分の洞穴へ連れて来てしまひました。そして、留守居をしてゐたおばあさんにヅムルツドを預けて置いたまゝ、自分はまた他に為事があると云つて、その夜のうちに再び町の中へ引き返しました。
 で、ヅムルツドは始終そのお婆さんに見張られながら、どうかして泥棒の帰つて来ないうちにこゝを逃げ出す工夫はないものかと考へてゐましたが、とう/\そのお婆さんに向つて、
「ねえ、お婆さま、あなたの髪はずいぶん汚れてゐますわね。なんなら私が梳いて上げませうか」と、さも心やすげに云ひました。すると、お婆さんは大そう喜んで、
「さうかえ。では、一つ梳いて貰はうかね。わたしは長い間お湯へもはひらないのだから」と、云ひました。
 そこでヅムルツドは、お婆さんと一しよに洞穴の外へ出て、日向ぼつこをしながら、いつまでも髪を梳いてやつてゐました。そのうちに、お婆さんはいゝ気持ちで、うとうと眠つてしまひました。それを見て、ヅムルツドは、そつと洞穴の中へ取つて返しながら、いづれどこからか盗んで来たものでせうが、そこにあり合せた騎兵の服を取つて身に着け、腰には剣を吊つて、まるで男のように変装しました。それから、そこに繋いであつた馬に飛び乗つたまゝ、後をも見ずに、どんどん逃げ出しました。
 が、道に迷つたものか、行けども/\元の町へは出ませんでした。で、心配しい/\、十日の余も一人旅をつゞけてゐるうちに、ある朝のこと、目の前に、見るも快い、平和な都があらはれました。やがてその町の城門に近づくと、そこには軍隊が屯して、多くの貴族や侍従どもが集まつてゐました。そして、ヅムルツドの姿を見ると、一斉に馬から飛び降りて、
「国王陛下万歳」と、口々に唱へながら、彼女を迎へました。
「一体あなた方はどうしたと云ふのです。誰が国王陛下なのですか」と、彼女はあきれてたづねました。
 すると、一人の侍従長がうや/\しく前へ進んで、
「まあ、お聞き下さいませ」と、云ひながら、次ぎのように答へました。「実はこの都の掟として、国王がおなくなりになつて、後にお世継ぎのない場合には、吾々一同かうして城門の外へ出て、三日の間こゝに待つてゐるのでございます。そして、只今あなたがおいでになつた道から最初にやつて来た方に誰でもよいから、国王の位についていたゞくのでございます」
 だしぬけにこんなことを云ひ出されて、さすがのヅムルツドも少々面くらひましたが、なまじそれを断つて、こゝで自分が女だといふことを見あらはされてはよくないと思ひましたから、わざと落ちつき払つて、
「なるほど、それでよくわかりました、私も実はある貴族の息で仔細あつて、家を捨てゝ出て来たものですが、さう云ふことなら、あなた方のお望みに任せませう」と、答へました。
 それを聞いて、一同の者は大そう喜びました。そして、近衛兵にまはりを警護させながら、直ちに宮殿へ案内して、玉座の上にのぼらせました。まつたく夢のような出世をしたものでございますね。
 かうして、早くも一年の月日が経ちました。その間ヅムルツドは、人民の租税を軽くしたり、牢獄に繋がれた囚人どもを放免したり、その外ありとあらゆる仁政を施しました。ですから、人民の中誰一人として、「なんといふ情深いお方だらう」と、有難がらないものはありませんでした。が、かうして人々に慕はれながらも、彼女は決して幸福ではありませんでした。心の内では絶えず「旦那様はどうしてか、早くそのようすが知りたいものだ」と、そればかりを考へてゐました。そして、時のたつにつれて、だん/\忘れるどころか「もしや悪人の手にかゝつて殺されたのぢやないか知ら」と、そんなとりこし苦労までするようになりました。
 これを思ひ、あれを思ふにつけ、ヅムルツドはもうゐても立つてもゐられません。そこで、ある日のこと、宰相や侍従どもを召し集めて、宮殿の下に広い馬場を造るように命じました。彼等は早速王様のいひつけに従つて工事に取りかゝりました。そして、まもなく彼女の望み通りの馬場が出来上りました。すると、彼女は再び命令を下して、その馬場の中に大きなてんとを張らせ、その中に幾列にも長いていぶるを並べさせました。で、それがすつかり出来上つた時、彼女は宰相に命じて次ぎのようなお布令を出させました。
「毎月朔日には国王の大盤振る舞ひがあるから、住民は一さい店を開いてはならない。そして、この町にゐ合せたものは、たとひ通りがゝりの旅人でも、一人残らず宮殿の馬場へ参集して、その宴席に列なるべきである。もしこの命令に背くものがあれば、たちどころに死刑に処せられるであらう」と、まつたく、面白いお布令が出たものですね。
 で、その当日になると、人々は後から後からと広場に詰めかけました。そして、一同食卓についた上、腹一杯王様の御馳走を食べました。その間、彼女はてんとの中の玉座に就いたまゝ、じつと人民どもの様子を見てゐられました。かうしてヅムルツドは、もしやアリーの消息を知ることが出来まいかと、そればかり気をつけてゐたのでございます。
 さて明くる月の朔日になると、ヅムルツドは又もや馬場へ降りて来て、そこに集まつた人々に向つて、遠慮なく食べるように命じました。が、まもなく、後れて来た二三の人人の中にかの基督教徒バルスームの姿を見つけました。バルスームはしばらく人々の間に坐つてゐましたが、やゝ離れたていぶるの上にうまい米の飯の皿があるのを見て、手を伸ばして、それを自分の前に引き寄せようとしました。そのとたんに、ヅムルツドは二三の兵士に命じて、直ちにその男を引つ捕へさせた上、自分の面前に連れて来させました。そして、
「お前の名はなんと云ふか、又お前は何しにこの国へやつて来たのだ」と、たづねました。
 すると、バルスームは、何かといゝかげんな嘘ばかりついて、容易に実を吐かうとはしませんでした。が、王様の方では、とうに、彼が何者であるかを知つてゐるのだからたまりません。しばらくの間じつとバルスームの顔を見つめてゐられましたが、やがて一そう声を張り上げながら、
「この狗め。国王に向つて嘘をつくとは何事だ。お前はバルスームといふ基督教徒で、誰かを捜しにこの国へやつて来たのであらうがな」と、云はれました。
 それを聞くと、バルスームは真青になつて、わな/\顫へながら、
「御免下さい、私はたしかに基督教徒に相違ござりませぬ。どうぞ命ばかりはお助け下さいませ」と、地面に頭をすりつけて願ひました。が、さんざ悪いことをして置いて、今更そんなことを云つても仕方がありません。とう/\馬場の外に引き出だされて、その場に首を刎ねられてしまひました。
 やがて第三回目の饗宴の日がまゐりました。なんにも知らない町の人達は、「皆さん、うまい米の飯の皿へは近寄らないがようござんすよ。うつかり手を出したが最後、すぐに首を刎ねられてしまひますからね」と、こそ/\云ひ合ひながら、誰一人米の飯の前へ坐る者はありませんでした。ところが、又もやそこへ一人後れて来た男がありました。それはヅムルツドを引つさらつて逃げた、例の泥坊でございました。他にあいた席がなかつたので、ちようどその米の飯の皿の前へ坐ることになりましたが、いきなりそれを手に掴んだまゝ、さも饑ゑてゐたように、がつ/\食ひ始めました。はたの者はたゞあつ気に取られて見てゐました。ヅムルツドもとうからその様子に目をつけてゐましたが、泥坊が二口目を掴んで口に入れようとした時、うしろに立つてゐた兵士どもを振り返つて、
「すぐにあいつをこゝへ引つぱつて来い、手に持つたあの一口も無事に食べさせてはならんぞ」と、いひつけました。
 そこで兵士どもは、すばやく泥坊のそばへ駈け寄つて、むづとその手を掴んだまゝ、王様の御前へ引つ立てました。するとヅムルツドは前と同じように、
「その方の名はなんと云ふか、またなんしにこの国へやつて来たのか」と、たづねました。
「はい、私はオスマーンといふ園丁でございます。この都へは、少々捜すものがあつて参りました」と、この男もいゝかげんな嘘を申し立てました。
 ヅムルツドは大きな声を挙げながら、
「をゝ、この悪者め。国王に向つて嘘をつくとは何事だ。お前はマーリツドの手下でジヤーワンといふ盗賊に相違あるまい。どうだ、正直のことを申せ。でないと、即座にお前の首を刎ねてしまふぞ」と、叱りつけました。
 それを聞いて泥坊は、本当のことを申し上げたら、或ひは命が助かるかも知れないと思ひましたので、
「恐れ入りました。まことにおつしやる通りでございます。ですが、今後は心を改めて決して悪いことは致しませんから、どうぞお許し下さいませ」と、願ひました。
 ヅムルツドは、傍の兵士に向つて、
「この男を連れていつて、直ちに首を刎ねよ」と、いひつけました。
 かうして、泥坊も、バルスームもとう/\殺されてしまひました。ところで、バルスームの兄のラシードは、今にも弟がヅムルツドの行方を捜し出して来るかと、毎日待ち暮らしてゐました。が、いくら待つても弟の消息がわからないので、しまひには待ちきれなくなつて、自分で彼女の行方を捜しに出ました。そして、方々の国を捜しまはつてゐるうちに、彼もまたヅムルツドの都へやつて来ました。不思議なことには、その日がまた月の第一日で、ラシードが町へはひつて見ると、広い大通りもがらんとして人つ子一人通らず、どこの店も閉つて、たゞ窓から女どもが覗いてゐるだけでございました。で、彼も不審に思つて、一人の女にそのわけをたづねて見ました。すると、その女は、「町の衆はみんな王様の御招待にあづかつて、一人残らず御殿の下のお馬場へ行つてゐるんですわ。今頃はちようどいろんな御馳走が出てゐる時分でせうよ。なんならあなたもいらつしやいませんか。誰が行つても構ひませんのよ」と、親切に馬場へ出る道筋まで教へてくれました。
 ラシードは云はれるまゝに馬場へ出かけて見ました。が、それがそも/\運のつきで、たちまちヅムルツドの眼にとまつたからたまりません。弟のバルスームと同じように、その場で首を刎ねられてしまひました。
 ところで、あの夜ラシードの塀の外で眠つてしまつたアリーはどうしたかと云ふと、あれからしばらくたつて眼をさましましたが、約束の時間はとうに過ぎてしまつてゐたので、本当にびつくりしてしまひました。それでも、彼はあわてゝ合図の口笛を吹いて見ました。が、それがなんになりませう。彼はとう/\泣き/\うちへ戻つて来て、例のお婆さんにどうしたものだろうと相談しました。お婆さんもそれには呆れ返つて、
「実際、お前さんにも呆れますね。それぢや、まるで自分から災難をこしらへてゐるようなものぢやありませんか」と、さん/゛\に彼を責めました。
 さう云はれると、アリーは一そうたまらなくなつてとう/\気を失つて倒れてしまひました。そして、それがもとでわづらひついて、永い間枕が上りませんでした。で、もしあのお婆さんがなかつたら、それなりに死んでしまつたかも知れません。でも、お婆さんが親切に看病をしてくれたお蔭で、一年の後にはどうやら起きてそこらを歩けるようになりました。その時、お姿さんはアリーに向つて、
「さあ、あなたもしつかりなさいな。そして、まはりの国々を廻つて、ヅムルツドの行方を捜していらつしやい。ヅムルツドさへ戻れば、お前さんの病気はひとりでによくなるのだからね」と、云ひました。
 アリーもその言葉に励まされて、いよ/\ヅムルツドを捜しに出かけました。そして、諸国を廻り廻つてゐる間に、とう/\ヅムルツドの都へ到着しました。まもなく新しい月の最初の日がめぐつて来ましたが、その日も午近くなると、町の人々は参々伍々うち連れ立つて宮殿の広場へ押しかけました。アリーも物珍らしそうに後からついてまゐりましたが、かの馬場へはひつた時には、もうどのていぶるも一杯で、たつた一つ、例のうまい米の飯の載つてゐる席だけがあいてをりました。アリーは、どうしてそれがあいてゐるのか知る筈もありませんから、別に訝かりもしないで、そこに腰をおろしました。が、いよいよ手を伸ばしてその米の飯を食べようとすると、隣りにゐた一人の男があわてゝおしとめながら、
「あゝ、その皿のものを食べたら大変ですよ。それこそ命がありませんからね」と、かう云つて注意しました。
 が、アリーは、ちよつと振り返つたまゝ、
「いや、御親切にさう云つて下さるのはあり難いが、構はず食べさせて下さい。で、そのために罰せられるようなら、どんな罰でも受けませうよ。どうせ私はもうこの世に用のない体ですからね」と、平気でそれを食べ始めました。
 この有様を見た人々は、今にどうなることかと、それにばかり気を取られてをりました。すると、そこへ二三の兵士がつか/\と近づいてまゐりました。そして、頭の上から覗き込むようにしながら、
「甚だ恐れ入りますが、たゞいま国王がお召しでございますから、どうぞ御前までいらしつて下さいませ」と、云ひました。
 アリーはすぐさま立ち上つて、兵士どもの後について行きました。人々は彼の後姿を見送りながら、「可愛そうに、とう/\あの人も首を刎ねられるんだね」と、こそ/\囁き合ひました。が、ヅムルツドは鄭重に彼を迎へて、
「お前さんの名はなんと云つて、何を職業にしてゐるのか。又、こゝへはどう云ふわけでやつて来たのか」と、たづねました。
 アリーはもちろん、相手が自分の妻だとは知りませんから、
「私は名をアリーと申しまして、クラーサンの生れのものでございます。そして、行方のわからぬ妻を捜しに、かうしてはる/゛\やつて参つたのでございます」と、答へました。が、さう云ふ間も、眼からぼろ/\涙をこぼしながら、しまひにはとう/\そこへ泣き崩れてしまひました。
 それを聞いて、国王ヅムルツドは自分も涙に咽びながら、
「いや、よく正直に申し立てた。神様はお前のその心に愛でゝ、きつと尋ねる妻に逢はせて下さるぞ。何事ももう心配することはない」と、云ひました。それからアリーを立派な馬に乗せて、自分も一しよに宮殿へ帰つて行きました。そして、アリーを自分の部屋に案内して、
「あなたはまだ私が誰だかおわかりにならないの」と、あまりの嬉しさに胸を躍らせながらたづねました。
「あなたは、いや、あなた様は、この国の国王でいらせられます」と、アリーはおど/\しながら答へました。
「いゝえ違ひます、違ひます。わたしはあなたの妻のヅムルツドですよ」と、手をとりました。
「えゝつ」と、アリーは驚きの声を放つたまゝ、しばらくは何が何やらわかりませんでした。が、いよ/\それがヅムルツドに相違ないと知つた時は、まるで気狂ひのようになつて喜びました。
 その翌日ヅムルツドは、宰相や侍従どもを召し集めて、直ちに国王の代りを立てるように命じました。そして、自分はアリーと一しよに、手に手を取つて、二人の生れ故郷なるクラーサンの国に向つて旅立ちました。




   馬どろぼう

 町はづれの野路を、一人の百姓が驢馬をひいて歩いてゐました。町へ荷物でも積んで行つたかへりと見えて、手綱を長くして、後手にその端を握つたまゝ、ぶらり/\とのんきそうに歩いて行くのでございます。それを二人の悪ものが見てゐました。そして、一人がもう一人の悪ものに向つて、
「どうだい、おれがあの男の驢馬をとつて見せようか」と、申しました。
「そいつは面白いね。だが、どうしてとるんだい」と、相手は聞き返しました。
「まあ細工はりゆう/\仕上げをごらうじろだ」と、云ひながら、その男はずん/\驢馬をひいた百姓の方へ駈けて行きました。そしてそつと驢馬のおもがいをはづして、それを自分の頸のまはりに結ひつけました。そして、その驢馬は傍へ来たもう一人の悪ものに渡してやつてしまひました。その間驢馬をひいてゐた百姓は、そんなことゝはまるで知らずにゐたのでございます。
 で、驢馬を受け取つたもう一人の悪ものゝ姿がそこいらに見えなくなつた時、頸におもがいを結ひつけた方の悪ものは、急に道の真中に立ちどまつたまゝ、動かなくなつてしまひました。百姓は向うを向いたなりで、
「はい/\、どう/\」と、云ひ/\、一二度強く手綱を引つ張つて見ました。が、どうしてもついて来ないので、
「この業つくばりめが、又ふて出しやあがつたな」と、云ひながら、始めてうしろを振り返つて見ました。ところが、そこには、ぼう/\と鬚がのびて眼のぎよろりとした男が、頸のまはりにおもがいを掛けたまゝぼんやり立つてゐるではありませんか。百姓はびつくりして、たじ/\と後へさがりながら、もう少しであをのけに倒れそうになりました。が、やうやく踏みとゞまつて、
「お前は何者だ」と、おづ/\声をかけて見ました。
「はい、私はあなた様の驢馬でございます」と、悪ものは殊勝らしく返事をいたしました。
「驢馬だ」と、百姓はいよ/\あきれ返りました。
「はい、驢馬に相違ござりませぬ。が、どうかまあその仔細を一通り聞いて下さいませ」
 かう云つて、悪ものはいかにもしほ/\とした様子をしながら、その身の上話とやらを始めました。
「何を隠さう、私はこゝから五里程先のある港町の小商人の伜に生れたものでございます。おやぢが死んでから母親の手一つで育てられましたが、生れついての極道で、自分が稼いだゞけはみんな酒代にかへるばかりか、しまひにはありもせぬうちの諸道具まで持ち出した上、それでもまだ足りんで、或日酔つぱらつてうちへ戻つて来た時、年寄りの臍くりを出さないと云つて、母親をぼん/\殴つたり蹴つたりいたしました。母親はひい/\泣きながら、『どうかこの乱暴者の手からわたしを救つて下さいませ』と、神様にお願ひをかけました。日頃信心深い母親のことですから、神様もその願ひをお聞きになると、立ちどころに私をあのような驢馬の姿に変へておしまひなされたのでございます。私はそれから廻り廻つてあなた様のところへ売られてまゐりました。そして、ずつと、あなた様の厩で働いてゐましたが、今日はどうしたのやら母親が私のことを思ひ出して「あのような不孝な奴でも子どもはやつぱり可愛いうございます。どうかもう一度あの子に会はせて下さいませ』と、かう神様にお願ひをかけてくれました。その願ひが聞き入れられたと見えて、私はかうして急にもとの姿に立ちかへつたのでございます」
 だん/\の話を聞いて、百姓はいよ/\あきれ返つてしまひました。そして、知らぬことゝは云ひながら、これまで自分と同じ人間を縄でしばつて、あつちこつち引き廻したり、田圃や畑で没義道にこき使つたりしたことを思ふと、空恐ろしいような気がして、自分の後生の程も案じられて来ました。で、今までのことは水に流してくれと、さん/゛\にあやまつた上、一刻も早く母親に顔を見せて安心させたがよからうと云つて、その場からすぐにその男を放してやりました。泥棒は赤い舌をぺろりと出しながら、いづこともなく逃げ去つてしまひました。
 百姓はそれからもなほ考へに沈みながら、手ぶらでぼんやり自分のうちへ帰つて参りました。おかみさんは亭主の浮かぬ顔を見ると、
「まあ、どうなすつたのです。それに驢馬もつれないでさ」と、心配そうにたづねました。
「お前は驢馬のことをちつとも気がつかなかつたのかい」と、百姓は逆に聞き返しました。──
「気がつかなかつたとは、そりやなんのことよ」
「うむ、気がついてゐなけりや話して聞かせるがね」
 かう云つて、百姓は途中で自分と驢馬との間に起つた出来事を始めから終ひまで話して聞かせました。それを聞くと、おかみさんも顔色をかへて、
「まあ、それでもよく私たちに罰が当らなかつたものだわねえ──人間に藁を食はせておいたり、鞭で引つぱたいたりして追ひ使つてさ」
「ほんとになあ」
 それから二人は天のお許しを仰ぐために、長い間神様の前で祈つた上、乞食どもに沢山ほどこしをいたしました。
 が、亭主はそれからも家に引き籠つたまゝ、毎日為事もせずにぶら/\遊んでばかりゐますので、おかみさんはとう/\たまりかねたと見えて、ある日次ぎのように云ひ出しました。──
「あなたもまあ、いつまで考へ込んでばかりゐるんですよ。明日は町に馬の市が立つそうだから、代りの驢馬でも買ひに行つて、一日も早く為事に取りかゝつて下さいな」
「それもさうだな」
 かう云つて亭主は、やつと尻を持ち上げました。そして、次ぎの朝早く馬の市へ出かけて、だん/\見て行くうちに、ふと以前自分のうちで飼つてゐた驢馬が眼にとまりました。
 彼はぎくりとして、その前に立ちどまりました。それから、あたりに人のゐないのを見すまして、その馬の耳のはたに口を寄せながら、そつとさゝやきました。──
「貴様はまた親不孝をして、二度までこんな姿になりをつたな。だが、もうあかんぞ。おれはもう二度と再び貴様のような奴を買つてはやらんからな」
 そして、後をも見ずにどん/\自分のうちへ帰つて来てしまひました。




   エス・シンヂバードの航海譚

      動く島の話

 皆さん、私はもとこのバグダツドの都でも第一流の商人の息に生れて、あり余る財産を両親から譲られましたが、おいしい物を食べたり、いゝ酒を飲んだり、悪い友達と交はつたりして、湯水のようにお金を使つてしまひました、で、やつと気がついた時には、私の持つてゐたお金はもうすつかりなくなつてゐました。かうなつては、いくら後悔しても追つつきません。そこで私も覚悟をきめて、いくつ