アラビヤ夜話
法政大学教授 森田草平 訳
例言(れいげん)
一、本書(ほんしよ)は『日本児童文庫(にほんじどうぶんこ)』のために、私(わたくし)が新(あら)たに書(か)き下(お)ろしたものでございます。
一、私(わたくし)は前(まへ)にウイリヤム・レーン訳(やく)の『千一夜物語(せんいちやものがたり)』を邦語(ほうご)に訳(やく)しましたが、その中(なか)から児童(じどう)の読(よ)み物(もの)として適当(てきとう)だと思(おも)はれる話(はなし)を八(やつ)つ選(えら)んで、それをなるたけわかり易(やす)い文体(ぶんたい)に書(か)き直(なほ)して見(み)たのでございます。たゞ一(ひと)つ最後(さいご)の『アリ・ババと四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)』の話(はなし)だけは、アレキサンドリー版(ばん)の原書(げんしよ)に拠(よ)つたレーンの訳(やく)には載(の)つてゐません。で、これはバアトンの訳(やく)に拠(よ)つて、カイロー版(ばん)の原書(げんしよ)から補充(ほじゆう)したものを採用(さいよう)しました。
一、御承知(ごしようち)の通(とほ)り、この『アラビヤ夜話(やわ)』なるものは、元来(がんらい)児童(じどう)のために作(つく)られたものではないので、いろ/\な点(てん)で児童(じどう)の読(よ)み物(もの)に適(てき)しないのが多(おほ)い。で、あれだけ数(かづ)ある話(はなし)の中(なか)でも、本当(ほんとう)に児童(じどう)に読(よ)ませて差(さ)し支(つか)へないと思(おも)はれるのは、まづこの書(しよ)に収録(しゆうろく)した九(こゝの)つの話(はなし)ぐらゐなものだらうと思(おも)ひます。なほこゝに採用(さいよう)したものゝうちでも、いかゞはしいと思(おも)はれるところは多少(たしよう)改作(かいさく)した点(てん)もありますから、あらかじめ御承知(ごしようち)置(お)きを願(ねが)ひます。
一、世(よ)に行(おこな)はれてゐる類書(るいしよ)の中(なか)で、この書(しよ)の特徴(とくちよう)として挙(あ)げ得(え)られるものがあるとすれば、在来(ざいらい)の『アラビヤ夜話(やわ)』は、多(おほ)くは西洋人(せいようじん)が選択(せんたく)して、西洋人(せいようじん)が西洋(せいよう)の児童(じどう)のために書(か)き直(なほ)したものをそのまゝ翻訳(ほんやく)もしくは抄訳(しようやく)したものが多(おほ)いように思(おも)はれるのに対(たい)して、この書(しよ)は最初(さいしよ)から私(わたくし)が選(えら)んで、私(わたくし)が書(か)き直(なほ)したといふ一事(いちじ)にあります。従(したが)つて、よくもわるくも、本書(ほんしよ)の責任(せきにん)は一(いつ)に私(わたくし)にあるのでございます。以上(いじよう)。
昭和(しようわ)二年(にねん)八月(はちがつ)一日(いちにち)
森田草平(もりたそうへい)しるす
目次(もくじ)
ユーナン王(おう)と学者(がくしや)ヅーバンの話(はなし)
ハサンと馬丁(ばてい)の話(はなし)
若(わか)い獅子(しし)と大工(だいく)の話(はなし)
アラ・エ・デイーンの話(はなし)
ひようきん者(もの)ハサンの話(はなし)
賢婦(けんぷ)ヅムルツドの話(はなし)
馬(うま)どろぼう
エス・シンヂバードの航海譚(こうかいだん)
動(うご)く島(しま)の話(はなし)
金剛石(こんごうせき)の谷(たに)の話(はなし)
人食(ひとく)ひ猿(さる)の話(はなし)
食人種(しよくじんしゆ)の話(はなし)
アリ・ババと四十人(しじゆうにん)の盗賊(とうぞく)
アラビヤ夜話
装 幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・深沢省三
ユーナン王(おう)と学者(がくしや)ヅーバンの話(はなし)
昔(むかし)、ぺルシヤの国(くに)に、ユーナン王(おう)といふ王様(おうさま)がありました。この王様(おうさま)は数多(あまた)の宝物(たからもの)と強(つよ)い軍隊(ぐんたい)とを持(も)つてゐて、何(なに)一(ひと)つ不自由(ふじゆう)のない身(み)の上(うへ)でございました。が、気(き)の毒(どく)なことには、恐(おそ)ろしい癩病(らいびよう)を病(や)んで、国中(くにじゆう)の医者(いしや)も学者(がくしや)も、それを直(なほ)して差(さ)し上(あ)げることが出来(でき)ませんでした。又(また)、ありとあらゆる医薬(いやく)も、療治(りようじ)も、なんのきゝめもありませんでした。
ところが、ある日(ひ)この王様(おうさま)の都(みやこ)へ、ヅーバンといふ年(とし)をとつた学者(がくしや)がやつてまゐりました。この学者(がくしや)は、古代(こだい)と近代(きんだい)とを問(と)はず、諸国(しよこく)の学問(がくもん)に通(つう)じてゐるばかりか、いろんな病(やまひ)を直(なほ)す上(うへ)にも優(すぐ)れたうでまへを持(も)つてゐました。
ところで、ヅーハンは、二三日(にさんにち)この都(みやこ)に滞在(たいざい)してゐる間(あひだ)に、ふと王様(おうさま)の病(やまひ)と、誰(たれ)にもそれを直(なほ)すことが出来(でき)ないといふ噂(うはさ)とを耳(みゝ)にしました。その夜(よ)、彼(かれ)は自分(じぶん)の室(へや)に閉(と)じ籠(こも)つたまゝ、一人(ひとり)で考(かんが)へあかしました。で、何(なに)やら思(おも)ひついたことがあると見(み)え、明(あ)くる朝(あさ)になると、一番(いちばん)立派(りつぱ)な服(ふく)に着代(きか)へて、王様(おうさま)の御前(ごぜん)にまかり出(い)でました。そして、王様(おうさま)の前(まへ)に平伏(へいふく)しながら、
「陛下(へいか)よ、畏(おそ)れ多(おほ)いことではありますが、私(わたくし)は陛下(へいか)のご病気(びようき)と、どんな医者(いしや)もそれを直(なほ)すことが出来(でき)ないといふ噂(うはさ)を蔭(かげ)ながら承(うけたまは)りました。で、私(わたくし)は飲(の)み薬(ぐすり)にも塗(ぬ)り薬(ぐすり)にも薬(くすり)といふものは一切(いつさい)用(もち)ひないで、陛下(へいか)のご病気(びようき)をそのまゝ直(なほ)して差(さ)し上(あ)げたいと存(ぞん)じまして、かうしてまかり出(い)でた次第(しだい)でございます」と、申(まを)し上(あ)げました。
「なに、薬(くすり)を用(もち)ひないでわしの病気(びようき)を直(なほ)してくれる。どうしてそんなことが出来(でき)るのぢや」
と、王様(おうさま)はびつくりして云(い)はれました。
「もしお前(まへ)がわしの病気(びようき)を直(なほ)してしてくれたら、お前(まへ)自身(じしん)は申(まを)すに及(およ)ばず、子々孫々(しゝそん/\)に至(いた)るまで何(なに)不自由(ふじゆう)なく暮(くら)すことの出来(でき)るようにしてあげるよ。だが、そんなことがほんとうに出来(でき)るのかね」
「何(なに)しに嘘(うそ)を申(まを)し上(あ)げませう。もしもそれが出来(でき)なかつたら、即座(そくざ)に命(いのち)を召(め)し上(あ)げられても厭(いと)ひませぬ」と、学者(がくしや)はきつぱり申(まを)し上(あ)げました。
「さうか、では、ほんとうに飲(の)み薬(ぐすり)も塗(ぬ)り薬(ぐすり)も用(もち)ひないで、わしの病気(びようき)を直(なほ)してくれると云(い)ふのだな」
と王様(おうさま)は、改(あらた)めておたづねになりました。
「いかにもさようでございます。私(わたくし)は玉体(ぎよくたい)に少(すこ)しも気味(きみ)のわるい思(おも)ひをおさせ申(まを)さないで、そのまゝ御病気(ごびようき)を直(なほ)して差(さ)し上(あ)げます」と、学者(がくしや)は再(ふたゝ)び答(こた)へました。
王様(おうさま)はすつかりあきれ返(かへ)つてしまはれたが、急(きゆう)に勇(いさ)み立(た)つて、一日(いちにち)も早(はや)く治療(ちりよう)を加(くは)へてくれるように御依頼(ごいらい)になりました。
学者(がくしや)はそこで王様(おうさま)の御前(ごぜん)を退(しりぞ)いて、別(べつ)に一軒(いつけん)の家(いへ)を借(か)り入(い)れた上(うへ)、その内(うち)に書籍(しよせき)を始(はじ)めいろ/\な薬剤(やくざい)を搬(はこ)び入(い)れました。そして、柄(え)の中(なか)が空(から)になつてゐるごるふ杖(づゑ)をつくつて、その柄(え)の中(なか)へ一種(いつしゆ)の薬(くすり)を填(つ)めました。別(べつ)に又(また)うまくそれに合(あ)うような球(たま)も造(つく)りました。で、それがすつかり出来(でき)上(あが)つた時(とき)、再(ふた)び王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ出(で)て、「すぐさま競馬場(けいばじよう)へお出(で)ましになつて、ごるふをお遊(あそ)びなさいませ」と、申(まを)し上(あ)げました。王様(おうさま)は、大勢(おほぜい)の侍従(じじゆう)どもを随(したが)へて、早速(さつそく)競馬場(けいばじよう)へお出(で)ましになりました。すると、学者(がくしや)のヅーバンは、かねて用意(ようい)した球(たま)とごるふ杖(づゑ)とを王様(おうさま)にお渡(わた)しゝて、次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。
「この杖(つゑ)をかう握(にぎ)つて、馬(うま)を駈(か)けさせながら、これで力一杯(ちからいつぱい)球(たま)をお打(う)ち下(くだ)さいませ。それも、あなたの全身(ぜんしん)が汗(あせ)でしつとりなるまで、打(う)つて/\打(う)ち据(す)ゑるのでございます。さうしますと、この杖(つゑ)の中(なか)に仕込(しこ)んである薬(くすり)が自然(しぜん)に手(て)に浸(し)み込(こ)んで、だん/\体中(からだじゆう)に廻(まは)ります。で、一(ひと)わたりお遊(あそ)びが済(す)んで、薬(くすり)が体中(からだじゆう)へ廻(まは)つた時分(じぶん)に御殿(ごてん)へお帰(かへ)りになつて、一風呂(ひとふろ)浴(あ)びてぐつすりお寝(やす)みなさいませ。お目覚(めざ)めになつた時(とき)は、もう御病気(ごびようき)はすつかり直(なほ)つてゐることでございませう」
で、王様(おうさま)は学者(がくしや)からごるふ杖(づゑ)をお受(う)け取(と)りになると、それを手(て)に握(にぎ)つたまゝ、とつとつとと、馬(うま)を競馬場(けいばじよう)の真中(まんなか)へ進(すゝ)められました。すると、お相手(あひて)がほどよく球(たま)を王様(おうさま)の前(まへ)へ投(な)げました。王様(おうさま)は馬(うま)を駆(か)つてそれを追(お)ひかけながら、ありたけの力(ちから)を出(だ)してお打(う)ちになりました。かうして、何回(なんかい)となくこの遊戯(ゆうぎ)を繰(く)り返(かへ)した後(のち)、御殿(ごてん)へお帰(かへ)りになりましたが、入浴(にゆうよく)しておやすみになるまで、一々(いち/\)学者(がくしや)の言葉通(ことばどほ)りになさいました。で、目(め)を覚(さ)ましてから、そこら中(じゆう)を撫(な)でて御覧(らん)になると、不思議(ふしぎ)なことには、あのしつこい癩病(らいびよう)の跡形(あとかた)さへ残(のこ)つてゐません。まるで白銀(しろがね)のように皮膚(ひふ)がすべ/\してゐるんですね。王様(おうさま)はもう夢(ゆめ)かとばかり、有頂天(うちようてん)になつて喜(よろこ)ばれました。
次(つ)ぎの朝(あさ)ヅーバンがまゐりますと、王様(おうさま)は御自分(ごじぶん)で階(きざはし)の下(した)までお出迎(でむか)へになつて、お側(そば)に並(なら)んで坐(すわ)らせながら、宮廷(きゆうてい)の賓客(ひんかく)としておもてなしになりました。そして、さま/゛\な御馳走(ごちそう)を下(くだ)すつた上(うへ)、高価(こうか)な衣装(いしよう)や珍(めづら)しい財宝(ざいほう)に添(そ)へて、一千片(いつせんひら)の黄金(おうごん)までたまはりました。で、ヅーバンも面目(めんもく)を施(ほどこ)して退出(たいしゆつ)しましたが、その後(ご)御殿(ごてん)へ上(あが)るたびに、王様(おうさま)はいよいよ彼(かれ)を大切(たいせつ)に扱(あつか)はれました。
ところが、大臣達(だいじんたち)のうちに、一人(ひとり)強欲(ごうよく)で大(たい)そう嫉(ねた)み深(ぶか)い男(をとこ)がありました。彼(かれ)は王様(おうさま)がヅーバンをお友達(ともだち)のようにして、後(あと)から/\といろ/\な御褒美(ごほうび)を賜(たま)はるのを見(み)て、やけてやけてたまらなくなりました。そして、ひそかによくない考(かんが)へを懐(いだ)くようになりました。ある日(ひ)のこと、彼(かれ)は王様(おうさま)の前(まへ)に近(ちか)づいて、
「陛下(へいか)、私(わたくし)はどうしても陛下(へいか)に申(まを)し上(あ)げなければならないことがあるのですがね、それは容易(ようい)ならぬことでございます。しかも、ことは他人(たにん)の身(み)の上(うへ)に関(かん)したものではありますが、私(わたくし)がなまじ隠(かく)し立(だ)てをして申(まを)し上(あ)げずに置(お)いたら、到底(とうてい)不忠不臣(ふちゆうふしん)の罪(つみ)を免(まぬか)れませぬ。で、陛下(へいか)のお許(ゆる)しさへあれば、私(わたくし)は直(たゞ)ちに申(まを)し上(あ)げる覚悟(かくご)でございます」と、いかにも様子(ようす)ありげに申(まを)し立(た)てました。
大臣(だいじん)が突然(とつぜん)こんなことを云(い)ひ出(だ)したので、王様(おうさま)も大(たい)そう御心配(ごしんぱい)になつて、
「一体(いつたい)それは何事(なにごと)ぢや」と、せき込(こ)んでおたづねになりました。そこで、大臣(だいじん)は一(いつ)そう真顔(まがほ)になつて、次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。──
「まことに畏(おそ)れ多(おほ)いことではありますが、今(いま)や陛下(へいか)はあやまつた道(みち)を取(と)つていらせられます。陛下(へいか)は陛下(へいか)の敵(てき)に、陛下(へいか)の不幸(ふこう)を望(のぞ)んでゐる者(もの)に、さま/゛\な恩寵(おんちよう)を加(くは)へられました。前例(ぜんれい)のない程(ほど)その者(もの)を厚遇(こうぐう)されました。そして、その者(もの)を無二(むに)の親友(しんゆう)のように信頼(しんらい)していらせられます。ですから、私(わたくし)はこの先(さき)どんなことが持(も)ち上(あが)らうかと陛下(へいか)のためにひそかに心(こゝろ)を痛(いた)めてゐるのでございます」
これを聞(き)くと、王様(おうさま)はさつと顔色(かほいろ)をお変(か)へになつて、
「お前(まへ)は何(なに)を云(い)つてるのだ。わしの敵(てき)といふのは何者(なにもの)ぢや。誰(たれ)をわしは無二(むに)の親友(しんゆう)のように信頼(しんらい)してゐるか」と、言葉(ことば)鋭(するど)くおたづねになりました。大臣(だいじん)はいよ/\真面目(まじめ)くさつて、
「あゝ陛下(へいか)よ、あなたはまだ夢(ゆめ)を見(み)ていらつしやる。どうぞお目(め)を覚(さ)まして下(くだ)さいませ。私(わたくし)は、学者(がくしや)のヅーバンのことを云(い)つてゐるのでございます」と、答(こた)へました。
「いや/\」と、王様(おうさま)は頭(かしら)を左右(さゆう)に振(ふ)りながら仰(おほ)せられました。「あの学者(がくしや)は、わしのためには大事(だいじ)な命(いのち)の親(おや)ぢや。あれはたゞあの杖(つゑ)をわしの手(て)に握(にぎ)らせただけで、わしの病(やまひ)を直(なほ)してくれた。医者(いしや)といふ医者(いしや)がみんな匙(さじ)を投(な)げたわしの病(やまひ)を、たゞそれだけのことで直(なほ)してくれた。たとひ世界中(せかいじゆう)を西(にし)から東(ひがし)まで捜(さが)して廻(まは)つても、あんな偉(えら)い男(をとこ)がまたと一人(ひとり)見出(みいだ)されるものではない。それだのに、お前(まへ)は又(また)どうしてそんなことを云(い)ひ出(だ)したのぢや。わしはあの男(をとこ)に生涯(しようがい)年金(ねんきん)を黄金(おうごん)一千片(いつせんひら)づゝ下(さ)げてやる積(つも)りぢやが、それだけではまだ少(すく)な過(す)ぎるくらゐに思(おも)つてゐるのぢや。たとひこの王国(おうこく)の一部(いちぶ)を割(さ)いてやつたとしても、まだあの男(をとこ)に酬(むく)いるには足(た)りまい。それだのに、一体(いつたい)なんと思(おも)つてそんなことを云(い)ふのか。わしには、どうもお前(まへ)があの男(をとこ)のことを妬(ねた)んでゐるとしか思(おも)はれないがね」
かう云(い)つて王様(おうさま)は一向(いつこう)大臣(だいじん)の言葉(ことば)を取(と)り上(あ)げようとせられませんでした。が、大臣(だいじん)もさるもの、なか/\悪智慧(わるじえ)にはたけてゐましたので、そのまゝ引込(ひつこ)むようなことはいたしません。つべこべともつともらしい嘘(うそ)を並(なら)べ立(た)てた末(すゑ)、
「陛下(へいか)よ、あなたがあの学者(がくしや)を信頼(しんらい)していらつしやるのも、まつたく無理(むり)のないことだとは存(ぞん)じます」と、改(あらた)めて云(い)ひ出(だ)しました。
「実際(じつさい)あの男(をとこ)は不思議(ふしぎな)な力(ちから)をもつてゐます。ですが、そこを考(かんが)へて下(くだ)さいませ。その不思議(ふしぎ)な力(ちから)を持(も)つてゐることが、また実(じつ)に油断(ゆだん)のならぬところでございますからね。なぜかと申(まを)しますと、あの男(をとこ)はたゞあなたのお手(て)に何(なに)かしら握(にぎ)らせただけで、たゞそれだけで永々(なが/\)の御病気(ごびようき)を直(なほ)したではございませんか。して見(み)れば、あなたは同(おな)じようにたゞ手(て)に何(なに)かしら握(にぎ)らせられるだけで、いつ、あの男(をとこ)に殺(ころ)されるか知(し)れない。それも覚悟(かくご)していらつやらなければいけませんよ。さう考(かんが)へると、実際(じつさい)少(すこ)しの油断(ゆだん)もあつたものではございません。私(わたくし)は心(こゝろ)の底(そこ)からそれを心配(しんぱい)してゐるのでございますよ」
「なるほど、それもさうじやな」と、王様(おうさま)はとう/\大臣(だいじん)の言葉(ことば)に惑(まど)はされてしまひました。
「お前(まへ)の云(い)ふことはもつともぢや、云(い)はれて見(み)れば、どうもあの男(をとこ)はわしを殺(ころ)すために入(い)り込(こ)んだまはしもののように思(おも)はれる。そして、いつわしの手(て)に怪(あや)しいものを握(にぎ)らせて、わしを殺(ころ)すか知(し)れたものぢやない。それを思(おも)ふと、ほんとうに一時(いつとき)も油断(ゆだん)はならんな。お前(まへ)はなか/\忠義(ちゆうぎ)ものぢや。で、わしはあの男(をとこ)をどうすればいゝだらうな」
大臣(だいじん)は「しめた」と、思(おも)ひましたが、色(いろ)にも見(み)せないで、又(また)次(つ)ぎのように申(まを)し上(あ)げました。
「すぐに、あいつをよび出(だ)して、首(くび)を刎(は)ねておしまひなさいませ。つまり、こちらが先廻(さきまは)りをして、あいつの命(いのち)を取(と)つてしまふのですよ。それが何(なに)より安心(あんしん)でございますからね」
その言葉(ことば)に従(したが)つて、王様(おうさま)はすぐに学者(がくしや)をよび寄(よ)せました。そんなことゝは夢(ゆめ)にも知(し)らない学者(がくしや)は、喜(よろこ)び勇(いさ)んで、王様(おうさま)の前(まへ)に参(まゐ)りました。すると、驚(おどろ)くではありませんか。自分(じぶん)の命(いのち)は今日(けふ)限(かぎ)りだと云(い)ふ仰(おほ)せでございます。彼(かれ)には、最初(さいしよ)は何(なに)が何(なに)やらわかりませんでした。が、やがて真青(まつさを)な顔(かほ)を上(あ)げて申(まを)しました。──
「あゝ陛下(へいか)よ、あなたはどうして私(わたくし)を殺(ころ)さうとなさるのですか。一体(いつたい)私(わたくし)は、殺(ころ)されねばならないような、どんな悪(わる)いことをいたしましたでせう。」
「わしはお前(まへ)がまはしもので、わしを殺(ころ)すために入(い)り込(こ)んだものだと云(い)ふことを聞(き)き知(し)つたのぢや。そこで、わしは先(ま)ずお前(まへ)を殺(ころ)して、世(よ)の見(み)せしめにしようと思(おも)ふのだよ」と、王様(おうさま)は平然(へいぜん)として仰(おほ)せられました。それから役人(やくにん)どもに向(むか)つて、
「さあ、すぐにこの反逆者(はんぎやくしや)の首(くび)を刎(は)ねろ」と、申(まを)し渡(わた)されました。
「それはあまりに御無体(ごむたい)な」と、学者(がくしや)はあわてゝ申(まを)しました。「私(わたくし)はあなたの御病気(ごびようき)を直(なほ)した外(ほか)に、何(なに)一(ひと)つ悪(わる)いことをした覚(おぼ)えはございませぬ。それを無理無体(むりむたい)に殺(ころ)そうとなさるのは、まるで私(わたくし)に鰐(わに)の酬(むく)いを返(かへ)されるのではありませんか。どうぞもう一度(いちど)思(おも)ひ返(かへ)して下(くだ)さいませ」
「その鰐(わに)の酬(むく)いといふのは、どんなことか」と、王様(おうさま)は珍(めづら)しそうに聞(き)き返(かへ)されました。
「それはかようでございます」と、学者(がくしや)はその話(はなし)を始(はじ)めました。
「昔(むかし)、一匹(いつぴき)の鰐(わに)がナイル川(がは)から匐(は)ひ上(あが)つて、だん/\砂漠(さばく)の方(ほう)へ行(ゆ)くうちに、へと/\に疲(つか)れて、喉(のど)は渇(かわ)くが水(みづ)はなし、もう少(すこ)しで死(し)にそうになりました。そこへ一人(ひとり)の旅人(たびびと)が駱駝(らくだ)をつれて通(とほ)りかゝつたので、鰐(わに)は言葉(ことば)ひくゝしながら、『どうか自分(じぶん)を駱駝(らくだ)の背(せ)に載(の)せて、ナイル川(がは)の岸(きし)まで連(つ)れて行(い)つて下(くだ)さい。さうすりや、わたしもあなた方(がた)を自分(じぶん)の背中(せなか)に載(の)つけて、あの河(かは)を渡(わた)して上(あ)げますよ』と、一(いつ)しよう懸命(けんめい)に頼(たの)みました。しかし、相手(あひて)が恐(おそ)ろしい鰐(わに)のことですから、旅人(たびびと)も用心(ようじん)して、『そりやあいゝが、河岸(かはぎし)へ着(つ)いてから、さかさまに取(と)つて食(く)はれても大変(たいへん)だからね』と云(い)つて断(ことわ)りました。ところが、鰐(わに)の方(ほう)でも絶体絶命(ぜつたいぜつめい)の場合(ばあひ)とて、『いゝえ、そんなことは断(だん)じていたしませぬ。どこ迄(まで)もご恩(おん)は忘(わす)れませぬから』と、ぼろ/\涙(なみだ)をこぼして頼(たの)みますので、旅人(たびびと)も可愛(かわい)そうになつて、鰐(わに)の云(い)ふなりに、ナイル河(がは)の岸(きし)まで連(つ)れて来(き)てやりました。ところが、水際(みづぎは)に着(つ)いて、駱駝(らくだ)の背(せ)からおろしてやるや否(いな)や、鰐(わに)は前(まへ)の約束(やくそく)を破(やぶ)つて、大(おほ)きな顎(あご)をあんぐり開(あ)きながら、一口(ひとくち)に旅人(たびびと)を噛(か)み殺(ころ)そうとしました。旅人(たびびと)は駱駝(らくだ)を捨(す)てゝ置(お)いたまゝ、命(いのち)から/゛\逃(に)げのびました。そこへ狐(きつね)が飛(と)んで来(き)たので、旅人(たびびと)はくやしそうにありし次第(しだい)を話(はな)して聞(き)かせました。後(あと)から追(お)つかけて来(き)た鰐(わに)がそれを引(ひ)つ取(と)つて、『なに、この旅人(たびびと)が俺(おれ)に恨(うら)みを持(も)つて、息(いき)が絶(た)えるかと思(おも)う程(ほど)固(かた)く駱駝(らくだ)の背(せ)に結(ゆは)ひつけたからだよ』と、云(い)ひ張(は)りました。狐(きつね)はそれを聞(き)いて、『なるほど、さういふわけなら、あなたが旅人(たびびと)を殺(ころ)そうとするのも無理(むり)はないが、私(わたし)も間(あひだ)に立(た)つたからには裁判(さいばん)は公平(こうへい)にしたいから、ともかく一件(いつけん)を始(はじ)めから終(しま)ひまで私(わたし)の目(め)の前(まへ)で繰(く)り返(かへ)して見(み)せて貰(もら)ひたいものだね』と、申(まを)しました。鰐(わに)もそれを承知(しようち)して、自分(じぶん)から進(すゝ)んで駱駝(らくだ)の背(せ)に結(ゆは)ひつけられたまゝ、再(ふたゝ)びもとの沙漠(さばく)の中(なか)へ連(つ)れて行(ゆ)かれました。が、そこへ着(つ)くや否(いな)や、旅人(たびびと)は狐(きつね)の指(さ)し図(ず)で、いきなり鰐(わに)を砂(すな)の上(うへ)へ放(はふ)り下(お)ろして置(お)いて、どん/\逃(に)げて来(き)てしまひました。まあ、かう云(い)つた話(はなし)もあるのでございますから、陛下(へいか)に於(お)かせられても、どうかもう一度(いちど)お考(かんが)へ直(なほ)しの上(うへ)、命(いのち)ばかりはお助(たす)けなされて下(くだ)さいませ」
が、王様(おうさま)はそれを聞(き)くと、ヅーバンが自分(じぶん)の悪口(わるくち)を云(い)ふために、わざとこんな話(はなし)を始(はじ)めたのだと思(おも)つて、いよ/\腹(はら)をお立(た)てになりました。そして、役人(やくにん)どもを振(ふ)り返(かへ)つて、
「早(はや)くせんか、何(なに)をぐづ/\してゐる」と、叱(しか)りつけました。役人(やくにん)どもゝ学者(がくしや)が可愛(かわい)そうだとは思(おも)ひましたが、王命(おうめい)なれば是非(ぜひ)もないので、まづヅーバンの眼(め)を縛(しば)つて置(お)いてから、そのうしろへ廻(まは)つて、すらりと剣(けん)を抜(ぬ)きました。その音(おと)を聞(き)くと、ヅーバンはおい/\声(こゑ)を上(あ)げて泣(な)きながら、
「どうかお助(たす)け下(くだ)さいませ」と、繰(く)り返(かへ)して申(まを)しました。「すれば、神様(かみさま)もきつとあなたを助(たす)けて下(くだ)さいませう。神様(かみさま)の罰(ばつ)が恐(おそ)ろしかつたら、どうか私(わたくし)を助(たす)けて下(くだ)さいませ」
が、王様(おうさま)はどうしても承知(しようち)して下(くだ)さいませんでした。そこでヅーハンも、最早(もはや)これまでと覚悟(かくご)をきめたと見(み)えて、
「陛下(へいか)よ、では、どうあつてもお許(ゆる)し下(くだ)さいませんのなら、せめてしばらくの御猶予(ごゆうよ)を願(ねが)はれますまいか。実(じつ)は、私(わたくし)は世(よ)にも希(まれ)な一冊(いつさつ)の書物(しよもつ)をうちに秘蔵(ひぞう)してゐるのでございます。今生(こんじよう)の思(おも)ひ出(で)に、それを陛下(へいか)に献上(けんじよう)して、永(なが)く宮中(きゆうちゆう)の書庫(しよこ)に納(おさ)めて置(お)いて頂(いただ)きたうございますから」と、思(おも)ひ込(こ)んで申(まを)し出(い)でました。
「で、その書物(しよもつ)には何(なに)が書(か)いてあるのぢや」と、王様(おうさま)はおたづねになりました。
「それはもう、一々(いち/\)挙(あ)げてゐられない程(ほど)多(おほ)くのことが書(か)いてございます」と、ヅーバンは答(こた)へました。「その中(なか)の一番(いちばん)小(ちひ)さなことを申(まを)して見(み)ましても、先(ま)づかようでございます。あなたが私(わたくし)の首(くび)をお刎(は)ねになりました時(とき)、その本(ほん)を開(ひら)いて、三枚(さんまい)ばかりはぐつてから、左側(ひだりがは)の頁(ぺいじ)を三行(さんぎよう)程(ほど)お読(よ)みになりますれば、首(くび)がものを云(い)つて、なんでもおたづねになることに御返事(ごへんじ)をいたしますよ」
「何(なん)ぢやと、お前(まへ)の首(くび)がものを言(い)ふと」
「はい、さようでございます。まつたくそれは不思議(ふしぎ)なものでございます」
それを聞(き)いて、王様(おうさま)は何(なに)よりもその本(ほん)が欲(ほ)しくてたまらなくなりました。そこで、近衛兵(このえへい)の監視(かんし)の下(もと)に、一旦(いつたん)ヅーバンをその家(いへ)へ送(おく)り返(かへ)すことにいたしました。学者(がくしや)は自宅(じたく)へ戻(もど)つて、その日(ひ)のうちに支度(したく)をとゝのへた上(うへ)、翌日(よくじつ)再(ふたゝ)び御殿(ごてん)へ上(あが)りました。その時(とき)御殿(ごてん)の広庭(ひろば)には、王族(おうぞく)や、大臣(だいじん)や、侍従(じじゆう)や,代議員(だいぎいん)や、その他(ほか)国家(こつか)の重臣(じゆうしん)どもがまるで花(はな)でも咲(さ)いたように、ずらりと並(なら)んでゐました。その中(なか)を、学者(がくしや)は一冊(いつさつ)の古(ふる)い書物(しよもつ)と小(ちひ)さな粉薬(こなぐすり)の壺(つぼ)を捧(さゝ)げたまゝ、しづ/\と王様(おうさま)の御前(ごぜん)へ進(すゝ)みました。そして、一(ひと)つの盤(ばん)をお貸(か)し下(くだ)さるようにお願(ねが)ひいたしました。そこで、早速(さつそく)一(ひと)つの盤(ばん)をその前(まへ)へ持(も)つてまゐりました。彼(かれ)はその中(なか)へ粉薬(こなぐすり)をあけて、それを掻(か)きひろげながら、次(つ)ぎのように申(まを)しました。
「陛下(へいか)よ、どうぞこの書物(しよもつ)をお持(も)ち下(くだ)さいませ。しかし、私(わたし)の首(くび)が飛(と)ぶのを御覧(ごらん)になるまでは、何事(なにごと)もなすつてはいけません。で、私(わたし)の首(くび)が胴(どう)を離(はな)れましたら、その首(くび)を拾(ひろ)ひ上(あ)げてこの盤(ばん)の上(うへ)に載(の)せ、粉薬(こなぐすり)の中(なか)へ押(お)しつけるように命(めい)じて下(くだ)さいませ。さうすると、流(なが)れる血(ち)がとまりますから、その時(とき)この書物(しよもつ)をお開(あ)け下(くだ)さい」
この言葉(ことば)が終(をは)るか終(をは)らぬうちに、ヅーバンの首(くび)は刎(は)ねられてしまひました。そして、学者(がくしや)の言葉(ことば)通(どほ)りに、それを盤(ばん)の上(うへ)に載(の)せました。で、いよ/\王様(おうさま)はその書(しよ)を開(ひら)かうとなさいましたが、その一枚々々(いちまい/\)がぴつたりくつついてゐるので、なか/\思(おも)ふように開(ひら)かれませんでした。王様(おうさま)は止(や)むを得(え)ず指先(ゆびさき)を舐(な)めて、それでしめしながら、やつと最初(さいしよ)の一枚(いちまい)を開(ひら)きました。が、二枚目(にまいめ)も、三枚目(さんまいめ)も、どれもこれも唾(つば)でしめさないでは開(あ)けることが出来(でき)ませんでした。かうして六枚目(ろくまいめ)まで開(ひら)くことは開(ひら)きましたが、見(み)ると、何(なに)一(ひと)つ書(か)いてありません。王様(おうさま)は不思議(ふしぎ)に思(おも)つて、
「おい、何(なに)も書(か)いてないではないか」と、首(くび)に向(むか)つてたづねられました。すると、盤(ばん)の上(うへ)の首(くび)が口(くち)を開(ひら)いて、
「もつと/\おはぐりなさい」と、答(こた)へました。
云(い)はれるまゝに、王様(おうさま)は指先(ゆびさき)を舐(な)めてははぐり、はぐつては砥(な)めて行(ゆ)きました。ところが、書物(しよもつ)にはその一枚毎(いちまいごと)に毒(どく)が浸(し)みこませてあつたからたまりません。しばらくするうちに、王様(おうさま)の全身(ぜんしん)にはすつかり毒(どく)が廻(まは)つて、どつと仰向(あふむ)けに倒(たふ)れてしまひました。
ハサンと馬丁(ばてい)の話(はなし)
昔(むかし)、カイロの都(みやこ)に、それは/\器量(きりよう)のいゝ兄弟(きようだい)の男(をとこ)の子(こ)がありました。兄(あに)はその名(な)をシエムと云(い)ひ、弟(おとうと)はヌーアと申(まを)しました。二人(ふたり)ともその当時(とうじ)世(よ)に名高(なだか)い宰相(さいしよう)の子(こ)でございました。王様(おうさま)は深(ふか)くこの兄弟(きようだい)を可愛(かわい)がつてゐられたので、父(ちゝ)の宰相(さいしよう)が死(し)んだ後(のち)は、二人(ふたり)とも宰相(さいしよう)の役(やく)につけて、一週間(いつしゆうかん)づゝ代(かは)る/゛\朝廷(ちようてい)へ出(で)て勤(つと)めさせるようにいたしました。
ある時(とき)、この王様(おうさま)が国内(こくない)を旅行(りよこう)されることになりました。お供(とも)は兄(あに)の宰相(さいしよう)の番(ばん)に当(あた)つてゐました。で、兄(あに)はいよ/\旅(たび)に出(で)ようといふ前(まへ)の夜(よ)、弟(おとうと)に向(むか)つて、次(つ)ぎのように云(い)ひました。
「しばらくお前(まへ)とも別(わか)れてゐなければならないね。ところでその前(まへ)に相談(そうだん)して置(お)きたいことがあるのだが、どうだね、私達(わたしたち)二人(ふたり)はどうかして同(おな)じ晩(ばん)に結婚(けつこん)するようにしようぢやないか」
「これは又(また)変(かは)つたお話(はなし)ですね。ですが、私(わたし)は何事(なにごと)によらず兄(にい)さんの仰(おつ)しやる通(とほ)りにいたすつもりですよ」と、弟(おとうと)は答(こた)へました。
「さうか、では、さう云(い)ふことに約束(やくそく)したよ。で、もし運(うん)よくだね、二人(ふたり)の妻(つま)が同(おな)じ日(ひ)に子供(こども)を産(う)んで、お前(まへ)には男(をとこ)の子(こ)を、私(わたし)には女(をんな)の子(こ)が授(さづ)かつたら、どうだね、お互(たがひ)にその子(こ)をめあはせて夫婦(ふうふ)にしてやらうぢやないか」
「さう云(い)ふことになれば結構(けつこう)ですね」
「ところで、娘(むすめ)の支度金(したくきん)としてはどれくらゐくれるつもりだい」
「さあ、兄(にい)さんのお考(かんが)へは」
「さうさね。私(わたし)の考(かんが)へぢや、まあ黄金(おうごん)三千枚(さんぜんまい)に、果樹園(かじゆえん)が三(みつ)つ、それに畠地(はたけち)を三箇所(さんかしよ)ぐらゐ添(そ)へたところが至当(しとう)だらうと思(おも)ふがね」
これを聞(き)いて、弟(おとうと)は思(おも)はず声(こゑ)を上(あ)げました。
「めつそうな、そんなに出(だ)せるものですか。二人(ふたり)が真実(ほんたう)の兄弟(きようだい)で、しかも同(おな)じ王様(おうさま)に仕(つか)へる宰相(さいしよう)ぢやといふことを忘(わす)れたんですね。本来(ほんらい)なら支度金(したくきん)なんかどうだつていゝんですよ。それに、どうしても女(をんな)よりは男(をとこ)の方(ほう)が尊(たつと)いわけですからね」
「なんだと、男(をとこ)の方(ほう)が尊(たつと)いんだつて」と、兄(あに)はいきなり腹(はら)を立(た)てゝ、どなりました。「お前(まへ)の息(むすこ)の方(ほう)が私(わたし)の娘(むすめ)よりも尊(たつと)いなぞと、よくもそんな事(こと)が私(わたし)の前(まへ)で云(い)へたものだね。それに、聞(き)いてゐりや、なんだと、同(おな)じ王様(おうさま)に仕(つか)へる宰相(さいしよう)──宰相(さいしよう)が聞(き)いてあきれるね。私(わたし)はたゞお前(まへ)が可愛(かわい)そうだと思(おも)へばこそ、宰相(さいしよう)の仲間(なかま)へ入(い)れて、私(わたし)の手助(てだす)けをさせてやつてるんだよ。それも知(し)らずに、勝手(かつて)なことをほざきをる。だが、お前(まへ)がさう云(い)ふ心(こゝろ)でゐるからには、どんなことがあつても私(わたし)の娘(むすめ)はやるわけにいかないから、よく覚(おぼ)えてゐるがいゝ」
「えゝ、私(わたし)の方(ほう)だつて貰(もら)ひませんとも」
こんな工合(ぐあひ)で、最初(さいしよ)は冗談(じようだん)のようなことから、仲(なか)のいゝ兄弟(きようだい)がとう/\喧嘩(けんか)をしてしまました。
あくる朝(あさ)になると、兄(あに)の宰相(さいしよう)シエムは予定(よてい)どほり旅(たび)に出(で)ました。が、弟(おとうと)のヌーアは、前夜(ぜんや)のことを思(おも)ひ出(だ)すと腹(はら)が立(た)つてたまらないので、こんな国(くに)にゐるよりか、いつそどこかよその国(くに)へ行(い)つて身(み)を立(た)てようと決心(けつしん)しました。そして、一対(いつつい)の鞍嚢(くらぶくろ)に黄金(おうごん)を一杯(いつぱい)つめて、その馬(うま)に跨(またが)つたまゝ、ひとり広(ひろ)い野原(のはら)をさして出(で)て行(ゆ)きました。が、どつちの方角(ほうがく)をさして進(すゝ)んだものか自分(じぶん)でもわかりませんので、たゞ来(く)る日(ひ)も/\あてのない旅(たび)をつゞけてゐる間(あひだ)にとう/\エル・バスラーの都(みやこ)へ着(つ)きました。
その日(ひ)もうす暮(く)れ方(がた)のことでした。ヌーアがとある旅館(りよかん)に着(つ)いて、そこでひと休(やす)みしてゐると、この都(みやこ)の宰相(さいしよう)がその前(まへ)を通(とほ)りかゝりました。宰相(さいしよう)は先(ま)づヌーアの馬(うま)に眼(め)をとめました。それから、その人品(じんぴん)骨柄(こつがら)をつく/゛\見(み)やりながら、これはどうもたゞ人(びと)ではないと考(かんが)へました。そこで彼(かれ)は相手(あひて)に近(ちか)づいて、いろ/\話(はな)し込(こ)んで見(み)ると、云(い)ふこともしつかりして、一器量(ひときりよう)ある人物(じんぶつ)だといふことがわかりましたので、とう/\自分(じぶん)の邸(やしき)へ連(つ)れて来(き)て立派(りつぱ)な部屋(へや)をあてがつた上(うへ)、手厚(てあつ)くもてなしました。かうして彼(かれ)が親切(しんせつ)をつくしたのは少(すこ)し考(かんが)へがあつたからで、実(じつ)はこの宰相(さいしよう)には一人(ひとり)の美(うつく)しい娘(むすめ)があつて、それの婿(むこ)にしたかつたのでございます。ヌーアも宰相(さいしよう)からこのことを打(う)ち明(あ)けられた時(とき)は、あまりの意外(いがい)に下(した)を向(む)いたまゝ、しばらく返事(へんじ)をいたしませんでした。が、自分(じぶん)も国(くに)を離(はな)れてからは、別段(べつだん)どうするあてもない身(み)でございますので、喜(よろこ)んで宰相(さいしよう)の言葉(ことば)に従(したが)ふことにいたしました。宰相(さいしよう)も大(たい)そう喜(よろこ)んで、早速(さつそく)二人(ふたり)を結婚(けつこん)させました。
ところで、兄(あに)のシエムはどうしたかといふに、彼(かれ)はしばらくの間(あひだ)王様(おうさま)のお供(とも)をして旅行(りよこう)をつゞけてゐました。まさか弟(おとうと)が留守(るす)の間(あひだ)に家出(いへで)をしようとは思(おも)はなかつたのですね。で、家(いへ)に帰(かへ)つて、始(はじ)めてそれと知(し)つた時(とき)には、本当(ほんとう)に驚(おどろ)いてしまひました。あゝして一時(いちじ)の気(き)まぐれで喧嘩(けんか)はしたものゝ、もと/\骨肉(こつにく)をわけた兄弟(きようだい)のことですから、心(こゝろ)から憎(にく)いわけではありません。「ほんとうにあんなことを云(い)はなければよかつた」と、シエムは非常(ひじよう)に後悔(こうかい)して、四方八方(しほうはつぽう)へ使(つか)ひを出(だ)して弟(おとうと)のありかを探(さぐ)らせました。けれども、ヌーアはとうにエル・バスラーに行(い)つてゐましたからわかる筈(はず)がありません。どうにも仕方(しかた)がないので、シエムもとう/\諦(あきら)めましたが、そのうちにカイロの市(まち)のある商人(あきうど)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)いたしました。不思議(ふしぎ)なことには、それはヌーアが宰相(さいしよう)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)したのと、全(まつた)く同(おな)じ晩(ばん)でございました。処(ところ)で、それよりもまだ不思議(ふしぎ)なことには、まもなくシエムの妻(つま)は女(をんな)の子(こ)を産(う)み、又(また)ヌーアの妻(つま)は男(をとこ)の子(こ)を挙(あ)げました。そして、二人(ふたり)とも満月(まんげつ)のような美(うつく)しい子(こ)どもで、男(をとこ)の子(こ)はその名(な)をハサンと云(い)ひ、女(をんな)の子(こ)はシツテルとよばれました。かうしていつか兄弟(きようだい)の冗談(じようだん)に話(はな)し合(あ)つたことが、そつくりそのまゝ事実(じじつ)となつてあらはれたのでございます。
ところでヌーアは、父(ちゝ)宰相(さいしよう)の取(と)りなしによつて、自分(じぶん)も宰相(さいしよう)の役(やく)を授(さづ)けられました、まもなく父(ちゝ)の宰相(さいしよう)はなくなりましたが、それでも親子(おやこ)三人(さんにん)、何不足(なにふそく)なく暮(くら)してゐるうちに月日(つきひ)の経(た)つのはまことに速(はや)いもので、ヌーアの子(こ)のハサンはとう/\十五(じゆうご)の春(はる)を迎(むか)へました。が、思(おも)ひがけなくも、こゝに悲(かな)しむべきことが起(おこ)りました。不幸(ふこう)にも父(ちゝ)のヌーアが重(おも)い病気(びようき)にかゝつたのですね。ヌーアはもう死期(しき)が遠(とほ)くないことをさとつたので、一日(いちじつ)わが子(こ)のハサンを枕(まくら)もとによび寄(よ)せました。そして、涙(なみだ)を流(なが)しながら、
「わしはもう長(なが)くは生(い)きられまいと思(おも)ふからな、わしの云(い)ふことをようく覚(おぼ)えて置(お)いて、忘(わす)れないようにしておくれよ」かう云(い)つて、懇(ねんご)ろにいろ/\な教訓(きようくん)を与(あた)へました。そして、最後(さいご)に、
「わしにはカイロの市(まち)に一人(ひとり)の兄(あに)があるがね、ふとしたことから仲違(なかたが)ひをして、わしは一人(ひとり)こちらの方(ほう)へ来(き)てしまつたのだ。だが、お前(まへ)に取(と)つては真実(しんじつ)の伯父(をぢ)に相違(そうい)ないのだから、これから先(さき)何(なに)か困(こま)ることでも、起(おこ)つたら、伯父(をぢ)さんの所(ところ)へ訪(たづ)ねて行(い)くがよい。こゝにその宛名(あてな)と道筋(みちすぢ)とを書(か)いた紙(かみ)きれがあるからね。で、若(も)し伯父(をぢ)さんに会(あ)つたら、わしが会(あ)ひたい、会(あ)ひたいと思(おも)ひつめながら、知(し)らぬ他国(たこく)で死(し)んで行(い)つたと告(つ)げてくれるんだよ」
と、云(い)ひながら、一枚(いちまい)の紙(かみ)きれを取(と)り出(だ)して渡(わた)しました。そして程(ほど)なく息(いき)をひき取(と)つてしまひました。
父(ちゝ)をなくしたハサンは、もう全(まつた)くよるべない身(み)の上(うへ)になつてしまひました。彼(かれ)はよく父(ちゝ)の墓(はか)の前(まへ)に坐(すわ)つては、さめ/゛\と泣(な)きくらしました。そして、ある日(ひ)のことでしたが、まるで子供(こども)のように墓(はか)の上(うへ)に寝(ね)ころびながら、泣(な)き寝入(ねい)りに寝入(ねい)つてしまひました。かうして眠(ねむ)つてゐる間(あひだ)に、とう/\夜(よる)になつて、美(うつく)しい月(つき)の光(ひかり)がそれにもまして美(うつく)しい彼(かれ)の顔(かほ)を照(て)らし始(はじ)めました。
ところで、この墓地(ぼち)には信心深(しんじんぶか)い火霊(ジン)どもが棲(す)んでゐましたが、一人(ひとり)の女火霊(ジンニイエ)が出(で)て来(き)て、ハサンの姿(すがた)を一目(ひとめ)見(み)ると、その美(うつく)しさにすつかり見(み)とれてしまひました。彼女(かのじよ)は間(ま)もなく一人(ひとり)の魔霊(マアリツド)をつれて来(き)ました。魔霊(マアリツド)はしばらく若者(わかもの)の顔(かほ)を見(み)てゐましたが、やがてびつくりするような大(おほ)きな声(こゑ)を挙(あ)げて叫(さけ)びました。──
「これは不思議(ふしぎ)だ。私(わたし)はたつた今(いま)エジプトで、この若者(わかもの)と瓜二(うりふた)つと云(い)ふ程(ほど)よく似(に)た娘(むすめ)を見(み)て来(き)たよ」
「では、どうぞその娘(むすめ)のことを話(はな)して下(くだ)さいな」と、女火霊(ジンニイエ)はたづねました。
そこで、魔霊(マアリツド)は次(つ)ぎのように語(かた)つて聞(き)かせました。──
「その娘(むすめ)といふのはその国(くに)の宰相(さいしよう)の娘(むすめ)ですがね、王様(おうさま)がその美(うつく)しさを耳(みゝ)にして、父(ちゝ)の宰相(さいしよう)に向(むか)つて『わしの妻(つま)にするから連(つ)れてまゐれ』と、仰(おつ)しやつたのですよ。ところが、宰相(さいしよう)はそれに答(こた)へて、『陛下(へいか)よ、どうかそればかりはおゆるし下(くだ)さいませ。私(わたし)は妻(つま)があの娘(むすめ)を生(う)んだその日(ひ)から、これは弟(おとうと)の息(むすこ)でなければ誰(だれ)にもめあはせないと、固(かた)い/\誓(ちか)ひを立(た)てました。それには深(ふか)いわけがあるのでございます』と、云(い)ひながら、十五年(じゆうごねん)以前(いぜん)、弟(おとうと)が家出(いへで)をするようになつた顛末(てんまつ)を詳(くは)しく申(まを)し上(あ)げたのです。ところが、王様(おうさま)はひどく怒(おこ)つて、『わしがお前(まへ)のような者(もの)の娘(むすめ)を望(のぞ)むのに、それを拒(こば)むばかりか、つべこべと理窟(りくつ)を云(い)つて、わしをへこますとは何事(なにごと)だ。よし、さう云(い)ふ了簡(りようけん)なら、お前(まへ)の娘(むすめ)は極(きは)めて身分(みぶん)の低(ひく)い者(もの)と結婚(けつこん)させるから、さう思(おも)つてをれ』と、云(い)ひながら、世(よ)にこれ以上(いじよう)醜(みにく)いものはあるまいと思(おも)はれるような、よく/\ひどい傴僂(せむし)の馬丁(ばてい)を、宰相(さいしよう)の娘(むすめ)の許嫁(いひなづけ)にしてしまつたんですね。何(なに)しろ国王(こくおう)の命令(めいれい)だから、どうにも仕方(しかた)がない。とう/\今夜(こんや)その婚礼(こんれい)がある筈(はず)ですよ」
女火霊(ジンニイエ)はすつかり宰相(さいしよう)の娘(むすめ)に同情(どうじよう)してしまひました。それに、目(め)の前(まへ)の若者(わかもの)がその娘(むすめ)に似(に)てゐるところから、どうかすると二人(ふたり)は従兄妹(いとこ)同志(どうし)かも知(し)れないと思(おも)つたので、急(きゆう)に勢(いきほ)ひこんで云(い)ひ出(だ)しました。
「では、二人(ふたり)でこの若者(わかもの)を担(かつ)ぎ上(あ)げて、その娘(むすめ)のところへ連(つ)れて行(い)つてやらうではありませんか」
「それがいゝでせう」
かう云(い)つて、魔霊(マアリツド)はすぐと若者(わかもの)を抱(だ)き上(あ)げたまゝ、大空(おほぞら)高(たか)く飛(と)び上(あが)りました。女火霊(ジンニイエ)もその後(あと)から一(いつ)しよに飛(と)んで行(い)きました。そして、カイロの都(みやこ)に着(つ)くと、宰相(さいしよう)の家(いへ)の入(い)り口(ぐち)にある腰掛(こしか)けの上(うへ)へ若者(わかもの)をおろして、それから目(め)を覚(さ)まさせました。ハサンは父親(ちゝおや)のお墓(はか)へ詣(まゐ)つてゐたつもりだのに、眼(め)を開(ひら)いて左右(さゆう)を見廻(みまは)すと、まるで様子(ようす)が変(かは)つてゐるものだから、胆(きも)をつぶして、もう少(すこ)しで泣(な)き出(だ)さうとしたくらゐでした。が、魔霊(マアリツド)はその時(とき)一基(いつき)の燭台(しよくだい)に火(ひ)を点(とも)して、それをハサンの手(て)に渡(わた)しながら、
「安心(あんしん)なさい、あなたをここへ連(つ)れて来(き)たのは私(わたし)だからね」と、云(い)ひました。「私(わたし)はこれでも神様(かみさま)のために、あなたの手助(てだす)けをしようと思(おも)つてゐるのだ。だから、この燭台(しよくだい)を持(も)つて、あの広間(ひろま)へはひつていらつしやい。誰(だれ)も恐(こは)がるには及(およ)びませんよ。それから、あなたは傴僂(せむし)の花婿(はなむこ)の右手(みぎて)に座(すは)つて、髪結(かみゆ)ひでも、歌(うた)ひ女(め)でも、腰元(こしもと)でも、召(め)し使(つか)ひでも、前(まへ)へ来(き)た者(もの)には、誰(だれ)にでも一掴(ひとつか)みづゝ黄金(おうごん)をくれてやるのだ。ぽつけつとへ手(て)を入(い)れさへすれば、いつでも黄金(おうごん)が一杯(いつぱい)はひつてゐるからね。いくら掴(つか)み出(だ)してもなくなる心配(しんぱい)はないよ。ではすぐにはひつていらつしやい」
これを聞(き)いて、ハサンも一時(いちじ)は狐(きつね)につまゝれたような気(き)がしたが、思(おも)ひ切(き)つて広間(ひろま)へはひつて行(い)きました。そして万事(ばんじ)魔霊(マアリツド)から、いひつけられた通(とほ)りにいたしました。ゐならぶ人達(ひとたち)は、図(はか)らずもそこへはひり込(こ)んで来(き)た若者(わかもの)を見(み)て、最初(さいしよ)はちよつと異様(いよう)に思(おも)ひましたが、ほどなくその美(うつく)しさに見(み)とれて、何事(なにごと)も忘(わす)れてしまひました。それにハサンが、みんなに一掴(ひとつか)みづゝ金貨(きんか)をくれましたので、しまひにはみんなハサンが大(だい)すきになつて、宰相(さいしよう)の婿(むこ)になるものはハサンを措(お)いて他(ほか)にない。あの綺麗(きれい)な娘(むすめ)があんな醜(みにく)い傴僂(せむし)のものになつてたまるものかと、誰(だれ)も彼(かれ)も考(かんが)へるようになりました。全(まつた)く、その夜(よ)を晴(は)れと着飾(きかざ)られた花嫁御(はなよめご)の美(うつく)しさは、まるで天女(てんによ)のように見(み)えました。それに引(ひ)き代(か)へ、婿(むこ)の傴僂(せむし)の醜(みにく)さと云(い)つたら目(め)も当(あ)てられぬくらゐでございました。およそ何(なに)がふつりあひだと云(い)つて、これほどふつりあひな縁組(えんぐ)みが他(ほか)にありませうか。ですもの、誰(だれ)でも新月(しんげつ)のように美(うつく)しいハサンと花(はな)のようにきれいな花嫁(はなよめ)とをめあはせたいと思(おも)ふのは自然(しぜん)の人情(にんじよう)でございます。
さて、おひ/\時刻(じこく)も移(うつ)つて、お客(きやく)も帰(かへ)つて行(ゆ)きましたので、傴僂(せむし)はひとり自分(じぶん)に当(あ)てがはれた部屋(へや)へ引(ひ)き取(と)りました。それと見(み)ると、魔霊(マアリツド)はすぐさま二十日鼠(はつかねずみ)の姿(すがた)になつて、その部屋(へや)へはひつて行(い)きました。そして、傴僂(せむし)の前(まへ)に蹲(うづくま)つたまゝ「ちゆう、ちゆう」と、鳴(な)きました。傴僂(せむし)は醜(みにく)い顔(かほ)をしかめながら、
「貴様(きさま)はどこから来(き)た」と、どなりました。
二十日鼠(はつかねずみ)は見(み)る/\大(おほ)きくなつて猫(ねこ)のようになりました。つゞいて犬(いぬ)ぐらゐの大(おほ)きさになりました。そして「うわう、うわう」と、吠(ほ)えました。傴僂(せむし)はびつくりして顔色(かほいろ)を変(か)へながら、
「あつちへ行(い)きやあがれ、この畜生(ちくしよう)」と、叫(さけ)びました。が、犬(いぬ)はそれからもめき/\ふくれて、とう/\驢馬(ろば)の姿(すがた)になりました。そして、傴僂(せむし)の鼻(はな)のさきで「へつく、へつく」と、嘶(いなゝ)きました。それを聞(き)くと、傴僂(せむし)は泣(な)き声(ごゑ)を立(た)てゝ「助(たす)けてくれいつ」と、叫(さけ)びました。が、どうでせう、だん/\大(おほ)きくなるばかりで忽(たちま)ち水牛(すいぎゆう)の姿(すがた)に変(かは)つてしまひました。傴僂(せむし)はもうべつたりと尻(しり)もちをついたまゝ、がた/\と歯(は)の根(ね)も会(あ)はずに顫(ふる)へてゐました。水牛(すいぎゆう)になつた魔霊(マアリツド)は、可笑(をか)しさをぢつとこらえて、
「こらつ、馬丁(ばてい)、貴様(きさま)はなんと思(おも)つて俺(おれ)の仲間(なかま)と結婚(けつこん)なぞする気(き)になつたのだ。貴様(きさま)が宰相(さいしよう)の娘(むすめ)だと思(おも)つてゐるのは、あれはその実(じつ)、牝(めん)の水牛(すいぎゆう)だぞ」と、ありもせぬことを云(い)つて脅(おど)かしつけました。
「私(わたし)が悪(わる)いのぢやない、みんなひとから無理(むり)にさせられたことですよ。それに、あの娘(むすめ)があなたのお仲間(なかま)とは夢(ゆめ)にも知(し)りませんでしたからね。どうかまあ御勘弁(ごかんべん)なすつて下(くだ)さい」
と、馬丁(ばてい)は平(ひら)あやまりにあやまりました。
「さうか」と、魔霊(マアリツド)は云(い)ひました。「では、かうして置(お)くから、お前(まへ)はちよつとでも動(うご)いてはならんぞ。また日(ひ)の出(で)る前(まへ)に、一言(ひとこと)でも声(こゑ)を出(だ)さうものなら、お前(まへ)の命(いのち)はないのだぞ」
それから魔霊(マアリツド)は傴僂(せむし)の頭(あたま)を下(した)に、足(あし)を上(うへ)にして、石畳(いしだゝみ)の床(ゆか)の上(うへ)に逆立(さかだ)ちをさせました。
かうしてゐる間(あひだ)に、一方(いつぽう)ハサンと花嫁(はなよめ)とはめでたく結婚(けつこん)してしまひました。が、夜明(よあ)け近(ちか)くなると、なんと思(おも)つたのやら魔霊(マアリツド)は女火霊(ジンニイエ)にすゝめて、まだ寝(ね)てゐるまゝのハサンを二人(ふたり)で抱(だ)き上(あ)げながら、再(ふたゝ)び空高(そらたか)く飛(と)び上(あが)つてしまひました。ずいぶん可愛(かわい)そうなことをしたものですね。で、神様(かみさま)もあんまりひどいことをすると思(おぼ)し召(め)したのでございませう。一人(ひとり)の天使(てんし)に命(めい)じて、その魔霊(マアリツド)を目(め)がけて火(ひ)の流星(りゅうせい)を投(な)げさせました。それにはさすがの魔霊(マアリツド)もたまりません。たちまち焼(や)き殺(ころ)されてしまひました。が、女火霊(ジンニイエ)は若者(わかもの)の身(み)に過(あやま)ちがあつてはならないと思(おも)つて、それを庇(かば)ふようにしながら、そつとその下(した)の都(みやこ)におろしました。ちようど、そこはダマスカスの都(みやこ)の城門(じようもん)の前(まへ)でございました。
疲(つか)れ切(き)つたハサンは、寝巻(ねまき)一枚(いちまい)身(み)につけたまゝ夜(よ)の明(あ)けたのも知(し)らずにぐつすり眠(ねむ)つてゐました、往来(おうらい)の人達(ひとたち)はこの様(さま)を見(み)て、やれ大(おほ)きな捨子(すてご)だの、酔(よ)つぱらひだのと、口々(くち/゛\)に勝手(かつて)なことを云(い)ひ合(あ)ひました。程(ほど)なくハサンも人々(ひと/゛\)の騒(さわ)ぎに眼(め)を覚(さま)ましました。が、見(み)ると、自分(じぶん)は城門(じようもん)の前(まへ)に、しかも多(おほ)くの人(ひと)に取(と)り巻(ま)かれながら、まる裸(はだか)も同様(どうよう)の姿(すがた)で寝(ね)てゐるのではありませんか。一旦(いつたん)そこへ気(き)が附(つ)いては、もう恥(はづ)かしくて坐(すわ)つても立(た)つてもゐられません。で、大急(おほいそ)ぎに市場(いちば)を駈(か)けぬけて、とある町(まち)の料理店(りようりてん)の中(なか)へ逃(に)げ込(こ)みました。
料理店(りようりてん)の主人(しゆじん)は一目(ひとめ)ハサンの可愛(かわい)らしい顔(かほ)を見(み)ると、もう相手(あひて)がぞつこん気(き)に適(かな)つてしまひました。そして、「まあ、そんななりをして、一体(いつたい)お前(まへ)さんはどこからやつて来(き)たのだね」と、たづねました。そこでハサンは、今迄(いままで)あつた事(こと)を残(のこ)らず話(はな)してしまひました。それを聞(き)いて、料理人(りようりにん)はそのあまりに不思議(ふしぎ)な事件(じけん)なのに驚(おどろ)いてゐましたが、一(いつ)そう打(う)ちとけた調子(ちようし)で、かう云(い)ひ出(だ)しました。──
「さう云(い)ふわけなら、当分(とうぶん)このうちに遊(あそ)んでいらつしやい。幸(さいわ)ひわしも子供(こども)がないから、なんならわしの養子(ようし)になつてこの店(みせ)を引(ひ)き請(う)けてくれるといゝんだがね」
こんなわけで、ハサンはとう/\料理屋(りようりや)の養子(ようし)になつて、それからは主人(しゆじん)の手(て)つだひをしたり、帳場(ちようば)に坐(すわ)つて勘定(かんじよう)を受(う)け取(と)つたりするようになりました。
ところで、後(あと)に残(のこ)つた花嫁(はなよめ)は、せつかく美(うつく)しい婿(むこ)が出来(でき)て、やれ嬉(うれ)しやと思(おも)ふまもなく、まだ自分(じぶん)が寝(ね)てゐるうちに、その婿君(むこぎみ)はどこかへ姿(すがた)を隠(かく)してしまつたので、悲(かな)しくなつて、しく/\泣(な)いてゐました。そこへ父(ちゝ)の宰相(さいしよう)がはひつて来(き)ましたが、昨夜(ゆうべ)からの様子(ようす)を聞(き)いて不審(ふしん)に思(おも)ひながら、婿(むこ)の部屋(へや)へ行(い)つて見(み)ると、どうでせう、そこには例(れい)の馬丁(ばてい)が昨夜(ゆうべ)のまゝ、まだ逆立(さかだ)ちをしてゐるではありませんか。
「おい、お前(まへ)はどうしたのだ」と、宰相(さいしよう)は声(こゑ)をかけて見(み)ました。が、馬丁(ばてい)は魔霊(マアリツド)がやつて来(き)たのだと思(おも)つて、一言(ひとこと)も返事(へんじ)をしませんでした。
「なぜ物(もの)を云(い)はんか。黙(だま)つてゐると、この剣(けん)で突(つ)き刺(さ)すぞ」と、宰相(さいしよう)は再(ふたゝ)び大(おほ)きな声(こゑ)をあげてどなりつけました。それを聞(き)いて、馬丁(ばてい)は思(おも)はず悲鳴(ひめい)を上(あ)げました。──
「魔霊(マアリツド)さま、どうぞ勘弁(かんべん)して下(くだ)さい。私(わたし)はあなたに云(い)はれた通(とほ)り、昨夜(ゆうべ)から一言(ひとこと)も物(もの)も云(い)はなければ、かうして身動(みうご)きもしませんでした。ですから、あなたも少(すこ)しは私(わたし)を可愛(かわい)そうだと思(おも)つて下(くだ)さい」
それを聞(き)いて、宰相(さいしよう)はいよ/\わけがわからなくなりました。「お前(まへ)は何(なに)を云(い)つてるんだ。俺(おれ)はそんな魔物(まもの)ぢやない。花嫁(はなよめ)の父親(ちゝおや)の宰相(さいしよう)ぢやぞ。さあ立(た)て/\」と云(い)ひながら、馬丁(ばてい)に手(て)をかけて引(ひ)き起(おこ)さうといたしました。
「いゝえ、いけません/\」と、馬丁(ばてい)はやつぱり逆立(さかだ)ちになつたまゝ、あわてゝ、申(まを)しました。「そんなことをして私(わたし)の命(いのち)を取(と)らうたつて、その手(て)には乗(の)りませんよ。私(わたし)は魔霊(マアリツド)にいひつかつて、かうしてゐるんですからね。それよりも、あなた、命(いのち)が惜(を)しいと思(おも)つたら、あの恐(おそ)ろしい魔霊(マアリツド)の来(こ)ぬうちに、さつさとこゝを引(ひ)き上(あ)げなさい。今(いま)にあいつがやつて来(き)たら、旦那(だんな)だつてどんな目(め)に遭(あ)ふか知(し)れませんよ」
宰相(さいしよう)も、こいつ変(へん)なことばかり云(い)ふなとは思(おも)ひましたが「一体(いつたい)誰(だれ)がお前(まへ)をこんな目(め)に遭(あ)はせたのだ」と、改(あらた)めてきいて見(み)ました。すると、馬丁(ばてい)は昨夜(ゆうべ)からの一部始終(いちぶしじゆう)を委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、「旦那(だんな)もひどい方(かた)ですな、水牛(すいぎゆう)の仲間(なかま)なぞを自分(じぶん)の娘(むすめ)だと云(い)つて、私(わたし)にめあわせるなんて。本当(ほんとう)に今度(こんど)と云(い)ふ今度(こんど)は懲(こ)り懲(こ)りしましたよ。何(なに)しろ私(わたし)は、夜(よ)の明(あ)けるまではかうして逆立(さかだ)ちをつゞけてゐないと、大事(だいじ)の命(いのち)がありませんからね」
そこで宰相(さいしよう)はもう夜(よ)が明(あ)けたと教(をし)へてやると、「さうですか、それでやつと助(たす)かつた」と云(い)ひながら、馬丁(ばてい)はほう/\の体(てい)で逃(に)げて行(い)つてしまひました。
その後(あと)で、宰相(さいしよう)は再(ふたゝ)び娘(むすめ)の部屋(へや)へ取(と)つて返(かへ)して、そこらを捜(さが)して見(み)ると、枕頭(まくらもと)の椅子(いす)の上(うへ)に、一本(いつぽん)の頭巾(たあばん)と黄金(おうごん)の沢山(たくさん)はひつた財布(さいふ)とが残(のこ)してあるのを見(み)つけました。で、それを裏返(うらがへ)して見(み)ると、「カイロの都(みやこ)に生(うま)れたヌーアの伜(せがれ)ハサン」と、ちやんと署名(しよめい)がしてありました。宰相(さいしよう)シエムは、それを見(み)ると、思(おも)はず大(おほ)きな声(こゑ)をあげて、そのまゝそこに倒(たふ)れてしまひました。が、やがて正気(しようき)に返(かへ)ると、すぐに又(また)娘(むすめ)に向(むか)つて申(まを)しました。──
おゝ、娘(むすめ)や、お前(まへ)は誰(だれ)がお前(まへ)の婿(むこ)になつたか知(し)つてゐるかい」
「いゝえ」と、娘(むすめ)は首(くび)を振(ふ)りました。
「あれは私(わたし)の弟(おとうと)の子(こ)だよ。ね、お前(まへ)の叔父(をぢ)さまの子(こ)なんだよ」と、宰相(さいしよう)は小躍(こをど)りしながら繰(く)り返(かへ)しました。それから、なほよく検(しら)べて見(み)ると頭巾(たあばん)の縫(ぬ)ひ目(め)から一枚(いちまい)の書(か)き附(つ)けが出(で)て来(き)て、それには弟(おとうと)がエル・バスラーの宰相(さいしよう)の娘(むすめ)と結婚(けつこん)した日附(ひづ)けを始(はじ)めとして、息(むすこ)の誕生(たんじよう)の日附(ひづ)けから、自分(じぶん)が死(し)んだ時(とき)の年(とし)にいたるまで、一々(いち/\)明細(めいさい)に書(か)き留(と)めてありました。それで、いよ/\、何(なに)もかもわかつてしまつたのでございます。
その後(のち)、宰相(さいしよう)の娘(むすめ)は満月(まんげつ)のような男(をとこ)の児(こ)を生(う)み落(おと)しました。云(い)ふまでもなく、それはハサンの子(こ)で、その美(うつく)しさは父親(ちゝおや)に優(まさ)るとも劣(おと)らぬくらゐでございました。お祖父(ぢい)さんのシエムは非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、その子(こ)にアジーブといふ名(な)をつけて、それは/\大切(たいせつ)に育(そだ)てました。が、こゝに一(ひと)つ困(こま)つたことには、同(おな)じ学校(がつこう)の子供達(こどもたち)がアジーブの顔(かほ)さへ見(み)れば、声(こゑ)を揃(そろ)へて「やあい、父(てゝ)なし子(ご)やあい、お父(とう)さんのない子(こ)はあつちへ行(い)け、お父(とう)さんのない子(こ)とは遊(あそ)ばないよ」なぞと囃(はや)し立(た)てるのですね。アジーブはあまりの悲(かな)しさに、泣(な)きながらお母(かあ)さんのシツテルに訴(うつた)へました。「お母(かあ)さん、僕(ぼく)のお父(とう)さまはどこにゐるの。ね、本当(ほんとう)のことを聞(き)かせてよ。でなきや、僕(ぼく)はこの短剣(たんけん)で死(し)んでしまひますよ」これを聞(き)いて、母親(はゝおや)は胸(むね)を掻(か)きむしられる思(おも)ひをしながら、これもわつと泣(な)き伏(ふ)してしまひました。かうして母子(おやこ)が抱(だ)きあつて泣(な)いてゐるところへ、お祖父(ぢい)さんの宰相(さいしよう)が何気(なにげ)なくはひつて来(き)ました。そして、二人(ふたり)の様子(ようす)に眼(め)を円(まる)くしながら、「お前方(まへがた)は一(いつ)たいなんで泣(な)いてゐるのだ」と、たづねました。が、そのわけを聞(き)くと、お祖父(ぢい)さんもまた一(いつ)しよになつて泣(な)いてしまひました。
こんなことのあつた後(のち)、宰相(さいしよう)はとう/\決心(けつしん)をして、国王(こくおう)にお暇(いとま)を戴(いたゞ)いた上(うへ)、アジーブの父(ちゝ)の行方(ゆくへ)を捜(さが)しに出(で)ることにいたしました。そして、アジーブとその他(ほか)二三(にさん)の召(め)し使(つか)ひを連(つ)れて、カイロの都(みやこ)を出発(しゆつぱつ)しました。一行(いつこう)はやがて、ダマスカスに到着(とうちやく)しましたが、かねて美(うつく)しい都(みやこ)と聞(き)いてゐましたので、しばらく逗留(とうりゆう)してその名所(めいしよ)を見物(けんぶつ)することにしました。アジーブも召(め)し使(つか)ひに連(つ)れられて、あちこち町(まち)の中(なか)を歩(ある)き廻(まは)りました。そのうちに、はからずもハサンの店(みせ)の前(まへ)へ出(で)てまゐりました。
ハサンもそれがわが子(こ)であらうとは知(し)る筈(はず)がないが、それでも言(い)はず語(かた)らずのうちに親子(おやこ)の情(じよう)が通(つう)じたものでせう、すつかりアジーブの方(ほう)へ心(こゝろ)を吸(す)ひ寄(よ)せられました。アジーブにしてもやつぱり同(おな)じことだと見(み)えて、見(み)ず知(し)らずのハサンがわけもなく懐(なつ)かしくてたまらなかつたのですね。で、召(め)し使(つか)ひがとめるのもきかずに、ずん/\店(みせ)の中(なか)へはひつて行(い)きました。ハサンは大(たい)そう喜(よろこ)んで自分(じぶん)の拵(こしら)へた柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを出(だ)して来(き)て、
「あなた方(がた)が寄(よ)つて下(くだ)すつたので、こんな嬉(うれ)しいことはございませぬ。どうぞ沢山(たくさん)召(め)し上(あが)つて下(くだ)さい」と、云(い)ひながら、それをすゝめました。
「小父(をぢ)さん、どうもあり難(がた)う」と、云(い)ひながら、アジーブは遠慮(えんりよ)なくそれを食(た)べました。
「これで僕(ぼく)も会(あ)ひたいと思(おも)つてゐる方(かた)に会(あ)ふことが出来(でき)たら、何(なに)も云(い)ふことはないんだがね」
「へえ、あなたはそんなお小(ちひ)さい姿(すがた)をして、もうどなたか大事(だいじ)な方(かた)と生(い)き別(わか)れをなすつたのですか」と、ハサンは思(おも)はず聞(き)き返(かへ)しました。
「さうなんだよ。僕(ぼく)の一番(いちばん)大事(だいじ)なお父様(とうさま)がどこへいらしつたかわからないのだ。だから、僕(ぼく)はかうしてお祖父様(ぢいさま)と一(いつ)しよに方々(ほう/゛\)捜(さが)しに出(で)たのだよ」と、云(い)ひ/\、気(き)の弱(よわ)いアジーブはもう泣(な)いてゐました。
しばらくして、少年(しようねん)と召(め)し使(つか)ひとはハサンの店(みせ)を出(で)ました。なんだか掌中(しようちゆう)の玉(たま)をなくしたような気(き)がして、ハサンは一時(いつとき)も落(お)ち着(つ)いてゐられませんでした。で、すぐに後(あと)から駈(か)け出(だ)して、二人(ふたり)の後(あと)を追(お)つかけました。それを見(み)て、アジーブの召(め)し使(つか)ひはうしろを振(ふ)り返(かへ)りながら、「何(なん)の用(よう)があつて、貴様(きさま)は後(あと)をつけて来(く)るのだ。さつさと帰(かへ)れ」と、叱(しか)りつけました。が、それ位(くらゐ)のことでは、なか/\帰(かへ)りそうもなかつたので、今度(こんど)はアジーブが腹(はら)を立(た)てました。そして、そこらに落(お)ちてゐた石(いし)を拾(ひろ)つたかと思(おも)ふと、いきなりハサンの顔(かほ)を目(め)がけて投(な)げつけました。それが運(うん)わるく額(ひたひ)に当(あた)つたからたまりません。ハサンの顔(かほ)は血(ち)だらけになつてしまひました。それでもハサンは「あゝ、私(わたし)が悪(わる)かつた。あんまりしつつこくついて来(き)たもんだから、とう/\あの子(こ)の機嫌(きげん)を損(そこ)ねてしまつた」と、相手(あひて)を恨(うら)まないで、かへつて自分(じぶん)の身(み)を責(せ)めながら、すご/\と元(もと)来(き)た道(みち)を引(ひ)き返(かへ)して行(い)きました。
アジーブは尋(たづ)ねる父(ちゝ)に廻(めぐ)りあつたとも知(し)らぬばかりか、父(ちゝ)の顔(かほ)に石(いし)まで投(な)げつけて、そのまゝお祖父(ぢい)さんと一(いつ)しよにこの都(みやこ)を立(た)ち去(さ)りました。そして、程(ほど)なくエル・バスラーの都(みやこ)へまゐりました。お祖父(ぢい)さんはハサンの残(のこ)して置(お)いた書(か)き附(つ)けからヌーアがこの都(みやこ)にゐたことを知(し)つてゐますので、あはよくばハサンを捜(さが)し出(だ)すことも出来(でき)ようかと心(こゝろ)が急(せ)いてをりました。で、すぐ様(さま)国王(こくおう)に謁見(えつけん)を願(ねが)つて、わが身(み)の上(うへ)を詳(くは)しく物語(ものがた)つた上(うへ)、元(もと)の宰相(さいしよう)のヌーアは自分(じぶん)の弟(おとうと)であると申(まを)し上(あ)げました。国王(こくおう)は思(おも)はず声(こゑ)をあげて、
「おゝ、左様(さよう)であつたか。だが残念(ざんねん)なことに、ヌーアは十二年前(じゆうにねんまへ)一人(ひとり)の男(をとこ)の子(こ)を遺(のこ)して死(し)んで行(い)つてな。それに、その子(こ)もどこかへ出奔(しゆつぽん)して、皆目(かいもく)行方(ゆくへ)が知(し)れぬのぢや。しかしその子(こ)の母(はゝ)に当(あた)るヌーアの妻(つま)は、俺(おれ)の手許(てもと)にまだ存命(ぞんめい)でゐるよ」と、仰(おほ)せられました。甥(をひ)の母親(はゝおや)がまだ生(い)きてゐると聞(き)いて、宰相(さいしよう)シエムは大(たい)そう喜(よろこ)んで、
「では、どうぞその母親(はゝおや)に会(あ)はせて下(くだ)さいまし」と、お願(ねが)ひしました。
国王(こくおう)は直(す)ぐさまそれをお許(ゆる)しになりました。そこでシエムは、早速(さつそく)甥(をひ)の母親(はゝおや)を訪(たづ)ねて行(い)つて、はる/゛\やつて来(き)た理由(りゆう)を詳(くは)しく語(かた)つて聞(き)かせた上(うへ)、これがあなたの孫(まご)だと云(い)つてアジーブに引(ひ)き合(あ)はせました。お祖母(ばあ)さまはアジーブの傍(そば)へ駈(か)け寄(よ)つて、両手(りようて)に抱(だ)きしめたまゝ、しばらくはうれし泣(な)きに泣(な)いてゐました。が、シエムは彼女(かのじよ)に云(い)ひました。──
「さあ、さうして泣(な)いてゐても仕方(しかた)がないから、私(わたし)どもと一(いつ)しよにあなたもカイロの都(みやこ)へいらつしやい。さうしたら、いつかは又(また)この子(こ)の父親(ちゝおや)に会(あ)ふことも出来(でき)ませうから」
それから宰相(さいしよう)の一行(いつこう)は、弟(おとうと)の妻(つま)を加(くは)へて、いよ/\帰国(きこく)の旅(たび)に上(のぼ)りました。そして、ダマスカスに着(つ)くと、今度(こんど)はこゝで国王(こくおう)へ差(さ)し上(あ)げる土産物(みやげもの)を調(とゝの)へることにしました。それがためには、どうしても一週間(いつしゆうかん)ばかり逗留(とうりゆう)せねばなりませんでした。で、その間(あひだ)に、アジーブは又(また)例(れい)の石(いし)を投(な)げつけた料理人(りようりにん)のことを思(おも)ひ出(だ)したので、召(め)し使(つか)ひに向(むか)つて、
「もう一度(いちど)あの料理人(りようりにん)のところへ行(い)つて見(み)ようよ。あんなに親切(しんせつ)にしてくれたのに、怪我(けが)までさせて、ほんとうに済(す)まないことをしたからね」と、云(い)ひ出(だ)しました。そして、再(ふたゝ)びハサンの店(みせ)へやつてまゐりました。ハサンはちようど柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを拵(こしら)へ上(あ)げたところでしたが、アジーブは、その姿(すがた)を見(み)ると、いきなり駈(か)け寄(よ)つて、
「いつかはほんとうに悪(わる)いことをしたね。だが、勘忍(かんにん)しておくれよ。私(わたし)はお前(まへ)がなつかしくて、かうして訪(たづ)ねて来(き)たのだからね」と、申(まを)しました。すると、ハサンもにこ/\して、
「いゝえ、あんなことちつとも気(き)にしちやゐませんよ。でも、本当(ほんとう)によく来(き)てくれましたね。さあ、それではもう一度(いちど)私(わたし)の料理(りようり)を召(め)し上(あが)つて下(くだ)さいな」と、さも/\なつかしそうに云(い)ひました。
「でも、今度(こんど)はもう/\後(あと)からついて来(き)たりしては厭(いや)だよ。それだけはきつと約束(やくそく)するね」と、アジーブが申(まを)しました。
「えゝえゝ、それはもうきつと約束(やくそく)しますとも」
そこで、二人(ふたり)はまたおいしい石榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを腹一杯(はらいつぱい)食(た)べました。そして、帰(かへ)つて見(み)ると、アジーブのお祖母(ばあ)さまがやつぱり柘榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けを膳(ぜん)に上(の)せました。が、たつた今(いま)同(おな)じものを食(た)べて来(き)たばかりなので、アジーブはいくらすゝめられても手(て)を出(だ)さうとはしませんでした。しまひには、ちよつとなめるようにして見(み)て、
「だつて、これは少(すこ)し甘味(あまみ)が足(た)りないんだもの。僕(ぼく)はもつとおいしいのを腹一杯(はらいつぱい)食(た)べて来(き)たんだよ」と、子供(こども)だけに、とう/\ほんとうのことを云(い)つてしまひました。
それを聞(き)くと、お祖母(ばあ)さまもいつになく腹(はら)を立(た)てゝ、
「何(なに)をお云(い)ひだえ、えゝ、これは私(わたし)が手(て)づからこしらへたものだよ。そして、お前(まへ)のお父(とう)さんの外(ほか)には、一人(ひとり)だつてこんなにおいしくこしらへるものはないんだよ」と、申(まを)しました。「でも、さつき町(まち)で食(た)べた石榴(ざくろ)の砂糖漬(さとうづ)けは、そりやあおいしかつたよ。ほんとうだよ」と、アジーブはあくまで云(い)ひつのりました。「よし、そんなことを云(い)ふなら」と、お祖母(ばあ)さまも負(ま)けない気(き)になつて、すぐさま召(め)し使(つか)ひに命(めい)じて、同(おな)じ店(みせ)からその砂糖漬(さとうづ)けをとつて来(こ)させるようにいたしました。それをお祖父(ぢい)さまに差(さ)し上(あ)げて、どちらがおいしいかきめて頂(いたゞ)かうと云(い)ふのでございます。
召(め)し使(つか)ひは早速(さつそく)ハサンの店(みせ)へ行(い)つて、お祖母(ばあ)さまと孫(まご)とのいさかひをありのまゝに話(はな)して聞(き)かせた上(うへ)、さう云(い)ふわけだから、アジーブの負(ま)けないように、一(ひと)つ特別上等(とくべつじようとう)の砂糖漬(さとうづ)けを売(う)つて貰(もら)ひたいと云(い)ひ入(い)れました。それを聞(き)いて、ハサンはにつこり笑(わら)ひながら、
「はい、畏(かしこ)まりました。ですが、こいつの拵(こしら)へ方(かた)にかけては、私(わたし)と私(わたし)のお母(かあ)さまに優(まさ)るものは世間(せけん)にありつこないから、その点(てん)は安心(あんしん)していらつしやい。そしてそのお母(かあ)さまは今(いま)遠(とほ)い所(ところ)にゐるんですからね」と、云(い)ひ/\皿(さら)に一杯(いつぱい)の砂糖漬(さとうづ)けを掬(すく)つてくれました。
で、それを受(う)け取(と)ると、召(め)し使(つか)ひは急(いそ)いで戻(もど)つてまゐりました。お祖母(ばあ)さまは待(ま)ち構(かま)へてゐて、先(ま)づその風味(ふうみ)を味(あじ)はつて見(み)ましたが、それだけでもう誰(だれ)がこしらへたかを悟(さと)りました。そして、あまりの意外(いがい)に気(き)を失(うしな)つて、その場(ば)に倒(たふ)れてしまひました。さあ、一同(いちどう)の驚(おどろ)きは容易(ようい)でありません。顔(かほ)に水(みづ)を振(ふ)りかけるやら背中(せなか)をさするやら、大騒(おほさわ)ぎをいたしましたが、それでも程(ほど)なく息(いき)を吹(ふ)き返(かへ)しました。そして、眼(め)を見(み)ひらくと同時(どうじ)に、
「あゝ、私(わたし)の息(むすこ)がまだ生(い)きてゐたのだ」と、叫(さけ)びました。「この砂糖漬(さとうづ)けをこしらへたものは、私(わたし)の息(むすこ)の他(ほか)にない。ハサンだ、なんと云(い)つてもハサンに相違(そうい)ない。この拵(こしら)へ方(かた)を教(をし)へたのは誰(だれ)でもない、この私(わたし)なんだからね」
これを聞(き)いた宰相(さいしよう)の喜(よろこ)びは、またアジーブの喜(よろこ)びは、とても言葉(ことば)には尽(つ)くされますまい。宰相(さいしよう)は早速(さつそく)召(め)し使(つか)ひにいひつけて、ハサンをよび寄(よ)せました。かうしてハサンは思(おも)ひがけなくも母親(はゝおや)に会(あ)つた上(うへ)、それとも知(し)らなかつたアジーブとは親子(おやこ)の対面(たいめん)をして一時(いちじ)は夢(ゆめ)に夢見(ゆめみ)る思(おも)ひをしてゐました。が、いろ/\と長(なが)い物語(ものがたり)を聞(き)くにつれて、その不思議(ふしぎ)な運命(うんめい)に驚(おどろ)くと共(とも)に、深(ふか)く心(こゝろ)の底(そこ)から喜(よろこ)びました。
やがて、一同(いちどう)連(つ)れ立(だ)つて、カイロの都(みやこ)に帰(かへ)つてまゐりました。宰相(さいしよう)の娘(むすめ)シツテルの喜(よろこ)びは、まあ、どんなであつたでせう。
若(わか)い獅子(しゝ)と大工(だいく)の話(はなし)
昔(むかし)、一番(いちばん)の雄孔雀(をくじやく)と雌孔雀(めくじやく)とが、ある海岸(かいがん)に住(す)んでをりました。そこには他(ほか)の鳥(とり)や獣(けもの)を捕(と)つて食(た)べるような、恐(おそ)ろしい野獣(やじゆう)を始(はじ)めとして、いろ/\な獣類(けものるい)が沢山(たくさん)住(す)んでゐました。で、孔雀(くじやく)どもはそれが恐(おそ)ろしさに、夜間(やかん)は木(き)の上(うへ)へとまるようにして、朝(あさ)になつてから餌(ゑ)をあさつて廻(まは)りました。かうしてしばらくは何事(なにごと)もなく暮(くら)してゐましたが、だん/\恐(おそ)ろしさが嵩(こう)じて来(き)たので、どこか他(ほか)へ行(い)つて、もつと気楽(きらく)な住(す)みかを求(もと)めようといたしました。そしてだん/\捜(さが)し廻(まは)つてゐる間(ふひだ)に、ふと一(ひと)つの島(しま)を見(み)つけましたが、それは木(き)や草(くさ)が茂(しげ)つて、きれいな清水(しみづ)の流(なが)れてゐる、まことに住(す)みよさそうな所(ところ)でございましたので、いよ/\その島(しま)に移(うつ)つて住(す)むことにいたしました。
その島(しま)へ移(うつ)つてから、二羽(には)の孔雀(くじやく)は、毎日(まいにち)果物(くだもの)を取(と)つて食(た)べたり、小川(をがは)の水(みづ)を飲(の)んだりしながら、それまでとは違(ちが)つて、至極(しごく)おだやかな暮(くら)しをしてゐました。が、ある日(ひ)のこと一羽(いちは)の鴨(かも)がいかにも狼狽(うろた)へたような様子(ようす)をしながら、彼等(かれら)の側(そば)へ近(ちか)づいてまゐりました。 それを見(み)ると、雄孔雀(をくじやく)は、これはきつと何事(なにごと)か異変(いへん)が起(おこ)つたに相違(そうい)ないと思(おも)ひましたので、鴨(かも)に向(むか)つて、
「どうしてあなたは、そんなにきよと/\してゐるのです」と、たづねました。鴨(かも)はこれに答(こた)へて、
「どうしてつて、あなた、私(わたし)はどうにも恐(こは)くて/\、ほんとに命(いのち)も縮(ちゞ)まるほどですよ。と云(い)つて、それは野獣(やじゆう)なぞが恐(こは)いのではありません。私(わたし)の恐(こは)いのは、あの人間(にんげん)といふ奴(やつ)ばらですよ。まつたく人間(にんげん)くらゐ恐(おそ)ろしいものはありませんものね。ですから、あなたがたも人間(にんげん)を見(み)たら御用心(ごようじん)なさいましよ」と、云(い)ひました。
「まあ安心(あんしん)なさい。お前(まへ)さんも私達(わたしたち)のところへ来(き)たからには、もう大丈夫(だいじようぶ)ですからね」と、雄孔雀(をくじやく)は相手(あひて)を力(ちから)づけるように申(まを)しました。
「それでは、どうぞあなたがたのお仲間(なかま)に入(い)れて下(くだ)さいまし。他(ほか)に頼(たよ)る所(ところ)とてない身(み)でございますから」と、鴨(かも)はさも嬉(うれ)しそうに申(まを)しました。
その時(とき)、雄孔雀(をくじやく)も木(き)の枝(えだ)から降(お)りて来(き)て、「私達(わたしたち)もあなたが来(き)て下(くだ)すつたので、賑(にぎ)やかになつて喜(よろこ)んでゐますよ。今(いま)においしい物(もの)を沢山(たくさん)上(あ)げますから、安心(あんしん)して落(お)ちついていらつしやい。かうして海(うみ)の真中(まんなか)の島(しま)にゐるんですもの、どうして人間(にんげん)などが私(わたし)どもに近(ちか)づいて来(こ)られませう。陸(りく)からも、海(うみ)からも、どつちからだつてやつて来(こ)られやしませんわい。ですから、もうなんにも心配(しんぱい)しないがいゝんですよ。で、その人間(にんげん)がどんなことをしましたかい。それを一(ひと)つ私(わたし)どもに聞(き)かせてくれませんか」と、たづねました。
そこで鴨(かも)は次(つ)ぎのように話(はな)して聞(き)かせました。
「私(わたし)はこれまでこの島(しま)で、別段(べつだん)恐(おそ)ろしい目(め)にも遭(あ)はないで、極(きは)めて穏(おだ)やかに暮(く)らして来(き)ました。ところが、ある夜(よ)、夢(ゆめ)に、私(わたし)が人間(にんげん)の姿(すがた)をした男(をとこ)と話(はなし)をしてゐると、どこからともなく、かう云(い)つて私(わたし)に注意(ちゆうい)してくれる言葉(ことば)が耳(みゝ)に聞(きこ)えて来(く)るんですね。『鴨(かも)よ、人間(にんげん)に気(き)を許(ゆる)すな、あんな者(もの)の云(い)うことに瞞(だま)されてはいけないぞ。あいつ等(ら)はお前(まへ)なぞの思(おも)ひもよらぬほど計略(けいりやく)がうまいのだからね。どうして容易(ようい)に悪(わる)がしこいんぢやないのだ。まるで嘘(うそ)で固(かた)めたような悪(わる)ものばかりだよ。その証拠(しようこ)に、あいつ等(ら)は魚(さかな)をごまかして水(みづ)から引(ひ)き上(あ)げるし、土(つち)のたまで鳥(とり)を打(う)つし、あの大(おほ)きな象(ぞう)でさへ罠(わな)にかけて捕(つか)まへてしまふよ。まつたく、どんな者(もの)でも人間(にんげん)の悪戯(いたづら)にかゝつては叶(かな)はないね。鳥(とり)でも、野獣(やじゆう)でも、人間(にんげん)の手(て)から免(のが)れるわけには行(い)かないよ。だから、お前方(まへがた)も用心(ようじん)しなけりやいけないね』と、かう云(い)ふたですよ。それを聞(き)いて、私(わたし)はがた/\顫(ふる)へながら眼(め)をさましました。そして、それからといふものは、いつその計略(けいりやく)にかゝるか、いつその罠(わな)に落(お)ちるかと、たゞもう人間(にんげん)の怖(こは)さ、恐(おそ)ろしさに、生(い)きた心地(こゝち)もありませんでしたがね、とう/\ゐたゝまらなくなつて、あてどもなくひとりでさまよひ出(だ)したのですよ。
で、その日(ひ)も暮(く)れかゝつた頃(ころ)には、おなかはなくし、精(せい)も根(こん)も尽(つ)き果(は)てゝ、この末(すゑ)どうなることかと心配(しんぱい)しい/\、疲(つか)れた羽(は)がひに鞭打(むちう)ちながら、だん/\やつて参(まゐ)りました。そして、あそこに見(み)えるあの山(やま)へ行(ゆ)き着(つ)いた時(とき)、洞穴(ほらあな)の入(い)り口(ぐち)に、一疋(いつぴき)の黄色(きいろ)い色(いろ)をした若(わか)い獅子(しゝ)がしやがんでゐるのを見(み)ました。若(わか)い獅子(しゝ)は大(たい)そう喜(よろこ)んで私(わたし)を迎(むか)へてくれました。私(わたし)の美(うつく)しい羽色(はいろ)や、優(やさ)しい姿(すがた)があの方(かた)の気(き)に入(い)つたものと見(み)えるんですね。で、私(わたし)に声(こゑ)をかけながら、『もつと近(ちか)くへ来(こ)ないか」と、云(い)ふのですよ。で、私(わたし)が傍(そば)へ行(い)くと、「お前(まへ)の名(な)はなんと云(い)つて、どういふ連中(れんじゆう)の仲間(なかま)かね」と、たづねました。そこで私(わたし)は「私(わたし)の名(な)は鴨(かも)と云(い)つて空飛(そらと)ぶ鳥(とり)の仲間(なかま)でございます』と、有様(ありよう)を答(こた)へましたが、今度(こんど)はこつちからどういふわけで、あなたは今頃(いまごろ)こんな処(ところ)にぶら/\していらしつたのです」と、たづねて見(み)ました。すると、若(わか)い獅子(しゝ)の云(い)ふには、『それはかう云(い)ふわけなんだ。二三日前(にさんにちまへ)から、人間(にんげん)に気(き)をつけろ、人間(にんげん)に気(き)をつけろと、しきりに親爺(おやぢ)が云(い)つてゐたが昨夜(ゆうべ)とう/\人間(にんげん)の姿(すがた)を夢(ゆめ)に見(み)たんだよ』かう云(い)つて、どうでせう、私(わたし)が今(いま)あなた方(がた)にお話(はなし)したと丸(まる)で同(おな)じような夢(ゆめ)の話(はなし)をして聞(き)かせるぢやありませんか。そこで私(わたし)は、『獅子(しゝ)さん、私(わたし)はあなたにお願(ねが)ひして人間(にんげん)を殺(ころ)して貰(もら)はうと思(おも)つて、こゝまで来(き)たんですがね、一(ひと)つ思(おも)ひ切(き)つてやつつけて下(くだ)さいよ。あなたは野獣(やじゆう)の中(なか)の帝王(ていおう)ぢやありませんか」と、熱心(ねつしん)に勧(すゝ)めて見(み)ました。すると、彼(かれ)はなんと思(おも)つたか、ふいに立(た)ち上(あが)つて尻尾(しつぽ)でぴちや/\自分(じぶん)の背中(せなか)を打(う)ちながら、ゆるゆると歩(ある)き出(だ)しました。私(わたし)もその後(あと)からついて行(い)きました。
私(わたし)どもはだん/\道(みち)を下(くだ)つて行(い)きました。すると、目(め)の前(まへ)に埃(ほこり)が立(た)ち上(あが)つて、その中(なか)から裸(はだか)の驢馬(ろば)が一疋(いつぴき)こちらを目(め)がけて駈(か)け出(だ)して来(き)ました。それを見(み)て、獅子(しゝ)が声(こゑ)をかけると、驢馬(ろば)はすなほに彼(かれ)の前(まへ)へやつてまゐりました。『どう云(い)ふわけで、お前(まへ)はこちらへ逃(に)げて来(き)たのだ』と、獅子(しゝ)がたづねました。『人間(にんげん)が恐(こは)いからです』と、驢馬(ろば)は答(こた)へました。『あいつ等(ら)に殺(ころ)されようとでもしたのかい』と、再(ふたゝ)び獅子(しゝ)がたづねました。すると、驢馬(ろば)は次(つ)ぎのように答(こた)へました。『いえ、さうではありません、私(わたし)があいつ等(ら)を恐(こは)がるのは、あいつ等(ら)が私(わたし)を乗(の)り廻(まは)すからです。あいつ等(ら)は鞍(くら)といふものを持(も)つてゐて、それを私(わたし)の背中(せなか)に載(の)つけるばかりでなく、腹帯(はらおび)といふものを私(わたし)の腹(はら)にまきつけ、鞦(しりがひ)といふものを私(わたし)の尻尾(しつぽ)の下(した)へ挟(はさ)むんです。また馬銜(はみ)といふ物(もの)を持(も)つて来(き)て、それを私(わたし)の口(くち)に食(は)ませたり、突(つ)く棒(ぼう)といふ物(もの)を拵(こさ)へて、それで私(わたし)をつつ突(つ)いて走(はし)らせたりするのですよ。とにかく、あいつ等(ら)は、私(わたし)の力以上(ちからいじよう)に走(はし)らなければ承知(しようち)しないのですからね。で、もし私(わたし)がうつかり躓(つまづ)きでもしようものなら、さん/゛\に私(わたし)を罵(のゝし)ります。嘶(な)くと、謗(そし)ります。そして、私(わたし)が年寄(としよ)りになつて、もう走(はし)れなくなると、あいつ等(ら)は私(わたし)の上(うへ)に木(き)の荷鞍(にぐら)を置(お)いて、私(わたし)を水売(みづう)りの手(て)に渡(わた)します。すると、水売(みづう)りは川(かは)から水(みづ)を汲(く)んで、山羊(やぎ)の革嚢(かはぶくろ)だのに詰(つ)めた上(うへ)、私(わたし)の背(せ)につけて運(はこ)ばせるんですよ。かうして、私(わたし)は死(し)ぬまでこき使(つか)はれたあげく、いよ/\死(し)んだ時(とき)には、芥(あくた)の山(やま)へ捨(す)てられて、犬(いぬ)の餌食(ゑじき)になるんです。まつたく、これぢや死(し)ぬにも優(まさ)つた苦(くる)しみぢやないでせうかね』それを聞(き)いて、獅子(しゝ)は、『お前(まへ)はこれからどこへ行(い)かうとしてゐるのだ』とたづねました。驢馬(ろば)は『私(わたし)は夜明(よあ)け前(まへ)に人間(にんげん)の姿(すがた)を見(み)かけました。で、かうして一目散(いちもくさん)に逃(に)げて来(き)たのですがね。たゞもう、一時(いつとき)も早(はや)くよい隠(かく)れ場所(ばしよ)が見(み)つけたいばかりですよ』と、申(まを)しました。
ところで、驢馬(ろば)がまだぐづ/\してゐる間(あひだ)に、また埃(ほこり)の雲(くも)が彼方(かなた)の空(そら)に舞(ま)ひ上(あが)つて、それが消(き)えると、その中(なか)から一疋(いつぴき)の黒馬(くろうま)があらはれました。その馬(うま)は、額(ひたひ)と蹄(ひづめ)の近(ちか)くに白(しろ)いところのある、脚(あし)のすらりとして細(ほそ)い、まことに美(うつく)しい馬(うま)でございました。若(わか)い獅子(しゝ)はまた、『お前(まへ)がこの広(ひろ)い砂漠(さばく)を飛(と)んで来(き)たのは、どうしたわけだね』と、たづねて見(み)ました。すると、その馬(うま)は「人間(にんげん)が恐(こは)いからですよ」と、同(おな)じように答(こた)へました。そこで、若(わか)い獅子(しゝ)は馬(うま)の言葉(ことば)に内心(ないしん)驚(おどろ)きながら、「そんな事(こと)をいふな、そんな事(こと)をいふのはお前(まへ)の恥(はぢ)だぞ。お前(まへ)はさうして背(せ)の高(たか)い、丈夫(じようぶ)な獣(けだもの)ぢやないか。それ程(ほど)大(おほ)きなずうたいをして、人一倍(ひといちばい)にはやい脚(あし)を持(も)つてゐながら、どうして人間(にんげん)なぞを恐(こは)がるのだ。見(み)たまへ。僕(ぼく)はこんな小(ちひ)さな体(からだ)をしてゐても、鴨(かも)を助(たす)けて、一(ひと)つ人間(にんげん)と戦(たゝか)つてやらうと考(かんが)へてゐるんだよ。お前(まへ)がその蹄(ひづめ)で、蹴(け)つたら、あいつ等(ら)一(ひと)たまりもなく死(し)んでしまつて、お前(まへ)に手向(てむか)ふことなぞは、とても出来(でき)なさそうなものだがね」と、申(まを)しました。すると、馬(うま)は声(こゑ)を挙(あ)げて笑(わら)ひました。『どうして/\、飛(と)んでもない、私(わたし)なぞがあいつ等(ら)を征服(せいふく)するなんて考(かんが)へも及(およ)ばないことですよ。何(なに)しろ、あいつ等(ら)はありあまる程(ほど)の悪智恵(わるじえ)を持(も)つてゐるのですからね。そして、棕櫚(しゆろ)の毛(け)でつくつた二本(にほん)の縄(なは)を私(わたし)の手足(てあし)にかけて、私(わたし)の頭(あたま)を高(たか)い棒杭(ぼうぐひ)に結(むす)びつけるんですもの、寝(ね)ることも横(よこ)になることも出来(でき)やあしません。またあいつ等(ら)が私(わたし)に乗(の)らうと思(おも)ふ時(とき)には、鐙(あぶみ)といふ金具(かなぐ)を私(わたし)に結(いは)ひ着(つ)けた上(うへ)、鞍(くら)といふものに二本(にほん)の腹帯(はらおび)を通(とほ)して、私(わたし)の背中(せなか)に載(の)せつけるのですよ。そして、口(くち)には馬銜(はみ)を食(は)ませ、それに手綱(たづな)といふ鞣(なめ)し皮(がは)の紐(ひも)を結(いは)ひつけるんです。で、その手綱(たづな)をしつかり握(にぎ)つて、自由自在(じゆうじざい)に私(わたし)を動(うご)かすのですね。又(また)その鐙(あぶみ)で時々(とき/゛\)血(ち)の出(で)る程(ほど)私(わたし)の横腹(よこばら)を蹴(け)るんです。こんなにして使(つか)つて置(お)きながら、私(わたし)が年(とし)を取(と)つてはやく走(はし)れなくなると、あいつ等(ら)は私(わたし)を粉挽(こなひ)き屋(や)へ売(う)り渡(わた)して、朝(あさ)から晩(ばん)まで臼(うす)のまはりを廻(まは)らせますよ。さうしていよ/\動(うご)けなくなつた時(とき)は、私(わたし)を屠殺者(とさつしや)の手(て)に渡(わた)して屠(ほふ)らせるんですね。すると、そいつ等(ら)はまた私(わたし)の皮(かは)を剥(は)ぐ、尻尾(しつぽ)を引(ひ)きぬいて篩屋(ふるひや)に売(う)る、おまけに私(わたし)の脂(あぶら)までも溶(と)かして何(なに)かに使(つか)ふんですからね」
かうして獅子(しゝ)が馬(うま)と話(はなし)してゐる間(あひだ)に、また埃(ほこり)が立(た)ち上(あが)つて、今度(こんど)は駱駝(らくだ)がやつてまゐりました。若(わか)い獅子(しゝ)は相手(あひて)が大(おほ)きくていかにも丈夫(じようぶ)そうなのを見(み)て、これが人間(にんげん)だなと考(かんが)へました。そして、今(いま)にも飛(と)びかゝらうとしたのでした。けれども、私(わたし)が側(そば)から「あれは駱駝(らくだ)といふ獣(けだもの)ですよ』と、教(をし)へてやつたので、何事(なにごと)もなく済(す)みました。そこで若(わか)い獅子(しゝ)はまた前(まへ)のようにたづねました。すると、これもやつぱり人間(にんげん)の手(て)から逃(に)げて来(き)たと云(い)ふのでございます。「えゝ、そんな大(おほ)きな体格(たいかく)をしてゐる癖(くせ)に、どうして人間(にんげん)なぞを恐(こは)がるのだ」と、獅子(しゝ)は眼(め)を丸(まる)くしてたづねました。『お前(まへ)がその脚(あし)で蹴飛(けと)ばしてやつたら、ちつぽけな人間(にんげん)なんか一度(いちど)で死(し)んでしまふだらうぢやないか」すると、駱駝(らくだ)はそれに答(こた)へました。「なか/\さう容易(たやす)くは行(ゆ)きませんよ。まつたく、あいつ等(ら)の計略(けいりやく)のうまさと云(い)つたら、そりやあお話(はなし)するようなものぢやありませんからね。お聞(き)き下(くだ)さい。まあ、かうですよ。あいつ等(ら)は私(わたし)の鼻(はな)に鼻環(はなわ)といふものを通(とほ)して、頭(あたま)にたづなといふものをつけるんです。それから、私(わたし)を小(ちひ)さな子供(こども)の手(て)に渡(わた)すんですがね、子供(こども)はその紐(ひも)でもつて、こんな大(おほ)きなずうたいをしてゐる私(わたし)を自由自在(じゆうじざい)に引(ひ)き廻(まは)すんだから叶(かな)ひませんや。またあいつ等(ら)は私(わたし)に重(おも)い荷物(にもつ)を背負(しよ)はせて、一緒(いつしよ)に長(なが)い道中(どうちゆう)をさせます。かうして永(なが)い歳月(さいげつ)の間(あひだ)、夜昼(よるひる)休(やす)みなしに苦(くる)しい労働(ろうどう)をさせるんですが、いよ/\私(わたし)が年(とし)を取(と)つて、あいつ等(ら)の役(やく)に立(た)たなくなると、情容赦(なさけようしや)もなく私(わたし)を屠殺者(とさつしや)の手(て)に売(う)り渡(わた)すんですよ。すると、そいつ等(ら)は又(また)私(わたし)の皮(かは)を鞣(なめ)し皮屋(がはや)に売(う)つて、肉(にく)を料理人(りようりにん)に売(う)るんですね。ほんとに、考(かんが)へて見(み)てもぞつとしますよ』それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は、
『一体(いつたい)お前(まへ)はいつ人間(にんげん)の手(て)から遁(のが)れて来(き)たのか』と、たづねました。「ほんの少(すこ)し前(まへ)逃(に)げ出(だ)して来(き)たばかりですがね、ひよつとしたら、今頃(いまごろ)は途中(とちゆう)まで追(お)ひかけて来(き)てゐるかも知(し)れませんよ』と、駱駝(らくだ)はさう云(い)ふ下(した)からびく/\顫(ふる)へてゐました。すると、若(わか)い獅子(しゝ)は『まあ、そんなに狼狽(うろた)へるにや及(およ)ばないよ。しばらくお待(ま)ちなさい。今(いま)にこのわしがあいつ等(ら)を引(ひ)つ裂(さ)いて、その肉(にく)をお前方(まへがた)に御馳走(ごちそう)した上(うへ)、その骨(ほね)を折(を)つて、その血(ち)を啜(すゝ)る所(ところ)を見(み)せて上(あ)げるからな』と、申(まを)しました。
すると、どうでせう、この話(はなし)が終(をは)るか終(をは)らないうちに、瘠(や)せた、背(せ)の低(ひく)い老人(ろうじん)が、何気(なにげ)なくこちらへやつてまゐりました。彼(かれ)は片手(かたて)に大工(だいく)の道具(どうぐ)を入(い)れた籃(かご)を提(さ)げて、頭(あたま)の上(うへ)には木(き)の枝(えだ)と八枚(はちまい)の板(いた)とを載(の)せてをりました。そして、二人(ふたり)の子供(こども)の手(て)を曳(ひ)いてゐました。彼(かれ)が私(わたし)どもの前(まへ)まで来(き)た時(とき)、若(わか)い獅子(しゝ)は彼(かれ)の前(まへ)へ進(すゝ)んで行(い)きました。すると、老人(ろうじん)は獅子(しゝ)に向(むか)つて、『私(わたし)は悪(わる)い奴等(やつら)に苦(くる)しめられてゐるものです。どうか私(わたし)を助(たす)けて下(くだ)さい』と、云(い)ひながら、獅子(しゝ)の前(まへ)に立(た)つて泣(な)いたり、歎(なげ)いたり、溜(た)め息(いき)をついたりして見(み)せました。『お前(まへ)は一体(いつたい)何者(なにもの)だ』と、若(わか)い獅子(しゝ)は相手(あひて)の様子(ようす)を見(み)やりながら、かうたづねました。『お前(まへ)に似(に)たようなものを、わしは未(ま)だ生(うま)れてからまだ一度(いちど)も見(み)たことがないがな』そこで大工(だいく)は答(こた)へました。『私(わたし)は大工(だいく)です。(大工(だいく)は貧乏(びんぼう)で始終(しじゆう)他人(たにん)から苦(くる)しめられてゐるので、かう云(い)つたのです)で、私(わたし)を苦(くる)しめる奴等(やつら)と云(い)ふのは人間(にんげん)なんですがね。明日(あす)の朝(あさ)はそいつ等(ら)がきつとこゝを通(とほ)りますよ』それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は武者(むしや)ぶるひをしながら、『よし、今夜(こんや)は朝(あさ)まで起(お)きてゐることにしよう。そして、人間(にんげん)を殺(ころ)してやるまでは、どうあつても帰(かへ)らないぞ』と、大(おほ)きな声(こゑ)で叫(さけ)びました。それからその大工(だいく)に向(むか)つて、『見(み)たところ、お前(まへ)の脚(あし)はどうも短(みぢか)いようじやが、それで他(ほか)の野獣(やじゆう)と歩調(ほちよう)を揃(そろ)へて歩(ある)くのは随分(ずいぶん)困難(こんなん)ぢやらうな。そこできくがね、お前(まへ)は一体(いつたい)どこへ行(い)くつもりなんだい』と、たづねました。すると、大工(だいく)は次(つ)ぎのように申(まを)しました。『はい、私(わたし)は山猫(やまねこ)さまのところへ伺(うかゞ)はうとしてゐるのです。と云(い)ふのは、この地方(ちほう)へ人間(にんげん)が入(い)り込(こ)んだといふ噂(うはさ)をお聞(き)きになつて、あの方(かた)が大(たい)そう御心配(ごしんぱい)になりましてね、私(わたし)の許(もと)へわざ/\使(つか)ひをよこされたのですよ。そして、人間(にんげん)がやつて来(き)ても自分(じぶん)の傍(そば)へは近寄(ちかよ)れないように、一(ひと)つ家(いへ)を建(た)てゝくれないかと、かう仰(おつ)しやるんですね、で、私(わたし)はこの通(とほ)り板(いた)ぎれを持(も)つて、あの方(かた)の許(もと)へ出(で)かけて来(き)たのですよ』
それを聞(き)いて、若(わか)い獅子(しゝ)は急(きゆう)に山猫(やまねこ)が羨(うらや)ましくなりました。そして、大工(だいく)に向(むか)つて、『山猫(やまねこ)の方(ほう)は後廻(あとまは)しにして置(お)いて、先(ま)づその板(いた)ぎれで俺(おれ)のうちを建(た)てゝくれないか』と、しきりに頼(たの)みました。すると、大工(だいく)は『それは困(こま)りましたね,何(なに)しろ山猫(やまねこ)さまの方(ほう)は先口(せんくち)ですから、それを建(た)てゝからでないと、どうもあなたのお言葉(ことば)に従(したが)ふわけには参(まゐ)りませんよ』と、わざとすげなく申(まを)しました。が、さう云(い)はれると、若(わか)い獅子(しゝ)は一(いつ)そうしつつこくなつて、
『お前(まへ)が俺(おれ)のうちを造(つく)つてくれるまでは、どんなことがあつてもこの場(ば)は去(さ)らせないよ』と、云(い)ひながら、なほも大工(だいく)の機嫌(きげん)を取(と)らうとして、その前(まへ)に這(は)ひつくばつたり、肩(かた)へ飛(と)びついたりして見(み)せました。その拍子(ひようし)に、大工(だいく)はよろ/\として、手(て)に持(も)つた籃(かご)を放(はふ)り出(だ)したまゝ、仰向(あふむ)けに倒(たふ)れてしまひました。それを見(み)て、獅子(しゝ)は『なんといふお前(まへ)は弱(よわ)い奴(やつ)だらう本当(ほんとう)に力(ちから)がないね。これぢや人間(にんげん)を怖(こは)がるのも無理(むり)はないよ』と、笑(わら)ひに笑(わら)ひました。大工(だいく)は腹(はら)を立(た)てましたが、相手(あひて)が相手(あひて)ですから、わざとその色(いろ)を隠(かく)して、にこ/\笑(わら)ひながら、『では、あなたから先(さき)に造(つく)つて上(あ)げませうよ』と、云(い)ひました。そこで持(も)つて来(き)た板(いた)ぎれを適当(てきとう)の長(なが)さに切(き)つて、それを釘(くぎ)づけにして箱(はこ)の恰好(かつこう)に拵(こさ)へました。そして、幾本(いくほん)かの釘(くぎ)を手(て)に握(にぎ)つたまゝ、若(わか)い獅子(しゝ)に向(むか)つて、さあ出来(でき)ましたから、『この入(い)り口(ぐち)からうちの中(なか)へはひつて見(み)て下(くだ)さい。そして、手足(てあし)ををつて、小(ちひ)さく蹲(しやが)んで御覧(ごらん)なさい』と、云(い)ひました。獅子(しゝ)は大(たい)そう喜(よろこ)んで、云(い)はれるまゝに箱(はこ)の中(なか)へはひりました。が尻尾(しつぽ)だけはまだ箱(はこ)の外(そと)にはみ出(だ)してゐました。さう云(い)ふわけで、少(すこ)し窮屈(きゆうくつ)なところから、獅子(しゝ)はそのまゝ後(あと)へ退(さが)つて、箱(はこ)から出(で)ようといたしました。すると、大工(だいく)はあわてゝ、『まあお待(ま)ちなさい、尻尾(しつぽ)も一(いつ)しよにはひるかどうか見(み)てあげますからね』と、云(い)ひ/\、獅子(しゝ)の尻尾(しつぽ)を箱(はこ)の中(なか)へ押(お)し込(こ)んで、その上(うへ)から手早(てばや)く蓋(ふた)をした上(うへ)、とん/\と釘(くぎ)を打(う)ちつけてしまひました。『おい、お前(まへ)の造(つく)つてくれたうちはどうも窮屈(きゆうくつ)でたまらないね。早(はや)く出(だ)してくれないか』と、若(わか)い獅子(しゝ)は大(おほ)きな声(こゑ)で呼(よ)ばはりました。『どうして/\、かうなつてから出(だ)してやつてたまるものか。お前(まへ)もとう/\檻(おり)の中(なか)へ入(い)れられたね。いくら後悔(こうかい)したつて、もう後(あと)の祭(まつり)だよ』と、大工(だいく)は手(て)を打(う)つて笑(わら)ひました。若(わか)い獅子(しゝ)は、この時(とき)になつて始(はじ)めて、大工(だいく)が人間(にんげん)であることに気(き)がついたのでした。私(わたし)はもう最初(さいしよ)から怖(おそ)ろしくてたまりませんでしたが、ずつと離(はな)れた所(ところ)へ遠退(とほの)いて、ぶる/\顫(ふる)へながら見(み)てゐました。すると、どうでせう。そいつは箱(はこ)の近(ちか)くに溝(みぞ)を掘(ほ)つて、その中(なか)へ箱(はこ)を転(ころ)がし込(こ)んでから、どん/\薪(まき)を投(な)げ入(い)れて可愛(かわい)そうに、その若(わか)い獅子(しゝ)を焼(や)き殺(ころ)してしまひましたよ。それを見(み)て私(わたし)はもう顫(ふる)へ上(あが)つてしまひました。そして、余(あま)りの怖(おそ)ろしさに、この二日間(ふつかかん)といふもの、後(あと)をも見(み)ないで、ただもう逃(に)げ通(どほ)しに逃(に)げて来(き)たんですよ」
この話(はなし)を鴨(かも)から聞(き)いた時(とき)、孔雀(くじやく)どもは非常(ひじよう)に驚(おどろ)いてゐました。が、やがて、雌孔雀(めくじやく)は、鴨(かも)に向(むか)つて「だが、もう心配(しんぱい)することはありませんよ。こゝだけは大丈夫(だいじようぶ)ですからね」と云(い)つて慰(なぐさ)めてやりました。そして、お互(たがひ)に仲(なか)のよい友達(ともだち)になる約束(やくそく)をして、その夜(よ)は一緒(いつしよ)に飲(の)み食(く)ひをして過(す)ごしました。
アラ・エ・デイーンの話(はなし)
昔(むかし)、バグダツドの教王(きようおう)の御家来(ごけらい)に、アラ・エ・デイーンといふ若者(わかもの)がございました。大(たい)そう教王(きようおう)のお気(き)に入(い)つて、一日(いちにち)としてお側(そば)を離(はな)れたことがありませんでした。ところが、妻(つま)のズベイデエに死(し)なれてからといふものは、毎日(まいにち)泣(な)いてばかりゐて、一向(いつこう)御殿(ごてん)へも上(あ)がらないようになりました。教王(きようおう)もそれを御心配(ごしんぱい)になつて、なんとかして彼(かれ)を慰(なぐさ)めてやりたいものだと、いろ/\お考(かんが)へになつた末(すゑ)、宰相(さいしよう)のジヤーフアルを召(め)し寄(よ)せて、
「どうだらう、アラ・エ・デイーンもあゝしてゐては仕方(しかた)がないから、新(あら)たに妻(つま)でも持(も)たせて見(み)ては」と、仰(おほ)せになりました。
「それも宜(よろ)しいが、あのズベイデエに勝(まさ)るような女(をんな)は、この国中(くにじゆう)にもないでせうから、多分(たぶん)あの男(をとこ)が承知(しようち)しますまいよ」と、ジヤーフアルは申(まを)し上(あ)げました。
「さうか」と、教王(きようおう)は重(かさ)ねて仰(おほ)せになりました。「では、せめてあの男(をとこ)を連(つ)れ出(だ)して、気晴(きば)らしでもさせてやつてくれんか。さうしたら、ちつとはあれの心(こゝろ)も休(やす)まるだらうからな」
宰相(さいしよう)はかしこまつて御前(ごぜん)を退出(たいしゆつ)しました。そして、あまり気(き)の進(すゝ)まぬアラ・エ・デイーンを無理(むり)に連(つ)れ出(だ)して、ぶら/\市中(しちゆう)を遊(あそ)んでまはりました。ところが、その日(ひ)市場(いちば)に奴隷(どれい)の市(いち)が立(た)つてゐました。その当時(とうじ)は、男(をとこ)でも、女(をんな)でも、外国(がいこく)から捕虜(とりこ)にして来(き)たものを奴隷(どれい)にして売(う)ると云(い)ふようなことがあつたのですね。見(み)ると、一人(ひとり)の若(わか)い、それは/\美(うつく)しい娘(むすめ)が台(だい)の上(うへ)にのせられて、せりにかけられてゐました。それを買(か)はうとしてゐるのは、この都(みやこ)の警視総監(けいしそうかん)の息(むすこ)で、ハバズラムといふ醜(みにく)い男(をとこ)でございました。娘奴隷(むすめどれい)はその男(をとこ)に買(か)はれるのが厭(いや)だと見(み)えて、しく/\泣(な)いてゐるのですね。それを見(み)ると、アラ・エ・デイーンは急(きゆう)に可愛(かわい)そうになつて、どうかしてその女(をんな)を救(すく)つてやりたいと思(おも)ひました。で、つか/\と前(まへ)へ出(で)て、自分(じぶん)が黄金(おうごん)の一千枚(いつせんまい)でそれを買(か)ひ取(と)らうと云(い)ひ出(だ)しました。すると、ハバズラムもやつきとなつて、
「では、俺(わし)も黄金(おうごん)をもう一枚(いちまい)増(ま)さう。一千一枚(いつせんいちまい)で買(か)つた」と、どなりました。
「では.黄金二千枚(おうごんにせんまい)」と、アラ・エ・デイーンも叫(さけ)びました。
かうして、ハバズラムが黄金(おうごん)一千枚(いつせんまい)づゝ、せり上(あ)げるたびに、アラ・エ・デイーンの方(ほう)では一千枚(いつせんまい)づゝ増(ま)して行(い)きました。それを見(み)て、ハバズラムは非常(ひじよう)に腹(はら)を立(た)てました。が、腹(はら)を立(た)てたところで、どうにもならない。とう/\その娘奴隷(むすめどれい)は黄金(おうごん)一万枚(いちまんまい)でアラ・エ・デイーンの手(て)に買(か)ひ取(と)られました。で、彼(かれ)は一(いつ)たんその女(をんな)を家(いへ)に連(つ)れて帰(かへ)つた後(のち)、すぐに解放(かいほう)してやらうといたしました。が、女(をんな)の方(ほう)では、彼(かれ)の恩(おん)に感(かん)じて、どうしてもこのうちに置(お)いてくれと云(い)ふので、とう/\その望(のぞ)みに任(まか)せました。そして、教王(きようおう)に願(ねが)つて、あらためて結婚(けつこん)した上(うへ)、二人(ふたり)で仲(なか)よく暮(くら)すようになりました。
一方(いつぽう)ハバズラムは、もうがつかりしてしまつて、まるで病人(びようにん)のようになつて家(いへ)に帰(かへ)りました。そして、すぐさま床(とこ)をとつて寝(ね)ましたが、それからは食物(しよくもつ)もとらなければ、夜(よる)も眠(ねむ)らないので、だん/\衰(おとろ)へて行(ゆ)くばかりでございました。かうなると、お母(つか)さんはもう心配(しんぱい)でなりません。どうしたものかと、毎日(まいにち)気(き)を揉(も)んで暮(くら)してゐるうちに、ある日(ひ)のこと、ふいに一人(ひとり)の婆(ばあ)さんが訪(たづ)ねてまゐりました。
この婆(ばあ)さんは、カマーキンといふ盗賊(とうぞく)の母親(はゝおや)でございました。そして、そのカマーキンといふのは、どんな厚(あつ)い壁(かべ)でも切(き)り破(やぶ)れば、どんな固(かた)い錠前(じようまへ)でもねぢ千切(ちぎ)るといふ、どえらい大泥坊(おほどろぼう)なんですね。ところが、さすがのカマーキンも、ある時(とき)大金(たいきん)を盗(ぬす)んだことから足(あし)がついて、役人(やくにん)の手(て)に取(と)りおさへられた上(うへ)、とう/\監獄(かんごく)へ入(い)れられてしまひました。泥坊(どろぼう)でもわが子(こ)ですから、母親(はゝおや)が心配(しんぱい)して、どうかして警視総監(けいしそうかん)の妻(つま)の取(と)りなしで、わが子(こ)を監獄(かんごく)から出(で)られるようにしてやりたいと、しげ/\通(かよ)つてまゐりました。この日(ひ)もそのためにやつて来(き)たのですが、相手(あひて)が心配(しんぱい)そうな様子(ようす)をしてゐるのを見(み)て、
「一体(いつたい)、どうなさいました」と訊(たづ)ねました。
「どうもハバズラムのかげんが悪(わる)くつてね、この頃(ごろ)ぢやもう命(いのち)もあぶないんだよ」と、総監(そうかん)の妻(つま)は答(こた)へました。そして、かうなつたわけを残(のこ)らず打(う)ちあけて話(はな)しました。それを聞(き)いて、婆(ばあ)さんは膝(ひざ)を進(すゝ)めながら、
「もしこゝに、その女(をんな)を取(と)り戻(もど)して、あなたの息(むすこ)さんの命(いのち)を助(たす)けるものがございましたら、あなたはどうなさいますか」と、云(い)ひました。
「どうなさいますつて、お前(まへ)、そんなことが出来(でき)るのかね」
「出来(でき)ますとも」と、婆(ばあ)さんは答(こた)へました。「伜(せがれ)のカマーキンにやらせたら、きつと取(と)り戻(もど)してお目(め)にかけます。たゞ困(こま)つたのは、あいつが今(いま)監獄(かんごく)へ入(い)れられてゐるのですよ。ですから、どうか教王様(きようおうさま)に取(と)りなして、一日(いちにち)も早(はや)く放免(ほうめん)していたゞくように、あなたから旦那様(だんなさま)にお願(ねが)ひして下(くだ)さいましな。あれが出(で)て来(き)さへすれば、あなたの息(むすこ)さんの思(おも)ひをかなへるくらゐはわけありませんからね。それに、今度(こんど)といふ今度(こんど)はあれも後悔(こうかい)してますから、きつと真人間(まにんげん)になるでせうよ」
総監(そうかん)の妻(つま)は婆(ばあ)さんの話(はなし)を聞(き)いて、なるほどと思(おも)ひました。そして、総監(そうかん)が家(いへ)に帰(かへ)つて来(き)た時(とき)、泣(な)いたり、くどいたりして、そのことを夫(をつと)に頼(たの)みました。総監(そうかん)もとう/\妻子(つまこ)の愛(あい)にひかれて、それを承知(しようち)しました。そして、カマーキンに鎖(くさり)をつけたまゝ、教王(きようおう)の御前(ごぜん)へ出(で)て、いゝようにそこを取(と)りなしました。何(なに)も御存(ごぞん)じない教王(きようおう)は、カマーキンが後悔(こうかい)したと聞(き)いて、すぐにその罪(つみ)をお許(ゆる)しになりました。かうしてカマーキンは、その場(ば)から放免(ほうめん)されたばかりでなく、新(あら)たに夜警(やけい)の隊長(たいちよう)に任命(にんめい)されました。
ところで総監(そうかん)の妻(つま)は、その後(のち)婆(ばあ)さんの顔(かほ)を見(み)るたびに、息(むすこ)の方(ほう)のことはどうしてくれるのだと催促(さいそく)するのですね。婆(ばあ)さんも約束(やくそく)だから仕方(しかた)がない、伜(せがれ)に最初(さいしよ)からの話(はなし)をしてなんとかしてやつて貰(もら)へまいかと相談(そうだん)を持(も)ちかけました。が、カマーキンはもと/\泥坊(どろぼう)でもするような男(をとこ)ですから、
「なに、そんなことはいと易(やす)い話(はなし)だ。今夜(こんや)にも一(ひと)つやつつけて見(み)ませうよ」と、わけなく引(ひ)きうけました。
で、その夜(よ)人(ひと)の寝(ね)ついた頃(ころ)を見計(みはか)らつて、彼(かれ)は大胆(だいたん)にも教王(きようおう)の宮殿(きゆうでん)に忍(しの)び入(い)りました。そして、お伽(とぎ)の者(もの)どもが居眠(ゐねむ)りしてゐる間(あひだ)に、お居間(ゐま)の次(つ)ぎから教王(きようおう)が日頃(ひごろ)大事(だいじ)にしていらつしやる玉(たま)のらんぷを始(はじ)め、二三(にさん)の珍(めづ)らしい宝(たから)を盗(ぬす)み取(と)つて、ふたゝび屋根(やね)づたひに出(で)てまゐりました。そして今度(こんど)はその足(あし)でアラ・エ・デイーンの家(いへ)にはひりました。アラ・エ・デイーンの家(いへ)では、その晩(ばん)結婚(けつこん)の披露(ひろう)をして二人(ふたり)とも疲(つか)れてぐつすり寝込(ねこ)んでゐました。カマーキンはまづ広間(ひろま)へ忍(しの)び込(こ)んで、床(ゆか)の石(いし)を一枚(いちまい)剥(は)がして、その下(した)に盗(ぬす)んで来(き)た宝物(たからもの)を入(い)れました。そして、石(いし)の板(いた)をもとのように直(なほ)して置(お)いてから、又(また)こつそりと出(で)てまゐりました。で、盗(ぬす)んだ物(もの)は何(なに)もかもその家(いへ)に置(お)いて来(き)ましたが、たゞ洋燈(らんぷ)だけは余程(よほど)気(き)に入(い)つたと見(み)えて、
「こいつあいゝ。こいつを前(まへ)に置(お)いて酒(さけ)を飲(の)んだら、さぞうまからうな」と、独言(ひとりごと)を云(い)ひ云(い)ひ、自分(じぶん)の家(いへ)に帰(かへ)つてまゐりました。
明(あ)くる朝(あさ)、教王(きようおう)が眼(め)をお覚(さま)ましになると、例(れい)の品々(しな/゛\)が紛失(ふんしつ)してゐるのですね。それを御覧(ごらん)になつた教王(きようおう)の驚(おどろ)きと怒(いか)りとは、一通(ひととほ)りではありませんでした。そこへカマーキンが警視総監(けいしそうかん)と一緒(いつしよ)に、何(なに)食(く)はぬ顔(かほ)をしてやつてまゐりました。そこで、教王(きようおう)は昨夜(ゆうべ)の出来事(できごと)を二人(ふたり)にお話(はな)しになつた上(うへ)、更(さら)に警視総監(けいしそうかん)に向(むか)つて、
「近々(きん/\)のうちに盗(ぬす)まれた品(しな)を取(と)り返(かへ)して来(く)ればよし、さもなければ、お前(まへ)の首(くび)を刎(は)ねてしまふぞ」と、どなりつけられました。
「御尤(ごもつと)もでございます」と、総監(そうかん)は申(まを)し上(あ)げました。「ですが、私(わたくし)の首(くび)を刎(は)ねられる前(まへ)に、まづカマーキンの首(くび)をお刎(は)ねになつたらよろしからう。これはどうしても夜警(やけい)の隊長(たいちよう)の責任(せきにん)でございますから」
「なる程(ほど)、私(わたくし)の責任(せきにん)に相違(そうい)ござりませぬ」と、カマーキンはわるびれもせすに申(まを)し立(た)てました。
「で、この盗賊(とうぞく)は飽(あ)くまで私(わたくし)が詮議(せんぎ)してお目(め)にかける所存(しよぞん)でございます。それについては、どうか検事(けんじ)を二人(ふたり)と、警官(けいかん)を十人(じゆうにん)ばかり私(わたくし)につけて下(くだ)さいませ」
「うむ、それはお前(まへ)の云(い)ふ通(とほ)りにしてやる」と、教王(きようおう)は仰(おほ)せになりました。「だが、だが、第一番(だいいちばん)に、まづわしの宮殿(きゆうでん)から捜索(そうさく)するがいゝぞ。盗人(ぬすびと)は近(ちか)い所(ところ)にあるといふからな。で、犯人(はんにん)が明白(めいはく)になつた際(さい)には、たとひわが子(こ)であらうとも容赦(ようしや)はせぬから、きつとさう心得(こゝろえ)てゐるがいゝ」
そこでカマーキンは、手(て)に真鍮(しんちゆう)と銅(どう)と鉄(てつ)とで造(つく)つた棍棒(こんぼう)を握(にぎ)つたまゝ、役人(やくにん)どもをつれて、いよ/\捜索(そうさく)に取(と)りかゝりました。まづ宮殿(きゆうでん)の中(なか)から始(はじ)めて、次(つ)ぎには宰相(さいしよう)の邸(やしき)を調(しら)べました。それから侍従(じじゆう)や士官(しかん)どもの邸(やしき)とだん/\検(しら)べて行(い)つて、とう/\アラ・エ・デイーンの邸(やしき)へやつてまゐりました。アラ・エ・デイーンは夢(ゆめ)にもそんな覚(おぼ)えはないから、
「さあ/\、どこなりとも捜索(そうさく)して下(くだ)さい」と、戸(と)を開(ひらに)いて一同(いちどう)を招(しよう)じました。
で、警視総監(けいしそうかん)を先頭(せんとう)に、一同(いちどう)どや/\とはひつて行(い)つて、部屋(へや)から部屋(へや)と検(しら)べにかゝりました。そのうちに、カマーキンは広間(ひろま)へはひつて、一(ひと)つ/\床石(ゆかいし)を叩(たゝ)いて見(み)ながら、例(れい)の石(いし)の上(うへ)まで来(く)ると、棍棒(こんぼう)の先(さき)で力任(ちからまか)せにそれを突(つ)きました。すると、それが幾(いく)つにも破(わ)れて、破(わ)れた石(いし)の間(あひだ)から、何(なに)やら光(ひか)る物(もの)が見(み)えました。それを見(み)ると、カマーキンは急(きゆう)に大声(おほごゑ)を上(あ)げて、
「どうやら盗人(ぬすびと)は見(み)つかりましたぞ」と、よばはりました。
その声(こゑ)を聞(き)いて、検事(けんじ)も警官(けいかん)もあわてゝそこへ駈(か)け着(つ)けました。そして、その床石(ゆかいし)を上(あ)げて見(み)ると、案(あん)の定(じよう)その下(した)から盗難(とうなん)の品(しな)があらはれたのですね。かうなつてはもう、いくら身(み)に覚(おぼ)えがなくとも仕方(しかた)がない。アラ・エ・デイーンは高手小手(たかてこて)に縛(しば)り上(あ)げられたまゝ引(ひ)つ立(た)てられました。
その間(あひだ)に、アラ・エ・デイーンの妻(つま)も、カマーキンの手(て)に捕(とら)へられて、有無(うむ)を言(い)はせず警視総監(けいしそうかん)の妻(つま)の手許(てもと)へ連(つ)れて行(ゆ)かれました。息(むすこ)のハバズラムは、一目(ひとめ)彼女(かのじよ)の姿(すがた)を見(み)るや、もう元気(げんき)が恢復(かいふく)して、にや/\しながら、彼女(かのじよ)のそばへ近寄(ちかよ)らうとしました。が、彼女(かのじよ)はいきなり帯(おび)の間(あひだ)から懐剣(かいけん)を抜(ぬ)き出(だ)して、そばへでも寄(よ)らうものなら、相手(あひて)を殺(ころ)して、自分(じぶん)も死(し)んでしまひそうなけはひを示(しめ)しました。で、寄(よ)るには寄(よ)れず、ハバズラムはいよ/\思(おも)ひが募(つの)るばかりで、再(ふたゝ)びどつとわづらひついてしまひました。総監(そうかん)の妻(つま)も非常(ひじよう)に腹(はら)を立(た)てゝ、打(ぶ)つたり、つめつたり、さんざいぢめぬきました。が、固(かた)い女(をんな)の決心(けつしん)はどうするわけにも行(ゆ)きません。とう/\持(も)てあまして、汚(きたな)い着物(きもの)に替(か)へさせたまゝ、台所(だいどころ)へ追(お)ひ下(お)ろして、下働(したばたら)きの女奴隷(をんなどれい)にしてしまひました。
ところで、アラ・エ・デイーンは、床下(ゆかした)から出(で)た宝物(たからもの)と一緒(いつしよ)に、教王(きようおう)の御前(ごぜん)に引(ひ)き据(す)ゑられました。教王(きようおう)はそれ等(ら)の品々(しな/゛\)を検(しら)べて見(み)られましたが、その中(なか)に肝心(かんじん)のらんぷが一(ひと)つだけ足(た)りませんでした。で、相手(あひて)を睨(にら)みつけるようにしながら、
「らんぷはどうした」と、おたづねになりました。
「私(わたし)はなんにも盗(ぬす)んだ覚(おぼ)えはござりませぬ。また、何(なに)も存(ぞん)じませぬ。見(み)たことさへござりませぬ」と、アラ・エ・デイーンは答(こた)へました。
「知(し)らぬ筈(はず)はない。この場(ば)に臨(のぞ)んで嘘(うそ)をつくとは何事(なにごと)だ、この恩(おん)知(し)らずめが。わしはあれ程(ほど)お前(まへ)を可愛(かわい)がつてやつたのに、そのわしを裏切(うらぎ)つて、盗(ぬす)みをするとは何事(なにごと)だ」と、教王(きようおう)は言葉(ことば)鋭(するど)く仰(おほ)せられました。そして、時(とき)を移(うつ)さず彼(かれ)を絞首台(こうしゆだい)へかけるように命(めい)ぜられました。
ところで、アラ・エ・デイーンづきの隊長(たいちよう)に、アーマツドといふ男(をとこ)がございました。この男(をとこ)はかねてデイーンの正直(しようじき)で潔白(けつぱく)なことを知(し)つてゐましたので、彼(かれ)がいよ/\絞首台(こうしゆだい)にかけられるといふ噂(うはさ)を聞(き)いて、いかにも気(き)の毒(どく)に思(おも)ひました。で、どうかして助(たす)ける工夫(くふう)はないかと考(かんが)へた末(すゑ)、牢番(ろうばん)の許(もと)へ駈(か)けつけて、鼻(はな)ぐすりを使(つか)つて、一(ひと)わたり牢(ろう)の中(なか)を見(み)せて貰(もら)ひました。そして、死刑(しけい)になりそうな囚人(しゆうじん)の中(なか)から一人(ひとり)アラ・エ・デイーンによく似(に)た男(をとこ)を引(ひ)き出(だ)して、その男(をとこ)を連(つ)れて、ふたゝび絞首台(こうしゆだい)の下(した)へ駈(か)け着(つ)けました。そこにはアラ・エ・デイーンがもう眼(め)を白(しろ)い布(ぬの)で縛(しば)られたまゝ立(た)つてゐました。それを見(み)ると、アーマツドは役人(やくにん)どもに向(むか)つて、
「おい、この男(をとこ)を代(かは)りに絞首台(こうしゆだい)へ上(のぼ)せてくれ。アラ・エ・デイーンはおれが預(あづ)かつた」と、いきなりどなりました。
役人(やくにん)どももそれには驚(おどろ)きました。が、かねてアーマツドのがむしやらなことは知(し)つてゐるし、それにアラ・エ・デイーンのことも可愛(かわい)そうだと思(おも)つてゐたところなので、黙(だま)つてアーマツドに引(ひ)き渡(わた)しました。そして、その代(かは)りに、アーマツドの連(つ)れて来(き)た囚人(しゆうじん)を絞首台(こうしゆだい)に上(のぼ)らせました。
それからアーマツドはアラ・エ・デイーンを自分(じぶん)のうちへ連(つ)れて来(き)ました。そして、
「一体(いつたい)、どうしてこんなことになつたのです」と、あらためてたづねました。
そこでデイーンは自分(じぶん)が無実(むじつ)の罪(つみ)に陥(おちい)つたことを委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせました。
「が、いくら無実(むじつ)の罪(つみ)でも、あなたはもうバグダツドに住(す)んでゐることは出来(でき)ますまい。教王(きようおう)の眼(め)をのがれるのは、なか/\容易(ようい)なことぢやありませんからね。が、まあ安心(あんしん)していらつしやい。私(わたし)が手引(てび)きをして、無事(ぶじ)にアレキサンドリーの町(まち)へ落(おと)して上(あ)げますよ」と、アーマツドは頼(たの)もしそうに云(い)ひました。そして、その日(ひ)の中(うち)に支度(したく)をして、アラ・エ・デイーンを連(つ)れたまゝ、バグダツドの都(みやこ)を後(あと)に出発(しゆつぱつ)しました。
で、二人(ふたり)は途中(とちゆう)いろ/\な目(め)に遭(あ)ひながら、日(ひ)を重(かさ)ねてアヤースの港(みなと)へ着(つ)きました。そこから船(ふね)に乗(の)つて、とう/\目指(めざ)すアレキサンドリーの港(みなと)へ上陸(じようりく)しました。で、まづ市場(いちば)の方(ほう)へ出(で)かけて行(ゆ)くと、そこに一人(ひとり)の仲買(なかが)ひ人(にん)がゐて、一軒(いつけん)の店(みせ)をせり売(う)りにかけてゐました。アラ・エ・デイーンは黄金(おうごん)一千枚(いつせんまい)で、その店(みせ)を買(か)ひ取(と)りました。それから鍵(かぎ)を貰(もら)つて、その店(みせ)を開(あ)けて見(み)ると、倉庫(そうこ)の中(なか)には、帆(ほ)だの、帆綱(ほづな)だの、革(かは)の鞍(くら)だの、鐙(あぶみ)だの、ないふだの、鋏(はさみ)だのといふようなものが一杯(いつぱい)詰(つ)まつてゐました。つまりその店(みせ)の持(も)ち主(ぬし)はもと古道具屋(ふるどうぐや)をしてゐたらしいのですね。かうして彼(かれ)はそれ等(ら)の物(もの)をそつくり手(て)に入(い)れて、大(たい)した元手(もとで)もなしに商売(しようばい)を始(はじ)めることが出来(でき)ました。それを見(み)て、アーマッドも安心(あんしん)したので、三日(みつか)の間(あひだ)そこに滞在(たいざい)した後(のち)、再(ふたゝ)び、バグダツドを指(さ)して帰(かへ)つて行(ゆ)きました。
一方(いつぽう)、警視総監(けいしそうかん)の息(むすこ)のハバズラムは、どうしてもヤーセミン──これはアラ・エ・デイーンの妻(つま)の名(な)でございます──が思(おも)ふようにならぬので、気(き)を揉(も)み/\、とう/\死(し)んでしまひました。ところで、そのヤーセミンはどうかと云(い)ふと、その家(いへ)に女奴隷(をんなどれい)となつて働(はたら)いてゐながら、ちようどアラ・エ・デイーンと結婚(けつこん)して一年目(いちねんめ)に、玉(たま)のような一人(ひとり)の男(をとこ)の子(こ)を生(う)み落(おと)しました。そして、その名(な)をアスラーンとつけました。アスラーンとはアラビヤ語(ご)の獅子(しゝ)といふことでした。ところで、アスラーンはその名(な)のように丈夫(じようぶ)な子(こ)で、不自由(ふじゆう)の多(おほ)い生活(せいかつ)の中(なか)に、病気(びようき)一(ひと)つせずに育(そだ)つて行(い)きました。かうして又(また)二箇年(にかねん)の月日(つきひ)が経(た)ちました。ある日(ひ)、彼(かれ)の母(はゝ)が台所(だいどころ)で用(よう)をしてゐる間(あひだ)に、アスラーンは一人(ひとり)で広間(ひろま)の階段(かいだん)を上(のぼ)つて行(い)きました。その広間(ひろま)には、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドが坐(すわ)つてゐましたが、アスラーンがあんまり可愛(かわい)らしい顔(かほ)をしてゐるので、思(おも)はず抱(だ)き上(あ)げて膝(ひざ)に載(の)せました。そして、つくづくその子(こ)の顔(かほ)を眺(なが)めながら、
「親子(おやこ)とは云(い)へ、さてもよくアラ・エ・デイーンに似(に)てゐるものだな」と、思(おも)つてゐました。
そこへ母親(はゝおや)のヤーセミンがその子(こ)を捜(さが)しながらはひつてまゐりました。アスラーンは母親(はゝおや)の顔(かほ)を見(み)ると、すぐに警視総監(けいしそうかん)の膝(ひざ)を離(はな)れて、そちらへ行(ゆ)かうとしました。が、彼(かれ)はそれをやらぬように、しつかりと抱(だ)きしめながら、母親(はゝおや)に向(むか)つて、
「この子(こ)も父(てゝ)なし子(ご)になつて可愛(かわい)そうなものだね」と、云(い)ひました。
ヤーセミンは下(した)を向(む)いたまゝ黙(だま)つてゐました。
「これからは俺(おれ)がこの子(こ)の親代(おやがは)りになつてやるよ」と、カーリツドはつゞけて云(い)ひました。
「で、この子(こ)が成長(せいちよう)して、わたしのお父(とう)さんは誰(だれ)かときくようになつたら、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドがお前(まへ)の親(おや)だと教(をし)へてやるがいゝ。なに、そんなことに遠慮(えんりよ)はいらないからな」
ヤーセミンは、心(こゝろ)の中(なか)に厭(いや)なことだとは思(おも)ひましたが、相手(あひて)は主人(しゆじん)のことではあるし、どうするわけにも行(い)きませんから、
「はい、かしこまりました」と、答(こた)へました。そして.それからはカーリツドのことを「お父(とう)さん、お父(とう)さん」と、呼(よ)ばせるように仕向(しむ)けました。
で、カーリツドもいよ/\その子(こ)が可愛(かわい)くなつて、何(なに)くれとなく自分(じぶん)の手許(てもと)で面倒(めんどう)を見(み)ました。そして、少(すこ)しく大(おほ)きくなつてからは、いろ/\な学問(がくもん)を始(はじ)めとして、投(な)げたり打(う)つたりする戦(いくさ)の術(すべ)まで教(をし)へました。ですから、アスラーンが十四歳(じゆうしさい)になつた頃(ころ)には、一角(ひとかど)馬術(ばじゆつ)にも達(たつ)して、勇気(ゆうき)の勝(すぐ)れた、立派(りつぱ)な若武者(わかむしや)になりました。
その後(ご)になつて、ある日(ひ)アスラーンは大盗賊(だいとうぞく)のカマーキンに出会(であ)ひました。そして、二人(ふたり)はお友達(ともだち)になりました。アスラーンは彼(かれ)について酒屋(さかや)へまゐりました。すると、どうでせう、カマーキンは玉(たま)で飾(かざ)つたらんぷを取(と)り出(だ)して、それを前(まへ)に据(す)ゑたまゝ、その光(ひかり)で酒(さけ)を飲(の)むんですね。そして、だん/\酔(よ)ひが廻(ま)はつて来(き)ました。アスラーンは何心(なにごゝろ)なく、
「隊長(たいちよう)さん、そのらんぷをわたしにくれないか」と、云(い)つて見(み)ました。
「いや、これはやれないよ」と、カマーキンは答(こた)へました。
「どうして」と、アスラーンは聞(き)き返(かへ)しました。「くれてもいゝぢやないの」
「いや、こればかりはやれないよ」と、カマーキンは再(ふたゝ)び云(い)ひました。「このらんぷのためにや、大勢(おほぜい)の人(ひと)が命(いのち)を落(おと)してゐるからな」
「どんな人(ひと)が命(いのち)を落(おと)したの」
「アラ・エ・デイーンといふ男(をとこ)さ」
「よく根掘(ねほ)り葉掘(はほ)り聞(き)きたがるね」と、カマーキンは笑(わら)ひました。「だが、まあいゝや、お前(まへ)にだけは教(をし)へてやらう。実(じつ)はお前(まへ)にはハバズラムといふ一人(ひとり)の兄(にい)さんがあつたのだ。その兄(にい)さんが年頃(としごろ)になつても嫁(よめ)の来手(きて)がないものだから、お父(とう)さんは一人(ひとり)、娘奴隷(むすめどれい)を買(か)つて息(むすこ)に宛(あ)てがはうとしたんだがね」
かう云(い)つて、カマーキンはだん/\話(はなし)を進(すゝ)めて、ハバズラムが病気(びようき)になつたことから、アラ・エ・デイーンが罪(つみ)もないのに死刑(しけい)に処(しよ)せられたことまで、残(のこ)らず語(かた)つて聞(き)かせました。それを聞(き)いて、アスラーンは虫(むし)が知(し)らせるのか、心(こゝろ)の中(なか)に「どうもその娘奴隷(むすめどれい)といふのは、お母(つか)さんのヤーセミンのことらしい。アラ・エ・デイーンといふのも、どうかするとわたしのお父(と)うさんかも知(し)れないよ」と、思(おも)ひました。そして、カマーキンと別(わか)れて、悲(かな)しそうな顔(かほ)をしながら、しほ/\として出(で)て行(い)きました。
ところで、同(おな)じ店(みせ)に隊長(たいちよう)のアーマツドも酒(さけ)を飲(の)んでゐました。そして、アスラーンがしほしほと出(で)て行(ゆ)く後姿(うしろすがた)を見(み)て、よくアラ・エ・デイーンに似(に)た子供(こども)もあるものだなと、ひとり心(こゝろ)に驚(おど)ろきました。で、すぐ後(あと)から追(お)つかけて来(き)て、少年(しようねん)をよびとめながら、
「お前(まへ)のお母(かあ)さんの名(な)はなんと云(い)ふかね」と、たづねました。
「わたしのお母(かあ)さんは女奴隷(をんなどれい)のヤーセミンと云(い)ひます」と、アスラーンはありのまゝに答(こた)へました。
「やつぱりさうだつたか」と、アーマンドは手(て)を打(う)つて云(い)ひました。「では、教(をし)へて上(あ)げるがね、お前(まへ)のお父(とう)さんはアラ・エ・デイーンと云(い)ふのだよ。嘘(うそ)だと思(おも)つたら、帰(かへ)つて、お母(かあ)さんに聞(き)いて御覧(ごらん)な」
返(かへ)す/゛\も不思議(ふしぎ)なことばかり聞(き)くので、アスラーンは急(いそ)いで立(た)ち帰(かへ)りました。そして、母親(はゝおや)の顔(かほ)を見(み)ると、いきなり、
「わたしのお父(とう)さんは誰(だれ)ですか」と、たづねました。
「お前(まへ)のお父(とう)さんは、警視総監(けいしそうかん)のカーリツドがそれだよ」
「いえ/\、違(ちが)ひます。本当(ほんとう)はアラ・エ・デイーンと云(い)ふのでせう」
それを聞(き)いて、母親(はゝおや)は思(おも)はずわつと泣(な)き出(だ)してしまひました。そして、涙(なみだ)の中(なか)から、「一(いつ)たい誰(だれ)からそんなことを聞(き)いたのだえ」と、聞(き)き返(かへ)しました。
アスラーンはそれに答(こた)へました。「隊長(たいちよう)のアーマツドから聞(き)いたのです」
「さうかえ、それぢや、もう隠(かく)し置(お)いても仕方(しかた)がないから、本当(ほんとう)のことを云(い)つて聞(き)かせますがね。実(じつ)はお前(まへ)はアラ・エ・デイーンさまのわすれがたみなんだよ」
かう云(い)つて、彼女(かのじよ)は夫(をつと)が無実(むじつ)の罪(つみ)に落(お)ちて死(し)んだことから、自分(じぶん)がこの家(いへ)へ連(つ)れて来(こ)られて、いろんな目(め)に遭(あ)ひながら、今日(こんにち)迄(まで)わが子(こ)を育(そだ)てゝ来(き)たことまで、委(くは)しく話(はな)して聞(き)かせました。それから又(また)言葉(ことば)をついで、「さう云(い)ふわけだから、お前(まへ)さんも今度(こんど)アーマツドに出会(であ)つたら、どうかわたしを助(たす)けて親(おや)の敵(かたき)を討(う)たせて下(くだ)さいとお願(ねが)ひして見(み)るがいゝんだよ。さう云(い)ふ親切(しんせつ)な方(かた)なら、又(また)どんな力(ちから)になつて下(くだ)さるまいものでもないからね」と、申(まを)しました。
そこで、アスラーンは早速(さつそく)アーマツドを訪(たづ)ねて、
「わたしは生(う)みの父(ちゝ)がアラ・エ・デイーンだといふことを確(たしか)めてまゐりました。お願(ねが)ひですから、どうぞ私(わたし)を助(たす)けて、親(おや)の敵(かたき)を討(う)たせて下(くだ)さい」と、頼(たの)みました。
「だが、一(いつ)たい誰(だれ)がお前(まへ)の父親(ちゝおや)を殺(ころ)したと云(い)ふんだね」と、アーマツドはたづねました。
「あの大盗賊(だいとうぞく)のカマーキンですよ」
「ふむ、どうして又(また)それがわかつたかね」
「わたしはあの人(ひと)が玉(たま)のらんぷを持(も)つてゐるのを見(み)ました」と、少年(しようねん)は答(こた)へました。「そればかりぢやない、あの人(ひと)が教王(きようおう)のお居間(ゐま)へ忍(しの)び込(こ)んでらんぷと一緒(いつしよ)にいろんな宝物(たからもの)を盗(ぬす)んで来(き)た。そして、それをわたしの父(ちゝ)の家(いへ)に隠(かく)して置(お)いたといふことまで、現在(げんざい)あの人(ひと)の口(くち)から聞(き)いたんですよ」
「ふむ」と、つく/゛\それを聞(き)いてゐたアーマツドは云(い)ひました。「さう云(い)ふことなら、私(わたし)も力(ちから)をかして上(あ)げてもいゝが、しかしこれはなか/\むづかしいね。何(なに)しろ向(む)かうも今(いま)では教王(きようおう)の臣下(しんか)になつてゐるのだから、教王(きようおう)のお許(ゆる)しがなけりや討(う)つことは出来(でき)ない」
かう云(い)つて、アーマツドは、「とにかくお前(まへ)さんも今(いま)の父親(ちゝおや)の警視総監(けいしそうかん)にお願(ねが)ひして、あの方(かた)と同(おな)じように、毎日(まいにち)物(もの)の具(ぐ)に身(み)を固(かた)めて、教王(きようおう)のお身(み)を守護(しゆご)することの出来(でき)るように取(と)り計(はか)らつてお貰(もら)ひなさい。そして、そのうちに、何(なに)か一(ひと)つ手柄(てがら)を立(た)てたら、こちらの願(ねが)ひも聞(き)き届(とゞ)けていたゞけよう」と、助言(じよげん)してくれました。
アスラーンは喜(よろこ)び勇(いさ)んで家(いへ)に帰(かへ)りました。そして、そのことを総監(そうかん)のカ−リツドに頼(たの)むとカーリツドもすぐに承知(しようち)して、そのように取(と)り計(はか)らつてくれました。それから彼(かれ)は、毎日(まいにち)物(もの)の具(ぐ)に身(み)を堅(かた)めて教王(きようおう)の御前(ごぜん)へ伺候(しこう)するようになりました。ある日(ひ)のこと、教王(きようおう)は多(おほ)くの軍卒(ぐんそつ)どもを引(ひ)き連(つ)れて、都(みやこ)の外(そと)のごるふ場(じよう)へおなりになりました。そして、しばらくの間(あひだ)侍従(じじゆう)どもを相手(あひて)にそのお遊(あそ)びをしてゐられました。これは一人(ひとり)がごるふ棒(ぼう)を取(と)つて球(たま)を飛(と)ばすと、他(た)の一人(ひとり)がそれを打(う)ち返(かへ)す遊(あそ)びでございます。ところが、軍卒(ぐんそつ)どもの間(あひだ)に、一人(ひとり)敵国(てきこく)の廻(まは)し者(もの)が忍(しの)んでゐて、教王(きようおう)をなきものにしようと附(つ)け覘(ねら)つてゐました。そして、教王(きようおう)のお顔(かほ)を覘(ねら)つて球(たま)を投(な)げつけたのですね。が、アスラーンは早(はや)くもそれと知(し)つて、教王(きようおう)とその男(をとこ)との間(あひだ)に馬(うま)を駈(か)け入(い)らせながら、投(な)げつけた球(たま)をそのまゝ打(う)ち返(かへ)してやりました。それが相手(あひて)の胸(むね)にあたつたからたまりません。真(ま)つ逆(さか)さまに落(お)ちて、廻(まは)し者(もの)はその場(ば)に取(と)り押(おさ)へられてしまひました。危(あやふ)い命(いのち)を助(たす)かつた教王(きようおう)は、非常(ひじよう)に喜(よろこ)んで、すぐさまアスラーンを御前(ごぜん)へお召(め)しの上(うへ)、
「この褒美(ほうび)には、なんでもお前(まへ)の欲(ほ)しいものを望(のぞ)んだがいゝぞ」と、仰(おほ)せられました。
アスラーンはこゝぞと思(おも)つて
「お願(ねが)ひでございますから、どうぞ父(ちゝ)の仇(あだ)を討(う)たせて下(くだ)さいませ」と、申(まを)し上(あ)げました。
教王(きようおう)はその言葉(ことば)を不審(ふしん)に思(おも)つて、
「お前(まへ)の父(ちゝ)は立派(りつぱ)に生(い)きてゐるではないか」
「いえ、あれは仮(かり)の親(おや)でございます。まことの父(ちゝ)はアラ・エ・デイーンの外(ほか)にござりませぬ」と、アスラーンは答(こた)へました。
それを聞(き)いて、教王(きようおう)は急(きゆう)に顔(かほ)を曇(くも)らせながら、
「あれはわしの物(もの)を盗(ぬす)んだ裏切(うらぎ)り者(もの)だよ。いくらお前(まへ)の願(ねが)ひでも、あんな者(もの)のことは聞(き)くわけに行(い)かんぞ」と、仰(おほ)せられました。
「いゝえ、それは無実(むじつ)の罪(つみ)でございます」と、アスラーンは一(いつ)しよう懸命(けんめい)に申(まを)し上(あ)げました。
「その証拠(しようこ)には、アラ・エ・デイーンの家(いへ)をおしらべになつた時(とき)、他(ほか)の物(もの)と一緒(いつしよ)に、あの玉(たま)のらんぷもあなた様(さま)のお手(て)に戻(もど)りましたか。それが戻(もど)つてゐませんでしたら、どうか先(ま)づそのらんぷから詮議(せんぎ)をして下(くだ)さいませ」
「ふうむ」と、教王(きようおう)もお考(かんが)へになりました。
「して、それがどうしたと云(い)ふのだ」
「それを隊長(たいちよう)のカマーキンが持(も)つてゐるのでございます」
かう云(い)つて、アスラーンはカマーキンが居酒屋(ゐざかや)でそのらんぷを出(だ)して見(み)せて、このらんぷのためにはアラ・エ・デイーンが命(いのち)を捨(す)てたが、その起(おこ)りはかう/\だと、彼(かれ)がその場(ば)でしやべつたことを逐一(ちくいち)申(まを)し立(た)てました。そのことをお聞(き)きになつた教王(きようおう)は、憤然(ふんぜん)として、
「すぐさま、カーマキンを召(め)し捕(と)れ」と、命(めい)ぜられました。
役人(やくにん)どもはすぐにカマーキンに縄(なは)をかけて、御前(ごぜん)に引(ひ)き据(す)ゑました。教王(きようおう)はそれから隊長(たいちよう)のアーマツドを振(ふ)り返(かへ)つて、
「その方(ほう)一(ひと)つカマーキンの身体(しんたい)を検(しら)べて見(み)ろ」と、仰(おほ)せられました。
アーマツドはお言葉(ことば)にかしこまつて、カマーキンに近寄(ちかよ)りながら、まづそのかくしに手(て)を突(つ)つ込(こ)んで見(み)ました。すると、たちまちその中(なか)から玉(たま)のらんぷがあらはれました。それを見(み)ると、教王(きようおう)はまた/\真赤(まつか)になつて、
「こらつ。そのらんぷはどこから持(も)つて来(き)た」と、どなりつけられました。
「私(わたくし)はそれを買(か)ひましたのでございます」と、カマーキンはこの場(ば)になつても、まだしらを切(き)らうとしました。が、役人(やくにん)どもが寄(よ)つてたかつて革(かは)の鞭(むち)で打(ぶ)ちのめしたので、とうとう彼(かれ)も包(つゝ)み切(き)れないで、実(じつ)はこれ/\かう云(い)ふわけで、総監(そうかん)の妻(つま)に頼(たの)まれて、御殿(ごてん)へ忍(しの)び込(こ)んで奪(うば)ひ取(と)りました。と、残(のこ)らず泥(どろ)を吐(は)いてしまひました。
その白状(はくじよう)を聞(き)いて、教王(きようおう)は警視総監(けいしそうかん)まで即座(そくざ)に搦(から)め取(と)らうとなさいました。が、アスラーンも彼(かれ)のために命乞(いのちご)ひをしましたし、もともと総監(そうかん)は自分(じぶん)の妻(つま)の悪(わる)だくみを知(し)らないでやつてゐたことですから、とくにアスラーンの母(はゝ)を元(もと)の身分(みぶん)にして、取(と)り上(あ)げた品々(しな/゛\)を返(かへ)してやるだけで、とくに御赦免(ごしやめん)にあづかりました。教王(きようおう)はなほ総監(そうかん)に命(めい)じて、アラ・エ・デイーンの家(いへ)に貼(は)りつけた封印(ふういん)を剥(は)がさせた上(うへ)、その家(いへ)と財産(ざいさん)とを悉(ことごと)くアスラーンに返(かへ)されました。
で最後(さいご)に教王(きようおう)はアスラーンに向(むか)つて、
「かうなつた上(うへ)は、なんでもお前(まへ)の欲(ほ)しいものを望(のぞ)むがいゝぞ。これまでの償(つぐな)ひにきつとかなへてやるからな」と、ふたゝび懇(ねんご)ろに仰(おほ)せられました。
「別(べつ)に欲(ほ)しいものとてござりませぬ」と、アスラーンはそれに答(こた)へました。「私(わたくし)はたゞもう一度(いちど)父(ちゝ)に会(あ)ひたいだけでございます」
「それだけはどうもかなへて遣(や)れぬな」と、教王(きようおう)も涙(なみだ)ぐんで云(い)はれました。「あれは絞首台(こうしゆだい)にかけられて、とうに死(し)んでゐるからな、しかし、あれが万一(まんいち)にも生(い)きてゐると知(し)らせてくれるものがあつたら、わしはその者(もの)にどんな願(ねが)ひでも聞(き)いてやるつもりだよ」
「本当(ほんとう)にどんな願(ねが)ひでも聞(き)いていたゞけますか」と、アーマツドが急(きゆう)に前(まへ)へ出(で)て来(き)て平伏(へいふく)しました。「それなら申(まを)し上(あ)げますが、私(わたくし)は確(たしか)にアラ・エ・デイーンの現在(げんざい)生(い)きてゐる所(ところ)を知(し)つてをります」
「なに、そちの云(い)ふことはそりや本当(ほんとう)か」と、教王(きようおう)もびつくりして聞(き)き返(かへ)されました。
「何(なに)しに嘘(うそ)を申(まを)し上(あ)げませう。現在(げんざい)この私(わたくし)が絞首台(こうしゆだい)の上(うへ)からあの方(かた)を救(すく)ひ出(だ)して、他(ほか)の囚人(しゆうじん)を身代(みがは)りに立(た)てゝ置(お)いたまゝ、アレキサンドリーの町(まち)へ連(つ)れて行(い)つて、現在(げんざい)あそこに住(す)ませてあるのでございますから」と、アーマツドは逐一(ちくいち)申(まを)し立(た)てました。そして、その後(あと)からすぐに云(い)ひ添(そ)へました。「この事(こと)を申(まを)し上(あ)げました代(かは)りに、前(まへ)のお言葉(ことば)に拠(よ)つて、どうか私(わたくし)の国法(こくほう)を犯(おか)しました罪(つみ)はお許(ゆる)し下(くだ)さいませ」
それを聞(き)くと、教王(きようおう)は大(たい)そうお喜(よろこ)びになつて、アーマツドの罪(つみ)を赦(ゆる)されたばかりでなく、御褒美(ごほうび)までたまはりました。そして、すぐさまアラ・エ・デイーンを迎(むか)へ取(と)りに、この男(をとこ)を遺(つか)はされました。
一方(いつぽう)アラ・エ・デイーンは、その間(あひだ)にアレキサンドリーから知(し)らぬ他国(たこく)に渡(わた)つて、さまざまな艱難辛苦(かんなんしんく)に出遭(であ)つてをりました。が、間(ま)もなく