梅花集
(晶子の歌のみ抽出)
昭和八年二月廿六日与謝野寛先生満六十回誕辰の賀莚に詠める
難波津に咲く木の花の道ながら葎繁りき君が行くまで
うちつけに云はば詩人に梅似たり五公を凌ぐ花と聞けども
梅立ちて日のさす藁屋蓬莱をこの姿とも思ひけるかな
清らなる梅花浮けたり山房の厨の桶もさかづきのごと
暗きより暗き閨にぞ香の通ふ見えぬ光の添ふ梅ならん
梅の花いとつつましき軽羅かな白と紅とに妙齢を分く
盛りをば人によそへでありがたし千株の中の第一の梅
梅咲きて都の塵と云ふものも有りとしがたくなりにけるかな
一行に月と売茶の山人がしたがひて来る梅の中みち
潮の鳴り月上り来ておごそかに白き夜作る梅のむら立
雪のうへ赤絵の皿のここちして紅梅ひらき日の光満つ
六十年の春たちかへり二月の二十六日梅の花咲く
梅に住む羅浮の仙女も見たりしと君を人云ふ何ごとならん
白梅を見てときめきしその日より老い給はぬも君が年月
草ならば秋風の野にありなまし二月に至り梅は咲けども
湖の洞爺の山の陽炎が梅を巻くなり屏風のやうに
白鈍き紬の色の梅立ちてあたたかげなる人の家かな
一本のここちよげなる紅梅よ輦車の宣旨下りしならん
明王の剣邪を破るとよたぐひしぬべしわが梅の花
家の内たとへばかまど明神のおはすあたりも梅の香となる
梅の花早く咲きつつ衰ふること速からぬ木の交るかな
紅梅を透して見れば池の端孔雀の色す春の夜明に
梅咲けば蕪村思ほゆその人が唐の詩人を思ひし如く
園の池うすらひもして定めなき寒暖の季のしら梅の花
松山の裾しばらくは枯生にて芥の多し梅咲くところ
友として六十年を送りたる君と梅とをわれらことほぐ
ほのかにも来るべき日を示しつつ思ひ上がれる梅の花かな
紅梅の横に蔵塗る男居て云はず掛巣が羽羽たきぞする
何れとも白雲台を云ひがたし梅の占むると富士の座なると
仮初に梅もとどまる白波の如し入江の風騒ぎつつ
黄金を伏せたる如き雪なれど蕋のめでたき梅を抱くのみ
わが梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと
梅の花微風を蹴る姿すと朝歩きして思ひけるかな
赤土の断崖濡れて梅の花咲ける武相の裏街道よ
月ありてわが茶亭には灯を置けり梅低く咲き梅高く咲く
梅の枝胡弓の棹に似たるをば娘抱けり房州の汽車
白き梅いまだ駝鳥の高さにて離れ立ちたる夕月夜かな
梅咲けば漢宮の女をわれも見る君が描けるは何のまぼろし
わが見ても梅清きかな一本に相思を寄する人たらねども
梅の花雪を負ひたり月明のいみじきに過ぐかかる夜明は
くれなゐのしだれの枝に風吹けばただ袖とのみ見ゆる梅かな
紅梅の幹きはやかに添へるかなたとへて云へば黒繻子の襟
梅こぼるささやかなれど次次に脱ぎしいくつの衣とおぼゆる
一もとの梅匂ふなり山国の日は橇に乗り遠く去れども
紅梅の開く初めのけしきなど幾春もまた変りなきかな
山裾の若木の梅の三角帆竹原を越え海に出づらん
梅の歌詠む春の夜となりにけれ山の住まひの蘭燈のもと
禅室を出でかまくらの紅梅の盛りに逢へりなにがしの谷
片側に船の並びて夕日さし磯山の梅つたふ道かな
内房の端の板敷梅が香も濡れつつ添へり髪干す人に
春の日の雲溜るほど梅咲きて白き方より山風ぞ吹く
山の梅泉の青を帯びて咲く野のしら梅は明星の色
梅の花氷の屑のここちすれ何故となく濡れて光れば
山房は裂く独活にさへ梅が香の分たれてあるここちこそすれ
いと青き海を敷けると天城をば負ふと分れて咲ける梅かな
暁の富士の朱壁のもとに咲く伊豆の山辺のしら梅の花
陽春と冬ごもりとにまたがれる梅花の宴のおもしろきかな
紅梅は雪をぞ著たる宮姫が小忌のころもを上にするごと
伊豆の春梅の林へ入る路の霜に凍りてうぐひすぞ啼く
紅梅が若芽柳を簾としかすめる山とむかふ春かな
梅に寄せ昭和の八とせ春の日に合歓の巻なりぬ百歌
定本与謝野晶子全集
第五巻歌集五
昭和五十六年二月十日第一刷発行
昭和五十七年一月二十日第二刷発行
定価 三千五百円
著者 与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
東京都文京区音羽二-一二-二一
郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇
電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表)
組板 株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社