氷島
萩原朔太郎
(昭和9年6月初版本の複製による。振り仮名は省略)
自 序
近代の抒情詩、概ね皆感覚に偏重し、イマヂズムに走り、或は理智の意匠的構成に耽つて、詩的情熱の単一な原質的表現を忘れて居る。却つてこの種の詩は、今日の批判で素朴的なものに考へられ、詩の原始形態の部に範疇づけられて居る。しかしながら思ふに、多彩の極致は単色であり、複雑の極致は素朴であり、そしてあらゆる進化した技巧の極致は、無技巧の自然的単一に帰するのである。芸術としての詩が、すべての歴史的発展の最後に於て、究極するところのイデアは、所詮ポエヂイの最も単純なる原質的実体、即ち詩的情熱の素朴純粋なる咏嘆に存するのである。 (この意味に於て、著者は日本の和歌や俳句を、近代詩のイデアする未来的形態だと考へて居る。)
かうした理屈はとにかく、この詩集に納めた少数の詩は、すくなくとも著者にとつては、純粋にパツシヨネートな咏嘆詩であり、詩的情熱の最も純一の興奮だけを、素朴直截に表出した。換言すれば著者は、すべての芸術的意図と芸術的野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。したがつて著者は、決して自ら、この詩集の価値を世に問はうと思つで居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく芸術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだらう。
著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、佗しい氷山の生活だつた。その氷山の嶋々から、幻像のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ、悩み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して来た。著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の佗しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その実生活の日記とを、著者はすべて此等の辞意に書いたのである。読者よろしく、巻尾の小解と参照して読まれたい。
因に、集中の「郷土望景詩」五篇は、中「監獄裏の林」の一篇を除く外、すべて既刊の集に発表した旧作である。此所にそれを再録したのは、詩のスタイルを同一にし、且つ内容に於ても、本書の詩篇と一脈の通ずる精神があるからである。換言すればこの詩集は、或る意味に於て「郷土望景詩」の続篇であるかも知れない。著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を叙べるのである。それ故にこそ、すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌はれて居る。読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない。これは「歌ふための詩」なのである。
昭和九年二月
著 者
目 次
漂泊者の歌
遊園地にて
乃木坂倶楽部
殺せかし!殺せかし!
帰郷
波宜亭
家庭
珈琲店 酔月
新年
晩秋
品川沖観艦式
火
地下鉄道にて
小出新道
告別
動物園にて
中学の校庭
国定忠治の墓
広瀬川
虎
無用の書物
虚無の鴉
我れの持たざるものは一切なり
監獄裏の林
昨日にまさる恋しさの
詩篇小解
我が心また新しく泣かんとす
冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣
漂泊者の歌
日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。
ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば滄爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂蓼を踏み切れかし。
ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。
ああ汝 寂蓼の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
遊園地にて
遊園地の午後なりき
楽隊は空に轟き
廻転木馬の目まぐるしく
艶めく紅のごむ風船
群集の上を飛び行けり。
今日の日曜を此所に来りて
われら模擬飛行機の座席に乗れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
座席に肩を寄りそひて
接吻するみ手を借したまへや。
見よこの飛翔する空の向ふに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!
明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど
君の円舞曲は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
乃木坂倶楽部
十二月また来れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寝台を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり。
いかなれば追はるる如く
歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて
昼もなほ酒場の椅子に酔はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また来れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉を叩つくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく暖爐もなく
自堊の荒漠たる洋室の中
我れひとり寝台に醒めて
自室もなほ熊の如くに眠れるなり
殺せかし! 殺せかし!
いかなればかくも気高く
優しく 麗はしく 香はしく
すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。
我れは醜き獣にして
いかでみ情の数にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。
願くは我れを踏みつけ
侮辱し
唾を吐きかけ
また床の上に蹴り
きびしく苛責し
ああ 遂に―
わが息の根の止まる時までも。
我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍従に耐えむより
はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!
帰郷
昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を烈しくせり。
波宜亭
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭の二階によりて
かなしき情感の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干にさへ記せし名なり。
―郷土望景詩―
家庭
古き家の中に座りて
互に臥しつつ語り合へり
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
眼は意地悪しく 復讐に燃え 憎々しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に座りて
眠るべき術もあらじかし。
珈琲店酔月
坂を登らんとして渇きに耐えず
滄浪として酔月の扉を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老ひて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を囲み
我れの酔態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭を数へて盗み去れり。
新年
新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凛烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔ひて恨みず
首度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。
晩秋
汽車は高架を走り行き
思ひは陽ざしの影をさまよふ。
静かに心を願みて
満たさるなきに驚けり。
巷に秋の夕日散り
鋪道に車馬は行き交へども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵の花は咲きたり。
―朗吟のために―
品川沖観艦式
低き灰色の空の下に
軍艦の列は横はれり。
暗憺として錨をおろし
みな重砲の城の如く
無言に沈欝して見ゆるかな。
曇天暗く
埠頭に観衆の群も散りたり。
しだいに暮れゆく海波の上
既に分列の任務を終へて
艦等みな帰港の情に渇けるなり。
冬の日沖に荒れむとして
浪は舷側に凍り泣き
錆は鉄板に食ひつけども
軍艦の列は動かんとせず
蒼茫たる海洋の上
彼等の叫び、渇き、熱意するものを強く持せり。
火
赤く燃える火を見たり
獣類の如く
汝は沈黙して言はざるかな。
夕べの静かなる都会の空に
炎は美しく燃え出づる
たちまち流れはひろがり行き
瞬時に一切を亡ぼし尽せり。
資産も、工場も、大建築も
希望も、栄誉も、富貴も、野心も
すべての一切を焼き尽せり。
火よ
いかなれば獣類の如く
汝は沈黙して言はざるかな。
さびしき憂愁に閉されつつ
かくも静かなる薄暮の空に
汝は熱情を思ひ尽せり。
地下鉄道にて
ひとり来りて地下鉄道の
青き歩廊をさまよひつ
君待ちかねて悲しめど
君が夢には無きものを
なに幻影の後尾燈
空洞に暗きトンネルの
壁に映りて消え行けり。
壁に映りて過ぎ行けり。
「なに幻影の後尾燈」「なに幻影の恋人を」に通ず。掛ケ詞。
小出新道
ここに道路の新開せるは
直として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方の地平をきはめず
暗欝なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かぎる道に
新しき樹木みな伐られたり。
―郷土望景詩―
告別
汽車は出発せんと欲し
汽鑵に石炭は積まれたり。
いま遠き信号燈と鉄路の向ふへ
汽車は国境を越え行かんとす。
人のいかなる愛着もて
かくも機関車の火力されたる
烈しき熱情をなだめ得んや。
駅路に見遣る人々よ
悲しみの底に歯がみしつつ
告別の傷みに破る勿れ。
汽車は出発せんと欲して
すさまじく蒸気を噴き出し
裂けたる如くに吠え叫び
汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。
動物園にて
灼きつく如く寂しさ迫り
ひとり来りて園内の木立を行けば
枯葉みな地に落ち
猛獣は檻の中に憂ひ眠れり。
彼等みな忍従して
人の投げあたへる肉を食らひ
本能の蒼き瞳孔に
鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり
暗欝なる日かな!
わがこの園内に来れることは
彼等の動物を見るに非ず
われは心の檻に閉ぢられたる
飢餓の苦しみを忍び怒れり。
百たびも牙を鳴らして
われの欲情するものを噛みつきつつ
さびしき復讐を戦ひしかな!
いま秋の日は暮れ行かむとし
風は人気なき小径に散らばひ吹けど
ああ我れは尚鳥の如く
無限の寂寥をも飛ばざるべし。
中学の校庭
われの中学にありたる日は
艶めく情熱になやみたり。
怒りて書物を投げすて
ひとり校庭の草に寝ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに彼の青きを飛び去り
天日直射して 熱く帽子の庇に照りぬ。
―郷土望景詩―
国定忠冶の墓
わがこの村に来りし時
上州の蚕すでに終りて
農家みな冬の閾を閉したり。
太陽は埃に暗く
悽而たる竹籔の影
人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
見よ 此処に無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼の眠りたる墓は立てり。
ああ我れ故郷に低徊して
此所に思へることは寂しきかな。
久遠に輪廻を断絶するも
ああかの荒寥たる平野の中
日月我れを投げうつて去り
意志するものを亡び尽せり。
いかんぞ残生を新たにするも
冬の粛條たる墓石の下に
汝はその認識をも無用とせむ。
―上州国定村にて―
広瀬川
広瀬川白く流れたり
時されば皆幻想は消え行かむ。
われの生涯を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
小さき魚は瞳にもとまらず。
―郷土望景詩―
虎
虎なり
曠茫として巨像の如く
百貨店上屋階の檻に眠れど
汝はもと機械に非ず
牙歯もて肉を食ひ裂くとも
いかんぞ人間の物理を知らむ。
見よ 穹窿に煤煙ながれ
工場区街の屋根屋根より
悲しき汽笛は響き渡る。
虎なり
虎なり
午後なり
広告風船は高く揚りて
薄暮に迫る都会の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
沓として眺望すれば
街路を這ひ行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗欝にせり。
虎なり
昇降機械の往復する
東京市中繁華の屋根に
琥珀の斑なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり!
ああすべて汝の残像
虚空のむなしき全景たり。
―銀座松坂屋の屋上にて―
無用の書物
蒼白の人
路上に書物を売れるを見たり。
肋骨みな痩せ
軍鶏の如くに叫べるを聴く。
われはもと無用の人
これはもと無用の書物
一銭にて人に売るべし。
冬近き日に袷をきて
非有の窮乏は酢えはてたり。
いかなれば涙を流して
かくも黄色く古びたる紙頁の上に
わが情熱するものを情熱しつつ
寂しき人生を語り続けん。
われの認識は空無にして
われの所有は無価値に尽きたり。
買ふものはこれを買ふべし。
路上に行人は散らばり去り
烈風は砂を巻けども
わが古き感情は叫びて止まず。
見よ! これは無用の書物
一銭にて人に売るべし。
虚無の鴉
我れはもと虚無の鴉
かの高き冬至の屋根に口を開けて
風見の如くに咆号せむ。
季節に認識ありやなしや
我れの持たざるものは一切なり。
我れの持たざるものは一切なり
我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。
独り橋を渡るも
灼きつく如く迫り
心みな非力の怒に狂はんとす。
ああ我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ乞食の如く羞爾として
道路に落ちたるを乞ふべけんや。
捨てよ! 捨てよ!
汝の獲たるケチくさき名誉と希望と、
汝の獲たる汗くさき銭を握つて
勢ひ猛に走り行く自働車の後
枯れたる街樹の幹に叩きつけよ。
ああすべて卑猥なるもの
汝の非力なる人生を抹殺せよ。
監獄裏の林
監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり。
いかんぞ我れの思ふこと
ひとり叛きて歩める道を
寂しき友にも告げざらんや。
河原に冬の枯草もえ
重たき石を運ぶ囚人等
みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。
暗欝なる思想かな
われの破れたる服を裂きすて
獣類のごとくに悲しまむ。
ああ季節に遅く
上州の空の烈風に寒きは何ぞや。
まばらに残る林の中に
看守の居て
剣柄の低く鳴るを聴けり。
―郷土望景詩―
昨日にまさる恋しさの
昨日にまさる恋しさの
湧きくる如く嵩まるを
忍びてこらへ何時までか
悩みに生くるものならむ。
もとより君はかぐはしく
阿艶に匂へる花なれば
わが世に一つ残されし
生死の果の情熱の
恋さへそれと知らざらむ。
空しく君を望み見て
百たび胸を焦すより
死なば死ねかし感情の
かくも苦しき日の暮れを
鉄路の道に迷ひ来て
破れむまでに嘆くかな
破れむまでに嘆くかな。
―朗吟調小曲―
詩篇小解
詩篇小解
漂泊者の歌(序詩) 断崖に沿ふて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。巻頭に掲げて序詩となす。
帰郷 昭和四年。妻は二児を残して家を去り、沓として行方を知らず。我れ独り後に残り、滄浪として父の居る上州の故郷に帰る。上野発七時十分、小山行高崎廻り。夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。声最も悲しく、わが心すべて断腸せり。既にして家に帰れば、父の病とみに重く、万景悉く粛條たり。
乃木坂倶楽部 乃木坂倶楽部は麻布一聯隊の附近、坂を登る屋上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二児を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白昼はベットに寝ねて寒さに悲しみ、夜は遅く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども応へず、扉に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤●を憫む如く、時に来りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤来り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。
(●はウカンムリに「婁」)
品川沖観艦式 昭和四年一月、品川沖に観艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、観衆は皆散りたれども、灰色の悲しき軍艦等、尚錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、帰港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の帰すべき港を知らず。暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食はれたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。欝然として怒に耐えず、遠く沖に向て叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。
珈琲店 酔月 酔月の如き珈琲店は、行くところの佗しき場末に実在すべし。我れの如き悲しき痴漢、老ひて人生の家郷を知らず、酔うて巷路に徘徊するもの、何所にまた有りや無しや。奴を登らんと欲して、我が心は常に渇きに耐えざるなり。
新年 新年来り、新年去り、地球は百度廻転すれども、宇宙に新しきものあることなし。年々歳々、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壮に耐え、決して、決して、悔ゐざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
火 我が心の求めるものは、常に静かなる情緒なり。かくも優しく、美しく、静かに、静かに、燃えあがり、音楽の如く流れひろがり、意志の烈しき悩みを知るもの。火よ! 汝の優しき音楽もて、我れの夕べの臥床の中に、眠りの恋歌を唄へよかし。我れの求めるものは情緒なり。
国定忠冶の墓 昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。ひそかに家を脱して自転車に乗り、烈風の砂礫を突いて国定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹籔の影にふるえて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の粛殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
監獄裏の林 前橋監獄は、利根川に望む崖上にあり。赤き煉瓦の長塁、夢の如くに遠く連なり、地平に落日の影を曳きたり。中央に望楼ありて、悲しく四方を眺望しつつ、常に囚人の監視に具ふ。背後に楢の林を負ひ、周囲みな平野の麦畠に囲まれたり。我れ少年の日は、常に麦笛を鳴らして此所を過ぎ、長き煉瓦の塀を廻りて、果なき憂愁にさびしみしが、崖を下りて河原に立てば、冬枯れの木立の中に、悲しき懲役の人々、看守に引かれて石を運び、利根川の浅き川瀬を速くせり。
恋愛詩四篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鉄道にて」「昨日にまさる恋しさの」等凡て昭和五―七年の作。今は既に破き棄てたる、日記の果敢なきエピソートなり。我れの如き極地の人、氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の長夜に見たる、佗しき極光の幻燈なるべし。
郷土望景詩(再録) 郷土望景詩五篇、中「監獄裏の林」を除き、すべて前の詩集より再録す。「波宜亭」「小出新道」「広瀬川」等、皆我が故郷上州前橋市にあり。我れ少年の日より、常にその河辺を逍遥し、その街路を行き、その小旗亭の庭に遊ペり。蒼茫として歳月過ぎ、広瀬川今も白く流れたれども、わが生の無為を救ふべからず。今はた無恥の詩集を刊して、再度世の笑ひを招かんとす。稿して此所に筆を終り、いかんぞ自ら懺死せざらむ。
詩集 氷島 完
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