心の遠景             与謝野晶子 自序 「瑠璃光」を出してから五年目の今日、大正十三年八月以来の歌を取捨し、其中の一千五百首を此の一巻に収めて「心の遠景」と題しました。  芥川寵之介さんが「この次からは一一の歌に題を添へて下さい、読む者のために便利ですからと云はれたので、「成るべくさう致します」とお答へしたのですが、気儘に書いた草稿が入りまじつて居て、自分ながら其の制作の時と順序とを思ひ出せないものが多いので、已むを得ず今度も題を添ヘずに印刷しました。今は故人になられた芥川さんに射して甚だ済まない気がします。  この五年間に、良人や友人に従ひ、私はいろいろの所へ短時日の旅行をしました。近い所では、武蔵の金沢と氷川、相模の三崎と箱根、信濃の諏訪、軽井沢、碓氷、山田温泉、赤倉、野沢温泉、野尻湖、また日光、伊豆の熱海、遠い所では越後、佐渡、陸前の青根温泉、松島、羽後の十和田湖、陸奥の板柳、岩木山、弘前、浅虫、五戸、近江の石山、京都、宇治、大和の奈良、吉野、下野の那須など。従つて此集には其等の旋中の作が多くまじつて居ます。  此集の装幀は、特に木下杢太郎さんが筆を執つて下さいました。勿論私の心では、久しい以前から、大きな兄の一人として尊敬してゐるのですが、木下さんは年から云つて私を姉のやうに親しくして下さるのです。かたじけない事だと思ひます。  私の歌を昔も今も読んで下さる人達に、また此の新しい一巻を寄せ得るに至りました事は、以前にも「草の夢」を出して下さつた日本評論社の鈴木利貞氏の並ならぬ御友情に由ることです。私の感謝を茲に申添へて置きます。   一九二八年五月 わが倚るはすべて人語の聞えこぬところに立てる白樺にして (以下再び赤倉温泉に遊びて) 妙高の山のむらさき草に沁みたそがれ方となりにけるかな 赤倉の山より出づる雲ゆゑにおぼろげなりや北海の門 ほととぎす生ける限りは忘れじと誰に云へるや赤倉の渓 遠きこと他界の如しされど見ゆ野尻の湖は星のたぐひか 妙高を下りし人が彼方過ぐ二つならべる草山のみち 山行きて昔の路に逢へるかな虎杖の葉はやや若くして 斧をもて切るに値す然れども高きいたどり秋に枯れまし 夕焼のくれなゐの雲限りなく乱るる中の美くしき月 深山鳥あしたの虫の音に混り鳴ける方より君かへりきぬ 水内の連山浮きて前山のいまだ眠れる朝ぼらけかな たをやかに香嶽楼の軒に来ぬ朝の光をふくみたる雲 赤倉の大湯の窓の色硝子親しきものと見てのぼる路 赤倉に雲満ちわたる時刻とて草の匂ひもあはれなるかな 上州の温泉に逢ふ約束をすなる男女とあかくらの霧 妙高のふもとの茅萱なびくなり頂にして雲うごくごと 日のかげり緑青いろのしづかなる草山となる越の赤倉 満山の涼しき風となりつれど空の寂しく変りけるかな 朝ゆふべ出でも遊ぶを促してなびく裾野の八月の茅 山に馴れ高田の方にいかづちの鳴るほどのこと事と思はず 湯ぶねにて虹のにはかに立つと云ふ童の声を聞ける赤倉 あたらしき世に逢へるごと涙おつ虹と対する山上の客 あまりにも今のむかしに変らざる赤倉山の夕月夜かな 黄昏に山を歩めば許されぬ神のさかひを行くここちする 西の方容雅の山に多く住むしら雲ここのうす墨の雲 日を負へる妙高が嶽くろがねに通ひたれども涼し山風 ことごとくものに驚く顔したり北に当れる山の背の雲 昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな 温泉に逢ひ友に逢ひ嬉しけれ北の海をば霧隠せども 裾野原山の影よりはなれたる光の中を飛ぶ蜻蛉かな あぢきなし蛾と馬追を一ときに灯にうちつくる妙高おろし 関山の灯は紅くして高田の灯白しいづれも草原のはて 白き雲矢筈の形に並びたりわが風流男の倚る欄のもと (以上) 関川が石のあひだを行く如く行かましものを苦し山踏 (以下関温泉にて) 山頂の関の温泉うまごやし生ひそこばくの馬休らへり 山の馬繋ぐうしろをくぐるには惜しきわが身と思ひけるかな うまごやし食むなる馬の健かに見えその他をば霧のおほへり 雲深き越の国なる関の湯に柄杓をもちて人通ひけり 柴の橋たわむ上をば踏むものか志したる関の湯のため 山の滝一ときなれど中空に自らの身を放つめでたさ 砕けずば地上の玉の飾りにもあまるめでたき妙高の滝 心をば焼く火やうやく衰へぬ身を妙高の滝もて焼かん 傾きし浴舎のうちの樋も朽ちて烈しく落つる黄なる温泉 関の湯の暗き宿屋の二階にて飽くと定めしうぐひすの声 山にあり孤独のいでゆ七八棟家のあれども人遊べども 神奈山関の温泉も忘れめや花いんげんの畑とくろうま 未だ見ぬ山の如くに関の湯を白雲すでに包みたるかな きりぎしの一ところをば水伝ふ奈落のものの涙のやうに 沙羅掛のくれなゐの実の一枝を持ちたる人の過ぐる草原 (以上) 戸隠と黒姫山にいたるみち辻をはさみて古駅に起る (以下三首野尻湖にて) 白くしてこれは冷たき唇ぞ吸はで去らまし野尻の湖水 身に沁むは苦しけれどもそのさまにあまり遠かる野尻の湖水 落日が枕にしたる横雲のなまめかしけれ直江津の海 (以下直江津にて) 赤倉に迎へし朝の日なりしが今見おくるは直江津の磯 北の海名立の岬のむらさきを船はばかりて一かたに寄る 水色の麻を湖畔が著る肩に似る米山の見ゆる磯かな 暗色のなかに一つの灯を抱く郷津の岬とくもる夕月 浜茶屋の屋根より上に二三筋街の端見ゆ北の直江津 大空の思ふがままに任せたる夕の海の色とおぼゆる 海辺とて山より低きことわりに当らず空と近づきにけり 落日が珊瑚のいろを長く引く海に五つの大船の浮く 海に入る夕日は人の終焉にあたるものぞと北国に知る 雪に怖ぢこの八月の風にさへ戸立つる家の多き直江津 雪国の街の軒廊八月のゆふべに踏めばすこしつめたし (以上) 北行きてかたはらに無き寂しさよ筑紫の友の重き足音 (以下新潟にて) 信渡川鴎もとより侮らず千里の羽をつくろひて飛ぶ 新潟や都の華奢にこと変る並木柳のたてよこのみち 北方の海より来るかなしみを防げる町のはての砂丘か 佐渡なるや黒龍江の見ゆるやと惑ひけるかな定かならねば 海は漉く砂丘は白しおぼつかな蜃気楼をば踏むここちする 思ひしに違はぬものもまた悲し今日見る北の越の青海 山の隈佐渡の岬のたたずまひ明日渡らんとすれば目につく 案内者は県の庁を見よと云ふエルサレムをば持たぬ身を知り 夕月を浴びて舞子の上りくる丘の旗亭のおもしろきかな 新潟の富士が樽をば打つ音のをかしけれども富士貴に過ぐ 日の本は六十余州越女の美中にあらはれ風流まさる たねの歌山の霧ほど身に沁むも何のえにしぞ越の船待 身にするは洛陽の衣樽めぐり舞子がするは聞き知らぬ歌 初秋の空にくらべて曇れどもそれよりひろき大江の水 (以上) 越の海船脚はやくなり行けば船江の浜のしろく愁ふる (以下北海の大黒丸船上にて) 船すすみ真珠の色の一線の左右にひろくなりぬ目のはて あたらしき大国丸と云ふ船の床に涙はおとさずもがな 水の線秋のすがたの大海に見え初めしごと白き朝かな 新潟の七十二橋大海のうへに思へばあはれはかなし 大海に縹の色の風の満ち佐渡ながながと横たはるかな 雲の花それは草より寂しけれ佐渡に通へる楼船の窓 海の上佐渡近づきぬ雲などのたぐひにあらで厚き嶋かな 近づきぬ承久の院二十にて移りましつる大海の佐渡 近き世のコルシカの子の王すらも嶋に捨てしは悲しきものを 海和げる斯かる日よしや院の船出でしとするも昔の帆船 はかなめる仔細は知らず白き船笛鳴らすこと短くて止む わが恨み忘れぬ佐渡の二十里の山のおきふしなだらかにして (以上) 加茂の湖金北おろし渡るなり船江の浜にしら波寄らん (以下佐渡にて) 風涼し阿仏の坊のちかひをば継ぎてめでたき層塔のもと こもりくの初瀬の山に聞くよりも身に沁む佐渡の長谷の鶯 われ佐渡の子ならば真野の海を見て悲むことの少なかりけん 清くして慰みがたき入江をば見て人も住む真野の新町 はしたなくなど思はれん承久の世は過ぎ去りて既に久しと 三日の後佐渡を離れて帰るべき身のはばからる真野のみささぎ 君在ます●利の天の一時にあたらじ佐渡の二十余年も    (●はリッシンベン+「刀」) 院の上典侍の御局とことなることもなげきましけん 野撫子浜撫子とことなれり都のいろの真野のなでしこ 都をば忘れんとする人もまた小比叡の山の名を撰びけり 蓮華峯寺龍女の美にも似る堂のひさしに描けり大井の川を 廃堂の彩色に酔ひ極楽鳥吉祥天女はた龍女見ゆ 少しづつ海ひろくなりをかしけれ小木本町の褄先上がり 歎かれぬ小木の童の放胆にはだかとなりて遊べる見れば 眺望す山やはらかく屋根の石まろき湖畔の窓前の佐渡 佐渡に来て文三の君は絵のみ描く八雲御抄のたぐひならまし 中山の峠の洞のみち出でて至りをはりぬ北海のはて 嶋人の朝やけのごと輝ける手よりあがなふのろま人形 青空を道遊山の破門より覗かんとしてしづくに濡れぬ 鉱山の空を箱行く漏刻の音のごとくに正しくならび 世に一つ黄金を欠くは苦しきか山掘る難に値ひすべきか 相川の羽田の浜の砂金より生ひて花咲く月見草かな 潮寄れば千畳岩もひと組の踊の場のみ残して濡るる いつの日か恋より醒めん後の顔これぞと寒き北岸の佐渡 鷲ありて呼びかはすをば二十日ほど前に友見し岩山に来ぬ 岩青し月の国なる渚ぞと船寄せたらばをかしからまし 海に見る無名異焼の常山の竃のあたりも夕焼うつる 天雲は日落ちて後も美くしくその刹那より陸は色無し 小比叡なる古りし御堂の彩色に似るいろいろのめでたき小石 泡のごとさざえの嶋のつながれる海のをちなる紅き落日 北海に住むと思へばうら山の岩つばめだに悲しきものを 見かへれば岸の石垣石の浜石葺屋根もひとつにつづく 落ちてゆく日の唇も吸ひ得べきここち覚ゆる船の上かな 龍宮のいらかの如く紅き石みどりの石の波に透きたる 相川や青野の山の波形のいただきに浮くめでたき月は 相川の羽田本町うら山の高きかたより月のぼりきぬ 踊る時月も引かれて身をひねり波も引かれて音頭の手打つ しら波と遊びつる間に跡あらずなりぬ音頭も御前踊も 桃色の瑪瑙ひろふと云ふ磯も秋の夜露のおけばつめたし 相川や石葺く屋根の鳴くやうにこほろぎの音のあはれなる宵 町暗し春日の岬のきりぎしの角のみ紅く朝日昇らず 佐渡の国何れの産と名のりても島の男女は皆あはれなり かもめらは見知りたらまし横雲のもとにあるべき沿海州を (以上) 落葉松の濃く淡きより南信の山に及べる百の青いろ (以下信濃にて) 白樺は昼降る霧に侵されずから松などは跡方も無し 山の霧螺形をして走れるは泉の口を出でて来にけん いと小し山にただよふ夜の霧の厚き中より出でし蟷螂 円柱霧にあきれて立つほどに霧の彼方の灯のうつりきぬ 窓を打つ霧のしづくに馴れて住む浅間が嶽の高原の家 森蔭の明星の湯を一目見て行かんことをば車思はず そのかみの夕月のみち今朝雨に濡れて歩むもその離れ山 われを見て山の泣けるを疑はず雨に濡れつつ軽井沢行く 信濃路やウラルの山の宝石を売る駅に似る軽井沢かな あはれなる人を囲みて鳴くものか浅間の山のこほろぎの声 草むらはむかしの姿白樺の二たけほどに伸びし山荘 山荘に逢ふ日は悲し誰よりも寂しき人と見え給ふゆゑ 人ならば善知識など云ひぬべき雲のけしきと思ひけるかな 万木が雲を作ればただよへる姿と見ゆる山の雨かな 赤泊寺どまりなど聞きしかど今日は信濃に山の雨見る (以上) 名のみわれ貴なるものとなりはてぬ万寿山など云ふ宮のごと 寂しさを華奢の一つに人好みわれは厭へど逃れえぬかな 過ぎ去れば昨日の遠し今日もまた夢の話となりぬべきかな 庚申の旧作の絵を山人よ今日も見てあり二もとの菊 人界を捨てて出でゆく姿こそなまめかしけれ何の煙も 鴉ども落日の火が残したる炭のここちに身じろがぬかな 不思議をば形にしたる木の如く月夜に葉をば捨つる枝かな 日の射して狐の毛にも似る銀杏まれに青かる極月の空 藤子描く遠山と丘穂のすすきまたも添へたり尾の無き鴉 土くれの何しに枝を上れると見ゆる桐の葉それも動ける 朝より雨くらく降り打ともせは伊豆の温泉のここちす書斎 未曾有なり烈しと時に思ひつつ忘れぬ風は恋にあらねば 落葉ども昔住みつる木の影のうつると知るや暖き庭 蔑しえず師走の末の夕ぐれの白けし空が持てる光も 冬の夜に流るる星の白き尾はすこし久しく光りたるかな 静かなり風の示すに従ひて葉を散らすべき銀杏なれども 帰りきてわが杢太郎わすれしや待ちつるものを煙草の話 うちつけに岳陽楼のたたずまひ一人の云へはうつつ皆消ゆ 年月も生死の線もその中におかぬ夢とてあはれなりけれ 前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋のかたはら しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きしおもひ出 またも身にサン・クルウより船にして巴里へかへる夕ぐれもがな 巴里なる人は何とも云はば云へクリシイの辻なつかしきかな あぢきなし今はうつつにわが見たるヱ゛ルサイユとも思はれずして 旅人はタバランの夜に近く居てものを思ひしブランシユの家 雨の夜にオランピヤより出でてわれ顧みされぬ浦島のごと 森はこれフオンテンブロウ歩めるは見るかげもなき旅人の馬車 二夜三夜ツウルの荘に寝るほどに盛りとなりしコクリコの花 ふるさとに続みちとも思ふかなロアルの川の石橋の上 旅人は心に火をば抱けども投ぐる火あらず火祭の夜に 森の奥バガテルの庭薔薇咲きてよき六月の朝じめりかな 歌の本絵の本たづねいつ立たんセエヌの畔マロニエの下 青根湯の湯守の館の白き倉さて蔵王山かなたは出羽 (以下青根温泉にて) 青根の湯阿武隈川を船渡りして来しと云ふ世のここちする 何ごとも蔵王の山の彼方なる世のこととして思ひ捨てまし 慰みぬ不忘山を前にして語らふと云ふはかなしごとに 碧瑠璃の川の姿すいにしへの奥の太守の青根の浴槽 松島の現れぬなど指させど蜃気楼よりたのまれぬかな 山の奥糸より細き路もがなこれは分くべきしるしだに無し 草はばみ雑木の枝にはばまれていたらん方も知りがたき山 みちのくの柴田郡の濁川どよみて鳴ればなほ哀れなり 濁川悪名をもて足るさまに音も忍ばずおほらかに行く 哀れなり蔵王の渓に発したる濁川をば青根に見れば 立枯の木ならぬは無しその山は物見岩よりかつ低くして こともなく物見岩とは名づくれど都の比叡の十層にあまる 阿武隈も牡鹿の海もほのかなり不忘山のわすれざるほど 男なる烏帽子、川音、青麻山女身にかなふわすれずの山 大海へ川音川の出でて行く安達が原のしら糸のみち 山の笹熊のうしろに鳴る如く我が分けてこし後ろにぞ鳴る 大空も木末も遠くはるかなる臙脂の色の杉の渓かな 青根なる大湯の中に我が倚るは昔伊達衆の倚りし石段 山の西出羽の空の夕焼を思ふひま無く青根は灯置く 青根の湯秋のともしび放てども桃生の海のとらへがたかり ひるのほど見えし幾重の山山は月の光にしたしまぬかな 川上の峨峨の湯泉にいたること思ひ断つべき秋風ぞ吹く 月の落ち川音川のあたりにてこほろぎすだく寒き明方 山にゐてほのかに覚ゆ東海の若きめでたき日輪の息 暁のひがしの海の光れるも青根の秋の一はしのいろ 温泉の移り出づるが速くして物思ふをば許されぬかな その中の青麻の山の歩み寄るけはひ覚ゆる秋の霧かな 虹よりもめでたき朝の横雲は色かはることまた早くして うす色の秋のあしたの根無し雲山に根を置く温泉の雲 夜明けけり山のはざまにいみじかる湖のごと溜る白雲 疎らにも黒きとんぼぞ遊びたる柴田郡のいく山の上 熱高き泉の末もゆくへ無く草に紛れんならはしにして 八月の旅の枕に近く居し赤くら山はここに見えぬか 夕ぐれに弱く寂しくあらかじめ夜寒をなげく山のこほろぎ 黄昏の雲のあひだに山の居ぬもの云ひたらぬ心の如く 朝の日は今海にあり二千尺わが浴槽より低きゆぶねに わが山の泉とおなじ音律をもて降りきたる秋の日光 すすきの穂山のゆぶねにある人のめでたき線にまねびて靡く (以上) みちのくの白石川の洲に立ちてたよりなげなる一むらすすき 仙台の大手の門よ黄ならんと九月の秋のくはだつる頃 松嶋はなべて美くし船にして拾ふばかりの小きもがな (以下松嶋にて) 曇るなり金華山までつづきたる入海の輪のかつ消えぬほど わが船を出でし煙が一隅にしろくのこれる入海の空 経嶋と聞けど我が見て小扇の漂ふごとく見ゆるものかな 松嶋や船の二階を縄により降りて入りたる白鴎の楼 松嶋や秦の万里の城よりもいみじきものの残る海かな 袋解き旅の沙門が喜捨すなる松嶋寺の雨のゆふぐれ 朧ろにも雨に濡れたる松嶋をむらすすきとも眺むる夕 白き船うす黄の船の二つあり松嶋のごと雨ににじまず 松嶋に船ぞ入りくる雨の中雨より白きよきけぶりして 松嶋や五大堂より流したる燈籠めける低きいなづま 八百八嶋こえて汽笛はひびけども船は雄嶋をまだ出でぬかな 行く人の車の用意ならずしてともに眺むる夜の海の霧 夜泊する船の上なる人ごゑはこほろぎよりも寂しかりけり 朝の海十二妃嶋の涙かとおぼゆる紅き潮ながれきぬ (以上) 人の世を楽むことに我が力少し足らずと歎かるるかな 人間の世は楽みて生きぬべきところの如しよそに思へば いみじかるところなれども我れにのみ憂しと分ちて世を見ずもがな ことさらのこと無し堪へずなりしのみ昨日と云へど苦しかりつる 山つつじ若葉する木をたのみつつ添ふと覚ゆる榛名の平 若楓うづを巻くごとさし交す枝の下にて鳴る清水かな 榛しげる百尺下はあらはにて水走るなり岩のあひだを ほととぎすこちたけれどもあはれなる柏林の夕月夜かな 程ちかき松より落ちんなだれにもおびえ給はんみけしきの雛 あしたより雪の降れども花を敷く雛の大路の物見の車 山ざくら炉の親しみを切りはなちにはかに人の恋しかりけれ 水色の夕の空にほのかなる熱をさくらのおくと思ひぬ うぐひすが口動かしてありし夢語れば子等がまねぶ口つき 或朝は風に混りて或朝はあられにまじりむせぶ早川 山山の後ろの空の墨だちぬ雪の降るらん奥の箱根に 底倉や明星嶽がかくしたる海のにほひをつくる温泉 人の来て旅寝を誘ふ言ふままに雲に乗らまし靄に消えまし うす墨に臙脂を混ぜて春の空わが像のごと重く曇れり わが泣けば日の面より降る雨に逢へるが如く人のおどろく 人の子は寂しからずと告げしごと雲早足に過ぐる夕ぐれ 粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな (以下近江にて) 吉備の国和気の郡の友も来ぬいかに明さん近江の月夜 山かげの石山寺の山門とやなぎのなかに霧のまよへる かへり見て彼れ聞き給へなど云はん経声もがな石山の寺 法の燈は不断のものと聞きしかど御堂よ月を掲げたるのみ 石山の観月台に立ちなまし夜の明けんまで弥勒の世まで 湖水より夜霧ほのかに上りきて二更を過ぎぬ観月の台 水に沿ひ月夜を歩む人人の悲しみとなる藻のにほひかな 山はやく月を隠せば大空へ光をはなつ琵琶のみづうみ 比叡の袖比良のたもとの重れる方に向ひて船出してまし 船すでに瀬田のかり橋くぐるなり秋の末なる鳩色の朝 みづうみと云へるつめたきしら玉の盤上にあり秋の旅人 はかなけれ大津の浜をさして来て片時たたず船の出づるも 山城の山の頂見え初めてものの身に沁む船の上かな 竹生嶋思ひかけぬもあはれなりあまりに広き湖を行き いみじかる寺をおかんと思ふ山あまた立つかな湖上に見れば 杉の奥三井の御寺の広庭にこだまを呼べるわれの足音 園城寺もろもろの坊蓬生となりぬる世にもいみじかりけれ 恋人の逢坂山は行かぬなりわが身をおくは索道の船 わが船の小き灯によりゆきあへる索道の般人光り出づ わが十人疏水の洞の幽暗に堪へて如何なる世を見んとする 穂すすきや琵琶の運河をわれは行く前は粟田のうら山にして もみぢ葉に山の方より覗かるる疏水の船にある十人かな 粟の穂のいろに日映る松山の立てる方より秋風ぞ吹く (以上) 木屋町に入ればほどなく月出でぬ彼れも疏水をつたひ来にけん (以下京都にて) 鳳凰の雛の巣と云ふものならん岸勇もまたここに立ち居す 暁の加茂の流の音きけば無きここちする年月のこと なつかしと云はん言葉に過ぎたれば悲むに似ぬ洛中に入り 加茂川の出だし床には立ちたれど水にそぐはず旅人なれば 加茂川の二条の堰の水白し山はおほかた霧の消しつつ 加茂川の東の岸の柳の葉盛りならぬがあはれなりけれ 大君の土御門殿秋かぜに木立そよめくくれ竹まじり (以上) 宇治殿の鳳凰堂の簀子にてながむる山を霧流れ行く (以下宇治にて) 定朝の御仏のごと黄金をふたたび胸に塗るよしもがな 極楽の雲とむかしもおもひけん鳳凰堂の朱のうつる池 胸にあり平等院の須弥壇の螺鈿のあとにくらぶべきこと 限りなく水青くして州の白くかもめの白し宇治橋のもと 法師なる喜撰が嶽に皆ならひつつましやかに重なれる山 滋賀の夜の十幾たりは草まくらもの憂かりけん六人になりぬ 草は先づ十三塔の真白さに露おきわたす月いづる前 (以上) 渓川の冬の音をば聞かんなどいと華やかにわれは願へり 恋ごろも革ごろもより重ければ素肌の上に一つのみ著る フワウストが悪魔の手より得し薬われは許され神よりぞ受く 山山の冬木立よりこちたけれあれちのぎくの枯れたる姿 雪すこし天城おろしの散らすなり下田の海のうす紫に 正月を雪すこし降り岩屋めく温泉に聞ける東海の音 昨日をば人はたしかに持つごとし靄より淡しわれの昨日は こし方を夢ともなさず形ある宝のごとく云ふはわりなし おのれをば既に知ること長ければ戯れをすら哀れとぞ思ふ 唯今も同じ心に泣き出でんことを期しつつ落葉と遊ぶ 常に泣き稀にしづかに思へども同じ姿のはかなき世かな 恋ゆゑに輝く人を目に見つつ虚無の世界は思はずもがな うなだれて祈祷の室に通ひけんその程過ぎて友病癒ゆ 恋人を恐れ初めたるわが友の祈祷の室の低き椅子かな にほやかに女の友の出で入りしその日の戸口後日の落葉 恋とても冬の姿は寂しけれ逢はず疑ひせちにおもへる 甲斐がねをかすめて散りぬ大垂水尾花の台のさくらの紅葉 (以下十五首大垂水にて) しどけなく山をつたへる水に由り山のくづるる大垂水これ 甲州の裏街道のあぢきなし路ともあらず清水つたへば 武蔵より相模に入りて三十歩櫨もみぢ立つ尾花山荘 くさむらや秋の末なるむらさきの野菊に添へる紅玉の蔓 足柄と青根の中に富士を見ぬ日もなつかしき尾花山荘 海ならぬ甲斐の方へと靡く霧さびしき性の山の秋霧 皆青く石老山の此方なる畑のみ黄なりもろこし立てば むさしごえをばなの台に眺望す甲州のあゐ相州の青 すすきの穂分けて相模の奥に見る限り知られぬ甲斐のむら山 そこと云ふきはも定めず色づきぬ雲にならへる行く秋の山 もみぢすれ尾花の渓の杉むらの限りも知らず青きかたはら 日の映る尾花の台の一方の紅葉の中に霧の消え行く 寂しやと思ひて越ゆる山の水あまたたびして灯の見え初めぬ 夜の宿場水車が廻す絹機の音のみするがあはれなるかな 家の前に溢るる水を越えて買ふ浅川駅のつる柿の枝 (以上) 枝なるも椿の花はつながれり少女に由りてなされし如く 裏白の葉にならふやと常磐木も見ゆるばかりのうす雪ぞ降る わが庭の風を抑ふる風ありて木草の形不思議なるとき みづからと人の少女のけぢめなど心におかず鶯ぞ啼く 流れ行く水の上のみ明くして暗きところに立てる梅かな 常春の蓬莱丸に乗る人も忘れぬほどのことを云はまし 牛込もよその港のここちすれ濠を隔てて往ききを見れば 小雪降る春の初めに見し人は花ちる日にもなつかしきかな (竹子の遣しつる帖に) 飯山町信濃に向ふ汽車ありて虚空に鳴れり木がらしの音 飯田町歩廊の土の水だまりかずかず凍るみづうみのごと 菜根のあつ持のが持つ力にも如かずとしつつ夢をつくれる 師走来て皿の白さの世となりぬ少女のごとくおどろかねども 炉を据ゑぬ南信濃の山見ゆるわが家ならばをかしからまし 躁ぐとき冬わかわかし木枯と別れし冬は数ならねども 美くしき浄土の光さし出でぬ友が木彫の拓榴の破れ目 天国の二階ばかりにあれかしと窓仰げるや学院の子等 月ありぬ外濠に沿ふ牛込の霧にうるめる街と離れて 牛込の見附の口の石垣に沿ひてまがれば冬の月無し 一言の別れに云ひも忘れしは冬の月夜の凄からぬこと 風吹くや竹の縄もて巴水をば引く船の音語られしのち 下諏訪の本陣と云ふ湯の宿へ朝の七時に著きて日出でず (以下下諏訪にありて) 湖の赤魚の口のいろしたる守屋が嶽のあかつきの雪 みづうみの魚など売りぬ守屋嶽真白きもとの一筋のみち 雪の山諏訪の湖畔の高浜を地のはてのごと悲しくぞする 木曾の渓さては毛の国越飛騨の雪の間にあらぬ身をおく 夜は暗く温泉の浴槽薄明のさせば湛へぬ竹の葉の色 われ常に氷りて水の響無き聽泉閣にあるごときかな 湯の宿や昔の絵師の客中のこころを聞かん帖などを繰り 冬見れば蜘蛛のいに似る灰色の小枝にさびし落葉松の山 古すすき寒き数とも思はれず砥川の渓の風あらくして 宮の湯の廓の寒さの限り無し炭火運ぶにつづきたれども 宮の湯の二つの山の渓ひろく和田峠見え諏訪の水見ゆ 空の奥和田の峠の端の山饐えし華櫚の黄をしたるかな 山の水ほとばしりつつ氷るなりわれの心と人見ずもがな 天龍の是れは川上細ながき三八船のはかなげに浮く 山かぜの烈しからねば渡るなり諏訪釜口の黒き吊り橋 信濃にて云ふこと無きや天龍よ水は云はぬがならひなれども 諏訪の湖天龍となる釜口の水しづかなり絹のごとくに 釜口の水しづかにて貴なれどまだ天龍の命うまれず 塩尻の峠にすこしおよばねど岡谷にならぶ高き繭倉 繭倉に蚕の繭ならばこもらましわが身のはてを知られずもがな 土凍ててされたる骨に似る坂のあぢきなけれど諏訪湖の青し 花岡に見る八が嶽空晴れて鵠より白く浄らなりけれ 花岡に諏訪の水門の三百戸あてなるものと指ざしぬわれ 連山の乗鞍嶽の横のみをわづかに見れば山越えまほし 岡谷なる諏訪の沼気を引く樋の二ひろ上の蓼科の雪 天龍となりて出づるを急げるはやや濃く光る諏訪の水かな しら玉の背のみ見せたる横嶽はかしらも腰も知るよしの無き 懸樋なるつららの紐も動けかしいと美くしき夕月のもと 重ぬれば心の氷るおそれなし諏訪の宿屋のひろき丹前 富士小くその頂の見ゆるゆゑ信濃をおもふ配所のやうに 氷をば走するは難し恋をしてわれ薄氷を踏みならへども 道のべの鍵湯の鍵のあなたにて児の手のごと鳴る温泉かな 諏訪少女温泉を汲みに通ひ候松風のごと村雨のごと 悲しかる諏訪の天主の石のうへ五丈原より夕風ぞ吹く 上の諏訪柳の浜の夕風ももののとぢめのここちこそすれ 絶えて葉の無き柳をばわが前へ何こらしめに並べたりけん 波だちて諏訪の湖さわぐなり見もならはざる夕月夜かな 大船も寄らんばかりのみづうみの汀さびしき冬の夕ぐれ 暮るる色ゆゆしき諏訪のみづうみを前にす冬の楊柳の列 雲すこし出でしゆふべにわが車柳の浜に急がせてこし 夕には日の見知らざる山の艶うら滑らかに現るるかな 上諏訪のともし灯を負ひわが車走せゆく前の乗鞍が嶽 かずかずの山は一つのものとなりもろもろの灯の現るる頃 三八舶引きていぬべきさましたる湖上の雲を人と眺めぬ 湖を隔つる雲の立ちなびき乗鞍が嶽さびしからまし われは見るゆゆしき雲につつまれてありつる後の乗鞍が嶽 諏訪の水凍らじとしてもがくなりなど斯かる日をわれの見にこし 下諏訪の竹入り渓のうねり路五間は乾き五間は湿る 守屋嶽湖上の座をば誇るなり人の心に山の似ぬかな 女達明日は著かまし諏訪の湖鏡に変るくはだてをせよ すでにして障子あくれば星ありぬ山の蔭なる下諏訪の空 朝などの雪につづける灰色の下界のものに似ざる国かな 信州の山また山のしら雪の見つむる胸と思ひがたかり 雪の色和田の峠の被きたる二ところのみあたたかきかな 人の子は歎かるること多きかな山に絡める雪あるがごと 上諏訪に今日塩尻に車やる恋もいくさもするならねども 塩尻の山のまつげの落葉松のしづくに濡れてなつかしきかな 接吻すわが手におかれ信濃路の塩尻山の草の根の雪 雪を出ですすき漫りになびくなり大空のもと塩尻峠 われ立ちて飛騨のさかひの雪を見る筑摩つづきの塩尻の門 塩尻に国見をしつつ冬の日の寂しき故のあきらかになる 落葉松の二つの林枝透きて煙のごとし諏訪のみづうみ いみじけれつばくら嶽に雪雲のけぶる天地の混沌の景 連山の蝶嶽は唯だ一つのみ一つは空に住めるならまし ジプシイの一人が噛めるしら雪の指より散りて零るる峠 ひんがしは駒が嶽より湖水までつづく傾斜のむらさきにして 駒が嶽諏訪の湖水も編み入れぬ峠のもとの落葉松の森 塩尻の雪の上なる穂すすきはまばろしめきぬ一月にして 身を置けど温泉ならねば報い無しつめたき雪の塩尻の山 旅人は皆雪を敷きふるすすき小楯とすなり穂高おろしに 安曇野は臙脂にひろし信州も雪の満ちたる国ならぬかな 氷敷き足すみやかに去らしめし塩尻峠わすれめやわれ 山にして雑木の枝がふくみつる春は湖水にみなぎれるかな 諏訪の湖飛騨の国にて雄たけびをなすてふ雪も美しく散る 一切の至らぬものを見るに似ず口惜しからず薄雪もまた 正月の五日の夜半にわれ早く愁へぬ友の車の去りて 諏訪の湖よし底の無きみづうみと聞くとも足らじ友とあらずば 友曰く鵞湖の美なるははやく知る下の諏訪なる金吾を知らず 隅に居て金吾の絃の切れしときまぼろしに見し蓼科の雪 隣なる部屋の炬燵の山の脚竹子の見えぬ春の雪ほど わが肩と建御名方の氏の子の嶋田と並ぶ夜のこたつかな 氷解け泉の前の石の膝また美くしき日となりしかな 諏訪の湖見渡すかぎり白くして人の別離にただ今氷る 帰り路の諏訪より茅野へ入る風にもの思はしくなりにけるかな 八が嶽しばし前まで少女にてものも云へりしここちこそすれ 汽車わびし硝煙の舞ふ悪趣へは誰のゆかりに落ちんとすらん 恋もせじ都に入らば吹雪舞ふ飛騨よりこしと云ふべかりけり (以上) 藤子病み去年の弥生にわが居たる病院に行き寝ること五日 家にあり病院にある子と母の隔たるみちに今日は雨降る 小雨の日病院に居て沈丁花にほひよしなど七つの子書く 病める子に一年生にならん日の見えで苦しき夢見ゆるとぞ 絵本ども病める枕をかこむとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室 幸福と云ふもののごと病院の子の思ふらん父母の家 隣室の人病癒え去りぬなど告ぐな大人は悲しきものを S夫人枝垂桜をおくりきぬ京を思ふと云ふことに代へ いと細く香煙のごとあてやかにしだれ桜の枝の重なる 美くしきさくら花咲く枝なれど女の文字のやうに細かり かぐや姫二尺の桜ちらん日は竹の中より現れて来よ 雨降りて若葉の榛のそよぐ時山の底にていかづちの鳴る 湯の靄がうらやはらかに養へる伊香保の榛は草の色する 榛の山大かた終り落葉松の木の下路となりにけるかな 伊香保人春の盛りと思へるは榛の若葉の山おほふ時 しどけなく残れる雪の上に居てせんすべなげに曇る空かな 旅をせで一月あればおちゐざる心と知らば人憎ままし うちつけに海を見に行く約束す銀座を行きて寂しき二月 人送り迎へんいのちありなしを知らぬにあらず寂しけれども 波ひびく旅の枕にゆかりなき夢より醒めて寒き夜半かな 旅をして朝の光のうれしさを身にしみじみとならひ初めぬる 旅人の心を知れる雲もまた山のうしろに隠れけるかな いつ如何に我が云ひしなど忘れねど恋しかりける心変りぬ 空青くおのれはたまた青き日は火をもてものをな語りそ阿蘇 青雲にはては混りて連山の高きところの知がたき春 風寒し大地に春は来ぬれどもいまだ旅寝のここちしぬべし 葉無き木の弓絃の如く鳴る声もをかしきことと思ふ正月 白き路都の春に見んは好し山につづくは白からずあれ 元日のたちゐに我れの思はるる姉いもうとの若き日の顔 しら紙に向へりわれも紛れなき春の初めの心を書かん こし方のめでたきことも春の日は遠山ほどに目の前に浮く 戸の外の秋きの夜明の白さをば知りつつ見たるいにしへの夢 地の上に踊る道化とおちぶれてあぢきなき葉のプラタアヌかな いてふの葉とみに少くなりぬるも寂しき夢のここちこそすれ かの野菊もとより菊の中ならず身に沁むことは立ちまされども なつかしく土潤ひてやがて射す柑子の色の秋の日光 わが前の山の間にありし雲空にかへりて秋風ぞ吹く 山山の間にありて雲に似ず水ともならずものをこそ思へ もの多く薔薇は云へども唯だ目にて人をのみ見る花園の菊 おち葉する木立の奥の日の光初冬こそはいみじかりけれ 林行くすでに心も朽ちはてし落葉降りきて寒き朝かな 昨日をば語りも合はず目を閉ぢて並ぶ落葉は悲しかりけれ うづたかく落葉盛られしかたはらを廻りて遊ぶ少女の雀 こほろぎの昼も鳴く日となりぬるや人も身の痩せ秋も身の痩せ ものの葉の秋に痩せたる梢より細目に落ちて黄なる日光 すすきの穂かりそめと云ふおもむきに山を真白くつつむ秋かな 善心をはた悪心を促すと秋の風をばおそれぬ我れは 水さしが落梅のごとおもしろく硯濡らしぬ山荘の春 (以下十首渋谷の藻風荘にて) よき夢の書庫の口より流れくるところにありてものを思はず 遠き靄近き欅のけぶりをばめづる物見の白き台かな あるじ出で天女と語る台なれど地上の春を眺望すわれ 高き木も大厦もわれを仰ぎ見る物見の台のあたたかきかな かずかずの棚に木立と家をおき下の渋谷はうす靄ぞする 屋上の物見を下り戸を押して入る時おぼゆ人の悲しみ 二かたのくれたけ色の垂れ幕が書斎に引ける三月の春 玉嵌めし蝦夷の刀の重きとはさま変りたる重きうれひぞ 春なれど信濃の霧の夕方に似て暮れゆきぬ西の武蔵野 (以上) 松の雪ひいなの顔と相照すうら珍しき春にもあるかな 春の雪雛の御前の台盤のみさかなとしていささか摘まん 夕明り虚子先生と禅寺のうら山の梅ながめよと待つ (以下三浦三崎に遊びて) 半嶋の灯の怪しめり獅子の猛ゐのこののろさ備へし車 坂の路三崎の町へ矢のごとく車の下りて嶋近づきぬ 昨日の夢に逢ふやと歌舞の嶋椿の御所の中に身を置く 海ふたぎ岬陽楼の夜の客のこころをふたぐ城が嶋かな 入海のこころの其処にあるごとく一ところのみ白波ぞする 燈台の灯は彼方向く水けぶり酔女が浜に立ちも果てずて 山かげの夜の三崎の街よりも暗きところになげく海かな 馴れぬかな信濃の夢を見る人と城が嶋とのさしはさむ閨 岩の上昆布海松房火を焚くと見れば三崎の海人の子にして 石垣の波のあとより五ひろを離れ流転の海の青める 友に告ぐ病はせねど相模にてわれは煙霧に恋を養ふ 朝見ても鈍色がちの城が嶋いつより人に似て病する 南向く三崎の海は夕ぐれも朝もひとしき水浅葱かな 女まで山法師めくすがたして船を下りぬ北風の立てば 嶋にして椿の御所も岩かげの三崎にありと見ればはかなし 菜の花のよろけて立てり灰色の重き余寒の嶋に集り 安房もまた伊豆も波こそ隔てたれ昨日のごとし昔のごとし 土黒き霜どけ路と山ざさのもつれにもつれ嶋長きかな 浜萩の枯れしにすがり松立てり櫛より細き赤羽の崎 赤羽の崎の高きに渚なるすなどりごとを見てうつつなし てんぐさを拾ふ小さき美くしき群を隠せる外海の岩 安房岬に霜ばかりなる波よりて外は大かた曇る海かな 磯に出づ明るき波の行きかよふ赤羽崎の洞のかたはら 濃紫ナポリの嶋の洞を出でこしとも云はぬ是れは勿告藻 船帰る藻くづと混る水仙に云ふことのあるここちすれども 油壺船の影無しおそるるや雲と思ふや髪とおもふや 黒き実のつぶつぶとなる雑木の下は三崎のその油壺 きよらなる松のおち葉を踏みて行く二つに海を分ちたる路 人の云ふ三崎の海の油壺それさへ曇る風のさむしと 松かげは去年のすすきも清らなり名だたる海の青潮の上 油壺外の海よりまぎれくる風ゆゑ縞の現はるるかな 油壺下にくもりて春さむきわれは三浦の松山に立つ 大学の試験所と云ふ一つ家の百尺うへの松のむら立 海ひかり龍舌蘭の葉の末のまだ萎へたる二月の相模 芝原の蜜蜂倉に人の立ち母屋はかすめりふるき水荘 四百年醒めず三浦の入道の眠るところのあたたかきかな 白蘭のごとつややかに富士の見え三浦の霞その下に引く (以上) 天津に諸侯集ふとつたふれどオリンピヤなる話に如かず わが聞きて燕京の人梅氏にも勝らずなりぬ孫文の名は みなしごの宣統帝のいでましぬ支那の芝居の舞台の上に この人はあはれ六根清浄にして言葉のみつつしまぬかな きりぎしは榛の若葉のしづくゆゑ濡れてめでたし臙脂の色に 日の影の向ひの岸の落葉松の林に残り川くらくなる 皐月とて榛と楓の木下みち狭くあやふくなりし渓かな 寂しさと華めかしさを備へたる榛の若葉の山と思ひぬ 伊香保路のみどりの榛を覗くなり下野の山岩代の山 三時して地は落花ゆゑ埋もれぬ烈しき心もつ桜かな こちたかる魂などは無けれども夢見てありぬ春の野の雪 尾の上の雪むらさきに染み行けばさびし二月の夕ぐれの風 天上の夢のつづきを見る如き野辺の雪解の水だまりかな 小雨をば薫物のごとたのしめる園の端なる濃き紅つつじ 木蓮の花びらを立て船ひとつあらはれしかな水平線に 春の月唐紙のやうに破れたる雲のあひだに覗く空かな うつくしき柳の指を見てあればやがて湖畔の月夜となりぬ 春の雪たちまち解けて若やぎて草の間を走るならはし 鴻ほどの雪をおとして気上れる若きめでたき常磐木の枝 枝なるも散りつつあるも光よりさらにいみじき山ざくらかな 苦しけれ思ひ上ると云ふきはに至らぬ人の証ならまし 侮られ少し心のをどりきぬ嬉し薬に似ぬものながら 北南式家か知らず藤原の子の白蓮にわれをとるとよ 雛の顔粉黛つねに新しや紅の単衣は褪せにけれども 市松すらゆかりありとし見そなはす心めでたき雛の大君 文づかひと物見車の並べるを雛の都の大路と呼ばん 雛の棚外はさばかり雪降れど笠をもてるは藤娘のみ エヂフトの朝の雲とも云ひぬべき樺色つつじ長たかく咲く 近づけばあてに小き雛鳥のむらがる如き白つつじかな わりなけれ野方の村の友の来て霜を語れば霜踏ままほし 友なげくことの起りをたづぬればよき妹を得んとせしため 夢よりも幻は濃くそれよりも少しまされり仮の恋人 皆負ひぬ友は尊き天主をば我等は恋を重き荷として 納谷殿の書院なりつるみ寺にて聞きならひつるいにしへの事 一いろの枯野の草となりにけり思ひ出草も忘れな草も あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙のしづくかかれば 落葉寄れ美くしと見んさかしらを云ひ出でぬべき人と思ふな 夕風や隅に植ゑたる呉竹の上のみ動く化鳥のやうに 足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米とわれ 第一の人たりしごと歎くなり病める心は云ひがひも無し 知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず 銀杏葉の風あしがらの遠山の青のおもてに吹かるる夕 石の路長し初めはこし方を今思へるは今のはかなさ 日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花 秋の川雁の声ほど濁りたり染屋の横を流れてくれば 朝まだき萱草色の蛾に逢ひて窓をひらけば暗き霧降る 物思ふ耳に折ふし入り来れば虫むらむらに鳴くここちする 月見草油尽きたる灯のやうに哀れになびく朝風の中 ひるがほの這ひ上りたるここちする正午の月もはかなかりけれ 野の風の秋になりぬとわれ知るや身に沁むことを思ふ続きに 亡き人の生きてまた死ぬ夢ばかり見ればわれ知る病あること 北郊の灯とむらぎえの夜の雪を田端の台の上に見るかな いつまでも昔の今につづくこそはかなかりけれ哀れなりけれ 衰へてだにかなしけれ死ぬことをたやすきものに何思ひけん ひなげしの中に一もと紫の大人の罌粟の立つ朝の畑 わが摘みて板間に置けばとりどりに皆うち背く瓜もはかなし 夕立はなわすれ草の色をして半晴れたる御空より落つ 撫子の乏しく咲ける園なれどうらなつかしき夕風ぞ吹く 身の弱く心も弱し何しかも都のうちを離れ来にけん 森暗く夜に立つ村とすでにわれ知りて住めども病めばはかなし 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな ひるのほど雁来紅をめざましと見しより紅き東京の空 箱根路の渓間の蛍急がねど迷ふかたちのあわただしけれ 哀れなり逢はで心の通ふとはまだ云ひがたき中らひにして 右の人ひだりの人の心にも潜まん影は作らずもがな これは唯だ涙なれども山の滝岩にそそぐと異ならず落つ 地の上の清きこと皆失へる五月雨と云ふ頃の安かり 五月雨の瓦の色に明け暮るる世の中に居て恋し見まほし 人何と世は何ぞとも思へらず三時の食のものうきばかり 朴の花暫く子らの覗くなり星の蕋ぞと教へしやうに 草に居て隅田川をば思ひけり白帆を張れるひるがほのため 思へらく崩るることも盛りなる姿の数のひなげしの花 月光の下には四つの岬あり月をめぐりてむら雲のある 人の園渓あひなどの隈ならでひろきところ住める雑草 春が先づ駆け寄りけらし爆薬の火花をのせて立てる桃かな 散る時はひそかに呼びぞかはすなる桜と云へるあてなる花も 有ることは夕風吹きて花白く漫りに散ると云ふに過ぎねど 波のごと後ろにかへる心なく寄するがままの白き花びら 山吹の二つの岸を巣になしてしろき翅の山川うまる むらさきも青も重なる山を負ひ海に向ひて散るさくらかな 重なれる岬も山もあはくして桜つづけり虹の長さに 大海へ川の続きに誘はれて散りゆく如き山ざくら花 耶蘇の妻サンタマリヤの嫁君は無けれど君に似るここちする (徳富蘇峰先生令夫人に) 流星も縄とびすなる子のやうに優しく見えて河風ぞ吹く 煙草よりまつ毛ばかりの煙立つその灰皿と動くひなげし 飽きはてぬ靴の底縫ふ針たらん草の葉のごと生きてこしかど これなるは忘れし後と云ふ心初めも無しとなすに至らず ことごとく昨日となれば百歳の人もおのれも異ならぬかな いにしへの涙こぼれぬ今日と云ふ時を忘れてわれを忘れて 炉とわれと唯だありなまし用無しや倚らん柱も人の心も 木の下の真白き雪と曇る海二つの夢のここちこそすれ (以下鎌倉の内山英保氏を訪ひて) きさらぎの雪と椿をこもごもに踏むや冬柏山房の路 山荘の倉のあたりの落葉よりすくなく残る春のしら雪 松たかく三昧堂のここちする越山荘のうらやまの倉 鎌倉のたそがれ時となりにけり磯やや遠く梅立てる家 谷谷によどむ煙霞とはだら雪ひとしくなりぬ日の落ちて後 青つづら金線草めきてかたくなに生ふる二月の岩山の路 鎌倉の二月の海の夕風に毛欅の小枝のさわぐ渓かな しら波と雪解の水と流れ合ひゆるく曇れるかまくらの海 鳥さわぎ椿のはなは土に落ちわれは冬柏山房に入る 春の雪波形をしてのこるなり松原の奥なにがしの谷 山上に道士の中の楽みを分たるる夜は忘れてあらん (以上) あかつきに鳥のねぐら近しやと聞く鎌倉のきさらぎの宿 (以下鎌倉の香風園にて) ありし日の獅子王窟にしら梅の香が覚ましたる暁の夢 鎌倉は朝も恋しき思ひ出も海の方より寄り来るかな 一夜寝る旅の思ひの種はひに遠く旅立つ人をこそ思へ 梅立てば常に故園のここちすれ旅馴れし身にあらねどもわれ 雪したる裏ほのかなる黄を見せて立つ梅ありぬ暁の園 くろ髪も鷺の頭になしはてぬ雪の奥にて朝湯の立てば 傘さして渓の雲をば見に出でししるしの路は紫にして あはれにも身の伴へる雪かとて涙こぼれぬ階上の客 雑木山雪噴き出づる泉かと傘傾けてうたがひぬわれ 昨日の値なき身はしら雪のせめてめでたく降りつもれかし のどかなりただ煙草のみ涙のみほろ苦しやと数へられつつ たをやめの採蓮の船現れん池のここちす雪まばらにて なにがしの尼の許よりこしやうに雪を被きて立てる梅かな 山かげの香風園の前栽にみぞれぞ落つる蝋涙のごと かまくらの雪より雨にうつりたる日の小暗さもなつかしきかな 雪の山吹雪の渓のめぐるなりはかなき過去と未来のやうに かなめ山青銅のごとくしづかなり雪のなだれは裾にすれども (以上) 美くしと恋の誠もいつはりも一つのものに見なさるるころ 船の絵を見ても心の動くなり旅行く人と逢ふ日知らねば 愁とて心にひそむことも皆光りて舞へり楽音に由り 楽音が浮ぶる舟にわれありて眺めも入りぬまぼろしの人 わが見るはこし方にのみ限らるる夢にもあらず哀れなるころ 死ぬ日にも四五日前の夢とのみなつかしきまま思ふならまし 三月に春のうつると身に沁みぬときめくことと同じけれども そよ風や白蘭の泡ほのかにも立つと見出づるあけぼのにして 春降るは空より散るにあらずして煙が成れる雪にかあらん 雨のごと続けざまにも落ちずして涙と似たり春の夜の雪 落ちて来て波のしぶきの如く消ぬ春ふる雪のさびしき姿 過ぎし日の冬の雨とも云ひぬべき春の雪をば如何にしてまし 春の雪それより白き家並ぶ町に降れればあぢきなきかな 恋すとも恋ならずとも夢になほ煩ひしこそ哀れなりけれ 蔭ならぬところも蔭もいみじけれ恋の心は紫なれば 物思ひすと云ふほどの唯ごとの唯だならぬ世もわれありしかな 桜咲く盛りの春の静けくてはたなつかしく冷たかりけれ 二本の椿丹塗の反橋を作るところにうぐひすぞ啼く 白蘭は春の流せる涙ぞと知れども春のめでたかりけれ 春雨に濡れつつ町の車馳せ谷中の丘にさくら白き日 長恨歌なりつる世より天の川身にも沁むまで真白くなりぬ 美くしき雛いつくこそ嬉しけれ若き帝の大御代にして 大谷川折れてまた見ず山風の波に代りて騒げるところ (以下日光にて) 白樺の平にいたり湖の国踏み初めしここちこそすれ 一行に絵師のまじりて山を描きわれは山のみ思はざるかな 湖上よりいと鮮かに起りたる男体山はいただき曇る 水のいろ二月ばかりの夕ぐれを深く保てる普陀洛の湖 千鳥飛ぶ傘の骨ほど細く反る桂の枝を透して見れば 雪の山湖上にありて吹く風も消しがたき火を抱きてこしかな まことには帆布の厚さならましと白根に置ける雪を思へる ふためきて板屋楓の花房をおとすゆふべの山の風かな 峰かへで水楢の木の運びこし雲より降りぬ夕ぐれの雨 わが心山のこころに半をば抱かせたれどなかばは反く 強雨かな深山の鳥のもろ声に啼くかと思ふみづうみの音 わが在るは南の湖畔桂立ち甘く苦しく雨もこそ降れ みづうみのくだけて散るに異らぬ雨吹きおろす半月の山 湖に撥の手ありて雨の絃はげしく弾けりいかづちは鳴り 人間のわが難行のはてに無し天狗は持てり宿堂坊を 桂立つ木の間隠の湖へともし灯の矢の落ちてこしかな 灯の見えぬあたりと人の教ふなりあはれ千手の浜を忘れじ 旅をしてげにもと人の聞きぬべきことの外なる涙流るる みづうみの朝の白さに誘はれし閨の寒けれ砂原のごと 見てあれば山の世界の暁も恋ざめのごと白けてぞ行く みづうみの奥に虹立ちその末に遠山なびく朝ぼらけかな 大鳥の虹の片羽のかがやけり宿堂坊と黒檜のなかに 虹多き湖上よ山に這ひたるはうすき緑のから松の虹 山なれど雲井に虹の去り行けば伏したる人の如く寂しき 湖水巻く五月を知れる雑林の臙脂とみどり枯萱と雪 ありなしの男体山の鰭と見え女貌の峰ははかなかりけれ 思へらくあはれ何をば防がんとわれは二荒を前にしたるや 湖畔より足尾におよぶ楢の青白根につづく枯草の路 五月なほをどるこころを持たぬなり女にあらじ大山桜 水涸れて大尻橋も棧道のここちするなり朝霧のなか 朝出でて湯元に入りし友の路これぞと見れば山おろし吹く 馭者の鞭青き湖水を撫でつつも湯元がよひの馬車近づきぬ 葉の出でず狸の毛ほど赤ばめる木のつづきたる山にこしかな 水荘の口は刺木に塞ぎたり馬も娘もさげすみて行く 新しき土となりたるから松のおち葉もさびし奥山の路 白樺の林の清さつめたさに主人の捨てし三つの水荘 湖に二荒の裾の大崎の臨むをきはめさびしくなりぬ 高嶺より白樺の風流れきぬ裾野の馬車に路をゆづれば 男体の山の割目をから松に補ふわざもはかなかりけれ 底青き貝の光のみづうみに今船の居ずものの音無し かすかなる風の音にも耳立つる寂しき山の湖にして 金色のいとかすかなるものなれど人土筆摘むみづうみの岸 土筆つむ友にならはず目に見ても毒うつぎ程めでたからねば つたひ行く雲寒ければうなだるる山のホテルの石楠の垣 わが友は立木の仏拝まずて深山木の名をならひてぞこし みやびかに芽生ひの桂つづきたる渚へ朱の船も寄れかし 午後三時二荒をうつしあますなく広き湖水は憂鬱に落つ 常磐木とから松の斑も稀にして男体の山さびしき五月 湖がくらげのやうに光るなる怪しき国に来て泣けるかな みづうみに夕日の光注がるるところに遠きわが渚かな 日を受けて輝く色も蒲の穂に過ぎず寂しき二荒山かな 山山と湖水巴に身を組みて夜のけしきとなりにけるかな いただきの雲は真白き焔上げ夜ぞ明けてゆく男体の山 山上の天明の色隈のあり千手の浜はむらさきにして 湖の光につきて浮べどもうつつのものに遠き山なみ 男体は枯萱色の山なれどわかき五月の雲ゆききする から松の淡き緑の這ひたればたのまるるかな五月の二荒 褐色の男体山に晶玉の身もて寄るなりしら根と湖水 うぐひすや白根のふもと湯元より友かへりこし湖の宿 日光の奥の華厳に入る路は金色の毛の獅子に乗らまし 白樺は皮を剥がれて痛げなり大名牟遅来ていたはり給へ 目に見れば華厳の滝も涸れはてぬ底の方にて水の鳴れども 山により浄く生きんと三日経れば思はん人もありぬべきかな (以上) 炉を置くとひとしき程の思ひをばわれ身に近くいつ覚えけん 近づきぬ遠のきぬとも聞かずして定かに知るは誰の立所ぞ 椿をば幸ひの木と仰ぎたりおなじこころの童と大人 おち椿くれなゐ染の袖振りてわが手のひらへ移りこよかし 山の池楼船のごとめでたくて高き椿の立つなぎさかな 隣なる白き椿の不思議をば解くすべ知らぬ紅椿かな 地の上の節分至る草木の端に今日よりつらならんわれ 小雨降り畳の上に梅の鉢おくしどけなき春の日となる 去年の萱なびく山をばうとからず眺めてわたる春の日輪 小雪ちり近江の琵琶のみづうみの白さに明けぬ正月の空 わが待ちし人にあらねど元日の昼降る雪のなつかしきかな 正月は松風よりもまろうどの男の袴さやかにぞ鳴る 山の草花の咲けるも咲かざるも獅子頭ほど烈しく動く 山涼しほととぎすとも水鶏ともひぐらしぞとも定めず云へば 樺の木も隣の国のみづうみも真白きものの涼しきゆふべ 水鳥の一つの如し手を打ちて呼ばまほしかる睡蓮の花 うす色も刺青めける斑のあるも皆あはれなりひなげしの花 ひなげしは雨に打たれもはてにけりわれは散らずて思ひ乱るる 雨雲の層厚くしてアカシヤの花蝋のごと白き昼かな 朝より動かぬ草を前に見て変る心をはかなめりわれ 藤のふさ子安の貝の蕾をばつらぬる園の夕月夜かな さわやかに月夜の竹の鳴るものか明るき夢の国作るとて 初夏の雹こぼれきて鈴蘭のシベリア見ゆれヱ゛ランダの下 あけぼのの明り夕のひかりをも重ぬる山の皐月の若葉 行方なくはてぞなりゆく奥箱根大涌谷の業のけむりも (以下箱根にて) 過ぎて行く水の急ぐに宮城野の川よ何しに石多く置く 箱根路の石の欄干も宮城野を過ぎたるあとはありなしにして 空はづかゆふぐれの絵を人見よと光を放つ仙石の渓 暮れはてぬ山と空との間なる素肌のいろの恋しさも無し 風吹けばわれをわれともなさぬなり蒲柳の質の温泉の靄 年尽きて待ちつる春に人の逢ふ夜なれど山は嵐のみする 山風の浴室に入るところよりすこし覗かる大空の星 夜半過ぎぬひらと落ちこんさまも無く思ひ悩める奥山の月 山の湯の湧くところなる小き空下は月夜の仙石の原 冬もなほ歌の律よりはやりかに水おつるなる朝ぼらけかな 渓の底仙石の村月明ののこると見えてほのかに青し 仙石の渓をやうやく越えつれど長尾に遠し有明の月 一月の足柄の奥風猛しうごかぬ山もたのまれぬほど おほけなく日の照り曇り目におかぬ都を出でて旅に寒かり 足柄や渓の刈田はうすらひを結べど寒し笹山にして 笹なびく旧き箱根の裏関所それよりつづく湖尻の路 はだか木の林が被く笹山のおくの箱根の浅みどり色 のろし上げ塔を立つれどかひなしと大涌谷の靄消えにけり 光ある所に置かれ白菜の根のここちする雲をかしけれ 仙石の下湯の絵図を見て立てば長尾越えより馬駆けて出づ 百里行く人の立ち寄る如くして道しるべ読みそれより帰る しら雲の珠の色にもうるみたる箱根の上の一月の空 冠嶽鬚の跡ほど青くして冬の空よりやや濃き日かな 身を置くは半月の輪の北箱根眺むる空も半を越えず 葦毛より山青けれどたてがみの裸林はまことしきかな 氷より鋭き山おろしわれ死なで渓を越えしめ仙石の橋 池の波から松の穂のかたちして一方に寄る風のまにまに 山あひは霧の世となり大空は琥珀に透きてあてなる夕 旅びとの夜を恐るるも皆知りて山に隠るる赤き落日 悲しやと云へば然りとうなづきてまた額上げず山に入りし日 光無きものもめでたし黄昏の青磁の色のむら山を見よ 風荒しもの恐れする耳なんど不覚にもちて山ごもりする まじものが勢を持つ夜なれど廊よこだまは作らざれかし 水の奥二間の障子都にて恋しき時のありぬべきかな いのち無きものより命あるものへ移るけはひす夜半の山風 神山の昼も陰なる胡桃いろ月のもとにはほの白きかな 千粒の朝日を池に拾はまし風の寒きは山のならひぞ 寂しさにうたたねしつつ云ふことよ箱根に入りて山の気を病む 日の雫今は駿河にしたたると見るほどもなく黄昏となる 池やがて雁がね形にこまやかに波を作りて日の暮れて行く わたどのに重なる楼のさまに見ゆ夜の台が嶽灯をば置けかし 雲低く垂るれば原の薄さへ雲つくものと見なさるるかな さして行く姥子の方に青色の追はれて残る雪雲の空 雪雲が負ひつる山を消しつれば遥けくこしと思はずなりぬ 姥子より湯のつたひこし路ぞとも云ふにふさはん路をつたへる 雪雲がわづかに残す三角の空と山ゆゑはかなかりけれ 西の方長尾もあらず目のはては今降る雪のまぼろしの壁 地の上に至りはつるは見えずして烈しく降れる遠方の雪 萱の山うしろにありし雪雲の路立ちふさぐ一瞬にして 旅人に心をおきてすこしづつ寄りこし雪がたけなはに降る 神山と長尾のなかの原打つは潮騒に似て空に湧く雪 萱草と雪にまみれてわれ立つや冠が岳のしたの平に 絶え絶えに続ける路もいたるべし雪に埋れん姥子の温泉 みさかなの芋頭など取り出づる納屋の口過ぎいたる浴房 たぐひなく底澄み透り木の葉浮き木耳光る姥子の岩湯 姥子の湯春の海ほど温めども奴はすすむ細き据風呂 姥子湯の青き洞より出でつれば魚たちまちに人身を享く 通り雪紙巻き去ると云ふよりも速く去りたる奥箱根かな 忽ちに湧き上りたるものなれば富士散りはてんここちこそすれ 姥子の湯古城のごとし九つの藁屋つながり富士と向へる うまやより二階の窓を見上げたる馬うつくしき山の湯の宿 やはらかに姥子の宿をつつみたる灰紫のよき林かな 姥子にてわれの得つるは竹の杖外の三人は木の枝の杖 蘆の湖黒みて見えぬ姥子より雪の山路を踏みて下れば 見るかぎり玳瑁色の萱山の起伏したるみづうみの北 湖尻の船着場にて柑子などあがなふを待つ神山のもと 三つばかり黄なるくだもの手に持ちて人の出でくる船着きの小屋 見かへれば人数足らずと云ひたりし船なりしかど湖岸を出づ 湖を抜けて走れる川の音聞きつつわれも薄の野行く わが路とおなじ方へぞ引かれたる長尾の雪の一筋の路 白き龍長尾の洞に入らんとし尾は仙右の村に隠るる この相模国郡なかば萱草と思ふにいたる半日を行き 遠山の前髪がたの青き尖見ゆあしがらの円山のうへ 国府より役に召されて出づるごと萱野の路を息づきて行く 萱山のいくつを越えて帰りきぬ北足柄のささ山のもと 水上も下もうつくし雪降りて岸より白き川の石かな わが靴の跡より消えんうす雪の山踏むこともなまめかしけれ 沈みつつ黄に輝けり駿河にて丹の色をする夕日ならまし ささの葉と煙霧の色と重なりて遠方人の青山となる 夕ぐれの煙れる山になほ白し指の白さの襞ごとの雪 あきなひに乙女峠をかよひつる薬屋いかに仙石の冬 麓なる寄木細工もこひしけれ仙石原は雪の日となり 氷りたる山田なれども遠く見て咸陽宮の瓦のごとし 麓なる杉は茅花の穂の如し山にわが踏むむら消えの雪 いただきを中の林を人の行きわれは裾野の草にからまる 萱踏まれ藻よりほかなく乱れたる上につもれる箱根路の雪 大川の水音ならば大事なるほどに増しゆく風のいきほひ 大地獄その湯の靄と山の雪夢とうつつの白を並ぶる 帰る朝大涌谷は靄上げず否と云はるるここちこそすれ 廊下にて車の値をばこくめいに説くも佗しや山の別れに (以上) 山あひにわが置きてこし湖のおとには似ざるわたつみの音 (以下五首静浦にて) 松しげる雀が嶋は花笠を被けるごとししら波のうへ 紫の水晶成りも出づるごと濃くなり増さる夕ぐれの国 われわれは昔伊豆より海を見に通ひし人ぞ多比の洞門 洞門を馬に引かれて車入る昔も時にかへりくるかな 妹と背の祈りの机二つ立つところならまし天国の門 (以下娘の山本氏に嫁しけるに) 身にまとふ白き衣が隔てたる世は世なりとも親を忘るな 婚姻の鐘鳴り親はふためきぬものの終めかものの初めか 子は誓ふ神の光を迎へたる御堂のおくの高窓のもと 涙おつミサの終りの歌声の軽くいみじき波に浮きつつ まぼろしのいみじきを描きすすみ出で御堂の男女聖体を受く 二つ寄る帰依の姿よ長老の錦袍うごき燭はまたたく 頼むべき人を我子に与へたる天主を讃めんわが世界より わが七瀬夫が母君をならひなば安く到らんサンタマリヤに 司祭君御子を賜ぶなり羅馬にてわが名ほのかに聞き給ひぬと (以上) 芝草のいとふくよかに臙脂して霜枯れたるはなつかしきかな 冬も来て青き蟷螂きりぎりす炉をめぐりなばをかしからまし 去年は寝ね今は蔵王の此方行くともに九月の中頃の旅 (以下奥羽に遊びて) 遥かなる出羽の庄内ここにして逢ふと云ふ間に別るべき人 錦木の塚を訪ねず雨ふれば恋も知らざる旅人のごと 桜の葉まばらに赤し霧なびく鹿倉の山に倚れる林泉 大湯村米代川の白き瀬に馬のあそべる秋のゆふぐれ 寒国のならひ霰を花にしてあるやと思ふ山かづらかな くれなゐと黄の緒を縒りて行く如き発荷の谷の下紅葉かな とりかぶと発荷の五十六曲に楢かへでよりときめきて立つ 背をかがめ炉に倚り添へる形して人の乗りたる山の馬かな 云はば是れ岸を伝へる船なれど遠く来し身をなど任せけん わがホテル雑賀の木をばくれなゐの旗に代へたり棧橋の口 湖の鱒のうぶやの木の槽に流れ入るなる秋の水おと 湖の生出の山を花畑に割きて住めどもさびしからまし 思ふにはかなはず疾くもうら枯れんさます湖畔の秋の花畑 この岸の風見車のおとなども寂しと聞かん中山の崎 赤き実の雑賀の下に東京の夜の景物のこほろぎの鳴く やすみやの浜に二つの灯のありぬくちなしの実の浮べる如く 九月をば炭火の上に手かざして物思はんと思ひかけきや 子の口へ向へる船を主人より遠眼鏡借りのぞくひと時 夢みつつたどるも醒めて歩むにもかなへる山の湖の路 雑賀の葉くれなゐの実の色に染みわれ先づ散るは哀れなるかな 隣なるみづうみと見ゆ降る雨に花部の山の上じろみつつ 暗き雨底にし沁むやみづうみは平かにして波も無きかな みづうみに岬を持たぬ北の岸さびしきままに雨雲を呼ぶ ほの暗き水のなかより現れて中山崎の泣ける雨かな 桂月の御墓の立ちし蔦の山奥入瀬川もあまぐもの奥 ひねもすの雨にまぎれて湖へ隠れんとする中山の崎 板廊下次第に山の雨に濡れ家せまくなる心ぼそくも 枝すべて嵐の体につながれて逃れがたきかあはれ山の木 山の木も嵐の難に笛を吹く船にならふと哀れなりけれ 湖の色雲の乱れのほどよりはつつましやかに動くなりけれ 山なかば巻き隠されてからうじて岬の残る雨雲のもと 斜めなる花部の山のむらさきのまぎれん方もなき朝かな 鴉より黒き羽ある鶏の出でてあそべるみづうみの宿 桂の木珊瑚ばかりのもみぢして汀に立つは美くしきかな 清しかる湖上の寒さ雲とある星の寒さやこれに似たらん 行きあひぬこれも二三の旅人の身を托したるたななし小舟 岩こごし御前の浜のしら砂につづける神の道なるか是れ 岩せまく木の根の高し龍の身の南祖の坊の住みし中山 目の前におうらなひ場の淵の水たたへたれども卜せで止まん 紫も臙脂も岩の色にしてあはれさびしき水の国かな わが船はおまへが浜の港にて雑賀の木をば仰ぎつつ待つ 岬の木石と親み一草の立つを許さぬそのもとを漕ぐ そのむかしいひがひもなく仙人の酔ひたる嶋の二もと紅葉 近づけば襞やはらかに広がりて船を迎ふる中山の崎 一夜嶋ひと夜の後のいく千とせ冷き水に浮ぶなるらん 一夜嶋同じ朝に忘れしやなほ一人のみ思ふ名なるや 自籠の入江が押しも出だしたる船のここちす愛で痴れなとて 雲ならぬ雨のかたまり穂薄の色のかたまり湖走りくる みちのくの百里のはての湖の船にて雨に逢はんとすらん 中山の崎と生出のあひだなる湖上にありぬ雨雲と船 鱒釣るも我等のあるも朴の葉におほく勝らぬ湖の舟 湖の秋の男のすくへるは絹のうろこをまとひたる魚 たそがれに色有山のさびしきは色あるがため臙脂なるため 天の川湖水の光しら雲の入りも乱れてわりなかりけれ 下つ屋に楼をゆづりて入りつれば頭上に見えぬ船のともし灯 かがり火の燃えつつ三つの獅子舞へり津軽の秋の大農の家 (以下津軽にて) 美くしき夕月篝火わが前のをどりの獅子の金色の角 みやびかに岩木の山の紫に似る袖を振る津軽の獅子は 田楽の笛ひゆうと鳴り深山に獅子の入るなる夕月夜かな 深山は柳の枝にかたどられ舞ひぞ入りくる紫の獅子 都より北の津軽におよびたる松の並木の夕月のみち まばゆかる大和綿と云へる名の林檎の枝にかかる月かな 七八人岩木の川の橋に立ち見たる津軽の夕映のいろ 夕映や十三湖より通ひくる風ひややかに川赤きかな 法師めき顔つつみたる馬の行き裸馬すぎ橋たそがれぬ 客人となりて餌差の追分を津軽に聞けり雁渡るころ 神の代の岩木のさくら寛文の建立の門あかき秋かな 岩木嶺に目屋の平を見て立ちぬ片時のちは霧の隠さん 龍胆も蔦の紅葉もあぢきなき別離のきはの山歩きかな わが友の引きつる草の紅葉をば手にしてやがて別れ行くべき 軒廊や何に捧ぐる火かと見ぬ三つ五つづつ積む林檎とて 名も知らぬ岬に灯などつき初めて悲しき陸奥の麻蒸の夜 船の笛例のこととも思はれず身に沁みわたる山より来れば 燐の虫波の中をば行ききする海の秋こそなまめかしけれ 長安へ続くさまにもあらずして寂し五戸の大路の柳 (以下南部にて) 南部郷五戸の館の丘に立つ十和田の方に日の落つるとて 桂月のいます世ならで今日逢へる蔦の温泉の分れ道かな 秋風の奥なる山をしめやかに濡らして過ぐるおいらせの川 深山木を天に次ぎたる空として重くうつせる奥入瀬の水 岩窟ありすでにたどるをいはやとも水の底ともなしたりし路 焼山を子の大滝にいたるまでまことに人を見ぬ路なりし (以上) 東京へ寝に帰るべき家無しと子ら悲まず母のみ歎く 移り住みやがて都の恋しさに心のうごく秋の夕かぜ 野に住みぬ今は都に反かんと思ひ掟てしはてならずして かずかずの画舫を織れる錦もてわが心をば巻くよしもがな 見て立てば不老の門のうちにある身のここちする錦なりけり 織られしは獅子の巻毛よ春の夜の錦の袍にこれを裁たまし 花鳥を菱形にとりめでたけれ春の夜明のうす黄なる帯 なつかしき黒地の帯よ円をおき都の華奢をその中に置く 那須の奥山ふところの家家が積み重ねたる秋のともし灯 (以下那須温泉にて) 今朝過ぎし那須野に雲の厚くして秋の夕となりし山かな 那須の湯にありとせし人はたありぬ山ははかなき世に似ざるかな 硫黄の黄女郎花にはあらねどもそれらの岩も霧に濡れたる 立ちこめし雲の間に残りたる薄とわれといたどりの草 しらじらと殺生石が与へたる不思議の如く動く雲かな 雲の紗のひろごり薄うら若しまことの賽の河原ならねば 渓ひろく渚の如く白ければ殺生石もつめたからまし 雲払ふわざを備へしうら若き薄に沿ひて危きを行く 家ごとに那須の嶽ほど瓜積めり元湯の渓の片側の町 目じるしの理髪の家は宵よりも朝寒げなり秋の湯の町 楼に見る雲の動かず渓なるは人よりも疾く走り行くかな 板の橋足らぬ半ば秋の水踏みて越ゆれば山がらす逃ぐ 式内の社とおなじかしこさに老いにけるかな三つ葉楓も 山涼し鳥の脚ほどあえかなる薄のなかを雲と歩めば ましぐらに那須へ進みてこし雲の匂ひもまじる花草の原 秋の水赤土山を流るれば音のみ澄みて目に立たぬかな 暁に山ゆきかひし白雲のしづくばかりの小き池かな 山にあり夢もうつつも平かに足るも足らぬも無き世のやうに 霜降れば海に変りて風立ちぬ那須野が原は秋の真昼も 三坪ほど浦嶋草をつくりたる泉の家に路のかへらず 那須の湯の芝居の小屋の口なども洞の如くに雲ゆききする 家高し雲の下をば座頭笛ゆききするなり那須の湯の秋 わが昔前座が原の草に寝て忘るる術を知らざりしかな 草に寝るまぶたの上にありつるが飛びぬと見れば黒き羽の蝶 雷鳥が羽変りなどするやうに山をば白く雲の包めり 那須嶽の夕おろし立つ前座原草の枕を山のゆるさず 前座原二町へだてて臥して云ふ言葉も通ふ山のかこめば 前渓も北山渓も霧湧けば我身よりさへ湧くここちする 重ならば暗き夜ともなるならん白き姿の山の夕ぎり 夕なほ明るき山を下りくればあなぐらめきぬ温泉の町 わが山は雲走り行く道となり冷たき窓となりにけるかな 入りてこし夕の雲の中になほ三味線を弾く隣室の人 軒の上烈しき霧に蜻蛉などしきりに落つれ雨音のごと 湯の裏はかづらの花が月の色してうち掛かりしづくする山 山の夜の雲に混りて入りし蛾のやがても鈍く這ひまはるかな 山の蛾のよりも添ひたる障子開け那須の夜おろし迎へんとする 雲迷ふ那須野を下に見る山の朝の日かげの美くしきかな こほこほとラバを敷きたる道鳴れば恐れを帯ぶるわが上の雲 秋風に牧の仮屋と覚ゆれど母屋を浴槽に作る八幡湯 秋風と物云ふために備はれる八幡の原の温泉ならまし 神などのあてにすずしき手のひらへ置きしさまなる原の温泉 霧探しいかにたどれと云ふことか北湯朝日の温泉の路 風のごと大丸の湯の通ひなる山の男の消え去りし路 しろがねを那須の煙の巻く時はましてはかなき朝霧と見ゆ 朝日嶽鬼のわらはの憎からぬ角ある顔ののぞく高原 黄金の千手のやうに女郎花立ちも咲くなり暗き渓底 悪縁も心引くごと硫黄嗅ぎ那須の奈落の渓つたひ入る 女郎花われもかうなど挿してこし部屋を思ひぬ元湯まで来て 大神を与一の念じたるよりも深く念ずる時の湯の人 山の雨石の置場を打ちしのみ止む世を知らぬ昼の三味線 白を著て北山渓に入り立ちぬ身に沁むことのなほ足らぬごと 霧軽し山の茶亭の白旗の重たげなるはせんすべも無し 水桶へ薄の穂ほど水おとす峠に待ちぬ霧の晴れ間を 橋なれど崩れし家の棟木など渡るに似たり秋の山川 奥の湯のわれは八幡に通ひ行く今年の秋の物好きとして 山主がしるしの柵をおくこともはかなし秋の那須の山踏 われ知りぬ下界と雲の間なる山の温泉はなほしるし無し 秋霧をかすかに吸へり山上の八幡の池の睡蓮のはな 極熱の那須の元湯のあふるるも忘れて吹けり山の秋風 宿宿の灯かげの末に珍文がおどけ語りの小屋の灯もつく 瞽女の吹く笛に這ふなり湯煙が道の中より白く上りて 秋のかぜ那須の七湯が雲とある暁がたにわが心吹く わが肩に霧ぞ加はる恋などの添へるが如く身にも沁むかな (以上) 須坂より山田に入りぬ千曲川豊野の橋の恋しけれども (以下北信に遊びて) 彼を見よ川の底にも橋ありと上の高井の橋より覗く 街道の橋より云はば松川の千尋の底の渓にこしかな 松川はいと哀れなり白樺の木立ばかりに白く濁りて 松川の淀に下り立ち奈落をばきはめしことととりなしぬわれ 湯場の町板敷のごと清らなり月の射せかし雨そそげかし 上州に行く馬車あれど雇はれず飯綱山に向ひてぞ立つ 夕明りげんのしようこを次次に人たづさへて現るる坂 山田湯の草津街道草津をば人のおもはず薬草を摘む 夕明り湯場の宿屋の屋根にあり叩き花火の初まれるころ 明星は山田の湯場の用水のあふるる音を親みて聞く 大湯なる湯じまひの笛夜鴉のあわて出づべき頃に鳴るかな 杓をもち山田の湯場をゆききするともがらとなり涼しき信濃 山田町大湯を中にめぐるなり寂しき時は相も呼ぶべく 連山の白馬の嶽のしら雪も秋にいたれば穂すすきと似る 千曲川船橋いくつ眺めつつさして下りぬ北海のかた 空晴るる日は曇るとよ千曲川さはな愁ひそ人咎むるに さしてこし犬養山は雲立ちて繭ごもりしてさびし湯の町 潮の鳴る如く温泉の山に鳴る信濃の奥に入りておどろく しろき雲通ひ馴れたる路ならんしづかに歩む犬養の山 忘れたる恋の地獄も思ひ出づ石につたへる熱き湯を踏み 内湯には馴染つかざる心より寺湯におりぬ向日葵のみち 山繭を一坪はかり乾す外は焼杭に似る寺の湯のさま 白き馬ただ頭のみ現はして杜鵑の如く涼しげに鳴く 犬養の湯に雨降れば越の国いよいよ近く思ほゆるかな 雨雲を横より見れば華やかにしろがねがちの物にぞありける 傾ける萱の屋廊と青柿を忘れざるべき真湯のみなとや 程よりもふとき薄の刈られずてしるしに残るみなとやの門 提灯を得て犬養の山踏めり恋の闇にはあらぬ闇ゆゑ 野沢湯のたんだら町の中程の灯のあたりにて馬のいななく 御仏の観音山の朝露も思ひみだるるすがたなりけり 町よりも水の流るる筋多き野沢の里を朝歩りきする かずかずの雑木も萩にまじはれば弱げに見ゆる朝露の山 月夜には軒に近づき朝となり雲よりをちに去りし山かな 豆のさや緑の雲のさまをして烹られたるかな麻釜の大湯 火に代ふる熱き泉を人見たり火に代へぬべき心は知らず 家家へ蜘蛛手に引ける湯の管も全からねば白き霧吹く 丈をなす白髪のごと美くしき晒しあけびは編まれずもがな 白き雲流に添ひて動く時山も引かれて行くここちする 二筋の虹のうしろに白き雨舞へり野沢の渓ひろくして こりずまにわれも物など思ひなば悲しからましいかづちのもと いなづまし昔恋しき虹を吐く山のなすことおほむね斯かり 門出でて有明月にわが逢へる路も霧吹く湯どころの町 みなとやの渓の離れに下りつれば蝉に混りてきりぎりす鳴く 夕ぐれの虹をくぐりてわが車いでこし山になほ人の立つ 仮橋を踏めば信濃の秋の風心さだめずゆらゆらと吹く 飯山の下の船戸の仮橋の尽きて夕のうつりけるかな 夕ぐれの国つづきたりわが添ひて上る千曲の水の彼方に 吾嬬の笠法師山のぞくなりくらがりにある旅の車を 先生はいよいよ痩せて居給はんこの山川の出づるところに 山荘は立秋ののち風騒ぎぎぼしのうごく藻の花のごと 身に沁みぬ唯だ耳にして聞く時は蝉の声より弱き秋風 碓氷なる峠にいたり王宮の壁に逢ひたり見晴しの台 頂はさすらひ歩く雲もなくただおほらかに大空曇る 妙義なる山ぎはすこし白くして一天くもる碓氷の峠 雲居たり北信濃にて蓼料をあらはに見なば悲しからまし 山山の地より起りてためらへる中にめでたし妙義の山は 碓氷川東に出づれしらじらと秋の心と云ふかたちして 赤城山かばかり外にはかなげにある日を見んと思ひかけきや うぐひすや旅の半に別れたる友もこひしき碓氷の峠 地の上のありなし山と大きなる浅間を見つつものの思はる 衣などの重なり浪のつづくより山は陰影をば積みてめでたし 水の音ほのかなるかな初秋の雲の音とも云はんばかりに うぐひすは雁の子なるや秋山に白き狭霧を吸ひつつぞ啼く 渓に入り霧積の湯にいたるべき朝の峠の雲と思ひぬ 新しく今朝開きたるうす藍の花のここちすつらなる妙義 東北の信濃の門の大きさよこの碓氷嶺に妙義は対す 山すでに秋となりぬるうら悲し友をわれ置き帰らんとする (以上) 夕立や百合の花粉の色をして小き池の濁りけるかな 口笛を吹きて楽む子の住むは星のあるより遠き世界ぞ 朴の葉の鷹の羽よりひろきをば夕立打ちてここちよきかな 松山の下の一つ家灯を置かで霞に消えぬ春のたそがれ 雪ののち紅梅病めりくちばしのあらば薬をついばませまし 枯芝と幾日消えざるしら雪に飽く紅梅の萎れけるかな 菜園の春の雪をば指さしぬ母鶏のごとふくらめりとて 空あをし鶯●台の階段に雪解の水のうちたまりつつ      (●は「山」+「見」) なまめかし小ごめ桜のちる故に雪を被きしわが桜草 灰色の風ふきめぐるゆふべさへ失はぬかな五月の若さ 洛陽の町の朝かぜゆふかぜに草のにほひのまじる七月 夜明くれば雑草の身にかへり行く月見草かな鳥屋のかたはら そこばくの森がおさへし大地をばゆるがすことのならぬ●蛄の音      (●は「虫」+「惠」) 我子らの眠れる町の夜の空のうす赤くして丘に●蛄鳴く      (●は「虫」+「惠」) 行き行きて大地の中へ沈み行く寂しさ覚ゆ虫の音聞けば 彗星が何をし出でんそれかなど世の滅ぶ日も人の云へかし 岩山の木の下風に露こぼる鏡の肌のつめたさをして こほろぎが銀の糸をば引き出だす月夜の空と思ひけるかな 園丁が天の川をば描きたるむかしの石のみちに蓼咲く あぢきなしあらぬもののみ近く居ぬたとへば白き秋の月など まだ細き笛の管より出でてくる初秋風に過ぎぬなりけり 草ならば蔓いささかものばさずで四五日ありと云ふべき心 その上に秋の心を一つおくわがヱ゛ランダの三段の石 あたらしき秋の光となりにけり夕は同じ水いろながら 遠方の灯のあかりをば負ひながら冷き露を零す草むら われの見る近頃の文短かけれ男の友と分けて云はねど ひぐらしの声に混りて降る雨の涼しき秋の夕まぐれかな とりどりの声を持ちしがはてはては一つになりし夕暮の蝉 むらむらに分れし水は動かずて一筋の水早き多摩川 初秋の水は河原を夕焼が染むるかたへにあはれ冷たし 川しろく長長と見ゆ横山の物見の台の高きあまりに 多摩の川空の銀河にくらぶれは海のごとかりはた白くして 多摩川の関戸の秋の水越えてさびしくなりぬ稲の中道 草木の花無し川は白くともいまだ初秋斯からずもがな 山山のたちども洲かと思はれぬ霧白く降り川ひろくして 都をば去りて三日へぬ寂しとは云はず病す井荻の村に そことなく曇る緑のはかなけれ春の初めの明星が嶽 (以下箱根にて) 芝山は海より角の多けれど日をここちよく載せてあるかな 裂けし山いと哀れなり雲のごとたやすく寄りも合ひがたくして 人立ちて洒勾の川の流域のことなる色を指ざせる山 箱根路に見れば屋かげの雪のごと動かぬ波の白き大磯 大海をわれは星ほど高からでよき程に居て見る箱根かな 鷹の巣に立つ日相模の海くもり磯は象牙の輪のここちする 箱根行く雪を螺鈿にちりばめし神山おろし寒き夕ぐれ 海の方まさに春なりわが山は萱も雑木も霜にまろがる この世には明星嶽を忘るべき山のあらねば箱根にぞこし 芽をなさで赤ばむ枝も翡翠めく枝も幹こそ皆真白けれ 陽炎の逆しまに這ふ岩ありと千条の滝へ橋わたりこし 落つれども恋の涙の滝ならんしづかなるかな鷹の巣の渓 それながら涙と云ふにつつましや鷹の巣山の千行の滝 渓の底日の光には忘られて千条の滝のゆらぐ玉掛く 恋をして春の夕に倚りなまし千条の滝の板のこしかけ あぢきなし蛇骨の川は瀬もあらず淵をもなさず何に流るる さざ波を縦に並らべしきりぎしの千条の滝を夕ぐれに見る 山蔭の千条の滝の前を過ぐ桜ちる夜に似るけはひかな 二三人ホテルヘ分れ入りにけり千条の滝をおとづれし人 鷹の巣の霜なだれには埋れもはてず夕は浴室に立つ 明星の山の腰とも云ひぬべき所に寄れる二三の灯かな 夜に着きて山の顔をば知らぬ友いまだ醒めずて朝霧のぼる 右ひだり弓をつなげる箱根路の日蔭日向を通ひなれたる 山のひだ中に濡れたる紙の色する二筋の寒き朝かな しづかなる夢かな白くいと長し早雲山の氷りたる川 さらしなの田毎の月を石混り氷れる川に見るここちする 上強羅氷る流はあてにしてその川の石いと醜くけれ 川ならぬ時の流れの氷れかしかくの如くに踏みて行かまし 渓川の氷ると云ふは霜ばしら山に立てると多く変らず 杉山は日のひかりこそ煙るなれ強羅の林小枝のけぶる 箱根路は早雲川に橋無くて氷を踏めどあを海の見ゆ 岩木とはひとしなみには見るべしや一夜寝ねつる山荘の壁 夕立を見し窓あれど山荘の名の打たれたる毛欅の見分かず 山の木の小枝が作る網代の目金糸雀の毛の日かげぞおつる 春を待つ深林帯の木が吸へる空の光の甘きみちかな 猟男ども猛に笹踏みこなたには春待つ林ほのかにも鳴る うぐひすの雛を拾ひし春のこと強羅の雨に宿れし世のこと 春を待つ臙脂の色の深林の強羅に住まん鳥と並びて 湯の靄のはかなきものを指さして人の云ふなり早雲地獄 童めく明星が嶽明神の山は三つ四つ子のかみにして 湯の靄を失はじとて抱きたる強羅の林うつくしきかな 山荘の内は寺かと寂しくて石の炉を焚き山を守れる 強羅荘自ら作りおのづから古城となして住むあるじかな 雑木の林の木末むぐらより細やかにしてつづく山荘 御仏の籠り堂とも云ひぬべき板間の炉の火明星が嶽 冬の日は山走るなり道了の炎上の日の奇異のたぐひに 夜の箱根星の無ければ大空も杉の集るところに似たり 疎らなる灯なれど力満ちたれば水の音よりたのまるるかな 灯火がみをつくしをば作るなり海より深き夜の小涌谷 山の湯の朝のきざはしふらんすのマドモアゼルの肱に触れつる 出づるとて昨日の竹の杖とりぬなほうす雪の零れ来よかし 大磯の虎が立てつる供養塔篠より高し冥加あらせ給へ 霜ばしら虎が涙の跡ならば紅ならましを箱根路の冬 湖は空の色より暗くして美くしきこといささか勝る 杉の幹並ぶ彼方に湖水置く月日を置くもこれに及ばじ 舞ふよりも小忌の青摺ひきかくる初めのをかし山の宮姫 箱王が法華経の義を聴きしにも似ずやわれらが御神楽を上ぐ 乱世にも百の坊をば持ちたりし宮にわれのみ御神楽を上ぐ 御神楽の馬の鈴にも似るものか山の宮姫きよらなれども 考ふるごとくに時に小く振る祝少女の鈴のおとかな 何ごとも箱根の宮の神巫の振れる鈴にて終りたりけり 幣風に罪を送りてみやしろのきざはし踏めば降れるうす雪 雪降りてきざはし白しうちつけに神風寒くおもほゆるかな そのむかし折烏帽子被る箱王に騒ぎ立ちけん谷谷の坊 山の土すがるに足らず霰より寄る方なげに見ゆるうす雪 初雪のわづかに白きけはひをば宝物殿の庭に見るかな 山上の蘆の湖消えて行く初めのごとく乾けるなぎさ 鷹の巣の炭のこぼるる細道も旧街道もつめたき箱根 萱野原をとめ長尾のつらなれる仙石恋し神山踏めば 柏木の枯葉よぢれてその木とも見えざる上の白雪の山 かぞふれば正月三日よ山上の箱根の町にわれ車待つ 湖をつたひて人の国へ行く旅に焚く火と思ひつつ倚る 二子山何に化らんこと思ひ崩れ初めつるいで止めよかし 湖の二子の背をば此方して芽吹く林に入りし路かな 竹の葉は空の光に通ひつつ春の近づくまぼろしも見ゆ 湯場の春友の車はいぎりすの少女の荷をば預りて出づ 去年借りし草の枕が心引く宮城野橋に至りけるかな 堂が嶋渓をつたひし友一人無し世は四とせ五とせにして 山の日の折られし如く隠れたり今は大地の温泉に寄らん 落ちし日と云ひがたき日の見がたけれ夕がちなる小涌谷かな 夜の山に車来れば見に出でぬ浦嶋の子の帰るならねど 山の鳥今朝は庇に近く鳴く大使夫人も桃いろを著ん 離れたる大井蒼梧に似る枯木高きところは何ごとかある (以上) 梅の花真白けれども業の火の燃ゆる匂ひと思ひけるかな 誓文のあらぬものともなりはてし日を悲める女の梅花 春の月つながぬ舟のさまをして漂ひ出でぬ梅の林に 梅と見て温室の花泥のごと見ゆるなりけり夕焼の前 そよ風や銀の毛抜がつまむほど白き小さき梅の花びら 人間に恋の奴といふもののありや無しやも知らぬ梅かな 梅の花人のこの世を改めん願ひを持ちて咲き初めにけん わが立てば難を数へてあるやうにひがみ初めたるしら梅の花 まだ解けぬ雪とかたみに背きたるわが夕暮のしら梅の花 朧気に思ふことをば云ひなすに似たる匂ひの梅の花かな 夕月夜湯けぶりのごと斜して白き梅かな山あひの渓 梅の花獄にある苦を知るさまの心も云へり不思議なる香に 鳥のごと青砥の山の常磐木の中に隠れて紅梅の咲く (山下武蔵の金沢にて) 春となり幻の身が形をばあらはすごとき梅の花かな 何ごとも忘れはてたるさまとなり瀬戸の入江にさす潮を待つ 瀬戸の江にかかる板橋中に切れ土橋となりそよぐ春草 哀れにも金沢曇るきりぎしの下になびけるくれ竹の外 遠眼鏡八景の絵図ならびたる昇天山に立ちてはかなし 夕暮に煙るむさしの金沢の入江の外はしら波の立つ 平潟の潮乾きたる夕ぐれに光りてさびし葉がちの椿 平潟の州のそこここに点る灯は船にあらねば笛吹かぬかな 夜の暗し何の刻まで更けぬらん音無き海のかたはらの家 金沢の明くる朝は雨となりみをつくし濡れ山の濡れたる 草よりも弱きけしきとなりにけり雨のむさしの金沢の浦 上げ潮に春の小雨の加りてうごきそめたる平潟の船 三月の雨音立てず金沢の海たなぞこのごと低くして (以上) くろ髪をうなぢはかりにそぎたりしそれよりのちの君の見がたし (二首越川須賀子の死を悼みて) 父母のいますこの世をあとにして天翔けるとも恋しからまし 湯の白し地よりをどりて出づるもの胸より出づるものに似るかな (以下熱海にて) 闇の夜の入江は沖つしら波の立つところよりさびしわりなし 南国の夏のさかりのかたむける海辺に仰ぐ天の川かな 海鳴れば椿の油あがなひし友といへども寂しからまし わがテラス三人の少女白を著て舞へり海へは帰らざれかし いさりをの都にあらでたわやめの寄りて作れる海の火と見ゆ 海のうへ椿しげれる初嶋は枕にすべく美くしきかな 窓鎖さで寝れど天城の頂と今さら何を語るべきわれ 伊豆の雨白き枕を離るれば窓より呼びぬ恋人のごと 芝原に露おき海の大嶋の鬢ぐし形にすずしき夜あけ みづからを中に湯気湧き磯草に小雨けぶれり浴室の外 渚の湯低きところに降る雨とうまおひ虫とこほろぎを聞く 渚湯の屋廊に並ぶ草の坂こほろぎの音と小雨に濡るる 磯の坂萱は葉の濡れ細き穂は小雨に混りおきふしぞする 渚行く大船が吐く煙よりさだかならざる雨に濡れつつ 朝風や紋白蝶の出でてこしホテルの前のきりぎしの草 朝曇り海のあるじの太陽の無き気軽さにうごくしら波 三五人波踏む少女鷺に似ぬ岬のかげの青く落つれば 拍手をばわがくろ髪に送るなり童めきたる伊豆の走り湯 (以上) 友の声流れ附きたる箱のごとゆがめる家の中よりぞする こは人にあらねば涙流さねど慰めがたき廃屋にして 坂の路萩の上なるあしがらの七重の青のうつくきかな 廃屋が草に作れる影に居て語れば思ふわたり鳥かと 山百合の白蝋の燭傾けり箱根は秋にならんとすらん 小田原の裏山の家波形す一昨年建てて一昨年崩えて 七月の中の九日あしがらの山かげ落つる草原に居ぬ 穂を上げぬ薄ゆたかに円ければ松に勝れりうら山の夏 大空の高きは光りむらむらに動ける雲の涼しき日かな 仄白く裾をぼかして夏の雨空より草にたやすく至る 木とは似ず恋の如くに仮初のものと思はれ草哀れなり 雨の中向日葵草と若竹のものに紛れぬつやつやしさよ 山蔭に逢ふも隈なき草原に見るもさびしき雨と思ひぬ あぢきなし草より低き座にあるをしみじみ覚ゆ雨の夕ぐれ 高き草絶えず動けば雨のはて風の初めも知りがたきかな 梅もどき冬の入日に答へたる美くしさをばわが窓に置く 鳩の小屋建てん願ひをあられもなこの冬に持ち子の歩りく庭 恋をする大和魂尽きはてぬ山をたたへん唐詩に擬して (以下武蔵の氷川にて) 甲斐が嶺の大菩薩より発したる若きさかりの上の玉川 ほろ苦く濁れる水をつたふなるむさしの奥の一筋の路 うつし身のまことの胸の痛みさへ知りぬはかなき人の山踏 洞門を肘でかづらほど細やかに伝へる水のかたはらへ行く 山立ちて銀河を隠し天つ星見ゆる限りは玉川に倚る いみじかる二つの川と大空の月の光の落ち合ふところ 玉川は銀の色ほど濁らねど仁原の川に逢ひて愁ふる 渓あひの氷川の町は御社の太皷に満ちて月夜となりぬ 愛宕山人のぼり行く蛍より少しはでなる灯をばたづさへ たかむらの動くが如く川底に立夕波の涼しかりけれ 水の音山をめぐりて幻と云ふおもむきの月夜となりぬ 夜と云ふ色と月ある大空のひかりを分けてながむる峠 山涼し羽黒の神のもちひたる羽団扇のごと夜の木うごきて 渓の橋月の光のしみ入りて夜の冷たけれなめし皮ほど 人間の夢に似るとも思ほへず栃寄の山淡くまろくて 新しき扇をつかふ子もありぬ氷川の森の夜芝居に立ち 川上の鍾乳洞を出でてこしつめたき風に夢のおどろく 月入れど虫のすだけば川原の山のみ明く思はるるかな 大木の胡桃の上にあつまれり甲州の山むらさきにして いただきをきはめしことを友誇る愛宕は恋の山ならなくに 階上の三つの座敷を川のごと長くつづけてうたたねぞする 川越えて水引草を引きてこし友の渡ればゆらぐ吊橋 人の目に見えぬ世界のくらがりへ落つる苦しき棚沢の滝 (以上) いと白く酸き味ひのいなづまの覗く戸口を西北に置く いかづちに紙の障子をとざしつつ草の花よりはかなしとする 雨の中荒地野菊も七月はまだあえかなるしら花にして 南より風を兼ねたるうす墨の風走りきて草の明るし 背の方に額に渦をいかづちの巻く時胸に我子らの寄る 常ならず小豆の音に散り初めし雨にたちまち世の尽きんとす いかづちが虫の音とこそなりにけれ夢のあとより清やかにして 子等出でて焼けたる杉を見に行きぬ井草の夕いかづちのあと 雪解しむ土の匂ひと枯草のくゆる二月の悩ましきかな 二月憂し瓦の色の小鳥来て木づたひ歩く忍術のごと うす煙雪まだらなる庭を経てなびき寄るこそ哀れなりけれ 人といふものをわれ夜の夢にだに見んを厭ひて生きがたくなる この頃の月の姿も知らぬかな優ならぬほど衣を重ねて まろがりて去年の枯草刈りがたし古き思ひに似たるものかな 心より雪解の水の湧き出でて惑はん夢をせめて見なまし わが心根無し草にもあらずしてまたその如しはかなみ行けば ひがし山末の伏見は低くして陶器焼けり竹原のすそ (以下京大和にて) 忘れては明けはてずとも思ふべき霞の京に立つ柳かな 加茂川の井堰よ人の身のうちの胸の如しと鳴れば覚ゆる 青き草真白き石の下行くや上を過ぐるや加茂川の水 浅みどり楓の雲に入りぬなり八瀬の流を越えてきぬれば 若葉しぬ岩の端ほど強からで節をつくれる山松まじり うぐひすは裹頭の僧のゆきかひの絶えたる山の花に居て鳴く 霞めると近江の空の曇れると分るる下に山駕龍いたる みづうみの嶋も近江の山山も曇れば玉の櫛に似るかな 春の雁比叡の根本中堂に逢へるも知らずみづうみも越ゆ 驚けと青からずして琵琶の湖大津の町の眠れるに添ふ 京更けて歌舞練場のかがり火の雫おちんと眺めにぞ行く 菜の花や八幡の神のおはします彼方の岸のあてはかにして 山ざくら春日の坂をわれらのみ古のごと歩む夕ぐれ 御神楽の春日少女の青摺はうたた寝によき綾のひろ袖 御社の軒廊のごと赤きかな小忌のころものしたの袖口 紫の霞の段に置かれたり山もさくらもわかくさ山も 桜咲き煙のさまの池ありぬ奈良の宿屋の高まどの下 山吹のしら花となり零るるや春の夕も冷やかにして 真白くて五月桜のさびしきを延元陵に云へる僧かな 山の杉丸太となりて白きかな吉野法師の落ち矢のやうに 夕ぐれは蔵王堂の朱のとびら閉ぢ立てられてめでたかりけれ 蝋の燭弥勒の像に及ばねど案内の僧にしたがひて行く 吉野山花ちる路のつづくかな龍燈めける宿坊の灯に 竹むらと蔵王堂の見ゆるなり桜は銀の箔に過ぎねど (以上) 信濃路の霧より生ふるものと見しから松なども恋しかりけれ 麻釜湯の湯気より出づる夏雲も涼しき風を作りけらしな 頂はしもつけ花の紅さして浅間の嶽の立ちし夏の夜 ただ子等の楽しき家とつづけかしわが学院の敷石の道 学院の夏休みとて葵のみ赤し罌粟のみひるがへるかな 夕月のある方知らず夏木立銀糸を上に掛けざるも無し ほととぎす残る霧無く紫の山立ちならぶ夕月夜かな ほととぎす赤城の山の夏の炉の向ひに乾すは猿の皮ども ほととぎすあざみの草の葉の形する歌声と思ひけるかな 北海の上より雲の立ち昇るゆゆしき朝のほととぎすかな ほととぎす啼きたる後は山さらに静かなれども思ひ乱るる ほととぎす暗き廊下を踏む音に答ふるばかり幽かにぞ鳴く ほととぎす北の門より出でぬらんみやびやかなる山の夕ぐれ ほととぎす浅間が嶽の焼土の零るる音にうち混り鳴く ほととぎす驚きて鳴く奥山に白樺ならぬ人を見にけん わが立てるテラスの前の海過ぎぬ燈籠のごと光る方船 (以下熱海にて) きりぎしの下は暫く海ならで虫の音ぞする六月の草 大海に向へる窓のひろくしてよりどころなく悲しき温泉 山に咲く柑子の花よこの頃の虫の音ばかり匂ひくるかな (以上) 十の子の泣く声こそは悲しけれ母の泣くよりなほ低くして 子を待ちし心なりきと寂しさを紛らはしても思はるるかな 涙おつ年長けし子が末子よりをさなきことを云ひも出づれば 小半日子とあることの嬉しきも昨日に似ずて哀れなるわれ わが八つの子の養へる薔薇の花紫雲英ばかりのはかなさに咲く 裾野なる草の中よりともし火を備へし家のあらはるるころ 軽井沢駅をかこみてあかつきに月見草立つ山風のなか 町名をば順に数ふる早わざを妹達にをしへしは誰れ 殿馬場の柳二もと三もとなほ有りつるころのわれの学校 人よりも思ひ上れる娘をばなでふ見知らん悲しき教師 月見草高しそれらの中にしてすだき初めたる山の夜の虫 月見草その燐の火の淡くして浅間おろしの烈しき夜かな わが愁ひ月見草よりはかなくて咲くべき夜も持たねならまし 月見草透き通りたる明るさの水に似たるがなつかしきかな かつしかの真間の荘園砂白くすすきまじりの月見草咲く わが路は月見草をば分くれども蓬の香こそ立ち迷ひけれ みちのくの岩木の秋の詠草も悲しきものとなりにけるかな (以下二首故安田秀次郎の君を悲みて) はかなけれ岩木の山の朝霧のたぐひに友のなりはてぬらん ひなげしは醜き畑の土にさへ心の上へ散るごとく落つ プラタヌが放たれしごと葉をひろげ皐月となりぬ洛陽の中 木枯が仕事に就きて夜の十時おち葉の歩く家の床かな 空仰ぎ天文台に何ごとか記るす外なるまぼろしを見る 木草より人の心に至るまで憐むことのすでに終りし 木の葉舞ふわれは心のひるがへる日を思へども是れに似ぬかな ことごとく物を忘れて冬籠りなすにもあらず春に急がず 春来とて羽子をさしたる竹のごと子のうち並ぶ幻を描く 待つとなき旅の宿屋にあれど来る正月に似ぬものの歎かる わが家にあらぬ茶館の隅に居ぬうらはかなしや正月の夢 年明けぬ春の立ちぬと羽子突けりめでたき業を知る少女かな 鴨の鳥鮭山ぐさを狩場かとこちたく置きてわれ何を待つ 西鶴の大坂ならぬ天国のおほさか夢のおほ坂を持つ 若き日の帯の如くにその町もかの町も見ゆ浪華思へば 蔦の身はうち動くともあらずしてくれなゐの葉の奪はるるかな いろいろの菊霜に病む天人の衰ふるより哀れなりけれ 熊蜂が油塗りたる二つの巣あらはになりて冬のあさまし 投げん葉を持たぬ日となり安らかに園の小枝は日を吸へるかな 雪曇りあぢきなき夜にわが噛みし筆を並ぶる杉木立かな むさし野にありや無しやと思ひつる羽子の音こそ響き来にけれ 彗星の夜半に至りて出づるとよ胸を云へるか空を云へるか 夏山のほととぎすだに人の名に啼くと聞きしは誰にかあらん うす墨は燻る煙の色なれば火に近くしてなまめかしけれ 従はぬ心は心いとせめて変りはてぬと人の云へかし 白鷺のごと爪立てて銀杏葉の散りしく路を歩む日の来よ 一もとの銀杏の黄さへ曇りたる寂しき野辺をわたるかりがね 暁にもの思ふこそをかしけれ恋の初めにまなびし如く 少女子とロオランサンの絵を見れど雁ぞ鳴くなる東京の秋 除かれぬ岩の葢さへ忘るるにさても涙の流れこそすれ 草むらに咲けど都の大路をば菊白ければ思はれぞする 美くしく重なる山を御空より見るここちするつり橋の上 (以下山田温泉にて) 彩糸を見ゆる限りの山に掛けわれのみ白き秋の松川 山の風紅葉にあたる日かげをば暫く追ふもなまめかしけれ 人間をはた待たずとも帰雲亭かの頂に行きて寝ねまし 五色の湯板のかこひの内側にうす墨となる秋の夕ぐれ 山の奥紅葉ならざるさかひより雲も湧くとし思はれぬかな 渓の奥俄かに開らけ美くしき水鳥居たり河原の上に 鳳凰が山をおほへる奥信濃山田の湯場の秋に逢ふかな わが友が忘れし杖をとりに行く浴舎の渓の夕ぐれの風 危しと人云ふ滝の裏道をたしかに過ぎぬ恋にあらねば 箱の葢のぞかれしごと暗き山尽きて山田の湯場あらはれぬ 山田湯の夜霧を逐へる灯をめでて在ればいつしか雨降り出でぬ ぬひとりの紅葉のおくに穂薄の山の覗ける朝ぼらけかな 七八ひら黄なる散葉の舞ひ上る渓の底なる板の朽橋 村雨が湯場の大場を降りめぐりしばらくにして山なかば晴る (以上) おち葉にも冬木立にも慰めど悲みとなる人の文がら 羽子の音高き空より云ひかくる言葉と聞えをかしかりけれ ゆるやかに淡雪の矢を放ちくる春の御空と思ひけるかな 美くしく春の境に越えて降るしら雪めでぬ松多き浜 いつしかと門松の背の暗くなり暮れんとすらん元日もまた から松の散葉は霧の降るよりも哀れに目路を隔てこそすれ (軽井沢にて) 秋山の檀山桑火なれども是れは光れるかへでのもみぢ 水晶の煙るに似たり火を噴くと云へる浅間の頂のさま 人と霧莫哀荘のうらに出づ碓氷の渓の水をつたへば 黄菊立ち水の流れの撓つくる二町がおくのなつかしき家 しめやかに秋の光のつつみたる碓氷のふもと莫哀の荘 山桑をうどんげの実と名づけたり先生いかに寂しかりけん 信濃にて冬寵りをばならふ夜の山桑の実はほのかに甘し 初秋の光となりて立ちたりし白き槐樹を五十日して撫づ 山荘の隅の方にて水の鳴り上にかかれる細き月かな 霧迷ふ信濃の山に朝さめて出でてひろへば冷たき朱実 木の葉おち山荘の草枯れてのち日影わりなくあたたかきかな (以上) 自らは飛びぬ流れぬ歩をよみて摘むところぞと人思へども 木の枝と見なして鳥のつたへるも寂しき園の枯草の蔓 落ちし櫨昨日の色はしたれども葉のくせづきて哀れなりけれ 消息す昨日に向きてある窓をくろがねの扉に閉ぢもはてまし 哀れなり加茂の川上水ならぬ靄の歩みと思はれぞする 雨の日の暗さよ夜のつやも無し幽界より運ぶ陰鬱これは 気病して薬を噛める春かなど雨の匂ひの立てば思はる 三月に寒き雨すと恐れ居ぬ人事も其れに少し混へて 雨寒し窓の梢子もまたたきて暗き世界にある三人かな 雨の日よ春誤りて寒きなり恋路に人を死なしむるごと 失へるもののあるごと吹く風にさまよふ雨も哀れなりけれ 白蘭の乳を翅ある子の寄りて吸へる夜明の春のそよ風 靄とけて桜の枝のしづくすれ涙ならねば真白きも好し まぼろしが残せるものと友染のかの端を愛づこの端を愛づ 三月の春の衣をかしこめば桃李遅れて開かんとする そよかぜの姿のうへにくははれる柳の枝の千条の青 手におかば山桜ほど冷たくて薔薇ほど重き思ひならまし 連翹は春の五更のともしびの色をぞまねぶはかなけれども 衣店の絹のあはひに見る顔の皆真白くてうつくしきかな 赤き糸尺ほどなるが山ぶきの枝にかかりて鶯ぞ鳴く 人の子も花とひとしき衣を染め春の悩みをならひ初めてき 大和絵の朝も墨絵の夕にもしづけく散れる山ざくらかな 芍薬は木草を友と知らぬなり卓を守らん身ぞと思へる 大空の広さと草のつづけると人を思ふと皆はても無し 初夏のくもれる朝の味ひに似たる思ひも昔となりぬ 初夏の雨の色より紫のあざやかなれど痩せし矢ぐるま 疑ひを覚えしやうに雛罌粟の花閉ぢそめし日の三時かな 少女達白き衣を著たれども多くものをば云はぬ六月 いな死なじ否死なんとて時あまた捨てつさびしき身の終りかな わが在りし一日片時子のために宜しかりしを疑はぬのみ 身の負はん苦も五十路して尽きぬべしかくおのれこそ許したりけれ 汝が母は生きて持ちつる心ほど暗きところに在りと思ふな 春の雪歌ひ合うべき心をしてところどころに仰ぐ大空 リラ青くまだ咲かぬ日は目を閉ぢてひるの夢見る窓のよろひ戸 折紙の紫雲英二つを卓におき春を思へるかぶろ髪かな 火に倚りてある限りのみ親しくて冬はわが世も狭きなりけり 窓の外銀の酒器ほど黒ずめる春の夕となりにけるかな (以下横浜にて) 渤海の貝のあつものやや冷えぬ春の涙と云ひぬべきほど 金陵の第十三のあつものほ未央の宮のやなぎなりけれ 名を聞けば金陵の酒家わが倚るはうら悲しかる黄暮の窓 (以上) わが前の青濃く淡くまだらなり海と云へども心のやうに (以下鎌倉にて) 鎌倉の駅の広場に輪を描きて迎への車とどまれる春 君の廬は深山の如く暗くして嶋の如くに夕風の打つ 戯れに倦みたる春の夕あらし緩く残りて山をかしけれ 鎌倉の松の中にて廬をむすび都の人をはた思はまし 午後の四時初めて松の間より日射すさびしきあけぼののごと (以上) 堀割の船灯を置かずおぼろ夜の月を忘れず橋越えよとて 忍び来て夢にも春の知らぬまに矢ぐるま草の空色に咲く 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社