馬場孤蝶著
 明治の東京
      中央公論社版




古き東京を思ひ出て

  一

 もうそろ/\『東京新繁昌記』といふやうなものが出て来るころになつた。吾々はさういふものによつて、前の東京を大分憶ひだしたが、思へば東京──震災前の東京──は随分変つてゐた。いや、それは東京ばかりではなく、京都、大阪のやうな大都市は勿論のこと、少し大きい地方市ならば、この二十年この方だけの変化でも、実に非常なものであらうと思ふ。現に名古屋の街衢の今の変り方などは、その著るしい一例であることは疑ひがなからう。
 これまでの大部分の都市は、町と村との混合の形であつた。昔の東京の如きは、市のなかに山があり、森あり、畑があり、田さへあつたくらゐである。多くの地方市も東京ほどの程度ではないにしても、何処も余程さういふ風なところがあつて、町と村との境界を何の辺で附けていゝか分らぬといふやうな趣きはあつたらうと思はれる。昔のやうに、世人の生計が楽であつた時代と違ひ、誰でもがさま/゛\の度合に於て、外へ出て働かなければならなかつたので、都市では誰もが、出入りに便利な部分に住ふことを欲するやうになり、市内の住宅の数は見る/\増加し、空地が次第になくなつて行くといふ有さまであつたのだ。東京などでは、大邸宅──大庭園──を持つといふことが非常な不経済であり、不便なことになつてしまつたので、それ等の大きい屋敷が売物に出て、小宅地に分割されるのが多いのだから、空地は今後ますま/\少くなつて行くであらう。
 僕等が少年の時分には、まだ旧江戸の面影だらうと思はるゝやうなものが大分残つてゐた。一例を挙げれば、今の中央大学の前は法学院、その前はイギリス法律学校、その又前が明治義塾、その前身が三菱商業学校であつたのだが、明治義塾時代までの校舎は、昔の侍屋敷のまゝの建物であつた。いづれ何千石といふやうないはゆる布衣以上の旗本か、それとも、も少し大きい小名かの邸宅であつたのであらう、大きな式台で、内には書院らしい部屋もあるといふ、日本建ての家としては可なり広々とした建物であつた。当時はさういふ前代からの遺物である建物が錦町、神保町、猿楽町、今川小路へかけて、幾つも見られ得たらうと思ふ。
 今日も神田の西部は学校町である。だが、その時代はより多く学校町であつた。学習院のあつたのは、いまの商科大学の前あたりで、帝国大学の予備門も、法学部も、理学部も、その南手にあつたのだらうと思ふ。唯医学部と病院は今の帝国大学のある本郷の旧加賀侯邸にあつたのだ。従つて、神田のあのあたりは、本屋町といつてよかつた。勿論、新本のさう出版せられる時代ではなかつたので、大抵古本屋であつた。これはそれより少し後になつてのことだが、駿河台下の停留所の西手の横町あたりから俎橋へ抜けるひどく狭い町が殆ど軒ごとに古本屋であつたことを記憶してゐる人は幾らもあるであらう。此の狭い横町が南の方を取り拡げられて、今の電車通りになつたことは、こゝにいふまでもなからう。駿河台下からお茶水橋へ向ふ今の電車通りも小川町寄りのところは、電車開通のためにできた新道だと思ふ。昔の路はあの坂道の下り口の西手の小さい横町を通るやうになつてゐたのだ。
 谷崎精二氏の前記『東京新繁昌記』中の神田の部には、神保町辺の火事のことが書いてあつたと思ふのだが、あの辺が震災前に焼けたのは、明治四十二三年ごろであつたらうと思ふ。何んでも、春であつたかと思ふのだが、三崎町あたりから出た火で、可なり広い地域へ焼け広がつた。あの辺は二十五六年ごろに大火に逢ひ、その後ももう一回焼けたことがあるやうに記憶する。さういふ風で神保町から錦町へかけての古い建物は、或は焼け、或は改築されて、あの辺は震災前に既に新市街になつてしまつてゐたのだ。
 坪内逍遙大人の『書生気質』には淡路町あたりの横町で、学生が矢場(楊弓場)女に引張られるところがある。なるほど、今の宝亭の横町にそんな家が二三軒あつた。それは明治十五六年ごろのことである。
 淡路町にあつた共立学校は、今の開成中学の前身であるが、高橋是清、鈴木知雄氏等の創立した英語学校で、大学予備門、商業中学等の入学準備の学校であつた。今五六十代の人でそこに学んだ人々は大分多からうと思ふ。田島錦治氏の顔はよく覚えてゐる。僕と同級にゐたのは平田禿木、桑木厳翼、滝精一、立作太郎の諸氏であつた。島崎藤村君もあの学校にゐたことがあるといふ。明治二十年ごろの試験成績表のなかでは、中村利彦(福島)といふ名を見出すであらう。これは堺利彦君の前名で、福島は福岡の誤りである。
 今の万世橋が昔の昌平橋であり、それと今の昌平橋との間に石造の、下が水路を通すために、円形に二ケ所開いてをる橋があり、それを俗に眼鏡橋といつて、それが昔の万世橋であつたのだ。だから、昔の上野への本道はその橋を渡り、川に沿うて右折し、直ぐ左折し、又直に右折して、いはゆる御成道になつてゐた。鉄道馬車の道もさういふ風になつてゐたのであつた。御成道は将軍が上野へ参詣の通路に当つてをつたのだらうが鉄道馬車の通りだすまでは、実に狭い街であつた。あの街は後では古い絵双紙や、絵本を売る店が何軒もできてゐたのだが、昔はあすこで眼に立つたのは、鎧や古馬具や、槍、刀といふやうな古武器を売る店であつた。弓矢を売る店も一軒黒門町あたりにあつたことを記憶する。

   二

 古い絵双紙には、上野公園の入口のあの広場に、風車のあるのがかいてあるだらうと思ふのだが、勿論明治になつてできたものであらう。これは、鉄道馬車ができた時分にはまだあつたかと思ふ。その時分には無論三橋はあつた。この方は極近ごろまであつたと思ふ。切通し下から広小路へ出る今の電車道は近年になつて開けた道で、あすこは板倉侯の邸であつた。その裏手の近ごろまで吹抜といふ寄席のあつた通り──南北の通りは昔からあつた。吹抜の筋向うあたりの西側の路次やうなところを入つたあたりに、大弓場があり、それから南の方の横町に借馬屋があり、狭く短いものながら、馬場もあつて、そこで馬が乗れるやうになつてゐた。それは、十六七年から二十年ごろへかけてのころのことではあるが、それにしても、あの辺でさへ、そんな空地があつたのだから、その時分の東京生活には余ほどの余裕があつたことが推知できるであらう。
 不忍池の縁が埋立てられて競馬場になつたのは何時ごろであつたらうか、今明かには記憶しないが、明治十八年ごろにはもう馬場はできてゐた。そのまへはその廻りは草の生え茂つた極狭い路で、池の周囲がもの寂びてゐて、如何にも風情があつた。その時分にはさういふ池にくつゝいた草径と茅町の池へ面した道路との間には、もう一筋溝川が流れてをり、それに月見橋だの、雪見橋だのといふ土橋がかゝつてゐた。さういふ溝川と土橋は近年まで遺つてゐたが、何時かの博覧会の時か何かに埋められてしまつた。
 森鴎外大人の『雁』といふ小説には、本郷の龍岡町から岩崎邸の裏手を通つて池の方へと下りて行く無縁坂あたりのことが書いてあるので、ひどく興を覚えたことがある。
 大学の東端と丘続きになつてゐる茅町の西側に、忍ケ岡小学校といふのがあつたが、床次竹二郎氏の出身校である。 根津にあつた遊廓が今の洲崎へ移された年代を今記憶しないが、明治十七年ごろまではあすこに娼楼が一廓をなしてゐたと思ふ。藍染橋までは引手茶屋であつたらしく、花暖簾などが風に翻るのを見たことがある。橋から先きが娼楼の区域で、権現の方へ曲つてゐる八重垣町の方に大楼があつたのではなからうかと思ふ。とにかく大八幡の跡といふのが、温泉になり、旗亭になり、後には病院になつて極く近ごろまで遺つてゐたが、それは庭なども見事になか/\の大建物であつた。
 今では、根津の大通りは動坂の方へと突き抜けてをるのだが、昔はあの道は直きに突き当りになつてゐた。その突き当りになつてゐたところと、団子坂から谷中へと通じてゐる路との間は、池などのある邸のやうなものになつてゐたやうだ。或は田などもあつたかも知れぬ。谷中の坂への上り口の右手の方は田になつてゐたのだから。
 団子坂が改修されて長い坂路になつたのは、七八年前かと思ふのだから、あの坂のへんに曲つて下りになつてゐたのを、薮蕎麦と菊人形と共に記憶してゐる人は多いであらう。そして、あの辺の路が今よりもずつと狭かつたことはいふまでもあるまい。
 菊人形といへば、入谷の朝顔のことをいはなければならなくなるのだが、それは上野駅の北端あたりの右方をば、狭いさま/゛\に折れ曲つた小道へと入つて行くのであつた。両側は竹垣やら生籬やらで仕切つた植木屋で、門を入ると、葦簾で高く上の方を日蓋をして、その下へ板で花壇をこしらへてそれへ鉢入りの朝顔を列べてあつた。朝顔は土鉢に植ゑてあるのだが、それをば、陶の鉢のなかへ入れ子にしてあるのであつた。客は薄暗い中で、花の色の気に入つたのを選んで買ひ取つて、自分で持つて帰るなり、配達を命ずるなりするのであつた。七八月ごろの、天気のいい朝は、入谷の狭い路をさういふ客が、花見か縁日かのやうに、ぞろ/\歩いてゐたのであつた。なにしろ、朝四時か五時に起きて、不忍の蓮を見がてら、入谷へ朝顔だけを見に行くといふのだから、随分呑ん気な訳のものであつた。その入谷を東へ抜けきると、その先きは、いはゞ漠々たる水田といつていゝくらゐで、蓮池や稲田が青々と続いて、それを隔てゝ右寄りには浅草寺の塔や堂の屋根が見え、正面には、吉原の娼楼の洋館まがひの塔や円蓋のやうな屋根の一●が見える。全くいゝ気分の眺めであつた。無理のきくものなら、今日までもあのままに遺して置きたい場所であつた。
 朝帰りの客、入谷の朝顔から帰る客は、よく根岸の笹の雪へ寄つて、絹漉し豆腐へ葛餡をかけたのを菜にして、酒を飲んだり、飯を食つたりした。その時分は、笹の雪はこのあん掛け豆腐専門の家であつたが、入谷の朝顔がなくなると共に、料理屋になり、今ではあの辺には芸妓屋ができるまでになつてしまつた。
 入谷の朝顔は明治三十年ごろまでは確かにあつたと思ふのだが、菊人形の方は場所は変つても今日まで遺つてをるけれども、朝顔見物の方は余りに呑ん気なことなので、何時の間にかなくなつて、朝顔は縁日の草花屋が売つてゐるくらゐなものになつてしまつた。
『たけくらべ』の場面に取られてゐる大音寺前──坂本通りの三島神社の角を曲つて吉原の裏手へと行く路──なども、寺などの生籬が道に沿うてゐて淋しい処であつて、浪人が廓通ひの客を脅かしたといふ昔話も憶ひ出せるやうな場所であつた。
 昔の東京は震災までにもう大部分滅されてゐた。そこへ持つて来て、あの大震災であつた。沿革も風情もあつたものではない。なにもかも骨灰になつてしまつたのだ。ついこのごろの新聞には日本堤を削り取ることになつたとあつた。もう別に風情のある場所ではなくなつたのだから、便利のための変革はむしろ歓迎すべきであらう。

  三

 龍岡町の南端、牛肉屋豊国の前に当る、大学の長屋の角の大きい槻の柱に刀でさんざんに切り込んだあとが遺つてゐた。俗には、それを化物柱だといひ、それが夜なかには化物に見えるので、通りがゝりの侍が引き抜いて切りつけるので、あんな痕が遺つてをるのだといひ伝へてゐた。しかし、あれは、酔つた侍などが大諸侯に対する反抗心などもあり、要するに、悪戯心から、すつぱ抜いて切りつけたにすぎないものであらう。
 あれから南への左側、今本郷区役所になつてをるところまでは、麟祥院の枳●垣であつた。その垣根のために麟祥院を俗にからたち寺といつてゐた。この寺は春日の局の菩提所なんださうだが、昔は、切通しの通へもつと境内が出てゐたのだ。明治二十四五年ごろに道を拡げるために、寺の地面を切り取つたので、寺の塀際にあつた榎とか樫などのやうな巨幹の老樹が路傍に遺つて、その蔭に町家が建つた。大きな根張りの木の下小暗きまでに茂つた樹の蔭に、鮨屋などの暖簾が見えるといふやうなのは、なか/\面白い風情であつたのだが、さういふ老樹も何時の間にか伐り倒されて、道は今のやうな有りふれた電車路になつてしまつた。
『夕じほの切り通し坂をわれ行けばあらゝ/\と車飛ぶなり。これは近きころできたるばかな会といへるの詠草なりとぞ』
 そんなやうな意味のことを、斎藤緑雨が随筆のなかへ書いたのは、明治三十年ごろなのだから、まだ老樹が路端にあつた時分のことである。今は、吉原通ひも電車か、自動車になつてしまつたので、朦朧車夫の駈けながら出す『あらよ』の掛け声も聞かれなくなつたであらう。
 本郷三丁目から切り通しへ向ふ街は北側は昔は俚俗盲長屋といつた本富士町であり、南側は春木町であるが、その春木町は、二三度焼けたと思ふ。中央会堂の焼け残りの煉瓦の壁のところへ、夜半の月がかゝつてゐるのを、廃墟の月といふやうな気がして、風情ある眺めだと見て過ぎたことを覚えてゐる。明治十五六年ごろには、中央会堂の横手の横町を入つたところに大弓場があつて、そこでは後に一つ橋の高商の弓の教師になつた窪田藤信(当時は金作)氏などゝ落ち合つたことを記憶する。その大弓場の主の高木清吉といふのはそのあと下谷区西町へ移つて、射場を開いてゐて、明治二十一二年ごろ、そこで画家村田丹陵氏や、今、日本銀行の理事をしてゐる河田敬三氏などと一二度一緒に弓を射たことがあつた。何しろ、大弓場といへば家ともに長さ十七八間に幅二間ぐらゐは要したのであつて、当時では、それだけの地面をば、そんな場末でない部分において、大弓場といふやうな収入の少い商売に使つたのであるから、その時代の一般の経済状態も大抵推定できるであらう。
 本郷座は春木座といつた。僕などはどうも今でもツイ昔の名をいつていかぬ。もう七八年ほど前、ある席でツイ春木座といつてしまふと、座にゐた下谷の老妓にこれは嬉しいといつてひどくほめられた。その春木座も震災までに二度ぐらゐは焼けたらうかと思ふ。昔は大劇場のうちに入つてゐたらしいのだが、中ごろ衰へてゐて、大阪から明治十六七年ごろ鳥熊といふ興行師が芝鶴、鯉之丞などといふ役者の一座を連れて来て大入場を広くし、弁当をひどく安くし、その上に、雨天の日など、客が帰るまでに、客の穿き物を洗つて置くといふやうな新興行法でもつて、ひどい当りを取つた。この興行法は東京の大劇場へまで影響を及ぼして、それ以後は何処でも大入場を取り拡げたやうであつた。
 明治十二三年ごろは大学の構内には、医科即ち当時は医学部といつてゐたのがあつたばかりで、此の旧加賀邸の赤門寄りの方は、茫々たる薄原で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであらうが、黒く塗つた木を框にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのが、ひどく寂しく感ぜられた。門をはひつて右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があつて、冬になると、よく鳩がかしはの腹を木の間から見せた。其所は、加賀騒動のなかの浅尾といふ悪女中を蛇責にして埋めたところだといふ俗伝があつた。けれども、それは古墳の跡らしかつた。十七八年ごろ発掘したが、石垣のやうなものがあつたのみで、別に何も出て来なかつた。どうもその昔一度発掘したことがあるらしいといふ鑑定であつたとか聞いた。
 その時分には、その草原には狐が大分ゐた。夕方など、尾を長く引いた褐色の小犬ぐらゐの獣が、後を見返り見返り草のなかへのろ/\と逃げ込んで行くのをよく見かけたものだ。雪の降る前の夜など、ギヤア──ギヤアといふ厭な不吉なやうな声を聞いた。狐はコン/\と鳴くとは聞いてゐたのだが僕の聞いた狐の声は何時もそのギヤア──ギヤアばかりであつた。ツイこのごろ読んだある書には雄狐はコンコンと鳴き、雌狐はギヤア──ギヤアと鳴くと書いてあつた。それが本当ならば僕は雌狐の声ばかり聞いたわけになるのだが、何んなものであらうか。
 永井荷風君の小説のなかに、君のお住居で狐狩をするところがあつたと思ふ。確かそのお邸は小石川水道町であつたらうと思ふ。昔は少し広い邸などには狐などが何処にもゐたらしいのだ。今は郊外でさへ実際狐のゐるお稲荷さんはめつたにないであらう。
 大学構内には池寄の方に雑木や薮などのある小さい小山があつた。上り路が迂回してついてゐるので、栄螺山と呼ばれてゐた。その頂からは、小石川の砲兵工廠の裏手あたりは勿論のこと、神田、日本橋へかけての下町が、随分遠くまで見渡せるのであつたが、その時分には、下町の方面でも東神田から、浜町辺へかけては、樹木のあるところが余ほど多かつた。家の屋根と、さういふ樹木が錯綜してゐるところが実に心持のいゝ眺めであつた。
 震災前までは、浜町あたりにはまだ大きい庭のある邸が遺つてゐた。俗に細川邸といつてゐた大川端の長岡護美子爵の塀際の樫の樹のことは荷風君も何かで書いておいでなんだが、あの外にも、よほど高い築山が青々と塀の上から見えてゐる邸が水天宮の裏手あたりにあつた。箱崎の上州侯の邸も庭が幾分は遺つてゐたらうと思ふ。そんなのが皆、諸所にあつた緑樹とともにあの業火のために無慙に一掃されてしまつたのだから、返らぬこととは知りながら、如何にも惜しいといふ一言は口から洩らさずにはゐられない。
 筆はこゝで一転するわけになるが、僕の少年時分には、大学の赤門前などは、まるで田舎であつた。確に兼安までは江戸のうちで、それから先きは何うしても宿場といはなければならなかつた。縄暖簾の居酒屋あり、車大工の店あり、小宿屋ありといふ風で、その前をば、汚さを極めた幌かけの危ふげな車体をば痩せ馬に輓かせたいはゆる円太郎馬車がガラツ駈けを追つて通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなほ田舎びてゐるくらゐであつた。
 西片町の台──そこも茶畑であつた──から眺めると、白山下のところはずつと水田であつて、畦間のはしばみなどの雑木のひよろ/\と立つてゐる景色が、夕方などは何ともいへずもの淋しく見えた。それらの田の埋立てられた跡が、今の指ケ谷町の芸者町から南へかけての街区である。


 変りゆく東京

  一

 誰でも、春よりは秋の方が心持がいゝと思ふであらうが、私共は近来、殊に、秋の方が心持がいゝやうに思はれ出した。 誰に聞いて見ても、東京の春が近頃は寒くなつた様にいふ。此の頃では私共は春、袷を着る間がひどく短くなつた様に、思ふのであるが、それは残念ながら、年のせゐかとも思ふけれども、どうもそれ許りではない様にも思はれる。私共は、五月位までは、どうしても綿入で居る。で、袷とシヤツと袷羽織になつたかと思ふと、殆ど一つ飛びに単衣になつてしまふ様な気がする。あまり品のいゝものではないが、素袷で居るといふのは、一寸心持のいゝものだ。近頃では、私共は、決して素袷では居られない。町を歩いてみても、一般に、素袷で居る人を余り見かけない様な気がする。
 一つは風俗の変化でもあるのだらう。即ち誰でも服装をちやんと整へるといふ風になつてゐるので、素袷で飛び出すといふ様な人が余り無くなつたのであらうが、然し一方では、気候の工合が近来違つて来たのが一つの原因であらうと思はれる。
 さうして見ると、私共の様な冬の嫌ひな寒がりになると、春がそれほど有難くない訳になる。却つて、夏の暑さから逃れて秋に入つて行く方が心持がいゝ。
 自然の景色などは、秋になると、グツと落著いて、如何にも冴えた静かな心持を人に印象する事は今更いふまでもないが、今頃になると、東京近所の川筋の景色が何時も思ひ出される。其処の景色を特徴づけるものはあの白いすゝきである。川の堤や、洲に茂つているすゝきの白い穂と、枯れた茎や葉の取合せがひどくいゝ心持に思はれる。場所をあげれば、千住の大橋の上あたり、六郷の川下などの景色がそれである。陽のよく照る日に、川の堤に立つて見て居ると、そのすゝきの間から、和船の帆が静かにゆる/\と出て来るのなどは、如何にも我々のハ─トに、深く根ざして居る心持よい景色であると思ふ。

  二

 東京では此の頃は一帯に空地が尠くなつてゐる。二十年も前までは、牛込、小石川などでも、商業中心になつてゐる部分を少し離れると、一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐたものであるが、今は余程場末にでも寄らなければ、庭と言ふべき様な空地のついてゐる家は余りない様である。
 しかし、東京の空地が少くなり、木立なども段々無くなつて行つた訳であるが、何しろ、幾つもの村落、幾つもの小さい町が、互に発展し合つて連りあつた東京の事であるから、全般的に言へば、未だ中々空地はある。
 私の知人で知名のある文学者は、二三代からの所謂江戸つ子であるのだが、その人が嘗つて京都の高等学校へ勤める事になつて一年ほど行つて居た。
 で、ある年の暮に東京へ帰つて来て、正月になつて私と一緒に電車に乗つて、牛込の田町辺りから、お茶の水まで行つた。その間もしきりに窓から外の景色を眺めて居たが、お茶の水で降りて、橋を渡りかけると、その友人は、微笑を含んだ低い声で、
『東京の景色は雄大だねえ。』と言つた。で、私も笑ひ出して、
『西洋まで行つた君が東京の景色を雄大だなんていふやうぢや、よく/\京都には閉口した様だね。』と答へた事がある。
 確に東京の景色は雄大だ。私は今市ケ谷の本村町に居るが、市ケ谷の外濠の景色は私にとつては何時も心持がいゝ。市ケ谷見附、新見附などから見ると、今頃は高台や濠内の樹の色などが、黄色に色づいてゐて、如何にも秋らしい落著いた眺めである。
 勿論、人工的の景色には相違ないが、始めは人の手で樹を植ゑ、堤を築き、濠を掘つたのであつても、それを自然の懐に任せて少し長く放つておけば、自然はこれを取り上げて何等かの景色にして呉れるのだ。
 東京の町へ殆ど禁錮されてゐる様な我々にとつては、さういふやうな自然の景色の中でも、自由にさ迷ふことが何十分か出来る場合には非常な慰籍になると思ふ。
 私は一体ブラ/\歩くことが好きなのだから、時々用達の帰りに、神田から九段を上り、市ケ谷見附へ出て帰る事がある。その節もある若い人と一緒に、市ケ谷見附へ出て来て、濠端の樹の景色などを心持よく眺め、それから、家の近くまで来ると、ふと、家の廻りを大変心持のいい処だと思つた。
 尤も、その日は前から雨が降つて居たが、その朝から雨が上つて、段々天気は持ちなほして来て、稍々晴れかゝつてゐる午後の二時過ぎ、といふ頃であつたので、急にそんな感じがしたのであらうかと思ふ。

  三

 東京の町は、何処でも大抵市区改正で広くなつて居るので、昔の町の形が残つて居る処は、まことに尠いのであるが、それでもまだ秋には時々昔ながらの町へふと足を踏み込む事がある。
 処で、さういふ町は非常に狭い様に思ふ。さういふ町を目ざして行く場合は、余程気をつけて居ないと、ついその曲り角を通り越して了ふ事もある位である。
 さういふ町の代表的なものを、今一つ挙げて見ると、本郷の松屋の横から台町へ出る横町であるが、あの横町は、突き当つて、左へ少し曲つて、それから台町の方へ真直に行く様になつて居る。あの横町などは或は明治になつて出来た横町かも知れないが、私共にとつては、もう四十年ほどの馴染の横町である。然し住んでゐる人の様子は、ずつと昔より生活程度が何んとなく高くなつて居る様に思はれる。
 勿論、私共の子供の時分に比較すると、家も、建て変つたのが、大分ある様ではあるが、それにしても、其処へ入る私の胸に昔の記憶を喚び起す丈の雰囲気は残つてゐる様な気はする。
 けれ共、今いふ通り何処も彼処も変つて了つた事は確である。あれが本郷通の五丁目だと覚えてゐるが、大学の赤門前を一寸入つた処に、俚俗附木店といふのがある。それは昔組屋敷であつたといふのだが、久米正雄君の家は今其処にある。久米君の家は昔からの家である。久米君の叔父さんに助三郎といふ人があつて、私と竹馬の友なので時々会ふ事はあるんだが、今年の春であつたか、助三郎君は正雄君の家へ訪ねて行つた事がある。が、あの辺も昔は何の家も大抵は垣で囲まれて居て、玄関と門との間に、空地があつたのであるが、今は何の家も、殆ど直ぐ家の入口になつて居る。助三郎君と、「如何も此の道が我々の子供の時分から見ると、大分狭くなつた様に思はれるのだが、実際は外の町が広くなつたので、其処を殊に狭い様に覚えるのであらう」と言つて笑つた事がある。

  四

 私は勿論江戸つ子ではない。生れは地方であつて、東京へ出て来たのは十歳の時である。だから江戸とか東京の旧い事などは直接余り知らない。けれども伝聞した事は可成あるので、時偶には、そんな事を書きもする。それが為でもあらうが、時々江戸趣味とはどんなものかと若い人々から聞かれる事がある。
 私は、所謂江戸趣味などは、次第に亡び行くであらうと答へるより他は無い。前に言つた通り、昔は、狭い町で、人通りもあまりなく、如何にも、ゆつたりした気分で住み得られたのであるが、今は、そんな処でも、電車の音の聞えない処は滅多にない。外へ出ればゆつくり歩いては居られないのだから、人と押し合ひをして、電車に乗らなければならない。さうすると、どうしても、人々の気分が変つて来ると思ふ。それから、家で使ふ種々な器物の工合でも、非常に変つて来て居る。最も著しいのは、瀬戸物の模様である。純日本式の模様の瀬戸物を買ふには、よほど選択しなければならない程である。
 してみると、江戸趣味で行かうといふには、その人が、毎日外に勤に出る必要もなく、又買物でも値に構はず、気に入つたものを買ふといふ事の出来る位地に居なければならないので、一言にしてこれを言へば、江戸趣味はひどく贅沢なものになつて行くのである。さうすると、何うしても一般人はやらうと思つてもやれない事になるのだから、勢ひ、さういふ趣味は人の心から段々無くなつて行くものと言はなければならない。
 言葉なども随分変つて来て居ると思ふ。昔の様にひどく遠廻しな言い方などは、今の人にはまだるつこい事にならうと思ふ。敬語の数なども昔より段々少くなつて行く事であらう。我々の生活が我々の心理状態に種々の変化を及ぼし、これが為に又言葉にも変化を及ぼし、又変化を受けた言葉は却つて我々の少くとも気分を変へてゆくといふ風で、さういふ変化は相作用して、段々我々の思想までも変つて行く事となるであらう。凡てのもの、凡ての事に亙つて、それが変化してゆく事はどうも止むを得ない。只我々はよき方へ変化して行く事を望むだけである。一時は悪い方へ進む様に見えても、結局に於てよき事に達するのであつたらう、その途中の不便不快は忍ばねばならぬ。


変り行く東京語

  一

 出版物の多くなつて来たことと、それ等の出版物が大抵皆言文一致──即ち大体東京語で書かれてゐることとが、東京語をば地方の僻陬まで弘布することになりつつあるには相違なからうが、口語の上では、東京語と地方語との差違はまだなかなか甚だしいやうに見受けられる。さういふ点では関東語と関西語だけの差違にしても随分甚だしいものがあると思ふ。
 けれども、昔──徳川時代──は、少くとも江戸の上流──即ち士分の言葉は、もと/\大体京都の上流語に標準を取つたものであつたのであらうから、地方の藩庁の公式の言葉とは余程共通なるところがあり、少くとも名詞、動詞などで、公用語以外にも、同一なものを用ひてゐたことが少くなかつたやうに考へられる。
 僕の生国は土佐であるが、麻裏草履のことを藤くらといつてゐるのを、少年の時分聞いたことがある。東京ではその時分──明治十一二年頃──でも、もう藤くらといふ語はなくなつてゐたのだが、明治二十年頃東京生れの或る老人と話してゐるうちに、その老人などは藤くらといふ語を昔は使つてゐたことが分つた。
 土佐では、嘲弄的に意地悪く人に言ひかけるのを、きよくるといふ。僕の父母などがその言葉を用ひるのを聞いて、僕は地方語だと思つてゐた。所が、『柳樽』を見ると、『ご立腹などゝ内儀をきよくるなり』
といふやうな句のあるのを以て見れば、きよくるが地方語でないことは明かである。
 義太夫の『泉三郎館』の五斗の生酔ひの唄の中の『けなりかろ』が僕には解らなかつたが、紀州生れの中村啓次郎君が、それは紀州あたりでは今日も用ひる語で、羨ましからうの意味なんだと説明してくれた。ところが熊谷辺から、茨城の利根川沿ひの地方へかけてのあたりでは、今日でも羨ましいといふところをけなりいと云ふのだといふことを、近頃になつて聞いた。
 引窓のことを大阪あたりでは天窓といふのだと聞くのだが、濡髪の長五郎の義太夫は『引窓の段』であつて、天窓の段とは云はない。昔は引窓が東西の共通語であつたものと見て宜しからうと思ふ。
 本を押入れから出して実例を挙げるのは億劫だが、口語に近いものと見てよからうと思ふ。小唄などに拠る時は、東西の言葉──少くとも双方の都会での言葉──が可なり共通の分子を持つて居つたことは窺ひ得られるであらう。
 京都の言葉では──殊に大阪の言葉などは──今日までには、在方の言葉が入つて、余程乱されたのであらうと思はれる。東京の言葉も勿論さうである。殊に明治になつては、東京在来の上流社会は全滅してしまつたと云つていゝ位であるのだから、それ等の社会の伝統ある言葉は消滅し去つて、今日の東京語は主に商人、職人の言葉のみが残つた訳であり、それへ持つて来て、次第に、地方語からの侵略が加はつて行くといふ現状である。
 今日の東京の所謂身分のいゝ人々といふのは、大抵地方の身分の余りよくなかつた人々の末であるのだから、その言葉の如きも、従来の標準語の規模から云へば決していゝものとは云へないであらう。それ等の人々の子弟で今日物を書く人々の言葉の、従来の日本語の格から云へば、甚だ拙いものであるのは、その父兄たちに言葉の訓練が欠けてゐた為であらうと思ふ。

  二

 然し、言葉は死物であつてはならず、必要な変更は進歩の根抵になる訳であるのだから、変遷そのものを拒斥すべきでないことは勿論である。唯吾々の注意すべきことは、吾々物書くともがらが、言葉に不必要な変更を加へて、意義なく従来の言葉を乱すやうなことをせぬやうに心することである。
 従つて、言葉の誤用などは十分に注意して避けなければならんと思ふ。
 小児の戯れにいゝたちこつこといふのがある。これを相報いるの意味で、大人の用語にすることは、誰も知つてゐるところであるが、此の語の末のこつこは総べて澄んで発音すべきであつて、決してごつこといふが如く濁つて発音すべきではないのだ。ところが、近頃の印刷物には、此の語が屡々いたちごつこと印刷されて居るのを見かける。甚だしきに至つては、鼬ごつこと書かれて居るのさへ見かける。
 僕等はあのいゝたちこつこといふ発音のうちに、あの手を順々に互に抓りあふ動作がいかにもあざやかに表現されてゐるやうに思ふのだから、語源は鼬の動作から起つたものにしたところで、これを鼬ごつこと訂正したくない。此の語を用ひる位ならば、矢張り小児の言葉どほり、いゝたちこつこをそのまゝ用ひるのがいゝと思ふのだ。
 言語の知識が貧弱なので、確なことは云ひ得ないが、いゝたちこつこには鼬ごつこ即ち鼬の真似をして遊ぶとか、鼬のやうなことをしあふとかいふような意味はないやうに思はれる。あの語は、小児が手をつねり合ふ調子をば音を以て表しただけのもので、語自身には何の意味もないものであるやうに思ふ。
 ある行為をさん/゛\するといふ意味で、たら/゛\といふ語を用ひる。即ち、お世辞たら/゛\とか、愚痴たら/゛\とかいふのである。此の語は勿論たらと上を澄んで発音し、下をだらと濁つて発音するのだ。ところが此の頃の印刷物には上のたらをだらと印刷してあるのを度々見受ける。尤もこの方は誤植の場合もあらうかとは思ふものの、同じ新聞などで、何時もたら/゛\がだら/\になつてゐるのを見ると全く誤植とも断じ兼る。さういふのなどは、地方の印刷物などでは、必ず誤植通り印刷するであらうと思ふ。従つて、地方で物書く人々は愚痴だらだらといふ語があることと思つて、平気でそれを用ひることになる虞は十分あらうかと思ふ。 
 今日では語源はとにかく、このたら/゛\といふ語の音そのものに、くどく繰返すといつたやうな意味が表はされてゐるやうに、吾々の耳には聞き取れるのであるから、これをだら/\と変へてしまつては、音から来る感じはまるで違ふであらう。
 なんぼ地方の人でも今日では言葉の知識は可なり広くなつてゐるであらうから、まさかにたら/゛\をだら/\と間違へるやうなことはないであらうと、思ふ人は多からうけれども、実際はなかなかさう楽観を容さない。随分な間違ひがそのまゝ伝はる虞が十分あるものと見るのが宜しいと思ふ。
 これは、それとは事かはつてゐるが、ある地方新聞に源太郎馬車といふ言葉があつた。どうも円太郎馬車の覚え違ひらしいのだ。


環状線を廻る

  一

 生方敏郎君が先達て来て、魚藍坂が変つてゐるので、場所が分らず、人に魚藍坂は何処だと聞くと、こゝがさうなのだといはれたといつて笑つてゐた。白金の明治学院に学んだ生方君はこの辺はよく知つてゐるのに、その生方君にまるで分らなくなつたのだから、その変遷の程度はそれだけでもう誰にも想像ができるであらう。
 十月のある日、秋晴れの快い午後、環状線廻りをたのまれて、自動車で家を出た。魚藍は元よりのこと、伊皿子だつても、吾々には、まるで外の場所のやうな気がするまでの変り方だ。街幅の広くなつたのはいふまでもなく、坂の形がまるで昔の形を留めず、両側の家々が石段を上るやうになつてゐたのさへ、全く跡方もなくなつてゐる。
『横町に一つづゝある芝の海』といふ川柳は芝もずつと北金杉あたりをいつたものであらう。僕などの青年の時分には、車町から品川の停車場の間には海の側にはロクに家がなかつた。あの辺の埋め立てをしたのは、牧野如石といふ、烏金でも貸さうといふやうな、したゝか者の盲人であつたといふのだが、海寄りに十軒程を一棟にした長屋建ての商家向の家が建つて、ぽつんと一つ離れてゐてそれにはロク/\住む人もなく、殆ど立ち腐れになつてゐたことを確に記憶する。山手の方にしても泉岳寺前から先きは、低い混礙土の塀や石垣の邸宅が続き一歩裏へ入ると大抵の家は生籬で邸を繞らしてゐるやうな淋しさであつた。それが何時とはなしに、今のやうな、海沿、山手共にあの通りの人家櫛比の現状だ。
 僕のこのあたりに関する記憶などは余りに古いのではあるが、それにしても、変り方は実に驚くばかりの変り方には相違ない。
 停車場から二三町手前の右側(山手)に後藤象二郎伯の邸のあつたことを覚えてゐるが、明治二十一二年頃に、条約改正その他所謂三大建白のために上京した地方有志が後藤邸を訪うた時、後藤家では盛り蕎麦を饗したが、有志の多くは盛りの上からいきなり、汁をぶつかけてしまつたといふ、落し咄そのまゝの話を聞いたことがある。田中君の『旋風時代』が、もつとずつと時代が進むと、そんなことも小材料の一つになるであらうなど、心の中で微笑みながら、彼れ此れと古いことどもを憶ひ出してゐるうちに、車は容赦なく、少し肌に冷たい風を切つて、停車場の少し先きの橋際から、右へ折れて、八つ山を上り始める。
 いよ/\環状線へ一歩踏み込んだ訳だ。此所には勿論昔は路がなかつた。多分森ケ崎とか云つたのであらう。長州侯の邸のなかを新たに切り開いた坂路である。勿論、まだ出来たての路と云つていゝくらゐの新開の路面なのだから、坦々として、まるで何かで拭き取つたかのやうな綺麗さ滑らかさである。このあたり、一帯に大藩侯の邸の多いところであつて、袖ケ崎の薩州邸、大崎の池田(備前)邸の大邸が名高かつた、そんな大邸になると、大厦の戸を開けるのに専任の係があつて、一人で朝からつぎ/\に戸を繰り開けて行くと、最後の戸を開けた時分にはもう夕暮になつてゐて、今度は最初の戸をしめ始めなければならないやうになつてゐるくらゐであつたと、云ひ伝へられて居る。
 そんな大邸宅の建つた時分から可なり長い後まで、猿町の坂を下りると早や直ぐに、一面の稲田であつて、秋ならば黄金色の波満々と風に揺れるといふ光景であつたのだが、それから後、田が埋められてからも、しばらくは、埋立地らしい赤土の広々とした空地を後にして、棟割の長屋が路に沿うて、気のなさゝうな風で立つてゐるのを見たのは、まるで昨日のやうな気がするくらいである。
 そんなことを憶ひ出づると、ここらの街景は全く大変遷の観がある。

  二

 大崎から五反田へ向ふ街路は可なりな商店街をなしてゐる。家々の規模は、相応な地方市の可なりいゝ街筋のありさまと同様である。いや、それどころか、三十年位前の本郷通りなどよりは、余程景気のいゝ街の光景である。
 五反田の記憶は割合に新しく、震災二年前ぐらゐに属するのだが、その時に比べてさえ、開け方は雲泥のちがひだ。これでは地方市の盛り場を凌いでゐる。いや、此の二十年前であつたら、これだけの街がゝりの賑かさの場所は、東京でもさう多くはなかつたらうと思ふくらゐである。勿論、新開といふ何処となく垢抜けのしてゐない雰囲気は濃厚であるが、旧市内だつても例せば小石川の柳町、本郷の肴町、動坂下、下谷の鴬渓などのやうな吾々の眼から見れば新開の空気の可なり顕然とした地区が少くない。いや、数へ立てれば、さういふ新開は旧市内には枚挙にいとまのない程多いのだ。旧市内のさういふ土地の方が開け方は遅々としてゐたといつてよからうと思ふ。
 こゝで、道路は少し大廻りの形になつて、目黒川を渡つて、目黒から渋谷へと亙る郊外の旧市外廓をなしてゐた部分の外輪をめぐることとなる。この川の末が品川へ入つて、本宿と橋向うとを別つのでもあらうかと思ひ、斎藤緑雨に橋向うの意味の説明を受けたことなどを憶ひ出でゝ、心に微笑を覚えたのであつた。しかし、後で考へると品川の橋はこの末ではなささうである。
 僕の昔の記憶によると、下渋谷から上目黒を経て、行人坂あたりまで出て来る路は、旧市寄りの丘陵を左にし、郊外の渋谷から続いてゐる小丘を右にした谷あひのやうなところであつたと思ふのであるが、今の環状線からは右に松林を頂いた丘陵の連亙を見るのみで、左の方には余り高いところを一向に見ない。要するに、下渋谷から来てゐる丘地の西側即ち外廻りの平地のところを環状線が貫いてゐるのだ。
 不動堂へ入る横町を左手に見て、行人坂下あたりを越えるといふと、もう商舗はぼつ/\になつて、郊外の屋敷町らしい気分が顕著になる、右は平地が少し連なつてから、その上が南北に亙る低丘になつて居り、左は極く緩やかな傾斜をなして、武蔵野の外廓的高地へと上つて居る。我等の行く手は先ず大体坦々たる平路であつて、前面の空の藍色広々と仰がれて、好晴の秋日和の気分はいかにもさわやかに快かつた。
 この路は下、中、上と目黒をば目黒川の西岸に沿うて貫きつゝ渋谷へと向つて居るのだ。やがて、路は爪先上りになつて、道玄坂の上の方で、厚木大山街道へと出てしまふ。世田谷へと通じて居る昔からの往還なのだ。
 いはゆる道玄坂から、宮益坂へかけてのこのあたり一帯の変り方は、吾々に取つては、全く桑滄の変も啻ならぬ心持がする。日露戦役の直前ぐらゐまでは、宮益が五六間にしきや見えないくらゐの路幅の、両側には生籬のある邸に沿うての狭いやや急な坂路であり、道玄坂までの間は両側が田圃であり、世田谷街道に食物店といつては、坂を可なり上つたところに、一軒蕎麦屋があるきりであり、丘沿ひに停車場の方へ曲つて行く横町には、それでも一寸とした料理の看板をかけた家があるきりといふありさまであつた。明治四十一二年頃になつてさへ、市内の寄席で、咄家が『この頃は上渋谷の道玄坂などが開けて、あの辺でも変り色の羽織を著た芸者が歩いてゐるといふのだから、東京も大変な変り方だ』などと、話の前置にして話したくらゐであつたのだ。
 大震災の恩沢に浴した土地の一つには相違ないが、それにしても、驚嘆に値する開け方だと思ふ。こゝを起点にする電車線が二三線ある通り、懐は十分広い地区である。まだ今後の開け行く余地はあるであらう。

  三

 路は宮益の坂下から左へ折れて迂曲しつつ新宿へと向いてゐる。
 もうどうしても三十年の前であるが、新宿駅から渋谷へ出る路が、一半は生籬の傍に亭々たる大木の槻並木のやうに列んだ東京郊外特有の農家めいた邸の連続、一半は茅、薄の茫々と生ひ茂つた高低のある広野といふ風で、如何にも野趣満々たる景致であつたので、それが全く気に入つて、当時下渋谷在住であつた与謝野寛君を訪ふ時など、わざ/\新宿で下車して、渋谷まで徒歩したものであつた。今その路はどのあたりなのであらうか。今はもう一体に人家もふえ土地も平にならされ、まるで見当がつかなくなつてしまつてをるのだが、地図を見ると、昔のその路は代々木練兵場のなかへでも入つてをるのではなからうかと思ふ。さうだ、右手に衛戌監獄のあつたことを覚えてゐるものだから、今の渋谷区の代々木深町、神園町、神南町、宇田川町といふやうなあたりに当るのであらう。
 われ等の自動車は新宿に近づくに従つて、如何にも潔げな可なりな大きさの別墅風の邸宅の続いた町を通る。昔の番町、駿河台などの面影がこんなところに残つてゐるやうな心持がした。遠い郊外へ出ると、郊外とは名のみで、余り庭もないやうな家が建ち続いたり、さもなくば、周囲が余りに野味が多く、何んだか農家の仮家ではないかといふ感じのするやうな半洋館を見るのであるが、さすがに此の新宿裏あたりの屋敷町には何処までも日本式らしい建築の十分な落著があつて、結構だと思ふ。どうせ他人のものなのだからどうでもいゝやうなものの、どつちがいゝかと云はれゝば、かういふ風に手のかゝつた小綺麗なものの方がいゝと思ふ。塵一つ落ちてゐないやうな、清潔な静寂な此の町の気分はまことに快かつた。
 新宿近時の発達は全く文字通りに駭目に値するといはざるを得ない。いはゆる馬糞の臭ひと嘲けられたのは余りに古い昔ではあるが、両側にあの薄ぎたない暖簾をかけた陰鬱な大建物の間に、ぽつ/\と見る影もない小商店の介在してゐた時分から、今の繁華の街路までの発達は殆ど一足とびの観がある。殊に旧市内より最も遠い部分が中心になつたのは、停車場のお蔭、即ち、郊外開進の恩沢といはざるを得なからう。震災の恩沢も十分ある事はあるが、新宿附近が殷賑を極むるに至るのは、単に年月の問題であつたので、震災はただその時期を早めたに過ぎないであらう。この勢ひで行けば、東京の繁華西遷の期が遠くはなからうかと思はれるくらゐである。銀座よりもこゝは卑野であると人はいふであらう。ところがこの野風が今の人人を引きつける力があるのだ。大衆を引きつけるにはこの野風でなければ駄目だ。銀座がだん/\この野味に降参しだすと共に、やがては、新宿の方がその繁華において凱歌を奏するの日が来るのではなからうか。
 古い小咄に、行倒れの日記といふのがある。無論、偽つて行倒れとなつて、人から恵みを貰ふ乞食の日記といふ意味である。
 『○月○日、神田にて行き倒れ候節、むすびに銭○文。○月○日麹町にて行き倒れ候節、灸とむすび。○月○日、青山にて行倒候節、灸ばかり』
といふのだ。これは当時の各地区の人気と生活程度を暗示した笑話だと思ふのだが、昔は山の手といふのは、かういふ風に蔑視されてゐたものであるが、これからは、新宿あたりの気分は一変して、却つて、下町の人気を笑ふ日が来ないとは云へなからう。とにかく今日の下町は住民の心持が一変しつゝあるやうな気がする。古い東京は却つて片隅の四谷、新宿のあたりに残つてゐるのではなからうかといふやうな気もする。
 寄席などでは神田の立花が振はなくなつて、四谷の喜よしが東京で第一の入りの多い寄席になつたといふ事実の裏には、東京の文化の配置とその変遷とについて何ものかを語るものがあると思ふ。

  四

 京王電車の発著駅から先き数町のところは路面がまだ出来上つてゐなかつたので車は大通りを右へ少し直行してから、左折して狭い新宿の華街を抜ける。
 いはゆるナイト・クラブの店がゝりは、入口に目隠しのやうなものが出来てゐる。洋館まがひの建方、夜見ればどうだか知れぬが、白昼の光線の下では、如何にも陰鬱な景気の悪いものに見えた。どうせ変態の場所には相違ないが、かうまで普通と違つた重苦しい空気を作らずとも、何んとか工夫のありさうなものだと思はれる。
 左側の褐色に塗つた家の入口には、まだ三十にはならぬと見える例の妓夫君が退屈さうに、粗末な椅子に腰を下してゐた。かういふ職業も今にどうなるのであらうか。その伝統の能弁と機智などは何処へ用ひられるのであらうか。
 ひどく古い事をと思はれるであらうが、昔ある友と、吉原の狭い町を歩いてゐると、とある店から、『寄つてらツしやい。舶来とジヤツパン』といふ声が掛かつた。それは揚屋町へ曲るあたりの河岸であつたと思ふ。いふまでもなく、友は和服、僕は洋服であつた。
 五年程前かと思ふのだが、僕の数字の誤記のために、ある人の旧居の位置が不確になつたので、増田龍雨さんを引張りだして、吉原裏のあたりを見てもらつた。その途中、増田、久保田万太郎、平林襄二、新潮社の某君、及び僕と五人で廓内をば、揚屋町の門へと抜けて行くと、ある町の楼の前に立つてゐた若い妓夫君が、白昼のことではあり、気がなさゝうに『おあがりなさい。名誉職のお方』といつた。
 吉原の小店では、昔は妓夫君が上つた客の勘定の工合を、前以て客の履物で鑑定したといふ。あと減りのしてゐるやうな、少し履き古した履物であつたら、安心だが、小粋な真新しいのめりの薄手の駒下駄などだと、この客は、翌日は馬だと覚悟するのであつた。ところが、近頃になつては、それが反対になつてしまつた。つまり、履物も順当に、金銭のある者が新しい下駄を穿くやうになつてしまつた。履物だけは、見すぼらしい物を用ひないといふでんぼう、てつかの伝統が消えてしまつたのだ。こんな話を余程前に聞いたことがある。
 店頭の素晴しき能弁も、通りすがりの客にからかふ縦横無碍の機智も、元より吉原の妓夫君の殆ど独擅のものといつて宜しかつたのであらうが、かういふ不思議な職業気質などは、遊廓の衰微と共に、遠からず消滅し去るものの一つであらうと思はれる。
 世の中が穏当に平坦にされて行くのは、まことに目出度いことではあるが、古き世の悠長さを伝へてをるさま/゛\の、延びやかなる馬鹿げた物や事が、つぎ/\に進化変転の大波に洗ひ浚はれて行くを見るのは、如何にも心淋しいことである。
 こんな用もない追懐にふけつてゐるうちに、車はもう大久保の大道を北へ向つて驀地に進んでゐる。やがて、戸山練兵場の裏手である。それからは、直きに戸塚の源兵衛の踏み切りの東を通る。こゝを流れてゐる川は神田上水で、この末が小石川の江戸川になる。この川の沿岸の変遷もこれまた非常なものである。今より二十年も前には、源兵衛あたりは田舎の村の路に過ぎず、今の早稲田の市電の終点から流れに沿うて、関口の大滝に至るまでは、野川の堤防で、蘆荻いやが上に生い茂つてゐた。対岸には、工場らしい家が一軒、それから、大分飛んで古い鳶色の藁屋の屋根が見えるぐらゐなものであつた。
 環状線が川を越すところから、少し下流に面影橋といふのがある。しかし、こゝは昔は橋などのなかつたところではないかと思ふ。『南向茶話』に出てゐる姿見橋一名面影橋といふのは、穴八幡下にあつた橋ではなかつたかと思はれる。

  五

 牛込の馬場下から、戸塚の方へ行くには、穴八幡の下の狭い坂を上るのであつたが、その上り口のところに古称蟹川といふ小流があつて、それに小さい橋がかゝつてをり、その橋を渡つて、早稲田大学の方へ行くやうになつてゐた。橋の袂にそば屋のあつたことを記憶する。即ち、その橋が、和田靱負守祐の女於戸姫が良人の敵村山三郎武範を討つて後、身を流れに沈めて野川の底の藻屑と消えたといふ伝説、又、将軍の鷹野の時、外れた将軍の愛鷹がこの橋までその姿が見えたので、鷹匠が追つて行つて捉へたといふ伝説のある姿見橋即ち面影橋ではなかつたかと思ふ。
 それはとにかくとして、この辺りは実に途方もない大変転だ。そんな小流は埋められ、橋などはとつくになくなり、穴八幡の前の坂にしても、もうなくなつてしまつてゐるのでなからうかと思はれるくらゐである。
 さて、吾々の行く道は、現今の面影橋、即ち、戸塚から北へ真直に鬼子母神へと上つて行く路に架した橋から数町西の方で、神田上水、即ち井の頭上水を越して、高田へ入り、学習院の角で川越街道を横断し、鬼子母神から数町の西を廻り、小曲折をなして池袋へと通じ、巣鴨の山手線の少し手前で、大塚からの新道路を越え、やがて、その先きで鉄道線を横ぎつてゐるのだが、このあたり一帯が見渡す限り青々とした菜圃であつたのは、まるで昨日の事であつたやうな気がする。恐らくは精精十五年ぐらゐ前から開けはじめたのではなからうか。この辺では、路が山形をなして曲つてゐる。大久保からこゝらまでの路になると、もう十分に郊外気分が濃くなり、旧式の手輓きの荷車などの往来を度々見かけたのであつた。
 巣鴨の踏み切りから以北は、路は殆ど直線をなして西巣鴨町を貫き、庚申塚の北で中仙道を横ぎり、滝野川を通つて一路飛鳥山へ突き当る。勿論昔の本郷からの路へは直角をなして合してゐる訳である。この桜の小丘を見るのは、何年振りなのであらうか。恐らく四十何年か振りではなからうか。昔はこゝをもこんな狭いところとはわれ/\は思つてゐなかつた。神田の学校はこゝまで運動会をもつて来たのであつた。当時の市内に公共用の空地の少かつたことと、それ等の運動会の小規模であつたこととが、これで直ぐ想像し得られるであらう。いや、今日の若い人々にはそんな想像はしがたくつて、却つて嘘の話のやうに思ふくらゐであらう。昔と違ひ四辺も丘上も小ざつぱりと清潔になつてゐるので、なほ一層山の地域が狭いやうに吾々の眼にも見えるのであらう。
 前に挙げた『南向茶話』は酒井忠昌の著で、寛延四年の手記のものであるらしいのだが、このあたりより青山百人町までは昔の鎌倉海道であつたといふ記述がある。即ち逆にいふと、千住から王子の脇の谷村即ち豊島村へ出て、滝野川、雑司ケ谷、護国寺後、高田馬場、大久保、千駄谷八幡前、原宿を経る路で、さういふ時代には、豊島村がこの郡の府であつて、百人町から小田原へ向ふ路をば俗に中路と称へたといふのである。さうすると今吾々の通つて来た環状線はこの大昔の海道であつた。全くの野中の路ともいふべきものの、西側の外廻りをば大きくぐるうりと一廻りして、こゝらあたりで、その古道に合したことになるのらしいのだ。ところで、青山からの中路といふのは、今の渋谷を通つてをる厚木大山道と大体同じものではなからうか。ともあれ、この中路は小田原まで十八里で、日本橋から行く東海道より二里近いと記されてゐる。
 こゝで前記の面影橋のことが気になるので、嘉永板の江戸地図を見ると、今の面影橋と同じ位置に橋がある。『南向茶話』には『高田の末より向うへ渡り候橋』とあるのだから、どうもこの橋らしくも思はれる。前記の蕎麦屋の傍の小橋だといふのは、筆者の記憶違ひなのであらう。

  六

 今仮に、飛鳥山から千駄谷あたりまでへ直線を画いてみると、環状道路はこれに対して、大凡抛物線の形をなしてゐるともいへるであらう。
 さて、路線はこゝで飛鳥山の北横を小廻りして、低い傾斜を下り、東北線の鉄路を越える。こゝの川は名主の滝をなしてをる石神井川で、本流は殆ど真直ぐに東へ向ひ、豊島と小台との間で荒川へ注いでをるのだが、支流は飛鳥山から上野へ連亙してをる丘陵の東麓に沿うて南へ向ひ、根岸へ入つていはゆる音無川となつてをるのだと思ふ。
 今はその音無川も川ではなくつて全くの泥溝になつてしまつた。今から四十年ぐらゐ前までは、旧市内でさへ、少し場末へ行くと、可なり水の澄んだ、小魚の影ぐらゐは見られるやうな小流があつたものであつて、それらが町家の間にあつて、一種の半都会的の景物をなしてゐたのだが、それらの風情ある小流は大抵は皆埋められてしまひ、僅に残つてゐるものは、水汚れ、流れ細つて、小虫さへ住まぬ泥溝になつてしまつた。沿岸一帯に人家の稠密になつた結果で、是非なきところである。
 このあたりから、吾々の車は車頭を東南へ向けて、三の輪をさして急ぐのであつたが、尾久駅あたりからは、さすがに沿道に雑草の生ひ茂つた空地が見えて、如何にも郊外らしい空気が濃まやかである。家々の規模も余程小さくなりだした。路は滝野川区の東北端をかす/\のところで横ぎり、荒川区の南寄りを東へと貫いてゐるのだ。
 昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。
 今この新市の北端に住む人々を旧市からの敗残者であるとはいひ難からう。これ等の人々は、一朝運来らば、大都の中心を一気に攻略せんがために、空拳先づ外郭より攻め落さんといそしむ勇敢なる小市民であらうといひ度いのだ。
 尾久駅の傍を過ぎてからであつたと思ふのだが、両側の家々が殆どみな仮小舎のやうな小屋になり、商品が路傍へ滾れ出したやうに列べられ、まるで、露店の街のやうに見えるところがあつた。さういふ街の中心へ入る前、右側に、菊の鉢を歩道の縁へまで列べた植木屋らしい店を見かけたが、この霜に傲るといふ豪華な花の紅黄白、色とり/゛\の豊艶な姿が、四辺のくすんだ物の色のなかから鮮かに抜け出してゐるのが眼にはひつた。
 古著の店、古靴の店、古金物の店、露天向の玩具の店、新品ながら三等品、四等品と見えるさま/゛\の商品をごた/\と店先きへぶちまけたやうにならべた小店、それ等の店が皆屋根は、塗りも汚れきつた古亜鉛を屋根にした、仮小舎用の細い柱の、形ばかりの小舎である。どう見ても、片田舎の市場でもなければ、都会では到底見られない雑然たる光景である。要するに、此所が都会と田舎との境目といふ感じではあるが、それでゐて、田舎には見られない不思議な一脈の活気が漂つてゐるやうに見える。
 大都会といふ多足の大動物はその触手をさし伸して、周囲の村郊を腹中に抱入せんとするといふのであるが、この大蛸たる大東京は、これ等雑然、混然たる北郊の一角をば、その吸盤多き手で吸ひ寄せ得るであらうか。土地そのものはすでに吸ひ得た。希はくは、今の住民諸君を圏外へ押し退けることのなからんことを望む。

  七

 ある人々は、これ等の商店、商品の雑多にならんでをる有様から、支那にある泥棒市の光景を憶ひ出したといつた。このあたりの商品は勿論贓品ではなく、人も決して犯罪者でないことはいふまでもないが、支那の泥棒市といふのは、甚だ面白いものだと聞いてゐる。盗まれた品物が、翌朝早くその市へ行つてみると、必ず何れかの店に出てをつて、僅の金で買ひ戻せるといふのである。普通吾々は中古でまだ使へる品物を盗まれた時には、同じやうな中古の品を見附けて買つて来るといふ訳には行かぬのであるから、誰しも新しい品を新に買ふことになる。さうすると、それは吾々に取つては甚大な負担になることはいふまでもあるまい。ところが、泥棒市の如きものがあつて、そこへ早く駈けつければ盗まれたその同じ品が新品の三分の一なり、五分の一なりで買ひ戻せるとすれば、盗難から来る損害は極めて小害で済んでしまふ理窟である。文化の進まざるところ、治安の行政の行きとゞかざるところには、またそれはそれで一種奇妙な便法が行はれるものだと、微笑を禁じ得ない訳である。
 路は三河島の東端から、なお一層南へ曲折し、常磐線の鉄路を越え、三の輪町へ入る。ここは下谷区であつて、その北がいわゆる骨即ち小塚ツ原である。やがて、路は三の輪車庫の裏手数町のところで、正東へ転じ直きに浅草区の文字通りの最北端を通じてをる。その幾分下谷寄りのところで、花川戸から千住へ通じてをる陸羽街道を突つ切るのであるが、その北、鉄路を越えたところが、往時の小塚ツ原、即ち南千住であつて、近年までこつの娼楼が数軒淋しげに路傍に列んでゐた。浄瑠璃などにある小磯ケ原といふのはこゝであらうと思ふのだが、線路の下に濡仏が見えたことを記憶する。今はそれはどうなつたのであらうか。或はこの辺少し鉄路の模様が変つたのではなからうかと思ふ。とにかく、上野から行くと、鉄路の土手下、右手に大きい青銅の濡仏があつたと思ふのである。
 地図で見ると、このあたりでは環状道路が浅草の北の区界ぎり/\のところを東へ通つている。恐らくこの道路の北側は荒川区になつてをるのではなからうか。地方今戸町から南干住へと出る路は大昔は隅田川添ひの沢地であつたと見え、ところどころ沼のやうなものが見えて、じめ/\した如何にも場末らしい見すぼらしい地域であつたのだが、今はなか/\潔げな物静かな街路になつてをる。文明の恩沢といふべきところであらう。
 吾妻橋から以北、千住大橋までは、吾々の知つてゐる時代は勿論、幕政時代にも橋は一つもなかつたやうである。ところが『南向茶話』を見ると、左の通りの記述がある。
 『橋場辺の義、此地の古老物語りにいにしへこゝに橋有候故、橋場と号しけると云、その儀尋候所に、只今隅田川渡し舟有之候所より川上壱町程に古の橋杭残り、折ふし往来の船筏にかゝり候由なり』
 橋場の渡しは近年は寺島の渡しと呼ばれてゐたのである。この記述によるとすれば、現今の白鬚橋附近(或はその少し下流か)に往時──寛延よりずつと以前──橋があつたものと見なければならぬことになるのである。
 路は、その白鬚橋を渡つて、向島区へ入る。即ち、この頃まで、向島の寺島村、隅田村と唱へ来つた地区である。路線は白鬚神社のところから、斜に東南へと向ひ百花園を右にし、玉ノ井を左にして、昔の吾嬬村の方へと向つてをる。また『南向茶話』を引くが往時の本所は現今の地区よりはかなり北までをいつたものらしい。

  八

 その『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。梅若の事跡については、猿楽伝といふ謡の由来及び謡の家元四太夫の家伝を記した書物には、家康の関東入国後、武蔵の国を謡つたものが余り少いので、命じて梅若事跡の隅田川の謡を作らせた。その頃、夫婦の非人があつて、梅若の有様を物真似して歩いたといふのだから、余りさう古くからの伝説ではなかりさうである。ある説には、事跡は上古円融院の時代(凡九百五十年前)の事だといふのだが『茶話』の筆者は、それよりずつと後の足利時代乱世の頃のことであらうと思ふと記してをる。又、文明の頃(凡四百五十年程前)五山僧横川叟景三の詩集にも梅若童子悼といふ詩があるから、或はその時代のことかも知れぬとある。それから又この土地に業平天神その他業平に縁故のあるらしいやうな地名があるのは、伊勢物語にある都鳥の歌などから、業平を祭ることになつたが為であらうといつてある。それに因んで憶ひ出すが、荻生徂徠の『南留別志』には、伊勢物語は歌の作例を示したものであらうと思ふ。これを伝記的価値のあるものとするのは誤りであらうとあるのだが、これは道理ある説であらう。
 一体、本所の郊外寄りは、小梅といひ、中ノ郷といひ、割下水といひ、砂村といひ、縛られ地蔵(これは仮作)、置いてけ堀、狸囃子等のいはゆる本所の七不思議等さま/゛\の伝説に富み、且演劇、小説の場面に使はれてをる地点を多く有する地区である。大都の場末ではあつたが、それでも交通その他の関係で、人的交渉が多かつたので、山手よりは多くさま/゛\の物語のなかに使用されるに至つたのであらうと思ふ。
 環線道路は、曳舟川を越し、直線的に進んで、をむらい(小向井?)に至つて、右へ向けて少し弧線を画き、福神橋で北十間川を渡り、房総線の亀戸停車場の西側を掠めて南向してをるのであるが、吾々が往時は郊外の果だぐらゐに思つてゐたところの押上、業平、柳島、亀戸天神などはこの大路線からいへば、西側、即ちずつと内側になつてしまつた。これだけでも、市域の拡大したことの概念が得られるであらう。
 街路は荒川区の場合とは違ひ、さう新開らしい珍奇な光景は見られない。勿論、所がらさして目立つ程の活気は見られはせぬが、両側の小商店皆かなりな落著を見せてゐる。甚だしく新しい新開の地域でないためかも知れぬ。福神橋のあたりは天神の直ぐ裏手に当るくらゐなのだから、この辺などは割合に早く開けたものと見て宜しからうと思ふ。
 北十間川を越えると、区は城東区になり、町は亀戸町になる。新市はまだこの先き放水路を越して、北から足立区、葛飾区、その南に江戸川区と、下総との国境江戸川縁にまで広がつてゐるのであるから、もう、尾久、三河島、向島、亀戸あたりを郊外の新開のやうに思ふのは、吾々の全く時代後れの考へである。
 又、西の方でいへば、板橋区、中野区、杉並区、世田谷区、その南で荏原区、大森区、蒲田区といふ風に、神奈川県との県境、六郷川まで延長してをる、新市は全くとてつもなく広がつたものである。
 さて、環線道路は五ノ橋で竪川を渡つて、大島町へ入つてから、現今のところ、少し未了になつてをる。この路線は新市からいへば、外廻りの路ではなく、むしろ中心に近い目黒、渋谷、淀橋、豊島、滝野川、荒川、下谷、浅草、向島、城東区の十区を貫通するに過ぎないのであるが、しかもなおその幅凡十三間、延長十里に垂んとする大路線なのだ。



時代に取り残された乗物

     川蒸気とガタ馬車

 明治の始め頃と云つたところで、僕は十二三年頃から此の方のことしか知らぬのであるが、僕のさういふ記憶のなかにある事柄から云つても、交通の機関は、少し遠路に渉るものであるとすると、汽船と馬車(乗合)であつたやうだ。
 九州とか、四国とかいふやうな島内の各地から本土への交通は、封建時代に於てすら、船)によつたのであるから、汽船が使用されるやうになつて、それらの土地から京阪とか東京などへの交通が汽船によつて行はれるやうになつたことは云ふまでもない事であらう。
 のみならず本土の方でも、例へば入海とか湖水とかいふやうな広い水の上では、昔も可なり小舟を交通の手段に用ひたところがあつたやうであるが、さういふ場所では、明治になつてからは間もなく小汽船、所謂川蒸汽を用ひるやうになつたらしいのである。
 現に僕は明治十一年の初夏(寧ろ晩春か)琵琶湖をば、小汽船で、大津から米原まで来たことを記憶して居る。船が何噸ぐらゐなものであつたのか、時間が何れ程掛つたのか、さういふ点になると、何うも記憶が朧気である。それから又、その船は彦根の松原あたりから、支湖へ入つて、直接に米原へ着いたかどうか、さういふ点も判然とは覚えてゐない。けれども、その時分、もう既に琵琶湖を渡る定期の小蒸汽船のあつたことだけは確である。勿論外輪式のものであつた。
 又、その旅で、浜名湖を非常に小形な汽船で渡つたことも記憶して居る。これは今瀬戸内海で見る島と島との間の渡船で、石油汽缶の附いてゐる極く小形の船があるのであるが、浜名湖の渡船も大凡そんなくらゐの大きさのものであつたやうに思ふ。薪を焚いて汽鑵の湯を沸してゐたやうにさへ思ふのだ。
 さういふ風に、所謂川蒸汽の記憶はあり、人力車に乗つたことも勿論記憶して居るのだが、乗合馬車に乗せられた記憶が少しもない。これは僕が忘れてしまつたのではないと思ふ。自分が乗つた覚えがないばかりでなく、乗合馬車の駈けて居るといふやうなところをさへ見たこともないやうである。
 その時分の東海道などでは、余り乗合馬車がなかつたのではあるまいか。駕籠舁から変つた人力車夫が多かつたので、乗合馬車を通ずることができなかつたといふやうな理由があつたといふ風に考へられないこともなかりさうである。
 しかし、東京では、交通路が大抵陸路なのであるから、乗合馬車はかなりに広く用ひられたやうである。船の交通、即ち汽船による交通が開けた土地、例へば東京と横浜との間の如きでも、汽船と共に乗合馬車の交通が開けたらしく思はれる。勿論、これは、汽車の開通するまでの事態であつたのだ。
 両国から、江戸川へ入り、大利根へ出て、銚子まで下る航路の如きは、隅田川の所謂一銭蒸汽よりも早く開けたのではなからうか。とにかく、一銭蒸汽は鉄道馬車より少し後になつてできたもののやうに記憶する。但し、さう云つても、もう明治二十二年頃にはできてゐたやうに思ふのである。
 昔から、今日のやうに、客船の部分が曳船になつて居つたのであるか、どうか、それは僕には何んとも云へない。しかし、曳船式ではなかつたやうには思ふ。
 僕はあの船には余り乗つたことがないので、知つて居ることがまことに少いのであるが、鉄道馬車ができてゐても、それは極端に幹線だけであつたのだから、あの川をば、例へば両国から言問まで、あの汽船で横ぎるとするならば、鉄道馬車で雷門まで行き、それから、竹屋まで歩き、渡船で向うへ渡るといふのより余程足数が少くて済んだであらうと思はれる。費用も同額ではあつたかも知れぬが、川蒸汽の方が高かつたことはなかつたらうと思ふ。
 朝吉原を出て、公園附近で食事をしてから、向島の方へ行く人々に取つては、吾妻橋からあの汽船に依るのが一番便利であつたらうとは、想像に難くない事柄である。
 今日まで東京に永く住つて居る人々であつたら、大抵の人々があの汽船に就ては、さま/゛\な記憶を持つて居られるであらうと思はざるを得ない。
 斎藤緑雨の『ひかへ帳』のなかに、次のやうな一項がある。
 『もとより、途中の出来心なれども、試みにとその友に誘はれて、いつなりしか壱銭がところをこれに乗りぬ。室内に座蒲団の配置してあるを見て、日本も感心に行届いて来たと、友は肥太りたる体をむずと其上にすゑしに、船の進行しはじめたる時、隅なる男の手を差出して、蒲団代を頂きます。それはと今更退けもなり難くて、われとともに三枚分は、甚だ割の高きことなりし』
『壱銭がところ』といふのは無論一区分の意味であることはいふまでもないであらう。緑雨の此の友といふのは、緑雨の竹馬の友と云つていゝくらゐの上田万年氏であるらしく思はれる。
 明治四十二年頃かと思ふのだが、ある夏の午後、田中貢太郎君と一緒に両国からあの船で千住まで行つたことがある。今日の白鬚橋あたりかと思ふのだが(勿論その時分まだ橋はなかつたと思ふ)、川のなかに蘆の繁つてゐるところなどがあり、一帯に所謂寂し味のある景色で、其のあたりが何んとも謂へず心持がよかつたことを今日も尚忘れ得ないで居る。

 東京では、乗合馬車は早くから市内は勿論、中仙道、奥州街道などへ向けても、開通して居つたといふのだ。雷門から新橋まで二階づきの馬車が通つてゐたことがあつたといふ記録はあるのだが、明治十一二年頃には、もうそんな馬車は通つてはゐなかつた。のみならず、所謂大通りを二階なしの普通の乗合馬車さへ通つてゐたことを僕は目撃したことはないやうに思ふ。
 御成道即ち万世橋外から、伊藤松坂屋のところまでの路はその頃は極く狭い路であつた。人力車が二台横にならぶともう一杯になるであらうとさへ思はれるくらゐの細い路幅であつたので、あのあたりなどは、乗合馬車は到底通ることは許されなかつたのであらう。御成道は特に狭い路であつた。幕政時代には何か理由があつてあゝいふ風に狭くしてあつた路であつたかも知れぬ、と思はれるくらゐのものであつた。
 筋違即ち、大凡今の万世駅のあたりから、神田明神前、本郷通り、追分、白山前などを経て、板橋へ通ふ乗合馬車は明らかに記憶して居る。随分車体は汚ならしく、馬は痩せてゐて、一寸危険を感ぜられるくらゐに見えて、馬が暴れ出して、加賀邸前の薪屋の外の高く積んだ薪へ突き当つて、薪の山が崩れたのを見たこともあるし、また病馬であつたがためか、路上で倒れて起き上らずに、人々がその始末に大騒ぎして居るのを見たことがある。そんなやうなためもあつたのか、何うか、とにかく、今の乗合自動車のやうに短距離の客は殆どなかつたやうであつた。板橋で乗つた客が大抵終点の筋違まで行くといふ風であつたのではあるまいかと思ふのだ。馭者の外に別当(馬丁)が附いてゐるやうに思ふ。その別当が、近頃まで豆腐屋の用ひてゐたと同じ形の喇叭を吹いて、通行の人々に注意を与へるのであつた。乗合馬車は今日でも地方ではまだ残つて居るところがある。乗合自動車の通ふ沼津あたりでさへも、一頭立ての乗合馬車が見かけられるのであるが、昔の乗合馬車はさういふ今日の乗合馬車よりもずつと汚いものであつた。
 橘家円太郎といふ落語家があつて、高座で喇叭を吹いて、その別当の真似をしたので、さういふ早い時代の乗合馬車をば円太郎馬車と呼ぶやうになつたのだ。こんなことは当時のことを知つて居る吾々に取つては、書くになぞ及ばない程明白なことであると思ふのだが、今日ではもうこんな事さへ知らぬ人が多くなつた。現に先達てのこと、ラジオを聴いて居るといふと、何んとかいふ若い咄家が、円太郎が鉄道馬車の馬丁の真似をしたと話してゐた。円太郎馬車といふのは、鉄道馬車よりずつと以前の、ずつと粗造の馬車のことを云つたものである。
 鉄道馬車は明治十六七年頃のものであらうかと思ふのだが、それでも、二十三四年頃は、新橋と品川の間は、路幅の関係であらうと思ふが、鉄道馬車でなく、並の乗合馬車が通つてゐた。けれども、その馬車でも、スプリングの工合、座席の固さなど、鉄道馬車より余程粗造ではあつたが、円太郎馬車とは比較にならぬ程進歩したものであつた。
 円太郎馬車の今一線は、花川戸あたりから宇都宮へ通ふものであつた。僕はこれは見たことはない。明治十二年頃から開通したといふ記録があるといふのだ。東京から日光へ行く人など此の馬車に依つたものであらうかと思ふ。
 伯爵金子堅太郎さんが僕の亡兄と一緒に、日光へ行つて、寺の座敷を借りて、滞在しやうとしたところが、一遍は承諾して置きながら、あとになつて断るので、詰問の末、寺から止宿者の届を警察へ出しに行くと、金子さんは福岡県士族、亡兄は高知県士族といふのであつたので、西南役直後のことであつたので、警察では眼を円くして、なるべくは、そんな者には座敷を貸さぬ方がよくはないかと、云つたので、和尚は驚いて、断つたといふことが分つて、亡兄などは契約法の講義じみたことまでやつて、和尚を痛めつけたといふ話を、金子さんが笑つて話されたことがある。そのときの旅行は、乗合馬車によつたのであつたやうに聞いた気がするのである。
 鉄道馬車が柳原を浅草橋まで通るやうになつたのは、万世橋、上野間(此の間の路幅は無論拡げられたのだ)が開通してから可なり後のことであるのだが、その柳原浅草橋間が開通した後であつたか前であつたか、今その点が記憶不明瞭であるが、赤塗の車体で、馭者台が殆ど車の屋根位な高さのところにある乗合馬車が九段下から両国あたりまで通つてゐたことがある。明治二十九年頃であつたかと思ふ。
 円太郎馬車にしろ、鉄道馬車にしろ、何れも民衆的乗物であつて、中等級の乗物は人力車であり、高級乗物としては、雇馬車があつた、つまり、円タク出現以前の雇自動車の格であつたのだ。さういふ貸馬車は築地に一軒、鎌倉河岸に一軒あつたかと思ふ。此の高級乗物としての貸馬車は無論馭者馬丁附きであつて、大正になつても使用されたのだ。貸自動車の出現まではその支配を続けた訳である。
 この貸馬車には僕は一遍しきや乗つたことはない。亡兄が死んだのは、明治二十一年であつたのだが、米国で客死したので、日本では遺髪で葬式をやつたが、骨壷に入れ、外箱に入れたその遺髪を僕が抱へて、谷中の墓地へ持つて行く時に、親戚の豊川良平が、
『馬場はもう少し生きて居れば、無論自家用の馬車に乗れる男だ。どうだ、せめて遺髪でも馬車に乗せて、墓地へ送らうじやないか』
 と云つて貸馬車を呼んで、それへ僕等が乗り、遺髪を持つて天王寺墓地まで行つたのであつた。大分薄汚れた車であつたやうな気がする。円タクでも、今日では、ずつと綺麗な車がある。その当時では、そんな古ぼけた馬車でも、少くとも十円ぐらゐは取られたのではなからうかと思ふ。
 そんなことを思ふと、今日の自動車は安いものである。時間を勘定に入れることにすると尚一層安いものになる。
 吾々から見ると、乗物は大変革を来たしたのは、自動車移入以後であつて、一般にその利沢が及んだのは、このところ精々十五年此の方ぐらゐなものであらうと思ふ。朝、東京を出て、箱根を抜け、富士の五湖を見、猿橋へ出て、夕方東京まで帰りつくといふやうなことができようなどとは、大正の始めに死んだ老人などには思ひも寄らないことであつたのだ。
 旅行者のためには、自動車の出来たことは何よりも喜ばしいことだと思ふ。
 然し、明治の交通機関としては、人力車が各階級の人々に対して、重大な働きをなして居つたことは、此所にいふまでもないことで、此の東洋、否、日本特有の交通機関には実にさま/゛\な事件との交渉があり、聯想があつて、日本近代の交通物語に於て、人力車の勤めた役割に言及しないのは、交通機関の物語としては全く不備な訳になるのであるが、これはゆつくり語ることにして、一旦此所で筆を擱くことにする。

     人力車のことども

 地方の市などでは、まだそれ程古めかしい、間の抜けたもののやうには見えないのだが、東京の自動車、バス、電車の往来織るが如きなかで見ると、あの古ぼけた幌をかけた人力車の姿は、まるで古い/\世から抜け出して来た、何かのすだまででもあるかのやうに見えて、怪しいまでに見すぽらしく哀れなものに見える。
 しかし、明治になつてからの乗物としては、人力車ほど長い間、交通機関としての任務を果たしたものはないのだ。東京だけでは、既往少くとも四十年の勤を了つてしまつた形になつて居るのではあるが、地方ではまだその勤を了らずに居るところがまだ可なりあるだろうと思ふ。
 人力車の発明者は実に長い間、まことに多くの利沢を人に与へたものと云はなければならぬ。
 人力車は明治三年春に筑前生れの和泉要助が発明したといふ記録になつて居る。駕籠は担夫二人を要するのみならずこれを舁くに腕力と熟練を要するといふ点で、人力車より不便であるといふことはいふまでもなかつた。
 馬車から思ひ附いての発明であつたので、数人乗りのものも試みられたのであるが、それは第一に速力の点などから実用が広くなく、直きにすたれて、二人乗と、一人乗のみが非常な勢ひで、弘布するに至つたのであつた。
 発明の当初にあつては、非常な速力で走るもののやうに思はれたのであつた。東北の或る地方などでは、『今度出来た人力車といふものは実に驚くべき速力のものだ。全速力で走るのであつたら、乗つて居る人間の腸がごちや/\になつてしまふほどの速さになるものだ。それだから乗る者は生卵を一つ懐に抱いてゐて、その黄味と白味が一緒にならない程度に走らせれば、人間の身体には異状がないのだ』と、云ふ者があつたといふ笑話が、今日でも古老の間には残つて居るといふのである。
 ところで、その形には、二三変革はあつたらしい。最初は轅即ち梶棒の突端に横木はなかつたし、車輪の上のところに附く泥除もなかつたといふのだが、僕などはさういふ点に関する記憶は少しもない。或は少年の観察は其所まではとゞかなかつたか、或は又、明治十二年頃では、もう大体後々の形に治定してゐたのか、何れかであつたらう。もう一つは、幌の変革であるが、最初の時分のものの絵を見ると、幌が屋根のやうに上だけのものになつて居るのだが、僕などの知つた時分には大凡後の形になつて居つたやうに思ふ。
 始めのうち、雨除けにだけ幌を使つて、日除けには使つてくれなかつたと思ふ。吾々は蝙蝠傘をさして乗つてゐたことを記憶する。だから冬の寒風のなかでも、雨か雪でない限りは、吹き晒しで乗つて居る訳であつたので、年始廻りの時など、一時間近くも、車上に居ると全くふるへ上つてしまふ程寒かつた。冬の寒風を防ぐために、一般に車体を全部包むやうになつたのは、恐らく大正になつてからではなかつたかと思ふ。

 車輪を護謨輪にするとか、梶棒の横木のところへ呼鈴を附けるやうになつたのは明治四十年頃であつたと云つて宜しからう。但し、大阪あたりでは、音がしないのは、威勢が悪いといふので、わざと車輪がリン/\音がするやうにしてゐたといふことを聞いたことがある。
 護謨輪も場末の車宿などでは、容易に採用しかねたやうであつた。夏目漱石さんが『出入りの車宿へ護謨輪の車を持つて来いといふと、鉄輪の車を護謨輪だと云つて持つて来る。唯だ梶棒へ呼鈴が附いて居るだけなのだ』と云つて、笑つて話したことがある。夏目さんが早稲田南町へ引越されてからのことであつた。
 膝掛にも多少の変革はあつたと思ふ。吾々の乗る辻待の車などは、長い間、毛布か、さなくとも、ぼた/\と厚い不意気な毛織物であつた。大阪では、車の蹴込の両脇に曲つた真鍮の棒が取りつけてあつて、それへ屋号か何かを染め抜いた暖簾のやうな布を引き廻すのであつた。膝掛は用ひなかつたと思ふ。
 提燈の形なども、幾つかの変遷があつたのであらうと思ふ。後に至つては、吉原通いの車とか、花柳界の車は、細い縦に長い弓張り提燈を用ひ、屋敷方の抱車や、宿車の方はもう少し短い箱提燈形の弓張りを用ひたやうに思ふ。元よりこれらは車夫が梶棒に添へて、手に持つのであつたが、地方によつては、提燈を車へ取りつけてあつたところもあつたのである。
 僕は明治二十四年の暮から、二年程、土佐の高知市の私立の英語学校を教へに行つてゐたことがあるのだが、その時分高知市の人力車には蹴込みの端のところに、籐で巻いた彎曲した二尺余りくらゐの棒が立ててあつて、その先きへやゝ長めの円い提燈が附けてあるのであつた。で、車が走り出すと、その提燈がぶら/\と揺れて行く訳であつた。電燈などはない、軒燈だつて、殆どないやうな薄暗い夜の街では、遠くから、提燈のみが空中に揺れて来るのなどが見えて、余程可笑しかつた。
 吉原通ひの車夫が『アラヨ』といふやうな懸け声をしながら、前記の円筒形の提燈を振り廻して、行人を警めながら疾走するのは、当時での見物であつた。
 斎藤緑雨がその随筆のなかで、戯れに
『ばかな会といふ歌の会があつて、その会の詠草のなかに、夕潮の切通坂をわれ行けば、あらゝ/\と車飛ぶなりといふのがある』
 といふやうなことを書いて居る。
 吉原通ひの車の特徴は、高台と称して客の腰をかけるところが、後の方へ向けて斜に低くなつてゐるので、客は殆ど膝頭が胸近くとたい/\になるくらゐに、後へ反つて乗つて居るといふ風であつた。つまり、客にさういふ風に後へ反り返るやうに腰かけさせるといふと、車夫が輓いて疾走するのに、非常に都合が好かつたからであつたのであらうと思ふ。

 明治四十年頃になると、東京では、もう二人乗の車といふのは殆ど跡を絶つたと云つて宜しかつたらう。極く早い時代の二人乗の車は後に武者絵とか芝居絵とか、花鳥とかいふやうなものが、彩色入りの漆で書いてあつた。さういふ車を見かけたのは、東京では、精々で明治二十年頃までであつたかと思ふ。
 初代の三遊亭円遊が創始したステテコの踊りの言葉に『相乗り幌かけ、頬ペた押ツつけ、テケレツツのパア』といふのがあつた。相乗り即ち二人乗の車が、今の所謂アベツクの場合に都合が好かつたことは、誰にも理解し得られるであらうが、男同士の場合にあつても、道々話ができるからと云つて、わざ/\二人乗に乗る人々があるのであつた。辻待ちの車などだと、二人乗の方は車体が古ぼけていて汚くつて、車夫もよぼ/\の年寄などであつた。斎藤緑雨は、一人乗では連れと話ができないからと云つて、連れのある時は、遅いのなどは構はずに、二人乗にするのであつた。
 車内で話をしながら行けるといふ点では今日の自動車は実に都合が宜しい。吾々は速力の外に、この点で、文明の余沢を感ずることがいとゞ深いのである。
 昔の車屋は東京の道を善く知つてゐた。吾々の方では知らない場所へ行く場合でも、町名さへ云へば、車夫は真直ぐに其処へ輓いて行つて呉れた。その点は実に安心なものであつた。今の円タクではさうは行かぬ。小石川の石切橋あたりで拾つた円タクでは、清水谷へと云ふと、既んでのことに谷中の清水町へ連れて行かれるところであつた。青山墓地の入口で呼び止めた円タクの運転手は弁慶橋は渋谷の先きにあるのだと思つたらしく、三十銭では厭だ、七十銭くれと云つた。
 速力の点から、一つの車を二人で輓く場合は綱引きと称へて、梶棒へ綱を附けてその綱を一人が肩へかけて、先きへ立つて引きながら駈け、また急ぐ場合には後からもう一人、車の背を押し、つまり三人輓きになるのである。これが先ず一番大業な車の輓かせ方かと思つてゐたのであるが、まだその上を越して、五人輓きの車といふのに乗つた人があるといふのを聞いたことがある。それはどうするのかといふと、梶棒を握る本当の車夫の前へ、綱を引く者が二人、それから、後押が二人、それで都合五人になるといふのである。これ等はむしろ景気を示すためのものであつて、速力の点では人数の割合程速いものではなかつたらうかと思はれる。雪の積つて居る路などは、車夫を疲れさすまいと思へば、綱引き、後押附きぐらゐでなければ駄目であつたらうと思はれる。二人輓き以上の輓き方は一つの車夫の労を軽くするための意味もあつたのであらうと思ふ。

 上野の山下、浅草公園、吉原遊郭の内外の吉原へ行く客をあての車夫は、一般に悪性の者であつたが、そのなかでも一層質の悪い者どもを、もうろう組と云つた。朦朧の字を当ててゐるやうであつたが、身許の怪しいといふ意味の外に、浮浪といふやうな意味もその音から感じ得られるのであつた。これは、夕方から専門に稼ぐ者どもであつて、初めは相当の賃銭で客を乗せ、綱輓きにするとか、後押しにするとかして、途中で脅迫的に不当な増し賃を要求するのであつた。
 明治二十六七年頃であつたと思ふのであるが、僕の知人の或る紳士が、夕方浅草を歩いてゐて、車夫がしきりに勧めるので、吉原まで乗ることになつたが、するとその車夫は綱挽きにしてくれと云つて、仲間を四五人連れて来た。つまり綱が二人の、後押しが二人、それに手がはりが一人といふ訳で五人挽きになつたのである。断れば、喧嘩になつて面倒だと思つて、結局は皆の頭へ二円もやればそれで済むだらうといふ気で、乗つて居るといふと、その五人輓きの車は少しも駈けないで、唯歩くやうに緩々と進んで行くのであるが、その代り、後から来る車を皆止めてしまつて、その車の後へ附かせてしまふ。多分花川戸の方から行つたのであらうと思はれるのであるが、吉原通いの車が何町も続いて、その先頭には、山高帽を冠つた紳士を乗せた五人輓の車が立ち、その全体が練り物ででもあるかのやうに悠々緩々と進んで行くのであるから、これは如何にも奇観であつたらうと思はれると共に、先頭の車上の紳士の面はゆさは又、察するに余りがあるのであつた。
 が、それでもどうにかかうにか馴染の引手茶屋までは行くことができたのであるが、やがて、その悪車夫どもは予定の行動であつたのか、どうか、他の車夫たちと喧嘩を始め、その手打ちをするからと云ふ辞柄で、拾円とかをその紳士からいたぶり取つてしまつた、といふのである。その時分の金の価値なのだから雷門から吉原までの車賃としては、全く途方もない金額であつたのである。
 朝になつて、勘定の払へない遊客に附いて行つて、金銭を貰つてくる者を附け馬と称することは誰も知つて居ることであり、此の附け馬に関する笑話は多く落語には残つて居るのであるが、昔は附け馬は大抵歩いて客に附いて行つたのであつたけれども、人力車ができてからは、大抵その車夫が附け馬を兼帯にすることになつたらしいのである。即ち、客からは、遊興の勘定と車賃とを受け取つて帰つて来るのであつた。
 人力車は空車よりは客を乗せて輓く方が楽なものだといふのである。鉄道馬車が出来てからも、筋違即ち今の昌平橋内あたりに立つて、馬車を待つて居ると、日本橋まで馬車並みの賃銭で客を乗せようと勧める車夫があつたものである。所で、京橋までその倍の賃銭で行かぬかと云つても、決して承諾しなかつた。思ふに日本橋まで出れば、客を拾ふ便が多いので、空車を輓いて行くよりは、幾ら安くても人を乗せて行く方が、輓くのに楽だといふのであつたらしいのである。船ならばバラストといふやうな訳に、吾々が使はれるといふ振り合ひであつたのである。
 車の輓き方にも、いろ/\技巧があるらしかつた。平地に馴れた車夫が山坂の多い土地へ行つて困るといふのは、吾々にも直ぐ理解のできる事柄なのだが、山坂を平気で客を輓きあげる車夫は平地へ来るとカラ駄目だといふのであつた。平地では速く駈けなければならぬのだから、山坂の多い地方の車夫は、その駈けるといふ点で、平地の車夫にひどく劣ることになるといふのであつた。
 成田街道あたりの車夫の駿足には東京の車夫などはとても及ばない。しかし、東京の街中の、馬車が走り、自転車が来り、荷車が続くといふやうな、往来織るが如きなかを、少しも困らずに、悠々として車を輓いて行くといふことは、これは全く東京の車夫の独擅場であると、或る邸の抱車夫は云つてゐた。
 車夫の服装に就て云へば小説や、劇などでは、黒鴨仕立といふのが抱車夫の気の利いた正装といふことになつて居る。濃い紺の筒袖の上着と腹掛に、同じ色の股引といふ出でたちであつて、夏は真つ白な装ひになるのであつた。帽子も饅頭笠、麦藁帽などを経て、学生帽のやうな最近の形になつたのである。しかし、古い錦絵などを見ると、初めは半纏着の向う鉢巻ぐらゐで、車を輓いたものであつたらしいのである。
 駕籠舁に絡む雑多の面白い物語が残つて居るとともに、車夫の方にもさまざまな物語があり、小説や劇にどういふ風に人力車や車夫が描かれて居るかを見るのも、興味の尽きざる事柄であらうと思ふけれども、予定の枚数も可なり越えて居るのでこれで一先ず此の稿を終ることにする。



近世風俗雑談

     明治から大正へかけての話

 風俗といへば主として、服装、髪の形、履物等のことを、いふべきなのであらうが、何分家に引き込みがちであつたし、また外出しても古本を探すといふやうなことにのみ気を取られてゐたので、いはゆる風俗の変遷などには殆ど気がつかずにしまつた。
 それで今大体のところを思ひ出してみようとするのだが、どうも甚だ朧気で、十分なことを書けないのはまことに残念である。
 吾々にでも第一番に気のつくのは、現代──大正になつてから──では、洋装が殆ど一般的といひ得らるゝ位に波及したことである。それから、その次ぎには洋風の建築が非常に多くなつて来たことである。第三には、巻煙草の使用の範囲の広くなつたことである。それから、第四には西洋料理──カフェー、バー、食堂の流行が全く常態として定まつてしまつたことである。
 明治十四五年頃から以降のことでなければ余り善く覚えてゐないのだが、その時分から二十四五年頃までは、何んといつても洋装は余程少かつた。官吏とか、教師とか、大きい会社に勤めてゐるといふやうな一部の人々に限られてゐて、それも役所や、会社へ出る時とか旅行の場合などに重に着用したもので、家居の場合は勿論のこと知人訪問とか、散歩とかいふ場合には、何時も和服であつたといつていゝくらゐであつた。民間の儀式の場合──婚礼とか、葬式──などにも、大体の人々は羽織、袴であつた。この時代では──殊にこの時代の初期では──洋食の宴会といふのは少かつたので、さういふ和食の宴会へ出席するには、大体日本服であつたらうと思ふ。この時代では、大きい宴会は大抵柳橋あたりで行はれたやうであつた。吾々は柳光亭の名などをしば/\耳にしたことがある。両国の中村楼が流行の高等旗亭であつたことは、少し前のことであつたらう。この時代では、新橋に大旗亭はなかつたやうに思ふ。尤も、築地の寿美屋とか、花屋とかいふのが、此の時代の末期にはもうできてゐたかも知れぬのだが、それにしても、その二軒は家の広さでは大旗亭とはいへなかつたらうかと思はれる。
 この時代の背広は両前が可なり上の方から切り落して、丸みをつけたものであつた。ボタンは四つ位ついてゐたかと思ふ。下袴のひどく細いのが流行つたのもこの時代であつたと思ふ。靴も編上げはまだそう一般的ではなかつた。この時代の初期では、鳴り皮と称して靴の底へ一枚皮を別に入れて、歩くたびにギユウ/\鳴るのを善しとしてゐた。
 フロツクも、この時代のは胸を広くあけてあつた。襟の折返しへ裏を出して見せてゐたのもあつた。毛織のテエプのやうなもので、すつかり縁を取つたものもあつた。モオニングは後のものよりはずつと短かつた。

 外套は長短いろ/\に変つた。即ち初期においては短く、後期においてはやゝ長くなつたが、ともにボタンは、大外套の場合のほかは、中位の大きさのもので、その数は大抵五つ位はあつたらうと思ふ。
 和服に至つては、吾々貧乏書生にはどうといふほどの記憶はない。唯此の時代の初期には素人の男でも、少し洒落た人は、黒縮緬の紋つきを着てゐた。大島紬は余り知られていなかつたやうに思ふ。夏の衣服では、薩摩飛白は一般に知られてゐたが、久留米は余り知られてはゐなかつたであらう。
 二重廻しは二十五六年ごろから行はれだしたものであらうと思ふ。それまでは、吾々は冬でも上へは何も着なかつた。雨の時もさうであつた。女の方は襟のかかつた雨合羽を着てゐる者もあつたが、男で雨合羽を用ひたものは吾々の知人などのうちには一人もなかつた。旧式のトンビを用ひた人は少しはあつたらうと思ふ。
 その代り、この時代の初期には肩かけが流行りだした。大きい風呂敷のやうなものの四方に幾つも房の附いてゐるやつを中から二つに折つて、即ち三角形のかたちにして吾々も肩から背へと背負つたものであつた。
 元より書生間の流行であつたが、舶来の絹の色のついた半巾で頸をまくことがはやつた。少し黒みのかゝつた赤い色のものなどが一番広く用ひられたやうである。
 シヤツは洋服の分は無論糊で固めたホワイト・シヤツが正式であつたが、吾々などはフランネルのシヤツヘ胸とカフス・カラアとを白い固いので取りつけて間に合す場合もあつた。この時代の後期には、夏のシヤツで、縮の縞で前を打紐で編上げのしたものが流行つた。吾々もそれを洋服用として用ひたものであつたが、夏目漱石君はそのフランネルのシヤツを洋服の下へ着てウ─ド師を帝国ホテルに訪問して、錠前直しと間違へられたといふ話である。
 帽子は、紳士用としては、山高帽であつたが、今日のものの二倍ぐらゐの高さの縁の反つたのが行はれた。頂辺が一文字になつてゐるもつと低いのもあつたやうである。書生用としては、釜形帽や、ハンテイングの前身のフランネル製の前で襞をとつたものなどもあつた。夏帽は矢張り麦藁が一般であつたが、今日のものより山が低く縁が広かつたやうに思ふ。リボンに赤いのなどがあつて、今日では如何にも無粋なものであつたのだが、吾々は得意でそれを冠つたものだ。
 下駄は南部表、もしくはそれのまがひの前のめりの駒下駄が一番広く行はれていた。籐表──即ち蝉表──はまださう行はれてゐなかつたやうに思ふ。麻裏草履が広く用ひられてゐた。職人の突つかけ草履もよく見掛けた。車夫その他の労働者は大抵草鞋を用ひた。従つてどこの荒物屋にも草鞋が吊してあつた。今日では、どうかすると草鞋を買ふには可なり探さなければなるまいかと思ふ。その時分の草鞋は藁ばかりで作つたもので、後のもののやうに布は何処にも使つてなかつた。
 雪駄は古くからあつたものであるに拘らず、面白いことに、一時すたれた形になつてゐたやうに思ふ。穿く人を多く見かけるやうになつたのはこの時代より少し後になつてのことであつたと思ふ。

 こゝで髪の刈り方をいふべきであらうが、老人は大抵撫でつけ即ちまあオ─ル・バックのやうな形にしてゐた。われ/\は毯栗即ち五分刈であり、紳士連は主に左から、七三分け位にしてゐた。この時代は皆もみ上げを残してゐたし、誰も床屋で鼻の穴をすらせるのであつた。真中から髪を分けるやうになつたのは明治三十年近くであり、もみ上げもそのころからだん/\多くそり落すやうになつたと思ふ。
 持ち物などについても僕は幾らも書き得ない。巻煙草が今日ほどは、はやらなかつたのだから、煙草飲みは大抵刻みを用ひた。煙草入れは筒つきの腰下げのものであつたやうだ。共皮若くば共布の筒つきの煙草入れはも少し後で用ひられるやうになつたと思ふ。明治十七年ころのことかと思ふのだが、西洋刻みをライスペエパアで自分で巻いて飲むことがはやつた。始めは小さい簾を用ひて巻いてゐたが、直きに小さい機械が輸入されてそれを用ひるやうになつた。この時代では、後期に近くなつて、カメオとか、ピンヘットとか、パイレエトとかいふやうな外国巻煙草が輸入されだしたのみで、日本製の巻煙草は岩谷の天狗煙草があつたばかりのやうに思ふ。西洋巻煙草を真似た京都の村井のサンライスやヒイロウの売り出されたのは少し後ではなかつたらうか。
 食ひ物については、僕などは殆ど何もいひ得ないのだが、唯西洋料理屋の数の実に少かつたことだけはいひ得られる。そしてそこでは、コオスを食はざるを得なかつたのであらう。今日のやうに品を選んで註文し得るやうになつたのは少し後のことだと思ふ。その代り天麩羅屋で小料理もするといふやうな家は沢山あつた。講武所宇治の里などは入り込みの飯屋であつたが、そこでは、昔上野の坊さんの支度所であつた名残りであつたのであらうが、酒を茶の土瓶へ入れて客に出すのであつた。牛肉屋が随分多かつた。それが書生に対しては今日のカフエ─の役を勤め、そこの女中──即ち、ねえさんが今日のウエ─トレスの格であつたわけだ。
 この時代の初期には、楊弓場がはう/゛\にあつた。十一二年ごろには芝の公園へ赤羽から入つて行くところにある土手のあたりにも一二軒あつたことさへ覚えてゐる。神明は元より、浅草郡代、湯島天神とさういふところには楊弓場が群居してゐたのだが、淡路町の宝亭の横町になるあたりにも数軒あつた。これは坪内逍遙大人の『書生気質』に描かれてゐる。これ等楊弓場たるものは、矢取女と称して客を取る女がゐて、客の相手をして、楊弓をともに引きなどして客をもてなすのであつた。弓を持つのは左の手をもつてするのが正式であるのだが楊弓場の女はなるべく弓を右の手に持つて射るやうに教へられるのだと聞いた。それは客と向ひ合ひになるやうにするためであつたのであらう。
 明治十六七年ごろであつたろうか、下谷の佐竹の原が開けたが、そこへできた大弓場の女で右の手で弓をとるものを見たことがある。思ふに、前記の楊弓場の女と同じ理窟であつたのであらう。
 これ等の楊弓場が後の酩酒屋の前身だといつて宜しいであらう。市中の酩酒屋なるもののできたのは明治二十五六年頃だと思ふ。横浜のちやぶ屋なるものの制度の東京へ侵入して来たものと見るべきであらう。
 まだ明治十五六年頃までは、根津に遊廓があつたと記憶する。藍染橋までのところは両側に引手茶屋があつて、そこから北が女郎屋であつた。元より今のやうに道が真つ直ぐに団子坂下へと抜けてゐるのではなかつた。藍染橋からものの三町と行かぬうちに突き当りになつてゐたと思ふ。それから先きは田だの畑位になつてゐたのであらう。その時代には根津から団子坂へ行くには、権現の裏門から行く小さい現今の路によるほかはなかつたのだ。
 明治二十年ごろにはもう菊人形が盛んになつてゐたらうと思ふ。
 この時代の末期までは、まだ吉原が可なり富裕な紳士連の遊所としての勢力を維持し得てゐたらうと思ふ。娼妓があの鼈甲の簪を幾つもさした姿で店を張つてゐる店も幾軒かあつたのではなからうかと思ふ。明治三十年ごろになつては、娼妓にさういふ昔ながらの姿をさしてゐたのは龍ケ崎といふ店一軒きりのやうであつた。
 芸者町は、この時代では、赤坂さへまだ幾らも発達してゐなかつたであらう。溜池その他山王下の池が埋られたのは何時ごろのことか今記憶してゐないが、あの辺の発達はその後のことである。神楽坂も富士見町も少くとも此の時代の後期になつて擡頭しだしたものと見てよろしからう。
 この時代の前期には待合といふものはまだできてゐなかつたかと思はれる。まだ船宿の時代であつた。料理屋で客を泊めたのもあつたらしい。さういふ隠れ座敷の残つてゐるのが、明治三十年ごろまではあつたやうに聞いてゐる。

 この時代の初期の交通機関は唯人力車とガタ馬車があつたのみであつた。いふまでもなく、人力車は護謨輪なんぞは思ひも寄らぬ。金輪でバネも悪かつたのだが、それでも吾々はさう乗り心地が悪いとは思はなかつた。遊廓通いの車は高台と称して、梶棒を上げると、客の身体がうしろへ落ちて、膝頭が上へあがるといふやうな風に、腰を掛けるところの勾配を作つたものであつた。これは車夫が早く駈け得るためであつたのであらう。滝夜叉だの、自来也だのを悪どい色彩で背に蒔絵した二人乗は直になくなつたやうに思ふのだが、普通の一人乗と同じ無地の塗りの二人乗は明治三十年ごろまではまだ余程残つてゐた。
 ガタ馬車はいはゆる円太郎馬車であつた。極めて粗造な木造の車体へ真黒に汚れた母衣をかけたもので、馬は二頭であつたかと思ふ。馬丁が短い角形の喇叭を吹いて行人を警戒するのであつた。本郷通りなどでは夏はさういふ馬車の馬が斃れた。或る時は、馬が外れて、四町目あたりの薪屋の前に積んであつた薪の山へぶつかつて、馬が崩れ落ちた薪の下へ埋られたやうになつたことなどもあつた。
 円太郎といふ名称の起りについては二三説があるやうであるが、橘家円太郎といふ落語家が高座で馬丁の持つてゐたのとおんなじの喇叭を吹いて、馬丁の真似をしたので、その名称が起つたのだらうと僕は思ふ。
 前記の本郷通りをとほつた馬車は、筋かひ即ち今の白梅のあたりから板橋へ通ふものであつた。その他には浅草から千住の方へ通ふもの、両国あたりから市川の方へと向けて通ふもの新橋から品川方面へ向けて通ふものといふ風に、三系統があつたのであらうと思ふ。
 鉄道馬車のできたのはこの時代の前期であつたやうであるが、新橋から大通りを上野へ出で、浅草を経て、浅草橋に至り、それから本町三丁目をとほつて、大通りの線に入るといふだけの部分しきや通じてゐなかつた。二十二三年ごろでさへ、新橋品川間はまだガタ馬車が通つてゐるのみであつたと記憶する。車体は前の円太郎よりは余程よくなつてゐたけれども、動揺は随分烈しかつた。トラックの円太郎自動車に決して劣らないくらゐ揺れたと思ふ。
 九段下から両国へと通ふ赤塗りで馭者台の可なり高くなつている馬車の始まつたのは、この時代の後期であつたかと思ふ。これはオムニバスといつてゐたやうに記憶する。これは鉄道馬車が柳原を通ふやうになると、直きに廃止された。
 大官、貴族は箱馬車を自用として持つてゐた。また、ドツグ・カアトをもつてゐた紳士も少くはなかつたかと思ふ。
 自転車もこの時代に輸入されたかと思ふのだが、無論三輪車であつた。この時代の末期に近い時分であつたらうと思ふのだが、直径五尺もあらうかと思はれさうな大きい輪と直径一尺には足らなかつたと見えたやうな小さい輪の附いた自転車が行はれた。これは実用的のものではなくして、青年などが慰みに乗るものであつたやうだ。下谷辺にそれを借す家があつたらしく僕の友だちなどで、それを乗廻したのがあつた。
 隅田川を一銭蒸気が通ひだしたのは何時ごろであつたかよく記憶せぬが、明治二十二三年ごろにはもう確に通つてゐたやうに記憶する。
 
 次ぎには、順序が少し変になつたが大人の遊戯、勝負事のことを書いて置かう。銃猟は無論流行した。仙石貢氏等の大学生時代──明治十四年ごろか──には度々友人等と猟に出たといふやうな話を聞いてゐる。玉突も可なり行はれたやうであつた。花札が広く売られるやうになつたのは、明治十七八年頃かと思ふ。この勝負事は、上方から移入されたものといつてよろしからう。小さい射的の店が諸所へできたのは明治二十年頃かと思ふ。
 競馬は横浜の根岸が元で、不忍池の周囲が埋められて馬場が出来たのは明治十六七年頃かと思ふ。
 明治十八年頃までは市内の諸所に借馬屋があつた。さういふ借馬屋には何処にも小さいながら馬場が附いてゐて、その馬場を幾往返で幾ら、外へ借りて出れば、一時間幾らといふ風に、料金が極められてゐた。僕の覚えてゐるのでは、団子坂下に一軒、本郷田町に一軒、天神町(数寄屋町寄り)に一軒とさう三軒借馬屋があつた。僕の家が本郷五丁目──本妙寺坂下──に地面を借りてゐた時分、地主が借馬屋をやらうといひだして、僕の父が調馬の仕事を引き受けてやつたことがあるが、それは余り客がなかつた。その時分には、可なりな馬でも五十円位、安いのは十五円ぐらゐなのもあつた。
 子供の遊びは、土や鉛のめんこ、ばい──これをべえといつてゐた──凧、金胴の独楽のぶつつけ合ひなどが重なものであつた。竹馬も無論行はれた、べえは法螺貝を少し長目にした様な小さい貝であつたが、その貝の半分以上を石で叩き欠き、下の部分の横にも少し穴をあけ其所から蝋なり鉛なりを注ぎ込んで重量を附けて置く、それから一方では、盥の上へ蓆なり畳表の古いのゝ切れなりを敷いて、その中を窪みにして置き、べえの下のところへ紐を巻いて、双方から、その蓆の窪みのなかへ独楽のやうに廻し、それがぶつかり合つてはね出された方を負けとするといふ遊びであつた。これは僕などの子供の時分のものであつたのだからさう長く続いたのではなからうと思ふ。とにかく、僕の子供の時分には、玩具屋でべえの貝を売つてゐた。
 明治二十年ごろまでは、初午の稲荷祭も方々で行はれ、地口行燈の幾つも並べ懸けられた路地の奥から、子供の叩くらしい太鼓の音が聞こえて来るのであつた。
 神社の大祭も、明治十五六年頃までは、大抵夏の盛りに行はれたやうであつたが、連年コレラが流行つたがために、何時の間にか秋祭になつてしまつた。まだその時分には、昔の江戸の祭の面影を止めてゐた。牛に引かせた山車、踊屋台、神輿、それにつき添ふ若い衆等の揃ひの浴衣、可なりに華やかで賑やかで威勢のいゝものであつた。神田祭に、娘を吉原へ売つてその金で支度をしたといふ時代には無論及ばなかつたけれども、それでも、一体に祭には随分とはり込んだものであつた。一昨年か去年の六月かに四谷見附で山王の神輿を見たが、皆牛に引かして囃子か何かついてゐた。道路の交通上やむを得ずさうなつたのであらうが、全く隔世の思ひがした。
 その時代でも、子供が樽天王を担いで廻つたのは近ごろと同じであつたが、子供が黄色い麻を襷にしてそれで小さい犬張子、達磨といふやうな玩具を縛りつけ、万燈を振つて飛び歩いたのは、今ではもう古い事のなかへ数へ込んでもよからうと思ふ。玩具屋で万燈を売つてゐなくなつてからもう可なり久しくなるであらう。一葉女史の『たけくらべ』──二十八年作──には子供の祭の時の出でたちが、
 『くちなし染めの麻だすき成るほど太きを好みて、十四五なるより以下なるは、達磨、木兎、犬はり子、さまさまの手遊びを数多きほど見得にして、七つ九つ十一着くるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駈け出す足袋はだしの勇ましく可笑しく……』
といふ風に描いてあるのだが、その時分でも、山手では、さういふ風俗はそろそろなくなりかけてゐたやうな気がする。
 町内の子供が団結して、他の町内の子供の団結と喧嘩して石合戦をしたといふやうなのは、精々で明治二十年くらゐまでのことで、その後は教育の普及と警察の完備と共に、いつの間にか止んでしまつた。
 青年の方でも、熊本の学生と薩摩の学生、薩摩の学生と土佐の学生といふ風に、学生が幾分団体的の喧嘩をするといふやうな風習は、これも精々で十四五年ごろまでのことであつたと思ふ。こゝで、一寸考へさせられることは、その時代は封建殺伐の時代を去ること余り遠くなかつたに拘らず、学生間には刃物を以て人を傷つけたといふやうなことを殆ど聞かなかつたことである。少青年が小刀などを振り廻すやうになつたのは、どうしても明治二十七八年の戦役以後のことである。
 
 明治十四五年頃からこつちの事で注目に値することは、それ等の時代から思潮の上での反動期に入りかけてゐたためでもあらうが、古い行事などの次第に復活しだした状態である。明治の初年には旧弊頑固として棄られた事物がまたそろ/\用ひられ始めたのだ。これは、民衆が一端古い趣味は排けてしまつたもののそれに代るべき新しい趣味は生れて来なかつたので、もとの古い趣味にだん/\と戻つて行くより外はなかつたといふところも余程あつたらうと思ふ。
 要するに、維新の革新は進んだ少数者の進まざる大衆に対する勝利征服に過ぎなかつたので、世の中が落著くに従つて、大衆の方は次第に後戻りをしたといふ形に見えた。
 古い骨董の愛玩、古い行事の復活といふやうなことが眼だちだした。豆蒔きが都門近くの神社や仏閣で行はれだしたのは、少しあとであつたにしても五月幟、雛祭などが、そろ/\広く行はれさうになりだしたのもこの時代である。撃剣、弓術、柔術といふやうな武術の復興が可なり目ざましかつたのもこの時代である。なかにも、老若を問はず誰にでもできる弓術の流行は可なり盛んであつた。市内で、いはゆる大弓場の一軒もない区といふのは殆どないといつていゝくらゐであつた。手のかゝり費用のかゝる流鏑馬。騎射の如きさへ、明治二十年ごろには一度大規模で執行されたことがあつた。
 撃剣も可なりに行はれて、九州の上田馬之助(義忠)、松崎浪四郎などの老大家の名が度々吾々の耳に入つた。
 市中で、骨接ぎ、柔術教授の看板をよく見かけるやうになつた。流派は天神真揚流といふやうなのが多かつたやうに思ふ。講道館の創立も大凡そのころであつたであらう。
 その外、謡、茶の湯、活花といふやうな芸事、易、禁厭、巫子伺ひといふやうな迷信なども、二十七八年ごろに近くに従つてだん/\弘布するやうになつた。
 さて、書き落した建築──家──のことを少し書くことにする。明治二十五年ごろまでは、まだ勿論、洋風の家といふのは実に少かつた。商店などでは、銀座以外には洋風の建築は先づなかつたといつてよかつたであらう。それのみならず、明治十五六年ごろまでは神田の錦町、神保町からかけて、麹町の番町などには、まだ昔の旗本邸の建物のそのままに残つてゐるのが幾つかあつたくらゐであつた。中央大学の起源ともいふべき三菱商業学校──明治義塾──の当時の校舎は大きな旗本邸らしいものをそのまゝ使つてゐた。
 その時分には、住宅難どころではなく、家主難ぐらゐなものであつたのである。借家住宅ならば、山手などにはどこにでもあつたといつてよかつた。それでゐて、まだその上に、家賃五円位な家なら立派な庭が附いてゐるのであつた。いや、全くのところ、今僕の住つてゐる小石川あたりなどでは、庭の無い家を探すとしたら、却つてその方が骨が折れたらうと思はれるくらゐであつた。この辺のその時分の家は大抵門構へであつて、街路から直ぐ格子戸になつてゐる今のやうな家は殆ど一軒もなかつたと思ふ。それほどまでに、市内にも地面に余地があつたのだ。
 街路の照明は、銀座の大通りだけは瓦斯の街燈があつたが、その外の大通りが何うなつてゐたかよくは覚えてゐない。此の時代の瓦斯にはマントルがなかつたと思ふ。家のなかは、銀座の大通りだけが瓦斯を使つてゐた位で、同じ銀座でも裏通りは大抵石油ランプや行燈を使つてゐたやうであつた。軒燈はもうあつたかも知れぬが、まだ一般的ではなかつた。この時代の末期までは、まだ芸者屋とか、町内の鳶頭などの住居には、格子戸のなかに、御神燈と称する可なり大きい円い提燈が下つてゐた。山手などは路が随分暗かつたらうと思ふのだが、今はその感じが殆ど心に残つてゐない。一昨年の震災直後のことを思ひ出してみて、始めて昔の暗さが心にはつきりと分る位なものである。幸ひにして人間は、苦しかつたこと、悲しかつたことを早く忘れるものである。



秋日散策

     渋谷あたりの追憶

 下渋谷の道玄坂の中程から左へ入つたところの丘の上の、名和男爵邸のなかの家に与謝野寛君が住つてゐて、そこを僕が訪ねたのは明治三十四年の冬か、翌三十五年の春かであつたと思ふ。与謝野君はそれから少しして、その近くの崖の下の、廻り縁のある家に越した。千駄谷の徳川邸の西側の方へ越したのは日露戦争の少し前ぐらゐであつたらうと思ふ。
 その時分の文学者の生活を思ふと、今とは全く隔世の感がする。僕などは、とにかく外に定収入のあるみちがあつたので、どうにかかうにか暮してゐたが、文学を職業にしてゐた人々の生活に至つては、全く奮闘の生活、背水の陣といふべきであつた。原稿の売先が僅か二三ケ所しきやなく、その上に、稿料の高もいふに足りないものであつたことは、こゝにいふまでもないであらうが、従つて、社会的にも人として、何等認められて居るのではなかつた。
 新詩社の『明星』は当時の新文学の大きい、華やかな幟じるしであり、吾々若き文学者の奮戦のラリイング・ポイントであつたといつて宜しからう。『明星』が当時の新文学の伝統を支持すると共に、後来の進展に対する足場を作つたことは、何人も疑ひ得ざるところであらう。殊に詩と短歌の部面においての新詩社の大功績は明治文学史上に燦として輝いて居る。
 与謝野君御夫婦はよくまアあのやうな全く惨澹たる生活苦を忍びながら『明星』の刊行を続けられたと思ふ。文学、詩歌に対する熱愛の然らしむるところであつたことはいふまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐と勇気は、今思ひ出すごとに、感歎の念を禁じ得ない。
 僕はこの頃、時々道玄坂下の横町にある古本の即売会を見に行くので、あの辺の変り方に眼を見張ると共に、与謝野君御夫婦の下渋谷時代、千駄谷時代のことを思ひ出して、感慨深きものがあるのである。
 土地の変り方は全く滄桑の変と謂つても然るべきくらゐであらう。宮益坂、道玄坂も、昔は道幅のグツと狭い、もつとズツと急な坂であつたことはいふまでもないであらうが、渋谷の駅ももう少し南に寄つてゐて、昇降口は西の方にあつたやうな気がする。これは駅が大きくなつたために、今のやうになつたのではあるまいか。
 上田敏君と一緒に宮益坂を下りて、与謝野君を訪うたことを記憶するが、坂は両側が生垣になつてゐて、僅かに五六間幅ぐらゐな路であつたやうな気がする。坂の下の踏み切りを越えると、両側は水田であつたやうに思ふ。全く広重などの絵にありさうな地景であつた。道玄坂へとあがつて行くと、坂がいはばおでこの額のやうに高くなつて居るあたりの左の方に狭い横町があつて、それへと曲つて、与謝野君の家に達するのであつた。そして、この路は環状をなして、東の方へと曲つて、渋谷の駅へ達してゐたと記憶する。多分この路は線路を越して、渋谷から目黒の方へ続いて居る路へ合するのであつたらうかと思ふ。
 
 今年の四月二十五日の午後であつたと思ふのだが、渋谷の即売会の帰りに、与謝野君の故宅のあたりを、唯心あてに歩いてみようと思つた。勿論、地図も何も見て置かなかつたので、ただ全くの当てずつぱうの散策であつた。道玄坂を一町程上つて行つてから、左へ下りてみたが、どうも少し昔の路よりは西へ寄り過ぎたのではないかと思つた。勿論、何もかも変つてしまつたので見当も何もつきはしない。
 直に大和田町といふのへ出てしまつた。伊藤旅館といふのは、俳人の伊藤鴎二君のお宅かなどと思ひながら、歩いて行くと、路は少し高くなつて、南平台といふのになつた。これでは、与謝野君の昔の家のところなどは、もうとつくに通り越してしまつたことは確なので、せめて、恵比須の方へ行く谷あひの路へと出ようと思つたのだが、桜丘、鴬谷などといふのがあつて、その先きでやつと、省線にぶつかつた。それを越してからが、昔の路になるのではなからうかと思つたのだが、昔は森だの、薮だのばかりしきや見えなかつたところを、今は何処を見ても、アスファルトの坦々たる路が通じて居るといふ有さまなので、余りの変りやうに、ちよつとぼんやりした形になつて、つい線路の西側を通つて、公会堂通りを経て、恵比須へ出て、田町行きのバスに乗つてしまつた。
 何しろ、もう三十年程たつて居るのであるから、変るのは当然なことではあらうが、吾々には郊外の変革は実に驚くべきものがある。その前三十年間はそんなに変らなかつたと思ふ。少くとも、僕等らが少年時代から壮年時代までの二十年間は、市内でさへも変らないところが幾らもあつたと思ふ。人々が郊外に家を求めだしたのは、先ず明治四十年以降のことと見て宜しいのであらう。その後、大正八九年頃から、市内の住宅難が始まりはしたものの、震災がなかつたら、かうまで郊外の大発展は見られなかつたらうと思ふ。つまり、この大変化は先ず正味十五年ぐらいゐの間のことである。全く急激の変化といふべきである。全くよくもかう変つてしまつたものである。
 与謝野君の渋谷の家を訪ねた時分には、僕は麹町の飯田町、小石川の金富町などに住つてゐたので、牛込から新宿まで汽車で行き(電車にはなつてゐなかつた)それから渋谷まで歩いたものであつた。その路は例の大きな欅の立木で囲んだ家などがあり、また、野草が茫々と生えた野原のやうなところもあつたりして、如何にも田舎路らしい気がして、面白かつたので、代々木で乗換へはせずに、新宿まで行つて、廻り路ながら、甲州街道を少し南行してから、左へ折れて、前記のやうな田舎めいた路をたどつて、道玄坂の下へ出るのであつた。その路も今は変つてゐることは勿論だとは思つたが、それはどんな風になつてゐるのであらうか、ためしに歩いてみようといふ気になつた。それには先ず千駄谷から新宿の方へ向けて行き、渋谷へ向う路のどこかへ出るやうにしようと思つたのだ。
 
 渋谷を歩いた翌日の二十六日には、四谷の大木戸から千駄谷の方へ歩いてみた。

     千駄谷あたりの追憶

 与謝野君の千駄谷住ひの時分には、僕は牛込の弁天町にゐたので、よく与謝野君をたづね、大抵は深夜になつて帰るので、車で送つて貰ひもしたが、徒歩で帰つたことも度々であつた。
 夜なかの一時頃に、千駄谷駅から、御苑に沿うて北行すると、水車があつて、小さい橋があり、それを越して、内藤町へ入つて、大木戸へ抜けるのであつたが、その間が如何にも淋しい路であつた。
 僕はその路を逆に歩いてみるのであつた。大番町の広い大路を横ぎつて、内藤町へ曲がり、真直ぐに行つたが、このあたりは邸が皆綺麗になつたのみで、路の模様は昔のまゝのやうに思つた。路は自然に左へと曲がつて、大番町の大通りへ出てしまつたが、右手に小さい橋がある。池尻橋となつて居る。(古い東京図には沼尻橋となつて居る)その橋の向うは、土地が一段低く谷あひのやうになつて、昔の水車の面影を止めた家がある。橋を越すと、右は御苑の木立で、左は前記の家の板塀になつて居る。このあたりも勿論昔の形を大体残して居る。路はまた、大番町の大通りへ合してしまふのであるが、それから先きが、昔の記憶とは合はないやうに思はれたのである。もとより鉄道線路は少しだら/\上りの坂の上にあつたきりで、今のやうな高架線ではなかつたのだ。それはそれとして、凡そこのあたりにあつた筈だと思ふあたりに千駄谷の駅らしいものは見えないのだ。それで、まアとにかく歩いてみろと思つて、広い路を直行して、右へ曲がり、商店などのある可なり賑やかな通りを西行してから、左折し、神宮の手前から右へ廻つて、代々木練兵場の北口ヘ出たのであるが、僕の昔通つた渋谷への路は神宮に沿うて行く訳になるのであらうとは思はれたけれども、往来止めになつて居るので、引つ返して、練兵場の丘の下を、小川に沿うて、南をさして進んだのであるが、だん/\見当がつかなくなつたので、代々木八幡といふ小田急電車の駅のところから、バスに乗つて渋谷へ出てしまつた。
 昔、新宿から僕などの歩いた路は、どうしても今は練兵場のなかへ入つてしまつて居るのだと思ふ。昔の路は渋谷へ可なり近くなつて来たところに、陸軍の衛戌監獄といふのがあつた。さういふ点から考へると、その路は大体現今の神園町とか、神南町とかいふあたりを通り、刑務所の東を通り、今の宇田川町から、神宮通りへ出て、道玄坂下へ出て来るやうになつてゐたのであらうと思ふ。現今の小田急に沿うた低い谷あひの路ではなかつた。どうしても谷の上の路であつて、監獄のあたりから渋谷の方へ向けてちよつとした坂になつて居つたと思ふ。
 今より二十年ぐらゐ前までは、旧市内からほんのちよつと歩み出すと、全くの田園らしい野景に接することができたのであるが、今はどうして、吉祥寺とか、砧とかいふやうな新市外まで行つたところで、昔のやうな自然の勝つた景観は見られなくなつた。農家は勿論、畑も、田も、何んだかずつと綺麗になつてしまつたやうに見える。

 此の月、即ち九月の十九日の午前、大番町から内藤町、池尻橋といふ風に千駄谷へ向けて行つたが、どうも矢張り駅へは出で得ずに、霞丘といふあたりを通り、池尻橋のところの川の下流であらうと思ふやうな小流を見、原宿、穏田を通つて青山北町へ出てしまつた。その翌日二十日午前には、信濃町から歩いてみたが、やはりなか/\千駄谷の駅へは出ない。どうも駅は昔の位置からは西の方へ移つたやうな気がするので、この日は御苑に沿うて曲がつて居る狭い路をたどつてみたが、今度こそは駅の右手へ出ることが出来た。昔の駅は池尻橋からこんなには離れてゐなかつたと思ふ。路はその時分は駅の右手を通つて、徳川邸に沿うて左折し、そこが住宅地になつて居つた。ところで、線路と徳川邸の間は二尺位の高さの土手で囲まれた空地になつてゐた。与謝野君のうちからの帰りに、森鴎外さんやその外の人々と共に、この路を夜歩いたことがある。日露戦争の直後であつた。森さんが軍刀の●を握つて、こじりが土につかないやう引き上げて、気軽に人々と話しながら、ぬかるみをよけ/\歩いて居られた姿が今もなお眼前にあり/\と思ひ浮かべられる。
 当時の徳川邸は西の方が裏手になつて居つた。そこは茶畑になつて居つたやうであつた。明治二十年か二十一年かの晩秋、徳川邸での流鏑馬と騎射の天覧は、この茶畑になつて居る場所においてであつたらう。その時の騎手のうちでは、今京都に居る小笠原清通氏の外には、今は幾人も残つて居らぬであらう。
 千駄谷の駅が西の方へ移つたものだとすると、徳川邸も西の方へ広がつたものと思はざるを得ないのだが、さうなると、与謝野君の住んで居られたところは、現今の徳川邸の南になるか、あるひは、徳川邸のなかへ入つてしまつた訳かになるのだらう。与謝野君や生田長江君の住宅からは、現今の鳩森八幡は少し西寄りになつて居つたやうに思ふ。それとも、さういふ住宅地は、今の徳川さんの正門前の路を隔てた西の方の宅地のなかになつて居るのであらうか。どうも今の千駄谷駅の位置から考へると、さうではなささうに思へてならぬ。僕は、そんなことを思ひながら、八幡に沿うた路を下り、何時の間にか、渋谷へ向う環状道路へ出て、参宮道を横ぎつて、渋谷まで歩いてしまつた。
 ところで、こゝに一つ僕に取つてわからぬことがある。それは池尻橋の下の川は新宿の裏手を通つて、昔の内藤侯邸(今の御苑)を抜けて出て来る旧玉川上水であつて、赤羽根川の上流になつて居るのであるが、この川が一体どういふ風に流れて居るのであらうかといふ点である。穏田を流れて居るのも、代々木練兵場の西麓を流れて居るのも、同じ川であつて、それが昔の渋谷駅の東を通り広尾へ出で、天現寺を過ぎるといふ訳になつて居るとも思はれるし、文化の江戸図も嘉永の江戸図にも、この川は大木戸のところから一筋になつて居るのだが、嘉永の切図を見ると、内藤邸の西の方にもう一つ玉川上水の分れらしいものが一筋ある。どうも、この流も、どこかで、前記の大木戸からの流に合流して居るのではなからうか。古い郊外図か、五万分の地図でも調べて見たいと思つて居る。



昔の寄席

  一

 雨の音しめやかな夜などに、独り静かに物を思ひ続けて居るうちに、今まで別にそれ程遠い事のやうには思つて居なかつた自分の少年時の事などが、成る程随分前の事であるのに気が附くことがある。
 五十位な吾々に取つては、自分から俺は老人だと思ふことは、甚だ困難である。然し、若い人々は吾々を老人だと思つて居るに違ひないし、又さう思ふのは尤もな事である。
 吾々自身も青年時には、五十位の人を見れば、可なりな老人だと思つて居た。さうして見れば吾々が自ら老人たることを承認するとせざるとに拘らず、若き人々から老人を以て遇せられることは全く已むを得ないことである。
 されば、寧ろ自分も老人たることを承認して、精々古い方へ廻つてしまふ方が、骨の折れぬみちかとも思はれる。
 けれども、小生は生憎余り古い事を知らぬ。高々今より三十年位前のことならば少し知つて居る。これでは、昔物語とするには価値がないわけであるが、又一方から考へると、それでも何かの足しにはなるやうな気もする。近来江戸研究とか、江戸趣味などといふことが云はれだして、幕政の時分の事などは、書物になつて居るものが多いけれども、明治十年位から二十四五年位までの市井の雑事は、江戸研究のなかには当然含まれて居ないのだから、存外文書になつて居ないやうに思ふ。江戸時代の事を調べれば、それで大分古い事のオーソリテイになれるのであるが、知つて居る人の今大分生きて居る明治の事を書いたところで、誰もエラいとは云ひはしないばかりではなく、それは斯う違ふあゝ違ふと方々から槍が出る。賢き今の人はそんな損の多い仕事を買つて出ることは先づしないのだ。然し、さういふ割合に近い時代の事であつても、もう二十年も経てば、大分古い事として取り扱はれるやうにならうと思はれるので、さういふ時代になつた際の参考にもと、吾々の青年時の市井の事を時々書いてみようと思つて居る。
 左に記する寄席の事は、全くさういふ追憶記の一つである。

  二

 落語を何時頃聞き始めたのか、確な年代は今思ひ出せないが、小生の十二三の時分かと思ふ。本郷の大学病院へ出入りの貸本屋があつたが、それは、中脊で何方かと云へば円顔な、道具立てのはつきりした容貌の男であつた。所謂キリリと締つた顔立ちであつたのだ。年齢は幾つ位であつたか、少年の考では確でないが、もう三十近い男であつたやうな気がする。
 断つて置くが、勿論その時分の貸本屋のことであるから、今のやうな活版本を持つて歩く訳では無い。八犬伝、弓張月、水滸伝、三国誌といふやうな木版ものをば背負つて、方々を廻るのであつた。
 その男が落語が旨いさうだと誰かから聞いたので、本を貸しに来た時に、うちの者が大勢で、一つ落語をやつてみろとおだてた。貸本屋はその時二つばかり短い話をした。
 一つは斯ういふのであつた。或る侍が茶店に休んで、婆さんに此の辺には白狐が出るといふことだがときくと、婆さんはさういふことはございませんといふので、侍がイヤそれでは大かた人の説だらうと云つて行つてしまふ。職人がそれを聞いて居て、侍の真似をしようと思つて婆さんにこの辺にはダツコ(脱肛)が出るさうだねと聞く、婆さんはそんなきたない物は出ませんと答へると、職人は、大かた人のケツだらうと云つた。
 も一つは、嫁いびりの姑が、浴衣へ糊のかひ方に就て、無理を嫁に云ひかけて、まだ糊が足りない足りないと云つて、浴衣がごわ/\になつて袖がまるで突張つてしまふまでに糊で固めさせてしまふ。それを着て門口ヘ出て居ると、前の二階から子供が、向うの伯母さんお茶あがれといふ。姑はノリ(糊)がコワくて行かれませんと云つたといふ話である。
 田舎者であり且つ子どもであつた小生には、落は両方とも解らなかつたが、全体としての話の調子だけは何うにか解かつたので落語といふものはなか/\面白いものだといふ印象は受けたのであつた。
 そのうちに、母などが主唱で、寄席へ行くことになつた。初めて行つた寄席は、今の本郷の電車交叉点から切通しの方へ向つて行くと、右に日蔭町へ曲る横町があるが、その角にあつた荒木亭といふのであつた。それは、当時二流以下の寄席であつたらうと思ふのだが、木戸銭は四五銭のところであつたらう。吾々はその時分は敷物代を倹約するために、毛布を持つて行つたやうに覚えて居る。
 荒木亭で何んな話を聞いたのか、大抵今は忘れてしまつたが、その中にたつた一つ記憶に残つて居るのがある。
 酒飲みの爺さんが、娘を売つた金を持つて帰る途中、居酒屋の前を通り過ぎることができなくつて、一寸一杯といふ心算で、入つて飲み始める。所が、あと引上戸のことであるから、もう半分、もう半分とだん/\飲んで行くうちに、たうとうぐでんぐでんに酔つてしまつて、財布を忘れて出て行つてしまふ。居酒屋の夫婦はその財布を隠してしまつて、爺さんが酔が醒めて、財布をさがしに来ても、そんな物は無かつたと云つて渡さない。爺さんはその金がなければ何うにもならない身の上なので、身を投げて死んでしまふ。居酒屋の方は、その爺さんの金で、だん/\店を拡げて、商売が繁昌して可なりな身上になつた。そのうちに夫婦の間に子どもが出来た。乳母を雇つたが、何ういふものだか、皆二三日たつと、ひまを取つて帰つてしまつて、居附く者が一人もない。亭主が何うも合点のいかぬことだと思つて、一と晩ねずに番をして居ると、真夜中になつて、赤んぼがそろ/\寝床を抜け出して鼠入らずから湯呑を取り出して、旦那もう半分と云つた。
 此の話は、爺さんが居酒屋でもう半分々々と云ふところは可笑味で十分笑はせ、財布をさがしに来るところから、調子を引きしめだし、夜中の怪談は十分凄く話して、落のもう一杯で、客を笑はすといふ話し方であつた。
 元より善い寄席ではなかつたので、咄家も善い芸人ではなかつたのだらうが、今の記憶では、何うも話し方が旨かつたやうに思はれる。落を余り聞かないうち、而も子どものうちのことであるから、何がなしに旨かつたやうに思はれたのであるかも知れぬが、しかし又他方から考へると、当時の咄家は中流どころでも、今の咄家より芸がずつと上であつたかも知れないのだ。
 此の話は、その後何処でも聞いたことがない。当時でも善い寄席ではしない話になつてゐたのかも知れぬ。

  三

 所謂怪談ばなしなるものも、当時ではよい寄席には出ないものになつて居たやうに思はれるが、荒木亭には左龍といふのが、懸つたことがある。
 話は、侍が腰元を殺すとか、家来を殺すとかして、その死骸を埋めに行くといふやうなところまで話して、それから、高座と客席の燈を消し、薄暗いなかで、死骸を埋めるやうな所作がある。鬘位は附けて居るやうであつた。そのうち、あつと叫んで、その男が倒れたやうで見えなくなつてしまふと、幽霊がそろ/\と高座の隅から現はれ、烟硝の烟りか何かが裾の方でポツと立つ。時には高座の直ぐ下位へは下りて、引込んでしまふのだ。ハテ恐しい怨念ぢやなアとか何んとかいふやうな白が聞えて、燈がつくのである。
 昔は幽霊が客のなかを歩いたなどといふ話も聞いたのであるが、吾々の時分にはそんな事はなかつた。
 荒木亭に懸つた一座のなかで、今一つ覚えて居るのは、しん粉細工の何とかいふ男であつた。前芸にしん粉細工をやるといふのならば、兎も角であるのだが、これは真打であつて、出来上つたのを、籤引きか何かで客に呉れるのであるから、荒木亭の寄席としての格式も大抵それで知れようと思ふのである。
 荒木亭は明治十七八年頃には最早潰れて居たかと思ふが、その後牛肉屋のいろはになつて居たことを覚えて居る。今はその家は取り崩されて、その地面の一部分に農工銀行の支店が建ち、他の一部分が瓦屋か何かになつて居る。
 日蔭町の岩本は、内部へ近頃入つたことがないので、それは何うかはつて居るかも知らぬが、外部はさうたいして違つて居なからうと思ふ。
 小生は、十三四の時分かと思ふが、岩本へも行つた覚えがある。一人で行つたのだから、大抵は昼席であつたと思ふのだが、聞いた話のなかでは、渋川伴五郎が霧島山で土蜘蛛を退治する話と、姐妃のお百とが記憶に残つて居るのみである。講釈師の名などは覚えて居ない。
 講釈専門の寄席は本郷近くでは、上野の広小路に本牧亭といふのがあつた。これは今の鈴本の筋向うあたりであつたから、今何んとかいふ蕎麦屋兼料理屋になつて居るあたりにあつたのではなからうかと思ふ。
 神田の白梅はその当時は位置が好かつたので、眼に立つ講釈席であつた。小柳のある町はその時分は横町であつたので、講釈好きの人が知つて居るだけであつたらうと思ふ。
 白梅は今はもう講釈席ではない。此の頃は、多町あたりでも、白梅へ行くとは云はずにしらんめへ行くと云ふのださうだ。時世の変化がこんなところにも窺はれて、微笑を禁じ得ない。
 白梅で憶ひ出すが、明治十二年頃のことだと思ふけれども、白梅の右手の裏を入つたところに茶番狂言の常小屋があつた。
 父の知人につれて行つて貰つたことを覚えて居る。
 掛合話か何かで、侍が亭主と客と二人で庭を向いて話して居るうちに、客が庭をほめると、亭主が植木屋に作らせたといふ。客がさすがに餅屋は餅屋で御座るといふ。亭主はイヤ植木屋で御座るといふ。それでも、客は矢張り餅屋は餅屋で御座るなと感心している、亭主はイヽヤ植木屋で御座ると奴鳴るので、看客は大笑をするのであつた。後は、弥次、喜多が盲按摩におぶさつて川を渡る場と、長兵衛の鈴ケ森が出たやうに覚えて居る。
 近頃その常小屋のことを、人に話しても知つて居るといふ者がない。或はその小屋はその後間もなくなくなつてしまつたかも知れぬ。

  四

 序だから、なくなつた寄席を二つ三つ書いてみようか。本郷の本富士町に伊豆本といふ寄席が出来たことがあつた。位置は消防署の隣のところであつた。出来たのは明治二十二三年頃かと思ふのだが、此の寄席は明治三十一年頃にはもう潰れて居て、あとが甲子飯になつて居て、斎藤緑雨などと、懐中都合の悪い時分に、其所で一二度飯を食つたことを覚えて居る。
 これは伊豆本より後で出来たと思ふが、菊坂に菊坂亭といふのがあつた。勿論格の低い寄席で、源氏節とか、浪花節とかいふやうなものしきや懸らなかつたのであるが、近頃まで商売を続けて居たやうであつた。けれども、今は病院のやうなものになつて居るやうである。
 大横町──壱岐殿坂の通り──弓町の裏に、低級な寄席が出来て居たことを記憶して居るが、これも何時の間にかなくなつてしまつた。
 小石川の初音町に鶯橋といふのが大溝にかゝつて居て、その袂に初音亭といふのがあつた。場末の寄席らしい絵看板などを時々見かけたのだが、今はもうなくなつてしまつたらう。
 麹町の山王町の山王へ下りる角のところに、山長といふのがあつた。これは女義太夫の定席であつたかも知れぬが、今はその跡が薪屋になつて居る。
 九段坂の鈴木写真館の東隣に富士本といふのがあつたが、これは可なりな寄席であつた。今はその跡が仏教の講義所になつて居る。
 小川町の小川亭は女義太夫の定席として、名のあつた寄席であつたが、今は改築されて、天下堂になつて居る。
 下谷の数寄屋町の吹抜といふのは、心持の好い寄席であつたが、何時の間にかなくなつてしまつた。
 旧両国の橋詰から左に、柳橋の方へ出る横町があつて、その角に新柳亭といふ女義太夫の定席があつた。川縁で、裏は大川であつたのだから、一寸、心持のかはつた面白い寄席であつたが、両国橋の架け更へられると共に、彼の辺の模様がかはつて、新柳亭もなくなつてしまつた。
 京橋の南鍋町の鶴仙は風月堂の横町の左側であつたと思ふが、これも今はない。
 麻布の十番あたりであらうと思ふが、福槌といふ寄席があつたが、これももう今はなからうと思ふ。
 日本橋では、木原店の木原亭だの、瀬戸物町の伊勢本などが、名の聞えた寄席であつたが、今は一向名を聞かぬ。或は二軒ともなくなつたのではなからうか。
 斯ういふ風に、なくなつた寄席が随分多いのであるから、新に出来た寄席も大分有るには有るけれども、総数から云へば減つて、増して居る気遣ひはなからうと思はれる。
 けれども、近来では、郡部に近い昔の全くの場末が開けたので、其所には寄席の出来て居ることを見かけることがあるので、或は中央部では減つたが、場末ではふえて居るので、結局総数は三十年位前と同じだといふ訳になつて居るかも知れぬ。

  五

 竹町の若竹へ吾々が行きだしたのは、明治十四年頃であつたと思ふ。
 円遊がステテコを始めたのも、大凡その頃であつた。当時の寄席は一体に入りが今よりはずつと多かつたらう。
 円遊はその時分には、茶番のやうなやり方であつた。円遊が弁慶になり、一座の誰彼が、義経その他になつて、勧進帳の茶番などもやつた。滝夜叉などもやつたかと思ふ。面燈火なども用ひて、なか/\大袈裟なものであつた。入りを取つたのは此の茶番仕掛のお蔭であつたと思ふ。円遊の話は、当時の大家のなかではさう重んずべきものではなかつたのであるが、それでも幾らかの新味は加はつて居た。
『成田小僧』とか、『お初徳次郎』とかいふやうな話は、如何にも円遊に適したもののやうには見えたのであるが、何処となくまだ落著きが悪かつたやうであつた。晩年になると、それがだん/\落著いて来たのであらうと思ふ。
 要するに修行の功で出来上つた芸でなく、才気の芸であつたので後年先輩の伝統的な型が客に忘れられて行くに従つて、円遊の芸の長所が客の胸に善く徹するやうになつたのであらうと思ふ。後年には、円遊の話は如何にも当意即妙で面白いといふので、御座敷などが多かつたやうに聞いて居るのだが、さういふ風に頓智を働かすところでもつて、此の人は自分の芸の修行の足りないのを意識的に補つて居たかも知れぬ。
 当時の大真打連は皆続話をしたが、円遊はそれは出来なかつたらうと思ふ。義士の薪割りの話などは、何うもまづかつた。軽い罪のない話だけが、先づ聞けたのであつた。けれども、今の大家連の中へ入れば、ステテコ時代の円遊でも優に名人とでも云はなければなるまいと思ふ。
 当時の咄家は大家は続話で、中家位のところは、大抵音曲を入れるのであつたが円遊の一座の立川談志といふのは、素咄であつた。顔の長い、而も顎が細く尖つて長い男で、克明に話をするのであつたが、それで居てなか/\可笑しかつた。思ふに話は上手であつたのであらう。円遊のやうな才気を基としたムラ芸ではなかつたので、今何ういふ芸風であつたか思ひ出すのは困難である。
 所が、談志も厳密に言へば素咄ばかりで高座を勤めたのではない。話のあとが郭巨の釜掘りといふ踊のやうなものをやつた。郭巨が子を埋めに行くところからやるのだ。先ず座布団を巻いて、それを抱いて何んとかいつてはパア、又何んとか云つてはパアで、子との別れを悲しむ身振りをする。それから、鍬で地面を掘る真似をし、いよ/\釜が出て来たといふので、吃驚した表情から、大喜びの有様にて、帰命頂礼テケレツツのパアといふので、ステテコ形の踊になつて終るといふ、まことに呑ん気極まつたものであつたが、何しろやつて居る当人が大真面目なので、いやにくすぐつて笑はせられるといふ感じはなくて、見て居て決して厭な心持のするものではなかつた。
 呑ん気極まると云へば、円遊一座の橘家円太郎の芸なども、全くたわいのないものであつた。円太郎は顔の如何にも柔和さうな、愛嬌のある男で、人が酒を飲んで騒ぐ真似をして、歌を唄つたり、饒舌つたりして居るうちに嚔をすると、皆がエヽきたないなどと云ふところをやるだけのことであつた。大抵は、馬車の喇叭を吹いて、お婆さんあぶないよなどと、馬丁の口真似をするのだ。眼鏡から板橋へ通ふ馬車などは実に危険だと思はれる程構造の不完全な、そして、幌などの殆ど襤褸のやうに見える、今日では殆ど想像のできぬやうなものであつたが、さういふ馬車は円太郎馬車と呼ばれて居た。此の名称は円太郎がさういふ馬車の真似を高座でしたのから起つたのであらうと思ふ。円太郎は柔かにふとつた脊の低い男で、如何にも円いといふ印象を人に起させる体形及び表情の人間であつた。
 ヘラ/\坊万橘といふのも居た。此も小柄な何方かと云へば丸顔の男であつた。けれども、円太郎のやうに円満に円くはなく、幾らか骨張つて居た。先づ赤い布片で頭を包んでその余りを頬冠りのやうに下へ持つて来て、顎の下で結び合せ、扇を開いて、『太鼓が鳴つたら賑だアね、ほんとにさうなら済まないね、ヘラヘラヘツタラ、ヘラヘラヘ』といふやうな言葉に節を附けて云ひヘンな横眼を使ふやうな眼附をして湯呑を取つて湯を飲んだりするのである。歌は『太鼓が鳴つたら』のかへ歌として『大根が煮えたら、柔かだアね』といふのもあつた。囃子は太鼓と三味線でも使つたかと思ふ。
 円遊一座の如きは、当時の大家の一座に比べると、幾らか俗な方であつたのであらうが、それでもさういふ俗ななかに、何処か呑ん気な泰平の気分が表れて居て、面白いものであつた。
 先代の遊三も此の一座であつた。芸は後年の風と素質に於てかはつた所はない。矢張りヨカチヨロをやつていたのである。
 或男が、女房を貰つたところが、その女房が亭主の寐息を窺つては、毎晩何処かへ出て行く。亭主はそれと気が附いて、或晩、そつと後を附けて行くと、女房は或寺の墓場へ入つて、新墓を暴き、死人を引きだし、その腕を喰つた。亭主は驚いて逃げて帰つて慄へて居ると、女房も直ぐ後から帰つて来て、亭主の様子で後を附けられたことを覚つて、笑ひながら、自分は一度病気であつた時に、或人が妙薬だ、と云つて、何んだか分らぬ肉を呉れたが、それを食うと、病気は直きになほつてしまつた。あとで聞くと、それは人間の肉だといふのであつたが、その味が忘れられないので、時々斯うして夜出て行くのだと云つた。亭主は、弱いことを云つては、自分も喰はれてしまふかも知れないと思つたので、イヤ俺だつて若い自分は親爺の臑をかじつたと云つた。
 此の話は、遊三がやるのを聞いたことがあるのだが、その後は誰がやるのも聞いたことがない。寄席での話に対する取締りが厳しくなつてから、勿論斯ういふ話はできなくなつたのでもあらうか。

  六

 若竹で聞いた咄家の中では五明楼玉輔(先代)といふのを懐い出す。中脊の痩ぎすな、少し気取つた男であつた。咄家としては、漢語なども少し使へた方であつたやうだ。続話をしたやうに思ふのだが、偖何んな話をしたのであつたか、覚えて居ない。『写真の仇討』といふのがお箱であつたらしいのだが、玉輔がニユウ・ヨオクのことをばニユウ・ユウルクと云つたと云つて、吾々が笑つたことを記憶して居るのだから、『写真の仇討』の一部分位は聴いたかも知れないが、何うも確でない。
 玉輔の一座で何ういふ咄家が出たのか、それは少しも覚えて居ない。片目の今輔を見たのはずつと後のことだと思ふ。
 此の間、新聞を見ると、或咄家が、『わたしの親爺は歌にまで唄はれた桂文治です』と云ふと、客がそんな咄家があつたかねえと云つた。今の寄席通なる者は大抵そんなものだから、仕方がないといふやうなことが書いてあつた。
 成る程『桂文治は咄家で』といふ歌のやうなものを聞いた覚えはあるが、全体の文句は一寸思ひ出せない。
 桂文治は確に咄家であつた。所謂芝居話をするのであつた。何つちかといふと小柄な、眼附の鋭い、如何にも鯔脊な男であつた。
 或男が、他の男の妾のところへ行つて酒を飲んで居ると、その旦那が来て双方甚だバツの悪いことになる。旦那は、その男の額へ湯呑をぶつつけて傷を負はす。それで、男は出刃か匕首を持つて、復讐に出かける。そこで後の引幕を落とすと、吉原らしい遠見の書割になつて居る。或はそれもさういふ景色を書いた幕であつたかも知れぬが、兎に角、文治はその前で上着を肌脱ぐと、弁慶か何かの粋ななりになつて、立膝で立廻りの身振をするのであつた。
 外の話もしたであらうが、小生はその話だけしきや覚えて居ない。而も、この話は二度位聞いたやうに記憶して居る。
 禽吾楼小さんは、極く小柄に見える、顔が狆に似たやうな男であつた。小さんは続咄はしなかつたのであるが、円遊の話などより余程諷刺が強くこたへるやうな話し方であつた。小さんは雄弁とも云つても宜いやうな咄家であつた。『五人廻し』などでは、可なりに旨く漢語を使つた。けれども、『将棋の殿様』『お蕎麦の殿様』などが最も客受けのする話であつた。今日の咄家では、殿様の話のできるものは一人もあるまいと思ふ。侍らしい侍を出し得るものは、円右唯一人であらう。『目黒の秋刀魚』も小さんの話ではなかつたかと思ふ。何うも小さんの話を聞いたやうな気がする。
 団洲楼と云つた燕枝は当時の大看板であつて、これも一二度は若竹で聞いたのだが、何んな話であつたか、今少しも記憶に残つて居ない。品のある咄家とは思はれたが、何うも話はそれ程上手ではなかつたやうである。『島鵆』の一部分でも聞いたのであらうと思ふけれども、一向に憶ひ出せない。
 春風亭柳枝は、体の肥つた一寸遊人といふやうな感じのする男であつた。話は博奕打のことであつたやうに思ふが、これも今記憶に残つて居ない。柳条だの、司馬龍生などといふ咄家は、可なりな看板であつたやうだが、さう話は旨くはなかつた。
 たしか円馬と云つたかと思ふのだが、可なりな商店の旦那とでも云ひさうな品格の、もう好い年配の肥つた咄家があつたが、水茶屋の娘に旦那が出来たが、それが掏摸であつたという話を二三度聞いたことがある。此の話は近頃になつて速記本で見たことがあるから、講釈の方などでも、此の話をやるかも知れない。
 円橘が橘之助をつれて上方から帰つて来たと云つて、若竹にかゝつたのを聞きに行つたことがある。円橘は肥つた柔和さうな、可なり年をとつた男であつた。何んな話を聞いたのか、今は覚えて居ない。橘之助は痘痕があるかと思はれるやうな顔の肥つた女であつた。今の橘之助よりは器量が悪かつたやうに思ふのだが、同じ人であるのであらうか。
 円生は当時大家であつた。骨太の、色の白い、顔附の凄い男であつて、話にも強味があつた。博奕打が欺かされて呼び出されて、途中で要撃されるといふ話を二度聞いたやうに思ふ。或人は円生の『鰍ケ沢』が面白かつたと云つたが、成る程あゝいふ話は得意であつたらうと思はれる。
 吉原の松人といふ女郎が病気になつて、楼主の虐待を憤つて火をつける話を聞いたことがあるが、此は円生の話ではなかつたと思ふ。可なり深い仲の客が来て居て、それに松人が天上裏へ火の附いた着物か何かを上げてあるから今に火事になると話すところが可なり物凄かつたと覚えて居る、吉原に『松人火事』といふのがあつたが、話はその謂だといふのであつた。
 明治二十年頃であつた思ふのだが、円朝を唯つた一遍若竹で聞いたことがある。如何にも落著いた正々堂々たる話し方であつたが、余りに平凡な教訓的な言葉が混つたので、客が冷かしだして、話が面白く聞けなかつた。円朝は可なり体の大きい男であつたやうに覚えて居る。
 伯円も一遍若竹で聞いたことがある。話のなかで鶴の講釈が始まつて、伯円が頭の赤いのを丹頂といふのだと云ふと、客が頭の光るのは何んだと云つた。伯円はそれに構はずに話を続けようとすると、客は尚頭の光るのは何んだと云つた。伯円は怒つて、そこ/\に話を終つてしまつた。何んな話であつたのか、何んな話し方であつたのか、少しも覚えて居ない。唯伯円が脊の高い、頭の禿げた男であつたことが記憶に残つて居るのみである。

  七

手づま師では、柳川一蝶斎も見たことがあるが、帰天斎正一が西洋流の手づまでは大家であつた。正一はまづいながら講釈もやつた。托塔天王晃蓋が何うとかしたといふ水滸伝の講釈を一遍聞いた覚えがある。正一は手づまの外に幻燈をやつた。今の活動写真から見ると、隔世の感が深い。西洋の大きい家から火事の出るところだの、或景色が夕暮になり、全く夜になつて、月夜になるところなどを見せた。火事などは、烟と火は見えるのであるが、建物は何時までたつても焼け落ちない。これは、建物の絵はそのままで、煙と火の板のみが動くやうになつて居たからである。それでも、天一の幻燈は当時では、さういふ活動式のところがあつて珍しかつたのだ。
 明治二十年頃にはジヤグラ操一といふのがあつた。これは天一よりはもう少し新式な、もう少し規模の大きい手づま師であつた。しかし、咄家気分といふやうなものは、正一の一座の方に夐に多かつたと思ふ。
 十人芸とか称する西国坊明学といふのが、上方から来たことがあるが、これは大きな盲坊主であつて、義太夫もやれば、琵琶もひいた。琵琶は今でいへば筑前琵琶のやうなものであつたやうである。客に謎を掛けさせて、三味線を引きながら、解を歌ふやうにして云ふのであつたが、これは上方では古くから座頭のやる事であつたやうに聞いて居る。
『縁かいな』の徳永里朝も見たことがあるやうには思ふのだが、確な記憶はない。
 明治十八九年までは、寄席では女義太夫はそれ程勢力を持つに至らなかつたので、寄席へ出る女の芸人は女義太夫でないものの方が多かつた。
 円遊の一座であつたか、何うか明かには覚えて居ないが、宝集家金之助といふ年増の常磐津語があつた。出額ではあつたが、眼のはつきりした可なり好い器量の女であつた。『檀特山』だの『富山』などを聞いたことを覚えて居る。
 鶴賀若辰といふ新内語りがあつた。極く低い声で語るのであつた。若辰は、肥つた、三十を余程越して居るかと思はれるやうな盲目の女であつた。
 近頃死んだ紫朝の新内の声を思ひ切つて殺すやうなところが、若辰の全体であると思へば間違ひはないのだ。
 岡本宮子のことは、嘗て拙著『葉巻のけむり』の中に書いたが、当時女で兎にも角にも真打として客を呼んだのは、宮子一人であつた。岡本浄瑠璃といふのは、新内の一派であるらしかつた。『継子いじめ』などをやるのは、他の新内とかはりはなかつたが、『須磨の組討』などをやるところが、岡本派の特徴であつたのではなからうかと思はれる。
 聞くところに依れば、長谷川時雨女史が、先頃或る雑誌へ宮子のことを女義太夫として書かれたといふのだが、宮子は女義太夫のまだ流行らぬ時分の女芸人で、而も真打であつたのであるから、そこが一寸面白いのである。若い女であつて、芸は何うせヨタであつたのであらうが、器量のお蔭で人気を集めて居たのだ。寄席芸堕落の徴候が、もうその時分から見えて居たやうにも思はれるのである。
 宮子は後に禽語楼小さんの妻になつたとか聞いたのであるが、小さん死後落魄し脚気の為に、本所の何処かの路上に倒れて居て、養育院へ送られたといふ新聞を見たのも、もう十年以上前のことである。
 要するに、明治三十年頃までの寄席はあらゆる平民芸術の演ぜられる壇上であつた。男の義太夫でも当時は平民芸術であつた。先代越路の如きさへ寄席へ出た。木戸は高くなつて精々二十銭位であつた。呂昇、長広などは無論寄席へ出た。
 大芝居で五円近くの木戸で義太夫が興行されたり、金ピカの劇場で落語や講釈を聞かされたりするのも、時勢の進歩には相違なからうが、木戸銭が高くなり、興行場が立派になつた割り程には、芸が上手になつたやうには思へない。
 客の趣味の低劣になつたことは一般である。けれども、有楽座などのお客の方が落語の妙味を解せざることは、寄席の客以上であるやうに思はれる。寄席芸人はまだ寄席に於てはその芸の権威を持して居ることができるやうである。寄席芸人は寄席の壇上で骨を折つて貰ひ度い。蝋燭を両方へ立てて薄暗いやうな高座で、時々蝋燭の心を切りながら話すといふやうな気分で、落語の全体が出来て居るのだ。それを電燈の光眩ゆき金ピカの壇上へ引ずり出しては、何うも大分調子が違ふやうである。
『貞婦伝』といふやうなビラが下がつたので、おや/\と思つて居ると円右が『芝浜』を話しだすといふのでは、余りのことに苦笑もし兼ねる。
 それから、何んぼ可笑味を主とした落語であつても、一語一句が皆笑ふやうに出来て居はしない。笑ふには、笑ふべき要点があるものだ。それを咄家が口を開くや否や、笑ひ始めて、しまひまで笑ひ続けるといふのは、話を聞く方式ではない。而も、有楽座の客などにさういふのが甚だ多い。
 咄家がさういふ客に向つて話をするのを光栄とするやうでは、甚だ心細い。彼等は寧ろ退いて、華かならぬ寄席の高座で、伝統ある芸を演じて、誠実な聴き手を待つべきである。



文化の変遷と寄席の今昔

     寄席対小劇場

 僕等の少年の時分には、寄席は平民娯楽場の中心であつたのだが、現今では、さうではなくなつてしまつた。
 昔でも、寄席以外に娯楽場の種類が幾つか在つたには在つた。が、その一つは各所に在つた小劇場である。近頃まで在つた中洲の真砂座とか赤坂演伎座とかいふのも、小劇場には相違なかつたのであるが、僕のいふ昔の小劇場なるものは、もつとずつと小さい、全くの平民的劇場であつたのだ。僕の知つて居る限りで云へば芝の森元座、二長町に在つた何んとかいふ座と、向柳原の開盛座などが盛な方であり、もつと小さいのでは、赤城下に殆ど列んでゐる位の近い位置に全くの小芝居が二軒あつた。僕はその時分は、弁天町に住つて居た親類の老人のところへ漢文を習ひに本郷から毎日通つてゐたので、その小芝居の前を通つて、『八陣守護城』とか『二十四孝』とかいふやうな、悪どい程色彩の濃い絵看板を見かけたことがある。
 けれども、さういふ小芝居の客はずつと俗な連中──重に女、子供と云つてもよかつたらう──であつたので、寄席──小さくとも中流以上のもの──がさういふ小芝居に影響されるといふことはなかつた。
 中等どころの劇場が大入場を拡げだしたのも、二十二三年以後のことである。当時の春木座──今の本郷座──の前身で、大阪の鳥熊と称する男が、可なり安い芝居を興行しだした。役者は芝鶴、鯉之丞、勘五郎などといふのが重立つた役者であつた。けれども、極めて変つてゐたのは看客待遇法であつた。鳥熊は先づ大入場を思ひ切つて広くした。それから、面白いことには客の下駄の掃除をした。
 即ち、雨天の日など、泥まぶれになつてゐる下駄の歯をば、下足の方で、客の帰る迄に、すつかり綺麗に洗つて置くのであつた。
 さういふ興行法が大いに当つて、毎日大入をしめた。何しろ、その時分、春木座を一日見物するには、何うしても、一円以上はかゝつたのであるが、二十銭もかゝらぬ位で見られるのであつたから、あの近傍の人に取つては一種福音の観があつた。
 が、それでも、それが為めに、若竹あたりは、さう大して打撃を受けたことはなかつたらうと思はれる。
 さういふ小芝居若くは中芝居へ行く客は、濃厚な娯楽を求める連中であつて、もつとあつさりした、軽い気の利いた寄席の芸を賞翫する連中とは、少し種類を異にしてゐたと思ふ。それに芝居の方だといふと、時間等の関係もあつて、さう誰でも行くといふ訳には行かなかつたのである。
 それから芝居の方は何分時間が長いのであるから、弁当がいるとか何んとかいふことになつて、寄席より少しは費用を要したやうにも思はれる。要するに、芝居の方は、何んと無く出入が億劫であるやうに大抵の人は感ぜられてゐたのである。
 夜間、即ち、大抵の人がもつともひまになる時間に於て、手軽な娯楽の場所と云つては、寄席より外にはないと云ひ得る時代であつたのだ。
 先づさういふやうな点でも、昔の寄席は、他の娯楽機関に対し、競争を容さぬやうな優越な地位を占めてゐた。これが、当時の寄席が大抵何処も繁昌した一理由であつた。
 
     昔の寄席には権威があつた

 その時代に於ては、人々の知識の程度、趣味の程度が、大凡平均してゐたやうに思ふ。
 その時代には、東京の人口が今日程多くなかつたことは勿論であるが、それは、地方人が今日程多くなかつたといふ意味になる。即ち、その時分は東京が今日のやうに地方人に征服されてゐなかつた時代であつたのだ。それ故に、その時分では、地方人は、直きに東京人の感化を受けて、可なり急速度に東京人に近づいて行くのであつた。思ふに、その時分東京へ出た地方人は重に知識階級であつたので、その趣味に於ても、東京人とさう甚しく違つはゐなかつたのであらう。さういふ風で寄席などの芸は、東京趣味、東京人的知識に訴へるものでありさえすれば宜しかつたのである。
 芸人の方からは、解らないところがあれば、それは客の方が悪いのだといふ考へでやつて差し支へがなかつた。謂はば芸人の方に権威があつたのである。
 又客の方から云へば奇抜とか斬新とかいふものを、只管に求めるといふまでに、それまで在つた物に不満足は感じてゐないし、又何んでも新しい物を要求するといふやうな向上的憧憬は持つてゐたのではなかつたのだから、自分たちの持つてゐるだけの知識、趣味に合致するものであれば、満足するのであつた。言葉を換へて云へば、当時の客は一種のエキスペクテエションを持つて、芸を見、そのエキスペクテエションに合致するものであれば、それでもう十分満足するのであつた。勿論、芸に対して、看客の方で或る固定したエキスペクテエションを以て臨むといふことは何時の時代でもあることであるのだが、演ぜられる芸とそのエキスペクテエションが合致するかしないで、問題がいろ/\になるのである。
 寄席で演ぜられる芸のうちでは、云ふまでもなく落語が重なものであるのだから先づ落語に就て云ふことにするが、当時の聴客には落語は全体としてよく理解されたのである。落語が大成されたのは、明治十四五年頃から見て、さう古いことではなかつた。その時分を去ること精々で三十年位前と云つて間違ひは無かつたらう。いや、実際はもつと近かつたかも知れぬし、話によつては、慶応年間若くは明治の初め位に作られたものも、幾つかあつたかも知れないのだ。いやそれどころではなく、円遊の話の如きその時分出来上りつゝあつたものさへあつた位である。さういふ訳で、落語の中に出て来る人物の身分とか気質とかいふものは、咄家なり、客なりが実見したものではないにしても、大体想像だけはつく位、落語が作られた時代と明治十四五年頃──或は二十年頃でも──とは接近してゐたのである。いや、時としては、落語のなかに出て来る商家の旦那とか、若旦那とか、権助とか、お爨どんとかいふやうな人物の気質を、多分に具備した実際の人物を見ることさえあつた時代であつた。
 だから、さういふ方面だけで云へば、少くとも明治二十年位までにあつては、落語は大部分当時の風俗の写実であつたと見られぬこともないのである。
 それから侍などに就ても、侍といふ生活を実際やつた人々が、可なり多く生存して居た時代であつたことは勿論である上に、極く若かつた吾々さへもが、その侍であつた人々の子、即ち、さういふ侍であつた人々の直ぐ次のゼネレエションであつたのだ。それで、所謂侍なるものに対しても、吾々は相当の理解や、想像を持つことができ、従つて余程の親しみを持つことができたのであつた。
 その外、家屋の工合でも、衣服道具などに至つても、封建時代のものと、さう大した違ひはなかつたのである。いや、前時代の典型的な住家的建物の残つてゐるものさへ少くなかつたのである。日常は用ひなくなつてゐた物でさへ、その物だけは吾々の眼に触れることが珍しくはなかつた。例へば日本馬具だとか、行燈だとかいふやうなものの如きは、実際用ひてゐるのを見掛けることさえあつた位であるのだから、唯の古道具として見かけることなどは、全く屡々のことであつたのである。その他の風俗、習慣の如きも、消え去つたものでさへ、大抵は何んらかの痕をまだ残してゐたのである。
 要するに、吾々の青年時代にあつては、落語の材料は今日のやうに既に死んだもの若しくは死にかゝつてゐたものではなくして、十分に生きてゐるもの、若しくは可なりに息の通つてゐるものであつたのだ。
 落語家自身の方から見ても、話そのものの雰囲気なるものは、個人として落語家その人を取り巻いてゐた雰囲気とさう甚しき相違はなかつた。即ち、彼等は、話のなかでのみ自分の生きてゐる時代とは全く異つた時代、自分の接触してゐるのとは全く異つた世界へ入つて行かなければならんといふのではなかつたし、又自分等が実見してゐるのとは全く異つた種類の人間にならなければならんといふのではなかつたのである。謂はば、落語家は地のまゝで芸を演じ得られるといふ傾きであつたのだ。
 さういふ風で、芸人と客との間で知識趣味の範囲が、大凡極つてゐたのであつて客のエキスペクトしてゐるところへ、芸人の芸が一々嵌まつて行き得る訳であつたのだから、芸人の方も芸がしよいのであつた。即ち芸人が自信を以て芸を演じ得られたのであつて、客の方も、安心して、心持好く芸を鑑賞し、享楽することができるのであつた。
 寄席芸人を芸術家といふ風に尊敬するといふ時代では勿論なかつたし、芸人自身も人間としてさう大したプライドを持つてゐたのではなかつたが、実際上当時の寄席芸人は卑俗な下等な人間として客から見られてゐたのではない。即ち、客が心の底からさう軽侮してゐるのではなかつた。客から見て全然賤しいおもちやといふのでもなかつた。口では成る程寄席芸人とか、鹿とかいふやうな風に、軽侮的な言葉で以て呼ばれてゐたのであるが、客の心の上で芸人の占めてゐた位地は決してさうまで賤しいものではなかつたのである。
 少くとも、滑稽とか、頓智とかいふやうな領域に於ては、彼等が一種のオラクルであつた。客はさういふ点では、確に芸人から教へられるところが多かつた。彼等にはさういふ点で権威があり、客も冥々のうちにさういふ点に対し一種の尊敬を以て、彼等を待つたのである。
 当時の寄席で演ぜられた芸は、殊に落語は、内容的に云つて、当時の東京趣味を具体化したものであり、且つ前に云つた通りの客の性質であつたので、当時の落語は東京趣味の具体化であり得たのである。
 当時の落語家は、自分等のハアトに何等の親近性を持つてゐないことをば、唯仕来り通りにしやべるといふやうな鸚鵡芸人ではなかつたのである。又、さうでなくて済み得たといふ有利な位地にあつたのである。
 大凡これで察せられるであらうが、当時の寄席の社会上の位地は高かつたと云つて宜しからう。前代の越路などは東京では寄席を打ち廻つたものであつた。
 以上に説明した点が、昔の寄席の盛であつた第二の理由であると思ふのである。

     古き寄席の思い出

 まだ、その外には、交通の不便などがあつて、短時間のうちにさう遠方まで遊びに行くことはできなかつたので、人々はその住居の最寄々々で、娯楽の場所を求めなければならなかつたといふのも、寄席繁昌の一理由であつた。
 各所に小さい寄席があつたのは、重に此の理由で説明ができると思ふ。
 泉鏡花君が『三味線堀』のなかに書いて居られるやうな寄席は随分方々にあつた。僕の記憶しているだけで云つても、本郷の田町から、小石川餌差町へ渡るところは小石川側は大溝になつて居て、鶯橋といふ小さい橋がかゝつて居り、その袂に初音亭といふのがあつたが、それなどは、全く僅にその辺だけの客をアテにしたものであつたらうと思はれる。
 小さい寄席では、本郷の消防署の西隣に伊豆本といふのが、明治二十二三年頃に出来たことを記憶する。近頃まで在つた菊坂町の菊坂亭は伊豆本より少し後に出来たやうに思ふ。
 今日では、寄席の数は市内全体では余程減つてはゐはしまいか。麹町の山長も富士本もなくなつたし、両国の新柳亭、小川町の小川亭、池端の吹抜、麻布の福槌、京橋の南鍋町の鶴仙、日本橋木原店の木原亭、瀬戸物町の伊勢本、など可なり名のある寄席であつたのであるが、それ等も何時とはなしになくなり、神楽坂の藁店亭の如きも、広く知られて居た寄席であつたが、これは御承知の通り活動写真館になつてゐる。
 根津の入口あたりにも一軒あり、駒込の蓬莱町あたりにも一軒あり、牛込の弁天町にも一軒あつたが、それ等は、今はもうないであらう。
 東京の人口が激増して、郊外や場末まで可なり賑かになつたので、意外なところで、寄席的興行の看板を見かけることはあるのだが、それが、寄席的に興行して居る家なのか、何うも確でないやうに思はれる。
 新開で寄席が出来て、今も取り続いてやつて居るといふやうなところは、余りないやうである。新開では、寄席の代りに活動館が大抵何処にもあるやうだ。
 寄席で僕の今も尚忘れ得ないのは、前記の柳橋の新柳亭である。元の両国橋の袂から、神田川の川岸へ出る横町があつて、その右角にあつた寄席であつたが、大川に沿うて立つて居た家なので、入る時の気分も既に快かつたが、楽屋寄の方へ行くと、川波の音が聞えるのであつた。新柳亭は女義太夫の定席であつた。両国橋が今の橋と掛け替へられた時に新柳亭は取り払はれてしまつたのであらう。

     芸と人格の一致
    
 三十四五年前の落語家には、上手もあつたと共に、実にタワイも無い、殆ど芸とは云ひ得無いやうなことで、高座を勤める者もあつた。けれども、当人もさういふ珍芸をやけ気味にやつて居るのではなく、落著払つて、いはゞ生真面目でやつてゐるのであつたから、客の方でも唯呑ん気に笑つて見てゐることができたのである。さういふのは、一つには、芸人その人の人格の問題であり、一つには又、芸人と客とを包むその場合の雰囲気の問題であると思ふ。
 ヘラ/\坊万橘などといふ落語家は、咄と云つても小咄位なものをしてしまふと赤い木綿ですつぽり頬冠りをし、扇を開いて、『太鼓が鳴つたら賑かだアよ、ほんとにさうならすまないね』といふ歌のやうなものを、太鼓に合せて歌つてしまふと、極めて変な横眼遣をしながら、湯呑の方へ手をやつて、湯呑を取つて、湯を呑み、又今度は『大根が煮えたら柔かだアね・・・・』といふ替歌を歌つてから、同じく前のやうな顔附と、身振で、湯を呑むのであつた。唯全くそれだけのことであつたが、客は、さういふ芸にも飽きなかつたのであつた。
 橘家円太郎も万橘に劣らない無邪気な芸人であつた。円太郎のは、何時も人が集つて酒を飲む光景を話し、そのうちの一人が無暗に歌つたりしやべつたりしてあとでくしやみをするところをやつて、それから、最後に乗合馬車の馭者の用ひるやうな金属の喇叭を出して、それを高く吹き鳴らして『お婆さんあぶないよ』と、馭者か馬丁の声を真似るのであつた。円太郎は顔の円い、体の肥つた如何にも円満な人相の男であつた。
 当時は筋違あたりから、板橋などへは、極く粗末な構造の乗合馬車──幌のかゝつたもの──が通つてゐるのであつて、円太郎の摸したのは、さういふ馬車の有様であつた。さういう馬車は円太郎馬車と呼ばれてゐた。橘家円太郎のさういふ芸からつけられた名であつたらうと思ふ。これなどが、当時の民衆と寄席との間に密接な関係のあつた一例証と見ることができようと思ふ。
『お前もどぢなら、私もどぢよ、どぢとどぢなら、抜けうらだ』といふ都々逸を円太郎は何時も歌つた。
 立川談志といふのも変つた咄家であつた。顔の長い顎の尖つた男であつたが、克明に素咄をするのであつた。極く真面目に話すのであるから、滑稽味もなか/\よく客に徹し、例の『子はかすがひ』といふ話などでは、余程哀れな情味が出たものであつた。談志は、話の後で、郭巨の釜掘りといふのを踊つた。先づ座蒲団を巻いて、それを子どもに見せ、それを抱いて、唐人の言葉らしく、何か何らぬことを云つてはその末にパアと云ひ、又何か云つてはパアと云つて、子を埋めようとする時の悲しみの身振りをする。そのうちに、子どもを傍へ寝かすさまを見せてから、又パア/\云ひながら鍬で地面を掘る真似をし、いよ/\釜に掘り当てた見えで、吃驚した表情や、大喜びの表情をして、『帰命頂礼、テケレツツのパア』といふやうなことを云つて、天地を拝する動作をするのである。やる当人が如何にも実体な人柄で、それが大真面目なのだから、さういふことでも、客は面白がつて見てゐたのである。若し生若い悧口振つた男などが、あゝいふことをやつたのであつたら、嘸ぞ厭に思はれたのであらう。
 本当の大家では、円朝は唯一度しきや聞かなかつた。体格の好い、なか/\品格のある男であつたやうに覚えてゐる。何ういふ話であつたか、それは記憶に止まつてゐないが、咄のうちで一寸教訓的な言葉が出たが、若い書生客から弥次が出たので円朝は真ぐ調子を変へたが、それで少し話の感興が殺がれたやうに見受けられた。唯如何にも落著いた、飾り気を嫌つた、描写式──会話を余り用ひないといふ意味──の咄口であつたやうに記憶する。
 円生は数回聞いた。円生は骨太ではあつたが、痩せた、顔に凄味のある男であつた。博奕打ちが欺されて家を出て、途中で要撃されるといふ話を二度聞いたやうに思ふ。博奕打ちが、綿入れの上から水を冠ぶつて、刃を防ぐ用心をして子分の危難にあつてゐると伝へられた場所をさして、駈けつけて行くと、途中の薮畳から竹槍などが突き出されるといふやうな物凄い光景が、如何にも陰惨の気を帯びて、力強く話されたやうに覚えてゐる。
 松人火事といふ話があつた。それは、吉原の松人といふ女郎が病気になつたが、助からぬことを自分でも知つて、内証の仕向けの酷薄であつたことを恨んで、家へ火を附けるといふ話であつたのだが、松人が病気で寝てゐるところへ馴染の客が来ると、松人はその客に自分の決心を語つて、今その家の天井裏へ火を入れて置いたから、もう直きに燃えだすのだと告げるところが、如何にも凄惨な風に語られたのである。此の話は何うも円生のやつたもののやうに思はれるのであるが、余り確ではない。
 長尾素枝君の話では、円生は『鰍ケ沢』の凄い部分が非常によかつたといふのであるが、成る程それはさうであつたらうと思はれる。
 先代の小さん──禽語楼小さん──男振りは見栄えがなかつたが、それが却つてその芸風と調和して、当人の為めには、損にならなかつたやうである。小さんも極めて生真面目な顔で、可笑しい咄を話す話家であつた。『五人廻』も、此の人が話すと非常に面白みがあつたし、『将棋の殿様』『殿様蕎麦』などに至つては、全く天下一品の観があつた。恐らく、小さん以後あゝいふ話を到底あれだけに話し得る人はなかつたらうと思ふ。今の咄家がやると、侍でも殿様でも皆官員さん位なところにしきや聞えないのであるから、今の咄家からは『将棋の殿様』などは何うしても聞くことはできなからう。
 今現存の咄家のなかで、侍を侍らしく話し得るものは恐らく円右一人であらう。今の小さんの侍は何うしても官員さんにしきや聞えない。
 斯ういふ点も、落語が現代人を離れて行くことの一実例である。
 それから、これは、此の頃よく人に話すことであるのだが、昔の咄家──殊に続き物の場合──は、地の言葉に可なり骨を折つて、今のやうに殆ど会話ばかりで咄を運ぶといふやうなことはやらなかつたと思ふ。今は時間の都合などがあるので、自然と地の言葉を省いて、専ら会話で話を進めて行くといふことになつたのであらうが、話術の技量は、地の言葉を旨くこなして行くところにあるのだから、話術の稽古をするものは、其所に留意すべきであらう。
 会話でばかり咄を運ぶことになると、声色、身振りに骨を折るやうになつて、耳に訴へるよりは、目ばかりに訴へるものになつてしまふかと思はれる。それでは、話術の本意を失つてしまふ訳である。
 現に円右など、咄はなか/\面白いのであるが、少し身振りが過ぎると思ふ。近代の名人橘家円喬などは、そんなに身振りや手真似はしなかつた。

     女義太夫も新芸術であつた

 寄席のことを書く以上は、女義太夫のことを書かずにしまふ訳には行くまいと思はれるので、左に少しそれを書くことにする。
 寄席の女義太夫が一座をなし始めたのは、竹本京枝からだといふことになつてゐる。ところで、明治十四年頃に、伊東燕尾が女房の此勝といふ女義太夫と一緒に寄席へ出たことがあるのだが、その時には此勝の弟子の若い女が二人程口語りをやつたやうに思はれる。しかし、燕尾此勝の一座と同時に、女義太夫ばかりの一座も他に存在してゐたやうに思ふのであるが、それが或は京枝の一座であつたのであらうか。或は、それは京枝の一座でなかつたにしても、明治十四年頃から既に女義太夫の一座が出来てゐたことだけは確である。
 女義太夫が可なり有力なものになりだしたのは、先代の東玉が東京の寄席へ現れだした頃からだと思ふ。けれども、女義太夫が全盛期に入つたのは、明治二十二年頃であらうと思ふ。即ち、竹本綾之助の出現と共にさうなつたのである。
 綾之助は始めは、チヨン髷であつたので、男だらうか、女だらうかと、皆判じ迷つたのであつた。その時分の綾之助の人気は全く素晴しいものであつた。若竹のやうな大きい寄席が殆ど連夜満員になるのであつた。八時頃にでも行かうものなら極く後、即ち帳場との境のハメにくつ附いて聞くより外に仕方がなかつた。声は初めから如何にも善かつたが、本当に十分な善い声が出だしたのは、それから二三年経つてからであつたらう。
 初めは東玉の一座にゐた小政は、その時分では、上手な女義太夫であつた。その当時では、『吉田屋』を語り得るものは小政一人であつた。
 後に素行となり、終りに瓢となつた豊竹三福も二十三年頃には、かなりな人気を得て居つた。『小磯ケ原』を語つたのは、その時分では三福ばかりではなかつたかと思ふ。
 小清と小土佐は大抵同時位に東京の寄席へ現れたと思ふ。綾之助の出現時分を女義太夫全盛時代の第一期とすることができるならば、小清の出現は第二期を劃するものと云へるであらう。小清の男性的な芸風は可なりの賞讃者を集め得たのであつた。『鰻谷』『岡崎』などは、それ以前の女義太夫から聞くことのできないものであつた。殊に吾々は小清の『鰻谷』を面白いと思つた。
 小土佐は、初めから矢張り後年の芸と同じ筋であつた。此の人の『新口』などを僕は後年になつて、面白く聞いたことがある。
 何うする連といふのが出来たのは、二十四五年頃からであらうと思ふ。しかし、そんな者どもでも、まだ人間が馬鹿正直なところの失せない時分のことであつたので、馬鹿げたところに、一種の愛嬌はあつたのであらうと想像せられる。
 その時分では、義太夫専属の寄席が随分多かつたほど、それほど女義太夫が流行つたのであつた。
 当時の若い者が、女義太夫に寄席へ蝟集したのは、唯女を見る為ばかりではなかつたと思はれるのである。矢張り芸術に対する欲求にも基いてゐたのだらう。浄瑠璃といふものが文学として並びに音楽として、当時の吾々に取つては新しい芸術であつて、決して今日の如く古ぼけたものではなかつたのであり、従つて女義太夫も今日の如く唯従来ある芸を機械的に演ずる芸人とのみは思はれなかつた。浄瑠璃その者にも女義太夫その人にも、何んだか新しい生命が籠つてゐるやうな気がしたのであつた。要するに、吾々は芸術的欲求を満足させ得る、善き高い対象を他で見出し得なかつたのだ。いや、吾々は、極く卑近なところで芸術的欲求を満足させ得るまでに、吾々自身の眼が低かつた。心が進んでゐなかつたのだ。
 世の中がだん/\進むに従つて、女義太夫では芸術的欲求が満足せられない人が増して来ると同時に、唯女を見るだけならば、カフエ─の女給の方が面倒がないといふ時勢になつて来たのである。
 これでは、女義太夫は廃滅せざるを得ないであらう。
 もう此の十年前程から、女義太夫界それ自身の方が荒み始めたやうである。今好い芸人が出たところで、此の大勢は奈何ともしかたがないであらうが、しかも、実際に於て、好い芸人は出て来ないのである。
 落語でも、女義太夫でも、総ての寄席が皆日蔭の芸術になりつゝある。いや、もう既にさうなつてゐると云つた方が確であらう。偖てさういふ風に落目へ向つて来ると、気の毒なもので、よい芸人が生れて来ないことになるのである。
 さういふ風であつて、所謂寄席芸は次第に趣味の中心を離れて、卑俗な方へと落ちて行くのである。残念であるが、何うも仕方がない。

     衰退已むを得ず

 寄席業者が衰運の予覚を感じだしたのは、明治二十八九年頃からであらうと思ふ。さま/゛\な好みの客の欲求の為めに唯目先をかへる為にのみの場違ひな芸を演じさせ、一座の出演者の数を無暗に多くし、唯いつ時の賑かしで落を取らうとするやうになつて、芸人の方では本当に高座で芸を鍛ふ機会がなくなり、客の方でもゆつくり芸人の芸を鑑賞する余裕がなくなつてしまつて、芸人の素質が低下すると共に、客の柄もだん/\悪くなつて行つたといふ風に見えるのであるが、此は単に結果の表れであつて、実際は、前に云つた通り、時代の変化が、芸人の方へも、客の方へも及んだのが、寄席衰退の真因である。寄席衰退の歴史は、東京敗北の行程を象徴してゐるものと見ることができるであらう。
 前代において東京へ移住した人々は、その前方からして東京の感化が及び得た範囲内にゐた人々であつたのであるが、後の東京の移住者は、さういふ伝統を更に持つてゐない人々がますます多くなつて来た。後の地方人は東京の文化に対してヴアンダルスであつた。さういふ地方人なるヴアンダルスが、東京なる羅馬文化を破壊して行つた。その一局面が、寄席の衰退となつて表れてゐるのである。
 さうなつて来ると、さういふヴアンダルス自身が猛威を揮ふのみならず、羅馬人たる東京人の方でも、さういふヴアンダルスに感化されて行くのが増して行くのである。尤も征服者なるものは、いつも被征服者から何等かの感化を受けない訳には行かないものであるのだからして、ヴアンダルスそのものの中からも、東京的文化の感化を受けた者が可なり出た訳であるのだが、それ等は数に於て、さう大したものではなかつたのみならず、さういふ感化を受けたものも、根がヴアンダルスであるのだからして、窮極のところでは、東京文化の擁護者では有り得なかつたのである。
 固より東京文化プラス地方精神といふやうな文化が纏まりつゝあることは、事実であるのだが、しかし、まだそれは十分なものではないと云はなければならぬ。
 かういふ風であつて見れば、よい寄席、よい寄席芸といふのは、極く少数のものが残つて行くに過ぎぬであらう。寄席業者も、寄席愛好者も、先づさう諦めるより外に仕方がなからう。



故摂津大掾

  一

 明治の義太夫界の巨人と仰がれ、近代絶倫の美音と称せられた竹本摂津大掾は、此の程八十二歳を一期として白玉楼中の人となつてしまつた。
 僕は此の人が摂津大掾と改名してからは、折悪く一度も聴いたことがない。僕の此の人に関する記憶は今より二十六七年前のことに属する。此の人が未だ越路太夫と云つて居た時分のことである。
 元よりその越路太夫に関する記憶は単独の記憶ではない。それは他のさま/゛\な記憶をばその後に率ゐて、僕の心に起り来たる記憶である。
 それは僕等の学生時代であつた。その時分に一緒に越路を聴いた友の中には最早とくに故人となつて居るものもある。遠い土地に居て消息も互にし合はなくなつてしまつたのもある。その時分からの知人で今時々行合ふ者と云つては、ほんの数へる位しきや残つて居ない。
 秋雨のしめやかに降る夜、さういふ思ひ出に耽れば、昔親かつた人々の顔、昔行なれて居た場所の光景などが、つぎ/\に眼の前に現れて来るやうな心持がする。
 さういふ追憶を書き立れば何枚書いても書き尽せさうもない。僕は今、摂津大掾の越路時代のことを重に思ひ出してみよう。それには幸ひ二十三四年の僕の日記が残つて居る。それから、越路を聞いた時のことを抄出しよう。

  二

 僕が最初に、越路を聞いたのは明治二十三年の五月三日である。寄席は本郷の若竹、同行者は今朝鮮の何処かの知事である松永武吉氏であつた。午後一時から始まつて、八時半頃に終つて居る。それで木戸銭はといふと、二十銭か精々で三十銭位であつたらうと思ふ。物価の安い時分であつたからでもあるのだが、それにしても現代の越路が大劇場で金何円といふ木戸銭であるのは、少し故人に対して、くすぐつたい気はしないであらうか。
 さて、少し蛇足の感はあるが、参考の為めに、その時の語物を順に書いてみよう。『八陣─正清本城』越栄太夫、『加賀見山─又助』小長太夫、豊沢広子、『碁盤太平記─坂戸村』越尾太夫、豊沢広吉、『同─揚屋』村太夫、豊沢龍三、『玉三』さの太夫、鶴沢小庄、『勘作』路太夫、豊沢花助、『酒屋』越路太夫、豊沢広助といふのである。
 越路はこの時は声の美しさの方では稍下り坂だと云ふ人があつたのであるが、まだ何うして実によい声であつた。殆ど男の声とは思へないほどの綺麗な声であつた。節を細かに語つて行くところは、所謂盤上に玉を転ばすといふ形容は此の様な場合に用ひるものであらうかと思はれた位であつた。
『あとには園が』といふところまで来ると、越路は見台に手を掛けて、膝で真直に立つた。それから『繰り返したるひとりごと』までが、如何にも悠揚に語られた。
 同月五日にも、松永氏と共に聴きに行つた。路太夫の『紙治の茶屋場』と越路の『御殿』とが殊に面白かつた。路太夫は如何にも声のない太夫であつたが、その代り非常に言葉の旨い太夫であつた。此の『河庄』は今も猶僕は忘れ得ない。もう一度此の時のやうな『河庄』を聴いてみ度いと思ふ。越路の『御殿』では『お末の業をしがらきや』以下のところの節廻しの綺麗であつたことが、今も猶耳に附いて離れないやうな気がする。殊に『心も清き洗米』の節の細かつたことは、僕の終生忘れ得ないものであらう。
 同月十日には、母と姪と三人で聴きに行つたのであるが、その時は越路は病気で出ないで、さの太夫の『松王屋敷』と路太夫の『帯屋』を聴いたのみであつた。

  三

 同じ年の十月十七日に、若竹で又越路を聴いた。此の時は僕一人であつた。遅かつたと見えて、路太夫の『沼津』と越路の『十種香』だけを聴いたことしきや、日記には書いてない。
 同月十九日には、比佐といふ学友と一緒に、越路の『柳』を聴いた。此の時のさの太夫の出し物は『玉三』であつたが、僕等は、さの太夫の大きい語口にひどく感服して、此の太夫の前途の多望なることを語り合つた。越路の『柳』の面白さは前半にあつた。一体三味線のよく解らない僕等素人には、『柳』は柳の精の消える所までゝ沢山である。
 十一月二十三日、芝の玉の井で、越路の『堀川』を聴いた。例の『鳥辺山』が何んとも云ひやうの無い程心持の好かつたことを記憶して居る。
 翌二十四日、玉の井で、さの太夫の『加賀見山─尾上部屋』と、路太夫の『引窓』と、越路の『太十』とを聴いた。この時は、比佐と竹本東佐(当時は弥昇) と三人であつた。東佐は路太夫を激賞した。東佐のお蔭で、『太十』の終りに近い部分の三味線の面白さを知ることが出来た。
 十二月十九日、越路の『合法』を宮松で聴いた。路太夫の語り物は『重の井子別』であつたが、これは余り好くなかつたやうに思はれた。
 僕の東京で越路を聴いたのはそれだけであるのだが、これが越路を聴いた最後ではない。
 二十四年の十二月に、僕は高知市の共立学校といふのへ、英語の教師に雇はれて行つたのだが、その途中、神戸で船待ちの間、同月の十二日に、神戸の大黒座で越路一座を聴いた。その時は、さの太夫が八兵衛の三味線で『志渡寺』、路太夫が同じく三味線は八兵衛で『河庄』、呂太夫が『吃又』、越路が『太十』であつた。呂太夫は如何にも体格の魁偉な異相の男であつた。そして、語口が如何にも剛健であつたやうに覚えて居る。

  四

 越路を聴いたのはたゞそれだけである。越路はからだの小さい、顔の小さい、如何にも濃い地蔵眉の色の赭黒い男であつた。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧げて、長い間居るのであつたが、或人が、丁度一分間さうして居るのだと云つたことがあるので、僕も一度時計を見て試したが、確に一分間であつた。
 名人長門太夫が初代の綱太夫に三年間一段しきや教へなかつたといふ伝説があるのだが、越路も師匠が一年間一段しきや教へなかつた。越路の家の者が一年間一つ物ばかりでは心細い、何か他のものを教へて呉れと、師匠に申込んだ。師匠は言下に、『それでも、当人が不平を云はずにやつて居るから宜いではないか。先づさういふことは一切わしにまかして置いて呉れ』と云つたといふ話がある。
 越路の義太夫は邪路に入つたものであるとか、所謂ケレンであるとかいふ評は黒人のなかに大分唱へられて居た。けれども、声の美くしかつたこと、節の細かつたことは、何人も争ひ得ないところであつたらう。その点では越路時代の摂津大掾は不出世の人であつたことは、疑ひがない。
 俳優、音楽家等は、刹那のヒ─ロオである。その人衰ると共に、その人逝くと共に、その天才の技能も、また永久に消え去つてしまふのは、憾みに堪へざることである。
 夏目漱石君が或時次のやうな話をしたことがある。
 或日、夏目君が兄さんから拝領の外套を着て、若竹へ越路を聴きに行つて居ると、傍に胡坐をかいて居るへんな男が、夏目君に『今日は休か』ときいた。夏目君は、学校のことだと思つたので、『今日は休みだ』と答へた。すると、その男は夏目君にいろいろ話しかけたが、だん/\話が喰ひちがつて来るので、夏目君もこれは少しへんだなと思つて居るうちに、到頭先方から『だつて、おめえ、造兵ぢやアねえか』と云つた。
 夏目君は砲兵工廠の職工と間違へられたのだ。
 あゝ、その夏目君も今は故人で、その一周忌が近々に来るのである。
 僕が一緒に越路を聴いた比佐道太郎は、明治三十六年に磐城の小名浜でなくなつた。そのわすれがたみの男の子は、もう高等学校の試験を受け終つた位の年になつて居ようかと思はれる。
 その時分の学友で亡くなつたものは、もう十指にも余るであらう。
 夜は更け行くまゝに、雨の音はいやさびしく聞えて来る。人もなつかしい、事もなつかしい。鬢に数茎の霜の色しるき僕に取つては、今宵の雨は消え行く過去を低調に弔ふ挽歌のやうな心持がする。



東京の天然

  一

 少し間暇が出来さへすれば、何うしても何処かへ旅行せずには居られなかつた時分があつた。即ち山を見るか海を見るかしないと、何んだか心が黴び切つて了ふやうな気が為たことがあつた。
 暫時、人事の草忙裡を離れて、新鮮な天然に対して、胸底の塵挨を洗ふとでも云ふ様な心持で、旅へ出たのも、最早一昔前のことになつて了まつた。此の頃では、却つて、都会の賑やかな所が、面白くなつて、暑いのも構はずに、縁日の雑閙のなかを、植木屋をヒヤかして、歩くことなどもあるやうになつた。
 田舎生れの僕も、三十年以上の東京生活に教化されて、今頃都会の面白味が解つたと思はれる。
 所で、全く都会人になりおほせたかといふと、残念ながら、さうではないやうなのだ。依然、何処かに天然を好む念が潜んで居るのだ。
 けれども、それは、最早人間を遠く離れたやうな天然を慕ふのでは無い。人間に近い、若くは、人間の多い市にチラばつて居る天然を賞でる心なのだ。言葉を換へて言へば、全然都会の雑閙の巷でも、面白からず、さればといつて、全くの天然の最中でも面白くないといふ、中ぶらりんの、折衷的位地なのだ。

  二

 東京は大都会である。少くとも、その広さにおいては左様だと云はなければなるまい。で、その広いことの難有さには、天然の断片が諸方に見出される。尤も心の底まで都会流になつた人々や、父祖から都会人たる伝説を伝へて居る人々に取つては今の東京には、随所に破壊の痕が見出されて、さういふ人々には、現在の東京は、旧き東京の残骸に過ぎぬであらうが、吾々田舎出の者に取つては、未だ幾らか堪へ得られる程度に於て、旧い東京の面影が、所に依つて残つて居るやうに思はれるのだ。
 勿論僕の所謂東京の内の天然の断片は、人工の加はつた天然なのだ。即ち寧ろ人間の造つた天然と云つても宜いのだが、さういふところが又、東京のやうな大都会ででもなければ、到底見られないものなのだ。
 外国の或詩人の書いたものの中に、人間が、或建造物を造つて、天然の裡にそれを置き捨てるといふと、天然はそれをば己れの懐に収めて、それをば自分のものに為て了ふ、といふやうな事が、書いてあつたやうに思ふ。これは、確か古羅馬の大劇場の遺趾に、木が生え、草が茂つて、殆ど自然の丘のやうな姿を呈して居ることを書いた場合の言葉であつたと思ふ。
 僕の所謂東京の天然は、全くその通りに、天然の懐に収められた人工物であるのだ。
 以上に云つたやうな意味で、僕は、麹町の新見附が好きだ。其処に立つて、西の方を見るのが好い。四谷から左内坂、佐土原町へ掛けての丘の遠景も一寸好いが、最も好いのは、濠の眺めだ。
 両岸の樹の静に枝を垂れたやうな所も好ければ、濠の水の水さびた所も面白い。殊に、風のない夏の真昼時の静な景色が大変に好い、何んとなく打沈んだ沈静の眺が心持が好いのだ。四方の堤で箱のやうに劃られて居るので、却つて小天地のやうで面白いのであらうかと思はれる。秋の末に夜霧の立つた月夜の晩などは非常に好いのだ。それから市谷の側から、月夜に、麹町の、高い松のある堤を見るのも好い、有りふれた言葉だが、芝居の書割のやうな気がする。
 同なじ外濠では、四谷見附の堤の松林が好い、四谷仲町の停留所を少し彼方へ下りた辺から、濠を隔てゝ松林を縦に見る眺が面白いのだ。赤松の大森林が何処迄も続いて居るのではなからうかといふやうな気がする。
 吾々は、何時も景色が吾々の胸のうちに起させる幻覚が嬉しいのではなからうか。さうならば、四谷見附の松林は確にその意味で、僕には心持が好いのであらう。
 それから、ずつと飛ぶが、芝のお霊屋の手前からの松林が好い。電車で通るのは勿体ない気がする。時々海岸に近い所ではないか、といふやうな気がすることがある。芝園橋あたりから、公園を見るのも好い。其所からでは、五重の塔の頂が緑樹の頂上を抜いて居るのが、如何にも感じ好く眺められる。
 今確には覚えて居ないが、上野の公園の博物館の前あたりの所で、東を見ると、何うしても、海辺だといふ気がして為方のない所がある。松がある為めばかりでなく、その彼方が坂になつて居て、空が見通しになる為めでもあるのだらうかとも思はれるのだ。
 浜町河岸──長岡さんの邸外の所が好い。月の夜も好からう、朧夜も好からう、闇の夜も悪くはなからう。が、僕は、或夏の午後、霏雨の日に彼の辺を通つたことがある。大川の面から掛けて、彼の辺一面に雨の烟つて居る眺が、実に心持が好かつた。さうなると、新大橋さへ確に景色の一部を整へるのだ。
 それから、大川では、箱崎から中洲へ渡らうとする川口橋辺の、川が入江のやうになつて居る所も好く、尚、築地から月島へ渡る所の、帆船が沢山碇泊して居る所も好く、更に又ずつと上流へ行つて、永代橋から海の方を見るのが好い。僕があの橋を初めて渡つたのは、最早三十年も前のことなのだが、その時は、河口に西洋形の船が一艘かゝつて居て、その彼方は漂渺たる大海であるかのやうな感じがした。何んだか東京うちでないやうな、物寂しい好い心持がした。僕は今も尚その景色を忘れ得ない。何うもその船一艘で、景色が大きく見えたやうに思ふ。それから、明治座の前から東の掘割の眺がなか/\面白い、満潮の時が殊に好い。蠣浜橋が高く見えるのも、景色を整へるものの一つだ。さう云へば、その掘割に随いて行つて、電車道を越えてから彼方もなか/\好い。
 その外に、越中島の葦原の秋になつての眺が非常に好いと思ふのだが、彼所は最早間もなく、工場か何かゞ建つて、今の面影は消え失せて了ふだらう。
 それから、小石川の水道町とか、金富町あたりの丘から、牛込や早稲田を見る景色が非常に好い。
 最早二十年も前の話なのだが、本郷の龍岡町に居た時分には、下谷の七軒町の友達の下宿で話し込んで居て、外十二時頃度々池端を通つたものだ。時節は丁度十一月の初頃だ。一面に夜霧の閉した空を、雁の声がぐる/\廻つて居る。よく聞くとギイ‥‥ギイ‥‥といふ音も聞えるのだ。それは翼の音だと思つた。が、彼の大きい橋が出来てからは、其様な声が聞かれるか何うだか、今は知らない。
 不忍池は、雪の景色も好い。水の色が濃い鼠色になつて来るので、弁天堂の赤い色が、はつきりと浮き出したやうに見えて来るのだ。
 真の天然には強い力があつて吾々を圧するのだ。が、何処にしても、都会の中に散らばつて居る僕の所謂天然の断片は何んとも謂へない物静かな穏かな快感を喚び起すものだ。畢竟、人間といふ背景がある為めなのであらう。



東京の女

 女に対しての知識は、甚だ浅薄でお話にならないが、まづ僕などの目から見て、夏の女を美しいと思ふ。日本の女は、欧米の女の様に巧みな表情はなし得ないが、夏の女は、体質の上から言つても何んとなく平均がとれて居る。羽織や綿入を多く著た姿より、いきな浴衣や帷子を著た姿の方が好いと思ふ。夏は、女の肉体美の一番善く表れる時だ。
 全体東京の女は、可なりな肉づきであつても、夏は殊に、何処となくすらりとして、桶の様な形にならずに、さつぱりと快く見えるのが、その特徴である。
 従つて、その気立てからいつても、負けぬ気のものとか、又おだやかにあきらめのいゝ──と言つて泣き寝いりをするのでなく、よく感情を抑へて、おだやかに居るといふ様な──何方にしろ、はつきりとした心だてのものが多い。
 例へば、如何に自ら思ひ込んだ事でも、親とか先輩とかゞ善く言つて聞かせて、その道理が解れば、フツツリとあきらめて了ふ。これは、別に教育によつてさう為るのでない。さういふ風に、ものの道理の解りが早い事は、何うも、地方にはあまり見られぬ、東京の女の特徴であらう。
 それから又、処世の法と云ふのを早くからのみこんで居て、なか/\人をそらさないところなど、地方女の一寸真似の能きぬ所である。
 然し、これが発達し過ぎて、却つて欠点となつて居る人も亦多い。さういふ人になると、一寸逢つた人にでも、もう十年も知つて居るかのやうに、所謂お世辞をふりまいて、先方の人に却つて不快の感を生じさせるやうなことが往々ある。
 が、東京の女は、話し相手にするのには、善く理解力が発達して居て、心持が好い。
 故一葉女史など、その父君の代から、東京に居られたのであるから女史は、まづ純粋の東京人で、殊に父君の身分がら、生粋の江戸人たちの出入が繁く、さういふ中で人となつたのであるから、なか/\世間知識が広かつた上に実に話上手で、逢つて如何にも心持の好い人であつた。
 さて、次に、言葉から云ふと、田舎の人の弁達なのは、いたづらに高調子であるのに過ぎないが、東京の女は、稍カンの勝つた、透る澄んだ声で、抑揚のある、話し振りだ。さういへば、男でも、田舎の人より、東京の人の方が、さういつた所は多いのだが、女は、殊に、さういふ所が著しく表れて居る。すべて、言葉には、抑揚があると、殊にその意味が強く響くものだ。
 が、男女を問はず、東京の上流の人たちは、何うも調子が沈み過ぎて居る。如何にも綺麗な言語ではあるが、生気には乏しい。所謂生の好い言語は、中流以下の言葉であらう。調子も大分高い。
 要するに、所謂キリヽとしまつたといふところが、容貌にも、姿勢にも、気質にも、あるのが、東京の女の特徴であり且長所であるのだ。



義太夫の話

  一

 僕は少年の時分から、義太夫を聴くのが好きであつた。慥か、明治二十一年頃と覚えて居る。姉が、土佐へ旅行したことがあつた。その時、姉は、女義太夫の弥昇といふのを、旅宿の座敷に呼んで、聴いたことがある。弥昇は、その後間もなく、竹本稲桝の一座に加はつて、上京した。僕の家は、その後、新橋の日吉町三番地へ引越したが、姉に贔屓になつた縁故で、弥昇は、よく僕の家へも訪ねて来た。で、何時の間にか、稲桝の一座の連中とも知り合ひになつたので、僕は、或時は、姉と一緒に、或時は、今代議士になつて居る中村啓次郎君と一緒に、日吉町から、ご苦労さまにも、下谷の吹抜、両国の新柳亭などへまでも、稲桝一座のかゝつて居る所へ、よく聴きに行つたものだ。さういふ風であつたから、無論、近所の鶴仙や、琴平あたりにかゝつた時は、殆ど毎晩のやうに出かけた。遂には学校の教科書を携つて、寄席に行つて、面白いところだけ聴いて、他は聞かずに、教科書の下読をやつたものだ。ゼボンの論理学などは、寄席で勉強した所の方が多かつたやうに覚えて居る。
 斯様な風に、義太夫道楽が進んで来た果は、自分でも語つてみ度くなつて、弥昇が家へ来た時に、教へて呉れと頼んだ。何を教へようと云ふから、何うせ習ふ位なら『三十三間堂』の『平太郎住家』を習ひ度いものだと、僕が云ふと、弥昇は、あれは、難しいから、お止しなさい、もつとやさしい物を教へませうと云ふのだ。此方は、盲滅法何んでも彼でも、『三十三間堂』を教へて呉れと、云ひ張つた。すると、弥昇は、笑ひだして、では、まアやつてごらんなさい、と云つて、有り合せの三味線を取つて、稽古を附けに掛つて呉れた。所が、やつて見るといふと、第一、先づ最初の『夢や結ぶらん・・・・』といふところからして、難しくつて到底駄目だ。では、其所は抜いて、その次からにしようといふことになつたのだが、此度は『妻は・・・・』で、声が出ない。弥昇は、もつと上、もつと上と、云ふのだが、僕の声は何時までやつても、ちつとも上へあがらない。まして、『は‥‥』と声をひつぱつて行く節が何うしても物にならぬ。何遍やつても同なじやうに駄目なのだ。大いに閉口して、『成る程聞いて居る方が、余つ程楽だ』と云ふと、『此様な難しい物は、駄目ですよ』と、弥昇に甚く笑はれた。僕は、それ以来、義太夫の稽古を為てみようと為たことは無いのだが、時々、冗談半分に稽古を為て見ようかと思ふことはあるのだ。因みに云ふが、ここにいふ弥昇といふのは、今の竹本東佐のことだ。
 僕自身の義太夫に関する経験ともいふべきものと云へば、先づ此様なものだが、これから、批評とは行かないまでも、今まで僕が聴いた義太夫語に就て二三の感じを云はう。
 大阪の隅太夫──彼の盲目の隅太夫──を、余程前に聴いたことがある。その時は、僕が極く年の若い時分であつたので、更に明かな印象は残つて居ないのだが、その時聴いた『鳴戸』の奥の、お鶴の死骸に火をかけるあたりからが、非常に面白かつたことは今に忘れない。
 越路太夫──今の摂津大掾──を初めて聴いたのは、明治二十二年頃かと思ふ。その時分には、『最早、大分下り坂だ』と云はれて居たに拘らず、まだ何うして、美しい声であつた。『先代萩』の『忠義の段』の『お末の業をしがらきや・・・・』といふあたりの節廻しの美しかつたことを、今に忘れ得ない。殊に、『心も清き洗米』に至つては、何んとも云ひやうのない綺麗な節廻しであつた。それから、『二十四孝』の『十種香』を、実に好い心持で聞いた。謙信が出てから後は、それ程面白くなかつたやうに思ふ。
 その時に越路と一緒に来た路太夫といふのゝ『紙治』の『茶屋場』を聞いたのだが、会話が如何にも写実的に語られて、芝居を見たつて彼様な印象は到底得られまいと思はれるまでに、面白かつた。前後を通じて、彼様な面白い語り方を聞いたことは、一度も無いやうな気がするのだ。けれども同じ人の『沼津』や『引窓』は、それ程面白かつたとは思はない。或は、『茶屋場』の曲そのものを、僕が面白く思つて居た為めかも知れぬ。然し『茶屋場』が、路太夫の最も得意な語り物であつたのでは無からうかとも、僕は思ふのだ。
 同じ一座のさの太夫といふのは、壮な語口であつたと思ふ。その男には大きい将来が有るのだらうと思つた。彼の男今は何うなつたらうか。
 大阪の文楽座を見度いと思つて居るが、未だ見る機会を得ないで居る。人によると、義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正の義太夫の味は分らないのだといふのだ。が、また、折角、善い義太夫を聴いて居るのに、人形が邪魔になつてならないと、いふものがある。僕には、後者の説に一理があるやうに思ふ。
 義太夫曲のうちで、何が一番好きかと云はれゝば、僕は『恋飛脚』の『新口村』が、一番好きだ。
 
  二
  
 これは、大阪の人で、よく義太夫の事を知つて居る人の話であるのだが、僕には面白い話だと思はれるので、知れ渡つて居る話かも知れぬが、左にその大要を書いて見る。
 義太夫を教へて、真正にそれを仕込まうとするには、同じ一段を何時までも教へるのが宜いといふのだ。ただ無暗に数だけ上げても、何んの役にも立たないものだ。一段中に現れる人物には、老人もあれば、若いのもある、男もあれば女もある。それに性格の違つたものも、いろ/\出て来る。さういふものの語り分けを、いちいちはつきりやるやうにして、同じ一段を繰返す中には、その真の呼吸を覚えて、他のものは自と語ることが能きるやうになるのだ。摂津大掾が若い時に弟子入りをした師匠が、一年間も『寺子屋』か何か一つものばかりを摂津に教へて居た。摂津の家内のもの等も流石に変だと思ひ『家の児が何んぼ無器用でも何時も一つものばかりは酷い。それは先づ大抵で上げさせて、他のものを教へてやつて呉れ』と、云ひ込んだ。所が、その師匠が『でも、当人が平気でやつて居るから宜いではないか』と、云つたので、それなりになつた、といふ話がある。
 僕は其の道のものでないから、果して、義太夫の教授法はさうなければならないものなのか、何うなのか、その当否は知らないのだが、それに就て、甚だ面白い話がある。
 何代目の長門太夫であつたか、紀州の龍門か、何処かの、温泉に湯治に行つて居た。処が、毎日、その宿の前を、馬子歌を歌つて通る一人の馬子があつた。その声が如何にも美音であつた。長門は、それに聞き惚れて了つて、或時、その馬子を自分の室に呼び入れた。そして、『お前の声は実に善い声だ。何うだ、おれの弟子にならないか、さうすれば、日本一の太夫にしてやるが』と、云つた。が、馬子は、『私には老年の母親がある。それを見送らない中は、何うしてもこの土地を離れる訳には行かない。折角だが、貴下の弟子になる訳にはいかない。』と、云つて、断つた。それを聞いた長門は、甚く失望したのだが、為方がないから『イヤ、それは道理だ、さういふ訳なら、何も今に限つた訳でない。お母さんを見送つたら、その時来て呉れ』と云つて、そのうち、自分は大阪へ帰つた。
 すると一年ばかり経つて、その馬子が長門の許へやつて来た。『いよいよ、母親を見送つたから、兼ての約束通りに弟子になりに来た』と云つたので、長門は喜んでその男を家に置いた。
 御承知の通り、芸人の内弟子といふものは、ただ芸を稽古するばかりではない。いろ/\な労働もすれば、また、家の雑用にも使はれるものだ。この馬子であつた男も、さういふ習慣の下に、義太夫を習ひ始めた。先づ、一段の稽古は終つた。処が、始終その一段の稽古ばかりやらせられて居る。三年の間、その一段より他一つも教へて呉れ無い。さすがに、その男も考へだした。此様な塩梅では、十段覚えるのには三十年以上かゝる、二十段覚えるには六十年の余もかゝるのだ。其様なことでは、到底、日本一の太夫どころか、普通の義太夫語りにもなれない訳だ。斯う思つたから、或日、長門の前に出て、義太夫語りになるのはいやになつた、田舎に帰つて、もと/\通り馬子をし度い、是非暇を呉れと云つた。聞いた長門は、ひどく失望して、いろ/\なだめすかして見たけれども、何うしても帰ると云つて聴かない。で、為方がないから、幾らかの旅費をやつて、田舎へ帰すことにした。
 そこで、当人は、大阪から草鞋がけで、てく/\歩きだして、泉州岸和田の近辺まで来ると、日がとつぷり暮れた。あたりに旅屋はない。為方がないから、その辺の大きい家へ行つて、旅のものだが、納屋の隅でも宜いから、泊めて呉れまいかと頼んだ。所が、その家の者が云ふには、真にお気の毒であるが今夜は少し家に取込があるからお泊め申す訳にいかないと云つて、気の毒さうに断られた。けれども、此方は、他に泊めて貰へようと思ふ家もないのであつたから、また押し返して、お取込は何ういふことか知ら無いが、別に食べるものも頂かんでも宜い、ただほんとのお納屋の隅で宜いのだから、一夜過すだけの許を得度いと、折入つて頼んだ。すると、先方の云ふには、いや、さういふ訳なら、お泊め申しませう。実はこの辺は浄瑠璃の流行る土地で、今夜は、家でその会をするところだ、それで、何うも、お泊め申しても、何んのお世話も能きまいと思ふからお断りしたのだが、それさえご承知なら・・・・と、いふのであつた。聞いた此方は、私も実は浄瑠璃は好きだ、さう聞いては、台所の隅でなりとも伺ひ度いと云ふと、先方でも、それは何うにかしてお泊め申すことも能きるし、粗飯で宜ければ差し上げることも能きる。ただ混雑でお気の毒だと思つてお断りしたのだ、さういふことならまアお上りなさいといふことになつた。そこで少し待つて居ると、村の天狗連がだん/\集まつた。三味線を引く者は、大阪で本職になりそこねたといふやうな男で、その辺の師匠をして居る者であつた。やがて、会が始まるといふ時になると、旅の男は、私も義太夫を少しやつたことがあるから、今夜やつて見度い、併し皆さんにはとても敵ふまいと思ふから、私が前座をやると云ひだした。
 妙な武骨げな、服装もみすぼらしい男であるから、其様な男に義太夫が語れさうにも見えなかつたので、一同はほんの座興位にと思つて、では、おやりなさいと云つて、三味線引の師匠も、迷惑さうな顔をして、撥を取つた。
 すると、旅の男は、三年かゝつてやつと一段しきや覚えられないやうな無器用な自分だから、田舎へ帰つて、また元の馬子になつて了つて、義太夫のことなどは曖気にも出すまいと思つて居るのだが、それにしても、一遍は人の居る所で語つて見度くもある。所で、素人の間ならば、何れ程下手でも恥にはなるまいし、而も、ここは旅だ、よし、やつてみよう、後にも前にもただこれ一遍といふ心算で、見台に向つたのであつた。一二行語り出すと、先づ三味線引が驚いた。苦しいことは夥しい、やつとのことで、畢生の力を奮つて附いて行つた。やがて語り終ると、一座感に堪へて何んとも云ふ人がない。さア、これから皆さんのを伺ひませうと、その男が云ふと、暫く一同顔を見合せて居たが、家の主が、座を進めて云ふのには、貴下の浄瑠璃には、全く感服して了つた。もう貴下のを聞いては、私ども誰も後でやらうといふ気になれない。真に恐れ入つた、もう一段何か聞かして下さらんかと、云つた。馬子の先生大いに閉口した。いや、真にお恥しい訳だが、浄瑠璃はこれ一段しきや知らないのだからと、云つて断ると、主人が、貴下程の上手が、たつた一段しきや知らぬといふのはあるべきことでない、冗談を云はずに聞かして下さいと、頼んだ。けれども、此方では実際一段しきや知らないのだ、と云ふ。其様なら、何卒、今のをもう一遍聞かして呉れろといふことになつて、同じものをもう一遍語つた。語りかたの正確なこと、前に語つた時と、いはゆる符節を合すが如しで、寸分違はない。それで、一座ます/\感服して、何うして、貴下程の上手が、一段しきや知らないのかと尋かれたので、その男は、実は、私はこれ/\の仔細で長門の弟子になつたのであるが、三年経つても一段あがらない。考へて見ると、三年に一段では、十段覚えるに三十年かゝる、今私は二十位だから、十段覚える時分には五十になつて了ふ。それでは、日本一の太夫どころか、もぐりの義太夫語りにもなれない訳なのだから、もう廃めて、田舎へ帰る心算で、此処までやつて来たのだ、と云つた。
 一同、其の話を聞いて、それは残念な事ではないか、長門程の人が貴方をさういふ風に教へたのは、何か考へがあつてからの事に違ひない。何んでももう一遍大阪へ行つて辛抱して見てはと、勧めた。いや、真平御免だ、朝から晩まで、そこらをふき掃除したり、湯呑に湯を汲むといふことばかりやらせられて、浄瑠璃は三年に一段といふのでは、とてもやり切れない。私は何んでも田舎へ帰ると云つて、聞き入れない。けれども、一座の人々は、それは内弟子で、何んでも彼でも、身の廻りのこと一切、彼方で世話になるから、さうなるのであらう。貴下の様な名人が此のまゝ田舎に埋もれて了ふのは、実に残念だ。私どもが醵金して、其様なに苦しくなく修行の能きるやうにしてあげるから、と、云ひだしたので、たうとう納得して、長門の処へ帰つて行つた。
 すると、長門は非常に喜んで、お前は、慥に日本一の太夫になれるとおれが見込んで世話して居たのに、いやになつて帰るといふから、為方なしに帰したが、残念で堪らなかつた。善く帰つて来て呉れた、と云ふので、一層力を入れて、教へて遣り、初め一段に三年もかゝつた事であるから、後は何んでもどん/\あがるやうになつて、たうとう非凡な芸人になつた。長門太夫はその男に網太夫といふ名をつけて遣つた。馬子に因んで附けた名であつたのだ。これが、初代の網太夫に就ての言ひ伝へだ。
 ところで、又他の人から聞いたところによると、終の方が違つて居る。師匠の処から暇を貰つて帰る時、大阪の堺の港で船に乗つたが、船が出ぬ中に、夜になつたが、実に良い月夜になつたので、その男は、思はず、たつた一段しか知らない義太夫を語りだした。すると、近辺にいる船の中で、オー長門だといふ声を聞いた。ここで、当人は翻然悟つて、自分から、大阪へ引き返したといふのだ。何方が真実の話であるか知らないのだが、僕は、一寸小説めいた面白い話だと思つて、義太夫の話が出ると、よく人にこの話をするのだ。



落 語

  一

 父祖三代以来も東京に定住して居られる純東京の人々に対しては、真にお気毒なことだが、今の東京は、余程吾々田舎者に取つて、住み好い土地になつて来た。風俗も、習慣も、それから、言語さへも、吾々田舎者が、そんなに不自由をせずに済むやうな程度にまで変化して来た。されば、東京の寄席の芸術に対して、吾々田舎者の方の感想を述べても、さう甚く無遠慮にはならないだらう。
 固より、僕等のやうな田舎者には、東京の寄席の芸術は、善くは解つて居ないかも知れないのだから、僕の感想には、何か権威があるものだとして、これを提出するのでは、毛頭ない。唯だ、田舎者の一人である僕には、斯ういふ風に思へるとだけを云ふに過ぎないのだ。
 僕は、度々寄席へ行く訳ではないのだから、今の落語家に対する知識は極めて狭い。極く大略のことしきや云へない。
 それから、僕は、明治二十年以後から、この三四年前までの、落語界の形勢を殆ど全く知らない。それで、今こゝに、現時の落語界に対する感想を述べるに当つても、その比較に取るのは、明治十四五年頃から精々同二十年頃までの落語界の大勢なのだ。

  二

 現代の落語界を見渡すと、第一に感ぜられるのは、人の少いことである。今の有様では、中流どころの者が居なくなつても、甚く寂れが眼に立つ位なのだ。
 相当に熟達した位置に至つた芸人には、大抵の場合、その芸に各々特異な風格が備はるものであつて、その風格のみから云へば、さういふ風格を備へた当の芸人が居なくなると共に、さういふ風格は、芸壇から消え去つて了ふのであるから、さういふ方から云へば、まことに惜しむべきことであるのであるが、同力量の芸人が多く同じ芸壇に居る場合には、そのうちの一二者を失つたといふことが、必ずしも同じ芸界の絶対的損失になるといふ訳ではない。けれども、今日の有様では、相当な落語家が、一人居なくなれば、一人分だけの損失、二人居なくなれば、二人分だけの損失が、直ちに落語界全体の損失になつて了ふのだ。真に以て、心細さの限りである。
 先代の円遊は、才人ではあつたらうが、落語家として、当時重きをなして居る人では無かつた、落語の品格、伝統を崩した人であつた。さればと云つて、さう新味な境地を踏み開いた訳ではなかつた。当時では、僕等は先づ中流どころの人だと思つて居た。が、その円遊さえ、今居るのであつたら、第一流の大家として遇せざるを得なからう。『円遊でも惜しいと思はれる時代だから』とは、僕等の、現代の落語界のことを思ふ毎に、我知らず、胸に出て来る感なのだ。
 いや、それ所ではない。先代の遊三さへ惜しいと思ふ。元より、彼様いふわざとらしい話し振りは、彼れまでに練り上げても、未だ面白いとは思はれなかつたのだが、それにしても、三十年程の高座の生活は、彼の人の芸にさへ、何等かの権威を生ぜしめて居た。彼の人に代るべき者さへ、今の落語界には、さう多くはない。
 況や、橘家円喬の死は、現時の落語界に対する大打撃であつた。円喬は確に近代の名代であつたやうに思ふ。恐らくは、所謂大円朝と共に、明治の演芸史上に、併記さるべき人であらう。現時の大家、円右、小さんに比するに、第一芸の大きさに於て、遥に円喬が優つて居た。気力に於て、円喬が優つて居た。円喬は前代へ突き出しても、第一流の上位に立ち得べき人であつたと思ふ。
 円生は、円朝門下の高足であつた。その芸には強みがあり、凄みのある話は、得意であつたやうだが、今の円右に較べても、狭い芸であつた。晩年の円喬のやうな縦横の芸ではなかつた。
 団洲楼燕枝は、前代の大看板であつた。けれども、高座度胸の出来て居る人といふのみで、芸はそれ程でなかつたやうに思ふ。位は十分に出来て居たが、話は下手であつた。円喬には到底及ばなかつたらう。
 断つて置くが、先代燕枝だの、先代柳枝だのを、下手だといふのは、余程高い標準から云ふのだ。今の柳派の大看板連とは、先代の人々は、下手は下手でも、下手さが違ふ。
 円喬は、確に、落語界といふ天に於ける第一光位の星であつた。この星が落ちてからは、落語界といふ天は甚く暗くなつたやうな気がする。
 円喬が死んだことを新聞で見た時は、何んだか甚くがつかりしたやうな気がした。円喬が生きて居る時には、落語といふものが面白いやうな気がして、円喬が出ない寄席へでも、看板をロク/\見もせずに入つた事もあつたものだが、円喬没後には最早落語もつまらないといふやうな気がして、寄席の木戸口を入る気がなくなつた。僕に取つては、円喬が落語そのものと同じであるやうな気がしたのだ。
 其様なら、お前は、円喬を度々聞いたのかと云はれゝば、さうではない、僕は三四度聞いた位であらう、而も、同じ女の仇討の話を、所々飛び/\に聞いたのみなのだ。

  三

 其様なら、今の落語家は皆が皆駄目なのかと云はれゝば、僕は、必ずしも、さうではないと答へる。
 僕は、円右をば、優れた落語家だと思ふ。近頃の円右の芸ならば、前代の人々の中へ突きだしても、決して第二流には落ちまい。今の落語家の中で、お侍らしいお侍を、僕等の眼前に髣髴させ得るもの、円右を措いては、他に誰もあるまい。小さんのお侍はどうしても官員さんだ。円蔵のお侍も余程官員さんに近い。『巌流島』をば、昔の事らしく話し得るもの、円右の外には、誰もなからう。円右は老年になつて、甚く旨くなつた人だ。若い時分は、それ程ではなかつたやうに思ふ。いや、或はその時分には、他に大家の多い時分であつたので、円右のまだ若い芸などは、それ程眼に立たなかつたのかも知れない。惜むらくは、時々身振りが多過ることがある。話は言葉が主だ、余り為方話にならぬやうに、工夫して貰ひ度い。
 小さんの芸は確に新味を帯びて居る。先代の『禽語楼』と称した小さんは、『殿様の将棋』『殿様の蕎麦掻き』といふやうな話では、古今匹儔を見ないのだが、その他の話では、そう傑くはなかつた。のみならず、人を笑はせるには禽語楼小さんは、先天的優所を持つて居た。それは、禽語楼の顔立であつた。この不思議な顔を見たばかりで、客は誰でも可笑しくなるのであつた。が、今の小さんは、普通の顔だ。今の小さんの、くすぐらず、訴へず、正々堂々として、話を運んで行くところは、賞嘆に値ひする。『しめ込み』とか、『粗忽長屋』とかいふ話をあれまで面白く聞かせる落語家は、前代にはなかつたらうと思ふ。なるべく説明を略して行くといふ工夫の小さんにあるのは、その話し振りで聴客の方では十分に解し得られる。
 円右、小さんの二人の外には、円蔵を挙げても宜からう。が、円蔵の芸は、もう少し円熟させ度い、もう少し尖りを除き度い芸だ。円右、小さんの後を受けて、前面を占め得べきものは、今のところ、円蔵ではなからうか。
 所謂若手では、小せんは病人だから、将来には最早望みは嘱せまいが、むらくは努力さへすれば、可なりな将来はあると思ふ。

  四

 人に対する評は先づ此様なことにしておいて、落語の今昔といふやうなことを、左に少し書く。
 前代の話は、説明的であつた。即ち、地の所が対話の間に随分多く入つたものであつた。今の話方は一般に描写的になつた。即ち、大抵対話ばかりで運んで、地の所をなるべく少くして、やつて行く。今の小さんの話を聞かれる人は、其所に一番善く気が附かれるだらうし、円喬の続き物には、描写式が顕著に表れて居た。
 これは何の一座でも、出演者の数が近来では多くなつたので、話を手短く切り上げる必要から、自然とさうなつて来たものなのか何うか明には知らぬが、何んにしても今の描写式の発展は、話術の進歩だと思ふ。──併し、説明式の話術には全く面白味がないといふのではない。
 それから落語界全体の趨勢から見ると、話術そのものの発達には大いに都合の好い状態になつて居るかと思ふ。広く云へば、寄席、狭く云へば、落語即ち色物に対する客足の減少が、落語家の健闘と自覚とを促すべき有様に立ち至つて居る。下町は左も右、山手などでは、落語家はさま/゛\な商敵と苦戦しなければならなかつた。初めには、娘義太夫、次には浪花節、今は大敵活動写真に、客を奪はれて居る。席亭も、落語家も、今日では単に客の好奇心を煽る切りの俗悪な新物を加へる位なことでは、到底外敵と有利な戦を為ることは能きないといふ所に気が附き、本来の専門たる話術を鞏固に発達させるより外はないと、自覚したらしく思はれるのだ。近頃になつて起つた、落語研究会は勿論のこと、有名会とか独演会とかいふものの、頻りに行はれるのは、前節で云つた傾向の現徴と云へよう。
 のみならず、僕の極く狭い経験から云へば、此の頃は、色物の寄席に素咄が多くなつて来るやうで、十年位前にはよくあつた芸妓の真似をする女などは、滅多に見られなくなつた。
 世間には、色物の寄席に取つては縁なき衆生である人間が少くない。さういふ者どもを引き附けようとすると、勢ひ無理な俗悪な芸を加へなければならぬやうになるのだから、落語家は宜しく落語そのものに趣味を持つ人々を相手にすることにして、比較的少数の客に甘んじて、その客だけを握つて放さぬやうなやり方で行くより外はなからうと思はれるのだが、落語界の識者の腹では、到底お客にならぬものをお客にしようとするのは却つて落語界瓦解の原因だといふ事位は、気附いて居るのではなからうか。
 所が、さうなつて来ると、お客を始終引き附けて置くだけの技倆のある芸人の数が不足して居る。
 けれども、今人を作らうと云つたところで、さう容易に出来るものではない。それに、もう少し、大きい芸術だと、少しはチヤンとした志願者が出て来るかも知れぬが、何しろ、日蔭の芸術であつて見れば、ロクな志願者は先づ出て来ないものと見なければならぬ。さうであつて見れば、今までの連中だけで、何うにかやつて行かなければなるまい。今の所、十五日続けて打つところを十日にするとか、一週間にするとか、成るべく好い芸人を出し、真打が長く話をするといふやうな方法より外に為方がなからう。
  落語の形式が古いから、もう少し改良して見たら何うだらうといふ議論はあることだらうと思ふが、第一、その改良といふことが、一朝一夕に行くことではないし、又、少し位改良したところで、元来話を聞くといふのは、話し方を聞くといふ訳のものであるから、さう多勢客が来る気遣はない。
 その上に下手な改良などは、まづやらぬ方が宜い。
 落語は今の若い東京人の曾祖父位からの、民衆の智慧、常識、伝説及び趣味が知らず識らずの間に鍛へなした平民芸術なのだ。何うして、生学問の改良屋などの煽動に乗つて、滅多に所謂改良などをやられて堪るものか。
 僕などには、女郎の話、博奕の話、長屋の夫婦喧嘩の話、ことごとく結構である。安価な教訓談や、所謂武士道の講釈などを、銭を出して聞くのは、真平ご免だ。これからの落語家は、宜しく、落語が、常識ならぬ常識、智慧ならぬ智慧を、自然に含んで居るのを自覚して、今までの人々がよく団結して、狭くとも自己の城廓に引き籠つて、十分に技を磨いて、少数人に訴へる芸人として立つて貰ひ度いものだ。
 尤も、話そのものの選択は余程よく為なければなるまいと思ふ。余り旧式な話はなるべくしないやうにしなければなるまい。泥棒の話でも『出来心』といふのは、余り大阪俄染みた余りに幼稚な話である。『しめ込み』の方が余程位が上だ。同じ不自然なものでも『釜泥』の方が、『出来心』より面白い。



寄席の女

  一

 近頃では、寄席へ出る女で、人気の凄まじい程有る女といふのは聞かぬ。式多津とか、歌子とかいふのは、少しは若い人の噂にはのぼるのではあるが、それを真打にしてやつて見たところで、幾らも客は呼べまいと思ふ。
 橘之助が真打でやつて行けるのは、長年の功労の結果といふに過ぎなからう。
 僕の覚えて居るのでは、明治十五六年頃に、寄席へ出た岡本宮子といふのが、非常な人気があつた。最早その時分二十を幾つか越した女であつたらう。岡本浄瑠璃と云つて、新内を語つて居た。何れかといふと、新内もシンミリとしない方の語り方のものであつた。謂はば、常盤津と新内との合の子のやうなものであつたやうに思ふのだ。三味線は、宮子の母親だといふ宮浜といふ四十を越した位に見える女が弾いて居た。一座は、その宮子が真打で、桂才賀といふ老人の落語家と、小蝶とか云つた女の手品師などが出た。で、宮子が新内を語つて了ふと、その小蝶といふのが、又出て来て、宮子と一緒になつて、所謂浮かれ節といふ、どゝ一その他の小歌を唄つたり、宮子が立つて、踊つたりして、うち出しになるのであつた。
 宮子は、少し凸額ではあつたが、眼の涼しい、なか/\押し出しの好い顔立の女であつた。声も可なりに立つのであつた。この女が本郷の若竹などへ掛ると、随分入りのあつたものであつた。
 地方から来て居る書生などで、この女に焦れて、可なりの金を注ぎ込み、それでも、目的を達し得ずに発狂して了つた者があるといふ話であつた。
 宮子は、少し人気が落ちた時分になつて、禽語楼小さんの妻になつた。小さんと宮子では大分年齢が違つていた。小さんの家内で居るうちから、左右柔順でなかつたとかで、小さんの没後は、宮子は甚く落魄の生活を送つて居たらしかつた。
 最早十年程前の、或日の新聞は、宮子が脚気に罹つて、本所の何処かで行き倒れになつて居て、養育院へ収容されたといふことを伝へた。その新聞には、宮子のそれまでの生活が、甚く悪いもののやうに書いてあつた。けれども、ただ、縹緻をのみ頼みに立つて居た女の身だ。当人に口をきかせたら、さうまで落ち果てるには、当人相応の已み難い理由があつたかも知れない。
 色香の栄華は、実にはかないものだ。斯様な小芸人の一生の浮沈でも、しみ/゛\哀れな感を、吾々の心に喚び起すのだ。
 この女、今は、最早生きて居ないかも知れぬ。

  二

 明治二十年以前の寄席は、落語の世界であつて、円朝は元より、円遊のステテコなどは、なか/\大勢の客を呼んだものであつた。
 が、二十二年頃からの寄席は、所謂娘義太夫なるもので客を呼んだ。
 所で、伊東燕尾が、妻の此勝と一緒に寄席に出た時分から、娘義太夫の一座は最早出来て居たやうであつたが、その全盛期に入り掛けたのは、二十二年頃からだと思ふ。
 竹本綾之助の出現は、その時代であつた。その時分の綾之助は、如何にも好い声であつた。吾々が初めて見た時分には、丁髷に結つて居た。で、男だらうか、女だらうか、と、真面目に議論した人もあつた位であつた。中には、男だと思つて、熱心に聞きに行つて居るうちに、女であることが知れて、大いに失望したといふ、薩摩の書生があつたといふ話もあつた。
 綾之助のこの頃の芸は聴かないから知らぬが、昔の綾之助は、それ程上手ではなかつた。ただ声が好かつただけであつた。
 けれども、その出現が、娘義太夫興隆の機運に乗じたものであつたので、年は若し、声は綺麗だし、顔立も好い方ではないにしても、悪い方ではないのであつたから、綾之助の掛る寄席は、いつも大入であつた。
 綾之助の楽才は、美光ほどなかつたのではなからうか。況や呂昇には遠く及ぶまいと思ふ。

  三

 綾之助の時代──即ち明治二十二年から、明治二十五年頃まで──をば、娘義太夫全盛の第一期とすれば、小清の東京の寄席へ現れた時分を第二期としなければなるまい。
 小清の語り物では、『鰻谷』を一番面白いと思つた。戸川秋骨君も僕と一緒に小清を聴きに行つた。吹抜で、小清の『野崎村』を聴いて、『野崎村』に関する感想文を『文学界』に書いたことがある。僕は、小清の三味線の彼の低い調子が好きであつた。
 小清の席には種の好い、騒がしくない客が可なりに入つて居たやうであつた。
 僕が、小土佐を聴いたのも、その時分であつたと思ふ。如何にも引き締つた、好い姿であつた。芸は、堅い、筋の好い芸だと思つて居た。三年程前に、又二三度聴いたが、なか/\好い語口になつたと、感服した。
 瓢が、三福と云つた時分に、五六回聞いた。すらりとした如何にも好い姿であつた。声を張つて出す時に、顔を横へ向ける様子が、未だ眼に残つて居る。その時分ですら、語り振りは渋味のある方に属して居たと思ふ。

  四

 その時分には、寄席は、何様なものが掛つても、可なりの入りが有つたものだ。が、この頃は、一体に、何処も不入のやうに聞いて居る。吾々、、田舎者が、大手を振つて歩ける東京になつて了つては、又、お爨どんさへ三越で買ひ物をし度がる世になつては、寄席へ出る芸人の多数は、時代違の者になつて、寄席は幾らか前代の趣味を解する少数の人々の行く娯楽場になつて了つたのだ。
 本当を云ふと、娘義太夫の全盛期といふのが、寄席の堕落の第一歩であつたのだ。それだのに、今日では、その娘義太夫さえ、或人々に向つては、高尚すぎることになつて了つた。従つて、娘義太夫にも下手が多くなつて居る。
 今の分では、義太夫も、落語も、講釈も、合併して了つて、巧く興行して行くより外為方がなからう。
 所で、今後、寄席へ、相当の芸の、好い縹緻の、若い女が出るか、何うかといふことになると、これは、どうも覚束ないことだ。
 少し渋皮が剥けて居て、雑誌の拾読みでも能きるのであつたら何んの芸も能きぬ者でも、明日から直ぐ女優といふ有難い芸人になれるのだ。いや、当人の勇気次第でもつと金になる商売もあるのだ。
 之に反して、寄席では、何等かの芸をしなければならない。それには、少しは修行が要るのだ。一方に於て、前記のやうな、虚栄心を満足させ得べき方があり、金の入る方がある以上は、何を苦んでか、そんな修行を為る者があらう。何か、特別の縁故、若しくは、事情のある者に非ざる限り、寄席芸人になる女はなかりそうだ。



講 釈

  一

 講釈といふものは、事件の荒筋だけを話すだけのものになりつゝあるやうだ。
 一席講談とか、速記などが、流行りだしたが為めに、所謂無駄な所を抜くといふ傾向が益々甚くなつて、実は、講釈の生命である分まで、抜いて了ふやうになりつつあるやうだ。
 講釈を本当に面白く聴かせやうとするのには、徳川時代の風俗、習慣等をば可なり詳しく、話の筋の間へ織り込んで行かなければならぬのだ。さうでなくば、唯だ昔あつたと伝へられて居る事件の目録を読んで聞かされるやうなもので、趣味あり知識ある聴者に取つては、面白くも何んともないものになつて了ふのだ。
 古い事は、幾ら事実を調べようとしたところで、本当の事実に到達することの能きるものではないのだから、講釈などは、こしらへ事を面白く話した方が宜いのだ。が、面白く聞かせやうといふのには、今のやうに、話の骨組だけ話すだけのやり方ではいかぬのだ。事件には、色を附け、肉を附けていかなければ駄目だ。
 引き事も必要であらうし、説明も必要であるのだ。封建時代の家屋、武器、服装などといふもので、吾々には、滅多に見かけられないやうになつたものが、随分多い。今三十位な人々に至つては、封建時代の物に対する知識は、吾々より尚一層貧弱である。
 講釈が、今後幾分かでも生き残らうとするには、さういふ若い人々に訴へていかなければならぬ。で、さういふ人々のうちの、趣味の発達した人々をも、お客にして行く心算ならば、一見しては、話の筋には直接関係のないやうな事でも、その話の説明に必要だとか、その話の色どりになるとかいふ事は、面白く話の間へ織り込んでいかなければいけない。
 例せば、チョボ一の博奕とは何ういふものか、博奕打同士の外交的作法とは何ういふものか、大名屋敷とは何ういふものか、江戸城の間取りは何うであつたか、髪結床は何ういふ風、湯屋は何ういふ風、といふやうに、さま/゛\な事に就て描写的説明をして行くのが必要であるのだ。
 六十以上の人は、市井の風俗などは、目撃したのであらうから、さういふ人々には、説明なしでも、宜かつたらうが、今の人々の多数に対しては、事件の背景を組みあげながら、事件を話さなければ、本当に分りもしなければ面白くもないのだ。
 さういふ謂はば無駄をば面白がらずに、話の荒筋の運びばかりを急き立てるやうな没趣味な客ばかりを本位にして、やつて行くやうであつたら、講釈は次第に浪花節同様の馬鹿々々しいものになつて、直きに滅びて了ふに違ひない。同じいかさまの話の荒筋だけを話すのであつたら、三味線が入つたり、歌が入つたりする浪花節の方が、講釈よりも、ずつと多く、客を呼び得るに違ひないのだ。
 要するに、講釈は能きるだけ、緻密にやるやうにならなければならぬ。
 所で、さういふ無駄を巧く話すことは、前代の講釈師の方はやつて居たやうに思はれる。で、さういふ事は、今の年老つた講釈師には、或程度までは能きることでありそうだ。
 が、若い連中にそれが能きやうか、それは余程覚束ない。何故だと云ふと、彼等は、古い事を知つて居ないからだ。尤も、知らないでも、古い事をよく調べて、そのなかから、何かよい物を掴み出すまでの識見があれば宜いのだが、今時、そんな事の能きる者が、講釈師になつて居る気遣は先づ大抵ないものと、云はなければなるまい。
 が、骨を折つてやつて見る気のある者があつたら、全然行かぬといふ訳ではあるまい。

  二

 何れにしても、講釈にも種そのものの選択が必要だ。話す方でも聴く方でも、余り特別の知識を持つて居なければ分らないといふやうな話は、廃めて了つた方が宜からう。
 一例を云ふと、三十三間堂の通し矢の話などは、本当に話すには通し矢のことを調べた上でなければいけないのだ。けれども、それを調べるには、余程手間がかゝる。何うも、古書を読んだだけでは、駄目だらうと思ふ。その上に、その調べが附いたとしても、弓の事を知らない聴き手には、それ程面白いか、何うだか、分らない。そして、今の人で、弓の事を知つて居る人は少いのだ。
 通し矢は、武士の華と云はれた程のものなので、通し矢そのものの光景を巧く話して行けば、それだけで、非常に面白い話になるのだが、今云ふ通り、その面白さは、弓の事を知らぬ人には、貫徹しないものであらうと思ふ。
 今の講釈師で、星野及び和佐の通し矢の話を為るのは、通し矢とは何ういふものなのか、大抵は、全然知らずにやつて居るやうに思はれるのだ。
 或雑誌で、桃川如燕といふ講釈師の『三十三間堂誉の通し矢』といふ講釈の速記を読んだが、これが、事実を大分間違へて居る。
 『この星野が、貞享二年四月十五日朝卯の上刻(今の午前六時)より三十三間堂に於て通し矢を致した、夕の六時までに矢数が八千八百八十八矢・・・・所が、和佐園右衛門は、七千本の通し矢を致しました時に、日本一と云ふ額を上げた、今度の星野は、八千八百八十八矢であるから‥‥』
 と云つてあるのだが、通し矢といふものは射る矢が皆通る訳ではないのだから、唯だ通り矢の数だけ云つたのでは、正確ではない、本当は総矢数を挙げて置くべきである。『玉露叢』には、次の如く書いてある。
 寛文八年五月三日
一、徹矢七千七十七 天下一
  葛西園右衛門
  総数 九千
  同九年五月二日
一、同 八千    天下一
  星野勘左衛門
  総数 一万五百四十二
 それから、この講釈では、朝卯の上刻から始めて、夕六時までに、八千八百筋とかを通したといふのだが、これは、嘘らしい。通し矢(大矢数)の時間は、前日の暮から、翌日の暮まで、一昼一夜である。『武用弁略』の四、射事の部、矢数といふ所に、
『‥‥凡矢数を射る様子は、今日の暮より射初て、明日の暮に終也、夜中矢先に篝を焼、扨総矢数何程の内、通矢幾何筋と定也、これを大矢数と云、日の内許射るを小矢数と呼也‥‥』
 常識で考へて見ても、十二時間位で一万射ることは殆ど不可能であらう。五千位の所が道理に合つて居ようと思ふ。
 和左大八郎の所になると、講釈には、
 『大八郎は弓籠手を附け、八分の強弓を把つて広場へ出ると、矢は山の如く積重ねてある‥‥』
 堂弓は何分とは云はぬと思ふのだが、それは余り専門的なことだがら、勘弁するとして、馬鹿々々しいのは、この講釈師は、通し矢といふものは、広場でするものと思つて居ることである。通し矢は、堂の縁へあがつて、射るものなのだ。即ち、堂の縁の小口より小口までの距離六十四間一尺八寸六分(玉露叢)の間を矢を通すのだ。矢が高く上れば、庇裏で遮られて了ふし、横へ外れゝば、縁の外へ出て了ふか堂のハメへ当つて了ふかなので、是非とも低く、狭い間を矢を通らせるやうに射なければならない。で、堂射は難かしいのだ。さればこそ、堂弓、堂矢といふものには、特別の製作が必要になる訳であるのだ。何を箆棒な、野天で六十六間矢を通らせるだけならば、僕にでも訳なく能きることなのだ。見て来たやうな嘘も、これでは余り猛烈だ。ヨタも斯うなれば世話はない。

  三

 この講釈師などは、通し矢は、立つて居て射るものだと思つて居るのだらう。それから、奥山の大弓場か何んぞのやうに、筒にでも矢をさして傍に置いてあつて、それを一本々々取つて射るものだと思つて居るのだらう。
 通し矢は、立つて居て射るのではない。尻へ小さい台をかつて胡坐を組むのだ。そして、右の膝へ、矢を、羽のある方を上にして置くのだ。射放すと直ぐ次の矢を膝から掬ふやうにして取り上げるのだ。この矢は、矢を当がう役の者があつて、それが、射手の膝へ一本々々置いてやるのだ。その矢を置く役が大切な役なので、これは、射手の師匠なり、先輩なりが、勤めるのだ。軽い、苦もなく通る矢ばかり当てがふと射手が余り勢附き過ぎて、直きに力を消耗して了ふので、さういふ時には、重い矢を当がつて、通らない矢が出来るやうにさせて、射手をして、落著かせ、射前を引締めさせるのだ。矢当がいの役は、射手の調節掛りなのだ。後見なのだ。
 それから、的前──普通の射場の時──では、片肌を脱ぐきりなのだが、堂の時には、両肌を脱ぐのだ。腹へは白木綿を巻くやうに聞いて居る。髻は始から断つて了ふか、何うだか、知らぬが、大童で射て居る画を何処かで見たやうな気がする。
 僕も、此位なことなら知つて居るが、余り詳しい事は知らない。尤も、書物から引き出すだけなら、未だ材料は尽きはしない。
 で、通し矢の始め、沿革、天下一の姓名、弓矢、その他の道具の説明などは、措くことにして、星野勘左衛門及び和佐大八郎の事蹟に関する旧記を左に抄出する。

 『矢数の事、濫觴は浅岡平兵衛と云士、慶長十一年、落の三十三間堂において、其弓勢試初しより、相続いて是を励み試む事に成りて、昼夜矢数と云ふ事始り、其辺の達者、追々に先輩の通り矢を射越て、是を総一と号す、世の諺には、弓の天下と呼、慶長より六十余年を経て、寛文の比、吉井助之丞、長屋六左衛門、杉山三右衛門、高山八右衛門、吉見台右衛門杯、其世の精兵、互に総一をいどみ諍ふ、爰に尾州の家土、星野勘左衛門、寛文二年に六千六百余の通矢を射て総一をとる処に同八年、紀州の家士葛西園右衛門と云者、通り矢七千余を以て、総一を紀州の方へ取返す、星野聞之て、此度は国元より八千の幟を染させて持参し、寛文九年五月朔日暮前より射かけ、翌二日午刻迄に、通矢八千本を、望之通容易く射上ぬ、猶も射るべき余慶あれども、左のみ射越なば後日他士の望を失ふべし、然れば弓道の衰微に似たりと、爰に止りぬこそ寔に英雄の志なれ、斯て星野は矢数終て、右の届として京都所司代町奉行へ騎馬にて勤廻り、其馬を南頭に振向て直ぐに島原の遊里に赴き、夜と倶に妓婦に戯れ酒を酌む、其活気宛も平日の如し、見聞人美談せずと云事なし、然してより拾余年之間は、総一尾州の方に止り有しを、貞享の比に至、紀州家士和佐大八頻に是を望稽古に身を委ねて竟に貞享四年四月十六日、昼夜矢数を張行し、総矢数一万三千余、通矢八千百三十三筋の榜を掲ぐ。
  説に曰、此時大八郎、十八九歳、未角前髪の大兵にて力衆人に越て強勢也、しかるに当日射掛り矢振りあしく、通り矢甚だ少し、斯ては願望空しからんと、各堅唾を飲処に、尾州の桟敷に、星野勘左衛門見物して有しが、倩見て思けるは、あたら若者、何とぞ願望を遂させ、弓の総一を譲らばやとおもひ、色々工夫して大八を招き左の手を開かせ、小刀を以掌内を突破り、血を留めさせ、其後射させけるに、夫より忽拍子直りて、竟に八千余の通り矢と成りぬ、星野が工夫凡慮の及ぶ処に非ず、此星野永く世にあらば、また/\総一を射べきに惜いかな、夫より程なく星野世を去りぬれば、其後も度々大矢数張行の人は有ども、是を射越す程の精兵なし、其比迄は、総一他家にはなく、尾州紀州の御両家より、互に競諍へて是を取返し、又取返され、此励み専ら成けるが、大八已後は其沙汰止て、年久敷成ぬ、其後柳沢家、権勢熾ん成し比、右家中米田新八と云者、是を望、数度大矢数を企しか共、竟に本意を不遂、明和の今に至まで、暦数八十余年の間、総一は紀州之御家に残る、此和佐大八は、尤総一を射たりといヘども、其術星野とは雲泥の違ひ也、星野は其態度寛優に余慶有て、●引には、良久しく熟睡して鋭気を養ふ、諸人是を見て、斯ては時移り望を失むと、各取々に評する処に、起上りて射出す所の矢勢、疾風の如く、其矢悉く闇の所を抜て、落矢は稀にも無りしとや、斯くして本文の如く、午時に至程に射上げけるとなん、其世の翁の語りし、是に反して、和佐の矢には振込多く寔の通り矢は少なかりしとぞ、是堂見の方へ賄賂する故なりと悪説せり、其上末に至程、次第に射前をにじり出て、堂檐の半ばにて射たりとて其比評判悪しと也、実に射前を動出るは、通り矢の差別、大に違ふ事なれば、悪みけるも理り也、去る仍り、和佐以来、射前に証拠木と号して、関貫を入れ、不作法を制止す』翁草、二。

 が、この和佐大八の事は、『大江俊光記』に依ると次のやうである。

 『貞享三年四月二十六日、夕飯後出京、三十三間堂に而、赤塚土佐に逢今夕より吉見大右衛門弟子和佐大八大矢数、因土佐縁堂の西、日をゝい下に而見物、暮六つより射出、尤かゞり焼候也、大八射出之作法とて、別成義も無之、袴肩衣も不著、白衣に而、射出す前つる〆、僧ざいをふり上げ、声を上げて次いだす也、通り六七分也、初夜前帰了、二十七日和佐大八、申下刻、矢数日本一に成、通矢八千百三十三筋、総矢数一万三千余、今迄の日本一は、尾州家来星野勘左衛門也、通矢八千八筋』

 因みに云ふが、僕が見た記録のうちでは、一番近い且つ一番詳しい大矢数の記録は、江戸深川の三十三間堂の大矢数に関するものなのだ。それに依ると同所で文化十四年四月十五日に尾張家の臣杉立信吉(藤原正俊)二十二歳といふのが、総矢九千百五十九本、通矢五千三百六十八本、夕七つ時前射越、其後百射、通矢五十九本といふので江戸一を取つて居る。当日の役割は矢宛行には、右信吉の父、権七郎(藤原正邑)と、太田甚太夫とが当り、総目附は山本半左衛門、射前世話●奉行兼は細井主税外二人、矢吟味は加藤鎌吉外一人、分附は鈴木珊輔外五人、射手支度掛りは、長尾勝之助、水野内蔵(町医師)外一人、櫓目附は、宇野七郎外六人、味方扇は小倉鍵一郎外十六人、矢見目附海野太郎左衛門外一人、矢見は細井藤八外四人といふことになつて居る。
 まだその外に、嘉永五年三月二十日に、酒井雅楽頭内、鶴田辰太郎といふのは、総矢一万四十五本、通矢五千三百八十三本で、右杉立信吉をば三十六年目で射越したとあるのだ。
 所が、『武用弁略』に載つて居る所の京都の三十三間堂の役掛りの名称等は、前記の分とは大分違つて居る。即ち『矢先の芝に、人多く再拝を振つて、矢の飛毎に声を立つる、これを芝旄と云、射前にも七八人居て矢を発度毎に、旄を挙て声を掛る、是を送声共、送旄共云なり、又堂見とて六人あり、是は、今の世に弓の流義六派あり、一派に一人宛なれば也、何も矢細工弦細工等の職人也、其日の射手の流義に因て、同派の堂見一人、外の派より一人、凡二人相並で旄を振、是を一の旄二の旄と云、同派の者は、一つ旄を振ず、若射手に贔屓の義も有るべきかとの憚なり、然共其の日の司と成て通を見定む、外に又検見と云て、松井三河と云者あり、右の堂見六人、通矢何程と記せる帳面に判形をして、その証拠と成役人也、されば右に云六派とは、吉田印西、同雪荷、同大蔵、木村寿徳、伴道雪、石堂竹林、此六流也、是皆共に日置の一流より分たり、根本の日置の某は大和の国の士たりと也、日置弾正正次なんど云ひしは、実に弓の名達也』『張前と云事あり、譬ば一二本の通矢にても札に記て、其射手の名を書、堂上に懸也、是も松井三河が検見せざれば慥ならず』

明治の東京




明治の東京
  定価弐円弐拾銭
出文協承認
ア340178号
昭和十七年十二月二十日
第二刷三〇〇〇部発行

印刷日 昭和十七年五月十五日
発行日 昭和十七年五月二十日
         三、〇〇〇部
著者  馬場孤蝶
発行者 湯川龍造
    東京市麹町区丸の内二の二
印刷者 堀 修造
    東京市牛込区榎町七
配給元 日本出版配給株式会社
    東京市神田区淡路町二の九
発行所 中央公論社
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