馬場孤蝶著
 明治の東京
      中央公論社版




古き東京を思ひ出て

  一

 もうそろ/\『東京新繁昌記』といふやうなものが出て来るころになつた。吾々はさういふものによつて、前の東京を大分憶ひだしたが、思へば東京──震災前の東京──は随分変つてゐた。いや、それは東京ばかりではなく、京都、大阪のやうな大都市は勿論のこと、少し大きい地方市ならば、この二十年この方だけの変化でも、実に非常なものであらうと思ふ。現に名古屋の街衢の今の変り方などは、その著るしい一例であることは疑ひがなからう。
 これまでの大部分の都市は、町と村との混合の形であつた。昔の東京の如きは、市のなかに山があり、森あり、畑があり、田さへあつたくらゐである。多くの地方市も東京ほどの程度ではないにしても、何処も余程さういふ風なところがあつて、町と村との境界を何の辺で附けていゝか分らぬといふやうな趣きはあつたらうと思はれる。昔のやうに、世人の生計が楽であつた時代と違ひ、誰でもがさま/゛\の度合に於て、外へ出て働かなければならなかつたので、都市では誰もが、出入りに便利な部分に住ふことを欲するやうになり、市内の住宅の数は見る/\増加し、空地が次第になくなつて行くといふ有さまであつたのだ。東京などでは、大邸宅──大庭園──を持つといふことが非常な不経済であり、不便なことになつてしまつたので、それ等の大きい屋敷が売物に出て、小宅地に分割されるのが多いのだから、空地は今後ますま/\少くなつて行くであらう。
 僕等が少年の時分には、まだ旧江戸の面影だらうと思はるゝやうなものが大分残つてゐた。一例を挙げれば、今の中央大学の前は法学院、その前はイギリス法律学校、その又前が明治義塾、その前身が三菱商業学校であつたのだが、明治義塾時代までの校舎は、昔の侍屋敷のまゝの建物であつた。いづれ何千石といふやうないはゆる布衣以上の旗本か、それとも、も少し大きい小名かの邸宅であつたのであらう、大きな式台で、内には書院らしい部屋もあるといふ、日本建ての家としては可なり広々とした建物であつた。当時はさういふ前代からの遺物である建物が錦町、神保町、猿楽町、今川小路へかけて、幾つも見られ得たらうと思ふ。
 今日も神田の西部は学校町である。だが、その時代はより多く学校町であつた。学習院のあつたのは、いまの商科大学の前あたりで、帝国大学の予備門も、法学部も、理学部も、その南手にあつたのだらうと思ふ。唯医学部と病院は今の帝国大学のある本郷の旧加賀侯邸にあつたのだ。従つて、神田のあのあたりは、本屋町といつてよかつた。勿論、新本のさう出版せられる時代ではなかつたので、大抵古本屋であつた。これはそれより少し後になつてのことだが、駿河台下の停留所の西手の横町あたりから俎橋へ抜けるひどく狭い町が殆ど軒ごとに古本屋であつたことを記憶してゐる人は幾らもあるであらう。此の狭い横町が南の方を取り拡げられて、今の電車通りになつたことは、こゝにいふまでもなからう。駿河台下からお茶水橋へ向ふ今の電車通りも小川町寄りのところは、電車開通のためにできた新道だと思ふ。昔の路はあの坂道の下り口の西手の小さい横町を通るやうになつてゐたのだ。
 谷崎精二氏の前記『東京新繁昌記』中の神田の部には、神保町辺の火事のことが書いてあつたと思ふのだが、あの辺が震災前に焼けたのは、明治四十二三年ごろであつたらうと思ふ。何んでも、春であつたかと思ふのだが、三崎町あたりから出た火で、可なり広い地域へ焼け広がつた。あの辺は二十五六年ごろに大火に逢ひ、その後ももう一回焼けたことがあるやうに記憶する。さういふ風で神保町から錦町へかけての古い建物は、或は焼け、或は改築されて、あの辺は震災前に既に新市街になつてしまつてゐたのだ。
 坪内逍遙大人の『書生気質』には淡路町あたりの横町で、学生が矢場(楊弓場)女に引張られるところがある。なるほど、今の宝亭の横町にそんな家が二三軒あつた。それは明治十五六年ごろのことである。
 淡路町にあつた共立学校は、今の開成中学の前身であるが、高橋是清、鈴木知雄氏等の創立した英語学校で、大学予備門、商業中学等の入学準備の学校であつた。今五六十代の人でそこに学んだ人々は大分多からうと思ふ。田島錦治氏の顔はよく覚えてゐる。僕と同級にゐたのは平田禿木、桑木厳翼、滝精一、立作太郎の諸氏であつた。島崎藤村君もあの学校にゐたことがあるといふ。明治二十年ごろの試験成績表のなかでは、中村利彦(福島)といふ名を見出すであらう。これは堺利彦君の前名で、福島は福岡の誤りである。
 今の万世橋が昔の昌平橋であり、それと今の昌平橋との間に石造の、下が水路を通すために、円形に二ケ所開いてをる橋があり、それを俗に眼鏡橋といつて、それが昔の万世橋であつたのだ。だから、昔の上野への本道はその橋を渡り、川に沿うて右折し、直ぐ左折し、又直に右折して、いはゆる御成道になつてゐた。鉄道馬車の道もさういふ風になつてゐたのであつた。御成道は将軍が上野へ参詣の通路に当つてをつたのだらうが鉄道馬車の通りだすまでは、実に狭い街であつた。あの街は後では古い絵双紙や、絵本を売る店が何軒もできてゐたのだが、昔はあすこで眼に立つたのは、鎧や古馬具や、槍、刀といふやうな古武器を売る店であつた。弓矢を売る店も一軒黒門町あたりにあつたことを記憶する。

   二

 古い絵双紙には、上野公園の入口のあの広場に、風車のあるのがかいてあるだらうと思ふのだが、勿論明治になつてできたものであらう。これは、鉄道馬車ができた時分にはまだあつたかと思ふ。その時分には無論三橋はあつた。この方は極近ごろまであつたと思ふ。切通し下から広小路へ出る今の電車道は近年になつて開けた道で、あすこは板倉侯の邸であつた。その裏手の近ごろまで吹抜といふ寄席のあつた通り──南北の通りは昔からあつた。吹抜の筋向うあたりの西側の路次やうなところを入つたあたりに、大弓場があり、それから南の方の横町に借馬屋があり、狭く短いものながら、馬場もあつて、そこで馬が乗れるやうになつてゐた。それは、十六七年から二十年ごろへかけてのころのことではあるが、それにしても、あの辺でさへ、そんな空地があつたのだから、その時分の東京生活には余ほどの余裕があつたことが推知できるであらう。
 不忍池の縁が埋立てられて競馬場になつたのは何時ごろであつたらうか、今明かには記憶しないが、明治十八年ごろにはもう馬場はできてゐた。そのまへはその廻りは草の生え茂つた極狭い路で、池の周囲がもの寂びてゐて、如何にも風情があつた。その時分にはさういふ池にくつゝいた草径と茅町の池へ面した道路との間には、もう一筋溝川が流れてをり、それに月見橋だの、雪見橋だのといふ土橋がかゝつてゐた。さういふ溝川と土橋は近年まで遺つてゐたが、何時かの博覧会の時か何かに埋められてしまつた。
 森鴎外大人の『雁』といふ小説には、本郷の龍岡町から岩崎邸の裏手を通つて池の方へと下りて行く無縁坂あたりのことが書いてあるので、ひどく興を覚えたことがある。
 大学の東端と丘続きになつてゐる茅町の西側に、忍ケ岡小学校といふのがあつたが、床次竹二郎氏の出身校である。 根津にあつた遊廓が今の洲崎へ移された年代を今記憶しないが、明治十七年ごろまではあすこに娼楼が一廓をなしてゐたと思ふ。藍染橋までは引手茶屋であつたらしく、花暖簾などが風に翻るのを見たことがある。橋から先きが娼楼の区域で、権現の方へ曲つてゐる八重垣町の方に大楼があつたのではなからうかと思ふ。とにかく大八幡の跡といふのが、温泉になり、旗亭になり、後には病院になつて極く近ごろまで遺つてゐたが、それは庭なども見事になか/\の大建物であつた。
 今では、根津の大通りは動坂の方へと突き抜けてをるのだが、昔はあの道は直きに突き当りになつてゐた。その突き当りになつてゐたところと、団子坂から谷中へと通じてゐる路との間は、池などのある邸のやうなものになつてゐたやうだ。或は田などもあつたかも知れぬ。谷中の坂への上り口の右手の方は田になつてゐたのだから。
 団子坂が改修されて長い坂路になつたのは、七八年前かと思ふのだから、あの坂のへんに曲つて下りになつてゐたのを、薮蕎麦と菊人形と共に記憶してゐる人は多いであらう。そして、あの辺の路が今よりもずつと狭かつたことはいふまでもあるまい。
 菊人形といへば、入谷の朝顔のことをいはなければならなくなるのだが、それは上野駅の北端あたりの右方をば、狭いさま/゛\に折れ曲つた小道へと入つて行くのであつた。両側は竹垣やら生籬やらで仕切つた植木屋で、門を入ると、葦簾で高く上の方を日蓋をして、その下へ板で花壇をこしらへてそれへ鉢入りの朝顔を列べてあつた。朝顔は土鉢に植ゑてあるのだが、それをば、陶の鉢のなかへ入れ子にしてあるのであつた。客は薄暗い中で、花の色の気に入つたのを選んで買ひ取つて、自分で持つて帰るなり、配達を命ずるなりするのであつた。七八月ごろの、天気のいい朝は、入谷の狭い路をさういふ客が、花見か縁日かのやうに、ぞろ/\歩いてゐたのであつた。なにしろ、朝四時か五時に起きて、不忍の蓮を見がてら、入谷へ朝顔だけを見に行くといふのだから、随分呑ん気な訳のものであつた。その入谷を東へ抜けきると、その先きは、いはゞ漠々たる水田といつていゝくらゐで、蓮池や稲田が青々と続いて、それを隔てゝ右寄りには浅草寺の塔や堂の屋根が見え、正面には、吉原の娼楼の洋館まがひの塔や円蓋のやうな屋根の一●が見える。全くいゝ気分の眺めであつた。無理のきくものなら、今日までもあのままに遺して置きたい場所であつた。
 朝帰りの客、入谷の朝顔から帰る客は、よく根岸の笹の雪へ寄つて、絹漉し豆腐へ葛餡をかけたのを菜にして、酒を飲んだり、飯を食つたりした。その時分は、笹の雪はこのあん掛け豆腐専門の家であつたが、入谷の朝顔がなくなると共に、料理屋になり、今ではあの辺には芸妓屋ができるまでになつてしまつた。
 入谷の朝顔は明治三十年ごろまでは確かにあつたと思ふのだが、菊人形の方は場所は変つても今日まで遺つてをるけれども、朝顔見物の方は余りに呑ん気なことなので、何時の間にかなくなつて、朝顔は縁日の草花屋が売つてゐるくらゐなものになつてしまつた。
『たけくらべ』の場面に取られてゐる大音寺前──坂本通りの三島神社の角を曲つて吉原の裏手へと行く路──なども、寺などの生籬が道に沿うてゐて淋しい処であつて、浪人が廓通ひの客を脅かしたといふ昔話も憶ひ出せるやうな場所であつた。
 昔の東京は震災までにもう大部分滅されてゐた。そこへ持つて来て、あの大震災であつた。沿革も風情もあつたものではない。なにもかも骨灰になつてしまつたのだ。ついこのごろの新聞には日本堤を削り取ることになつたとあつた。もう別に風情のある場所ではなくなつたのだから、便利のための変革はむしろ歓迎すべきであらう。

  三

 龍岡町の南端、牛肉屋豊国の前に当る、大学の長屋の角の大きい槻の柱に刀でさんざんに切り込んだあとが遺つてゐた。俗には、それを化物柱だといひ、それが夜なかには化物に見えるので、通りがゝりの侍が引き抜いて切りつけるので、あんな痕が遺つてをるのだといひ伝へてゐた。しかし、あれは、酔つた侍などが大諸侯に対する反抗心などもあり、要するに、悪戯心から、すつぱ抜いて切りつけたにすぎないものであらう。
 あれから南への左側、今本郷区役所になつてをるところまでは、麟祥院の枳●垣であつた。その垣根のために麟祥院を俗にからたち寺といつてゐた。この寺は春日の局の菩提所なんださうだが、昔は、切通しの通へもつと境内が出てゐたのだ。明治二十四五年ごろに道を拡げるために、寺の地面を切り取つたので、寺の塀際にあつた榎とか樫などのやうな巨幹の老樹が路傍に遺つて、その蔭に町家が建つた。大きな根張りの木の下小暗きまでに茂つた樹の蔭に、鮨屋などの暖簾が見えるといふやうなのは、なか/\面白い風情であつたのだが、さういふ老樹も何時の間にか伐り倒されて、道は今のやうな有りふれた電車路になつてしまつた。
『夕じほの切り通し坂をわれ行けばあらゝ/\と車飛ぶなり。これは近きころできたるばかな会といへるの詠草なりとぞ』
 そんなやうな意味のことを、斎藤緑雨が随筆のなかへ書いたのは、明治三十年ごろなのだから、まだ老樹が路端にあつた時分のことである。今は、吉原通ひも電車か、自動車になつてしまつたので、朦朧車夫の駈けながら出す『あらよ』の掛け声も聞かれなくなつたであらう。
 本郷三丁目から切り通しへ向ふ街は北側は昔は俚俗盲長屋といつた本富士町であり、南側は春木町であるが、その春木町は、二三度焼けたと思ふ。中央会堂の焼け残りの煉瓦の壁のところへ、夜半の月がかゝつてゐるのを、廃墟の月といふやうな気がして、風情ある眺めだと見て過ぎたことを覚えてゐる。明治十五六年ごろには、中央会堂の横手の横町を入つたところに大弓場があつて、そこでは後に一つ橋の高商の弓の教師になつた窪田藤信(当時は金作)氏などゝ落ち合つたことを記憶する。その大弓場の主の高木清吉といふのはそのあと下谷区西町へ移つて、射場を開いてゐて、明治二十一二年ごろ、そこで画家村田丹陵氏や、今、日本銀行の理事をしてゐる河田敬三氏などと一二度一緒に弓を射たことがあつた。何しろ、大弓場といへば家ともに長さ十七八間に幅二間ぐらゐは要したのであつて、当時では、それだけの地面をば、そんな場末でない部分において、大弓場といふやうな収入の少い商売に使つたのであるから、その時代の一般の経済状態も大抵推定できるであらう。
 本郷座は春木座といつた。僕などはどうも今でもツイ昔の名をいつていかぬ。もう七八年ほど前、ある席でツイ春木座といつてしまふと、座にゐた下谷の老妓にこれは嬉しいといつてひどくほめられた。その春木座も震災までに二度ぐらゐは焼けたらうかと思ふ。昔は大劇場のうちに入つてゐたらしいのだが、中ごろ衰へてゐて、大阪から明治十六七年ごろ鳥熊といふ興行師が芝鶴、鯉之丞などといふ役者の一座を連れて来て大入場を広くし、弁当をひどく安くし、その上に、雨天の日など、客が帰るまでに、客の穿き物を洗つて置くといふやうな新興行法でもつて、ひどい当りを取つた。この興行法は東京の大劇場へまで影響を及ぼして、それ以後は何処でも大入場を取り拡げたやうであつた。
 明治十二三年ごろは大学の構内には、医科即ち当時は医学部といつてゐたのがあつたばかりで、此の旧加賀邸の赤門寄りの方は、茫々たる薄原で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであらうが、黒く塗つた木を框にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのが、ひどく寂しく感ぜられた。門をはひつて右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があつて、冬になると、よく鳩がかしはの腹を木の間から見せた。其所は、加賀騒動のなかの浅尾といふ悪女中を蛇責にして埋めたところだといふ俗伝があつた。けれども、それは古墳の跡らしかつた。十七八年ごろ発掘したが、石垣のやうなものがあつたのみで、別に何も出て来なかつた。どうもその昔一度発掘したことがあるらしいといふ鑑定であつたとか聞いた。
 その時分には、その草原には狐が大分ゐた。夕方など、尾を長く引いた褐色の小犬ぐらゐの獣が、後を見返り見返り草のなかへのろ/\と逃げ込んで行くのをよく見かけたものだ。雪の降る前の夜など、ギヤア──ギヤアといふ厭な不吉なやうな声を聞いた。狐はコン/\と鳴くとは聞いてゐたのだが僕の聞いた狐の声は何時もそのギヤア──ギヤアばかりであつた。ツイこのごろ読んだある書には雄狐はコンコンと鳴き、雌狐はギヤア──ギヤアと鳴くと書いてあつた。それが本当ならば僕は雌狐の声ばかり聞いたわけになるのだが、何んなものであらうか。
 永井荷風君の小説のなかに、君のお住居で狐狩をするところがあつたと思ふ。確かそのお邸は小石川水道町であつたらうと思ふ。昔は少し広い邸などには狐などが何処にもゐたらしいのだ。今は郊外でさへ実際狐のゐるお稲荷さんはめつたにないであらう。
 大学構内には池寄の方に雑木や薮などのある小さい小山があつた。上り路が迂回してついてゐるので、栄螺山と呼ばれてゐた。その頂からは、小石川の砲兵工廠の裏手あたりは勿論のこと、神田、日本橋へかけての下町が、随分遠くまで見渡せるのであつたが、その時分には、下町の方面でも東神田から、浜町辺へかけては、樹木のあるところが余ほど多かつた。家の屋根と、さういふ樹木が錯綜してゐるところが実に心持のいゝ眺めであつた。
 震災前までは、浜町あたりにはまだ大きい庭のある邸が遺つてゐた。俗に細川邸といつてゐた大川端の長岡護美子爵の塀際の樫の樹のことは荷風君も何かで書いておいでなんだが、あの外にも、よほど高い築山が青々と塀の上から見えてゐる邸が水天宮の裏手あたりにあつた。箱崎の上州侯の邸も庭が幾分は遺つてゐたらうと思ふ。そんなのが皆、諸所にあつた緑樹とともにあの業火のために無慙に一掃されてしまつたのだから、返らぬこととは知りながら、如何にも惜しいといふ一言は口から洩らさずにはゐられない。
 筆はこゝで一転するわけになるが、僕の少年時分には、大学の赤門前などは、まるで田舎であつた。確に兼安までは江戸のうちで、それから先きは何うしても宿場といはなければならなかつた。縄暖簾の居酒屋あり、車大工の店あり、小宿屋ありといふ風で、その前をば、汚さを極めた幌かけの危ふげな車体をば痩せ馬に輓かせたいはゆる円太郎馬車がガラツ駈けを追つて通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなほ田舎びてゐるくらゐであつた。
 西片町の台──そこも茶畑であつた──から眺めると、白山下のところはずつと水田であつて、畦間のはしばみなどの雑木のひよろ/\と立つてゐる景色が、夕方などは何ともいへずもの淋しく見えた。それらの田の埋立てられた跡が、今の指ケ谷町の芸者町から南へかけての街区である。


 変りゆく東京

  一

 誰でも、春よりは秋の方が心持がいゝと思ふであらうが、私共は近来、殊に、秋の方が心持がいゝやうに思はれ出した。 誰に聞いて見ても、東京の春が近頃は寒くなつた様にいふ。此の頃では私共は春、袷を着る間がひどく短くなつた様に、思ふのであるが、それは残念ながら、年のせゐかとも思ふけれども、どうもそれ許りではない様にも思はれる。私共は、五月位までは、どうしても綿入で居る。で、袷とシヤツと袷羽織になつたかと思ふと、殆ど一つ飛びに単衣になつてしまふ様な気がする。あまり品のいゝものではないが、素袷で居るといふのは、一寸心持のいゝものだ。近頃では、私共は、決して素袷では居られない。町を歩いてみても、一般に、素袷で居る人を余り見かけない様な気がする。
 一つは風俗の変化でもあるのだらう。即ち誰でも服装をちやんと整へるといふ風になつてゐるので、素袷で飛び出すといふ様な人が余り無くなつたのであらうが、然し一方では、気候の工合が近来違つて来たのが一つの原因であらうと思はれる。
 さうして見ると、私共の様な冬の嫌ひな寒がりになると、春がそれほど有難くない訳になる。却つて、夏の暑さから逃れて秋に入つて行く方が心持がいゝ。
 自然の景色などは、秋になると、グツと落著いて、如何にも冴えた静かな心持を人に印象する事は今更いふまでもないが、今頃になると、東京近所の川筋の景色が何時も思ひ出される。其処の景色を特徴づけるものはあの白いすゝきである。川の堤や、洲に茂つているすゝきの白い穂と、枯れた茎や葉の取合せがひどくいゝ心持に思はれる。場所をあげれば、千住の大橋の上あたり、六郷の川下などの景色がそれである。陽のよく照る日に、川の堤に立つて見て居ると、そのすゝきの間から、和船の帆が静かにゆる/\と出て来るのなどは、如何にも我々のハ─トに、深く根ざして居る心持よい景色であると思ふ。

  二

 東京では此の頃は一帯に空地が尠くなつてゐる。二十年も前までは、牛込、小石川などでも、商業中心になつてゐる部分を少し離れると、一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐたものであるが、今は余程場末にでも寄らなければ、庭と言ふべき様な空地のついてゐる家は余りない様である。
 しかし、東京の空地が少くなり、木立なども段々無くなつて行つた訳であるが、何しろ、幾つもの村落、幾つもの小さい町が、互に発展し合つて連りあつた東京の事であるから、全般的に言へば、未だ中々空地はある。
 私の知人で知名のある文学者は、二三代からの所謂江戸つ子であるのだが、その人が嘗つて京都の高等学校へ勤める事になつて一年ほど行つて居た。
 で、ある年の暮に東京へ帰つて来て、正月になつて私と一緒に電車に乗つて、牛込の田町辺りから、お茶の水まで行つた。その間もしきりに窓から外の景色を眺めて居たが、お茶の水で降りて、橋を渡りかけると、その友人は、微笑を含んだ低い声で、
『東京の景色は雄大だねえ。』と言つた。で、私も笑ひ出して、
『西洋まで行つた君が東京の景色を雄大だなんていふやうぢや、よく/\京都には閉口した様だね。』と答へた事がある。
 確に東京の景色は雄大だ。私は今市ケ谷の本村町に居るが、市ケ谷の外濠の景色は私にとつては何時も心持がいゝ。市ケ谷見附、新見附などから見ると、今頃は高台や濠内の樹の色などが、黄色に色づいてゐて、如何にも秋らしい落著いた眺めである。
 勿論、人工的の景色には相違ないが、始めは人の手で樹を植ゑ、堤を築き、濠を掘つたのであつても、それを自然の懐に任せて少し長く放つておけば、自然はこれを取り上げて何等かの景色にして呉れるのだ。
 東京の町へ殆ど禁錮されてゐる様な我々にとつては、さういふやうな自然の景色の中でも、自由にさ迷ふことが何十分か出来る場合には非常な慰籍になると思ふ。
 私は一体ブラ/\歩くことが好きなのだから、時々用達の帰りに、神田から九段を上り、市ケ谷見附へ出て帰る事がある。その節もある若い人と一緒に、市ケ谷見附へ出て来て、濠端の樹の景色などを心持よく眺め、それから、家の近くまで来ると、ふと、家の廻りを大変心持のいい処だと思つた。
 尤も、その日は前から雨が降つて居たが、その朝から雨が上つて、段々天気は持ちなほして来て、稍々晴れかゝつてゐる午後の二時過ぎ、といふ頃であつたので、急にそんな感じがしたのであらうかと思ふ。

  三

 東京の町は、何処でも大抵市区改正で広くなつて居るので、昔の町の形が残つて居る処は、まことに尠いのであるが、それでもまだ秋には時々昔ながらの町へふと足を踏み込む事がある。
 処で、さういふ町は非常に狭い様に思ふ。さういふ町を目ざして行く場合は、余程気をつけて居ないと、ついその曲り角を通り越して了ふ事もある位である。
 さういふ町の代表的なものを、今一つ挙げて見ると、本郷の松屋の横から台町へ出る横町であるが、あの横町は、突き当つて、左へ少し曲つて、それから台町の方へ真直に行く様になつて居る。あの横町などは或は明治になつて出来た横町かも知れないが、私共にとつては、もう四十年ほどの馴染の横町である。然し住んでゐる人の様子は、ずつと昔より生活程度が何んとなく高くなつて居る様に思はれる。
 勿論、私共の子供の時分に比較すると、家も、建て変つたのが、大分ある様ではあるが、それにしても、其処へ入る私の胸に昔の記憶を喚び起す丈の雰囲気は残つてゐる様な気はする。
 けれ共、今いふ通り何処も彼処も変つて了つた事は確である。あれが本郷通の五丁目だと覚えてゐるが、大学の赤門前を一寸入つた処に、俚俗附木店といふのがある。それは昔組屋敷であつたといふのだが、久米正雄君の家は今其処にある。久米君の家は昔からの家である。久米君の叔父さんに助三郎といふ人があつて、私と竹馬の友なので時々会ふ事はあるんだが、今年の春であつたか、助三郎君は正雄君の家へ訪ねて行つた事がある。が、あの辺も昔は何の家も大抵は垣で囲まれて居て、玄関と門との間に、空地があつたのであるが、今は何の家も、殆ど直ぐ家の入口になつて居る。助三郎君と、「如何も此の道が我々の子供の時分から見ると、大分狭くなつた様に思はれるのだが、実際は外の町が広くなつたので、其処を殊に狭い様に覚えるのであらう」と言つて笑つた事がある。

  四

 私は勿論江戸つ子ではない。生れは地方であつて、東京へ出て来たのは十歳の時である。だから江戸とか東京の旧い事などは直接余り知らない。けれども伝聞した事は可成あるので、時偶には、そんな事を書きもする。それが為でもあらうが、時々江戸趣味とはどんなものかと若い人々から聞かれる事がある。
 私は、所謂江戸趣味などは、次第に亡び行くであらうと答へるより他は無い。前に言つた通り、昔は、狭い町で、人通りもあまりなく、如何にも、ゆつたりした気分で住み得られたのであるが、今は、そんな処でも、電車の音の聞えない処は滅多にない。外へ出ればゆつくり歩いては居られないのだから、人と押し合ひをして、電車に乗らなければならない。さうすると、どうしても、人々の気分が変つて来ると思ふ。それから、家で使ふ種々な器物の工合でも、非常に変つて来て居る。最も著しいのは、瀬戸物の模様である。純日本式の模様の瀬戸物を買ふには、よほど選択しなければならない程である。
 してみると、江戸趣味で行かうといふには、その人が、毎日外に勤に出る必要もなく、又買物でも値に構はず、気に入つたものを買ふといふ事の出来る位地に居なければならないので、一言にしてこれを言へば、江戸趣味はひどく贅沢なものになつて行くのである。さうすると、何うしても一般人はやらうと思つてもやれない事になるのだから、勢ひ、さういふ趣味は人の心から段々無くなつて行くものと言はなければならない。
 言葉なども随分変つて来て居ると思ふ。昔の様にひどく遠廻しな言い方などは、今の人にはまだるつこい事にならうと思ふ。敬語の数なども昔より段々少くなつて行く事であらう。我々の生活が我々の心理状態に種々の変化を及ぼし、これが為に又言葉にも変化を及ぼし、又変化を受けた言葉は却つて我々の少くとも気分を変へてゆくといふ風で、さういふ変化は相作用して、段々我々の思想までも変つて行く事となるであらう。凡てのもの、凡ての事に亙つて、それが変化してゆく事はどうも止むを得ない。只我々はよき方へ変化して行く事を望むだけである。一時は悪い方へ進む様に見えても、結局に於てよき事に達するのであつたらう、その途中の不便不快は忍ばねばならぬ。


変り行く東京語

  一

 出版物の多くなつて来たことと、それ等の出版物が大抵皆言文一致──即ち大体東京語で書かれてゐることとが、東京語をば地方の僻陬まで弘布することになりつつあるには相違なからうが、口語の上では、東京語と地方語との差違はまだなかなか甚だしいやうに見受けられる。さういふ点では関東語と関西語だけの差違にしても随分甚だしいものがあると思ふ。
 けれども、昔──徳川時代──は、少くとも江戸の上流──即ち士分の言葉は、もと/\大体京都の上流語に標準を取つたものであつたのであらうから、地方の藩庁の公式の言葉とは余程共通なるところがあり、少くとも名詞、動詞などで、公用語以外にも、同一なものを用ひてゐたことが少くなかつたやうに考へられる。
 僕の生国は土佐であるが、麻裏草履のことを藤くらといつてゐるのを、少年の時分聞いたことがある。東京ではその時分──明治十一二年頃──でも、もう藤くらといふ語はなくなつてゐたのだが、明治二十年頃東京生れの或る老人と話してゐるうちに、その老人などは藤くらといふ語を昔は使つてゐたことが分つた。
 土佐では、嘲弄的に意地悪く人に言ひかけるのを、きよくるといふ。僕の父母などがその言葉を用ひるのを聞いて、僕は地方語だと思つてゐた。所が、『柳樽』を見ると、『ご立腹などゝ内儀をきよくるなり』
といふやうな句のあるのを以て見れば、きよくるが地方語でないことは明かである。
 義太夫の『泉三郎館』の五斗の生酔ひの唄の中の『けなりかろ』が僕には解らなかつたが、紀州生れの中村啓次郎君が、それは紀州あたりでは今日も用ひる語で、羨ましからうの意味なんだと説明してくれた。ところが熊谷辺から、茨城の利根川沿ひの地方へかけてのあたりでは、今日でも羨ましいといふところをけなりいと云ふのだといふことを、近頃になつて聞いた。
 引窓のことを大阪あたりでは天窓といふのだと聞くのだが、濡髪の長五郎の義太夫は『引窓の段』であつて、天窓の段とは云はない。昔は引窓が東西の共通語であつたものと見て宜しからうと思ふ。
 本を押入れから出して実例を挙げるのは億劫だが、口語に近いものと見てよからうと思ふ。小唄などに拠る時は、東西の言葉──少くとも双方の都会での言葉──が可なり共通の分子を持つて居つたことは窺ひ得られるであらう。
 京都の言葉では──殊に大阪の言葉などは──今日までには、在方の言葉が入つて、余程乱されたのであらうと思はれる。東京の言葉も勿論さうである。殊に明治になつては、東京在来の上流社会は全滅してしまつたと云つていゝ位であるのだから、それ等の社会の伝統ある言葉は消滅し去つて、今日の東京語は主に商人、職人の言葉のみが残つた訳であり、それへ持つて来て、次第に、地方語からの侵略が加はつて行くといふ現状である。
 今日の東京の所謂身分のいゝ人々といふのは、大抵地方の身分の余りよくなかつた人々の末であるのだから、その言葉の如きも、従来の標準語の規模から云へば決していゝものとは云へないであらう。それ等の人々の子弟で今日物を書く人々の言葉の、従来の日本語の格から云へば、甚だ拙いものであるのは、その父兄たちに言葉の訓練が欠けてゐた為であらうと思ふ。

  二

 然し、言葉は死物であつてはならず、必要な変更は進歩の根抵になる訳であるのだから、変遷そのものを拒斥すべきでないことは勿論である。唯吾々の注意すべきことは、吾々物書くともがらが、言葉に不必要な変更を加へて、意義なく従来の言葉を乱すやうなことをせぬやうに心することである。
 従つて、言葉の誤用などは十分に注意して避けなければならんと思ふ。
 小児の戯れにいゝたちこつこといふのがある。これを相報いるの意味で、大人の用語にすることは、誰も知つてゐるところであるが、此の語の末のこつこは総べて澄んで発音すべきであつて、決してごつこといふが如く濁つて発音すべきではないのだ。ところが、近頃の印刷物には、此の語が屡々いたちごつこと印刷されて居るのを見かける。甚だしきに至つては、鼬ごつこと書かれて居るのさへ見かける。
 僕等はあのいゝたちこつこといふ発音のうちに、あの手を順々に互に抓りあふ動作がいかにもあざやかに表現されてゐるやうに思ふのだから、語源は鼬の動作から起つたものにしたところで、これを鼬ごつこと訂正したくない。此の語を用ひる位ならば、矢張り小児の言葉どほり、いゝたちこつこをそのまゝ用ひるのがいゝと思ふのだ。
 言語の知識が貧弱なので、確なことは云ひ得ないが、いゝたちこつこには鼬ごつこ即ち鼬の真似をして遊ぶとか、鼬のやうなことをしあふとかいふような意味はないやうに思はれる。あの語は、小児が手をつねり合ふ調子をば音を以て表しただけのもので、語自身には何の意味もないものであるやうに思ふ。
 ある行為をさん/゛\するといふ意味で、たら/゛\といふ語を用ひる。即ち、お世辞たら/゛\とか、愚痴たら/゛\とかいふのである。此の語は勿論たらと上を澄んで発音し、下をだらと濁つて発音するのだ。ところが此の頃の印刷物には上のたらをだらと印刷してあるのを度々見受ける。尤もこの方は誤植の場合もあらうかとは思ふものの、同じ新聞などで、何時もたら/゛\がだら/\になつてゐるのを見ると全く誤植とも断じ兼る。さういふのなどは、地方の印刷物などでは、必ず誤植通り印刷するであらうと思ふ。従つて、地方で物書く人々は愚痴だらだらといふ語があることと思つて、平気でそれを用ひることになる虞は十分あらうかと思ふ。 
 今日では語源はとにかく、このたら/゛\といふ語の音そのものに、くどく繰返すといつたやうな意味が表はされてゐるやうに、吾々の耳には聞き取れるのであるから、これをだら/\と変へてしまつては、音から来る感じはまるで違ふであらう。
 なんぼ地方の人でも今日では言葉の知識は可なり広くなつてゐるであらうから、まさかにたら/゛\をだら/\と間違へるやうなことはないであらうと、思ふ人は多からうけれども、実際はなかなかさう楽観を容さない。随分な間違ひがそのまゝ伝はる虞が十分あるものと見るのが宜しいと思ふ。
 これは、それとは事かはつてゐるが、ある地方新聞に源太郎馬車といふ言葉があつた。どうも円太郎馬車の覚え違ひらしいのだ。


環状線を廻る

  一

 生方敏郎君が先達て来て、魚藍坂が変つてゐるので、場所が分らず、人に魚藍坂は何処だと聞くと、こゝがさうなのだといはれたといつて笑つてゐた。白金の明治学院に学んだ生方君はこの辺はよく知つてゐるのに、その生方君にまるで分らなくなつたのだから、その変遷の程度はそれだけでもう誰にも想像ができるであらう。
 十月のある日、秋晴れの快い午後、環状線廻りをたのまれて、自動車で家を出た。魚藍は元よりのこと、伊皿子だつても、吾々には、まるで外の場所のやうな気がするまでの変り方だ。街幅の広くなつたのはいふまでもなく、坂の形がまるで昔の形を留めず、両側の家々が石段を上るやうになつてゐたのさへ、全く跡方もなくなつてゐる。
『横町に一つづゝある芝の海』といふ川柳は芝もずつと北金杉あたりをいつたものであらう。僕などの青年の時分には、車町から品川の停車場の間には海の側にはロクに家がなかつた。あの辺の埋め立てをしたのは、牧野如石といふ、烏金でも貸さうといふやうな、したゝか者の盲人であつたといふのだが、海寄りに十軒程を一棟にした長屋建ての商家向の家が建つて、ぽつんと一つ離れてゐてそれにはロク/\住む人もなく、殆ど立ち腐れになつてゐたことを確に記憶する。山手の方にしても泉岳寺前から先きは、低い混礙土の塀や石垣の邸宅が続き一歩裏へ入ると大抵の家は生籬で邸を繞らしてゐるやうな淋しさであつた。それが何時とはなしに、今のやうな、海沿、山手共にあの通りの人家櫛比の現状だ。
 僕のこのあたりに関する記憶などは余りに古いのではあるが、それにしても、変り方は実に驚くばかりの変り方には相違ない。
 停車場から二三町手前の右側(山手)に後藤象二郎伯の邸のあつたことを覚えてゐるが、明治二十一二年頃に、条約改正その他所謂三大建白のために上京した地方有志が後藤邸を訪うた時、後藤家では盛り蕎麦を饗したが、有志の多くは盛りの上からいきなり、汁をぶつかけてしまつたといふ、落し咄そのまゝの話を聞いたことがある。田中君の『旋風時代』が、もつとずつと時代が進むと、そんなことも小材料の一つになるであらうなど、心の中で微笑みながら、彼れ此れと古いことどもを憶ひ出してゐるうちに、車は容赦なく、少し肌に冷たい風を切つて、停車場の少し先きの橋際から、右へ折れて、八つ山を上り始める。
 いよ/\環状線へ一歩踏み込んだ訳だ。此所には勿論昔は路がなかつた。多分森ケ崎とか云つたのであらう。長州侯の邸のなかを新たに切り開いた坂路である。勿論、まだ出来たての路と云つていゝくらゐの新開の路面なのだから、坦々として、まるで何かで拭き取つたかのやうな綺麗さ滑らかさである。このあたり、一帯に大藩侯の邸の多いところであつて、袖ケ崎の薩州邸、大崎の池田(備前)邸の大邸が名高かつた、そんな大邸になると、大厦の戸を開けるのに専任の係があつて、一人で朝からつぎ/\に戸を繰り開けて行くと、最後の戸を開けた時分にはもう夕暮になつてゐて、今度は最初の戸をしめ始めなければならないやうになつてゐるくらゐであつたと、云ひ伝へられて居る。
 そんな大邸宅の建つた時分から可なり長い後まで、猿町の坂を下りると早や直ぐに、一面の稲田であつて、秋ならば黄金色の波満々と風に揺れるといふ光景であつたのだが、それから後、田が埋められてからも、しばらくは、埋立地らしい赤土の広々とした空地を後にして、棟割の長屋が路に沿うて、気のなさゝうな風で立つてゐるのを見たのは、まるで昨日のやうな気がするくらいである。
 そんなことを憶ひ出づると、ここらの街景は全く大変遷の観がある。

  二

 大崎から五反田へ向ふ街路は可なりな商店街をなしてゐる。家々の規模は、相応な地方市の可なりいゝ街筋のありさまと同様である。いや、それどころか、三十年位前の本郷通りなどよりは、余程景気のいゝ街の光景である。
 五反田の記憶は割合に新しく、震災二年前ぐらゐに属するのだが、その時に比べてさえ、開け方は雲泥のちがひだ。これでは地方市の盛り場を凌いでゐる。いや、此の二十年前であつたら、これだけの街がゝりの賑かさの場所は、東京でもさう多くはなかつたらうと思ふくらゐである。勿論、新開といふ何処となく垢抜けのしてゐない雰囲気は濃厚であるが、旧市内だつても例せば小石川の柳町、本郷の肴町、動坂下、下谷の鴬渓などのやうな吾々の眼から見れば新開の空気の可なり顕然とした地区が少くない。いや、数へ立てれば、さういふ新開は旧市内には枚挙にいとまのない程多いのだ。旧市内のさういふ土地の方が開け方は遅々としてゐたといつてよからうと思ふ。
 こゝで、道路は少し大廻りの形になつて、目黒川を渡つて、目黒から渋谷へと亙る郊外の旧市外廓をなしてゐた部分の外輪をめぐることとなる。この川の末が品川へ入つて、本宿と橋向うとを別つのでもあらうかと思ひ、斎藤緑雨に橋向うの意味の説明を受けたことなどを憶ひ出でゝ、心に微笑を覚えたのであつた。しかし、後で考へると品川の橋はこの末ではなささうである。
 僕の昔の記憶によると、下渋谷から上目黒を経て、行人坂あたりまで出て来る路は、旧市寄りの丘陵を左にし、郊外の渋谷から続いてゐる小丘を右にした谷あひのやうなところであつたと思ふのであるが、今の環状線からは右に松林を頂いた丘陵の連亙を見るのみで、左の方には余り高いところを一向に見ない。要するに、下渋谷から来てゐる丘地の西側即ち外廻りの平地のところを環状線が貫いてゐるのだ。
 不動堂へ入る横町を左手に見て、行人坂下あたりを越えるといふと、もう商舗はぼつ/\になつて、郊外の屋敷町らしい気分が顕著になる、右は平地が少し連なつてから、その上が南北に亙る低丘になつて居り、左は極く緩やかな傾斜をなして、武蔵野の外廓的高地へと上つて居る。我等の行く手は先ず大体坦々たる平路であつて、前面の空の藍色広々と仰がれて、好晴の秋日和の気分はいかにもさわやかに快かつた。
 この路は下、中、上と目黒をば目黒川の西岸に沿うて貫きつゝ渋谷へと向つて居るのだ。やがて、路は爪先上りになつて、道玄坂の上の方で、厚木大山街道へと出てしまふ。世田谷へと通じて居る昔からの往還なのだ。
 いはゆる道玄坂から、宮益坂へかけてのこのあたり一帯の変り方は、吾々に取つては、全く桑滄の変も啻ならぬ心持がする。日露戦役の直前ぐらゐまでは、宮益が五六間にしきや見えないくらゐの路幅の、両側には生籬のある邸に沿うての狭いやや急な坂路であり、道玄坂までの間は両側が田圃であり、世田谷街道に食物店といつては、坂を可なり上つたところに、一軒蕎麦屋があるきりであり、丘沿ひに停車場の方へ曲つて行く横町には、それでも一寸とした料理の看板をかけた家があるきりといふありさまであつた。明治四十一二年頃になつてさへ、市内の寄席で、咄家が『この頃は上渋谷の道玄坂などが開けて、あの辺でも変り色の羽織を著た芸者が歩いてゐるといふのだから、東京も大変な変り方だ』などと、話の前置にして話したくらゐであつたのだ。
 大震災の恩沢に浴した土地の一つには相違ないが、それにしても、驚嘆に値する開け方だと思ふ。こゝを起点にする電車線が二三線ある通り、懐は十分広い地区である。まだ今後の開け行く余地はあるであらう。

  三

 路は宮益の坂下から左へ折れて迂曲しつつ新宿へと向いてゐる。
 もうどうしても三十年の前であるが、新宿駅から渋谷へ出る路が、一半は生籬の傍に亭々たる大木の槻並木のやうに列んだ東京郊外特有の農家めいた邸の連続、一半は茅、薄の茫々と生ひ茂つた高低のある広野といふ風で、如何にも野趣満々たる景致であつたので、それが全く気に入つて、当時下渋谷在住であつた与謝野寛君を訪ふ時など、わざ/\新宿で下車して、渋谷まで徒歩したものであつた。今その路はどのあたりなのであらうか。今はもう一体に人家もふえ土地も平にならされ、まるで見当がつかなくなつてしまつてをるのだが、地図を見ると、昔のその路は代々木練兵場のなかへでも入つてをるのではなからうかと思ふ。さうだ、右手に衛戌監獄のあつたことを覚えてゐるものだから、今の渋谷区の代々木深町、神園町、神南町、宇田川町といふやうなあたりに当るのであらう。
 われ等の自動車は新宿に近づくに従つて、如何にも潔げな可なりな大きさの別墅風の邸宅の続いた町を通る。昔の番町、駿河台などの面影がこんなところに残つてゐるやうな心持がした。遠い郊外へ出ると、郊外とは名のみで、余り庭もないやうな家が建ち続いたり、さもなくば、周囲が余りに野味が多く、何んだか農家の仮家ではないかといふ感じのするやうな半洋館を見るのであるが、さすがに此の新宿裏あたりの屋敷町には何処までも日本式らしい建築の十分な落著があつて、結構だと思ふ。どうせ他人のものなのだからどうでもいゝやうなものの、どつちがいゝかと云はれゝば、かういふ風に手のかゝつた小綺麗なものの方がいゝと思ふ。塵一つ落ちてゐないやうな、清潔な静寂な此の町の気分はまことに快かつた。
 新宿近時の発達は全く文字通りに駭目に値するといはざるを得ない。いはゆる馬糞の臭ひと嘲けられたのは余りに古い昔ではあるが、両側にあの薄ぎたない暖簾をかけた陰鬱な大建物の間に、ぽつ/\と見る影もない小商店の介在してゐた時分から、今の繁華の街路までの発達は殆ど一足とびの観がある。殊に旧市内より最も遠い部分が中心になつたのは、停車場のお蔭、即ち、郊外開進の恩沢といはざるを得なからう。震災の恩沢も十分ある事はあるが、新宿附近が殷賑を極むるに至るのは、単に年月の問題であつたので、震災はただその時期を早めたに過ぎないであらう。この勢ひで行けば、東京の繁華西遷の期が遠くはなからうかと思はれるくらゐである。銀座よりもこゝは卑野であると人はいふであらう。ところがこの野風が今の人人を引きつける力があるのだ。大衆を引きつけるにはこの野風でなければ駄目だ。銀座がだん/\この野味に降参しだすと共に、やがては、新宿の方がその繁華において凱歌を奏するの日が来るのではなからうか。
 古い小咄に、行倒れの日記といふのがある。無論、偽つて行倒れとなつて、人から恵みを貰ふ乞食の日記といふ意味である。
 『○月○日、神田にて行き倒れ候節、むすびに銭○文。○月○日麹町にて行き倒れ候節、灸とむすび。○月○日、青山にて行倒候節、灸ばかり』
といふのだ。これは当時の各地区の人気と生活程度を暗示した笑話だと思ふのだが、昔は山の手といふのは、かういふ風に蔑視されてゐたものであるが、これからは、新宿あたりの気分は一変して、却つて、下町の人気を笑ふ日が来ないとは云へなからう。とにかく今日の下町は住民の心持が一変しつゝあるやうな気がする。古い東京は却つて片隅の四谷、新宿のあたりに残つてゐるのではなからうかといふやうな気もする。
 寄席などでは神田の立花が振はなくなつて、四谷の喜よしが東京で第一の入りの多い寄席になつたといふ事実の裏には、東京の文化の配置とその変遷とについて何ものかを語るものがあると思ふ。

  四

 京王電車の発著駅から先き数町のところは路面がまだ出来上つてゐなかつたので車は大通りを右へ少し直行してから、左折して狭い新宿の華街を抜ける。
 いはゆるナイト・クラブの店がゝりは、入口に目隠しのやうなものが出来てゐる。洋館まがひの建方、夜見ればどうだか知れぬが、白昼の光線の下では、如何にも陰鬱な景気の悪いものに見えた。どうせ変態の場所には相違ないが、かうまで普通と違つた重苦しい空気を作らずとも、何んとか工夫のありさうなものだと思はれる。
 左側の褐色に塗つた家の入口には、まだ三十にはならぬと見える例の妓夫君が退屈さうに、粗末な椅子に腰を下してゐた。かういふ職業も今にどうなるのであらうか。その伝統の能弁と機智などは何処へ用ひられるのであらうか。
 ひどく古い事をと思はれるであらうが、昔ある友と、吉原の狭い町を歩いてゐると、とある店から、『寄つてらツしやい。舶来とジヤツパン』といふ声が掛かつた。それは揚屋町へ曲るあたりの河岸であつたと思ふ。いふまでもなく、友は和服、僕は洋服であつた。
 五年程前かと思ふのだが、僕の数字の誤記のために、ある人の旧居の位置が不確になつたので、増田龍雨さんを引張りだして、吉原裏のあたりを見てもらつた。その途中、増田、久保田万太郎、平林襄二、新潮社の某君、及び僕と五人で廓内をば、揚屋町の門へと抜けて行くと、ある町の楼の前に立つてゐた若い妓夫君が、白昼のことではあり、気がなさゝうに『おあがりなさい。名誉職のお方』といつた。
 吉原の小店では、昔は妓夫君が上つた客の勘定の工合を、前以て客の履物で鑑定したといふ。あと減りのしてゐるやうな、少し履き古した履物であつたら、安心だが、小粋な真新しいのめりの薄手の駒下駄などだと、この客は、翌日は馬だと覚悟するのであつた。ところが、近頃になつては、それが反対になつてしまつた。つまり、履物も順当に、金銭のある者が新しい下駄を穿くやうになつてしまつた。履物だけは、見すぼらしい物を用ひないといふでんぼう、てつかの伝統が消えてしまつたのだ。こんな話を余程前に聞いたことがある。
 店頭の素晴しき能弁も、通りすがりの客にからかふ縦横無碍の機智も、元より吉原の妓夫君の殆ど独擅のものといつて宜しかつたのであらうが、かういふ不思議な職業気質などは、遊廓の衰微と共に、遠からず消滅し去るものの一つであらうと思はれる。
 世の中が穏当に平坦にされて行くのは、まことに目出度いことではあるが、古き世の悠長さを伝へてをるさま/゛\の、延びやかなる馬鹿げた物や事が、つぎ/\に進化変転の大波に洗ひ浚はれて行くを見るのは、如何にも心淋しいことである。
 こんな用もない追懐にふけつてゐるうちに、車はもう大久保の大道を北へ向つて驀地に進んでゐる。やがて、戸山練兵場の裏手である。それからは、直きに戸塚の源兵衛の踏み切りの東を通る。こゝを流れてゐる川は神田上水で、この末が小石川の江戸川になる。この川の沿岸の変遷もこれまた非常なものである。今より二十年も前には、源兵衛あたりは田舎の村の路に過ぎず、今の早稲田の市電の終点から流れに沿うて、関口の大滝に至るまでは、野川の堤防で、蘆荻いやが上に生い茂つてゐた。対岸には、工場らしい家が一軒、それから、大分飛んで古い鳶色の藁屋の屋根が見えるぐらゐなものであつた。
 環状線が川を越すところから、少し下流に面影橋といふのがある。しかし、こゝは昔は橋などのなかつたところではないかと思ふ。『南向茶話』に出てゐる姿見橋一名面影橋といふのは、穴八幡下にあつた橋ではなかつたかと思はれる。

  五

 牛込の馬場下から、戸塚の方へ行くには、穴八幡の下の狭い坂を上るのであつたが、その上り口のところに古称蟹川といふ小流があつて、それに小さい橋がかゝつてをり、その橋を渡つて、早稲田大学の方へ行くやうになつてゐた。橋の袂にそば屋のあつたことを記憶する。即ち、その橋が、和田靱負守祐の女於戸姫が良人の敵村山三郎武範を討つて後、身を流れに沈めて野川の底の藻屑と消えたといふ伝説、又、将軍の鷹野の時、外れた将軍の愛鷹がこの橋までその姿が見えたので、鷹匠が追つて行つて捉へたといふ伝説のある姿見橋即ち面影橋ではなかつたかと思ふ。
 それはとにかくとして、この辺りは実に途方もない大変転だ。そんな小流は埋められ、橋などはとつくになくなり、穴八幡の前の坂にしても、もうなくなつてしまつてゐるのでなからうかと思はれるくらゐである。
 さて、吾々の行く道は、現今の面影橋、即ち、戸塚から北へ真直に鬼子母神へと上つて行く路に架した橋から数町西の方で、神田上水、即ち井の頭上水を越して、高田へ入り、学習院の角で川越街道を横断し、鬼子母神から数町の西を廻り、小曲折をなして池袋へと通じ、巣鴨の山手線の少し手前で、大塚からの新道路を越え、やがて、その先きで鉄道線を横ぎつてゐるのだが、このあたり一帯が見渡す限り青々とした菜圃であつたのは、まるで昨日の事であつたやうな気がする。恐らくは精精十五年ぐらゐ前から開けはじめたのではなからうか。この辺では、路が山形をなして曲つてゐる。大久保からこゝらまでの路になると、もう十分に郊外気分が濃くなり、旧式の手輓きの荷車などの往来を度々見かけたのであつた。
 巣鴨の踏み切りから以北は、路は殆ど直線をなして西巣鴨町を貫き、庚申塚の北で中仙道を横ぎり、滝野川を通つて一路飛鳥山へ突き当る。勿論昔の本郷からの路へは直角をなして合してゐる訳である。この桜の小丘を見るのは、何年振りなのであらうか。恐らく四十何年か振りではなからうか。昔はこゝをもこんな狭いところとはわれ/\は思つてゐなかつた。神田の学校はこゝまで運動会をもつて来たのであつた。当時の市内に公共用の空地の少かつたことと、それ等の運動会の小規模であつたこととが、これで直ぐ想像し得られるであらう。いや、今日の若い人々にはそんな想像はしがたくつて、却つて嘘の話のやうに思ふくらゐであらう。昔と違ひ四辺も丘上も小ざつぱりと清潔になつてゐるので、なほ一層山の地域が狭いやうに吾々の眼にも見えるのであらう。
 前に挙げた『南向茶話』は酒井忠昌の著で、寛延四年の手記のものであるらしいのだが、このあたりより青山百人町までは昔の鎌倉海道であつたといふ記述がある。即ち逆にいふと、千住から王子の脇の谷村即ち豊島村へ出て、滝野川、雑司ケ谷、護国寺後、高田馬場、大久保、千駄谷八幡前、原宿を経る路で、さういふ時代には、豊島村がこの郡の府であつて、百人町から小田原へ向ふ路をば俗に中路と称へたといふのである。さうすると今吾々の通つて来た環状線はこの大昔の海道であつた。全くの野中の路ともいふべきものの、西側の外廻りをば大きくぐるうりと一廻りして、こゝらあたりで、その古道に合したことになるのらしいのだ。ところで、青山からの中路といふのは、今の渋谷を通つてをる厚木大山道と大体同じものではなからうか。ともあれ、この中路は小田原まで十八里で、日本橋から行く東海道より二里近いと記されてゐる。
 こゝで前記の面影橋のことが気になるので、嘉永板の江戸地図を見ると、今の面影橋と同じ位置に橋がある。『南向茶話』には『高田の末より向うへ渡り候橋』とあるのだから、どうもこの橋らしくも思はれる。前記の蕎麦屋の傍の小橋だといふのは、筆者の記憶違ひなのであらう。

  六

 今仮に、飛鳥山から千駄谷あたりまでへ直線を画いてみると、環状道路はこれに対して、大凡抛物線の形をなしてゐるともいへるであらう。
 さて、路線はこゝで飛鳥山の北横を小廻りして、低い傾斜を下り、東北線の鉄路を越える。こゝの川は名主の滝をなしてをる石神井川で、本流は殆ど真直ぐに東へ向ひ、豊島と小台との間で荒川へ注いでをるのだが、支流は飛鳥山から上野へ連亙してをる丘陵の東麓に沿うて南へ向ひ、根岸へ入つていはゆる音無川となつてをるのだと思ふ。
 今はその音無川も川ではなくつて全くの泥溝になつてしまつた。今から四十年ぐらゐ前までは、旧市内でさへ、少し場末へ行くと、可なり水の澄んだ、小魚の影ぐらゐは見られるやうな小流があつたものであつて、それらが町家の間にあつて、一種の半都会的の景物をなしてゐたのだが、それらの風情ある小流は大抵は皆埋められてしまひ、僅に残つてゐるものは、水汚れ、流れ細つて、小虫さへ住まぬ泥溝になつてしまつた。沿岸一帯に人家の稠密になつた結果で、是非なきところである。
 このあたりから、吾々の車は車頭を東南へ向けて、三の輪をさして急ぐのであつたが、尾久駅あたりからは、さすがに沿道に雑草の生ひ茂つた空地が見えて、如何にも郊外らしい空気が濃まやかである。家々の規模も余程小さくなりだした。路は滝野川区の東北端をかす/\のところで横ぎり、荒川区の南寄りを東へと貫いてゐるのだ。
 昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。
 今この新市の北端に住む人々を旧市からの敗残者であるとはいひ難からう。これ等の人々は、一朝運来らば、大都の中心を一気に攻略せんがために、空拳先づ外郭より攻め落さんといそしむ勇敢なる小市民であらうといひ度いのだ。
 尾久駅の傍を過ぎてからであつたと思ふのだが、両側の家々が殆どみな仮小舎のやうな小屋になり、商品が路傍へ滾れ出したやうに列べられ、まるで、露店の街のやうに見えるところがあつた。さういふ街の中心へ入る前、右側に、菊の鉢を歩道の縁へまで列べた植木屋らしい店を見かけたが、この霜に傲るといふ豪華な花の紅黄白、色とり/゛\の豊艶な姿が、四辺のくすんだ物の色のなかから鮮かに抜け出してゐるのが眼にはひつた。
 古著の店、古靴の店、古金物の店、露天向の玩具の店、新品ながら三等品、四等品と見えるさま/゛\の商品をごた/\と店先きへぶちまけたやうにならべた小店、それ等の店が皆屋根は、塗りも汚れきつた古亜鉛を屋根にした、仮小舎用の細い柱の、形ばかりの小舎である。どう見ても、片田舎の市場でもなければ、都会では到底見られない雑然たる光景である。要するに、此所が都会と田舎との境目といふ感じではあるが、それでゐて、田舎には見られない不思議な一脈の活気が漂つてゐるやうに見える。
 大都会といふ多足の大動物はその触手をさし伸して、周囲の村郊を腹中に抱入せんとするといふのであるが、この大蛸たる大東京は、これ等雑然、混然たる北郊の一角をば、その吸盤多き手で吸ひ寄せ得るであらうか。土地そのものはすでに吸ひ得た。希はくは、今の住民諸君を圏外へ押し退けることのなからんことを望む。

  七

 ある人々は、これ等の商店、商品の雑多にならんでをる有様から、支那にある泥棒市の光景を憶ひ出したといつた。このあたりの商品は勿論贓品ではなく、人も決して犯罪者でないことはいふまでもないが、支那の泥棒市といふのは、甚だ面白いものだと聞いてゐる。盗まれた品物が、翌朝早くその市へ行つてみると、必ず何れかの店に出てをつて、僅の金で買ひ戻せるといふのである。普通吾々は中古でまだ使へる品物を盗まれた時には、同じやうな中古の品を見附けて買つて来るといふ訳には行かぬのであるから、誰しも新しい品を新に買ふことになる。さうすると、それは吾々に取つては甚大な負担になることはいふまでもあるまい。ところが、泥棒市の如きものがあつて、そこへ早く駈けつければ盗まれたその同じ品が新品の三分の一なり、五分の一なりで買ひ戻せるとすれば、盗難から来る損害は極めて小害で済んでしまふ理窟である。文化の進まざるところ、治安の行政の行きとゞかざるところには、またそれはそれで一種奇妙な便法が行はれるものだと、微笑を禁じ得ない訳である。
 路は三河島の東端から、なお一層南へ曲折し、常磐線の鉄路を越え、三の輪町へ入る。ここは下谷区であつて、その北がいわゆる骨即ち小塚ツ原である。やがて、路は三の輪車庫の裏手数町のところで、正東へ転じ直きに浅草区の文字通りの最北端を通じてをる。その幾分下谷寄りのところで、花川戸から千住へ通じてをる陸羽街道を突つ切るのであるが、その北、鉄路を越えたところが、往時の小塚ツ原、即ち南千住であつて、近年までこつの娼楼が数軒淋しげに路傍に列んでゐた。浄瑠璃などにある小磯ケ原といふのはこゝであらうと思ふのだが、線路の下に濡仏が見えたことを記憶する。今はそれはどうなつたのであらうか。或はこの辺少し鉄路の模様が変つたのではなからうかと思ふ。とにかく、上野から行くと、鉄路の土手下、右手に大きい青銅の濡仏があつたと思ふのである。
 地図で見ると、このあたりでは環状道路が浅草の北の区界ぎり/\のところを東へ通つている。恐らくこの道路の北側は荒川区になつてをるのではなからうか。地方今戸町から南干住へと出る路は大昔は隅田川添ひの沢地であつたと見え、ところどころ沼のやうなものが見えて、じめ/\した如何にも場末らしい見すぼらしい地域であつたのだが、今はなか/\潔げな物静かな街路になつてをる。文明の恩沢といふべきところであらう。
 吾妻橋から以北、千住大橋までは、吾々の知つてゐる時代は勿論、幕政時代にも橋は一つもなかつたやうである。ところが『南向茶話』を見ると、左の通りの記述がある。
 『橋場辺の義、此地の古老物語りにいにしへこゝに橋有候故、橋場と号しけると云、その儀尋候所に、只今隅田川渡し舟有之候所より川上壱町程に古の橋杭残り、折ふし往来の船筏にかゝり候由なり』
 橋場の渡しは近年は寺島の渡しと呼ばれてゐたのである。この記述によるとすれば、現今の白鬚橋附近(或はその少し下流か)に往時──寛延よりずつと以前──橋があつたものと見なければならぬことになるのである。
 路は、その白鬚橋を渡つて、向島区へ入る。即ち、この頃まで、向島の寺島村、隅田村と唱へ来つた地区である。路線は白鬚神社のところから、斜に東南へと向ひ百花園を右にし、玉ノ井を左にして、昔の吾嬬村の方へと向つてをる。また『南向茶話』を引くが往時の本所は現今の地区よりはかなり北までをいつたものらしい。

  八

 その『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。梅若の事跡については、猿楽伝といふ謡の由来及び謡の家元四太夫の家伝を記した書物には、家康の関東入国後、武蔵の国を謡つたものが余り少いので、命じて梅若事跡の隅田川の謡を作らせた。その頃、夫婦の非人があつて、梅若の有様を物真似して歩いたといふのだから、余りさう古くからの伝説ではなかりさうである。ある説には、事跡は上古円融院の時代(凡九百五十年前)の事だといふのだが『茶話』の筆者は、それよりずつと後の足利時代乱世の頃のことであらうと思ふと記してをる。又、文明の頃(凡四百五十年程前)五山僧横川叟景三の詩集にも梅若童子悼といふ詩があるから、或はその時代のことかも知れぬとある。それから又この土地に業平天神その他業平に縁故のあるらしいやうな地名があるのは、伊勢物語にある都鳥の歌などから、業平を祭ることになつたが為であらうといつてある。それに因んで憶ひ出すが、荻生徂徠の『南留別志』には、伊勢物語は歌の作例を示したものであらうと思ふ。これを伝記的価値のあるものとするのは誤りであらうとあるのだが、これは道理ある説であらう。
 一体、本所の郊外寄りは、小梅といひ、中ノ郷といひ、割下水といひ、砂村といひ、縛られ地蔵(これは仮作)、置いてけ堀、狸囃子等のいはゆる本所の七不思議等さま/゛\の伝説に富み、且演劇、小説の場面に使はれてをる地点を多く有する地区である。大都の場末ではあつたが、それでも交通その他の関係で、人的交渉が多かつたので、山手よりは多くさま/゛\の物語のなかに使用されるに至つたのであらうと思ふ。
 環線道路は、曳舟川を越し、直線的に進んで、をむらい(小向井?)に至つて、右へ向けて少し弧線を画き、福神橋で北十間川を渡り、房総線の亀戸停車場の西側を掠めて南向してをるのであるが、吾々が往時は郊外の果だぐらゐに思つてゐたところの押上、業平、柳島、亀戸天神などはこの大路線からいへば、西側、即ちずつと内側になつてしまつた。これだけでも、市域の拡大したことの概念が得られるであらう。
 街路は荒川区の場合とは違ひ、さう新開らしい珍奇な光景は見られない。勿論、所がらさして目立つ程の活気は見られはせぬが、両側の小商店皆かなりな落著を見せてゐる。甚だしく新しい新開の地域でないためかも知れぬ。福神橋のあたりは天神の直ぐ裏手に当るくらゐなのだから、この辺などは割合に早く開けたものと見て宜しからうと思ふ。
 北十間川を越えると、区は城東区になり、町は亀戸町になる。新市はまだこの先き放水路を越して、北から足立区、葛飾区、その南に江戸川区と、下総との国境江戸川縁にまで広がつてゐるのであるから、もう、尾久、三河島、向島、亀戸あたりを郊外の新開のやうに思ふのは、吾々の全く時代後れの考へである。
 又、西の方でいへば、板橋区、中野区、杉並区、世田谷区、その南で荏原区、大森区、蒲田区といふ風に、神奈川県との県境、六郷川まで延長してをる、新市は全くとてつもなく広がつたものである。
 さて、環線道路は五ノ橋で竪川を渡つて、大島町へ入つてから、現今のところ、少し未了になつてをる。この路線は新市からいへば、外廻りの路ではなく、むしろ中心に近い目黒、渋谷、淀橋、豊島、滝野川、荒川、下谷、浅草、向島、城東区の十区を貫通するに過ぎないのであるが、しかもなおその幅凡十三間、延長十里に垂んとする大路線なのだ。



時代に取り残された乗物

     川蒸気とガタ馬車

 明治の始め頃と云つたところで、僕は十二三年頃から此の方のことしか知らぬのであるが、僕のさういふ記憶のなかにある事柄から云つても、交通の機関は、少し遠路に渉るものであるとすると、汽船と馬車(乗合)であつたやうだ。
 九州とか、四国とかいふやうな島内の各地から本土への交通は、封建時代に於てすら、船)によつたのであるから、汽船が使用されるやうになつて、それらの土地から京阪とか東京などへの交通が汽船によつて行はれるやうになつたことは云ふまでもない事であらう。
 のみならず本土の方でも、例へば入海とか湖水とかいふやうな広い水の上では、昔も可なり小舟を交通の手段に用ひたところがあつたやうであるが、さういふ場所では、明治になつてからは間もなく小汽船、所謂川蒸汽を用ひるやうになつたらしいのである。
 現に僕は明治十一年の初夏(寧ろ晩春か)琵琶湖をば、小汽船で、大津から米原まで来たことを記憶して居る。船が何噸ぐらゐなものであつたのか、時間が何れ程掛つたのか、さういふ点になると、何うも記憶が朧気である。それから又、その船は彦根の松原あたりから、支湖へ入つて、直接に米原へ着いたかどうか、さういふ点も判然とは覚えてゐない。けれども、その時分、もう既に琵琶湖を渡る定期の小蒸汽船のあつたことだけは確である。勿論外輪式のものであつた。
 又、その旅で、浜名湖を非常に小形な汽船で渡つたことも記憶して居る。これは今瀬戸内海で見る島と島との間の渡船で、石油汽缶の附いてゐる極く小形の船があるのであるが、浜名湖の渡船も大凡そんなくらゐの大きさのものであつたやうに思ふ。薪を焚いて汽鑵の湯を沸してゐたやうにさへ思ふのだ。
 さういふ風に、所謂川蒸汽の記憶はあり、人力車に乗つたことも勿論記憶して居るのだが、乗合馬車に乗せられた記憶が少しもない。これは僕が忘れてしまつたのではないと思ふ。自分が乗つた覚えがないばかりでなく、乗合馬車の駈けて居るといふやうなところをさへ見たこともないやうである。
 その時分の東海道などでは、余り乗合馬車がなかつたのではあるまいか。駕籠舁から変つた人力車夫が多かつたので、乗合馬車を通ずることができなかつたといふやうな理由があつたといふ風に考へられないこともなかりさうである。
 しかし、東京では、交通路が大抵陸路なのであるから、乗合馬車はかなりに広く用ひられたやうである。船の交通、即ち汽船による交通が開けた土地、例へば東京と横浜との間の如きでも、汽船と共に乗合馬車の交通が開けたらしく思はれる。勿論、これは、汽車の開通するまでの事態であつたのだ。
 両国から、江戸川へ入り、大利根へ出て、銚子まで下る航路の如きは、隅田川の所謂一銭蒸汽よりも早く開けたのではなからうか。とにかく、一銭蒸汽は鉄道馬車より少し後になつてできたもののやうに記憶する。但し、さう云つても、もう明治二十二年頃にはできてゐたやうに思ふのである。
 昔から、今日のやうに、客船の部分が曳船になつて居つたのであるか、どうか、それは僕には何んとも云へない。しかし、曳船式ではなかつたやうには思ふ。
 僕はあの船には余り乗つたことがないので、知つて居ることがまことに少いのであるが、鉄道馬車ができてゐても、それは極端に幹線だけであつたのだから、あの川をば、例へば両国から言問まで、あの汽船で横ぎるとするならば、鉄道馬車で雷門まで行き、それから、竹屋まで歩き、渡船で向うへ渡るといふのより余程足数が少くて済んだであらうと思はれる。費用も同額ではあつたかも知れぬが、川蒸汽の方が高かつたことはなかつたらうと思ふ。
 朝吉原を出て、公園附近で食事をしてから、向島の方へ行く人々に取つては、吾妻橋からあの汽船に依るのが一番便利であつたらうとは、想像に難くない事柄である。
 今日まで東京に永く住つて居る人々であつたら、大抵の人々があの汽船に就ては、さま/゛\な記憶を持つて居られるであらうと思はざるを得ない。
 斎藤緑雨の『ひかへ帳』のなかに、次のやうな一項がある。
 『もとより、途中の出来心なれども、試みにとその友に誘はれて、いつなりしか壱銭がところをこれに乗りぬ。室内に座蒲団の配置してあるを見て、日本も感心に行届いて来たと、友は肥太りたる体をむずと其上にすゑしに、船の進行しはじめたる時、隅なる男の手を差出して、蒲団代を頂きます。それはと今更退けもなり難くて、われとともに三枚分は、甚だ割の高きことなりし』
『壱銭がところ』といふのは無論一区分の意味であることはいふまでもないであらう。緑雨の此の友といふのは、緑雨の竹馬の友と云つていゝくらゐの上田万年氏であるらしく思はれる。
 明治四十二年頃かと思ふのだが、ある夏の午後、田中貢太郎君と一緒に両国からあの船で千住まで行つたことがある。今日の白鬚橋あたりかと思ふのだが(勿論その時分まだ橋はなかつたと思ふ)、川のなかに蘆の繁つてゐるところなどがあり、一帯に所謂寂し味のある景色で、其のあたりが何んとも謂へず心持がよかつたことを今日も尚忘れ得ないで居る。

 東京では、乗合馬車は早くから市内は勿論、中仙道、奥州街道などへ向けても、開通して居つたといふのだ。雷門から新橋まで二階づきの馬車が通つてゐたことがあつたといふ記録はあるのだが、明治十一二年頃には、もうそんな馬車は通つてはゐなかつた。のみならず、所謂大通りを二階なしの普通の乗合馬車さへ通つてゐたことを僕は目撃したことはないやうに思ふ。
 御成道即ち万世橋外から、伊藤松坂屋のところまでの路はその頃は極く狭い路であつた。人力車が二台横にならぶともう一杯になるであらうとさへ思はれるくらゐの細い路幅であつたので、あのあたりなどは、乗合馬車は到底通ることは許されなかつたのであらう。御成道は特に狭い路であつた。幕政時代には何か理由があつてあゝいふ風に狭くしてあつた路であつたかも知れぬ、と思はれるくらゐのものであつた。
 筋違即ち、大凡今の万世駅のあたりから、神田明神前、本郷通り、追分、白山前などを経て、板橋へ通ふ乗合馬車は明らかに記憶して居る。随分車体は汚ならしく、馬は痩せてゐて、一寸危険を感ぜられるくらゐに見えて、馬が暴れ出して、加賀邸前の薪屋の外の高く積んだ薪へ突き当つて、薪の山が崩れたのを見たこともあるし、また病馬であつたがためか、路上で倒れて起き上らずに、人々がその始末に大騒ぎして居るのを見たことがある。そんなやうなためもあつたのか、何うか、とにかく、今の乗合自動車のやうに短距離の客は殆どなかつたやうであつた。板橋で乗つた客が大抵終点の筋違まで行くといふ風であつたのではあるまいかと思ふのだ。馭者の外に別当(馬丁)が附いてゐるやうに思ふ。その別当が、近頃まで豆腐屋の用ひてゐたと同じ形の喇叭を吹いて、通行の人々に注意を与へるのであつた。乗合馬車は今日でも地方ではまだ残つて居るところがある。乗合自動車の通ふ沼津あたりでさへも、一頭立ての乗合馬車が見かけられるのであるが、昔の乗合馬車はさういふ今日の乗合馬車よりもずつと汚いものであつた。
 橘家円太郎といふ落語家があつて、高座で喇叭を吹いて、その別当の真似をしたので、さういふ早い時代の乗合馬車をば円太郎馬車と呼ぶやうになつたのだ。こんなことは当時のことを知つて居る吾々に取つては、書くになぞ及ばない程明白なことであると思ふのだが、今日ではもうこんな事さへ知らぬ人が多くなつた。現に先達てのこと、ラジオを聴いて居るといふと、何んとかいふ若い咄家が、円太郎が鉄道馬車の馬丁の真似をしたと話してゐた。円太郎馬車といふのは、鉄道馬車よりずつと以前の、ずつと粗造の馬車のことを云つたものである。
 鉄道馬車は明治十六七年頃のものであらうかと思ふのだが、それでも、二十三四年頃は、新橋と品川の間は、路幅の関係であらうと思ふが、鉄道馬車でなく、並の乗合馬車が通つてゐた。けれども、その馬車でも、スプリングの工合、座席の固さなど、鉄道馬車より余程粗造ではあつたが、円太郎馬車とは比較にならぬ程進歩したものであつた。
 円太郎馬車の今一線は、花川戸あたりから宇都宮へ通ふものであつた。僕はこれは見たことはない。明治十二年頃から開通したといふ記録があるといふのだ。東京から日光へ行く人など此の馬車に依つたものであらうかと思ふ。
 伯爵金子堅太郎さんが僕の亡兄と一緒に、日光へ行つて、寺の座敷を借りて、滞在しやうとしたところが、一遍は承諾して置きながら、あとになつて断るので、詰問の末、寺から止宿者の届を警察へ出しに行くと、金子さんは福岡県士族、亡兄は高知県士族といふのであつたので、西南役直後のことであつたので、警察では眼を円くして、なるべくは、そんな者には座敷を貸さぬ方がよくはないかと、云つたので、和尚は驚いて、断つたといふことが分つて、亡兄などは契約法の講義じみたことまでやつて、和尚を痛めつけたといふ話を、金子さんが笑つて話されたことがある。そのときの旅行は、乗合馬車によつたのであつたやうに聞いた気がするのである。
 鉄道馬車が柳原を浅草橋まで通るやうになつたのは、万世橋、上野間(此の間の路幅は無論拡げられたのだ)が開通してから可なり後のことであるのだが、その柳原浅草橋間が開通した後であつたか前であつたか、今その点が記憶不明瞭であるが、赤塗の車体で、馭者台が殆ど車の屋根位な高さのところにある乗合馬車が九段下から両国あたりまで通つてゐたことがある。明治二十九年頃であつたかと思ふ。
 円太郎馬車にしろ、鉄道馬車にしろ、何れも民衆的乗物であつて、中等級の乗物は人力車であり、高級乗物としては、雇馬車があつた、つまり、円タク出現以前の雇自動車の格であつたのだ。さういふ貸馬車は築地に一軒、鎌倉河岸に一軒あつたかと思ふ。此の高級乗物としての貸馬車は無論馭者馬丁附きであつて、大正になつても使用されたのだ。貸自動車の出現まではその支配を続けた訳である。
 この貸馬車には僕は一遍しきや乗つたことはない。亡兄が死んだのは、明治二十一年であつたのだが、米国で客死したので、日本では遺髪で葬式をやつたが、骨壷に入れ、外箱に入れたその遺髪を僕が抱へて、谷中の墓地へ持つて行く時に、親戚の豊川良平が、
『馬場はもう少し生きて居れば、無論自家用の馬車に乗れる男だ。どうだ、せめて遺髪でも馬車に乗せて、墓地へ送らうじやないか』
 と云つて貸馬車を呼んで、それへ僕等が乗り、遺髪を持つて天王寺墓地まで行つたのであつた。大分薄汚れた車であつたやうな気がする。円タクでも、今日では、ずつと綺麗な車がある。その当時では、そんな古ぼけた馬車でも、少くとも十円ぐらゐは取られたのではなからうかと思ふ。
 そんなことを思ふと、今日の自動車は安いものである。時間を勘定に入れることにすると尚一層安いものになる。
 吾々から見ると、乗物は大変革を来たしたのは、自動車移入以後であつて、一般にその利沢が及んだのは、このところ精々十五年此の方ぐらゐなものであらうと思ふ。朝、東京を出て、箱根を抜け、富士の五湖を見、猿橋へ出て、夕方東京まで帰りつくといふやうなことができようなどとは、大正の始めに死んだ老人などには思ひも寄らないことであつたのだ。
 旅行者のためには、自動車の出来たことは何よりも喜ばしいことだと思ふ。
 然し、明治の交通機関としては、人力車が各階級の人々に対して、重大な働きをなして居つたことは、此所にいふまでもないことで、此の東洋、否、日本特有の交通機関には実にさま/゛\な事件との交渉があり、聯想があつて、日本近代の交通物語に於て、人力車の勤めた役割に言及しないのは、交通機関の物語としては全く不備な訳になるのであるが、これはゆつくり語ることにして、一旦此所で筆を擱くことにする。

     人力車のことども

 地方の市などでは、まだそれ程古めかしい、間の抜けたもののやうには見えないのだが、東京の自動車、バス、電車の往来織るが如きなかで見ると、あの古ぼけた幌をかけた人力車の姿は、まるで古い/\世から抜け出して来た、何かのすだまででもあるかのやうに見えて、怪しいまでに見すぽらしく哀れなものに見える。
 しかし、明治になつてからの乗物としては、人力車ほど長い間、交通機関としての任務を果たしたものはないのだ。東京だけでは、既往少くとも四十年の勤を了つてしまつた形になつて居るのではあるが、地方ではまだその勤を了らずに居るところがまだ可なりあるだろうと思ふ。
 人力車の発明者は実に長い間、まことに多くの利沢を人に与へたものと云はなければならぬ。
 人力車は明治三年春に筑前生れの和泉要助が発明したといふ記録になつて居る。駕籠は担夫二人を要するのみならずこれを舁くに腕力と熟練を要するといふ点で、人力車より不便であるといふことはいふまでもなかつた。
 馬車から思ひ附いての発明であつたので、数人乗りのものも試みられたのであるが、それは第一に速力の点などから実用が広くなく、直きにすたれて、二人乗と、一人乗のみが非常な勢ひで、弘布するに至つたのであつた。
 発明の当初にあつては、非常な速力で走るもののやうに思はれたのであつた。東北の或る地方などでは、『今度出来た人力車といふものは実に驚くべき速力のものだ。全速力で走るのであつたら、乗つて居る人間の腸がごちや/\になつてしまふほどの速さになるものだ。それだから乗る者は生卵を一つ懐に抱いてゐて、その黄味と白味が一緒にならない程度に走らせれば、人間の身体には異状がないのだ』と、云ふ者があつたといふ笑話が、今日でも古老の間には残つて居るといふのである。
 ところで、その形には、二三変革はあつたらしい。最初は轅即ち梶棒の突端に横木はなかつたし、車輪の上のところに附く泥除もなかつたといふのだが、僕などはさういふ点に関する記憶は少しもない。或は少年の観察は其所まではとゞかなかつたか、或は又、明治十二年頃では、もう大体後々の形に治定してゐたのか、何れかであつたらう。もう一つは、幌の変革であるが、最初の時分のものの絵を見ると、幌が屋根のやうに上だけのものになつて居るのだが、僕などの知つた時分には大凡後の形になつて居つたやうに思ふ。
 始めのうち、雨除けにだけ幌を使つて、日除けには使つてくれなかつたと思ふ。吾々は蝙蝠傘をさして乗つてゐたことを記憶する。だから冬の寒風のなかでも、雨か雪でない限りは、吹き晒しで乗つて居る訳であつたので、年始廻りの時など、一時間近くも、車上に居ると全くふるへ上つてしまふ程寒かつた。冬の寒風を防ぐために、一般に車体を全部包むやうになつたのは、恐らく大正になつてからではなかつたかと思ふ。

 車輪を護謨輪にするとか、梶棒の横木のところへ呼鈴を附けるやうになつたのは明治四十年頃であつたと云つて宜しからう。但し、大阪あたりでは、音がしないのは、威勢が悪いといふので、わざと車輪がリン/\音がするやうにしてゐたといふことを聞いたことがある。
 護謨輪も場末の車宿などでは、容易に採用しかねたやうであつた。夏目漱石さんが『出入りの車宿へ護謨輪の車を持つて来いといふと、鉄輪の車を護謨輪だと云つて持つて来る。唯だ梶棒へ呼鈴が附いて居るだけなのだ』と云つて、笑つて話したことがある。夏目さんが早稲田南町へ引越されてからのことであつた。
 膝掛にも多少の変革はあつたと思ふ。吾々の乗る辻待の車などは、長い間、毛布か、さなくとも、ぼた/\と厚い不意気な毛織物であつた。大阪では、車の蹴込の両脇に曲つた真鍮の棒が取りつけてあつて、それへ屋号か何かを染め抜いた暖簾のやうな布を引き廻すのであつた。膝掛は用ひなかつたと思ふ。
 提燈の形なども、幾つかの変遷があつたのであらうと思ふ。後に至つては、吉原通いの車とか、花柳界の車は、細い縦に長い弓張り提燈を用ひ、屋敷方の抱車や、宿車の方はもう少し短い箱提燈形の弓張りを用ひたやうに思ふ。元よりこれらは車夫が梶棒に添へて、手に持つのであつたが、地方によつては、提燈を車へ取りつけてあつたところもあつたのである。
 僕は明治二十四年の暮から、二年程、土佐の高知市の私立の英語学校を教へに行つてゐたことがあるのだが、その時分高知市の人力車には蹴込みの端のところに、籐で巻いた彎曲した二尺余りくらゐの棒が立ててあつて、その先きへやゝ長めの円い提燈が附けてあるのであつた。で、車が走り出すと、その提燈がぶら/\と揺れて行く訳であつた。電燈などはない、軒燈だつて、殆どないやうな薄暗い夜の街では、遠くから、提燈のみが空中に揺れて来るのなどが見えて、余程可笑しかつた。
 吉原通ひの車夫が『アラヨ』といふやうな懸け声をしながら、前記の円筒形の提燈を振り廻して、行人を警めながら疾走するのは、当時での見物であつた。
 斎藤緑雨がその随筆のなかで、戯れに
『ばかな会といふ歌の会があつて、その会の詠草のなかに、夕潮の切通坂をわれ行けば、あらゝ/\と車飛ぶなりといふのがある』
 といふやうなことを書いて居る。
 吉原通ひの車の特徴は、高台と称して客の腰をかけるところが、後の方へ向けて斜に低くなつてゐるので、客は殆ど膝頭が胸近くとたい/\になるくらゐに、後へ反つて乗つて居るといふ風であつた。つまり、客にさういふ風に後へ反り返るやうに腰かけさせるといふと、車夫が輓いて疾走するのに、非常に都合が好かつたからであつたのであらうと思ふ。

 明治四十年頃になると、東京では、もう二人乗の車といふのは殆ど跡を絶つたと云つて宜しかつたらう。極く早い時代の二人乗の車は後に武者絵とか芝居絵とか、花鳥とかいふやうなものが、彩色入りの漆で書いてあつた。さういふ車を見かけたのは、東京では、精々で明治二十年頃までであつたかと思ふ。
 初代の三遊亭円遊が創始したステテコの踊りの言葉に『相乗り幌かけ、頬ペた押ツつけ、テケレツツのパア』といふのがあつた。相乗り即ち二人乗の車が、今の所謂アベツクの場合に都合が好かつたことは、誰にも理解し得られるであらうが、男同士の場合にあつても、道々話ができるからと云つて、わざ/\二人乗に乗る人々があるのであつた。辻待ちの車などだと、二人乗の方は車体が古ぼけていて汚くつて、車夫もよぼ/\の年寄などであつた。斎藤緑雨は、一人乗では連れと話ができないからと云つて、連れのある時は、遅いのなどは構はずに、二人乗にするのであつた。
 車内で話をしながら行けるといふ点では今日の自動車は実に都合が宜しい。吾々は速力の外に、この点で、文明の余沢を感ずることがいとゞ深いのである。
 昔の車屋は東京の道を善く知つてゐた。吾々の方では知らない場所へ行く場合でも、町名さへ云へば、車夫は真直ぐに其処へ輓いて行つて呉れた。その点は実に安心なものであつた。今の円タクではさうは行かぬ。小石川の石切橋あたりで拾つた円タクでは、清水谷へと云ふと、既んでのことに谷中の清水町へ連れて行かれるところであつた。青山墓地の入口で呼び止めた円タクの運転手は弁慶橋は渋谷の先きにあるのだと思つたらしく、三十銭では厭だ、七十銭くれと云つた。
 速力の点から、一つの車を二人で輓く場合は綱引きと称へて、梶棒へ綱を附けてその綱を一人が肩へかけて、先きへ立つて引きながら駈け、また急ぐ場合には後からもう一人、車の背を押し、つまり三人輓きになるのである。これが先ず一番大業な車の輓かせ方かと思つてゐたのであるが、まだその上を越して、五人輓きの車といふのに乗つた人があるといふのを聞いたことがある。それはどうするのかといふと、梶棒を握る本当の車夫の前へ、綱を引く者が二人、それから、後押が二人、それで都合五人になるといふのである。これ等はむしろ景気を示すためのものであつて、速力の点では人数の割合程速いものではなかつたらうかと思はれる。雪の積つて居る路などは、車夫を疲れさすまいと思へば、綱引き、後押附きぐらゐでなければ駄目であつたらうと思はれる。二人輓き以上の輓き方は一つの車夫の労を軽くするための意味もあつたのであらうと思ふ。

 上野の山下、浅草公園、吉原遊郭の内外の吉原へ行く客をあての車夫は、一般に悪性の者であつたが、そのなかでも一層質の悪い者どもを、もうろう組と云つた。朦朧の字を当ててゐるやうであつたが、身許の怪しいといふ意味の外に、浮浪といふやうな意味もその音から感じ得られるのであつた。これは、夕方から専門に稼ぐ者どもであつて、初めは相当の賃銭で客を乗せ、綱輓きにするとか、後押しにするとかして、途中で脅迫的に不当な増し賃を要求するのであつた。
 明治二十六七年頃であつたと思ふのであるが、僕の知人の或る紳士が、夕方浅草を歩いてゐて、車夫がしきりに勧めるので、吉原まで乗ることになつたが、するとその車夫は綱挽きにしてくれと云つて、仲間を四五人連れて来た。つまり綱が二人の、後押しが二人、それに手がはりが一人といふ訳で五人挽きになつたのである。断れば、喧嘩になつて面倒だと思つて、結局は皆の頭へ二円もやればそれで済むだらうといふ気で、乗つて居るといふと、その五人輓きの車は少しも駈けないで、唯歩くやうに緩々と進んで行くのであるが、その代り、後から来る車を皆止めてしまつて、その車の後へ附かせてしまふ。多分花川戸の方から行つたのであらうと思はれるのであるが、吉原通いの車が何町も続いて、その先頭には、山高帽を冠つた紳士を乗せた五人輓の車が立ち、その全体が練り物ででもあるかのやうに悠々緩々と進んで行くのであるから、これは如何にも奇観であつたらうと思はれると共に、先頭の車上の紳士の面はゆさは又、察するに余りがあるのであつた。
 が、それでもどうにかかうにか馴染の引手茶屋までは行くことができたのであるが、やがて、その悪車夫どもは予定の行動であつたのか、どうか、他の車夫たちと喧嘩を始め、その手打ちをするからと云ふ辞柄で、拾円とかをその紳士からいたぶり取つてしまつた、といふのである。その時分の金の価値なのだから雷門から吉原までの車賃としては、全く途方もない金額であつたのである。
 朝になつて、勘定の払へない遊客に附いて行つて、金銭を貰つてくる者を附け馬と称することは誰も知つて居ることであり、此の附け馬に関する笑話は多く落語には残つて居るのであるが、昔は附け馬は大抵歩いて客に附いて行つたのであつたけれども、人力車ができてからは、大抵その車夫が附け馬を兼帯にすることになつたらしいのである。即ち、客からは、遊興の勘定と車賃とを受け取つて帰つて来るのであつた。
 人力車は空車よりは客を乗せて輓く方が楽なものだといふのである。鉄道馬車が出来てからも、筋違即ち今の昌平橋内あたりに立つて、馬車を待つて居ると、日本橋まで馬車並みの賃銭で客を乗せようと勧める車夫があつたものである。所で、京橋までその倍の賃銭で行かぬかと云つても、決して承諾しなかつた。思ふに日本橋まで出れば、客を拾ふ便が多いので、空車を輓いて行くよりは、幾ら安くても人を乗せて行く方が、輓くのに楽だといふのであつたらしいのである。船ならばバラストといふやうな訳に、吾々が使はれるといふ振り合ひであつたのである。
 車の輓き方にも、いろ/\技巧があるらしかつた。平地に馴れた車夫が山坂の多い土地へ行つて困るといふのは、吾々にも直ぐ理解のできる事柄なのだが、山坂を平気で客を輓きあげる車夫は平地へ来るとカラ駄目だといふのであつた。平地では速く駈けなければならぬのだから、山坂の多い地方の車夫は、その駈けるといふ点で、平地の車夫にひどく劣ることになるといふのであつた。
 成田街道あたりの車夫の駿足には東京の車夫などはとても及ばない。しかし、東京の街中の、馬車が走り、自転車が来り、荷車が続くといふやうな、往来織るが如きなかを、少しも困らずに、悠々として車を輓いて行くといふことは、これは全く東京の車夫の独擅場であると、或る邸の抱車夫は云つてゐた。
 車夫の服装に就て云へば小説や、劇などでは、黒鴨仕立といふのが抱車夫の気の利いた正装といふことになつて居る。濃い紺の筒袖の上着と腹掛に、同じ色の股引といふ出でたちであつて、夏は真つ白な装ひになるのであつた。帽子も饅頭笠、麦藁帽などを経て、学生帽のやうな最近の形になつたのである。しかし、古い錦絵などを見ると、初めは半纏着の向う鉢巻ぐらゐで、車を輓いたものであつたらしいのである。
 駕籠舁に絡む雑多の面白い物語が残つて居るとともに、車夫の方にもさまざまな物語があり、小説や劇にどういふ風に人力車や車夫が描かれて居るかを見るのも、興味の尽きざる事柄であらうと思ふけれども、予定の枚数も可なり越えて居るのでこれで一先ず此の稿を終ることにする。



近世風俗雑談

     明治から大正へかけての話

 風俗といへば主として、服装、髪の形、履物等のことを、いふべきなのであらうが、何分家に引き込みがちであつたし、また外出しても古本を探すといふやうなことにのみ気を取られてゐたので、いはゆる風俗の変遷などには殆ど気がつかずにしまつた。
 それで今大体のところを思ひ出してみようとするのだが、どうも甚だ朧気で、十分なことを書けないのはまことに残念である。
 吾々にでも第一番に気のつくのは、現代──大正になつてから──では、洋装が殆ど一般的といひ得らるゝ位に波及したことである。それから、その次ぎには洋風の建築が非常に多くなつて来たことである。第三には、巻煙草の使用の範囲の広くなつたことである。それから、第四には西洋料理──カフェー、バー、食堂の流行が全く常態として定まつてしまつたことである。
 明治十四五年頃から以降のことでなければ余り善く覚えてゐないのだが、その時分から二十四五年頃までは、何んといつても洋装は余程少かつた。官吏とか、教師とか、大きい会社に勤めてゐるといふやうな一部の人々に限られてゐて、それも役所や、会社へ出る時とか旅行の場合などに重に着用したもので、家居の場合は勿論のこと知人訪問とか、散歩とかいふ場合には、何時も和服であつたといつていゝくらゐであつた。民間の儀式の場合──婚礼とか、葬式──などにも、大体の人々は羽織、袴であつた。この時代では──殊にこの時代の初期では──洋食の宴会といふのは少かつたので、さういふ和食の宴会へ出席するには、大体日本服であつたらうと思ふ。この時代では、大きい宴会は大抵柳橋あたりで行はれたやうであつた。吾々は柳光亭の名などをしば/\耳にしたことがある。両国の中村楼が流行の高等旗亭であつたことは、少し前のことであつたらう。この時代では、新橋に大旗亭はなかつたやうに思ふ。尤も、築地の寿美屋とか、花屋とかいふのが、此の時代の末期にはもうできてゐたかも知れぬのだが、それにしても、その二軒は家の広さでは大旗亭とはいへなかつたらうかと思はれる。
 この時代の背広は両前が可なり上の方から切り落して、丸みをつけたものであつた。ボタンは四つ位ついてゐたかと思ふ。下袴のひどく細いのが流行つたのもこの時代であつたと思ふ。靴も編上げはまだそう一般的ではなかつた。この時代の初期では、鳴り皮と称して靴の底へ一枚皮を別に入れて、歩くたびにギユウ/\鳴るのを善しとしてゐた。
 フロツクも、この時代のは胸を広くあけてあつた。襟の折返しへ裏を出して見せてゐたのもあつた。毛織のテエプのやうなもので、すつかり縁を取つたものもあつた。モオニングは後のものよりはずつと短かつた。

 外套は長短いろ/\に変つた。即ち初期においては短く、後期においてはやゝ長くなつたが、ともにボタンは、大外套の場合のほかは、中位の大きさのもので、その数は大抵五つ位はあつたらうと思ふ。
 和服に至つては、吾々貧乏書生にはどうといふほどの記憶はない。唯此の時代の初期には素人の男でも、少し洒落た人は、黒縮緬の紋つきを着てゐた。大島紬は余り知られていなかつたやうに思ふ。夏の衣服では、薩摩飛白は一般に知られてゐたが、久留米は余り知られてはゐなかつたであらう。
 二重廻しは二十五六年ごろから行はれだしたものであらうと思ふ。それまでは、吾々は冬でも上へは何も着なかつた。雨の時もさうであつた。女の方は襟のかかつた雨合羽を着てゐる者もあつたが、男で雨合羽を用ひたものは吾々の知人などのうちには一人もなかつた。旧式のトンビを用ひた人は少しはあつたらうと思ふ。
 その代り、この時代の初期には肩かけが流行りだした。大きい風呂敷のやうなものの四方に幾つも房の附いてゐるやつを中から二つに折つて、即ち三角形のかたちにして吾々も肩から背へと背負つたものであつた。
 元より書生間の流行であつたが、舶来の絹の色のついた半巾で頸をまくことがはやつた。少し黒みのかゝつた赤い色のものなどが一番広く用ひられたやうである。
 シヤツは洋服の分は無論糊で固めたホワイト・シヤツが正式であつたが、吾々などはフランネルのシヤツヘ胸とカフス・カラアとを白い固いので取りつけて間に合す場合もあつた。この時代の後期には、夏のシヤツで、縮の縞で前を打紐で編上げのしたものが流行つた。吾々もそれを洋服用として用ひたものであつたが、夏目漱石君はそのフランネルのシヤツを洋服の下へ着てウ─ド師を帝国ホテルに訪問して、錠前直しと間違へられたといふ話である。
 帽子は、紳士用としては、山高帽であつたが、今日のものの二倍ぐらゐの高さの縁の反つたのが行はれた。頂辺が一文字になつてゐるもつと低いのもあつたやうである。書生用としては、釜形帽や、ハンテイングの前身のフランネル製の前で襞をとつたものなどもあつた。夏帽は矢張り麦藁が一般であつたが、今日のものより山が低く縁が広かつたやうに思ふ。リボンに赤いのなどがあつて、今日では如何にも無粋なものであつたのだが、吾々は得意でそれを冠つたものだ。
 下駄は南部表、もしくはそれのまがひの前のめりの駒下駄が一番広く行はれていた。籐表──即ち蝉表──はまださう行はれてゐなかつたやうに思ふ。麻裏草履が広く用ひられてゐた。職人の突つかけ草履もよく見掛けた。車夫その他の労働者は大抵草鞋を用ひた。従つてどこの荒物屋にも草鞋が吊してあつた。今日では、どうかすると草鞋を買ふには可なり探さなければなるまいかと思ふ。その時分の草鞋は藁ばかりで作つたもので、後のもののやうに布は何処にも使つてなかつた。
 雪駄は古くからあつたものであるに拘らず、面白いことに、一時すたれた形になつてゐたやうに思ふ。穿く人を多く見かけるやうになつたのはこの時代より少し後になつてのことであつたと思ふ。

 こゝで髪の刈り方をいふべきであらうが、老人は大抵撫でつけ即ちまあオ─ル・バックのやうな形にしてゐた。われ/\は毯栗即ち五分刈であり、紳士連は主に左から、七三分け位にしてゐた。この時代は皆もみ上げを残してゐたし、誰も床屋で鼻の穴をすらせるのであつた。真中から髪を分けるやうになつたのは明治三十年近くであり、もみ上げもそのころからだん/\多くそり落すやうになつたと思ふ。
 持ち物などについても僕は幾らも書き得ない。巻煙草が今日ほどは、はやらなかつたのだから、煙草飲みは大抵刻みを用ひた。煙草入れは筒つきの腰下げのものであつたやうだ。共皮若くば共布の筒つきの煙草入れはも少し後で用ひられるやうになつたと思ふ。明治十七年ころのことかと思ふのだが、西洋刻みをライスペエパアで自分で巻いて飲むことがはやつた。始めは小さい簾を用ひて巻いてゐたが、直きに小さい機械が輸入されてそれを用ひるやうになつた。この時代では、後期に近くなつて、カメオとか、ピンヘットとか、パイレエトとかいふやうな外国巻煙草が輸入されだしたのみで、日本製の巻煙草は岩谷の天狗煙草があつたばかりのやうに思ふ。西洋巻煙草を真似た京都の村井のサンライスやヒイロウの売り出されたのは少し後ではなかつたらうか。
 食ひ物については、僕などは殆ど何もいひ得ないのだが、唯西洋料理屋の数の実に少かつたことだけはいひ得られる。そしてそこでは、コオスを食はざるを得なかつたのであらう。今日のやうに品を選んで註文し得るやうになつたのは少し後のことだと思ふ。その代り天麩羅屋で小料理もするといふやうな家は沢山あつた。講武所宇治の里などは入り込みの飯屋であつたが、そこでは、昔上野の坊さんの支度所であつた名残りであつたのであらうが、酒を茶の土瓶へ入れて客に出すのであつた。牛肉屋が随分多かつた。それが書生に対しては今日のカフエ─の役を勤め、そこの女中──即ち、ねえさんが今日のウエ─トレスの格であつたわけだ。
 この時代の初期には、楊弓場がはう/゛\にあつた。十一二年ごろには芝の公園へ赤羽から入つて行くところにある土手のあたりにも一二軒あつたことさへ覚えてゐる。神明は元より、浅草郡代、湯島天神とさういふところには楊弓場が群居してゐたのだが、淡路町の宝亭の横町になるあたりにも数軒あつた。これは坪内逍遙大人の『書生気質』に描かれてゐる。これ等楊弓場たるものは、矢取女と称して客を取る女がゐて、客の相手をして、楊弓をともに引きなどして客をもてなすのであつた。弓を持つのは左の手をもつてするのが正式であるのだが楊弓場の女はなるべく弓を右の手に持つて射るやうに教へられるのだと聞いた。それは客と向ひ合ひになるやうにするためであつたのであらう。
 明治十六七年ごろであつたろうか、下谷の佐竹の原が開けたが、そこへできた大弓場の女で右の手で弓をとるものを見たことがある。思ふに、前記の楊弓場の女と同じ理窟であつたのであらう。
 これ等の楊弓場が後の酩酒屋の前身だといつて宜しいであらう。市中の酩酒屋なるもののできたのは明治二十五六年頃だと思ふ。横浜のちやぶ屋なるものの制度の東京へ侵入して来たものと見るべきであらう。
 まだ明治十五六年頃までは、根津に遊廓があつたと記憶する。藍染橋までのところは両側に引手茶屋があつて、そこから北が女郎屋であつた。元より今のやうに道が真つ直ぐに団子坂下へと抜けてゐるのではなかつた。藍染橋からものの三町と行かぬうちに突き当りになつてゐたと思ふ。それから先きは田だの畑位になつてゐたのであらう。その時代には根津から団子坂へ行くには、権現の裏門から行く小さい現今の路によるほかはなかつたのだ。
 明治二十年ごろにはもう菊人形が盛んになつてゐたらうと思ふ。
 この時代の末期までは、まだ吉原が可なり富裕な紳士連の遊所としての勢力を維持し得てゐたらうと思ふ。娼妓があの鼈甲の簪を幾つもさした姿で店を張つてゐる店も幾軒かあつたのではなからうかと思ふ。明治三十年ごろになつては、娼妓にさういふ昔ながらの姿をさしてゐたのは龍ケ崎といふ店一軒きりのやうであつた。
 芸者町は、この時代では、赤坂さへまだ幾らも発達してゐなかつたであらう。溜池その他山王下の池が埋られたのは何時ごろのことか今記憶してゐないが、あの辺の発達はその後のことである。神楽坂も富士見町も少くとも此の時代の後期になつて擡頭しだしたものと見てよろしからう。
 この時代の前期には待合といふものはまだできてゐなかつたかと思はれる。まだ船宿の時代であつた。料理屋で客を泊めたのもあつたらしい。さういふ隠れ座敷の残つてゐるのが、明治三十年ごろまではあつたやうに聞いてゐる。

 この時代の初期の交通機関は唯人力車とガタ馬車があつたのみであつた。いふまでもなく、人力車は護謨輪なんぞは思ひも寄らぬ。金輪でバネも悪かつたのだが、それでも吾々はさう乗り心地が悪いとは思はなかつた。遊廓通いの車は高台と称して、梶棒を上げると、客の身体がうしろへ落ちて、膝頭が上へあがるといふやうな風に、腰を掛けるところの勾配を作つたものであつた。これは車夫が早く駈け得るためであつたのであらう。滝夜叉だの、自来也だのを悪どい色彩で背に蒔絵した二人乗は直になくなつたやうに思ふのだが、普通の一人乗と同じ無地の塗りの二人乗は明治三十年ごろまではまだ余程残つてゐた。
 ガタ馬車はいはゆる円太郎馬車であつた。極めて粗造な木造の車体へ真黒に汚れた母衣をかけたもので、馬は二頭であつたかと思ふ。馬丁が短い角形の喇叭を吹いて行人を警戒するのであつた。本郷通りなどでは夏はさういふ馬車の馬が斃れた。或る時は、馬が外れて、四町目あたりの薪屋の前に積んであつた薪の山へぶつかつて、馬が崩れ落ちた薪の下へ埋られたやうになつたことなどもあつた。
 円太郎といふ名称の起りについては二三説があるやうであるが、橘家円太郎といふ落語家が高座で馬丁の持つてゐたのとおんなじの喇叭を吹いて、馬丁の真似をしたので、その名称が起つたのだらうと僕は思ふ。
 前記の本郷通りをとほつた馬車は、筋かひ即ち今の白梅のあたりから板橋へ通ふものであつた。その他には浅草から千住の方へ通ふもの、両国あたりから市川の方へと向けて通ふもの新橋から品川方面へ向けて通ふものといふ風に、三系統があつたのであらうと思ふ。
 鉄道馬車のできたのはこの時代の前期であつたやうであるが、新橋から大通りを上野へ出で、浅草を経て、浅草橋に至り、それから本町三丁目をとほつて、大通りの線に入るといふだけの部分しきや通じてゐなかつた。二十二三年ごろでさへ、新橋品川間はまだガタ馬車が通つてゐるのみであつたと記憶する。車体は前の円太郎よりは余程よくなつてゐたけれども、動揺は随分烈しかつた。トラックの円太郎自動車に決して劣らないくらゐ揺れたと思ふ。
 九段下から両国へと通ふ赤塗りで馭者台の可なり高くなつている馬車の始まつたのは、この時代の後期であつたかと思ふ。これはオムニバスといつてゐたやうに記憶する。これは鉄道馬車が柳原を通ふやうになると、直きに廃止された。
 大官、貴族は箱馬車を自用として持つてゐた。また、ドツグ・カアトをもつてゐた紳士も少くはなかつたかと思ふ。
 自転車もこの時代に輸入されたかと思ふのだが、無論三輪車であつた。この時代の末期に近い時分であつたらうと思ふのだが、直径五尺もあらうかと思はれさうな大きい輪と直径一尺には足らなかつたと見えたやうな小さい輪の附いた自転車が行はれた。これは実用的のものではなくして、青年などが慰みに乗るものであつたやうだ。下谷辺にそれを借す家があつたらしく僕の友だちなどで、それを乗廻したのがあつた。
 隅田川を一銭蒸気が通ひだしたのは何時ごろであつたかよく記憶せぬが、明治二十二三年ごろにはもう確に通つてゐたやうに記憶する。
 
 次ぎには、順序が少し変になつたが大人の遊戯、勝負事のことを書いて置かう。銃猟は無論流行した。仙石貢氏等の大学生時代──明治十四年ごろか──には度々友人等と猟に出たといふやうな話を聞いてゐる。玉突も可なり行はれたやうであつた。花札が広く売られるやうになつたのは、明治十七八年頃かと思ふ。この勝負事は、上方から移入されたものといつてよろしからう。小さい射的の店が諸所へできたのは明治二十年頃かと思ふ。
 競馬は横浜の根岸が元で、不忍池の周囲が埋められて馬場が出来たのは明治十六七年頃かと思ふ。
 明治十八年頃までは市内の諸所に借馬屋があつた。さういふ借馬屋には何処にも小さいながら馬場が附いてゐて、その馬場を幾往返で幾ら、外へ借りて出れば、一時間幾らといふ風に、料金が極められてゐた。僕の覚えてゐるのでは、団子坂下に一軒、本郷田町に一軒、天神町(数寄屋町寄り)に一軒とさう三軒借馬屋があつた。僕の家が本郷五丁目──本妙寺坂下──に地面を借りてゐた時分、地主が借馬屋をやらうといひだして、僕の父が調馬の仕事を引き受けてやつたことがあるが、それは余り客がなかつた。その時分には、可なりな馬でも五十円位、安いのは十五円ぐらゐなのもあつた。
 子供の遊びは、土や鉛のめんこ、ばい──これをべえといつてゐた──凧、金胴の独楽のぶつつけ合ひなどが重なものであつた。竹馬も無論行はれた、べえは法螺貝を少し長目にした様な小さい貝であつたが、その貝の半分以上を石で叩き欠き、下の部分の横にも少し穴をあけ其所から蝋なり鉛なりを注ぎ込んで重量を附けて置く、それから一方では、盥の上へ蓆なり畳表の古いのゝ切れなりを敷いて、その中を窪みにして置き、べえの下のところへ紐を巻いて、双方から、その蓆の窪みのなかへ独楽のやうに廻し、それがぶつかり合つてはね出された方を負けとするといふ遊びであつた。これは僕などの子供の時分のものであつたのだからさう長く続いたのではなからうと思ふ。とにかく、僕の子供の時分には、玩具屋でべえの貝を売つてゐた。
 明治二十年ごろまでは、初午の稲荷祭も方々で行はれ、地口行燈の幾つも並べ懸けられた路地の奥から、子供の叩くらしい太鼓の音が聞こえて来るのであつた。
 神社の大祭も、明治十五六年頃までは、大抵夏の盛りに行はれたやうであつたが、連年コレラが流行つたがために、何時の間にか秋祭になつてしまつた。まだその時分には、昔の江戸の祭の面影を止めてゐた。牛に引かせた山車、踊屋台、神輿、それにつき添ふ若い衆等の揃ひの浴衣、可なりに華やかで賑やかで威勢のいゝものであつた。神田祭に、娘を吉原へ売つてその金で支度をしたといふ時代には無論及ばなかつたけれども、それでも、一体に祭には随分とはり込んだものであつた。一昨年か去年の六月かに四谷見附で山王の神輿を見たが、皆牛に引かして囃子か何かついてゐた。道路の交通上やむを得ずさうなつたのであらうが、全く隔世の思ひがした。
 その時代でも、子供が樽天王を担いで廻つたのは近ごろと同じであつたが、子供が黄色い麻を襷にしてそれで小さい犬張子、達磨といふやうな玩具を縛りつけ、万燈を振つて飛び歩いたのは、今ではもう古い事のなかへ数へ込んでもよからうと思ふ。玩具屋で万燈を売つてゐなくなつてからもう可なり久しくなるであらう。一葉女史の『たけくらべ』──二十八年作──には子供の祭の時の出でたちが、
 『くちなし染めの麻だすき成るほど太きを好みて、十四五なるより以下なるは、達磨、木兎、犬はり子、さまさまの手遊びを数多きほど見得にして、七つ九つ十一着くるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駈け出す足袋はだしの勇ましく可笑しく……』
といふ風に描いてあるのだが、その時分でも、山手では、さういふ風俗はそろそろなくなりかけてゐたやうな気がする。
 町内の子供が団結して、他の町内の子供の団結と喧嘩して石合戦をしたといふやうなのは、精々で明治二十年くらゐまでのことで、その後は教育の普及と警察の完備と共に、いつの間にか止んでしまつた。
 青年の方でも、熊本の学生と薩摩の学生、薩摩の学生と土佐の学生といふ風に、学生が幾分団体的の喧嘩をするといふやうな風習は、これも精々で十四五年ごろまでのことであつたと思ふ。こゝで、一寸考へさせられることは、その時代は封建殺伐の時代を去ること余り遠くなかつたに拘らず、学生間には刃物を以て人を傷つけたといふやうなことを殆ど聞かなかつたことである。少青年が小刀などを振り廻すやうになつたのは、どうしても明治二十七八年の戦役以後のことである。
 
 明治十四五年頃からこつちの事で注目に値することは、それ等の時代から思潮の上での反動期に入りかけてゐたためでもあらうが、古い行事などの次第に復活しだした状態である。明治の初年には旧弊頑固として棄られた事物がまたそろ/\用ひられ始めたのだ。これは、民衆が一端古い趣味は排けてしまつたもののそれに代るべき新しい趣味は生れて来なかつたので、もとの古い趣味にだん/\と戻つて行くより外はなかつたといふところも余程あつたらうと思ふ。
 要するに、維新の革新は進んだ少数者の進まざる大衆に対する勝利征服に過ぎなかつたので、世の中が落著くに従つて、大衆の方は次第に後戻りをしたといふ形に見えた。
 古い骨董の愛玩、古い行事の復活といふやうなことが眼だちだした。豆蒔きが都門近くの神社や仏閣で行はれだしたのは、少しあとであつたにしても五月幟、雛祭などが、そろ/\広く行はれさうになりだしたのもこの時代である。撃剣、弓術、柔術といふやうな武術の復興が可なり目ざましかつたのもこの時代である。なかにも、老若を問はず誰にでもできる弓術の流行は可なり盛んであつた。市内で、いはゆる大弓場の一軒もない区といふのは殆どないといつていゝくらゐであつた。手のかゝり費用のかゝる流鏑馬。騎射の如きさへ、明治二十年ごろには一度大規模で執行されたことがあつた。
 撃剣も可なりに行はれて、九州の上田馬之助(義忠)、松崎浪四郎などの老大家の名が度々吾々の耳に入つた。
 市中で、骨接ぎ、柔術教授の看板をよく見かけるやうになつた。流派は天神真揚流といふやうなのが多かつたやうに思ふ。講道館の創立も大凡そのころであつたであらう。
 その外、謡、茶の湯、活花といふやうな芸事、易、禁厭、巫子伺ひといふやうな迷信なども、二十七八年ごろに近くに従つてだん/\弘布するやうになつた。
 さて、書き落した建築──家──のことを少し書くことにする。明治二十五年ごろまでは、まだ勿論、洋風の家といふのは実に少かつた。商店などでは、銀座以外には洋風の建築は先づなかつたといつてよかつたであらう。それのみならず、明治十五六年ごろまでは神田の錦町、神保町からかけて、麹町の番町などには、まだ昔の旗本邸の建物のそのままに残つてゐるのが幾つかあつたくらゐであつた。中央大学の起源ともいふべき三菱商業学校──明治義塾──の当時の校舎は大きな旗本邸らしいものをそのまゝ使つてゐた。
 その時分には、住宅難どころではなく、家主難ぐらゐなものであつたのである。借家住宅ならば、山手などにはどこにでもあつたといつてよかつた。それでゐて、まだその上に、家賃五円位な家なら立派な庭が附いてゐるのであつた。いや、全くのところ、今僕の住つてゐる小石川あたりなどでは、庭の無い家を探すとしたら、却つてその方が骨が折れたらうと思はれるくらゐであつた。この辺のその時分の家は大抵門構へであつて、街路から直ぐ格子戸になつてゐる今のやうな家は殆ど一軒もなかつたと思ふ。それほどまでに、市内にも地面に余地があつたのだ。
 街路の照明は、銀座の大通りだけは瓦斯の街燈があつたが、その外の大通りが何うなつてゐたかよくは覚えてゐない。此の時代の瓦斯にはマントルがなかつたと思ふ。家のなかは、銀座の大通りだけが瓦斯を使つてゐた位で、同じ銀座でも裏通りは大抵石油ランプや行燈を使つてゐたやうであつた。軒燈はもうあつたかも知れぬが、まだ一般的ではなかつた。この時代の末期までは、まだ芸者屋とか、町内の鳶頭などの住居には、格子戸のなかに、御神燈と称する可なり大きい円い提燈が下つてゐた。山手などは路が随分暗かつたらうと思ふのだが、今はその感じが殆ど心に残つてゐない。一昨年の震災直後のことを思ひ出してみて、始めて昔の暗さが心にはつきりと分る位なものである。幸ひにして人間は、苦しかつたこと、悲しかつたことを早く忘れるものである。



秋日散策

     渋谷あたりの追憶

 下渋谷の道玄坂の中程から左へ入つたところの丘の上の、名和男爵邸のなかの家に与謝野寛君が住つてゐて、そこを僕が訪ねたのは明治三十四年の冬か、翌三十五年の春かであつたと思ふ。与謝野君はそれから少しして、その近くの崖の下の、廻り縁のある家に越した。千駄谷の徳川邸の西側の方へ越したのは日露戦争の少し前ぐらゐであつたらうと思ふ。
 その時分の文学者の生活を思ふと、今とは全く隔世の感がする。僕などは、とにかく外に定収入のあるみちがあつたので、どうにかかうにか暮してゐたが、文学を職業にしてゐた人々の生活に至つては、全く奮闘の生活、背水の陣といふべきであつた。原稿の売先が僅か二三ケ所しきやなく、その上に、稿料の高もいふに足りないものであつたことは、こゝにいふまでもないであらうが、従つて、社会的にも人として、何等認められて居るのではなかつた。
 新詩社の『明星』は当時の新文学の大きい、華やかな幟じるしであり、吾々若き文学者の奮戦のラリイング・ポイントであつたといつて宜しからう。『明星』が当時の新文学の伝統を支持すると共に、後来の進展に対する足場を作つたことは、何人も疑ひ得ざるところであらう。殊に詩と短歌の部面においての新詩社の大功績は明治文学史上に燦として輝いて居る。
 与謝野君御夫婦はよくまアあのやうな全く惨澹たる生活苦を忍びながら『明星』の刊行を続けられたと思ふ。文学、詩歌に対する熱愛の然らしむるところであつたことはいふまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐と勇気は、今思ひ出すごとに、感歎の念を禁じ得ない。
 僕はこの頃、時々道玄坂下の横町にある古本の即売会を見に行くので、あの辺の変り方に眼を見張ると共に、与謝野君御夫婦の下渋谷時代、千駄谷時代のことを思ひ出して、感慨深きものがあるのである。
 土地の変り方は全く滄桑の変と謂つても然るべきくらゐであらう。宮益坂、道玄坂も、昔は道幅のグツと狭い、もつとズツと急な坂であつたことはいふまでもないであらうが、渋谷の駅ももう少し南に寄つてゐて、昇降口は西の方にあつたやうな気がする。これは駅が大きくなつたために、今のやうになつたのではあるまいか。
 上田敏君と一緒に宮益坂を下りて、与謝野君を訪うたことを記憶するが、坂は両側が生垣になつてゐて、僅かに五六間幅ぐらゐな路であつたやうな気がする。坂の下の踏み切りを越えると、両側は水田であつたやうに思ふ。全く広重などの絵にありさうな地景であつた。道玄坂へとあがつて行くと、坂がいはばおでこの額のやうに高くなつて居るあたりの左の方に狭い横町があつて、それへと曲つて、与謝野君の家に達するのであつた。そして、この路は環状をなして、東の方へと曲つて、渋谷の駅へ達してゐたと記憶する。多分この路は線路を越して、渋谷から目黒の方へ続いて居る路へ合するのであつたらうかと思ふ。
 
 今年の四月二十五日の午後であつたと思ふのだが、渋谷の即売会の帰りに、与謝野君の故宅のあたりを、唯心あてに歩いてみようと思つた。勿論、地図も何も見て置かなかつたので、ただ全くの当てずつぱうの散策であつた。道玄坂を一町程上つて行つてから、左へ下りてみたが、どうも少し昔の路よりは西へ寄り過ぎたのではないかと思つた。勿論、何もかも変つてしまつたので見当も何もつきはしない。
 直に大和田町といふのへ出てしまつた。伊藤旅館といふのは、俳人の伊藤鴎二君のお宅かなどと思ひながら、歩いて行くと、路は少し高くなつて、南平台といふのになつた。これでは、与謝野君の昔の家のところなどは、もうとつくに通り越してしまつたことは確なので、せめて、恵比須の方へ行く谷あひの路へと出ようと思つたのだが、桜丘、鴬谷などといふのがあつて、その先きでやつと、省線にぶつかつた。それを越してからが、昔の路になるのではなからうかと思つたのだが、昔は森だの、薮だのばかりしきや見えなかつたところを、今は何処を見ても、アスファルトの坦々たる路が通じて居るといふ有さまなので、余りの変りやうに、ちよつとぼんやりした形になつて、つい線路の西側を通つて、公会堂通りを経て、恵比須へ出て、田町行きのバスに乗つてしまつた。
 何しろ、もう三十年程たつて居るのであるから、変るのは当然なことではあらうが、吾々には郊外の変革は実に驚くべきものがある。その前三十年間はそんなに変らなかつたと思ふ。少くとも、僕等らが少年時代から壮年時代までの二十年間は、市内でさへも変らないところが幾らもあつたと思ふ。人々が郊外に家を求めだしたのは、先ず明治四十年以降のことと見て宜しいのであらう。その後、大正八九年頃から、市内の住宅難が始まりはしたものの、震災がなかつたら、かうまで郊外の大発展は見られなかつたらうと思ふ。つまり、この大変化は先ず正味十五年ぐらいゐの間のことである。全く急激の変化といふべきである。全くよくもかう変つてしまつたものである。
 与謝野君の渋谷の家を訪ねた時分には、僕は麹町の飯田町、小石川の金富町などに住つてゐたので、牛込から新宿まで汽車で行き(電車にはなつてゐなかつた)それから渋谷まで歩いたものであつた。その路は例の大きな欅の立木で囲んだ家などがあり、また、野草が茫々と生えた野原のやうなところもあつたりして、如何にも田舎路らしい気がして、面白かつたので、代々木で乗換へはせずに、新宿まで行つて、廻り路ながら、甲州街道を少し南行してから、左へ折れて、前記のやうな田舎めいた路をたどつて、道玄坂の下へ出るのであつた。その路も今は変つてゐることは勿論だとは思つたが、それはどんな風になつてゐるのであらうか、ためしに歩いてみようといふ気になつた。それには先ず千駄谷から新宿の方へ向けて行き、渋谷へ向う路のどこかへ出るやうにしようと思つたのだ。
 
 渋谷を歩いた翌日の二十六日には、四谷の大木戸から千駄谷の方へ歩いてみた。

     千駄谷あたりの追憶

 与謝野君の千駄谷住ひの時分には、僕は牛込の弁天町にゐたので、よく与謝野君をたづね、大抵は深夜になつて帰るので、車で送つて貰ひもしたが、徒歩で帰つたことも度々であつた。
 夜なかの一時頃に、千駄谷駅から、御苑に沿うて北行すると、水車があつて、小さい橋があり、それを越して、内藤町へ入つて、大木戸へ抜けるのであつたが、その間が如何にも淋しい路であつた。
 僕はその路を逆に歩いてみるのであつた。大番町の広い大路を横ぎつて、内藤町へ曲がり、真直ぐに行つたが、このあたりは邸が皆綺麗になつたのみで、路の模様は昔のまゝのやうに思つた。路は自然に左へと曲がつて、大番町の大通りへ出てしまつたが、右手に小さい橋がある。池尻橋となつて居る。(古い東京図には沼尻橋となつて居る)その橋の向うは、土地が一段低く谷あひのやうになつて、昔の水車の面影を止めた家がある。橋を越すと、右は御苑の木立で、左は前記の家の板塀になつて居る。このあたりも勿論昔の形を大体残して居る。路はまた、大番町の大通りへ合してしまふのであるが、それから先きが、昔の記憶とは合はないやうに思はれたのである。もとより鉄道線路は少しだら/\上りの坂の上にあつたきりで、今のやうな高架線ではなかつたのだ。それはそれとして、凡そこのあたりにあつた筈だと思ふあたりに千駄谷の駅らしいものは見えないのだ。それで、まアとにかく歩いてみろと思つて、広い路を直行して、右へ曲がり、商店などのある可なり賑やかな通りを西行してから、左折し、神宮の手前から右へ廻つて、代々木練兵場の北口ヘ出たのであるが、僕の昔通つた渋谷への路は神宮に沿うて行く訳になるのであらうとは思はれたけれども、往来止めになつて居るので、引つ返して、練兵場の丘の下を、小川に沿うて、南をさして進んだのであるが、だん/\見当がつかなくなつたので、代々木八幡といふ小田急電車の駅のところから、バスに乗つて渋谷へ出てしまつた。
 昔、新宿から僕などの歩いた路は、どうしても今は練兵場のなかへ入つてしまつて居るのだと思ふ。昔の路は渋谷へ可なり近くなつて来たところに、陸軍の衛戌監獄といふのがあつた。さういふ点から考へると、その路は大体現今の神園町とか、神南町とかいふあたりを通り、刑務所の東を通り、今の宇田川町から、神宮通りへ出て、道玄坂下へ出て来るやうになつてゐたのであらうと思ふ。現今の小田急に沿うた低い谷あひの路ではなかつた。どうしても谷の上の路であつて、監獄のあたりから渋谷の方へ向けてちよつとした坂になつて居つたと思ふ。
 今より二十年ぐらゐ前までは、旧市内からほんのちよつと歩み出すと、全くの田園らしい野景に接することができたのであるが、今はどうして、吉祥寺とか、砧とかいふやうな新市外まで行つたところで、昔のやうな自然の勝つた景観は見られなくなつた。農家は勿論、畑も、田も、何んだかずつと綺麗になつてしまつたやうに見える。

 此の月、即ち九月の十九日の午前、大番町から内藤町、池尻橋といふ風に千駄谷へ向けて行つたが、どうも矢張り駅へは出で得ずに、霞丘といふあたりを通り、池尻橋のところの川の下流であらうと思ふやうな小流を見、原宿、穏田を通つて青山北町へ出てしまつた。その翌日二十日午前には、信濃町から歩いてみたが、やはりなか/\千駄谷の駅へは出ない。どうも駅は昔の位置からは西の方へ移つたやうな気がするので、この日は御苑に沿うて曲がつて居る狭い路をたどつてみたが、今度こそは駅の右手へ出ることが出来た。昔の駅は池尻橋からこんなには離れてゐなかつたと思ふ。路はその時分は駅の右手を通つて、徳川邸に沿うて左折し、そこが住宅地になつて居つた。ところで、線路と徳川邸の間は二尺位の高さの土手で囲まれた空地になつてゐた。与謝野君のうちからの帰りに、森鴎外さんやその外の人々と共に、この路を夜歩いたことがある。日露戦争の直後であつた。森さんが軍刀の●を握つて、こじりが土につかないやう引き上げて、気軽に人々と話しながら、ぬかるみをよけ/\歩いて居られた姿が今もなお眼前にあり/\と思ひ浮かべられる。
 当時の徳川邸は西の方が裏手になつて居つた。そこは茶畑になつて居つたやうであつた。明治二十年か二十一年かの晩秋、徳川邸での流鏑馬と騎射の天覧は、この茶畑になつて居る場所においてであつたらう。その時の騎手のうちでは、今京都に居る小笠原清通氏の外には、今は幾人も残つて居らぬであらう。
 千駄谷の駅が西の方へ移つたものだとすると、徳川邸も西の方へ広がつたものと思はざるを得ないのだが、さうなると、与謝野君の住んで居られたところは、現今の徳川邸の南になるか、あるひは、徳川邸のなかへ入つてしまつた訳かになるのだらう。与謝野君や生田長江君の住宅からは、現今の鳩森八幡は少し西寄りになつて居つたやうに思ふ。それとも、さういふ住宅地は、今の徳川さんの正門前の路を隔てた西の方の宅地のなかになつて居るのであらうか。どうも今の千駄谷駅の位置から考へると、さうではなささうに思へてならぬ。僕は、そんなことを思ひながら、八幡に沿うた路を下り、何時の間にか、渋谷へ向う環状道路へ出て、参宮道を横ぎつて、渋谷まで歩いてしまつた。
 ところで、こゝに一つ僕に取つてわからぬことがある。それは池尻橋の下の川は新宿の裏手を通つて、昔の内藤侯邸(今の御苑)を抜けて出て来る旧玉川上水であつて、赤羽根川の上流になつて居るのであるが、この川が一体どういふ風に流れて居るのであらうかといふ点である。穏田を流れて居るのも、代々木練兵場の西麓を流れて居るのも、同じ川であつて、それが昔の渋谷駅の東を通り広尾へ出で、天現寺を過ぎるといふ訳になつて居るとも思はれるし、文化の江戸図も嘉永の江戸図にも、この川は大木戸のところから一筋になつて居るのだが、嘉永の切図を見ると、内藤邸の西の方にもう一つ玉川上水の分れらしいものが一筋ある。どうも、この流も、どこかで、前記の大木戸からの流に合流して居るのではなからうか。古い郊外図か、五万分の地図でも調べて見たいと思つて居る。



昔の寄席

  一

 雨の音しめやかな夜などに、独り静かに物を思ひ続けて居るうちに、今まで別にそれ程遠い事のやうには思つて居なかつた自分の少年時の事などが、成る程随分前の事であるのに気が附くことがある。
 五十位な吾々に取つては、自分から俺は老人だと思ふことは、甚だ困難である。然し、若い人々は吾々を老人だと思つて居るに違ひないし、又さう思ふのは尤もな事である。
 吾々自身も青年時には、五十位の人を見れば、可なりな老人だと思つて居た。さうして見れば吾々が自ら老人たることを承認するとせざるとに拘らず、若き人々から老人を以て遇せられることは全く已むを得ないことである。
 されば、寧ろ自分も老人たることを承認して、精々古い方へ廻つてしまふ方が、骨の折れぬみちかとも思はれる。
 けれども、小生は生憎余り古い事を知らぬ。高々今より三十年位前のことならば少し知つて居る。これでは、昔物語とするには価値がないわけであるが、又一方から考へると、それでも何かの足しにはなるやうな気もする。近来江戸研究とか、江戸趣味などといふことが云はれだして、幕政の時分の事などは、書物になつて居るものが多いけれども、明治十年位から二十四五年位までの市井の雑事は、江戸研究のなかには当然含まれて居ないのだから、存外文書になつて居ないやうに思ふ。江戸時代の事を調べれば、それで大分古い事のオーソリテイになれるのであるが、知つて居る人の今大分生きて居る明治の事を書いたところで、誰もエラいとは云ひはしないばかりではなく、それは斯う違ふあゝ違ふと方々から槍が出る。賢き今の人はそんな損の多い仕事を買つて出ることは先づしないのだ。然し、さういふ割合に近い時代の事であつても、もう二十年も経てば、大分古い事として取り扱はれるやうにならうと思はれるので、さういふ時代になつた際の参考にもと、吾々の青年時の市井の事を時々書いてみようと思つて居る。
 左に記する寄席の事は、全くさういふ追憶記の一つである。

  二

 落語を何時頃聞き始めたのか、確な年代は今思ひ出せないが、小生の十二三の時分かと思ふ。本郷の大学病院へ出入りの貸本屋があつたが、それは、中脊で何方かと云へば円顔な、道具立てのはつきりした容貌の男であつた。所謂キリリと締つた顔立ちであつたのだ。年齢は幾つ位であつたか、少年の考では確でないが、もう三十近い男であつたやうな気がする。
 断つて置くが、勿論その時分の貸本屋のことであるから、今のやうな活版本を持つて歩く訳では無い。八犬伝、弓張月、水滸伝、三国誌といふやうな木版ものをば背負つて、方々を廻るのであつた。
 その男が落語が旨いさうだと誰かから聞いたので、本を貸しに来た時に、うちの者が大勢で、一つ落語をやつてみろとおだてた。貸本屋はその時二つばかり短い話をした。
 一つは斯ういふのであつた。或る侍が茶店に休んで、婆さんに此の辺には白狐が出るといふことだがときくと、婆さんはさういふことはございませんといふので、侍がイヤそれでは大かた人の説だらうと云つて行つてしまふ。職人がそれを聞いて居て、侍の真似をしようと思つて婆さんにこの辺にはダツコ(脱肛)が出るさうだねと聞く、婆さんはそんなきたない物は出ませんと答へると、職人は、大かた人のケツだらうと云つた。
 も一つは、嫁いびりの姑が、浴衣へ糊のかひ方に就て、無理を嫁に云ひかけて、まだ糊が足りない足りないと云つて、浴衣がごわ/\になつて袖がまるで突張つてしまふまでに糊で固めさせてしまふ。それを着て門口ヘ出て居ると、前の二階から子供が、向うの伯母さんお茶あがれといふ。姑はノリ(糊)がコワくて行かれませんと云つたといふ話である。
 田舎者であり且つ子どもであつた小生には、落は両方とも解らなかつたが、全体としての話の調子だけは何うにか解かつたので落語といふものはなか/\面白いものだといふ印象は受けたのであつた。
 そのうちに、母などが主唱で、寄席へ行くことになつた。初めて行つた寄席は、今の本郷の電車交叉点から切通しの方へ向つて行くと、右に日蔭町へ曲る横町があるが、その角にあつた荒木亭といふのであつた。それは、当時二流以下の寄席であつたらうと思ふのだが、木戸銭は四五銭のところであつたらう。吾々はその時分は敷物代を倹約するために、毛布を持つて行つたやうに覚えて居る。
 荒木亭で何んな話を聞いたのか、大抵今は忘れてしまつたが、その中にたつた一つ記憶に残つて居るのがある。
 酒飲みの爺さんが、娘を売つた金を持つて帰る途中、居酒屋の前を通り過ぎることができなくつて、一寸一杯といふ心算で、入つて飲み始める。所が、あと引上戸のことであるから、もう半分、もう半分とだん/\飲んで行くうちに、たうとうぐでんぐでんに酔つてしまつて、財布を忘れて出て行つてしまふ。居酒屋の夫婦はその財布を隠してしまつて、爺さんが酔が醒めて、財布をさがしに来ても、そんな物は無かつたと云つて渡さない。爺さんはその金がなければ何うにもならない身の上なので、身を投げて死んでしまふ。居酒屋の方は、その爺さんの金で、だん/\店を拡げて、商売が繁昌して可なりな身上になつた。そのうちに夫婦の間に子どもが出来た。乳母を雇つたが、何ういふものだか、皆二三日たつと、ひまを取つて帰つてしまつて、居附く者が一人もない。亭主が何うも合点のいかぬことだと思つて、一と晩ねずに番をして居ると、真夜中になつて、赤んぼがそろ/\寝床を抜け出して鼠入らずから湯呑を取り出して、旦那もう半分と云つた。
 此の話は、爺さんが居酒屋でもう半分々々と云ふところは可笑味で十分笑はせ、財布をさがしに来るところから、調子を引きしめだし、夜中の怪談は十分凄く話して、落のもう一杯で、客を笑はすといふ話し方であつた。
 元より善い寄席ではなかつたので、咄家も善い芸人ではなかつたのだらうが、今の記憶では、何うも話し方が旨かつたやうに思はれる。落を余り聞かないうち、而も子どものうちのことであるから、何がなしに旨かつたやうに思はれたのであるかも知れぬが、しかし又他方から考へると、当時の咄家は中流どころでも、今の咄家より芸がずつと上であつたかも知れないのだ。
 此の話は、その後何処でも聞いたことがない。当時でも善い寄席ではしない話になつてゐたのかも知れぬ。

  三

 所謂怪談ばなしなるものも、当時ではよい寄席には出ないものになつて居たやうに思はれるが、荒木亭には左龍といふのが、懸つたことがある。
 話は、侍が腰元を殺すとか、家来を殺すとかして、その死骸を埋めに行くといふやうなところまで話して、それから、高座と客席の燈を消し、薄暗いなかで、死骸を埋めるやうな所作がある。鬘位は附けて居るやうであつた。そのうち、あつと叫んで、その男が倒れたやうで見えなくなつてしまふと、幽霊がそろ/\と高座の隅から現はれ、烟硝の烟りか何かが裾の方でポツと立つ。時には高座の直ぐ下位へは下りて、引込んでしまふのだ。ハテ恐しい怨念ぢやなアとか何んとかいふやうな白が聞えて、燈がつくのである。
 昔は幽霊が客のなかを歩いたなどといふ話も聞いたのであるが、吾々の時分にはそんな事はなかつた。
 荒木亭に懸つた一座のなかで、今一つ覚えて居るのは、しん粉細工の何とかいふ男であつた。前芸にしん粉細工をやるといふのならば、兎も角であるのだが、これは真打であつて、出来上つたのを、籤引きか何かで客に呉れるのであるから、荒木亭の寄席としての格式も大抵それで知れようと思ふのである。
 荒木亭は明治十七八年頃には最早潰れて居たかと思ふが、その後牛肉屋のいろはになつて居たことを覚えて居る。今はその家は取り崩されて、その地面の一部分に農工銀行の支店が建ち、他の一部分が瓦屋か何かになつて居る。
 日蔭町の岩本は、内部へ近頃入つたことがないので、それは何うかはつて居るかも知らぬが、外部はさうたいして違つて居なからうと思ふ。
 小生は、十三四の時分かと思ふが、岩本へも行つた覚えがある。一人で行つたのだから、大抵は昼席であつたと思ふのだが、聞いた話のなかでは、渋川伴五郎が霧島山で土蜘蛛を退治する話と、姐妃のお百とが記憶に残つて居るのみである。講釈師の名などは覚えて居ない。
 講釈専門の寄席は本郷近くでは、上野の広小路に本牧亭といふのがあつた。これは今の鈴本の筋向うあたりであつたから、今何んとかいふ蕎麦屋兼料理屋になつて居るあたりにあつたのではなからうかと思ふ。
 神田の白梅はその当時は位置が好かつたので、眼に立つ講釈席であつた。小柳のある町はその時分は横町であつたので、講釈好きの人が知つて居るだけであつたらうと思ふ。
 白梅は今はもう講釈席ではない。此の頃は、多町あたりでも、白梅へ行くとは云はずにしらんめへ行くと云ふのださうだ。時世の変化がこんなところにも窺はれて、微笑を禁じ得ない。
 白梅で憶ひ出すが、明治十二年頃のことだと思ふけれども、白梅の右手の裏を入つたところに茶番狂言の常小屋があつた。
 父の知人につれて行つて貰つたことを覚えて居る。
 掛合話か何かで、侍が亭主と客と二人で庭を向いて話して居るうちに、客が庭をほめると、亭主が植木屋に作らせたといふ。客がさすがに餅屋は餅屋で御座るといふ。亭主はイヤ植木屋で御座るといふ。それでも、客は矢張り餅屋は餅屋で御座るなと感心している、亭主はイヽヤ植木屋で御座ると奴鳴るので、看客は大笑をするのであつた。後は、弥次、喜多が盲按摩におぶさつて川を渡る場と、長兵衛の鈴ケ森が出たやうに覚えて居る。
 近頃その常小屋のことを、人に話しても知つて居るといふ者がない。或はその小屋はその後間もなくなくなつてしまつたかも知れぬ。

  四

 序だから、なくなつた寄席を二つ三つ書いてみようか。本郷の本富士町に伊豆本といふ寄席が出来たことがあつた。位置は消防署の隣のところであつた。出来たのは明治二十二三年頃かと思ふのだが、此の寄席は明治三十一年頃にはもう潰れて居て、あとが甲子飯になつて居て、斎藤緑雨などと、懐中都合の悪い時分に、其所で一二度飯を食つたことを覚えて居る。
 これは伊豆本より後で出来たと思ふが、菊坂に菊坂亭といふのがあつた。勿論格の低い寄席で、源氏節とか、浪花節とかいふやうなものしきや懸らなかつたのであるが、近頃まで商売を続けて居たやうであつた。けれども、今は病院のやうなものになつて居るやうである。
 大横町──壱岐殿坂の通り──弓町の裏に、低級な寄席が出来て居たことを記憶して居るが、これも何時の間にかなくなつてしまつた。
 小石川の初音町に鶯橋といふのが大溝にかゝつて居て、その袂に初音亭といふのがあつた。場末の寄席らしい絵看板などを時々見かけたのだが、今はもうなくなつてしまつたらう。
 麹町の山王町の山王へ下りる角のところに、山長といふのがあつた。これは女義太夫の定席であつたかも知れぬが、今はその跡が薪屋になつて居る。
 九段坂の鈴木写真館の東隣に富士本といふのがあつたが、これは可なりな寄席であつた。今はその跡が仏教の講義所になつて居る。
 小川町の小川亭は女義太夫の定席として、名のあつた寄席であつたが、今は改築されて、天下堂になつて居る。
 下谷の数寄屋町の吹抜といふのは、心持の好い寄席であつたが、何時の間にかなくなつてしまつた。
 旧両国の橋詰から左に、柳橋の方へ出る横町があつて、その角に新柳亭といふ女義太夫の定席があつた。川縁で、裏は大川であつたのだから、一寸、心持のかはつた面白い寄席であつたが、両国橋の架け更へられると共に、彼の辺の模様がかはつて、新柳亭もなくなつてしまつた。
 京橋の南鍋町の鶴仙は風月堂の横町の左側であつたと思ふが、これも今はない。
 麻布の十番あたりであらうと思ふが、福槌といふ寄席があつたが、これももう今はなからうと思ふ。
 日本橋では、木原店の木原亭だの、瀬戸物町の伊勢本などが、名の聞えた寄席であつたが、今は一向名を聞かぬ。或は二軒ともなくなつたのではなからうか。
 斯ういふ風に、なくなつた寄席が随分多いのであるから、新に出来た寄席も大分有るには有るけれども、総数から云へば減つて、増して居る気遣ひはなからうと思はれる。
 けれども、近来では、郡部に近い昔の全くの場末が開けたので、其所には寄席の出来て居ることを見かけることがあるので、或は中央部では減つたが、場末ではふえて居るので、結局総数は三十年位前と同じだといふ訳になつて居るかも知れぬ。

  五

 竹町の若竹へ吾々が行きだしたのは、明治十四年頃であつたと思ふ。
 円遊がステテコを始めたのも、大凡その頃であつた。当時の寄席は一体に入りが今よりはずつと多かつたらう。
 円遊はその時分には、茶番のやうなやり方であつた。円遊が弁慶になり、一座の誰彼が、義経その他になつて、勧進帳の茶番などもやつた。滝夜叉などもやつたかと思ふ。面燈火なども用ひて、なか/\大袈裟なものであつた。入りを取つたのは此の茶番仕掛のお蔭であつたと思ふ。円遊の話は、当時の大家のなかではさう重んずべきものではなかつたのであるが、それでも幾らかの新味は加はつて居た。
『成田小僧』とか、『お初徳次郎』とかいふやうな話は、如何にも円遊に適したもののやうには見えたのであるが、何処となくまだ落著きが悪かつたやうであつた。晩年になると、それがだん/\落著いて来たのであらうと思ふ。
 要するに修行の功で出来上つた芸でなく、才気の芸であつたので後年先輩の伝統的な型が客に忘れられて行くに従つて、円遊の芸の長所が客の胸に善く徹するやうになつたのであらうと思ふ。後年には、円遊の話は如何にも当意即妙で面白いといふので、御座敷などが多かつたやうに聞いて居るのだが、さういふ風に頓智を働かすところでもつて、此の人は自分の芸の修行の足りないのを意識的に補つて居たかも知れぬ。
 当時の大真打連は皆続話をしたが、円遊はそれは出来なかつたらうと思ふ。義士の薪割りの話などは、何うもまづかつた。軽い罪のない話だけが、先づ聞けたのであつた。けれども、今の大家連の中へ入れば、ステテコ時代の円遊でも優に名人とでも云はなければなるまいと思ふ。
 当時の咄家は大家は続話で、中家位のところは、大抵音曲を入れるのであつたが円遊の一座の立川談志といふのは、素咄であつた。顔の長い、而も顎が細く尖つて長い男で、克明に話をするのであつたが、それで居てなか/\可笑しかつた。思ふに話は上手であつたのであらう。円遊のやうな才気を基としたムラ芸ではなかつたので、今何ういふ芸風であつたか思ひ出すのは困難である。
 所が、談志も厳密に言へば素咄ばかりで高座を勤めたのではない。話のあとが郭巨の釜掘りといふ踊のやうなものをやつた。郭巨が子を埋めに行くところからやるのだ。先ず座布団を巻いて、それを抱いて何んとかいつてはパア、又何んとか云つてはパアで、子との別れを悲しむ身振りをする。それから、鍬で地面を掘る真似をし、いよ/\釜が出て来たといふので、吃驚した表情から、大喜びの有様にて、帰命頂礼テケレツツのパアといふので、ステテコ形の踊になつて終るといふ、まことに呑ん気極まつたものであつたが、何しろやつて居る当人が大真面目なので、いやにくすぐつて笑はせられるといふ感じはなくて、見て居て決して厭な心持のするものではなかつた。
 呑ん気極まると云へば、円遊一座の橘家円太郎の芸なども、全くたわいのないものであつた。円太郎は顔の如何にも柔和さうな、愛嬌のある男で、人が酒を飲んで騒ぐ真似をして、歌を唄つたり、饒舌つたりして居るうちに嚔をすると、皆がエヽきたないなどと云ふところをやるだけのことであつた。大抵は、馬車の喇叭を吹いて、お婆さんあぶないよなどと、馬丁の口真似をするのだ。眼鏡から板橋へ通ふ馬車などは実に危険だと思はれる程構造の不完全な、そして、幌などの殆ど襤褸のやうに見える、今日では殆ど想像のできぬやうなものであつたが、さういふ馬車は円太郎馬車と呼ばれて居た。此の名称は円太郎がさういふ馬車の真似を高座でしたのから起つたのであらうと思ふ。円太郎は柔かにふとつた脊の低い男で、如何にも円いといふ印象を人に起させる体形及び表情の人間であつた。
 ヘラ/\坊万橘といふのも居た。此も小柄な何方かと云へば丸顔の男であつた。けれども、円太郎のやうに円満に円くはなく、幾らか骨張つて居た。先づ赤い布片で頭を包んでその余りを頬冠りのやうに下へ持つて来て、顎の下で結び合せ、扇を開いて、『太鼓が鳴つたら賑だアね、ほんとにさうなら済まないね、ヘラヘラヘツタラ、ヘラヘラヘ』といふやうな言葉に節を附けて云ひヘンな横眼を使ふやうな眼附をして湯呑を取つて湯を飲んだりするのである。歌は『太鼓が鳴つたら』のかへ歌として『大根が煮えたら、柔かだアね』といふのもあつた。囃子は太鼓と三味線でも使つたかと思ふ。
 円遊一座の如きは、当時の大家の一座に比べると、幾らか俗な方であつたのであらうが、それでもさういふ俗ななかに、何処か呑ん気な泰平の気分が表れて居て、面白いものであつた。
 先代の遊三も此の一座であつた。芸は後年の風と素質に於てかはつた所はない。矢張りヨカチヨロをやつていたのである。
 或男が、女房を貰つたところが、その女房が亭主の寐息を窺つては、毎晩何処かへ出て行く。亭主はそれと気が附いて、或晩、そつと後を附けて行くと、女房は或寺の墓場へ入つて、新墓を暴き、死人を引きだし、その腕を喰つた。亭主は驚いて逃げて帰つて慄へて居ると、女房も直ぐ後から帰つて来て、亭主の様子で後を附けられたことを覚つて、笑ひながら、自分は一度病気であつた時に、或人が妙薬だ、と云つて、何んだか分らぬ肉を呉れたが、それを食うと、病気は直きになほつてしまつた。あとで聞くと、それは人間の肉だといふのであつたが、その味が忘れられないので、時々斯うして夜出て行くのだと云つた。亭主は、弱いことを云つては、自分も喰はれてしまふかも知れないと思つたので、イヤ俺だつて若い自分は親爺の臑をかじつたと云つた。
 此の話は、遊三がやるのを聞いたことがあるのだが、その後は誰がやるのも聞いたことがない。寄席での話に対する取締りが厳しくなつてから、勿論斯ういふ話はできなくなつたのでもあらうか。

  六

 若竹で聞いた咄家の中では五明楼玉輔(先代)といふのを懐い出す。中脊の痩ぎすな、少し気取つた男であつた。咄家としては、漢語なども少し使へた方であつたやうだ。続話をしたやうに思ふのだが、偖何んな話をしたのであつたか、覚えて居ない。『写真の仇討』といふのがお箱であつたらしいのだが、玉輔がニユウ・ヨオクのことをばニユウ・ユウルクと云つたと云つて、吾々が笑つたことを記憶して居るのだから、『写真の仇討』の一部分位は聴いたかも知れないが、何うも確でない。
 玉輔の一座で何ういふ咄家が出たのか、それは少しも覚えて居ない。片目の今輔を見たのはずつと後のことだと思ふ。
 此の間、新聞を見ると、或咄家が、『わたしの親爺は歌にまで唄はれた桂文治です』と云ふと、客がそんな咄家があつたかねえと云つた。今の寄席通なる者は大抵そんなものだから、仕方がないといふやうなことが書いてあつた。
 成る程『桂文治は咄家で』といふ歌のやうなものを聞いた覚えはあるが、全体の文句は一寸思ひ出せない。
 桂文治は確に咄家であつた。所謂芝居話をするのであつた。何つちかといふと小柄な、眼附の鋭い、如何にも鯔脊な男であつた。
 或男が、他の男の妾のところへ行つて酒を飲んで居ると、その旦那が来て双方甚だバツの悪いことになる。旦那は、その男の額へ湯呑をぶつつけて傷を負はす。それで、男は出刃か匕首を持つて、復讐に出かける。そこで後の引幕を落とすと、吉原らしい遠見の書割になつて居る。或はそれもさういふ景色を書いた幕であつたかも知れぬが、兎に角、文治はその前で上着を肌脱ぐと、弁慶か何かの粋ななりになつて、立膝で立廻りの身振をするのであつた。
 外の話もしたであらうが、小生はその話だけしきや覚えて居ない。而も、この話は二度位聞いたやうに記憶して居る。
 禽吾楼小さんは、極く小柄に見える、顔が狆に似たやうな男であつた。小さんは続咄はしなかつたのであるが、円遊の話などより余程諷刺が強くこたへるやうな話し方であつた。小さんは雄弁とも云つても宜いやうな咄家であつた。『五人廻し』などでは、可なりに旨く漢語を使つた。けれども、『将棋の殿様』『お蕎麦の殿様』などが最も客受けのする話であつた。今日の咄家では、殿様の話のできるものは一人もあるまいと思ふ。侍らしい侍を出し得るものは、円右唯一人であらう。『目黒の秋刀魚』も小さんの話ではなかつたかと思ふ。何うも小さんの話を聞いたやうな気がする。
 団洲楼と云つた燕枝は当時の大看板であつて、これも一二度は若竹で聞いたのだが、何んな話であつたか、今少しも記憶に残つて居ない。品のある咄家とは思はれたが、何うも話はそれ程上手ではなかつたやうである。『島鵆』の一部分でも聞いたのであらうと思ふけれども、一向に憶ひ出せない。
 春風亭柳枝は、体の肥つた一寸遊人といふやうな感じのする男であつた。話は博奕打のことであつたやうに思ふが、これも今記憶に残つて居ない。柳条だの、司馬龍生などといふ咄家は、可なりな看板であつたやうだが、さう話は旨くはなかつた。
 たしか円馬と云つたかと思ふのだが、可なりな商店の旦那とでも云ひさうな品格の、もう好い年配の肥つた咄家があつたが、水茶屋の娘に旦那が出来たが、それが掏摸であつたという話を二三度聞いたことがある。此の話は近頃になつて速記本で見たことがあるから、講釈の方などでも、此の話をやるかも知れない。
 円橘が橘之助をつれて上方から帰つて来たと云つて、若竹にかゝつたのを聞きに行つたことがある。円橘は肥つた柔和さうな、可なり年をとつた男であつた。何んな話を聞いたのか、今は覚えて居ない。橘之助は痘痕があるかと思はれるやうな顔の肥つた女であつた。今の橘之助よりは器量が悪かつたやうに思ふのだが、同じ人であるのであらうか。
 円生は当時大家であつた。骨太の、色の白い、顔附の凄い男であつて、話にも強味があつた。博奕打が欺かされて呼び出されて、途中で要撃されるといふ話を二度聞いたやうに思ふ。或人は円生の『鰍ケ沢』が面白かつたと云つたが、成る程あゝいふ話は得意であつたらうと思はれる。
 吉原の松人といふ女郎が病気になつて、楼主の虐待を憤つて火をつける話を聞いたことがあるが、此は円生の話ではなかつたと思ふ。可なり深い仲の客が来て居て、それに松人が天上裏へ火の附いた着物か何かを上げてあるから今に火事になると話すところが可なり物凄かつたと覚えて居る、吉原に『松人火事』といふのがあつたが、話はその謂だといふのであつた。
 明治二十年頃であつた思ふのだが、円朝を唯つた一遍若竹で聞いたことがある。如何にも落著いた正々堂々たる話し方であつたが、余りに平凡な教訓的な言葉が混つたので、客が冷かしだして、話が面白く聞けなかつた。円朝は可なり体の大きい男であつたやうに覚えて居る。
 伯円も一遍若竹で聞いたことがある。話のなかで鶴の講釈が始まつて、伯円が頭の赤いのを丹頂といふのだと云ふと、客が頭の光るのは何んだと云つた。伯円はそれに構はずに話を続けようとすると、客は尚頭の光るのは何んだと云つた。伯円は怒つて、そこ/\に話を終つてしまつた。何んな話であつたのか、何んな話し方であつたのか、少しも覚えて居ない。唯伯円が脊の高い、頭の禿げた男であつたことが記憶に残つて居るのみである。

  七

手づま師では、柳川一蝶斎も見たことがあるが、帰天斎正一が西洋流の手づまでは大家であつた。正一はまづいながら講釈もやつた。托塔天王晃蓋が何うとかしたといふ水滸伝の講釈を一遍聞いた覚えがある。正一は手づまの外に幻燈をやつた。今の活動写真から見ると、隔世の感が深い。西洋の大きい家から火事の出るところだの、或景色が夕暮になり、全く夜になつて、月夜になるところなどを見せた。火事などは、烟と火は見えるのであるが、建物は何時までたつても焼け落ちない。これは、建物の絵はそのままで、煙と火の板のみが動くやうになつて居たからである。それでも、天一の幻燈は当時では、さういふ活動式のところがあつて珍しかつたのだ。
 明治二十年頃にはジヤグラ操一といふのがあつた。これは天一よりはもう少し新式な、もう少し規模の大きい手づま師であつた。しかし、咄家気分といふやうなものは、正一の一座の方に夐に多かつたと思ふ。
 十人芸とか称する西国坊明学といふのが、上方から来たことがあるが、これは大きな盲坊主であつて、義太夫もやれば、琵琶もひいた。琵琶は今でいへば筑前琵琶のやうなものであつたやうである。客に謎を掛けさせて、三味線を引きながら、解を歌ふやうにして云ふのであつたが、これは上方では古くから座頭のやる事であつたやうに聞いて居る。
『縁かいな』の徳永里朝も見たことがあるやうには思ふのだが、確な記憶はない。
 明治十八九年までは、寄席では女義太夫はそれ程勢力を持つに至らなかつたので、寄席へ出る女の芸人は女義太夫でないものの方が多かつた。
 円遊の一座であつたか、何うか明かには覚えて居ないが、宝集家金之助といふ年増の常磐津語があつた。出額ではあつたが、眼のはつきりした可なり好い器量の女であつた。『檀特山』だの『富山』などを聞いたことを覚えて居る。
 鶴賀若辰といふ新内語りがあつた。極く低い声で語るのであつた。若辰は、肥つた、三十を余程越して居るかと思はれるやうな盲目の女であつた。
 近頃死んだ紫朝の新内の声を思ひ切つて殺すやうなところが、若辰の全体であると思へば間違ひはないのだ。
 岡本宮子のことは、嘗て拙著『葉巻のけむり』の中に書いたが、当時女で兎にも角にも真打として客を呼んだのは、宮子一人であつた。岡本浄瑠璃といふのは、新内の一派であるらしかつた。『継子いじめ』などをやるのは、他の新内とかはりはなかつたが、『須磨の組討』などをやるところが、岡本派の特徴であつたのではなからうかと思はれる。
 聞くところに依れば、長谷川時雨女史が、先頃或る雑誌へ宮子のことを女義太夫として書かれたといふのだが、宮子は女義太夫のまだ流行らぬ時分の女芸人で、而も真打であつたのであるから、そこが一寸面白いのである。若い女であつて、芸は何うせヨタであつたのであらうが、器量のお蔭で人気を集めて居たのだ。寄席芸堕落の徴候が、もうその時分から見えて居たやうにも思はれるのである。
 宮子は後に禽語楼小さんの妻になつたとか聞いたのであるが、小さん死後落魄し脚気の為に、本所の何処かの路上に倒れて居て、養育院へ送られたといふ新聞を見たのも、もう十年以上前のことである。
 要するに、明治三十年頃までの寄席はあらゆる平民芸術の演ぜられる壇上であつた。男の義太夫でも当時は平民芸術であつた。先代越路の如きさへ寄席へ出た。木戸は高くなつて精々二十銭位であつた。呂昇、長広などは無論寄席へ出た。
 大芝居で五円近くの木戸で義太夫が興行されたり、金ピカの劇場で落語や講釈を聞かされたりするのも、時勢の進歩には相違なからうが、木戸銭が高くなり、興行場が立派になつた割り程には、芸が上手になつたやうには思へない。
 客の趣味の低劣になつたことは一般である。けれども、有楽座などのお客の方が落語の妙味を解せざることは、寄席の客以上であるやうに思はれる。寄席芸人はまだ寄席に於てはその芸の権威を持して居ることができるやうである。寄席芸人は寄席の壇上で骨を折つて貰ひ度い。蝋燭を両方へ立てて薄暗いやうな高座で、時々蝋燭の心を切りながら話すといふやうな気分で、落語の全体が出来て居るのだ。それを電燈の光眩ゆき金ピカの壇上へ引ずり出しては、何うも大分調子が違ふやうである。
『貞婦伝』といふやうなビラが下がつたので、おや/\と思つて居ると円右が『芝浜』を話しだすといふのでは、余りのことに苦笑もし兼ねる。
 それから、何んぼ可笑味を主とした落語であつても、一語一句が皆笑ふやうに出来て居はしない。笑ふには、笑ふべき要点があるものだ。それを咄家が口を開くや否や、笑ひ始めて、しまひまで笑ひ続けるといふのは、話を聞く方式ではない。而も、有楽座の客などにさういふのが甚だ多い。
 咄家がさういふ客に向つて話をするのを光栄とするやうでは、甚だ心細い。彼等は寧ろ退いて、華かならぬ寄席の高座で、伝統ある芸を演じて、誠実な聴き手を待つべきである。



文化の変遷と寄席の今昔

     寄席対小劇場

 僕等の少年の時分には、寄席は平民娯楽場の中心であつたのだが、現今では、さうではなくなつてしまつた。
 昔でも、寄席以外に娯楽場の種類が幾つか在つたには在つた。が、その一つは各所に在つた小劇場である。近頃まで在つた中洲の真砂座とか赤坂演伎座とかいふのも、小劇場には相違なかつたのであるが、僕のいふ昔の小劇場なるものは、もつとずつと小さい、全くの平民的劇場であつたのだ。僕の知つて居る限りで云へば芝の森元座、二長町に在つた何んとかいふ座と、向柳原の開盛座などが盛な方であり、もつと小さいのでは、赤城下に殆ど列んでゐる位の近い位置に全くの小芝居が二軒あつた。僕はその時分は、弁天町に住つて居た親類の老人のところへ漢文を習ひに本郷から毎日通つてゐたので、その小芝居の前を通つて、『八陣守護城』とか『二十四孝』とかいふやうな、悪どい程色彩の濃い絵看板を見かけたことがある。
 けれども、さういふ小芝居の客はずつと俗な連中──重に女、子供と云つてもよかつたらう──であつたので、寄席──小さくとも中流以上のもの──がさういふ小芝居に影響されるといふことはなかつた。
 中等どころの劇場が大入場を拡げだしたのも、二十二三年以後のことである。当時の春木座──今の本郷座──の前身で、大阪の鳥熊と称する男が、可なり安い芝居を興行しだした。役者は芝鶴、鯉之丞、勘五郎などといふのが重立つた役者であつた。けれども、極めて変つてゐたのは看客待遇法であつた。鳥熊は先づ大入場を思ひ切つて広くした。それから、面白いことには客の下駄の掃除をした。
 即ち、雨天の日など、泥まぶれになつてゐる下駄の歯をば、下足の方で、客の帰る迄に、すつかり綺麗に洗つて置くのであつた。
 さういふ興行法が大いに当つて、毎日大入をしめた。何しろ、その時分、春木座を一日見物するには、何うしても、一円以上はかゝつたのであるが、二十銭もかゝらぬ位で見られるのであつたから、あの近傍の人に取つては一種福音の観があつた。
 が、それでも、それが為めに、若竹あたりは、さう大して打撃を受けたことはなかつたらうと思はれる。
 さういふ小芝居若くは中芝居へ行く客は、濃厚な娯楽を求める連中であつて、もつとあつさりした、軽い気の利いた寄席の芸を賞翫する連中とは、少し種類を異にしてゐたと思ふ。それに芝居の方だといふと、時間等の関係もあつて、さう誰でも行くといふ訳には行かなかつたのである。
 それから芝居の方は何分時間が長いのであるから、弁当がいるとか何んとかいふことになつて、寄席より少しは費用を要したやうにも思はれる。要するに、芝居の方は、何んと無く出入が億劫であるやうに大抵の人は感ぜられてゐたのである。
 夜間、即ち、大抵の人がもつともひまになる時間に於て、手軽な娯楽の場所と云つては、寄席より外にはないと云ひ得る時代であつたのだ。
 先づさういふやうな点でも、昔の寄席は、他の娯楽機関に対し、競争を容さぬやうな優越な地位を占めてゐた。これが、当時の寄席が大抵何処も繁昌した一理由であつた。
 
     昔の寄席には権威があつた

 その時代に於ては、人々の知識の程度、趣味の程度が、大凡平均してゐたやうに思ふ。
 その時代には、東京の人口が今日程多くなかつたことは勿論であるが、それは、地方人が今日程多くなかつたといふ意味になる。即ち、その時分は東京が今日のやうに地方人に征服されてゐなかつた時代であつたのだ。それ故に、その時分では、地方人は、直きに東京人の感化を受けて、可なり急速度に東京人に近づいて行くのであつた。思ふに、その時分東京へ出た地方人は重に知識階級であつたので、その趣味に於ても、東京人とさう甚しく違つはゐなかつたのであらう。さういふ風で寄席などの芸は、東京趣味、東京人的知識に訴へるものでありさえすれば宜しかつたのである。
 芸人の方からは、解らないところがあれば、それは客の方が悪いのだといふ考へでやつて差し支へがなかつた。謂はば芸人の方に権威があつたのである。
 又客の方から云へば奇抜とか斬新とかいふものを、只管に求めるといふまでに、それまで在つた物に不満足は感じてゐないし、又何んでも新しい物を要求するといふやうな向上的憧憬は持つてゐたのではなかつたのだから、自分たちの持つてゐるだけの知識、趣味に合致するものであれば、満足するのであつた。言葉を換へて云へば、当時の客は一種のエキスペクテエションを持つて、芸を見、そのエキスペクテエションに合致するものであれば、それでもう十分満足するのであつた。勿論、芸に対して、看客の方で或る固定したエキスペクテエションを以て臨むといふことは何時の時代でもあることであるのだが、演ぜられる芸とそのエキスペクテエションが合致するかしないで、問題がいろ/\になるのである。
 寄席で演ぜられる芸のうちでは、云ふまでもなく落語が重なものであるのだから先づ落語に就て云ふことにするが、当時の聴客には落語は全体としてよく理解されたのである。落語が大成されたのは、明治十四五年頃から見て、さう古いことではなかつた。その時分を去ること精々で三十年位前と云つて間違ひは無かつたらう。いや、実際はもつと近かつたかも知れぬし、話によつては、慶応年間若くは明治の初め位に作られたものも、幾つかあつたかも知れないのだ。いやそれどころではなく、円遊の話の如きその時分出来上りつゝあつたものさへあつた位である。さういふ訳で、落語の中に出て来る人物の身分とか気質とかいふものは、咄家なり、客なりが実見したものではないにしても、大体想像だけはつく位、落語が作られた時代と明治十四五年頃──或は二十年頃でも──とは接近してゐたのである。いや、時としては、落語のなかに出て来る商家の旦那とか、若旦那とか、権助とか、お爨どんとかいふやうな人物の気質を、多分に具備した実際の人物を見ることさえあつた時代であつた。
 だから、さういふ方面だけで云へば、少くとも明治二十年位までにあつては、落語は大部分当時の風俗の写実であつたと見られぬこともないのである。
 それから侍などに就ても、侍といふ生活を実際やつた人々が、可なり多く生存して居た時代であつたことは勿論である上に、極く若かつた吾々さへもが、その侍であつた人々の子、即ち、さういふ侍であつた人々の直ぐ次のゼネレエションであつたのだ。それで、所謂侍なるものに対しても、吾々は相当の理解や、想像を持つことができ、従つて余程の親しみを持つことができたのであつた。
 その外、家