馬場孤蝶著
明治の東京
中央公論社版
古き東京を思ひ出て
一
もうそろ/\『東京新繁昌記(とうきやうしんはんじやうき)』といふやうなものが出(で)て来(く)るころになつた。吾々(われ/\)はさういふものによつて、前(まへ)の東京(とうきやう)を大分(だいぶ)憶(おも)ひだしたが、思(おも)へば東京(とうきやう)──震災前(しんさいまへ)の東京(とうきやう)──は随分(ずゐぶん)変(かは)つてゐた。いや、それは東京(とうきやう)ばかりではなく、京都(きやうと)、大阪(おほさか)のやうな大都市(だいとし)は勿論(もちろん)のこと、少(すこ)し大(おほ)きい地方市(ちはうし)ならば、この二十年(ねん)この方(かた)だけの変化(へんくわ)でも、実(じつ)に非常(ひじやう)なものであらうと思ふ。現(げん)に名古屋(なごや)の街衢(がいく)の今(いま)の変(かは)り方(かた)などは、その著(いちじ)るしい一例(れい)であることは疑(うたが)ひがなからう。
これまでの大部分(だいぶぶん)の都市(とし)は、町(まち)と村(むら)との混合(こんがふ)の形(かたち)であつた。昔(むかし)の東京(とうきやう)の如(ごと)きは、市(し)のなかに山(やま)があり、森(もり)あり、畑(はたけ)があり、田(た)さへあつたくらゐである。多(おほ)くの地方市(ちはうし)も東京(とうきやう)ほどの程度(ていど)ではないにしても、何処(どこ)も余程(よほど)さういふ風(ふう)なところがあつて、町(まち)と村(むら)との境界(きやうかい)を何(ど)の辺(へん)で附(つ)けていゝか分(わか)らぬといふやうな趣(おもむ)きはあつたらうと思(おも)はれる。昔(むかし)のやうに、世人(せじん)の生計(せいけい)が楽(らく)であつた時代(じだい)と違(ちが)ひ、誰(だれ)でもがさま/゛\の度合(どあひ)に於(おい)て、外(そと)へ出(で)て働(はたら)かなければならなかつたので、都市(とし)では誰(だれ)もが、出入(でい)りに便利(べんり)な部分(ぶぶん)に住(すま)ふことを欲(ほつ)するやうになり、市内(しない)の住宅(ぢうたく)の数(かず)は見(み)る/\増加(ぞうか)し、空地(あきち)が次第(しだい)になくなつて行(ゆ)くといふ有(あり)さまであつたのだ。東京(とうきやう)などでは、大邸宅(だいていたく)──大庭園(だいていゑん)──を持(も)つといふことが非常(ひじやう)な不経済(ふけいざい)であり、不便(ふべん)なことになつてしまつたので、それ等(ら)の大(おほ)きい屋敷(やしき)が売物(うりもの)に出(で)て、小宅地(せうたくち)に分割(ぶんかつ)されるのが多(おほ)いのだから、空地(あきち)は今後(こんご)ますま/\少(すくな)くなつて行(ゆ)くであらう。
僕等(ぼくら)が少年(せうねん)の時分(じぶん)には、まだ旧江戸(きうえど)の面影(おもかげ)だらうと思(おも)はるゝやうなものが大分残(だいぶのこ)つてゐた。一例(れい)を挙(あ)げれば、今(いま)の中央大学(ちうあうだいがく)の前(まへ)は法学院(はふがくゐん)、その前(まへ)はイギリス法律学校(はふりつがくかう)、その又前(またまへ)が明治義塾(めいぢぎじゆく)、その前身(ぜんしん)が三菱商業学校(みつびししやうげふがくかう)であつたのだが、明治義塾時代(めいぢぎじゆくじだい)までの校舎(かうしや)は、昔(むかし)の侍屋敷(さむらひやしき)のまゝの建物(たてもの)であつた。いづれ何(なん)千石(ごく)といふやうないはゆる布衣以上(ほいいじやう)の旗本(はたもと)か、それとも、も少(すこ)し大(おほ)きい小名(せうみやう)かの邸宅(ていたく)であつたのであらう、大(おほ)きな式台(しきだい)で、内(うち)には書院(しよゐん)らしい部屋(へや)もあるといふ、日本建(にほんだ)ての家(いへ)としては可(か)なり広々(ひろ/゛\)とした建物(たてもの)であつた。当時(たうじ)はさういふ前代(ぜんだい)からの遺物(ゐぶつ)である建物(たてもの)が錦町(にしきちやう)、神保町(じんばうちやう)、猿楽町(さるがくちやう)、今川小路(いまがはこうぢ)へかけて、幾(いく)つも見(み)られ得(え)たらうと思(おも)ふ。
今日(こんにち)も神田(かんだ)の西部(せいぶ)は学校町(がくかうまち)である。だが、その時代(じだい)はより多(おほ)く学校町(がくかうまち)であつた。学習院(がくしふゐん)のあつたのは、いまの商科大学(しやうくわだいがく)の前(まへ)あたりで、帝国大学(ていこくだいがく)の予備門(よびもん)も、法学部(はふがくぶ)も、理学部(りがくぶ)も、その南手(みなみて)にあつたのだらうと思(おも)ふ。唯(たゞ)医学部(いがくぶ)と病院(びやうゐん)は今(いま)の帝国大学(ていこくだいがく)のある本郷(ほんがう)の旧加賀侯邸(きうかがこうてい)にあつたのだ。従(したが)つて、神田(かんだ)のあのあたりは、本屋町(ほんやまち)といつてよかつた。勿論(もちろん)、新本(しんぽん)のさう出版(しゆつぱん)せられる時代(じだい)ではなかつたので、大抵(たいてい)古本屋(ふるほんや)であつた。これはそれより少(すこ)し後(のち)になつてのことだが、駿河台下(するがだいした)の停留所(ていりうじよ)の西手(にして)の横町(よこちやう)あたりから俎橋(まないたばし)へ抜(ぬ)けるひどく狭(せま)い町(まち)が殆(ほとん)ど軒(のき)ごとに古本屋(ふるほんや)であつたことを記憶(きおく)してゐる人(ひと)は幾(いく)らもあるであらう。此(こ)の狭(せま)い横町(よこちやう)が南(みなみ)の方(はう)を取(と)り拡(ひろ)げられて、今(いま)の電車通(でんしやどほ)りになつたことは、こゝにいふまでもなからう。駿河台下(するがだいした)からお茶水橋(ちやのみづばし)へ向(むか)ふ今(いま)の電車通(でんしやどほ)りも小川町寄(をがはまちよ)りのところは、電車開通(でんしやかいつう)のためにできた新道(しんだう)だと思(おも)ふ。昔(むかし)の路(みち)はあの坂道(さかみち)の下(お)り口(くち)の西手(にして)の小(ちひ)さい横町(よこちやう)を通(とほ)るやうになつてゐたのだ。
谷崎精二氏(たにざきせいじし)の前記(ぜんき)『東京新繁昌記(とうきやうしんはんじやうき)』中(ちう)の神田(かんだ)の部(ぶ)には、神保町辺(じんばうちやうへん)の火事(くわじ)のことが書(か)いてあつたと思(おも)ふのだが、あの辺(へん)が震災前(しんさいぜん)に焼(や)けたのは、明治(めいぢ)四十二三年(ねん)ごろであつたらうと思(おも)ふ。何(な)んでも、春(はる)であつたかと思(おも)ふのだが、三崎町(みさきちやう)あたりから出(で)た火(ひ)で、可(か)なり広(ひろ)い地域(ちゐき)へ焼(や)け広(ひろ)がつた。あの辺(へん)は二十五六年(ねん)ごろに大火(たいくわ)に逢(あ)ひ、その後(ご)ももう一回(くわい)焼(や)けたことがあるやうに記憶(きおく)する。さういふ風(ふう)で神保町(じんばうちやう)から錦町(にしきちやう)へかけての古(ふる)い建物(たてもの)は、或(あるひ)は焼(や)け、或(あるひ)は改築(かいちく)されて、あの辺(へん)は震災前(しんさいまへ)に既(すで)に新市街(しんしがい)になつてしまつてゐたのだ。
坪内逍遙大人(つぼうちせうえうたいじん)の『書生気質(しよせいかたぎ)』には淡路町(あはぢちやう)あたりの横町(よこちやう)で、学生(がくせい)が矢場(やば)(楊弓場(やうきうぢやう))女(をんな)に引張(ひつぱ)られるところがある。なるほど、今(いま)の宝亭(たからてい)の横町(よこちやう)にそんな家(うち)が二三軒(げん)あつた。それは明治(めいぢ)十五六年(ねん)ごろのことである。
淡路町(あはぢちやう)にあつた共立学校(きようりつがくかう)は、今(いま)の開成中学(かいせいちうがく)の前身(ぜんしん)であるが、高橋是清(たかはしこれきよ)、鈴木知雄氏(すゞきともをし)等(ら)の創立(さうりつ)した英語学校(えいごがくかう)で、大学予備門(だいがくよびもん)、商業中学(しやうげふちうがく)等(とう)の入学準備(にふがくじゆんび)の学校(がくかう)であつた。今(いま)五六十代(だい)の人(ひと)でそこに学(まな)んだ人々(ひと/゛\)は大分多(だいぶおほ)からうと思(おも)ふ。田島錦治氏(たじまきんぢし)の顔(かほ)はよく覚(おぼ)えてゐる。僕(ぼく)と同級(どうきふ)にゐたのは平田禿木(ひらたとくぼく)、桑木厳翼(くはきげんよく)、滝精一(たきせいいち)、立作太郎(たちさくたらう)の諸氏(しよし)であつた。島崎藤村君(しまざきとうそんくん)もあの学校(がくかう)にゐたことがあるといふ。明治(めいぢ)二十年(ねん)ごろの試験成績表(しけんせいせきへう)のなかでは、中村利彦(なかむらとしひこ)(福島(ふくしま))といふ名(な)を見出(みいだ)すであらう。これは堺利彦君(さかひとしひこくん)の前名(ぜんみやう)で、福島(ふくしま)は福岡(ふくをか)の誤(あやま)りである。
今(いま)の万世橋(まんせいばし)が昔(むかし)の昌平橋(しやうへいばし)であり、それと今(いま)の昌平橋(しやうへいばし)との間(あひだ)に石造(せきざう)の、下(した)が水路(すゐろ)を通(とほ)すために、円形(ゑんけい)に二ケ所開(しよあ)いてをる橋(はし)があり、それを俗(ぞく)に眼鏡橋(めがねばし)といつて、それが昔(むかし)の万世橋(よろづよばし)であつたのだ。だから、昔(むかし)の上野(うへの)への本道(ほんだう)はその橋(はし)を渡(わた)り、川(かは)に沿(そ)うて右折(うせつ)し、直(す)ぐ左折(させつ)し、又直(またぢき)に右折(うせつ)して、いはゆる御成道(おなりみち)になつてゐた。鉄道馬車(てつだうばしや)の道(みち)もさういふ風(ふう)になつてゐたのであつた。御成道(おなりみち)は将軍(しやうぐん)が上野(うへの)へ参詣(さんけい)の通路(つうろ)に当(あた)つてをつたのだらうが鉄道馬車(てつだうばしや)の通(とほ)りだすまでは、実(じつ)に狭(せま)い街(まち)であつた。あの街(まち)は後(あと)では古(ふる)い絵双紙(ゑざうし)や、絵本(ゑほん)を売(う)る店(みせ)が何軒(なんげん)もできてゐたのだが、昔(むかし)はあすこで眼(め)に立(た)つたのは、鎧(よろひ)や古馬具(こばぐ)や、槍(やり)、刀(かたな)といふやうな古武器(こぶき)を売(う)る店(みせ)であつた。弓矢(ゆみや)を売(う)る店(みせ)も一軒(けん)黒門町(くろもんちやう)あたりにあつたことを記憶(きおく)する。
二
古(ふる)い絵双紙(ゑざうし)には、上野公園(うへのこうゑん)の入口(いりぐち)のあの広場(ひろば)に、風車(かざぐるま)のあるのがかいてあるだらうと思(おも)ふのだが、勿論(もちろん)明治(めいぢ)になつてできたものであらう。これは、鉄道馬車(てつだうばしや)ができた時分(じぶん)にはまだあつたかと思(おも)ふ。その時分(じぶん)には無論(むろん)三橋(みはし)はあつた。この方(はう)は極(ごく)近(ちか)ごろまであつたと思(おも)ふ。切通(きりどほ)し下(した)から広小路(ひろこうぢ)へ出(で)る今(いま)の電車道(でんしやみち)は近年(きんねん)になつて開(ひら)けた道(みち)で、あすこは板倉侯(いたくらこう)の邸(やしき)であつた。その裏手(うらて)の近(ちか)ごろまで吹抜(ふきぬき)といふ寄席(よせ)のあつた通(とほ)り──南北(なんぼく)の通(とほ)りは昔(むかし)からあつた。吹抜(ふきぬき)の筋向(すぢむか)うあたりの西側(にしがは)の路次(ろじ)やうなところを入(はひ)つたあたりに、大弓場(だいきうば)があり、それから南(みなみ)の方(はう)の横町(よこちやう)に借馬屋(かしうまや)があり、狭(せま)く短(みじか)いものながら、馬場(ばば)もあつて、そこで馬(うま)が乗(の)れるやうになつてゐた。それは、十六七年(ねん)から二十年(ねん)ごろへかけてのころのことではあるが、それにしても、あの辺(へん)でさへ、そんな空地(あきち)があつたのだから、その時分(じぶん)の東京生活(とうきやうせいくわつ)には余(よ)ほどの余裕(よゆう)があつたことが推知(すゐち)できるであらう。
不忍池(しのばずのいけ)の縁(ふち)が埋立(うめた)てられて競馬場(けいばぢやう)になつたのは何時(いつ)ごろであつたらうか、今明(いまあきら)かには記憶(きおく)しないが、明治(めいぢ)十八年(ねん)ごろにはもう馬場(ばば)はできてゐた。そのまへはその廻(まは)りは草(くさ)の生(は)え茂(しげ)つた極狭(ごくせま)い路(みち)で、池(いけ)の周囲(まはり)がもの寂(さ)びてゐて、如何(いか)にも風情(ふぜい)があつた。その時分(じぶん)にはさういふ池(いけ)にくつゝいた草径(くさみち)と茅町(かやちやう)の池(いけ)へ面(めん)した道路(だうろ)との間(あひだ)には、もう一筋(ひとすぢ)溝川(みぞがは)が流(なが)れてをり、それに月見橋(つきみばし)だの、雪見橋(ゆきみばし)だのといふ土橋(どばし)がかゝつてゐた。さういふ溝川(みぞがは)と土橋(どばし)は近年(きんねん)まで遺(のこ)つてゐたが、何時(いつ)かの博覧会(はくらんくわい)の時(とき)か何(なに)かに埋(う)められてしまつた。
森鴎外大人(もりおうぐわいたいじん)の『雁(がん)』といふ小説(せうせつ)には、本郷(ほんがう)の龍岡町(たつをかちやう)から岩崎邸(いわさきてい)の裏手(うらて)を通(とほ)つて池(いけ)の方(はう)へと下(お)りて行(い)く無縁坂(むえんざか)あたりのことが書(か)いてあるので、ひどく興(きよう)を覚(おぼ)えたことがある。
大学(だいがく)の東端(とうたん)と丘続(をかつゞ)きになつてゐる茅町(かやちやう)の西側(にしがは)に、忍(しのぶ)ケ岡(をか)小学校(せうがくかう)といふのがあつたが、床次竹二郎氏(とこなみたけじらうし)の出身校(しゆつしんかう)である。 根津(ねづ)にあつた遊廓(いうくわく)が今(いま)の洲崎(すさき)へ移(うつ)された年代(ねんだい)を今(いま)記憶(きおく)しないが、明治(めいぢ)十七年(ねん)ごろまではあすこに娼楼(しやうろう)が一廓(くわく)をなしてゐたと思(おも)ふ。藍染橋(あゐそめばし)までは引手茶屋(ひきてぢやや)であつたらしく、花暖簾(はなのれん)などが風(かぜ)に翻(ひるがへ)るのを見(み)たことがある。橋(はし)から先(さ)きが娼楼(しやうろう)の区域(くゐき)で、権現(ごんげん)の方(はう)へ曲(まが)つてゐる八重垣町(やへがきちやう)の方(はう)に大楼(たいろう)があつたのではなからうかと思(おも)ふ。とにかく大八幡(おほやはた)の跡(あと)といふのが、温泉(をんせん)になり、旗亭(きてい)になり、後(のち)には病院(びやうゐん)になつて極(ご)く近(ちか)ごろまで遺(のこ)つてゐたが、それは庭(には)なども見事(みごと)になか/\の大建物(おほたてもの)であつた。
今(いま)では、根津(ねづ)の大通(おほどほ)りは動坂(どうざか)の方(はう)へと突(つ)き抜(ぬ)けてをるのだが、昔(むかし)はあの道(みち)は直(ぢ)きに突(つ)き当(あた)りになつてゐた。その突(つ)き当(あた)りになつてゐたところと、団子坂(だんござか)から谷中(やなか)へと通(つう)じてゐる路(みち)との間(あひだ)は、池(いけ)などのある邸(やしき)のやうなものになつてゐたやうだ。或(あるひ)は田(た)などもあつたかも知(し)れぬ。谷中(やなか)の坂(さか)への上(あが)り口(くち)の右手(みぎて)の方(はう)は田(た)になつてゐたのだから。
団子坂(だんござか)が改修(かいしう)されて長(なが)い坂路(さかみち)になつたのは、七八年前(ねんまへ)かと思ふのだから、あの坂(さか)のへんに曲(まが)つて下(くだ)りになつてゐたのを、薮蕎麦(やぶそば)と菊人形(きくにんぎやう)と共(とも)に記憶(きおく)してゐる人(ひと)は多(おほ)いであらう。そして、あの辺(へん)の路(みち)が今(いま)よりもずつと狭(せま)かつたことはいふまでもあるまい。
菊人形(きくにんぎやう)といへば、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)のことをいはなければならなくなるのだが、それは上野駅(うへのえき)の北端(ほくたん)あたりの右方(うはう)をば、狭(せま)いさま/゛\に折(を)れ曲(まが)つた小道(こみち)へと入(はひ)つて行(い)くのであつた。両側(りやうがは)は竹垣(たけがき)やら生籬(いけがき)やらで仕切(しき)つた植木屋(うゑきや)で、門(もん)を入(はひ)ると、葦簾(よしず)で高(たか)く上(うへ)の方(はう)を日蓋(ひおひ)をして、その下(した)へ板(いた)で花壇(くわだん)をこしらへてそれへ鉢入(はちい)りの朝顔(あさがほ)を列(なら)べてあつた。朝顔(あさがほ)は土鉢(どばち)に植(う)ゑてあるのだが、それをば、陶(せと)の鉢(はち)のなかへ入(い)れ子(こ)にしてあるのであつた。客(きやく)は薄暗(うすくら)い中(なか)で、花(はな)の色(いろ)の気(き)に入(い)つたのを選(えら)んで買(か)ひ取(と)つて、自分(じぶん)で持(も)つて帰(かへ)るなり、配達(はいたつ)を命(めい)ずるなりするのであつた。七八月(ぐわつ)ごろの、天気(てんき)のいい朝(あさ)は、入谷(いりや)の狭(せま)い路(みち)をさういふ客(きやく)が、花見(はなみ)か縁日(えんにち)かのやうに、ぞろ/\歩(ある)いてゐたのであつた。なにしろ、朝(あさ)四時(じ)か五時(じ)に起(お)きて、不忍(しのばず)の蓮(はす)を見(み)がてら、入谷(いりや)へ朝顔(あさがほ)だけを見(み)に行(い)くといふのだから、随分呑(ずゐぶんの)ん気(き)な訳(わけ)のものであつた。その入谷(いりや)を東(ひがし)へ抜(ぬ)けきると、その先(さ)きは、いはゞ漠々(ばく/\)たる水田(すゐでん)といつていゝくらゐで、蓮池(はすいけ)や稲田(いなだ)が青々(あを/\)と続(つゞ)いて、それを隔(へだ)てゝ右寄(みぎよ)りには浅草寺(せんさうじ)の塔(たふ)や堂(だう)の屋根(やね)が見(み)え、正面(しやうめん)には、吉原(よしはら)の娼楼(しやうろう)の洋館(やうくわん)まがひの塔(たふ)や円蓋(ドーム)のやうな屋根(やね)の一●(タケカンムリ+「族」)(ぞく)が見(み)える。全(まつた)くいゝ気分(きぶん)の眺(なが)めであつた。無理(むり)のきくものなら、今日(こんにち)までもあのままに遺(のこ)して置(お)きたい場所(ばしよ)であつた。
朝帰(あさがへ)りの客(きやく)、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)から帰(かへ)る客(きやく)は、よく根岸(ねぎし)の笹(さゝ)の雪(ゆき)へ寄(よ)つて、絹漉(きぬご)し豆腐(どうふ)へ葛餡(くずあん)をかけたのを菜(さい)にして、酒(さけ)を飲(の)んだり、飯(めし)を食(く)つたりした。その時分(じぶん)は、笹(さゝ)の雪(ゆき)はこのあん掛(か)け豆腐(とうふ)専門(せんもん)の家(うち)であつたが、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)がなくなると共(とも)に、料理屋(れうりや)になり、今(いま)ではあの辺(あたり)には芸妓屋(げいしやや)ができるまでになつてしまつた。
入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)は明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろまでは確(たし)かにあつたと思(おも)ふのだが、菊人形(きくにんぎやう)の方(はう)は場所(ばしよ)は変(かは)つても今日(こんにち)まで遺(のこ)つてをるけれども、朝顔見物(あさがほけんぶつ)の方(はう)は余(あま)りに呑(の)ん気(き)なことなので、何時(いつ)の間(ま)にかなくなつて、朝顔(あさがほ)は縁日(えんにち)の草花屋(くさばなや)が売(う)つてゐるくらゐなものになつてしまつた。
『たけくらべ』の場面(ばめん)に取(と)られてゐる大音寺前(だいおんじまへ)──坂本通(さかもとどほ)りの三島神社(みしまじんじや)の角(かど)を曲(まが)つて吉原(よしはら)の裏手(うらて)へと行(い)く路(みち)──なども、寺(てら)などの生籬(いけがき)が道(みち)に沿(そ)うてゐて淋(さび)しい処(ところ)であつて、浪人(らうにん)が廓(くるわ)通(がよ)ひの客(きやく)を脅(おびや)かしたといふ昔話(むかしばなし)も憶(おも)ひ出(だ)せるやうな場所(ばしよ)であつた。
昔(むかし)の東京(とうきやう)は震災(しんさい)までにもう大部分(だいぶぶん)滅(ほろぼ)されてゐた。そこへ持(も)つて来(き)て、あの大震災(だいしんさい)であつた。沿革(えんかく)も風情(ふぜい)もあつたものではない。なにもかも骨灰(こつぱひ)になつてしまつたのだ。ついこのごろの新聞(しんぶん)には日本堤(にほんづゝみ)を削(けづ)り取(と)ることになつたとあつた。もう別(べつ)に風情(ふぜい)のある場所(ばしよ)ではなくなつたのだから、便利(べんり)のための変革(へんかく)はむしろ歓迎(くわんげい)すべきであらう。
三
龍岡町(たつをかちやう)の南端(なんたん)、牛肉屋(ぎうにくや)豊国(とよくに)の前(まへ)に当(あた)る、大学(だいがく)の長屋(ながや)の角(かど)の大(おほ)きい槻(けやき)の柱(はしら)に刀(かたな)でさんざんに切(き)り込(こ)んだあとが遺(のこ)つてゐた。俗(ぞく)には、それを化物柱(ばけものばしら)だといひ、それが夜(よ)なかには化物(ばけもの)に見(み)えるので、通(とほ)りがゝりの侍(さむらひ)が引(ひ)き抜(ぬ)いて切(き)りつけるので、あんな痕(あと)が遺(のこ)つてをるのだといひ伝(つた)へてゐた。しかし、あれは、酔(よ)つた侍(さむらひ)などが大諸侯(だいしよこう)に対(たい)する反抗心(はんかうしん)などもあり、要(えう)するに、悪戯心(いたづらごゝろ)から、すつぱ抜(ぬ)いて切(き)りつけたにすぎないものであらう。
あれから南(みなみ)への左側(ひだりがは)、今(いま)本郷区役所(ほんがうくやくしよ)になつてをるところまでは、麟祥院(りんしやうゐん)の枳●(「轂」の「車」の代りに「米」)垣(からたちがき)であつた。その垣根(かきね)のために麟祥院(りんしやうゐん)を俗(ぞく)にからたち寺(でら)といつてゐた。この寺(てら)は春日(かすが)の局(つぼね)の菩提所(ぼだいしよ)なんださうだが、昔(むかし)は、切通(きりどほ)しの通(とほり)へもつと境内(けいだい)が出(で)てゐたのだ。明治(めいぢ)二十四五年(ねん)ごろに道(みち)を拡(ひろ)げるために、寺(てら)の地面(ぢめん)を切(き)り取(と)つたので、寺(てら)の塀際(へいぎは)にあつた榎(えのき)とか樫(かし)などのやうな巨幹(きよかん)の老樹(らうじゆ)が路傍(みちばた)に遺(のこ)つて、その蔭(かげ)に町家(ちやうか)が建(た)つた。大(おほ)きな根張(ねは)りの木(き)の下小暗(したをぐら)きまでに茂(しげ)つた樹(き)の蔭(かげ)に、鮨屋(すしや)などの暖簾(のれん)が見(み)えるといふやうなのは、なか/\面白(おもしろ)い風情(ふぜい)であつたのだが、さういふ老樹(らうじゆ)も何時(いつ)の間(ま)にか伐(き)り倒(たふ)されて、道(みち)は今(いま)のやうな有(あ)りふれた電車路(でんしやみち)になつてしまつた。
『夕(ゆふ)じほの切(き)り通(どほ)し坂(ざか)をわれ行(ゆ)けばあらゝ/\と車(くるま)飛(と)ぶなり。これは近(ちか)きころできたるばかな会(くわい)といへるの詠草(えいさう)なりとぞ』
そんなやうな意味(いみ)のことを、斎藤緑雨(さいとうりよくう)が随筆(ずゐひつ)のなかへ書(か)いたのは、明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろなのだから、まだ老樹(らうじゆ)が路端(みちばた)にあつた時分(じぶん)のことである。今(いま)は、吉原(よしはら)通(がよ)ひも電車(でんしや)か、自動車(じどうしや)になつてしまつたので、朦朧車夫(もうろうしやふ)の駈(か)けながら出(だ)す『あらよ』の掛(か)け声(ごゑ)も聞(き)かれなくなつたであらう。
本郷(ほんがう)三丁目(ちやうめ)から切(き)り通(どほ)しへ向(むか)ふ街(まち)は北側(きたがは)は昔(むかし)は俚俗(りぞく)盲長屋(めくらながや)といつた本富士町(もとふじまち)であり、南側(みなみがは)は春木町(はるきちやう)であるが、その春木町(はるきちやう)は、二三度(ど)焼(や)けたと思(おも)ふ。中央会堂(ちうあうくわいだう)の焼(や)け残(のこ)りの煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)のところへ、夜半(やはん)の月(つき)がかゝつてゐるのを、廃墟(はいきよ)の月(つき)といふやうな気(き)がして、風情(ふぜい)ある眺(なが)めだと見(み)て過(す)ぎたことを覚(おぼ)えてゐる。明治(めいぢ)十五六年(ねん)ごろには、中央会堂(ちうあうくわいだう)の横手(よこて)の横町(よこちやう)を入(はひ)つたところに大弓場(だいきうば)があつて、そこでは後(のち)に一(ひと)つ橋(ばし)の高商(かうしやう)の弓(ゆみ)の教師(けうし)になつた窪田藤信(くぼたふぢのぶ)(当時(たうじ)は金作(きんさく))氏(し)などゝ落(お)ち合(あ)つたことを記憶(きおく)する。その大弓場(だいきうば)の主(あるじ)の高木清吉(たかぎせいきち)といふのはそのあと下谷区西町(したやくにしちやう)へ移(うつ)つて、射場(いば)を開(ひら)いてゐて、明治(めいぢ)二十一二年(ねん)ごろ、そこで画家(ぐわか)村田丹陵氏(むらたたんりようし)や、今(いま)、日本銀行(につぽんぎんかう)の理事(りじ)をしてゐる河田敬三氏(かはだけいざうし)などと一二度(ど)一緒(しよ)に弓(ゆみ)を射(い)たことがあつた。何(なに)しろ、大弓場(だいきうば)といへば家(いへ)ともに長(なが)さ十七八間(けん)に幅(はゞ)二間(けん)ぐらゐは要(えう)したのであつて、当時(たうじ)では、それだけの地面(ぢめん)をば、そんな場末(ばすゑ)でない部分(ぶぶん)において、大弓場(だいきうば)といふやうな収入(しうにふ)の少(すくな)い商売(しやうばい)に使(つか)つたのであるから、その時代(じだい)の一般(いつぱん)の経済状態(けいざいじやうたい)も大抵(たいてい)推定(すゐてい)できるであらう。
本郷座(ほんがうざ)は春木座(はるきざ)といつた。僕(ぼく)などはどうも今(いま)でもツイ昔(むかし)の名(な)をいつていかぬ。もう七八年(ねん)ほど前(まへ)、ある席(せき)でツイ春木座(はるきざ)といつてしまふと、座(ざ)にゐた下谷(したや)の老妓(らうぎ)にこれは嬉(うれ)しいといつてひどくほめられた。その春木座(はるきざ)も震災(しんさい)までに二度(ど)ぐらゐは焼(や)けたらうかと思(おも)ふ。昔(むかし)は大劇場(だいげきぢやう)のうちに入(はひ)つてゐたらしいのだが、中(なか)ごろ衰(おとろ)へてゐて、大阪(おほさか)から明治(めいぢ)十六七年(ねん)ごろ鳥熊(とりくま)といふ興行師(こうぎやうし)が芝鶴(しかく)、鯉之丞(こひのじよう)などといふ役者(やくしや)の一座(ざ)を連(つ)れて来(き)て大入場(おほいりば)を広(ひろ)くし、弁当(べんたう)をひどく安(やす)くし、その上(うへ)に、雨天(うてん)の日(ひ)など、客(きやく)が帰(かへ)るまでに、客(きやく)の穿(は)き物(もの)を洗(あら)つて置(お)くといふやうな新興行法(しんこうぎやうはふ)でもつて、ひどい当(あた)りを取(と)つた。この興行法(こうぎやうはふ)は東京(とうきやう)の大劇場(だいげきぢやう)へまで影響(えいきやう)を及(およ)ぼして、それ以後(いご)は何処(どこ)でも大入場(おほいりば)を取(と)り拡(ひろ)げたやうであつた。
明治(めいぢ)十二三年(ねん)ごろは大学(だいがく)の構内(こうない)には、医科(いくわ)即(すなは)ち当時(たうじ)は医学部(いがくぶ)といつてゐたのがあつたばかりで、此(こ)の旧加賀邸(きうかがてい)の赤門寄(あかもんよ)りの方(はう)は、茫々(ばう/\)たる薄原(すゝきはら)で、その草(くさ)の間(あひだ)に、昔(むかし)の井戸(ゐど)の跡(あと)なのであらうが、黒(くろ)く塗(ぬ)つた木(き)を框(わく)にして、危険(きけん)除(よ)けの目印(めじるし)にしてあるのが幾(いく)つとなく見(み)えるのが、ひどく寂(さび)しく感(かん)ぜられた。門(もん)をはひつて右手(みぎて)寄(よ)りには、椿(つばき)の一杯(ぱい)生(は)えた円形(ゑんけい)の小山(こやま)があつて、冬(ふゆ)になると、よく鳩(はと)がかしはの腹(はら)を木(こ)の間(ま)から見(み)せた。其所(そこ)は、加賀騒動(かがさうどう)のなかの浅尾(あさを)といふ悪女中(あくぢよちう)を蛇責(へびぜめ)にして埋(う)めたところだといふ俗伝(ぞくでん)があつた。けれども、それは古墳(こふん)の跡(あと)らしかつた。十七八年(ねん)ごろ発掘(はつくつ)したが、石垣(いしがき)のやうなものがあつたのみで、別(べつ)に何(なに)も出(で)て来(こ)なかつた。どうもその昔(むかし)一度(ど)発掘(はつくつ)したことがあるらしいといふ鑑定(かんてい)であつたとか聞(き)いた。
その時分(じぶん)には、その草原(くさはら)には狐(きつね)が大分(だいぶ)ゐた。夕方(ゆふがた)など、尾(を)を長(なが)く引(ひ)いた褐色(かつしよく)の小犬(こいぬ)ぐらゐの獣(けもの)が、後(あと)を見返(みかへ)り見返(みかへ)り草(くさ)のなかへのろ/\と逃(に)げ込(こ)んで行(い)くのをよく見(み)かけたものだ。雪(ゆき)の降(ふ)る前(まへ)の夜(よ)など、ギヤア──ギヤアといふ厭(いや)な不吉(ふきつ)なやうな声(こゑ)を聞(き)いた。狐(きつね)はコン/\と鳴(な)くとは聞(き)いてゐたのだが僕(ぼく)の聞(き)いた狐(きつね)の声(こゑ)は何時(いつ)もそのギヤア──ギヤアばかりであつた。ツイこのごろ読(よ)んだある書(しよ)には雄狐(をぎつね)はコンコンと鳴(な)き、雌狐(めぎつね)はギヤア──ギヤアと鳴(な)くと書(か)いてあつた。それが本当(ほんたう)ならば僕(ぼく)は雌狐(めぎつね)の声(こゑ)ばかり聞(き)いたわけになるのだが、何(ど)んなものであらうか。
永井荷風君(ながゐかふうくん)の小説(せうせつ)のなかに、君(きみ)のお住居(すまひ)で狐狩(きつねがり)をするところがあつたと思(おも)ふ。確(たし)かそのお邸(やしき)は小石川水道町(こいしかはすゐだうちやう)であつたらうと思(おも)ふ。昔(むかし)は少(すこ)し広(ひろ)い邸(やしき)などには狐(きつね)などが何処(どこ)にもゐたらしいのだ。今(いま)は郊外(かうぐわい)でさへ実際(じつさい)狐(きつね)のゐるお稲荷(いなり)さんはめつたにないであらう。
大学構内(だいがくこうない)には池寄(いけより)の方(はう)に雑木(ざふき)や薮(やぶ)などのある小(ちひ)さい小山(こやま)があつた。上(のぼ)り路(みち)が迂回(うくわい)してついてゐるので、栄螺山(さゞえやま)と呼(よ)ばれてゐた。その頂(いたゞき)からは、小石川(こいしかは)の砲兵工廠(はうへいこうしやう)の裏手(うらて)あたりは勿論(もちろん)のこと、神田(かんだ)、日本橋(にほんばし)へかけての下町(したまち)が、随分(ずゐぶん)遠(とほ)くまで見渡(みわた)せるのであつたが、その時分(じぶん)には、下町(したまち)の方面(はうめん)でも東神田(ひがしかんだ)から、浜町辺(はまちやうへん)へかけては、樹木(じゆもく)のあるところが余(よ)ほど多(おほ)かつた。家(いへ)の屋根(やね)と、さういふ樹木(じゆもく)が錯綜(さくそう)してゐるところが実(じつ)に心持(こゝろもち)のいゝ眺(なが)めであつた。
震災前(しんさいぜん)までは、浜町(はまちやう)あたりにはまだ大(おほ)きい庭(には)のある邸(やしき)が遺(のこ)つてゐた。俗(ぞく)に細川邸(ほそかはてい)といつてゐた大川端(おほかはばた)の長岡護美(ながをかもりよし)子爵(ししやく)の塀際(へいぎは)の樫(かし)の樹(き)のことは荷風君(かふうくん)も何(なに)かで書(か)いておいでなんだが、あの外(ほか)にも、よほど高(たか)い築山(つきやま)が青々(あを/\)と塀(へい)の上(うへ)から見(み)えてゐる邸(やしき)が水天宮(すゐてんぐう)の裏手(うらて)あたりにあつた。箱崎(はこざき)の上州侯(じやうしうこう)の邸(やしき)も庭(には)が幾分(いくぶん)は遺(のこ)つてゐたらうと思(おも)ふ。そんなのが皆(みな)、諸所(しよしよ)にあつた緑樹(りよくじゆ)とともにあの業火(ごふくわ)のために無慙(むざん)に一掃(さう)されてしまつたのだから、返(かへ)らぬこととは知(し)りながら、如何(いか)にも惜(を)しいといふ一言(ひとこと)は口(くち)から洩(も)らさずにはゐられない。
筆(ふで)はこゝで一転(てん)するわけになるが、僕(ぼく)の少年時分(せうねんじぶん)には、大学(だいがく)の赤門前(あかもんまへ)などは、まるで田舎(ゐなか)であつた。確(たしか)に兼安(かねやす)までは江戸(えど)のうちで、それから先(さ)きは何(ど)うしても宿場(しゆくば)といはなければならなかつた。縄暖簾(なはのれん)の居酒屋(ゐざかや)あり、車大工(くるまだいく)の店(みせ)あり、小宿屋(こやどや)ありといふ風(ふう)で、その前(まへ)をば、汚(きたな)さを極(きは)めた幌(ほろ)かけの危(あや)ふげな車体(しやたい)をば痩(や)せ馬(うま)に輓(ひ)かせたいはゆる円太郎馬車(ゑんたらうばしや)がガラツ駈(か)けを追(お)つて通(とほ)るのだから、今(いま)の大抵(たいてい)の田舎町(ゐなかまち)よりもなほ田舎(ゐなか)びてゐるくらゐであつた。
西片町(にしかたまち)の台(だい)──そこも茶畑(ちやばたけ)であつた──から眺(なが)めると、白山下(はくさんした)のところはずつと水田(すゐでん)であつて、畦間(けいかん)のはしばみなどの雑木(ざふき)のひよろ/\と立(た)つてゐる景色(けしき)が、夕方(ゆふがた)などは何(なん)ともいへずもの淋(さび)しく見(み)えた。それらの田(た)の埋立(うめた)てられた跡(あと)が、今(いま)の指(さす)ケ谷町(やちやう)の芸者町(げいしやまち)から南(みなみ)へかけての街区(がいく)である。
変りゆく東京
一
誰(だれ)でも、春(はる)よりは秋(あき)の方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝと思(おも)ふであらうが、私共(わたしども)は近来(きんらい)、殊(こと)に、秋(あき)の方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝやうに思(おも)はれ出(だ)した。 誰(だれ)に聞(き)いて見(み)ても、東京(とうきやう)の春(はる)が近頃(ちかごろ)は寒(さむ)くなつた様(やう)にいふ。此(こ)の頃(ごろ)では私共(わたしども)は春(はる)、袷(あはせ)を着(き)る間(あひだ)がひどく短(みじか)くなつた様(やう)に、思(おも)ふのであるが、それは残念(ざんねん)ながら、年(とし)のせゐかとも思(おも)ふけれども、どうもそれ許(ばか)りではない様(やう)にも思(おも)はれる。私共(わたしども)は、五月(ぐわつ)位(ぐらゐ)までは、どうしても綿入(わたいれ)で居(ゐ)る。で、袷(あはせ)とシヤツと袷羽織(あはせばおり)になつたかと思(おも)ふと、殆(ほとん)ど一(ひと)つ飛(と)びに単衣(ひとへ)になつてしまふ様(やう)な気(き)がする。あまり品(ひん)のいゝものではないが、素袷(すあはせ)で居(ゐ)るといふのは、一寸(ちよつと)心持(こゝろもち)のいゝものだ。近頃(ちかごろ)では、私共(わたしども)は、決(けつ)して素袷(すあはせ)では居(ゐ)られない。町(まち)を歩(ある)いてみても、一般(ぱん)に、素袷(すあはせ)で居(ゐ)る人(ひと)を余(あま)り見(み)かけない様(やう)な気(き)がする。
一(ひと)つは風俗(ふうぞく)の変化(へんか)でもあるのだらう。即(すなは)ち誰(だれ)でも服装(ふくさう)をちやんと整(とゝの)へるといふ風(ふう)になつてゐるので、素袷(すあはせ)で飛(と)び出(だ)すといふ様(やう)な人(ひと)が余(あま)り無(な)くなつたのであらうが、然(しか)し一方(ぱう)では、気候(きこう)の工合(ぐあひ)が近来(きんらい)違(ちが)つて来(き)たのが一(ひと)つの原因(げんいん)であらうと思(おも)はれる。
さうして見(み)ると、私共(わたしども)の様(やう)な冬(ふゆ)の嫌(きら)ひな寒(さむ)がりになると、春(はる)がそれほど有難(ありがた)くない訳(わけ)になる。却(かへ)つて、夏(なつ)の暑(あつ)さから逃(のが)れて秋(あき)に入(はひ)つて行(い)く方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝ。
自然(しぜん)の景色(けしき)などは、秋(あき)になると、グツと落著(おちつ)いて、如何(いか)にも冴(さ)えた静(しづ)かな心持(こゝろもち)を人(ひと)に印象(いんしやう)する事(こと)は今更(いまさら)いふまでもないが、今頃(いまごろ)になると、東京近所(とうきやうきんじよ)の川筋(かはすぢ)の景色(けしき)が何時(いつ)も思(おも)ひ出(だ)される。其処(そこ)の景色(けしき)を特徴(とくちよう)づけるものはあの白(しろ)いすゝきである。川(かは)の堤(どて)や、洲(す)に茂(しげ)つているすゝきの白(しろ)い穂(ほ)と、枯(か)れた茎(くき)や葉(は)の取合(とりあは)せがひどくいゝ心持(こゝろもち)に思(おも)はれる。場所(ばしよ)をあげれば、千住(じゆ)の大橋(おほはし)の上(かみ)あたり、六郷(がう)の川下(かはしも)などの景色(けしき)がそれである。陽(ひ)のよく照(て)る日(ひ)に、川(かは)の堤(どて)に立(た)つて見(み)て居(ゐ)ると、そのすゝきの間(あひだ)から、和船(わせん)の帆(ほ)が静(しづ)かにゆる/\と出(で)て来(く)るのなどは、如何(いか)にも我々(われ/\)のハ─トに、深(ふか)く根(ね)ざして居(ゐ)る心持(こゝろもち)よい景色(けしき)であると思(おも)ふ。
二
東京(とうきやう)では此(こ)の頃(ごろ)は一帯(たい)に空地(あきち)が尠(すくな)くなつてゐる。二十年(ねん)も前(まへ)までは、牛込(うしごめ)、小石川(こいしかは)などでも、商業中心(しやうげふちうしん)になつてゐる部分(ぶぶん)を少(すこ)し離(はな)れると、一寸(ちよつと)した家(いへ)には、七八坪(つぼ)の庭(には)は附(つ)いてゐたものであるが、今(いま)は余程(よほど)場末(ばすゑ)にでも寄(よ)らなければ、庭(には)と言(い)ふべき様(やう)な空地(あきち)のついてゐる家(いへ)は余(あま)りない様(やう)である。
しかし、東京(とうきやう)の空地(あきち)が少(すくな)くなり、木立(こだち)なども段々(だん/\)無(な)くなつて行(い)つた訳(わけ)であるが、何(なに)しろ、幾(いく)つもの村落(そんらく)、幾(いく)つもの小(ちひ)さい町(まち)が、互(たがひ)に発展(はつてん)し合(あ)つて連(つらな)りあつた東京(とうきやう)の事(こと)であるから、全般的(ぜんぱんてき)に言(い)へば、未(ま)だ中々空地(なか/\あきち)はある。
私(わたし)の知人(ちじん)で知名(ちめい)のある文学者(ぶんがくしや)は、二三代(だい)からの所謂(いはゆる)江戸(えど)つ子(こ)であるのだが、その人(ひと)が嘗(か)つて京都(きやうと)の高等学校(かうとうがくかう)へ勤(つと)める事(こと)になつて一年(ねん)ほど行(い)つて居(ゐ)た。
で、ある年(とし)の暮(くれ)に東京(とうきやう)へ帰(かへ)つて来(き)て、正月(しやうぐわつ)になつて私(わたし)と一緒(しよ)に電車(でんしや)に乗(の)つて、牛込(うしごめ)の田町(たまち)辺(あた)りから、お茶(ちや)の水(みづ)まで行(い)つた。その間(あひだ)もしきりに窓(まど)から外(そと)の景色(けしき)を眺(なが)めて居(ゐ)たが、お茶(ちや)の水(みづ)で降(お)りて、橋(はし)を渡(わた)りかけると、その友人(いうじん)は、微笑(びせう)を含(ふく)んだ低(ひく)い声(こゑ)で、
『東京(とうきやう)の景色(けしき)は雄大(ゆうだい)だねえ。』と言(い)つた。で、私(わたし)も笑(わら)ひ出(だ)して、
『西洋(せいやう)まで行(い)つた君(きみ)が東京(とうきやう)の景色(けしき)を雄大(ゆうだい)だなんていふやうぢや、よく/\京都(きやうと)には閉口(へいこう)した様(やう)だね。』と答(こた)へた事(こと)がある。
確(たしか)に東京(とうきやう)の景色(けしき)は雄大(ゆうだい)だ。私(わたし)は今(いま)市(いち)ケ谷(や)の本村町(ほんむらちやう)に居(ゐ)るが、市(いち)ケ谷(や)の外濠(そとぼり)の景色(けしき)は私(わたし)にとつては何時(いつ)も心持(こゝろもち)がいゝ。市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)、新見附(しんみつけ)などから見(み)ると、今頃(いまごろ)は高台(たかだい)や濠内(ほりうち)の樹(き)の色(いろ)などが、黄色(きいろ)に色(いろ)づいてゐて、如何(いか)にも秋(あき)らしい落著(おちつ)いた眺(なが)めである。
勿論(もちろん)、人工的(じんこうてき)の景色(けしき)には相違(さうゐ)ないが、始(はじ)めは人(ひと)の手(て)で樹(き)を植(う)ゑ、堤(どて)を築(きづ)き、濠(ほり)を掘(ほ)つたのであつても、それを自然(しぜん)の懐(ふところ)に任(まか)せて少(すこ)し長(なが)く放(はふ)つておけば、自然(しぜん)はこれを取(と)り上(あ)げて何等(なんら)かの景色(けしき)にして呉(く)れるのだ。
東京(とうきやう)の町(まち)へ殆(ほとん)ど禁錮(きんこ)されてゐる様(やう)な我々(われ/\)にとつては、さういふやうな自然(しぜん)の景色(けしき)の中(なか)でも、自由(じいう)にさ迷(まよ)ふことが何(なん)十分(ぷん)か出来(でき)る場合(ばあひ)には非常(ひじやう)な慰籍(ゐしや)になると思(おも)ふ。
私(わたし)は一体(たい)ブラ/\歩(ある)くことが好(す)きなのだから、時々用達(とき/゛\ようたし)の帰(かへ)りに、神田(かんだ)から九段(くだん)を上(のぼ)り、市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)へ出(で)て帰(かへ)る事(こと)がある。その節(せつ)もある若(わか)い人(ひと)と一緒(しよ)に、市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)へ出(で)て来(き)て、濠端(ほりばた)の樹(き)の景色(けしき)などを心持(こゝろもち)よく眺(なが)め、それから、家(いへ)の近(ちか)くまで来(く)ると、ふと、家(いへ)の廻(まは)りを大変(たいへん)心持(こゝろもち)のいい処(ところ)だと思(おも)つた。
尤(もつと)も、その日(ひ)は前(まへ)から雨(あめ)が降(ふ)つて居(ゐ)たが、その朝(あさ)から雨(あめ)が上(あが)つて、段々天気(だん/\てんき)は持(も)ちなほして来(き)て、稍々(やゝ)晴(は)れかゝつてゐる午後(ごゞ)の二時過(じす)ぎ、といふ頃(ころ)であつたので、急(きふ)にそんな感(かん)じがしたのであらうかと思(おも)ふ。
三
東京(とうきやう)の町(まち)は、何処(どこ)でも大抵(たいてい)市区改正(しくかいせい)で広(ひろ)くなつて居(ゐ)るので、昔(むかし)の町(まち)の形(かたち)が残(のこ)つて居(ゐ)る処(ところ)は、まことに尠(すくな)いのであるが、それでもまだ秋(あき)には時々(とき/゛\)昔(むかし)ながらの町(まち)へふと足(あし)を踏(ふ)み込(こ)む事(こと)がある。
処(ところ)で、さういふ町(まち)は非常(ひじやう)に狭(せま)い様(やう)に思(おも)ふ。さういふ町(まち)を目(め)ざして行(い)く場合(ばあひ)は、余程(よほど)気(き)をつけて居(ゐ)ないと、ついその曲(まが)り角(かど)を通(とほ)り越(こ)して了(しま)ふ事(こと)もある位(くらゐ)である。
さういふ町(まち)の代表的(だいへうてき)なものを、今(いま)一(ひと)つ挙(あ)げて見(み)ると、本郷(ほんがう)の松屋(まつや)の横(よこ)から台町(だいまち)へ出(で)る横町(よこちやう)であるが、あの横町(よこちやう)は、突(つ)き当(あた)つて、左(ひだり)へ少(すこ)し曲(まが)つて、それから台町(だいまち)の方(はう)へ真直(まつすぐ)に行(い)く様(やう)になつて居(ゐ)る。あの横町(よこちやう)などは或(あるひ)は明治(めいぢ)になつて出来(でき)た横町(よこちやう)かも知(し)れないが、私共(わたしども)にとつては、もう四十年(ねん)ほどの馴染(なじみ)の横町(よこちやう)である。然(しか)し住(す)んでゐる人(ひと)の様子(やうす)は、ずつと昔(むかし)より生活程度(せいくわつていど)が何(な)んとなく高(たか)くなつて居(ゐ)る様(やう)に思(おも)はれる。
勿論(もちろん)、私共(わたしども)の子供(こども)の時分(じぶん)に比較(ひかく)すると、家(いへ)も、建(た)て変(かは)つたのが、大分(だいぶ)ある様(やう)ではあるが、それにしても、其処(そこ)へ入(はひ)る私(わたし)の胸(むね)に昔(むかし)の記憶(きおく)を喚(よ)び起(おこ)す丈(だけ)の雰囲気(ふんゐき)は残(のこ)つてゐる様(やう)な気(き)はする。
けれ共(ども)、今(いま)いふ通(とほ)り何処(どこ)も彼処(かしこ)も変(かは)つて了(しま)つた事(こと)は確(たしか)である。あれが本郷通(ほんがうどほり)の五丁目(ちやうめ)だと覚(おぼ)えてゐるが、大学(だいがく)の赤門前(あかもんまへ)を一寸(ちよつと)入(はひ)つた処(ところ)に、俚俗附木店(りぞくつけぎだな)といふのがある。それは昔(むかし)組屋敷(くみやしき)であつたといふのだが、久米正雄君(くめまさをくん)の家(いへ)は今(いま)其処(そこ)にある。久米君(くめくん)の家(いへ)は昔(むかし)からの家(いへ)である。久米君(くめくん)の叔父(をぢ)さんに助三郎(すけさぶらう)といふ人(ひと)があつて、私(わたし)と竹馬(ちくば)の友(とも)なので時々(とき/゛\)会(あ)ふ事(こと)はあるんだが、今年(ことし)の春(はる)であつたか、助三郎君(すけさぶらうくん)は正雄君(まさをくん)の家(いへ)へ訪(たづ)ねて行(い)つた事(こと)がある。が、あの辺(へん)も昔(むかし)は何(ど)の家(いへ)も大抵(たいてい)は垣(かき)で囲(かこ)まれて居(ゐ)て、玄関(げんくわん)と門(もん)との間(あひだ)に、空地(あきち)があつたのであるが、今(いま)は何(ど)の家(うち)も、殆(ほとん)ど直(す)ぐ家(いへ)の入口(いりくち)になつて居(ゐ)る。助三郎君(すけさぶらうくん)と、「如何(どう)も此(こ)の道(みち)が我々(われ/\)の子供(こども)の時分(じぶん)から見(み)ると、大分(だいぶ)狭(せま)くなつた様(やう)に思(おも)はれるのだが、実際(じつさい)は外(ほか)の町(まち)が広(ひろ)くなつたので、其処(そこ)を殊(こと)に狭(せま)い様(やう)に覚(おぼ)えるのであらう」と言(い)つて笑(わら)つた事(こと)がある。
四
私(わたし)は勿論(もちろん)江戸(えど)つ子(こ)ではない。生(うま)れは地方(ちはう)であつて、東京(とうきやう)へ出(で)て来(き)たのは十歳(さい)の時(とき)である。だから江戸(えど)とか東京(とうきやう)の旧(ふる)い事(こと)などは直接(ちよくせつ)余(あま)り知(し)らない。けれども伝聞(でんぶん)した事(こと)は可成(かなり)あるので、時偶(ときたま)には、そんな事(こと)を書(か)きもする。それが為(ため)でもあらうが、時々江戸趣味(ときどきえどしゆみ)とはどんなものかと若(わか)い人々(ひと/゛\)から聞(き)かれる事(こと)がある。
私(わたし)は、所謂(いはゆる)江戸趣味(えどしゆみ)などは、次第(しだい)に亡(ほろ)び行(ゆ)くであらうと答(こた)へるより他(ほか)は無(な)い。前(まへ)に言(い)つた通(とほ)り、昔(むかし)は、狭(せま)い町(まち)で、人通(ひとどほ)りもあまりなく、如何(いか)にも、ゆつたりした気分(きぶん)で住(す)み得(え)られたのであるが、今(いま)は、そんな処(ところ)でも、電車(でんしや)の音(おと)の聞(きこ)えない処(ところ)は滅多(めつた)にない。外(そと)へ出(で)ればゆつくり歩(ある)いては居(ゐ)られないのだから、人(ひと)と押(お)し合(あ)ひをして、電車(でんしや)に乗(の)らなければならない。さうすると、どうしても、人々(ひと/゛\)の気分(きぶん)が変(かは)つて来(く)ると思(おも)ふ。それから、家(うち)で使(つか)ふ種々(いろ/\)な器物(きぶつ)の工合(ぐあひ)でも、非常(ひじやう)に変(かは)つて来(き)て居(ゐ)る。最(もつと)も著(いちじる)しいのは、瀬戸物(せともの)の模様(もやう)である。純日本式(じゆんにほんしき)の模様(もやう)の瀬戸物(せともの)を買(か)ふには、よほど選択(せんたく)しなければならない程(ほど)である。
してみると、江戸趣味(えどしゆみ)で行(い)かうといふには、その人(ひと)が、毎日(まいにち)外(そと)に勤(つとめ)に出(で)る必要(ひつえう)もなく、又(また)買物(かひもの)でも値(ね)に構(かま)はず、気(き)に入(い)つたものを買(か)ふといふ事(こと)の出来(でき)る位地(ゐち)に居(ゐ)なければならないので、一言(ごん)にしてこれを言(い)へば、江戸趣味(えどしゆみ)はひどく贅沢(ぜいたく)なものになつて行(い)くのである。さうすると、何(ど)うしても一般人(ぱんじん)はやらうと思(おも)つてもやれない事(こと)になるのだから、勢(いきほ)ひ、さういふ趣味(しゆみ)は人(ひと)の心(こゝろ)から段々(だん/\)無(な)くなつて行(い)くものと言(い)はなければならない。
言葉(ことば)なども随分(ずゐぶん)変(かは)つて来(き)て居(ゐ)ると思(おも)ふ。昔(むかし)の様(やう)にひどく遠廻(とほまは)しな言(い)い方(かた)などは、今(いま)の人(ひと)にはまだるつこい事(こと)にならうと思(おも)ふ。敬語(けいご)の数(かず)なども昔(むかし)より段々(だん/\)少(すくな)くなつて行(ゆ)く事(こと)であらう。我々(われ/\)の生活(せいくわつ)が我々(われ/\)の心理状態(しんりじやうたい)に種々(しゆ/゛\)の変化(へんくわ)を及(およ)ぼし、これが為(ため)に又(また)言葉(ことば)にも変化(へんくわ)を及(およ)ぼし、又(また)変化(へんくわ)を受(う)けた言葉(ことば)は却(かへ)つて我々(われ/\)の少(すくな)くとも気分(きぶん)を変(か)へてゆくといふ風(ふう)で、さういふ変化(へんくわ)は相作用(あひさよう)して、段々我々(だん/\われ/\)の思想(しさう)までも変(かは)つて行(ゆ)く事(こと)となるであらう。凡(すべ)てのもの、凡(すべ)ての事(こと)に亙(わた)つて、それが変化(へんくわ)してゆく事(こと)はどうも止(や)むを得(え)ない。只(たゞ)我々(われ/\)はよき方(はう)へ変化(へんくわ)して行(ゆ)く事(こと)を望(のぞ)むだけである。一時(じ)は悪(わる)い方(はう)へ進(すゝ)む様(やう)に見(み)えても、結局(けつきよく)に於(おい)てよき事(こと)に達(たつ)するのであつたらう、その途中(とちう)の不便不快(ふべんふくわい)は忍(しの)ばねばならぬ。
変り行く東京語
一
出版物(しゆつぱんぶつ)の多(おほ)くなつて来(き)たことと、それ等(ら)の出版物(しゆつぱんぶつ)が大抵皆(たいていみな)言文(げんぶん)一致(ち)──即(すなは)ち大体(だいたい)東京語(とうきやうご)で書(か)かれてゐることとが、東京語(とうきやうご)をば地方(ちはう)の僻陬(へきすう)まで弘布(ぐふ)することになりつつあるには相違(さうゐ)なからうが、口語(こうご)の上(うへ)では、東京語(とうきやうご)と地方語(ちはうご)との差違(さゐ)はまだなかなか甚(はなは)だしいやうに見受(みう)けられる。さういふ点(てん)では関東語(くわんとうご)と関西語(くわんさいご)だけの差違(さゐ)にしても随分(ずゐぶん)甚(はなは)だしいものがあると思(おも)ふ。
けれども、昔(むかし)──徳川時代(とくがはじだい)──は、少(すくな)くとも江戸(えど)の上流(じやうりう)──即(すなは)ち士分(しぶん)の言葉(ことば)は、もと/\大体(だいたい)京都(きやうと)の上流語(じやうりうご)に標準(へうじゆん)を取(と)つたものであつたのであらうから、地方(ちはう)の藩庁(はんちやう)の公式(こうしき)の言葉(ことば)とは余程(よほど)共通(きようつう)なるところがあり、少(すくな)くとも名詞(めいし)、動詞(どうし)などで、公用語(こうようご)以外(いぐわい)にも、同(どう)一なものを用(もち)ひてゐたことが少(すくな)くなかつたやうに考(かんが)へられる。
僕(ぼく)の生国(しやうごく)は土佐(とさ)であるが、麻裏草履(あさうらざうり)のことを藤(ふぢ)くらといつてゐるのを、少年(せうねん)の時分(じぶん)聞(き)いたことがある。東京(とうきやう)ではその時分(じぶん)──明治(めいぢ)十一二年頃(ねんごろ)──でも、もう藤(ふぢ)くらといふ語(ご)はなくなつてゐたのだが、明治(めいぢ)二十年頃(ねんごろ)東京生(とうきやううま)れの或(あ)る老人(らうじん)と話(はな)してゐるうちに、その老人(らうじん)などは藤(ふぢ)くらといふ語(ご)を昔(むかし)は使(つか)つてゐたことが分(わか)つた。
土佐(とさ)では、嘲弄的(てうろうてき)に意地悪(いぢわる)く人(ひと)に言(い)ひかけるのを、きよくるといふ。僕(ぼく)の父母(ふぼ)などがその言葉(ことば)を用(もち)ひるのを聞(き)いて、僕(ぼく)は地方語(ちはうご)だと思(おも)つてゐた。所(ところ)が、『柳樽(やなぎだる)』を見(み)ると、『ご立腹(りつぷく)などゝ内儀(ないぎ)をきよくるなり』
といふやうな句(く)のあるのを以(もつ)て見(み)れば、きよくるが地方語(ちはうご)でないことは明(あきら)かである。
義太夫(ぎだいふ)の『泉三郎館(いづみのさぶらうやかた)』の五斗(ごと)の生酔(なまゑ)ひの唄(うた)の中(なか)の『けなりかろ』が僕(ぼく)には解(わか)らなかつたが、紀州生(きしううま)れの中村啓次郎君(なかむらけいじらうくん)が、それは紀州(きしう)あたりでは今日(こんにち)も用(もち)ひる語(ご)で、羨(うらや)ましからうの意味(いみ)なんだと説明(せつめい)してくれた。ところが熊谷辺(くまがひへん)から、茨城(いばらき)の利根川(とねがは)沿(ぞ)ひの地方(ちはう)へかけてのあたりでは、今日(こんにち)でも羨(うらや)ましいといふところをけなりいと云(い)ふのだといふことを、近頃(ちかごろ)になつて聞(き)いた。
引窓(ひきまど)のことを大阪(おほさか)あたりでは天窓(てんまど)といふのだと聞(き)くのだが、濡髪(ぬれがみ)の長五郎(ちやうごらう)の義太夫(ぎだいふ)は『引窓(ひきまど)の段(だん)』であつて、天窓の段(だん)とは云(い)はない。昔(むかし)は引窓(ひきまど)が東西(とうざい)の共通語(きようつうご)であつたものと見(み)て宜(よろ)しからうと思(おも)ふ。
本(ほん)を押入(おしい)れから出(だ)して実例(じつれい)を挙(あ)げるのは億劫(おくこふ)だが、口語(こうご)に近(ちか)いものと見(み)てよからうと思(おも)ふ。小唄(こうた)などに拠(よ)る時(とき)は、東西(とうざい)の言葉(ことば)──少(すくな)くとも双方(さうはう)の都会(とくわい)での言葉(ことば)──が可(か)なり共通(きようつう)の分子(ぶんし)を持(も)つて居(を)つたことは窺(うかゞ)ひ得(え)られるであらう。
京都(きやうと)の言葉(ことば)では──殊(こと)に大阪(おほさか)の言葉(ことば)などは──今日(こんにち)までには、在方(ざいかた)の言葉(ことば)が入(はひ)つて、余程(よほど)乱(みだ)されたのであらうと思(おも)はれる。東京(とうきやう)の言葉(ことば)も勿論(もちろん)さうである。殊(こと)に明治(めいぢ)になつては、東京(とうきやう)在来(ざいらい)の上流社会(じやうりうしやくわい)は全滅(ぜんめつ)してしまつたと云(い)つていゝ位(くらゐ)であるのだから、それ等(ら)の社会(しやくわい)の伝統(でんとう)ある言葉(ことば)は消滅(せうめつ)し去(さ)つて、今日(こんにち)の東京語(とうきやうご)は主(おも)に商人(しやうにん)、職人(しよくにん)の言葉(ことば)のみが残(のこ)つた訳(わけ)であり、それへ持(も)つて来(き)て、次第(しだい)に、地方語(ちはうご)からの侵略(しんりやく)が加(くは)はつて行(ゆ)くといふ現状(げんじやう)である。
今日(こんにち)の東京(とうきやう)の所謂(いはゆる)身分(みぶん)のいゝ人々(ひと/゛\)といふのは、大抵(たいてい)地方(ちはう)の身分(みぶん)の余(あま)りよくなかつた人々(ひと/゛\)の末(すゑ)であるのだから、その言葉(ことば)の如(ごと)きも、従来(じうらい)の標準語(へうじゆんご)の規模(きぼ)から云(い)へば決(けつ)していゝものとは云(い)へないであらう。それ等(ら)の人々(ひと/゛\)の子弟(してい)で今日(こんにち)物(もの)を書(か)く人々(ひと/゛\)の言葉(ことば)の、従来(じうらい)の日本語(につぽんご)の格(かく)から云(い)へば、甚(はなは)だ拙(つたな)いものであるのは、その父兄(ふけい)たちに言葉(ことば)の訓練(くんれん)が欠(か)けてゐた為(ため)であらうと思(おも)ふ。
二
然(しか)し、言葉(ことば)は死物(しぶつ)であつてはならず、必要(ひつえう)な変更(へんかう)は進歩(しんぽ)の根抵(こんてい)になる訳(わけ)であるのだから、変遷(へんせん)そのものを拒斥(きよせき)すべきでないことは勿論(もちろん)である。唯吾々(たゞわれ/\)の注意(ちうい)すべきことは、吾々物書(われ/\ものか)くともがらが、言葉(ことば)に不必要(ふひつえう)な変更(へんかう)を加(くは)へて、意義(いぎ)なく従来(じうらい)の言葉(ことば)を乱(みだ)すやうなことをせぬやうに心(こゝろ)することである。
従(したが)つて、言葉(ことば)の誤用(ごよう)などは十分(ぶん)に注意(ちうい)して避(さ)けなければならんと思(おも)ふ。
小児(こども)の戯(たはむ)れにいゝたちこつこといふのがある。これを相報(あひむく)いるの意味(いみ)で、大人(おとな)の用語(ようご)にすることは、誰(だれ)も知(し)つてゐるところであるが、此(こ)の語(ご)の末(すゑ)のこつこは総(す)べて澄(す)んで発音(はつおん)すべきであつて、決(けつ)してごつこといふが如(ごと)く濁(にご)つて発音(はつおん)すべきではないのだ。ところが、近頃(ちかごろ)の印刷物(いんさつぶつ)には、此(こ)の語(ご)が屡々(しば/\)いたちごつこと印刷(いんさつ)されて居(を)るのを見(み)かける。甚(はなは)だしきに至(いた)つては、鼬ごつこと書(か)かれて居(を)るのさへ見(み)かける。
僕等(ぼくら)はあのいゝたちこつこといふ発音(はつおん)のうちに、あの手(て)を順々(じゆん/\)に互(たがひ)に抓(つね)りあふ動作(どうさ)がいかにもあざやかに表現(へうげん)されてゐるやうに思(おも)ふのだから、語源(ごげん)は鼬(いたち)の動作(どうさ)から起(おこ)つたものにしたところで、これを鼬(いたち)ごつこと訂正(ていせい)したくない。此(こ)の語(ご)を用(もち)ひる位(くらゐ)ならば、矢張(やは)り小児(こども)の言葉(ことば)どほり、いゝたちこつこをそのまゝ用(もち)ひるのがいゝと思(おも)ふのだ。
言語(げんご)の知識(ちしき)が貧弱(ひんじやく)なので、確(たしか)なことは云(い)ひ得(え)ないが、いゝたちこつこには鼬(いたち)ごつこ即(すなは)ち鼬(いたち)の真似(まね)をして遊(あそ)ぶとか、鼬(いたち)のやうなことをしあふとかいふような意味(いみ)はないやうに思(おも)はれる。あの語(ご)は、小児(こども)が手(て)をつねり合(あ)ふ調子(てうし)をば音(おん)を以(もつ)て表(あわは)しただけのもので、語自身(ごじしん)には何(なん)の意味(いみ)もないものであるやうに思(おも)ふ。
ある行為(かうゐ)をさん/゛\するといふ意味(いみ)で、たら/゛\といふ語(ご)を用(もち)ひる。即(すなは)ち、お世辞(せじ)たら/゛\とか、愚痴(ぐち)たら/゛\とかいふのである。此(こ)の語(ご)は勿論(もちろん)たらと上(うへ)を澄(す)んで発音(はつおん)し、下(しも)をだらと濁(にご)つて発音(はつおん)するのだ。ところが此(こ)の頃(ごろ)の印刷物(いんさつぶつ)には上(うへ)のたらをだらと印刷(いんさつ)してあるのを度々見受(たび/\みう)ける。尤(もつと)もこの方(はう)は誤植(ごしよく)の場合(ばあひ)もあらうかとは思(おも)ふものの、同(おな)じ新聞(しんぶん)などで、何時(いつ)もたら/゛\がだら/\になつてゐるのを見(み)ると全(まつた)く誤植(ごしよく)とも断(だん)じ兼(かね)る。さういふのなどは、地方(ちはう)の印刷物(いんさつぶつ)などでは、必(かなら)ず誤植(ごしよく)通(どほ)り印刷(いんさつ)するであらうと思(おも)ふ。従(したが)つて、地方(ちはう)で物書(ものか)く人々(ひと/゛\)は愚痴(ぐち)だらだらといふ語(ご)があることと思(おも)つて、平気(へいき)でそれを用(もち)ひることになる虞(おそれ)は十分(ぶん)あらうかと思(おも)ふ。
今日(こんにち)では語源(ごげん)はとにかく、このたら/゛\といふ語(ご)の音(おん)そのものに、くどく繰返(くりかへ)すといつたやうな意味(いみ)が表(あら)はされてゐるやうに、吾々(われ/\)の耳(みゝ)には聞(き)き取(と)れるのであるから、これをだら/\と変(か)へてしまつては、音(おん)から来(く)る感(かん)じはまるで違(ちが)ふであらう。
なんぼ地方(ちはう)の人(ひと)でも今日(こんにち)では言葉(ことば)の知識(ちしき)は可(か)なり広(ひろ)くなつてゐるであらうから、まさかにたら/゛\をだら/\と間違(まちが)へるやうなことはないであらうと、思(おも)ふ人(ひと)は多(おほ)からうけれども、実際(じつさい)はなかなかさう楽観(らくくわん)を容(ゆる)さない。随分(ずゐぶん)な間違(まちが)ひがそのまゝ伝(つた)はる虞(おそれ)が十分(ぶん)あるものと見(み)るのが宜(よろ)しいと思(おも)ふ。
これは、それとは事(こと)かはつてゐるが、ある地方新聞(ちはうしんぶん)に源太郎馬車といふ言葉(ことば)があつた。どうも円太郎馬車の覚(おぼ)え違(ちが)ひらしいのだ。
環状線を廻る
一
生方敏郎君(うぶかたとしらうくん)が先達(せんだつ)て来(き)て、魚藍坂(ぎよらんざか)が変(かは)つてゐるので、場所(ばしよ)が分(わか)らず、人(ひと)に魚藍坂(ぎよらんざか)は何処(どこ)だと聞(き)くと、こゝがさうなのだといはれたといつて笑(わら)つてゐた。白金(しろがね)の明治学院(めいぢがくゐん)に学(まな)んだ生方君(うぶかたくん)はこの辺(へん)はよく知(し)つてゐるのに、その生方君(うぶかたくん)にまるで分(わか)らなくなつたのだから、その変遷(へんせん)の程度(ていど)はそれだけでもう誰(だれ)にも想像(さうざう)ができるであらう。
十月(ぐわつ)のある日(ひ)、秋晴(あきば)れの快(こゝろよ)い午後(ごご)、環状線廻(くわんじやうせんまは)りをたのまれて、自動車(じどうしや)で家(うち)を出(で)た。魚藍(ぎよらん)は元(もと)よりのこと、伊皿子(いさらご)だつても、吾々(われ/\)には、まるで外(ほか)の場所(ばしよ)のやうな気(き)がするまでの変(かは)り方(かた)だ。街幅(まちはゞ)の広(ひろ)くなつたのはいふまでもなく、坂(さか)の形(かたち)がまるで昔(むかし)の形(かたち)を留(とゞ)めず、両側(りやうがは)の家々(いへ/\)が石段(いしだん)を上(のぼ)るやうになつてゐたのさへ、全(まつた)く跡方(あとかた)もなくなつてゐる。
『横町(よこちやう)に一(ひと)つづゝある芝(しば)の海(うみ)』といふ川柳(せんりう)は芝(しば)もずつと北金杉(きたかなすぎ)あたりをいつたものであらう。僕(ぼく)などの青年(せいねん)の時分(じぶん)には、車町(くるまちやう)から品川(しながは)の停車場(ていしやば)の間(あひだ)には海(うみ)の側(がは)にはロクに家(いへ)がなかつた。あの辺(へん)の埋(う)め立(た)てをしたのは、牧野如石(まきのじよせき)といふ、烏金(からすがね)でも貸(か)さうといふやうな、したゝか者(もの)の盲人(まうじん)であつたといふのだが、海寄(うみよ)りに十軒(けん)程(ほど)を一棟(ひとむね)にした長屋建(ながやだ)ての商家(しやうか)向(むき)の家(いへ)が建(た)つて、ぽつんと一(ひと)つ離(はな)れてゐてそれにはロク/\住(す)む人(ひと)もなく、殆(ほとん)ど立(た)ち腐(ぐさ)れになつてゐたことを確(たしか)に記憶(きおく)する。山手(やまのて)の方(はう)にしても泉岳寺前(せんがくじまへ)から先(さ)きは、低(ひく)い混礙土(コンクリ─ト)の塀(へい)や石垣(いしがき)の邸宅(ていたく)が続(つゞ)き一歩裏(ぽうら)へ入(はひ)ると大抵(たいてい)の家(いへ)は生籬(いけがき)で邸(やしき)を繞(めぐ)らしてゐるやうな淋(さび)しさであつた。それが何時(いつ)とはなしに、今(いま)のやうな、海沿(うみぞひ)、山手(やまのて)共(とも)にあの通(とほ)りの人家櫛比(じんかしつぴ)の現状(げんじやう)だ。
僕(ぼく)のこのあたりに関(くわん)する記憶(きおく)などは余(あま)りに古(ふる)いのではあるが、それにしても、変(かは)り方(かた)は実(じつ)に驚(おどろ)くばかりの変(かは)り方(かた)には相違(さうゐ)ない。
停車場(ていしやば)から二三町(ちやう)手前(てまへ)の右側(みぎがは)(山手(やまのて))に後藤象二郎(ごとうしやうじらう)伯(はく)の邸(やしき)のあつたことを覚(おぼ)えてゐるが、明治(めいぢ)二十一二年(ねん)頃(ごろ)に、条約改正(でうやくかいせい)その他(た)所謂(いはゆる)三大(だい)建白(けんぱく)のために上京(じやうきやう)した地方有志(ちはういうし)が後藤邸(ごとうてい)を訪(と)うた時(とき)、後藤家(ごとうけ)では盛(も)り蕎麦(そば)を饗(きやう)したが、有志(いうし)の多(おほ)くは盛(も)りの上(うへ)からいきなり、汁(つゆ)をぶつかけてしまつたといふ、落(おと)し咄(ばなし)そのまゝの話(はなし)を聞(き)いたことがある。田中君(たなかくん)の『旋風時代(せんぷうじだい)』が、もつとずつと時代(じだい)が進(すゝ)むと、そんなことも小材料(こざいれう)の一(ひと)つになるであらうなど、心(こゝろ)の中(なか)で微笑(ほゝゑ)みながら、彼(か)れ此(こ)れと古(ふる)いことどもを憶(おも)ひ出(だ)してゐるうちに、車(くるま)は容赦(ようしや)なく、少(すこ)し肌(はだ)に冷(つめ)たい風(かぜ)を切(き)つて、停車場(ていしやば)の少(すこ)し先(さ)きの橋際(はしぎは)から、右(みぎ)へ折(を)れて、八(や)つ山(やま)を上(のぼ)り始(はじ)める。
いよ/\環状線(くわんじやうせん)へ一歩(ぽ)踏(ふ)み込(こ)んだ訳(わけ)だ。此所(ここ)には勿論(もちろん)昔(むかし)は路(みち)がなかつた。多分(たぶん)森(もり)ケ崎(さき)とか云(い)つたのであらう。長州侯(ちやうしうこう)の邸(やしき)のなかを新(あら)たに切(き)り開(ひら)いた坂路(さかみち)である。勿論(もちろん)、まだ出来(でき)たての路(みち)と云(い)つていゝくらゐの新開(しんかい)の路面(ろめん)なのだから、坦々(たん/\)として、まるで何(なに)かで拭(ふ)き取(と)つたかのやうな綺麗(きれい)さ滑(なめ)らかさである。このあたり、一帯(たい)に大藩侯(だいはんこう)の邸(やしき)の多(おほ)いところであつて、袖(そで)ケ崎(さき)の薩州邸(さつしうてい)、大崎(おほさき)の池田(いけだ)(備前(びぜん))邸(てい)の大邸(だいてい)が名高(なだか)かつた、そんな大邸(だいてい)になると、大厦(たいか)の戸(と)を開(あ)けるのに専任(せんにん)の係(かゝり)があつて、一人(ひとり)で朝(あさ)からつぎ/\に戸(と)を繰(く)り開(あ)けて行(ゆ)くと、最後(さいご)の戸(と)を開(あ)けた時分(じぶん)にはもう夕暮(ゆふぐれ)になつてゐて、今度(こんど)は最初(さいしよ)の戸(と)をしめ始(はじ)めなければならないやうになつてゐるくらゐであつたと、云(い)ひ伝(つた)へられて居(ゐ)る。
そんな大邸宅(だいていたく)の建(た)つた時分(じぶん)から可(か)なり長(なが)い後(あと)まで、猿町(さるまち)の坂(さか)を下(お)りると早(は)や直(す)ぐに、一面(めん)の稲田(いなだ)であつて、秋(あき)ならば黄金色(こがねいろ)の波(なみ)満々(まん/\)と風(かぜ)に揺(ゆ)れるといふ光景(くわうけい)であつたのだが、それから後(のち)、田(た)が埋(う)められてからも、しばらくは、埋立地(うめたてち)らしい赤土(あかつち)の広々(ひろ/゛\)とした空地(あきち)を後(うしろ)にして、棟割(むねわり)の長屋(ながや)が路(みち)に沿(そ)うて、気(き)のなさゝうな風(ふう)で立(た)つてゐるのを見(み)たのは、まるで昨日(きのふ)のやうな気(き)がするくらいである。
そんなことを憶(おも)ひ出(い)づると、ここらの街景(がいけい)は全(まつた)く大変遷(だいへんせん)の観(くわん)がある。
二
大崎(おほさき)から五反田(ごたんだ)へ向(むか)ふ街路(がいろ)は可(か)なりな商店街(しやうてんがい)をなしてゐる。家々(いへ/\)の規模(きぼ)は、相応(さうおう)な地方市(ちはうし)の可(か)なりいゝ街筋(まちすぢ)のありさまと同様(どうやう)である。いや、それどころか、三十年位(ねんぐらゐ)前(まへ)の本郷通(ほんがうどほ)りなどよりは、余程(よほど)景気(けいき)のいゝ街(まち)の光景(くわうけい)である。
五反田(ごたんだ)の記憶(きおく)は割合(わりあひ)に新(あたら)しく、震災(しんさい)二年前(ねんまへ)ぐらゐに属(ぞく)するのだが、その時(とき)に比(くら)べてさえ、開(ひら)け方(かた)は雲泥(うんでい)のちがひだ。これでは地方市(ちはうし)の盛(さか)り場(ば)を凌(しの)いでゐる。いや、此(こ)の二十年前(ねんまへ)であつたら、これだけの街(まち)がゝりの賑(にぎや)かさの場所(ばしよ)は、東京(とうきやう)でもさう多(おほ)くはなかつたらうと思(おも)ふくらゐである。勿論(もちろん)、新開(しんかい)といふ何処(どこ)となく垢抜(あかぬ)けのしてゐない雰囲気(ふんゐき)は濃厚(のうこう)であるが、旧市内(きうしない)だつても例(れい)せば小石川(こいしかは)の柳町(やなぎちやう)、本郷(ほんがう)の肴町(さかなまち)、動坂下(どうざかした)、下谷(したや)の鶯渓(うぐひすだに)などのやうな吾々(われ/\)の眼(め)から見(み)れば新開(しんかい)の空気(くうき)の可(か)なり顕然(けんぜん)とした地区(ちく)が少(すくな)くない。いや、数(かぞ)へ立(た)てれば、さういふ新開(しんかい)は旧市内(きうしない)には枚挙(まいきよ)にいとまのない程多(ほどおほ)いのだ。旧市内(きうしない)のさういふ土地(とち)の方(はう)が開(ひら)け方(かた)は遅々(ちゝ)としてゐたといつてよからうと思(おも)ふ。
こゝで、道路(だうろ)は少(すこ)し大廻(おほまは)りの形(かたち)になつて、目黒川(めぐろがは)を渡(わた)つて、目黒(めぐろ)から渋谷(しぶや)へと亙(わた)る郊外(かうぐわう)の旧市(きうし)外廓(ぐわいくわく)をなしてゐた部分(ぶぶん)の外輪(ぐわいりん)をめぐることとなる。この川(かは)の末(すゑ)が品川(しながは)へ入(はひ)つて、本宿(ほんじゆく)と橋向(はしむか)うとを別(わか)つのでもあらうかと思(おも)ひ、斎藤緑雨(さいとうりよくう)に橋向(はしむか)うの意味(いみ)の説明(せつめい)を受(う)けたことなどを憶(おも)ひ出(い)でゝ、心(こゝろ)に微笑(びせう)を覚(おぼ)えたのであつた。しかし、後(あと)で考(かんが)へると品川(しながは)の橋(はし)はこの末(すゑ)ではなささうである。
僕(ぼく)の昔(むかし)の記憶(きおく)によると、下渋谷(しもしぶや)から上目黒(かみめぐろ)を経(へ)て、行人坂(ぎやうにんざか)あたりまで出(で)て来(く)る路(みち)は、旧市(きうし)寄(よ)りの丘陵(きうりよう)を左(ひだり)にし、郊外(かうぐわい)の渋谷(しぶや)から続(つゞ)いてゐる小丘(せうきう)を右(みぎ)にした谷(たに)あひのやうなところであつたと思(おも)ふのであるが、今(いま)の環状線(くわんじやうせん)からは右(みぎ)に松林(まつばやし)を頂(いたゞ)いた丘陵(きうりよう)の連亙(れんこう)を見(み)るのみで、左(ひだり)の方(はう)には余(あま)り高(たか)いところを一向(かう)に見(み)ない。要(えう)するに、下渋谷(しもしぶや)から来(き)てゐる丘地(きうち)の西側(にしがは)即(すなは)ち外廻(そとまは)りの平地(へいち)のところを環状線(くわんじやうせん)が貫(つらぬ)いてゐるのだ。
不動堂(ふどうだう)へ入(はひ)る横町(よこちやう)を左手(ひだりて)に見(み)て、行人坂下(ぎやうにんざかした)あたりを越(こ)えるといふと、もう商舗(しやうほ)はぼつ/\になつて、郊外(かうぐわい)の屋敷町(やしきまち)らしい気分(きぶん)が顕著(けんちよ)になる、右(みぎ)は平地(へいち)が少(すこ)し連(つら)なつてから、その上(うへ)が南北(なんぼく)に亙(わた)る低丘(ていきう)になつて居(を)り、左(ひだり)は極(ご)く緩(ゆる)やかな傾斜(けいしや)をなして、武蔵野(むさしの)の外廓的(ぐわいくわくてき)高地(かうち)へと上(のぼ)つて居(を)る。我等(われら)の行(ゆ)く手(て)は先(ま)ず大体(だいたい)坦々(たん/\)たる平路(へいろ)であつて、前面(ぜんめん)の空(そら)の藍色(らんしよく)広々(ひろ/゛\)と仰(あふ)がれて、好晴(かうせい)の秋日和(あきびより)の気分(きぶん)はいかにもさわやかに快(こゝろよ)かつた。
この路(みち)は下(しも)、中(なか)、上(かみ)と目黒(めぐろ)をば目黒川(めぐろがは)の西岸(せいがん)に沿(そ)うて貫(つらぬ)きつゝ渋谷(しぶや)へと向(むか)つて居(を)るのだ。やがて、路(みち)は爪先(つまさき)上(あが)りになつて、道玄坂(だうげんざか)の上(うへ)の方(はう)で、厚木大山街道(あつぎおほやまかいだう)へと出(で)てしまふ。世田谷(せたがや)へと通(つう)じて居(を)る昔(むかし)からの往還(わうくわん)なのだ。
いはゆる道玄坂(だうげんざか)から、宮益坂(みやますざか)へかけてのこのあたり一帯(たい)の変(かは)り方(かた)は、吾々(われ/\)に取(と)つては、全(まつた)く桑滄(さうさう)の変(へん)も啻(たゞ)ならぬ心持(こゝろもち)がする。日露戦役(にちろせんえき)の直前(ちよくぜん)ぐらゐまでは、宮益(みやます)が五六間(けん)にしきや見(み)えないくらゐの路幅(みちはゞ)の、両側(りやうがは)には生籬(いけがき)のある邸(やしき)に沿(そ)うての狭(せま)いやや急(きふ)な坂路(さかみち)であり、道玄坂(だうげんざか)までの間(あひだ)は両側(りやうがは)が田圃(たんぼ)であり、世田谷街道(せたがやかいだう)に食物店(くひものみせ)といつては、坂(さか)を可(か)なり上(のぼ)つたところに、一軒(けん)蕎麦屋(そばや)があるきりであり、丘沿(をかぞ)ひに停車場(ていしやば)の方(はう)へ曲(まが)つて行(い)く横町(よこちやう)には、それでも一寸(ちよつと)とした料理(れうり)の看板(かんばん)をかけた家(うち)があるきりといふありさまであつた。明治(めいぢ)四十一二年頃(ねんごろ)になつてさへ、市内(しない)の寄席(よせ)で、咄家(はなしか)が『この頃(ごろ)は上渋谷(かみしぶや)の道玄坂(だうげんざか)などが開(ひら)けて、あの辺(へん)でも変(かは)り色(いろ)の羽織(はおり)を著(き)た芸者(げいしや)が歩(ある)いてゐるといふのだから、東京(とうきやう)も大変(たいへん)な変(かは)り方(かた)だ』などと、話(はなし)の前置(まへおき)にして話(はな)したくらゐであつたのだ。
大震災(だいしんさい)の恩沢(おんたく)に浴(よく)した土地(とち)の一(ひと)つには相違(さうゐ)ないが、それにしても、驚嘆(きやうたん)に値(あたひ)する開(ひら)け方(かた)だと思(おも)ふ。こゝを起点(きてん)にする電車線(でんしやせん)が二三線(せん)ある通(とほ)り、懐(ふところ)は十分広(ぶんひろ)い地区(ちく)である。まだ今後(こんご)の開(ひら)け行(ゆ)く余地(よち)はあるであらう。
三
路(みち)は宮益(みやます)の坂下(さかした)から左(ひだり)へ折(を)れて迂曲(うきよく)しつつ新宿(しんじゆく)へと向(む)いてゐる。
もうどうしても三十年(ねん)の前(まへ)であるが、新宿駅(しんじゆくえき)から渋谷(しぶや)へ出(で)る路(みち)が、一半(ぱん)は生籬(いけがき)の傍(そば)に亭々(てい/\)たる大木(たいぼく)の槻並木(けやきなみき)のやうに列(なら)んだ東京郊外(とうきやうかうぐわい)特有(とくいう)の農家(のうか)めいた邸(やしき)の連続(れんぞく)、一半(ぱん)は茅(かや)、薄(すゝき)の茫々(ばう/\)と生(お)ひ茂(しげ)つた高低(かうてい)のある広野(ひろの)といふ風(ふう)で、如何(いか)にも野趣(やしゆ)満々(まん/\)たる景致(けいち)であつたので、それが全(まつた)く気(き)に入(い)つて、当時(たうじ)下渋谷(しもしぶや)在住(ざいぢう)であつた与謝野寛君(よさのくわんくん)を訪(と)ふ時(とき)など、わざ/\新宿(しんじゆく)で下車(げしや)して、渋谷(しぶや)まで徒歩(とほ)したものであつた。今(いま)その路(みち)はどのあたりなのであらうか。今(いま)はもう一体(たい)に人家(じんか)もふえ土地(とち)も平(たひら)にならされ、まるで見当(けんたう)がつかなくなつてしまつてをるのだが、地図(ちづ)を見(み)ると、昔(むかし)のその路(みち)は代々木練兵場(よゝぎれんぺいぢやう)のなかへでも入(はひ)つてをるのではなからうかと思(おも)ふ。さうだ、右手(みぎて)に衛戌監獄(ゑいじゆかんごく)のあつたことを覚(おぼ)えてゐるものだから、今(いま)の渋谷区(しぶやく)の代々木深町(よゝぎふかまち)、神園町(かみぞのちやう)、神南町(かんなみちやう)、宇田川町(うだがはちやう)といふやうなあたりに当(あた)るのであらう。
われ等(ら)の自動車(じどうしや)は新宿(しんじゆく)に近(ちか)づくに従(したが)つて、如何(いか)にも潔(きよ)げな可(か)なりな大(おほ)きさの別墅風(べつしよふう)の邸宅(ていたく)の続(つゞ)いた町(まち)を通(とほ)る。昔(むかし)の番町(ばんちやう)、駿河台(するがだい)などの面影(おもかげ)がこんなところに残(のこ)つてゐるやうな心持(こゝろもち)がした。遠(とほ)い郊外(かうぐわい)へ出(で)ると、郊外(かうぐわい)とは名(な)のみで、余(あま)り庭(には)もないやうな家(いへ)が建(た)ち続(つゞ)いたり、さもなくば、周囲(しうゐ)が余(あま)りに野味(やみ)が多(おほ)く、何(な)んだか農家(のうか)の仮家(かりや)ではないかといふ感(かん)じのするやうな半洋館(はんやうくわん)を見(み)るのであるが、さすがに此(こ)の新宿裏(しんじゆくうら)あたりの屋敷町(やしきまち)には何処(どこ)までも日本式(にほんしき)らしい建築(けんちく)の十分(ぶん)な落著(おちつき)があつて、結構(けつこう)だと思(おも)ふ。どうせ他人(たにん)のものなのだからどうでもいゝやうなものの、どつちがいゝかと云(い)はれゝば、かういふ風(ふう)に手(て)のかゝつた小綺麗(こぎれい)なものの方(はう)がいゝと思(おも)ふ。塵一(ちりひと)つ落(お)ちてゐないやうな、清潔(せいけつ)な静寂(せいじやく)な此(こ)の町(まち)の気分(きぶん)はまことに快(こゝろよ)かつた。
新宿(しんじゆく)近時(きんじ)の発達(はつたつ)は全(まつた)く文字(もじ)通(どほ)りに駭目(がいもく)に値(あたひ)するといはざるを得(え)ない。いはゆる馬糞(ばふん)の臭(にほ)ひと嘲(あざ)けられたのは余(あま)りに古(ふる)い昔(むかし)ではあるが、両側(りやうがは)にあの薄(うす)ぎたない暖簾(のれん)をかけた陰鬱(いんうつ)な大建物(おほだてもの)の間(あひだ)に、ぽつ/\と見(み)る影(かげ)もない小商店(こしやうてん)の介在(かいざい)してゐた時分(じぶん)から、今(いま)の繁華(はんくわ)の街路(がいろ)までの発達(はつたつ)は殆(ほとん)ど一足(そく)とびの観(くわん)がある。殊(こと)に旧市内(きうしない)より最(もつと)も遠(とほ)い部分(ぶぶん)が中心(ちうしん)になつたのは、停車場(ていしやば)のお蔭(かげ)、即(すなは)ち、郊外(かうぐわい)開進(かいしん)の恩沢(おんたく)といはざるを得(え)なからう。震災(しんさい)の恩沢(おんたく)も十分(ぶん)ある事(こと)はあるが、新宿(しんじゆく)附近(ふきん)が殷賑(いんしん)を極(きは)むるに至(いた)るのは、単(たん)に年月(ねんげつ)の問題(もんだい)であつたので、震災(しんさい)はただその時期(じき)を早(はや)めたに過(す)ぎないであらう。この勢(いきほ)ひで行(い)けば、東京(とうきやう)の繁華(はんくわ)西遷(せいせん)の期(き)が遠(とほ)くはなからうかと思(おも)はれるくらゐである。銀座(ぎんざ)よりもこゝは卑野(ひや)であると人(ひと)はいふであらう。ところがこの野風(やふう)が今(いま)の人人(ひとびと)を引(ひ)きつける力(ちから)があるのだ。大衆(たいしう)を引(ひ)きつけるにはこの野風(やふう)でなければ駄目(だめ)だ。銀座(ぎんざ)がだん/\この野味(やみ)に降参(かうさん)しだすと共(とも)に、やがては、新宿(しんじゆく)の方(はう)がその繁華(はんくわ)において凱歌(がいか)を奏(そう)するの日(ひ)が来(く)るのではなからうか。
古(ふる)い小咄(こばなし)に、行倒(ゆきだふ)れの日記(につき)といふのがある。無論(むろん)、偽(いつは)つて行倒(ゆきだふ)れとなつて、人(ひと)から恵(めぐ)みを貰(もら)ふ乞食(こじき)の日記(につき)といふ意味(いみ)である。
『○月(ぐわつ)○日(にち)、神田(かんだ)にて行(ゆ)き倒(だふ)れ候節(さふらふせつ)、むすびに銭(ぜに)○文(もん)。○月(ぐわつ)○日(にち)麹町(かうじまち)にて行(ゆ)き倒(だふ)れ候(さふらふ)節(せつ)、灸(きう)とむすび。○月(ぐわつ)○日(にち)、青山(あをやま)にて行倒候(ゆきだふれさふらふ)節(せつ)、灸(きう)ばかり』
といふのだ。これは当時(たうじ)の各(かく)地区(ちく)の人気(にんき)と生活程度(せいくわつていど)を暗示(あんじ)した笑話(せうわ)だと思(おも)ふのだが、昔(むかし)は山(やま)の手(て)といふのは、かういふ風(ふう)に蔑視(べつし)されてゐたものであるが、これからは、新宿(しんじゆく)あたりの気分(きぶん)は一変(ぺん)して、却(かへ)つて、下町(したまち)の人気(にんき)を笑(わら)ふ日(ひ)が来(こ)ないとは云(い)へなからう。とにかく今日(こんにち)の下町(したまち)は住民(ぢうみん)の心持(こゝろもち)が一変(ぺん)しつゝあるやうな気(き)がする。古(ふる)い東京(とうきやう)は却(かへ)つて片隅(かたすみ)の四谷(や)、新宿(しんじゆく)のあたりに残(のこ)つてゐるのではなからうかといふやうな気(き)もする。
寄席(よせ)などでは神田(かんだ)の立花(たちばな)が振(ふる)はなくなつて、四谷(や)の喜(き)よしが東京(とうきやう)で第(だい)一の入(い)りの多(おほ)い寄席(よせ)になつたといふ事実(じじつ)の裏(うら)には、東京(とうきやう)の文化(ぶんか)の配置(はいち)とその変遷(へんせん)とについて何(なに)ものかを語(かた)るものがあると思(おも)ふ。
四
京王電車(けいわうでんしや)の発著駅(はつちやくえき)から先(さ)き数町(すうちやう)のところは路面(ろめん)がまだ出来上(できあが)つてゐなかつたので車(くるま)は大通(おほどほ)りを右(みぎ)へ少(すこ)し直行(ちよくかう)してから、左折(させつ)して狭(せま)い新宿(しんじゆく)の華街(くわがい)を抜(ぬ)ける。
いはゆるナイト・クラブの店(みせ)がゝりは、入口(いりぐち)に目隠(めかく)しのやうなものが出来(でき)てゐる。洋館(やうくわん)まがひの建方(たてかた)、夜(よる)見(み)ればどうだか知(し)れぬが、白昼(はくちう)の光線(くわうせん)の下(もと)では、如何(いか)にも陰鬱(いんうつ)な景気(けいき)の悪(わる)いものに見(み)えた。どうせ変態(へんたい)の場所(ばしよ)には相違(さうゐ)ないが、かうまで普通(ふつう)と違(ちが)つた重苦(おもくる)しい空気(くうき)を作(つく)らずとも、何(な)んとか工夫(くふう)のありさうなものだと思(おも)はれる。
左側(ひだりがは)の褐色(かつしよく)に塗(ぬ)つた家(いへ)の入口(いりぐち)には、まだ三十にはならぬと見(み)える例(れい)の妓夫君(ぎふくん)が退屈(たいくつ)さうに、粗末(そまつ)な椅子(いす)に腰(こし)を下(おろ)してゐた。かういふ職業(しよくげふ)も今(いま)にどうなるのであらうか。その伝統(でんとう)の能弁(のうべん)と機智(きち)などは何処(どこ)へ用(もち)ひられるのであらうか。
ひどく古(ふる)い事(こと)をと思(おも)はれるであらうが、昔(むかし)ある友(とも)と、吉原(よしはら)の狭(せま)い町(まち)を歩(ある)いてゐると、とある店(みせ)から、『寄(よ)つてらツしやい。舶来(はくらい)とジヤツパン』といふ声(こゑ)が掛(か)かつた。それは揚屋町(あげやまち)へ曲(まが)るあたりの河岸(かし)であつたと思(おも)ふ。いふまでもなく、友(とも)は和服(わふく)、僕(ぼく)は洋服(やうふく)であつた。
五年程(ねんほど)前(まへ)かと思(おも)ふのだが、僕(ぼく)の数字(すうじ)の誤記(ごき)のために、ある人(ひと)の旧居(きうきよ)の位置(ゐち)が不確(ふたしか)になつたので、増田龍雨(ますだりうう)さんを引張(ひつぱ)りだして、吉原(よしはら)裏(うら)のあたりを見(み)てもらつた。その途中(とちう)、増田(ますだ)、久保田万太郎(くぼたまんたらう)、平林襄二(ひらばやしじやうじ)、新潮社(しんてうしや)の某君(ぼうくん)、及(およ)び僕(ぼく)と五人(にん)で廓内(くるわうち)をば、揚屋町(あげやまち)の門(もん)へと抜(ぬ)けて行(い)くと、ある町(まち)の楼(ろう)の前(まへ)に立(た)つてゐた若(わか)い妓夫君(ぎふくん)が、白昼(はくちう)のことではあり、気(き)がなさゝうに『おあがりなさい。名誉職(めいよしよく)のお方(かた)』といつた。
吉原(よしはら)の小店(こみせ)では、昔(むかし)は妓夫君(ぎふくん)が上(あが)つた客(きやく)の勘定(かんぢやう)の工合(ぐあひ)を、前以(まへもつ)て客(きやく)の履物(はきもの)で鑑定(かんてい)したといふ。あと減(べ)りのしてゐるやうな、少(すこ)し履(は)き古(ふる)した履物(はきもの)であつたら、安心(あんしん)だが、小粋(こいき)な真新(まあたら)しいのめりの薄手(うすで)の駒下駄(こまげた)などだと、この客(きやく)は、翌日(あした)は馬(うま)だと覚悟(かくご)するのであつた。ところが、近頃(ちかごろ)になつては、それが反対(はんたい)になつてしまつた。つまり、履物(はきもの)も順当(じゆんたう)に、金銭(きんせん)のある者(もの)が新(あたら)しい下駄(げた)を穿(は)くやうになつてしまつた。履物(はきもの)だけは、見(み)すぼらしい物(もの)を用(もち)ひないといふでんぼう、てつかの伝統(でんとう)が消(き)えてしまつたのだ。こんな話(はなし)を余程(よほど)前(まへ)に聞(き)いたことがある。
店頭(てんとう)の素晴(すばら)しき能弁(のうべん)も、通(とほ)りすがりの客(きやく)にからかふ縦横無碍(じうわうむげ)の機智(きち)も、元(もと)より吉原(よしはら)の妓夫君(ぎふくん)の殆(ほとん)ど独擅(どくせん)のものといつて宜(よろ)しかつたのであらうが、かういふ不思議(ふしぎ)な職業気質(しよくげふかたぎ)などは、遊廓(いうくわく)の衰微(すゐび)と共(とも)に、遠(とほ)からず消滅(せうめつ)し去(さ)るものの一(ひと)つであらうと思(おも)はれる。
世(よ)の中(なか)が穏当(をんたう)に平坦(へいたん)にされて行(ゆ)くのは、まことに目出度(めでた)いことではあるが、古(ふる)き世(よ)の悠長(いうちやう)さを伝(つた)へてをるさま/゛\の、延(の)びやかなる馬鹿(ばか)げた物(もの)や事(こと)が、つぎ/\に進化変転(しんくわへんてん)の大波(おほなみ)に洗(あら)ひ浚(さら)はれて行(ゆ)くを見(み)るのは、如何(いか)にも心淋(こゝろさび)しいことである。
こんな用(よう)もない追懐(つゐくわい)にふけつてゐるうちに、車(くるま)はもう大久保(おほくぼ)の大道(だいだう)を北(きた)へ向(むか)つて驀地(まつしぐら)に進(すゝ)んでゐる。やがて、戸山練兵場(とやまれんぺいぢやう)の裏手(うらて)である。それからは、直(ぢ)きに戸塚(とつか)の源兵衛(げんべゑ)の踏(ふ)み切(き)りの東(ひがし)を通(とほ)る。こゝを流(なが)れてゐる川(かは)は神田上水(かんだじやうすゐ)で、この末(すゑ)が小石川(こいしかは)の江戸川(えどがは)になる。この川(かは)の沿岸(えんがん)の変遷(へんせん)もこれまた非常(ひじやう)なものである。今(いま)より二十年(ねん)も前(まへ)には、源兵衛(げんべゑ)あたりは田舎(ゐなか)の村(むら)の路(みち)に過(す)ぎず、今(いま)の早稲田(わせだ)の市電(しでん)の終点(しうてん)から流(なが)れに沿(そ)うて、関口(せきぐち)の大滝(おほだき)に至(いた)るまでは、野川(のがは)の堤防(ていばう)で、蘆荻(ろてき)いやが上(うへ)に生(お)い茂(しげ)つてゐた。対岸(たいがん)には、工場(こうば)らしい家(うち)が一軒(けん)、それから、大分飛(だいぶと)んで古(ふる)い鳶色(とびいろ)の藁屋(わらや)の屋根(やね)が見(み)えるぐらゐなものであつた。
環状線(くわんじやうせん)が川(かは)を越(こ)すところから、少(すこ)し下流(かりう)に面影橋(おもかげばし)といふのがある。しかし、こゝは昔(むかし)は橋(はし)などのなかつたところではないかと思(おも)ふ。『南向茶話(なんかうさわ)』に出(で)てゐる姿見橋(すがたみばし)一名(めい)面影橋(おもかげばし)といふのは、穴(あな)八幡下(まんした)にあつた橋(はし)ではなかつたかと思(おも)はれる。
五
牛込(うしごめ)の馬場下(ばばした)から、戸塚(とつか)の方(はう)へ行(ゆ)くには、穴(あな)八幡(まん)の下(した)の狭(せま)い坂(さか)を上(のぼ)るのであつたが、その上(のぼ)り口(くち)のところに古称(こしよう)蟹川(かにがは)といふ小流(こながれ)があつて、それに小(ちひ)さい橋(はし)がかゝつてをり、その橋(はし)を渡(わた)つて、早稲田大学(わせだだいがく)の方(はう)へ行(ゆ)くやうになつてゐた。橋(はし)の袂(たもと)にそば屋(や)のあつたことを記憶(きおく)する。即(すなは)ち、その橋(はし)が、和田靱負守祐(わだゆきへもりすけ)の女(むすめ)於戸姫(おとひめ)が良人(をつと)の敵(かたき)村山三郎武範(むらやまさぶらうたけのり)を討(う)つて後(のち)、身(み)を流(なが)れに沈(しづ)めて野川(のがは)の底(そこ)の藻屑(もくづ)と消(き)えたといふ伝説(でんせつ)、又(また)、将軍(しやうぐん)の鷹野(たかの)の時(とき)、外(そ)れた将軍(しやうぐん)の愛鷹(あいよう)がこの橋(はし)までその姿(すがた)が見(み)えたので、鷹匠(たかじやう)が追(お)つて行(い)つて捉(とら)へたといふ伝説(でんせつ)のある姿見橋(すがたみばし)即(すなは)ち面影橋(おもかげばし)ではなかつたかと思(おも)ふ。
それはとにかくとして、この辺(あた)りは実(じつ)に途方(とはう)もない大変転(だいへんてん)だ。そんな小流(こながれ)は埋(う)められ、橋(はし)などはとつくになくなり、穴(あな)八幡(まん)の前(まへ)の坂(さか)にしても、もうなくなつてしまつてゐるのでなからうかと思(おも)はれるくらゐである。
さて、吾々(われ/\)の行(ゆ)く道(みち)は、現今(げんこん)の面影橋(おもかげばし)、即(すなは)ち、戸塚(とつか)から北(きた)へ真直(まつすぐ)に鬼子母神(きしぼじん)へと上(のぼ)つて行(い)く路(みち)に架(か)した橋(はし)から数町(すうちやう)西(にし)の方(はう)で、神田上水(かんだじやうすゐ)、即(すなは)ち井(ゐ)の頭(がしら)上水(じやうすゐ)を越(こ)して、高田(たかだ)へ入(はひ)り、学習院(がくしふゐん)の角(かど)で川越街道(かはごえかいだう)を横断(わうだん)し、鬼子母神(きしぼじん)から数町(すうちやう)の西(にし)を廻(まは)り、小曲折(せうきよくせつ)をなして池袋(いけぶくろ)へと通(つう)じ、巣鴨(すがも)の山手線(やまのてせん)の少(すこ)し手前(てまへ)で、大塚(おほつか)からの新道路(しんだうろ)を越(こ)え、やがて、その先(さ)きで鉄道線(てつだうせん)を横(よこ)ぎつてゐるのだが、このあたり一帯(たい)が見渡(みわた)す限(かぎ)り青々(あをあを)とした菜圃(さいほ)であつたのは、まるで昨日(きのふ)の事(こと)であつたやうな気(き)がする。恐(おそ)らくは精精(せいぜい)十五年(ねん)ぐらゐ前(まへ)から開(ひら)けはじめたのではなからうか。この辺(へん)では、路(みち)が山形(やまがた)をなして曲(まが)つてゐる。大久保(おほくぼ)からこゝらまでの路(みち)になると、もう十分(ぶん)に郊外(かうぐわい)気分(きぶん)が濃(こ)くなり、旧式(きうしき)の手輓(てび)きの荷車(にぐるま)などの往来(わうらい)を度々(たび/\)見(み)かけたのであつた。
巣鴨(すがも)の踏(ふ)み切(き)りから以北(いほく)は、路(みち)は殆(ほとん)ど直線(ちよくせん)をなして西巣鴨町(にしすがもまち)を貫(つらぬ)き、庚申塚(かうしんづか)の北(きた)で中仙道(なかせんだう)を横(よこ)ぎり、滝野川(たきのがは)を通(とほ)つて一路(ろ)飛鳥山(あすかやま)へ突(つ)き当(あた)る。勿論(もちろん)昔(むかし)の本郷(ほんがう)からの路(みち)へは直角(ちよくかく)をなして合(がつ)してゐる訳(わけ)である。この桜(さくら)の小丘(せうきう)を見(み)るのは、何年(なんねん)振(ぶ)りなのであらうか。恐(おそ)らく四十何年(なんねん)か振(ぶ)りではなからうか。昔(むかし)はこゝをもこんな狭(せま)いところとはわれ/\は思(おも)つてゐなかつた。神田(かんだ)の学校(がくかう)はこゝまで運動会(うんどうくわい)をもつて来(き)たのであつた。当時(たうじ)の市内(しない)に公共用(こうきようよう)の空地(あきち)の少(すくな)かつたことと、それ等(ら)の運動会(うんどうくわい)の小規模(せうきぼ)であつたこととが、これで直(す)ぐ想像(さうざう)し得(え)られるであらう。いや、今日(こんにち)の若(わか)い人々(ひと/゛\)にはそんな想像(さうざう)はしがたくつて、却(かへ)つて嘘(うそ)の話(はなし)のやうに思(おも)ふくらゐであらう。昔(むかし)と違(ちが)ひ四辺(へん)も丘上(きうじやう)も小(こ)ざつぱりと清潔(せいけつ)になつてゐるので、なほ一層(そう)山(やま)の地域(ちゐき)が狭(せま)いやうに吾々(われ/\)の眼(め)にも見(み)えるのであらう。
前(まへ)に挙(あ)げた『南向茶話(なんかうさわ)』は酒井忠昌(さかゐたゞまさ)の著(ちよ)で、寛延(くわんえん)四年(ねん)の手記(しゆき)のものであるらしいのだが、このあたりより青山百人町(あをやまひやくにんちやう)までは昔(むかし)の鎌倉海道(かまくらかいだう)であつたといふ記述(きじゆつ)がある。即(すなは)ち逆(ぎやく)にいふと、千住(ぢゆ)から王子(わうじ)の脇(わき)の谷村(たにむら)即(すなは)ち豊島村(としまむら)へ出(で)て、滝野川(たきのがは)、雑司(ざふし)ケ谷(や)、護国寺後(ごこくじうしろ)、高田馬場(たかだのばば)、大久保(おほくぼ)、千駄谷(だがや)八幡前(まんまへ)、原宿(はらじゆく)を経(へ)る路(みち)で、さういふ時代(じだい)には、豊島村(としまむら)がこの郡(ぐん)の府(ふ)であつて、百人町(ひやくにんちやう)から小田原(をだはら)へ向(むか)ふ路(みち)をば俗(ぞく)に中路(なかみち)と称(とな)へたといふのである。さうすると今(いま)吾々(われ/\)の通(とほ)つて来(き)た環状線(くわんじやうせん)はこの大昔(おほむかし)の海道(かいだう)であつた。全(まつた)くの野中(のなか)の路(みち)ともいふべきものの、西側(にしがは)の外廻(そとまは)りをば大(おほ)きくぐるうりと一廻(ひとまは)りして、こゝらあたりで、その古道(こだう)に合(がつ)したことになるのらしいのだ。ところで、青山(あをやま)からの中路(なかみち)といふのは、今(いま)の渋谷(しぶや)を通(とほ)つてをる厚木大山道(あつぎおほやまみち)と大体(だいたい)同(おな)じものではなからうか。ともあれ、この中路(なかみち)は小田原(をだはら)まで十八里(り)で、日本橋(にほんばし)から行(ゆ)く東海道(とうかいだう)より二里近(りちか)いと記(しる)されてゐる。
こゝで前記(ぜんき)の面影橋(おもかげばし)のことが気(き)になるので、嘉永板(かえいばん)の江戸地図(えどちづ)を見(み)ると、今(いま)の面影橋(おもかげばし)と同(おな)じ位置(いち)に橋(はし)がある。『南向茶話(なんかうさわ)』には『高田(たかだ)の末(すゑ)より向(むか)うへ渡(わた)り候(さふらふ)橋(はし)』とあるのだから、どうもこの橋(はし)らしくも思(おも)はれる。前記(ぜんき)の蕎麦屋(そばや)の傍(そば)の小橋(こばし)だといふのは、筆者(ひつしや)の記憶(きおく)違(ちが)ひなのであらう。
六
今(いま)仮(かり)に、飛鳥山(あすかやま)から千駄谷(だがや)あたりまでへ直線(ちよくせん)を画(ゑが)いてみると、環状道路(くわんじやうだうろ)はこれに対(たい)して、大凡(おほよそ)抛物線(パラホフ)の形(かたち)をなしてゐるともいへるであらう。
さて、路線(ろせん)はこゝで飛鳥山(あすかやま)の北横(きたよこ)を小廻(こまは)りして、低(ひく)い傾斜(けいしや)を下(くだ)り、東北線(とうほくせん)の鉄路(てつろ)を越(こ)える。こゝの川(かは)は名主(なぬし)の滝(たき)をなしてをる石神井川(しやくじゐがは)で、本流(ほんりう)は殆(ほとん)ど真直(まつす)ぐに東(ひがし)へ向(むか)ひ、豊島(としま)と小台(をだい)との間(あひだ)で荒川(あらかは)へ注(そゝ)いでをるのだが、支流(しりう)は飛鳥山(あすかやま)から上野(うへの)へ連亙(れんこう)してをる丘陵(きうりよう)の東麓(とうろく)に沿(そ)うて南(みなみ)へ向(むか)ひ、根岸(ねぎし)へ入(はひ)つていはゆる音無川(おとなしがは)となつてをるのだと思(おも)ふ。
今(いま)はその音無川(おとなしがは)も川(かは)ではなくつて全(まつた)くの泥溝(どぶ)になつてしまつた。今(いま)から四十年(ねん)ぐらゐ前(まへ)までは、旧市内(きうしない)でさへ、少(すこ)し場末(ばすゑ)へ行(ゆ)くと、可(か)なり水(みづ)の澄(す)んだ、小魚(こうを)の影(かげ)ぐらゐは見(み)られるやうな小流(こながれ)があつたものであつて、それらが町家(ちやうか)の間(あひだ)にあつて、一種(しゆ)の半都会的(はんとくわいてき)の景物(けいぶつ)をなしてゐたのだが、それらの風情(ふぜい)ある小流(こながれ)は大抵(たいてい)は皆(みな)埋(う)められてしまひ、僅(わづか)に残(のこ)つてゐるものは、水(みづ)汚(よご)れ、流(なが)れ細(ほそ)つて、小虫(こむし)さへ住(す)まぬ泥溝(どぶ)になつてしまつた。沿岸(えんがん)一帯(たい)に人家(じんか)の稠密(ちうみつ)になつた結果(けつくわ)で、是非(ぜひ)なきところである。
このあたりから、吾々(われ/\)の車(くるま)は車頭(しやとう)を東南(とうなん)へ向(む)けて、三(み)の輪(わ)をさして急(いそ)ぐのであつたが、尾久駅(をぐえき)あたりからは、さすがに沿道(えんだう)に雑草(ざつさう)の生(お)ひ茂(しげ)つた空地(あきち)が見(み)えて、如何(いか)にも郊外(かうぐわい)らしい空気(くうき)が濃(こ)まやかである。家々(いへ/\)の規模(きぼ)も余程(よほど)小(ちひ)さくなりだした。路(みち)は滝野川区(たきのがはく)の東北端(とうほくたん)をかす/\のところで横(よこ)ぎり、荒川区(あらかはく)の南寄(みなみよ)りを東(ひがし)へと貫(つらぬ)いてゐるのだ。
昔(むかし)は本所(ほんじよ)あたりは下町(したまち)の敗残者(はいざんしや)の逃避(たうひ)の地区(ちく)であつたといはれた。なほ窮迫(きうはく)の度(ど)の増(ま)すに従(したが)ひ、更(さら)に奥(おく)へ奥(おく)へと引(ひ)つ込(こ)んで行(ゆ)くのであるが、その引越(ひきこ)し荷物(にもつ)を見(み)てさへ、その家運(かうん)衰退(すゐたい)の度合(どあ)ひが明(あき)らかに看取(かんしゆ)されるといふのであつた。即(すなは)ち、初(はじ)め両国橋(りやうごくばし)を越(こ)える荷車(にぐるま)には、まだしも少(すこ)しは見栄(みば)えのする物(もの)が積(つ)まれてゐるのであるが、次(つぎ)の場所(ばしよ)へと向(むか)ふ車上(しやじやう)には、次第(しだい)にガラクタの数(かず)さへ減(へ)つて行(い)くといふのであつた。
今(いま)この新市(しんし)の北端(ほくたん)に住(す)む人々(ひと/゛\)を旧市(きうし)からの敗残者(はいざんしや)であるとはいひ難(がた)からう。これ等(ら)の人々(ひと/゛\)は、一朝(てう)運(うん)来(きた)らば、大都(だいと)の中心(ちうしん)を一気(き)に攻略(こうりやく)せんがために、空拳(くうけん)先(ま)づ外郭(ぐわいくわく)より攻(せ)め落(おと)さんといそしむ勇敢(ゆうかん)なる小市民(せうしみん)であらうといひ度(た)いのだ。
尾久駅(をぐえき)の傍(そば)を過(す)ぎてからであつたと思(おも)ふのだが、両側(りやうがは)の家々(いへ/\)が殆(ほとん)どみな仮小舎(かりごや)のやうな小屋(せうをく)になり、商品(しやうひん)が路傍(ろばう)へ滾(こぼ)れ出(だ)したやうに列(なら)べられ、まるで、露店(ろてん)の街(まち)のやうに見(み)えるところがあつた。さういふ街(まち)の中心(ちうしん)へ入(はひ)る前(まへ)、右側(みぎがは)に、菊(きく)の鉢(はち)を歩道(ほだう)の縁(へり)へまで列(なら)べた植木屋(うえきや)らしい店(みせ)を見(み)かけたが、この霜(しも)に傲(おご)るといふ豪華(がうくわ)な花(はな)の紅黄白(こうくわうはく)、色(いろ)とり/゛\の豊艶(ほうえん)な姿(すがた)が、四辺(あたり)のくすんだ物(もの)の色(いろ)のなかから鮮(あざや)かに抜(ぬ)け出(だ)してゐるのが眼(め)にはひつた。
古著(ふるぎ)の店(みせ)、古靴(ふるぐつ)の店(みせ)、古金物(ふるかなもの)の店(みせ)、露天向(ろてんむき)の玩具(おもちや)の店(みせ)、新品(しんぴん)ながら三等品(とうひん)、四等品(とうひん)と見(み)えるさま/゛\の商品(しやうひん)をごた/\と店先(みせさ)きへぶちまけたやうにならべた小店(こみせ)、それ等(ら)の店(みせ)が皆(みな)屋根(やね)は、塗(ぬ)りも汚(よご)れきつた古亜鉛(ふるとたん)を屋根(やね)にした、仮小舎(かりごや)用(よう)の細(ほそ)い柱(はしら)の、形(かた)ばかりの小舎(こや)である。どう見(み)ても、片田舎(かたゐなか)の市場(いちば)でもなければ、都会(とくわい)では到底(たうてい)見(み)られない雑然(ざつぜん)たる光景(くわうけい)である。要(えう)するに、此所(ここ)が都会(とくわい)と田舎(ゐなか)との境目(さかひめ)といふ感(かん)じではあるが、それでゐて、田舎(ゐなか)には見(み)られない不思議(ふしぎ)な一脈(みやく)の活気(くわつき)が漂(たゞよ)つてゐるやうに見(み)える。
大都会(だいとくわい)といふ多足(たそく)の大動物(だいどうぶつ)はその触手(しよくしゆ)をさし伸(のば)して、周囲(しうゐ)の村郊(そんかう)を腹中(ふくちう)に抱入(はうにふ)せんとするといふのであるが、この大蛸(おほだこ)たる大東京(だいとうきやう)は、これ等(ら)雑然(ざつぜん)、混然(こんぜん)たる北郊(ほくかう)の一角(かく)をば、その吸盤(きうばん)多(おほ)き手(て)で吸(す)ひ寄(よ)せ得(う)るであらうか。土地(とち)そのものはすでに吸(す)ひ得(え)た。希(ねが)はくは、今(いま)の住民(ぢうみん)諸君(しよくん)を圏外(けんぐわい)へ押(お)し退(の)けることのなからんことを望(のぞ)む。
七
ある人々(ひと/゛\)は、これ等(ら)の商店(しやうてん)、商品(しやうひん)の雑多(ざつた)にならんでをる有様(ありさま)から、支那(しな)にある泥棒市(どろぼういち)の光景(くわうけい)を憶(おも)ひ出(だ)したといつた。このあたりの商品(しやうひん)は勿論(もちろん)贓品(ざうひん)ではなく、人(ひと)も決(けつ)して犯罪者(はんざいしや)でないことはいふまでもないが、支那(しな)の泥棒市(どろぼういち)といふのは、甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものだと聞(き)いてゐる。盗(ぬす)まれた品物(しなもの)が、翌朝(よくてう)早(はや)くその市(いち)へ行(い)つてみると、必(かなら)ず何(いづ)れかの店(みせ)に出(で)てをつて、僅(わづか)の金(かね)で買(か)ひ戻(もど)せるといふのである。普通(ふつう)吾々(われ/\)は中古(ちうぶる)でまだ使(つか)へる品物(しなもの)を盗(ぬす)まれた時(とき)には、同(おな)じやうな中古(ちうぶる)の品(しな)を見附(みつ)けて買(か)つて来(く)るといふ訳(わけ)には行(い)かぬのであるから、誰(だれ)しも新(あたら)しい品(しな)を新(あらた)に買(か)ふことになる。さうすると、それは吾々(われ/\)に取(と)つては甚大(じんだい)な負担(ふたん)になることはいふまでもあるまい。ところが、泥棒市(どろぼういち)の如(ごと)きものがあつて、そこへ早(はや)く駈(か)けつければ盗(ぬす)まれたその同(おな)じ品(しな)が新品(しんぴん)の三分(ぶん)の一なり、五分(ぶん)の一なりで買(か)ひ戻(もど)せるとすれば、盗難(たうなん)から来(く)る損害(そんがい)は極(きは)めて小害(せうがい)で済(す)んでしまふ理窟(りくつ)である。文化(ぶんくわ)の進(すゝ)まざるところ、治安(ちあん)の行政(ぎやうせい)の行(い)きとゞかざるところには、またそれはそれで一種(しゆ)奇妙(きめう)な便法(べんぱふ)が行(おこな)はれるものだと、微笑(びせう)を禁(きん)じ得(え)ない訳(わけ)である。
路(みち)は三河島(みかはしま)の東端(とうたん)から、なお一層(そう)南(みなみ)へ曲折(きよくせつ)し、常磐線(じやうばんせん)の鉄路(てつろ)を越(こ)え、三(み)の輪(わ)町(まち)へ入(はひ)る。ここは下谷区(したやく)であつて、その北(きた)がいわゆる骨(こつ)即(すなは)ち小塚(こづか)ツ原(ぱら)である。やがて、路(みち)は三(み)の輪(わ)車庫(しやこ)の裏手(うらて)数町(すうちやう)のところで、正東(しやうひがし)へ転(てん)じ直(ぢ)きに浅草区(あさくさく)の文字通(もじどほ)りの最北端(さいほくたん)を通(つう)じてをる。その幾分(いくぶん)下谷(したや)寄(よ)りのところで、花川戸(はなかはど)から千住(せんじゆ)へ通(つう)じてをる陸羽街道(りくうかいだう)を突(つ)つ切(き)るのであるが、その北(きた)、鉄路(てつろ)を越(こ)えたところが、往時(わうじ)の小塚(こづか)ツ原(ぱら)、即(すなは)ち南千住(みなみせんじゆ)であつて、近年(きんねん)までこつの娼楼(しやうろう)が数軒(すうけん)淋(さび)しげに路傍(ろばう)に列(なら)んでゐた。浄瑠璃(じやうるり)などにある小磯(こいそ)ケ原(はら)といふのはこゝであらうと思(おも)ふのだが、線路(せんろ)の下(した)に濡仏(ぬれぼとけ)が見(み)えたことを記憶(きおく)する。今(いま)はそれはどうなつたのであらうか。或(あるひ)はこの辺(へん)少(すこ)し鉄路(てつろ)の模様(もやう)が変(かは)つたのではなからうかと思(おも)ふ。とにかく、上野(うへの)から行(ゆ)くと、鉄路(てつろ)の土手下(どてした)、右手(みぎて)に大(おほ)きい青銅(せいどう)の濡仏(ぬれぼとけ)があつたと思(おも)ふのである。
地図(ちづ)で見(み)ると、このあたりでは環状道路(くわんじやうだうろ)が浅草(あさくさ)の北(きた)の区界(くかい)ぎり/\のところを東(ひがし)へ通(とほ)つている。恐(おそ)らくこの道路(だうろ)の北側(きたがは)は荒川区(あらかはく)になつてをるのではなからうか。地方今戸町(ぢかたいまどまち)から南干住(みなみせんじゆ)へと出(で)る路(みち)は大昔(おほむかし)は隅田川(すみだがは)添(ぞ)ひの沢地(さはち)であつたと見(み)え、ところどころ沼(ぬま)のやうなものが見(み)えて、じめ/\した如何(いか)にも場末(ばすゑ)らしい見(み)すぼらしい地域(ちゐき)であつたのだが、今(いま)はなか/\潔(きよ)げな物静(ものしづ)かな街路(がいろ)になつてをる。文明(ぶんめい)の恩沢(おんたく)といふべきところであらう。
吾妻橋(あづまばし)から以北(いほく)、千住大橋(せんじゆおほはし)までは、吾々(われ/\)の知(し)つてゐる時代(じだい)は勿論(もちろん)、幕政時代(ばくせいじだい)にも橋(はし)は一(ひと)つもなかつたやうである。ところが『南向茶話(なんかうさわ)』を見(み)ると、左(さ)の通(とほ)りの記述(きじゆつ)がある。
『橋場辺(はしばへん)の義(ぎ)、此地(このち)の古老物語(こらうものがた)りにいにしへこゝに橋(はし)有候(ありさふらふ)故(ゆゑ)、橋場(はしば)と号(がう)しけると云(いふ)、その儀(ぎ)尋候(たづねさふらふ)所(ところ)に、只今(たゞいま)隅田川(すみだがは)渡(わた)し舟(ぶね)有之候(これありさふらふ)所(ところ)より川上壱町程に古の橋杭残り、折(をり)ふし往来(ゆきき)の船筏(ふねいかだ)にかゝり候(さふらふ)由(よし)なり』
橋場(はしば)の渡(わた)しは近年(きんねん)は寺島(てらじま)の渡(わた)しと呼(よ)ばれてゐたのである。この記述(きじゆつ)によるとすれば、現今(げんこん)の白鬚橋(しらひげばし)附近(ふきん)(或(あるひ)はその少(すこ)し下流(かりう)か)に往時(わうじ)──寛延(くわんえん)よりずつと以前(いぜん)──橋(はし)があつたものと見(み)なければならぬことになるのである。
路(みち)は、その白鬚橋(しらひげばし)を渡(わた)つて、向島区(むかうじまく)へ入(はひ)る。即(すなは)ち、この頃(ころ)まで、向島(むかうじま)の寺島村(てらじまむら)、隅田村(すみだむら)と唱(とな)へ来(きた)つた地区(ちく)である。路線(ろせん)は白鬚神社(しらひげじんじや)のところから、斜(なゝめ)に東南(とうなん)へと向(むか)ひ百花園(ひやくくわゑん)を右(みぎ)にし、玉(たま)ノ井(ゐ)を左(ひだり)にして、昔(むかし)の吾嬬村(あづまむら)の方(はう)へと向(むか)つてをる。また『南向茶話(なんかうさわ)』を引(ひ)くが往時(わうじ)の本所(ほんじよ)は現今(げんこん)の地区(ちく)よりはかなり北(きた)までをいつたものらしい。
八
その『南向茶話(なんかうさわ)』の一節(せつ)には、本所(ほんじよ)は本庄(ほんじやう)といふのが古(ふる)い名(な)であつて、今(いま)の信越線(しんゑつせん)の熊谷(くまがひ)の先(さ)きに本庄(ほんじやう)といふ地名(ちめい)があるので、同名(どうめい)を嫌(きら)つて、元禄年中(げんろくねんちう)本所(ほんじよ)と改(あらた)めたとある。梅若(うめわか)の事跡(じせき)については、猿楽伝(さるがくでん)といふ謡(うたひ)の由来(ゆらい)及(およ)び謡(うたひ)の家元(いへもと)四太夫(しだいふ)の家伝(かでん)を記(しる)した書物(しよもつ)には、家康(いへやす)の関東(くわんとう)入国後(にふごくご)、武蔵(むさし)の国(くに)を謡(うた)つたものが余(あま)り少(すくな)いので、命(めい)じて梅若(うめわか)事跡(じせき)の隅田川(すみだがは)の謡(うたひ)を作(つく)らせた。その頃(ころ)、夫婦(ふうふ)の非人(ひにん)があつて、梅若(うめわか)の有様(ありさま)を物真似(ものまね)して歩(ある)いたといふのだから、余(あま)りさう古(ふる)くからの伝説(でんせつ)ではなかりさうである。ある説(せつ)には、事跡(じせき)は上古(じやうこ)円融院(ゑんゆうゐん)の時代(じだい)(凡(およそ)九百五十年前(ねんぜん))の事(こと)だといふのだが『茶話(さわ)』の筆者(ひつしや)は、それよりずつと後(のち)の足利時代(あしかゞじだい)乱世(らんせい)の頃(ころ)のことであらうと思(おも)ふと記(しる)してをる。又(また)、文明(ぶんめい)の頃(ころ)(凡(およそ)四百五十年程(ねんほど)前(まへ))五山僧(ざんさう)横川叟景三(よかはそうけいさん)の詩集(ししふ)にも梅若童子悼(うめわかどうじたう)といふ詩(し)があるから、或(あるひ)はその時代(じだい)のことかも知(し)れぬとある。それから又(また)この土地(とち)に業平天神(なりひらてんじん)その他業平(なりひら)に縁故(えんこ)のあるらしいやうな地名(ちめい)があるのは、伊勢物語(いせものがたり)にある都鳥(みやこどり)の歌(うた)などから、業平(なりひら)を祭(まつ)ることになつたが為(ため)であらうといつてある。それに因(ちな)んで憶(おも)ひ出(だ)すが、荻生徂徠(をぎふそらい)の『南留別志(なるべし)』には、伊勢物語(いせものがたり)は歌(うた)の作例(さくれい)を示(しめ)したものであらうと思(おも)ふ。これを伝記的価値(でんきてきかち)のあるものとするのは誤(あやま)りであらうとあるのだが、これは道理(だうり)ある説(せつ)であらう。
一体(たい)、本所(ほんじよ)の郊外(かうぐわい)寄(よ)りは、小梅(こんめ)といひ、中(なか)ノ郷(がう)といひ、割下水(わりげすゐ)といひ、砂村(すなむら)といひ、縛(しば)られ地蔵(ぢざう)(これは仮作(かさく))、置(お)いてけ堀(ぼり)、狸囃子(たぬきばやし)等(とう)のいはゆる本所(ほんじよ)の七不思議(なゝふしぎ)等(とう)さま/゛\の伝説(でんせつ)に富(と)み、且(かつ)演劇(えんげき)、小説(せうせつ)の場面(ばめん)に使(つか)はれてをる地点(ちてん)を多(おほ)く有(いう)する地区(ちく)である。大都(だいと)の場末(ばすゑ)ではあつたが、それでも交通(かうつう)その他(た)の関係(くわんけい)で、人的交渉(じんてきかうせふ)が多(おほ)かつたので、山手(やまのて)よりは多(おほ)くさま/゛\の物語(ものがたり)のなかに使用(しよう)されるに至(いた)つたのであらうと思(おも)ふ。
環線道路(くわんせんだうろ)は、曳舟川(ひきぶねがは)を越(こ)し、直線的(ちよくせんてき)に進(すゝ)んで、をむらい(小向井(をむらゐ)?)に至(いた)つて、右(みぎ)へ向(む)けて少(すこ)し弧線(こせん)を画(ゑが)き、福神橋(ふくじんばし)で北(きた)十間川(けんがは)を渡(わた)り、房総線(ばうそうせん)の亀戸停車場(かめゐどていしやぢやう)の西側(にしがは)を掠(かす)めて南向(なんかう)してをるのであるが、吾々(われ/\)が往時(わうじ)は郊外(かうぐわい)の果(はて)だぐらゐに思(おも)つてゐたところの押上(おしあげ)、業平(なりひら)、柳島(やなぎしま)、亀戸天神(かめゐどてんじん)などはこの大路線(だいろせん)からいへば、西側(にしがは)、即(すなは)ちずつと内側(うちがは)になつてしまつた。これだけでも、市域(しゐき)の拡大(くわくだい)したことの概念(がいねん)が得(え)られるであらう。
街路(がいろ)は荒川区(あらかはく)の場合(ばあひ)とは違(ちが)ひ、さう新開(しんかい)らしい珍奇(ちんき)な光景(くわうけい)は見(み)られない。勿論(もちろん)、所(ところ)がらさして目立(めだ)つ程(ほど)の活気(くわつき)は見(み)られはせぬが、両側(りやうがは)の小商店(こしやうてん)皆(みな)かなりな落著(おちつき)を見(み)せてゐる。甚(はなは)だしく新(あたら)しい新開(しんかい)の地域(ちゐき)でないためかも知(し)れぬ。福神橋(ふくじんばし)のあたりは天神(てんじん)の直(す)ぐ裏手(うらて)に当(あた)るくらゐなのだから、この辺(へん)などは割合(わりあひ)に早(はや)く開(ひら)けたものと見(み)て宜(よろ)しからうと思(おも)ふ。
北(きた)十間川(けんがは)を越(こ)えると、区(く)は城東区(じやうとうく)になり、町(まち)は亀戸町(かめゐどまち)になる。新市(しんし)はまだこの先(さ)き放水路(はうすゐろ)を越(こ)して、北(きた)から足立区(あだちく)、葛飾区(かつしかく)、その南(みなみ)に江戸川区(えどがはく)と、下総(しもふさ)との国境(くにざかひ)江戸川縁(えどがはべり)にまで広(ひろ)がつてゐるのであるから、もう、尾久(をぐ)、三河島(みかはしま)、向島(むかうじま)、亀戸(かめゐど)あたりを郊外(かうぐわい)の新開(しんかい)のやうに思(おも)ふのは、吾々(われ/\)の全(まつた)く時代(じだい)後(おく)れの考(かんが)へである。
又(また)、西(にし)の方(はう)でいへば、板橋区(いたばしく)、中野区(なかのく)、杉並区(すぎなみく)、世田谷区(せたがやく)、その南(みなみ)で荏原区(えばらく)、大森区(おほもりく)、蒲田区(かまたく)といふ風(ふう)に、神奈川県(かながはけん)との県境(けんざかひ)、六郷川(ろくがうがは)まで延長(えんちやう)してをる、新市(しんし)は全(まつた)くとてつもなく広(ひろ)がつたものである。
さて、環線道路(くわんせんだうろ)は五(ご)ノ橋(はし)で竪川(たてかは)を渡(わた)つて、大島町(おほしまちやう)へ入(はひ)つてから、現今(げんこん)のところ、少(すこ)し未了(みれう)になつてをる。この路線(ろせん)は新市(しんし)からいへば、外廻(そとまは)りの路(みち)ではなく、むしろ中心(ちうしん)に近(ちか)い目黒(めぐろ)、渋谷(しぶや)、淀橋(よどばし)、豊島(としま)、滝野川(たきのがは)、荒川(あらかは)、下谷(したや)、浅草(あさくさ)、向島(むかうじま)、城東区(じやうとうく)の十区(く)を貫通(くわんつう)するに過(す)ぎないのであるが、しかもなおその幅凡(はゞおよそ)十三間(げん)、延長(えんちやう)十里(り)に垂(なんな)んとする大路線(だいろせん)なのだ。
時代に取り残された乗物
川蒸気とガタ馬車
明治(めいぢ)の始(はじ)め頃(ごろ)と云(い)つたところで、僕(ぼく)は十二三年頃(ねんごろ)から此(こ)の方(かた)のことしか知(し)らぬのであるが、僕(ぼく)のさういふ記憶(きおく)のなかにある事柄(ことがら)から云(い)つても、交通(かうつう)の機関(きくわん)は、少(すこ)し遠路(ゑんろ)に渉(わた)るものであるとすると、汽船(きせん)と馬車(ばしや)(乗合(のりあひ))であつたやうだ。
九州(しう)とか、四国(こく)とかいふやうな島内(たうない)の各地(かくち)から本土(ほんど)への交通(かうつう)は、封建時代(ほうけんじだい)に於(おい)てすら、船(ふね)(日本型(にほんがた))によつたのであるから、汽船(きせん)が使用(しよう)されるやうになつて、それらの土地(とち)から京阪(けいはん)とか東京(とうきやう)などへの交通(かうつう)が汽船(きせん)によつて行(おこな)はれるやうになつたことは云(い)ふまでもない事(こと)であらう。
のみならず本土(ほんど)の方(はう)でも、例(たと)へば入海(いりうみ)とか湖水(こすゐ)とかいふやうな広(ひろ)い水(みづ)の上(うへ)では、昔(むかし)も可(か)なり小舟(こぶね)を交通(かうつう)の手段(しゆだん)に用(もち)ひたところがあつたやうであるが、さういふ場所(ばしよ)では、明治(めいぢ)になつてからは間(ま)もなく小汽船(せうきせん)、所謂(いはゆる)川蒸汽(かはじようき)を用(もち)ひるやうになつたらしいのである。
現(げん)に僕(ぼく)は明治(めいぢ)十一年(ねん)の初夏(しよか)(寧(むし)ろ晩春(ばんしゆん)か)琵琶湖(びはこ)をば、小汽船(せうきせん)で、大津(おほつ)から米原(まいばら)まで来(き)たことを記憶(きおく)して居(ゐ)る。船(ふね)が何噸(なんトン)ぐらゐなものであつたのか、時間(じかん)が何(ど)れ程(ほど)掛(かゝ)つたのか、さういふ点(てん)になると、何(ど)うも記憶(きおく)が朧気(おぼろげ)である。それから又(また)、その船(ふね)は彦根(ひこね)の松原(まつばら)あたりから、支湖(しこ)へ入(はひ)つて、直接(ちよくせつ)に米原(まいばら)へ着(つ)いたかどうか、さういふ点(てん)も判然(はんぜん)とは覚(おぼ)えてゐない。けれども、その時分(じぶん)、もう既(すで)に琵琶湖(びはこ)を渡(わた)る定期(ていき)の小蒸汽船(こじやうきせん)のあつたことだけは確(たしか)である。勿論(もちろん)外輪式(ぐわいりんしき)のものであつた。
又(また)、その旅(たび)で、浜名湖(はまなこ)を非常(ひじやう)に小形(こがた)な汽船(きせん)で渡(わた)つたことも記憶(きおく)して居(ゐ)る。これは今(いま)瀬戸内海(せとないかい)で見(み)る島(しま)と島(しま)との間(あひだ)の渡船(とせん)で、石油汽缶(せきゆきくわん)の附(つ)いてゐる極(ご)く小形(こがた)の船(ふね)があるのであるが、浜名湖(はまなこ)の渡船(とせん)も大凡(おほよそ)そんなくらゐの大(おほ)きさのものであつたやうに思(おも)ふ。薪(まき)を焚(た)いて汽鑵(きくわん)の湯(ゆ)を沸(わか)してゐたやうにさへ思(おも)ふのだ。
さういふ風(ふう)に、所謂(いはゆる)川蒸汽(かはじようき)の記憶(きおく)はあり、人力車(じんりきしや)に乗(の)つたことも勿論(もちろん)記憶(きおく)して居(を)るのだが、乗合馬車(のりあひばしや)に乗(の)せられた記憶(きおく)が少(すこ)しもない。これは僕(ぼく)が忘(わす)れてしまつたのではないと思(おも)ふ。自分(じぶん)が乗(の)つた覚(おぼ)えがないばかりでなく、乗合馬車(のりあひばしや)の駈(か)けて居(を)るといふやうなところをさへ見(み)たこともないやうである。
その時分(じぶん)の東海道(とうかいだう)などでは、余(あま)り乗合馬車(のりあひばしや)がなかつたのではあるまいか。駕籠舁(かごかき)から変(かは)つた人力車夫(じんりきしやふ)が多(おほ)かつたので、乗合馬車(のりあひばしや)を通(つう)ずることができなかつたといふやうな理由(りいう)があつたといふ風(ふう)に考(かんが)へられないこともなかりさうである。
しかし、東京(とうきやう)では、交通路(かうつうろ)が大抵(たいてい)陸路(りくろ)なのであるから、乗合馬車(のりあひばしや)はかなりに広(ひろ)く用(もち)ひられたやうである。船(ふね)の交通(かうつう)、即(すなは)ち汽船(きせん)による交通(かうつう)が開(ひら)けた土地(とち)、例(たと)へば東京(とうきやう)と横浜(よこはま)との間(あひだ)の如(ごと)きでも、汽船(きせん)と共(とも)に乗合馬車(のりあひばしや)の交通(かうつう)が開(ひら)けたらしく思(おも)はれる。勿論(もちろん)、これは、汽車(きしや)の開通(かいつう)するまでの事態(じたい)であつたのだ。
両国(りやうごく)から、江戸川(えどがは)へ入(はひ)り、大利根(おほとね)へ出(で)て、銚子(てうし)まで下(くだ)る航路(かうろ)の如(ごと)きは、隅田川(すみだがは)の所謂(いはゆる)一銭蒸汽(せんじようき)よりも早(はや)く開(ひら)けたのではなからうか。とにかく、一銭蒸汽(せんじようき)は鉄道馬車(てつだうばしや)より少(すこ)し後(あと)になつてできたもののやうに記憶(きおく)する。但(たゞ)し、さう云(い)つても、もう明治(めいぢ)二十二年頃(ねんごろ)にはできてゐたやうに思(おも)ふのである。
昔(むかし)から、今日(こんにち)のやうに、客船(きやくせん)の部分(ぶぶん)が曳船(ひきふね)になつて居(を)つたのであるか、どうか、それは僕(ぼく)には何(な)んとも云(い)へない。しかし、曳船式(ひきふねしき)ではなかつたやうには思(おも)ふ。
僕(ぼく)はあの船(ふね)には余(あま)り乗(の)つたことがないので、知(し)つて居(を)ることがまことに少(すくな)いのであるが、鉄道馬車(てつだうばしや)ができてゐても、それは極端(きよくたん)に幹線(かんせん)だけであつたのだから、あの川(かは)をば、例(たと)へば両国(りやうごく)から言問(こととひ)まで、あの汽船(きせん)で横(よこ)ぎるとするならば、鉄道馬車(てつだうばしや)で雷門(かみなりもん)まで行(ゆ)き、それから、竹屋(たけや)まで歩(ある)き、渡船(とせん)で向(むか)うへ渡(わた)るといふのより余程(よほど)足数(あしかず)が少(すくな)くて済(す)んだであらうと思(おも)はれる。費用(ひよう)も同額(どうがく)ではあつたかも知(し)れぬが、川蒸汽(かはじようき)の方(はう)が高(たか)かつたことはなかつたらうと思(おも)ふ。
朝吉原(あさよしはら)を出(で)て、公園(こうゑん)附近(ふきん)で食事(しよくじ)をしてから、向島(むかうじま)の方(はう)へ行(ゆ)く人々(ひと/゛\)に取(と)つては、吾妻橋(あづまばし)からあの汽船(きせん)に依(よ)るのが一番(ばん)便利(べんり)であつたらうとは、想像(さうざう)に難(かた)くない事柄(ことがら)である。
今日(こんにち)まで東京(とうきやう)に永(なが)く住(すま)つて居(ゐ)る人々(ひと/゛\)であつたら、大抵(たいてい)の人々(ひと/゛\)があの汽船(きせん)に就(つい)ては、さま/゛\な記憶(きおく)を持(も)つて居(ゐ)られるであらうと思(おも)はざるを得(え)ない。
斎藤緑雨(さいとうりよくう)の『ひかへ帳(ちやう)』のなかに、次(つぎ)のやうな一項(かう)がある。
『もとより、途中(とちう)の出来心(できごゝろ)なれども、試(こゝろ)みにとその友(とも)に誘(さそ)はれて、いつなりしか壱銭(いつせん)がところをこれに乗(の)りぬ。室内(しつない)に座蒲団(ざぶとん)の配置(はいち)してあるを見(み)て、日本(にほん)も感心(かんしん)に行届(ゆきとゞ)いて来(き)たと、友(とも)は肥太(こえふと)りたる体(からだ)をむずと其(その)上(うへ)にすゑしに、船(ふね)の進行(しんかう)しはじめたる時(とき)、隅(すみ)なる男(をとこ)の手(て)を差出(さしだ)して、蒲団代(ふとんだい)を頂(いたゞ)きます。それはと今更(いまさら)退(の)けもなり難(がた)くて、われとともに三枚(まい)分(ぶん)は、甚(はなは)だ割(わり)の高(たか)きことなりし』
『壱銭(せん)がところ』といふのは無論(むろん)一区分(くぶん)の意味(いみ)であることはいふまでもないであらう。緑雨(りよくう)の此(こ)の友(とも)といふのは、緑雨(りよくう)の竹馬(ちくば)の友(とも)と云(い)つていゝくらゐの上田万年氏(うへだまんねんし)であるらしく思(おも)はれる。
明治(めいぢ)四十二年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふのだが、ある夏(なつ)の午後(ごご)、田中貢太郎(たなかこうたらう)君(くん)と一緒(しよ)に両国(りやうごく)からあの船(ふね)で千住(せんぢゆ)まで行(い)つたことがある。今日(こんにち)の白鬚橋(しらひげばし)あたりかと思(おも)ふのだが(勿論(もちろん)その時分(じぶん)まだ橋(はし)はなかつたと思(おも)ふ)、川(かは)のなかに蘆(あし)の繁(しげ)つてゐるところなどがあり、一帯(たい)に所謂(いはゆる)寂(さび)し味(み)のある景色(けしき)で、其(そ)のあたりが何(な)んとも謂(い)へず心持(こゝろもち)がよかつたことを今日(こんにち)も尚(なほ)忘(わす)れ得(え)ないで居(を)る。
東京(とうきやう)では、乗合馬車(のりあひばしや)は早(はや)くから市内(しない)は勿論(もちろん)、中仙道(なかせんだう)、奥州街道(あうしうかいだう)などへ向(む)けても、開通(かいつう)して居(を)つたといふのだ。雷門(かみなりもん)から新橋(しんばし)まで二階(かい)づきの馬車(ばしや)が通(かよ)つてゐたことがあつたといふ記録(きろく)はあるのだが、明治(めいぢ)十一二年(ねん)頃(ごろ)には、もうそんな馬車(ばしや)は通(とほ)つてはゐなかつた。のみならず、所謂(いはゆる)大通(おほどほ)りを二階(かい)なしの普通(ふつう)の乗合馬車(のりあひばしや)さへ通(とほ)つてゐたことを僕(ぼく)は目撃(もくげき)したことはないやうに思(おも)ふ。
御成道(おなりみち)即(すなは)ち万世橋外(よろづよばしそと)から、伊藤松坂屋(いとうまつざかや)のところまでの路(みち)はその頃(ころ)は極(ご)く狭(せま)い路(みち)であつた。人力車(じんりきしや)が二台(だい)横(よこ)にならぶともう一杯(ぱい)になるであらうとさへ思(おも)はれるくらゐの細(ほそ)い路幅(みちはゞ)であつたので、あのあたりなどは、乗合馬車(のりあひばしや)は到底(たうてい)通(とほ)ることは許(ゆる)されなかつたのであらう。御成道(おなりみち)は特(とく)に狭(せま)い路(みち)であつた。幕政時代(ばくせいじだい)には何(なに)か理由(りいう)があつてあゝいふ風(ふう)に狭(せま)くしてあつた路(みち)であつたかも知(し)れぬ、と思(おも)はれるくらゐのものであつた。
筋違(すじかひ)即(すなは)ち、大凡今(おほよそいま)の万世駅(まんせいえき)のあたりから、神田明神前(かんだみやうじんまへ)、本郷通(ほんがうどほ)り、追分(おひわけ)、白山前(はくさんまへ)などを経(へ)て、板橋(いたばし)へ通(かよ)ふ乗合馬車(のりあひばしや)は明(あき)らかに記憶(きおく)して居(を)る。随分(ずゐぶん)車体(しやたい)は汚(きた)ならしく、馬(うま)は痩(や)せてゐて、一寸(ちよつと)危険(きけん)を感(かん)ぜられるくらゐに見(み)えて、馬(うま)が暴(あば)れ出(だ)して、加賀邸(かがてい)前(まへ)の薪屋(まきや)の外(そと)の高(たか)く積(つ)んだ薪(まき)へ突(つ)き当(あた)つて、薪(たきゞ)の山(やま)が崩(くづ)れたのを見(み)たこともあるし、また病馬(びやうば)であつたがためか、路上(ろじやう)で倒(たふ)れて起(お)き上(あが)らずに、人々(ひと/゛\)がその始末(しまつ)に大騒(おほさわ)ぎして居(を)るのを見(み)たことがある。そんなやうなためもあつたのか、何(ど)うか、とにかく、今(いま)の乗合自動車(のりあひじどうしや)のやうに短距離(たんきより)の客(きやく)は殆(ほとん)どなかつたやうであつた。板橋(いたばし)で乗(の)つた客(きやく)が大抵(たいてい)終点(しうてん)の筋違(すじかひ)まで行(ゆ)くといふ風(ふう)であつたのではあるまいかと思(おも)ふのだ。馭者(ぎよしや)の外(ほか)に別当(べつたう)(馬丁(ばてい))が附(つ)いてゐるやうに思(おも)ふ。その別当(べつたう)が、近頃(ちかごろ)まで豆腐屋(とうふや)の用(もち)ひてゐたと同(おな)じ形(かたち)の喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、通行(つうかう)の人々(ひと/゛\)に注意(ちうい)を与(あた)へるのであつた。乗合馬車(のりあひばしや)は今日(こんにち)でも地方(ちはう)ではまだ残(のこ)つて居(を)るところがある。乗合自動車(のりあひじどうしや)の通(かよ)ふ沼津(ぬまづ)あたりでさへも、一頭立(とうだ)ての乗合馬車(のりあひばしや)が見(み)かけられるのであるが、昔(むかし)の乗合馬車(のあひばしや)はさういふ今日(こんにち)の乗合馬車(のりあひばしや)よりもずつと汚(きたな)いものであつた。
橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)といふ落語家(はなしか)があつて、高座(かうざ)で喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、その別当(べつたう)の真似(まね)をしたので、さういふ早(はや)い時代(じだい)の乗合馬車(のりあひばしや)をば円太郎馬車(ゑんたらうばしや)と呼(よ)ぶやうになつたのだ。こんなことは当時(たうじ)のことを知(し)つて居(を)る吾々(われ/\)に取(と)つては、書(か)くになぞ及(およ)ばない程(ほど)明白(めいはく)なことであると思(おも)ふのだが、今日(こんにち)ではもうこんな事(こと)さへ知(し)らぬ人(ひと)が多(おほ)くなつた。現(げん)に先達(せんだつ)てのこと、ラジオを聴(き)いて居(を)るといふと、何(な)んとかいふ若(わか)い咄家(はなしか)が、円太郎(ゑんたらう)が鉄道馬車(てつだうばしや)の馬丁(ばてい)の真似(まね)をしたと話(はな)してゐた。円太郎馬車(ゑんたらうばしや)といふのは、鉄道馬車(てつだうばしや)よりずつと以前(いぜん)の、ずつと粗造(そざう)の馬車(ばしや)のことを云(い)つたものである。
鉄道馬車(てつだうばしや)は明治(めいぢ)十六七年(ねん)
頃(ごろ)のものであらうかと思(おも)ふのだが、それでも、二十三四年(ねん)頃(ごろ)は、新橋(しんばし)と品川(しながは)の間(あひだ)は、路幅(みちはゞ)の関係(くわんけい)であらうと思(おも)ふが、鉄道馬車(てつだうばしや)でなく、並(なみ)の乗合馬車(のりあひばしや)が通(とほ)つてゐた。けれども、その馬車(ばしや)でも、スプリングの工合(ぐあひ)、座席(ざせき)の固(かた)さなど、鉄道馬車(てつだうばしや)より余程(よほど)粗造(そざう)ではあつたが、円太郎馬車(ゑんたらうばしや)とは比較(ひかく)にならぬ程(ほど)進歩(しんぽ)したものであつた。
円太郎馬車(ゑんたらうばしや)の今(いま)一線(せん)は、花川戸(はなかはど)あたりから宇都宮(うつのみや)へ通(かよ)ふものであつた。僕(ぼく)はこれは見(み)たことはない。明治(めいぢ)十二年(ねん)頃(ごろ)から開通(かいつう)したといふ記録(きろく)があるといふのだ。東京(とうきやう)から日光(につくわう)へ行(ゆ)く人(ひと)など此(こ)の馬車(ばしや)に依(よ)つたものであらうかと思(おも)ふ。
伯爵(はくしやく)金子堅太郎(かねこけんたらう)さんが僕(ぼく)の亡兄(ばうけい)と一緒(しよ)に、日光(につくわう)へ行(い)つて、寺(てら)の座敷(ざしき)を借(か)りて、滞在(たいざい)しやうとしたところが、一遍(ぺん)は承諾(しようだく)して置(お)きながら、あとになつて断(ことわ)るので、詰問(きつもん)の末(すゑ)、寺(てら)から止宿者(ししゆくしや)の届(とゞけ)を警察(けいさつ)へ出(だ)しに行(ゆ)くと、金子(かねこ)さんは福岡県士族(ふくをかけんしぞく)、亡兄(ばうけい)は高知県士族(かうちけんしぞく)といふのであつたので、西南役(せいなんえき)直後(ちよくご)のことであつたので、警察(けいさつ)では眼(め)を円(まる)くして、なるべくは、そんな者(もの)には座敷(ざしき)を貸(か)さぬ方(はう)がよくはないかと、云(い)つたので、和尚(をしやう)は驚(おどろ)いて、断(ことわ)つたといふことが分(わか)つて、亡兄(ばうけい)などは契約法(けいやくはふ)の講義(かうぎ)じみたことまでやつて、和尚(をしやう)を痛(いた)めつけたといふ話(はなし)を、金子(かねこ)さんが笑(わら)つて話(はな)されたことがある。そのときの旅行(りよかう)は、乗合馬車(のりあひばしや)によつたのであつたやうに聞(き)いた気(き)がするのである。
鉄道馬車(てつだうばしや)が柳原(やなぎはら)を浅草橋(あさくさばし)まで通(とほ)るやうになつたのは、万世橋(よろづよばし)、上野(うへの)間(かん)(此(こ)の間(かん)の路幅(みちはゞ)は無論(むろん)拡(ひろ)げられたのだ)が開通(かいつう)してから可(か)なり後(あと)のことであるのだが、その柳原浅草橋(やなぎはらあさくさばし)間(かん)が開通(かいつう)した後(のち)であつたか前(まへ)であつたか、今(いま)その点(てん)が記憶(きおく)不明瞭(ふめいれう)であるが、赤塗(あかぬり)の車体(しやたい)で、馭者台(ぎよしやだい)が殆(ほとん)ど車(くるま)の屋根(やね)位(ぐらゐ)な高(たか)さのところにある乗合馬車(のりあひばしや)が九段下(だんした)から両国(りやうごく)あたりまで通(かよ)つてゐたことがある。明治(めいぢ)二十九年(ねん)頃(ごろ)であつたかと思(おも)ふ。
円太郎馬車(ゑんたらうばしや)にしろ、鉄道馬車(てつだうばしや)にしろ、何(いづ)れも民衆的(みんしうてき)乗物(のりもの)であつて、中等級(ちうとうきふ)の乗物(のりもの)は人力車(じんりきしや)であり、高級乗物(かうきふのりもの)としては、雇馬車(やとひばしや)があつた、つまり、円(ゑん)タク出現(しゆつげん)以前(いぜん)の雇自動車(やとひじどうしや)の格(かく)であつたのだ。さういふ貸馬車(かしばしや)は築地(つきぢ)に一軒(けん)、鎌倉河岸(かまくらがし)に一軒(けん)あつたかと思(おも)ふ。此(こ)の高級乗物(かうきふのりもの)としての貸馬車(かしばしや)は無論(むろん)馭者(ぎよしや)馬丁(ばてい)附(つ)きであつて、大正(たいしやう)になつても使用(しよう)されたのだ。貸自動車(かしじどうしや)の出現(しゆつげん)まではその支配(しはい)を続(つゞ)けた訳(わけ)である。
この貸馬車(かしばしや)には僕(ぼく)は一遍(ぺん)しきや乗(の)つたことはない。亡兄(ばうけい)が死(し)んだのは、明治(めいぢ)二十一年(ねん)であつたのだが、米国(べいこく)で客死(かくし)したので、日本(につぽん)では遺髪(ゐはつ)で葬式(さうしき)をやつたが、骨壷(こつつぼ)に入(い)れ、外箱(そとばこ)に入(い)れたその遺髪(ゐはつ)を僕(ぼく)が抱(かゝ)へて、谷中(やなか)の墓地(ぼち)へ持(も)つて行(ゆ)く時(とき)に、親戚(しんせき)の豊川良平(とよかはりやうへい)が、
『馬場(ばば)はもう少(すこ)し生(い)きて居(を)れば、無論(むろん)自家用(じかよう)の馬車(ばしや)に乗(の)れる男(をとこ)だ。どうだ、せめて遺髪(ゐはつ)でも馬車(ばしや)に乗(の)せて、墓地(ぼち)へ送(おく)らうじやないか』
と云(い)つて貸馬車(かしばしや)を呼(よ)んで、それへ僕等(ぼくら)が乗(の)り、遺髪(ゐはつ)を持(も)つて天王寺墓地(てんわうじぼち)まで行(い)つたのであつた。大分(だいぶ)薄汚(うすよご)れた車(くるま)であつたやうな気(き)がする。円(ゑん)タクでも、今日(こんにち)では、ずつと綺麗(きれい)な車(くるま)がある。その当時(たうじ)では、そんな古(ふる)ぼけた馬車(ばしや)でも、少(すくな)くとも十円(ゑん)ぐらゐは取(と)られたのではなからうかと思ふ。
そんなことを思(おも)ふと、今日(こんにち)の自動車(じどうしや)は安(やす)いものである。時間(じかん)を勘定(かんぢやう)に入(い)れることにすると尚(なほ)一層(そう)安(やす)いものになる。
吾々(われ/\)から見(み)ると、乗物(のりもの)は大変革(だいへんかく)を来(き)たしたのは、自動車(じどうしや)移入(いにふ)以後(いご)であつて、一般(ぱん)にその利沢(りたく)が及(およ)んだのは、このところ精々(せい/゛\)十五年(ねん)此(こ)の方(かた)ぐらゐなものであらうと思(おも)ふ。朝(あさ)、東京(とうきやう)を出(で)て、箱根(はこね)を抜(ぬ)け、富士(ふじ)の五湖(こ)を見(み)、猿橋(さるはし)へ出(で)て、夕方(ゆふがた)東京(とうきやう)まで帰(かへ)りつくといふやうなことができようなどとは、大正(たいしやう)の始(はじ)めに死(し)んだ老人(らうじん)などには思(おも)ひも寄(よ)らないことであつたのだ。
旅行者(りよかうしや)のためには、自動車(じどうしや)の出来(でき)たことは何(なに)よりも喜(よろこ)ばしいことだと思(おも)ふ。
然(しか)し、明治(めいぢ)の交通機関(かうつうきくわん)としては、人力車(じんりきしや)が各(かく)階級(かいきふ)の人々(ひと/゛\)に対(たい)して、重大(ぢふだい)な働(はたら)きをなして居(を)つたことは、此所(ここ)にいふまでもないことで、此(こ)の東洋(とうやう)、否(いな)、日本(にほん)特有(とくいう)の交通機関(かうつうきくわん)には実(じつ)にさま/゛\な事件(じけん)との交渉(かうせふ)があり、聯想(れんさう)があつて、日本(につぽん)近代(きんだい)の交通(かうつう)物語(ものがたり)に於(おい)て、人力車(じんりきしや)の勤(つと)めた役割(やくわり)に言及(げんきふ)しないのは、交通機関(かうつうきくわん)の物語(ものがたり)としては全(まつた)く不備(ふび)な訳(わけ)になるのであるが、これはゆつくり語(かた)ることにして、一旦(たん)此所(ここ)で筆(ふで)を擱(お)くことにする。
人力車のことども
地方(ちはう)の市(まち)などでは、まだそれ程(ほど)古(ふる)めかしい、間(ま)の抜(ぬ)けたもののやうには見(み)えないのだが、東京(とうきやう)の自動車(じどうしや)、バス、電車(でんしや)の往来(わうらい)織(お)るが如(ごと)きなかで見(み)ると、あの古(ふる)ぼけた幌(ほろ)をかけた人力車(じんりきしや)の姿(すがた)は、まるで古(ふる)い/\世(よ)から抜(ぬ)け出(だ)して来(き)た、何(なに)かのすだま(ヽヽヽ)ででもあるかのやうに見(み)えて、怪(あや)しいまでに見(み)すぽらしく哀(あは)れなものに見(み)える。
しかし、明治(めいぢ)になつてからの乗物(のりもの)としては、人力車(じんりきしや)ほど長(なが)い間(あひだ)、交通機関(かうつうきくわん)としての任務(にんむ)を果(は)たしたものはないのだ。東京(とうきやう)だけでは、既往(きわう)少(すくな)くとも四十年(ねん)の勤(つとめ)を了(をは)つてしまつた形(かたち)になつて居(を)るのではあるが、地方(ちはう)ではまだその勤(つとめ)を了(をは)らずに居(ゐ)るところがまだ可(か)なりあるだろうと思(おも)ふ。
人力車(じんりきしや)の発明者(はつめいしや)は実(じつ)に長(なが)い間(あひだ)、まことに多(おほ)くの利沢(りたく)を人(ひと)に与(あた)へたものと云(い)はなければならぬ。
人力車(じんりきしや)は明治(めいぢ)三年(ねん)春(はる)に筑前(ちくぜん)生(うま)れの和泉要助(いづみえうすけ)が発明(はつめい)したといふ記録(きろく)になつて居(を)る。駕籠(かご)は担夫(たんぷ)二人(ふたり)を要(えう)するのみならずこれを舁(か)くに腕力(わんりよく)と熟練(じゆくれん)を要(えう)するといふ点(てん)で、人力車(じんりきしや)より不便(ふべん)であるといふことはいふまでもなかつた。
馬車(ばしや)から思(おも)ひ附(つ)いての発明(はつめい)であつたので、数人(すうにん)乗(の)りのものも試(こゝろ)みられたのであるが、それは第(だい)一に速力(そくりよく)の点(てん)などから実用(じつよう)が広(ひろ)くなく、直(ぢ)きにすたれて、二人(にん)乗(のり)と、一人(ひとり)乗(のり)のみが非常(ひじやう)な勢(いきほ)ひで、弘布(ぐふ)するに至(いた)つたのであつた。
発明(はつめい)の当初(たうしよ)にあつては、非常(ひじやう)な速力(そくりよく)で走(はし)るもののやうに思(おも)はれたのであつた。東北(とうほく)の或(あ)る地方(ちはう)などでは、『今度(こんど)出来(でき)た人力車(じんりきしや)といふものは実(じつ)に驚(おどろ)くべき速力(そくりよく)のものだ。全速力(ぜんそくりよく)で走(はし)るのであつたら、乗(の)つて居(を)る人間(にんげん)の腸(はらわた)がごちや/\になつてしまふほどの速(はや)さになるものだ。それだから乗(の)る者(もの)は生卵(なまたまご)を一(ひと)つ懐(ふところ)に抱(だ)いてゐて、その黄味(きみ)と白味(しろみ)が一緒(しよ)にならない程度(ていど)に走(はし)らせれば、人間(にんげん)の身体(からだ)には異状(いじやう)がないのだ』と、云(い)ふ者(もの)があつたといふ笑話(わらひばなし)が、今日(こんにち)でも古老(こらう)の間(あひだ)には残(のこ)つて居(を)るといふのである。
ところで、その形(かたち)には、二三変革(へんかく)はあつたらしい。最初(さいしよ)は轅(ながえ)即(すなは)ち梶棒(かぢぼう)の突端(とつたん)に横木(よこぎ)はなかつたし、車輪(しやりん)の上(うへ)のところに附(つ)く泥除(どろよけ)もなかつたといふのだが、僕(ぼく)などはさういふ点(てん)に関(くわん)する記憶(きおく)は少(すこ)しもない。或(あるひ)は少年(せうねん)の観察(くわんさつ)は其所(そこ)まではとゞかなかつたか、或(あるひ)は又(また)、明治(めいぢ)十二年(ねん)頃(ごろ)では、もう大体後々(だいたいのち/\)の形(かたち)に治定(ぢぢやう)してゐたのか、何(いづ)れかであつたらう。もう一(ひと)つは、幌(ほろ)の変革(へんかく)であるが、最初(さいしよ)の時分(じぶん)のものの絵(ゑ)を見(み)ると、幌(ほろ)が屋根(やね)のやうに上(うへ)だけのものになつて居(を)るのだが、僕(ぼく)などの知(し)つた時分(じぶん)には大凡後(おほよそあと)の形(かたち)になつて居(を)つたやうに思(おも)ふ。
始(はじ)めのうち、雨除(あめよ)けにだけ幌(ほろ)を使(つか)つて、日除(ひよ)けには使(つか)つてくれなかつたと思(おも)ふ。吾々(われ/\)は蝙蝠傘(かうもりがさ)をさして乗(の)つてゐたことを記憶(きおく)する。だから冬(ふゆ)の寒風(かんぷう)のなかでも、雨(あめ)か雪(ゆき)でない限(かぎ)りは、吹(ふ)き晒(さら)しで乗(の)つて居(を)る訳(わけ)であつたので、年始(ねんし)廻(まは)りの時(とき)など、一時間(じかん)近(ちか)くも、車上(しやじやう)に居(を)ると全(まつた)くふるへ上(あが)つてしまふ程(ほど)寒(さむ)かつた。冬(ふゆ)の寒風(かんぷう)を防(ふせ)ぐために、一般(ぱん)に車体(しやたい)を全部(ぜんぶ)包(つゝ)むやうになつたのは、恐(おそ)らく大正(たいしやう)になつてからではなかつたかと思(おも)ふ。
車輪(しやりん)を護謨輪(ゴムわ)にするとか、梶棒(かぢぼう)の横木(よこぎ)のところへ呼鈴(よびりん)を附(つ)けるやうになつたのは明治(めいぢ)四十年(ねん)頃(ごろ)であつたと云(い)つて宜(よろ)しからう。但(たゞ)し、大阪(おほさか)あたりでは、音(おと)がしないのは、威勢(ゐせい)が悪(わる)いといふので、わざと車輪(しやりん)がリン/\音(おと)がするやうにしてゐたといふことを聞(き)いたことがある。
護謨輪(ゴムわ)も場末(ばすゑ)の車宿(くるまやど)などでは、容易(ようい)に採用(さいよう)しかねたやうであつた。夏目漱石(なつめそうせき)さんが『出入(でい)りの車宿(くるまやど)へ護謨輪(ゴムわ)の車(くるま)を持(も)つて来(こ)いといふと、鉄輪(てつわ)の車(くるま)を護謨輪(ゴムわ)だと云(い)つて持(も)つて来(く)る。唯(た)だ梶棒(かぢぼう)へ呼鈴(よびりん)が附(つ)いて居(を)るだけなのだ』と云(い)つて、笑(わら)つて話(はな)したことがある。夏目(なつめ)さんが早稲田南町(わせだみなみちやう)へ引越(ひきこ)されてからのことであつた。
膝掛(ひざかけ)にも多少(たせう)の変革(へんかく)はあつたと思(おも)ふ。吾々(われ/\)の乗(の)る辻待(つじまち)の車(くるま)などは、長(なが)い間(あひだ)、毛布(まうふ)か、さなくとも、ぼた/\と厚(あつ)い不意気(ぶいき)な毛織物(けおりもの)であつた。大阪(おほさか)では、車(くるま)の蹴込(けこみ)の両脇(りやうわき)に曲(まが)つた真鍮(しんちう)の棒(ぼう)が取(と)りつけてあつて、それへ屋号(やがう)か何(なに)かを染(そ)め抜(ぬ)いた暖簾(のれん)のやうな布(きれ)を引(ひ)き廻(まは)すのであつた。膝掛(ひざかけ)は用(もち)ひなかつたと思(おも)ふ。
提燈(ちやうちん)の形(かたち)なども、幾(いく)つかの変遷(へんせん)があつたのであらうと思(おも)ふ。後(のち)に至(いた)つては、吉原(よしはら)通(がよ)いの車(くるま)とか、花柳界(くわりうかい)の車(くるま)は、細(ほそ)い縦(たて)に長(なが)い弓張(ゆみは)り提燈(ぢやうちん)を用(もち)ひ、屋敷方(やしきがた)の抱車(かゝへぐるま)や、宿車(やどぐるま)の方(はう)はもう少(すこ)し短(みじか)い箱提燈形(はこぢやうちんがた)の弓張(ゆみは)りを用(もち)ひたやうに思(おも)ふ。元(もと)よりこれらは車夫(しやふ)が梶棒(かぢぼう)に添(そ)へて、手(て)に持(も)つのであつたが、地方(ちはう)によつては、提燈(ちやうちん)を車(くるま)へ取(と)りつけてあつたところもあつたのである。
僕(ぼく)は明治(めいぢ)二十四年(ねん)の暮(くれ)から、二年(ねん)