馬場孤蝶著
 明治の東京
      中央公論社版




古き東京を思ひ出て

  一

 もうそろ/\『東京新繁昌記(とうきやうしんはんじやうき)』といふやうなものが出(で)て来(く)るころになつた。吾々(われ/\)はさういふものによつて、前(まへ)の東京(とうきやう)を大分(だいぶ)憶(おも)ひだしたが、思(おも)へば東京(とうきやう)──震災前(しんさいまへ)の東京(とうきやう)──は随分(ずゐぶん)変(かは)つてゐた。いや、それは東京(とうきやう)ばかりではなく、京都(きやうと)、大阪(おほさか)のやうな大都市(だいとし)は勿論(もちろん)のこと、少(すこ)し大(おほ)きい地方市(ちはうし)ならば、この二十年(ねん)この方(かた)だけの変化(へんくわ)でも、実(じつ)に非常(ひじやう)なものであらうと思ふ。現(げん)に名古屋(なごや)の街衢(がいく)の今(いま)の変(かは)り方(かた)などは、その著(いちじ)るしい一例(れい)であることは疑(うたが)ひがなからう。
 これまでの大部分(だいぶぶん)の都市(とし)は、町(まち)と村(むら)との混合(こんがふ)の形(かたち)であつた。昔(むかし)の東京(とうきやう)の如(ごと)きは、市(し)のなかに山(やま)があり、森(もり)あり、畑(はたけ)があり、田(た)さへあつたくらゐである。多(おほ)くの地方市(ちはうし)も東京(とうきやう)ほどの程度(ていど)ではないにしても、何処(どこ)も余程(よほど)さういふ風(ふう)なところがあつて、町(まち)と村(むら)との境界(きやうかい)を何(ど)の辺(へん)で附(つ)けていゝか分(わか)らぬといふやうな趣(おもむ)きはあつたらうと思(おも)はれる。昔(むかし)のやうに、世人(せじん)の生計(せいけい)が楽(らく)であつた時代(じだい)と違(ちが)ひ、誰(だれ)でもがさま/゛\の度合(どあひ)に於(おい)て、外(そと)へ出(で)て働(はたら)かなければならなかつたので、都市(とし)では誰(だれ)もが、出入(でい)りに便利(べんり)な部分(ぶぶん)に住(すま)ふことを欲(ほつ)するやうになり、市内(しない)の住宅(ぢうたく)の数(かず)は見(み)る/\増加(ぞうか)し、空地(あきち)が次第(しだい)になくなつて行(ゆ)くといふ有(あり)さまであつたのだ。東京(とうきやう)などでは、大邸宅(だいていたく)──大庭園(だいていゑん)──を持(も)つといふことが非常(ひじやう)な不経済(ふけいざい)であり、不便(ふべん)なことになつてしまつたので、それ等(ら)の大(おほ)きい屋敷(やしき)が売物(うりもの)に出(で)て、小宅地(せうたくち)に分割(ぶんかつ)されるのが多(おほ)いのだから、空地(あきち)は今後(こんご)ますま/\少(すくな)くなつて行(ゆ)くであらう。
 僕等(ぼくら)が少年(せうねん)の時分(じぶん)には、まだ旧江戸(きうえど)の面影(おもかげ)だらうと思(おも)はるゝやうなものが大分残(だいぶのこ)つてゐた。一例(れい)を挙(あ)げれば、今(いま)の中央大学(ちうあうだいがく)の前(まへ)は法学院(はふがくゐん)、その前(まへ)はイギリス法律学校(はふりつがくかう)、その又前(またまへ)が明治義塾(めいぢぎじゆく)、その前身(ぜんしん)が三菱商業学校(みつびししやうげふがくかう)であつたのだが、明治義塾時代(めいぢぎじゆくじだい)までの校舎(かうしや)は、昔(むかし)の侍屋敷(さむらひやしき)のまゝの建物(たてもの)であつた。いづれ何(なん)千石(ごく)といふやうないはゆる布衣以上(ほいいじやう)の旗本(はたもと)か、それとも、も少(すこ)し大(おほ)きい小名(せうみやう)かの邸宅(ていたく)であつたのであらう、大(おほ)きな式台(しきだい)で、内(うち)には書院(しよゐん)らしい部屋(へや)もあるといふ、日本建(にほんだ)ての家(いへ)としては可(か)なり広々(ひろ/゛\)とした建物(たてもの)であつた。当時(たうじ)はさういふ前代(ぜんだい)からの遺物(ゐぶつ)である建物(たてもの)が錦町(にしきちやう)、神保町(じんばうちやう)、猿楽町(さるがくちやう)、今川小路(いまがはこうぢ)へかけて、幾(いく)つも見(み)られ得(え)たらうと思(おも)ふ。
 今日(こんにち)も神田(かんだ)の西部(せいぶ)は学校町(がくかうまち)である。だが、その時代(じだい)はより多(おほ)く学校町(がくかうまち)であつた。学習院(がくしふゐん)のあつたのは、いまの商科大学(しやうくわだいがく)の前(まへ)あたりで、帝国大学(ていこくだいがく)の予備門(よびもん)も、法学部(はふがくぶ)も、理学部(りがくぶ)も、その南手(みなみて)にあつたのだらうと思(おも)ふ。唯(たゞ)医学部(いがくぶ)と病院(びやうゐん)は今(いま)の帝国大学(ていこくだいがく)のある本郷(ほんがう)の旧加賀侯邸(きうかがこうてい)にあつたのだ。従(したが)つて、神田(かんだ)のあのあたりは、本屋町(ほんやまち)といつてよかつた。勿論(もちろん)、新本(しんぽん)のさう出版(しゆつぱん)せられる時代(じだい)ではなかつたので、大抵(たいてい)古本屋(ふるほんや)であつた。これはそれより少(すこ)し後(のち)になつてのことだが、駿河台下(するがだいした)の停留所(ていりうじよ)の西手(にして)の横町(よこちやう)あたりから俎橋(まないたばし)へ抜(ぬ)けるひどく狭(せま)い町(まち)が殆(ほとん)ど軒(のき)ごとに古本屋(ふるほんや)であつたことを記憶(きおく)してゐる人(ひと)は幾(いく)らもあるであらう。此(こ)の狭(せま)い横町(よこちやう)が南(みなみ)の方(はう)を取(と)り拡(ひろ)げられて、今(いま)の電車通(でんしやどほ)りになつたことは、こゝにいふまでもなからう。駿河台下(するがだいした)からお茶水橋(ちやのみづばし)へ向(むか)ふ今(いま)の電車通(でんしやどほ)りも小川町寄(をがはまちよ)りのところは、電車開通(でんしやかいつう)のためにできた新道(しんだう)だと思(おも)ふ。昔(むかし)の路(みち)はあの坂道(さかみち)の下(お)り口(くち)の西手(にして)の小(ちひ)さい横町(よこちやう)を通(とほ)るやうになつてゐたのだ。
 谷崎精二氏(たにざきせいじし)の前記(ぜんき)『東京新繁昌記(とうきやうしんはんじやうき)』中(ちう)の神田(かんだ)の部(ぶ)には、神保町辺(じんばうちやうへん)の火事(くわじ)のことが書(か)いてあつたと思(おも)ふのだが、あの辺(へん)が震災前(しんさいぜん)に焼(や)けたのは、明治(めいぢ)四十二三年(ねん)ごろであつたらうと思(おも)ふ。何(な)んでも、春(はる)であつたかと思(おも)ふのだが、三崎町(みさきちやう)あたりから出(で)た火(ひ)で、可(か)なり広(ひろ)い地域(ちゐき)へ焼(や)け広(ひろ)がつた。あの辺(へん)は二十五六年(ねん)ごろに大火(たいくわ)に逢(あ)ひ、その後(ご)ももう一回(くわい)焼(や)けたことがあるやうに記憶(きおく)する。さういふ風(ふう)で神保町(じんばうちやう)から錦町(にしきちやう)へかけての古(ふる)い建物(たてもの)は、或(あるひ)は焼(や)け、或(あるひ)は改築(かいちく)されて、あの辺(へん)は震災前(しんさいまへ)に既(すで)に新市街(しんしがい)になつてしまつてゐたのだ。
 坪内逍遙大人(つぼうちせうえうたいじん)の『書生気質(しよせいかたぎ)』には淡路町(あはぢちやう)あたりの横町(よこちやう)で、学生(がくせい)が矢場(やば)(楊弓場(やうきうぢやう))女(をんな)に引張(ひつぱ)られるところがある。なるほど、今(いま)の宝亭(たからてい)の横町(よこちやう)にそんな家(うち)が二三軒(げん)あつた。それは明治(めいぢ)十五六年(ねん)ごろのことである。
 淡路町(あはぢちやう)にあつた共立学校(きようりつがくかう)は、今(いま)の開成中学(かいせいちうがく)の前身(ぜんしん)であるが、高橋是清(たかはしこれきよ)、鈴木知雄氏(すゞきともをし)等(ら)の創立(さうりつ)した英語学校(えいごがくかう)で、大学予備門(だいがくよびもん)、商業中学(しやうげふちうがく)等(とう)の入学準備(にふがくじゆんび)の学校(がくかう)であつた。今(いま)五六十代(だい)の人(ひと)でそこに学(まな)んだ人々(ひと/゛\)は大分多(だいぶおほ)からうと思(おも)ふ。田島錦治氏(たじまきんぢし)の顔(かほ)はよく覚(おぼ)えてゐる。僕(ぼく)と同級(どうきふ)にゐたのは平田禿木(ひらたとくぼく)、桑木厳翼(くはきげんよく)、滝精一(たきせいいち)、立作太郎(たちさくたらう)の諸氏(しよし)であつた。島崎藤村君(しまざきとうそんくん)もあの学校(がくかう)にゐたことがあるといふ。明治(めいぢ)二十年(ねん)ごろの試験成績表(しけんせいせきへう)のなかでは、中村利彦(なかむらとしひこ)(福島(ふくしま))といふ名(な)を見出(みいだ)すであらう。これは堺利彦君(さかひとしひこくん)の前名(ぜんみやう)で、福島(ふくしま)は福岡(ふくをか)の誤(あやま)りである。
 今(いま)の万世橋(まんせいばし)が昔(むかし)の昌平橋(しやうへいばし)であり、それと今(いま)の昌平橋(しやうへいばし)との間(あひだ)に石造(せきざう)の、下(した)が水路(すゐろ)を通(とほ)すために、円形(ゑんけい)に二ケ所開(しよあ)いてをる橋(はし)があり、それを俗(ぞく)に眼鏡橋(めがねばし)といつて、それが昔(むかし)の万世橋(よろづよばし)であつたのだ。だから、昔(むかし)の上野(うへの)への本道(ほんだう)はその橋(はし)を渡(わた)り、川(かは)に沿(そ)うて右折(うせつ)し、直(す)ぐ左折(させつ)し、又直(またぢき)に右折(うせつ)して、いはゆる御成道(おなりみち)になつてゐた。鉄道馬車(てつだうばしや)の道(みち)もさういふ風(ふう)になつてゐたのであつた。御成道(おなりみち)は将軍(しやうぐん)が上野(うへの)へ参詣(さんけい)の通路(つうろ)に当(あた)つてをつたのだらうが鉄道馬車(てつだうばしや)の通(とほ)りだすまでは、実(じつ)に狭(せま)い街(まち)であつた。あの街(まち)は後(あと)では古(ふる)い絵双紙(ゑざうし)や、絵本(ゑほん)を売(う)る店(みせ)が何軒(なんげん)もできてゐたのだが、昔(むかし)はあすこで眼(め)に立(た)つたのは、鎧(よろひ)や古馬具(こばぐ)や、槍(やり)、刀(かたな)といふやうな古武器(こぶき)を売(う)る店(みせ)であつた。弓矢(ゆみや)を売(う)る店(みせ)も一軒(けん)黒門町(くろもんちやう)あたりにあつたことを記憶(きおく)する。

   二

 古(ふる)い絵双紙(ゑざうし)には、上野公園(うへのこうゑん)の入口(いりぐち)のあの広場(ひろば)に、風車(かざぐるま)のあるのがかいてあるだらうと思(おも)ふのだが、勿論(もちろん)明治(めいぢ)になつてできたものであらう。これは、鉄道馬車(てつだうばしや)ができた時分(じぶん)にはまだあつたかと思(おも)ふ。その時分(じぶん)には無論(むろん)三橋(みはし)はあつた。この方(はう)は極(ごく)近(ちか)ごろまであつたと思(おも)ふ。切通(きりどほ)し下(した)から広小路(ひろこうぢ)へ出(で)る今(いま)の電車道(でんしやみち)は近年(きんねん)になつて開(ひら)けた道(みち)で、あすこは板倉侯(いたくらこう)の邸(やしき)であつた。その裏手(うらて)の近(ちか)ごろまで吹抜(ふきぬき)といふ寄席(よせ)のあつた通(とほ)り──南北(なんぼく)の通(とほ)りは昔(むかし)からあつた。吹抜(ふきぬき)の筋向(すぢむか)うあたりの西側(にしがは)の路次(ろじ)やうなところを入(はひ)つたあたりに、大弓場(だいきうば)があり、それから南(みなみ)の方(はう)の横町(よこちやう)に借馬屋(かしうまや)があり、狭(せま)く短(みじか)いものながら、馬場(ばば)もあつて、そこで馬(うま)が乗(の)れるやうになつてゐた。それは、十六七年(ねん)から二十年(ねん)ごろへかけてのころのことではあるが、それにしても、あの辺(へん)でさへ、そんな空地(あきち)があつたのだから、その時分(じぶん)の東京生活(とうきやうせいくわつ)には余(よ)ほどの余裕(よゆう)があつたことが推知(すゐち)できるであらう。
 不忍池(しのばずのいけ)の縁(ふち)が埋立(うめた)てられて競馬場(けいばぢやう)になつたのは何時(いつ)ごろであつたらうか、今明(いまあきら)かには記憶(きおく)しないが、明治(めいぢ)十八年(ねん)ごろにはもう馬場(ばば)はできてゐた。そのまへはその廻(まは)りは草(くさ)の生(は)え茂(しげ)つた極狭(ごくせま)い路(みち)で、池(いけ)の周囲(まはり)がもの寂(さ)びてゐて、如何(いか)にも風情(ふぜい)があつた。その時分(じぶん)にはさういふ池(いけ)にくつゝいた草径(くさみち)と茅町(かやちやう)の池(いけ)へ面(めん)した道路(だうろ)との間(あひだ)には、もう一筋(ひとすぢ)溝川(みぞがは)が流(なが)れてをり、それに月見橋(つきみばし)だの、雪見橋(ゆきみばし)だのといふ土橋(どばし)がかゝつてゐた。さういふ溝川(みぞがは)と土橋(どばし)は近年(きんねん)まで遺(のこ)つてゐたが、何時(いつ)かの博覧会(はくらんくわい)の時(とき)か何(なに)かに埋(う)められてしまつた。
 森鴎外大人(もりおうぐわいたいじん)の『雁(がん)』といふ小説(せうせつ)には、本郷(ほんがう)の龍岡町(たつをかちやう)から岩崎邸(いわさきてい)の裏手(うらて)を通(とほ)つて池(いけ)の方(はう)へと下(お)りて行(い)く無縁坂(むえんざか)あたりのことが書(か)いてあるので、ひどく興(きよう)を覚(おぼ)えたことがある。
 大学(だいがく)の東端(とうたん)と丘続(をかつゞ)きになつてゐる茅町(かやちやう)の西側(にしがは)に、忍(しのぶ)ケ岡(をか)小学校(せうがくかう)といふのがあつたが、床次竹二郎氏(とこなみたけじらうし)の出身校(しゆつしんかう)である。 根津(ねづ)にあつた遊廓(いうくわく)が今(いま)の洲崎(すさき)へ移(うつ)された年代(ねんだい)を今(いま)記憶(きおく)しないが、明治(めいぢ)十七年(ねん)ごろまではあすこに娼楼(しやうろう)が一廓(くわく)をなしてゐたと思(おも)ふ。藍染橋(あゐそめばし)までは引手茶屋(ひきてぢやや)であつたらしく、花暖簾(はなのれん)などが風(かぜ)に翻(ひるがへ)るのを見(み)たことがある。橋(はし)から先(さ)きが娼楼(しやうろう)の区域(くゐき)で、権現(ごんげん)の方(はう)へ曲(まが)つてゐる八重垣町(やへがきちやう)の方(はう)に大楼(たいろう)があつたのではなからうかと思(おも)ふ。とにかく大八幡(おほやはた)の跡(あと)といふのが、温泉(をんせん)になり、旗亭(きてい)になり、後(のち)には病院(びやうゐん)になつて極(ご)く近(ちか)ごろまで遺(のこ)つてゐたが、それは庭(には)なども見事(みごと)になか/\の大建物(おほたてもの)であつた。
 今(いま)では、根津(ねづ)の大通(おほどほ)りは動坂(どうざか)の方(はう)へと突(つ)き抜(ぬ)けてをるのだが、昔(むかし)はあの道(みち)は直(ぢ)きに突(つ)き当(あた)りになつてゐた。その突(つ)き当(あた)りになつてゐたところと、団子坂(だんござか)から谷中(やなか)へと通(つう)じてゐる路(みち)との間(あひだ)は、池(いけ)などのある邸(やしき)のやうなものになつてゐたやうだ。或(あるひ)は田(た)などもあつたかも知(し)れぬ。谷中(やなか)の坂(さか)への上(あが)り口(くち)の右手(みぎて)の方(はう)は田(た)になつてゐたのだから。
 団子坂(だんござか)が改修(かいしう)されて長(なが)い坂路(さかみち)になつたのは、七八年前(ねんまへ)かと思ふのだから、あの坂(さか)のへんに曲(まが)つて下(くだ)りになつてゐたのを、薮蕎麦(やぶそば)と菊人形(きくにんぎやう)と共(とも)に記憶(きおく)してゐる人(ひと)は多(おほ)いであらう。そして、あの辺(へん)の路(みち)が今(いま)よりもずつと狭(せま)かつたことはいふまでもあるまい。
 菊人形(きくにんぎやう)といへば、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)のことをいはなければならなくなるのだが、それは上野駅(うへのえき)の北端(ほくたん)あたりの右方(うはう)をば、狭(せま)いさま/゛\に折(を)れ曲(まが)つた小道(こみち)へと入(はひ)つて行(い)くのであつた。両側(りやうがは)は竹垣(たけがき)やら生籬(いけがき)やらで仕切(しき)つた植木屋(うゑきや)で、門(もん)を入(はひ)ると、葦簾(よしず)で高(たか)く上(うへ)の方(はう)を日蓋(ひおひ)をして、その下(した)へ板(いた)で花壇(くわだん)をこしらへてそれへ鉢入(はちい)りの朝顔(あさがほ)を列(なら)べてあつた。朝顔(あさがほ)は土鉢(どばち)に植(う)ゑてあるのだが、それをば、陶(せと)の鉢(はち)のなかへ入(い)れ子(こ)にしてあるのであつた。客(きやく)は薄暗(うすくら)い中(なか)で、花(はな)の色(いろ)の気(き)に入(い)つたのを選(えら)んで買(か)ひ取(と)つて、自分(じぶん)で持(も)つて帰(かへ)るなり、配達(はいたつ)を命(めい)ずるなりするのであつた。七八月(ぐわつ)ごろの、天気(てんき)のいい朝(あさ)は、入谷(いりや)の狭(せま)い路(みち)をさういふ客(きやく)が、花見(はなみ)か縁日(えんにち)かのやうに、ぞろ/\歩(ある)いてゐたのであつた。なにしろ、朝(あさ)四時(じ)か五時(じ)に起(お)きて、不忍(しのばず)の蓮(はす)を見(み)がてら、入谷(いりや)へ朝顔(あさがほ)だけを見(み)に行(い)くといふのだから、随分呑(ずゐぶんの)ん気(き)な訳(わけ)のものであつた。その入谷(いりや)を東(ひがし)へ抜(ぬ)けきると、その先(さ)きは、いはゞ漠々(ばく/\)たる水田(すゐでん)といつていゝくらゐで、蓮池(はすいけ)や稲田(いなだ)が青々(あを/\)と続(つゞ)いて、それを隔(へだ)てゝ右寄(みぎよ)りには浅草寺(せんさうじ)の塔(たふ)や堂(だう)の屋根(やね)が見(み)え、正面(しやうめん)には、吉原(よしはら)の娼楼(しやうろう)の洋館(やうくわん)まがひの塔(たふ)や円蓋(ドーム)のやうな屋根(やね)の一●(タケカンムリ+「族」)(ぞく)が見(み)える。全(まつた)くいゝ気分(きぶん)の眺(なが)めであつた。無理(むり)のきくものなら、今日(こんにち)までもあのままに遺(のこ)して置(お)きたい場所(ばしよ)であつた。
 朝帰(あさがへ)りの客(きやく)、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)から帰(かへ)る客(きやく)は、よく根岸(ねぎし)の笹(さゝ)の雪(ゆき)へ寄(よ)つて、絹漉(きぬご)し豆腐(どうふ)へ葛餡(くずあん)をかけたのを菜(さい)にして、酒(さけ)を飲(の)んだり、飯(めし)を食(く)つたりした。その時分(じぶん)は、笹(さゝ)の雪(ゆき)はこのあん掛(か)け豆腐(とうふ)専門(せんもん)の家(うち)であつたが、入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)がなくなると共(とも)に、料理屋(れうりや)になり、今(いま)ではあの辺(あたり)には芸妓屋(げいしやや)ができるまでになつてしまつた。
 入谷(いりや)の朝顔(あさがほ)は明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろまでは確(たし)かにあつたと思(おも)ふのだが、菊人形(きくにんぎやう)の方(はう)は場所(ばしよ)は変(かは)つても今日(こんにち)まで遺(のこ)つてをるけれども、朝顔見物(あさがほけんぶつ)の方(はう)は余(あま)りに呑(の)ん気(き)なことなので、何時(いつ)の間(ま)にかなくなつて、朝顔(あさがほ)は縁日(えんにち)の草花屋(くさばなや)が売(う)つてゐるくらゐなものになつてしまつた。
『たけくらべ』の場面(ばめん)に取(と)られてゐる大音寺前(だいおんじまへ)──坂本通(さかもとどほ)りの三島神社(みしまじんじや)の角(かど)を曲(まが)つて吉原(よしはら)の裏手(うらて)へと行(い)く路(みち)──なども、寺(てら)などの生籬(いけがき)が道(みち)に沿(そ)うてゐて淋(さび)しい処(ところ)であつて、浪人(らうにん)が廓(くるわ)通(がよ)ひの客(きやく)を脅(おびや)かしたといふ昔話(むかしばなし)も憶(おも)ひ出(だ)せるやうな場所(ばしよ)であつた。
 昔(むかし)の東京(とうきやう)は震災(しんさい)までにもう大部分(だいぶぶん)滅(ほろぼ)されてゐた。そこへ持(も)つて来(き)て、あの大震災(だいしんさい)であつた。沿革(えんかく)も風情(ふぜい)もあつたものではない。なにもかも骨灰(こつぱひ)になつてしまつたのだ。ついこのごろの新聞(しんぶん)には日本堤(にほんづゝみ)を削(けづ)り取(と)ることになつたとあつた。もう別(べつ)に風情(ふぜい)のある場所(ばしよ)ではなくなつたのだから、便利(べんり)のための変革(へんかく)はむしろ歓迎(くわんげい)すべきであらう。

  三

 龍岡町(たつをかちやう)の南端(なんたん)、牛肉屋(ぎうにくや)豊国(とよくに)の前(まへ)に当(あた)る、大学(だいがく)の長屋(ながや)の角(かど)の大(おほ)きい槻(けやき)の柱(はしら)に刀(かたな)でさんざんに切(き)り込(こ)んだあとが遺(のこ)つてゐた。俗(ぞく)には、それを化物柱(ばけものばしら)だといひ、それが夜(よ)なかには化物(ばけもの)に見(み)えるので、通(とほ)りがゝりの侍(さむらひ)が引(ひ)き抜(ぬ)いて切(き)りつけるので、あんな痕(あと)が遺(のこ)つてをるのだといひ伝(つた)へてゐた。しかし、あれは、酔(よ)つた侍(さむらひ)などが大諸侯(だいしよこう)に対(たい)する反抗心(はんかうしん)などもあり、要(えう)するに、悪戯心(いたづらごゝろ)から、すつぱ抜(ぬ)いて切(き)りつけたにすぎないものであらう。
 あれから南(みなみ)への左側(ひだりがは)、今(いま)本郷区役所(ほんがうくやくしよ)になつてをるところまでは、麟祥院(りんしやうゐん)の枳●(「轂」の「車」の代りに「米」)垣(からたちがき)であつた。その垣根(かきね)のために麟祥院(りんしやうゐん)を俗(ぞく)にからたち寺(でら)といつてゐた。この寺(てら)は春日(かすが)の局(つぼね)の菩提所(ぼだいしよ)なんださうだが、昔(むかし)は、切通(きりどほ)しの通(とほり)へもつと境内(けいだい)が出(で)てゐたのだ。明治(めいぢ)二十四五年(ねん)ごろに道(みち)を拡(ひろ)げるために、寺(てら)の地面(ぢめん)を切(き)り取(と)つたので、寺(てら)の塀際(へいぎは)にあつた榎(えのき)とか樫(かし)などのやうな巨幹(きよかん)の老樹(らうじゆ)が路傍(みちばた)に遺(のこ)つて、その蔭(かげ)に町家(ちやうか)が建(た)つた。大(おほ)きな根張(ねは)りの木(き)の下小暗(したをぐら)きまでに茂(しげ)つた樹(き)の蔭(かげ)に、鮨屋(すしや)などの暖簾(のれん)が見(み)えるといふやうなのは、なか/\面白(おもしろ)い風情(ふぜい)であつたのだが、さういふ老樹(らうじゆ)も何時(いつ)の間(ま)にか伐(き)り倒(たふ)されて、道(みち)は今(いま)のやうな有(あ)りふれた電車路(でんしやみち)になつてしまつた。
『夕(ゆふ)じほの切(き)り通(どほ)し坂(ざか)をわれ行(ゆ)けばあらゝ/\と車(くるま)飛(と)ぶなり。これは近(ちか)きころできたるばかな会(くわい)といへるの詠草(えいさう)なりとぞ』
 そんなやうな意味(いみ)のことを、斎藤緑雨(さいとうりよくう)が随筆(ずゐひつ)のなかへ書(か)いたのは、明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろなのだから、まだ老樹(らうじゆ)が路端(みちばた)にあつた時分(じぶん)のことである。今(いま)は、吉原(よしはら)通(がよ)ひも電車(でんしや)か、自動車(じどうしや)になつてしまつたので、朦朧車夫(もうろうしやふ)の駈(か)けながら出(だ)す『あらよ』の掛(か)け声(ごゑ)も聞(き)かれなくなつたであらう。
 本郷(ほんがう)三丁目(ちやうめ)から切(き)り通(どほ)しへ向(むか)ふ街(まち)は北側(きたがは)は昔(むかし)は俚俗(りぞく)盲長屋(めくらながや)といつた本富士町(もとふじまち)であり、南側(みなみがは)は春木町(はるきちやう)であるが、その春木町(はるきちやう)は、二三度(ど)焼(や)けたと思(おも)ふ。中央会堂(ちうあうくわいだう)の焼(や)け残(のこ)りの煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)のところへ、夜半(やはん)の月(つき)がかゝつてゐるのを、廃墟(はいきよ)の月(つき)といふやうな気(き)がして、風情(ふぜい)ある眺(なが)めだと見(み)て過(す)ぎたことを覚(おぼ)えてゐる。明治(めいぢ)十五六年(ねん)ごろには、中央会堂(ちうあうくわいだう)の横手(よこて)の横町(よこちやう)を入(はひ)つたところに大弓場(だいきうば)があつて、そこでは後(のち)に一(ひと)つ橋(ばし)の高商(かうしやう)の弓(ゆみ)の教師(けうし)になつた窪田藤信(くぼたふぢのぶ)(当時(たうじ)は金作(きんさく))氏(し)などゝ落(お)ち合(あ)つたことを記憶(きおく)する。その大弓場(だいきうば)の主(あるじ)の高木清吉(たかぎせいきち)といふのはそのあと下谷区西町(したやくにしちやう)へ移(うつ)つて、射場(いば)を開(ひら)いてゐて、明治(めいぢ)二十一二年(ねん)ごろ、そこで画家(ぐわか)村田丹陵氏(むらたたんりようし)や、今(いま)、日本銀行(につぽんぎんかう)の理事(りじ)をしてゐる河田敬三氏(かはだけいざうし)などと一二度(ど)一緒(しよ)に弓(ゆみ)を射(い)たことがあつた。何(なに)しろ、大弓場(だいきうば)といへば家(いへ)ともに長(なが)さ十七八間(けん)に幅(はゞ)二間(けん)ぐらゐは要(えう)したのであつて、当時(たうじ)では、それだけの地面(ぢめん)をば、そんな場末(ばすゑ)でない部分(ぶぶん)において、大弓場(だいきうば)といふやうな収入(しうにふ)の少(すくな)い商売(しやうばい)に使(つか)つたのであるから、その時代(じだい)の一般(いつぱん)の経済状態(けいざいじやうたい)も大抵(たいてい)推定(すゐてい)できるであらう。
 本郷座(ほんがうざ)は春木座(はるきざ)といつた。僕(ぼく)などはどうも今(いま)でもツイ昔(むかし)の名(な)をいつていかぬ。もう七八年(ねん)ほど前(まへ)、ある席(せき)でツイ春木座(はるきざ)といつてしまふと、座(ざ)にゐた下谷(したや)の老妓(らうぎ)にこれは嬉(うれ)しいといつてひどくほめられた。その春木座(はるきざ)も震災(しんさい)までに二度(ど)ぐらゐは焼(や)けたらうかと思(おも)ふ。昔(むかし)は大劇場(だいげきぢやう)のうちに入(はひ)つてゐたらしいのだが、中(なか)ごろ衰(おとろ)へてゐて、大阪(おほさか)から明治(めいぢ)十六七年(ねん)ごろ鳥熊(とりくま)といふ興行師(こうぎやうし)が芝鶴(しかく)、鯉之丞(こひのじよう)などといふ役者(やくしや)の一座(ざ)を連(つ)れて来(き)て大入場(おほいりば)を広(ひろ)くし、弁当(べんたう)をひどく安(やす)くし、その上(うへ)に、雨天(うてん)の日(ひ)など、客(きやく)が帰(かへ)るまでに、客(きやく)の穿(は)き物(もの)を洗(あら)つて置(お)くといふやうな新興行法(しんこうぎやうはふ)でもつて、ひどい当(あた)りを取(と)つた。この興行法(こうぎやうはふ)は東京(とうきやう)の大劇場(だいげきぢやう)へまで影響(えいきやう)を及(およ)ぼして、それ以後(いご)は何処(どこ)でも大入場(おほいりば)を取(と)り拡(ひろ)げたやうであつた。
 明治(めいぢ)十二三年(ねん)ごろは大学(だいがく)の構内(こうない)には、医科(いくわ)即(すなは)ち当時(たうじ)は医学部(いがくぶ)といつてゐたのがあつたばかりで、此(こ)の旧加賀邸(きうかがてい)の赤門寄(あかもんよ)りの方(はう)は、茫々(ばう/\)たる薄原(すゝきはら)で、その草(くさ)の間(あひだ)に、昔(むかし)の井戸(ゐど)の跡(あと)なのであらうが、黒(くろ)く塗(ぬ)つた木(き)を框(わく)にして、危険(きけん)除(よ)けの目印(めじるし)にしてあるのが幾(いく)つとなく見(み)えるのが、ひどく寂(さび)しく感(かん)ぜられた。門(もん)をはひつて右手(みぎて)寄(よ)りには、椿(つばき)の一杯(ぱい)生(は)えた円形(ゑんけい)の小山(こやま)があつて、冬(ふゆ)になると、よく鳩(はと)がかしはの腹(はら)を木(こ)の間(ま)から見(み)せた。其所(そこ)は、加賀騒動(かがさうどう)のなかの浅尾(あさを)といふ悪女中(あくぢよちう)を蛇責(へびぜめ)にして埋(う)めたところだといふ俗伝(ぞくでん)があつた。けれども、それは古墳(こふん)の跡(あと)らしかつた。十七八年(ねん)ごろ発掘(はつくつ)したが、石垣(いしがき)のやうなものがあつたのみで、別(べつ)に何(なに)も出(で)て来(こ)なかつた。どうもその昔(むかし)一度(ど)発掘(はつくつ)したことがあるらしいといふ鑑定(かんてい)であつたとか聞(き)いた。
 その時分(じぶん)には、その草原(くさはら)には狐(きつね)が大分(だいぶ)ゐた。夕方(ゆふがた)など、尾(を)を長(なが)く引(ひ)いた褐色(かつしよく)の小犬(こいぬ)ぐらゐの獣(けもの)が、後(あと)を見返(みかへ)り見返(みかへ)り草(くさ)のなかへのろ/\と逃(に)げ込(こ)んで行(い)くのをよく見(み)かけたものだ。雪(ゆき)の降(ふ)る前(まへ)の夜(よ)など、ギヤア──ギヤアといふ厭(いや)な不吉(ふきつ)なやうな声(こゑ)を聞(き)いた。狐(きつね)はコン/\と鳴(な)くとは聞(き)いてゐたのだが僕(ぼく)の聞(き)いた狐(きつね)の声(こゑ)は何時(いつ)もそのギヤア──ギヤアばかりであつた。ツイこのごろ読(よ)んだある書(しよ)には雄狐(をぎつね)はコンコンと鳴(な)き、雌狐(めぎつね)はギヤア──ギヤアと鳴(な)くと書(か)いてあつた。それが本当(ほんたう)ならば僕(ぼく)は雌狐(めぎつね)の声(こゑ)ばかり聞(き)いたわけになるのだが、何(ど)んなものであらうか。
 永井荷風君(ながゐかふうくん)の小説(せうせつ)のなかに、君(きみ)のお住居(すまひ)で狐狩(きつねがり)をするところがあつたと思(おも)ふ。確(たし)かそのお邸(やしき)は小石川水道町(こいしかはすゐだうちやう)であつたらうと思(おも)ふ。昔(むかし)は少(すこ)し広(ひろ)い邸(やしき)などには狐(きつね)などが何処(どこ)にもゐたらしいのだ。今(いま)は郊外(かうぐわい)でさへ実際(じつさい)狐(きつね)のゐるお稲荷(いなり)さんはめつたにないであらう。
 大学構内(だいがくこうない)には池寄(いけより)の方(はう)に雑木(ざふき)や薮(やぶ)などのある小(ちひ)さい小山(こやま)があつた。上(のぼ)り路(みち)が迂回(うくわい)してついてゐるので、栄螺山(さゞえやま)と呼(よ)ばれてゐた。その頂(いたゞき)からは、小石川(こいしかは)の砲兵工廠(はうへいこうしやう)の裏手(うらて)あたりは勿論(もちろん)のこと、神田(かんだ)、日本橋(にほんばし)へかけての下町(したまち)が、随分(ずゐぶん)遠(とほ)くまで見渡(みわた)せるのであつたが、その時分(じぶん)には、下町(したまち)の方面(はうめん)でも東神田(ひがしかんだ)から、浜町辺(はまちやうへん)へかけては、樹木(じゆもく)のあるところが余(よ)ほど多(おほ)かつた。家(いへ)の屋根(やね)と、さういふ樹木(じゆもく)が錯綜(さくそう)してゐるところが実(じつ)に心持(こゝろもち)のいゝ眺(なが)めであつた。
 震災前(しんさいぜん)までは、浜町(はまちやう)あたりにはまだ大(おほ)きい庭(には)のある邸(やしき)が遺(のこ)つてゐた。俗(ぞく)に細川邸(ほそかはてい)といつてゐた大川端(おほかはばた)の長岡護美(ながをかもりよし)子爵(ししやく)の塀際(へいぎは)の樫(かし)の樹(き)のことは荷風君(かふうくん)も何(なに)かで書(か)いておいでなんだが、あの外(ほか)にも、よほど高(たか)い築山(つきやま)が青々(あを/\)と塀(へい)の上(うへ)から見(み)えてゐる邸(やしき)が水天宮(すゐてんぐう)の裏手(うらて)あたりにあつた。箱崎(はこざき)の上州侯(じやうしうこう)の邸(やしき)も庭(には)が幾分(いくぶん)は遺(のこ)つてゐたらうと思(おも)ふ。そんなのが皆(みな)、諸所(しよしよ)にあつた緑樹(りよくじゆ)とともにあの業火(ごふくわ)のために無慙(むざん)に一掃(さう)されてしまつたのだから、返(かへ)らぬこととは知(し)りながら、如何(いか)にも惜(を)しいといふ一言(ひとこと)は口(くち)から洩(も)らさずにはゐられない。
 筆(ふで)はこゝで一転(てん)するわけになるが、僕(ぼく)の少年時分(せうねんじぶん)には、大学(だいがく)の赤門前(あかもんまへ)などは、まるで田舎(ゐなか)であつた。確(たしか)に兼安(かねやす)までは江戸(えど)のうちで、それから先(さ)きは何(ど)うしても宿場(しゆくば)といはなければならなかつた。縄暖簾(なはのれん)の居酒屋(ゐざかや)あり、車大工(くるまだいく)の店(みせ)あり、小宿屋(こやどや)ありといふ風(ふう)で、その前(まへ)をば、汚(きたな)さを極(きは)めた幌(ほろ)かけの危(あや)ふげな車体(しやたい)をば痩(や)せ馬(うま)に輓(ひ)かせたいはゆる円太郎馬車(ゑんたらうばしや)がガラツ駈(か)けを追(お)つて通(とほ)るのだから、今(いま)の大抵(たいてい)の田舎町(ゐなかまち)よりもなほ田舎(ゐなか)びてゐるくらゐであつた。
 西片町(にしかたまち)の台(だい)──そこも茶畑(ちやばたけ)であつた──から眺(なが)めると、白山下(はくさんした)のところはずつと水田(すゐでん)であつて、畦間(けいかん)のはしばみなどの雑木(ざふき)のひよろ/\と立(た)つてゐる景色(けしき)が、夕方(ゆふがた)などは何(なん)ともいへずもの淋(さび)しく見(み)えた。それらの田(た)の埋立(うめた)てられた跡(あと)が、今(いま)の指(さす)ケ谷町(やちやう)の芸者町(げいしやまち)から南(みなみ)へかけての街区(がいく)である。


 変りゆく東京

  一

 誰(だれ)でも、春(はる)よりは秋(あき)の方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝと思(おも)ふであらうが、私共(わたしども)は近来(きんらい)、殊(こと)に、秋(あき)の方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝやうに思(おも)はれ出(だ)した。 誰(だれ)に聞(き)いて見(み)ても、東京(とうきやう)の春(はる)が近頃(ちかごろ)は寒(さむ)くなつた様(やう)にいふ。此(こ)の頃(ごろ)では私共(わたしども)は春(はる)、袷(あはせ)を着(き)る間(あひだ)がひどく短(みじか)くなつた様(やう)に、思(おも)ふのであるが、それは残念(ざんねん)ながら、年(とし)のせゐかとも思(おも)ふけれども、どうもそれ許(ばか)りではない様(やう)にも思(おも)はれる。私共(わたしども)は、五月(ぐわつ)位(ぐらゐ)までは、どうしても綿入(わたいれ)で居(ゐ)る。で、袷(あはせ)とシヤツと袷羽織(あはせばおり)になつたかと思(おも)ふと、殆(ほとん)ど一(ひと)つ飛(と)びに単衣(ひとへ)になつてしまふ様(やう)な気(き)がする。あまり品(ひん)のいゝものではないが、素袷(すあはせ)で居(ゐ)るといふのは、一寸(ちよつと)心持(こゝろもち)のいゝものだ。近頃(ちかごろ)では、私共(わたしども)は、決(けつ)して素袷(すあはせ)では居(ゐ)られない。町(まち)を歩(ある)いてみても、一般(ぱん)に、素袷(すあはせ)で居(ゐ)る人(ひと)を余(あま)り見(み)かけない様(やう)な気(き)がする。
 一(ひと)つは風俗(ふうぞく)の変化(へんか)でもあるのだらう。即(すなは)ち誰(だれ)でも服装(ふくさう)をちやんと整(とゝの)へるといふ風(ふう)になつてゐるので、素袷(すあはせ)で飛(と)び出(だ)すといふ様(やう)な人(ひと)が余(あま)り無(な)くなつたのであらうが、然(しか)し一方(ぱう)では、気候(きこう)の工合(ぐあひ)が近来(きんらい)違(ちが)つて来(き)たのが一(ひと)つの原因(げんいん)であらうと思(おも)はれる。
 さうして見(み)ると、私共(わたしども)の様(やう)な冬(ふゆ)の嫌(きら)ひな寒(さむ)がりになると、春(はる)がそれほど有難(ありがた)くない訳(わけ)になる。却(かへ)つて、夏(なつ)の暑(あつ)さから逃(のが)れて秋(あき)に入(はひ)つて行(い)く方(はう)が心持(こゝろもち)がいゝ。
 自然(しぜん)の景色(けしき)などは、秋(あき)になると、グツと落著(おちつ)いて、如何(いか)にも冴(さ)えた静(しづ)かな心持(こゝろもち)を人(ひと)に印象(いんしやう)する事(こと)は今更(いまさら)いふまでもないが、今頃(いまごろ)になると、東京近所(とうきやうきんじよ)の川筋(かはすぢ)の景色(けしき)が何時(いつ)も思(おも)ひ出(だ)される。其処(そこ)の景色(けしき)を特徴(とくちよう)づけるものはあの白(しろ)いすゝきである。川(かは)の堤(どて)や、洲(す)に茂(しげ)つているすゝきの白(しろ)い穂(ほ)と、枯(か)れた茎(くき)や葉(は)の取合(とりあは)せがひどくいゝ心持(こゝろもち)に思(おも)はれる。場所(ばしよ)をあげれば、千住(じゆ)の大橋(おほはし)の上(かみ)あたり、六郷(がう)の川下(かはしも)などの景色(けしき)がそれである。陽(ひ)のよく照(て)る日(ひ)に、川(かは)の堤(どて)に立(た)つて見(み)て居(ゐ)ると、そのすゝきの間(あひだ)から、和船(わせん)の帆(ほ)が静(しづ)かにゆる/\と出(で)て来(く)るのなどは、如何(いか)にも我々(われ/\)のハ─トに、深(ふか)く根(ね)ざして居(ゐ)る心持(こゝろもち)よい景色(けしき)であると思(おも)ふ。

  二

 東京(とうきやう)では此(こ)の頃(ごろ)は一帯(たい)に空地(あきち)が尠(すくな)くなつてゐる。二十年(ねん)も前(まへ)までは、牛込(うしごめ)、小石川(こいしかは)などでも、商業中心(しやうげふちうしん)になつてゐる部分(ぶぶん)を少(すこ)し離(はな)れると、一寸(ちよつと)した家(いへ)には、七八坪(つぼ)の庭(には)は附(つ)いてゐたものであるが、今(いま)は余程(よほど)場末(ばすゑ)にでも寄(よ)らなければ、庭(には)と言(い)ふべき様(やう)な空地(あきち)のついてゐる家(いへ)は余(あま)りない様(やう)である。
 しかし、東京(とうきやう)の空地(あきち)が少(すくな)くなり、木立(こだち)なども段々(だん/\)無(な)くなつて行(い)つた訳(わけ)であるが、何(なに)しろ、幾(いく)つもの村落(そんらく)、幾(いく)つもの小(ちひ)さい町(まち)が、互(たがひ)に発展(はつてん)し合(あ)つて連(つらな)りあつた東京(とうきやう)の事(こと)であるから、全般的(ぜんぱんてき)に言(い)へば、未(ま)だ中々空地(なか/\あきち)はある。
 私(わたし)の知人(ちじん)で知名(ちめい)のある文学者(ぶんがくしや)は、二三代(だい)からの所謂(いはゆる)江戸(えど)つ子(こ)であるのだが、その人(ひと)が嘗(か)つて京都(きやうと)の高等学校(かうとうがくかう)へ勤(つと)める事(こと)になつて一年(ねん)ほど行(い)つて居(ゐ)た。
 で、ある年(とし)の暮(くれ)に東京(とうきやう)へ帰(かへ)つて来(き)て、正月(しやうぐわつ)になつて私(わたし)と一緒(しよ)に電車(でんしや)に乗(の)つて、牛込(うしごめ)の田町(たまち)辺(あた)りから、お茶(ちや)の水(みづ)まで行(い)つた。その間(あひだ)もしきりに窓(まど)から外(そと)の景色(けしき)を眺(なが)めて居(ゐ)たが、お茶(ちや)の水(みづ)で降(お)りて、橋(はし)を渡(わた)りかけると、その友人(いうじん)は、微笑(びせう)を含(ふく)んだ低(ひく)い声(こゑ)で、
『東京(とうきやう)の景色(けしき)は雄大(ゆうだい)だねえ。』と言(い)つた。で、私(わたし)も笑(わら)ひ出(だ)して、
『西洋(せいやう)まで行(い)つた君(きみ)が東京(とうきやう)の景色(けしき)を雄大(ゆうだい)だなんていふやうぢや、よく/\京都(きやうと)には閉口(へいこう)した様(やう)だね。』と答(こた)へた事(こと)がある。
 確(たしか)に東京(とうきやう)の景色(けしき)は雄大(ゆうだい)だ。私(わたし)は今(いま)市(いち)ケ谷(や)の本村町(ほんむらちやう)に居(ゐ)るが、市(いち)ケ谷(や)の外濠(そとぼり)の景色(けしき)は私(わたし)にとつては何時(いつ)も心持(こゝろもち)がいゝ。市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)、新見附(しんみつけ)などから見(み)ると、今頃(いまごろ)は高台(たかだい)や濠内(ほりうち)の樹(き)の色(いろ)などが、黄色(きいろ)に色(いろ)づいてゐて、如何(いか)にも秋(あき)らしい落著(おちつ)いた眺(なが)めである。
 勿論(もちろん)、人工的(じんこうてき)の景色(けしき)には相違(さうゐ)ないが、始(はじ)めは人(ひと)の手(て)で樹(き)を植(う)ゑ、堤(どて)を築(きづ)き、濠(ほり)を掘(ほ)つたのであつても、それを自然(しぜん)の懐(ふところ)に任(まか)せて少(すこ)し長(なが)く放(はふ)つておけば、自然(しぜん)はこれを取(と)り上(あ)げて何等(なんら)かの景色(けしき)にして呉(く)れるのだ。
 東京(とうきやう)の町(まち)へ殆(ほとん)ど禁錮(きんこ)されてゐる様(やう)な我々(われ/\)にとつては、さういふやうな自然(しぜん)の景色(けしき)の中(なか)でも、自由(じいう)にさ迷(まよ)ふことが何(なん)十分(ぷん)か出来(でき)る場合(ばあひ)には非常(ひじやう)な慰籍(ゐしや)になると思(おも)ふ。
 私(わたし)は一体(たい)ブラ/\歩(ある)くことが好(す)きなのだから、時々用達(とき/゛\ようたし)の帰(かへ)りに、神田(かんだ)から九段(くだん)を上(のぼ)り、市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)へ出(で)て帰(かへ)る事(こと)がある。その節(せつ)もある若(わか)い人(ひと)と一緒(しよ)に、市(いち)ケ谷(や)見附(みつけ)へ出(で)て来(き)て、濠端(ほりばた)の樹(き)の景色(けしき)などを心持(こゝろもち)よく眺(なが)め、それから、家(いへ)の近(ちか)くまで来(く)ると、ふと、家(いへ)の廻(まは)りを大変(たいへん)心持(こゝろもち)のいい処(ところ)だと思(おも)つた。
 尤(もつと)も、その日(ひ)は前(まへ)から雨(あめ)が降(ふ)つて居(ゐ)たが、その朝(あさ)から雨(あめ)が上(あが)つて、段々天気(だん/\てんき)は持(も)ちなほして来(き)て、稍々(やゝ)晴(は)れかゝつてゐる午後(ごゞ)の二時過(じす)ぎ、といふ頃(ころ)であつたので、急(きふ)にそんな感(かん)じがしたのであらうかと思(おも)ふ。

  三

 東京(とうきやう)の町(まち)は、何処(どこ)でも大抵(たいてい)市区改正(しくかいせい)で広(ひろ)くなつて居(ゐ)るので、昔(むかし)の町(まち)の形(かたち)が残(のこ)つて居(ゐ)る処(ところ)は、まことに尠(すくな)いのであるが、それでもまだ秋(あき)には時々(とき/゛\)昔(むかし)ながらの町(まち)へふと足(あし)を踏(ふ)み込(こ)む事(こと)がある。
 処(ところ)で、さういふ町(まち)は非常(ひじやう)に狭(せま)い様(やう)に思(おも)ふ。さういふ町(まち)を目(め)ざして行(い)く場合(ばあひ)は、余程(よほど)気(き)をつけて居(ゐ)ないと、ついその曲(まが)り角(かど)を通(とほ)り越(こ)して了(しま)ふ事(こと)もある位(くらゐ)である。
 さういふ町(まち)の代表的(だいへうてき)なものを、今(いま)一(ひと)つ挙(あ)げて見(み)ると、本郷(ほんがう)の松屋(まつや)の横(よこ)から台町(だいまち)へ出(で)る横町(よこちやう)であるが、あの横町(よこちやう)は、突(つ)き当(あた)つて、左(ひだり)へ少(すこ)し曲(まが)つて、それから台町(だいまち)の方(はう)へ真直(まつすぐ)に行(い)く様(やう)になつて居(ゐ)る。あの横町(よこちやう)などは或(あるひ)は明治(めいぢ)になつて出来(でき)た横町(よこちやう)かも知(し)れないが、私共(わたしども)にとつては、もう四十年(ねん)ほどの馴染(なじみ)の横町(よこちやう)である。然(しか)し住(す)んでゐる人(ひと)の様子(やうす)は、ずつと昔(むかし)より生活程度(せいくわつていど)が何(な)んとなく高(たか)くなつて居(ゐ)る様(やう)に思(おも)はれる。
 勿論(もちろん)、私共(わたしども)の子供(こども)の時分(じぶん)に比較(ひかく)すると、家(いへ)も、建(た)て変(かは)つたのが、大分(だいぶ)ある様(やう)ではあるが、それにしても、其処(そこ)へ入(はひ)る私(わたし)の胸(むね)に昔(むかし)の記憶(きおく)を喚(よ)び起(おこ)す丈(だけ)の雰囲気(ふんゐき)は残(のこ)つてゐる様(やう)な気(き)はする。
 けれ共(ども)、今(いま)いふ通(とほ)り何処(どこ)も彼処(かしこ)も変(かは)つて了(しま)つた事(こと)は確(たしか)である。あれが本郷通(ほんがうどほり)の五丁目(ちやうめ)だと覚(おぼ)えてゐるが、大学(だいがく)の赤門前(あかもんまへ)を一寸(ちよつと)入(はひ)つた処(ところ)に、俚俗附木店(りぞくつけぎだな)といふのがある。それは昔(むかし)組屋敷(くみやしき)であつたといふのだが、久米正雄君(くめまさをくん)の家(いへ)は今(いま)其処(そこ)にある。久米君(くめくん)の家(いへ)は昔(むかし)からの家(いへ)である。久米君(くめくん)の叔父(をぢ)さんに助三郎(すけさぶらう)といふ人(ひと)があつて、私(わたし)と竹馬(ちくば)の友(とも)なので時々(とき/゛\)会(あ)ふ事(こと)はあるんだが、今年(ことし)の春(はる)であつたか、助三郎君(すけさぶらうくん)は正雄君(まさをくん)の家(いへ)へ訪(たづ)ねて行(い)つた事(こと)がある。が、あの辺(へん)も昔(むかし)は何(ど)の家(いへ)も大抵(たいてい)は垣(かき)で囲(かこ)まれて居(ゐ)て、玄関(げんくわん)と門(もん)との間(あひだ)に、空地(あきち)があつたのであるが、今(いま)は何(ど)の家(うち)も、殆(ほとん)ど直(す)ぐ家(いへ)の入口(いりくち)になつて居(ゐ)る。助三郎君(すけさぶらうくん)と、「如何(どう)も此(こ)の道(みち)が我々(われ/\)の子供(こども)の時分(じぶん)から見(み)ると、大分(だいぶ)狭(せま)くなつた様(やう)に思(おも)はれるのだが、実際(じつさい)は外(ほか)の町(まち)が広(ひろ)くなつたので、其処(そこ)を殊(こと)に狭(せま)い様(やう)に覚(おぼ)えるのであらう」と言(い)つて笑(わら)つた事(こと)がある。

  四

 私(わたし)は勿論(もちろん)江戸(えど)つ子(こ)ではない。生(うま)れは地方(ちはう)であつて、東京(とうきやう)へ出(で)て来(き)たのは十歳(さい)の時(とき)である。だから江戸(えど)とか東京(とうきやう)の旧(ふる)い事(こと)などは直接(ちよくせつ)余(あま)り知(し)らない。けれども伝聞(でんぶん)した事(こと)は可成(かなり)あるので、時偶(ときたま)には、そんな事(こと)を書(か)きもする。それが為(ため)でもあらうが、時々江戸趣味(ときどきえどしゆみ)とはどんなものかと若(わか)い人々(ひと/゛\)から聞(き)かれる事(こと)がある。
 私(わたし)は、所謂(いはゆる)江戸趣味(えどしゆみ)などは、次第(しだい)に亡(ほろ)び行(ゆ)くであらうと答(こた)へるより他(ほか)は無(な)い。前(まへ)に言(い)つた通(とほ)り、昔(むかし)は、狭(せま)い町(まち)で、人通(ひとどほ)りもあまりなく、如何(いか)にも、ゆつたりした気分(きぶん)で住(す)み得(え)られたのであるが、今(いま)は、そんな処(ところ)でも、電車(でんしや)の音(おと)の聞(きこ)えない処(ところ)は滅多(めつた)にない。外(そと)へ出(で)ればゆつくり歩(ある)いては居(ゐ)られないのだから、人(ひと)と押(お)し合(あ)ひをして、電車(でんしや)に乗(の)らなければならない。さうすると、どうしても、人々(ひと/゛\)の気分(きぶん)が変(かは)つて来(く)ると思(おも)ふ。それから、家(うち)で使(つか)ふ種々(いろ/\)な器物(きぶつ)の工合(ぐあひ)でも、非常(ひじやう)に変(かは)つて来(き)て居(ゐ)る。最(もつと)も著(いちじる)しいのは、瀬戸物(せともの)の模様(もやう)である。純日本式(じゆんにほんしき)の模様(もやう)の瀬戸物(せともの)を買(か)ふには、よほど選択(せんたく)しなければならない程(ほど)である。
 してみると、江戸趣味(えどしゆみ)で行(い)かうといふには、その人(ひと)が、毎日(まいにち)外(そと)に勤(つとめ)に出(で)る必要(ひつえう)もなく、又(また)買物(かひもの)でも値(ね)に構(かま)はず、気(き)に入(い)つたものを買(か)ふといふ事(こと)の出来(でき)る位地(ゐち)に居(ゐ)なければならないので、一言(ごん)にしてこれを言(い)へば、江戸趣味(えどしゆみ)はひどく贅沢(ぜいたく)なものになつて行(い)くのである。さうすると、何(ど)うしても一般人(ぱんじん)はやらうと思(おも)つてもやれない事(こと)になるのだから、勢(いきほ)ひ、さういふ趣味(しゆみ)は人(ひと)の心(こゝろ)から段々(だん/\)無(な)くなつて行(い)くものと言(い)はなければならない。
 言葉(ことば)なども随分(ずゐぶん)変(かは)つて来(き)て居(ゐ)ると思(おも)ふ。昔(むかし)の様(やう)にひどく遠廻(とほまは)しな言(い)い方(かた)などは、今(いま)の人(ひと)にはまだるつこい事(こと)にならうと思(おも)ふ。敬語(けいご)の数(かず)なども昔(むかし)より段々(だん/\)少(すくな)くなつて行(ゆ)く事(こと)であらう。我々(われ/\)の生活(せいくわつ)が我々(われ/\)の心理状態(しんりじやうたい)に種々(しゆ/゛\)の変化(へんくわ)を及(およ)ぼし、これが為(ため)に又(また)言葉(ことば)にも変化(へんくわ)を及(およ)ぼし、又(また)変化(へんくわ)を受(う)けた言葉(ことば)は却(かへ)つて我々(われ/\)の少(すくな)くとも気分(きぶん)を変(か)へてゆくといふ風(ふう)で、さういふ変化(へんくわ)は相作用(あひさよう)して、段々我々(だん/\われ/\)の思想(しさう)までも変(かは)つて行(ゆ)く事(こと)となるであらう。凡(すべ)てのもの、凡(すべ)ての事(こと)に亙(わた)つて、それが変化(へんくわ)してゆく事(こと)はどうも止(や)むを得(え)ない。只(たゞ)我々(われ/\)はよき方(はう)へ変化(へんくわ)して行(ゆ)く事(こと)を望(のぞ)むだけである。一時(じ)は悪(わる)い方(はう)へ進(すゝ)む様(やう)に見(み)えても、結局(けつきよく)に於(おい)てよき事(こと)に達(たつ)するのであつたらう、その途中(とちう)の不便不快(ふべんふくわい)は忍(しの)ばねばならぬ。


変り行く東京語

  一

 出版物(しゆつぱんぶつ)の多(おほ)くなつて来(き)たことと、それ等(ら)の出版物(しゆつぱんぶつ)が大抵皆(たいていみな)言文(げんぶん)一致(ち)──即(すなは)ち大体(だいたい)東京語(とうきやうご)で書(か)かれてゐることとが、東京語(とうきやうご)をば地方(ちはう)の僻陬(へきすう)まで弘布(ぐふ)することになりつつあるには相違(さうゐ)なからうが、口語(こうご)の上(うへ)では、東京語(とうきやうご)と地方語(ちはうご)との差違(さゐ)はまだなかなか甚(はなは)だしいやうに見受(みう)けられる。さういふ点(てん)では関東語(くわんとうご)と関西語(くわんさいご)だけの差違(さゐ)にしても随分(ずゐぶん)甚(はなは)だしいものがあると思(おも)ふ。
 けれども、昔(むかし)──徳川時代(とくがはじだい)──は、少(すくな)くとも江戸(えど)の上流(じやうりう)──即(すなは)ち士分(しぶん)の言葉(ことば)は、もと/\大体(だいたい)京都(きやうと)の上流語(じやうりうご)に標準(へうじゆん)を取(と)つたものであつたのであらうから、地方(ちはう)の藩庁(はんちやう)の公式(こうしき)の言葉(ことば)とは余程(よほど)共通(きようつう)なるところがあり、少(すくな)くとも名詞(めいし)、動詞(どうし)などで、公用語(こうようご)以外(いぐわい)にも、同(どう)一なものを用(もち)ひてゐたことが少(すくな)くなかつたやうに考(かんが)へられる。
 僕(ぼく)の生国(しやうごく)は土佐(とさ)であるが、麻裏草履(あさうらざうり)のことを藤(ふぢ)くらといつてゐるのを、少年(せうねん)の時分(じぶん)聞(き)いたことがある。東京(とうきやう)ではその時分(じぶん)──明治(めいぢ)十一二年頃(ねんごろ)──でも、もう藤(ふぢ)くらといふ語(ご)はなくなつてゐたのだが、明治(めいぢ)二十年頃(ねんごろ)東京生(とうきやううま)れの或(あ)る老人(らうじん)と話(はな)してゐるうちに、その老人(らうじん)などは藤(ふぢ)くらといふ語(ご)を昔(むかし)は使(つか)つてゐたことが分(わか)つた。
 土佐(とさ)では、嘲弄的(てうろうてき)に意地悪(いぢわる)く人(ひと)に言(い)ひかけるのを、きよくるといふ。僕(ぼく)の父母(ふぼ)などがその言葉(ことば)を用(もち)ひるのを聞(き)いて、僕(ぼく)は地方語(ちはうご)だと思(おも)つてゐた。所(ところ)が、『柳樽(やなぎだる)』を見(み)ると、『ご立腹(りつぷく)などゝ内儀(ないぎ)をきよくるなり』
といふやうな句(く)のあるのを以(もつ)て見(み)れば、きよくるが地方語(ちはうご)でないことは明(あきら)かである。
 義太夫(ぎだいふ)の『泉三郎館(いづみのさぶらうやかた)』の五斗(ごと)の生酔(なまゑ)ひの唄(うた)の中(なか)の『けなりかろ』が僕(ぼく)には解(わか)らなかつたが、紀州生(きしううま)れの中村啓次郎君(なかむらけいじらうくん)が、それは紀州(きしう)あたりでは今日(こんにち)も用(もち)ひる語(ご)で、羨(うらや)ましからうの意味(いみ)なんだと説明(せつめい)してくれた。ところが熊谷辺(くまがひへん)から、茨城(いばらき)の利根川(とねがは)沿(ぞ)ひの地方(ちはう)へかけてのあたりでは、今日(こんにち)でも羨(うらや)ましいといふところをけなりいと云(い)ふのだといふことを、近頃(ちかごろ)になつて聞(き)いた。
 引窓(ひきまど)のことを大阪(おほさか)あたりでは天窓(てんまど)といふのだと聞(き)くのだが、濡髪(ぬれがみ)の長五郎(ちやうごらう)の義太夫(ぎだいふ)は『引窓(ひきまど)の段(だん)』であつて、天窓の段(だん)とは云(い)はない。昔(むかし)は引窓(ひきまど)が東西(とうざい)の共通語(きようつうご)であつたものと見(み)て宜(よろ)しからうと思(おも)ふ。
 本(ほん)を押入(おしい)れから出(だ)して実例(じつれい)を挙(あ)げるのは億劫(おくこふ)だが、口語(こうご)に近(ちか)いものと見(み)てよからうと思(おも)ふ。小唄(こうた)などに拠(よ)る時(とき)は、東西(とうざい)の言葉(ことば)──少(すくな)くとも双方(さうはう)の都会(とくわい)での言葉(ことば)──が可(か)なり共通(きようつう)の分子(ぶんし)を持(も)つて居(を)つたことは窺(うかゞ)ひ得(え)られるであらう。
 京都(きやうと)の言葉(ことば)では──殊(こと)に大阪(おほさか)の言葉(ことば)などは──今日(こんにち)までには、在方(ざいかた)の言葉(ことば)が入(はひ)つて、余程(よほど)乱(みだ)されたのであらうと思(おも)はれる。東京(とうきやう)の言葉(ことば)も勿論(もちろん)さうである。殊(こと)に明治(めいぢ)になつては、東京(とうきやう)在来(ざいらい)の上流社会(じやうりうしやくわい)は全滅(ぜんめつ)してしまつたと云(い)つていゝ位(くらゐ)であるのだから、それ等(ら)の社会(しやくわい)の伝統(でんとう)ある言葉(ことば)は消滅(せうめつ)し去(さ)つて、今日(こんにち)の東京語(とうきやうご)は主(おも)に商人(しやうにん)、職人(しよくにん)の言葉(ことば)のみが残(のこ)つた訳(わけ)であり、それへ持(も)つて来(き)て、次第(しだい)に、地方語(ちはうご)からの侵略(しんりやく)が加(くは)はつて行(ゆ)くといふ現状(げんじやう)である。
 今日(こんにち)の東京(とうきやう)の所謂(いはゆる)身分(みぶん)のいゝ人々(ひと/゛\)といふのは、大抵(たいてい)地方(ちはう)の身分(みぶん)の余(あま)りよくなかつた人々(ひと/゛\)の末(すゑ)であるのだから、その言葉(ことば)の如(ごと)きも、従来(じうらい)の標準語(へうじゆんご)の規模(きぼ)から云(い)へば決(けつ)していゝものとは云(い)へないであらう。それ等(ら)の人々(ひと/゛\)の子弟(してい)で今日(こんにち)物(もの)を書(か)く人々(ひと/゛\)の言葉(ことば)の、従来(じうらい)の日本語(につぽんご)の格(かく)から云(い)へば、甚(はなは)だ拙(つたな)いものであるのは、その父兄(ふけい)たちに言葉(ことば)の訓練(くんれん)が欠(か)けてゐた為(ため)であらうと思(おも)ふ。

  二

 然(しか)し、言葉(ことば)は死物(しぶつ)であつてはならず、必要(ひつえう)な変更(へんかう)は進歩(しんぽ)の根抵(こんてい)になる訳(わけ)であるのだから、変遷(へんせん)そのものを拒斥(きよせき)すべきでないことは勿論(もちろん)である。唯吾々(たゞわれ/\)の注意(ちうい)すべきことは、吾々物書(われ/\ものか)くともがらが、言葉(ことば)に不必要(ふひつえう)な変更(へんかう)を加(くは)へて、意義(いぎ)なく従来(じうらい)の言葉(ことば)を乱(みだ)すやうなことをせぬやうに心(こゝろ)することである。
 従(したが)つて、言葉(ことば)の誤用(ごよう)などは十分(ぶん)に注意(ちうい)して避(さ)けなければならんと思(おも)ふ。
 小児(こども)の戯(たはむ)れにいゝたちこつこといふのがある。これを相報(あひむく)いるの意味(いみ)で、大人(おとな)の用語(ようご)にすることは、誰(だれ)も知(し)つてゐるところであるが、此(こ)の語(ご)の末(すゑ)のこつこは総(す)べて澄(す)んで発音(はつおん)すべきであつて、決(けつ)してごつこといふが如(ごと)く濁(にご)つて発音(はつおん)すべきではないのだ。ところが、近頃(ちかごろ)の印刷物(いんさつぶつ)には、此(こ)の語(ご)が屡々(しば/\)いたちごつこと印刷(いんさつ)されて居(を)るのを見(み)かける。甚(はなは)だしきに至(いた)つては、鼬ごつこと書(か)かれて居(を)るのさへ見(み)かける。
 僕等(ぼくら)はあのいゝたちこつこといふ発音(はつおん)のうちに、あの手(て)を順々(じゆん/\)に互(たがひ)に抓(つね)りあふ動作(どうさ)がいかにもあざやかに表現(へうげん)されてゐるやうに思(おも)ふのだから、語源(ごげん)は鼬(いたち)の動作(どうさ)から起(おこ)つたものにしたところで、これを鼬(いたち)ごつこと訂正(ていせい)したくない。此(こ)の語(ご)を用(もち)ひる位(くらゐ)ならば、矢張(やは)り小児(こども)の言葉(ことば)どほり、いゝたちこつこをそのまゝ用(もち)ひるのがいゝと思(おも)ふのだ。
 言語(げんご)の知識(ちしき)が貧弱(ひんじやく)なので、確(たしか)なことは云(い)ひ得(え)ないが、いゝたちこつこには鼬(いたち)ごつこ即(すなは)ち鼬(いたち)の真似(まね)をして遊(あそ)ぶとか、鼬(いたち)のやうなことをしあふとかいふような意味(いみ)はないやうに思(おも)はれる。あの語(ご)は、小児(こども)が手(て)をつねり合(あ)ふ調子(てうし)をば音(おん)を以(もつ)て表(あわは)しただけのもので、語自身(ごじしん)には何(なん)の意味(いみ)もないものであるやうに思(おも)ふ。
 ある行為(かうゐ)をさん/゛\するといふ意味(いみ)で、たら/゛\といふ語(ご)を用(もち)ひる。即(すなは)ち、お世辞(せじ)たら/゛\とか、愚痴(ぐち)たら/゛\とかいふのである。此(こ)の語(ご)は勿論(もちろん)たらと上(うへ)を澄(す)んで発音(はつおん)し、下(しも)をだらと濁(にご)つて発音(はつおん)するのだ。ところが此(こ)の頃(ごろ)の印刷物(いんさつぶつ)には上(うへ)のたらをだらと印刷(いんさつ)してあるのを度々見受(たび/\みう)ける。尤(もつと)もこの方(はう)は誤植(ごしよく)の場合(ばあひ)もあらうかとは思(おも)ふものの、同(おな)じ新聞(しんぶん)などで、何時(いつ)もたら/゛\がだら/\になつてゐるのを見(み)ると全(まつた)く誤植(ごしよく)とも断(だん)じ兼(かね)る。さういふのなどは、地方(ちはう)の印刷物(いんさつぶつ)などでは、必(かなら)ず誤植(ごしよく)通(どほ)り印刷(いんさつ)するであらうと思(おも)ふ。従(したが)つて、地方(ちはう)で物書(ものか)く人々(ひと/゛\)は愚痴(ぐち)だらだらといふ語(ご)があることと思(おも)つて、平気(へいき)でそれを用(もち)ひることになる虞(おそれ)は十分(ぶん)あらうかと思(おも)ふ。 
 今日(こんにち)では語源(ごげん)はとにかく、このたら/゛\といふ語(ご)の音(おん)そのものに、くどく繰返(くりかへ)すといつたやうな意味(いみ)が表(あら)はされてゐるやうに、吾々(われ/\)の耳(みゝ)には聞(き)き取(と)れるのであるから、これをだら/\と変(か)へてしまつては、音(おん)から来(く)る感(かん)じはまるで違(ちが)ふであらう。
 なんぼ地方(ちはう)の人(ひと)でも今日(こんにち)では言葉(ことば)の知識(ちしき)は可(か)なり広(ひろ)くなつてゐるであらうから、まさかにたら/゛\をだら/\と間違(まちが)へるやうなことはないであらうと、思(おも)ふ人(ひと)は多(おほ)からうけれども、実際(じつさい)はなかなかさう楽観(らくくわん)を容(ゆる)さない。随分(ずゐぶん)な間違(まちが)ひがそのまゝ伝(つた)はる虞(おそれ)が十分(ぶん)あるものと見(み)るのが宜(よろ)しいと思(おも)ふ。
 これは、それとは事(こと)かはつてゐるが、ある地方新聞(ちはうしんぶん)に源太郎馬車といふ言葉(ことば)があつた。どうも円太郎馬車の覚(おぼ)え違(ちが)ひらしいのだ。


環状線を廻る

  一

 生方敏郎君(うぶかたとしらうくん)が先達(せんだつ)て来(き)て、魚藍坂(ぎよらんざか)が変(かは)つてゐるので、場所(ばしよ)が分(わか)らず、人(ひと)に魚藍坂(ぎよらんざか)は何処(どこ)だと聞(き)くと、こゝがさうなのだといはれたといつて笑(わら)つてゐた。白金(しろがね)の明治学院(めいぢがくゐん)に学(まな)んだ生方君(うぶかたくん)はこの辺(へん)はよく知(し)つてゐるのに、その生方君(うぶかたくん)にまるで分(わか)らなくなつたのだから、その変遷(へんせん)の程度(ていど)はそれだけでもう誰(だれ)にも想像(さうざう)ができるであらう。
 十月(ぐわつ)のある日(ひ)、秋晴(あきば)れの快(こゝろよ)い午後(ごご)、環状線廻(くわんじやうせんまは)りをたのまれて、自動車(じどうしや)で家(うち)を出(で)た。魚藍(ぎよらん)は元(もと)よりのこと、伊皿子(いさらご)だつても、吾々(われ/\)には、まるで外(ほか)の場所(ばしよ)のやうな気(き)がするまでの変(かは)り方(かた)だ。街幅(まちはゞ)の広(ひろ)くなつたのはいふまでもなく、坂(さか)の形(かたち)がまるで昔(むかし)の形(かたち)を留(とゞ)めず、両側(りやうがは)の家々(いへ/\)が石段(いしだん)を上(のぼ)るやうになつてゐたのさへ、全(まつた)く跡方(あとかた)もなくなつてゐる。
『横町(よこちやう)に一(ひと)つづゝある芝(しば)の海(うみ)』といふ川柳(せんりう)は芝(しば)もずつと北金杉(きたかなすぎ)あたりをいつたものであらう。僕(ぼく)などの青年(せいねん)の時分(じぶん)には、車町(くるまちやう)から品川(しながは)の停車場(ていしやば)の間(あひだ)には海(うみ)の側(がは)にはロクに家(いへ)がなかつた。あの辺(へん)の埋(う)め立(た)てをしたのは、牧野如石(まきのじよせき)といふ、烏金(からすがね)でも貸(か)さうといふやうな、したゝか者(もの)の盲人(まうじん)であつたといふのだが、海寄(うみよ)りに十軒(けん)程(ほど)を一棟(ひとむね)にした長屋建(ながやだ)ての商家(しやうか)向(むき)の家(いへ)が建(た)つて、ぽつんと一(ひと)つ離(はな)れてゐてそれにはロク/\住(す)む人(ひと)もなく、殆(ほとん)ど立(た)ち腐(ぐさ)れになつてゐたことを確(たしか)に記憶(きおく)する。山手(やまのて)の方(はう)にしても泉岳寺前(せんがくじまへ)から先(さ)きは、低(ひく)い混礙土(コンクリ─ト)の塀(へい)や石垣(いしがき)の邸宅(ていたく)が続(つゞ)き一歩裏(ぽうら)へ入(はひ)ると大抵(たいてい)の家(いへ)は生籬(いけがき)で邸(やしき)を繞(めぐ)らしてゐるやうな淋(さび)しさであつた。それが何時(いつ)とはなしに、今(いま)のやうな、海沿(うみぞひ)、山手(やまのて)共(とも)にあの通(とほ)りの人家櫛比(じんかしつぴ)の現状(げんじやう)だ。
 僕(ぼく)のこのあたりに関(くわん)する記憶(きおく)などは余(あま)りに古(ふる)いのではあるが、それにしても、変(かは)り方(かた)は実(じつ)に驚(おどろ)くばかりの変(かは)り方(かた)には相違(さうゐ)ない。
 停車場(ていしやば)から二三町(ちやう)手前(てまへ)の右側(みぎがは)(山手(やまのて))に後藤象二郎(ごとうしやうじらう)伯(はく)の邸(やしき)のあつたことを覚(おぼ)えてゐるが、明治(めいぢ)二十一二年(ねん)頃(ごろ)に、条約改正(でうやくかいせい)その他(た)所謂(いはゆる)三大(だい)建白(けんぱく)のために上京(じやうきやう)した地方有志(ちはういうし)が後藤邸(ごとうてい)を訪(と)うた時(とき)、後藤家(ごとうけ)では盛(も)り蕎麦(そば)を饗(きやう)したが、有志(いうし)の多(おほ)くは盛(も)りの上(うへ)からいきなり、汁(つゆ)をぶつかけてしまつたといふ、落(おと)し咄(ばなし)そのまゝの話(はなし)を聞(き)いたことがある。田中君(たなかくん)の『旋風時代(せんぷうじだい)』が、もつとずつと時代(じだい)が進(すゝ)むと、そんなことも小材料(こざいれう)の一(ひと)つになるであらうなど、心(こゝろ)の中(なか)で微笑(ほゝゑ)みながら、彼(か)れ此(こ)れと古(ふる)いことどもを憶(おも)ひ出(だ)してゐるうちに、車(くるま)は容赦(ようしや)なく、少(すこ)し肌(はだ)に冷(つめ)たい風(かぜ)を切(き)つて、停車場(ていしやば)の少(すこ)し先(さ)きの橋際(はしぎは)から、右(みぎ)へ折(を)れて、八(や)つ山(やま)を上(のぼ)り始(はじ)める。
 いよ/\環状線(くわんじやうせん)へ一歩(ぽ)踏(ふ)み込(こ)んだ訳(わけ)だ。此所(ここ)には勿論(もちろん)昔(むかし)は路(みち)がなかつた。多分(たぶん)森(もり)ケ崎(さき)とか云(い)つたのであらう。長州侯(ちやうしうこう)の邸(やしき)のなかを新(あら)たに切(き)り開(ひら)いた坂路(さかみち)である。勿論(もちろん)、まだ出来(でき)たての路(みち)と云(い)つていゝくらゐの新開(しんかい)の路面(ろめん)なのだから、坦々(たん/\)として、まるで何(なに)かで拭(ふ)き取(と)つたかのやうな綺麗(きれい)さ滑(なめ)らかさである。このあたり、一帯(たい)に大藩侯(だいはんこう)の邸(やしき)の多(おほ)いところであつて、袖(そで)ケ崎(さき)の薩州邸(さつしうてい)、大崎(おほさき)の池田(いけだ)(備前(びぜん))邸(てい)の大邸(だいてい)が名高(なだか)かつた、そんな大邸(だいてい)になると、大厦(たいか)の戸(と)を開(あ)けるのに専任(せんにん)の係(かゝり)があつて、一人(ひとり)で朝(あさ)からつぎ/\に戸(と)を繰(く)り開(あ)けて行(ゆ)くと、最後(さいご)の戸(と)を開(あ)けた時分(じぶん)にはもう夕暮(ゆふぐれ)になつてゐて、今度(こんど)は最初(さいしよ)の戸(と)をしめ始(はじ)めなければならないやうになつてゐるくらゐであつたと、云(い)ひ伝(つた)へられて居(ゐ)る。
 そんな大邸宅(だいていたく)の建(た)つた時分(じぶん)から可(か)なり長(なが)い後(あと)まで、猿町(さるまち)の坂(さか)を下(お)りると早(は)や直(す)ぐに、一面(めん)の稲田(いなだ)であつて、秋(あき)ならば黄金色(こがねいろ)の波(なみ)満々(まん/\)と風(かぜ)に揺(ゆ)れるといふ光景(くわうけい)であつたのだが、それから後(のち)、田(た)が埋(う)められてからも、しばらくは、埋立地(うめたてち)らしい赤土(あかつち)の広々(ひろ/゛\)とした空地(あきち)を後(うしろ)にして、棟割(むねわり)の長屋(ながや)が路(みち)に沿(そ)うて、気(き)のなさゝうな風(ふう)で立(た)つてゐるのを見(み)たのは、まるで昨日(きのふ)のやうな気(き)がするくらいである。
 そんなことを憶(おも)ひ出(い)づると、ここらの街景(がいけい)は全(まつた)く大変遷(だいへんせん)の観(くわん)がある。

  二

 大崎(おほさき)から五反田(ごたんだ)へ向(むか)ふ街路(がいろ)は可(か)なりな商店街(しやうてんがい)をなしてゐる。家々(いへ/\)の規模(きぼ)は、相応(さうおう)な地方市(ちはうし)の可(か)なりいゝ街筋(まちすぢ)のありさまと同様(どうやう)である。いや、それどころか、三十年位(ねんぐらゐ)前(まへ)の本郷通(ほんがうどほ)りなどよりは、余程(よほど)景気(けいき)のいゝ街(まち)の光景(くわうけい)である。
 五反田(ごたんだ)の記憶(きおく)は割合(わりあひ)に新(あたら)しく、震災(しんさい)二年前(ねんまへ)ぐらゐに属(ぞく)するのだが、その時(とき)に比(くら)べてさえ、開(ひら)け方(かた)は雲泥(うんでい)のちがひだ。これでは地方市(ちはうし)の盛(さか)り場(ば)を凌(しの)いでゐる。いや、此(こ)の二十年前(ねんまへ)であつたら、これだけの街(まち)がゝりの賑(にぎや)かさの場所(ばしよ)は、東京(とうきやう)でもさう多(おほ)くはなかつたらうと思(おも)ふくらゐである。勿論(もちろん)、新開(しんかい)といふ何処(どこ)となく垢抜(あかぬ)けのしてゐない雰囲気(ふんゐき)は濃厚(のうこう)であるが、旧市内(きうしない)だつても例(れい)せば小石川(こいしかは)の柳町(やなぎちやう)、本郷(ほんがう)の肴町(さかなまち)、動坂下(どうざかした)、下谷(したや)の鶯渓(うぐひすだに)などのやうな吾々(われ/\)の眼(め)から見(み)れば新開(しんかい)の空気(くうき)の可(か)なり顕然(けんぜん)とした地区(ちく)が少(すくな)くない。いや、数(かぞ)へ立(た)てれば、さういふ新開(しんかい)は旧市内(きうしない)には枚挙(まいきよ)にいとまのない程多(ほどおほ)いのだ。旧市内(きうしない)のさういふ土地(とち)の方(はう)が開(ひら)け方(かた)は遅々(ちゝ)としてゐたといつてよからうと思(おも)ふ。
 こゝで、道路(だうろ)は少(すこ)し大廻(おほまは)りの形(かたち)になつて、目黒川(めぐろがは)を渡(わた)つて、目黒(めぐろ)から渋谷(しぶや)へと亙(わた)る郊外(かうぐわう)の旧市(きうし)外廓(ぐわいくわく)をなしてゐた部分(ぶぶん)の外輪(ぐわいりん)をめぐることとなる。この川(かは)の末(すゑ)が品川(しながは)へ入(はひ)つて、本宿(ほんじゆく)と橋向(はしむか)うとを別(わか)つのでもあらうかと思(おも)ひ、斎藤緑雨(さいとうりよくう)に橋向(はしむか)うの意味(いみ)の説明(せつめい)を受(う)けたことなどを憶(おも)ひ出(い)でゝ、心(こゝろ)に微笑(びせう)を覚(おぼ)えたのであつた。しかし、後(あと)で考(かんが)へると品川(しながは)の橋(はし)はこの末(すゑ)ではなささうである。
 僕(ぼく)の昔(むかし)の記憶(きおく)によると、下渋谷(しもしぶや)から上目黒(かみめぐろ)を経(へ)て、行人坂(ぎやうにんざか)あたりまで出(で)て来(く)る路(みち)は、旧市(きうし)寄(よ)りの丘陵(きうりよう)を左(ひだり)にし、郊外(かうぐわい)の渋谷(しぶや)から続(つゞ)いてゐる小丘(せうきう)を右(みぎ)にした谷(たに)あひのやうなところであつたと思(おも)ふのであるが、今(いま)の環状線(くわんじやうせん)からは右(みぎ)に松林(まつばやし)を頂(いたゞ)いた丘陵(きうりよう)の連亙(れんこう)を見(み)るのみで、左(ひだり)の方(はう)には余(あま)り高(たか)いところを一向(かう)に見(み)ない。要(えう)するに、下渋谷(しもしぶや)から来(き)てゐる丘地(きうち)の西側(にしがは)即(すなは)ち外廻(そとまは)りの平地(へいち)のところを環状線(くわんじやうせん)が貫(つらぬ)いてゐるのだ。
 不動堂(ふどうだう)へ入(はひ)る横町(よこちやう)を左手(ひだりて)に見(み)て、行人坂下(ぎやうにんざかした)あたりを越(こ)えるといふと、もう商舗(しやうほ)はぼつ/\になつて、郊外(かうぐわい)の屋敷町(やしきまち)らしい気分(きぶん)が顕著(けんちよ)になる、右(みぎ)は平地(へいち)が少(すこ)し連(つら)なつてから、その上(うへ)が南北(なんぼく)に亙(わた)る低丘(ていきう)になつて居(を)り、左(ひだり)は極(ご)く緩(ゆる)やかな傾斜(けいしや)をなして、武蔵野(むさしの)の外廓的(ぐわいくわくてき)高地(かうち)へと上(のぼ)つて居(を)る。我等(われら)の行(ゆ)く手(て)は先(ま)ず大体(だいたい)坦々(たん/\)たる平路(へいろ)であつて、前面(ぜんめん)の空(そら)の藍色(らんしよく)広々(ひろ/゛\)と仰(あふ)がれて、好晴(かうせい)の秋日和(あきびより)の気分(きぶん)はいかにもさわやかに快(こゝろよ)かつた。
 この路(みち)は下(しも)、中(なか)、上(かみ)と目黒(めぐろ)をば目黒川(めぐろがは)の西岸(せいがん)に沿(そ)うて貫(つらぬ)きつゝ渋谷(しぶや)へと向(むか)つて居(を)るのだ。やがて、路(みち)は爪先(つまさき)上(あが)りになつて、道玄坂(だうげんざか)の上(うへ)の方(はう)で、厚木大山街道(あつぎおほやまかいだう)へと出(で)てしまふ。世田谷(せたがや)へと通(つう)じて居(を)る昔(むかし)からの往還(わうくわん)なのだ。
 いはゆる道玄坂(だうげんざか)から、宮益坂(みやますざか)へかけてのこのあたり一帯(たい)の変(かは)り方(かた)は、吾々(われ/\)に取(と)つては、全(まつた)く桑滄(さうさう)の変(へん)も啻(たゞ)ならぬ心持(こゝろもち)がする。日露戦役(にちろせんえき)の直前(ちよくぜん)ぐらゐまでは、宮益(みやます)が五六間(けん)にしきや見(み)えないくらゐの路幅(みちはゞ)の、両側(りやうがは)には生籬(いけがき)のある邸(やしき)に沿(そ)うての狭(せま)いやや急(きふ)な坂路(さかみち)であり、道玄坂(だうげんざか)までの間(あひだ)は両側(りやうがは)が田圃(たんぼ)であり、世田谷街道(せたがやかいだう)に食物店(くひものみせ)といつては、坂(さか)を可(か)なり上(のぼ)つたところに、一軒(けん)蕎麦屋(そばや)があるきりであり、丘沿(をかぞ)ひに停車場(ていしやば)の方(はう)へ曲(まが)つて行(い)く横町(よこちやう)には、それでも一寸(ちよつと)とした料理(れうり)の看板(かんばん)をかけた家(うち)があるきりといふありさまであつた。明治(めいぢ)四十一二年頃(ねんごろ)になつてさへ、市内(しない)の寄席(よせ)で、咄家(はなしか)が『この頃(ごろ)は上渋谷(かみしぶや)の道玄坂(だうげんざか)などが開(ひら)けて、あの辺(へん)でも変(かは)り色(いろ)の羽織(はおり)を著(き)た芸者(げいしや)が歩(ある)いてゐるといふのだから、東京(とうきやう)も大変(たいへん)な変(かは)り方(かた)だ』などと、話(はなし)の前置(まへおき)にして話(はな)したくらゐであつたのだ。
 大震災(だいしんさい)の恩沢(おんたく)に浴(よく)した土地(とち)の一(ひと)つには相違(さうゐ)ないが、それにしても、驚嘆(きやうたん)に値(あたひ)する開(ひら)け方(かた)だと思(おも)ふ。こゝを起点(きてん)にする電車線(でんしやせん)が二三線(せん)ある通(とほ)り、懐(ふところ)は十分広(ぶんひろ)い地区(ちく)である。まだ今後(こんご)の開(ひら)け行(ゆ)く余地(よち)はあるであらう。

  三

 路(みち)は宮益(みやます)の坂下(さかした)から左(ひだり)へ折(を)れて迂曲(うきよく)しつつ新宿(しんじゆく)へと向(む)いてゐる。
 もうどうしても三十年(ねん)の前(まへ)であるが、新宿駅(しんじゆくえき)から渋谷(しぶや)へ出(で)る路(みち)が、一半(ぱん)は生籬(いけがき)の傍(そば)に亭々(てい/\)たる大木(たいぼく)の槻並木(けやきなみき)のやうに列(なら)んだ東京郊外(とうきやうかうぐわい)特有(とくいう)の農家(のうか)めいた邸(やしき)の連続(れんぞく)、一半(ぱん)は茅(かや)、薄(すゝき)の茫々(ばう/\)と生(お)ひ茂(しげ)つた高低(かうてい)のある広野(ひろの)といふ風(ふう)で、如何(いか)にも野趣(やしゆ)満々(まん/\)たる景致(けいち)であつたので、それが全(まつた)く気(き)に入(い)つて、当時(たうじ)下渋谷(しもしぶや)在住(ざいぢう)であつた与謝野寛君(よさのくわんくん)を訪(と)ふ時(とき)など、わざ/\新宿(しんじゆく)で下車(げしや)して、渋谷(しぶや)まで徒歩(とほ)したものであつた。今(いま)その路(みち)はどのあたりなのであらうか。今(いま)はもう一体(たい)に人家(じんか)もふえ土地(とち)も平(たひら)にならされ、まるで見当(けんたう)がつかなくなつてしまつてをるのだが、地図(ちづ)を見(み)ると、昔(むかし)のその路(みち)は代々木練兵場(よゝぎれんぺいぢやう)のなかへでも入(はひ)つてをるのではなからうかと思(おも)ふ。さうだ、右手(みぎて)に衛戌監獄(ゑいじゆかんごく)のあつたことを覚(おぼ)えてゐるものだから、今(いま)の渋谷区(しぶやく)の代々木深町(よゝぎふかまち)、神園町(かみぞのちやう)、神南町(かんなみちやう)、宇田川町(うだがはちやう)といふやうなあたりに当(あた)るのであらう。
 われ等(ら)の自動車(じどうしや)は新宿(しんじゆく)に近(ちか)づくに従(したが)つて、如何(いか)にも潔(きよ)げな可(か)なりな大(おほ)きさの別墅風(べつしよふう)の邸宅(ていたく)の続(つゞ)いた町(まち)を通(とほ)る。昔(むかし)の番町(ばんちやう)、駿河台(するがだい)などの面影(おもかげ)がこんなところに残(のこ)つてゐるやうな心持(こゝろもち)がした。遠(とほ)い郊外(かうぐわい)へ出(で)ると、郊外(かうぐわい)とは名(な)のみで、余(あま)り庭(には)もないやうな家(いへ)が建(た)ち続(つゞ)いたり、さもなくば、周囲(しうゐ)が余(あま)りに野味(やみ)が多(おほ)く、何(な)んだか農家(のうか)の仮家(かりや)ではないかといふ感(かん)じのするやうな半洋館(はんやうくわん)を見(み)るのであるが、さすがに此(こ)の新宿裏(しんじゆくうら)あたりの屋敷町(やしきまち)には何処(どこ)までも日本式(にほんしき)らしい建築(けんちく)の十分(ぶん)な落著(おちつき)があつて、結構(けつこう)だと思(おも)ふ。どうせ他人(たにん)のものなのだからどうでもいゝやうなものの、どつちがいゝかと云(い)はれゝば、かういふ風(ふう)に手(て)のかゝつた小綺麗(こぎれい)なものの方(はう)がいゝと思(おも)ふ。塵一(ちりひと)つ落(お)ちてゐないやうな、清潔(せいけつ)な静寂(せいじやく)な此(こ)の町(まち)の気分(きぶん)はまことに快(こゝろよ)かつた。
 新宿(しんじゆく)近時(きんじ)の発達(はつたつ)は全(まつた)く文字(もじ)通(どほ)りに駭目(がいもく)に値(あたひ)するといはざるを得(え)ない。いはゆる馬糞(ばふん)の臭(にほ)ひと嘲(あざ)けられたのは余(あま)りに古(ふる)い昔(むかし)ではあるが、両側(りやうがは)にあの薄(うす)ぎたない暖簾(のれん)をかけた陰鬱(いんうつ)な大建物(おほだてもの)の間(あひだ)に、ぽつ/\と見(み)る影(かげ)もない小商店(こしやうてん)の介在(かいざい)してゐた時分(じぶん)から、今(いま)の繁華(はんくわ)の街路(がいろ)までの発達(はつたつ)は殆(ほとん)ど一足(そく)とびの観(くわん)がある。殊(こと)に旧市内(きうしない)より最(もつと)も遠(とほ)い部分(ぶぶん)が中心(ちうしん)になつたのは、停車場(ていしやば)のお蔭(かげ)、即(すなは)ち、郊外(かうぐわい)開進(かいしん)の恩沢(おんたく)といはざるを得(え)なからう。震災(しんさい)の恩沢(おんたく)も十分(ぶん)ある事(こと)はあるが、新宿(しんじゆく)附近(ふきん)が殷賑(いんしん)を極(きは)むるに至(いた)るのは、単(たん)に年月(ねんげつ)の問題(もんだい)であつたので、震災(しんさい)はただその時期(じき)を早(はや)めたに過(す)ぎないであらう。この勢(いきほ)ひで行(い)けば、東京(とうきやう)の繁華(はんくわ)西遷(せいせん)の期(き)が遠(とほ)くはなからうかと思(おも)はれるくらゐである。銀座(ぎんざ)よりもこゝは卑野(ひや)であると人(ひと)はいふであらう。ところがこの野風(やふう)が今(いま)の人人(ひとびと)を引(ひ)きつける力(ちから)があるのだ。大衆(たいしう)を引(ひ)きつけるにはこの野風(やふう)でなければ駄目(だめ)だ。銀座(ぎんざ)がだん/\この野味(やみ)に降参(かうさん)しだすと共(とも)に、やがては、新宿(しんじゆく)の方(はう)がその繁華(はんくわ)において凱歌(がいか)を奏(そう)するの日(ひ)が来(く)るのではなからうか。
 古(ふる)い小咄(こばなし)に、行倒(ゆきだふ)れの日記(につき)といふのがある。無論(むろん)、偽(いつは)つて行倒(ゆきだふ)れとなつて、人(ひと)から恵(めぐ)みを貰(もら)ふ乞食(こじき)の日記(につき)といふ意味(いみ)である。
 『○月(ぐわつ)○日(にち)、神田(かんだ)にて行(ゆ)き倒(だふ)れ候節(さふらふせつ)、むすびに銭(ぜに)○文(もん)。○月(ぐわつ)○日(にち)麹町(かうじまち)にて行(ゆ)き倒(だふ)れ候(さふらふ)節(せつ)、灸(きう)とむすび。○月(ぐわつ)○日(にち)、青山(あをやま)にて行倒候(ゆきだふれさふらふ)節(せつ)、灸(きう)ばかり』
といふのだ。これは当時(たうじ)の各(かく)地区(ちく)の人気(にんき)と生活程度(せいくわつていど)を暗示(あんじ)した笑話(せうわ)だと思(おも)ふのだが、昔(むかし)は山(やま)の手(て)といふのは、かういふ風(ふう)に蔑視(べつし)されてゐたものであるが、これからは、新宿(しんじゆく)あたりの気分(きぶん)は一変(ぺん)して、却(かへ)つて、下町(したまち)の人気(にんき)を笑(わら)ふ日(ひ)が来(こ)ないとは云(い)へなからう。とにかく今日(こんにち)の下町(したまち)は住民(ぢうみん)の心持(こゝろもち)が一変(ぺん)しつゝあるやうな気(き)がする。古(ふる)い東京(とうきやう)は却(かへ)つて片隅(かたすみ)の四谷(や)、新宿(しんじゆく)のあたりに残(のこ)つてゐるのではなからうかといふやうな気(き)もする。
 寄席(よせ)などでは神田(かんだ)の立花(たちばな)が振(ふる)はなくなつて、四谷(や)の喜(き)よしが東京(とうきやう)で第(だい)一の入(い)りの多(おほ)い寄席(よせ)になつたといふ事実(じじつ)の裏(うら)には、東京(とうきやう)の文化(ぶんか)の配置(はいち)とその変遷(へんせん)とについて何(なに)ものかを語(かた)るものがあると思(おも)ふ。

  四

 京王電車(けいわうでんしや)の発著駅(はつちやくえき)から先(さ)き数町(すうちやう)のところは路面(ろめん)がまだ出来上(できあが)つてゐなかつたので車(くるま)は大通(おほどほ)りを右(みぎ)へ少(すこ)し直行(ちよくかう)してから、左折(させつ)して狭(せま)い新宿(しんじゆく)の華街(くわがい)を抜(ぬ)ける。
 いはゆるナイト・クラブの店(みせ)がゝりは、入口(いりぐち)に目隠(めかく)しのやうなものが出来(でき)てゐる。洋館(やうくわん)まがひの建方(たてかた)、夜(よる)見(み)ればどうだか知(し)れぬが、白昼(はくちう)の光線(くわうせん)の下(もと)では、如何(いか)にも陰鬱(いんうつ)な景気(けいき)の悪(わる)いものに見(み)えた。どうせ変態(へんたい)の場所(ばしよ)には相違(さうゐ)ないが、かうまで普通(ふつう)と違(ちが)つた重苦(おもくる)しい空気(くうき)を作(つく)らずとも、何(な)んとか工夫(くふう)のありさうなものだと思(おも)はれる。
 左側(ひだりがは)の褐色(かつしよく)に塗(ぬ)つた家(いへ)の入口(いりぐち)には、まだ三十にはならぬと見(み)える例(れい)の妓夫君(ぎふくん)が退屈(たいくつ)さうに、粗末(そまつ)な椅子(いす)に腰(こし)を下(おろ)してゐた。かういふ職業(しよくげふ)も今(いま)にどうなるのであらうか。その伝統(でんとう)の能弁(のうべん)と機智(きち)などは何処(どこ)へ用(もち)ひられるのであらうか。
 ひどく古(ふる)い事(こと)をと思(おも)はれるであらうが、昔(むかし)ある友(とも)と、吉原(よしはら)の狭(せま)い町(まち)を歩(ある)いてゐると、とある店(みせ)から、『寄(よ)つてらツしやい。舶来(はくらい)とジヤツパン』といふ声(こゑ)が掛(か)かつた。それは揚屋町(あげやまち)へ曲(まが)るあたりの河岸(かし)であつたと思(おも)ふ。いふまでもなく、友(とも)は和服(わふく)、僕(ぼく)は洋服(やうふく)であつた。
 五年程(ねんほど)前(まへ)かと思(おも)ふのだが、僕(ぼく)の数字(すうじ)の誤記(ごき)のために、ある人(ひと)の旧居(きうきよ)の位置(ゐち)が不確(ふたしか)になつたので、増田龍雨(ますだりうう)さんを引張(ひつぱ)りだして、吉原(よしはら)裏(うら)のあたりを見(み)てもらつた。その途中(とちう)、増田(ますだ)、久保田万太郎(くぼたまんたらう)、平林襄二(ひらばやしじやうじ)、新潮社(しんてうしや)の某君(ぼうくん)、及(およ)び僕(ぼく)と五人(にん)で廓内(くるわうち)をば、揚屋町(あげやまち)の門(もん)へと抜(ぬ)けて行(い)くと、ある町(まち)の楼(ろう)の前(まへ)に立(た)つてゐた若(わか)い妓夫君(ぎふくん)が、白昼(はくちう)のことではあり、気(き)がなさゝうに『おあがりなさい。名誉職(めいよしよく)のお方(かた)』といつた。
 吉原(よしはら)の小店(こみせ)では、昔(むかし)は妓夫君(ぎふくん)が上(あが)つた客(きやく)の勘定(かんぢやう)の工合(ぐあひ)を、前以(まへもつ)て客(きやく)の履物(はきもの)で鑑定(かんてい)したといふ。あと減(べ)りのしてゐるやうな、少(すこ)し履(は)き古(ふる)した履物(はきもの)であつたら、安心(あんしん)だが、小粋(こいき)な真新(まあたら)しいのめりの薄手(うすで)の駒下駄(こまげた)などだと、この客(きやく)は、翌日(あした)は馬(うま)だと覚悟(かくご)するのであつた。ところが、近頃(ちかごろ)になつては、それが反対(はんたい)になつてしまつた。つまり、履物(はきもの)も順当(じゆんたう)に、金銭(きんせん)のある者(もの)が新(あたら)しい下駄(げた)を穿(は)くやうになつてしまつた。履物(はきもの)だけは、見(み)すぼらしい物(もの)を用(もち)ひないといふでんぼう、てつかの伝統(でんとう)が消(き)えてしまつたのだ。こんな話(はなし)を余程(よほど)前(まへ)に聞(き)いたことがある。
 店頭(てんとう)の素晴(すばら)しき能弁(のうべん)も、通(とほ)りすがりの客(きやく)にからかふ縦横無碍(じうわうむげ)の機智(きち)も、元(もと)より吉原(よしはら)の妓夫君(ぎふくん)の殆(ほとん)ど独擅(どくせん)のものといつて宜(よろ)しかつたのであらうが、かういふ不思議(ふしぎ)な職業気質(しよくげふかたぎ)などは、遊廓(いうくわく)の衰微(すゐび)と共(とも)に、遠(とほ)からず消滅(せうめつ)し去(さ)るものの一(ひと)つであらうと思(おも)はれる。
 世(よ)の中(なか)が穏当(をんたう)に平坦(へいたん)にされて行(ゆ)くのは、まことに目出度(めでた)いことではあるが、古(ふる)き世(よ)の悠長(いうちやう)さを伝(つた)へてをるさま/゛\の、延(の)びやかなる馬鹿(ばか)げた物(もの)や事(こと)が、つぎ/\に進化変転(しんくわへんてん)の大波(おほなみ)に洗(あら)ひ浚(さら)はれて行(ゆ)くを見(み)るのは、如何(いか)にも心淋(こゝろさび)しいことである。
 こんな用(よう)もない追懐(つゐくわい)にふけつてゐるうちに、車(くるま)はもう大久保(おほくぼ)の大道(だいだう)を北(きた)へ向(むか)つて驀地(まつしぐら)に進(すゝ)んでゐる。やがて、戸山練兵場(とやまれんぺいぢやう)の裏手(うらて)である。それからは、直(ぢ)きに戸塚(とつか)の源兵衛(げんべゑ)の踏(ふ)み切(き)りの東(ひがし)を通(とほ)る。こゝを流(なが)れてゐる川(かは)は神田上水(かんだじやうすゐ)で、この末(すゑ)が小石川(こいしかは)の江戸川(えどがは)になる。この川(かは)の沿岸(えんがん)の変遷(へんせん)もこれまた非常(ひじやう)なものである。今(いま)より二十年(ねん)も前(まへ)には、源兵衛(げんべゑ)あたりは田舎(ゐなか)の村(むら)の路(みち)に過(す)ぎず、今(いま)の早稲田(わせだ)の市電(しでん)の終点(しうてん)から流(なが)れに沿(そ)うて、関口(せきぐち)の大滝(おほだき)に至(いた)るまでは、野川(のがは)の堤防(ていばう)で、蘆荻(ろてき)いやが上(うへ)に生(お)い茂(しげ)つてゐた。対岸(たいがん)には、工場(こうば)らしい家(うち)が一軒(けん)、それから、大分飛(だいぶと)んで古(ふる)い鳶色(とびいろ)の藁屋(わらや)の屋根(やね)が見(み)えるぐらゐなものであつた。
 環状線(くわんじやうせん)が川(かは)を越(こ)すところから、少(すこ)し下流(かりう)に面影橋(おもかげばし)といふのがある。しかし、こゝは昔(むかし)は橋(はし)などのなかつたところではないかと思(おも)ふ。『南向茶話(なんかうさわ)』に出(で)てゐる姿見橋(すがたみばし)一名(めい)面影橋(おもかげばし)といふのは、穴(あな)八幡下(まんした)にあつた橋(はし)ではなかつたかと思(おも)はれる。

  五

 牛込(うしごめ)の馬場下(ばばした)から、戸塚(とつか)の方(はう)へ行(ゆ)くには、穴(あな)八幡(まん)の下(した)の狭(せま)い坂(さか)を上(のぼ)るのであつたが、その上(のぼ)り口(くち)のところに古称(こしよう)蟹川(かにがは)といふ小流(こながれ)があつて、それに小(ちひ)さい橋(はし)がかゝつてをり、その橋(はし)を渡(わた)つて、早稲田大学(わせだだいがく)の方(はう)へ行(ゆ)くやうになつてゐた。橋(はし)の袂(たもと)にそば屋(や)のあつたことを記憶(きおく)する。即(すなは)ち、その橋(はし)が、和田靱負守祐(わだゆきへもりすけ)の女(むすめ)於戸姫(おとひめ)が良人(をつと)の敵(かたき)村山三郎武範(むらやまさぶらうたけのり)を討(う)つて後(のち)、身(み)を流(なが)れに沈(しづ)めて野川(のがは)の底(そこ)の藻屑(もくづ)と消(き)えたといふ伝説(でんせつ)、又(また)、将軍(しやうぐん)の鷹野(たかの)の時(とき)、外(そ)れた将軍(しやうぐん)の愛鷹(あいよう)がこの橋(はし)までその姿(すがた)が見(み)えたので、鷹匠(たかじやう)が追(お)つて行(い)つて捉(とら)へたといふ伝説(でんせつ)のある姿見橋(すがたみばし)即(すなは)ち面影橋(おもかげばし)ではなかつたかと思(おも)ふ。
 それはとにかくとして、この辺(あた)りは実(じつ)に途方(とはう)もない大変転(だいへんてん)だ。そんな小流(こながれ)は埋(う)められ、橋(はし)などはとつくになくなり、穴(あな)八幡(まん)の前(まへ)の坂(さか)にしても、もうなくなつてしまつてゐるのでなからうかと思(おも)はれるくらゐである。
 さて、吾々(われ/\)の行(ゆ)く道(みち)は、現今(げんこん)の面影橋(おもかげばし)、即(すなは)ち、戸塚(とつか)から北(きた)へ真直(まつすぐ)に鬼子母神(きしぼじん)へと上(のぼ)つて行(い)く路(みち)に架(か)した橋(はし)から数町(すうちやう)西(にし)の方(はう)で、神田上水(かんだじやうすゐ)、即(すなは)ち井(ゐ)の頭(がしら)上水(じやうすゐ)を越(こ)して、高田(たかだ)へ入(はひ)り、学習院(がくしふゐん)の角(かど)で川越街道(かはごえかいだう)を横断(わうだん)し、鬼子母神(きしぼじん)から数町(すうちやう)の西(にし)を廻(まは)り、小曲折(せうきよくせつ)をなして池袋(いけぶくろ)へと通(つう)じ、巣鴨(すがも)の山手線(やまのてせん)の少(すこ)し手前(てまへ)で、大塚(おほつか)からの新道路(しんだうろ)を越(こ)え、やがて、その先(さ)きで鉄道線(てつだうせん)を横(よこ)ぎつてゐるのだが、このあたり一帯(たい)が見渡(みわた)す限(かぎ)り青々(あをあを)とした菜圃(さいほ)であつたのは、まるで昨日(きのふ)の事(こと)であつたやうな気(き)がする。恐(おそ)らくは精精(せいぜい)十五年(ねん)ぐらゐ前(まへ)から開(ひら)けはじめたのではなからうか。この辺(へん)では、路(みち)が山形(やまがた)をなして曲(まが)つてゐる。大久保(おほくぼ)からこゝらまでの路(みち)になると、もう十分(ぶん)に郊外(かうぐわい)気分(きぶん)が濃(こ)くなり、旧式(きうしき)の手輓(てび)きの荷車(にぐるま)などの往来(わうらい)を度々(たび/\)見(み)かけたのであつた。
 巣鴨(すがも)の踏(ふ)み切(き)りから以北(いほく)は、路(みち)は殆(ほとん)ど直線(ちよくせん)をなして西巣鴨町(にしすがもまち)を貫(つらぬ)き、庚申塚(かうしんづか)の北(きた)で中仙道(なかせんだう)を横(よこ)ぎり、滝野川(たきのがは)を通(とほ)つて一路(ろ)飛鳥山(あすかやま)へ突(つ)き当(あた)る。勿論(もちろん)昔(むかし)の本郷(ほんがう)からの路(みち)へは直角(ちよくかく)をなして合(がつ)してゐる訳(わけ)である。この桜(さくら)の小丘(せうきう)を見(み)るのは、何年(なんねん)振(ぶ)りなのであらうか。恐(おそ)らく四十何年(なんねん)か振(ぶ)りではなからうか。昔(むかし)はこゝをもこんな狭(せま)いところとはわれ/\は思(おも)つてゐなかつた。神田(かんだ)の学校(がくかう)はこゝまで運動会(うんどうくわい)をもつて来(き)たのであつた。当時(たうじ)の市内(しない)に公共用(こうきようよう)の空地(あきち)の少(すくな)かつたことと、それ等(ら)の運動会(うんどうくわい)の小規模(せうきぼ)であつたこととが、これで直(す)ぐ想像(さうざう)し得(え)られるであらう。いや、今日(こんにち)の若(わか)い人々(ひと/゛\)にはそんな想像(さうざう)はしがたくつて、却(かへ)つて嘘(うそ)の話(はなし)のやうに思(おも)ふくらゐであらう。昔(むかし)と違(ちが)ひ四辺(へん)も丘上(きうじやう)も小(こ)ざつぱりと清潔(せいけつ)になつてゐるので、なほ一層(そう)山(やま)の地域(ちゐき)が狭(せま)いやうに吾々(われ/\)の眼(め)にも見(み)えるのであらう。
 前(まへ)に挙(あ)げた『南向茶話(なんかうさわ)』は酒井忠昌(さかゐたゞまさ)の著(ちよ)で、寛延(くわんえん)四年(ねん)の手記(しゆき)のものであるらしいのだが、このあたりより青山百人町(あをやまひやくにんちやう)までは昔(むかし)の鎌倉海道(かまくらかいだう)であつたといふ記述(きじゆつ)がある。即(すなは)ち逆(ぎやく)にいふと、千住(ぢゆ)から王子(わうじ)の脇(わき)の谷村(たにむら)即(すなは)ち豊島村(としまむら)へ出(で)て、滝野川(たきのがは)、雑司(ざふし)ケ谷(や)、護国寺後(ごこくじうしろ)、高田馬場(たかだのばば)、大久保(おほくぼ)、千駄谷(だがや)八幡前(まんまへ)、原宿(はらじゆく)を経(へ)る路(みち)で、さういふ時代(じだい)には、豊島村(としまむら)がこの郡(ぐん)の府(ふ)であつて、百人町(ひやくにんちやう)から小田原(をだはら)へ向(むか)ふ路(みち)をば俗(ぞく)に中路(なかみち)と称(とな)へたといふのである。さうすると今(いま)吾々(われ/\)の通(とほ)つて来(き)た環状線(くわんじやうせん)はこの大昔(おほむかし)の海道(かいだう)であつた。全(まつた)くの野中(のなか)の路(みち)ともいふべきものの、西側(にしがは)の外廻(そとまは)りをば大(おほ)きくぐるうりと一廻(ひとまは)りして、こゝらあたりで、その古道(こだう)に合(がつ)したことになるのらしいのだ。ところで、青山(あをやま)からの中路(なかみち)といふのは、今(いま)の渋谷(しぶや)を通(とほ)つてをる厚木大山道(あつぎおほやまみち)と大体(だいたい)同(おな)じものではなからうか。ともあれ、この中路(なかみち)は小田原(をだはら)まで十八里(り)で、日本橋(にほんばし)から行(ゆ)く東海道(とうかいだう)より二里近(りちか)いと記(しる)されてゐる。
 こゝで前記(ぜんき)の面影橋(おもかげばし)のことが気(き)になるので、嘉永板(かえいばん)の江戸地図(えどちづ)を見(み)ると、今(いま)の面影橋(おもかげばし)と同(おな)じ位置(いち)に橋(はし)がある。『南向茶話(なんかうさわ)』には『高田(たかだ)の末(すゑ)より向(むか)うへ渡(わた)り候(さふらふ)橋(はし)』とあるのだから、どうもこの橋(はし)らしくも思(おも)はれる。前記(ぜんき)の蕎麦屋(そばや)の傍(そば)の小橋(こばし)だといふのは、筆者(ひつしや)の記憶(きおく)違(ちが)ひなのであらう。

  六

 今(いま)仮(かり)に、飛鳥山(あすかやま)から千駄谷(だがや)あたりまでへ直線(ちよくせん)を画(ゑが)いてみると、環状道路(くわんじやうだうろ)はこれに対(たい)して、大凡(おほよそ)抛物線(パラホフ)の形(かたち)をなしてゐるともいへるであらう。
 さて、路線(ろせん)はこゝで飛鳥山(あすかやま)の北横(きたよこ)を小廻(こまは)りして、低(ひく)い傾斜(けいしや)を下(くだ)り、東北線(とうほくせん)の鉄路(てつろ)を越(こ)える。こゝの川(かは)は名主(なぬし)の滝(たき)をなしてをる石神井川(しやくじゐがは)で、本流(ほんりう)は殆(ほとん)ど真直(まつす)ぐに東(ひがし)へ向(むか)ひ、豊島(としま)と小台(をだい)との間(あひだ)で荒川(あらかは)へ注(そゝ)いでをるのだが、支流(しりう)は飛鳥山(あすかやま)から上野(うへの)へ連亙(れんこう)してをる丘陵(きうりよう)の東麓(とうろく)に沿(そ)うて南(みなみ)へ向(むか)ひ、根岸(ねぎし)へ入(はひ)つていはゆる音無川(おとなしがは)となつてをるのだと思(おも)ふ。
 今(いま)はその音無川(おとなしがは)も川(かは)ではなくつて全(まつた)くの泥溝(どぶ)になつてしまつた。今(いま)から四十年(ねん)ぐらゐ前(まへ)までは、旧市内(きうしない)でさへ、少(すこ)し場末(ばすゑ)へ行(ゆ)くと、可(か)なり水(みづ)の澄(す)んだ、小魚(こうを)の影(かげ)ぐらゐは見(み)られるやうな小流(こながれ)があつたものであつて、それらが町家(ちやうか)の間(あひだ)にあつて、一種(しゆ)の半都会的(はんとくわいてき)の景物(けいぶつ)をなしてゐたのだが、それらの風情(ふぜい)ある小流(こながれ)は大抵(たいてい)は皆(みな)埋(う)められてしまひ、僅(わづか)に残(のこ)つてゐるものは、水(みづ)汚(よご)れ、流(なが)れ細(ほそ)つて、小虫(こむし)さへ住(す)まぬ泥溝(どぶ)になつてしまつた。沿岸(えんがん)一帯(たい)に人家(じんか)の稠密(ちうみつ)になつた結果(けつくわ)で、是非(ぜひ)なきところである。
 このあたりから、吾々(われ/\)の車(くるま)は車頭(しやとう)を東南(とうなん)へ向(む)けて、三(み)の輪(わ)をさして急(いそ)ぐのであつたが、尾久駅(をぐえき)あたりからは、さすがに沿道(えんだう)に雑草(ざつさう)の生(お)ひ茂(しげ)つた空地(あきち)が見(み)えて、如何(いか)にも郊外(かうぐわい)らしい空気(くうき)が濃(こ)まやかである。家々(いへ/\)の規模(きぼ)も余程(よほど)小(ちひ)さくなりだした。路(みち)は滝野川区(たきのがはく)の東北端(とうほくたん)をかす/\のところで横(よこ)ぎり、荒川区(あらかはく)の南寄(みなみよ)りを東(ひがし)へと貫(つらぬ)いてゐるのだ。
 昔(むかし)は本所(ほんじよ)あたりは下町(したまち)の敗残者(はいざんしや)の逃避(たうひ)の地区(ちく)であつたといはれた。なほ窮迫(きうはく)の度(ど)の増(ま)すに従(したが)ひ、更(さら)に奥(おく)へ奥(おく)へと引(ひ)つ込(こ)んで行(ゆ)くのであるが、その引越(ひきこ)し荷物(にもつ)を見(み)てさへ、その家運(かうん)衰退(すゐたい)の度合(どあ)ひが明(あき)らかに看取(かんしゆ)されるといふのであつた。即(すなは)ち、初(はじ)め両国橋(りやうごくばし)を越(こ)える荷車(にぐるま)には、まだしも少(すこ)しは見栄(みば)えのする物(もの)が積(つ)まれてゐるのであるが、次(つぎ)の場所(ばしよ)へと向(むか)ふ車上(しやじやう)には、次第(しだい)にガラクタの数(かず)さへ減(へ)つて行(い)くといふのであつた。
 今(いま)この新市(しんし)の北端(ほくたん)に住(す)む人々(ひと/゛\)を旧市(きうし)からの敗残者(はいざんしや)であるとはいひ難(がた)からう。これ等(ら)の人々(ひと/゛\)は、一朝(てう)運(うん)来(きた)らば、大都(だいと)の中心(ちうしん)を一気(き)に攻略(こうりやく)せんがために、空拳(くうけん)先(ま)づ外郭(ぐわいくわく)より攻(せ)め落(おと)さんといそしむ勇敢(ゆうかん)なる小市民(せうしみん)であらうといひ度(た)いのだ。
 尾久駅(をぐえき)の傍(そば)を過(す)ぎてからであつたと思(おも)ふのだが、両側(りやうがは)の家々(いへ/\)が殆(ほとん)どみな仮小舎(かりごや)のやうな小屋(せうをく)になり、商品(しやうひん)が路傍(ろばう)へ滾(こぼ)れ出(だ)したやうに列(なら)べられ、まるで、露店(ろてん)の街(まち)のやうに見(み)えるところがあつた。さういふ街(まち)の中心(ちうしん)へ入(はひ)る前(まへ)、右側(みぎがは)に、菊(きく)の鉢(はち)を歩道(ほだう)の縁(へり)へまで列(なら)べた植木屋(うえきや)らしい店(みせ)を見(み)かけたが、この霜(しも)に傲(おご)るといふ豪華(がうくわ)な花(はな)の紅黄白(こうくわうはく)、色(いろ)とり/゛\の豊艶(ほうえん)な姿(すがた)が、四辺(あたり)のくすんだ物(もの)の色(いろ)のなかから鮮(あざや)かに抜(ぬ)け出(だ)してゐるのが眼(め)にはひつた。
 古著(ふるぎ)の店(みせ)、古靴(ふるぐつ)の店(みせ)、古金物(ふるかなもの)の店(みせ)、露天向(ろてんむき)の玩具(おもちや)の店(みせ)、新品(しんぴん)ながら三等品(とうひん)、四等品(とうひん)と見(み)えるさま/゛\の商品(しやうひん)をごた/\と店先(みせさ)きへぶちまけたやうにならべた小店(こみせ)、それ等(ら)の店(みせ)が皆(みな)屋根(やね)は、塗(ぬ)りも汚(よご)れきつた古亜鉛(ふるとたん)を屋根(やね)にした、仮小舎(かりごや)用(よう)の細(ほそ)い柱(はしら)の、形(かた)ばかりの小舎(こや)である。どう見(み)ても、片田舎(かたゐなか)の市場(いちば)でもなければ、都会(とくわい)では到底(たうてい)見(み)られない雑然(ざつぜん)たる光景(くわうけい)である。要(えう)するに、此所(ここ)が都会(とくわい)と田舎(ゐなか)との境目(さかひめ)といふ感(かん)じではあるが、それでゐて、田舎(ゐなか)には見(み)られない不思議(ふしぎ)な一脈(みやく)の活気(くわつき)が漂(たゞよ)つてゐるやうに見(み)える。
 大都会(だいとくわい)といふ多足(たそく)の大動物(だいどうぶつ)はその触手(しよくしゆ)をさし伸(のば)して、周囲(しうゐ)の村郊(そんかう)を腹中(ふくちう)に抱入(はうにふ)せんとするといふのであるが、この大蛸(おほだこ)たる大東京(だいとうきやう)は、これ等(ら)雑然(ざつぜん)、混然(こんぜん)たる北郊(ほくかう)の一角(かく)をば、その吸盤(きうばん)多(おほ)き手(て)で吸(す)ひ寄(よ)せ得(う)るであらうか。土地(とち)そのものはすでに吸(す)ひ得(え)た。希(ねが)はくは、今(いま)の住民(ぢうみん)諸君(しよくん)を圏外(けんぐわい)へ押(お)し退(の)けることのなからんことを望(のぞ)む。

  七

 ある人々(ひと/゛\)は、これ等(ら)の商店(しやうてん)、商品(しやうひん)の雑多(ざつた)にならんでをる有様(ありさま)から、支那(しな)にある泥棒市(どろぼういち)の光景(くわうけい)を憶(おも)ひ出(だ)したといつた。このあたりの商品(しやうひん)は勿論(もちろん)贓品(ざうひん)ではなく、人(ひと)も決(けつ)して犯罪者(はんざいしや)でないことはいふまでもないが、支那(しな)の泥棒市(どろぼういち)といふのは、甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものだと聞(き)いてゐる。盗(ぬす)まれた品物(しなもの)が、翌朝(よくてう)早(はや)くその市(いち)へ行(い)つてみると、必(かなら)ず何(いづ)れかの店(みせ)に出(で)てをつて、僅(わづか)の金(かね)で買(か)ひ戻(もど)せるといふのである。普通(ふつう)吾々(われ/\)は中古(ちうぶる)でまだ使(つか)へる品物(しなもの)を盗(ぬす)まれた時(とき)には、同(おな)じやうな中古(ちうぶる)の品(しな)を見附(みつ)けて買(か)つて来(く)るといふ訳(わけ)には行(い)かぬのであるから、誰(だれ)しも新(あたら)しい品(しな)を新(あらた)に買(か)ふことになる。さうすると、それは吾々(われ/\)に取(と)つては甚大(じんだい)な負担(ふたん)になることはいふまでもあるまい。ところが、泥棒市(どろぼういち)の如(ごと)きものがあつて、そこへ早(はや)く駈(か)けつければ盗(ぬす)まれたその同(おな)じ品(しな)が新品(しんぴん)の三分(ぶん)の一なり、五分(ぶん)の一なりで買(か)ひ戻(もど)せるとすれば、盗難(たうなん)から来(く)る損害(そんがい)は極(きは)めて小害(せうがい)で済(す)んでしまふ理窟(りくつ)である。文化(ぶんくわ)の進(すゝ)まざるところ、治安(ちあん)の行政(ぎやうせい)の行(い)きとゞかざるところには、またそれはそれで一種(しゆ)奇妙(きめう)な便法(べんぱふ)が行(おこな)はれるものだと、微笑(びせう)を禁(きん)じ得(え)ない訳(わけ)である。
 路(みち)は三河島(みかはしま)の東端(とうたん)から、なお一層(そう)南(みなみ)へ曲折(きよくせつ)し、常磐線(じやうばんせん)の鉄路(てつろ)を越(こ)え、三(み)の輪(わ)町(まち)へ入(はひ)る。ここは下谷区(したやく)であつて、その北(きた)がいわゆる骨(こつ)即(すなは)ち小塚(こづか)ツ原(ぱら)である。やがて、路(みち)は三(み)の輪(わ)車庫(しやこ)の裏手(うらて)数町(すうちやう)のところで、正東(しやうひがし)へ転(てん)じ直(ぢ)きに浅草区(あさくさく)の文字通(もじどほ)りの最北端(さいほくたん)を通(つう)じてをる。その幾分(いくぶん)下谷(したや)寄(よ)りのところで、花川戸(はなかはど)から千住(せんじゆ)へ通(つう)じてをる陸羽街道(りくうかいだう)を突(つ)つ切(き)るのであるが、その北(きた)、鉄路(てつろ)を越(こ)えたところが、往時(わうじ)の小塚(こづか)ツ原(ぱら)、即(すなは)ち南千住(みなみせんじゆ)であつて、近年(きんねん)までこつの娼楼(しやうろう)が数軒(すうけん)淋(さび)しげに路傍(ろばう)に列(なら)んでゐた。浄瑠璃(じやうるり)などにある小磯(こいそ)ケ原(はら)といふのはこゝであらうと思(おも)ふのだが、線路(せんろ)の下(した)に濡仏(ぬれぼとけ)が見(み)えたことを記憶(きおく)する。今(いま)はそれはどうなつたのであらうか。或(あるひ)はこの辺(へん)少(すこ)し鉄路(てつろ)の模様(もやう)が変(かは)つたのではなからうかと思(おも)ふ。とにかく、上野(うへの)から行(ゆ)くと、鉄路(てつろ)の土手下(どてした)、右手(みぎて)に大(おほ)きい青銅(せいどう)の濡仏(ぬれぼとけ)があつたと思(おも)ふのである。
 地図(ちづ)で見(み)ると、このあたりでは環状道路(くわんじやうだうろ)が浅草(あさくさ)の北(きた)の区界(くかい)ぎり/\のところを東(ひがし)へ通(とほ)つている。恐(おそ)らくこの道路(だうろ)の北側(きたがは)は荒川区(あらかはく)になつてをるのではなからうか。地方今戸町(ぢかたいまどまち)から南干住(みなみせんじゆ)へと出(で)る路(みち)は大昔(おほむかし)は隅田川(すみだがは)添(ぞ)ひの沢地(さはち)であつたと見(み)え、ところどころ沼(ぬま)のやうなものが見(み)えて、じめ/\した如何(いか)にも場末(ばすゑ)らしい見(み)すぼらしい地域(ちゐき)であつたのだが、今(いま)はなか/\潔(きよ)げな物静(ものしづ)かな街路(がいろ)になつてをる。文明(ぶんめい)の恩沢(おんたく)といふべきところであらう。
 吾妻橋(あづまばし)から以北(いほく)、千住大橋(せんじゆおほはし)までは、吾々(われ/\)の知(し)つてゐる時代(じだい)は勿論(もちろん)、幕政時代(ばくせいじだい)にも橋(はし)は一(ひと)つもなかつたやうである。ところが『南向茶話(なんかうさわ)』を見(み)ると、左(さ)の通(とほ)りの記述(きじゆつ)がある。
 『橋場辺(はしばへん)の義(ぎ)、此地(このち)の古老物語(こらうものがた)りにいにしへこゝに橋(はし)有候(ありさふらふ)故(ゆゑ)、橋場(はしば)と号(がう)しけると云(いふ)、その儀(ぎ)尋候(たづねさふらふ)所(ところ)に、只今(たゞいま)隅田川(すみだがは)渡(わた)し舟(ぶね)有之候(これありさふらふ)所(ところ)より川上壱町程に古の橋杭残り、折(をり)ふし往来(ゆきき)の船筏(ふねいかだ)にかゝり候(さふらふ)由(よし)なり』
 橋場(はしば)の渡(わた)しは近年(きんねん)は寺島(てらじま)の渡(わた)しと呼(よ)ばれてゐたのである。この記述(きじゆつ)によるとすれば、現今(げんこん)の白鬚橋(しらひげばし)附近(ふきん)(或(あるひ)はその少(すこ)し下流(かりう)か)に往時(わうじ)──寛延(くわんえん)よりずつと以前(いぜん)──橋(はし)があつたものと見(み)なければならぬことになるのである。
 路(みち)は、その白鬚橋(しらひげばし)を渡(わた)つて、向島区(むかうじまく)へ入(はひ)る。即(すなは)ち、この頃(ころ)まで、向島(むかうじま)の寺島村(てらじまむら)、隅田村(すみだむら)と唱(とな)へ来(きた)つた地区(ちく)である。路線(ろせん)は白鬚神社(しらひげじんじや)のところから、斜(なゝめ)に東南(とうなん)へと向(むか)ひ百花園(ひやくくわゑん)を右(みぎ)にし、玉(たま)ノ井(ゐ)を左(ひだり)にして、昔(むかし)の吾嬬村(あづまむら)の方(はう)へと向(むか)つてをる。また『南向茶話(なんかうさわ)』を引(ひ)くが往時(わうじ)の本所(ほんじよ)は現今(げんこん)の地区(ちく)よりはかなり北(きた)までをいつたものらしい。

  八

 その『南向茶話(なんかうさわ)』の一節(せつ)には、本所(ほんじよ)は本庄(ほんじやう)といふのが古(ふる)い名(な)であつて、今(いま)の信越線(しんゑつせん)の熊谷(くまがひ)の先(さ)きに本庄(ほんじやう)といふ地名(ちめい)があるので、同名(どうめい)を嫌(きら)つて、元禄年中(げんろくねんちう)本所(ほんじよ)と改(あらた)めたとある。梅若(うめわか)の事跡(じせき)については、猿楽伝(さるがくでん)といふ謡(うたひ)の由来(ゆらい)及(およ)び謡(うたひ)の家元(いへもと)四太夫(しだいふ)の家伝(かでん)を記(しる)した書物(しよもつ)には、家康(いへやす)の関東(くわんとう)入国後(にふごくご)、武蔵(むさし)の国(くに)を謡(うた)つたものが余(あま)り少(すくな)いので、命(めい)じて梅若(うめわか)事跡(じせき)の隅田川(すみだがは)の謡(うたひ)を作(つく)らせた。その頃(ころ)、夫婦(ふうふ)の非人(ひにん)があつて、梅若(うめわか)の有様(ありさま)を物真似(ものまね)して歩(ある)いたといふのだから、余(あま)りさう古(ふる)くからの伝説(でんせつ)ではなかりさうである。ある説(せつ)には、事跡(じせき)は上古(じやうこ)円融院(ゑんゆうゐん)の時代(じだい)(凡(およそ)九百五十年前(ねんぜん))の事(こと)だといふのだが『茶話(さわ)』の筆者(ひつしや)は、それよりずつと後(のち)の足利時代(あしかゞじだい)乱世(らんせい)の頃(ころ)のことであらうと思(おも)ふと記(しる)してをる。又(また)、文明(ぶんめい)の頃(ころ)(凡(およそ)四百五十年程(ねんほど)前(まへ))五山僧(ざんさう)横川叟景三(よかはそうけいさん)の詩集(ししふ)にも梅若童子悼(うめわかどうじたう)といふ詩(し)があるから、或(あるひ)はその時代(じだい)のことかも知(し)れぬとある。それから又(また)この土地(とち)に業平天神(なりひらてんじん)その他業平(なりひら)に縁故(えんこ)のあるらしいやうな地名(ちめい)があるのは、伊勢物語(いせものがたり)にある都鳥(みやこどり)の歌(うた)などから、業平(なりひら)を祭(まつ)ることになつたが為(ため)であらうといつてある。それに因(ちな)んで憶(おも)ひ出(だ)すが、荻生徂徠(をぎふそらい)の『南留別志(なるべし)』には、伊勢物語(いせものがたり)は歌(うた)の作例(さくれい)を示(しめ)したものであらうと思(おも)ふ。これを伝記的価値(でんきてきかち)のあるものとするのは誤(あやま)りであらうとあるのだが、これは道理(だうり)ある説(せつ)であらう。
 一体(たい)、本所(ほんじよ)の郊外(かうぐわい)寄(よ)りは、小梅(こんめ)といひ、中(なか)ノ郷(がう)といひ、割下水(わりげすゐ)といひ、砂村(すなむら)といひ、縛(しば)られ地蔵(ぢざう)(これは仮作(かさく))、置(お)いてけ堀(ぼり)、狸囃子(たぬきばやし)等(とう)のいはゆる本所(ほんじよ)の七不思議(なゝふしぎ)等(とう)さま/゛\の伝説(でんせつ)に富(と)み、且(かつ)演劇(えんげき)、小説(せうせつ)の場面(ばめん)に使(つか)はれてをる地点(ちてん)を多(おほ)く有(いう)する地区(ちく)である。大都(だいと)の場末(ばすゑ)ではあつたが、それでも交通(かうつう)その他(た)の関係(くわんけい)で、人的交渉(じんてきかうせふ)が多(おほ)かつたので、山手(やまのて)よりは多(おほ)くさま/゛\の物語(ものがたり)のなかに使用(しよう)されるに至(いた)つたのであらうと思(おも)ふ。
 環線道路(くわんせんだうろ)は、曳舟川(ひきぶねがは)を越(こ)し、直線的(ちよくせんてき)に進(すゝ)んで、をむらい(小向井(をむらゐ)?)に至(いた)つて、右(みぎ)へ向(む)けて少(すこ)し弧線(こせん)を画(ゑが)き、福神橋(ふくじんばし)で北(きた)十間川(けんがは)を渡(わた)り、房総線(ばうそうせん)の亀戸停車場(かめゐどていしやぢやう)の西側(にしがは)を掠(かす)めて南向(なんかう)してをるのであるが、吾々(われ/\)が往時(わうじ)は郊外(かうぐわい)の果(はて)だぐらゐに思(おも)つてゐたところの押上(おしあげ)、業平(なりひら)、柳島(やなぎしま)、亀戸天神(かめゐどてんじん)などはこの大路線(だいろせん)からいへば、西側(にしがは)、即(すなは)ちずつと内側(うちがは)になつてしまつた。これだけでも、市域(しゐき)の拡大(くわくだい)したことの概念(がいねん)が得(え)られるであらう。
 街路(がいろ)は荒川区(あらかはく)の場合(ばあひ)とは違(ちが)ひ、さう新開(しんかい)らしい珍奇(ちんき)な光景(くわうけい)は見(み)られない。勿論(もちろん)、所(ところ)がらさして目立(めだ)つ程(ほど)の活気(くわつき)は見(み)られはせぬが、両側(りやうがは)の小商店(こしやうてん)皆(みな)かなりな落著(おちつき)を見(み)せてゐる。甚(はなは)だしく新(あたら)しい新開(しんかい)の地域(ちゐき)でないためかも知(し)れぬ。福神橋(ふくじんばし)のあたりは天神(てんじん)の直(す)ぐ裏手(うらて)に当(あた)るくらゐなのだから、この辺(へん)などは割合(わりあひ)に早(はや)く開(ひら)けたものと見(み)て宜(よろ)しからうと思(おも)ふ。
 北(きた)十間川(けんがは)を越(こ)えると、区(く)は城東区(じやうとうく)になり、町(まち)は亀戸町(かめゐどまち)になる。新市(しんし)はまだこの先(さ)き放水路(はうすゐろ)を越(こ)して、北(きた)から足立区(あだちく)、葛飾区(かつしかく)、その南(みなみ)に江戸川区(えどがはく)と、下総(しもふさ)との国境(くにざかひ)江戸川縁(えどがはべり)にまで広(ひろ)がつてゐるのであるから、もう、尾久(をぐ)、三河島(みかはしま)、向島(むかうじま)、亀戸(かめゐど)あたりを郊外(かうぐわい)の新開(しんかい)のやうに思(おも)ふのは、吾々(われ/\)の全(まつた)く時代(じだい)後(おく)れの考(かんが)へである。
 又(また)、西(にし)の方(はう)でいへば、板橋区(いたばしく)、中野区(なかのく)、杉並区(すぎなみく)、世田谷区(せたがやく)、その南(みなみ)で荏原区(えばらく)、大森区(おほもりく)、蒲田区(かまたく)といふ風(ふう)に、神奈川県(かながはけん)との県境(けんざかひ)、六郷川(ろくがうがは)まで延長(えんちやう)してをる、新市(しんし)は全(まつた)くとてつもなく広(ひろ)がつたものである。
 さて、環線道路(くわんせんだうろ)は五(ご)ノ橋(はし)で竪川(たてかは)を渡(わた)つて、大島町(おほしまちやう)へ入(はひ)つてから、現今(げんこん)のところ、少(すこ)し未了(みれう)になつてをる。この路線(ろせん)は新市(しんし)からいへば、外廻(そとまは)りの路(みち)ではなく、むしろ中心(ちうしん)に近(ちか)い目黒(めぐろ)、渋谷(しぶや)、淀橋(よどばし)、豊島(としま)、滝野川(たきのがは)、荒川(あらかは)、下谷(したや)、浅草(あさくさ)、向島(むかうじま)、城東区(じやうとうく)の十区(く)を貫通(くわんつう)するに過(す)ぎないのであるが、しかもなおその幅凡(はゞおよそ)十三間(げん)、延長(えんちやう)十里(り)に垂(なんな)んとする大路線(だいろせん)なのだ。



時代に取り残された乗物

     川蒸気とガタ馬車

 明治(めいぢ)の始(はじ)め頃(ごろ)と云(い)つたところで、僕(ぼく)は十二三年頃(ねんごろ)から此(こ)の方(かた)のことしか知(し)らぬのであるが、僕(ぼく)のさういふ記憶(きおく)のなかにある事柄(ことがら)から云(い)つても、交通(かうつう)の機関(きくわん)は、少(すこ)し遠路(ゑんろ)に渉(わた)るものであるとすると、汽船(きせん)と馬車(ばしや)(乗合(のりあひ))であつたやうだ。
 九州(しう)とか、四国(こく)とかいふやうな島内(たうない)の各地(かくち)から本土(ほんど)への交通(かうつう)は、封建時代(ほうけんじだい)に於(おい)てすら、船(ふね)(日本型(にほんがた))によつたのであるから、汽船(きせん)が使用(しよう)されるやうになつて、それらの土地(とち)から京阪(けいはん)とか東京(とうきやう)などへの交通(かうつう)が汽船(きせん)によつて行(おこな)はれるやうになつたことは云(い)ふまでもない事(こと)であらう。
 のみならず本土(ほんど)の方(はう)でも、例(たと)へば入海(いりうみ)とか湖水(こすゐ)とかいふやうな広(ひろ)い水(みづ)の上(うへ)では、昔(むかし)も可(か)なり小舟(こぶね)を交通(かうつう)の手段(しゆだん)に用(もち)ひたところがあつたやうであるが、さういふ場所(ばしよ)では、明治(めいぢ)になつてからは間(ま)もなく小汽船(せうきせん)、所謂(いはゆる)川蒸汽(かはじようき)を用(もち)ひるやうになつたらしいのである。
 現(げん)に僕(ぼく)は明治(めいぢ)十一年(ねん)の初夏(しよか)(寧(むし)ろ晩春(ばんしゆん)か)琵琶湖(びはこ)をば、小汽船(せうきせん)で、大津(おほつ)から米原(まいばら)まで来(き)たことを記憶(きおく)して居(ゐ)る。船(ふね)が何噸(なんトン)ぐらゐなものであつたのか、時間(じかん)が何(ど)れ程(ほど)掛(かゝ)つたのか、さういふ点(てん)になると、何(ど)うも記憶(きおく)が朧気(おぼろげ)である。それから又(また)、その船(ふね)は彦根(ひこね)の松原(まつばら)あたりから、支湖(しこ)へ入(はひ)つて、直接(ちよくせつ)に米原(まいばら)へ着(つ)いたかどうか、さういふ点(てん)も判然(はんぜん)とは覚(おぼ)えてゐない。けれども、その時分(じぶん)、もう既(すで)に琵琶湖(びはこ)を渡(わた)る定期(ていき)の小蒸汽船(こじやうきせん)のあつたことだけは確(たしか)である。勿論(もちろん)外輪式(ぐわいりんしき)のものであつた。
 又(また)、その旅(たび)で、浜名湖(はまなこ)を非常(ひじやう)に小形(こがた)な汽船(きせん)で渡(わた)つたことも記憶(きおく)して居(ゐ)る。これは今(いま)瀬戸内海(せとないかい)で見(み)る島(しま)と島(しま)との間(あひだ)の渡船(とせん)で、石油汽缶(せきゆきくわん)の附(つ)いてゐる極(ご)く小形(こがた)の船(ふね)があるのであるが、浜名湖(はまなこ)の渡船(とせん)も大凡(おほよそ)そんなくらゐの大(おほ)きさのものであつたやうに思(おも)ふ。薪(まき)を焚(た)いて汽鑵(きくわん)の湯(ゆ)を沸(わか)してゐたやうにさへ思(おも)ふのだ。
 さういふ風(ふう)に、所謂(いはゆる)川蒸汽(かはじようき)の記憶(きおく)はあり、人力車(じんりきしや)に乗(の)つたことも勿論(もちろん)記憶(きおく)して居(を)るのだが、乗合馬車(のりあひばしや)に乗(の)せられた記憶(きおく)が少(すこ)しもない。これは僕(ぼく)が忘(わす)れてしまつたのではないと思(おも)ふ。自分(じぶん)が乗(の)つた覚(おぼ)えがないばかりでなく、乗合馬車(のりあひばしや)の駈(か)けて居(を)るといふやうなところをさへ見(み)たこともないやうである。
 その時分(じぶん)の東海道(とうかいだう)などでは、余(あま)り乗合馬車(のりあひばしや)がなかつたのではあるまいか。駕籠舁(かごかき)から変(かは)つた人力車夫(じんりきしやふ)が多(おほ)かつたので、乗合馬車(のりあひばしや)を通(つう)ずることができなかつたといふやうな理由(りいう)があつたといふ風(ふう)に考(かんが)へられないこともなかりさうである。
 しかし、東京(とうきやう)では、交通路(かうつうろ)が大抵(たいてい)陸路(りくろ)なのであるから、乗合馬車(のりあひばしや)はかなりに広(ひろ)く用(もち)ひられたやうである。船(ふね)の交通(かうつう)、即(すなは)ち汽船(きせん)による交通(かうつう)が開(ひら)けた土地(とち)、例(たと)へば東京(とうきやう)と横浜(よこはま)との間(あひだ)の如(ごと)きでも、汽船(きせん)と共(とも)に乗合馬車(のりあひばしや)の交通(かうつう)が開(ひら)けたらしく思(おも)はれる。勿論(もちろん)、これは、汽車(きしや)の開通(かいつう)するまでの事態(じたい)であつたのだ。
 両国(りやうごく)から、江戸川(えどがは)へ入(はひ)り、大利根(おほとね)へ出(で)て、銚子(てうし)まで下(くだ)る航路(かうろ)の如(ごと)きは、隅田川(すみだがは)の所謂(いはゆる)一銭蒸汽(せんじようき)よりも早(はや)く開(ひら)けたのではなからうか。とにかく、一銭蒸汽(せんじようき)は鉄道馬車(てつだうばしや)より少(すこ)し後(あと)になつてできたもののやうに記憶(きおく)する。但(たゞ)し、さう云(い)つても、もう明治(めいぢ)二十二年頃(ねんごろ)にはできてゐたやうに思(おも)ふのである。
 昔(むかし)から、今日(こんにち)のやうに、客船(きやくせん)の部分(ぶぶん)が曳船(ひきふね)になつて居(を)つたのであるか、どうか、それは僕(ぼく)には何(な)んとも云(い)へない。しかし、曳船式(ひきふねしき)ではなかつたやうには思(おも)ふ。
 僕(ぼく)はあの船(ふね)には余(あま)り乗(の)つたことがないので、知(し)つて居(を)ることがまことに少(すくな)いのであるが、鉄道馬車(てつだうばしや)ができてゐても、それは極端(きよくたん)に幹線(かんせん)だけであつたのだから、あの川(かは)をば、例(たと)へば両国(りやうごく)から言問(こととひ)まで、あの汽船(きせん)で横(よこ)ぎるとするならば、鉄道馬車(てつだうばしや)で雷門(かみなりもん)まで行(ゆ)き、それから、竹屋(たけや)まで歩(ある)き、渡船(とせん)で向(むか)うへ渡(わた)るといふのより余程(よほど)足数(あしかず)が少(すくな)くて済(す)んだであらうと思(おも)はれる。費用(ひよう)も同額(どうがく)ではあつたかも知(し)れぬが、川蒸汽(かはじようき)の方(はう)が高(たか)かつたことはなかつたらうと思(おも)ふ。
 朝吉原(あさよしはら)を出(で)て、公園(こうゑん)附近(ふきん)で食事(しよくじ)をしてから、向島(むかうじま)の方(はう)へ行(ゆ)く人々(ひと/゛\)に取(と)つては、吾妻橋(あづまばし)からあの汽船(きせん)に依(よ)るのが一番(ばん)便利(べんり)であつたらうとは、想像(さうざう)に難(かた)くない事柄(ことがら)である。
 今日(こんにち)まで東京(とうきやう)に永(なが)く住(すま)つて居(ゐ)る人々(ひと/゛\)であつたら、大抵(たいてい)の人々(ひと/゛\)があの汽船(きせん)に就(つい)ては、さま/゛\な記憶(きおく)を持(も)つて居(ゐ)られるであらうと思(おも)はざるを得(え)ない。
 斎藤緑雨(さいとうりよくう)の『ひかへ帳(ちやう)』のなかに、次(つぎ)のやうな一項(かう)がある。
 『もとより、途中(とちう)の出来心(できごゝろ)なれども、試(こゝろ)みにとその友(とも)に誘(さそ)はれて、いつなりしか壱銭(いつせん)がところをこれに乗(の)りぬ。室内(しつない)に座蒲団(ざぶとん)の配置(はいち)してあるを見(み)て、日本(にほん)も感心(かんしん)に行届(ゆきとゞ)いて来(き)たと、友(とも)は肥太(こえふと)りたる体(からだ)をむずと其(その)上(うへ)にすゑしに、船(ふね)の進行(しんかう)しはじめたる時(とき)、隅(すみ)なる男(をとこ)の手(て)を差出(さしだ)して、蒲団代(ふとんだい)を頂(いたゞ)きます。それはと今更(いまさら)退(の)けもなり難(がた)くて、われとともに三枚(まい)分(ぶん)は、甚(はなは)だ割(わり)の高(たか)きことなりし』
『壱銭(せん)がところ』といふのは無論(むろん)一区分(くぶん)の意味(いみ)であることはいふまでもないであらう。緑雨(りよくう)の此(こ)の友(とも)といふのは、緑雨(りよくう)の竹馬(ちくば)の友(とも)と云(い)つていゝくらゐの上田万年氏(うへだまんねんし)であるらしく思(おも)はれる。
 明治(めいぢ)四十二年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふのだが、ある夏(なつ)の午後(ごご)、田中貢太郎(たなかこうたらう)君(くん)と一緒(しよ)に両国(りやうごく)からあの船(ふね)で千住(せんぢゆ)まで行(い)つたことがある。今日(こんにち)の白鬚橋(しらひげばし)あたりかと思(おも)ふのだが(勿論(もちろん)その時分(じぶん)まだ橋(はし)はなかつたと思(おも)ふ)、川(かは)のなかに蘆(あし)の繁(しげ)つてゐるところなどがあり、一帯(たい)に所謂(いはゆる)寂(さび)し味(み)のある景色(けしき)で、其(そ)のあたりが何(な)んとも謂(い)へず心持(こゝろもち)がよかつたことを今日(こんにち)も尚(なほ)忘(わす)れ得(え)ないで居(を)る。

 東京(とうきやう)では、乗合馬車(のりあひばしや)は早(はや)くから市内(しない)は勿論(もちろん)、中仙道(なかせんだう)、奥州街道(あうしうかいだう)などへ向(む)けても、開通(かいつう)して居(を)つたといふのだ。雷門(かみなりもん)から新橋(しんばし)まで二階(かい)づきの馬車(ばしや)が通(かよ)つてゐたことがあつたといふ記録(きろく)はあるのだが、明治(めいぢ)十一二年(ねん)頃(ごろ)には、もうそんな馬車(ばしや)は通(とほ)つてはゐなかつた。のみならず、所謂(いはゆる)大通(おほどほ)りを二階(かい)なしの普通(ふつう)の乗合馬車(のりあひばしや)さへ通(とほ)つてゐたことを僕(ぼく)は目撃(もくげき)したことはないやうに思(おも)ふ。
 御成道(おなりみち)即(すなは)ち万世橋外(よろづよばしそと)から、伊藤松坂屋(いとうまつざかや)のところまでの路(みち)はその頃(ころ)は極(ご)く狭(せま)い路(みち)であつた。人力車(じんりきしや)が二台(だい)横(よこ)にならぶともう一杯(ぱい)になるであらうとさへ思(おも)はれるくらゐの細(ほそ)い路幅(みちはゞ)であつたので、あのあたりなどは、乗合馬車(のりあひばしや)は到底(たうてい)通(とほ)ることは許(ゆる)されなかつたのであらう。御成道(おなりみち)は特(とく)に狭(せま)い路(みち)であつた。幕政時代(ばくせいじだい)には何(なに)か理由(りいう)があつてあゝいふ風(ふう)に狭(せま)くしてあつた路(みち)であつたかも知(し)れぬ、と思(おも)はれるくらゐのものであつた。
 筋違(すじかひ)即(すなは)ち、大凡今(おほよそいま)の万世駅(まんせいえき)のあたりから、神田明神前(かんだみやうじんまへ)、本郷通(ほんがうどほ)り、追分(おひわけ)、白山前(はくさんまへ)などを経(へ)て、板橋(いたばし)へ通(かよ)ふ乗合馬車(のりあひばしや)は明(あき)らかに記憶(きおく)して居(を)る。随分(ずゐぶん)車体(しやたい)は汚(きた)ならしく、馬(うま)は痩(や)せてゐて、一寸(ちよつと)危険(きけん)を感(かん)ぜられるくらゐに見(み)えて、馬(うま)が暴(あば)れ出(だ)して、加賀邸(かがてい)前(まへ)の薪屋(まきや)の外(そと)の高(たか)く積(つ)んだ薪(まき)へ突(つ)き当(あた)つて、薪(たきゞ)の山(やま)が崩(くづ)れたのを見(み)たこともあるし、また病馬(びやうば)であつたがためか、路上(ろじやう)で倒(たふ)れて起(お)き上(あが)らずに、人々(ひと/゛\)がその始末(しまつ)に大騒(おほさわ)ぎして居(を)るのを見(み)たことがある。そんなやうなためもあつたのか、何(ど)うか、とにかく、今(いま)の乗合自動車(のりあひじどうしや)のやうに短距離(たんきより)の客(きやく)は殆(ほとん)どなかつたやうであつた。板橋(いたばし)で乗(の)つた客(きやく)が大抵(たいてい)終点(しうてん)の筋違(すじかひ)まで行(ゆ)くといふ風(ふう)であつたのではあるまいかと思(おも)ふのだ。馭者(ぎよしや)の外(ほか)に別当(べつたう)(馬丁(ばてい))が附(つ)いてゐるやうに思(おも)ふ。その別当(べつたう)が、近頃(ちかごろ)まで豆腐屋(とうふや)の用(もち)ひてゐたと同(おな)じ形(かたち)の喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、通行(つうかう)の人々(ひと/゛\)に注意(ちうい)を与(あた)へるのであつた。乗合馬車(のりあひばしや)は今日(こんにち)でも地方(ちはう)ではまだ残(のこ)つて居(を)るところがある。乗合自動車(のりあひじどうしや)の通(かよ)ふ沼津(ぬまづ)あたりでさへも、一頭立(とうだ)ての乗合馬車(のりあひばしや)が見(み)かけられるのであるが、昔(むかし)の乗合馬車(のあひばしや)はさういふ今日(こんにち)の乗合馬車(のりあひばしや)よりもずつと汚(きたな)いものであつた。
 橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)といふ落語家(はなしか)があつて、高座(かうざ)で喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、その別当(べつたう)の真似(まね)をしたので、さういふ早(はや)い時代(じだい)の乗合馬車(のりあひばしや)をば円太郎馬車(ゑんたらうばしや)と呼(よ)ぶやうになつたのだ。こんなことは当時(たうじ)のことを知(し)つて居(を)る吾々(われ/\)に取(と)つては、書(か)くになぞ及(およ)ばない程(ほど)明白(めいはく)なことであると思(おも)ふのだが、今日(こんにち)ではもうこんな事(こと)さへ知(し)らぬ人(ひと)が多(おほ)くなつた。現(げん)に先達(せんだつ)てのこと、ラジオを聴(き)いて居(を)るといふと、何(な)んとかいふ若(わか)い咄家(はなしか)が、円太郎(ゑんたらう)が鉄道馬車(てつだうばしや)の馬丁(ばてい)の真似(まね)をしたと話(はな)してゐた。円太郎馬車(ゑんたらうばしや)といふのは、鉄道馬車(てつだうばしや)よりずつと以前(いぜん)の、ずつと粗造(そざう)の馬車(ばしや)のことを云(い)つたものである。
 鉄道馬車(てつだうばしや)は明治(めいぢ)十六七年(ねん) 頃(ごろ)のものであらうかと思(おも)ふのだが、それでも、二十三四年(ねん)頃(ごろ)は、新橋(しんばし)と品川(しながは)の間(あひだ)は、路幅(みちはゞ)の関係(くわんけい)であらうと思(おも)ふが、鉄道馬車(てつだうばしや)でなく、並(なみ)の乗合馬車(のりあひばしや)が通(とほ)つてゐた。けれども、その馬車(ばしや)でも、スプリングの工合(ぐあひ)、座席(ざせき)の固(かた)さなど、鉄道馬車(てつだうばしや)より余程(よほど)粗造(そざう)ではあつたが、円太郎馬車(ゑんたらうばしや)とは比較(ひかく)にならぬ程(ほど)進歩(しんぽ)したものであつた。
 円太郎馬車(ゑんたらうばしや)の今(いま)一線(せん)は、花川戸(はなかはど)あたりから宇都宮(うつのみや)へ通(かよ)ふものであつた。僕(ぼく)はこれは見(み)たことはない。明治(めいぢ)十二年(ねん)頃(ごろ)から開通(かいつう)したといふ記録(きろく)があるといふのだ。東京(とうきやう)から日光(につくわう)へ行(ゆ)く人(ひと)など此(こ)の馬車(ばしや)に依(よ)つたものであらうかと思(おも)ふ。
 伯爵(はくしやく)金子堅太郎(かねこけんたらう)さんが僕(ぼく)の亡兄(ばうけい)と一緒(しよ)に、日光(につくわう)へ行(い)つて、寺(てら)の座敷(ざしき)を借(か)りて、滞在(たいざい)しやうとしたところが、一遍(ぺん)は承諾(しようだく)して置(お)きながら、あとになつて断(ことわ)るので、詰問(きつもん)の末(すゑ)、寺(てら)から止宿者(ししゆくしや)の届(とゞけ)を警察(けいさつ)へ出(だ)しに行(ゆ)くと、金子(かねこ)さんは福岡県士族(ふくをかけんしぞく)、亡兄(ばうけい)は高知県士族(かうちけんしぞく)といふのであつたので、西南役(せいなんえき)直後(ちよくご)のことであつたので、警察(けいさつ)では眼(め)を円(まる)くして、なるべくは、そんな者(もの)には座敷(ざしき)を貸(か)さぬ方(はう)がよくはないかと、云(い)つたので、和尚(をしやう)は驚(おどろ)いて、断(ことわ)つたといふことが分(わか)つて、亡兄(ばうけい)などは契約法(けいやくはふ)の講義(かうぎ)じみたことまでやつて、和尚(をしやう)を痛(いた)めつけたといふ話(はなし)を、金子(かねこ)さんが笑(わら)つて話(はな)されたことがある。そのときの旅行(りよかう)は、乗合馬車(のりあひばしや)によつたのであつたやうに聞(き)いた気(き)がするのである。
 鉄道馬車(てつだうばしや)が柳原(やなぎはら)を浅草橋(あさくさばし)まで通(とほ)るやうになつたのは、万世橋(よろづよばし)、上野(うへの)間(かん)(此(こ)の間(かん)の路幅(みちはゞ)は無論(むろん)拡(ひろ)げられたのだ)が開通(かいつう)してから可(か)なり後(あと)のことであるのだが、その柳原浅草橋(やなぎはらあさくさばし)間(かん)が開通(かいつう)した後(のち)であつたか前(まへ)であつたか、今(いま)その点(てん)が記憶(きおく)不明瞭(ふめいれう)であるが、赤塗(あかぬり)の車体(しやたい)で、馭者台(ぎよしやだい)が殆(ほとん)ど車(くるま)の屋根(やね)位(ぐらゐ)な高(たか)さのところにある乗合馬車(のりあひばしや)が九段下(だんした)から両国(りやうごく)あたりまで通(かよ)つてゐたことがある。明治(めいぢ)二十九年(ねん)頃(ごろ)であつたかと思(おも)ふ。
 円太郎馬車(ゑんたらうばしや)にしろ、鉄道馬車(てつだうばしや)にしろ、何(いづ)れも民衆的(みんしうてき)乗物(のりもの)であつて、中等級(ちうとうきふ)の乗物(のりもの)は人力車(じんりきしや)であり、高級乗物(かうきふのりもの)としては、雇馬車(やとひばしや)があつた、つまり、円(ゑん)タク出現(しゆつげん)以前(いぜん)の雇自動車(やとひじどうしや)の格(かく)であつたのだ。さういふ貸馬車(かしばしや)は築地(つきぢ)に一軒(けん)、鎌倉河岸(かまくらがし)に一軒(けん)あつたかと思(おも)ふ。此(こ)の高級乗物(かうきふのりもの)としての貸馬車(かしばしや)は無論(むろん)馭者(ぎよしや)馬丁(ばてい)附(つ)きであつて、大正(たいしやう)になつても使用(しよう)されたのだ。貸自動車(かしじどうしや)の出現(しゆつげん)まではその支配(しはい)を続(つゞ)けた訳(わけ)である。
 この貸馬車(かしばしや)には僕(ぼく)は一遍(ぺん)しきや乗(の)つたことはない。亡兄(ばうけい)が死(し)んだのは、明治(めいぢ)二十一年(ねん)であつたのだが、米国(べいこく)で客死(かくし)したので、日本(につぽん)では遺髪(ゐはつ)で葬式(さうしき)をやつたが、骨壷(こつつぼ)に入(い)れ、外箱(そとばこ)に入(い)れたその遺髪(ゐはつ)を僕(ぼく)が抱(かゝ)へて、谷中(やなか)の墓地(ぼち)へ持(も)つて行(ゆ)く時(とき)に、親戚(しんせき)の豊川良平(とよかはりやうへい)が、
『馬場(ばば)はもう少(すこ)し生(い)きて居(を)れば、無論(むろん)自家用(じかよう)の馬車(ばしや)に乗(の)れる男(をとこ)だ。どうだ、せめて遺髪(ゐはつ)でも馬車(ばしや)に乗(の)せて、墓地(ぼち)へ送(おく)らうじやないか』
 と云(い)つて貸馬車(かしばしや)を呼(よ)んで、それへ僕等(ぼくら)が乗(の)り、遺髪(ゐはつ)を持(も)つて天王寺墓地(てんわうじぼち)まで行(い)つたのであつた。大分(だいぶ)薄汚(うすよご)れた車(くるま)であつたやうな気(き)がする。円(ゑん)タクでも、今日(こんにち)では、ずつと綺麗(きれい)な車(くるま)がある。その当時(たうじ)では、そんな古(ふる)ぼけた馬車(ばしや)でも、少(すくな)くとも十円(ゑん)ぐらゐは取(と)られたのではなからうかと思ふ。
 そんなことを思(おも)ふと、今日(こんにち)の自動車(じどうしや)は安(やす)いものである。時間(じかん)を勘定(かんぢやう)に入(い)れることにすると尚(なほ)一層(そう)安(やす)いものになる。
 吾々(われ/\)から見(み)ると、乗物(のりもの)は大変革(だいへんかく)を来(き)たしたのは、自動車(じどうしや)移入(いにふ)以後(いご)であつて、一般(ぱん)にその利沢(りたく)が及(およ)んだのは、このところ精々(せい/゛\)十五年(ねん)此(こ)の方(かた)ぐらゐなものであらうと思(おも)ふ。朝(あさ)、東京(とうきやう)を出(で)て、箱根(はこね)を抜(ぬ)け、富士(ふじ)の五湖(こ)を見(み)、猿橋(さるはし)へ出(で)て、夕方(ゆふがた)東京(とうきやう)まで帰(かへ)りつくといふやうなことができようなどとは、大正(たいしやう)の始(はじ)めに死(し)んだ老人(らうじん)などには思(おも)ひも寄(よ)らないことであつたのだ。
 旅行者(りよかうしや)のためには、自動車(じどうしや)の出来(でき)たことは何(なに)よりも喜(よろこ)ばしいことだと思(おも)ふ。
 然(しか)し、明治(めいぢ)の交通機関(かうつうきくわん)としては、人力車(じんりきしや)が各(かく)階級(かいきふ)の人々(ひと/゛\)に対(たい)して、重大(ぢふだい)な働(はたら)きをなして居(を)つたことは、此所(ここ)にいふまでもないことで、此(こ)の東洋(とうやう)、否(いな)、日本(にほん)特有(とくいう)の交通機関(かうつうきくわん)には実(じつ)にさま/゛\な事件(じけん)との交渉(かうせふ)があり、聯想(れんさう)があつて、日本(につぽん)近代(きんだい)の交通(かうつう)物語(ものがたり)に於(おい)て、人力車(じんりきしや)の勤(つと)めた役割(やくわり)に言及(げんきふ)しないのは、交通機関(かうつうきくわん)の物語(ものがたり)としては全(まつた)く不備(ふび)な訳(わけ)になるのであるが、これはゆつくり語(かた)ることにして、一旦(たん)此所(ここ)で筆(ふで)を擱(お)くことにする。

     人力車のことども

 地方(ちはう)の市(まち)などでは、まだそれ程(ほど)古(ふる)めかしい、間(ま)の抜(ぬ)けたもののやうには見(み)えないのだが、東京(とうきやう)の自動車(じどうしや)、バス、電車(でんしや)の往来(わうらい)織(お)るが如(ごと)きなかで見(み)ると、あの古(ふる)ぼけた幌(ほろ)をかけた人力車(じんりきしや)の姿(すがた)は、まるで古(ふる)い/\世(よ)から抜(ぬ)け出(だ)して来(き)た、何(なに)かのすだま(ヽヽヽ)ででもあるかのやうに見(み)えて、怪(あや)しいまでに見(み)すぽらしく哀(あは)れなものに見(み)える。
 しかし、明治(めいぢ)になつてからの乗物(のりもの)としては、人力車(じんりきしや)ほど長(なが)い間(あひだ)、交通機関(かうつうきくわん)としての任務(にんむ)を果(は)たしたものはないのだ。東京(とうきやう)だけでは、既往(きわう)少(すくな)くとも四十年(ねん)の勤(つとめ)を了(をは)つてしまつた形(かたち)になつて居(を)るのではあるが、地方(ちはう)ではまだその勤(つとめ)を了(をは)らずに居(ゐ)るところがまだ可(か)なりあるだろうと思(おも)ふ。
 人力車(じんりきしや)の発明者(はつめいしや)は実(じつ)に長(なが)い間(あひだ)、まことに多(おほ)くの利沢(りたく)を人(ひと)に与(あた)へたものと云(い)はなければならぬ。
 人力車(じんりきしや)は明治(めいぢ)三年(ねん)春(はる)に筑前(ちくぜん)生(うま)れの和泉要助(いづみえうすけ)が発明(はつめい)したといふ記録(きろく)になつて居(を)る。駕籠(かご)は担夫(たんぷ)二人(ふたり)を要(えう)するのみならずこれを舁(か)くに腕力(わんりよく)と熟練(じゆくれん)を要(えう)するといふ点(てん)で、人力車(じんりきしや)より不便(ふべん)であるといふことはいふまでもなかつた。
 馬車(ばしや)から思(おも)ひ附(つ)いての発明(はつめい)であつたので、数人(すうにん)乗(の)りのものも試(こゝろ)みられたのであるが、それは第(だい)一に速力(そくりよく)の点(てん)などから実用(じつよう)が広(ひろ)くなく、直(ぢ)きにすたれて、二人(にん)乗(のり)と、一人(ひとり)乗(のり)のみが非常(ひじやう)な勢(いきほ)ひで、弘布(ぐふ)するに至(いた)つたのであつた。
 発明(はつめい)の当初(たうしよ)にあつては、非常(ひじやう)な速力(そくりよく)で走(はし)るもののやうに思(おも)はれたのであつた。東北(とうほく)の或(あ)る地方(ちはう)などでは、『今度(こんど)出来(でき)た人力車(じんりきしや)といふものは実(じつ)に驚(おどろ)くべき速力(そくりよく)のものだ。全速力(ぜんそくりよく)で走(はし)るのであつたら、乗(の)つて居(を)る人間(にんげん)の腸(はらわた)がごちや/\になつてしまふほどの速(はや)さになるものだ。それだから乗(の)る者(もの)は生卵(なまたまご)を一(ひと)つ懐(ふところ)に抱(だ)いてゐて、その黄味(きみ)と白味(しろみ)が一緒(しよ)にならない程度(ていど)に走(はし)らせれば、人間(にんげん)の身体(からだ)には異状(いじやう)がないのだ』と、云(い)ふ者(もの)があつたといふ笑話(わらひばなし)が、今日(こんにち)でも古老(こらう)の間(あひだ)には残(のこ)つて居(を)るといふのである。
 ところで、その形(かたち)には、二三変革(へんかく)はあつたらしい。最初(さいしよ)は轅(ながえ)即(すなは)ち梶棒(かぢぼう)の突端(とつたん)に横木(よこぎ)はなかつたし、車輪(しやりん)の上(うへ)のところに附(つ)く泥除(どろよけ)もなかつたといふのだが、僕(ぼく)などはさういふ点(てん)に関(くわん)する記憶(きおく)は少(すこ)しもない。或(あるひ)は少年(せうねん)の観察(くわんさつ)は其所(そこ)まではとゞかなかつたか、或(あるひ)は又(また)、明治(めいぢ)十二年(ねん)頃(ごろ)では、もう大体後々(だいたいのち/\)の形(かたち)に治定(ぢぢやう)してゐたのか、何(いづ)れかであつたらう。もう一(ひと)つは、幌(ほろ)の変革(へんかく)であるが、最初(さいしよ)の時分(じぶん)のものの絵(ゑ)を見(み)ると、幌(ほろ)が屋根(やね)のやうに上(うへ)だけのものになつて居(を)るのだが、僕(ぼく)などの知(し)つた時分(じぶん)には大凡後(おほよそあと)の形(かたち)になつて居(を)つたやうに思(おも)ふ。
 始(はじ)めのうち、雨除(あめよ)けにだけ幌(ほろ)を使(つか)つて、日除(ひよ)けには使(つか)つてくれなかつたと思(おも)ふ。吾々(われ/\)は蝙蝠傘(かうもりがさ)をさして乗(の)つてゐたことを記憶(きおく)する。だから冬(ふゆ)の寒風(かんぷう)のなかでも、雨(あめ)か雪(ゆき)でない限(かぎ)りは、吹(ふ)き晒(さら)しで乗(の)つて居(を)る訳(わけ)であつたので、年始(ねんし)廻(まは)りの時(とき)など、一時間(じかん)近(ちか)くも、車上(しやじやう)に居(を)ると全(まつた)くふるへ上(あが)つてしまふ程(ほど)寒(さむ)かつた。冬(ふゆ)の寒風(かんぷう)を防(ふせ)ぐために、一般(ぱん)に車体(しやたい)を全部(ぜんぶ)包(つゝ)むやうになつたのは、恐(おそ)らく大正(たいしやう)になつてからではなかつたかと思(おも)ふ。

 車輪(しやりん)を護謨輪(ゴムわ)にするとか、梶棒(かぢぼう)の横木(よこぎ)のところへ呼鈴(よびりん)を附(つ)けるやうになつたのは明治(めいぢ)四十年(ねん)頃(ごろ)であつたと云(い)つて宜(よろ)しからう。但(たゞ)し、大阪(おほさか)あたりでは、音(おと)がしないのは、威勢(ゐせい)が悪(わる)いといふので、わざと車輪(しやりん)がリン/\音(おと)がするやうにしてゐたといふことを聞(き)いたことがある。
 護謨輪(ゴムわ)も場末(ばすゑ)の車宿(くるまやど)などでは、容易(ようい)に採用(さいよう)しかねたやうであつた。夏目漱石(なつめそうせき)さんが『出入(でい)りの車宿(くるまやど)へ護謨輪(ゴムわ)の車(くるま)を持(も)つて来(こ)いといふと、鉄輪(てつわ)の車(くるま)を護謨輪(ゴムわ)だと云(い)つて持(も)つて来(く)る。唯(た)だ梶棒(かぢぼう)へ呼鈴(よびりん)が附(つ)いて居(を)るだけなのだ』と云(い)つて、笑(わら)つて話(はな)したことがある。夏目(なつめ)さんが早稲田南町(わせだみなみちやう)へ引越(ひきこ)されてからのことであつた。
 膝掛(ひざかけ)にも多少(たせう)の変革(へんかく)はあつたと思(おも)ふ。吾々(われ/\)の乗(の)る辻待(つじまち)の車(くるま)などは、長(なが)い間(あひだ)、毛布(まうふ)か、さなくとも、ぼた/\と厚(あつ)い不意気(ぶいき)な毛織物(けおりもの)であつた。大阪(おほさか)では、車(くるま)の蹴込(けこみ)の両脇(りやうわき)に曲(まが)つた真鍮(しんちう)の棒(ぼう)が取(と)りつけてあつて、それへ屋号(やがう)か何(なに)かを染(そ)め抜(ぬ)いた暖簾(のれん)のやうな布(きれ)を引(ひ)き廻(まは)すのであつた。膝掛(ひざかけ)は用(もち)ひなかつたと思(おも)ふ。
 提燈(ちやうちん)の形(かたち)なども、幾(いく)つかの変遷(へんせん)があつたのであらうと思(おも)ふ。後(のち)に至(いた)つては、吉原(よしはら)通(がよ)いの車(くるま)とか、花柳界(くわりうかい)の車(くるま)は、細(ほそ)い縦(たて)に長(なが)い弓張(ゆみは)り提燈(ぢやうちん)を用(もち)ひ、屋敷方(やしきがた)の抱車(かゝへぐるま)や、宿車(やどぐるま)の方(はう)はもう少(すこ)し短(みじか)い箱提燈形(はこぢやうちんがた)の弓張(ゆみは)りを用(もち)ひたやうに思(おも)ふ。元(もと)よりこれらは車夫(しやふ)が梶棒(かぢぼう)に添(そ)へて、手(て)に持(も)つのであつたが、地方(ちはう)によつては、提燈(ちやうちん)を車(くるま)へ取(と)りつけてあつたところもあつたのである。
 僕(ぼく)は明治(めいぢ)二十四年(ねん)の暮(くれ)から、二年(ねん)程(ほど)、土佐(とさ)の高知市(かうちし)の私立(しりつ)の英語学校(えいごがくかう)を教(をし)へに行(い)つてゐたことがあるのだが、その時分(じぶん)高知市(かうちし)の人力車(じんりきしや)には蹴込(けこ)みの端(はし)のところに、籐(とう)で巻(ま)いた彎曲(わんきよく)した二尺(しやく)余(あま)りくらゐの棒(ぼう)が立(た)ててあつて、その先(さ)きへやゝ長(なが)めの円(まる)い提燈(ちやうちん)が附(つ)けてあるのであつた。で、車(くるま)が走(はし)り出(だ)すと、その提燈(ちやうちん)がぶら/\と揺(ゆ)れて行(ゆ)く訳(わけ)であつた。電燈(でんとう)などはない、軒燈(けんとう)だつて、殆(ほとん)どないやうな薄暗(うすぐら)い夜(よる)の街(まち)では、遠(とほ)くから、提燈(ちやうちん)のみが空中(くうちう)に揺(ゆ)れて来(く)るのなどが見(み)えて、余程(よほど)可笑(をか)しかつた。
 吉原(よしはら)通(がよ)ひの車夫(しやふ)が『アラヨ』といふやうな懸(か)け声(ごゑ)をしながら、前記(ぜんき)の円筒形(ゑんとうがた)の提燈(ちやうちん)を振(ふ)り廻(まは)して、行人(かうじん)を警(いまし)めながら疾走(しつそう)するのは、当時(たうじ)での見物(みもの)であつた。
 斎藤緑雨(さいとうりよくう)がその随筆(ずゐひつ)のなかで、戯(たはむ)れに
『ばかな会(くわい)といふ歌(うた)の会(くわい)があつて、その会(くわい)の詠草(えいさう)のなかに、夕潮(ゆふしほ)の切通坂(きりどほしざか)をわれ行(ゆ)けば、あらゝ/\と車(くるま)飛(と)ぶなりといふのがある』
 といふやうなことを書(か)いて居(を)る。
 吉原(よしはら)通(がよ)ひの車(くるま)の特徴(とくちよう)は、高台(たかだい)と称(しよう)して客(きやく)の腰(こし)をかけるところが、後(うしろ)の方(はう)へ向(む)けて斜(なゝめ)に低(ひく)くなつてゐるので、客(きやく)は殆(ほとん)ど膝頭(ひざがしら)が胸近(むねちか)くとたい/\になるくらゐに、後(うしろ)へ反(そ)つて乗(の)つて居(を)るといふ風(ふう)であつた。つまり、客(きやく)にさういふ風(ふう)に後(うしろ)へ反(そ)り返(かへ)るやうに腰(こし)かけさせるといふと、車夫(しやふ)が輓(ひ)いて疾走(しつそう)するのに、非常(ひじやう)に都合(つがふ)が好(よ)かつたからであつたのであらうと思(おも)ふ。

 明治(めいぢ)四十年(ねん)頃(ごろ)になると、東京(とうきやう)では、もう二人(にん)乗(のり)の車(くるま)といふのは殆(ほとん)ど跡(あと)を絶(た)つたと云(い)つて宜(よろ)しかつたらう。極(ご)く早(はや)い時代(じだい)の二人乗(にんのり)の車(くるま)は後(うしろ)に武者絵(むしやゑ)とか芝居絵(しばゐゑ)とか、花鳥(くわてう)とかいふやうなものが、彩色入(さいしきい)りの漆(うるし)で書(か)いてあつた。さういふ車(くるま)を見(み)かけたのは、東京(とうきやう)では、精々(せい/゛\)で明治(めいぢ)二十年(ねん)頃(ごろ)までであつたかと思(おも)ふ。
 初代(しよだい)の三遊亭円遊(さんいうていゑんいう)が創始(さうし)したステテコの踊(をど)りの言葉(ことば)に『相乗(あひの)り幌(ほろ)かけ、頬(ほつ)ペた押(お)ツつけ、テケレツツのパア』といふのがあつた。相乗(あひの)り即(すなは)ち二人(にん)乗(のり)の車(くるま)が、今(いま)の所謂(いはゆる)アベツクの場合(ばあひ)に都合(つがふ)が好(よ)かつたことは、誰(だれ)にも理解(りかい)し得(え)られるであらうが、男(をとこ)同士(どうし)の場合(ばあひ)にあつても、道々(みち/\)話(はなし)ができるからと云(い)つて、わざ/\二人(にん)乗(のり)に乗(の)る人々(ひと/゛\)があるのであつた。辻待(つじま)ちの車(くるま)などだと、二人乗(にんのり)の方(はう)は車体(しやたい)が古(ふる)ぼけていて汚(きたな)くつて、車夫(しやふ)もよぼ/\の年寄(としより)などであつた。斎藤緑雨(さいとうりよくう)は、一人乗(ひとりのり)では連(つ)れと話(はなし)ができないからと云(い)つて、連(つ)れのある時(とき)は、遅(おそ)いのなどは構(かま)はずに、二人乗(にんのり)にするのであつた。
 車内(しやない)で話(はなし)をしながら行(ゆ)けるといふ点(てん)では今日(こんにち)の自動車(じどうしや)は実(じつ)に都合(つがふ)が宜(よろ)しい。吾々(われ/\)は速力(そくりよく)の外(ほか)に、この点(てん)で、文明(ぶんめい)の余沢(よたく)を感(かん)ずることがいとゞ深(ふか)いのである。
 昔(むかし)の車屋(くるまや)は東京(とうきやう)の道(みち)を善(よ)く知(し)つてゐた。吾々(われ/\)の方(はう)では知(し)らない場所(ばしよ)へ行(ゆ)く場合(ばあひ)でも、町名(ちやうめい)さへ云(い)へば、車夫(しやふ)は真直(まつす)ぐに其処(そこ)へ輓(ひ)いて行(い)つて呉(く)れた。その点(てん)は実(じつ)に安心(あんしん)なものであつた。今(いま)の円(えん)タクではさうは行(ゆ)かぬ。小石川(こいしかは)の石切橋(いしきりばし)あたりで拾(ひろ)つた円(えん)タクでは、清水谷(しみづだに)へと云(い)ふと、既(す)んでのことに谷中(やなか)の清水町(しみづちやう)へ連(つ)れて行(ゆ)かれるところであつた。青山墓地(あをやまぼち)の入口(いりぐち)で呼(よ)び止(と)めた円(えん)タクの運転手(うんてんしゆ)は弁慶橋(べんけいばし)は渋谷(しぶや)の先(さ)きにあるのだと思(おも)つたらしく、三十銭(せん)では厭(いや)だ、七十銭(せん)くれと云(い)つた。
 速力(そくりよく)の点(てん)から、一(ひと)つの車(くるま)を二人(ふたり)で輓(ひ)く場合(ばあひ)は綱引(つなひ)きと称(とな)へて、梶棒(かじぼう)へ綱(つな)を附(つ)けてその綱(つな)を一人(ひとり)が肩(かた)へかけて、先(さ)きへ立(た)つて引(ひ)きながら駈(か)け、また急(いそ)ぐ場合(ばあひ)には後(うしろ)からもう一人(ひとり)、車(くるま)の背(せ)を押(お)し、つまり三人(にん)輓(び)きになるのである。これが先(ま)ず一番(ばん)大業(おほげふ)な車(くるま)の輓(ひ)かせ方(かた)かと思(おも)つてゐたのであるが、まだその上(うへ)を越(こ)して、五人(にん)輓(び)きの車(くるま)といふのに乗(の)つた人(ひと)があるといふのを聞(き)いたことがある。それはどうするのかといふと、梶棒(かぢぼう)を握(にぎ)る本当(ほんたう)の車夫(しやふ)の前(まへ)へ、綱(つな)を引(ひ)く者(もの)が二人(ふたり)、それから、後押(あとおし)が二人(ふたり)、それで都合(つがふ)五人(にん)になるといふのである。これ等(ら)はむしろ景気(けいき)を示(しめ)すためのものであつて、速力(そくりよく)の点(てん)では人数(にんずう)の割合(わりあひ)程(ほど)速(はや)いものではなかつたらうかと思(おも)はれる。雪(ゆき)の積(つも)つて居(ゐ)る路(みち)などは、車夫(しやふ)を疲(つか)れさすまいと思(おも)へば、綱引(つなひ)き、後押(あとおし)附(つ)きぐらゐでなければ駄目(だめ)であつたらうと思(おも)はれる。二人輓(にんび)き以上(いじやう)の輓(ひ)き方(かた)は一(ひと)つの車夫(しやふ)の労(らう)を軽(かる)くするための意味(いみ)もあつたのであらうと思(おも)ふ。

 上野(うへの)の山下(やました)、浅草公園(あさくさこうゑん)、吉原遊郭(よしはらいうくわく)の内外(ないぐわい)の吉原(よしはら)へ行(ゆ)く客(きやく)をあての車夫(しやふ)は、一般(ぱん)に悪性(あくせい)の者(もの)であつたが、そのなかでも一層(そう)質(たち)の悪(わる)い者(もの)どもを、もうろう組(ぐみ)と云(い)つた。朦朧(もうらふ)の字(じ)を当(あ)ててゐるやうであつたが、身許(みもと)の怪(あや)しいといふ意味(いみ)の外(ほか)に、浮浪(ふらう)といふやうな意味(いみ)もその音(おん)から感(かん)じ得(え)られるのであつた。これは、夕方(ゆふがた)から専門(せんもん)に稼(かせ)ぐ者(もの)どもであつて、初(はじ)めは相当(さうたう)の賃銭(ちんせん)で客(きやく)を乗(の)せ、綱輓(つなひ)きにするとか、後押(あとお)しにするとかして、途中(とちう)で脅迫的(けふはくてき)に不当(ふたう)な増(ま)し賃(ちん)を要求(えうきう)するのであつた。
 明治(めいぢ)二十六七年(ねん)頃(ごろ)であつたと思(おも)ふのであるが、僕(ぼく)の知人(ちじん)の或(あ)る紳士(しんし)が、夕方(ゆふがた)浅草(あさくさ)を歩(ある)いてゐて、車夫(しやふ)がしきりに勧(すゝ)めるので、吉原(よしはら)まで乗(の)ることになつたが、するとその車夫(しやふ)は綱挽(つなひ)きにしてくれと云(い)つて、仲間(なかま)を四五人連(にんつ)れて来(き)た。つまり綱(つな)が二人(ふたり)の、後押(あとお)しが二人(ふたり)、それに手(て)がはりが一人(ひとり)といふ訳(わけ)で五人(にん)挽(び)きになつたのである。断(ことわ)れば、喧嘩(けんくわ)になつて面倒(めんだう)だと思(おも)つて、結局(けつきよく)は皆(みんな)の頭(かしら)へ二円(ゑん)もやればそれで済(す)むだらうといふ気(き)で、乗(の)つて居(を)るといふと、その五人(にん)輓(び)きの車(くるま)は少(すこ)しも駈(か)けないで、唯(たゞ)歩(ある)くやうに緩々(ゆる/\)と進(すゝ)んで行(ゆ)くのであるが、その代(かは)り、後(あと)から来(く)る車(くるま)を皆(みな)止(と)めてしまつて、その車(くるま)の後(あと)へ附(つ)かせてしまふ。多分(たぶん)花川戸(はなかはど)の方(はう)から行(い)つたのであらうと思(おも)はれるのであるが、吉原(よしはら)通(がよ)いの車(くるま)が何町(なんちやう)も続(つゞ)いて、その先頭(せんとう)には、山高帽(やまたかばう)を冠(かぶ)つた紳士(しんし)を乗(の)せた五人(にん)輓(びき)の車(くるま)が立(た)ち、その全体(ぜんたい)が練(ね)り物(もの)ででもあるかのやうに悠々緩々(いう/\くわん/\)と進(すゝ)んで行(ゆ)くのであるから、これは如何(いか)にも奇観(きくわん)であつたらうと思(おも)はれると共(とも)に、先頭(せんとう)の車上(しやじやう)の紳士(しんし)の面(おも)はゆさは又(また)、察(さつ)するに余(あま)りがあるのであつた。
 が、それでもどうにかかうにか馴染(なじみ)の引手茶屋(ひきてぢやや)までは行(ゆ)くことができたのであるが、やがて、その悪車夫(あくしやふ)どもは予定(よてい)の行動(かうどう)であつたのか、どうか、他(ほか)の車夫(しやふ)たちと喧嘩(けんくわ)を始(はじ)め、その手打(てう)ちをするからと云(い)ふ辞柄(いひぐさ)で、拾円(じふゑん)とかをその紳士(しんし)からいたぶり取(と)つてしまつた、といふのである。その時分(じぶん)の金(かね)の価値(かち)なのだから雷門(かみなりもん)から吉原(よしはら)までの車賃(くるまちん)としては、全(まつた)く途方(とはう)もない金額(きんがく)であつたのである。
 朝(あさ)になつて、勘定(かんぢやう)の払(はら)へない遊客(あそびきやく)に附(つ)いて行(い)つて、金銭(かね)を貰(もら)つてくる者(もの)を附(つ)け馬(うま)と称(しよう)することは誰(だれ)も知(し)つて居(を)ることであり、此(こ)の附(つ)け馬(うま)に関(かん)する笑話(わらひばなし)は多(おほ)く落語(らくご)には残(のこ)つて居(ゐ)るのであるが、昔(むかし)は附(つ)け馬(うま)は大抵(たいてい)歩(ある)いて客(きやく)に附(つ)いて行(い)つたのであつたけれども、人力車(じんりきしや)ができてからは、大抵(たいてい)その車夫(しやふ)が附(つ)け馬(うま)を兼帯(けんたい)にすることになつたらしいのである。即(すなは)ち、客(きやく)からは、遊興(いうきよう)の勘定(かんぢやう)と車賃(くるまちん)とを受(う)け取(と)つて帰(かへ)つて来(く)るのであつた。
 人力車(じんりきしや)は空車(からぐるま)よりは客(きやく)を乗(の)せて輓(ひ)く方(はう)が楽(らく)なものだといふのである。鉄道馬車(てつだうばしや)が出来(でき)てからも、筋違(すぢかひ)即(すなは)ち今(いま)の昌平橋(しやうへいばし)内(うち)あたりに立(た)つて、馬車(ばしや)を待(ま)つて居(を)ると、日本橋(にほんばし)まで馬車(ばしや)並(な)みの賃銭(ちんせん)で客(きやく)を乗(の)せようと勧(すゝ)める車夫(しやふ)があつたものである。所(ところ)で、京橋(きやうばし)までその倍(ばい)の賃銭(ちんせん)で行(ゆ)かぬかと云(い)つても、決(けつ)して承諾(しようだく)しなかつた。思(おも)ふに日本橋(にほんばし)まで出(で)れば、客(きやく)を拾(ひろ)ふ便(べん)が多(おほ)いので、空車(からぐるま)を輓(ひ)いて行(ゆ)くよりは、幾(いく)ら安(やす)くても人(ひと)を乗(の)せて行(ゆ)く方(はう)が、輓(ひ)くのに楽(らく)だといふのであつたらしいのである。船(ふね)ならばバラストといふやうな訳(わけ)に、吾々(われ/\)が使(つか)はれるといふ振(ふ)り合(あ)ひであつたのである。
 車(くるま)の輓(ひ)き方(かた)にも、いろ/\技巧(ぎかう)があるらしかつた。平地(へいち)に馴(な)れた車夫(しやふ)が山坂(やまさか)の多(おほ)い土地(とち)へ行(い)つて困(こま)るといふのは、吾々(われ/\)にも直(す)ぐ理解(りかい)のできる事柄(ことがら)なのだが、山坂(やまさか)を平気(へいき)で客(きやく)を輓(ひ)きあげる車夫(しやふ)は平地(へいち)へ来(く)るとカラ駄目(だめ)だといふのであつた。平地(へいち)では速(はや)く駈(か)けなければならぬのだから、山坂(やまさか)の多(おほ)い地方(ちはう)の車夫(しやふ)は、その駈(か)けるといふ点(てん)で、平地(へいち)の車夫(しやふ)にひどく劣(おと)ることになるといふのであつた。
 成田街道(なりたかいだう)あたりの車夫(しやふ)の駿足(しゆんそく)には東京(とうきやう)の車夫(しやふ)などはとても及(およ)ばない。しかし、東京(とうきやう)の街中(まちなか)の、馬車(ばしや)が走(はし)り、自転車(じてんしや)が来(きた)り、荷車(にぐるま)が続(つゞ)くといふやうな、往来(わうらい)織(お)るが如(ごと)きなかを、少(すこ)しも困(こま)らずに、悠々(いう/\)として車(くるま)を輓(ひ)いて行(ゆ)くといふことは、これは全(まつた)く東京(とうきやう)の車夫(しやふ)の独擅場(どくせんぢやう)であると、或(あ)る邸(やしき)の抱車夫(かゝへしやふ)は云(い)つてゐた。
 車夫(しやふ)の服装(ふくさう)に就(つい)て云(い)へば小説(せうせつ)や、劇(げき)などでは、黒鴨(くろがも)仕立(じたて)といふのが抱車夫(かゝへしやふ)の気(き)の利(き)いた正装(せいさう)といふことになつて居(を)る。濃(こ)い紺(こん)の筒袖(つゝそで)の上着(うはぎ)と腹掛(はらがけ)に、同(おな)じ色(いろ)の股引(もゝひき)といふ出(い)でたちであつて、夏(なつ)は真(ま)つ白(しろ)な装(よそほ)ひになるのであつた。帽子(ぼうし)も饅頭笠(まんぢうがさ)、麦藁帽(むぎわらばう)などを経(へ)て、学生帽(がくせいばう)のやうな最近(さいきん)の形(かたち)になつたのである。しかし、古(ふる)い錦絵(にしきゑ)などを見(み)ると、初(はじ)めは半纏着(はんてんぎ)の向(むか)う鉢巻(はちまき)ぐらゐで、車(くるま)を輓(ひ)いたものであつたらしいのである。
 駕籠舁(かごかき)に絡(から)む雑多(ざつた)の面白(おもしろ)い物語(ものがたり)が残(のこ)つて居(ゐ)るとともに、車夫(しやふ)の方(はう)にもさまざまな物語(ものがたり)があり、小説(せうせつ)や劇(げき)にどういふ風(ふう)に人力車(じんりきしや)や車夫(しやふ)が描(ゑが)かれて居(を)るかを見(み)るのも、興味(きようみ)の尽(つ)きざる事柄(ことがら)であらうと思(おも)ふけれども、予定(よてい)の枚数(まいすう)も可(か)なり越(こ)えて居(を)るのでこれで一先(ひとま)ず此(こ)の稿(かう)を終(をは)ることにする。



近世風俗雑談

     明治から大正へかけての話

 風俗(ふうぞく)といへば主(しゆ)として、服装(ふくさう)、髪(かみ)の形(かたち)、履物(はきもの)等(とう)のことを、いふべきなのであらうが、何分(なにぶん)家(いへ)に引(ひ)き込(こ)みがちであつたし、また外出(ぐわいしゆつ)しても古本(ふるほん)を探(さが)すといふやうなことにのみ気(き)を取(と)られてゐたので、いはゆる風俗(ふうぞく)の変遷(へんせん)などには殆(ほとん)ど気(き)がつかずにしまつた。
 それで今大体(いまだいたい)のところを思(おも)ひ出(だ)してみようとするのだが、どうも甚(はなは)だ朧気(おぼろげ)で、十分(ぶん)なことを書(か)けないのはまことに残念(ざんねん)である。
 吾々(われ/\)にでも第(だい)一番(ばん)に気(き)のつくのは、現代(げんだい)──大正(たいしやう)になつてから──では、洋装(やうさう)が殆(ほとん)ど一般的(ぱんてき)といひ得(え)らるゝ位(くらゐ)に波及(はきふ)したことである。それから、その次(つ)ぎには洋風(やうふう)の建築(けんちく)が非常(ひじやう)に多(おほ)くなつて来(き)たことである。第(だい)三には、巻煙草(まきたばこ)の使用(しよう)の範囲(はんゐ)の広(ひろ)くなつたことである。それから、第(だい)四には西洋料理(せいやうれうり)──カフェー、バー、食堂(しよくだう)の流行(りうかう)が全(まつた)く常態(じやうたい)として定(さだ)まつてしまつたことである。
 明治(めいぢ)十四五年(ねん)頃(ごろ)から以降(いかう)のことでなければ余(あま)り善(よ)く覚(おぼ)えてゐないのだが、その時分(じぶん)から二十四五年(ねん)頃(ごろ)までは、何(な)んといつても洋装(やうさう)は余程(よほど)少(すくな)かつた。官吏(くわんり)とか、教師(けうし)とか、大(おほ)きい会社(くわいしや)に勤(つと)めてゐるといふやうな一部(ぶ)の人々(ひと/゛\)に限(かぎ)られてゐて、それも役所(やくしよ)や、会社(くわいしや)へ出(で)る時(とき)とか旅行(りよかう)の場合(ばあひ)などに重(おも)に着用(ちやくよう)したもので、家居(かきよ)の場合(ばあひ)は勿論(もちろん)のこと知人(ちじん)訪問(はうもん)とか、散歩(さんぽ)とかいふ場合(ばあひ)には、何時(いつ)も和服(わふく)であつたといつていゝくらゐであつた。民間(みんかん)の儀式(ぎしき)の場合(ばあひ)──婚礼(こんれい)とか、葬式(さうしき)──などにも、大体(だいたい)の人々(ひと/゛\)は羽織(はおり)、袴(はかま)であつた。この時代(じだい)では──殊(こと)にこの時代(じだい)の初期(しよき)では──洋食(やうしよく)の宴会(えんくわい)といふのは少(すくな)かつたので、さういふ和食(わしよく)の宴会(えんくわい)へ出席(しゆつせき)するには、大体(だいたい)日本服(にほんふく)であつたらうと思(おも)ふ。この時代(じだい)では、大(おほ)きい宴会(えんくわい)は大抵(たいてい)柳橋(やなぎばし)あたりで行(おこな)はれたやうであつた。吾々(われ/\)は柳光亭(りうくわうてい)の名(な)などをしば/\耳(みゝ)にしたことがある。両国(りやうごく)の中村楼(なかむらろう)が流行(りうかう)の高等旗亭(かうとうきてい)であつたことは、少(すこ)し前(まへ)のことであつたらう。この時代(じだい)では、新橋(しんばし)に大旗亭(だいきてい)はなかつたやうに思(おも)ふ。尤(もつと)も、築地(つきぢ)の寿美屋(すみや)とか、花屋(はなや)とかいふのが、此(こ)の時代(じだい)の末期(まつき)にはもうできてゐたかも知(し)れぬのだが、それにしても、その二軒(けん)は家(いへ)の広(ひろ)さでは大旗亭(だいきてい)とはいへなかつたらうかと思(おも)はれる。
 この時代(じだい)の背広(せびろ)は両前(りやうまへ)が可(か)なり上(うへ)の方(はう)から切(き)り落(おと)して、丸(まる)みをつけたものであつた。ボタンは四(よつ)つ位(ぐらゐ)ついてゐたかと思(おも)ふ。下袴(ズボン)のひどく細(ほそ)いのが流行(はや)つたのもこの時代(じだい)であつたと思(おも)ふ。靴(くつ)も編上(あみあ)げはまだそう一般的(ぱんてき)ではなかつた。この時代(じだい)の初期(しよき)では、鳴(な)り皮(かは)と称(しよう)して靴(くつ)の底(そこ)へ一枚皮(まいかは)を別(べつ)に入(い)れて、歩(ある)くたびにギユウ/\鳴(な)るのを善(よ)しとしてゐた。
 フロツクも、この時代(じだい)のは胸(むね)を広(ひろ)くあけてあつた。襟(えり)の折返(をりかへ)しへ裏(うら)を出(だ)して見(み)せてゐたのもあつた。毛織(けおり)のテエプのやうなもので、すつかり縁(ふち)を取(と)つたものもあつた。モオニングは後(のち)のものよりはずつと短(みじか)かつた。

 外套(ぐわいたう)は長短(ちやうたん)いろ/\に変(かは)つた。即(すなは)ち初期(しよき)においては短(みじか)く、後期(こうき)においてはやゝ長(なが)くなつたが、ともにボタンは、大外套(おほぐわいたう)の場合(ばあひ)のほかは、中位(ちうぐらゐ)の大(おほ)きさのもので、その数(かず)は大抵(たいてい)五(いつ)つ位(ぐらゐ)はあつたらうと思(おも)ふ。
 和服(わふく)に至(いた)つては、吾々(われ/\)貧乏書生(びんばふしよせい)にはどうといふほどの記憶(きおく)はない。唯(たゞ)此(こ)の時代(じだい)の初期(しよき)には素人(しろうと)の男(をとこ)でも、少(すこ)し洒落(しやれ)た人(ひと)は、黒縮緬(くろちりめん)の紋(もん)つきを着(き)てゐた。大島紬(おほしまつむぎ)は余(あま)り知(し)られていなかつたやうに思(おも)ふ。夏(なつ)の衣服(いふく)では、薩摩飛白(さつまがすり)は一般(ぱん)に知(し)られてゐたが、久留米(くるめ)は余(あま)り知(し)られてはゐなかつたであらう。
 二重(ぢう)廻(まは)しは二十五六年(ねん)ごろから行(おこな)はれだしたものであらうと思(おも)ふ。それまでは、吾々(われ/\)は冬(ふゆ)でも上(うへ)へは何(なに)も着(き)なかつた。雨(あめ)の時(とき)もさうであつた。女(をんな)の方(はう)は襟(えり)のかかつた雨合羽(あまがつぱ)を着(き)てゐる者(もの)もあつたが、男(をとこ)で雨合羽(あまがつぱ)を用(もち)ひたものは吾々(われ/\)の知人(ちじん)などのうちには一人(ひとり)もなかつた。旧式(きうしき)のトンビを用(もち)ひた人(ひと)は少(すこ)しはあつたらうと思(おも)ふ。
 その代(かは)り、この時代(じだい)の初期(しよき)には肩(かた)かけが流行(はや)りだした。大(おほ)きい風呂敷(ふろしき)のやうなものの四方(はう)に幾(いく)つも房(ふさ)の附(つ)いてゐるやつを中(なか)から二(ふた)つに折(を)つて、即(すなは)ち三角形(かくけい)のかたちにして吾々(われ/\)も肩(かた)から背(せな)へと背負(せお)つたものであつた。
 元(もと)より書生(しよせい)間(かん)の流行(りうかう)であつたが、舶来(はくらい)の絹(きぬ)の色(いろ)のついた半巾(はんけち)で頸(くび)をまくことがはやつた。少(すこ)し黒(くろ)みのかゝつた赤(あか)い色(いろ)のものなどが一番広(ばんひろ)く用(もち)ひられたやうである。
 シヤツは洋服(やうふく)の分(ぶん)は無論(むろん)糊(のり)で固(かた)めたホワイト・シヤツが正式(せいしき)であつたが、吾々(われ/\)などはフランネルのシヤツヘ胸(むね)とカフス・カラアとを白(しろ)い固(かた)いので取(と)りつけて間(ま)に合(あは)す場合(ばあひ)もあつた。この時代(じだい)の後期(こうき)には、夏(なつ)のシヤツで、縮(ちゞみ)の縞(しま)で前(まへ)を打紐(うちひも)で編上(あみあ)げのしたものが流行(はや)つた。吾々(われ/\)もそれを洋服用(やうふくよう)として用(もち)ひたものであつたが、夏目漱石(なつめそうせき)君(くん)はそのフランネルのシヤツを洋服(やうふく)の下(した)へ着(き)てウ─ド師(し)を帝国(ていこく)ホテルに訪問(はうもん)して、錠前(ぢやうまへ)直(なほ)しと間違(まちが)へられたといふ話(はなし)である。
 帽子(ばうし)は、紳士用(しんしよう)としては、山高帽(やまたかばう)であつたが、今日(こんにち)のものの二倍(ばい)ぐらゐの高(たか)さの縁(へり)の反(そ)つたのが行(おこな)はれた。頂辺(てつぺん)が一文字(もんじ)になつてゐるもつと低(ひく)いのもあつたやうである。書生用(しよせいよう)としては、釜形帽(かまがたばう)や、ハンテイングの前身(ぜんしん)のフランネル製(せい)の前(まへ)で襞(ひだ)をとつたものなどもあつた。夏帽(なつばう)は矢張(やは)り麦藁(むぎわら)が一般(ぱん)であつたが、今日(こんにち)のものより山(やま)が低(ひく)く縁(へり)が広(ひろ)かつたやうに思(おも)ふ。リボンに赤(あか)いのなどがあつて、今日(こんにち)では如何(いか)にも無粋(ぶすゐ)なものであつたのだが、吾々(われ/\)は得意(とくい)でそれを冠(かぶ)つたものだ。
 下駄(げた)は南部表(なんぶおもて)、もしくはそれのまがひの前(まへ)のめりの駒下駄(こまげた)が一番広(ばんひろ)く行(おこな)はれていた。籐表(とうおもて)──即(すなは)ち蝉表(せみおもて)──はまださう行(おこな)はれてゐなかつたやうに思(おも)ふ。麻裏草履(あさうらざうり)が広(ひろ)く用(もち)ひられてゐた。職人(しよくにん)の突(つ)つかけ草履(ざうり)もよく見掛(みか)けた。車夫(しやふ)その他(た)の労働者(らうどうしや)は大抵(たいてい)草鞋(わらぢ)を用(もち)ひた。従(したが)つてどこの荒物屋(あらものや)にも草鞋(わらぢ)が吊(つる)してあつた。今日(こんにち)では、どうかすると草鞋(わらぢ)を買(か)ふには可(か)なり探(さが)さなければなるまいかと思(おも)ふ。その時分(じぶん)の草鞋(わらぢ)は藁(わら)ばかりで作(つく)つたもので、後(のち)のもののやうに布(きん)は何処(どこ)にも使(つか)つてなかつた。
 雪駄(せつた)は古(ふる)くからあつたものであるに拘(かゝは)らず、面白(おもしろ)いことに、一時(じ)すたれた形(かたち)になつてゐたやうに思(おも)ふ。穿(は)く人(ひと)を多(おほ)く見(み)かけるやうになつたのはこの時代(じだい)より少(すこ)し後(のち)になつてのことであつたと思(おも)ふ。

 こゝで髪(かみ)の刈(か)り方(かた)をいふべきであらうが、老人(らうじん)は大抵(たいてい)撫(な)でつけ即(すなは)ちまあオ─ル・バックのやうな形(かたち)にしてゐた。われ/\は毯栗(いがぐり)即(すなは)ち五分(ぶ)刈(がり)であり、紳士(しんし)連(れん)は主(おも)に左(ひだり)から、七三分(わ)け位(ぐらゐ)にしてゐた。この時代(じだい)は皆(みな)もみ上(あ)げを残(のこ)してゐたし、誰(だれ)も床屋(とこや)で鼻(はな)の穴(あな)をすらせるのであつた。真中(まんなか)から髪(かみ)を分(わ)けるやうになつたのは明治(めいぢ)三十年近(ねんちか)くであり、もみ上(あ)げもそのころからだん/\多(おほ)くそり落(おと)すやうになつたと思(おも)ふ。
 持(も)ち物(もの)などについても僕(ぼく)は幾(いく)らも書(か)き得(え)ない。巻煙草(まきたばこ)が今日(こんにち)ほどは、はやらなかつたのだから、煙草飲(たばこの)みは大抵(たいてい)刻(きざ)みを用(もち)ひた。煙草(たばこ)入(い)れは筒(つゝ)つきの腰下(こしさ)げのものであつたやうだ。共皮(ともがは)若(もし)くば共布(ともぎれ)の筒(つゝ)つきの煙草(たばこ)入(い)れはも少(すこ)し後(あと)で用(もち)ひられるやうになつたと思(おも)ふ。明治(めいぢ)十七年(ねん)ころのことかと思(おも)ふのだが、西洋(せいやう)刻(きざ)みをライスペエパアで自分(じぶん)で巻(ま)いて飲(の)むことがはやつた。始(はじ)めは小(ちひ)さい簾(すだれ)を用(もち)ひて巻(ま)いてゐたが、直(ぢ)きに小(ちひ)さい機械(きかい)が輸入(ゆにふ)されてそれを用(もち)ひるやうになつた。この時代(じだい)では、後期(こうき)に近(ちか)くなつて、カメオとか、ピンヘットとか、パイレエトとかいふやうな外国(ぐわいこく)巻煙草(まきたばこ)が輸入(ゆにふ)されだしたのみで、日本製(にほんせい)の巻煙草(まきたばこ)は岩谷(いはや)の天狗煙草(てんぐたばこ)があつたばかりのやうに思(おも)ふ。西洋(せいやう)巻煙草(まきたばこ)を真似(まね)た京都(きやうと)の村井(むらゐ)のサンライスやヒイロウの売(う)り出(だ)されたのは少(すこ)し後(のち)ではなかつたらうか。
 食(く)ひ物(もの)については、僕(ぼく)などは殆(ほとん)ど何(なに)もいひ得(え)ないのだが、唯(たゞ)西洋料理屋(せいやうれうり)の数(かず)の実(じつ)に少(すくな)かつたことだけはいひ得(え)られる。そしてそこでは、コオスを食(く)はざるを得(え)なかつたのであらう。今日(こんにち)のやうに品(しな)を選(えら)んで註文(ちうもん)し得(う)るやうになつたのは少(すこ)し後(のち)のことだと思(おも)ふ。その代(かは)り天麩羅屋(てんぷらや)で小料理(これうり)もするといふやうな家(いへ)は沢山(たくさん)あつた。講武所(かうぶしよ)宇治(うぢ)の里(さと)などは入(い)り込(こ)みの飯屋(めしや)であつたが、そこでは、昔(むかし)上野(うへの)の坊(ばう)さんの支度所(したくじよ)であつた名残(なご)りであつたのであらうが、酒(さけ)を茶(ちや)の土瓶(どびん)へ入(い)れて客(きやく)に出(だ)すのであつた。牛肉屋(ぎうにくや)が随分(ずゐぶん)多(おほ)かつた。それが書生(しよせい)に対(たい)しては今日(こんにち)のカフエ─の役(やく)を勤(つと)め、そこの女中(ぢよちう)──即(すなは)ち、ねえさんが今日(こんにち)のウエートレスの格(かく)であつたわけだ。
 この時代(じだい)の初期(しよき)には、楊弓場(やうきうば)がはう/゛\にあつた。十一二年(ねん)ごろには芝(しば)の公園(こうゑん)へ赤羽(あかばね)から入(はひ)つて行(ゆ)くところにある土手(どて)のあたりにも一二軒(けん)あつたことさへ覚(おぼ)えてゐる。神明(しんめい)は元(もと)より、浅草郡代(あさくさぐんだい)、湯島天神(ゆしまてんじん)とさういふところには楊弓場(やうきうば)が群居(ぐんきよ)してゐたのだが、淡路町(あはぢちやう)の宝亭(たからてい)の横町(よこちやう)になるあたりにも数軒(すうけん)あつた。これは坪内逍遙(つぼうちせうえう)大人(たいじん)の『書生気質(しよせいかたぎ)』に描(ゑが)かれてゐる。これ等(ら)楊弓場(やうきうば)たるものは、矢取女(やとりをんな)と称(しよう)して客(きやく)を取(と)る女(をんな)がゐて、客(きやく)の相手(あひて)をして、楊弓(やうきう)をともに引(ひ)きなどして客(きやく)をもてなすのであつた。弓(ゆみ)を持(も)つのは左(ひだり)の手(て)をもつてするのが正式(せいしき)であるのだが楊弓場(やうきうば)の女(をんな)はなるべく弓(ゆみ)を右(みぎ)の手(て)に持(も)つて射(い)るやうに教(をし)へられるのだと聞(き)いた。それは客(きやく)と向(むか)ひ合(あ)ひになるやうにするためであつたのであらう。
 明治(めいぢ)十六七年(ねん)ごろであつたろうか、下谷(したや)の佐竹(さたけ)の原(はら)が開(ひら)けたが、そこへできた大弓場(だいきうば)の女(をんな)で右(みぎ)の手(て)で弓(ゆみ)をとるものを見(み)たことがある。思(おも)ふに、前記(ぜんき)の楊弓場(やうきうば)の女(をんな)と同(おな)じ理窟(りくつ)であつたのであらう。
 これ等(ら)の楊弓場(やうきうば)が後(のち)の酩酒屋(めいしゆや)の前身(ぜんしん)だといつて宜(よろ)しいであらう。市中(しちう)の酩酒屋(めいしゆや)なるもののできたのは明治(めいぢ)二十五六年(ねん)頃(ごろ)だと思(おも)ふ。横浜(よこはま)のちやぶ屋(や)なるものの制度(せいど)の東京(とうきやう)へ侵入(しんにふ)して来(き)たものと見(み)るべきであらう。
 まだ明治(めいぢ)十五六年(ねん)頃(ごろ)までは、根津(ねづ)に遊廓(いうくわく)があつたと記憶(きおく)する。藍染橋(あゐそめばし)までのところは両側(りやうがは)に引手茶屋(ひきてぢやや)があつて、そこから北(きた)が女郎屋(ぢよらうや)であつた。元(もと)より今(いま)のやうに道(みち)が真(ま)つ直(す)ぐに団子坂下(だんござかした)へと抜(ぬ)けてゐるのではなかつた。藍染橋(あゐそめばし)からものの三町(ちやう)と行(い)かぬうちに突(つ)き当(あた)りになつてゐたと思(おも)ふ。それから先(さ)きは田(た)だの畑位(はたけぐらゐ)になつてゐたのであらう。その時代(じだい)には根津(ねづ)から団子坂(だんござか)へ行(い)くには、権現(ごんげん)の裏門(うらもん)から行(ゆ)く小(ちひ)さい現今(げんこん)の路(みち)によるほかはなかつたのだ。
 明治(めいぢ)二十年(ねん)ごろにはもう菊人形(きくにんぎやう)が盛(さか)んになつてゐたらうと思(おも)ふ。
 この時代(じだい)の末期(まつき)までは、まだ吉原(よしはら)が可(か)なり富裕(ふゆう)な紳士連(しんしれん)の遊所(いうしよ)としての勢力(せいりよく)を維持(ゐぢ)し得(え)てゐたらうと思(おも)ふ。娼妓(しやうぎ)があの鼈甲(べつかふ)の簪(かんざし)を幾(いく)つもさした姿(すがた)で店(みせ)を張(は)つてゐる店(みせ)も幾軒(いくけん)かあつたのではなからうかと思(おも)ふ。明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろになつては、娼妓(しやうぎ)にさういふ昔(むかし)ながらの姿(すがた)をさしてゐたのは龍(りう)ケ崎(さき)といふ店(みせ)一軒(けん)きりのやうであつた。
 芸者町(げいしやまち)は、この時代(じだい)では、赤坂(あかさか)さへまだ幾(いく)らも発達(はつたつ)してゐなかつたであらう。溜池(ためいけ)その他(た)山王下(さんわうした)の池(いけ)が埋(うめ)られたのは何時(いつ)ごろのことか今(いま)記憶(きおく)してゐないが、あの辺(へん)の発達(はつたつ)はその後(のち)のことである。神楽坂(かぐらざか)も富士見町(ふじみちやう)も少(すくな)くとも此(こ)の時代(じだい)の後期(こうき)になつて擡頭(だいとう)しだしたものと見(み)てよろしからう。
 この時代(じだい)の前期(ぜんき)には待合(まちあひ)といふものはまだできてゐなかつたかと思(おも)はれる。まだ船宿(ふなやど)の時代(じだい)であつた。料理屋(れうりや)で客(きやく)を泊(と)めたのもあつたらしい。さういふ隠(かく)れ座敷(ざしき)の残(のこ)つてゐるのが、明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろまではあつたやうに聞(き)いてゐる。

 この時代(じだい)の初期(しよき)の交通機関(かうつうきくわん)は唯(たゞ)人力車(じんりきしや)とガタ馬車(ばしや)があつたのみであつた。いふまでもなく、人力車(じんりきしや)は護謨輪(ゴムわ)なんぞは思(おも)ひも寄(よ)らぬ。金輪(かなわ)でバネも悪(わる)かつたのだが、それでも吾々(われ/\)はさう乗(の)り心地(ごゝち)が悪(わる)いとは思(おも)はなかつた。遊廓(いうくわく)通(がよ)いの車(くるま)は高台(たかだい)と称(しよう)して、梶棒(かぢぼう)を上(あ)げると、客(きやく)の身体(からだ)がうしろへ落(お)ちて、膝頭(ひざがしら)が上(うへ)へあがるといふやうな風(ふう)に、腰(こし)を掛(か)けるところの勾配(こうばい)を作(つく)つたものであつた。これは車夫(しやふ)が早(はや)く駈(か)け得(う)るためであつたのであらう。滝夜叉(たきやしや)だの、自来也(じらいや)だのを悪(あく)どい色彩(しきさい)で背(せ)に蒔絵(まきゑ)した二人乗(にんのり)は直(ぢき)になくなつたやうに思(おも)ふのだが、普通(ふつう)の一人乗(ひとりのり)と同(おな)じ無地(むぢ)の塗(ぬ)りの二人乗(にんのり)は明治(めいぢ)三十年(ねん)ごろまではまだ余程(よほど)残(のこ)つてゐた。
 ガタ馬車(ばしや)はいはゆる円太郎馬車(ゑんたらうばしや)であつた。極(きは)めて粗造(そざう)な木造(もくざう)の車体(しやたい)へ真黒(まつくろ)に汚(よご)れた母衣(ほろ)をかけたもので、馬(うま)は二頭(とう)であつたかと思(おも)ふ。馬丁(べつとう)が短(みじか)い角形(つのがた)の喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて行人(かうじん)を警戒(けいかい)するのであつた。本郷(ほんがう)通(どほ)りなどでは夏(なつ)はさういふ馬車(ばしや)の馬(うま)が斃(たふ)れた。或(あ)る時(とき)は、馬(うま)が外(そ)れて、四町目(ちやうめ)あたりの薪屋(まきや)の前(まへ)に積(つ)んであつた薪(まき)の山(やま)へぶつかつて、馬(うま)が崩(くづ)れ落(お)ちた薪(まき)の下(した)へ埋(うめ)られたやうになつたことなどもあつた。
 円太郎(ゑんたらう)といふ名称(めいしよう)の起(おこ)りについては二三説(せつ)があるやうであるが、橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)といふ落語家(らくごか)が高座(かうざ)で馬丁(べつとう)の持(も)つてゐたのとおんなじの喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、馬丁(べつとう)の真似(まね)をしたので、その名称(めいしよう)が起(おこ)つたのだらうと僕(ぼく)は思(おも)ふ。
 前記(ぜんき)の本郷(ほんがう)通(どほ)りをとほつた馬車(ばしや)は、筋(すぢ)かひ即(すなは)ち今(いま)の白梅(はくばい)のあたりから板橋(いたばし)へ通(かよ)ふものであつた。その他(ほか)には浅草(あさくさ)から千住(せんぢゆ)の方(はう)へ通(かよ)ふもの、両国(りやうごく)あたりから市川(いちかは)の方(はう)へと向(む)けて通(かよ)ふもの新橋(しんばし)から品川(しながは)方面(はうめん)へ向(む)けて通(かよ)ふものといふ風(ふう)に、三系統(けいとう)があつたのであらうと思(おも)ふ。
 鉄道馬車(てつだうばしや)のできたのはこの時代(じだい)の前期(ぜんき)であつたやうであるが、新橋(しんばし)から大通(おほどほ)りを上野(うへの)へ出(い)で、浅草(あさくさ)を経(へ)て、浅草橋(あさくさばし)に至(いた)り、それから本町(ほんちやう)三丁目(ちやうめ)をとほつて、大通(おほどほ)りの線(せん)に入(はひ)るといふだけの部分(ぶぶん)しきや通(つう)じてゐなかつた。二十二三年(ねん)ごろでさへ、新橋(しんばし)品川(しながは)間(かん)はまだガタ馬車(ばしや)が通(かよ)つてゐるのみであつたと記憶(きおく)する。車体(しやたい)は前(まへ)の円太郎(ゑんたらう)よりは余程(よほど)よくなつてゐたけれども、動揺(どうえう)は随分(ずゐぶん)烈(はげ)しかつた。トラックの円太郎自動車(ゑんたらうじどうしや)に決(けつ)して劣(おと)らないくらゐ揺(ゆ)れたと思(おも)ふ。
 九段下(だんした)から両国(りやうごく)へと通(かよ)ふ赤塗(あかぬ)りで馭者台(ぎよしやだい)の可(か)なり高(たか)くなつている馬車(ばしや)の始(はじ)まつたのは、この時代(じだい)の後期(こうき)であつたかと思(おも)ふ。これはオムニバスといつてゐたやうに記憶(きおく)する。これは鉄道馬車(てつだうばしや)が柳原(やなぎはら)を通(かよ)ふやうになると、直(ぢ)きに廃止(はいし)された。
 大官(たいくわん)、貴族(きぞく)は箱馬車(はこばしや)を自用(じよう)として持(も)つてゐた。また、ドツグ・カアトをもつてゐた紳士(しんし)も少(すくな)くはなかつたかと思(おも)ふ。
 自転車(じてんしや)もこの時代(じだい)に輸入(ゆにふ)されたかと思(おも)ふのだが、無論(むろん)三輪車(りんしや)であつた。この時代(じだい)の末期(まつき)に近(ちか)い時分(じぶん)であつたらうと思(おも)ふのだが、直径(ちよくけい)五尺(しやく)もあらうかと思(おも)はれさうな大(おほ)きい輪(わ)と直径(ちよくけい)一尺(しやく)には足(た)らなかつたと見(み)えたやうな小(ちひ)さい輪(わ)の附(つ)いた自転車(じてんしや)が行(おこな)はれた。これは実用的(じつようてき)のものではなくして、青年(せいねん)などが慰(なぐさ)みに乗(の)るものであつたやうだ。下谷辺(したやへん)にそれを借(か)す家(いへ)があつたらしく僕(ぼく)の友(とも)だちなどで、それを乗廻(のりまは)したのがあつた。
 隅田川(すみだがは)を一銭(せん)蒸気(じようき)が通(かよ)ひだしたのは何時(いつ)ごろであつたかよく記憶(きおく)せぬが、明治(めいぢ)二十二三年(ねん)ごろにはもう確(たしか)に通(かよ)つてゐたやうに記憶(きおく)する。

 次(つ)ぎには、順序(じゆんじよ)が少(すこ)し変(へん)になつたが大人(おとな)の遊戯(いうぎ)、勝負事(しようぶごと)のことを書(か)いて置(お)かう。銃猟(じうれふ)は無論(むろん)流行(りうかう)した。仙石貢氏(せんごくみつぎし)等(ら)の大学生時代(だいがくせいじだい)──明治(めいぢ)十四年(ねん)ごろか──には度々友人(たび/\いうじん)等(ら)と猟(れふ)に出(で)たといふやうな話(はなし)を聞(き)いてゐる。玉突(たまつき)も可(か)なり行(おこな)はれたやうであつた。花札(はなふだ)が広(ひろ)く売(う)られるやうになつたのは、明治(めいぢ)十七八年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふ。この勝負事(ゲ─ム)は、上方(かみがた)から移入(いにふ)されたものといつてよろしからう。小(ちひ)さい射的(しやてき)の店(みせ)が諸所(しよしよ)へできたのは明治(めいぢ)二十年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふ。
 競馬(けいば)は横浜(よこはま)の根岸(ねぎし)が元(もと)で、不忍池(しのばずのいけ)の周囲(しうゐ)が埋(う)められて馬場(ばば)が出来(でき)たのは明治(めいじ)十六七年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふ。
 明治(めいぢ)十八年(ねん)頃(ごろ)までは市内(しない)の諸所(しよしよ)に借馬屋(しやくばや)があつた。さういふ借馬屋(しやくばや)には何処(どこ)にも小(ちひ)さいながら馬場(ばば)が附(つ)いてゐて、その馬場(ばば)を幾往返(いくわうへん)で幾(いく)ら、外(そと)へ借(か)りて出(で)れば、一時間(じかん)幾(いく)らといふ風(ふう)に、料金(れうきん)が極(き)められてゐた。僕(ぼく)の覚(おぼ)えてゐるのでは、団子坂下(だんござかした)に一軒(けん)、本郷田町(ほんがうたまち)に一軒(けん)、天神町(てんじんちやう)(数寄屋町寄(すきやまちよ)り)に一軒(けん)とさう三軒(げん)借馬屋(しやくばや)があつた。僕(ぼく)の家(いへ)が本郷(ほんがう)五丁目(ちやうめ)──本妙寺坂下(ほんめうじざかした)──に地面(ぢめん)を借(か)りてゐた時分(じぶん)、地主(ぢぬし)が借馬屋(しやくばや)をやらうといひだして、僕(ぼく)の父(ちゝ)が調馬(てうば)の仕事(しごと)を引(ひ)き受(う)けてやつたことがあるが、それは余(あま)り客(きやく)がなかつた。その時分(じぶん)には、可(か)なりな馬(うま)でも五十円(ゑん)位(ぐらゐ)、安(やす)いのは十五円(ゑん)ぐらゐなのもあつた。
 子供(こども)の遊(あそ)びは、土(つち)や鉛(なまり)のめんこ、ばい──これをべえ(ヽヽ)といつてゐた──凧(たこ)、金胴(かなどう)の独楽(こま)のぶつつけ合(あ)ひなどが重(おも)なものであつた。竹馬(たけうま)も無論(むろん)行(おこな)はれた、べえは法螺貝(ほらがひ)を少(すこ)し長目(ながめ)にした様(やう)な小(ちひ)さい貝(かひ)であつたが、その貝(かひ)の半分(はんぶん)以上(いじやう)を石(いし)で叩(たゝ)き欠(か)き、下(した)の部分(ぶぶん)の横(よこ)にも少(すこ)し穴(あな)をあけ其所(そこ)から蝋(らふ)なり鉛(なまり)なりを注(つ)ぎ込(こ)んで重量(ぢうりやう)を附(つ)けて置(お)く、それから一方(ぱう)では、盥(たらひ)の上(うへ)へ蓆(ござ)なり畳表(たゝみおもて)の古(ふる)いのゝ切(き)れなりを敷(し)いて、その中(なか)を窪(くぼ)みにして置(お)き、べえの下(した)のところへ紐(ひも)を巻(ま)いて、双方(さうはう)から、その蓆(ござ)の窪(くぼ)みのなかへ独楽(こま)のやうに廻(まは)し、それがぶつかり合(あ)つてはね出(だ)された方(はう)を負(ま)けとするといふ遊(あそ)びであつた。これは僕(ぼく)などの子供(こども)の時分(じぶん)のものであつたのだからさう長(なが)く続(つゞ)いたのではなからうと思(おも)ふ。とにかく、僕(ぼく)の子供(こども)の時分(じぶん)には、玩具屋(おもちやや)でべえの貝(かひ)を売(う)つてゐた。
 明治(めいぢ)二十年(ねん)ごろまでは、初午(はつうま)の稲荷祭(いなりまつり)も方々(はう/゛\)で行(おこな)はれ、地口行燈(ぢぐちあんどん)の幾(いく)つも並(なら)べ懸(か)けられた路地(ろぢ)の奥(おく)から、子供(こども)の叩(たゝ)くらしい太鼓(たいこ)の音(おと)が聞(き)こえて来(く)るのであつた。
 神社(じんじや)の大祭(たいさい)も、明治(めいぢ)十五六年(ねん)頃(ごろ)までは、大抵(たいてい)夏(なつ)の盛(さか)りに行(おこな)はれたやうであつたが、連年(れんねん)コレラが流行(はや)つたがために、何時(いつ)の間(ま)にか秋祭(あきまつり)になつてしまつた。まだその時分(じぶん)には、昔(むかし)の江戸(えど)の祭(まつり)の面影(おもかげ)を止(とゞ)めてゐた。牛(うし)に引(ひ)かせた山車(だし)、踊屋台(をどりやたい)、神輿(みこし)、それにつき添(そ)ふ若(わか)い衆等(しゆら)の揃(そろ)ひの浴衣(ゆかた)、可(か)なりに華(はな)やかで賑(にぎ)やかで威勢(ゐせい)のいゝものであつた。神田祭(かんだまつり)に、娘(むすめ)を吉原(よしはら)へ売(う)つてその金(かね)で支度(したく)をしたといふ時代(じだい)には無論(むろん)及(およ)ばなかつたけれども、それでも、一体(たい)に祭(まつり)には随分(ずゐぶん)とはり込(こ)んだものであつた。一昨年(さくねん)か去年(きよねん)の六月(ぐわつ)かに四谷見附(やみつけ)で山王(さんわう)の神輿(みこし)を見(み)たが、皆(みな)牛(うし)に引(ひ)かして囃子(はやし)か何(なに)かついてゐた。道路(だうろ)の交通上(かうつうじやう)やむを得(え)ずさうなつたのであらうが、全(まつた)く隔世(かくせい)の思(おも)ひがした。
 その時代(じだい)でも、子供(こども)が樽天王(たるてんわう)を担(かつ)いで廻(まは)つたのは近(ちか)ごろと同(おな)じであつたが、子供(こども)が黄色(きいろ)い麻(あさ)を襷(たすき)にしてそれで小(ちひ)さい犬張子(いぬはりこ)、達磨(だるま)といふやうな玩具(おもちや)を縛(しば)りつけ、万燈(まんどう)を振(ふ)つて飛(と)び歩(ある)いたのは、今(いま)ではもう古(ふる)い事(こと)のなかへ数(かぞ)へ込(こ)んでもよからうと思(おも)ふ。玩具屋(おもちやや)で万燈(まんどう)を売(う)つてゐなくなつてからもう可(か)なり久(ひさ)しくなるであらう。一葉女史(いちえふぢよし)の『たけくらべ』──二十八年作(ねんさく)──には子供(こども)の祭(まつり)の時(とき)の出(い)でたちが、
 『くちなし染(ぞ)めの麻(あさ)だすき成(な)るほど太(ふと)きを好(この)みて、十四五なるより以下(いか)なるは、達磨(だるま)、木兎(みゝづく)、犬(いぬ)はり子(こ)、さまさまの手遊(てあそ)びを数多(かずおほ)きほど見得(みえ)にして、七(なゝ)つ九(こゝの)つ十一着(つ)くるもあり、大鈴小鈴(おほすゞこすゞ)背中(せなか)にがらつかせて、駈(か)け出(だ)す足袋(たび)はだしの勇(いさ)ましく可笑(をか)しく……』
といふ風(ふう)に描(ゑが)いてあるのだが、その時分(じぶん)でも、山手(やまのて)では、さういふ風俗(ふうぞく)はそろそろなくなりかけてゐたやうな気(き)がする。
 町内(ちやうない)の子供(こども)が団結(だんけつ)して、他(た)の町内(ちやうない)の子供(こども)の団結(だんけつ)と喧嘩(けんくわ)して石合戦(いしがつせん)をしたといふやうなのは、精々(せい/゛\)で明治(めいぢ)二十年(ねん)くらゐまでのことで、その後(ご)は教育(けういく)の普及(ふきふ)と警察(けいさつ)の完備(くわんび)と共(とも)に、いつの間(ま)にか止(や)んでしまつた。
 青年(せいねん)の方(はう)でも、熊本(くまもと)の学生(がくせい)と薩摩(さつま)の学生(がくせい)、薩摩(さつま)の学生(がくせい)と土佐(とさ)の学生(がくせい)といふ風(ふう)に、学生(がくせい)が幾分(いくぶん)団体的(だんたいてき)の喧嘩(けんくわ)をするといふやうな風習(ふうしふ)は、これも精々(せい/゛\)で十四五年(ねん)ごろまでのことであつたと思(おも)ふ。こゝで、一寸(ちよつと)考(かんが)へさせられることは、その時代(じだい)は封建殺伐(ほうけんさつばつ)の時代(じだい)を去(さ)ること余(あま)り遠(とほ)くなかつたに拘(かゝは)らず、学生間(がくせいかん)には刃物(はもの)を以(もつ)て人(ひと)を傷(きず)つけたといふやうなことを殆(ほとん)ど聞(き)かなかつたことである。少青年(せうせいねん)が小刀(ナイフ)などを振(ふ)り廻(まは)すやうになつたのは、どうしても明治(めいぢ)二十七八年(ねん)の戦役(せんえき)以後(いご)のことである。
 
 明治(めいぢ)十四五年(ねん)頃(ごろ)からこつちの事(こと)で注目(ちうもく)に値(あたひ)することは、それ等(ら)の時代(じだい)から思潮(してう)の上(うへ)での反動期(はんどうき)に入(はひ)りかけてゐたためでもあらうが、古(ふる)い行事(ぎやうじ)などの次第(しだい)に復活(ふくくわつ)しだした状態(じやうたい)である。明治(めいぢ)の初年(しよねん)には旧弊頑固(きうへいぐわんこ)として棄(すて)られた事物(じぶつ)がまたそろ/\用(もち)ひられ始(はじ)めたのだ。これは、民衆(みんしう)が一端古(たんふる)い趣味(しゆみ)は排(しりぞ)けてしまつたもののそれに代(かは)るべき新(あたら)しい趣味(しゆみ)は生(うま)れて来(こ)なかつたので、もとの古(ふる)い趣味(しゆみ)にだん/\と戻(もど)つて行(ゆ)くより外(ほか)はなかつたといふところも余程(よほど)あつたらうと思(おも)ふ。
 要(えう)するに、維新(ゐしん)の革新(かくしん)は進(すゝ)んだ少数者(せうすうしや)の進(すゝ)まざる大衆(たいしう)に対(たい)する勝利征服(しようりせいふく)に過(す)ぎなかつたので、世(よ)の中(なか)が落著(おちつ)くに従(したが)つて、大衆(たいしう)の方(はう)は次第(しだい)に後戻(あともど)りをしたといふ形(かたち)に見(み)えた。
 古(ふる)い骨董(こつとう)の愛玩(あいぐわん)、古(ふる)い行事(ぎやうじ)の復活(ふくくわつ)といふやうなことが眼(め)だちだした。豆蒔(まめま)きが都門近(ともんちか)くの神社(じんじや)や仏閣(ぶつかく)で行(おこな)はれだしたのは、少(すこ)しあとであつたにしても五月幟(ぐわつのぼり)、雛祭(ひなまつり)などが、そろ/\広(ひろ)く行(おこな)はれさうになりだしたのもこの時代(じだい)である。撃剣(げきけん)、弓術(きうじゆつ)、柔術(じうじゆつ)といふやうな武術(ぶじゆつ)の復興(ふくこう)が可(か)なり目(め)ざましかつたのもこの時代(じだい)である。なかにも、老若(らうにやく)を問(と)はず誰(だれ)にでもできる弓術(きうじゆつ)の流行(りうかう)は可(か)なり盛(さか)んであつた。市内(しない)で、いはゆる大弓場(だいきうば)の一軒(けん)もない区(く)といふのは殆(ほとん)どないといつていゝくらゐであつた。手(て)のかゝり費用(ひよう)のかゝる流鏑馬(やぶさめ)。騎射(きしや)の如(ごと)きさへ、明治(めいぢ)二十年(ねん)ごろには一度(ど)大規模(だいきぼ)で執行(しつかう)されたことがあつた。
 撃剣(げきけん)も可(か)なりに行(おこな)はれて、九州(しう)の上田馬之助(うへだうまのすけ)(義忠(よしたゞ))、松崎浪四郎(まつざきなみしらう)などの老大家(らうたいか)の名(な)が度々吾々(たび/\われ/\)の耳(みゝ)に入(はひ)つた。
 市中(しちう)で、骨接(ほねつ)ぎ、柔術教授(じうじゆつけうじゆ)の看板(かんばん)をよく見(み)かけるやうになつた。流派(りうは)は天神真揚流(てんしんしんやうりう)といふやうなのが多(おほ)かつたやうに思(おも)ふ。講道館(かうだうくわん)の創立(さうりつ)も大凡(おほよそ)そのころであつたであらう。
 その外(ほか)、謡(うたひ)、茶(ちや)の湯(ゆ)、活花(いけばな)といふやうな芸事(げいごと)、易(えき)、禁厭(まじなひ)、巫子(みこ)伺(うかゞ)ひといふやうな迷信(めいしん)なども、二十七八年(ねん)ごろに近(ちかづ)くに従(したが)つてだん/\弘布(ぐふ)するやうになつた。
 さて、書(か)き落(おと)した建築(けんちく)──家(いへ)──のことを少(すこ)し書(か)くことにする。明治(めいぢ)二十五年(ねん)ごろまでは、まだ勿論(もちろん)、洋風(やうふう)の家(いへ)といふのは実(じつ)に少(すくな)かつた。商店(しやうてん)などでは、銀座(ぎんざ)以外(いぐわい)には洋風(やうふう)の建築(けんちく)は先(ま)づなかつたといつてよかつたであらう。それのみならず、明治(めいぢ)十五六年(ねん)ごろまでは神田(かんだ)の錦町(にしきちやう)、神保町(じんばうちやう)からかけて、麹町(かうぢまち)の番町(ばんちやう)などには、まだ昔(むかし)の旗本(はたもと)邸(やしき)の建物(たてもの)のそのままに残(のこ)つてゐるのが幾(いく)つかあつたくらゐであつた。中央大学(ちうあうだいがく)の起源(きげん)ともいふべき三菱商業学校(みつびししやうげふがくかう)──明治義塾(めいぢぎじゆく)──の当時(たうじ)の校舎(かうしや)は大(おほ)きな旗本邸(はたもとやしき)らしいものをそのまゝ使(つか)つてゐた。
 その時分(じぶん)には、住宅難(ぢうたくなん)どころではなく、家主難(やぬしなん)ぐらゐなものであつたのである。借家住宅(しやくやぢうたく)ならば、山手(やまのて)などにはどこにでもあつたといつてよかつた。それでゐて、まだその上(うへ)に、家賃(やちん)五円(ゑん)位(ぐらゐ)な家(いへ)なら立派(りつぱ)な庭(には)が附(つ)いてゐるのであつた。いや、全(まつた)くのところ、今(いま)僕(ぼく)の住(すま)つてゐる小石川(こいしかは)あたりなどでは、庭(には)の無(な)い家(いへ)を探(さが)すとしたら、却(かへ)つてその方(はう)が骨(ほね)が折(を)れたらうと思(おも)はれるくらゐであつた。この辺(へん)のその時分(じぶん)の家(いへ)は大抵(たいてい)門構(もんがま)へであつて、街路(がいろ)から直(す)ぐ格子戸(かうしど)になつてゐる今(いま)のやうな家(いへ)は殆(ほとん)ど一軒(けん)もなかつたと思(おも)ふ。それほどまでに、市内(しない)にも地面(ぢめん)に余地(よち)があつたのだ。
 街路(がいろ)の照明(せうめい)は、銀座(ぎんざ)の大通(おほどほ)りだけは瓦斯(ガス)の街燈(がいとう)があつたが、その外(ほか)の大通(おほどほ)りが何(ど)うなつてゐたかよくは覚(おぼ)えてゐない。此(こ)の時代(じだい)の瓦斯(ガス)にはマントルがなかつたと思(おも)ふ。家(いへ)のなかは、銀座(ぎんざ)の大通(おほどほ)りだけが瓦斯(ガス)を使(つか)つてゐた位(くらゐ)で、同(おな)じ銀座(ぎんざ)でも裏通(うらどほ)りは大抵(たいてい)石油(せきゆ)ランプや行燈(あんどん)を使(つか)つてゐたやうであつた。軒燈(けんとう)はもうあつたかも知(し)れぬが、まだ一般的(ぱんてき)ではなかつた。この時代(じだい)の末期(まつき)までは、まだ芸者屋(げいしやや)とか、町内(ちやうない)の鳶頭(とびがしら)などの住居(すまひ)には、格子戸(かうしど)のなかに、御神燈(ごしんとう)と称(しよう)する可(か)なり大(おほ)きい円(まる)い提燈(ちやうちん)が下(さが)つてゐた。山手(やまのて)などは路(みち)が随分(ずゐぶん)暗(くら)かつたらうと思(おも)ふのだが、今(いま)はその感(かん)じが殆(ほとん)ど心(こゝろ)に残(のこ)つてゐない。一昨年(さくねん)の震災(しんさい)直後(ちよくご)のことを思(おも)ひ出(だ)してみて、始(はじ)めて昔(むかし)の暗(くら)さが心(こゝろ)にはつきり(ヽヽヽヽ)と分(わか)る位(くらゐ)なものである。幸(さいは)ひにして人間(にんげん)は、苦(くる)しかつたこと、悲(かな)しかつたことを早(はや)く忘(わす)れるものである。



秋日散策

     渋谷あたりの追憶

 下渋谷(しもしぶや)の道玄坂(だうげんざか)の中程(なかほど)から左(ひだり)へ入(はひ)つたところの丘(をか)の上(うへ)の、名和男爵邸(なわだんしやくてい)のなかの家(いへ)に与謝野寛(よさのくわん)君(くん)が住(すま)つてゐて、そこを僕(ぼく)が訪(たづ)ねたのは明治(めいぢ)三十四年(ねん)の冬(ふゆ)か、翌(よく)三十五年(ねん)の春(はる)かであつたと思(おも)ふ。与謝野(よさの)君(くん)はそれから少(すこ)しして、その近(ちか)くの崖(がけ)の下(した)の、廻(まは)り縁(えん)のある家(いへ)に越(こ)した。千駄谷(だがや)の徳川邸(とくがはてい)の西側(にしがは)の方(はう)へ越(こ)したのは日露戦争(にちろせんさう)の少(すこ)し前(まへ)ぐらゐであつたらうと思(おも)ふ。
 その時分(じぶん)の文学者(ぶんがくしや)の生活(せいくわつ)を思(おも)ふと、今(いま)とは全(まつた)く隔世(かくせい)の感(かん)がする。僕(ぼく)などは、とにかく外(ほか)に定収入(ていしうにふ)のあるみちがあつたので、どうにかかうにか暮(くら)してゐたが、文学(ぶんがく)を職業(しよくげふ)にしてゐた人々(ひと/゛\)の生活(せいくわつ)に至(いた)つては、全(まつた)く奮闘(ふんとう)の生活(せいくわつ)、背水(はいすゐ)の陣(ぢん)といふべきであつた。原稿(げかう)の売先(うりさき)が僅(わづ)か二三ケ所(しよ)しきやなく、その上(うへ)に、稿料(かうれう)の高(たか)もいふに足(た)りないものであつたことは、こゝにいふまでもないであらうが、従(したが)つて、社会的(しやくわいてき)にも人(ひと)として、何等(なんら)認(みと)められて居(ゐ)るのではなかつた。
 新詩社(しんししや)の『明星(みやうじやう)』は当時(たうじ)の新文学(しんぶんがく)の大(おほ)きい、華(はな)やかな幟(はた)じるしであり、吾々(われ/\)若(わか)き文学者(ぶんがくしや)の奮戦(ふんせん)のラリイング・ポイントであつたといつて宜(よろ)しからう。『明星(みやうじやう)』が当時(たうじ)の新文学(しんぶんがく)の伝統(でんとう)を支持(しぢ)すると共(とも)に、後来(こうらい)の進展(しんてん)に対(たい)する足場(あしば)を作(つく)つたことは、何人(なんびと)も疑(うたが)ひ得(え)ざるところであらう。殊(こと)に詩(し)と短歌(たんか)の部面(ぶめん)においての新詩社(しんししや)の大功績(だいこうせき)は明治文学史上(めいぢぶんがくしじやう)に燦(さん)として輝(かゞや)いて居(ゐ)る。
 与謝野君(よさのくん)御夫婦(ごふうふ)はよくまアあのやうな全(まつた)く惨澹(さんたん)たる生活苦(せいくわつく)を忍(しの)びながら『明星(みやうじやう)』の刊行(かんかう)を続(つゞ)けられたと思(おも)ふ。文学(ぶんがく)、詩歌(しいか)に対(たい)する熱愛(ねつあい)の然(しか)らしむるところであつたことはいふまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐(にんたい)と勇気(ゆうき)は、今思(いまおも)ひ出(だ)すごとに、感歎(かんたん)の念(ねん)を禁(きん)じ得(え)ない。
 僕(ぼく)はこの頃(ごろ)、時々(とき/゛\)道玄坂下(だうげんざかした)の横町(よこちやう)にある古本(ふるほん)の即売会(そくばいくわい)を見(み)に行(い)くので、あの辺(へん)の変(かは)り方(かた)に眼(め)を見張(みは)ると共(とも)に、与謝野君(よさのくん)御夫婦(ごふうふ)の下渋谷時代(しもしぶやじだい)、千駄谷時代(だがやじだい)のことを思(おも)ひ出(だ)して、感慨深(かんがいふか)きものがあるのである。
 土地(とち)の変(かは)り方(かた)は全(まつた)く滄桑(さうさう)の変(へん)と謂(い)つても然(しか)るべきくらゐであらう。宮益坂(みやますざか)、道玄坂(だうげんざか)も、昔(むかし)は道幅(みちはゞ)のグツと狭(せま)い、もつとズツと急(きふ)な坂(さか)であつたことはいふまでもないであらうが、渋谷(しぶや)の駅(えき)ももう少(すこ)し南(みなみ)に寄(よ)つてゐて、昇降口(しようかうぐち)は西(にし)の方(はう)にあつたやうな気(き)がする。これは駅(えき)が大(おほ)きくなつたために、今(いま)のやうになつたのではあるまいか。
 上田敏(うへだびん)君(くん)と一緒(しよ)に宮益坂(みやますざか)を下(お)りて、与謝野(よさの)君(くん)を訪(と)うたことを記憶(きおく)するが、坂(さか)は両側(りやうがは)が生垣(いけがき)になつてゐて、僅(わづ)かに五六間(けん)幅(はゞ)ぐらゐな路(みち)であつたやうな気(き)がする。坂(さか)の下(した)の踏(ふ)み切(き)りを越(こ)えると、両側(りやうがは)は水田(すゐでん)であつたやうに思(おも)ふ。全(まつた)く広重(ひろしげ)などの絵(ゑ)にありさうな地景(ちけい)であつた。道玄坂(だうげんざか)へとあがつて行(い)くと、坂(さか)がいはばおでこの額(ひたひ)のやうに高(たか)くなつて居(ゐ)るあたりの左(ひだり)の方(はう)に狭(せま)い横町(よこちやう)があつて、それへと曲(まが)つて、与謝野(よさの)君(くん)の家(いへ)に達(たつ)するのであつた。そして、この路(みち)は環状(くわんじやう)をなして、東(ひがし)の方(はう)へと曲(まが)つて、渋谷(しぶや)の駅(えき)へ達(たつ)してゐたと記憶(きおく)する。多分(たぶん)この路(みち)は線路(せんろ)を越(こ)して、渋谷(しぶや)から目黒(めぐろ)の方(はう)へ続(つゞ)いて居(ゐ)る路(みち)へ合(がつ)するのであつたらうかと思(おも)ふ。
 
 今年(ことし)の四月(ぐわつ)二十五日(にち)の午後(ごご)であつたと思(おも)ふのだが、渋谷(しぶや)の即売会(そくばいくわい)の帰(かへ)りに、与謝野(よさの)君(くん)の故宅(こたく)のあたりを、唯(たゞ)心(こゝろ)あてに歩(ある)いてみようと思(おも)つた。勿論(もちろん)、地図(ちづ)も何(なに)も見(み)て置(お)かなかつたので、ただ全(まつた)くの当(あ)てずつぱうの散策(さんさく)であつた。道玄坂(だうげんざか)を一町程(ちやうほど)上(のぼ)つて行(い)つてから、左(ひだり)へ下(お)りてみたが、どうも少(すこ)し昔(むかし)の路(みち)よりは西(にし)へ寄(よ)り過(す)ぎたのではないかと思(おも)つた。勿論(もちろん)、何(なに)もかも変(かは)つてしまつたので見当(けんたう)も何(なに)もつきはしない。
 直(ぢき)に大和田町(おほわだまち)といふのへ出(で)てしまつた。伊藤旅館(いとうりよくわん)といふのは、俳人(はいじん)の伊藤鴎二(いとうおうじ)君(くん)のお宅(たく)かなどと思(おも)ひながら、歩(ある)いて行(ゆ)くと、路(みち)は少(すこ)し高(たか)くなつて、南平台(なんへいだい)といふのになつた。これでは、与謝野(よさの)君(くん)の昔(むかし)の家(いへ)のところなどは、もうとつくに通(とほ)り越(こ)してしまつたことは確(たしか)なので、せめて、恵比須(ゑびす)の方(はう)へ行(い)く谷(たに)あひの路(みち)へと出(で)ようと思(おも)つたのだが、桜丘(さくらがをか)、鶯谷(うぐひすだに)などといふのがあつて、その先(さ)きでやつと、省線(しやうせん)にぶつかつた。それを越(こ)してからが、昔(むかし)の路(みち)になるのではなからうかと思(おも)つたのだが、昔(むかし)は森(もり)だの、薮(やぶ)だのばかりしきや見(み)えなかつたところを、今(いま)は何処(どこ)を見(み)ても、アスファルトの坦々(たん/\)たる路(みち)が通(つう)じて居(ゐ)るといふ有(あり)さまなので、余(あま)りの変(かは)りやうに、ちよつとぼんやりした形(かたち)になつて、つい線路(せんろ)の西側(にしがは)を通(とほ)つて、公会堂通(こうくわいだうどほ)りを経(へ)て、恵比須(ゑびす)へ出(で)て、田町(たまち)行(ゆ)きのバスに乗(の)つてしまつた。
 何(なに)しろ、もう三十年(ねん)程(ほど)たつて居(ゐ)るのであるから、変(かは)るのは当然(たうぜん)なことではあらうが、吾々(われ/\)には郊外(かうぐわい)の変革(へんかく)は実(じつ)に驚(おどろ)くべきものがある。その前(まへ)三十年間(ねんかん)はそんなに変(かは)らなかつたと思(おも)ふ。少(すくな)くとも、僕等(ぼくら)らが少年時代(せうねんじだい)から壮年時代(さうねんじだい)までの二十年間(ねんかん)は、市内(しない)でさへも変(かは)らないところが幾(いく)らもあつたと思(おも)ふ。人々(ひと/゛\)が郊外(かうぐわい)に家(いへ)を求(もと)めだしたのは、先(ま)ず明治(めいぢ)四十年(ねん)以降(いご)のことと見(み)て宜(よろ)しいのであらう。その後(ご)、大正(たいしやう)八九年(ねん)頃(ごろ)から、市内(しない)の住宅難(ぢうたくなん)が始(はじ)まりはしたものの、震災(しんさい)がなかつたら、かうまで郊外(かうぐわい)の大発展(だいはつてん)は見(み)られなかつたらうと思(おも)ふ。つまり、この大変化(だいへんくわ)は先(ま)ず正味(しやうみ)十五年(ねん)ぐらいゐの間(あひだ)のことである。全(まつた)く急激(きふげき)の変化(へんくわ)といふべきである。全(まつた)くよくもかう変(かは)つてしまつたものである。
 与謝野君(よさのくん)の渋谷(しぶや)の家(うち)を訪(たづ)ねた時分(じぶん)には、僕(ぼく)は麹町(かうぢまち)の飯田町(いひだまち)、小石川(こいしかは)の金富町(かなとみちやう)などに住(すま)つてゐたので、牛込(うしごめ)から新宿(しんじゆく)まで汽車(きしや)で行(ゆ)き(電車(でんしや)にはなつてゐなかつた)それから渋谷(しぶや)まで歩(ある)いたものであつた。その路(みち)は例(れい)の大(おほ)きな欅(けやき)の立木(たちき)で囲(かこ)んだ家(いへ)などがあり、また、野草(やさう)が茫々(ばう/\)と生(は)えた野原(のはら)のやうなところもあつたりして、如何(いか)にも田舎路(ゐなかみち)らしい気(き)がして、面白(おもしろ)かつたので、代々木(よゝぎ)で乗換(のりか)へはせずに、新宿(しんじゆく)まで行(い)つて、廻(まは)り路(みち)ながら、甲州街道(かうしうかいだう)を少(すこ)し南行(なんかう)してから、左(ひだり)へ折(を)れて、前記(ぜんき)のやうな田舎(ゐなか)めいた路(みち)をたどつて、道玄坂(だうげんざか)の下(した)へ出(で)るのであつた。その路(みち)も今(いま)は変(かは)つてゐることは勿論(もちろん)だとは思(おも)つたが、それはどんな風(ふう)になつてゐるのであらうか、ためしに歩(ある)いてみようといふ気(き)になつた。それには先(ま)ず千駄谷(だがや)から新宿(しんじゆく)の方(はう)へ向(む)けて行(ゆ)き、渋谷(しぶや)へ向(むか)う路(みち)のどこかへ出(で)るやうにしようと思(おも)つたのだ。
 
 渋谷(しぶや)を歩(ある)いた翌日(よくじつ)の二十六日(にち)には、四谷(よつや)の大木戸(おほきど)から千駄谷(だがや)の方(はう)へ歩(ある)いてみた。

     千駄谷あたりの追憶

 与謝野(よさの)君(くん)の千駄谷(だがや)住(ずま)ひの時分(じぶん)には、僕(ぼく)は牛込(うしごめ)の弁天町(べんてんちやう)にゐたので、よく与謝野(よさの)君(くん)をたづね、大抵(たいてい)は深夜(しんや)になつて帰(かへ)るので、車(くるま)で送(おく)つて貰(もら)ひもしたが、徒歩(とほ)で帰(かへ)つたことも度々(たび/\)であつた。
 夜(よ)なかの一時(じ)頃(ごろ)に、千駄谷駅(だがやえき)から、御苑(ぎよゑん)に沿(そ)うて北行(ほくかう)すると、水車(すゐしや)があつて、小(ちひ)さい橋(はし)があり、それを越(こ)して、内藤町(ないとうちやう)へ入(はひ)つて、大木戸(おほきど)へ抜(ぬ)けるのであつたが、その間(あひだ)が如何(いか)にも淋(さび)しい路(みち)であつた。
 僕(ぼく)はその路(みち)を逆(ぎやく)に歩(ある)いてみるのであつた。大番町(おほばんちやう)の広(ひろ)い大路(おほぢ)を横(よこ)ぎつて、内藤町(ないとうちやう)へ曲(ま)がり、真直(まつす)ぐに行(い)つたが、このあたりは邸(やしき)が皆(みな)綺麗(きれい)になつたのみで、路(みち)の模様(もやう)は昔(むかし)のまゝのやうに思(おも)つた。路(みち)は自然(しぜん)に左(ひだり)へと曲(ま)がつて、大番町(おほばんちやう)の大通(おほどほ)りへ出(で)てしまつたが、右手(みぎて)に小(ちひ)さい橋(はし)がある。池尻橋(いけじりばし)となつて居(ゐ)る。(古(ふる)い東京図(とうきやうづ)には沼尻橋(ぬまじりばし)となつて居(ゐ)る)その橋(はし)の向(むか)うは、土地(とち)が一段(だん)低(ひく)く谷(たに)あひのやうになつて、昔(むかし)の水車(すゐしや)の面影(おもかげ)を止(とゞ)めた家(いへ)がある。橋(はし)を越(こ)すと、右(みぎ)は御苑(ぎよゑん)の木立(こだち)で、左(ひだり)は前記(ぜんき)の家(いへ)の板塀(いたべい)になつて居(ゐ)る。このあたりも勿論昔(もちろんむかし)の形(かたち)を大体(だいたい)残(のこ)して居(ゐ)る。路(みち)はまた、大番町(おほばんちやう)の大通(おほどほ)りへ合(がつ)してしまふのであるが、それから先(さ)きが、昔(むかし)の記憶(きおく)とは合(あ)はないやうに思(おも)はれたのである。もとより鉄道線路(てつだうせんろ)は少(すこ)しだら/\上(のぼ)りの坂(さか)の上(うへ)にあつたきりで、今(いま)のやうな高架線(かうかせん)ではなかつたのだ。それはそれとして、凡(およ)そこのあたりにあつた筈(はず)だと思(おも)ふあたりに千駄谷(だがや)の駅(えき)らしいものは見(み)えないのだ。それで、まアとにかく歩(ある)いてみろと思(おも)つて、広(ひろ)い路(みち)を直行(ちよくかう)して、右(みぎ)へ曲(ま)がり、商店(しやうてん)などのある可(か)なり賑(にぎ)やかな通(とほ)りを西行(せいかう)してから、左折(させつ)し、神宮(じんぐう)の手前(てまへ)から右(みぎ)へ廻(まは)つて、代々木練兵場(よゝぎれんぺいぢやう)の北口(きたぐち)ヘ出(で)たのであるが、僕(ぼく)の昔通(むかしとほ)つた渋谷(しぶや)への路(みち)は神宮(じんぐう)に沿(そ)うて行(ゆ)く訳(わけ)になるのであらうとは思(おも)はれたけれども、往来止(わうらいど)めになつて居(ゐ)るので、引(ひ)つ返(かへ)して、練兵場(れんぺいぢやう)の丘(をか)の下(した)を、小川(をがは)に沿(そ)うて、南(みなみ)をさして進(すゝ)んだのであるが、だん/\見当(けんたう)がつかなくなつたので、代々木(よゝぎ)八幡(まん)といふ小田急電車(をだきふでんしや)の駅(えき)のところから、バスに乗(の)つて渋谷(しぶや)へ出(で)てしまつた。
 昔(むかし)、新宿(しんじゆく)から僕(ぼく)などの歩(ある)いた路(みち)は、どうしても今(いま)は練兵場(れんぺいぢやう)のなかへ入(はひ)つてしまつて居(ゐ)るのだと思(おも)ふ。昔(むかし)の路(みち)は渋谷(しぶや)へ可(か)なり近(ちか)くなつて来(き)たところに、陸軍(りくぐん)の衛戌監獄(ゑいじゆかんごく)といふのがあつた。さういふ点(てん)から考(かんが)へると、その路(みち)は大体(だいたい)現今(げんこん)の神園町(かみぞのちやう)とか、神南町(かんなみちやう)とかいふあたりを通(とほ)り、刑務所(けいむしよ)の東(ひがし)を通(とほ)り、今(いま)の宇田川町(うだがはちやう)から、神宮通(じんぐうどほ)りへ出(で)て、道玄坂下(だうげんざかした)へ出(で)て来(く)るやうになつてゐたのであらうと思(おも)ふ。現今(げんこん)の小田急(をだきふ)に沿(そ)うた低(ひく)い谷(たに)あひの路(みち)ではなかつた。どうしても谷(たに)の上(うへ)の路(みち)であつて、監獄(かんごく)のあたりから渋谷(しぶや)の方(はう)へ向(む)けてちよつとした坂(さか)になつて居(を)つたと思(おも)ふ。
 今(いま)より二十年(ねん)ぐらゐ前(まへ)までは、旧市内(きうしない)からほんのちよつと歩(あゆ)み出(だ)すと、全(まつた)くの田園(でんゑん)らしい野景(やけい)に接(せつ)することができたのであるが、今(いま)はどうして、吉祥寺(きちじやうじ)とか、砧(きぬた)とかいふやうな新市外(しんしぐわい)まで行(い)つたところで、昔(むかし)のやうな自然(しぜん)の勝(まさ)つた景観(けいくわん)は見(み)られなくなつた。農家(のうか)は勿論(もちろん)、畑(はたけ)も、田(た)も、何(な)んだかずつと綺麗(きれい)になつてしまつたやうに見(み)える。

 此(こ)の月(つき)、即(すなは)ち九月(ぐわつ)の十九日(にち)の午前(ごぜん)、大番町(おほばんちやう)から内藤町(ないとうちやう)、池尻橋(いけじりばし)といふ風(ふう)に千駄谷(だがや)へ向(む)けて行(い)つたが、どうも矢張(やは)り駅(えき)へは出(い)で得(え)ずに、霞丘(かすみがをか)といふあたりを通(とほ)り、池尻橋(いけじりばし)のところの川(かは)の下流(かりう)であらうと思(おも)ふやうな小流(こながれ)を見(み)、原宿(はらじゆく)、穏田(をんでん)を通(とほ)つて青山北町(あをやまきたまち)へ出(で)てしまつた。その翌日二十日午前(よくじつはつかごぜん)には、信濃町(しなのまち)から歩(ある)いてみたが、やはりなか/\千駄谷(だがや)の駅(えき)へは出(で)ない。どうも駅(えき)は昔(むかし)の位置(いち)からは西(にし)の方(はう)へ移(うつ)つたやうな気(き)がするので、この日(ひ)は御苑(ぎよえん)に沿(そ)うて曲(ま)がつて居(ゐ)る狭(せま)い路(みち)をたどつてみたが、今度(こんど)こそは駅(えき)の右手(みぎて)へ出(で)ることが出来(でき)た。昔(むかし)の駅(えき)は池尻橋(いけじりばし)からこんなには離(はな)れてゐなかつたと思(おも)ふ。路(みち)はその時分(じぶん)は駅(えき)の右手(みぎて)を通(とほ)つて、徳川邸(とくがはてい)に沿(そ)うて左折(させつ)し、そこが住宅地(ぢうたくち)になつて居(を)つた。ところで、線路(せんろ)と徳川邸(とくがはてい)の間(あひだ)は二尺位(しやくぐらゐ)の高(たか)さの土手(どて)で囲(かこ)まれた空地(あきち)になつてゐた。与謝野(よさの)君(くん)のうちからの帰(かへ)りに、森鴎外(もりおうぐわい)さんやその外(ほか)の人々(ひと/゛\)と共(とも)に、この路(みち)を夜(よる)歩(ある)いたことがある。日露戦争(にちろせんさう)の直後(ちよくご)であつた。森(もり)さんが軍刀(ぐんたう)の●(キヘン+「霸」)(つか)を握(にぎ)つて、こじりが土(つち)につかないやう引(ひ)き上(あ)げて、気軽(きがる)に人々(ひと/゛\)と話(はな)しながら、ぬかるみをよけ/\歩(ある)いて居(を)られた姿(すがた)が今(いま)もなお眼前(がんぜん)にあり/\と思(おも)ひ浮(う)かべられる。
 当時(たうじ)の徳川邸(とくがはてい)は西(にし)の方(はう)が裏手(うらて)になつて居(を)つた。そこは茶畑(ちやばたけ)になつて居(を)つたやうであつた。明治(めいぢ)二十年(ねん)か二十一年(ねん)かの晩秋(ばんしう)、徳川邸(とくがはてい)での流鏑馬(やぶさめ)と騎射(きしや)の天覧(てんらん)は、この茶畑(ちやばたけ)になつて居(ゐ)る場所(ばしよ)においてであつたらう。その時(とき)の騎手(きしゆ)のうちでは、今(いま)京都(きやうと)に居(ゐ)る小笠原清通(をがさはらきよみち)氏(し)の外(ほか)には、今(いま)は幾人(いくにん)も残(のこ)つて居(を)らぬであらう。
 千駄谷(だがや)の駅(えき)が西(にし)の方(はう)へ移(うつ)つたものだとすると、徳川邸(とくがはてい)も西(にし)の方(はう)へ広(ひろ)がつたものと思(おも)はざるを得(え)ないのだが、さうなると、与謝野(よさの)君(くん)の住(す)んで居(を)られたところは、現今(げんこん)の徳川邸(とくがはてい)の南(みなみ)になるか、あるひは、徳川邸(とくがはてい)のなかへ入(はひ)つてしまつた訳(わけ)かになるのだらう。与謝野(よさの)君(くん)や生田長江(いくたちやうかう)君(くん)の住宅(ぢうたく)からは、現今(げんこん)の鳩森(はともり)八幡(まん)は少(すこ)し西寄(にしよ)りになつて居(を)つたやうに思(おも)ふ。それとも、さういふ住宅地(ぢうたくち)は、今(いま)の徳川(とくがは)さんの正門前(せいもんまへ)の路(みち)を隔(へだ)てた西(にし)の方(はう)の宅地(たくち)のなかになつて居(ゐ)るのであらうか。どうも今(いま)の千駄谷駅(だがやえき)の位置(いち)から考(かんが)へると、さうではなささうに思(おも)へてならぬ。僕(ぼく)は、そんなことを思(おも)ひながら、八幡(まん)に沿(そ)うた路(みち)を下(くだ)り、何時(いつ)の間(ま)にか、渋谷(しぶや)へ向(むか)う環状道路(くわんじやうだうろ)へ出(で)て、参宮道(さんぐうだう)を横(よこ)ぎつて、渋谷(しぶや)まで歩(ある)いてしまつた。
 ところで、こゝに一(ひと)つ僕(ぼく)に取(と)つてわからぬことがある。それは池尻橋(いけじりばし)の下(した)の川(かは)は新宿(しんじゆく)の裏手(うらて)を通(とほ)つて、昔(むかし)の内藤侯邸(ないとうこうてい)(今(いま)の御苑(ぎよゑん))を抜(ぬ)けて出(で)て来(く)る旧玉川上水(きうたまがはじやうすゐ)であつて、赤羽根川(あかばねがは)の上流(じやうりう)になつて居(ゐ)るのであるが、この川(かは)が一体(たい)どういふ風(ふう)に流(なが)れて居(ゐ)るのであらうかといふ点(てん)である。穏田(をんでん)を流(なが)れて居(ゐ)るのも、代々木練兵場(よゝぎれんぺいぢやう)の西麓(せいろく)を流(なが)れて居(ゐ)るのも、同(おな)じ川(かは)であつて、それが昔(むかし)の渋谷駅(しぶやえき)の東(ひがし)を通(とほ)り広尾(ひろを)へ出(い)で、天現寺(てんげんじ)を過(す)ぎるといふ訳(わけ)になつて居(ゐ)るとも思(おも)はれるし、文化(ぶんくわ)の江戸図(えどづ)も嘉永(かえい)の江戸図(えどづ)にも、この川(かは)は大木戸(おほきど)のところから一筋(ひとすぢ)になつて居(ゐ)るのだが、嘉永(かえい)の切図(きりづ)を見(み)ると、内藤邸(ないとうてい)の西(にし)の方(はう)にもう一(ひと)つ玉川上水(たまがはじやうすゐ)の分(わか)れらしいものが一筋(ひとすぢ)ある。どうも、この流(ながれ)も、どこかで、前記(ぜんき)の大木戸(おほきど)からの流(ながれ)に合流(がうりう)して居(ゐ)るのではなからうか。古(ふる)い郊外図(かうぐわいづ)か、五万分(まんぶん)の地図(ちづ)でも調(しら)べて見(み)たいと思(おも)つて居(ゐ)る。



昔の寄席

  一

 雨(あめ)の音(おと)しめやかな夜(よる)などに、独(ひと)り静(しづ)かに物(もの)を思(おも)ひ続(つゞ)けて居(ゐ)るうちに、今(いま)まで別(べつ)にそれ程遠(ほどとほ)い事(こと)のやうには思(おも)つて居(ゐ)なかつた自分(じぶん)の少年時(せうねんじ)の事(こと)などが、成(な)る程(ほど)随分前(ずゐぶんまへ)の事(こと)であるのに気(き)が附(つ)くことがある。
 五十位(ぐらゐ)な吾々(われ/\)に取(と)つては、自分(じぶん)から俺(おれ)は老人(らうじん)だと思(おも)ふことは、甚(はなは)だ困難(こんなん)である。然(しか)し、若(わか)い人々(ひと/゛\)は吾々(われ/\)を老人(らうじん)だと思(おも)つて居(ゐ)るに違(ちが)ひないし、又(また)さう思(おも)ふのは尤(もつと)もな事(こと)である。
 吾々自身(われ/\じしん)も青年時(せいねんじ)には、五十位(ぐらゐ)の人(ひと)を見(み)れば、可(か)なりな老人(らうじん)だと思(おも)つて居(ゐ)た。さうして見(み)れば吾々(われ/\)が自(みづか)ら老人(らうじん)たることを承認(しようにん)するとせざるとに拘(かゝは)らず、若(わか)き人々(ひと/゛\)から老人(らうじん)を以(もつ)て遇(ぐう)せられることは全(まつた)く已(や)むを得(え)ないことである。
 されば、寧(むし)ろ自分(じぶん)も老人(らうじん)たることを承認(しようにん)して、精々(せい/゛\)古(ふる)い方(はう)へ廻(まは)つてしまふ方(はう)が、骨(ほね)の折(を)れぬみちかとも思(おも)はれる。
 けれども、小生(せうせい)は生憎(あひにく)余(あま)り古(ふる)い事(こと)を知(し)らぬ。高々(たか/゛\)今(いま)より三十年位(ねんぐらゐ)前(まへ)のことならば少(すこ)し知(し)つて居(ゐ)る。これでは、昔物語(むかしものがたり)とするには価値(かち)がないわけであるが、又(また)一方(ぱう)から考(かんが)へると、それでも何(なに)かの足(た)しにはなるやうな気(き)もする。近来(きんらい)江戸研究(えどけんきう)とか、江戸趣味(えどしゆみ)などといふことが云(い)はれだして、幕政(ばくせい)の時分(じぶん)の事(こと)などは、書物(しよもつ)になつて居(ゐ)るものが多(おほ)いけれども、明治(めいぢ)十年位(ねんぐらゐ)から二十四五年(ねん)位(ぐらゐ)までの市井(しせい)の雑事(ざつじ)は、江戸研究(えどけんきう)のなかには当然(たうぜん)含(ふく)まれて居(ゐ)ないのだから、存外(ぞんぐわい)文書(ぶんしよ)になつて居(ゐ)ないやうに思(おも)ふ。江戸時代(えどじだい)の事(こと)を調(しら)べれば、それで大分(だいぶ)古(ふる)い事(こと)のオーソリテイになれるのであるが、知(し)つて居(ゐ)る人(ひと)の今(いま)大分(だいぶ)生(い)きて居(ゐ)る明治(めいぢ)の事(こと)を書(か)いたところで、誰(だれ)もエラいとは云(い)ひはしないばかりではなく、それは斯(か)う違(ちが)ふあゝ違(ちが)ふと方々(はう/゛\)から槍(やり)が出(で)る。賢(かしこ)き今(いま)の人(ひと)はそんな損(そん)の多(おほ)い仕事(しごと)を買(か)つて出(で)ることは先(ま)づしないのだ。然(しか)し、さういふ割合(わりあひ)に近(ちか)い時代(じだい)の事(こと)であつても、もう二十年(ねん)も経(た)てば、大分(だいぶ)古(ふる)い事(こと)として取(と)り扱(あつか)はれるやうにならうと思(おも)はれるので、さういふ時代(じだい)になつた際(さい)の参考(さんかう)にもと、吾々(われ/\)の青年時(せいねんじ)の市井(しせい)の事(こと)を時々(とき/゛\)書(か)いてみようと思(おも)つて居(ゐ)る。
 左(さ)に記(き)する寄席(よせ)の事(こと)は、全(まつた)くさういふ追憶記(つひおくき)の一(ひと)つである。

  二

 落語(らくご)を何時頃(いつごろ)聞(き)き始(はじ)めたのか、確(たしか)な年代(ねんだい)は今(いま)思(おも)ひ出(だ)せないが、小生(せうせい)の十二三の時分(じぶん)かと思(おも)ふ。本郷(ほんがう)の大学病院(だいがくびやうゐん)へ出入(でい)りの貸本屋(かしほんや)があつたが、それは、中脊(ちうぜい)で何方(どちら)かと云(い)へば円顔(まるがほ)な、道具立(だうぐだ)てのはつきりした容貌(ようばう)の男(をとこ)であつた。所謂(いはゆる)キリリと締(しま)つた顔立(かほだ)ちであつたのだ。年齢(ねんれい)は幾(いく)つ位(ぐらゐ)であつたか、少年(せうねん)の考(かんがへ)では確(たしか)でないが、もう三十近(ぢか)い男(をとこ)であつたやうな気(き)がする。
 断(ことわ)つて置(お)くが、勿論(もちろん)その時分(じぶん)の貸本屋(かしほんや)のことであるから、今(いま)のやうな活版本(くわつぱんぼん)を持(も)つて歩(ある)く訳(わけ)では無(な)い。八犬伝(はつけんでん)、弓張月(ゆみはりづき)、水滸伝(すゐこでん)、三国誌(さんごくし)といふやうな木版(もくはん)ものをば背負(せお)つて、方々(はう/゛\)を廻(まは)るのであつた。
 その男(をとこ)が落語(らくご)が旨(うま)いさうだと誰(だれ)かから聞(き)いたので、本(ほん)を貸(か)しに来(き)た時(とき)に、うちの者(もの)が大勢(おほぜい)で、一(ひと)つ落語(らくご)をやつてみろとおだてた。貸本屋(かしほんや)はその時二(ときふた)つばかり短(みじか)い話(はなし)をした。
 一(ひと)つは斯(か)ういふのであつた。或(あ)る侍(さむらひ)が茶店(ちやみせ)に休(やす)んで、婆(ばあ)さんに此(こ)の辺(へん)には白狐(びやくこ)が出(で)るといふことだがときくと、婆(ばあ)さんはさういふことはございませんといふので、侍(さむらひ)がイヤそれでは大(おほ)かた人(ひと)の説(せつ)だらうと云(い)つて行(い)つてしまふ。職人(しよくにん)がそれを聞(き)いて居(ゐ)て、侍(さむらひ)の真似(まね)をしようと思(おも)つて婆(ばあ)さんにこの辺(へん)にはダツコ(脱肛(だつこう))が出(で)るさうだねと聞(き)く、婆(ばあ)さんはそんなきたない物(もの)は出(で)ませんと答(こた)へると、職人(しよくにん)は、大(おほ)かた人(ひと)のケツだらうと云(い)つた。
 も一(ひと)つは、嫁(よめ)いびりの姑(しうと)が、浴衣(ゆかた)へ糊(のり)のかひ方(かた)に就(つい)て、無理(むり)を嫁(よめ)に云(い)ひかけて、まだ糊(のり)が足(た)りない足(た)りないと云(い)つて、浴衣(ゆかた)がごわ/\になつて袖(そで)がまるで突張(つゝぱ)つてしまふまでに糊(のり)で固(かた)めさせてしまふ。それを着(き)て門口(かどぐち)ヘ出(で)て居(ゐ)ると、前(まへ)の二階(かい)から子供(こども)が、向(むか)うの伯母(をば)さんお茶(ちや)あがれといふ。姑(しうと)はノリ(糊(のり))がコワくて行(い)かれませんと云(い)つたといふ話(はなし)である。
 田舎者(ゐなかもの)であり且(か)つ子(こ)どもであつた小生(せうせい)には、落(おち)は両方(りやうはう)とも解(わか)らなかつたが、全体(ぜんたい)としての話(はなし)の調子(てうし)だけは何(ど)うにか解(わ)かつたので落語(らくご)といふものはなか/\面白(おもしろ)いものだといふ印象(いんしやう)は受(う)けたのであつた。
 そのうちに、母(はゝ)などが主唱(しゆしやう)で、寄席(よせ)へ行(い)くことになつた。初(はじ)めて行(い)つた寄席(よせ)は、今(いま)の本郷(ほんがう)の電車(でんしや)交叉点(かうさてん)から切通(きりどほ)しの方(はう)へ向(むか)つて行(い)くと、右(みぎ)に日蔭町(ひかげちやう)へ曲(まが)る横町(よこちやう)があるが、その角(かど)にあつた荒木亭(あらきてい)といふのであつた。それは、当時(たうじ)二流(りう)以下(いか)の寄席(よせ)であつたらうと思(おも)ふのだが、木戸銭(きどせん)は四五銭(せん)のところであつたらう。吾々(われ/\)はその時分(じぶん)は敷物代(しきものだい)を倹約(けんやく)するために、毛布(まうふ)を持(も)つて行(い)つたやうに覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 荒木亭(あらきてい)で何(ど)んな話(はなし)を聞(き)いたのか、大抵(たいてい)今(いま)は忘(わす)れてしまつたが、その中(なか)にたつた一(ひと)つ記憶(きおく)に残(のこ)つて居(ゐ)るのがある。
 酒(さけ)飲(の)みの爺(ぢい)さんが、娘(むすめ)を売(う)つた金(かね)を持(も)つて帰(かへ)る途中(とちう)、居酒屋(ゐざかや)の前(まへ)を通(とほ)り過(す)ぎることができなくつて、一寸(ちよつと)一杯(ぱい)といふ心算(つもり)で、入(はひ)つて飲(の)み始(はじ)める。所(ところ)が、あと引上戸(ひきじやうご)のことであるから、もう半分(はんぶん)、もう半分(はんぶん)とだん/\飲(の)んで行(い)くうちに、たうとうぐでんぐでんに酔(よ)つてしまつて、財布(さいふ)を忘(わす)れて出(で)て行(い)つてしまふ。居酒屋(ゐざかや)の夫婦(ふうふ)はその財布(さいふ)を隠(かく)してしまつて、爺(ぢい)さんが酔(ゑひ)が醒(さ)めて、財布(さいふ)をさがしに来(き)ても、そんな物(もの)は無(な)かつたと云(い)つて渡(わた)さない。爺(ぢい)さんはその金(かね)がなければ何(ど)うにもならない身(み)の上(うへ)なので、身(み)を投(な)げて死(し)んでしまふ。居酒屋(ゐざかや)の方(はう)は、その爺(ぢい)さんの金(かね)で、だん/\店(みせ)を拡(ひろ)げて、商売(しやうばい)が繁昌(はんじやう)して可(か)なりな身上(しんしやう)になつた。そのうちに夫婦(ふうふ)の間(あひだ)に子(こ)どもが出来(でき)た。乳母(うば)を雇(やと)つたが、何(ど)ういふものだか、皆(みんな)二三日(にち)たつと、ひまを取(と)つて帰(かへ)つてしまつて、居附(ゐつ)く者(もの)が一人(ひとり)もない。亭主(ていしゆ)が何(ど)うも合点(がてん)のいかぬことだと思(おも)つて、一(ひ)と晩(ばん)ねずに番(ばん)をして居(ゐ)ると、真夜中(まよなか)になつて、赤(あか)んぼがそろ/\寝床(ねどこ)を抜(ぬ)け出(だ)して鼠入(ねずみい)らずから湯呑(ゆのみ)を取(と)り出(だ)して、旦那(だんな)もう半分(はんぶん)と云(い)つた。
 此(こ)の話(はなし)は、爺(ぢい)さんが居酒屋(ゐざかや)でもう半分々々(はんぶん/\)と云(い)ふところは可笑味(をかしみ)で十分笑(ぶんわら)はせ、財布(さいふ)をさがしに来(く)るところから、調子(てうし)を引(ひ)きしめだし、夜中(よなか)の怪談(くわいだん)は十分凄(ぶんすご)く話(はな)して、落(おち)のもう一杯(ぱい)で、客(きやく)を笑(わら)はすといふ話(はな)し方(かた)であつた。
 元(もと)より善(よ)い寄席(よせ)ではなかつたので、咄家(はなしか)も善(よ)い芸人(げいにん)ではなかつたのだらうが、今(いま)の記憶(きおく)では、何(ど)うも話(はな)し方(かた)が旨(うま)かつたやうに思(おも)はれる。落(おち)を余(あま)り聞(き)かないうち、而(しか)も子(こ)どものうちのことであるから、何(なに)がなしに旨(うま)かつたやうに思(おも)はれたのであるかも知(し)れぬが、しかし又(また)他方(たはう)から考(かんが)へると、当時(たうじ)の咄家(はなしか)は中流(ちうりう)どころでも、今(いま)の咄家(はなしか)より芸(げい)がずつと上(うへ)であつたかも知(し)れないのだ。
 此(こ)の話(はなし)は、その後(ご)何処(どこ)でも聞(き)いたことがない。当時(たうじ)でも善(よ)い寄席(よせ)ではしない話(はなし)になつてゐたのかも知(し)れぬ。

  三

 所謂(いはゆる)怪談(くわいだん)ばなしなるものも、当時(たうじ)ではよい寄席(よせ)には出(で)ないものになつて居(ゐ)たやうに思(おも)はれるが、荒木亭(あらきてい)には左龍(さりう)といふのが、懸(かゝ)つたことがある。
 話(はなし)は、侍(さむらひ)が腰元(こしもと)を殺(ころ)すとか、家来(けらい)を殺(ころ)すとかして、その死骸(しがい)を埋(う)めに行(い)くといふやうなところまで話(はな)して、それから、高座(かうざ)と客席(きやくせき)の燈(あかり)を消(け)し、薄暗(うすぐら)いなかで、死骸(しがい)を埋(う)めるやうな所作(しよさ)がある。鬘(かつら)位(ぐらゐ)は附(つ)けて居(ゐ)るやうであつた。そのうち、あつと叫(さけ)んで、その男(をとこ)が倒(たふ)れたやうで見(み)えなくなつてしまふと、幽霊(いうれい)がそろ/\と高座(かうざ)の隅(すみ)から現(あら)はれ、烟硝(えんせう)の烟(けむ)りか何(なに)かが裾(すそ)の方(はう)でポツと立(た)つ。時(とき)には高座(かうざ)の直(す)ぐ下位(したぐらゐ)へは下(お)りて、引込(ひつこ)んでしまふのだ。ハテ恐(おそろ)しい怨念(をんねん)ぢやなアとか何(な)んとかいふやうな白(せりふ)が聞(きこ)えて、燈(あかり)がつくのである。
 昔(むかし)は幽霊(いうれい)が客(きやく)のなかを歩(ある)いたなどといふ話(はなし)も聞(き)いたのであるが、吾々(われ/\)の時分(じぶん)にはそんな事(こと)はなかつた。
 荒木亭(あらきてい)に懸(かゝ)つた一座(ざ)のなかで、今(いま)一(ひと)つ覚(おぼ)えて居(ゐ)るのは、しん粉(こ)細工(ざいく)の何(なん)とかいふ男(をとこ)であつた。前芸(まへげい)にしん粉(こ)細工(ざいく)をやるといふのならば、兎(と)も角(かく)であるのだが、これは真打(しんうち)であつて、出来上(できあが)つたのを、籤引(くじび)きか何(なに)かで客(きやく)に呉(く)れるのであるから、荒木亭(あらきてい)の寄席(よせ)としての格式(かくしき)も大抵(たいてい)それで知(し)れようと思(おも)ふのである。
 荒木亭(あらきてい)は明治(めいぢ)十七八年(ねん)頃(ごろ)には最早(もはや)潰(つぶ)れて居(ゐ)たかと思(おも)ふが、その後(ご)牛肉屋(ぎうにくや)のいろはになつて居(ゐ)たことを覚(おぼ)えて居(ゐ)る。今(いま)はその家(うち)は取(と)り崩(くづ)されて、その地面(ぢめん)の一部分(ぶぶん)に農工銀行(のうこうぎんかう)の支店(してん)が建(た)ち、他(た)の一部分(ぶぶん)が瓦屋(かはらや)か何(なに)かになつて居(ゐ)る。
 日蔭町(ひかげちやう)の岩本(いはもと)は、内部(ないぶ)へ近頃(ちかごろ)入(はひ)つたことがないので、それは何(ど)うかはつて居(ゐ)るかも知(し)らぬが、外部(ぐわいぶ)はさうたいして違(ちが)つて居(ゐ)なからうと思(おも)ふ。
 小生(せうせい)は、十三四の時分(じぶん)かと思(おも)ふが、岩本(いはもと)へも行(い)つた覚(おぼ)えがある。一人(ひとり)で行(い)つたのだから、大抵(たいてい)は昼席(ひるせき)であつたと思(おも)ふのだが、聞(き)いた話(はなし)のなかでは、渋川伴五郎(しぶかはばんごらう)が霧島山(きりしまやま)で土蜘蛛(つちぐも)を退治(たいぢ)する話(はなし)と、姐妃(だつき)のお百(ひやく)とが記憶(きおく)に残(のこ)つて居(ゐ)るのみである。講釈師(かうしやくし)の名(な)などは覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。
 講釈専門(かうしやくせんもん)の寄席(よせ)は本郷(ほんがう)近(ちか)くでは、上野(うへの)の広小路(ひろこうぢ)に本牧亭(ほんもくてい)といふのがあつた。これは今(いま)の鈴本(すゞもと)の筋向(すぢむか)うあたりであつたから、今何(いまな)んとかいふ蕎麦屋(そばや)兼(けん)料理屋(れうりや)になつて居(ゐ)るあたりにあつたのではなからうかと思(おも)ふ。
 神田(かんだ)の白梅(はくばい)はその当時(たうじ)は位置(ゐち)が好(よ)かつたので、眼(め)に立(た)つ講釈席(かうしやくせき)であつた。小柳(こやなぎ)のある町(まち)はその時分(じぶん)は横町(よこちやう)であつたので、講釈(かうしやく)好(ず)きの人(ひと)が知(し)つて居(ゐ)るだけであつたらうと思(おも)ふ。
 白梅(はくばい)は今(いま)はもう講釈席(かうしやくせき)ではない。此(こ)の頃(ごろ)は、多町(たちやう)あたりでも、白梅(はくばい)へ行(い)くとは云(い)はずにしらんめへ行(い)くと云(い)ふのださうだ。時世(じせい)の変化(へんくわ)がこんなところにも窺(うかゞ)はれて、微笑(びせう)を禁(きん)じ得(え)ない。
 白梅(はくばい)で憶(おも)ひ出(だ)すが、明治(めいぢ)十二年(ねん)頃(ごろ)のことだと思(おも)ふけれども、白梅(はくばい)の右手(みぎて)の裏(うら)を入(はひ)つたところに茶番狂言(ちやばんきやうげん)の常小屋(じやうごや)があつた。
 父(ちゝ)の知人(ちじん)につれて行(い)つて貰(もら)つたことを覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 掛合話(かけあひばなし)か何(なに)かで、侍(さむらひ)が亭主(ていしゆ)と客(きやく)と二人(ふたり)で庭(には)を向(む)いて話(はな)して居(ゐ)るうちに、客(きやく)が庭(には)をほめると、亭主(ていしゆ)が植木屋(うゑきや)に作(つく)らせたといふ。客(きやく)がさすがに餅屋(もちや)は餅屋(もちや)で御座(ござ)るといふ。亭主(ていしゆ)はイヤ植木屋(うゑきや)で御座(ござ)るといふ。それでも、客(きやく)は矢張(やは)り餅屋(もちや)は餅屋(もちや)で御座(ござ)るなと感心(かんしん)している、亭主(ていしゆ)はイヽヤ植木屋(うゑきや)で御座(ござ)ると奴鳴(どな)るので、看客(かんかく)は大笑(おほわらひ)をするのであつた。後(あと)は、弥次(やじ)、喜多(きた)が盲按摩(めくらあんま)におぶさつて川(かは)を渡(わた)る場(ば)と、長兵衛(ちやうべゑ)の鈴(すゞ)ケ森(もり)が出(で)たやうに覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 近頃(ちかごろ)その常小屋(じやうごや)のことを、人(ひと)に話(はな)しても知(し)つて居(ゐ)るといふ者(もの)がない。或(あるひ)はその小屋(こや)はその後(ご)間(ま)もなくなくなつてしまつたかも知(し)れぬ。

  四

 序(ついで)だから、なくなつた寄席(よせ)を二(ふた)つ三(み)つ書(か)いてみようか。本郷(ほんがう)の本富士町(もとふじまち)に伊豆本(いづもと)といふ寄席(よせ)が出来(でき)たことがあつた。位置(ゐち)は消防署(せうばうしよ)の隣(となり)のところであつた。出来(でき)たのは明治(めいぢ)二十二三年頃(ねんごろ)かと思(おも)ふのだが、此(こ)の寄席(よせ)は明治(めいぢ)三十一年頃(ねんごろ)にはもう潰(つぶ)れて居(ゐ)て、あとが甲子飯(きのえねめし)になつて居(ゐ)て、斎藤緑雨(さいとうりよくう)などと、懐中(ふところ)都合(つがふ)の悪(わる)い時分(じぶん)に、其所(そこ)で一二度(ど)飯(めし)を食(く)つたことを覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 これは伊豆本(いづもと)より後(あと)で出来(でき)たと思(おも)ふが、菊坂(きくざか)に菊坂亭(きくざかてい)といふのがあつた。勿論(もちろん)格(かく)の低(ひく)い寄席(よせ)で、源氏節(げんじぶし)とか、浪花節(なにはぶし)とかいふやうなものしきや懸(かゝ)らなかつたのであるが、近頃(ちかごろ)まで商売(しやうばい)を続(つゞ)けて居(ゐ)たやうであつた。けれども、今(いま)は病院(びやうゐん)のやうなものになつて居(ゐ)るやうである。
 大横町(おほよこちやう)──壱岐殿坂(いきどのざか)の通(とほ)り──弓町(ゆみちやう)の裏(うら)に、低級(ていきふ)な寄席(よせ)が出来(でき)て居(ゐ)たことを記憶(きおく)して居(ゐ)るが、これも何時(いつ)の間(ま)にかなくなつてしまつた。
 小石川(こいしかは)の初音町(はつねちやう)に鶯橋(うぐひすばし)といふのが大溝(おほどぶ)にかゝつて居(ゐ)て、その袂(たもと)に初音亭(はつねてい)といふのがあつた。場末(ばすゑ)の寄席(よせ)らしい絵看板(ゑかんばん)などを時々(とき/゛\)見(み)かけたのだが、今(いま)はもうなくなつてしまつたらう。
 麹町(かうぢまち)の山王町(さんわうちやう)の山王(さんわう)へ下(お)りる角(かど)のところに、山長(やまちやう)といふのがあつた。これは女義太夫(をんなぎだいふ)の定席(ぢやうせき)であつたかも知(し)れぬが、今(いま)はその跡(あと)が薪屋(まきや)になつて居(ゐ)る。
 九段坂(だんざか)の鈴木写真館(すゞきしやしんくわん)の東隣(ひがしどなり)に富士本(ふじもと)といふのがあつたが、これは可(か)なりな寄席(よせ)であつた。今(いま)はその跡(あと)が仏教(ぶつけう)の講義所(かうぎじよ)になつて居(ゐ)る。
 小川町(をがはまち)の小川亭(をがはてい)は女義太夫(をんなぎだいふ)の定席(ぢやうせき)として、名(な)のあつた寄席(よせ)であつたが、今(いま)は改築(かいちく)されて、天下堂(てんかだう)になつて居(ゐ)る。
 下谷(したや)の数寄屋町(すきやちやう)の吹抜(ふきぬき)といふのは、心持(こゝろもち)の好(い)い寄席(よせ)であつたが、何時(いつ)の間(ま)にかなくなつてしまつた。
 旧両国(きうりやうごく)の橋詰(はしづめ)から左(ひだり)に、柳橋(やなぎばし)の方(はう)へ出(で)る横町(よこちやう)があつて、その角(かど)に新柳亭(しんりうてい)といふ女義太夫(をんなぎだいふ)の定席(ぢやうせき)があつた。川縁(かはつぷち)で、裏(うら)は大川(おほかは)であつたのだから、一寸(ちよつと)、心持(こゝろもち)のかはつた面白(おもしろ)い寄席(よせ)であつたが、両国橋(りやうごくばし)の架(か)け更(か)へられると共(とも)に、彼(あ)の辺(へん)の模様(もやう)がかはつて、新柳亭(しんりうてい)もなくなつてしまつた。
 京橋(きやうばし)の南鍋町(みなみなべちやう)の鶴仙(つるせん)は風月堂(ふうげつだう。「風」の中は底本「百」)の横町(よこちやう)の左側(ひだりがは)であつたと思(おも)ふが、これも今(いま)はない。
 麻布(あさぶ)の十番(ばん)あたりであらうと思(おも)ふが、福槌(ふくづち)といふ寄席(よせ)があつたが、これももう今(いま)はなからうと思(おも)ふ。
 日本橋(にほんばし)では、木原店(きはらだな)の木原亭(きはらてい)だの、瀬戸物町(せとものちやう)の伊勢本(いせもと)などが、名(な)の聞(きこ)えた寄席(よせ)であつたが、今(いま)は一向名(かうな)を聞(き)かぬ。或(あるひ)は二軒(けん)ともなくなつたのではなからうか。
 斯(か)ういふ風(ふう)に、なくなつた寄席(よせ)が随分(ずゐぶん)多(おほ)いのであるから、新(あらた)に出来(でき)た寄席(よせ)も大分(だいぶ)有(あ)るには有(あ)るけれども、総数(そうすう)から云(い)へば減(へ)つて、増(ま)して居(ゐ)る気遣(きづか)ひはなからうと思(おも)はれる。
 けれども、近来(きんらい)では、郡部(ぐんぶ)に近(ちか)い昔(むかし)の全(まつた)くの場末(ばすゑ)が開(ひら)けたので、其所(そこ)には寄席(よせ)の出来(でき)て居(ゐ)ることを見(み)かけることがあるので、或(あるひ)は中央部(ちうあうぶ)では減(へ)つたが、場末(ばすゑ)ではふえて居(ゐ)るので、結局(けつきよく)総数(そうすう)は三十年(ねん)位(ぐらゐ)前(まへ)と同(おな)じだといふ訳(わけ)になつて居(ゐ)るかも知(し)れぬ。

  五

 竹町(たけちやう)の若竹(わかたけ)へ吾々(われ/\)が行(い)きだしたのは、明治(めいぢ)十四年(ねん)頃(ごろ)であつたと思(おも)ふ。
 円遊(ゑんいう)がステテコを始(はじ)めたのも、大凡(およそ)その頃(ころ)であつた。当時(たうじ)の寄席(よせ)は一体(たい)に入(い)りが今(いま)よりはずつと多(おほ)かつたらう。
 円遊(ゑんいう)はその時分(じぶん)には、茶番(ちやばん)のやうなやり方(かた)であつた。円遊(ゑんいう)が弁慶(べんけい)になり、一座(ざ)の誰彼(だれかれ)が、義経(よしつね)その他(た)になつて、勧進帳(くわんじんちやう)の茶番(ちやばん)などもやつた。滝夜叉(たきやしや)などもやつたかと思(おも)ふ。面燈火(つらあかり)なども用(もち)ひて、なか/\大袈裟(おほげさ)なものであつた。入(い)りを取(と)つたのは此(こ)の茶番仕掛(ちやばんじかけ)のお蔭(かげ)であつたと思(おも)ふ。円遊(ゑんいう)の話(はなし)は、当時(たうじ)の大家(たいか)のなかではさう重(おも)んずべきものではなかつたのであるが、それでも幾(いく)らかの新味(しんみ)は加(くは)はつて居(ゐ)た。
『成田小僧(なりたこぞう)』とか、『お初徳次郎(はつとくじらう)』とかいふやうな話(はなし)は、如何(いか)にも円遊(ゑんいう)に適(てき)したもののやうには見(み)えたのであるが、何処(どこ)となくまだ落著(おちつ)きが悪(わる)かつたやうであつた。晩年(ばんねん)になると、それがだん/\落著(おちつ)いて来(き)たのであらうと思(おも)ふ。
 要(えう)するに修行(しゆぎやう)の功(こう)で出来上(できあが)つた芸(げい)でなく、才気(さいき)の芸(げい)であつたので後年(こうねん)先輩(せんぱい)の伝統的(でんとうてき)な型(かた)が客(きやく)に忘(わす)れられて行(い)くに従(したが)つて、円遊(ゑんいう)の芸(げい)の長所(ちやうしよ)が客(きやく)の胸(むね)に善(よ)く徹(てつ)するやうになつたのであらうと思(おも)ふ。後年(こうねん)には、円遊(ゑんいう)の話(はなし)は如何(いか)にも当意即妙(たういそくめう)で面白(おもしろ)いといふので、御座敷(おざしき)などが多(おほ)かつたやうに聞(き)いて居(ゐ)るのだが、さういふ風(ふう)に頓智(とんち)を働(はたら)かすところでもつて、此(こ)の人(ひと)は自分(じぶん)の芸(げい)の修行(しゆぎやう)の足(た)りないのを意識的(いしきてき)に補(おぎな)つて居(ゐ)たかも知(し)れぬ。
 当時(たうじ)の大真打連(だいしんうちれん)は皆(みな)続話(つゞきばなし)をしたが、円遊(ゑんいう)はそれは出来(でき)なかつたらうと思(おも)ふ。義士(ぎし)の薪割(まきわ)りの話(はなし)などは、何(ど)うもまづかつた。軽(かる)い罪(つみ)のない話(はなし)だけが、先(ま)づ聞(き)けたのであつた。けれども、今(いま)の大家連(たいかれん)の中(なか)へ入(はひ)れば、ステテコ時代(じだい)の円遊(ゑんいう)でも優(いう)に名人(めいじん)とでも云(い)はなければなるまいと思(おも)ふ。
 当時(たうじ)の咄家(はなしか)は大家(たいか)は続話(つゞきばなし)で、中家(ちうか)位(ぐらゐ)のところは、大抵(たいてい)音曲(おんぎよく)を入(い)れるのであつたが円遊(ゑんいう)の一座(ざ)の立川談志(たてかはだんし)といふのは、素咄(すばなし)であつた。顔(かほ)の長(なが)い、而(しか)も顎(あご)が細(ほそ)く尖(とが)つて長(なが)い男(をとこ)で、克明(こくめい)に話(はなし)をするのであつたが、それで居(ゐ)てなか/\可笑(をか)しかつた。思(おも)ふに話(はなし)は上手(じやうず)であつたのであらう。円遊(ゑんいう)のやうな才気(さいき)を基(もと)としたムラ芸(げい)ではなかつたので、今何(いまど)ういふ芸風(げいふう)であつたか思(おも)ひ出(だ)すのは困難(こんなん)である。
 所(ところ)が、談志(だんし)も厳密(げんみつ)に言(い)へば素咄(すばなし)ばかりで高座(かうざ)を勤(つと)めたのではない。話(はなし)のあとが郭巨(くわくきよ)の釜掘(かまほ)りといふ踊(をどり)のやうなものをやつた。郭巨(くわくきよ)が子(こ)を埋(う)めに行(い)くところからやるのだ。先(ま)ず座布団(ざぶとん)を巻(ま)いて、それを抱(だ)いて何(な)んとかいつてはパア、又何(またな)んとか云(い)つてはパアで、子(こ)との別(わか)れを悲(かな)しむ身振(みぶ)りをする。それから、鍬(くは)で地面(ぢめん)を掘(ほ)る真似(まね)をし、いよ/\釜(かま)が出(で)て来(き)たといふので、吃驚(びつくり)した表情(へうじやう)から、大喜(おほよろこ)びの有様(ありさま)にて、帰命頂礼(きみやうちやうらい)テケレツツのパアといふので、ステテコ形(がた)の踊(をどり)になつて終(をは)るといふ、まことに呑(の)ん気(き)極(きは)まつたものであつたが、何(なに)しろやつて居(ゐ)る当人(たうにん)が大真面目(おほまじめ)なので、いやにくすぐつて笑(わら)はせられるといふ感(かん)じはなくて、見(み)て居(ゐ)て決(けつ)して厭(いや)な心持(こゝろもち)のするものではなかつた。
 呑(の)ん気(き)極(きは)まると云(い)へば、円遊(ゑんいう)一座(ざ)の橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)の芸(げい)なども、全(まつた)くたわいのないものであつた。円太郎(ゑんたらう)は顔(かほ)の如何(いか)にも柔和(にうわ)さうな、愛嬌(あいけう)のある男(をとこ)で、人(ひと)が酒(さけ)を飲(の)んで騒(さわ)ぐ真似(まね)をして、歌(うた)を唄(うた)つたり、饒舌(しやべ)つたりして居(ゐ)るうちに嚔(くしやみ)をすると、皆(みんな)がエヽきたないなどと云(い)ふところをやるだけのことであつた。大抵(たいてい)は、馬車(ばしや)の喇叭(ラツパ)を吹(ふ)いて、お婆(ばあ)さんあぶないよなどと、馬丁(ばてい)の口真似(くちまね)をするのだ。眼鏡(めがね)から板橋(いたばし)へ通(かよ)ふ馬車(ばしや)などは実(じつ)に危険(きけん)だと思(おも)はれる程(ほど)構造(こうざう)の不完全(ふくわんぜん)な、そして、幌(ほろ)などの殆(ほとん)ど襤褸(ぼろ)のやうに見(み)える、今日(こんにち)では殆(ほとん)ど想像(さうざう)のできぬやうなものであつたが、さういふ馬車(ばしや)は円太郎馬車(ゑんたらうばしや)と呼(よ)ばれて居(ゐ)た。此(こ)の名称(めいしよう)は円太郎(ゑんたらう)がさういふ馬車(ばしや)の真似(まね)を高座(かうざ)でしたのから起(おこ)つたのであらうと思(おも)ふ。円太郎(ゑんたらう)は柔(やはら)かにふとつた脊(せい)の低(ひく)い男(をとこ)で、如何(いか)にも円(まる)いといふ印象(いんしやう)を人(ひと)に起(おこ)させる体形(たいけい)及(およ)び表情(へうじやう)の人間(にんげん)であつた。
 ヘラ/\坊万橘(ばうまんきつ)といふのも居(ゐ)た。此(これ)も小柄(こがら)な何方(どちら)かと云(い)へば丸顔(まるがほ)の男(をとこ)であつた。けれども、円太郎(ゑんたらう)のやうに円満(ゑんまん)に円(まる)くはなく、幾(いく)らか骨張(ほねば)つて居(ゐ)た。先(ま)づ赤(あか)い布片(きれつぱし)で頭(あたま)を包(つゝ)んでその余(あま)りを頬冠(ほゝかぶ)りのやうに下(した)へ持(も)つて来(き)て、顎(あご)の下(した)で結(むす)び合(あは)せ、扇(あふぎ)を開(ひら)いて、『太鼓(たいこ)が鳴(な)つたら賑(にぎやか)だアね、ほんとにさうなら済(す)まないね、ヘラヘラヘツタラ、ヘラヘラヘ』といふやうな言葉(ことば)に節(ふし)を附(つ)けて云(い)ひヘンな横眼(よこめ)を使(つか)ふやうな眼附(めつき)をして湯呑(ゆのみ)を取(と)つて湯(ゆ)を飲(の)んだりするのである。歌(うた)は『太鼓(たいこ)が鳴(な)つたら』のかへ歌(うた)として『大根(だいこ)が煮(に)えたら、柔(やはら)かだアね』といふのもあつた。囃子(はやし)は太鼓(たいこ)と三味線(しやみせん)でも使(つか)つたかと思(おも)ふ。
 円遊(ゑんいう)一座(ざ)の如(ごと)きは、当時(たうじ)の大家(たいか)の一座(ざ)に比(くら)べると、幾(いく)らか俗(ぞく)な方(はう)であつたのであらうが、それでもさういふ俗(ぞく)ななかに、何処(どこ)か呑(の)ん気(き)な泰平(たいへい)の気分(きぶん)が表(あらは)れて居(ゐ)て、面白(おもしろ)いものであつた。
 先代(せんだい)の遊三(いうざ)も此(こ)の一座(ざ)であつた。芸(げい)は後年(こうねん)の風(ふう)と素質(そしつ)に於(おい)てかはつた所(ところ)はない。矢張(やは)りヨカチヨロをやつていたのである。
 或男(あるをとこ)が、女房(にようばう)を貰(もら)つたところが、その女房(にようばう)が亭主(ていしゆ)の寐息(ねいき)を窺(うかゞ)つては、毎晩(まいばん)何処(どこ)かへ出(で)て行(い)く。亭主(ていしゆ)はそれと気(き)が附(つ)いて、或晩(あるばん)、そつと後(あと)を附(つ)けて行(い)くと、女房(にようばう)は或寺(あるてら)の墓場(はかば)へ入(はひ)つて、新墓(にひはか)を暴(あば)き、死人(しにん)を引(ひ)きだし、その腕(うで)を喰(く)つた。亭主(ていしゆ)は驚(おどろ)いて逃(に)げて帰(かへ)つて慄(ふる)へて居(ゐ)ると、女房(にようばう)も直(す)ぐ後(あと)から帰(かへ)つて来(き)て、亭主(ていしゆ)の様子(やうす)で後(あと)を附(つ)けられたことを覚(さと)つて、笑(わら)ひながら、自分(じぶん)は一度(ど)病気(びやうき)であつた時(とき)に、或人(あるひと)が妙薬(めうやく)だ、と云(い)つて、何(な)んだか分(わか)らぬ肉(にく)を呉(く)れたが、それを食(く)うと、病気(びやうき)は直(ぢ)きになほつてしまつた。あとで聞(き)くと、それは人間(にんげん)の肉(にく)だといふのであつたが、その味(あぢ)が忘(わす)れられないので、時々(とき/゛\)斯(か)うして夜(よる)出(で)て行(い)くのだと云(い)つた。亭主(ていしゆ)は、弱(よわ)いことを云(い)つては、自分(じぶん)も喰(く)はれてしまふかも知(し)れないと思(おも)つたので、イヤ俺(おれ)だつて若(わか)い自分(じぶん)は親爺(おやぢ)の臑(すね)をかじつたと云(い)つた。
 此(こ)の話(はなし)は、遊三(いうざ)がやるのを聞(き)いたことがあるのだが、その後(ご)は誰(だれ)がやるのも聞(き)いたことがない。寄席(よせ)での話(はなし)に対(たい)する取締(とりしま)りが厳(きび)しくなつてから、勿論(もちろん)斯(か)ういふ話(はなし)はできなくなつたのでもあらうか。

  六

 若竹(わかたけ)で聞(き)いた咄家(はなしか)の中(なか)では五明楼玉輔(ごめいろうたますけ)(先代(せんだい))といふのを懐(おも)い出(だ)す。中脊(ちうぜい)の痩(やせ)ぎすな、少(すこ)し気取(きど)つた男(をとこ)であつた。咄家(はなしか)としては、漢語(かんご)なども少(すこ)し使(つか)へた方(はう)であつたやうだ。続話(つゞきばなし)をしたやうに思(おも)ふのだが、偖(さて)何(ど)んな話(はなし)をしたのであつたか、覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。『写真(しやしん)の仇討(あだうち)』といふのがお箱(はこ)であつたらしいのだが、玉輔(たますけ)がニユウ・ヨオクのことをばニユウ・ユウルクと云(い)つたと云(い)つて、吾々(われ/\)が笑(わら)つたことを記憶(きおく)して居(ゐ)るのだから、『写真(しやしん)の仇討(あだうち)』の一部分(ぶぶん)位(ぐらゐ)は聴(き)いたかも知(し)れないが、何(ど)うも確(たしか)でない。
 玉輔(たますけ)の一座(ざ)で何(ど)ういふ咄家(はなしか)が出(で)たのか、それは少(すこ)しも覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。片目(かため)の今輔(いますけ)を見(み)たのはずつと後(あと)のことだと思(おも)ふ。
 此(こ)の間(あひだ)、新聞(しんぶん)を見(み)ると、或(ある)咄家(はなしか)が、『わたしの親爺(おやぢ)は歌(うた)にまで唄(うた)はれた桂文治(かつらぶんぢ)です』と云(い)ふと、客(きやく)がそんな咄家(はなしか)があつたかねえと云(い)つた。今(いま)の寄席通(よせつう)なる者(もの)は大抵(たいてい)そんなものだから、仕方(しかた)がないといふやうなことが書(か)いてあつた。
 成(な)る程(ほど)『桂文治(かつらぶんぢ)は咄家(はなしか)で』といふ歌(うた)のやうなものを聞(き)いた覚(おぼ)えはあるが、全体(ぜんたい)の文句(もんく)は一寸(ちよつと)思(おも)ひ出(だ)せない。
 桂文治(かつらぶんぢ)は確(たしか)に咄家(はなしか)であつた。所謂(いはゆる)芝居話(しばゐばなし)をするのであつた。何(ど)つちかといふと小柄(こがら)な、眼附(めつき)の鋭(するど)い、如何(いか)にも鯔脊(いなせ)な男(をとこ)であつた。
 或男(あるをとこ)が、他(た)の男(をとこ)の妾(めかけ)のところへ行(い)つて酒(さけ)を飲(の)んで居(ゐ)ると、その旦那(だんな)が来(き)て双方甚(さうはうはなは)だバツの悪(わる)いことになる。旦那(だんな)は、その男(をとこ)の額(ひたひ)へ湯呑(ゆのみ)をぶつつけて傷(きず)を負(お)はす。それで、男(をとこ)は出刃(でば)か匕首(あひくち)を持(も)つて、復讐(ふくしう)に出(で)かける。そこで後(うしろ)の引幕(ひきまく)を落(おと)とすと、吉原(よしはら)らしい遠見(とほみ)の書割(かきわり)になつて居(ゐ)る。或(あるひ)はそれもさういふ景色(けしき)を書(か)いた幕(まく)であつたかも知(し)れぬが、兎(と)に角(かく)、文治(ぶんぢ)はその前(まへ)で上着(うはぎ)を肌脱(はだぬ)ぐと、弁慶(べんけい)か何(なに)かの粋(いき)ななりになつて、立膝(たてひざ)で立廻(たちまは)りの身振(みぶり)をするのであつた。
 外(ほか)の話(はなし)もしたであらうが、小生(せうせい)はその話(はなし)だけしきや覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。而(しか)も、この話(はなし)は二度(ど)位(ぐらゐ)聞(き)いたやうに記憶(きおく)して居(ゐ)る。
 禽吾楼(きんごろう)小(こ)さんは、極(ご)く小柄(こがら)に見(み)える、顔(かほ)が狆(ちん)に似(に)たやうな男(をとこ)であつた。小(こ)さんは続咄(つゞきばなし)はしなかつたのであるが、円遊(ゑんいう)の話(はなし)などより余程(よほど)諷刺(ふうし)が強(つよ)くこたへるやうな話(はな)し方(かた)であつた。小(こ)さんは雄弁(ゆうべん)とも云(い)つても宜(よ)いやうな咄家(はなしか)であつた。『五人廻(にんまは)し』などでは、可(か)なりに旨(うま)く漢語(かんご)を使(つか)つた。けれども、『将棋(しやうぎ)の殿様(とのさま)』『お蕎麦(そば)の殿様(とのさま)』などが最(もつと)も客(きやく)受(う)けのする話(はなし)であつた。今日(こんにち)の咄家(はなしか)では、殿様(とのさま)の話(はなし)のできるものは一人(ひとり)もあるまいと思(おも)ふ。侍(さむらひ)らしい侍(さむらひ)を出(だ)し得(う)るものは、円右(ゑんう)唯(たゞ)一人(ひとり)であらう。『目黒(めぐろ)の秋刀魚(さんま)』も小(こ)さんの話(はなし)ではなかつたかと思(おも)ふ。何(ど)うも小(こ)さんの話(はなし)を聞(き)いたやうな気(き)がする。
 団洲楼(だんしうろう)と云(い)つた燕枝(えんし)は当時(たうじ)の大看板(おほかんばん)であつて、これも一二度(ど)は若竹(わかたけ)で聞(き)いたのだが、何(ど)んな話(はなし)であつたか、今(いま)少(すこ)しも記憶(きおく)に残(のこ)つて居(ゐ)ない。品(ひん)のある咄家(はなしか)とは思(おも)はれたが、何(ど)うも話(はなし)はそれ程(ほど)上手(じやうず)ではなかつたやうである。『島鵆(しまちどり)』の一部分(ぶぶん)でも聞(き)いたのであらうと思(おも)ふけれども、一向(かう)に憶(おも)ひ出(だ)せない。
 春風亭柳枝(しゆんぷうていりうし)は、体(からだ)の肥(ふと)つた一寸(ちよつと)遊人(あそびにん)といふやうな感(かん)じのする男(をとこ)であつた。話(はなし)は博奕打(ばくちうち)のことであつたやうに思(おも)ふが、これも今(いま)記憶(きおく)に残(のこ)つて居(ゐ)ない。柳条(りうでう)だの、司馬龍生(しばりうしやう)などといふ咄家(はなしか)は、可(か)なりな看板(かんばん)であつたやうだが、さう話(はなし)は旨(うま)くはなかつた。
 たしか円馬(ゑんば)と云(い)つたかと思(おも)ふのだが、可(か)なりな商店(しやうてん)の旦那(だんな)とでも云(い)ひさうな品格(ひんかく)の、もう好(い)い年配(ねんぱい)の肥(ふと)つた咄家(はなしか)があつたが、水茶屋(みづぢやや)の娘(むすめ)に旦那(だんな)が出来(でき)たが、それが掏摸(すり)であつたという話(はなし)を二三度(ど)聞(き)いたことがある。此(こ)の話(はなし)は近頃(ちかごろ)になつて速記本(そくきぼん)で見(み)たことがあるから、講釈(かうしやく)の方(はう)などでも、此(こ)の話(はなし)をやるかも知(し)れない。
 円橘(ゑんきつ)が橘之助(きつのすけ)をつれて上方(かみがた)から帰(かへ)つて来(き)たと云(い)つて、若竹(わかたけ)にかゝつたのを聞(き)きに行(い)つたことがある。円橘(ゑんきつ)は肥(ふと)つた柔和(にうわ)さうな、可(か)なり年(とし)をとつた男(をとこ)であつた。何(ど)んな話(はなし)を聞(き)いたのか、今(いま)は覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。橘之助(きつのすけ)は痘痕(あばた)があるかと思(おも)はれるやうな顔(かほ)の肥(ふと)つた女(をんな)であつた。今(いま)の橘之助(きつのすけ)よりは器量(きりやう)が悪(わる)かつたやうに思(おも)ふのだが、同(おな)じ人(ひと)であるのであらうか。
 円生(ゑんしやう)は当時(たうじ)大家(たいか)であつた。骨太(ほねぶと)の、色(いろ)の白(しろ)い、顔附(かほつき)の凄(すご)い男(をとこ)であつて、話(はなし)にも強味(つよみ)があつた。博奕打(ばくちうち)が欺(だま)かされて呼(よ)び出(だ)されて、途中(とちう)で要撃(えうげき)されるといふ話(はなし)を二度(ど)聞(き)いたやうに思(おも)ふ。或人(あるひと)は円生(ゑんしやう)の『鰍(かじ)ケ沢(ざは)』が面白(おもしろ)かつたと云(い)つたが、成(な)る程(ほど)あゝいふ話(はなし)は得意(とくい)であつたらうと思(おも)はれる。
 吉原(よしはら)の松人(まつんど)といふ女郎(ぢよらう)が病気(びようき)になつて、楼主(ろうしゆ)の虐待(ぎやくたい)を憤(いきどほ)つて火(ひ)をつける話(はなし)を聞(き)いたことがあるが、此(これ)は円生(ゑんしやう)の話(はなし)ではなかつたと思(おも)ふ。可(か)なり深(ふか)い仲(なか)の客(きやく)が来(き)て居(ゐ)て、それに松人(まつんど)が天上裏(てんじやううら)へ火(ひ)の附(つ)いた着物(きもの)か何(なに)かを上(あ)げてあるから今(いま)に火事(くわじ)になると話(はな)すところが可(か)なり物凄(ものすご)かつたと覚(おぼ)えて居(ゐ)る、吉原(よしはら)に『松人火事(まつんどくわじ)』といふのがあつたが、話(はなし)はその謂(いはれ)だといふのであつた。
 明治(めいぢ)二十年(ねん)頃(ごろ)であつた思(おも)ふのだが、円朝(ゑんてう)を唯(た)つた一遍(ぺん)若竹(わかたけ)で聞(き)いたことがある。如何(いか)にも落著(おちつ)いた正々堂々(せい/\だう/\)たる話(はな)し方(かた)であつたが、余(あま)りに平凡(へいぼん)な教訓的(けうくんてき)な言葉(ことば)が混(まじ)つたので、客(きやく)が冷(ひや)かしだして、話(はなし)が面白(おもしろ)く聞(き)けなかつた。円朝(ゑんてう)は可(か)なり体(からだ)の大(おほ)きい男(をとこ)であつたやうに覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 伯円(はくゑん)も一遍(ぺん)若竹(わかたけ)で聞(き)いたことがある。話(はなし)のなかで鶴(つる)の講釈(かうしやく)が始(はじ)まつて、伯円(はくゑん)が頭(あたま)の赤(あか)いのを丹頂(たんちやう)といふのだと云(い)ふと、客(きやく)が頭(あたま)の光(ひか)るのは何(な)んだと云(い)つた。伯円(はくゑん)はそれに構(かま)はずに話(はなし)を続(つゞ)けようとすると、客(きやく)は尚(なほ)頭(あたま)の光(ひか)るのは何(な)んだと云(い)つた。伯円(はくゑん)は怒(おこ)つて、そこ/\に話(はなし)を終(をは)つてしまつた。何(ど)んな話(はなし)であつたのか、何(ど)んな話(はな)し方(かた)であつたのか、少(すこ)しも覚(おぼ)えて居(ゐ)ない。唯(たゞ)伯円(はくゑん)が脊(せ)の高(たか)い、頭(あたま)の禿(は)げた男(をとこ)であつたことが記憶(きおく)に残(のこ)つて居(ゐ)るのみである。

  七

 手(て)づま師(し)では、柳川一蝶斎(やながはいつてふさい)も見(み)たことがあるが、帰天斎正一(きてんさいしやういち)が西洋流(せいやうりう)の手(て)づまでは大家(たいか)であつた。正一(しやういち)はまづいながら講釈(かうしやく)もやつた。托塔天(たくたふてん)王晃蓋(わうてうがい)が何(ど)うとかしたといふ水滸伝(すゐこでん)の講釈(かうしやく)を一遍(ぺん)聞(き)いた覚(おぼ)えがある。正一(しやういち)は手(て)づまの外(ほか)に幻燈(げんとう)をやつた。今(いま)の活動写真(くわつどうしやしん)から見(み)ると、隔世(かくせい)の感(かん)が深(ふか)い。西洋(せいやう)の大(おほ)きい家(うち)から火事(くわじ)の出(で)るところだの、或(ある)景色(けしき)が夕暮(ゆふぐれ)になり、全(まつた)く夜(よる)になつて、月夜(つきよ)になるところなどを見(み)せた。火事(くわじ)などは、烟(けむり)と火(ひ)は見(み)えるのであるが、建物(たてもの)は何時(いつ)までたつても焼(や)け落(お)ちない。これは、建物(たてもの)の絵(ゑ)はそのままで、煙(けむり)と火(ひ)の板(いた)のみが動(うご)くやうになつて居(ゐ)たからである。それでも、天一(てんいち)の幻燈(げんとう)は当時(たうじ)では、さういふ活動式(くわつどうしき)のところがあつて珍(めづら)しかつたのだ。
 明治(めいぢ)二十年(ねん)頃(ごろ)にはジヤグラ操一(さういち)といふのがあつた。これは天一(てんいち)よりはもう少(すこ)し新式(しんしき)な、もう少(すこ)し規模(きぼ)の大(おほ)きい手(て)づま師(し)であつた。しかし、咄家(はなしか)気分(きぶん)といふやうなものは、正一(しやういち)の一座(ざ)の方(はう)に夐(はるか)に多(おほ)かつたと思(おも)ふ。
 十人芸(にんげい)とか称(しよう)する西国坊明学(さいこくばうめいがく)といふのが、上方(かみがた)から来(き)たことがあるが、これは大(おほ)きな盲坊主(めくらばうず)であつて、義太夫(ぎだいふ)もやれば、琵琶(びわ)もひいた。琵琶(びは)は今(いま)でいへば筑前琵琶(ちくぜんびは)のやうなものであつたやうである。客(きやく)に謎(なぞ)を掛(か)けさせて、三味線(しやみせん)を引(ひ)きながら、解(とき)を歌(うた)ふやうにして云(い)ふのであつたが、これは上方(かみがた)では古(ふる)くから座頭(ざとう)のやる事(こと)であつたやうに聞(き)いて居(ゐ)る。
『縁(えん)かいな』の徳永里朝(とくながりてう)も見(み)たことがあるやうには思(おも)ふのだが、確(たしか)な記憶(きおく)はない。
 明治(めいぢ)十八九年(ねん)までは、寄席(よせ)では女義太夫(をんなぎだいふ)はそれ程(ほど)勢力(せいりよく)を持(も)つに至(いた)らなかつたので、寄席(よせ)へ出(で)る女(をんな)の芸人(げいにん)は女義太夫(をんなぎだいふ)でないものの方(はう)が多(おほ)かつた。
 円遊(ゑんいう)の一座(ざ)であつたか、何(ど)うか明(あきら)かには覚(おぼ)えて居(ゐ)ないが、宝集家金之助(はうしふやきんのすけ)といふ年増(としま)の常磐津(ときはづ)語(がたり)があつた。出額(でびたひ)ではあつたが、眼(め)のはつきりした可(か)なり好(い)い器量(きりやう)の女(をんな)であつた。『檀特山(だんとくせん)』だの『富山(とみのやま)』などを聞(き)いたことを覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 鶴賀若辰(つるがわかたつ)といふ新内(しんない)語(がた)りがあつた。極(ご)く低(ひく)い声(こゑ)で語(かた)るのであつた。若辰(わかたつ)は、肥(ふと)つた、三十を余程(よほど)越(こ)して居(ゐ)るかと思(おも)はれるやうな盲目(めくら)の女(をんな)であつた。
 近頃(ちかごろ)死(し)んだ紫朝(してう)の新内(しんない)の声(こゑ)を思(おも)ひ切(き)つて殺(ころ)すやうなところが、若辰(わかたつ)の全体(ぜんたい)であると思(おも)へば間違(まちが)ひはないのだ。
 岡本宮子(をかもとみやこ)のことは、嘗(かつ)て拙著(せつちよ)『葉巻(はまき)のけむり』の中(なか)に書(か)いたが、当時女(たうじをんな)で兎(と)にも角(かく)にも真打(しんうち)として客(きやく)を呼(よ)んだのは、宮子一人(みやこひとり)であつた。岡本浄瑠璃(をかもとじやうるり)といふのは、新内(しんない)の一派(ぱ)であるらしかつた。『継子(まゝこ)いじめ』などをやるのは、他(た)の新内(しんない)とかはりはなかつたが、『須磨(すま)の組討(くみうち)』などをやるところが、岡本派(をかもとは)の特徴(とくちよう)であつたのではなからうかと思(おも)はれる。
 聞(き)くところに依(よ)れば、長谷川時雨女史(はせがはしぐれぢよし)が、先頃或(さきごろあ)る雑誌(ざつし)へ宮子(みやこ)のことを女義太夫(をんなぎだいふ)として書(か)かれたといふのだが、宮子(みやこ)は女義太夫(をんなぎだいふ)のまだ流行(はや)らぬ時分(じぶん)の女芸人(をんなげいにん)で、而(しか)も真打(しんうち)であつたのであるから、そこが一寸(ちよつと)面白(おもしろ)いのである。若(わか)い女(をんな)であつて、芸(げい)は何(ど)うせヨタであつたのであらうが、器量(きりやう)のお蔭(かげ)で人気(にんき)を集(あつ)めて居(ゐ)たのだ。寄席芸(よせげい)堕落(だらく)の徴候(ちようこう)が、もうその時分(じぶん)から見(み)えて居(ゐ)たやうにも思(おも)はれるのである。
 宮子(みやこ)は後(のち)に禽語楼(きんごろう)小(こ)さんの妻(つま)になつたとか聞(き)いたのであるが、小(こ)さん死後(しご)落魄(らくはく)し脚気(かつけ)の為(ため)に、本所(ほんじよ)の何処(どこ)かの路上(ろじやう)に倒(たふ)れて居(ゐ)て、養育院(やういくゐん)へ送(おく)られたといふ新聞(しんぶん)を見(み)たのも、もう十年以上(ねんいじやう)前(まへ)のことである。
 要(えう)するに、明治(めいぢ)三十年(ねん)頃(ごろ)までの寄席(よせ)はあらゆる平民芸術(へいみんげいじゆつ)の演(えん)ぜられる壇上(だんじやう)であつた。男(をとこ)の義太夫(ぎだいふ)でも当時(たうじ)は平民芸術(へいみんげいじゆつ)であつた。先代(せんだい)越路(こしぢ)の如(ごと)きさへ寄席(よせ)へ出(で)た。木戸(きど)は高(たか)くなつて精々(せい/゛\)二十銭(せん)位(ぐらゐ)であつた。呂昇(ろしよう)、長広(ながひろ)などは無論(むろん)寄席(よせ)へ出(で)た。
 大芝居(おほしばゐ)で五円(ゑん)近(ぢか)くの木戸(きど)で義太夫(ぎだいふ)が興行(こうぎやう)されたり、金(きん)ピカの劇場(げきぢやう)で落語(らくご)や講釈(かうしやく)を聞(き)かされたりするのも、時勢(じせい)の進歩(しんぽ)には相違(さうゐ)なからうが、木戸銭(きどせん)が高(たか)くなり、興行場(こうぎやうぢやう)が立派(りつぱ)になつた割(わ)り程(ほど)には、芸(げい)が上手(じやうず)になつたやうには思(おも)へない。
 客(きやく)の趣味(しゆみ)の低劣(ていれつ)になつたことは一般(ぱん)である。けれども、有楽座(いうらくざ)などのお客(きやく)の方(はう)が落語(らくご)の妙味(めうみ)を解(かい)せざることは、寄席(よせ)の客(きやく)以上(いじやう)であるやうに思(おも)はれる。寄席芸人(よせげいにん)はまだ寄席(よせ)に於(おい)てはその芸(げい)の権威(けんゐ)を持(ぢ)して居(ゐ)ることができるやうである。寄席芸人(よせげいにん)は寄席(よせ)の壇上(だんじやう)で骨(ほね)を折(を)つて貰(もら)ひ度(た)い。蝋燭(らふそく)を両方(りやうはう)へ立(た)てて薄暗(うすぐら)いやうな高座(かうざ)で、時々(とき/゛\)蝋燭(らふそく)の心(しん)を切(き)りながら話(はな)すといふやうな気分(きぶん)で、落語(らくご)の全体(ぜんたい)が出来(でき)て居(ゐ)るのだ。それを電燈(でんとう)の光(ひかり)眩(まば)ゆき金(きん)ピカの壇上(だんじやう)へ引(ひき)ずり出(だ)しては、何(ど)うも大分(だいぶ)調子(てうし)が違(ちが)ふやうである。
『貞婦伝(ていふでん)』といふやうなビラが下(さ)がつたので、おや/\と思(おも)つて居(ゐ)ると円右(ゑんう)が『芝浜(しばはま)』を話(はな)しだすといふのでは、余(あま)りのことに苦笑(くせう)もし兼(か)ねる。
 それから、何(な)んぼ可笑味(をかしみ)を主(しゆ)とした落語(らくご)であつても、一語(ご)一句(く)が皆(みな)笑(わら)ふやうに出来(でき)て居(ゐ)はしない。笑(わら)ふには、笑(わら)ふべき要点(えうてん)があるものだ。それを咄家(はなしか)が口(くち)を開(ひら)くや否(いな)や、笑(わら)ひ始(はじ)めて、しまひまで笑(わら)ひ続(つゞ)けるといふのは、話(はなし)を聞(き)く方式(はうしき)ではない。而(しか)も、有楽座(いうらくざ)の客(きやく)などにさういふのが甚(はなは)だ多(おほ)い。
 咄家(はなしか)がさういふ客(きやく)に向(むか)つて話(はなし)をするのを光栄(くわうえい)とするやうでは、甚(はなは)だ心細(こゝろぼそ)い。彼等(かれら)は寧(むし)ろ退(しりぞ)いて、華(はなや)かならぬ寄席(よせ)の高座(かうざ)で、伝統(でんとう)ある芸(げい)を演(えん)じて、誠実(せいじつ)な聴(き)き手(て)を待(ま)つべきである。



文化の変遷と寄席の今昔

     寄席対小劇場

 僕等(ぼくら)の少年(せうねん)の時分(じぶん)には、寄席(よせ)は平民娯楽場(へいみんごらくぢやう)の中心(ちうしん)であつたのだが、現今(げんこん)では、さうではなくなつてしまつた。
 昔(むかし)でも、寄席(よせ)以外(いぐわい)に娯楽場(ごらくぢやう)の種類(しゆるゐ)が幾(いく)つか在(あ)つたには在(あ)つた。が、その一(ひと)つは各所(かくしよ)に在(あ)つた小劇場(せうげきぢやう)である。近頃(ちかごろ)まで在(あ)つた中洲(なかず)の真砂座(まさござ)とか赤坂演伎座(あかさかえんぎざ)とかいふのも、小劇場(せうげきぢやう)には相違(さうゐ)なかつたのであるが、僕(ぼく)のいふ昔(むかし)の小劇場(せうげきぢやう)なるものは、もつとずつと小(ちひ)さい、全(まつた)くの平民的劇場(へいみんてきげきぢやう)であつたのだ。僕(ぼく)の知(し)つて居(ゐ)る限(かぎ)りで云(い)へば芝(しば)の森元座(もりもとざ)、二長町(にちやうまち)に在(あ)つた何(な)んとかいふ座(ざ)と、向柳原(むかうやなぎはら)の開盛座(かいせいざ)などが盛(さかん)な方(はう)であり、もつと小(ちひ)さいのでは、赤城下(あかぎした)に殆(ほとん)ど列(なら)んでゐる位(くらゐ)の近(ちか)い位置(ゐち)に全(まつた)くの小芝居(こしばゐ)が二軒(けん)あつた。僕(ぼく)はその時分(じぶん)は、弁天町(べんてんちやう)に住(すま)つて居(ゐ)た親類(しんるゐ)の老人(らうじん)のところへ漢文(かんぶん)を習(なら)ひに本郷(ほんがう)から毎日通(まいにちかよ)つてゐたので、その小芝居(こしばゐ)の前(まへ)を通(とほ)つて、『八陣守護城(はちぢんしゆごじやう)』とか『二十四孝(にじふしかう)』とかいふやうな、悪(あく)どい程色彩(ほどさいしき)の濃(こ)い絵看板(ゑかんばん)を見(み)かけたことがある。
 けれども、さういふ小芝居(こしばゐ)の客(きやく)はずつと俗(ぞく)な連中(れんぢう)──重(おも)に女(をんな)、子供(こども)と云(い)つてもよかつたらう──であつたので、寄席(よせ)──小(ちひ)さくとも中流(ちうりう)以上(いじやう)のもの──がさういふ小芝居(こしばゐ)に影響(えいきやう)されるといふことはなかつた。
 中等(ちうとう)どころの劇場(げきぢやう)が大入場(おほいりば)を拡(ひろ)げだしたのも、二十二三年(ねん)以後(いご)のことである。当時(たうじ)の春木座(はるきざ)──今(いま)の本郷座(ほんがうざ)──の前身(ぜんしん)で、大阪(おほさか)の鳥熊(とりくま)と称(しよう)する男(をとこ)が、可(か)なり安(やす)い芝居(しばゐ)を興行(こうぎやう)しだした。役者(やくしや)は芝鶴(しかく)、鯉之丞(こひのじよう)、勘五郎(かんごらう)などといふのが重立(おもだ)つた役者(やくしや)であつた。けれども、極(きは)めて変(かは)つてゐたのは看客待遇法(かんきやくたいぐうはふ)であつた。鳥熊(とりくま)は先(ま)づ大入場(おほいりば)を思(おも)ひ切(き)つて広(ひろ)くした。それから、面白(おもしろ)いことには客(きやく)の下駄(げた)の掃除(さうぢ)をした。
 即(すなは)ち、雨天(うてん)の日(ひ)など、泥(どろ)まぶれになつてゐる下駄(げた)の歯(は)をば、下足(げそく)の方(はう)で、客(きやく)の帰(かへ)る迄(まで)に、すつかり綺麗(きれい)に洗(あら)つて置(お)くのであつた。
 さういふ興行法(こうぎやうはふ)が大(おほ)いに当(あた)つて、毎日(まいにち)大入(おほいり)をしめた。何(なに)しろ、その時分(じぶん)、春木座(はるきざ)を一日(にち)見物(けんぶつ)するには、何(ど)うしても、一円(ゑん)以上(いじやう)はかゝつたのであるが、二十銭(せん)もかゝらぬ位(くらゐ)で見(み)られるのであつたから、あの近傍(きんばう)の人(ひと)に取(と)つては一種(しゆ)福音(ふくいん)の観(くわん)があつた。
 が、それでも、それが為(ため)めに、若竹(わかたけ)あたりは、さう大(たい)して打撃(だげき)を受(う)けたことはなかつたらうと思(おも)はれる。
 さういふ小芝居若(こしばゐもし)くは中芝居(ちうしばゐ)へ行(い)く客(きやく)は、濃厚(のうこう)な娯楽(ごらく)を求(もと)める連中(れんぢう)であつて、もつとあつさりした、軽(かる)い気(き)の利(き)いた寄席(よせ)の芸(げい)を賞翫(しやうぐわん)する連中(れんぢう)とは、少(すこ)し種類(しゆるゐ)を異(こと)にしてゐたと思(おも)ふ。それに芝居(しばゐ)の方(はう)だといふと、時間等(じかんなど)の関係(くわんけい)もあつて、さう誰(だれ)でも行(い)くといふ訳(わけ)には行(い)かなかつたのである。
 それから芝居(しばゐ)の方(はう)は何分(なにぶん)時間(じかん)が長(なが)いのであるから、弁当(べんたう)がいるとか何(な)んとかいふことになつて、寄席(よせ)より少(すこ)しは費用(ひよう)を要(えう)したやうにも思(おも)はれる。要(えう)するに、芝居(しばゐ)の方(はう)は、何(な)んと無(な)く出入(ではひり)が億劫(おくこふ)であるやうに大抵(たいてい)の人(ひと)は感(かん)ぜられてゐたのである。
 夜間(やかん)、即(すなは)ち、大抵(たいてい)の人(ひと)がもつともひまになる時間(じかん)に於(おい)て、手軽(てがる)な娯楽(ごらく)の場所(ばしよ)と云(い)つては、寄席(よせ)より外(ほか)にはないと云(い)ひ得(う)る時代(じだい)であつたのだ。
 先(ま)づさういふやうな点(てん)でも、昔(むかし)の寄席(よせ)は、他(た)の娯楽機関(ごらくきくわん)に対(たい)し、競争(きようさう)を容(ゆる)さぬやうな優越(いうゑつ)な地位(ちゐ)を占(し)めてゐた。これが、当時(たうじ)の寄席(よせ)が大抵(たいてい)何処(どこ)も繁昌(はんじやう)した一理由(りいう)であつた。
 
     昔の寄席には権威があつた

 その時代(じだい)に於(おい)ては、人々(ひと/゛\)の知識(ちしき)の程度(ていど)、趣味(しゆみ)の程度(ていど)が、大凡(おほよそ)平均(へいきん)してゐたやうに思(おも)ふ。
 その時代(じだい)には、東京(とうきやう)の人口(じんこう)が今日(こんにち)程(ほど)多(おほ)くなかつたことは勿論(もちろん)であるが、それは、地方人(ちはうじん)が今日(こんにち)程(ほど)多(おほ)くなかつたといふ意味(いみ)になる。即(すなは)ち、その時分(じぶん)は東京(とうきやう)が今日(こんにち)のやうに地方人(ちはうじん)に征服(せいふく)されてゐなかつた時代(じだい)であつたのだ。それ故(ゆゑ)に、その時分(じぶん)では、地方人(ちはうじん)は、直(ぢ)きに東京人(とうきやうじん)の感化(かんくわ)を受(う)けて、可(か)なり急速度(きふそくど)に東京人(とうきやうじん)に近(ちか)づいて行(い)くのであつた。思(おも)ふに、その時分(じぶん)東京(とうきやう)へ出(で)た地方人(ちはうじん)は重(おも)に知識階級(ちしきかいきふ)であつたので、その趣味(しゆみ)に於(おい)ても、東京人(とうきやうじん)とさう甚(はなはだ)しく違(ちが)つはゐなかつたのであらう。さういふ風(ふう)で寄席(よせ)などの芸(げい)は、東京趣味(とうきやうしゆみ)、東京人的(とうきやうじんてき)知識(ちしき)に訴(うつた)へるものでありさえすれば宜(よろ)しかつたのである。
 芸人(げいにん)の方(はう)からは、解(わか)らないところがあれば、それは客(きやく)の方(はう)が悪(わる)いのだといふ考(かんが)へでやつて差(さ)し支(つか)へがなかつた。謂(い)はば芸人(げいにん)の方(はう)に権威(けんゐ)があつたのである。
 又(また)客(きやく)の方(はう)から云(い)へば奇抜(きばつ)とか斬新(ざんしん)とかいふものを、只管(ひたすら)に求(もと)めるといふまでに、それまで在(あ)つた物(もの)に不満足(ふまんぞく)は感(かん)じてゐないし、又(また)何(な)んでも新(あたら)しい物(もの)を要求(えうきう)するといふやうな向上的(かうじやうてき)憧憬(しようけい)は持(も)つてゐたのではなかつたのだから、自分(じぶん)たちの持(も)つてゐるだけの知識(ちしき)、趣味(しゆみ)に合致(がつち)するものであれば、満足(まんぞく)するのであつた。言葉(ことば)を換(か)へて云(い)へば、当時(たうじ)の客(きやく)は一種(しゆ)のエキスペクテエションを持(も)つて、芸(げい)を見(み)、そのエキスペクテエションに合致(がつち)するものであれば、それでもう十分(ぶん)満足(まんぞく)するのであつた。勿論(もちろん)、芸(げい)に対(たい)して、看客(かんきやく)の方(はう)で或(あ)る固定(こてい)したエキスペクテエションを以(もつ)て臨(のぞ)むといふことは何時(いつ)の時代(じだい)でもあることであるのだが、演(えん)ぜられる芸(げい)とそのエキスペクテエションが合致(がつち)するかしないで、問題(もんだい)がいろ/\になるのである。
 寄席(よせ)で演(えん)ぜられる芸(げい)のうちでは、云(い)ふまでもなく落語(らくご)が重(おも)なものであるのだから先(ま)づ落語(らくご)に就(つい)て云(い)ふことにするが、当時(たうじ)の聴客(ちやうきやく)には落語(らくご)は全体(ぜんたい)としてよく理解(りかい)されたのである。落語(らくご)が大成(たいせい)されたのは、明治(めいじ)十四五年(ねん)頃(ごろ)から見(み)て、さう古(ふる)いことではなかつた。その時分(じぶん)を去(さ)ること精々(せい/゛\)で三十年位(ねんぐらゐ)前(まへ)と云(い)つて間違(まちが)ひは無(な)かつたらう。いや、実際(じつさい)はもつと近(ちか)かつたかも知(し)れぬし、話(はなし)によつては、慶応年間(けいおうねんかん)若(もし)くは明治(めいぢ)の初(はじ)め位(ぐらゐ)に作(つく)られたものも、幾(いく)つかあつたかも知(し)れないのだ。いやそれどころではなく、円遊(ゑんいう)の話(はなし)の如(ごと)きその時分(じぶん)出来上(できあが)りつゝあつたものさへあつた位(くらゐ)である。さういふ訳(わけ)で、落語(らくご)の中(なか)に出(で)て来(く)る人物(じんぶつ)の身分(みぶん)とか気質(かたぎ)とかいふものは、咄家(はなしか)なり、客(きやく)なりが実見(じつけん)したものではないにしても、大体(だいたい)想像(さうざう)だけはつく位(ぐらゐ)、落語(らくご)が作(つく)られた時代(じだい)と明治(めいぢ)十四五年(ねん)頃(ごろ)──或(あるひ)は二十年(ねん)頃(ごろ)でも──とは接近(せつきん)してゐたのである。いや、時(とき)としては、落語(らくご)のなかに出(で)て来(く)る商家(しやうか)の旦那(だんな)とか、若旦那(わかだんな)とか、権助(ごんすけ)とか、お爨(さん)どんとかいふやうな人物(じんぶつ)の気質(かたぎ)を、多分(たぶん)に具備(ぐび)した実際(じつさい)の人物(じんぶつ)を見(み)ることさえあつた時代(じだい)であつた。
 だから、さういふ方面(はうめん)だけで云(い)へば、少(すくな)くとも明治(めいぢ)二十年(ねん)位(ぐらゐ)までにあつては、落語(らくご)は大部分(だいぶぶん)当時(たうじ)の風俗(ふうぞく)の写実(しやじつ)であつたと見(み)られぬこともないのである。
 それから侍(さむらひ)などに就(つい)ても、侍(さむらひ)といふ生活(せいくわつ)を実際(じつさい)やつた人々(ひと/゛\)が、可(か)なり多(おほ)く生存(せいぞん)して居(ゐ)た時代(じだい)であつたことは勿論(もちろん)である上(うへ)に、極(ご)く若(わか)かつた吾々(われ/\)さへもが、その侍(さむらひ)であつた人々(ひと/゛\)の子(こ)、即(すなは)ち、さういふ侍(さむらひ)であつた人々(ひと/゛\)の直(す)ぐ次(つぎ)のゼネレエションであつたのだ。それで、所謂(いはゆる)侍(さむらひ)なるものに対(たい)しても、吾々(われ/\)は相当(さうたう)の理解(りかい)や、想像(さうざう)を持(も)つことができ、従(したが)つて余程(よほど)の親(した)しみを持(も)つことができたのであつた。
 その外(ほか)、家屋(かをく)の工合(ぐあひ)でも、衣服(いふく)道具(だうぐ)などに至(いた)つても、封建時代(ほうけんじだい)のものと、さう大(たい)した違(ちが)ひはなかつたのである。いや、前時代(ぜんじだい)の典型的(てんけいてき)な住家的建物(すみかてきたてもの)の残(のこ)つてゐるものさへ少(すくな)くなかつたのである。日常(にちじやう)は用(もち)ひなくなつてゐた物(もの)でさへ、その物(もの)だけは吾々(われ/\)の眼(め)に触(ふ)れることが珍(めづら)しくはなかつた。例(たと)へば日本馬具(にほんばぐ)だとか、行燈(あんどん)だとかいふやうなものの如(ごと)きは、実際用(じつさいもち)ひてゐるのを見掛(みか)けることさえあつた位(くらゐ)であるのだから、唯(たゞ)の古道具(ふるだうぐ)として見(み)かけることなどは、全(まつた)く屡々(しば/\)のことであつたのである。その他(た)の風俗(ふうぞく)、習慣(しふくわん)の如(ごと)きも、消(き)え去(さ)つたものでさへ、大抵(たいてい)は何(な)んらかの痕(あと)をまだ残(のこ)してゐたのである。
 要(えう)するに、吾々(われ/\)の青年時代(せいねんじだい)にあつては、落語(らくご)の材料(ざいれう)は今日(こんにち)のやうに既(すで)に死(し)んだもの若(も)しくは死(し)にかゝつてゐたものではなくして、十分(ぶん)に生(い)きてゐるもの、若(も)しくは可(か)なりに息(いき)の通(かよ)つてゐるものであつたのだ。
 落語家(らくごか)自身(じしん)の方(はう)から見(み)ても、話(はなし)そのものの雰囲気(ふんゐき)なるものは、個人(こじん)として落語家(らくごか)その人(ひと)を取(と)り巻(ま)いてゐた雰囲気(ふんゐき)とさう甚(はなはだ)しき相違(さうゐ)はなかつた。即(すなは)ち、彼等(かれら)は、話(はなし)のなかでのみ自分(じぶん)の生(い)きてゐる時代(じだい)とは全(まつた)く異(ことな)つた時代(じだい)、自分(じぶん)の接触(せつしよく)してゐるのとは全(まつた)く異(ことな)つた世界(せかい)へ入(はひ)つて行(い)かなければならんといふのではなかつたし、又(また)自分(じぶん)等(ら)が実見(じつけん)してゐるのとは全(まつた)く異(ことな)つた種類(しゆるゐ)の人間(にんげん)にならなければならんといふのではなかつたのである。謂(い)はば、落語家(らくごか)は地(ぢ)のまゝで芸(げい)を演(えん)じ得(え)られるといふ傾(かたむ)きであつたのだ。
 さういふ風(ふう)で、芸人(げいにん)と客(きやく)との間(あひだ)で知識(ちしき)趣味(しゆみ)の範囲(はんゐ)が、大凡(おほよそ)極(きま)つてゐたのであつて客(きやく)のエキスペクトしてゐるところへ、芸人(げいにん)の芸(げい)が一々嵌(いち/\は)まつて行(い)き得(う)る訳(わけ)であつたのだから、芸人(げいにん)の方(はう)も芸(げい)がしよいのであつた。即(すなは)ち芸人(げいにん)が自信(じしん)を以(もつ)て芸(げい)を演(えん)じ得(え)られたのであつて、客(きやく)の方(はう)も、安心(あんしん)して、心持(こゝろもち)好(よ)く芸(げい)を鑑賞(かんしやう)し、享楽(きやうらく)することができるのであつた。
 寄席芸人(よせげいにん)を芸術家(げいじゆつか)といふ風(ふう)に尊敬(そんけい)するといふ時代(じだい)では勿論(もちろん)なかつたし、芸人(げいにん)自身(じしん)も人間(にんげん)としてさう大(たい)したプライドを持(も)つてゐたのではなかつたが、実際上(じつさいじやう)当時(たうじ)の寄席芸人(よせげいにん)は卑俗(ひぞく)な下等(かとう)な人間(にんげん)として客(きやく)から見(み)られてゐたのではない。即(すなは)ち、客(きやく)が心(こゝろ)の底(そこ)からさう軽侮(けいぶ)してゐるのではなかつた。客(きやく)から見(み)て全然(ぜんぜん)賤(いや)しいおもちやといふのでもなかつた。口では成(な)る程(ほど)寄席芸人(よせげいにん)とか、鹿(しか)とかいふやうな風(ふう)に、軽侮的(けいぶてき)な言葉(ことば)で以(もつ)て呼(よ)ばれてゐたのであるが、客(きやく)の心(こゝろ)の上(うへ)で芸人(げいにん)の占(し)めてゐた位地(ゐち)は決(けつ)してさうまで賤(いや)しいものではなかつたのである。
 少(すくな)くとも、滑稽(こつけい)とか、頓智(とんち)とかいふやうな領域(りやうゐき)に於(おい)ては、彼等(かれら)が一種(しゆ)のオラクルであつた。客(きやく)はさういふ点(てん)では、確(たしか)に芸人(げいにん)から教(をし)へられるところが多(おほ)かつた。彼等(かれら)にはさういふ点(てん)で権威(けんゐ)があり、客(きやく)も冥々(めい/\)のうちにさういふ点(てん)に対(たい)し一種(しゆ)の尊敬(そんけい)を以(もつ)て、彼等(かれら)を待(ま)つたのである。
 当時(たうじ)の寄席(よせ)で演(えん)ぜられた芸(げい)は、殊(こと)に落語(らくご)は、内容的(ないようてき)に云(い)つて、当時(たうじ)の東京趣味(とうきやうしゆみ)を具体化(ぐたいくわ)したものであり、且(か)つ前(まへ)に云(い)つた通(とほ)りの客(きやく)の性質(せいしつ)であつたので、当時(たうじ)の落語(らくご)は東京趣味(とうきやうしゆみ)の具体化(ぐたいくわ)であり得(え)たのである。
 当時(たうじ)の落語家(らくごか)は、自分(じぶん)等(ら)のハアトに何等(なんら)の親近性(しんきんせい)を持(も)つてゐないことをば、唯(たゞ)仕来(しきた)り通(どほ)りにしやべるといふやうな鸚鵡芸人(あうむげいにん)ではなかつたのである。又(また)、さうでなくて済(す)み得(え)たといふ有利(いうり)な位地(ゐち)にあつたのである。
 大凡(おほよそ)これで察(さつ)せられるであらうが、当時(たうじ)の寄席(よせ)の社会上(しやくわいじやう)の位地(ゐち)は高(たか)かつたと云(い)つて宜(よろ)しからう。前代(ぜんだい)の越路(こしぢ)などは東京(とうきやう)では寄席(よせ)を打(う)ち廻(まは)つたものであつた。
 以上(いじやう)に説明(せつめい)した点(てん)が、昔(むかし)の寄席(よせ)の盛(さかん)であつた第(だい)二の理由(りいう)であると思(おも)ふのである。

     古き寄席の思い出

 まだ、その外(ほか)には、交通(かうつう)の不便(ふべん)などがあつて、短時間(たんじかん)のうちにさう遠方(ゑんぱう)まで遊(あそ)びに行(い)くことはできなかつたので、人々(ひと/゛\)はその住居(すまひ)の最寄々々(もより/\)で、娯楽(ごらく)の場所(ばしよ)を求(もと)めなければならなかつたといふのも、寄席(よせ)繁昌(はんじやう)の一理由(りいう)であつた。
 各所(かくしよ)に小(ちひ)さい寄席(よせ)があつたのは、重(おも)に此(こ)の理由(りいう)で説明(せつめい)ができると思(おも)ふ。
 泉鏡花(いづみきやうくわ)君(くん)が『三味線堀(しやみせんぼり)』のなかに書(か)いて居(ゐ)られるやうな寄席(よせ)は随分(ずゐぶん)方々(はう/゛\)にあつた。僕(ぼく)の記憶(きおく)しているだけで云(い)つても、本郷(ほんがう)の田町(たまち)から、小石川(いしかは)餌差町(ゑさしまち)へ渡(わた)るところは小石川(こいしかは)側(がは)は大溝(おほどぶ)になつて居(ゐ)て、鶯橋(うぐひすばし)といふ小(ちひ)さい橋(はし)がかゝつて居(を)り、その袂(たもと)に初音亭(はつねてい)といふのがあつたが、それなどは、全(まつた)く僅(わづか)にその辺(へん)だけの客(きやく)をアテにしたものであつたらうと思(おも)はれる。
 小(ちひ)さい寄席(よせ)では、本郷(ほんがう)の消防署(せうばうしよ)の西隣(にしどなり)に伊豆本(いづもと)といふのが、明治(めいじ)二十二三年(ねん)頃(ごろ)に出来(でき)たことを記憶(きおく)する。近頃(ちかごろ)まで在(あ)つた菊坂町(きくざかちやう)の菊坂亭(きくざかてい)は伊豆本(いづもと)より少(すこ)し後(のち)に出来(でき)たやうに思(おも)ふ。
 今日(こんにち)では、寄席(よせ)の数(かず)は市内(しない)全体(ぜんたい)では余程(よほど)減(へ)つてはゐはしまいか。麹町(かうぢまち)の山長(やまちやう)も富士本(ふじもと)もなくなつたし、両国(りやうごく)の新柳亭(しんりうてい)、小川町(をがはまち)の小川亭(をがはてい)、池端(いけのはた)の吹抜(ふきぬき)、麻布(あざぶ)の福槌(ふくづち)、京橋(きやうばし)の南鍋町(みなみなべちやう)の鶴仙(つるせん)、日本橋(にほんばし)木原店(きはらだな)の木原亭(きはらてい)、瀬戸物町(せとものちやう)の伊勢本(いせもと)、など可(か)なり名(な)のある寄席(よせ)であつたのであるが、それ等(ら)も何時(いつ)とはなしになくなり、神楽坂(かぐらざか)の藁店亭(わらだなてい)の如(ごと)きも、広(ひろ)く知(し)られて居(ゐ)た寄席(よせ)であつたが、これは御承知(しようち)の通(とほ)り活動写真館(くわつどうしやしんくわん)になつてゐる。
 根津(ねづ)の入口(いりぐち)あたりにも一軒(けん)あり、駒込(こまごめ)の蓬莱町(ほうらいちやう)あたりにも一軒(けん)あり、牛込(うしごめ)の弁天町(べんてんちやう)にも一軒(けん)あつたが、それ等(ら)は、今(いま)はもうないであらう。
 東京(とうきやう)の人口(じんこう)が激増(げきぞう)して、郊外(かうぐわい)や場末(ばすゑ)まで可(か)なり賑(にぎや)かになつたので、意外(いぐわい)なところで、寄席的(よせてき)興行(こうぎやう)の看板(かんばん)を見(み)かけることはあるのだが、それが、寄席的(よせてき)に興行(こうぎやう)して居(ゐ)る家(うち)なのか、何(ど)うも確(たしか)でないやうに思(おも)はれる。
 新開(しんかい)で寄席(よせ)が出来(でき)て、今(いま)も取(と)り続(つゞ)いてやつて居(ゐ)るといふやうなところは、余(あま)りないやうである。新開(しんかい)では、寄席(よせ)の代(かは)りに活動館(くわつどうくわん)が大抵(たいてい)何処(どこ)にもあるやうだ。
 寄席(よせ)で僕(ぼく)の今(いま)も尚(なほ)忘(わす)れ得(え)ないのは、前記(ぜんき)の柳橋(やなぎばし)の新柳亭(しんりうてい)である。元(もと)の両国橋(りやうごくばし)の袂(たもと)から、神田川(かんだがは)の川岸(かはぎし)へ出(で)る横町(よこちやう)があつて、その右角(みぎかど)にあつた寄席(よせ)であつたが、大川(おほかは)に沿(そ)うて立(た)つて居(ゐ)た家(うち)なので、入(はひ)る時(とき)の気分(きぶん)も既(すで)に快(こゝろよ)かつたが、楽屋寄(がくやより)の方(はう)へ行(い)くと、川波(かはなみ)の音(おと)が聞(きこ)えるのであつた。新柳亭(しんりうてい)は女義太夫(をんなぎだいふ)の定席(ぢやうせき)であつた。両国橋(りやうごくばし)が今(いま)の橋(はし)と掛(か)け替(か)へられた時(とき)に新柳亭(しんりうてい)は取(と)り払(はら)はれてしまつたのであらう。

     芸と人格の一致
    
 三十四五年(ねん)前(ぜん)の落語家(らくごか)には、上手(じやうず)もあつたと共(とも)に、実(じつ)にタワイも無(な)い、殆(ほとん)ど芸(げい)とは云(い)ひ得(え)無(な)いやうなことで、高座(かうざ)を勤(つと)める者(もの)もあつた。けれども、当人(たうにん)もさういふ珍芸(ちんげい)をやけ気味(ぎみ)にやつて居(ゐ)るのではなく、落著(おちつき)払(はら)つて、いはゞ生真面目(きまじめ)でやつてゐるのであつたから、客(きやく)の方(はう)でも唯(たゞ)呑(の)ん気(き)に笑(わら)つて見(み)てゐることができたのである。さういふのは、一(ひと)つには、芸人(げいにん)その人(ひと)の人格(じんかく)の問題(もんだい)であり、一(ひと)つには又(また)、芸人(げいにん)と客(きやく)とを包(つゝ)むその場合(ばあひ)の雰囲気(ふんゐき)の問題(もんだい)であると思(おも)ふ。
 ヘラ/\坊(ばう)万橘(まんきつ)などといふ落語家(らくごか)は、咄(はなし)と云(い)つても小咄(こばなし)位(ぐらゐ)なものをしてしまふと赤(あか)い木綿(もめん)ですつぽり頬(ほゝ)冠(かぶ)りをし、扇(あふぎ)を開(ひら)いて、『太鼓(たいこ)が鳴(な)つたら賑(にぎや)かだアよ、ほんとにさうならすまないね』といふ歌(うた)のやうなものを、太鼓(たいこ)に合(あは)せて歌(うた)つてしまふと、極(きは)めて変(へん)な横眼(よこめ)遣(づかひ)をしながら、湯呑(ゆのみ)の方(はう)へ手(て)をやつて、湯呑(ゆのみ)を取(と)つて、湯(ゆ)を呑(の)み、又今度(またこんど)は『大根(だいこ)が煮(に)えたら柔(やはら)かだアね・・・・』といふ替歌(かへうた)を歌(うた)つてから、同(おな)じく前(まへ)のやうな顔附(かほつき)と、身振(みぶり)で、湯(ゆ)を呑(の)むのであつた。唯(たゞ)全(まつた)くそれだけのことであつたが、客(きやく)は、さういふ芸(げい)にも飽(あ)きなかつたのであつた。
 橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)も万橘(まんきつ)に劣(おと)らない無邪気(むじやき)な芸人(げいにん)であつた。円太郎(ゑんたらう)のは、何時(いつ)も人(ひと)が集(あつま)つて酒(さけ)を飲(の)む光景(くわうけい)を話(はな)し、そのうちの一人(ひとり)が無暗(むやみ)に歌(うた)つたりしやべつたりしてあとでくしやみをするところをやつて、それから、最後(さいご)に乗合馬車(のりあひばしや)の馭者(ぎよしや)の用(もち)ひるやうな金属(きんぞく)の喇叭(ラツパ)を出(だ)して、それを高(たか)く吹(ふ)き鳴(な)らして『お婆(ばあ)さんあぶないよ』と、馭者(ぎよしや)か馬丁(べつとう)の声(こゑ)を真似(まね)るのであつた。円太郎(ゑんたらう)は顔(かほ)の円(まる)い、体(からだ)の肥(ふと)つた如何(いか)にも円満(ゑんまん)な人相(にんさう)の男(をとこ)であつた。
 当時(たうじ)は筋違(すぢかひ)あたりから、板橋(いたばし)などへは、極(ご)く粗末(そまつ)な構造(こうぞう)の乗合馬車(のりあひばしや)──幌(ほろ)のかゝつたもの──が通(とほ)つてゐるのであつて、円太郎(ゑんたらう)の摸(も)したのは、さういふ馬車(ばしや)の有様(ありさま)であつた。さういう馬車(ばしや)は円太郎馬車(ゑんたらうばしや)と呼(よ)ばれてゐた。橘家円太郎(たちばなやゑんたらう)のさういふ芸(げい)からつけられた名(な)であつたらうと思(おも)ふ。これなどが、当時(たうじ)の民衆(みんしう)と寄席(よせ)との間(あひだ)に密接(みつせつ)な関係(くわんけい)のあつた一例証(れいしよう)と見(み)ることができようと思(おも)ふ。
『お前(まへ)もどぢなら、私(わたし)もどぢよ、どぢとどぢなら、抜(ぬ)けうらだ』といふ都々逸(どゝいつ)を円太郎(ゑんたらう)は何時(いつ)も歌(うた)つた。
 立川談志(たてかはだんし)といふのも変(かは)つた咄家(はなしか)であつた。顔(かほ)の長(なが)い顎(あご)の尖(とが)つた男(をとこ)であつたが、克明(こくめい)に素咄(すばなし)をするのであつた。極(ご)く真面目(まじめ)に話(はな)すのであるから、滑稽味(こつけいみ)もなか/\よく客(きやく)に徹(てつ)し、例(れい)の『子(こ)はかすがひ』といふ話(はなし)などでは、余程(よほど)哀(あは)れな情味(じやうみ)が出(で)たものであつた。談志(だんし)は、話(はなし)の後(あと)で、郭巨(くわくきよ)の釜掘(かまほ)りといふのを踊(をど)つた。先(ま)づ座蒲団(ざぶとん)を巻(ま)いて、それを子(こ)どもに見(み)せ、それを抱(だ)いて、唐人(たうじん)の言葉(ことば)らしく、何(なに)か何(わか)らぬことを云(い)つてはその末(すゑ)にパアと云(い)ひ、又(また)何(なに)か云(い)つてはパアと云(い)つて、子(こ)を埋(う)めようとする時(とき)の悲(かな)しみの身振(みぶ)りをする。そのうちに、子(こ)どもを傍(そば)へ寝(ね)かすさまを見(み)せてから、又(また)パア/\云(い)ひながら鍬(くは)で地面(ぢめん)を掘(ほ)る真似(まね)をし、いよ/\釜(かま)に掘(ほ)り当(あ)てた見(み)えで、吃驚(びつくり)した表情(へうじやう)や、大喜(おほよろこ)びの表情(へうじやう)をして、『帰命頂礼(きみやうちやうらい)、テケレツツのパア』といふやうなことを云(い)つて、天地(てんち)を拝(はい)する動作(どうさ)をするのである。やる当人(たうにん)が如何(いか)にも実体(じつたい)な人柄(ひとがら)で、それが大真面目(おほまじめ)なのだから、さういふことでも、客(きやく)は面白(おもしろ)がつて見(み)てゐたのである。若(も)し生若(なまわか)い悧口(りこう)振(ぶ)つた男(をとこ)などが、あゝいふことをやつたのであつたら、嘸(さ)ぞ厭(いや)に思(おも)はれたのであらう。
 本当(ほんたう)の大家(たいか)では、円朝(ゑんてう)は唯(たゞ)一度(ど)しきや聞(き)かなかつた。体格(たいかく)の好(い)い、なか/\品格(ひんかく)のある男(をとこ)であつたやうに覚(おぼ)えてゐる。何(ど)ういふ話(はなし)であつたか、それは記憶(きおく)に止(とゞ)まつてゐないが、咄(はなし)のうちで一寸(ちよつと)教訓的(けうくんてき)な言葉(ことば)が出(で)たが、若(わか)い書生客(しよせいきやく)から弥次(やじ)が出(で)たので円朝(ゑんてう)は真(す)ぐ調子(てうし)を変(か)へたが、それで少(すこ)し話(はなし)の感興(かんきよう)が殺(そ)がれたやうに見受(みう)けられた。唯(たゞ)如何(いか)にも落著(おちつ)いた、飾(かざ)り気(け)を嫌(きら)つた、描写式(べうしやしき)──会話(くわいわ)を余(あま)り用(もち)ひないといふ意味(いみ)──の咄口(はなしくち)であつたやうに記憶(きおく)する。
 円生(ゑんしやう)は数回(すうくわい)聞(き)いた。円生(ゑんしやう)は骨太(ほねぶと)ではあつたが、痩(や)せた、顔(かほ)に凄味(すごみ)のある男(をとこ)であつた。博奕打(ばくちう)ちが欺(だま)されて家(うち)を出(で)て、途中(とちう)で要撃(えうげき)されるといふ話(はなし)を二度(ど)聞(き)いたやうに思(おも)ふ。博奕打(ばくちう)ちが、綿入(わたい)れの上(うへ)から水(みづ)を冠(か)ぶつて、刃(やひば)を防(ふせ)ぐ用心(ようじん)をして子分(こぶん)の危難(きなん)にあつてゐると伝(つた)へられた場所(ばしよ)をさして、駈(か)けつけて行(い)くと、途中(とちう)の薮畳(やぶだゝみ)から竹槍(たけやり)などが突(つ)き出(だ)されるといふやうな物凄(ものすご)い光景(くわうけい)が、如何(いか)にも陰惨(いんさん)の気(き)を帯(お)びて、力強(ちからづよ)く話(はな)されたやうに覚(おぼ)えてゐる。
 松人火事(まつんどくわじ)といふ話(はなし)があつた。それは、吉原(よしはら)の松人(まつんど)といふ女郎(ぢよらう)が病気(びようき)になつたが、助(たす)からぬことを自分(じぶん)でも知(し)つて、内証(ないしよう)の仕向(しむ)けの酷薄(こくはく)であつたことを恨(うら)んで、家(うち)へ火(ひ)を附(つ)けるといふ話(はなし)であつたのだが、松人(まつんど)が病気(びやうき)で寝(ね)てゐるところへ馴染(なじみ)の客(きやく)が来(く)ると、松人(まつんど)はその客(きやく)に自分(じぶん)の決心(けつしん)を語(かた)つて、今(いま)その家(うち)の天井裏(てんじやううら)へ火(ひ)を入(い)れて置(お)いたから、もう直(ぢ)きに燃(も)えだすのだと告(つ)げるところが、如何(いか)にも凄惨(せいさん)な風(ふう)に語(かた)られたのである。此(こ)の話(はなし)は何(ど)うも円生(ゑんしやう)のやつたもののやうに思(おも)はれるのであるが、余(あま)り確(たしか)ではない。
 長尾素枝(ながをそし)君(くん)の話(はなし)では、円生(ゑんしやう)は『鰍(かじ)ケ沢(ざは)』の凄(すご)い部分(ぶぶん)が非常(ひじやう)によかつたといふのであるが、成(な)る程(ほど)それはさうであつたらうと思(おも)はれる。
 先代(せんだい)の小(こ)さん──禽語楼(きんごろう)小(こ)さん──男振(をとこぶ)りは見栄(みば)えがなかつたが、それが却(かへ)つてその芸風(げいふう)と調和(てうわ)して、当人(たうにん)の為(た)めには、損(そん)にならなかつたやうである。小(こ)さんも極(きは)めて生真面目(きまじめ)な顔(かほ)で、可笑(をか)しい咄(はなし)を話(はな)す話家(はなしか)であつた。『五人(にん)廻(まはし)』も、此(こ)の人(ひと)が話(はな)すと非常(ひじやう)に面白(おもしろ)みがあつたし、『将棋(しやうぎ)の殿様(とのさま)』『殿様(とのさま)蕎麦(そば)』などに至(いた)つては、全(まつた)く天下(てんか)一品(ぴん)の観(くわん)があつた。恐(おそ)らく、小(こ)さん以後(いご)あゝいふ話(はなし)を到底(たうてい)あれだけに話(はな)し得(う)る人(ひと)はなかつたらうと思(おも)ふ。今(いま)の咄家(はなしか)がやると、侍(さむらひ)でも殿様(とのさま)でも皆(みな)官員(くわんゐん)さん位(ぐらゐ)なところにしきや聞(きこ)えないのであるから、今(いま)の咄家(はなしか)からは『将棋(しやうぎ)の殿様(とのさま)』などは何(ど)うしても聞(き)くことはできなからう。
 今(いま)現存(げんぞん)の咄家(はなしか)のなかで、侍(さむらひ)を侍(さむらひ)らしく話(はな)し得(う)るものは恐(おそ)らく円右一人(ゑんうひとり)であらう。今(いま)の小(こ)さんの侍(さむらひ)は何(ど)うしても官員(くわんゐん)さんにしきや聞(きこ)えない。
 斯(か)ういふ点(てん)も、落語(らくご)が現代人(げんだいじん)を離(はな)れて行(い)くことの一実例(じつれい)である。
 それから、これは、此(こ)の頃(ごろ)よく人(ひと)に話(はな)すことであるのだが、昔(むかし)の咄家(はなしか)──殊(こと)に続(つゞ)き物(もの)の場合(ばあひ)──は、地(ぢ)の言葉(ことば)に可(か)なり骨(ほね)を折(を)つて、今(いま)のやうに殆(ほとん)ど会話(くわいわ)ばかりで咄(はなし)を運(はこ)ぶといふやうなことはやらなかつたと思(おも)ふ。今(いま)は時間(じかん)の都合(つがふ)などがあるので、自然(しぜん)と地(ぢ)の言葉(ことば)を省(はぶ)いて、専(もつぱ)ら会話(くわいわ)で話(はなし)を進(すゝ)めて行(い)くといふことになつたのであらうが、話術(わじゆつ)の技量(ぎりやう)は、地(ぢ)の言葉(ことば)を旨(うま)くこなして行(い)くところにあるのだから、話術(わじゆつ)の稽古(けいこ)をするものは、其所(そこ)に留意(りうい)すべきであらう。
 会話(くわいわ)でばかり咄(はなし)を運(はこ)ぶことになると、声色(こわいろ)、身振(みぶ)りに骨(ほね)を折(を)るやうになつて、耳(みゝ)に訴(うつた)へるよりは、目(め)ばかりに訴(うつた)へるものになつてしまふかと思(おも)はれる。それでは、話術(わじゆつ)の本意(ほんい)を失(うしな)つてしまふ訳(わけ)である。
 現(げん)に円右(ゑんう)など、咄(はなし)はなか/\面白(おもしろ)いのであるが、少(すこ)し身振(みぶ)りが過(す)ぎると思(おも)ふ。近代(きんだい)の名人(めいじん)橘家円喬(たちばなやゑんけう)などは、そんなに身振(みぶり)りや手真似(てまね)はしなかつた。

     女義太夫も新芸術であつた

 寄席(よせ)のことを書(か)く以上(いじやう)は、女義太夫(をんなぎだいふ)のことを書(か)かずにしまふ訳(わけ)には行(い)くまいと思(おも)はれるので、左(さ)に少(すこ)しそれを書(か)くことにする。
 寄席(よせ)の女義太夫(をんなぎだいふ)が一座(ざ)をなし始(はじ)めたのは、竹本京枝(たけもときやうし)からだといふことになつてゐる。ところで、明治(めいぢ)十四年(ねん)頃(ごろ)に、伊東燕尾(いとうえんび)が女房(にようばう)の此勝(ししよう)といふ女義太夫(をんなぎだいふ)と一緒(しよ)に寄席(よせ)へ出(で)たことがあるのだが、その時(とき)には此勝(ししよう)の弟子(でし)の若(わか)い女(をんな)が二人程(ふたりほど)口語(くちがた)りをやつたやうに思(おも)はれる。しかし、燕尾(えんび)此勝(ししよう)の一座(ざ)と同時(どうじ)に、女義太夫(をんなぎだいふ)ばかりの一座(ざ)も他(た)に存在(そんざい)してゐたやうに思(おも)ふのであるが、それが或(あるひ)は京枝(きやうし)の一座(ざ)であつたのであらうか。或(あるひ)は、それは京枝(きやうし)の一座(ざ)でなかつたにしても、明治(めいぢ)十四年(ねん)頃(ごろ)から既(すで)に女義太夫(をんなぎだいふ)の一座(ざ)が出来(でき)てゐたことだけは確(たしか)である。
 女義太夫(をんなぎだいふ)が可(か)なり有力(いうりよく)なものになりだしたのは、先代(せんだい)の東玉(とうぎよく)が東京(とうきやう)の寄席(よせ)へ現(あらは)れだした頃(ころ)からだと思(おも)ふ。けれども、女義太夫(をんなぎだいふ)が全盛期(ぜんせいき)に入(はひ)つたのは、明治(めいぢ)二十二年(ねん)頃(ごろ)であらうと思(おも)ふ。即(すなは)ち、竹本綾之助(たけもとあやのすけ)の出現(しゆつげん)と共(とも)にさうなつたのである。
 綾之助(あやのすけ)は始(はじ)めは、チヨン髷(まげ)であつたので、男(をとこ)だらうか、女(をんな)だらうかと、皆(みな)判(はん)じ迷(まよ)つたのであつた。その時分(じぶん)の綾之助(あやのすけ)の人気(にんき)は全(まつた)く素晴(すばら)しいものであつた。若竹(わかたけ)のやうな大(おほ)きい寄席(よせ)が殆(ほとん)ど連夜(れんや)満員(まんゐん)になるのであつた。八時(じ)頃(ごろ)にでも行(い)かうものなら極(ご)く後(うしろ)、即(すなは)ち帳場(ちやうば)との境(さかひ)のハメにくつ附(つ)いて聞(き)くより外(ほか)に仕方(しかた)がなかつた。声(こゑ)は初(はじ)めから如何(いか)にも善(よ)かつたが、本当(ほんたう)に十分(ぶん)な善(よ)い声(こゑ)が出(で)だしたのは、それから二三年(ねん)経(た)つてからであつたらう。
 初(はじ)めは東玉(とうぎよく)の一座(ざ)にゐた小政(こせい)は、その時分(じぶん)では、上手(じやうず)な女義太夫(をんなぎだいふ)であつた。その当時(たうじ)では、『吉田屋(よしだや)』を語(かた)り得(う)るものは小政(こせい)一人(ひとり)であつた。
 後(のち)に素行(そかう)となり、終(をは)りに瓢(ひさご)となつた豊竹三福(とよたけさんぷく)も二十三年(ねん)頃(ごろ)には、かなりな人気(にんき)を得(え)て居(を)つた。『小磯(こいそ)ケ原(はら)』を語(かた)つたのは、その時分(じぶん)では三福(さんぷく)ばかりではなかつたかと思(おも)ふ。
 小清(こせい)と小土佐(ことさ)は大抵(たいてい)同時(どうじ)位(ぐらゐ)に東京(とうきやう)の寄席(よせ)へ現(あらは)れたと思(おも)ふ。綾之助(あやのすけ)の出現(しゆつげん)時分(じぶん)を女義太夫(をんなぎだいふ)全盛時代(ぜんせいじだい)の第(だい)一期(き)とすることができるならば、小清(こせい)の出現(しゆつげん)は第(だい)二期(き)を劃(くわく)するものと云(い)へるであらう。小清(こせい)の男性的(だんせいてき)な芸風(げいふう)は可(か)なりの賞讃者(しやうさんしや)を集(あつ)め得(え)たのであつた。『鰻谷(うなぎだに)』『岡崎(をかざき)』などは、それ以前(いぜん)の女義太夫(をんなぎだいふ)から聞(き)くことのできないものであつた。殊(こと)に吾々(われ/\)は小清(こせい)の『鰻谷(うなぎだに)』を面白(おもしろ)いと思(おも)つた。
 小土佐(ことさ)は、初(はじ)めから矢張(やは)り後年(こうねん)の芸(げい)と同(おな)じ筋(すぢ)であつた。此(こ)の人(ひと)の『新口(にのくち)』などを僕(ぼく)は後年(こうねん)になつて、面白(おもしろ)く聞(き)いたことがある。
 何(ど)うする連(れん)といふのが出来(でき)たのは、二十四五年(ねん)頃(ごろ)からであらうと思(おも)ふ。しかし、そんな者(もの)どもでも、まだ人間(にんげん)が馬鹿正直(ばかしやうぢき)なところの失(う)せない時分(じぶん)のことであつたので、馬鹿(ばか)げたところに、一種(しゆ)の愛嬌(あいけう)はあつたのであらうと想像(さうざう)せられる。
 その時分(じぶん)では、義太夫(ぎだいふ)専属(せんぞく)の寄席(よせ)が随分多(ずゐぶんおほ)かつたほど、それほど女義太夫(をんなぎだいふ)が流行(はや)つたのであつた。
 当時(たうじ)の若(わか)い者(もの)が、女義太夫(をんなぎだいふ)に寄席(よせ)へ蝟集(ゐしふ)したのは、唯女(たゞをんな)を見(み)る為(ため)ばかりではなかつたと思(おも)はれるのである。矢張(やは)り芸術(げいじゆつ)に対(たい)する欲求(よくきう)にも基(もとづ)いてゐたのだらう。浄瑠璃(じやうるり)といふものが文学(ぶんがく)として並(なら)びに音楽(おんがく)として、当時(たうじ)の吾々(われ/\)に取(と)つては新(あたら)しい芸術(げいじゆつ)であつて、決(けつ)して今日(こんにち)の如(ごと)く古(ふる)ぼけたものではなかつたのであり、従(したが)つて女義太夫(をんなぎだいふ)も今日(こんにち)の如(ごと)く唯従来(たゞじうらい)ある芸(げい)を機械的(きかいてき)に演(えん)ずる芸人(げいにん)とのみは思(おも)はれなかつた。浄瑠璃(じやうるり)その者(もの)にも女義太夫(をんなぎだいふ)その人(ひと)にも、何(な)んだか新(あたら)しい生命(せいめい)が籠(こも)つてゐるやうな気(き)がしたのであつた。要(えう)するに、吾々(われ/\)は芸術的(げいじゆつてき)欲求(よくきう)を満足(まんぞく)させ得(う)る、善(よ)き高(たか)い対象(たいしやう)を他(ほか)で見出(みいだ)し得(え)なかつたのだ。いや、吾々(われ/\)は、極(ご)く卑近(ひきん)なところで芸術的(げいじゆつてき)欲求(よくきう)を満足(まんぞく)させ得(う)るまでに、吾々(われ/\)自身(じしん)の眼(め)が低(ひく)かつた。心(こゝろ)が進(すゝ)んでゐなかつたのだ。
 世(よ)の中(なか)がだん/\進(すゝ)むに従(したが)つて、女義太夫(をんなぎだいふ)では芸術的(げいじゆつてき)欲求(よくきう)が満足(まんぞく)せられない人(ひと)が増(ま)して来(く)ると同時(どうじ)に、唯女(たゞをんな)を見(み)るだけならば、カフエ─の女給(ぢよきふ)の方(はう)が面倒(めんだう)がないといふ時勢(じせい)になつて来(き)たのである。
 これでは、女義太夫(をんなぎだいふ)は廃滅(はいめつ)せざるを得(え)ないであらう。
 もう此(こ)の十年前(ねんまへ)程(ほど)から、女義太夫界(をんなぎだいふかい)それ自身(じしん)の方(はう)が荒(すさ)み始(はじ)めたやうである。今(いま)好(い)い芸人(げいにん)が出(で)たところで、此(こ)の大勢(たいせい)は奈何(いかん)ともしかたがないであらうが、しかも、実際(じつさい)に於(おい)て、好(い)い芸人(げいにん)は出(で)て来(こ)ないのである。
 落語(らくご)でも、女義太夫(をんなぎだいふ)でも、総(すべ)ての寄席(よせ)が皆(みな)日蔭(ひかげ)の芸術(げいじゆつ)になりつゝある。いや、もう既(すで)にさうなつてゐると云(い)つた方(はう)が確(たしか)であらう。偖(さ)てさういふ風(ふう)に落目(おちめ)へ向(むか)つて来(く)ると、気(き)の毒(どく)なもので、よい芸人(げいにん)が生(うま)れて来(こ)ないことになるのである。
 さういふ風(ふう)であつて、所謂(いはゆる)寄席芸(よせげい)は次第(しだい)に趣味(しゆみ)の中心(ちうしん)を離(はな)れて、卑俗(ひぞく)な方(はう)へと落(お)ちて行(ゆ)くのである。残念(ざんねん)であるが、何(ど)うも仕方(しかた)がない。

     衰退已むを得ず

 寄席業者(よせげふしや)が衰運(すゐうん)の予覚(よかく)を感(かん)じだしたのは、明治(めいぢ)二十八九年頃(ねんごろ)からであらうと思(おも)ふ。さま/゛\な好(この)みの客(きやく)の欲求(よくきう)の為(た)めに唯(たゞ)目先(めさき)をかへる為(ため)にのみの場違(ばちが)ひな芸(げい)を演(えん)じさせ、一座(ざ)の出演者(しゆつえんしや)の数(かず)を無暗(むやみ)に多(おほ)くし、唯(たゞ)いつ時(とき)の賑(にぎや)かしで落(おち)を取(と)らうとするやうになつて、芸人(げいにん)の方(はう)では本当(ほんたう)に高座(かうざ)で芸(げい)を鍛(きた)ふ機会(きくわい)がなくなり、客(きやく)の方(はう)でもゆつくり芸人(げいにん)の芸(げい)を鑑賞(かんしやう)する余裕(よゆう)がなくなつてしまつて、芸人(げいにん)の素質(そしつ)が低下(ていか)すると共(とも)に、客(きやく)の柄(がら)もだん/\悪(わる)くなつて行(い)つたといふ風(ふう)に見(み)えるのであるが、此(これ)は単(たん)に結果(けつくわ)の表(あらは)れであつて、実際(じつさい)は、前(まへ)に云(い)つた通(とほ)り、時代(じだい)の変化(へんくわ)が、芸人(げいにん)の方(はう)へも、客(きやく)の方(はう)へも及(およ)んだのが、寄席(よせ)衰退(すゐたい)の真因(しんいん)である。寄席(よせ)衰退(すゐたい)の歴史(れきし)は、東京(とうきやう)敗北(はいぼく)の行程(かうてい)を象徴(しやうちよう)してゐるものと見(み)ることができるであらう。
 前代(ぜんだい)において東京(とうきやう)へ移住(いぢう)した人々(ひと/゛\)は、その前方(まへかた)からして東京(とうきやう)の感化(かんくわ)が及(およ)び得(え)た範囲内(はんゐない)にゐた人々(ひと/゛\)であつたのであるが、後(のち)の東京(とうきやう)の移住者(いぢうしや)は、さういふ伝統(でんとう)を更(さら)に持(も)つてゐない人々(ひと/゛\)がますます多(おほ)くなつて来(き)た。後(のち)の地方人(ちはうじん)は東京(とうきやう)の文化(ぶんくわ)に対(たい)してヴアンダルスであつた。さういふ地方人(ちはうじん)なるヴアンダルスが、東京(とうきやう)なる羅馬文化(ローマぶんくわ)を破壊(はくわい)して行(い)つた。その一局面(きよくめん)が、寄席(よせ)の衰退(すゐたい)となつて表(あらは)れてゐるのである。
 さうなつて来(く)ると、さういふヴアンダルス自身(じしん)が猛威(まうゐ)を揮(ふる)ふのみならず、羅馬人(ロ─マじん)たる東京人(とうきやうじん)の方(はう)でも、さういふヴアンダルスに感化(かんくわ)されて行(い)くのが増(ま)して行(い)くのである。尤(もつと)も征服者(せいふくしや)なるものは、いつも被征服者(ひせいふくしや)から何等(なんら)かの感化(かんくわ)を受(う)けない訳(わけ)には行(い)かないものであるのだからして、ヴアンダルスそのものの中(なか)からも、東京的(とうきやうてき)文化(ぶんくわ)の感化(かんくわ)を受(う)けた者(もの)が可(か)なり出(で)た訳(わけ)であるのだが、それ等(ら)は数(すう)に於(おい)て、さう大(たい)したものではなかつたのみならず、さういふ感化(かんくわ)を受(う)けたものも、根(ね)がヴアンダルスであるのだからして、窮極(きうきよく)のところでは、東京文化(とうきやうぶんくわ)の擁護者(えうごしや)では有(あ)り得(え)なかつたのである。
 固(もと)より東京文化(とうきやうぶんくわ)プラス地方精神(ちはうせいしん)といふやうな文化(ぶんくわ)が纏(まと)まりつゝあることは、事実(じじつ)であるのだが、しかし、まだそれは十分(ぶん)なものではないと云(い)はなければならぬ。
 かういふ風(ふう)であつて見(み)れば、よい寄席(よせ)、よい寄席芸(よせげい)といふのは、極(ご)く少数(せうすう)のものが残(のこ)つて行(い)くに過(す)ぎぬであらう。寄席(よせ)業者(げふしや)も、寄席(よせ)愛好者(あいかうしや)も、先(ま)づさう諦(あきら)めるより外(ほか)に仕方(しかた)がなからう。



故摂津大掾

  一

 明治(めいぢ)の義太夫界(ぎだいふかい)の巨人(きよじん)と仰(あふ)がれ、近代(きんだい)絶倫(ぜつりん)の美音(びおん)と称(しよう)せられた竹本摂津大掾(たけもとせつつだいじよう)は、此(こ)の程(ほど)八十二歳(さい)を一期(ご)として白玉楼中(はくぎよくろうちう)の人(ひと)となつてしまつた。
 僕(ぼく)は此(こ)の人(ひと)が摂津大掾(せつつだいじよう)と改名(かいめい)してからは、折悪(をりあし)く一度(ど)も聴(き)いたことがない。僕(ぼく)の此(こ)の人(ひと)に関(くわん)する記憶(きおく)は今(いま)より二十六七年(ねん)前(まへ)のことに属(ぞく)する。此(こ)の人(ひと)が未(ま)だ越路太夫(こしぢだいふ)と云(い)つて居(ゐ)た時分(じぶん)のことである。
 元(もと)よりその越路太夫(こしぢだいふ)に関(くわん)する記憶(きおく)は単独(たんどく)の記憶(きおく)ではない。それは他(ほか)のさま/゛\な記憶(きおく)をばその後(あと)に率(ひき)ゐて、僕(ぼく)の心(こゝろ)に起(おこ)り来(き)たる記憶(きおく)である。
 それは僕等(ぼくら)の学生時代(がくせいじだい)であつた。その時分(じぶん)に一緒(しよ)に越路(こしぢ)を聴(き)いた友(とも)の中(なか)には最早(もはや)とくに故人(こじん)となつて居(ゐ)るものもある。遠(とほ)い土地(とち)に居(ゐ)て消息(せうそく)も互(たがひ)にし合(あ)はなくなつてしまつたのもある。その時分(じぶん)からの知人(ちじん)で今(いま)時々(とき/゛\)行合(ゆきあ)ふ者(もの)と云(い)つては、ほんの数(かぞ)へる位(ぐらゐ)しきや残(のこ)つて居(ゐ)ない。
 秋雨(あきさめ)のしめやかに降(ふ)る夜(よ)、さういふ思(おも)ひ出(で)に耽(ふけ)れば、昔(むかし)親(したし)かつた人々(ひと/゛\)の顔(かほ)、昔(むかし)行(ゆき)なれて居(ゐ)た場所(ばしよ)の光景(くわうけい)などが、つぎ/\に眼(め)の前(まへ)に現(あらは)れて来(く)るやうな心持(こゝろもち)がする。
 さういふ追憶(つゐおく)を書(か)き立(たて)れば何枚(なんまい)書(か)いても書(か)き尽(つく)せさうもない。僕(ぼく)は今(いま)、摂津大掾(せつつだいじよう)の越路(こしぢ)時代(じだい)のことを重(おも)に思(おも)ひ出(だ)してみよう。それには幸(さいは)ひ二十三四年(ねん)の僕(ぼく)の日記(につき)が残(のこ)つて居(ゐ)る。それから、越路(こしぢ)を聞(き)いた時(とき)のことを抄出(せうしゆつ)しよう。

  二

 僕(ぼく)が最初(さいしよ)に、越路(こしぢ)を聞(き)いたのは明治(めいぢ)二十三年(ねん)の五月三日(ぐわつみつか)である。寄席(よせ)は本郷(ほんがう)の若竹(わかたけ)、同行者(どうかうしや)は今(いま)朝鮮(てうせん)の何処(どこ)かの知事(ちじ)である松永武吉(まつながぶきち)氏(し)であつた。午後(ごご)一時(じ)から始(はじ)まつて、八時半(じはん)頃(ごろ)に終(をは)つて居(ゐ)る。それで木戸銭(きどせん)はといふと、二十銭(せん)か精々(せい/゛\)で三十銭(せん)位(ぐらゐ)であつたらうと思(おも)ふ。物価(ぶつか)の安(やす)い時分(じぶん)であつたからでもあるのだが、それにしても現代(げんだい)の越路(こしぢ)が大劇場(だいげきぢやう)で金(きん)何円(なんゑん)といふ木戸銭(きどせん)であるのは、少(すこ)し故人(こじん)に対(たい)して、くすぐつたい気(き)はしないであらうか。
 さて、少(すこ)し蛇足(だそく)の感(かん)はあるが、参考(さんかう)の為(た)めに、その時(とき)の語物(かたりもの)を順(じゆん)に書(か)いてみよう。『八陣(ぢん)─正清本城(まさきよほんじやう)』越栄太夫(こしえだいふ)、『加賀見山(かがみやま)─又助(またすけ)』小長太夫(こながだいふ)、豊沢広子(とよざはひろこ)、『碁盤太平記(ごばんたいへいき)─坂戸村(さかとむら)』越尾太夫(こしをだいふ)、豊沢広吉(とよざはひろきち)、『同(おなじく)─揚屋(あげや)』村太夫(むらだいふ)、豊沢龍三(とよざはりうざ)、『玉三(たまさん)』さの太夫(だいふ)、鶴沢小庄(つるざはこしやう)、『勘作(かんさく)』路太夫(みちだいふ)、豊沢花助(とよざははなすけ)、『酒屋(さかや)』越路太夫(こしぢだいふ)、豊沢広助(とよざはひろすけ)といふのである。
 越路(こしぢ)はこの時(とき)は声(こゑ)の美(うつく)しさの方(はう)では稍(やゝ)下(くだ)り坂(ざか)だと云(い)ふ人(ひと)があつたのであるが、まだ何(ど)うして実(じつ)によい声(こゑ)であつた。殆(ほとん)ど男(をとこ)の声(こゑ)とは思(おも)へないほどの綺麗(きれい)な声(こゑ)であつた。節(ふし)を細(こま)かに語(かた)つて行(い)くところは、所謂(いはゆる)盤上(ばんじやう)に玉(たま)を転(ころ)ばすといふ形容(けいよう)は此(こ)の様(やう)な場合(ばあひ)に用(もち)ひるものであらうかと思(おも)はれた位(くらゐ)であつた。
『あとには園(その)が』といふところまで来(く)ると、越路(こしぢ)は見台(けんだい)に手(て)を掛(か)けて、膝(ひざ)で真直(まつすぐ)に立(た)つた。それから『繰(く)り返(かへ)したるひとりごと』までが、如何(いか)にも悠揚(いうやう)に語(かた)られた。
 同月五日(どうげついつか)にも、松永氏(まつながし)と共(とも)に聴(き)きに行(い)つた。路太夫(みちだいふ)の『紙治(かみぢ)の茶屋場(ちややば)』と越路(こしぢ)の『御殿(ごてん)』とが殊(こと)に面白(おもしろ)かつた。路太夫(みちだいふ)は如何(いか)にも声(こゑ)のない太夫(たいふ)であつたが、その代(かは)り非常(ひじやう)に言葉(ことば)の旨(うま)い太夫(たいふ)であつた。此(こ)の『河庄(かはしやう)』は今(いま)も猶(なほ)僕(ぼく)は忘(わす)れ得(え)ない。もう一度(ど)此(こ)の時(とき)のやうな『河庄(かはしやう)』を聴(き)いてみ度(た)いと思(おも)ふ。越路(こしぢ)の『御殿(ごてん)』では『お末(すゑ)の業(わざ)をしがらきや』以下(いか)のところの節廻(ふしまは)しの綺麗(きれい)であつたことが、今(いま)も猶(なほ)耳(みゝ)に附(つ)いて離(はな)れないやうな気(き)がする。殊(こと)に『心(こゝろ)も清(きよ)き洗米(あらひよね)』の節(ふし)の細(こまか)かつたことは、僕(ぼく)の終生(しうせい)忘(わす)れ得(え)ないものであらう。
 同月十日(どうげつとをか)には、母(はゝ)と姪(めい)と三人(にん)で聴(き)きに行(い)つたのであるが、その時(とき)は越路(こしぢ)は病気(びやうき)で出(で)ないで、さの太夫(だいふ)の『松王屋敷(まつわうやしき)』と路太夫(みちだいふ)の『帯屋(おびや)』を聴(き)いたのみであつた。

  三

 同(おな)じ年(とし)の十月(ぐわつ)十七日(にち)に、若竹(わかたけ)で又(また)越路(こしぢ)を聴(き)いた。此(こ)の時(とき)は僕(ぼく)一人(ひとり)であつた。遅(おそ)かつたと見(み)えて、路太夫(みちだいふ)の『沼津(ぬまづ)』と越路(こしぢ)の『十種香(じゆつしゆかう)』だけを聴(き)いたことしきや、日記(につき)には書(か)いてない。
 同月(どうげつ)十九日(にち)には、比佐(ひさ)といふ学友(がくいう)と一緒(しよ)に、越路(こしぢ)の『柳(やなぎ)』を聴(き)いた。此(こ)の時(とき)のさの太夫(だいふ)の出(だ)し物(もの)は『玉三(たまさん)』であつたが、僕等(ぼくら)は、さの太夫(だいふ)の大(おほ)きい語口(かたりくち)にひどく感服(かんぷく)して、此(こ)の太夫(たいふ)の前途(ぜんと)の多望(たばう)なることを語(かた)り合(あ)つた。越路(こしぢ)の『柳(やなぎ)』の面白(おもしろ)さは前半(ぜんぱん)にあつた。一体(たい)三味線(しやみせん)のよく解(わか)らない僕等(ぼくら)素人(しろうと)には、『柳(やなぎ)』は柳(やなぎ)の精(せい)の消(き)える所(ところ)までゝ沢山(たくさん)である。
 十一月(ぐわつ)二十三日(にち)、芝(しば)の玉(たま)の井(ゐ)で、越路(こしぢ)の『堀川(ほりかは)』を聴(き)いた。例(れい)の『鳥辺山(とりべやま)』が何(な)んとも云(い)ひやうの無(な)い程(ほど)心持(こゝろもち)の好(よ)かつたことを記憶(きおく)して居(ゐ)る。
 翌(よく)二十四日(か)、玉(たま)の井(ゐ)で、さの太夫(だいふ)の『加賀見山(かがみやま)─尾上部屋(をのへへや)』と、路太夫(みちだいふ)の『引窓(ひきまど)』と、越路(こしぢ)の『太十(たいじふ)』とを聴(き)いた。この時(とき)は、比佐(ひさ)と竹本東佐(たけもととうすけ)(当時(たうじ)は弥昇(やしよう)) と三人(にん)であつた。東佐(とうすけ)は路太夫(みちだいふ)を激賞(げきしやう)した。東佐(とうすけ)のお蔭(かげ)で、『太十(たいじふ)』の終(をは)りに近(ちか)い部分(ぶぶん)の三味線(しやみせん)の面白(おもしろ)さを知(し)ることが出来(でき)た。
 十二月(ぐわつ)十九日(にち)、越路(こしぢ)の『合法(がつぱふ)』を宮松(みやまつ)で聴(き)いた。路太夫(みちだいふ)の語(かた)り物(もの)は『重(しげ)の井子別(ゐこわかれ)』であつたが、これは余(あま)り好(よ)くなかつたやうに思(おも)はれた。
 僕(ぼく)の東京(とうきやう)で越路(こしぢ)を聴(き)いたのはそれだけであるのだが、これが越路(こしぢ)を聴(き)いた最後(さいご)ではない。
 二十四年(ねん)の十二月(ぐわつ)に、僕(ぼく)は高知市(かうちし)の共立学校(きようりつがくかう)といふのへ、英語(えいご)の教師(けうし)に雇(やと)はれて行(い)つたのだが、その途中(とちう)、神戸(かうべ)で船待(ふなま)ちの間(あひだ)、同月(どうげつ)の十二日(にち)に、神戸(かうべ)の大黒座(だいこくざ)で越路(こしぢ)一座(ざ)を聴(き)いた。その時(とき)は、さの太夫(だいふ)が八兵衛(はちべゑ)の三味線(しやみせん)で『志渡寺(しどでら)』、路太夫(みちだいふ)が同(おな)じく三味線(しやみせん)は八兵衛(はちべゑ)で『河庄(かはしやう)』、呂太夫(ろだいふ)が『吃又(どもまた)』、越路(こしぢ)が『太十(たいじふ)』であつた。呂太夫(ろだいふ)は如何(いか)にも体格(たいかく)の魁偉(くわいゐ)な異相(いさう)の男(をとこ)であつた。そして、語口(かたりくち)が如何(いか)にも剛健(がうけん)であつたやうに覚(おぼ)えて居(ゐ)る。

  四

 越路(こしぢ)を聴(き)いたのはたゞそれだけである。越路(こしぢ)はからだの小(ちひ)さい、顔(かほ)の小(ちひ)さい、如何(いか)にも濃(こ)い地蔵眉(ぢざうまゆ)の色(いろ)の赭黒(あかぐろ)い男(をとこ)であつた。語(かた)り出(だ)す前(まへ)に、本(ほん)を両手(りやうて)で顔(かほ)の前(まへ)で捧(さゝ)げて、長(なが)い間(あひだ)居(ゐ)るのであつたが、或人(あるひと)が、丁度(ちやうど)一分間(ぷんかん)さうして居(ゐ)るのだと云(い)つたことがあるので、僕(ぼく)も一度時計(どとけい)を見(み)て試(ため)したが、確(たしか)に一分間(ぷんかん)であつた。
 名人(めいじん)長門太夫(ながとだいふ)が初代(しよだい)の綱太夫(つなだいふ)に三年間(ねんかん)一段(だん)しきや教(をし)へなかつたといふ伝説(でんせつ)があるのだが、越路(こしぢ)も師匠(ししやう)が一年間(ねんかん)一段(だん)しきや教(をし)へなかつた。越路(こしぢ)の家(うち)の者(もの)が一年間(ねんかん)一(ひと)つ物(もの)ばかりでは心細(こゝろぼそ)い、何(なに)か他(ほか)のものを教(をし)へて呉(く)れと、師匠(ししやう)に申込(まをしこ)んだ。師匠(ししやう)は言下(げんか)に、『それでも、当人(たうにん)が不平(ふへい)を云(い)はずにやつて居(ゐ)るから宜(い)いではないか。先(ま)づさういふことは一切(さい)わしにまかして置(お)いて呉(く)れ』と云(い)つたといふ話(はなし)がある。
 越路(こしぢ)の義太夫(ぎだいふ)は邪路(じやろ)に入(はひ)つたものであるとか、所謂(いはゆる)ケレンであるとかいふ評(ひやう)は黒人(くろうと)のなかに大分唱(だいぶとな)へられて居(ゐ)た。けれども、声(こゑ)の美(うつ)くしかつたこと、節(ふし)の細(こまか)かつたことは、何人(なんびと)も争(あらそ)ひ得(え)ないところであつたらう。その点(てん)では越路時代(こしぢじだい)の摂津大掾(せつつだいじよう)は不出世(ふせしゆつ)の人(ひと)であつたことは、疑(うたが)ひがない。
 俳優(はいいう)、音楽家(おんがくか)等(ら)は、刹那(せつな)のヒーロオである。その人(ひと)衰(おとろへ)ると共(とも)に、その人(ひと)逝(ゆ)くと共(とも)に、その天才(てんさい)の技能(ぎのう)も、また永久(えいきう)に消(き)え去(さ)つてしまふのは、憾(うら)みに堪(た)へざることである。
 夏目漱石(なつめさうせき)君(くん)が或時(あるとき)次(つぎ)のやうな話(はなし)をしたことがある。
 或日(あるひ)、夏目君(なつめくん)が兄(にい)さんから拝領(はいりやう)の外套(ぐわいたう)を着(き)て、若竹(わかたけ)へ越路(こしぢ)を聴(き)きに行(い)つて居(ゐ)ると、傍(そば)に胡坐(あぐら)をかいて居(ゐ)るへんな男(をとこ)が、夏目(なつめ)君(くん)に『今日(けふ)は休(やすみ)か』ときいた。夏目(なつめ)君(くん)は、学校(がくかう)のことだと思(おも)つたので、『今日(けふ)は休(やす)みだ』と答(こた)へた。すると、その男(をとこ)は夏目(なつめ)君(くん)にいろいろ話(はな)しかけたが、だん/\話(はなし)が喰(く)ひちがつて来(く)るので、夏目(なつめ)君(くん)もこれは少(すこ)しへんだなと思(おも)つて居(ゐ)るうちに、到頭(たうとう)先方(せんぱう)から『だつて、おめえ、造兵(ざうへい)ぢやアねえか』と云(い)つた。
 夏目(なつめ)君(くん)は砲兵工廠(はうへいこうしやう)の職工(しよくこう)と間違(まちが)へられたのだ。
 あゝ、その夏目(なつめ)君(くん)も今(いま)は故人(こじん)で、その一周忌(しうき)が近々(きん/\)に来(く)るのである。
 僕(ぼく)が一緒(しよ)に越路(こしぢ)を聴(き)いた比佐道太郎(ひさみちたらう)は、明治(めいぢ)三十六年(ねん)に磐城(いはき)の小名浜(をなはま)でなくなつた。そのわすれがたみの男(をとこ)の子(こ)は、もう高等学校(かうとうがくかう)の試験(しけん)を受(う)け終(をは)つた位(くらゐ)の年(とし)になつて居(ゐ)ようかと思(おも)はれる。
 その時分(じぶん)の学友(がくいう)で亡(な)くなつたものは、もう十指(し)にも余(あま)るであらう。
 夜(よ)は更(ふ)け行(い)くまゝに、雨(あめ)の音(おと)はいやさびしく聞(きこ)えて来(く)る。人(ひと)もなつかしい、事(こと)もなつかしい。鬢(びん)に数茎(すうけい)の霜(しも)の色(いろ)しるき僕(ぼく)に取(と)つては、今宵(こよひ)の雨(あめ)は消(き)え行(ゆ)く過去(くわこ)を低調(ていてう)に弔(とむら)ふ挽歌(ばんか)のやうな心持(こゝろもち)がする。



東京の天然

  一

 少(すこ)し間暇(ひま)が出来(でき)さへすれば、何(ど)うしても何処(どこ)かへ旅行(りよかう)せずには居(ゐ)られなかつた時分(じぶん)があつた。即(すなは)ち山(やま)を見(み)るか海(うみ)を見(み)るかしないと、何(な)んだか心(こゝろ)が黴(か)び切(き)つて了(しま)ふやうな気(き)が為(し)たことがあつた。
 暫時(ざんじ)、人事(じんじ)の草忙裡(さうばうり)を離(はな)れて、新鮮(しんせん)な天然(てんねん)に対(たい)して、胸底(きようてい)の塵挨(ぢんあい)を洗(あら)ふとでも云(い)ふ様(やう)な心持(こゝろもち)で、旅(たび)へ出(で)たのも、最早(もう)一昔前(ひとむかしまへ)のことになつて了(し)まつた。此(こ)の頃(ごろ)では、却(かへ)つて、都会(とくわい)の賑(にぎ)やかな所(ところ)が、面白(おもしろ)くなつて、暑(あつ)いのも構(かま)はずに、縁日(えんにち)の雑閙(ざつたふ)のなかを、植木屋(うゑきや)をヒヤかして、歩(ある)くことなどもあるやうになつた。
 田舎生(ゐなかうま)れの僕(ぼく)も、三十年(ねん)以上(いじやう)の東京生活(とうきやうせいくわつ)に教化(けうくわ)されて、今頃(いまごろ)都会(とくわい)の面白味(おもしろみ)が解(わか)つたと思(おも)はれる。
 所(ところ)で、全(まつた)く都会人(とくわいじん)になりおほせたかといふと、残念(ざんねん)ながら、さうではないやうなのだ。依然(やはり)、何処(どこ)かに天然(てんねん)を好(この)む念(ねん)が潜(ひそ)んで居(ゐ)るのだ。
 けれども、それは、最早(もう)人間(にんげん)を遠(とほ)く離(はな)れたやうな天然(てんねん)を慕(した)ふのでは無(な)い。人間(にんげん)に近(ちか)い、若(もし)くは、人間(にんげん)の多(おほ)い市(まち)にチラばつて居(ゐ)る天然(てんねん)を賞(め)でる心(こゝろ)なのだ。言葉(ことば)を換(か)へて言(い)へば、全然(ぜんぜん)都会(とくわい)の雑閙(ざつたふ)の巷(ちまた)でも、面白(おもしろ)からず、さればといつて、全(まつた)くの天然(てんねん)の最中(さなか)でも面白(おもしろ)くないといふ、中(ちう)ぶらりんの、折衷的(せつちうてき)位地(ゐち)なのだ。

  二

 東京(とうきやう)は大都会(だいとくわい)である。少(すくな)くとも、その広(ひろ)さにおいては左様(さう)だと云(い)はなければなるまい。で、その広(ひろ)いことの難有(ありがた)さには、天然(てんねん)の断片(だんぺん)が諸方(しよはう)に見出(みいだ)される。尤(もつと)も心(こゝろ)の底(そこ)まで都会流(とくわいりう)になつた人々(ひと/゛\)や、父祖(ふそ)から都会人(とくわいじん)たる伝説(でんせつ)を伝(つた)へて居(ゐ)る人々(ひと/゛\)に取(と)つては今(いま)の東京(とうきやう)には、随所(ずゐしよ)に破壊(はくわい)の痕(あと)が見出(みいだ)されて、さういふ人々(ひと/゛\)には、現在(げんざい)の東京(とうきやう)は、旧(ふる)き東京(とうきやう)の残骸(ざんがい)に過(す)ぎぬであらうが、吾々(われ/\)田舎出(ゐなかで)の者(もの)に取(と)つては、未(いま)だ幾(いく)らか堪(た)へ得(え)られる程度(ていど)に於(おい)て、旧(ふる)い東京(とうきやう)の面影(おもかげ)が、所(ところ)に依(よ)つて残(のこ)つて居(ゐ)るやうに思(おも)はれるのだ。
 勿論僕(もちろんぼく)の所謂(いはゆる)東京(とうきやう)の内(うち)の天然(てんねん)の断片(だんぺん)は、人工(じんこう)の加(くは)はつた天然(てんねん)なのだ。即(すなは)ち寧(むし)ろ人間(にんげん)の造(つく)つた天然(てんねん)と云(い)つても宜(よ)いのだが、さういふところが又(また)、東京(とうきやう)のやうな大都会(だいとくわい)ででもなければ、到底(たうてい)見(み)られないものなのだ。
 外国(ぐわいこく)の或(ある)詩人(しじん)の書(か)いたものの中(なか)に、人間(にんげん)が、或(ある)建造物(けんざうぶつ)を造(つく)つて、天然(てんねん)の裡(うち)にそれを置(お)き捨(す)てるといふと、天然(てんねん)はそれをば己(おの)れの懐(ふところ)に収(をさ)めて、それをば自分(じぶん)のものに為(し)て了(しま)ふ、といふやうな事(こと)が、書(か)いてあつたやうに思(おも)ふ。これは、確(たし)か古(こ)羅馬(ロ─マ)の大劇場(だいげきぢやう)(コリジユム)の遺趾(ゐし)に、木(き)が生(は)え、草(くさ)が茂(しげ)つて、殆(ほとん)ど自然(しぜん)の丘(をか)のやうな姿(すがた)を呈(てい)して居(ゐ)ることを書(か)いた場合(ばあひ)の言葉(ことば)であつたと思(おも)ふ。
 僕(ぼく)の所謂(いはゆる)東京(とうきやう)の天然(てんねん)は、全(まつた)くその通(とほ)りに、天然(てんねん)の懐(ふところ)に収(をさ)められた人工物(じんこうぶつ)であるのだ。
 以上(いじやう)に云(い)つたやうな意味(いみ)で、僕(ぼく)は、麹町(かうぢまち)の新見附(しんみつけ)が好(す)きだ。其処(そこ)に立(た)つて、西(にし)の方(はう)を見(み)るのが好(い)い。四谷(や)から左内坂(さないざか)、佐土原町(さどはらちやう)へ掛(か)けての丘(をか)の遠景(ゑんけい)も一寸好(ちよつとい)いが、最(もつと)も好(い)いのは、濠(ほり)の眺(なが)めだ。
 両岸(りやうがん)の樹(き)の静(しづか)に枝(えだ)を垂(た)れたやうな所(ところ)も好(よ)ければ、濠(ほり)の水(みづ)の水(みづ)さびた所(ところ)も面白(おもしろ)い。殊(こと)に、風(かぜ)のない夏(なつ)の真昼時(まひるどき)の静(しづか)な景色(けしき)が大変(たいへん)に好(い)い、何(な)んとなく打沈(うちしづ)んだ沈静(ちんせい)の眺(ながめ)が心持(こゝろもち)が好(い)いのだ。四方(はう)の堤(どて)で箱(はこ)のやうに劃(くぎ)られて居(ゐ)るので、却(かへ)つて小天地(せうてんち)のやうで面白(おもしろ)いのであらうかと思(おも)はれる。秋(あき)の末(すゑ)に夜霧(よぎり)の立(た)つた月夜(つきよ)の晩(ばん)などは非常(ひじやう)に好(い)いのだ。それから市谷(いちがや)の側(がは)から、月夜(つきよ)に、麹町(かうぢまち)の、高(たか)い松(まつ)のある堤(どて)を見(み)るのも好(い)い、有(あ)りふれた言葉(ことば)だが、芝居(しばゐ)の書割(かきわり)のやうな気(き)がする。
 同(おん)なじ外濠(そとぼり)では、四谷(や)見附(みつけ)の堤(どて)の松林(まつばやし)が好(い)い、四谷仲町(やなかまち)の停留所(ていりうじよ)を少(すこ)し彼方(むかう)へ下(お)りた辺(あたり)から、濠(ほり)を隔(へだ)てゝ松林(まつばやし)を縦(たて)に見(み)る眺(ながめ)が面白(おもしろ)いのだ。赤松(あかまつ)の大森林(だいしんりん)が何処(どこ)迄(まで)も続(つゞ)いて居(ゐ)るのではなからうかといふやうな気(き)がする。
 吾々(われ/\)は、何時(いつ)も景色(けしき)が吾々(われ/\)の胸(むね)のうちに起(おこ)させる幻覚(げんかく)が嬉(うれ)しいのではなからうか。さうならば、四谷(や)見附(みつけ)の松林(まつばやし)は確(たしか)にその意味(いみ)で、僕(ぼく)には心持(こゝろもち)が好(よ)いのであらう。
 それから、ずつと飛(と)ぶが、芝(しば)のお霊屋(たまや)の手前(てまへ)からの松林(まつばやし)が好(い)い。電車(でんしや)で通(とほ)るのは勿体(もつたい)ない気(き)がする。時々(とき/゛\)海岸(かいがん)に近(ちか)い所(ところ)ではないか、といふやうな気(き)がすることがある。芝園橋(しばぞのばし)あたりから、公園(こうゑん)を見(み)るのも好(い)い。其所(そこ)からでは、五重(ぢう)の塔(たふ)の頂(いたゞき)が緑樹(りよくじゆ)の頂上(ちやうじやう)を抜(ぬ)いて居(ゐ)るのが、如何(いか)にも感(かん)じ好(よ)く眺(なが)められる。
 今(いま)確(たしか)には覚(おぼ)えて居(ゐ)ないが、上野(うへの)の公園(こうゑん)の博物館(はくぶつくわん)の前(まへ)あたりの所(ところ)で、東(ひがし)を見(み)ると、何(ど)うしても、海辺(うみべ)だといふ気(き)がして為方(しかた)のない所(ところ)がある。松(まつ)がある為(た)めばかりでなく、その彼方(むかう)が坂(さか)になつて居(ゐ)て、空(そら)が見通(みとほ)しになる為(た)めでもあるのだらうかとも思(おも)はれるのだ。
 浜町河岸(はまちやうがし)──長岡(ながをか)さんの邸外(やしきそと)の所(ところ)が好(い)い。月(つき)の夜(よ)も好(よ)からう、朧夜(おぼろよ)も好(よ)からう、闇(やみ)の夜(よ)も悪(わる)くはなからう。が、僕(ぼく)は、或夏(あるなつ)の午後(ごご)、霏雨(ひさめ)の日(ひ)に彼(あ)の辺(へん)を通(とほ)つたことがある。大川(おほかは)の面(おも)から掛(か)けて、彼(あ)の辺(へん)一面(めん)に雨(あめ)の烟(けぶ)つて居(ゐ)る眺(ながめ)が、実(じつ)に心持(こゝろもち)が好(よ)かつた。さうなると、新大橋(しんおほはし)さへ確(たしか)に景色(けしき)の一部(ぶ)を整(とゝの)へるのだ。
 それから、大川(おほかは)では、箱崎(はこざき)から中洲(なかず)へ渡(わた)らうとする川口橋(かはぐちばし)辺(あたり)の、川(かは)が入江(いりえ)のやうになつて居(ゐ)る所(ところ)も好(よ)く、尚(なほ)、築地(つきぢ)から月島(つきしま)へ渡(わた)る所(ところ)の、帆船(はんせん)が沢山(たくさん)碇泊(ていはく)して居(ゐ)る所(ところ)も好(よ)く、更(さら)に又(また)ずつと上流(かみ)へ行(い)つて、永代橋(えいたいばし)から海(うみ)の方(はう)を見(み)るのが好(い)い。僕(ぼく)があの橋(はし)を初(はじ)めて渡(わた)つたのは、最早(もう)三十年(ねん)も前(まへ)のことなのだが、その時(とき)は、河口(かこう)に西洋形(せいやうがた)の船(ふね)が一艘(そう)かゝつて居(ゐ)て、その彼方(むかう)は漂渺(へうべう)たる大海(たいかい)であるかのやうな感(かん)じがした。何(な)んだか東京(とうきやう)うちでないやうな、物寂(ものさび)しい好(い)い心持(こゝろもち)がした。僕(ぼく)は今(いま)も尚(なほ)その景色(けしき)を忘(わす)れ得(え)ない。何(ど)うもその船(ふね)一艘(そう)で、景色(けしき)が大(おほ)きく見(み)えたやうに思(おも)ふ。それから、明治座(めいぢざ)の前(まへ)から東(ひがし)の掘割(ほりわり)の眺(ながめ)がなか/\面白(おもしろ)い、満潮(まんてう)の時(とき)が殊(こと)に好(い)い。蠣浜橋(かきはまばし)が高(たか)く見(み)えるのも、景色(けしき)を整(とゝの)へるものの一(ひと)つだ。さう云(い)へば、その掘割(ほりわり)に随(つ)いて行(い)つて、電車道(でんしやみち)を越(こ)えてから彼方(むかう)もなか/\好(い)い。
 その外(ほか)に、越中島(ゑつちうじま)の葦原(あしはら)の秋(あき)になつての眺(ながめ)が非常(ひじやう)に好(い)いと思(おも)ふのだが、彼所(あすこ)は最早(もう)間(ま)もなく、工場(こうば)か何(なに)かゞ建(た)つて、今(いま)の面影(おもかげ)は消(き)え失(う)せて了(しま)ふだらう。
 それから、小石川(こいしかは)の水道町(すゐだうちやう)とか、金富町(かなとみちやう)あたりの丘(をか)から、牛込(うしごめ)や早稲田(わせだ)を見(み)る景色(けしき)が非常(ひじやう)に好(い)い。
 最早(もう)二十年(ねん)も前(まへ)の話(はなし)なのだが、本郷(ほんがう)の龍岡町(たつをかちやう)に居(ゐ)た時分(じぶん)には、下谷(したや)の七軒町(けんちやう)の友達(ともだち)の下宿(げしゆく)で話(はな)し込(こ)んで居(ゐ)て、外(ママ)(よる)十二時(じ)頃(ごろ)度々(たび/\)池端(いけのはた)を通(とほ)つたものだ。時節(じせつ)は丁度(ちやうど)十一月(ぐわつ)の初頃(はじめごろ)だ。一面(めん)に夜霧(よぎり)の閉(とざ)した空(そら)を、雁(かり)の声(こゑ)がぐる/\廻(まは)つて居(ゐ)る。よく聞(き)くとギイ‥‥ギイ‥‥といふ音(おと)も聞(きこ)えるのだ。それは翼(つばさ)の音(おと)だと思(おも)つた。が、彼(あ)の大(おほ)きい橋(はし)が出来(でき)てからは、其様(そん)な声(こゑ)が聞(き)かれるか何(ど)うだか、今(いま)は知(し)らない。
 不忍池(しのばずのいけ)は、雪(ゆき)の景色(けしき)も好(よ)い。水(みづ)の色(いろ)が濃(こ)い鼠色(ねずみいろ)になつて来(く)るので、弁天堂(べんてんだう)の赤(あか)い色(いろ)が、はつきりと浮(う)き出(だ)したやうに見(み)えて来(く)るのだ。
 真(しん)の天然(てんねん)には強(つよ)い力(ちから)があつて吾々(われ/\)を圧(あつ)するのだ。が、何処(どこ)にしても、都会(とくわい)の中(なか)に散(ち)らばつて居(ゐ)る僕(ぼく)の所謂(いはゆる)天然(てんねん)の断片(だんぺん)は何(な)んとも謂(い)へない物静(ものしづ)かな穏(おだや)かな快感(くわいかん)を喚(よ)び起(おこ)すものだ。畢竟(ひつきやう)、人間(にんげん)といふ背景(はいけい)がある為(た)めなのであらう。



東京の女

 女(をんな)に対(たい)しての知識(ちしき)は、甚(はなは)だ浅薄(せんぱく)でお話(はなし)にならないが、まづ僕(ぼく)などの目(め)から見(み)て、夏(なつ)の女(をんな)を美(うつく)しいと思(おも)ふ。日本(にほん)の女(をんな)は、欧米(おうべい)の女(をんな)の様(やう)に巧(たく)みな表情(へうじやう)はなし得(え)ないが、夏(なつ)の女(をんな)は、体質(たいしつ)の上(うへ)から言(い)つても何(な)んとなく平均(へいきん)がとれて居(ゐ)る。羽織(はおり)や綿入(わたいれ)を多(おほ)く著(き)た姿(すがた)より、いきな浴衣(ゆかた)や帷子(かたびら)を著(き)た姿(すがた)の方(はう)が好(い)いと思(おも)ふ。夏(なつ)は、女(をんな)の肉体美(にくたいび)の一番(ばん)善(よ)く表(あらは)れる時(とき)だ。
 全体(ぜんたい)東京(とうきやう)の女(をんな)は、可(か)なりな肉(にく)づきであつても、夏(なつ)は殊(こと)に、何処(どこ)となくすらりとして、桶(をけ)の様(やう)な形(かたち)にならずに、さつぱりと快(こゝろよ)く見(み)えるのが、その特徴(とくちやう)である。
 従(したが)つて、その気立(きだ)てからいつても、負(ま)けぬ気(き)のものとか、又(また)おだやかにあきらめのいゝ──と言(い)つて泣(な)き寝(ね)いりをするのでなく、よく感情(かんじやう)を抑(おさ)へて、おだやかに居(ゐ)るといふ様(やう)な──何方(どちら)にしろ、はつきりとした心(こゝろ)だてのものが多(おほ)い。
 例(たと)へば、如何(いか)に自(みづか)ら思(おも)ひ込(こ)んだ事(こと)でも、親(おや)とか先輩(せんぱい)とかゞ善(よ)く言(い)つて聞(き)かせて、その道理(だうり)が解(わか)れば、フツツリとあきらめて了(しま)ふ。これは、別(べつ)に教育(けういく)によつてさう為(な)るのでない。さういふ風(ふう)に、ものの道理(だうり)の解(わか)りが早(はや)い事(こと)は、何(ど)うも、地方(ちはう)にはあまり見(み)られぬ、東京(とうきやう)の女(をんな)の特徴(とくちよう)であらう。
 それから又(また)、処世(しよせい)の法(はふ)と云(い)ふのを早(はや)くからのみこんで居(ゐ)て、なか/\人(ひと)をそらさないところなど、地方女(ちはうをんな)の一寸(ちよつと)真似(まね)の能(で)きぬ所(ところ)である。
 然(しか)し、これが発達(はつたつ)し過(す)ぎて、却(かへ)つて欠点(けつてん)となつて居(ゐ)る人(ひと)も亦(また)多(おほ)い。さういふ人(ひと)になると、一寸(ちよつと)逢(あ)つた人(ひと)にでも、もう十年(ねん)も知(し)つて居(ゐ)るかのやうに、所謂(いはゆる)お世辞(せじ)をふりまいて、先方(さき)の人(ひと)に却(かへ)つて不快(ふくわい)の感(かん)を生(しやう)じさせるやうなことが往々(まゝ)ある。
 が、東京(とうきやう)の女(をんな)は、話(はな)し相手(あひて)にするのには、善(よ)く理解力(りかいりよく)が発達(はつたつ)して居(ゐ)て、心持(こゝろもち)が好(い)い。
 故(こ)一葉女史(いちえふぢよし)など、その父君(ちゝぎみ)の代(だい)から、東京(とうきやう)に居(を)られたのであるから女史(じよし)は、まづ純粋(じゆんすゐ)の東京人(とうきやうじん)で、殊(こと)に父君(ちゝぎみ)の身分(みぶん)がら、生粋(きつすゐ)の江戸人(えどじん)たちの出入(でいり)が繁(しげ)く、さういふ中(なか)で人(ひと)となつたのであるから、なか/\世間(せけん)知識(ちしき)が広(ひろ)かつた上(うへ)に実(じつ)に話上手(はなしじやうず)で、逢(あ)つて如何(いか)にも心持(こゝろもち)の好(い)い人(ひと)であつた。
 さて、次(つぎ)に、言葉(ことば)から云(い)ふと、田舎(ゐなか)の人(ひと)の弁達(べんたつ)なのは、いたづらに高調子(たかでうし)であるのに過(す)ぎないが、東京(とうきやう)の女(をんな)は、稍(やゝ)カンの勝(か)つた、透(とほ)る澄(す)んだ声(こゑ)で、抑揚(よくやう)のある、話(はな)し振(ぶ)りだ。さういへば、男(をとこ)でも、田舎(ゐなか)の人(ひと)より、東京(とうきやう)の人(ひと)の方(はう)が、さういつた所(ところ)は多(おほ)いのだが、女(をんな)は、殊(こと)に、さういふ所(ところ)が著(いちじる)しく表(あらは)れて居(ゐ)る。すべて、言葉(ことば)には、抑揚(よくやう)があると、殊(こと)にその意味(いみ)が強(つよ)く響(ひゞ)くものだ。
 が、男女(なんによ)を問(と)はず、東京(とうきやう)の上流(じやうりう)の人(ひと)たちは、何(ど)うも調子(てうし)が沈(しづ)み過(す)ぎて居(ゐ)る。如何(いか)にも綺麗(きれい)な言語(ことば)ではあるが、生気(せいき)には乏(とぼ)しい。所謂(いはゆる)生(いき)の好(い)い言語(ことば)は、中流(ちうりう)以下(いか)の言葉(ことば)であらう。調子(てうし)も大分(だいぶ)高(たか)い。
 要(えう)するに、所謂(いはゆる)キリヽとしまつたといふところが、容貌(ようばう)にも、姿勢(しせい)にも、気質(きしつ)にも、あるのが、東京(とうきやう)の女(をんな)の特徴(とくちよう)であり且(かつ)長所(ちやうしよ)であるのだ。



義太夫の話

  一

 僕(ぼく)は少年(こども)の時分(じぶん)から、義太夫(ぎだいふ)を聴(き)くのが好(す)きであつた。慥(たし)か、明治(めいぢ)二十一年(ねん)頃(ごろ)と覚(おぼ)えて居(ゐ)る。姉(あね)が、土佐(とさ)へ旅行(りよかう)したことがあつた。その時(とき)、姉(あね)は、女義太夫(をんなぎだいふ)の弥昇(やしよう)といふのを、旅宿(やど)の座敷(ざしき)に呼(よ)んで、聴(き)いたことがある。弥昇(やしよう)は、その後(ご)間(ま)もなく、竹本稲桝(たけもといねます)の一座(ざ)に加(くは)はつて、上京(じやうきやう)した。僕(ぼく)の家(うち)は、その後(のち)、新橋(しんばし)の日吉町(ひよしちやう)三番地(ばんち)へ引越(ひきこ)したが、姉(あね)に贔屓(ひいき)になつた縁故(えんこ)で、弥昇(やしよう)は、よく僕(ぼく)の家(うち)へも訪(たづ)ねて来(き)た。で、何時(いつ)の間(ま)にか、稲桝(いねます)の一座(ざ)の連中(れんぢう)とも知(し)り合(あ)ひになつたので、僕(ぼく)は、或時(あるとき)は、姉(あね)と一緒(しよ)に、或時(あるとき)は、今(いま)代議士(だいぎし)になつて居(ゐ)る中村啓次郎君(なかむらけいじらうくん)と一緒(しよ)に、日吉町(ひよしちやう)から、ご苦労(くらう)さまにも、下谷(したや)の吹抜(ふきぬき)、両国(りやうごく)の新柳亭(しんりうてい)などへまでも、稲桝(いねます)一座(ざ)のかゝつて居(ゐ)る所(ところ)へ、よく聴(き)きに行(い)つたものだ。さういふ風(ふう)であつたから、無論(むろん)、近所(きんぢよ)の鶴仙(つるせん)や、琴平(ことひら)あたりにかゝつた時(とき)は、殆(ほとん)ど毎晩(まいばん)のやうに出(で)かけた。遂(しまひ)には学校(がくかう)の教科書(けうくわしよ)を携(も)つて、寄席(よせ)に行(い)つて、面白(おもしろ)いところだけ聴(き)いて、他(ほか)は聞(き)かずに、教科書(けうくわしよ)の下読(したよみ)をやつたものだ。ゼボンの論理学(ロジツク)などは、寄席(よせ)で勉強(べんきやう)した所(ところ)の方(はう)が多(おほ)かつたやうに覚(おぼ)えて居(ゐ)る。
 斯様(こん)な風(ふう)に、義太夫(ぎだいふ)道楽(だうらく)が進(すゝ)んで来(き)た果(はて)は、自分(じぶん)でも語(かた)つてみ度(た)くなつて、弥昇(やしよう)が家(うち)へ来(き)た時(とき)に、教(をし)へて呉(く)れと頼(たの)んだ。何(なに)を教(をし)へようと云(い)ふから、何(ど)うせ習(なら)ふ位(くらゐ)なら『三十三間堂(さんじふさんげんだう)』の『平太郎住家(へいたらうすみか)』を習(なら)ひ度(た)いものだと、僕(ぼく)が云(い)ふと、弥昇(やしよう)は、あれは、難(むつか)しいから、お止(よ)しなさい、もつとやさしい物(もの)を教(をし)へませうと云(い)ふのだ。此方(こちら)は、盲滅法(めくらめつぱふ)何(な)んでも彼(か)でも、『三十三間堂(さんじふさんげんだう)』を教(をし)へて呉(く)れと、云(い)ひ張(は)つた。すると、弥昇(やしよう)は、笑(わら)ひだして、では、まアやつてごらんなさい、と云(い)つて、有(あ)り合(あは)せの三味線(しやみせん)を取(と)つて、稽古(けいこ)を附(つ)けに掛(かゝ)つて呉(く)れた。所(ところ)が、やつて見(み)るといふと、第(だい)一、先(ま)づ最初(さいしよ)の『夢(ゆめ)や結(むす)ぶらん・・・・』といふところからして、難(むつか)しくつて到底(とても)駄目(だめ)だ。では、其所(そこ)は抜(ぬ)いて、その次(つぎ)からにしようといふことになつたのだが、此度(こんど)は『妻(つま)は・・・・』で、声(こゑ)が出(で)ない。弥昇(やしよう)は、もつと上(うへ)、もつと上(うへ)と、云(い)ふのだが、僕(ぼく)の声(こゑ)は何時(いつ)までやつても、ちつとも上(うへ)へあがらない。まして、『は‥‥』と声(こゑ)をひつぱつて行(ゆ)く節(ふし)が何(ど)うしても物(もの)にならぬ。何遍(なんべん)やつても同(おん)なじやうに駄目(だめ)なのだ。大(おほ)いに閉口(へいこう)して、『成(な)る程(ほど)聞(き)いて居(ゐ)る方(はう)が、余(よ)つ程(ぽど)楽(らく)だ』と云(い)ふと、『此様(こん)な難(むつか)しい物(もの)は、駄目(だめ)ですよ』と、弥昇(やしよう)に甚(ひど)く笑(わら)はれた。僕(ぼく)は、それ以来(いらい)、義太夫(ぎだいふ)の稽古(けいこ)を為(し)てみようと為(し)たことは無(な)いのだが、時々(とき/゛\)、冗談(じようだん)半分(はんぶん)に稽古(けいこ)を為(し)て見(み)ようかと思(おも)ふことはあるのだ。因(ちな)みに云(い)ふが、ここにいふ弥昇(やしよう)といふのは、今(いま)の竹本東佐(たけもととうすけ)のことだ。
 僕自身(ぼくじしん)の義太夫(ぎだいふ)に関(くわん)する経験(けいけん)ともいふべきものと云(い)へば、先(ま)づ此様(こん)なものだが、これから、批評(ひひやう)とは行(ゆ)かないまでも、今(いま)まで僕(ぼく)が聴(き)いた義太夫(ぎだいふ)語(かたり)に就(つい)て二三の感(かん)じを云(い)はう。
 大阪(おほさか)の隅太夫(すみだいふ)──彼(あ)の盲目(めくら)の隅太夫(すみだいふ)──を、余程(よほど)前(まへ)に聴(き)いたことがある。その時(とき)は、僕(ぼく)が極(ご)く年(とし)の若(わか)い時分(じぶん)であつたので、更(さら)に明(あきら)かな印象(いんしやう)は残(のこ)つて居(ゐ)ないのだが、その時(とき)聴(き)いた『鳴戸(なると)』の奥(おく)の、お鶴(つる)の死骸(しがい)に火(ひ)をかけるあたりからが、非常(ひじやう)に面白(おもしろ)かつたことは今(いま)に忘(わす)れない。
 越路太夫(こしぢだいふ)──今(いま)の摂津大掾(せつつだいじよう)──を初(はじ)めて聴(き)いたのは、明治(めいぢ)二十二年(ねん)頃(ごろ)かと思(おも)ふ。その時分(じぶん)には、『最早(もう)、大分下(だいぶくだ)り坂(ざか)だ』と云(い)はれて居(ゐ)たに拘(かゝは)らず、まだ何(ど)うして、美(うつく)しい声(こゑ)であつた。『先代萩(せんだいはぎ)』の『忠義(ちうぎ)の段(だん)』の『お末(すゑ)の業(わざ)をしがらきや・・・・』といふあたりの節(ふし)廻(まは)しの美(うつく)しかつたことを、今(いま)に忘(わす)れ得(え)ない。殊(こと)に、『心(こゝろ)も清(きよ)き洗米(あらひよね)』に至(いた)つては、何(な)んとも云(い)ひやうのない綺麗(きれい)な節(ふし)廻(まは)しであつた。それから、『二十四孝(にじふしかう)』の『十種香(じゆつしゆかう)』を、実(じつ)に好(い)い心持(こゝろもち)で聞(き)いた。謙信(けんしん)が出(で)てから後(あと)は、それ程(ほど)面白(おもしろ)くなかつたやうに思(おも)ふ。
 その時(とき)に越路(こしぢ)と一緒(しよ)に来(き)た路太夫(みちだいふ)といふのゝ『紙治(かみぢ)』の『茶屋場(ちややば)』を聞(き)いたのだが、会話(くわいわ)が如何(いか)にも写実的(しやじつてき)に語(かた)られて、芝居(しばゐ)を見(み)たつて彼様(あん)な印象(いんしやう)は到底(とても)得(え)られまいと思(おも)はれるまでに、面白(おもしろ)かつた。前後(ぜんご)を通(つう)じて、彼様(あん)な面白(おもしろ)い語(かた)り方(かた)を聞(き)いたことは、一度(ど)も無(な)いやうな気(き)がするのだ。けれども同(おな)じ人(ひと)の『沼津(ぬまづ)』や『引窓(ひきまど)』は、それ程(ほど)面白(おもしろ)かつたとは思(おも)はない。或(あるひ)は、『茶屋場(ちややば)』の曲(きよく)そのものを、僕(ぼく)が面白(おもしろ)く思(おも)つて居(ゐ)た為(た)めかも知(し)れぬ。然(しか)し『茶屋場(ちややば)』が、路太夫(みちだいふ)の最(もつと)も得意(とくい)な語(かた)り物(もの)であつたのでは無(な)からうかとも、僕(ぼく)は思(おも)ふのだ。
 同(おな)じ一座(ざ)のさの太夫(だいふ)といふのは、壮(さかん)な語口(かたりくち)であつたと思(おも)ふ。その男(をとこ)には大(おほ)きい将来(しやうらい)が有(あ)るのだらうと思(おも)つた。彼(あ)の男今(をとこいま)は何(ど)うなつたらうか。
 大阪(おほさか)の文楽座(ぶんらくざ)を見度(みた)いと思(おも)つて居(ゐ)るが、未(ま)だ見(み)る機会(きくわい)を得(え)ないで居(ゐ)る。人(ひと)によると、義太夫(ぎだいふ)も、人形(にんぎやう)にかけたのを、見(み)なければ、真正(ほんたう)の義太夫(ぎだいふ)の味(あぢ)は分(わか)らないのだといふのだ。が、また、折角(せつかく)、善(い)い義太夫(ぎだいふ)を聴(き)いて居(ゐ)るのに、人形(にんぎやう)が邪魔(じやま)になつてならないと、いふものがある。僕(ぼく)には、後者(こうしや)の説(せつ)に一理(り)があるやうに思(おも)ふ。
 義太夫曲(ぎだいふきよく)のうちで、何(なに)が一番好(ばんす)きかと云(い)はれゝば、僕(ぼく)は『恋飛脚(こひびきやく)』の『新口村(にのくちむら)』が、一番(ばん)好(す)きだ。
 
  二
  
 これは、大阪(おほさか)の人(ひと)で、よく義太夫(ぎだいふ)の事(こと)を知(し)つて居(ゐ)る人(ひと)の話(はなし)であるのだが、僕(ぼく)には面白(おもしろ)い話(はなし)だと思(おも)はれるので、知(し)れ渡(わた)つて居(ゐ)る話(はなし)かも知(し)れぬが、左(さ)にその大要(たいえう)を書(か)いて見(み)る。
 義太夫(ぎだいふ)を教(をし)へて、真正(ほんたう)にそれを仕込(しこ)まうとするには、同(おな)じ一段(だん)を何時(いつ)までも教(をし)へるのが宜(い)いといふのだ。ただ無暗(むやみ)に数(かず)だけ上(あ)げても、何(な)んの役(やく)にも立(た)たないものだ。一段(だん)中(ちう)に現(あら)れる人物(じんぶつ)には、老人(らうじん)もあれば、若(わか)いのもある、男(をとこ)もあれば女(をんな)もある。それに性格(せいかく)の違(ちが)つたものも、いろ/\出(で)て来(く)る。さういふものの語(かた)り分(わ)けを、いちいちはつきりやるやうにして、同(おな)じ一段(だん)を繰返(くりかへ)す中(うち)には、その真(しん)の呼吸(こきふ)を覚(おぼ)えて、他(ほか)のものは自(おのづ)と語(かた)ることが能(で)きるやうになるのだ。摂津大掾(せつつだいじよう)が若(わか)い時(とき)に弟子(でし)入(い)りをした師匠(ししやう)が、一年間(ねんかん)も『寺子屋(てらこや)』か何(なに)か一(ひと)つものばかりを摂津(せつつ)に教(をし)へて居(ゐ)た。摂津(せつつ)の家内(うち)のもの等(ら)も流石(さすが)に変(へん)だと思(おも)ひ『家(うち)の児(こ)が何(な)んぼ無器用(ぶきよう)でも何時(いつ)も一(ひと)つものばかりは酷(ひど)い。それは先(ま)づ大抵(たいてい)で上(あげ)げさせて、他(ほか)のものを教(をし)へてやつて呉(く)れ』と、云(い)ひ込(こ)んだ。所(ところ)が、その師匠(ししやう)が『でも、当人(とうにん)が平気(へいき)でやつて居(ゐ)るから宜(よ)いではないか』と、云(い)つたので、それなりになつた、といふ話(はなし)がある。
 僕(ぼく)は其(そ)の道(みち)のものでないから、果(はた)して、義太夫(ぎだいふ)の教授法(けうじゆはふ)はさうなければならないものなのか、何(ど)うなのか、その当否(たうひ)は知(し)らないのだが、それに就(つい)て、甚(はなは)だ面白(おもしろ)い話(はなし)がある。
 何代目(なんだいめ)の長門太夫(ながとだいふ)であつたか、紀州(きしう)の龍門(りうもん)か、何処(どこ)かの、温泉(をんせん)に湯治(たうぢ)に行(い)つて居(ゐ)た。処(ところ)が、毎日(まいにち)、その宿(やど)の前(まへ)を、馬子歌(まごうた)を歌(うた)つて通(とほ)る一人(ひとり)の馬子(まご)があつた。その声(こゑ)が如何(いか)にも美音(びおん)であつた。長門(ながと)は、それに聞(き)き惚(ほ)れて了(しま)つて、或時(あるとき)、その馬子(まご)を自分(じぶん)の室(へや)に呼(よ)び入(い)れた。そして、『お前(まへ)の声(こゑ)は実(じつ)に善(い)い声(こゑ)だ。何(ど)うだ、おれの弟子(でし)にならないか、さうすれば、日本(につぽん)一の太夫(たいふ)にしてやるが』と、云(い)つた。が、馬子(まご)は、『私(わたし)には老年(としより)の母親(はゝおや)がある。それを見送(みおく)らない中(うち)は、何(ど)うしてもこの土地(とち)を離(はな)れる訳(わけ)には行(い)かない。折角(せつかく)だが、貴下(あなた)の弟子(でし)になる訳(わけ)にはいかない。』と、云(い)つて、断(ことわ)つた。それを聞(き)いた長門(ながと)は、甚(ひど)く失望(しつばう)したのだが、為方(しかた)がないから『イヤ、それは道理(もつとも)だ、さういふ訳(わけ)なら、何(なに)も今(いま)に限(かぎ)つた訳(わけ)でない。お母(つか)さんを見送(みおく)つたら、その時(とき)来(き)て呉(く)れ』と云(い)つて、そのうち、自分(じぶん)は大阪(おほさか)へ帰(かへ)つた。
 すると一年(ねん)ばかり経(た)つて、その馬子(まご)が長門(ながと)の許(もと)へやつて来(き)た。『いよいよ、母親(はゝおや)を見送(みおく)つたから、兼(かね)ての約束(やくそく)通(どほ)りに弟子(でし)になりに来(き)た』と云(い)つたので、長門(ながと)は喜(よろこ)んでその男(をとこ)を家(うち)に置(お)いた。
 御承知(ごしようち)の通(とほ)り、芸人(げいにん)の内弟子(うちでし)といふものは、ただ芸(げい)を稽古(けいこ)するばかりではない。いろ/\な労働(らうどう)もすれば、また、家(うち)の雑用(ざつよう)にも使(つか)はれるものだ。この馬子(まご)であつた男(をとこ)も、さういふ習慣(しふくわん)の下(もと)に、義太夫(ぎだいふ)を習(なら)ひ始(はじ)めた。先(ま)づ、一段(だん)の稽古(けいこ)は終(をは)つた。処(ところ)が、始終(しじう)その一段(だん)の稽古(けいこ)ばかりやらせられて居(ゐ)る。三年(ねん)の間(あひだ)、その一段(だん)より他(ほか)一(ひと)つも教(をし)へて呉(く)れ無(な)い。さすがに、その男(をとこ)も考(かんが)へだした。此様(こん)な塩梅(あんばい)では、十段(だん)覚(おぼ)えるのには三十年(ねん)以上(いじやう)かゝる、二十段(だん)覚(おぼ)えるには六十年(ねん)の余(よ)もかゝるのだ。其様(そん)なことでは、到底(とても)、日本(につぽん)一の太夫(たいふ)どころか、普通(なみ)の義太夫(ぎだいふ)語(かた)りにもなれない訳(わけ)だ。斯(か)う思(おも)つたから、或日(あるひ)、長門(ながと)の前(まへ)に出(で)て、義太夫(ぎだいふ)語(かた)りになるのはいやになつた、田舎(ゐなか)に帰(かへ)つて、もと/\通(どほ)り馬子(まご)をし度(た)い、是非(ぜひ)暇(ひま)を呉(く)れと云(い)つた。聞(き)いた長門(ながと)は、ひどく失望(しつばう)して、いろ/\なだめすかして見(み)たけれども、何(ど)うしても帰(かへ)ると云(い)つて聴(き)かない。で、為方(しかた)がないから、幾(いく)らかの旅費(りよひ)をやつて、田舎(ゐなか)へ帰(かへ)すことにした。
 そこで、当人(たうにん)は、大阪(おほさか)から草鞋(わらぢ)がけで、てく/\歩(ある)きだして、泉州(せんしう)岸和田(きしわだ)の近辺(きんぺん)まで来(く)ると、日(ひ)がとつぷり暮(く)れた。あたりに旅屋(やどや)はない。為方(しかた)がないから、その辺(へん)の大(おほ)きい家(うち)へ行(い)つて、旅(たび)のものだが、納屋(なや)の隅(すみ)でも宜(い)いから、泊(と)めて呉(く)れまいかと頼(たの)んだ。所(ところ)が、その家(うち)の者(もの)が云(い)ふには、真(まこと)にお気(き)の毒(どく)であるが今夜(こんや)は少(すこ)し家(うち)に取込(とりこみ)があるからお泊(と)め申(まを)す訳(わけ)にいかないと云(い)つて、気(き)の毒(どく)さうに断(ことわ)られた。けれども、此方(こちら)は、他(ほか)に泊(と)めて貰(もら)へようと思(おも)ふ家(うち)もないのであつたから、また押(お)し返(かへ)して、お取込(とりこみ)は何(ど)ういふことか知(し)ら無(な)いが、別(べつ)に食(た)べるものも頂(いたゞ)かんでも宜(い)い、ただほんとのお納屋(なや)の隅(すみ)で宜(よ)いのだから、一夜(ひとよ)過(すご)すだけの許(ゆるし)を得(え)度(た)いと、折入(をりい)つて頼(たの)んだ。すると、先方(さき)の云(い)ふには、いや、さういふ訳(わけ)なら、お泊(と)め申(まを)しませう。実(じつ)はこの辺(へん)は浄瑠璃(じやうるり)の流行(はや)る土地(とち)で、今夜(こんや)は、家(うち)でその会(くわい)をするところだ、それで、何(ど)うも、お泊(と)め申(まを)しても、何(な)んのお世話(せわ)も能(で)きまいと思(おも)ふからお断(ことわ)りしたのだが、それさえご承知(しようち)なら・・・・と、いふのであつた。聞(き)いた此方(こちら)は、私(わたし)も実(じつ)は浄瑠璃(じやうるり)は好(す)きだ、さう聞(き)いては、台所(だいどころ)の隅(すみ)でなりとも伺(うかゞ)ひ度(た)いと云(い)ふと、先方(さき)でも、それは何(ど)うにかしてお泊(と)め申(まを)すことも能(で)きるし、粗飯(そはん)で宜(よ)ければ差(さ)し上(あ)げることも能(で)きる。ただ混雑(こんざつ)でお気(き)の毒(どく)だと思(おも)つてお断(ことわ)りしたのだ、さういふことならまアお上(あが)りなさいといふことになつた。そこで少(すこ)し待(ま)つて居(ゐ)ると、村(むら)の天狗連(てんぐれん)がだん/\集(あつ)まつた。三味線(しやみせん)を引(ひ)く者(もの)は、大阪(おほさか)で本職(ほんしよく)になりそこねたといふやうな男(をとこ)で、その辺(へん)の師匠(ししやう)をして居(ゐ)る者(もの)であつた。やがて、会(くわい)が始(はじ)まるといふ時(とき)になると、旅(たび)の男(をとこ)は、私(わたし)も義太夫(ぎだいふ)を少(すこ)しやつたことがあるから、今夜(こんや)やつて見度(みた)い、併(しか)し皆(みな)さんにはとても敵(かな)ふまいと思(おも)ふから、私(わたし)が前座(ぜんざ)をやると云(い)ひだした。
 妙(めう)な武骨(ぶこつ)げな、服装(なり)もみすぼらしい男(をとこ)であるから、其様(そん)な男(をとこ)に義太夫(ぎだいふ)が語(かた)れさうにも見(み)えなかつたので、一同(どう)はほんの座興(ざきよう)位(ぐらゐ)にと思(おも)つて、では、おやりなさいと云(い)つて、三味線(しやみせん)引(ひき)の師匠(ししやう)も、迷惑(めいわく)さうな顔(かほ)をして、撥(ばち)を取(と)つた。
 すると、旅(たび)の男(をとこ)は、三年(ねん)かゝつてやつと一段(だん)しきや覚(おぼ)えられないやうな無器用(ぶきよう)な自分(じぶん)だから、田舎(ゐなか)へ帰(かへ)つて、また元(もと)の馬子(まご)になつて了(しま)つて、義太夫(ぎだいふ)のことなどは曖気(おくび)にも出(だ)すまいと思(おも)つて居(ゐ)るのだが、それにしても、一遍(ぺん)は人(ひと)の居(ゐ)る所(ところ)で語(かた)つて見(み)度(た)くもある。所(ところ)で、素人(しろうと)の間(なか)ならば、何(ど)れ程(ほど)下手(へた)でも恥(はぢ)にはなるまいし、而(しか)も、ここは旅(たび)だ、よし、やつてみよう、後(あと)にも前(さき)にもただこれ一遍(ぺん)といふ心算(つもり)で、見台(けんだい)に向(むか)つたのであつた。一二行(ぎやう)語(かた)り出(だ)すと、先(ま)づ三味線(しやみせん)引(ひき)が驚(おどろ)いた。苦(くる)しいことは夥(おびたゞ)しい、やつとのことで、畢生(ひつせい)の力(ちから)を奮(ふる)つて附(つ)いて行(い)つた。やがて語(かた)り終(をは)ると、一座(ざ)感(かん)に堪(た)へて何(な)んとも云(い)ふ人(ひと)がない。さア、これから皆(みな)さんのを伺(うかゞ)ひませうと、その男(をとこ)が云(い)ふと、暫(しばら)く一同(どう)顔(かほ)を見合(みあは)せて居(ゐ)たが、家(いへ)の主(あるじ)が、座(ざ)を進(すゝ)めて云(い)ふのには、貴下(あなた)の浄瑠璃(じやうるり)には、全(まつた)く感服(かんぷく)して了(しま)つた。もう貴下(あなた)のを聞(き)いては、私(わたし)ども誰(だれ)も後(あと)でやらうといふ気(き)になれない。真(しん)に恐(おそ)れ入(い)つた、もう一段(だん)何(なに)か聞(き)かして下(くだ)さらんかと、云(い)つた。馬子(まご)の先生(せんせい)大(おほ)いに閉口(へいこう)した。いや、真(まこと)にお恥(はづか)しい訳(わけ)だが、浄瑠璃(じやうるり)はこれ一段(だん)しきや知(し)らないのだからと、云(い)つて断(ことわ)ると、主人(あるじ)が、貴下(あなた)程(ほど)の上手(じやうず)が、たつた一段(だん)しきや知(し)らぬといふのはあるべきことでない、冗談(じようだん)を云(い)はずに聞(き)かして下(くだ)さいと、頼(たの)んだ。けれども、此方(こちら)では実際(じつさい)一段(だん)しきや知(し)らないのだ、と云(い)ふ。其様(そん)なら、何卒(どうか)、今(いま)のをもう一遍(ぺん)聞(き)かして呉(く)れろといふことになつて、同(おな)じものをもう一遍(ぺん)語(かた)つた。語(かた)りかたの正確(せいかく)なこと、前(まへ)に語(かた)つた時(とき)と、いはゆる符節(ふせつ)を合(あは)すが如(ごと)しで、寸分(すんぶん)違(ちが)はない。それで、一座(ざ)ます/\感服(かんぷく)して、何(ど)うして、貴下(あなた)程(ほど)の上手(じやうず)が、一段(だん)しきや知(し)らないのかと尋(き)かれたので、その男(をとこ)は、実(じつ)は、私(わたし)はこれ/\の仔細(しさい)で長門(ながと)の弟子(でし)になつたのであるが、三年(ねん)経(た)つても一段(だん)あがらない。考(かんが)へて見(み)ると、三年(ねん)に一段(だん)では、十段(だん)覚(おぼ)えるに三十年(ねん)かゝる、今(いま)私(わたし)は二十(はたち)位(ぐらゐ)だから、十段(だん)覚(おぼ)える時分(じぶん)には五十になつて了(しま)ふ。それでは、日本(につぽん)一の太夫(たいふ)どころか、もぐりの義太夫(ぎだいふ)語(かた)りにもなれない訳(わけ)なのだから、もう廃(や)めて、田舎(ゐなか)へ帰(かへ)る心算(つもり)で、此処(こゝ)までやつて来(き)たのだ、と云(い)つた。
 一同(どう)、其(そ)の話(はなし)を聞(き)いて、それは残念(ざんねん)な事(こと)ではないか、長門(ながと)程(ほど)の人(ひと)が貴方(あなた)をさういふ風(ふう)に教(をし)へたのは、何(なに)か考(かんが)へがあつてからの事(こと)に違(ちが)ひない。何(な)んでももう一遍(ぺん)大阪(おほさか)へ行(い)つて辛抱(しんばう)して見(み)てはと、勧(すゝ)めた。いや、真平(まつぴら)御免(ごめん)だ、朝(あさ)から晩(ばん)まで、そこらをふき掃除(さうぢ)したり、湯呑(ゆのみ)に湯(ゆ)を汲(く)むといふことばかりやらせられて、浄瑠璃(じやうるり)は三年(ねん)に一段(だん)といふのでは、とてもやり切(き)れない。私(わたし)は何(な)んでも田舎(ゐなか)へ帰(かへ)ると云(い)つて、聞(き)き入(い)れない。けれども、一座(ざ)の人々(ひと/゛\)は、それは内弟子(うちでし)で、何(な)んでも彼(か)でも、身(み)の廻(まは)りのこと一切(さい)、彼方(むかう)で世話(せわ)になるから、さうなるのであらう。貴下(あなた)の様(やう)な名人(めいじん)が此(こ)のまゝ田舎(ゐなか)に埋(う)もれて了(しま)ふのは、実(じつ)に残念(ざんねん)だ。私(わたし)どもが醵金(きよきん)して、其様(そん)なに苦(くる)しくなく修行(しゆげふ)の能(で)きるやうにしてあげるから、と、云(い)ひだしたので、たうとう納得(なつとく)して、長門(ながと)の処(ところ)へ帰(かへ)つて行(い)つた。
 すると、長門(ながと)は非常(ひじやう)に喜(よろ)んで、お前(まへ)は、慥(たしか)に日本(につぽん)一の太夫(たいふ)になれるとおれが見込(みこ)んで世話(せわ)して居(ゐ)たのに、いやになつて帰(かへ)るといふから、為方(しかた)なしに帰(かへ)したが、残念(ざんねん)で堪(たま)らなかつた。善(よ)く帰(かへ)つて来(き)て呉(く)れた、と云(い)ふので、一層(そう)力(ちから)を入(い)れて、教(をし)へて遣(や)り、初(はじ)め一段(だん)に三年(ねん)もかゝつた事(こと)であるから、後(あと)は何(な)んでもどん/\あがるやうになつて、たうとう非凡(ひぼん)な芸人(げいにん)になつた。長門太夫(ながとだいふ)はその男(をとこ)に網太夫(つなだいふ)といふ名(な)をつけて遣(や)つた。馬子(まご)に因(ちな)んで附(つ)けた名(な)であつたのだ。これが、初代(しよだい)の網太夫(つなだいふ)に就(つい)ての言(い)ひ伝(つた)へだ。
 ところで、又(また)他(ほか)の人(ひと)から聞(き)いたところによると、終(をはり)の方(はう)が違(ちが)つて居(ゐ)る。師匠(ししやう)の処(ところ)から暇(ひま)を貰(もら)つて帰(かへ)る時(とき)、大阪(おほさか)の堺(さかひ)の港(みなと)で船(ふね)に乗(の)つたが、船(ふね)が出(で)ぬ中(うち)に、夜(よる)になつたが、実(じつ)に良(よ)い月夜(つきよ)になつたので、その男(をとこ)は、思(おも)はず、たつた一段(だん)しか知(し)らない義太夫(ぎだいふ)を語(かた)りだした。すると、近辺(きんぺん)にいる船(ふね)の中(なか)で、オー長門(ながと)だといふ声(こゑ)を聞(き)いた。ここで、当人(たうにん)は翻然(ほんぜん)悟(さと)つて、自分(じぶん)から、大阪(おほさか)へ引(ひ)き返(かへ)したといふのだ。何方(どちら)が真実(ほんと)の話(はなし)であるか知(し)らないのだが、僕(ぼく)は、一寸(ちよつと)小説(せうせつ)めいた面白(おもしろ)い話(はなし)だと思(おも)つて、義太夫(ぎだいふ)の話(はなし)が出(で)ると、よく人(ひと)にこの話(はなし)をするのだ。



落 語

  一

 父祖(ふそ)三代(だい)以来(いらい)も東京(とうきやう)に定住(ていぢう)して居(を)られる純東京(じゆんとうきやう)の人々(ひと/゛\)に対(たい)しては、真(まこと)にお気毒(きのどく)なことだが、今(いま)の東京(とうきやう)は、余程(よほど)吾々(われ/\)田舎者(ゐなかもの)に取(と)つて、住(す)み好(い)い土地(とち)になつて来(き)た。風俗(ふうぞく)も、習慣(しふくわん)も、それから、言語(げんご)さへも、吾々(われ/\)田舎者(ゐなかもの)が、そんなに不自由(ふじいう)をせずに済(す)むやうな程度(ていど)にまで変化(へんくわ)して来(き)た。されば、東京(とうきやう)の寄席(よせ)の芸術(げいじゆつ)に対(たい)して、吾々(われ/\)田舎者(ゐなかもの)の方(はう)の感想(かんさう)を述(の)べても、さう甚(ひど)く無遠慮(ぶゑんりよ)にはならないだらう。
 固(もと)より、僕等(ぼくら)のやうな田舎者(ゐなかもの)には、東京(とうきやう)の寄席(よせ)の芸術(げいじゆつ)は、善(よ)くは解(わか)つて居(ゐ)ないかも知(し)れないのだから、僕(ぼく)の感想(かんさう)には、何(なに)か権威(けんゐ)があるものだとして、これを提出(ていしゆつ)するのでは、毛頭(まうとう)ない。唯(た)だ、田舎者(ゐなかもの)の一人(ひとり)である僕(ぼく)には、斯(か)ういふ風(ふう)に思(おも)へるとだけを云(い)ふに過(す)ぎないのだ。
 僕(ぼく)は、度々(たび/\)寄席(よせ)へ行(い)く訳(わけ)ではないのだから、今(いま)の落語家(らくごか)に対(たい)する知識(ちしき)は極(きは)めて狭(せま)い。極(ご)く大略(たいりやく)のことしきや云(い)へない。
 それから、僕(ぼく)は、明治(めいぢ)二十年(ねん)以後(いご)から、この三四年(ねん)前(まへ)までの、落語界(らくごかい)の形勢(けいせい)を殆(ほとん)ど全(まつた)く知(し)らない。それで、今(いま)こゝに、現時(げんじ)の落語界(らくごかい)に対(たい)する感想(かんさう)を述(の)べるに当(あた)つても、その比較(ひかく)に取(と)るのは、明治(めいぢ)十四五年頃(ねんごろ)から精々(せい/゛\)同(どう)二十年頃(ねんごろ)までの落語界(らくごかい)の大勢(たいせい)なのだ。

  二

 現代(げんだい)の落語界(らくごかい)を見渡(みわた)すと、第(だい)一に感(かん)ぜられるのは、人(ひと)の少(すくな)いことである。今(いま)の有様(ありさま)では、中流(ちうりう)どころの者(もの)が居(ゐ)なくなつても、甚(ひど)く寂(さび)れが眼(め)に立(た)つ位(くらゐ)なのだ。
 相当(さうたう)に熟達(じゆくたつ)した位置(ゐち)に至(いた)つた芸人(げいにん)には、大抵(たいてい)の場合(ばあひ)、その芸(げい)に各々(おの/\)特異(とくい)な風格(ふうかく)が備(そな)はるものであつて、その風格(ふうかく)のみから云(い)へば、さういふ風格(ふうかく)を備(そな)へた当(たう)の芸人(げいにん)が居(ゐ)なくなると共(とも)に、さういふ風格(ふうかく)は、芸壇(げいだん)から消(き)え去(さ)つて了(しま)ふのであるから、さういふ方(はう)から云(い)へば、まことに惜(を)しむべきことであるのであるが、同力量(どうりきりやう)の芸人(げいにん)が多(おほ)く同(おな)じ芸壇(げいだん)に居(ゐ)る場合(ばあひ)には、そのうちの一二者(しや)を失(うしな)つたといふことが、必(かなら)ずしも同(おな)じ芸界(げいかい)の絶対的(ぜつたいてき)損失(そんしつ)になるといふ訳(わけ)ではない。けれども、今日(こんにち)の有様(ありさま)では、相当(さうたう)な落語家(らくごか)が、一人居(ひとりゐ)なくなれば、一人分(ひとりぶん)だけの損失(そんしつ)、二人居(ふたりゐ)なくなれば、二人分(ふたりぶん)だけの損失(そんしつ)が、直(たゞ)ちに落語界(らくごかい)全体(ぜんたい)の損失(そんしつ)になつて了(しま)ふのだ。真(まこと)に以(もつ)て、心細(こゝろぼそ)さの限(かぎ)りである。
 先代(せんだい)の円遊(ゑんいう)は、才人(さいじん)ではあつたらうが、落語家(らくごか)として、当時(たうじ)重(おも)きをなして居(ゐ)る人(ひと)では無(な)かつた、落語(らくご)の品格(ひんかく)、伝統(でんとう)を崩(くづ)した人(ひと)であつた。さればと云(い)つて、さう新味(しんみ)な境地(きやうち)を踏(ふ)み開(ひら)いた訳(わけ)ではなかつた。当時(たうじ)では、僕等(ぼくら)は先(ま)づ中流(ちうりう)どころの人(ひと)だと思(おも)つて居(ゐ)た。が、その円遊(ゑんいう)さえ、今(いま)居(ゐ)るのであつたら、第(だい)一流(りう)の大家(たいか)として遇(ぐう)せざるを得(え)なからう。『円遊(ゑんいう)でも惜(を)しいと思(おも)はれる時代(じだい)だから』とは、僕等(ぼくら)の、現代(げんだい)の落語界(らくごかい)のことを思(おも)ふ毎(ごと)に、我(われ)知(し)らず、胸(むね)に出(で)て来(く)る感(かん)なのだ。
 いや、それ所(どころ)ではない。先代(せんだい)の遊三(いうざ)さへ惜(を)しいと思(おも)ふ。元(もと)より、彼様(あゝ)いふわざとらしい話(はな)し振(ぶ)りは、彼(あ)れまでに練(ね)り上(あ)げても、未(ま)だ面白(おもしろ)いとは思(おも)はれなかつたのだが、それにしても、三十年(ねん)程(ほど)の高座(かうざ)の生活(せいくわつ)は、彼(あ)の人(ひと)の芸(げい)にさへ、何等(なんら)かの権威(けんゐ)を生(しやう)ぜしめて居(ゐ)た。彼(あ)の人(ひと)に代(かは)るべき者(もの)さへ、今(いま)の落語界(らくごかい)には、さう多(おほ)くはない。
 況(いはん)や、橘家円喬(たちばなやゑんけう)の死(し)は、現時(げんじ)の落語界(らくごかい)に対(たい)する大打撃(だいだげき)であつた。円喬(ゑんけう)は確(たしか)に近代(きんだい)の名代(めいじん)であつたやうに思(おも)ふ。恐(おそ)らくは、所謂(いはゆる)大円朝(だいゑんてう)と共(とも)に、明治(めいぢ)の演芸史上(えんげいしじやう)に、併記(へいき)さるべき人(ひと)であらう。現時(げんじ)の大家(たいか)、円右(ゑんう)、小(こ)さんに比(ひ)するに、第(だい)一芸(げい)の大(おほ)きさに於(おい)て、遥(はるか)に円喬(ゑんけう)が優(まさ)つて居(ゐ)た。気力(きりよく)に於(おい)て、円喬(ゑんけう)が優(まさ)つて居(ゐ)た。円喬(ゑんけう)は前代(ぜんだい)へ突(つ)き出(だ)しても、第(だい)一流(りう)の上位(じやうゐ)に立(た)ち得(う)べき人(ひと)であつたと思(おも)ふ。
 円生(ゑんしやう)は、円朝(ゑんてう)門下(もんか)の高足(かうそく)であつた。その芸(げい)には強(つよ)みがあり、凄(すご)みのある話(はなし)は、得意(とくい)であつたやうだが、今(いま)の円右(ゑんう)に較(くら)べても、狭(せま)い芸(げい)であつた。晩年(ばんねん)の円喬(ゑんけう)のやうな縦横(じうわう)の芸(げい)ではなかつた。
 団洲楼燕枝(だんしうろうえんし)は、前代(ぜんだい)の大看板(おほかんばん)であつた。けれども、高座(かうざ)度胸(どきよう)の出来(でき)て居(ゐ)る人(ひと)といふのみで、芸(げい)はそれ程(ほど)でなかつたやうに思(おも)ふ。位(くらゐ)は十分(ぶん)に出来(でき)て居(ゐ)たが、話(はなし)は下手(へた)であつた。円喬(ゑんけう)には到底(とても)及(およ)ばなかつたらう。
 断(ことわ)つて置(お)くが、先代(せんだい)燕枝(えんし)だの、先代(せんだい)柳枝(りうし)だのを、下手(へた)だといふのは、余程(よほど)高(たか)い標準(へうじゆん)から云(い)ふのだ。今(いま)の柳派(やなぎは)の大看板連(おほかんばんれん)とは、先代(せんだい)の人々(ひと/゛\)は、下手(へた)は下手(へた)でも、下手(へた)さが違(ちが)ふ。
 円喬(ゑんけう)は、確(たしか)に、落語界(らくごかい)といふ天(てん)に於(お)ける第(だい)一光位(くわうゐ)の星(ほし)であつた。この星(ほし)が落(お)ちてからは、落語界(らくごかい)といふ天(てん)は甚(ひど)く暗(くら)くなつたやうな気(き)がする。
 円喬(ゑんけう)が死(し)んだことを新聞(しんぶん)で見(み)た時(とき)は、何(な)んだか甚(ひど)くがつかりしたやうな気(き)がした。円喬(ゑんけう)が生(い)きて居(ゐ)る時(とき)には、落語(らくご)といふものが面白(おもしろ)いやうな気(き)がして、円喬(ゑんけう)が出(で)ない寄席(よせ)へでも、看板(かんばん)をロク/\見(み)もせずに入(はひ)つた事(こと)もあつたものだが、円喬(ゑんけう)没後(ぼつご)には最早(もう)落語(らくご)もつまらないといふやうな気(き)がして、寄席(よせ)の木戸口(きどぐち)を入(はひ)る気(き)がなくなつた。僕(ぼく)に取(と)つては、円喬(ゑんけう)が落語(らくご)そのものと同(おな)じであるやうな気(き)がしたのだ。
 其様(そん)なら、お前(まへ)は、円喬(ゑんけう)を度々(たび/\)聞(き)いたのかと云(い)はれゝば、さうではない、僕(ぼく)は三四度(ど)聞(き)いた位(くらゐ)であらう、而(しか)も、同(おな)じ女(をんな)の仇討(あだうち)の話(はなし)を、所々(ところ/゛\)飛(と)び/\に聞(き)いたのみなのだ。

  三

 其様(そん)なら、今(いま)の落語家(はなしか)は皆(みな)が皆(みな)駄目(だめ)なのかと云(い)はれゝば、僕(ぼく)は、必(かなら)ずしも、さうではないと答(こた)へる。
 僕(ぼく)は、円右(ゑんう)をば、優(すぐ)れた落語家(はなしか)だと思(おも)ふ。近頃(ちかごろ)の円右(ゑんう)の芸(げい)ならば、前代(ぜんだい)の人々(ひと/゛\)の中(なか)へ突(つ)きだしても、決(けつ)して第(だい)二流(りう)には落(お)ちまい。今(いま)の落語家(はなしか)の中(なか)で、お侍(さむらひ)らしいお侍(さむらひ)を、僕等(ぼくら)の眼前(がんぜん)に髣髴(はうふつ)させ得(う)るもの、円右(ゑんう)を措(お)いては、他(た)に誰(だれ)もあるまい。小(こ)さんのお侍(さむらひ)はどうしても官員(くわんゐん)さんだ。円蔵(ゑんざう)のお侍(さむらひ)も余程(よほど)官員(くわんゐん)さんに近(ちか)い。『巌流島(がんりうじま)』をば、昔(むかし)の事(こと)らしく話(はな)し得(う)るもの、円右(ゑんう)の外(ほか)には、誰(だれ)もなからう。円右(ゑんう)は老年(らうねん)になつて、甚(ひど)く旨(うま)くなつた人(ひと)だ。若(わか)い時分(じぶん)は、それ程(ほど)ではなかつたやうに思(おも)ふ。いや、或(あるひ)はその時分(じぶん)には、他(ほか)に大家(たいか)の多(おほ)い時分(じぶん)であつたので、円右(ゑんう)のまだ若(わか)い芸(げい)などは、それ程眼(ほどめ)に立(た)たなかつたのかも知(し)れない。惜(をし)むらくは、時々(とき/゛\)身振(みぶ)りが多(おほ)過(すぎ)ることがある。話(はなし)は言葉(ことば)が主(しゆ)だ、余(あま)り為方話(しかたばなし)にならぬやうに、工夫(くふう)して貰(もら)ひ度(た)い。
 小(こ)さんの芸(げい)は確(たしか)に新味(しんみ)を帯(お)びて居(ゐ)る。先代(せんだい)の『禽語楼(きんごろう)』と称(しよう)した小(こ)さんは、『殿様(とのさま)の将棋(しやうぎ)』『殿様(とのさま)の蕎麦掻(そばが)き』といふやうな話(はなし)では、古今(ここん)匹儔(ひつちう)を見(み)ないのだが、その他(ほか)の話(はなし)では、そう傑(えら)くはなかつた。のみならず、人(ひと)を笑(わら)はせるには禽語楼(きんごろう)小(こ)さんは、先天的(せんてんてき)優所(いうしよ)を持(も)つて居(ゐ)た。それは、禽語楼(きんごろう)の顔立(かほだち)であつた。この不思議(ふしぎ)な顔(かほ)を見(み)たばかりで、客(きやく)は誰(だれ)でも可笑(をか)しくなるのであつた。が、今(いま)の小(こ)さんは、普通(なみ)の顔(かほ)だ。今(いま)の小(こ)さんの、くすぐらず、訴(うつた)へず、正々堂々(せい/\だう/\)として、話(はなし)を運(はこ)んで行(い)くところは、賞嘆(しやうたん)に値(あた)ひする。『しめ込(こ)み』とか、『粗忽長屋(そこつながや)』とかいふ話(はなし)をあれまで面白(おもしろ)く聞(き)かせる落語家(はなしか)は、前代(ぜんだい)にはなかつたらうと思(おも)ふ。なるべく説明(せつめい)を略(りやく)して行(い)くといふ工夫(くふう)の小(こ)さんにあるのは、その話(はな)し振(ぶ)りで聴客(きやく)の方(はう)では十分(ぶん)に解(かい)し得(え)られる。
 円右(ゑんう)、小(こ)さんの二人(ふたり)の外(ほか)には、円蔵(ゑんざう)を挙(あ)げても宜(よ)からう。が、円蔵(ゑんざう)の芸(げい)は、もう少(すこ)し円熟(ゑんじゆく)させ度(た)い、もう少(すこ)し尖(とが)りを除(のぞ)き度(た)い芸(げい)だ。円右(ゑんう)、小(こ)さんの後(あと)を受(う)けて、前面(ぜんめん)を占(し)め得(う)べきものは、今(いま)のところ、円蔵(ゑんざう)ではなからうか。
 所謂(いはゆる)若手(わかて)では、小(こ)せんは病人(びやうにん)だから、将来(しやうらい)には最早(もう)望(のぞ)みは嘱(しよく)せまいが、むらくは努力(どりよく)さへすれば、可(か)なりな将来(しやうらい)はあると思(おも)ふ。

  四

 人(ひと)に対(たい)する評(ひやう)は先(ま)づ此様(こん)なことにしておいて、落語(らくご)の今昔(こんじやく)といふやうなことを、左(さ)に少(すこ)し書(か)く。
 前代(ぜんだい)の話(はなし)は、説明的(せつめいてき)であつた。即(すなは)ち、地(ぢ)の所(ところ)が対話(たいわ)の間(あひだ)に随分(ずゐぶん)多(おほ)く入(はひ)つたものであつた。今(いま)の話方(はなしかた)は一般(ぱん)に描写的(べうしやてき)になつた。即(すなは)ち、大抵(たいてい)対話(たいわ)ばかりで運(はこ)んで、地(ぢ)の所(ところ)をなるべく少(すくな)くして、やつて行(ゆ)く。今(いま)の小(こ)さんの話(はなし)を聞(き)かれる人(ひと)は、其所(そこ)に一番善(ばんよ)く気(き)が附(つ)かれるだらうし、円喬(ゑんけう)の続(つゞ)き物(もの)には、描写式(べうしやしき)が顕著(けんちよ)に表(あらは)れて居(ゐ)た。
 これは何(ど)の一座(ざ)でも、出演者(しゆつえんしや)の数(すう)が近来(きんらい)では多(おほ)くなつたので、話(はなし)を手短(てみじか)く切(き)り上(あ)げる必要(ひつえう)から、自然(しぜん)とさうなつて来(き)たものなのか何(ど)うか明(あきらか)には知(し)らぬが、何(な)んにしても今(いま)の描写式(べうしやしき)の発展(はつてん)は、話術(わじゆつ)の進歩(しんぽ)だと思(おも)ふ。──併(しか)し、説明式(せつめいしき)の話術(わじゆつ)には全(まつた)く面白味(おもしろみ)がないといふのではない。
 それから落語界(らくごかい)全体(ぜんたい)の趨勢(すうせい)から見(み)ると、話術(わじゆつ)そのものの発達(はつたつ)には大(おほ)いに都合(つがふ)の好(い)い状態(じやうたい)になつて居(ゐ)るかと思(おも)ふ。広(ひろ)く云(い)へば、寄席(よせ)、狭(せま)く云(い)へば、落語(らくご)即(すなは)ち色物(いろもの)に対(たい)する客足(きやくあし)の減少(げんしよう)が、落語家(らくごか)の健闘(けんとう)と自覚(じかく)とを促(うなが)すべき有様(ありさま)に立(た)ち至(いた)つて居(ゐ)る。下町(したまち)は左(と)も右(かく)、山手(やまのて)などでは、落語家(らくごか)はさま/゛\な商敵(しやうてき)と苦戦(くせん)しなければならなかつた。初(はじ)めには、娘義太夫(むすめぎだいふ)、次(つぎ)には浪花節(なにはぶし)、今(いま)は大敵(たいてき)活動写真(くわつどうしやしん)に、客(きやく)を奪(うば)はれて居(ゐ)る。席亭(せきてい)も、落語家(らくごか)も、今日(こんにち)では単(たん)に客(きやく)の好奇心(かうきしん)を煽(あふ)る切(き)りの俗悪(ぞくあく)な新物(しんもの)を加(くは)へる位(ぐらゐ)なことでは、到底(たうてい)外敵(ぐわいてき)と有利(いうり)な戦(たゝかひ)を為(す)ることは能(で)きないといふ所(ところ)に気(き)が附(つ)き、本来(ほんらい)の専門(せんもん)たる話術(わじゆつ)を鞏固(きようこ)に発達(はつたつ)させるより外(ほか)はないと、自覚(じかく)したらしく思(おも)はれるのだ。近頃(ちかごろ)になつて起(おこ)つた、落語研究会(らくごけんきゆうかい)は勿論(もちろん)のこと、有名会(いうめいかい)とか独演会(どくえんくわい)とかいふものの、頻(しき)りに行(おこな)はれるのは、前節(ぜんせつ)で云(い)つた傾向(けいかう)の現徴(げんちよう)と云(い)へよう。
 のみならず、僕(ぼく)の極(ご)く狭(せま)い経験(けいけん)から云(い)へば、此(こ)の頃(ごろ)は、色物(いろもの)の寄席(よせ)に素咄(すばなし)が多(おほ)くなつて来(く)るやうで、十年位前(ねんぐらゐまへ)にはよくあつた芸妓(げいしや)の真似(まね)をする女(をんな)などは、滅多(めつた)に見(み)られなくなつた。
 世間(せけん)には、色物(いろもの)の寄席(よせ)に取(と)つては縁(えん)なき衆生(しゆじやう)である人間(にんげん)が少(すくな)くない。さういふ者(もの)どもを引(ひ)き附(つ)けようとすると、勢(いきほ)ひ無理(むり)な俗悪(ぞくあく)な芸(げい)を加(くは)へなければならぬやうになるのだから、落語家(らくごか)は宜(よろ)しく落語(らくご)そのものに趣味(しゆみ)を持(も)つ人々(ひと/゛\)を相手(あひて)にすることにして、比較的(ひかくてき)少数(せうすう)の客(きやく)に甘(あま)んじて、その客(きやく)だけを握(にぎ)つて放(はな)さぬやうなやり方(かた)で行(い)くより外(ほか)はなからうと思(おも)はれるのだが、落語界(らくごかい)の識者(しきしや)の腹(はら)では、到底(たうてい)お客(きやく)にならぬものをお客(きやく)にしようとするのは却(かへ)つて落語界(らくごかい)瓦解(ぐわかい)の原因(げんいん)だといふ事位(ことぐらゐ)は、気附(きづ)いて居(ゐ)るのではなからうか。
 所(ところ)が、さうなつて来(く)ると、お客(きやく)を始終(しじう)引(ひ)き附(つ)けて置(お)くだけの技倆(ぎりやう)のある芸人(げいにん)の数(かず)が不足(ふそく)して居(ゐ)る。
 けれども、今(いま)人(ひと)を作(つく)らうと云(い)つたところで、さう容易(ようい)に出来(でき)るものではない。それに、もう少(すこ)し、大(おほ)きい芸術(げいじゆつ)だと、少(すこ)しはチヤンとした志願者(しぐわんしや)が出(で)て来(く)るかも知(し)れぬが、何(なに)しろ、日蔭(ひかげ)の芸術(げいじゆつ)であつて見(み)れば、ロクな志願者(しぐわんしや)は先(ま)づ出(で)て来(こ)ないものと見(み)なければならぬ。さうであつて見(み)れば、今(いま)までの連中(れんぢう)だけで、何(ど)うにかやつて行(い)かなければなるまい。今(いま)の所(ところ)、十五日続(にちつゞ)けて打(う)つところを十日(とをか)にするとか、一週間(しうかん)にするとか、成(な)るべく好(い)い芸人(げいにん)を出(だ)し、真打(しんうち)が長(なが)く話(はなし)をするといふやうな方法(はうはふ)より外(ほか)に為方(しかた)がなからう。
  落語(らくご)の形式(けいしき)が古(ふる)いから、もう少(すこ)し改良(かいりやう)して見(み)たら何(ど)うだらうといふ議論(ぎろん)はあることだらうと思(おも)ふが、第(だい)一、その改良(かいりやう)といふことが、一朝(てう)一夕(せき)に行(い)くことではないし、又(また)、少(すこ)し位(ぐらゐ)改良(かいりやう)したところで、元来(ぐわんらい)話(はなし)を聞(き)くといふのは、話(はな)し方(かた)を聞(き)くといふ訳(わけ)のものであるから、さう多勢(おほぜい)客(きやく)が来(く)る気遣(きづかひ)はない。
 その上(うへ)に下手(へた)な改良(かいりやう)などは、まづやらぬ方(はう)が宜(い)い。
 落語(らくご)は今(いま)の若(わか)い東京人(とうきやうじん)の曾祖父(そうそふ)位(ぐらゐ)からの、民衆(みんしう)の智慧(ちゑ)、常識(じやうしき)、伝説(でんせつ)及(およ)び趣味(しゆみ)が知(し)らず識(し)らずの間(あひだ)に鍛(きた)へなした平民芸術(へいみんげいじゆつ)なのだ。何(ど)うして、生学問(なまがくもん)の改良屋(かいりやうや)などの煽動(おだて)に乗(の)つて、滅多(めつた)に所謂(いはゆる)改良(かいりやう)などをやられて堪(たま)るものか。
 僕(ぼく)などには、女郎(ぢよらう)の話(はなし)、博奕(ばくち)の話(はなし)、長屋(ながや)の夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)の話(はなし)、ことごとく結構(けつこう)である。安価(あんか)な教訓談(けうくんだん)や、所謂武士道(いはゆるぶしだう)の講釈(かうしやく)などを、銭(ぜに)を出(だ)して聞(き)くのは、真平(まつぴら)ご免(めん)だ。これからの落語家(らくごか)は、宜(よろ)しく、落語(らくご)が、常識(じやうしき)ならぬ常識(じやうしき)、智慧(ちゑ)ならぬ智慧(ちゑ)を、自然(しぜん)に含(ふく)んで居(ゐ)るのを自覚(じかく)して、今(いま)までの人々(ひと/゛\)がよく団結(だんけつ)して、狭(せま)くとも自己(じこ)の城廓(じやうくわく)に引(ひ)き籠(こも)つて、十分(ぶん)に技(ぎ)を磨(みが)いて、少数人(せうすうじん)に訴(うつた)へる芸人(げいにん)として立(た)つて貰(もら)ひ度(た)いものだ。
 尤(もつと)も、話(はなし)そのものの選択(せんたく)は余程(よほど)よく為(し)なければなるまいと思(おも)ふ。余(あま)り旧式(きうしき)な話(はなし)はなるべくしないやうにしなければなるまい。泥棒(どろぼう)の話(はなし)でも『出来心(できごゝろ)』といふのは、余(あま)り大阪俄(おほさかにはか)染(じ)みた余(あま)りに幼稚(えうち)な話(はなし)である。『しめ込(こ)み』の方(はう)が余程位(よほどくらゐ)が上(うへ)だ。同(おな)じ不自然(ふしぜん)なものでも『釜泥(かまどろ)』の方(はう)が、『出来心(できごゝろ)』より面白(おもしろ)い。



寄席の女

  一

 近頃(ちかごろ)では、寄席(よせ)へ出(で)る女(をんな)で、人気(にんき)の凄(すさ)まじい程(ほど)有(あ)る女(をんな)といふのは聞(き)かぬ。式多津(しきたつ)とか、歌子(うたこ)とかいふのは、少(すこ)しは若(わか)い人(ひと)の噂(うはさ)にはのぼるのではあるが、それを真打(しんうち)にしてやつて見(み)たところで、幾(いく)らも客(きやく)は呼(よ)べまいと思(おも)ふ。
 橘之助(きつのすけ)が真打(しんうち)でやつて行(い)けるのは、長年(ながねん)の功労(こうらう)の結果(けつくわ)といふに過(す)ぎなからう。
 僕(ぼく)の覚(おぼ)えて居(ゐ)るのでは、明治(めいぢ)十五六年(ねん)頃(ごろ)に、寄席(よせ)へ出(で)た岡本宮子(をかもとみやこ)といふのが、非常(ひじやう)な人気(にんき)があつた。最早(もう)その時分(じぶん)二十を幾(いく)つか越(こ)した女(をんな)であつたらう。岡本浄瑠璃(をかもとじやうるり)と云(い)つて、新内(しんない)を語(かた)つて居(ゐ)た。何(いづ)れかといふと、新内(しんない)もシンミリとしない方(はう)の語(かた)り方(かた)のものであつた。謂(い)はば、常盤津(ときはづ)と新内(しんない)との合(あひ)の子(こ)のやうなものであつたやうに思(おも)ふのだ。三味線(しやみせん)は、宮子(みやこ)の母親(はゝおや)だといふ宮浜(みやはま)といふ四十を越(こ)した位(ぐらゐ)に見(み)える女(をんな)が弾(ひ)いて居(ゐ)た。一座(ざ)は、その宮子(みやこ)が真打(しんうち)で、桂才賀(かつらさいが)といふ老人(としより)の落語家(はなしか)と、小蝶(こてふ)とか云(い)つた女(をんな)の手品師(てじなし)などが出(で)た。で、宮子(みやこ)が新内(しんない)を語(かた)つて了(しま)ふと、その小蝶(こてふ)といふのが、又(また)出(で)て来(き)て、宮子(みやこ)と一緒(しよ)になつて、所謂(いはゆる)浮(う)かれ節(ぶし)といふ、どゝ一(いつ)その他(た)の小歌(こうた)を唄(うた)つたり、宮子(みやこ)が立(た)つて、踊(をど)つたりして、うち出(だ)しになるのであつた。
 宮子(みやこ)は、少(すこ)し凸額(でびたひ)ではあつたが、眼(め)の涼(すゞ)しい、なか/\押(お)し出(だ)しの好(い)い顔立(かほだち)の女(をんな)であつた。声(こゑ)も可(か)なりに立(た)つのであつた。この女(をんな)が本郷(ほんがう)の若竹(わかたけ)などへ掛(かゝ)ると、随分(ずゐぶん)入(い)りのあつたものであつた。
 地方(ちはう)から来(き)て居(を)る書生(しよせい)などで、この女(をんな)に焦(こが)れて、可(か)なりの金(かね)を注(つ)ぎ込(こ)み、それでも、目的(もくてき)を達(たつ)し得(え)ずに発狂(はつきやう)して了(しま)つた者(もの)があるといふ話(はなし)であつた。
 宮子(みやこ)は、少(すこ)し人気(にんき)が落(お)ちた時分(じぶん)になつて、禽語楼(きんごろう)小(こ)さんの妻(つま)になつた。小(こ)さんと宮子(みやこ)では大分(だいぶ)年齢(とし)が違(ちが)つていた。小(こ)さんの家内(かない)で居(ゐ)るうちから、左右(とかく)柔順(じうじゆん)でなかつたとかで、小(こ)さんの没後(ぼつご)は、宮子(みやこ)は甚(ひど)く落魄(らくはく)の生活(せいくわつ)を送(おく)つて居(ゐ)たらしかつた。
 最早(もう)十年程(ねんほど)前(まへ)の、或日(あるひ)の新聞(しんぶん)は、宮子(みやこ)が脚気(かつけ)に罹(かゝ)つて、本所(ほんじよ)の何処(どこ)かで行(ゆ)き倒(だふ)れになつて居(ゐ)て、養育院(やういくゐん)へ収容(しうよう)されたといふことを伝(つた)へた。その新聞(しんぶん)には、宮子(みやこ)のそれまでの生活(せいくわつ)が、甚(ひど)く悪(わる)いもののやうに書(か)いてあつた。けれども、ただ、縹緻(きりやう)をのみ頼(たの)みに立(た)つて居(ゐ)た女(をんな)の身(み)だ。当人(たうにん)に口(くち)をきかせたら、さうまで落(お)ち果(は)てるには、当人(たうにん)相応(さうおう)の已(や)み難(がた)い理由(わけ)があつたかも知(し)れない。
 色香(いろか)の栄華(えいぐわ)は、実(げ)にはかないものだ。斯様(こん)な小芸人(せうげいにん)の一生(しやう)の浮沈(ふちん)でも、しみ/゛\哀(あは)れな感(かん)を、吾々(われ/\)の心(こゝろ)に喚(よ)び起(おこ)すのだ。
 この女(をんな)、今(いま)は、最早(もう)生(い)きて居(ゐ)ないかも知(し)れぬ。

  二

 明治(めいぢ)二十年(ねん)以前(いぜん)の寄席(よせ)は、落語(らくご)の世界(せかい)であつて、円朝(ゑんてう)は元(もと)より、円遊(ゑんいう)のステテコなどは、なか/\大勢(おほぜい)の客(きやく)を呼(よ)んだものであつた。
 が、二十二年(ねん)頃(ごろ)からの寄席(よせ)は、所謂(いはゆる)娘義太夫(むすめぎだいふ)なるもので客(きやく)を呼(よ)んだ。
 所(ところ)で、伊東燕尾(いとうえんび)が、妻(つま)の此勝(ししよう)と一緒(しよ)に寄席(よせ)に出(で)た時分(じぶん)から、娘義太夫(むすめぎだいふ)の一座(ざ)は最早(もう)出来(でき)て居(ゐ)たやうであつたが、その全盛期(ぜんせいき)に入(い)り掛(か)けたのは、二十二年(ねん)頃(ごろ)からだと思(おも)ふ。
 竹本綾之助(たけもとあやのすけ)の出現(しゆつげん)は、その時代(じだい)であつた。その時分(じぶん)の綾之助(あやのすけ)は、如何(いか)にも好(い)い声(こゑ)であつた。吾々(われ/\)が初(はじ)めて見(み)た時分(じぶん)には、丁髷(ちよんまげ)に結(ゆ)つて居(ゐ)た。で、男(をとこ)だらうか、女(をんな)だらうか、と、真面目(まじめ)に議論(ぎろん)した人(ひと)もあつた位(くらゐ)であつた。中(なか)には、男(をとこ)だと思(おも)つて、熱心(ねつしん)に聞(き)きに行(い)つて居(ゐ)るうちに、女(をんな)であることが知(し)れて、大(おほ)いに失望(しつばう)したといふ、薩摩(さつま)の書生(しよせい)があつたといふ話(はなし)もあつた。
 綾之助(あやのすけ)のこの頃(ごろ)の芸(げい)は聴(き)かないから知(し)らぬが、昔(むかし)の綾之助(あやのすけ)は、それ程(ほど)上手(じやうず)ではなかつた。ただ声(こゑ)が好(よ)かつただけであつた。
 けれども、その出現(しゆつげん)が、娘義太夫(むすめぎだいふ)興隆(こうりう)の機運(きうん)に乗(じよう)じたものであつたので、年(とし)は若(わか)し、声(こゑ)は綺麗(きれい)だし、顔立(かほだち)も好(い)い方(はう)ではないにしても、悪(わる)い方(はう)ではないのであつたから、綾之助(あやのすけ)の掛(かゝ)る寄席(よせ)は、いつも大入(おほいり)であつた。
 綾之助(あやのすけ)の楽才(がくさい)は、美光(びくわう)ほどなかつたのではなからうか。況(いはん)や呂昇(ろしよう)には遠(とほ)く及(およ)ぶまいと思(おも)ふ。

  三

 綾之助(あやのすけ)の時代(じだい)──即(すなは)ち明治(めいぢ)二十二年(ねん)から、明治(めいぢ)二十五年(ねん)頃(ごろ)まで──をば、娘義太夫(むすめぎだいふ)全盛(ぜんせい)の第(だい)一期(き)とすれば、小清(こせい)の東京(とうきやう)の寄席(よせ)へ現(あらは)れた時分(じぶん)を第(だい)二期(き)としなければなるまい。
 小清(こせい)の語(かた)り物(もの)では、『鰻谷(うなぎだに)』を一番(ばん)面白(おもしろ)いと思(おも)つた。戸川秋骨(とがはしうこつ)君(くん)も僕(ぼく)と一緒(しよ)に小清(こせい)を聴(き)きに行(い)つた。吹抜(ふきぬき)で、小清(こせい)の『野崎村(のざきむら)』を聴(き)いて、『野崎村(のざきむら)』に関(くわん)する感想文(かんさうぶん)を『文学界(ぶんがくかい)』に書(か)いたことがある。僕(ぼく)は、小清(こせい)の三味線(しやみせん)の彼(あ)の低(ひく)い調子(てうし)が好(す)きであつた。
 小清(こせい)の席(せき)には種(たね)の好(い)い、騒(さわ)がしくない客(きやく)が可(か)なりに入(はひ)つて居(ゐ)たやうであつた。
 僕(ぼく)が、小土佐(ことさ)を聴(き)いたのも、その時分(じぶん)であつたと思(おも)ふ。如何(いか)にも引(ひ)き締(しま)つた、好(い)い姿(すがた)であつた。芸(げい)は、堅(かた)い、筋(すぢ)の好(い)い芸(げい)だと思(おも)つて居(ゐ)た。三年程(ねんほど)前(まへ)に、又(また)二三度(ど)聴(き)いたが、なか/\好(い)い語口(かたりくち)になつたと、感服(かんぷく)した。
 瓢(ひさご)が、三福(さんぷく)と云(い)つた時分(じぶん)に、五六回(くわい)聞(き)いた。すらりとした如何(いか)にも好(い)い姿(すがた)であつた。声(こゑ)を張(は)つて出(だ)す時(とき)に、顔(かほ)を横(よこ)へ向(む)ける様子(やうす)が、未(ま)だ眼(め)に残(のこ)つて居(ゐ)る。その時分(じぶん)ですら、語(かた)り振(ぶ)りは渋味(しぶみ)のある方(はう)に属(ぞく)して居(ゐ)たと思(おも)ふ。

  四

 その時分(じぶん)には、寄席(よせ)は、何様(どん)なものが掛(かゝ)つても、可(か)なりの入(い)りが有(あ)つたものだ。が、この頃(ごろ)は、一体(たい)に、何処(どこ)も不入(ふいり)のやうに聞(き)いて居(ゐ)る。吾々(われ/\)、、田舎者(ゐなかもの)が、大手(おほで)を振(ふ)つて歩(ある)ける東京(とうきやう)になつて了(しま)つては、又(また)、お爨(さん)どんさへ三越(みつこし)で買(か)ひ物(もの)をし度(た)がる世(よ)になつては、寄席(よせ)へ出(で)る芸人(げいにん)の多数(たすう)は、時代(じだい)違(ちがひ)の者(もの)になつて、寄席(よせ)は幾(いく)らか前代(ぜんだい)の趣味(しゆみ)を解(かい)する少数(せうすう)の人々(ひと/゛\)の行(ゆ)く娯楽場(ごらくぢやう)になつて了(しま)つたのだ。
 本当(ほんたう)を云(い)ふと、娘義太夫(むすめぎだいふ)の全盛期(ぜんせいき)といふのが、寄席(よせ)の堕落(だらく)の第(だい)一歩(ぽ)であつたのだ。それだのに、今日(こんにち)では、その娘義太夫(むすめぎだいふ)さえ、或(ある)人々(ひと/゛\)に向(むか)つては、高尚(かうしやう)すぎることになつて了(しま)つた。従(したが)つて、娘義太夫(むすめぎだいふ)にも下手(へた)が多(おほ)くなつて居(ゐ)る。
 今(いま)の分(ぶん)では、義太夫(ぎだいふ)も、落語(らくご)も、講釈(かうしやく)も、合併(がつぺい)して了(しま)つて、巧(うま)く興行(こうぎやう)して行(い)くより外(ほか)為方(しかた)がなからう。
 所(ところ)で、今後(こんご)、寄席(よせ)へ、相当(さうたう)の芸(げい)の、好(い)い縹緻(きりやう)の、若(わか)い女(をんな)が出(で)るか、何(ど)うかといふことになると、これは、どうも覚束(おぼつか)ないことだ。
 少(すこ)し渋皮(しぶかは)が剥(む)けて居(ゐ)て、雑誌(ざつし)の拾読(ひろひよ)みでも能(で)きるのであつたら何(な)んの芸(げい)も能(で)きぬ者(もの)でも、明日(あす)から直(す)ぐ女優(ぢういう)といふ有難(ありがた)い芸人(げいにん)になれるのだ。いや、当人(たうにん)の勇気(ゆうき)次第(しだい)でもつと金(かね)になる商売(しやうばい)もあるのだ。
 之(これ)に反(はん)して、寄席(よせ)では、何等(なんら)かの芸(げい)をしなければならない。それには、少(すこ)しは修行(しゆぎよう)が要(い)るのだ。一方(ぱう)に於(おい)て、前記(ぜんき)のやうな、虚栄心(きよえいしん)を満足(まんぞく)させ得(う)べき方(みち)があり、金(かね)の入(はひ)る方(みち)がある以上(いじやう)は、何(なに)を苦(くるし)んでか、そんな修行(しゆぎやう)を為(す)る者(もの)があらう。何(なに)か、特別(とくべつ)の縁故(えんこ)、若(も)しくは、事情(じじやう)のある者(もの)に非(あら)ざる限(かぎ)り、寄席芸人(よせげいにん)になる女(をんな)はなかりそうだ。



講 釈

  一

 講釈(かうしやく)といふものは、事件(じけん)の荒筋(あらすぢ)だけを話(はな)すだけのものになりつゝあるやうだ。
 一席(せき)講談(かうだん)とか、速記(そつき)などが、流行(はや)りだしたが為(た)めに、所謂(いはゆる)無駄(むだ)な所(ところ)を抜(ぬ)くといふ傾向(けいかう)が益々(ます/\)甚(ひど)くなつて、実(じつ)は、講釈(かうしやく)の生命(いのち)である分(ぶん)まで、抜(ぬ)いて了(しま)ふやうになりつつあるやうだ。
 講釈(かうしやく)を本当(ほんたう)に面白(おもしろ)く聴(き)かせやうとするのには、徳川時代(とくがはじだい)の風俗(ふうぞく)、習慣(しふくわん)等(とう)をば可(か)なり詳(くは)しく、話(はなし)の筋(すぢ)の間(あひだ)へ織(お)り込(こ)んで行(い)かなければならぬのだ。さうでなくば、唯(た)だ昔(むかし)あつたと伝(つた)へられて居(ゐ)る事件(じけん)の目録(もくろく)を読(よ)んで聞(き)かされるやうなもので、趣味(しゆみ)あり知識(ちしき)ある聴者(ちやうしや)に取(と)つては、面白(おもしろ)くも何(な)んともないものになつて了(しま)ふのだ。
 古(ふる)い事(こと)は、幾(いく)ら事実(じじつ)を調(しら)べようとしたところで、本当(ほんたう)の事実(じじつ)に到達(たうたつ)することの能(で)きるものではないのだから、講釈(かうしやく)などは、こしらへ事(ごと)を面白(おもしろ)く話(はな)した方(はう)が宜(い)いのだ。が、面白(おもしろ)く聞(き)かせやうといふのには、今(いま)のやうに、話(はなし)の骨組(ほねぐみ)だけ話(はな)すだけのやり方(かた)ではいかぬのだ。事件(じけん)には、色(いろ)を附(つ)け、肉(にく)を附(つ)けていかなければ駄目(だめ)だ。
 引(ひ)き事(ごと)も必要(ひつえう)であらうし、説明(せつめい)も必要(ひつえう)であるのだ。封建時代(ほうけんじだい)の家屋(かをく)、武器(ぶき)、服装(ふくさう)などといふもので、吾々(われ/\)には、滅多(めつた)に見(み)かけられないやうになつたものが、随分多(ずゐぶんおほ)い。今(いま)三十位(ぐらゐ)な人々(ひと/゛\)に至(いた)つては、封建時代(ほうけんじだい)の物(もの)に対(たい)する知識(ちしき)は、吾々(われ/\)より尚(なほ)一層貧弱(そうひんじやく)である。
 講釈(かうしやく)が、今後(こんご)幾分(いくぶん)かでも生(い)き残(のこ)らうとするには、さういふ若(わか)い人々(ひと/゛\)に訴(うつた)へていかなければならぬ。で、さういふ人々(ひと/゛\)のうちの、趣味(しゆみ)の発達(はつたつ)した人々(ひと/゛\)をも、お客(きやく)にして行(い)く心算(つもり)ならば、一見(けん)しては、話(はなし)の筋(すぢ)には直接(ちよくせつ)関係(くわんけい)のないやうな事(こと)でも、その話(はなし)の説明(せつめい)に必要(ひつえう)だとか、その話(はなし)の色(いろ)どりになるとかいふ事(こと)は、面白(おもしろ)く話(はなし)の間(あひだ)へ織(お)り込(こ)んでいかなければいけない。
 例(れい)せば、チョボ一の博奕(ばくち)とは何(ど)ういふものか、博奕打(ばくちうち)同士(どうし)の外交的(ぐわいかうてき)作法(さはふ)とは何(ど)ういふものか、大名屋敷(だいみやうやしき)とは何(ど)ういふものか、江戸城(えどじやう)の間取(まど)りは何(ど)うであつたか、髪結床(かみゆひどこ)は何(ど)ういふ風(ふう)、湯屋(ゆや)は何(ど)ういふ風(ふう)、といふやうに、さま/゛\な事(こと)に就(つい)て描写的(べうしやてき)説明(せつめい)をして行(い)くのが必要(ひつえう)であるのだ。
 六十以上(いじやう)の人(ひと)は、市井(しせい)の風俗(ふうぞく)などは、目撃(もくげき)したのであらうから、さういふ人々(ひと/゛\)には、説明(せつめい)なしでも、宜(よ)かつたらうが、今(いま)の人々(ひと/゛\)の多数(たすう)に対(たい)しては、事件(じけん)の背景(はいけい)を組(く)みあげながら、事件(じけん)を話(はな)さなければ、本当(ほんたう)に分(わか)りもしなければ面白(おもしろ)くもないのだ。
 さういふ謂(い)はば無駄(むだ)をば面白(おもしろ)がらずに、話(はなし)の荒筋(あらすぢ)の運(はこ)びばかりを急(せ)き立(た)てるやうな没趣味(ぼつしゆみ)な客(きやく)ばかりを本位(ほんゐ)にして、やつて行(ゆ)くやうであつたら、講釈(かうしやく)は次第(しだい)に浪花節(なにはぶし)同様(どうやう)の馬鹿々々(ばか/\)しいものになつて、直(ぢ)きに滅(ほろ)びて了(しま)ふに違(ちが)ひない。同(おな)じいかさまの話(はなし)の荒筋(あらすぢ)だけを話(はな)すのであつたら、三味線(しやみせん)が入(はひ)つたり、歌(うた)が入(はひ)つたりする浪花節(なにはぶし)の方(はう)が、講釈(かうしやく)よりも、ずつと多(おほ)く、客(きやく)を呼(よ)び得(う)るに違(ちが)ひないのだ。
 要(えう)するに、講釈(かうしやく)は能(で)きるだけ、緻密(ちみつ)にやるやうにならなければならぬ。
 所(ところ)で、さういふ無駄(むだ)を巧(うま)く話(はな)すことは、前代(ぜんだい)の講釈師(かうしやくし)の方(はう)はやつて居(ゐ)たやうに思(おも)はれる。で、さういふ事(こと)は、今(いま)の年老(としと)つた講釈師(かうしやくし)には、或(ある)程度(ていど)までは能(で)きることでありそうだ。
 が、若(わか)い連中(れんぢう)にそれが能(で)きやうか、それは余程(よほど)覚束(おぼつか)ない。何故(なぜ)だと云(い)ふと、彼等(かれら)は、古(ふる)い事(こと)を知(し)つて居(ゐ)ないからだ。尤(もつと)も、知(し)らないでも、古(ふる)い事(こと)をよく調(しら)べて、そのなかから、何(なに)かよい物(もの)を掴(つか)み出(だ)すまでの識見(しきけん)があれば宜(よ)いのだが、今時(いまどき)、そんな事(こと)の能(で)きる者(もの)が、講釈師(かうしやくし)になつて居(ゐ)る気遣(きづかひ)は先(ま)づ大抵(たいてい)ないものと、云(い)はなければなるまい。
 が、骨(ほね)を折(を)つてやつて見(み)る気(き)のある者(もの)があつたら、全然(ぜんぜん)行(い)かぬといふ訳(わけ)ではあるまい。

  二

 何(いづ)れにしても、講釈(かうしやく)にも種(たね)そのものの選択(せんたく)が必要(ひつえう)だ。話(はな)す方(はう)でも聴(き)く方(はう)でも、余(あま)り特別(とくべつ)の知識(ちしき)を持(も)つて居(ゐ)なければ分(わか)らないといふやうな話(はなし)は、廃(や)めて了(しま)つた方(はう)が宜(よ)からう。
 一例(れい)を云(い)ふと、三十三間堂(さんじふさんげんだう)の通(とほ)し矢(や)の話(はなし)などは、本当(ほんたう)に話(はな)すには通(とほ)し矢(や)のことを調(しら)べた上(うへ)でなければいけないのだ。けれども、それを調(しら)べるには、余程(よほど)手間(てま)がかゝる。何(ど)うも、古書(こしよ)を読(よ)んだだけでは、駄目(だめ)だらうと思(おも)ふ。その上(うへ)に、その調(しら)べが附(つ)いたとしても、弓(ゆみ)の事(こと)を知(し)らない聴(き)き手(て)には、それ程(ほど)面白(おもしろ)いか、何(ど)うだか、分(わか)らない。そして、今(いま)の人(ひと)で、弓(ゆみ)の事(こと)を知(し)つて居(い)る人(ひと)は少(すくな)いのだ。
 通(とほ)し矢(や)は、武士(ぶし)の華(はな)と云(い)はれた程(ほど)のものなので、通(とほ)し矢(や)そのものの光景(くわうけい)を巧(うま)く話(はな)して行(い)けば、それだけで、非常(ひじやう)に面白(おもしろ)い話(はなし)になるのだが、今云(いまい)ふ通(とほ)り、その面白(おもしろ)さは、弓(ゆみ)の事(こと)を知(し)らぬ人(ひと)には、貫徹(くわんてつ)しないものであらうと思(おも)ふ。
 今(いま)の講釈師(かうしやくし)で、星野(ほしの)及(およ)び和佐(わさ)の通(とほ)し矢(や)の話(はなし)を為(す)るのは、通(とほ)し矢(や)とは何(ど)ういふものなのか、大抵(たいてい)は、全然(ぜんぜん)知(し)らずにやつて居(ゐ)るやうに思(おも)はれるのだ。
 或(ある)雑誌(ざつし)で、桃川如燕(もゝかはじよえん)といふ講釈師(かうしやくし)の『三十三間堂誉(さいじふさんげんだうほまれ)の通(とほ)し矢(や)』といふ講釈(かうしやく)の速記(そつき)を読(よ)んだが、これが、事実(じじつ)を大分(だいぶ)間違(まちが)へて居(ゐ)る。
 『この星野(ほしの)が、貞享(ぢやうきやう)二年(ねん)四月(ぐわつ)十五日(にち)朝卯(あさう)の上刻(じやうこく)(今(いま)の午前(ごぜん)六時(じ))より三十三間堂(さんじふさんげんだう)に於(おい)て通(とほ)し矢(や)を致(いた)した、夕(ゆふ)の六時(むつどき)までに矢数(やかず)が八千八百八十八矢・・・・所(ところ)が、和佐園右衛門(わさそのゑもん)は、七千本(ぼん)の通(とほ)し矢(や)を致(いた)しました時(とき)に、日本(にほん)一と云(い)ふ額(がく)を上(あ)げた、今度(こんど)の星野(ほしの)は、八千八百八十八矢(や)であるから‥‥』
 と云(い)つてあるのだが、通(とほ)し矢(や)といふものは射(い)る矢(や)が皆通(みなとほ)る訳(わけ)ではないのだから、唯(た)だ通(とほ)り矢(や)の数(かず)だけ云(い)つたのでは、正確(せいかく)ではない、本当(ほんたう)は総矢数(そうやかず)を挙(あ)げて置(お)くべきである。『玉露叢(ぎよくろさう)』(三十六)には、次(つぎ)の如(ごと)く書(か)いてある。
 寛文(くわんぶん)八年(ねん)五月(ぐわつ)三日(か)
一、徹矢(とほりや)七千七十七 天下(てんか)一
  葛西園右衛門(かさいそのゑもん)
  総数(そうすう) 九千
  同(どう)九年(ねん)五月(ぐわつ)二日(か)
一、同(どう) 八千    天下(てんか)一
  星野勘左衛門(ほしのかんざゑもん)
  総数(そうすう) 一万(まん)五百四十二
 それから、この講釈(かうしやく)では、朝卯(あさう)の上刻(じやうこく)から始(はじ)めて、夕六時(ゆふむつどき)までに、八千八百筋(すぢ)とかを通(とほ)したといふのだが、これは、嘘(うそ)らしい。通(とほ)し矢(や)(大矢数(おほやかず))の時間(じかん)は、前日(ぜんじつ)の暮(くれ)から、翌日(よくじつ)の暮(くれ)まで、一昼(ちう)一夜(や)である。『武用弁略(ぶようべんりやく)』の四、射事(しやじ)の部(ぶ)、矢数(やかず)といふ所(ところ)に、
『‥‥凡矢数(およそやかず)を射(い)る様子(やうす)は、今日(けふ)の暮(くれ)より射初(いはじめ)て、明日(あす)の暮(くれ)に終也(をはるなり)、夜中矢先(やちうやさき)に篝(かゞり)を焼(たく)、扨(さて)総(そう)矢数(やかず)何程(なにほど)の内(うち)、通矢(とほりや)幾何筋(いくばくすぢ)と定也(さだむるなり)、これを大矢数と云(いふ)、日(ひ)の内(うち)許(ばかり)射(い)るを小矢数(こやかず)と呼(よぶ)也(なり)‥‥』
 常識(じやうしき)で考(かんが)へて見(み)ても、十二時間(じかん)位(ぐらゐ)で一万(まん)射(い)ることは殆(ほとん)ど不可能(ふかのう)であらう。五千位(ぐらゐ)の所(ところ)が道理(だうり)に合(あ)つて居(ゐ)ようと思(おも)ふ。
 和左大八郎(わさだいはちらう)の所(ところ)になると、講釈(かうしやく)には、
 『大八郎(だいはちらう)は弓籠手(ゆごて)を附(つ)け、八分(ぶ)の強弓(がうきう)を把(と)つて広場へ出ると、矢(や)は山(やま)の如(ごと)く積重(つみかさ)ねてある‥‥』
 堂弓(だうゆみ)は何分(なんぶ)とは云(い)はぬと思(おも)ふのだが、それは余(あま)り専門的(せんもんてき)なことだがら、勘弁(かんべん)するとして、馬鹿々々(ばか/\)しいのは、この講釈師(かうしやくし)は、通(とほ)し矢(や)といふものは、広場(ひろば)でするものと思(おも)つて居(ゐ)ることである。通(とほ)し矢(や)は、堂(だう)の縁(えん)へあがつて、射(い)るものなのだ。即(すなは)ち、堂(だう)の縁(えん)の小口(こぐち)より小口(こぐち)までの距離(きより)六十四間(けん)一尺(しやく)八寸(すん)六分(ぶ)(玉露叢(ぎよくろさう))の間(あひだ)を矢(や)を通(とほ)すのだ。矢(や)が高(たか)く上(あが)れば、庇裏(ひさしうら)で遮(さへぎ)られて了(しま)ふし、横(よこ)へ外(そ)れゝば、縁(えん)の外(そと)へ出(で)て了(しま)ふか堂(だう)のハメへ当(あた)つて了(しま)ふかなので、是非(ぜひ)とも低(ひく)く、狭(せま)い間(あひだ)を矢(や)を通(とほ)らせるやうに射(い)なければならない。で、堂射(だうい)は難(むづ)かしいのだ。さればこそ、堂弓(だうゆみ)、堂矢(だうや)といふものには、特別(とくべつ)の製作(せいさく)が必要(ひつえう)になる訳(わけ)であるのだ。何(なに)を箆棒(べらぼう)な、野天(のてん)で六十六間矢(けんや)を通(とほ)らせるだけならば、僕(ぼく)にでも訳(わけ)なく能(で)きることなのだ。見(み)て来(き)たやうな嘘(うそ)も、これでは余(あま)り猛烈(まうれつ)だ。ヨタも斯(か)うなれば世話(せわ)はない。

  三

 この講釈師(かうしやくし)などは、通(とほ)し矢(や)は、立(た)つて居(ゐ)て射(い)るものだと思(おも)つて居(ゐ)るのだらう。それから、奥山(おくやま)の大弓場(だいきうば)か何(な)んぞのやうに、筒(つゝ)にでも矢(や)をさして傍(そば)に置(お)いてあつて、それを一本々々(いつぽん/\)取(と)つて射(い)るものだと思(おも)つて居(ゐ)るのだらう。
 通(とほ)し矢(や)は、立(た)つて居(ゐ)て射(い)るのではない。尻(しり)へ小(ちひ)さい台(だい)をかつて胡坐(あぐら)を組(く)むのだ。そして、右(みぎ)の膝(ひざ)へ、矢(や)を、羽(はね)のある方(はう)を上(うへ)にして置(お)くのだ。射放(いはな)すと直(す)ぐ次(つぎ)の矢(や)を膝(ひざ)から掬(すく)ふやうにして取(と)り上(あ)げるのだ。この矢(や)は、矢(や)を当(あて)がう役(やく)の者(もの)があつて、それが、射手(いて)の膝(ひざ)へ一本々々(いつぽん/\)置(お)いてやるのだ。その矢(や)を置(お)く役(やく)が大切(たいせつ)な役(やく)なので、これは、射手(いて)の師匠(ししやう)なり、先輩(せんぱい)なりが、勤(つと)めるのだ。軽(かる)い、苦(く)もなく通(とほ)る矢(や)ばかり当(あ)てがふと射手(いて)が余(あま)り勢(いきほひ)附(づ)き過(す)ぎて、直(ぢ)きに力(ちから)を消耗(せうかう)して了(しま)ふので、さういふ時(とき)には、重(おも)い矢(や)を当(あて)がつて、通(とほ)らない矢(や)が出来(でき)るやうにさせて、射手(いて)をして、落著(おちつ)かせ、射前(いまへ)を引締(ひきし)めさせるのだ。矢当(やあて)がいの役(やく)は、射手(いて)の調節掛(てうせつがゝ)りなのだ。後見(こうけん)なのだ。
 それから、的前(まとまへ)──普通(なみ)の射場(いば)の時(とき)──では、片肌(かたはだ)を脱(ぬ)ぐきりなのだが、堂(だう)の時(とき)には、両肌(りやうはだ)を脱(ぬ)ぐのだ。腹(はら)へは白木綿(しろもめん)を巻(ま)くやうに聞(き)いて居(ゐ)る。髻(もとゞり)は始(はじめ)から断(き)つて了(しま)ふか、何(ど)うだか、知(し)らぬが、大童(おほわらは)で射(い)て居(ゐ)る画(ゑ)を何処(どこ)かで見(み)たやうな気(き)がする。
 僕(ぼく)も、此(これ)位(くらゐ)なことなら知(し)つて居(ゐ)るが、余(あま)り詳(くは)しい事(こと)は知(し)らない。尤(もつと)も、書物(しよもつ)から引(ひ)き出(だ)すだけなら、未(ま)だ材料(ざいれう)は尽(つ)きはしない。
 で、通(とほ)し矢(や)の始(はじ)め、沿革(えんかく)、天下(てんか)一の姓名(せいめい)、弓矢(ゆみや)、その他(ほか)の道具(だうぐ)の説明(せつめい)などは、措(お)くことにして、星野勘左衛門(ほしのかんざゑもん)及(およ)び和佐大八郎(わさだいはちらう)の事蹟(じせき)に関(くわん)する旧記(きうき)を左(さ)に抄出(せうしゆつ)する。

 『矢数(やかず)の事(こと)、濫觴(らんしやう)は浅岡平兵衛(あさをかへいべゑ)と云士(いふし)、慶長(けいちやう)十一年(ねん)、落(らく)の三十三間堂(さんじふさんげんだう)において、其(その)弓勢(ゆんぜい)試初(こゝろみはじめ)しより、相続(あひつゞ)いて是(これ)を励(はげ)み試(こゝろ)む事(こと)に成(な)りて、昼夜矢数(ちうややかず)と云(い)ふ事始(ことはじま)り、其(その)辺(へん)の達者(たつしや)、追々(おひ/\)に先輩(せんぱい)の通(とほ)り矢(や)を射越(いこし)て、是(これ)を総(そう)一と号(がう)す、世(よ)の諺(ことわざ)には、弓(ゆみ)の天下(てんか)と呼(よぶ)、慶長(けいちやう)より六十余年(よねん)を経(へ)て、寛文(くわんぶん)の比(ころ)、吉井助之丞(よしゐすけのじよう)、長屋六左衛門(ながやろくざゑもん)、杉山三右衛門(すぎやまさんゑもん)、高山八右衛門(たかやまはちゑもん)、吉見台右衛門(よしみだいゑもん)杯(など)、其(その)世(よ)の精兵(せいびやう)、互(たがひ)に総(そう)一をいどみ諍(あらそ)ふ、爰(こゝ)に尾州(びしう)の家土(かし)、星野勘左衛門(ほしのかんざゑもん)、寛文(くわんぶん)二年(ねん)に六千六百余(よ)の通矢(とほりや)を射(い)て総(そう)一をとる処(ところ)に同(どう)八年(ねん)、紀州(きしう)の家士(かし)葛西園右衛門(かさいそのゑもん)と云(いふ)者(もの)、通(とほ)り矢(や)七千余(よ)を以(もつ)て、総(そう)一を紀州(きしう)の方(かた)へ取返(とりかへ)す、星野(ほしの)聞之(これをきい)て、此(この)度(たび)は国元(くにもと)より八千の幟(はた)を染(そめ)させて持参(ぢさん)し、寛文(くわんぶん)九年(ねん)五月(ぐわつ)朔日(ついたち)暮前(くれまへ)より射(い)かけ、翌(よく)二日(か)午刻(うまのこく)迄(まで)に、通矢(とほりや)八千本(ぼん)を、望之通(のぞみのとほり)容易(たやす)く射上(いあげ)ぬ、猶(なほ)も射(い)るべき余慶(よけい)あれども、左(さ)のみ射越(いこし)なば後日(ごじつ)他士(たし)の望(のぞみ)を失(うしな)ふべし、然(さ)れば弓道(きうだう)の衰微(すゐび)に似(に)たりと、爰(こゝ)に止(とゞま)りぬこそ寔(まこと)に英雄(えいゆう)の志(こゝろざし)なれ、斯(かく)て星野(ほしの)は矢数(やかず)終(をはり)て、右(みぎ)の届(とゞけ)として京都所司代(きやうとしよしだい)町奉行(まちぶぎやう)へ騎馬(きば)にて勤廻(つとめまは)り、其(その)馬(うま)を南頭(なんとう)に振向(ふりむけ)て直(す)ぐに島原(しまばら)の遊里(いうり)に赴(おもむ)き、夜(よ)と倶(とも)に妓婦(ぎふ)に戯(たはむ)れ酒(さけ)を酌(く)む、其(その)活気(くわつき)宛(あたか)も平日(へいじつ)の如(ごと)し、見聞人(みきくひと)美談(びだん)せずと云(いふ)事(こと)なし、然(しか)してより拾余年(よねん)之(の)間(あひだ)は、総(そう)一尾州(びしう)の方(かた)に止(とゞま)り有(あり)しを、貞享(ぢやうきやう)の比(ころ)に至(いたり)、紀州家士(きしうかし)和佐大八(わさだいはち)頻(しきり)に是(これ)を望(のぞみ)稽古(けいこ)に身(み)を委(ゆだ)ねて竟(つひ)に貞享(ぢやうきやう)四年(ねん)四月(ぐわつ)十六日(にち)、昼夜(ちうや)矢数(やかず)を張行(ちやうかう)し、総矢数(そうやかず)一万(まん)三千余(よ)、通矢(とほりや)八千百三十三筋(すぢ)の榜(ふだ)を掲(かゝ)ぐ。
  説(せつ)に曰(いはく)、此時(このとき)大八郎(だいはちらう)、十八九歳(さい)、未(まだ)角前髪(つのまへがみ)の大兵(だいひやう)にて力(ちから)衆人(しうじん)に越(こえ)て強勢(がうせい)也(なり)、しかるに当日(たうじつ)射掛(いかゝ)り矢振(やぶ)りあしく、通(とほ)り矢(や)甚(はなは)だ少(すくな)し、斯(かく)ては願望(ぐわんまう)空(むな)しからんと、各(おの/\)堅唾(かたづ)を飲(のむ)処(ところ)に、尾州(びしう)の桟敷(さじき)に、星野勘左衛門(ほしのかんざゑもん)見物(けんぶつ)して有(あり)しが、倩(つら/\)見(み)て思(おもひ)けるは、あたら若者(わかもの)、何(なに)とぞ願望(ぐわんまう)を遂(とげ)させ、弓(ゆみ)の総(そう)一を譲(ゆづ)らばやとおもひ、色々(いろ/\)工夫(くふう)して大八(だいはち)を招(まね)き左(ひだり)の手(て)を開(ひら)かせ、小刀(せうたう)を以(もて)掌内(てのうち)を突破(つきやぶ)り、血(ち)を留(と)めさせ、其後(そのご)射(い)させけるに、夫(それ)より忽(たちまち)拍子(ひやうし)直(なほ)りて、竟(つひ)に八千余(よ)の通(とほ)り矢(や)と成(な)りぬ、星野(ほしの)が工夫(くふう)凡慮(ぼんりよ)の及(およ)ぶ処(ところ)に非(あら)ず、此(この)星野(ほしの)永(なが)く世(よ)にあらば、また/\総(そう)一を射(いる)べきに惜(をし)いかな、夫(それ)より程(ほど)なく星野(ほしの)世(よ)を去(さ)りぬれば、其後(そのご)も度々(たび/\)大矢数(おほやかず)張行(ちやうかう)の人(ひと)は有(あれ)ども、是(これ)を射越(いこ)す程(ほど)の精兵(せいひやう)なし、其比(そのころ)迄(まで)は、総(そう)一他家(たけ)にはなく、尾州(びしう)紀州(きしう)の御両家(ごりやうけ)より、互(たがひ)に競諍(きそひあらそ)へて是(これ)を取返(とりかへ)し、又(また)取返(とりかへ)され、此(この)励(はげ)み専(もつぱ)ら成(なり)けるが、大八(だいはち)已後(いご)は其(その)沙汰(さた)止(やみ)て、年(とし)久敷(ひさしく)成(なり)ぬ、其後(そののち)柳沢家(やなぎさはけ)、権勢(けんせい)熾(さか)ん成(なり)し比(ころ)、右家中(みぎかちう)米田新八(よねだしんはち)(後に伴内)と云者(いふもの)、是(これ)を望(のぞみ)、数度(すうど)大矢数(おほやかず)を企(くはだて)しか共(ども)、竟(つひ)に本意(ほんい)を不遂(とげず)、明和(めいわ)の今(いま)に至(いたる)まで、暦数(れきすう)八十余年(よねん)の間(あひだ)、総(そう)一は紀州之御家(きしうのおいへ)に残(のこ)る、此(この)和佐大八(わさだいはち)は、尤(もつとも)総(そう)一を射(い)たりといヘども、其術(そのじゆつ)星野(ほしの)とは雲泥(うんでい)の違(ちが)ひ也(なり)、星野(ほしの)は其(その)態度(たいど)寛優(くわんいう)に余慶(よけい)有(あつ)て、●(タケカンムリ+「冊」)引(かゞりびき)には、良(やゝ)久(ひさ)しく熟睡(じゆくすゐ)して鋭気(えいき)を養(やしな)ふ、諸人(しよにん)是(これ)を見(み)て、斯(かく)ては時(とき)移(うつ)り望(のぞみ)を失(うしなは)むと、各(おの/\)取々(とり/゛\)に評(ひやう)する処(ところ)に、起上(おきあが)りて射出(いだ)す所(ところ)の矢勢(やせい)、疾風(しつぷう)の如(ごと)く、其矢(そのや)悉(こと/゛\)く闇(やみ)の所(ところ)を抜(ぬけ)て、落矢(おちや)は稀(まれ)にも無(なか)りしとや、斯(か)くして本文(ほんもん)の如(ごと)く、午時(うまのこく)に至(いたる)程(ほど)に射上(いあ)げけるとなん、其(その)世(よ)の翁(おきな)の語(かた)りし、是(これ)に反(はん)して、和佐(わさ)の矢(や)には振込(ふりこみ)多(おほ)く寔(まこと)の通(とほ)り矢(や)は少(すく)なかりしとぞ、是(これ)堂見(だうみ)の方(かた)へ賄賂(わいろ)する故(ゆゑ)なりと悪説(あくせつ)せり、其上(そのうへ)末(すゑ)に至(いたる)程(ほど)、次第(しだい)に射前(いまへ)をにじり出(で)て、堂檐(だうえん)の半(なか)ばにて射(い)たりとて其比(そのころ)評判(ひやうばん)悪(わる)しと也(なり)、実(げに)に射前(いまへ)を動出(うごきで)るは、通(とほ)り矢(や)の差別(さべつ)、大(おほい)に違(ちが)ふ事(こと)なれば、悪(にく)みけるも理(ことわ)り也(なり)、去(さ)る仍(より)り、和佐(わさ)以来(いらい)、射前(いまへ)に証拠木(しようこぎ)と号(がう)して、関貫(くわんぬき)を入(い)れ、不作法(ぶさはふ)を制止(せいし)す』翁草(をきなぐさ)、二。

 が、この和佐大八(わさだいはち)の事(こと)は、『大江俊光記(おほえとしみつき)』に依(よ)ると次(つぎ)のやうである。

 『貞享(ぢやうきやう)三年(ねん)四月(ぐわつ)二十六日(にち)、夕飯後(ゆふはんご)出京(しゆつきやう)、三十三間堂(さんじふさんげんだう)に而(て)、赤塚土佐(あかつかとさ)に逢(あふ)今夕(こんせき)より吉見大右衛門(よしみだいゑもん)弟子(でし)和佐大八(わさだいはち)(紀州家来、二十二歳)大矢数(おほやかず)、因(よつて)土佐縁堂(とさえんだう)の西(にし)、日(ひ)をゝい下(した)に而(て)見物(けんぶつ)、暮六(くれむ)つより射出(いだす)、尤(もつとも)かゞり焼(たき)候(さふらふ)也(なり)、大八(だいはち)射出之作法(いだしのさはふ)とて、別(べつ)成(なる)義(ぎ)も無之(これなく)、袴(はかま)肩衣(かたぎぬ)も不著(つけず)、白衣(びやくえ)に而(て)、射出(いだ)す前(まへ)つる〆(しめ)、僧(そう)ざいをふり上(あ)げ、声(こゑ)を上(あ)げて次(ついで)いだす也(なり)、通(とほ)り六七分也(ぶなり)、初夜前(しよやぜん)帰(かへり)了(をはる)、二十七日(初矢数也)和佐大八(わさだいはち)、申下刻(さるげこく)、矢数(やかず)日本(にほん)一に成(なる)、通矢(とほりや)八千百三十三筋(すぢ)、総矢数(そうやかず)一万(まん)三千余(よ)、今迄(いままで)の日本(にほん)一は、尾州家来(びしうけらいほしの)勘左衛門(かんざゑもん)也(なり)、通矢(とほりや)八千八筋(すぢ)』

 因(ちな)みに云(い)ふが、僕(ぼく)が見(み)た記録(きろく)のうちでは、一番近(ちか)い且(か)つ一番(ばん)詳(くは)しい大矢数(おほやかず)の記録(きろく)は、江戸(えど)深川(ふかがは)の三十三間堂(さかじふさんげんだう)の大矢数(おほやかず)に関(くわん)するものなのだ。それに依(よ)ると同所(どうしよ)で文化(ぶんくわ)十四年(ねん)四月(ぐわつ)十五日(にち)に尾張家(をはりけ)の臣(しん)杉立信吉(すぎたてしんきち)(藤原正俊(ふぢはらのまさとし))二十二歳(さい)といふのが、総矢(そうや)九千百五十九本(ほん)、通矢(とほりや)五千三百六十八本(ほん)、夕(ゆふ)七(なゝ)つ時前(どきまへ)射越(いこし)、其後(そのご)百射(い)、通矢(とほりや)五十九本(ほん)といふので江戸(えど)一を取(と)つて居(ゐ)る。当日(たうじつ)の役割(やくわり)は矢宛行には、右(みぎ)信吉(しんきち)の父(ちゝ)、権七郎(ごんしちらう)(藤原正邑(ふぢはらのまさむら))と、太田甚太夫(おほたじんだいふ)とが当(あた)り、総目附は山本半左衛門(やまもとはんざゑもん)、射前世話●(タケカンムリ+「冊」)奉行兼は細井主税(ほそゐちから)外(ほか)二人(にん)、矢吟味は加藤鎌吉(かとうかまきち)外(ほか)一人(にん)、分附は鈴木珊輔(すゞきさんすけ)外(ほか)五人(にん)、射手支度掛りは、長尾勝之助(ながをかつのすけ)、水野内蔵(みづのうちざう)(町医師(まちいし))外(ほか)一人(にん)、櫓目附は、宇野七郎(うのしちらう)外(ほか)六人(にん)、味方扇は小倉鍵一郎(をぐらけんいちらう)外(ほか)十六人(にん)、矢見目附海野太郎左衛門(うんのたらうざゑもん)外(ほか)一人(にん)、矢見は細井藤八(ほそゐとうはち)外(ほか)四人(にん)といふことになつて居(ゐ)る。
 まだその外(ほか)に、嘉永(かえい)五年(ねん)三月(ぐわつ)二十日(か)に、酒井雅楽頭(さかゐうたのかみ)内(うち)、鶴田辰太郎(つるたたつたらう)といふのは、総矢(そうや)一万(まん)四十五本(ほん)、通矢(とほりや)五千三百八十三本(ぼん)で、右(みぎ)杉立信吉(すぎたてしんきち)をば三十六年目(ねんめ)で射越(いこ)したとあるのだ。
 所(ところ)が、『武用弁略(ぶようべんりやく)』に載(の)つて居(を)る所(ところ)の京都(きやうと)の三十三間堂(さんじふさんげんだう)の役掛(やくがゝ)りの名称(めいしよう)等(とう)は、前記(ぜんき)の分(ぶん)とは大分(だいぶ)違(ちが)つて居(ゐ)る。即(すなは)ち『矢先(やさき)の芝(しば)に、人(ひと)多(おほ)く再拝(さいはい)を振(ふ)つて、矢(や)の飛毎(とぶごと)に声(こゑ)を立(た)つる、これを芝旄(しばさい)と云(いふ)、射前(いまへ)にも七八人居(ゐ)て矢(や)を発(はなつ)度(たび)毎(ごと)に、旄(さい)を挙(あげ)て声(こゑ)を掛(かく)る、是(これ)を送声(おくりごゑ)共(とも)、送旄(おくりさい)共(とも)云(いふ)なり、又(また)堂見(どうみ)とて六人(にん)あり、是(これ)は、今(いま)の世(よ)に弓(ゆみ)の流義(りうぎ)六派(ぱ)あり、一派(ぱ)に一人(ひとり)宛(づゝ)なれば也(なり)、何(いづれ)も矢細工(やざいく)弦細工(つるざいく)等(とう)の職人(しよくにん)也(なり)、其(その)日(ひ)の射手(いて)の流義(りうぎ)に因(よつ)て、同派(どうは)の堂見(だうみ)一人(にん)、外(ほか)の派(は)より一人(にん)、凡(およそ)二人(にん)相並(あひならん)で旄(さい)を振(ふる)、是(これ)を一の旄(さい)二の旄(さい)と云(いふ)、同派(どうは)の者(もの)は、一つ旄(さい)を振(ふら)ず、若(もし)射手(いて)に贔屓(ひいき)の義(ぎ)も有(あ)るべきかとの憚(はゞかり)なり、然共(しかれども)其(そ)の日(ひ)の司(つかさ)と成(なり)て通(とほり)を見定(みさだ)む、外(ほか)に又(また)検見(けんみ)と云(いひ)て、松井三河(まつゐみかは)と云(いふ)者(もの)あり、右(みぎ)の堂見(だうみ)六人(にん)、通矢(とほりや)何程(なにほど)と記(しる)せる帳面(ちやうめん)に判形(はんぎやう)をして、その証拠(そのしようこ)と成(なる)役人(やくにん)也(なり)、されば右(みぎ)に云(いふ)六派(ぱ)とは、吉田印西(よしだいんざい)(俗名助左衛門)、同(おなじく)雪荷(せつか)(六左衛門)、同(おなじく)大蔵(おほくら)、木村寿徳(きむらじゆとく)、伴道雪(ばんだうせつ)(喜左衛門)、石堂竹林(いしだうちくりん)、此(この)六流(りう)也(なり)、是皆(これみな)共(とも)に日置(へき)の一流(りう)より分(わかれ)たり、根本(こんぽん)の日置(へき)の某(それがし)は大和(やまと)の国(くに)の士(し)たりと也、日置弾正正次(へきだんじやうまさつぐ)なんど云(い)ひしは、実(じつ)に弓(ゆみ)の名達(めいたつ)也(なり)』『張前(ちやうまへ)と云(いふ)事(こと)あり、譬(たとへ)ば一二本(ほん)の通矢(とほりや)にても札(ふだ)に記(しるし)て、其(その)射手(いて)の名(な)を書(かき)、堂上(だうじやう)に懸(かくる)也(なり)、是(これ)も松井三河(まつゐみかは)が検見(けんみ)せざれば慥(たしか)ならず』

明治の東京(終)



(奥付)
明治の東京
  定価弐円弐拾銭
出文協承認
ア340178号
昭和十七年十二月二十日
第二刷三〇〇〇部発行

印刷日 昭和十七年五月十五日
発行日 昭和十七年五月二十日
         三、〇〇〇部
著者  馬場孤蝶
発行者 湯川龍造
    東京市麹町区丸の内二の二
印刷者 堀 修造
    東京市牛込区榎町七
配給元 日本出版配給株式会社
    東京市神田区淡路町二の九
発行所 中央公論社
    東京市麹町九丸の内二丁目
    丸の内ビルデイング五八八区
    振替東京三四番電話丸の内五三五−八