太平記(国民文庫)
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『太平記 全』(国民文庫刊行会) (流布版本) 翻刻
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2001.06.07 荒山
太平記 目録(国民文庫)
太平記 序
巻第一
後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事
関所停止事
立后事付三位殿御局事
儲王御事
中宮御産御祈事付俊基偽篭居事
無礼講事付玄慧文談事
頼員回忠事
資朝俊基関東下向事付御告文事
巻第二
南都北嶺行幸事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
三人僧徒関東下向事
俊基朝臣再関東下向事
長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
俊基被誅事並助光事
天下怪異事
師賢登山事付唐崎浜合戦事
持明院殿御幸六波羅事
主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事
巻第三
主上御夢事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍事
桜山四郎入道自害事
巻第四
笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事
八歳宮御歌事
一宮並妙法院二品親王御事
俊明極参内事
中宮御歎事
先帝遷幸事
備後三郎高徳事付呉越軍事
巻第五
持明院殿御即位事
宣房卿二君奉公事
中堂新常燈消事
相摸入道弄田楽並闘犬事
時政参篭榎島事
大塔宮熊野落事
巻第六
民部卿三位局御夢想事
楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
正成天王寺未来記披見事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦事付人見本間抜懸事
巻第七
吉野城軍事
千剣破城軍事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀叛事
先帝船上臨幸事
船上合戦事
巻第八
摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
三月十二日合戦事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
山徒寄京都事
四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
谷堂炎上事
巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻事付久我畷合戦事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻事
主上々皇御沈落事
越後守仲時已下自害事
主上々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事
千葉屋城寄手敗北事
巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見事
鎌倉合戦事
赤橋相摸守自害事付本間自害事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
大仏貞直並金沢貞将討死事
信忍自害事
塩田父子自害事
塩飽入道自害事
安東入道自害事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
長崎高重期合戦事
高時並一門以下於東勝寺自害事
巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸事付新田注進事
正成参兵庫事付還幸事
筑紫合戦事
長門探題降参事
越前牛原地頭自害事
越中守護自害事付怨霊事
金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事
巻第十二
公家一統政道事
大内裏造営事付聖廟御事
安鎮国家法事付諸大将恩賞事
千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事
広有射怪鳥事
神泉苑事
兵部卿親王流刑事付驪姫事
巻第十三
竜馬進奏事
藤房卿遁世事
北山殿謀叛事
中前代蜂起事
兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
足利殿東国下向事付時行滅亡事
巻第十四
新田足利確執奏状事
節度使下向事
矢矧鷺坂手超河原闘事
箱根竹下合戦事
官軍引退箱根事
諸国朝敵蜂起事
将軍御進発大渡山崎等合戦事
主上都落事付勅使河原自害事
長年帰洛事付内裏炎上事
将軍入洛事付親光討死事
坂本御皇居並御願書事
巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢著坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊島河原合戦事
主上自山門還幸事
賀茂神主改補事
巻第十六
将軍筑紫御開事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事
多々良浜合戦事付高駿河守引例事
西国蜂起官軍進発事
新田左中将被責赤松事
児島三郎熊山挙旗事付船坂合戦事
将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事
備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経島合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵事
正成首送故郷事
巻第十七
山攻事付日吉神託事
京都両度軍事
山門牒送南都事
(隆資卿自八幡被寄事)
義貞軍事付長年討死事
江州軍事
自山門還幸事
立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事
瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
十六騎勢入金崎事
金崎船遊事付白魚入船事
金崎城攻事付野中八郎事
巻第十八
先帝潜幸芳野事
高野与根来不和事
瓜生挙旗事
越前府軍並金崎後攻事
瓜生判官老母事付程嬰杵臼事
金崎城落事
春宮還御事付一宮御息所事
比叡山開闢事
巻第十九
光厳院殿重祚御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠事
諸国宮方蜂起事
相摸次郎時行勅免事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事
追奥勢跡道々合戦事
青野原軍事付嚢沙背水事
巻第二十
黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
越後勢越々前事
宸筆勅書被下於義貞事
義貞牒山門同返牒事
八幡炎上事
義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事
義貞夢想事付諸葛孔明事
義貞馬属強事
義貞自害事
義助重集敗軍事
義貞首懸獄門事付勾当内侍事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事
巻第二十一
天下時勢粧事
佐渡判官入道流刑事
法勝寺塔炎上事
先帝崩御事
南帝受禅事
任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
塩冶判官讒死事
巻第二十二
畑六郎左衛門事
義助被参芳野事並隆資卿物語事
佐々木信胤成宮方事
義助予州下向事
義助朝臣病死事付鞆軍事
大館左馬助討死事付篠塚勇力事
巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事
巻第二十四
朝儀年中行事事
天竜寺建立事
依山門嗷訴公卿僉議事
天竜寺供養事付大仏供養事
三宅荻野謀叛事付壬生地蔵事
巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞妖怪事
宮方怨霊会六本杉事付医師評定事
藤井寺合戦事
自伊勢進宝剣事付黄梁夢事
住吉合戦事
巻第二十六
正行参吉野事
四条縄手合戦事付上山討死事
楠正行最後事
芳野炎上事
賀名生皇居事
執事兄弟奢侈事
上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
妙吉侍者事付秦始皇帝事
直冬西国下向事
巻第二十七
天下妖怪事付清水寺炎上事
田楽事付長講見物事
雲景未来記事
左兵衛督欲誅師直事
御所囲事
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事
上杉畠山流罪死刑事
大嘗会事
巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀叛事
直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事
錦小路殿落南方事
自持明院殿被成院宣事
慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事
巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦事付師直怪異事
小清水合戦事付瑞夢事
松岡城周章事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者事
巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去事付殷紂王事
直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事
薩多山合戦事
慧源禅門逝去事
吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事
巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦事
鎌倉合戦事
笛吹峠軍事
八幡合戦事付官軍夜討事
南帝八幡御退失事
巻第三十二
茨宮御位事
無剣璽御即位無例事
山名右衛門左為敵事付武蔵将監自害事
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
山名伊豆守時氏京落事
直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
直冬上洛事付鬼丸鬼切事
神南合戦事
巻第三十三
京軍事
八幡御託宣事
三上皇自芳野御出事
飢人投身事
公家武家栄枯易地事
将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事
巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事
畠山道誓上洛事
和田楠軍評定事付諸卿分散事
新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
紀州竜門山軍事
二度紀伊国軍事付住吉楠折事
銀嵩軍事付曹娥精衛事
竜泉寺軍事
平石城軍事付和田夜討事
吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事
巻第三十五
新将軍帰洛事付擬討仁木義長事
京勢重南方発向事付仁木没落事
南方蜂起事付畠山関東下向事
北野通夜物語事付青砥左衛門事
尾張小河東池田事
巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏叛逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事
巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事
巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍事
太元軍事
巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事
神木入洛事付洛中変異事
諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
神木御帰座事
高麗人来朝事
自太元攻日本事
神功皇后攻新羅給事
光厳院禅定法皇行脚御事
法皇御葬礼事
巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時及闘諍事
将軍薨逝事
細河右馬頭自西国上洛事
目録 終
太平記巻第一
序
蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
○後醍醐天皇(ごだいごのてんわう)御治世(ごぢせいの)事付(つけたり)武家(ぶけ)繁昌(はんじやうの)事 S0101
爰(ここ)に本朝人皇(にんわう)の始(はじめ)、神武天皇(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て、武臣(ぶしん)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時と云(いふ)者あり。此(この)時上(かみ)乖君之徳、下(しも)失臣之礼。従之四海大(おほき)に乱(みだれ)て、一日も未安(いまだやすからず)。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)動地、至今四十余年。一人(いちにんとして)而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦(げんりやく)年中に鎌倉の右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)、追討平家而有其功之時、後白河(ごしらかはの)院(ゐん)叡感之余(あまり)に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始(はじめ)て諸国に守護(しゆご)を立(たて)、庄園に地頭(ぢとう)を置(おく)。彼(かの)頼朝の長男左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)、次男右大臣実朝公(さねともこう)、相続(あひつい)で皆征夷将軍の武将に備(そなは)る。是(これ)を号三代将軍。然(しかる)を頼家(よりいへの)卿は為実朝討れ、実朝は頼家(よりいへ)の子為悪禅師公暁討れて、父子(ふし)三代僅(わづか)に四十二年にして而尽(つき)ぬ。其後(そののち)頼朝卿の舅(しうと)、遠江守(とほたふみのかみ)平(たひらの)時政(ときまさの)子息、前陸奥守(さきのむつのかみ)義時、自然に執天下権柄勢漸(やうやく)欲覆四海。此(この)時の大上天皇(だじやうてんわう)は、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)也。武威振下、朝憲(てうけん)廃上事歎思召(なげきおぼしめし)て、義時を亡さんとし給(たまひ)しに、承久の乱出来(いできたつ)て、天下暫(しばらく)も静(しづか)ならず。遂に旌旗(せいき)日に掠(かすめ)て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦(そのたたかひ)未終一日、官軍忽(たちまち)に敗北せしかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)は隠岐国(おきのくに)へ遷(うつ)されさせ給(たまひ)て、義時弥(いよいよ)八荒(はつくわう)を掌(たなごころ)に握る。其(それ)より後(のち)武蔵守(むさしのかみ)泰時(やすとき)・修理亮(しゆりのすけ)時氏(ときうぢ)・武蔵守(むさしのかみ)経時(つねとき)・相摸守(さがみのかみ)時頼・左馬権頭(さまのごんのかみ)時宗・相摸守(さがみのかみ)貞時、相続(あひつい)で七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足(たれ)り、威万人(まんにん)の上に被(かうむる)といへ共(ども)、位(くらゐ)四品(しほん)の際(あひだ)を不越、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を責(せめ)て礼義を正(ただ)す。是(ここ)を以て高しと云(いへ)ども危(あやふ)からず、盈(みて)りと云(いへ)ども溢れず。承久より以来(このかた)、儲王摂家(ちよわうせつけ)の間(あひだ)に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当(あひあた)り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉(まをしくだしたてまつつ)て、征夷将軍と仰(あふい)で、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。同(おなじき)三年に、始(はじめ)て洛中に両人の一族を居(すゑ)て、両六波羅(ろくはら)と号して、西国(さいこく)の沙汰を執行(とりおこなは)せ、京都の警衛に備(そなへ)らる。又永仁(えいにん)元年より、鎮西(ちんぜい)に一人の探題(たんだい)を下(くだ)し、九州の成敗(せいばい)を司(つかさどら)しめ、異賊襲来の守(まもり)を堅(かたう)す。されば一天下、普(あまねく)彼下知(かのげぢ)に不随と云(いふ)処もなく、四海の外(ほか)も、均(ひとし)く其(その)権勢に服せずと云(いふ)者は無(なか)りけり。朝陽(てうやう)不犯ども、残星(ざんせい)光(ひかり)を奪(うばは)る、習(ならひ)なれば、必(かならず)しも、武家より公家(くげ)を蔑(ないがしろに)し奉(たてまつる)としもは無(なけ)れども、所(ところ)には地頭(ぢとう)強(つよう)して、領家(りやうけ)は弱(よわく)、国には守護(しゆご)重(おもう)して、国司(こくし)は軽(かろし)。此(この)故に朝廷は年々(としどし)に衰(おとろへ)、武家は日々(ひび)に盛(さかん)也。因茲代々(だいだい)の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を休(やす)めんが為、近くは朝議の陵廃(りようはい)を歎き思食(おぼしめし)て、東夷(とうい)を亡さばやと、常に叡慮を回(めぐら)されしかども、或(あるひ)は勢(いきほひ)微(び)にして不叶、或は時未到(いまだいたらず)して、黙止(もくしし)給ひける処に、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さきの)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時入道崇鑒(たかときにふだうそうかん)が代(よ)に至(いたつ)て、天地命(めい)を革(あらた)むべき危機云(ここに)顕(あらは)れたり。倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て今を視(みる)に、行跡(かうせき)甚(はなはだ)軽(かろく)して人の嘲(あざけり)を不顧、政道不正して民の弊(つひえ)を不思、唯(ただ)日夜に逸遊(いついう)を事として、前烈(ぜんれつ)を地下(ちか)に羞(はづか)しめ、朝暮(てうぼ)に奇物(きもつ)を翫(もてあそび)て、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす。衛(ゑい)の懿公(いこう)が鶴を乗(の)せし楽(たのしみ)早(はや)尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽(ひき)し恨(うらみ)今に来(きたり)なんとす。見(みる)人眉を顰(ひそ)め、聴(きく)人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す。此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを、相摸守(さがみのかみ)が計(はからひ)として、御年三十一の時、御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉る。御在位(ございゐ)之間(あひだ)、内(うち)には三綱(さんかう)五常(ごじやう)の儀を正(ただしう)して、周公孔子の道に順(したがひ)、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし)の政(まつりごと)不怠給、延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。凡(およそ)諸道の廃(すたれ)たるを興し、一事(いちじ)の善(ぜん)をも被賞しかば、寺社禅律(じしやぜんりつ)の繁昌(はんじやう)、爰(ここ)に時を得、顕密儒道(けんみつじゆだう)の碩才(せきさい)も、皆望(のぞみ)を達せり。誠に天に受(うけ)たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其(その)徳を称じ、其化(そのくわ)に誇らぬ者は無(なか)りけり。
○関所(せきところ)停止(ちやうじの)事 S0102
夫(それ)四境(しきやう)七道の関所(せきところ)は、国(くに)の大禁(たいきん)を知(しら)しめ、時の非常を誡(いましめ)んが為也。然(しかる)に今壟断(ろうだん)の利に依(よつ)て、商売(しやうばい)往来(わうらい)の弊(つひえ)、年貢(ねんぐ)運送の煩(わづらひ)ありとて、大津(おほつ)・葛葉(くずは)の外(ほか)は、悉(ことごと)く所々の新関(しんせき)を止(やめ)らる。又元亨(げんかう)元年の夏、大旱(たいかん)地を枯(からし)て、田服(てんぶく)の外(ほか)百里(ひやくり)の間(あひだ)、空(むなし)く赤土(せきど)のみ有(あつ)て、青苗(せいべう)無し。餓■(がへう)野(や)に満(みち)て、飢人(きにん)地に倒る。此(この)年銭(ぜに)三百を以て、粟(あは)一斗を買(かふ)。君遥(はるか)に天下の飢饉を聞召(きこしめし)て、朕不徳あらば、天予(われ)一人(いちじん)を罪(つみ)すべし。黎民(れいみん)何の咎(とが)有(あり)てか、此災(このわざはひ)に逢(あへ)ると、自(みづから)帝徳(ていとく)の天に背ける事を歎き思召(おぼしめし)て、朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を止(やめ)られて、飢人窮民(きにんきゆうみん)の施行(せぎやう)に引(ひか)れけるこそ難有けれ。是(これ)も猶万民(ばんみん)の飢(うゑ)を助くべきに非ずとて、検非違使(けびゐし)の別当に仰(おほせ)て、当時富祐(ふいう)の輩(ともがら)が、利倍(りばい)の為に畜積(たくはへつめ)る米穀(べいこく)を点検(てんけん)して、二条町(にでうまち)に仮屋(かりや)を建(たて)られ、検使(けんし)自(みづから)断(ことわつ)て、直(あたひ)を定(さだめ)て売(うら)せらる。されば商買(しやうばい)共(とも)に利を得て、人皆九年(きうねん)の畜(たくはへ)有(ある)が如し。訴訟の人出来(しゆつたい)の時、若(もし)下情(しものじやう)上(かみ)に達(たつ)せざる事もやあらんとて、記録所(きろくところ)へ出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、直(ぢき)に訴(うつたへ)を聞召明(きこしめしあきら)め、理非(りひ)を決断(けつだん)せられしかば、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)忽(たちまち)に停(とどまつ)て、刑鞭(けいべん)も朽(くち)はて、諌鼓(かんこ)も撃(うつ)人無(なか)りけり。誠に理世安民(りせいあんみん)の政(まつりごと)、若(もし)機巧(きかう)に付(つい)て是(これ)を見(みれ)ば、命世(めいせい)亜聖(あせい)の才とも称じつべし。惟(ただ)恨(うらむ)らくは斉桓(せいかん)覇(は)を行(おこなひ)、楚人(そひと)弓を遺(わすれ)しに、叡慮少(すこし)き似たる事を。是(これ)則(すなはち)所以草創雖合一天守文不越三載也。
○立后(りつこうの)事付三位殿御局(さんみどのおんつぼねの)事 S0103
文保(ぶんぼう)二年八月三日、後西園寺大政大臣(のちのさいをんじのだいじやうだいじん)実兼公(さねかぬこう)の御女(おんむすめ)、后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなはつ)て、弘徽殿(こうきでん)に入(いら)せ給ふ。此家(このいへ)に女御(にようご)を立(たて)られたる事已(すで)に五代、是(これ)も承久以後、相摸守代々(だいだい)西園寺の家を尊崇(そんそう)せしかば、一家の繁昌恰(あたかも)天下の耳目(じぼく)を驚(おどろか)せり。君も関東の聞へ可然と思食(おぼしめし)て、取分(とりわけ)立后(りつこう)の御沙汰も有(あり)けるにや。御齢(おんよはひ)已に二八(じはち)にして、金鶏障(きんけいしやう)の下(もと)に傅(かしづか)れて、玉楼殿(ぎよくろうでん)の内に入給(いりたま)へば、夭桃(えうたう)の春を傷(いため)る粧(よそほ)ひ、垂柳(すゐりう)の風を含(ふくめ)る御形(おんかたち)、毛■(まうしやう)・西施(せいし)も面(おもて)を恥(はぢ)、絳樹(がうじゆ)・青琴(せいきん)も鏡を掩(おほ)ふ程なれば、君の御覚(おんおぼえ)も定(さだめ)て類(たぐひ)あらじと覚へしに、君恩(くんおん)葉(は)よりも薄かりしかば、一生(いつしやう)空(むなし)く玉顔(ぎよくがん)に近(ちかづ)かせ給はず。深宮(しんきゆう)の中(うち)に向(むかつ)て、春の日の暮難(くれかた)き事を歎き、秋の夜(よ)の長恨(ながきうらみ)に沈ませ給ふ。金屋(きんをく)に人無(なう)して、皎々(かうかう)たる残燈(のこんのともしび)の壁(かべ)に背ける影、薫篭(くんろう)に香(か)消(きえ)て、蕭々(せうせう)たる暗雨(よるのあめ)の窓を打声(うつこゑ)、物毎(ごと)に皆御泪(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書(かき)たりしも、理(ことわり)也と覚(おぼえ)たり。其比(そのころ)安野(あのの)中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。只殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独(ひとり)能(よく)是(ぜ)を致(いたす)のみに非(あら)ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだつ)て、奇(き)を争(あらそひ)しかば、花(はな)の下(もと)の春の遊(あそび)、月の前(まへ)の秋の宴(えんにも)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席(せき)を専(ほしいまま)にし給ふ。是(これ)より君王(くんわう)朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨(せんじ)を下(くだ)されしかば、人(ひと)皆(みな)皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚(おどろき)見る、光彩(くわうさい)の始(はじめ)て門戸(もんこ)に生(な)ることを。此(この)時天の人、男(なん)を生(う)む事を軽(かろん)じて、女(ぢよ)を生む事を重(おもん)ぜり。されば御前(おんまへ)の評定(ひやうぢやう)、雑訴(ざつそ)の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(ごこうじゆ)とだに云(いひ)てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞(しやう)を与(あたへ)、奉行(ぶぎやう)も理(り)有(ある)を非(ひ)とせり。関雎(くわんしよ)は楽而(たのしんで)不淫、哀而(かなしんで)不傷。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱(らん)今に有(あり)ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共(ども)也。
○儲王(ちよわうの)御事(おんこと) S0104
螽斯(しゆうし)の化(くわ)行(おこなは)れて、皇后元妃(げんひ)の外(ほか)、君恩に誇る官女(くわんぢよ)、甚(はなはだ)多かりければ、宮々(みやみや)次第に御誕生(ごたんじやう)有(あつ)て、十六人までぞ御座(おはしま)しける。中(なか)にも第一(だいいちの)宮尊良親王(そんりやうしんわう)は、御子左(みこひだりの)大納言為世(ためよの)卿(きやうの)女(むすめ)、贈従三位(ぞうじゆざんみ)為子(ためこ)の御腹(おんはら)にて御坐(おはせ)しを、吉田(よしだの)内大臣定房公(さだふさこう)養君(やうくん)にし奉(たてまつり)しかば、志学(しがく)の歳(とし)の始(はじめ)より、六義(りくぎ)の道(みち)に長じさせ給へり。されば富緒河(とみのをがは)の清き流(ながれ)を汲(くみ)、浅香山(あさかやま)の故(ふる)き跡を蹈(ふん)で、嘯風弄月(せうふうろうげつ)に御心(こころ)を傷(いたまし)め給ふ。第二(だいにの)宮も同御腹(おなじきおんはら)にてぞ御坐(おはしま)しける。総角(あげまき)の御時(おんとき)より妙法院の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を受(うけ)させ給ふ。是(これ)も瑜伽三密(ゆがさんみつ)の間(あひだ)には、歌道(かだう)数奇(すき)の御翫(おんもてあそび)有(あり)しかば、高祖大師(かうそだいし)の旧業(きうげふ)にも不恥、慈鎮和尚(じちんくわしやう)の風雅にも越(こえ)たり。第三(だいさんの)宮は民部卿(みんぶきやう)三位殿(さんみどの)の御腹(おんはら)也。御幼稚(ごえうち)の時より、利根聡明(りこんそうめい)に御坐(おは)せしかば、君(きみ)御位(おんくらゐ)をば此宮(このみや)に社(こそ)と思食(おぼしめ)したりしかども、御治世(ごぢせい)は大覚寺殿(だいかくじどの)と持明院殿(ぢみやうゐんどの)と、代々(かはるがはる)持(もた)せ給(たまふ)べしと、後嵯峨院(ごさがのゐん)の御時(おんとき)より被定しかば、今度(こんど)の春宮(とうぐう)をば持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御方(おんかた)に立進(たてまゐら)せらる。天下(てんか)の事(こと)小大(なに)となく、関東の計(はからひ)として、叡慮にも任(まかせ)られざりしかば、御元服(げんぶく)の義を改(あらため)られ、梨本(なしもと)の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、承鎮親王(じようちんしんわう)の御門弟(もんてい)と成(なら)せ給ひて、一(いつ)を聞(きい)て十(じふ)を悟(さと)る御器量(きりやう)、世に又類(たぐひ)も無(なか)りしかば、一実円頓(いちじつゑんどん)の花匂(はなのにほひ)を、荊渓(けいけい)の風に薫(くん)じ、三諦即是(さんたいそくぜ)の月の光を、玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)に浸(ひた)せり。されば消(きえ)なんとする法燈(ほつとう)を挑(かか)げ、絶(たえ)なんとする恵命(ゑみやう)を継(つが)んこと、只此門主(このもんしゆ)の御時(おんとき)なるべしと、一山(いつさん)掌(たなごころ)を合(あは)せて悦(よろこび)、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶけ)て仰(あふぎ)奉る。第四の宮も同(おなじき)御腹にてぞをはしける。是(これ)は聖護院二品親王(しやうごゐんにほんしんわう)の御附弟(ふてい)にてをはせしかば、法水(ほつすゐ)を三井(みゐ)の流(ながれ)に汲(くみ)、記■(きべつ)を慈尊(じそん)の暁(あかつき)に期(ご)し給ふ。此外(このほか)儲君(ちよくん)儲王の選(えらび)、竹苑椒庭(ちくゑんせうてい)の備(そなへ)、誠に王業(わうげふ)再興の運(うん)、福祚(ふくそ)長久(ちやうきうの)基(もとゐ)、時を得たりとぞ見へたりける。
○中宮御産(ちゆうぐうごさん)御祈(おんいのり)之事付俊基(としもと)偽(いつはつて)篭居(ろうきよの)事 S0105
元亨(げんかう)二年の春の比(ころ)より、中宮懐姙(くわいにん)の御祈(おんいのり)とて、諸寺(しよじ)・諸山(しよさん)の貴僧・高僧に仰(おほせ)て様々(さまざま)の大法(だいほふ)・秘法を行はせらる。中にも法勝寺(ほつしようじ)の円観上人(ゑんくわんしやうにん)、小野文観僧正(をののもんくわんそうじやう)二人は、別勅(べつちよく)を承(うけ)て、金闕(きんけつ)に壇を構(かまへ)、玉体(ぎよくたい)に近(ちかづ)き奉(たてまつつ)て、肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法・一宿(いつしゆく)五反孔雀経(ごへんくじやくきやう)・七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじやうくわう)・烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子(へんじやうなんし)の法・五大虚空蔵(こくうざう)・六観音・六字訶臨(ろくじかりん)、訶利帝母(かりていも)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんみやう)、金剛童子(こんがうどうじ)の法、護摩(ごまの)煙は内苑(だいゑん)に満(みち)、振鈴(しんれい)の声(おと)は掖殿(えきでん)に響(ひびき)て、何(いか)なる悪魔怨霊(をんりやう)なりとも、障碍(しやうげ)を難成とぞ見へたりける。加様(かやう)に功を積(つみ)、日を重(かさね)て、御祈(おんいのり)の精誠(せいぜい)を尽(つく)されけれども、三年まで曾(かつ)て御産(ごさん)の御事(おんこと)は無(なか)りけり。後(のち)に子細(しさい)を尋(たづぬ)れば、関東調伏(てうぶく)の為に、事を中宮の御産(ごさん)に寄(よせ)て、加様(かやう)に秘法を修(しゆ)せられけると也。是(これ)程の重事(ちようじ)を思食立(おぼしめしたつ)事なれば、諸臣の異見をも窺(うかが)ひ度(たく)思召(おぼしめし)けれども、事多聞(たぶん)に及ばゝ、武家に漏れ聞(きこゆ)る事や有(あら)んと、憚(はばか)り思召(おぼしめさ)れける間(あひだ)、深慮智化(しんりよちくわ)の老臣、近侍(きんじ)の人々にも仰合(おほせあはせ)らるゝ事もなし。只日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・平(へい)宰相(さいしやう)成輔計(なりすけばかり)に、潛(ひそか)に仰合(おほせあはせ)られて、さりぬべき兵(つはもの)を召(めされ)けるに、錦織(にしこり)の判官代(はんぐわんだい)、足助(あすけの)次郎重成(しげなり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(しゆと)、少々勅定(ちよくぢやう)に応じてげり。彼(かの)俊基は累葉(るゐえふ)の儒業を継(つい)で、才学(さいかく)優長成(なり)しかば、顕職(けんしよく)に召仕(めしつかは)れて、官蘭台(らんたい)に至り、職(しよく)々事(しきじ)を司(つかさど)れり。然る間出仕(しゆつし)事繁(ことしげう)して、籌策(ちうさく)に隙(ひま)無(なか)りければ、何(いか)にもして暫(しばらく)篭居して、謀叛(むほん)の計畧を回(めぐら)さんと思(おもひ)ける処に、山門横川(よかは)の衆徒(しゆと)、款状(くわじやう)を捧(ささげ)て、禁庭に訴(うつたふ)る事あり。俊基彼(かの)奏状を披(ひらい)て読申(よみまうさ)れけるが、読誤(よみあやま)りたる体(てい)にて、楞厳院(れうごんゐん)を慢厳院(まんごんゐん)とぞ読(よみ)たりける。座中の諸卿(しよきやう)是(これ)を聞(きい)て目を合(あはせ)て、「相(さう)の字をば、篇(へん)に付(つけ)ても作(つくり)に付(つけ)ても、もくとこそ読(よむ)べかりける。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)てぞ笑はれける。俊基大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(きしよく)にて、面(おもて)を赤(あかめ)て退出す。夫(それ)より恥辱に逢(あひ)て、篭居すと披露(ひろう)して、半年計(ばかり)出仕を止(やめ)、山臥(やまぶし)の形に身を易(かへ)て、大和(やまと)・河内(かはち)に行(ゆい)て、城郭(じやうくわく)に成(なり)ぬべき処々を見置(みおきて)、東国(とうごく)・西国(さいこく)に下(くだつ)て、国の風俗、人(ひと)の分限(ぶんげん)をぞ窺(うかがひ)見られける。
○無礼講(ぶれいかうの)事付玄恵(げんゑ)文談(ぶんだんの)事 S0106
爰(ここ)に美濃国(みののくにの)住人、土岐伯耆(ときはうきの)十郎頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)と云(いふ)者あり。共に清和源氏(せいわげんじ)の後胤(こういん)として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々(さまざま)の縁(えん)を尋(たづね)て、眤(むつ)び近(ちかづ)かれ、朋友の交(まじはり)已(すで)に浅からざりけれども、是(これ)程の一大事を無左右知(しら)せん事、如何(いかん)か有(ある)べからんと思はれければ、猶も能々(よくよく)其(その)心を窺(うかがひ)見ん為に、無礼講(ぶれいかう)と云(いふ)事をぞ始(はじめ)られける。其(その)人数(にんじゆ)には、尹(ゐんの)大納言師賢(もろたか)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・伊達(だての)三位房(さんみばう)游雅(いうが)・聖護院庁(しやうごゐんちやう)の法眼(ほふげん)玄基(げんき)・足助(あすけの)次郎重成(しげなり)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)等也。其交会遊宴(そのかうぐわいいうえん)の体(てい)、見聞耳目(けんもんじぼく)を驚(おどろか)せり。献盃(けんはい)の次第、上下を云はず、男(をのこ)は烏帽子(ゑぼし)を脱(ぬい)で髻(もとどり)を放ち、法師は衣(ころも)を不着して白衣(びやくえ)になり、年十七八なる女(をんな)の、盻形(みめかたち)優(いう)に、膚(はだへ)殊に清らかなるをに十余人(じふよにん)、褊(すずし)の単(ひと)へ計(ばかり)を着せて、酌(しやく)を取(とら)せければ、雪の膚(はだへ)すき通(とほり)て、大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)新(あらた)に水を出(いで)たるに異(こと)ならず。山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)を尽(つく)し、旨酒(ししゆ)泉(いづみ)の如くに湛(たたへ)て、遊戯舞(あそびたはぶれまひ)歌ふ。其間(そのあひだ)には只東夷(とうい)を可亡企(くはだて)の外(ほか)は他事(たじ)なし。其(その)事と無く、常に会交(くわいがう)せば、人の思咎(おもひとが)むる事もや有(あら)んとて、事を文談(ぶんだん)に寄(よせ)んが為に、其比(そのころ)才覚無双(さいかくぶさう)の聞へありける玄恵法印(げんゑほふいん)と云(いふ)文者(ぶんじや)を請(しやう)じて、昌黎文集(しやうれいぶんじふ)の談義(だんぎ)をぞ行(おこなは)せける。彼(かの)法印謀叛(むほん)の企(くはだて)とは夢にも不知、会合の日毎(ひごと)に、其(その)席に臨(のぞん)で玄(げん)を談じ理(り)を折(ひらく)。彼文集(かのぶんじふ)の中に、「昌黎赴潮州」と云(いふ)長篇有り。此処(このところ)に至(いたつ)て、談義を聞(きく)人々、「是(これ)皆不吉(ふきつ)の書(しよ)なりけり。呉子(ごし)・孫子・六韜(りくたう)・三略(さんりやく)なんど社(こそ)、可然当用(たうよう)の文(ぶん)なれ。」とて、昌黎文集の談義を止(やめ)てげり。此韓昌黎(このかんしやうれい)と申(まうす)は、晩唐(ばんたう)の季(すゑ)に出(いで)て、文才(ぶんさい)優長(いうちやう)の人なりけり。詩は杜子美(としみ)・李太白(りたいはく)に肩を双(なら)べ、文章は漢・魏(ぎ)・晋(しん)・宋の間(あひだ)に傑出せり。昌黎が猶子(いうし)韓湘(かんしやう)と云(いふ)者あり。是(これ)は文字をも嗜(たしなま)ず、詩篇にも携(たづさは)らず、只道士(たうじ)の術(じゆつ)を学(まなん)で、無為(ぶゐ)を業(げふ)とし、無事を事(こと)とす。或時(あるとき)昌黎韓湘に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「汝(なんぢ)天地の中(うち)に化生(くわせい)して、仁義の外(ほか)に逍遥(せうえう)す。是(これ)君子の恥(はづる)処、小人の専(もつぱら)とする処也。我(われ)常に汝が為に是(これ)を悲(かなし)むこと切(せつ)也。と教訓しければ、韓湘大(おほき)にあざ笑(わらう)て、「仁義は大道(たいだう)の廃(すたれ)たる処に出(いで)、学教(がつけう)は大偽(たいぎ)の起(おこる)時に盛(さかん)也。吾(われ)無為(ぶゐ)の境(さかひ)に優遊(いういう)して、是非(ぜひ)の外(ほか)に自得(じとく)す。されば真宰(しんさい)の臂(ひぢ)を掣(さい)て、壷中(こちゆう)に天地を蔵(かく)し、造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばう)て、橘裡(きつり)に山川(さんせん)を峙(そばだ)つ。却(かへつ)て悲(かなしむ)らくは、公(こう)の只古人(こじん)の糟粕(さうはく)を甘(あまなつ)て、空(むなし)く一生(いつしやう)を区々(くく)の中(うち)に誤る事を。」と答(こたへ)ければ、昌黎重(かさねて)曰(いはく)、「汝が所言我(われ)未信(いまだしんぜず)、今則(すなはち)造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばふ)事を得てんや。」と問(とふ)に、韓湘答(こたふる)事無(なく)して、前(まへ)に置(おい)たる瑠璃(るり)の盆を打覆(うちうつぶせ)て、軈(やが)て又引仰向(ひきあふの)けたるを見れば、忽(たちまち)に碧玉(へきぎよく)の牡丹(ぼたん)の花(はな)の嬋娟(せんげん)たる一枝(いつし)あり。昌黎(しやうれい)驚(おどろい)て是(これ)を見(みる)に、花(はなの)中に金字(きんじ)に書(かけ)る一聯(いちれん)の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思(おもひ)を成して、是(これ)を読(よう)で一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)するに、句の優美遠長(ゑんちやう)なる体製(ていせい)のみ有(あつ)て、其(その)趣向落着(らくぢやく)の所を難知。手に採(とつ)て是(これ)を見んとすれば、忽然(こつぜん)として消失(きえうせ)ぬ。是(これ)よりしてこそ、韓湘(かんしやうは)仙術(せんじゆつ)の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後(そののち)昌黎仏法(ぶつぽふ)を破(やぶつ)て、儒教(じゆけう)を貴(たつとむ)べき由(よし)、奏状(そうじやう)を奉(たてまつり)ける咎(とが)に依(よつ)て、潮州(てうじう)へ流さる。日暮(くれ)馬泥(なづん)で前途(ぜんと)程(ほど)遠し。遥(はるか)に故郷(こきやう)の方(かた)を顧(かへりみれ)ば、秦嶺に雲横(よこたはつ)て、来(き)つらん方も不覚。悼(いたん)で万仞(ばんじん)の嶮(けはしき)に登らんとすれば、藍関に雪満(みち)て行(ゆく)べき末(すゑ)の路も無し。進退歩(ほ)を失(うしなう)て、頭(かうべ)を回(めぐら)す処に、何(いづく)より来(きた)れるともなく、韓湘悖然(ぼつぜん)として傍(かたはら)にあり。昌黎悦(よろこん)で馬より下(おり)、韓湘が袖を引(ひい)て、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「先年碧玉(へきぎよく)の花(はな)の中に見へたりし一聯(いちれん)の句は、汝我(われ)に予(あらかじめ)左遷(させん)の愁(うれへ)を告知(つげしら)せるなり。今又汝爰(ここ)に来れり。料(はか)り知(しん)ぬ、我(われ)遂(つひ)に謫居(だつきよ)に愁死(しうし)して、帰(かへる)事を得じと。再会期(ご)無(なく)して、遠別(ゑんべつ)今にあり。豈(あに)悲(かなしみ)に堪(たへ)んや。」とて、前(さき)の一聯(いちれん)に句(く)を続(つい)で、八句一首(いつしゆ)と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此(この)詩を袖に入(いれ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)に別(わかれ)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、「痴人(ちにんの)面前(めんぜん)に不説夢」云(いふ)事を。此(この)談義を聞(きき)ける人々の忌思(いみおもひ)けるこそ愚(おろか)なれ。
○頼員(よりかず)回忠(かへりちゆうの)事 S0107
謀反人(むほんにん)の与党(よたう)、土岐(とき)左近蔵人(さこんくらうど)頼員(よりかず)は、六波羅(ろくはら)の奉行(ぶぎやう)斉藤太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)利行(としゆき)が女(むすめ)と嫁(か)して、最愛(さいあい)したりけるが、世中(よのなか)已に乱(みだれ)て、合戦出来(いできた)りなば、千に一(ひとつ)も討死せずと云(いふ)事有(ある)まじと思(おもひ)ける間、兼(かね)て余波(なごり)や惜(をし)かりけん、或夜(あるよ)の寝覚(ねざめ)の物語に、「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り、同流(おなじながれ)を汲(くむ)も、皆是(これ)多生(たしやう)の縁(えん)不浅、況(いはん)や相馴奉(あひなれたてまつつ)て已(すでに)三年(みとせ)に余(あま)れり。等閑(なほざり)ならぬ志(こころざし)の程をば、気色(けしき)に付け、折に触(ふれ)ても思(おもひ)知り給ふらん。去(さ)ても定(さだめ)なきは人間の習(ならひ)、相逢中(あひあふなか)の契(ちぎり)なれば、今若(もし)我(わが)身はかなく成(なり)ぬと聞(きき)給ふ事有(あら)ば、無(なか)らん跡(あと)までも貞女の心を失はで、我後世(わがごせ)を問(とひ)給へ。人間(にんげん)に帰らば、再び夫婦の契(ちぎり)を結び、浄土(じやうど)に生(うま)れば、同蓮(おなじはちす)の台(うてな)に半座(はんざ)を分(わけ)て待(まつ)べし。」と、其(その)事と無くかきくどき、泪(なみだ)を流(ながし)てぞ申(まうし)ける。女つく/゛\と聞(きい)て、「怪(あやし)や何事(なにごと)の侍(はんべる)ぞや。明日(あす)までの契(ちぎり)の程も知らぬ世に、後世(ごせ)までの荒増(あらまし)は、忘(わすれ)んとての情(なさけ)にてこそ侍(はんべ)らめ。さらでは、かゝるべしとも覚(おぼえ)ず。」と、泣恨(なきうらみ)て問(とひ)ければ、男(をとこ)は心(こころ)浅(あさう)して、「さればよ、我(われ)不慮(ふりよ)の勅命を蒙(かうむつ)て、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道無(なく)して、御謀反(ごむほん)に与(くみ)しぬる間、千に一(ひとつ)も命(いのち)の生(いき)んずる事難(かた)し。無端存(ぞんず)る程に、近づく別(わかれ)の悲(かなし)さに、兼(かねて)加様(かやう)に申(まうす)也。此(この)事穴(あな)賢(かしこ)人に知(しら)させ給ふな。」と、能々(よくよく)口をぞ堅めける。彼女性(かのによしやう)心の賢き者也ければ、夙(つと)にをきて、つく/゛\と此(この)事を思ふに、君の御謀叛(ごむほん)事(こと)ならずば、憑(たのみ)たる男(をとこ)忽(たちまち)に誅せらるべし。若(もし)又武家亡(ほろび)なば、我(わが)親類誰かは一人も残るべき。さらば是(これ)を父利行(としゆき)に語(かたつ)て、左近蔵人(さこんくらうど)を回忠(かへりちゆう)の者に成し、是(これ)をも助け、親類をも扶(たす)けばやと思(おもう)て、急ぎ父が許(もと)に行(ゆき)、忍(しのび)やかに此(この)事を有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。斉藤大(おほき)に驚き、軈(やが)て左近蔵人を呼寄(よびよ)せ、「卦(かか)る不思議を承(うけたまは)る、誠にて候やらん。今の世に加様(かやう)の事、思企(おもひくはだて)給はんは、偏(ひとへ)に石(いし)を抱(いだい)て淵(ふち)に入(い)る者にて候べし。若(もし)他人の口より漏(もれ)なば、我等に至(いたる)まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急(いそぎ)御辺(ごへん)の告知(つげしら)せたる由を、六波羅殿(ろくはらどの)に申(まうし)て、共に其咎(そのとが)を遁(のがれ)んと思ふは、何(いかん)か計(はからひ)給ふぞ。」と、問(とひ)ければ、是(これ)程の一大事を、女性(によしやう)に知らする程の心にて、なじかは仰天(ぎやうてん)せざるべき、「此(この)事は同名(どうみやう)頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎二郎が勧(すすめ)に依(よつ)て、同意仕(つかまつり)て候。只兎(と)も角(かく)も、身の咎(とが)を助(たすか)る様(やう)に御計(はからひ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。夜(よ)未明(いまだあけざる)に、斉藤急ぎ六波羅(ろくはら)へ参(さんじ)て、事の子細(しさい)を委(くはし)く告げ申(まうし)ければ、則(すなはち)時(とき)をかへず鎌倉へ早馬(はやむま)を立て、京中(きやうぢゆう)・洛外(らくぐわい)の武士(ぶし)どもを六波羅(ろくはら)へ召集(めしあつめ)て、先(まづ)着到(ちやくたう)をぞ付(つけ)られける。其比(そのころ)摂津国(つのくに)葛葉(くずは)と云(いふ)処に、地下人(ぢげにん)代官(だいくわん)を背(そむき)て合戦(かつせん)に及(およぶ)事あり。彼本所(かのほんじよ)の雑掌(ざつしやう)を、六波羅(ろくはら)の沙汰(さた)として、庄家(しやうけ)にしすへん為に、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人(ざいきやうにん)を催さるゝ由を被披露。是(これ)は謀叛の輩(ともがら)を落さじが為の謀(はかりごと)也。土岐(とき)も多治見も、吾(わが)身の上とは思(おもひ)も寄らず、明日(みやうにち)は葛葉へ向ふべき用意して、皆己(おのれ)が宿所(しゆくしよ)にぞ居たりける。去程(さるほど)に、明(あく)れば元徳(げんとく)元年九月十九日の卯刻(うのこく)に、軍勢雲霞(うんか)の如(ごとく)に六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。小串(こぐし)三郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)範行(のりゆき)・山本九郎時綱(ときつな)、御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、六条河原(かはら)へ打出(ぶちいで)、三千余騎を二手(ふたて)に分(わけ)て、多治見が宿所(しゆくしよ)錦小路高倉(にしきのこうぢたかくら)、土岐(とき)十郎が宿所、三条堀河(ほりかわ)へ寄(よせ)けるが、時綱かくては如何様(いかさま)大事(だいじ)の敵(てき)を打漏(うちもらし)ぬと思(おもひ)けるにや、大勢(おほぜい)をば態(わざ)と三条河原(かはら)に留(とどめ)て、時綱只一騎、中間(ちゆうげん)二人に長刀(なぎなた)持(もた)せて、忍(しのび)やかに土岐が宿所へ馳(はせ)て行き、門前(もんぜん)に馬をば乗捨(のりすて)て、小門(こもん)より内へつと入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の方(かた)を見れば、宿直(とのゐ)しける者よと覚(おぼえ)て、物具(もののぐ)・太刀(たち)・々(かたな)、枕に取散(とりちら)し、高鼾(たかいびき)かきて寝入(ねいり)たり。廐(むやま)の後(うしろ)を回(まはつ)て、何(いづく)にか匿地(くけち)の有(ある)と見れば、後(うしろ)は皆築地(ついぢ)にて、門(もん)より外(ほか)は路も無し。さては心安(こころやす)しと思(おもう)て、客殿(きやくでん)の奥なる二間(ふたま)を颯(さつ)と引(ひき)あけたれば、土岐十郎只今起(おき)あがりたりと覚(おぼえ)て、鬢髪(びんのかみ)を撫揚(なであげ)て結(ゆひ)けるが、山本九郎を屹(きつ)と見て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、立(たて)たる大刀(たち)を取(とり)、傍(そば)なる障子(しやうじ)を一間(ひとま)蹈破(ふみやぶ)り、六間(むま)の客殿(きやくでん)へ跳出(をどりいで)、天井(てんじやう)に大刀(たち)を打付(うちつけ)じと、払切(はらひぎり)にぞ切(きつ)たりける。時綱は態(わざと)敵を広庭(ひろには)へ帯出(おびきいだ)し、透間(すきま)も有らば生虜(いけどら)んと志(こころざし)て、打払(うちはらひ)ては退(しりぞき)、打流(うちなが)しては飛(とび)のき、人交(ひとまぜ)もせず戦(たたかう)て、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)二千余騎、二(に)の関(きど)よりこみ入(いつ)て、同音(どうおん)に時(とき)を作る。土岐十郎久(ひさし)く戦(たたかう)ては、中々(なかなか)生捕(いけどら)れんとや思(おもひ)けん、本(もと)の寝所(ねどころ)へ走帰(はしりかへつ)て、腹(はら)十文字(もんじ)にかき切(きつ)て、北枕(きたまくら)にこそ臥(ふし)たりけれ。中間(なかのま)に寝たりける若党(わかたう)どもゝ、思々(おもひおもひ)に討死(うちじに)して、遁(のが)るゝ者一人も無(なか)りけり。首(くび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、山本九郎は是(これ)より六波羅(ろくはら)へ馳参(はせまゐ)る。多治見が宿所へは、小串(こぐし)三郎左衛門範行(のりゆき)を先(さき)として、三千余騎にて推寄(おしよせ)たり。多治見は終夜(よもすがら)の酒に飲酔(のみゑひ)て、前後(ぜんご)も不知臥(ふし)たりけるが、時(とき)の声に驚(おどろい)て、是(これ)は何事ぞと周障(あわて)騒ぐ。傍(そば)に臥(ふし)たる遊君(いうくん)、物馴(ものなれ)たる女(をんな)也ければ、枕なる鎧(よろひ)取(とつ)て打着(うちき)せ、上帯(うはおび)強く縮(しめ)させて、猶寝入(ねいり)たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六(をがさはらまごろく)、傾城(けいせい)に驚(おどろか)されて、太刀計(ばかり)を取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(はしりい)で、目を磨々(すりすり)四方(しはう)を岐(きつ)と見ければ、車の輪(わ)の旗一流(ひとながれ)、築地(ついぢ)の上(うへ)より見へたり。孫六内へ入(いつ)て、「六波羅(ろくはら)より打手(うつて)の向(むかう)て候(さふらひ)ける。此間(このあひだ)の御謀反(ごむほん)早(はや)顕(あらはれ)たりと覚(おぼえ)候。早(はや)面々(めんめん)太刀の目貫(めぬき)の堪(こら)ゑん程は切合(きりあう)て、腹を切れ。」と呼(よばはつ)て、腹巻(はらまき)取(とつ)て肩になげかけ、廾四差(さい)たる胡■(えびら)と、繁藤(しげどう)の弓とを提(ひつさげ)て、門(もん)の上なる櫓(やぐら)へ走上(はしりあが)り、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつが)ひ、狭間(さま)の板(いた)八文字(もんじ)に排(ひらい)て、「あらこと/゛\しの大勢(おほぜい)や。我等が手柄のほどこそ顕(あらはれ)たれ。抑(そもそも)討手(うつて)の大将は誰(たれ)と申(まうす)人の向(むかは)れて候やらん。近付(ちかづい)て箭(や)一(ひとつ)請(うけ)て御覧候へ。」と云侭(いふまま)に、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、忘るゝ計(ばかり)引(ひき)しぼりて、切(きつ)て放つ。真前(まつさき)に進(すすん)だる狩野下野前司(かののしもづけのぜんじ)が若党に、衣摺(きぬずりの)助房(すけふさ)が胄(かぶと)のまつかう、鉢付(はちつけ)の板(いた)まで、矢先(やさき)白く射通(いとほ)して、馬より倒(さかさま)に射落(いおと)す。是(これ)を始(はじめ)として、鎧(よろひ)の袖・草摺(くさずり)・胄鉢(かぶとのはち)とも不言、指詰(さしつめ)て思様(おもふさま)に射けるに、面(おもて)に立(たつ)たる兵(つはもの)廾四人、矢の下(した)に射て落す。今一筋(ひとすぢ)胡■(えびら)に残(のこり)たる矢を抜(ぬい)て、胡■(えびら)をば櫓の下(した)へからりと投落(なげおと)し、「此(この)矢一(ひとつ)をば冥途(めいど)の旅の用心に持(もつ)べし。」と云(いつ)て腰にさし、「日本一(につぽんいち)の剛者(がうのもの)、謀叛に与(くみ)し自害(じがい)する有様見置(おい)て人に語れ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、太刀の鋒(きつさき)を口に呀(くはへ)て、櫓より倒(さかさま)に飛落(とびおち)て、貫(つらぬかれ)てこそ死(し)にけれ。此間(このあひだ)に多治見を始(はじめ)として、一族若党廾余人物具(もののぐ)ひし/\と堅め、大庭(おほには)に跳出(をどりい)で、門(もん)の関(くわん)の木(き)差(さし)て待懸(まちかけ)たり。寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しと云へども、思切(おもひきつ)たる者どもが、死狂(しにぐるひ)をせんと引篭(ひつこもつ)たるがこはさに、内へ切(きつ)て入(いら)んとする者も無(なか)りける処に、伊藤彦次郎(ひこじらう)父子兄弟(ふしきやうだい)四人(よつたり)、門の扉(とびら)の少し破(やぶれ)たる処より、這(はう)て内へぞ入(いり)たりける。志の程は武(たけ)けれども、待請(まちうけ)たる敵(てき)の中へ、這(はう)て入(いつ)たる事なれば、敵に打違(うちちがふ)るまでも無(なく)て、皆門(もん)の脇(わき)にて討(うた)れにけり。寄手(よせて)是(これ)を見て、弥(いよいよ)近(ちかづ)く者も無(なか)りける間(あひだ)、内より門(もん)の扉(とびら)を推開(おしひらい)て、「討手(うつて)を承(うけたまは)るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉(かな)。早(はや)是(これ)へ御入(いり)候へ。我等(われら)が頭共(くびども)引出物(ひきでもの)に進(まゐら)せん。」と、恥(はぢ)しめてこそ立(たち)たりけれ。寄手共(よせてども)敵にあくまで欺(あざむか)れて、先陣(せんぢん)五百余人(ごひやくよにん)馬を乗放(のりはな)して、歩立(かちだち)に成(なり)、喚(をめい)て庭へこみ入(いる)。楯篭(たてこも)る所の兵(つはもの)ども、とても遁(のがれ)じと思切(おもひきつ)たる事なれば、何(いづく)へか一足(ひとあし)も引(ひく)べき。二十余人(にじふよにん)の者ども、大勢(おほぜい)の中へ乱入(みだれいつ)て、面(おもて)もふらず切(きつ)て廻(まは)る。先駈(さきがけ)の寄手(よせて)五百余人(ごひやくよにん)、散々(さんざん)に切立(きりたて)られて、門(もん)より外(ほか)へ颯(さつ)と引く。されども寄手は大勢(おほぜい)なれば、先陣引けば二陣喚(をめい)て懸入(かけいる)。々々(かけいれ)ば追出(おひいだし)、々々(おひいだ)せば懸入(かけい)り、辰刻(たつのこく)の始(はじめ)より午刻(うまのこく)の終(をはり)まで、火出(いづ)る程こそ戦(たたかひ)けれ。加様(かやう)に大手(おほて)の軍(いくさ)強(つよ)ければ、佐々木判官(はうぐわん)が手者(てのもの)千余人、後(うしろ)へ廻(まはつ)て錦小路(にしきのこうぢ)より、在家(ざいけ)を打破(うちやぶつ)て乱入(みだれい)る。多治見今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、中門(ちゆうもん)に並居(なみゐ)て、二十二人の者ども、互に差違(さしちがへ)々々、算(さん)を散(ちら)せる如く臥(ふし)たりける。追手(おふて)の寄手共(よせてども)が、門(もん)を破(やぶ)りける其間(そのあひだ)に、搦手(からめで)の勢共(せいども)乱入(みだれい)り、首(くび)を取(とつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)帰る。二時計(ふたときばかり)の合戦に、手負死人(ておひしにん)を数(かぞふ)るに、二百七十三人也。
○資朝俊基(すけともとしもと)関東下向(げかうの)事付御告文(ごかうぶんの)事 S0108
土岐(とき)・多治見(たぢみ)討(うた)れて後(のち)、君の御謀叛(ごむほん)次第に隠(かく)れ無(なか)りければ、東使(とうし)長崎四郎左衛門泰光(やすみつ)、南条(なんでうの)次郎左衛門宗直(むねなほ)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、五月十日資朝・俊基両人(りやうにん)を召取(めしとり)奉る。土岐が討(うた)れし時、生虜(いけどり)の者一人も無(なか)りしかば、白状(はくじやう)はよも有らじ、さりとも我等が事は顕(あらは)れじと、無墓憑(たのみ)に油断して、曾(かつ)て其(その)用意も無(なか)りければ、妻子(さいし)東西(とうざい)に逃迷(にげまよ)ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝(ざいはう)は大路(おほち)に引散(ひきちら)されて、馬蹄(ばてい)の塵(ちり)と成(なり)にけり。彼(かの)資朝卿(すけとものきやう)は日野(ひの)の一門にて、職(しよく)大理(だいり)を経(へ)、官(くわんは)中納言に至りしかば、君の御覚(おんおぼ)へも他に異(ことに)して、家の繁昌時(とき)を得たりき。俊基朝臣(あそん)は身(み)儒雅(じゆが)の下(もと)より出(い)で、望(のぞみ)勲業(くんげふ)の上(うへ)に達(たつ)せしかば、同官(どうくわん)も肥馬(ひば)の塵を望み、長者(ちやうじや)も残盃(ざんばい)の冷(れい)に随ふ。宜(むべなる)哉(かな)「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是(これ)孔子の善言(ぜんげん)、魯論(ろろん)に記(き)する処なれば、なじかは違(たがふ)べき。夢の中に楽(たのしみ)尽(つき)て、眼前(がんぜん)の悲(かなしみ)云(ここ)に来れり。彼(かれ)を見是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(り)を知らでも、袖をしぼりゑず。同(おなじき)二十七日、東使(とうし)両人(りやうにん)、資朝・俊基を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、鎌倉へ下着(げちやく)す。此(この)人々は殊更謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)て誅せられぬと覚(おぼえ)しかども、倶(とも)に朝廷の近臣として、才覚(さいかく)優長の人たりしかば、世の譏(そし)り君の御憤(いきどほり)を憚(はばかつ)て、嗷問(がうもん)の沙汰にも不及、只尋常(よのつね)の放召人(はなしめしうど)の如(ごとく)にて、侍所(さぶらひどころ)にぞ預置(あづけおか)れける。七月七日、今夜(こんや)は牽牛(けんぎう)・織女(しよくぢよ)の二星(じせい)、烏鵲橋(うじやくのはし)を渡して、一年の懐抱(くわいばう)を解(とく)夜(よ)なれば、宮人(きゆうじん)の風俗(ならはし)、竹竿(ちくかん)に願糸(ねがひのいと)を懸(か)け、庭前(ていぜん)に嘉菓(かくわ)を列(つらね)て、乞巧奠(きつかうでん)を修(しゆす)る夜(よ)なれ共(ども)、世上(せじやう)騒(さわが)しき時節(をりふし)なれば、詩歌(しいか)を奉る騒人(さうじん)も無く、絃管(げんくわん)を調(しらぶ)る伶倫(れいりん)もなし。適(たまたま)上臥(うへぶし)したる月卿雲客(げつけいうんかく)も、何(なに)と無く世中(よのなか)の乱(みだれ)、又誰身上(たがみのうへ)にか来(きたら)んずらんと、魂(たましひ)を消し肝(きも)を冷(ひや)す時分(をりふし)なれば、皆眉を顰(ひそ)め面(おもて)を低(たれ)てぞ候(さふらひ)ける。夜痛(いたく)深(ふけ)て、「誰か候。」と召(めさ)れければ、「吉田(よしだの)中納言冬房(ふゆふさ)候。」とて御前(おんまへ)に候(こう)す。主上席(せき)を近(ちかづけ)て仰(おほせ)有(あり)けるは、「資朝・俊基が囚(とらは)れし後(のち)、東風(とうふう)猶未静(いまだしづかならず)、中夏(ちゆうか)常に危(あやふき)を蹈(ふ)む。此(この)上に又何(いか)なる沙汰をか致(いたさ)んずらんと、叡慮更に不穏。如何(いかん)して先(まづ)東夷(とうい)を定(しづむ)べき謀(はかりごと)有(あら)ん。」と、勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、冬房謹(つつしん)で申(まうし)けるは、「資朝・俊基が白状(はくじやう)有りとも承(うけたまはり)候はねば、武臣此(この)上の沙汰には及ばじと存(ぞんじ)候へども、近日(このごろ)東夷(とうい)の行事(ふるまひ)、楚忽(そこつ)の義(ぎ)多(おほく)候へば、御油断(ごゆだん)有(ある)まじきにて候。先(まづ)告文(かうぶん)一紙(いつし)を下(くだ)されて、相摸入道(さがみにふだう)が忿(いかり)を静め候(さふらは)ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食(おぼしめさ)れけん、「さらば軈(やが)て冬房書(かけ)。」と仰(おほせ)有(あり)ければ、則(すなはち)御前(おんまへ)にして草案(さうあん)をして、是(これ)を奏覧(そうらん)す。君且(しばらく)叡覧有(あつ)て、御泪(おんなみだ)の告文(かうぶん)にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭(おしのご)はせ給へば、御前(おんまへ)に候(さふらひ)ける老臣、皆悲啼(ひてい)を含まぬは無(なか)りけり。頓(やが)て万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)を勅使として、此告文(このかうぶん)を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介(あいたのじやうのすけ)を以て告文(かうぶん)を請取(うけとつ)て、則(すなはち)披見(ひけん)せんとしけるを、二階堂(にかいだうの)出羽(ではの)入道々蘊(だううん)、堅く諌めて申(まうし)けるは、「天子武臣に対して直(ぢき)に告文(かうぶん)を被下たる事、異国にも我(わが)朝にも未(いまだ)其(その)例を承(うけたまはら)ず。然(しかる)を等閑(なほざり)に披見せられん事、冥見(みやうけん)に付(つい)て其恐(そのおそれ)あり。只文箱(ふんばこ)を啓(ひらか)ずして、勅使に返進(かへしまゐら)せらるべきか。」と、再往(さいわう)申(まうし)けるを、相摸入道、「何(なに)か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行(としゆき)に読進(よみまゐら)せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読(よみ)ける時に、利行俄(にはか)に眩(めくるめき)衄(はなぢ)たりければ、読(よみ)はてずして退出(たいしゆつ)す。其(その)日より喉下(のどのした)に悪瘡(あくさう)出(いで)て、七日(なぬか)が中(うち)に血を吐(はい)て死(し)にけり。時(とき)澆季(げうき)に及(およん)で、道(みち)塗炭(どたん)に落(おち)ぬと云(いへ)ども、君臣(くんしん)上下の礼違(たがふ)則(とき)は、さすが仏神(ぶつじん)の罰も有(あり)けりと、是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、懼恐(おぢおそれ)ぬは無(なか)りけり。「何様(なにさま)資朝・俊基の隠謀(いんぼう)、叡慮より出(いで)し事なれば、縦(たとひ)告文(かうぶん)を下されたりと云(いへ)ども、其(それ)に依るべからず。主上をば遠国(をんごく)へ遷(うつ)し奉(たてまつる)べし。」と、初(はじめ)は評定(ひやうぢやう)一決(いつけつ)してけれども、勅使宣房卿(のぶふさのきやう)の被申趣(おもむき)げにもと覚(おぼゆ)る上、告文(かうぶん)読(よみ)たりし利行、俄に血を吐(はい)て死(しに)たりけるに、諸人(しよにん)皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道(さがみにふだう)も、さすが天慮其憚(そのはばかり)有りけるにや、「御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)は朝議(てうぎ)に任(まか)せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ申(まうす)べきに非(あら)ず。」と、勅答を申(まうし)て、告文(かうぶん)を返進(へんしん)せらる。宣房卿(のぶふさのきやう)則(すなはち)帰洛(きらく)して、此(この)由を奏し申(まうさ)れけるにこそ、宸襟(しんきん)始(はじめ)て解(とけ)て、群臣(ぐんしん)色をば直(なほ)されけれ。去程(さるほど)に俊基朝臣は罪の疑(うたがは)しきを軽(かろん)じて赦免(しやめん)せられ、資朝卿(すけとものきやう)は死罪(しざい)一等を宥(なだ)められて、佐渡国(さどのくに)へぞ流されける。
太平記(国民文庫)
太平記巻第二
○南都北嶺(なんとほくれい)行幸(ぎやうがうの)事(こと) S0201
元徳(げんとく)二年二月四日、行事(ぎやうじ)の弁別当(べんのべつたう)、万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)藤房卿(ふぢふさのきやう)を召(めさ)れて、「来月八日東大寺興福寺(こうふくじ)行幸(ぎやうがう)有(ある)べし、早(はやく)供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触仰(ふれおほ)すべし。」と仰出(おほせいだ)されければ、藤房(ふぢふさ)古(ふるき)を尋(たづね)、例(れい)を考(かんがへ)て、供奉(ぐぶ)の行装(かうさう)、路次(ろし)の行列(かうれつ)を定(さだめ)らる。佐々木(ささきの)備中守(びつちゆうのかみ)廷尉(ていゐ)に成(なつ)て橋を渡(わた)し、四十八箇所(しじふはちかしよの)篝(かがり)、甲胄(かつちう)を帯(たい)し、辻(つじ)々を堅(かた)む。三公(さんこう)九卿(きうけい)相従(あひしたが)ひ、百司千官(はくしせんくわん)列(れつ)を引(ひく)、言語道断(ごんごだうだん)の厳儀(げんぎ)也。東大寺と申(まうす)は聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、閻浮(えんぶ)第一(だいいち)の盧舎那仏(るしやなぶつ)、興福寺と申(まうす)は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうし)尊崇(そんそう)の大伽藍(だいがらん)なれば、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も、皆結縁(けちえん)の御志(おんこころざし)は御坐(おは)せども、一人(いちじん)出給(いでたまふ)事(こと)容易(たやす)からざれば、多年臨幸の儀(ぎ)もなし。此御代(このみよ)に至(いたつ)て、絶(たえ)たるを継(つぎ)、廃(すたれ)たるを興(おこ)して、鳳輦(ほうれん)を廻(めぐら)し給(たまひ)しかば、衆徒(しゆと)歓喜(くわんぎ)の掌(たなごころ)を合(あは)せ、霊仏(れいぶつ)威徳(ゐとく)の光をそふ。されば春日山(かすがやま)の嵐の音も、今日(けふ)よりは万歳(ばんぜい)を呼(よば)ふかと怪(あやし)まれ、北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花(はな)咲(さく)春の陰(かげ)深し。又同(おなじき)月二十七日に、比叡山(ひえいさん)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、大講堂(だいかうだう)供養(くやう)あり。彼(かの)堂と申(まうす)は、深草天皇(ふかくさのてんわう)の御願(ごぐわん)、大日遍照(だいにちへんぜう)の尊像(そんざう)也。中比(なかごろ)造営(ざうえい)の後(のち)、未(いまだ)供養を遂(とげ)ずして、星霜(せいざう)已(すでに)積(つも)りければ、甍(いらか)破(やぶれ)ては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)を焼(たき)、扉(とぼそ)落(おち)ては月常住(じやうぢゆ)の燈(ともしび)を挑(かか)ぐ。されば満山(まんさん)歎(なげい)て年を経(ふ)る処に、忽(たちまち)に修造(しゆざう)の大功を遂(とげ)られ、速(すみやか)に供養の儀式を調(ととの)へ給(たまひ)しかば、一山(いつさん)眉(まゆ)を開(ひら)き、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶ)けり。御導師(おんだうし)は妙法院(めうほふゐんの)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)、咒願(じゆぐわん)は時の座主(ざす)大塔(おほたふの)尊雲(そんうん)法親王(ほふしんわう)にてぞ御座(おは)しける。称揚讚仏(しようやうさんぶつ)の砌(みぎり)には、鷲峯(じゆほう)の花(はな)薫(にほひ)を譲り、歌唄頌徳(かばいじゆとく)の所には、魚山(ぎよさん)の嵐(あらし)響(ひびき)を添(そふ)。伶倫(れいりん)遏雲(あつうん)の曲を奏し、舞童(ぶどう)回雪(くわいせつ)の袖を翻(ひるがへ)せば、百獣も率舞(そつしまひ)、鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)する計(ばかり)也。住吉の神主(かんぬし)、津守(つもり)の国夏(くになつ)大皷(たいこ)の役(やく)にて登山(とうさん)したりけるが、宿坊(しゆくばう)の柱に一首(いつしゆ)の歌をぞ書付(かきつけ)たる。契(ちぎり)あれば此山(このやま)もみつ阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の種(たね)や植剣(うゑけん)是(これ)は伝教大師(でんげうたいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の古(いにしへ)、「我(わが)立(たつ)杣(そま)に冥加(みやうが)あらせ給へ。」と、三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達(ほとけたち)に祈給(いのりたまひ)し故事(こじ)を思(おもう)て、読(よめ)る歌なるべし。抑(そもそも)元亨(げんかう)以後、主(しゆ)愁(うれへ)臣(しん)辱(はづかしめ)られて、天下更(さらに)安(やすき)時なし。折節(をりふし)こそ多かるに、今南都北嶺(なんとほくれい)の行幸、叡願(えいぐわん)何事(なにこと)やらんと尋(たづぬ)れば、近年(きんねん)相摸入道(さがみにふだうの)振舞、日来(ひごろ)の不儀に超過(てうくわ)せり。蛮夷(ばんい)の輩(ともがら)は、武命(ぶめい)に順(したが)ふ者なれば、召(めす)とも勅(ちよく)に応ずべからず。只山門南都の大衆(だいしゆ)を語(かたらひ)て、東夷(とうい)を征罰(せいばつ)せられん為の御謀叛(ごむほん)とぞ聞(きこ)へし。依之大塔(おほたふ)の二品(にほん)親王(しんわう)は、時の貫主(くわんじゆ)にて御坐(おは)せしか共(ども)、今は行学(かうがく)共(とも)に捨(すて)はてさせ給(たまひ)て、朝暮(てうぼ)只武勇の御嗜(たしなみ)の外(ほか)は他事なし。御好(おんこのみ)有故(あるゆゑ)にや依(より)けん、早業(はやわざ)は江都(かうと)が軽捷(けいせふ)にも超(こえ)たれば、七尺(しつせき)の屏風(びやうぶ)未(いまだ)必(かならず)しも高しともせず。打物(うちもの)は子房(しばう)が兵法(ひやうはふ)を得玉(えたま)へば、一巻(いつくわん)の秘書尽(つく)されずと云(いふ)事(こと)なし。天台座主(てんだいのざす)始(はじまつ)て、義真和尚(ぎしんくわしやう)より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)懸(かか)る不思議の門主(もんしゆ)は御坐(おはしま)さず。後(のち)に思合(おもひあは)するにこそ、東夷征罰(とういせいばつ)の為に、御身(おんみ)を習(ならは)されける武芸の道とは知られたれ。
○僧徒(そうと)六波羅(ろくはらへ)召捕(めしとる)事(こと)付為明(ためあきら)詠歌(えいかの)事(こと) S0202
事の漏安(もれやす)きは、禍(わざはひ)を招く媒(なかだち)なれば、大塔宮(おほたふのみや)の御行事(おんふるまひ)、禁裡(きんり)に調伏(てうぶく)の法被行事共(ども)、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「いや/\此君(このきみの)御在位(ございゐ)の程は天下静まるまじ。所詮(しよせん)君をば承久(しようきう)の例(れい)に任(まかせ)て、遠国(をんごく)へ移し奉(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に所(しよ)し奉るべき也。先(まづ)近日(このころ)殊に竜顔(りようがん)に咫尺奉(しせきしたてまつつ)て、当家(たうけ)を調伏(てうぶく)し給ふなる、法勝寺(ほつしようじ)の円観(ゑんくわん)上人・小野(をの)の文観(もんくわん)僧正・南都の知教(ちけう)・教円(けうゑん)・浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正を召取(めしとり)て、子細(しさい)を相尋(あひたづぬ)べし。」と、已(すで)に武命を含(ふくん)で、二階堂下野判官(にかいだうしもつけのはうぐわん)・長井遠江守(ながゐとほたふみのかみ)二人(ににん)、関東より上洛(しやうらく)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)せしかば、「又何(いか)なる荒き沙汰(さた)をか致さんずらん。」と、主上宸襟(しんきん)を悩(なやま)されける所に、五月十一日の暁(あかつき)、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人(さんにん)を六波羅(ろくはら)へ召取(めしとり)奉る。此(この)中に忠円僧正は、顕宗(けんしゆう)の碩徳(せきとく)也しかば、調伏の法行(おこなう)たりと云(いふ)、其人数(そのにんじゆ)には入(い)らざりしかども、是(これ)も此(この)君に近付き奉(たてまつつ)て、山門(さんもん)の講堂(かうだう)供養(くやう)以下(いげ)の事(こと)、万(よろづ)直(ぢき)に申沙汰(まうしさた)せられしかば、衆徒(しゆと)与力(よりき)の事(こと)、此(この)僧正よも存(ぞん)ぜられぬ事は非じとて、同(おなじく)召取(めしとら)れ給(たまひ)にけり。是(これ)のみならず、智教・教円二人(ににん)も、南都より召出(めしいだ)されて、同(おなじく)六波羅(ろくはら)へ出(いで)給ふ。又二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきらの)卿(きやう)は、歌道(かだう)の達者(たつしや)にて、月の夜(よ)雪の朝(あした)、褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)の御会(ごくわい)に召(めさ)れて、宴(えん)に侍(はんべ)る事隙(ひま)無(なか)りしかば、指(さし)たる嫌疑(けんぎ)の人にては無(なか)りしかども、叡慮の趣を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとら)れて、斉藤某(なにがし)に是(これ)を預(あづけ)らる。五人の僧達(そうたち)の事は、元来(もとより)関東へ召下(めしくだ)して、沙汰有(ある)べき事なれば、六波羅(ろくはら)にて尋窮(たづねきはむる)に及ばず。為明(ためあきらの)卿(きやう)の事に於ては、先(まづ)京都にて尋沙汰(たづねさた)有(あつ)て、白状(はくじやう)あらば、関東へ註進(ちゆうしん)すべしとて、検断(けんだん)に仰(おほせ)て、已(すでに)嗷問(がうもん)の沙汰に及(およば)んとす。六波羅(ろくはら)の北の坪(つぼ)に炭をゝこす事(こと)、■湯炉壇(くわくたうろだん)の如(ごとく)にして、其(その)上に青竹を破(わ)りて敷双(しきなら)べ、少(すこし)隙(ひま)をあけゝれば、猛火(みやうくわ)炎(ほのほ)を吐(はい)て、烈(れつ)々たり。朝夕雑色(でうじやくざふしき)左右(さいう)に立双(たちならん)で、両方(りやうばう)の手を引張(ひつばつ)て、其(その)上を歩(あゆま)せ奉(たてまつら)んと、支度(したく)したる有様は、只四重(しぢゆう)五逆(ごぎやく)の罪人(ざいにん)の、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、牛頭馬頭(ごづめづ)の呵責(かしやく)に逢(あふ)らんも、角社(かくこそ)有(あ)らめと覚(おぼ)へて、見(みる)にも肝(きも)は消(きえ)ぬべし。為明(ためあきら)卿(きやう)是(これ)を見給て、「硯(すずり)や有(ある)。」と尋(たづね)られければ、白状(はくじやう)の為かとて、硯(すずり)に料紙(れうし)を取添(とりそへ)て奉りければ、白状(はくじやう)にはあらで、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かか)れける。
思(おもひ)きや我敷嶋(わがしきしま)の道ならで浮世の事を問(とは)るべしとは常葉駿河守(ときはするがのかみ)、此(この)歌を見て感歎(かんたん)肝(きも)に銘(めい)じければ、泪(なみだ)を流して理(り)に伏(ふく)す。東使(とうし)両人も是(これ)を読(よみ)て、諸共(もろとも)に袖を浸(ひた)しければ、為明(ためあきら)は水火(すゐくわ)の責(せめ)を遁(のが)れて、咎(とが)なき人に成(なり)にけり。詩歌(しいか)は朝廷の翫(もてあそぶ)処、弓馬(きゆうば)は武家の嗜(たしな)む道なれば、其慣(そのならはし)未(いまだ)必(かならず)しも、六義(りくぎ)数奇(すき)の道に携(たづさは)らねども、物(ものの)相感(あひかん)ずる事(こと)、皆(みな)自然なれば、此(この)歌一首(いつしゆ)の感(かん)に依(よつ)て、嗷問(がうもん)の責(せめ)を止(や)めける、東夷(とうい)の心中(こころのうち)こそやさしけれ。力をも入(いれ)ずして、天地(あめつち)を動(うごか)し、目にみへぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あはれ)と思はせ、男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさむ)るは歌也と、紀貫之(きのつらゆき)が古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)たりしも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。
○三人(さんにんの)僧徒(そうと)関東下向(げかうの)事(こと) S0203
同年(おなじきとしの)六月八日、東使(とうし)三人(さんにん)の僧達(そうたち)を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、関東に下向す。彼(かの)忠円僧正と申(まうす)は、浄土寺慈勝(じしよう)僧正の門弟として、十題判断(じふだいはんだん)の登科(とうくわ)、一山(いつさん)無双(ぶさう)の碩学(せきがく)也。文観(もんくわん)僧正と申(まうす)は、元(もと)は播磨国(はりまのくに)法華寺(ほつけじ)の住侶(ぢゆりよ)たりしが、壮年(さうねん)の比(ころ)より醍醐寺(だいごじ)に移住(いぢゆう)して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじやり)たりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゆさんみつ)の棟梁(とうりやう)たり。円観上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(さんと)にて御坐(おはし)けるが、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の才(さい)、一山(いつさん)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行兼備(ちぎやうけんび)の誉(ほま)れ、諸寺(しよじ)に人無(なき)が如し。然(しかれ)ども久(ひさしく)山門澆漓(げうり)の風(ふう)に随はゞ、情慢(じやうまん)の幢(はたほこ)高(たかう)して、遂に天魔(てんま)の掌握(しやうあく)の中(うち)に落(おち)ぬべし。不如、公請論場(くしやうろんぢやう)の声誉(せいよ)を捨(すて)て、高祖大師(かうそたいし)の旧規(きうき)に帰(かへら)んにはと、一度(ひとたび)名利(みやうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞(じやくまく)の苔(こけ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)給ふ。初(はじめ)の程は西塔(さいたふ)の黒谷(くろたに)と云(いふ)所に居(きよ)を卜(しめ)て、三衣(さんえ)を荷葉(かえふ)の秋(あき)の霜に重(かさ)ね、一鉢(いつばち)を松華(しようくわ)の朝(あした)の風(かぜ)に任(まかせ)給ひけるが、徳不孤必(かならず)有隣、大明(だいみやう)光(ひかり)を蔵(かくさ)ざりければ、遂に五代聖主の国師(こくし)として、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)の太祖(たいそ)たり。かゝる有智高行(うちかうぎやう)の尊宿(そんしゆく)たりと云へども、時の横災(わうさい)をば遁(のがれ)給はぬにや、又前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)にや依(より)けん。遠蛮(ゑんばん)の囚(とらはれ)と成(なつ)て、逆旅(げきりよ)の月にさすらひ給(たまふ)、不思議なりし事ども也。円観上人計(ばかり)こそ、宗印(そういん)・円照(ゑんせう)・道勝(だうしよう)とて、如影随形(によやうずゐぎやう)の御弟子(おんでし)三人(さんにん)、随逐(ずゐちく)して輿(こし)の前後(ぜんご)に供奉(ぐぶ)しけれ。其外(そのほか)文観僧正・忠円僧正には相随(あひしたがふ)者一人も無(なく)て、怪(あやしげ)なる店馬(てんま)に乗(の)せられて、見馴(みなれ)ぬ武士(ぶし)に打囲(うちかこま)れ、まだ夜(よ)深きに鳥が鳴(なく)東(あづま)の旅に出(いで)給ふ、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。鎌倉(かまくら)までも下(くだ)し着(つ)けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼(かしこ)の宿(しゆく)に着(つい)ても今や限り、此(ここ)の山に休(やす)めば是(これ)や限りと、露の命(いのち)のある程も、心は先(さき)に消(きえ)つべし。昨日(きのふ)も過(すぎ)今日(けふ)も暮(くれ)ぬと行程(ゆくほど)に、我(われ)とは急(いそ)がぬ道なれど、日数(ひかず)積(つも)れば、六月二十四日に鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。円観上人をば佐介(さすけ)越前守(ゑちぜんのかみ)、文観僧正をば佐介遠江守(とほたふみのかみ)、忠円僧正をば足利(あしかが)讚岐守(さぬきのかみ)にぞ預(あづけ)らる。両使帰参(きさん)して、彼(かの)僧達(そうたち)の本尊の形(かたち)、炉壇(ろだん)の様(やう)、画図(ゑづ)に写(うつし)て註進す。俗人(ぞくじん)の見知(みし)るべき事ならねば、佐々目(ささめ)の頼禅(らいぜん)僧正を請(しやう)じ奉(たてまつつ)て、是(これ)を被見せに、「子細(しさい)なき調伏(てうぶく)の法也。」と申されければ、「去(さら)ば此(この)僧達(そうたち)を嗷問(がうもん)せよ。」とて、侍所(さふらひどころ)に渡して、水火(すゐくわ)の責(せめ)をぞ致しける。文観房(もんくわんばう)暫(しばし)が程はいかに問(とは)れけれ共(ども)、落(おち)玉はざりけるが、水問(みづもん)重(かさな)りければ、身も疲(つかれ)心も弱(よわく)なりけるにや、「勅定(ちよくじやう)に依(よつ)て、調伏の法行(おこなう)たりし条子細なし。」と、白状(はくじやう)せられけり。其後(そののち)忠円房を嗷問せんとす。此(この)僧正天性(てんせい)臆病(おくびやう)の人にて、未責(いまだせめざる)先(さき)に、主上(しゆしやう)山門を御語(おんかたら)ひありし事(こと)、大塔(おほたふ)の宮(みや)の御振舞、俊基(としもと)の隠謀(いんぼう)なんど、有(あり)もあらぬ事までも、残所(のこるところ)なく白状(はくじやう)一巻(いつくわん)に載(のせ)られたり。此(この)上は何(なん)の疑(うたがひ)か有(ある)べきなれ共(ども)、同罪(どうざい)の人なれば、閣(さしおく)べきに非(あら)ず。円観上人をも明日(みやうにち)問(とひ)奉るべき評定(ひやうぢやう)ありける。其夜(そのよ)相摸入道(さがみにふだう)の夢に、比叡山の東坂本(ひがしさかもと)より、猿共(さるども)二三千群来(むらがりきたつ)て、此(この)上人を守護(しゆご)し奉る体(てい)にて、並居(なみゐ)たりと見給ふ。夢の告(つげ)只事(ただごと)ならずと思はれければ、未明(びめい)に預人(あづかりうど)の許(もと)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、「上人嗷問(がうもん)の事暫く閣(さしおく)べし。」と被下知処に、預人遮(さへぎつ)て相摸入道(さがみにふだう)の方(かた)に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「上人嗷問の事(こと)、此暁(このあかつき)既(すでに)其(その)沙汰を致(いたし)候はん為に、上人の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て候へば、燭(ともしび)を挑(かかげ)て観法定坐(くわんぽふぢやうざ)せられて候。其(その)御影(おんかげ)後(うしろ)の障子(しやうじ)に移(うつつ)て、不動明王(ふどうみやうわう)の貌(かたち)に見(みえ)させ給(たまひ)候つる間(あひだ)、驚き存(そんじ)て、先(まづ)事(こと)の子細(しさい)を申入(まうしいれ)ん為に、参て候也。」とぞ申(まうし)ける。夢想(むさう)と云(いひ)、示現(じげん)と云(いひ)、只人(ただひと)にあらずとて、嗷問の沙汰を止(やめ)られけり。同(おなじき)七月十三日に、三人(さんにん)の僧達(そうたち)遠流(をんる)の在所(ざいしよ)定(さだまつ)て、文観僧正をば硫黄(いわう)が嶋、忠円僧正をば越後国(ゑちごのくに)へ流さる。円観上人計(ばかり)をば遠流一等を宥(なだめ)て、結城上野(ゆふきかうづけ)入道に預(あづけ)られければ、奥州(あうしう)へ具足(ぐそく)し奉(たてまつり)、長途(ちやうど)の旅にさすらひ給(たまふ)。左遷遠流(させんをんる)と云(いは)ぬ計(ばかり)也。遠蛮(ゑんばん)の外(ほか)に遷(うつ)されさせ給へば、是(これ)も只同じ旅程(りよてい)の思(おもひ)にて、肇法師(でうほふし)が刑戮(けいりく)の中(うち)に苦(くるし)み、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)の火羅国(くわらこく)に流されし、水宿山行(すゐしゆくさんぎやう)の悲(かなしみ)もかくやと思知(おもひしら)れたり。名取川(なとりがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)とて上人一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)給ふ。陸奥(みちのく)のうき名取川流来(ながれき)て沈(しづみ)やはてん瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)時の天災(てんさい)をば、大権(だいごん)の聖者(しやうじや)も遁(のが)れ給はざるにや。昔天竺(てんぢく)の波羅奈国(はらないこく)に、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)し給へる独(ひとり)の沙門(しやもん)をはしけり。一朝(いつてう)の国師(こくし)として四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、天下の人帰依偈仰(きえかつがう)せる事(こと)、恰(あたかも)大聖世尊(だいしやうせそん)の出世成道(しゆつせじやうだう)の如(ごとく)也。或時(あるとき)其国(そのくに)の大王法会(ほふゑ)を行ふべき事有(あつ)て説戒(せつかい)の導師(だうし)に此(この)沙門(しやもん)をぞ請(しやう)ぜられける。沙門(しやもん)則(すなはち)勅命に随(したがつ)て鳳闕(ほうけつ)に参(さん)ぜらる。帝(みかど)折節(をりふし)碁(ご)を被遊ける砌(みぎり)へ、伝奏(てんそう)参(まゐつ)て、沙門(しやもん)参内(さんだい)の由を奏し申(まうし)けるを、遊(あそば)しける碁(ご)に御心(おんこころ)を入(いれ)られて、是(これ)を聞食(きこしめさ)れず、碁(ご)の手(て)に付(つい)て、「截(き)れ。」と仰(おほせ)られけるを、伝奏聞誤(ききあやま)りて、此(この)沙門(しやもん)を刎(きれ)との勅定(ちよくぢやう)ぞと心得て、禁門(きんもん)の外(ほか)に出(いだ)し、則(すなはち)沙門(しやもん)の首(くび)を刎(はね)てけり。帝(みかど)碁をあそばしはてゝ、沙門(しやもん)を御前(おんまへ)へ召(めされ)ければ、典獄(てんごく)の官(くわん)、「勅定に随(したがつ)て首(くび)を刎(はね)たり。」と申す。帝(みかど)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありて、「「行死(かうし)定(さだまつ)て後(のち)三奏(さんそう)す」と云へり。而(しかる)を一言(いちげん)の下(した)に誤(あやまり)を行(おこなう)て、朕(ちん)が不徳(ふとく)をかさぬ。罪大逆(たいぎやく)に同じ。」とて、則(すなはち)伝奏を召出(めしいだ)して三族の罪に行(おこなは)れけり。さて此(この)沙門(しやもん)罪なくして死刑に逢ひ給(たまひ)ぬる事只事(ただごと)にあらず、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)にてをはすらんと思食(おぼしめさ)れければ、帝其故(そのゆゑ)を阿羅漢(あらかん)に問(とひ)給ふ。阿羅漢(あらかん)七日が間(あひだ)、定(ぢやう)に入(いつ)て宿命通(しゆくみやうつう)を得て過現(くわげん)を見給ふに、沙門(しやもん)の前生(ぜんじやう)は耕作(かうさく)を業(げふ)とする田夫(でんぶ)也。帝の前生は水にすむ蛙(かはづ)にてぞ有(あり)ける。此(この)田夫鋤(すき)を取(とり)て春の山田(やまだ)をかへしける時、誤(あやまつ)て鋤のさきにて、蛙(かはづ)の頚をぞ切(きり)たりける。此因果(このいんぐわ)に依(よつ)て、田夫は沙門(しやもん)と生(うま)れ、蛙(かいる)は波羅奈国(はらないこく)の大王と生れ、誤(あやまつ)て又死罪(しざい)を行(おこなは)れけるこそ哀(あはれ)なれ。されば此(この)上人も、何(いか)なる修因感果(しゆいんかんくわ)の理(り)に依(よつて)か、卦(かか)る不慮(ふりよ)の罪に沈給(しづみたまひ)ぬらんと、不思議也し事共(ども)也。
○俊基朝臣(としもとあそん)再(ふたたび)関東下向(げかうの)事(こと) S0204
俊基(としもと)朝臣は、先年(せんねん)土岐(とき)十郎頼貞(よりさだ)が討(うた)れし後、召取(めしとら)れて、鎌倉(かまくら)まで下給(くだりたまひ)しかども、様々(さまざま)に陳(ちん)じ申されし趣(おもむき)、げにもとて赦免(しやめん)せられたりけるが、又今度(このたび)の白状共(はくじやうども)に、専(もつぱら)隠謀の企(くはだて)、彼(かの)朝臣にありと載(のせ)たりければ、七月十一日に又六波羅(ろくはら)へ召取(めしとら)れて関東へ送られ給ふ。再犯(さいほん)不赦法令(はふれい)の定(さだま)る所なれば、何(なに)と陳(ちんず)る共(とも)許されじ、路次(ろし)にて失(うしなは)るゝか鎌倉(かまくら)にて斬(きら)るゝか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじと、思儲(おもひまうけ)てぞ出(いで)られける。落花(らくくわ)の雪に蹈(ふみ)迷ふ、片野(かたの)の春の桜がり、紅葉(もみぢ)の錦を衣(き)て帰(かへる)、嵐の山の秋の暮、一夜(ひとよ)を明(あか)す程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものうき)に、恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅からぬ、我(わが)故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくへ)も知(しら)ず思置(おもひおき)、年久(としひさしく)も住馴(すみなれ)し、九重(ここのへ)の帝都(ていと)をば、今を限(かぎり)と顧(かへりみ)て、思はぬ旅に出(いで)玉ふ、心の中(うち)ぞ哀(あはれ)なる。憂(うき)をば留(とめ)ぬ相坂(あふさか)の、関の清水(しみづ)に袖濡(ぬれ)て、末(すゑ)は山路(やまぢ)を打出(うちで)の浜、沖を遥(はるかに)見渡せば、塩(しほ)ならぬ海にこがれ行(ゆく)、身(み)を浮舟(うきふね)の浮沈(うきしづ)み、駒も轟(とどろ)と踏鳴(ふみなら)す、勢多(せた)の長橋(ながはし)打(うち)渡り、行向(ゆきかふ)人に近江路(あふみぢ)や、世のうねの野に鳴(なく)鶴(つる)も、子を思(おもふ)かと哀(あはれ)也。時雨(しぐれ)もいたく森山(もりやま)の、木下露(このしたつゆ)に袖ぬれて、風に露(つゆ)散(ち)る篠原(しのはら)や、篠(しの)分(わく)る道を過行(すぎゆけ)ば、鏡(かがみ)の山は有(あり)とても、泪(なみだ)に曇(くもり)て見へ分(わか)ず。物を思へば夜間(よのま)にも、老蘇森(おいそのもり)の下草(したくさ)に、駒を止(とどめ)て顧(かへりみ)る、古郷(ふるさと)を雲や隔つらん。番馬(ばんば)、醒井(さめがゐ)、柏原(かしはばら)、不破(ふは)の関屋(せきや)は荒果(あれはて)て、猶(なほ)もる物は秋の雨の、いつか我身(わがみ)の尾張(をはり)なる、熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)伏拝(ふしをが)み、塩干(しほひ)に今や鳴海潟(なるみがた)、傾(かたぶ)く月に道見へて、明(あけ)ぬ暮(くれ)ぬと行(ゆく)道の、末(すゑ)はいづくと遠江(とほたふみ)、浜名(はまな)の橋の夕塩(ゆふしほ)に、引人(ひくひと)も無き捨小船(すてをぶね)、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀(あはれ)と夕暮の、入逢(いりあひ)鳴(なれ)ば今はとて、池田(いけだ)の宿(しゆく)に着(つき)給ふ。元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)の比(ころ)かとよ、重衡(しげひらの)中将(ちゆうじやう)の、東夷(とうい)の為に囚(とらは)れて、此宿(このしゆく)に付給(つきたまひ)しに、「東路(あづまぢ)の丹生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、古郷(ふるさと)いかに恋(こひ)しかるらん。」と、長者(ちやうじや)の女(むすめ)が読(よみ)たりし、其古(そのいにしへ)の哀迄(あはれまで)も、思残(おもひのこ)さぬ泪(なみだ)也。旅館(りよくわん)の燈(ともしび)幽(かすか)にして、鶏鳴(けいめい)暁(あかつき)を催(もよほ)せば、疋馬(ひつば)風に嘶(いば)へて、天竜河を打渡り、小夜(さよ)の中山(なかやま)越行(こえゆけ)ば、白雲(はくうん)路(みち)を埋来(うづみき)て、そことも知(しら)ぬ夕暮に、家郷(かけい)の天(そら)を望(のぞみ)ても、昔(むかし)西行法師(さいぎやうほふし)が、「命(いのち)也けり。」と詠(えいじ)つゝ、二度(ふたたび)越(こえ)し跡(あと)までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける。隙(ひま)行(ゆく)駒(こま)の足はやみ、日(ひ)已(すでに)亭午(ていご)に昇(のぼ)れば、餉(かれひ)進(まゐらす)る程とて、輿(こし)を庭前(ていぜん)に舁止(かきとど)む。轅(ながえ)を叩(たたい)て警固(けいご)の武士(ぶし)を近付(ちかづ)け、宿(しゆく)の名を問(とひ)給ふに、「菊川(きくかは)と申(まうす)也。」と答へければ、承久(しようきう)の合戦の時、院宣(ゐんぜん)書(かき)たりし咎(とが)に依(よつ)て、光親(みつちかの)卿(きやう)関東へ召下(めしくだ)されしが、此宿(このしゆく)にて誅(ちゆう)せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書(かき)たりし、遠き昔の筆の跡、今は我(わが)身の上になり。哀(あはれ)やいとゞ増(まさ)りけん、一首(いつしゆ)の歌を詠(えいじ)て、宿(やど)の柱にぞ書(かか)れける。古(いにしへ)もかゝるためしを菊川の同じ流(ながれ)に身をや沈めん大井河(おほゐがは)を過(すぎ)給へば、都にありし名を聞(きき)て、亀山殿(かめやまどの)の行幸(ぎやうがう)の、嵐の山の花盛(はなざか)り、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟に乗り、詩歌管絃(しいかくわんげん)の宴(えん)に侍(はんべり)し事も、今は二度(ふたたび)見ぬ夜(よ)の夢と成(なり)ぬと思(おもひ)つゞけ給ふ。嶋田(しまだ)、藤枝(ふぢえだ)に懸(かか)りて、岡辺(をかべ)の真葛(まくず)裡枯(うらがれ)て、物かなしき夕暮に、宇都(うつ)の山辺を越行(こえゆけ)ば、蔦楓(つたかへで)いと茂りて道もなし。昔業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)の住所(すみところ)を求(もとむ)とて、東(あづま)の方(かた)に下(くだる)とて、「夢にも人に逢(あは)ぬなりけり。」と読(よみ)たりしも、かくやと思知(おもひしら)れたり。清見潟(きよみがた)を過(すぎ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(とほ)さぬ波の関守(せきもり)に、いとゞ涙を催(もよほ)され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津(おきつ)・神原(かんばら)打過(うちすぎ)て、富士の高峯(たかね)を見給へば、雪の中より立(たつ)煙(けぶり)、上(うへ)なき思(おもひ)に比(くら)べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行(すぎゆけ)ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子(たご)の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返(くるまがへ)し、竹の下道(したみち)行(ゆき)なやむ、足柄山(あしがらやま)の巓(たうげ)より、大磯小磯(おほいそこいそを)直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮(くれ)程に、鎌倉(かまくら)にこそ着玉(つきたまひ)けれ。其(その)日軈(やが)て、南条(なんでう)左衛門高直(たかなほ)請取奉(うけとりたてまつつ)て、諏防(すは)左衛門に預(あづけ)らる。一間(ひとま)なる処に蜘手(くもで)きびしく結(ゆう)て、押篭(おしこめ)奉る有様、只地獄(ぢごく)の罪人(ざいにん)の十王(じふわふ)の庁(ちやう)に渡されて、頚械(くびかせ)手械(てかせ)を入(いれ)られ、罪の軽重(きやうぢゆう)を糺(ただ)すらんも、右(かく)やと思知(おもひしら)れたり。
○長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)意見(いけんの)事(こと)付阿新殿(くまわかどのの)事(こと) S0205
当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の事露顕(ろけん)の後(のち)御位(おんくらゐ)は軈(やが)て持明院殿(ぢみやうゐんどの)へぞ進(まゐ)らんずらんと、近習(きんじふ)の人々青女房(あをにようばう)に至(いたる)まで悦(よろこび)あへる処(ところ)に、土岐(とき)が討れし後(のち)も曾(かつ)て其(その)沙汰もなし。今又俊基(としもと)召下(めしくだ)されぬれ共(ども)、御位(おんくらゐ)の事に付(つけ)ては何(いか)なる沙汰あり共(とも)聞(きこえ)ざりければ、持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(かた)の人々案(あん)に相違して五噫(ごい)を謳(うたふ)者のみ多かりけり。さればとかく申進(まうしすすむ)る人のありけるにや、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より内々(ないない)関東へ御使(つかひ)を下され、「当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の企(くはだて)近日(きんじつ)事(こと)已(すで)に急(きふ)なり。武家速(すみやか)に糾明(きうめい)の沙汰なくば天下の乱(らん)近(ちかき)に有(ある)べし。」と仰(おほせ)られたりければ、相摸入道(さがみにふだう)、「げにも。」と驚(おどろい)て、宗徒(むねと)の一門(いちもん)・並(ならびに)頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)如何(いかん)有(ある)べき。」と各(おのおの)所存(しよぞん)を問(とは)る。然(しかれ)ども或(あるひ)は他に譲(ゆづり)て口を閉(とぢ)、或(あるひ)は己(おのれ)を顧(かへりみ)て言(ことば)を出(いだ)さゞる処(ところ)に、執事(しつじ)長崎入道が子息(しそく)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)高資(たかすけ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「先年(せんねん)土岐十郎が討(うた)れし時、当今(たうぎん)の御位(おんくらゐ)を改(あらため)申さるべかりしを、朝憲(てうけん)に憚(はばかつ)て御沙汰(ごさた)緩(ゆる)かりしに依(よつ)て此(この)事(こと)猶(なほ)未休(いまだやまず)。乱(らん)を撥(はらう)て治(ち)を致(いたす)は武の一徳也。速(すみやか)に当今を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を不返(ふへん)の遠流(をんる)に所(しよ)し奉り、俊基(としもと)・資朝以下(すけともいげ)の乱臣を、一々に誅せらるゝより外(ほか)は、別儀(べちぎ)あるべしとも存(ぞんじ)候はず。」と、憚る処なく申(まうし)けるを、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)暫(しばらく)思案(しあん)して申(まうし)けるは、「此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべく聞へ候へ共(ども)、退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を廻(めぐら)すに、武家権(けん)を執(とつ)て已(すで)に百六十余年、威四海(しかい)に及(および)、運累葉(るゐえふ)を耀(かかやか)すこと更に他事(たじ)なし。唯(ただ)上(かみ)一人(いちじん)を仰奉(あふぎたてまつつ)て、忠貞(ちゆうてい)に私(わたくし)なく、下(しもは)百姓(はくせい)を撫(なで)て仁政(じんせい)に施(ほどこし)ある故(ゆゑ)也。然(しかる)に今(いま)君(きみ)の寵臣(ちようしん)一両人召置(めしおか)れ、御帰衣(ごきえ)の高僧両三人(さんにん)流罪(るざい)に処(しよ)せらるゝ事も、武臣(ぶしん)悪行(あくぎやう)の専一(せんいち)と云(いひ)つべし。此上(このうへ)に又主上を遠所(ゑんしよ)へ遷(うつ)し進(まゐら)せ、天台(てんだいの)座主(ざす)を流罪に行(おこなは)れん事(こと)、天道奢(おごり)を悪(にく)むのみならず、山門争(いかで)か憤(いきどほり)を含まざるべき。神怒(いかり)人背(そむ)かば、武運の危(あやふき)に近(ちかか)るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反(ごむほん)の事君(きみ)縦(たとひ)思食立(おぼしめしたつ)とも、武威盛(さかん)ならん程は与(くみ)し申(まうす)者有(ある)べからず。是(これ)に付(つけ)ても武家弥(いよい)よ慎(つつしん)で勅命に応ぜば、君もなどか思食直(おぼしめしなほ)す事無(なか)らん。かくてぞ国家の泰平(たいへい)、武運の長久にて候はんと存(ぞんず)るは、面々(めんめん)如何(いかん)思食(おぼしめし)候。」と申(まうし)けるを、長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)又自余(じよ)の意見をも不待、以(もつて)の外(ほか)に気色(きしよく)を損じて、重(かさね)て申(まうし)けるは、「文武(ぶんぶの)揆(おもむき)一(ひとつ)也と云へ共(ども)、用捨(ようしや)時(とき)異(ことな)るべし。静(しづか)なる世には文を以て弥(いよいよ)治(をさ)め、乱(みだれ)たる時には武を以(もつて)急に静む。故(ゆゑに)戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈(かんくわ)似無用。事已(すで)に急に当(あた)りたり。武を以て治むべき也。異朝(いてう)には文王・武王、臣として、無道(ぶだう)の君を討(うち)し例(れい)あり。吾朝(わがてう)には義時(よしとき)・泰時(やすとき)、下(しも)として不善(ふぜん)の主(しゆ)を流す例あり。世みな是(これ)を以て当(あた)れりとす。されば古典(こてん)にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事(こと)停滞(ていたい)して武家追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下されなば、後悔(こうくわい)すとも益(えき)有(ある)べからず。只(ただ)速(すみやか)に君を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔(おほたふ)の宮(みや)を硫黄(いわう)が嶋へ流(ながし)奉り、隠謀(いんぼう)の逆臣(げきしん)、資朝(すけとも)・俊基(としもと)を誅せらるゝより外(ほか)の事有(ある)べからず。武家の安泰(あんたい)万世(ばんせい)に及(およぶ)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と、居長高(ゐだけだか)に成(なつ)て申(まうし)ける間、当座(たうざ)の頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)、権勢(けんせい)にや阿(おもねり)けん、又愚案(ぐあん)にや落(おち)けん、皆此義(このぎ)に同(どう)じければ、道蘊(だううん)再往(さいわう)の忠言に及ばず眉(まゆ)を顰(ひそめ)て退出(たいしゆつ)す。さる程に、「君の御謀反(ごむほん)を申勧(まうしすすめ)けるは、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・右少弁(うせうべん)俊基(としもと)・日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)也、各(おのおの)死罪(しざい)に行(おこなは)るべし。」と評定(ひやうぢやう)一途(いちづ)に定(さだまつ)て、「先(まづ)去年(きよねん)より佐渡国(さどのくに)へ流されてをはする資朝卿(すけとものきやう)を斬奉(きりたてまつる)べし。」と、其(その)国(くに)の守護(しゆご)本間山城(ほんまやましろ)入道に被下知。此(この)事(こと)京都に聞へければ、此(この)資朝(すけとも)の子息(しそく)国光(くにみつ)の中納言、其比(そのころ)は阿新殿(くまわかどの)とて歳(とし)十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿(きやう)召人(めしうど)に成玉(なりたまひ)しより、仁和寺辺(にんわじへん)に隠(かくれ)て居(ゐ)られけるが、父誅(ちゆう)せられ給(たまふ)べき由(よし)を聞(きい)て、「今は何事にか命(いのち)を惜(をし)むべき。父と共に斬(きら)れて冥途(めいど)の旅の伴(とも)をもし、又最後(さいご)の御(おん)有様をも見奉るべし。」とて母に御暇(おんいとま)をぞ乞(こは)れける。母御(ははご)頻(しきり)に諌(いさめ)て、「佐渡とやらんは、人も通(かよ)はぬ怖(おそろ)しき嶋とこそ聞(きこゆ)れ。日数(ひかず)を経(ふ)る道なればいかんとしてか下(くだる)べき。其上(そのうへ)汝(なんぢ)にさへ離(はなれ)ては、一日片時(へんし)も命(いのち)存(ながらふ)べしとも覚(おぼ)へず。」と、泣悲(なきかなしみ)て止(とめ)ければ、「よしや伴(ともな)ひ行(ゆく)人(ひと)なくば、何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも身を投(なげ)て死(し)なん。」と申(まうし)ける間、母痛(いたく)止(とめ)ば、又目(め)の前(まへ)に憂別(うきわかれ)も有(あり)ぬべしと思侘(おもひわび)て、力なく今迄只(ただ)一人付副(つきそひ)たる中間(ちゆうげん)を相(あひ)そへられて、遥々(はるばる)と佐渡(さどの)国(くに)へぞ下(くだし)ける。路(みち)遠けれども乗(のる)べき馬(むま)もなければ、はきも習(ならは)ぬ草鞋(わらぢ)に、菅(すげ)の小笠(をがさ)を傾(かたぶけ)て、露(つゆ)分(わけ)わくる越路(こしぢ)の旅(たび)、思(おもひ)やるこそ哀(あはれ)なれ。都を出(いで)て十三日と申(まうす)に、越前の敦賀(つるが)の津(つ)に着(つき)にけり。是(これ)より商人船(あきんどぶね)に乗(のり)て、程なく佐渡(さどの)国(くに)へぞ着(つき)にける。人して右(かう)と云(いふ)べき便(たより)もなければ、自(みづから)本間が館(たち)に致(いたつ)て中門(ちゆうもん)の前(まへ)にぞ立(たつ)たりける。境節(をりふし)僧の有(あり)けるが立出(たちいで)て、「此(この)内への御用(ごよう)にて御立(おんたち)候か。又何(いか)なる用にて候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新殿(くまわかどの)、「是(これ)は日野(ひのの)中納言の一子(いつし)にて候が、近来(このごろ)切られさせ給(たまふ)べしと承(うけたまはつ)て、其(その)最後の様(やう)をも見候はんために都より遥々(はるばる)と尋下(たづねくだり)て候。」と云(いひ)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流しければ、此(この)僧心(こころ)有(あり)ける人也ければ、急(いそ)ぎ此由(このよし)を本間に語るに、本間も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)にや思(おもひ)けん、軈(やが)て此(この)僧を以(もつて)持仏堂(ぢぶつだう)へいざなひ入(いれ)て、蹈皮行纒(たびはばき)解(ぬが)せ足洗(あらう)て、疎(おろそか)ならぬ体(てい)にてぞ置(おき)たりける。阿新殿(くまわかどの)是(これ)をうれしと思(おもふ)に付(つけ)ても、同(おなじく)は父の卿(きやう)を疾(とく)見奉(たてまつら)ばやと云(いひ)けれ共(ども)、今日明日(けふあす)斬らるべき人に是(これ)を見せては、中々(なかなか)よみ路(ぢ)の障(さはり)とも成(なり)ぬべし。又関東(くわんとう)の聞(きこ)へもいかゞ有らんずらんとて、父子(ふし)の対面(たいめん)を許さず、四五町隔(へだたつ)たる処(ところ)に置(おき)たれば、父の卿(きやう)は是(これ)を聞(きき)て、行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ都にいかゞ有らんと、思(おもひ)やるよりも尚(なほ)悲し。子は其方(そなた)を見遣(やり)て、浪路(なみぢ)遥(はるか)に隔(へだ)たりし鄙(ひな)のすまゐを想像(おもひやつ)て、心苦(くるし)く思(おもひ)つる泪(なみだ)は更に数(かず)ならずと、袂(たもと)の乾(かわ)くひまもなし。是(これ)こそ中納言のをはします楼(ろう)の中(うち)よとて見やれば、竹の一村(ひとむら)茂(しげ)りたる処に、堀(ほり)ほり廻(まは)し屏(へい)塗(ぬつ)て、行通(ゆきか)ふ人も稀(まれ)也。情(なさけ)なの本間が心や。父は禁篭(きんろう)せられ子は未(いまだ)稚(をさ)なし。縦(たと)ひ一所(いつしよ)に置(おき)たりとも、何程(なにほど)の怖畏(ふゐ)か有(ある)べきに、対面(たいめん)をだに許さで、まだ同(おなじ)世の中(なか)ながら生(しやう)を隔(へだて)たる如(ごとく)にて、なからん後(のち)の苔の下(した)、思寝(おもひね)に見ん夢ならでは、相看(あひみ)ん事も有(あり)がたしと、互に悲(かなし)む恩愛(おんあい)の、父子(ふし)の道こそ哀(あはれ)なれ。五月二十九日の暮程(くれほど)に、資朝卿(すけとものきやう)を篭(ろう)より出(いだ)し奉(たてまつつ)て、「遥(はるか)に御湯(おんゆ)も召(めさ)れ候はぬに、御行水(おんぎやうずゐ)候へ。」と申せば、早(はや)斬らるべき時に成(なり)けりと思給(おもひたまひ)て、「嗚呼(ああ)うたてしき事かな、我(わが)最後の様(やう)を見ん為に、遥々(はるばる)と尋下(たづねくだつ)たる少者(をさなきもの)を一目(ひとめ)も見ずして、終(はて)ぬる事よ。」と計(ばか)り宣(のたまひ)て、其後(そののち)は曾(かつ)て諸事(しよじ)に付(つけ)て言(ことば)をも出(いだし)給はず。今朝(けさ)迄は気色(きしよく)しほれて、常には泪(なみだ)を押拭(おしのご)ひ給(たまひ)けるが、人間(にんげん)の事に於ては頭燃(づねん)を払ふ如(ごとく)に成(なり)ぬと覚(さとつ)て、只綿密(めんみつ)の工夫(くふう)の外(ほか)は、余念(よねん)有りとも見へ給はず。夜(よ)に入れば輿(こし)さし寄(よせ)て乗(の)せ奉り、爰(ここ)より十町許(ちやうばかり)ある河原(かはら)へ出(いだ)し奉り、輿舁居(かきすゑ)たれば、少(すこし)も臆(おく)したる気色(けしき)もなく、敷皮(しきかは)の上に居直(ゐなほつ)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日(ねんがうつきひ)の下(した)に名字(みやうじ)を書付(かきつけ)て、筆を閣(さしお)き給へば、切手(きりて)後(うしろ)へ回(まは)るとぞ見へし、御首(おんくび)は敷皮(しきかは)の上に落(おち)て質(むくろ)は尚(なほ)坐(ざ)せるが如し。此程(このほど)常(つね)に法談(ほふだん)なんどし給ひける僧来(きたつ)て、葬礼(さうれい)如形取営(とりいとな)み、空(むなし)き骨(こつ)を拾(ひろう)て阿新に奉りければ、阿新是(これ)を一目(ひとめ)見て、取手(とるて)も撓(たゆく)倒伏(たふれふし)、「今生(こんじやう)の対面遂に叶(かなは)ずして、替(かは)れる白骨(はつこつ)を見る事よ。」と泣悲(なきかなしむ)も理(ことわり)也。阿新未(いまだ)幼稚(えうち)なれ共(ども)、けなげなる所存(しよぞん)有(あり)ければ、父の遺骨(ゆゐこつ)をば只一人召仕(めしつかひ)ける中間(ちゆうげん)に持(もた)せて、「先(まづ)我よりさきに高野山(かうやさん)に参(まゐり)て奥の院とかやに収(をさめ)よ。」とて都へ帰(かへ)し上(のぼ)せ、我身(わがみ)は労(いたは)る事有る由にて尚(なほ)本間が館(たち)にぞ留(とどま)りける。是(これ)は本間が情(なさけ)なく、父を今生(こんじやう)にて我(われ)に見せざりつる鬱憤(うつぷん)を散(さん)ぜんと思ふ故(ゆゑ)也。角(かく)て四五日経(へ)ける程に、阿新昼(ひる)は病(やむ)由(よし)にて終日(ひねもす)に臥(ふ)し、夜(よる)は忍(しのび)やかにぬけ出(いで)て、本間が寝処(ねところ)なんど細々(こまごま)に伺(うかがう)て、隙(ひま)あらば彼(かの)入道父子(ふし)が間(あひだ)に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定(おもひさだめ)てぞねらいける。或夜(あるよ)雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく吹(ふい)て、番(とのゐ)する郎等共(らうどうども)も皆遠侍(とほさぶらひ)に臥(ふし)たりければ、今こそ待処(まつところ)の幸(さいはひ)よと思(おもう)て、本間が寝処(ねところ)の方(かた)を忍(しのび)て伺(うかがう)に、本間が運やつよかりけん、今夜(こんや)は常の寝処を替(かへ)て、何(いづ)くに有(あり)とも見へず。又二間(ふたま)なる処に燈(とぼしび)の影の見へけるを、是(これ)は若(もし)本間入道が子息(しそく)にてや有(ある)らん。其(それ)なりとも討(うつ)て恨(うらみ)を散(さん)ぜんと、ぬけ入(いつ)て是(これ)を見るに、其(それ)さへ爰(ここ)には無(なく)して、中納言殿(どの)を斬奉(きりたてまつり)し本間(ほんま)三郎と云(いふ)者ぞ只一人臥(ふし)たりける。よしや是(これ)も時に取(とつ)ては親の敵(かたき)也。山城(やましろ)入道に劣(おと)るまじと思(おもう)て走りかゝらんとするに、我は元来(もとより)太刀(たち)も刀(かたな)も持(もた)ず、只(ただ)人(ひと)の太刀を我物(わがもの)と憑(たのみ)たるに、燈(ともしび)殊に明(あきらか)なれば、立寄(たちよら)ば軈(やが)て驚合(おどろきあ)ふ事もや有(あら)んずらんと危(あやぶん)で、左右(さう)なく寄(より)ゑず。何(いか)がせんと案じ煩(わづらう)て立(たち)たるに、折節(をりふし)夏なれば灯(ともしび)の影を見て、蛾(が)と云(いふ)虫のあまた明障子(あかりしやうじ)に取付(とりつき)たるを、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有れと思(おもう)て障子(しやうじ)を少(すこし)引(ひき)あけたれば、此(この)虫あまた内(うち)へ入(いつ)て軈(やが)て灯(ともしび)を打(うち)けしぬ。今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄(たちよつ)て探(さぐ)るに、太刀も刀(かたな)も枕に有(あつ)て、主(ぬし)はいたく寝入(ねいり)たり。先(まづ)刀を取(とつ)て腰にさし、太刀を抜(ぬい)て心(むな)もとに指当(さしあて)て、寝(ね)たる者を殺(ころす)は死人(しにん)に同(おな)じければ、驚(おどろか)さんと思(おもつ)て、先(まづ)足にて枕をはたとぞ蹴(け)たりける。けられて驚く処を、一(いち)の太刀に臍(ほぞ)の上(うへ)を畳(たたみ)までつとつきとをし、返(かへ)す太刀に喉(のど)ぶゑ指切(さしきつ)て、心閑(しづか)に後(うしろ)の竹原(ささはら)の中(なか)へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通(とほ)されてあつと云(いふ)声に、番衆(ばんしゆ)ども驚騒(おどろきさわい)で、火を燃(とぼ)して是(これ)を見るに、血の付(つき)たるちいさき足跡(あしあと)あり。「さては阿新殿(くまわかどの)のしわざ也。堀の水深ければ、木戸(きど)より外(ほか)へはよも出(いで)じ。さがし出(いだつ)て打殺(うちころ)せ。」とて、手々(てにてに)松明(たいまつ)をとぼし、木の下、草の陰(かげ)まで残処(のこるところ)無(なく)ぞさがしける。阿新は竹原(ささはら)の中に隠れながら、今は何(いづ)くへか遁(のが)るべき。人手(ひとで)に懸(かか)らんよりは、自害(じがい)をせばやと思はれけるが、悪(にく)しと思(おもふ)親の敵(かたき)をば討(うつ)つ、今は何(いかに)もして命(いのち)を全(まつたう)して、君の御用(ごよう)にも立(たち)、父の素意(そい)をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若(もし)やと一(ひと)まど落(おち)て見ばやと思返(おもひかへ)して、堀を飛越(とびこえ)んとしけるが、口(くち)二丈深さ一丈に余(あま)りたる堀なれば、越(こゆ)べき様(やう)も無(なか)りけり。さらば是(これ)を橋にして渡(はたら)んよと思(おもつ)て、堀の上に末(すゑ)なびきたる呉竹(くれたけ)の梢(こずゑ)へさら/\と登(のぼり)たれば、竹の末(すゑ)堀の向(むかひ)へなびき伏(ふし)て、やす/\と堀をば越(こえ)てげり。夜(よ)は未(いまだ)深(ふか)し、湊(みなと)の方(かた)へ行(ゆい)て、舟に乗(のつ)てこそ陸(くが)へは着(つか)めと思(おもう)て、たどるたどる浦の方(かた)へ行程(ゆくほど)に、夜(よ)もはや次第に明離(あけはなれ)て忍(しのぶ)べき道もなければ、身を隠(かく)さんとて日(ひ)を暮(くら)し、麻(あさ)や蓬(よもぎ)の生茂(おひしげり)たる中(なか)に隠れ居たれば、追手共(おひてども)と覚(おぼ)しき者共(ものども)百四五十騎馳散(はせちつ)て、「若(もし)十二三計(ばかり)なる児(ちご)や通りつる。」と、道に行合人毎(ゆきあふひとごと)に問音(とふおと)してぞ過行(すぎゆき)ける。阿新其(その)日は麻の中(なか)にて日を暮(くら)し、夜(よる)になれば湊(みなと)へと心ざして、そことも知(しら)ず行(ゆく)程に、孝行の志(こころざし)を感じて、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)をや回(めぐ)らされけん、年(とし)老(おい)たる山臥(やまぶし)一人行合(ゆきあひ)たり。此児(このちご)の有様を見て痛(いたは)しくや思(おもひ)けん、「是(これ)は何(いづ)くより何(いづく)をさして御渡(おんわた)り候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新事の様(やう)をありの侭(まま)にぞ語りける。山臥(やまぶし)是(これ)を聞(きい)て、我(われ)此(この)人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思(おもひ)ければ、「御心(おんこころ)安く思食(おぼしめさ)れ候へ。湊(みなと)に商人舟共(あきんどぶねども)多(おほく)候へば、乗(の)せ奉(たてまつつ)て越後・越中の方(かた)まで送付(おくりつけ)まいらすべし。」と云(いひ)て、足たゆめば、此児(このちご)を肩に乗(の)せ背(せなか)に負(おう)て、程なく湊にぞ行着(ゆきつき)ける。夜明(よあけ)て便船(びんせん)やあると尋(たづね)けるに、折節(をりふし)湊の内(うち)に舟一艘(いつさう)も無(なか)りけり。如何(いかん)せんと求(もとむ)る処に、遥(はるか)の澳(おき)に乗(のり)うかべたる大船(たいせん)、順風(じゆんぷう)に成(なり)ぬと見て檣(ほばしら)を立(たて)篷(とま)をまく。山臥手を上(あげ)て、「其(その)船是(これ)へ寄(よせ)てたび給へ、便船申さん。」と呼(よばは)りけれ共(ども)、曾(かつ)て耳にも聞入(ききいれ)ず、舟人(ふなうど)声を帆(ほ)に上(あげ)て湊の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。山臥大(おほき)に腹を立(た)て柿(かき)の衣(ころも)の露(つゆ)を結(むすん)で肩にかけ、澳(おき)行(ゆく)舟に立向(たちむかつ)て、いらたか誦珠(じゆず)をさら/\と押揉(おしもみ)て、「一持秘密咒(いちぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)、奉仕修行者(ぶじしゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(いうによばがぼん)と云へり。況(いはんや)多年(たねん)の勤行(ごんぎやう)に於てをや。明王(みやうわう)の本誓(ほんせい)あやまらずば、権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)・天竜夜叉(てんりゆうやしや)・八大龍王(はちだいりゆうわう)、其(その)船此方(こなた)へ漕返(こぎもどし)てたばせ給へ。」と、跳上(をどりあがり)々々肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈りける。行者(ぎやうじや)の祈り神(しん)に通(つう)じて、明王(みやうわう)擁護(おうご)やしたまひけん、澳(おき)の方(かた)より俄(にはか)に悪風(あくふう)吹来(ふききたつ)て、此(この)舟忽(たちまちに)覆(くつかへ)らんとしける間(あひだ)、舟人共(ふなうどども)あはてゝ、「山臥の御房(ごばう)、先(まづ)我等を御助(おんたす)け候へ。」と手を合(あはせ)膝(ひざ)をかゞめ、手々(てにて)に舟を漕(こぎ)もどす。汀(みぎは)近く成(なり)ければ、船頭(せんどう)舟より飛下(とびおり)て、児(ちご)を肩にのせ、山臥の手を引(ひい)て、屋形(やかた)の内(うち)に入(いり)たれば、風は又元(もと)の如(ごとく)に直(なほ)りて、舟は湊を出(いで)にけり。其後(そののち)追手共(おひてども)百四五十騎馳来(はせきた)り、遠浅(とほあさ)に馬を叩(ひかへ)て、「あの舟止(とま)れ。」と招共(まねけども)、舟人(ふなうど)是(これ)を見ぬ由にて、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)たれば、舟は其日(そのひ)の暮程(くれほど)に、越後の府(こう)にぞ着(つき)にける。阿新山臥に助(たすけ)られて、鰐口(わにのくち)の死を遁(のがれ)しも、明王加護(かご)の御誓(おんちかひ)掲焉(けつえん)なりける験(しるし)也。
○俊基(としもと)被誅事並(ならびに)助光(すけみつが)事(こと) S0206
俊基(としもと)朝臣(あそん)は殊更(ことさら)謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、遠国(をんごく)に流すまでも有(ある)べからず、近日(きんじつ)に鎌倉中(かまくらぢゆう)にて斬(きり)奉るべしとぞ被定たる。此(この)人多年の所願(しよぐわん)有(あつ)て、法華経(ほけきやう)を六百部自(みづか)ら読誦(どくじゆ)し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満(みつ)る程の命(いのち)を被相待候て、其後(そののち)兎(と)も角(かく)も被成候へと、頻(しきり)に所望(しよまう)有(あり)ければ、げにも其(それ)程の大願(だいぐわん)を果(はた)させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終(をふ)る程(ほど)僅(わづか)の日数(ひかず)を待暮(まちくら)す、命の程こそ哀(あはれ)なれ。此(この)朝臣の多年(たねん)召仕(めしつかひ)ける青侍(あをさぶらひ)に後藤左衛門(さゑもんの)尉(じよう)助光(すけみつ)と云(いふ)者あり。主(しゆう)の俊基(としもと)召取(めしと)られ給(たまひ)し後(のち)、北方(きたのかた)に付進(つきまゐら)せ嵯峨(さが)の奥に忍(しのび)て候(さふらひ)けるが、俊基(としもと)関東へ被召下給ふ由を聞給(ききたまひ)て、北方(きたのかた)は堪(たへ)ぬ思(おもひ)に伏沈(ふししづみ)て歎悲給(なげきかなしみたまひ)けるを見奉(たてまつる)に、不堪悲して、北(きた)の方(かた)の御文(おんふみ)を給(たまはつ)て、助光忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へぞ下(くだり)ける。今日明日(けふあす)の程と聞へしかば、今は早(はや)斬(きら)れもやし給ひつらんと、行逢(ゆきあふ)人に事の由を問々(とひとひ)、程なく鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。右少弁(うせうべん)俊基(としもと)のをはする傍(あたり)に宿(やど)を借(かり)て、何(いか)なる便(たより)もがな、事の子細(しさい)を申入(まうしいれ)んと伺(うかがひ)けれども、不叶して日を過(すご)しける処に、今日(けふ)こそ京都よりの召人(めしうど)は斬(きら)れ給(たまふ)べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何(いか)がせんと肝(きも)を消し、此彼(ここかしこ)に立(たち)て見聞(けんもん)しければ、俊基(としもと)已(すで)に張輿(はりごし)に乗(の)せられて粧坂(けはひざか)へ出(いで)給ふ。爰(ここ)にて工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)請取(うけとり)て、葛原岡(くずはらがをか)に大幕(おほまく)引(ひい)て、敷皮(しきかは)の上に坐(ざ)し給へり。是(これ)を見ける助光が心中(こころのうち)譬(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。目くれ足もなへて、絶入(たえい)る計(ばかり)に有(あり)けれども、泣々(なくなく)工藤殿(どの)が前(まへ)に進出(すすみいで)て、「是(これ)は右少弁殿(どの)の伺候(しこう)の者にて候が、最後(さいご)の様(やう)見奉(たてまつり)候はん為に遥々(はるばる)と参(まゐり)候。可然は御免(ごめん)を蒙(かうぶつ)て御前(おんまへ)に参り、北方(きたのかた)の御文(おんふみ)をも見参(けんざん)に入(いれ)候はん。」と申(まうし)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流(ながし)ければ、工藤も見るに哀(あはれ)を催(もよほ)されて、不覚(ふかく)の泪(なみだ)せきあへず。「子細候まじ、早(はや)幕の内(うち)へ御参(おんまゐり)候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入(いつ)て御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)く。俊基(としもと)は助光を打見て、「いかにや。」と計(ばかり)宣(のたまひ)て、軈(やが)て泪に咽(むせ)び給ふ。助光も、「北方(きたのかた)の御文(おんふみ)にて候。」とて、御前(おんまへ)に差置(さしおき)たる計(ばかり)にて、是(これ)も涙にくれて、顔をも持(もち)あげず泣(なき)居たり。良(やや)暫(しばら)く有(あつ)て、俊基(としもと)涙を押拭(おしのご)ひ、文を見給へば、「消懸(きえかか)る露の身の置所(おきどころ)なきに付(つけ)ても、何(いか)なる暮(くれ)にか、無世(なきよ)の別(わかれ)と承(うけたまは)り候はんずらんと、心を摧(くだ)く涙の程、御推量(おしはか)りも尚(なほ)浅くなん。」と、詞(ことば)に余(あまり)て思(おもひ)の色深く、黒(くろ)み過(すぐ)るまで書(かか)れたり。俊基(としもと)いとゞ涙にくれて、読(よみ)かね給へる気色(けしき)、見人(みるひと)袖をぬらさぬは無(なか)りけり。「硯(すずり)やある。」と宣(のたま)へば、矢立(やたて)を御前(おんまへ)に指置(さしおけ)ば、硯の中(なか)なる小刀(こがたな)にて鬢(びん)の髪(かみ)を少し押切(おしきつ)て、北方(きたのかた)の文に巻(まき)そへ、引返(ひきかへ)し一筆(ひとふで)書(かい)て助光が手に渡し給へば、助光懐(ふところ)に入(いれ)て泣沈(なきしづみ)たる有様、理(ことわ)りにも過(すぎ)て哀(あはれ)也。工藤左衛門幕(まく)の内に入(いつ)て、「余(あま)りに時の移り候。」と勧(すすむ)れば、俊基(としもと)畳紙(たたうがみ)を取出(とりいだ)し、頚(くび)の回(まは)り押拭(おしのご)ひ、其(その)紙を推開(おしひらい)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣(さしおい)て、鬢(びん)の髪(かみ)を摩(なで)給ふ程こそあれ、太刀(たち)かげ後(うしろ)に光れば、頚は前(まへ)に落(おち)けるを、自(みづか)ら抱(かかへ)て伏(ふし)給ふ。是(これ)を見奉る助光が心の中(うち)、謦(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。さて泣々(なくなく)死骸(しがい)を葬(さう)し奉り、空(むなし)き遺骨(ゆゐこつ)を頚に懸(かけ)、形見(かたみ)の御文(おんふみ)身に副(そへ)て、泣々(なくなく)京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。北方(きたのかた)は助光を待付(まちつけ)て、弁殿(べんどの)の行末(ゆくへ)を聞(きか)ん事の喜(うれ)しさに、人目(ひとめ)も憚(はばから)ず、簾(みす)より外(ほか)に出迎(いでむか)ひ、「いかにや弁殿(どの)は、何比(いつごろ)に御上(おんのぼり)可有との御返事(おんへんじ)ぞ。」と問(とひ)給へば、助光はら/\と泪(なみだ)をこぼして、「はや斬(きら)れさせ給(たまひ)て候。是(これ)こそ今はのきはの御返事(おんへんじ)にて候へ。」とて、鬢(びん)の髪(かみ)と消息(せうそく)とを差(さし)あげて声も惜(をし)まず泣(なき)ければ、北方(きたのかた)は形見(かたみ)の文(ふみ)と白骨(はつこつ)を見給(たまひ)て、内へも入給(いりたまは)ず、縁(えん)に倒伏(たふれふ)し、消入給(きえいりたまひ)ぬと驚く程に見へ給ふ。理(ことわり)なる哉(かな)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り一河(いちが)の流(ながれ)を汲む程も、知(しら)れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残(なごり)を惜(をしむ)習(ならひ)なるに、況(いはん)や連理(れんり)の契(ちぎり)不浅して、十年余(ととせあま)りに成(なり)ぬるに夢より外(ほか)は又も相(あひ)見ぬ、此世(このよ)の外(ほか)の別(わかれ)と聞(きい)て、絶(たえ)入り悲(かなし)み玉ふぞ理(ことわ)りなる。四十九日と申(まうす)に形(かた)の如(ごとく)の仏事(ぶつじ)営(いとなみ)て、北(きた)の方(かた)様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)に身をやつし、柴の扉(とぼそ)の明(あけ)くれは、亡夫(ばうふ)の菩提(ぼだい)をぞ訪(とぶら)ひ玉(たまひ)ける。助光も髻(もとどり)切(きり)て、永く高野山(かうやさん)に閉篭(とぢこもつ)て、偏(ひとへ)に亡君(ばうくん)の後生菩提(ごしやうぼだい)をぞ訪奉(とぶらひたてまつり)ける。夫婦の契(ちぎり)、君臣の儀、無跡(なきあと)迄も留(とどまり)て哀(あはれ)なりし事共(ども)也。
○天下(てんか)怪異(けいの)事(こと) S0207
嘉暦(かりやく)二年の春の比(ころ)南都大乗院(だいじようゐん)禅師房(ぜんじばう)と六方(ろくばう)の大衆(だいしゆ)と、確執(かくしつ)の事有(あつ)て合戦(かつせん)に及ぶ。金堂(こんだう)、講堂(かうだう)、南円(なんゑん)堂(だう)、西金(さいこん)堂(だう)、忽(たちまち)に兵火(ひやうくわ)の余煙(よえん)に焼失(せうしつ)す。又元弘(げんこう)元年、山門東塔(さんもんとうだふ)の北谷(きたたに)より兵火出来(いでき)て、四王院(しわうゐん)、延命(えんめい)院(ゐん)、大講堂(だいかうだう)、法華(ほつけ)堂、常行(じやうぎやう)堂(だう)、一時(じ)に灰燼(くわいじん)と成(なり)ぬ。是等(これら)をこそ、天下の災難(さいなん)を兼(かね)て知(しら)する処の前相(ぜんさう)かと人皆魂(たましひ)を冷(ひや)しけるに、同(おなじき)年の七月三日大地震(ぢしん)有(あつ)て、紀伊(きの)国(くに)千里浜(せんりばま)の遠干潟(とほひがた)、俄に陸地(りくち)になる事二十余町也。又同(おなじき)七日の酉(とり)の刻(こく)に地震有(あつ)て、富士の絶頂(ぜつちやう)崩(くづ)るゝ事数(す)百丈(ひやくぢやう)也と。卜部(うらべ)の宿祢(すくね)、大亀(だいき)を焼(やい)て占(うらな)ひ、陰陽(おんやう)の博士(はかせ)、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。「勘文(かんぶん)の表(おもて)不穏、尤(もつとも)御慎(おんつつしみ)可有。」と密奏(みつそう)す。寺々(てらでら)の火災所々(しよしよ)の地震只事(ただごと)に非ず。今や不思義出来(いでくる)と人々心を驚(おどろか)しける処に、果して其年(そのとし)の八月二十二日、東使(とうし)両人三千余騎にて上洛(しやうらく)すと聞へしかば、何事(なにこと)とは知(しら)ず京(みやこ)に又何(いか)なる事や有(あら)んずらんと、近国(きんごく)の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳集(はせあつま)る。京中(きやうぢゆう)何(なに)となく、以外(もつてのほか)に騒動(さうどう)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)して未(いまだ)文箱(ふばこ)をも開(ひらか)ぬ先(さき)に、何(なに)とかして聞へけん。「今度(このたび)東使(とうし)の上洛(しやうらく)は主上(しゆしやう)を遠国(をんごく)へ遷進(うつしまゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に行奉(おこなひたてまつら)ん為也。」と、山門に披露(ひろう)有(あり)ければ、八月二十四日の夜(よ)に入(いつ)て、大塔宮(おほたふのみや)より潛(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度(こんど)東使上洛の事内々承(うけたまはり)候へば、皇居(くわうきよ)を遠国(をんごく)へ遷(うつし)奉り、尊雲(そんうん)を死罪に行(おこなは)ん為にて候なる。今夜(こんや)急(いそ)ぎ南都(なんと)の方(かた)へ御忍(おんしの)び候べし。城郭未調(いまだととのはず)、官軍(くわんぐん)馳参(はせさん)ぜざる先(さき)に、凶徒(きようと)若(もし)皇居(くわうきよ)に寄来(よせきたら)ば、御方(みかた)防戦(ふせぎたたかふ)に利(り)を失(うしな)ひ候はんか。且(かつう)は京都の敵(てき)を遮(さへぎ)り止(とめ)んが為、又は衆徒(しゆと)の心を見んが為に、近臣(きんしん)を一人、天子の号(がう)を許(ゆるさ)れて山門へ被上せ、臨幸(りんかう)の由を披露(ひろう)候はゞ、敵軍(てきぐん)定(さだめ)て叡山(えいさん)に向(むかつ)て合戦(かつせん)を致し候はん歟(か)。去程(さるほど)ならば衆徒(しゆと)吾山(わがやま)を思故(おもふゆゑ)に、防戦(ふせぎたたかふ)に身命(しんみやう)を軽(かろん)じ候べし。凶徒(きようと)力(ちから)疲(つか)れ合戦数日(すじつ)に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和(やまと)・河内(かはち)の官軍(くわんぐん)を以て却(かへつ)て京都を被攻んに、凶徒の誅戮(ちゆうりく)踵(くびす)を回(めぐら)すべからず。国家の安危(あんき)只(ただ)此(この)一挙(きよ)に可有候也。」と被申たりける間、主上(しゆしやう)只(ただ)あきれさせ玉へる計(ばかり)にて何(なに)の御沙汰(ごさた)にも及(および)玉はず。尹(ゐんの)大納言(だいなごん)師賢(もろかた)・万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・同(おなじき)舎弟(しやてい)季房(すゑふさ)三四人(さんしにん)上臥(うへふし)したるを御前(おんまへ)に召(めさ)れて、「此(この)事(こと)如何(いかん)可有。」と被仰出ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「逆臣(ぎやくしん)君を犯(をか)し奉らんとする時、暫(しばらく)其難(そのなん)を避(さけ)て還(かへつ)て国家を保(たもつ)は、前蹤(ぜんじよう)皆佳例(かれい)にて候。所謂(いはゆる)重耳(ちようじ)は■(てき)に奔(はし)り、大王(だいわう)■(ひん)に行く。共に王業(わうげふ)をなして子孫無窮(しそんぶきゆう)に光(ひかり)を栄(かかやか)し候き。兔角(とかく)の御思案(ごしあん)に及(および)候はゞ、夜(よ)も深候(ふけさふらひ)なん。早(はや)御忍(おんしのび)候へ。」とて、御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を乗(のせ)奉り、下簾(したすだれ)より出絹(だしぎぬを)出(いだ)して女房車(にようばうぐるま)の体(てい)に見せ、主上を扶乗進(たすけのせまゐらせ)て、陽明門(やうめいもん)より成(なし)奉る。御門(ごもん)守護(しゆご)の武士共(ぶしども)御車(おんくるま)を押(おさ)へて、「誰にて御渡(おんわた)り候ぞ。」と問申(とひまうし)ければ、藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)御車(おんくるま)に随(したがつ)て供奉(ぐぶ)したりけるが、「是(これ)は中宮(ちゆうぐう)の夜(よ)に紛(まぎれ)て北山殿(きたやまどの)へ行啓(ぎやうけい)ならせ給ふぞ。」と宣(のたまひ)たりければ、「さては子細(しさい)候はじ。」とて御車(おんくるま)をぞ通(とほ)しける。兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、源(げん)中納言(ちゆうなごん)具行(ともゆき)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、三条河原(さんでうがはら)にて追付(おつつき)奉る。此(ここ)より御車(おんくるま)をば被止、怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(まゐら)せたれども、俄(にはか)の事にて駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)重康(しげやす)・楽人(がくにん)豊原兼秋(とよはらのかねあき)・随身(ずゐじん)秦久武(はだのひさたけ)なんどぞ御輿(おんこし)をば舁(かき)奉りける。供奉の諸卿(しよきやう)皆衣冠(いくわん)を解(ぬい)で折烏帽子(をりゑぼし)に直垂(ひたたれ)を着(ちやく)し、七大寺詣(まうで)する京家(きやうけ)の青侍(あをさぶらひ)なんどの、女性(によしやう)を具足(ぐそく)したる体(てい)に見せて、御輿(おんこし)の前後(ぜんご)にぞ供奉したりける。古津(こづの)石地蔵(いしぢざう)を過(すぎ)させ玉ひける時、夜(よ)は早(はや)若々(ほのぼの)と明(あけ)にけり。此(ここ)にて朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を進め申(まうし)て、先づ南都(なんと)の東南院(とうなんゐん)へ入(いら)せ玉ふ。彼僧正(かのそうじやう)元(もと)より弐(ふたごこ)ろなき忠義を存(そん)ぜしかば、先づ臨幸(りんかう)なりたるをば披露(ひろう)せで衆徒(しゆと)の心を伺聞(うかがひきく)に、西室(にしむろの)顕実(けんじつ)僧正は関東(くわんとう)の一族にて、権勢(けんせい)の門主(もんじゆ)たる間、皆其(その)威にや恐れたりけん、与力(よりき)する衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。かくては南都の皇居(くわうきよ)叶(かなふ)まじとて、翌日(よくじつ)二十六日、和束(わつか)の鷲峯山(じゆぶうせん)へ入(いら)せ玉ふ。此(ここ)は又余(あま)りに山深く里(さと)遠(とほう)して、何事(なにこと)の計畧も叶(かなふ)まじき処なれば、要害(えうがい)に御陣(ごぢん)を召(めさ)るべしとて、同(おなじき)二十七日潛幸(せんかう)の儀式を引(ひき)つくろひ、南都の衆徒(しゆと)少々(せうせう)召具(めしぐ)せられて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なる。
○師賢(もろかた)登山(とうさんの)事(こと)付唐崎浜(からさきはま)合戦(かつせんの)事(こと) S0208
尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)は、主上の内裏(だいり)を御出有(ぎよしゆつあり)し夜(よ)、三条河原(さんでうがはら)迄被供奉たりしを、大塔宮(おほたふのみや)より様々(さまざま)被仰つる子細(しさい)あれば、臨幸(りんかうの)由(よし)にて山門へ登り、衆徒(しゆと)の心をも伺ひ、又勢(せい)をも付(つけ)て合戦を致せと被仰ければ、師賢(もろかた)法勝寺(ほつしやうじ)の前より、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を着(ちやくし)て、腰輿(えうよ)に乗替(のりかへ)て山門の西塔院(さいたふゐん)へ登(のぼり)玉ふ。四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)貞平(さだひら)、皆衣冠(いくわん)正(ただしう)して、供奉(ぐぶ)の体(てい)に相順(あひしたが)ふ。事の儀式誠敷(まことしく)ぞ見へたりける。西塔(さいたふ)の釈迦堂(しやかだう)を皇居(くわうきよ)と被成、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸(りんかう)成(なり)たる由(よし)披露(ひろう)有(あり)ければ、山上(さんじやう)・坂本は申(まうす)に及ばず、大津(おほつ)・松本(まつもと)・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・仰木(あふぎ)・絹河(きぬがは)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者迄も、我前(われさき)にと馳参(はせまゐる)。其勢(そのせい)東西両塔(とうざいりやうたふ)に充満して、雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ見へたりける。懸(かか)りけれども、六波羅(ろくはら)には未(いまだ)曾(かつて)是(これ)を知らず。夜(よ)明(あけ)ければ東使両人(とうしりやうにん)内裏(だいり)へ参(さんじ)て、先づ行幸(ぎやうがう)を六波羅(ろくはら)へ成奉(なしたてまつら)んとて打立(うちたち)ける処に、浄林房(じやうりんばうの)阿闍梨(あじやり)豪誉(がうよ)が許(もと)より、六波羅(ろくはら)へ使者(ししや)を立(た)て、「今夜(こんや)の寅(とら)の刻(こく)に、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸成りたる間、三千の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く馳(はせ)参り候。近江(あふみ)・越前(ゑちぜん)の御勢(おんせい)を待(まち)て、明日(みやうにち)は六波羅(ろくはら)へ被寄べき由評定(ひやうじやう)あり。事の大(おほき)に成り候はぬ先(さき)に、急ぎ東坂本(ひがしさかもと)へ御勢(おんせい)を被向候へ。豪誉後攻仕(ごづめつかまつり)て、主上をば取(とり)奉るべし。」とぞ申(まうし)たりける。両六波羅(りやうろくはら)大(おほき)に驚(おどろい)て先(まづ)内裡(だいり)へ参(さんじ)て見奉るに、主上は御坐無(ござなく)て、只局町(つぼねまちの)女房達(にようばうたち)此彼(ここかしこ)にさしつどひて、鳴(なく)声のみぞしたりける。「さては山門へ落(おち)させ玉(たまひ)たる事子細(しさい)なし。勢(せい)つかぬ前(さき)に山門を攻(せめ)よ。」とて、四十八箇所(しじふはつかしよ)の篝(かがり)に畿内(きない)五箇国(ごかこく)の勢(せい)を差添(さしそへ)て、五千余騎追手(おふて)の寄手(よせて)として、赤山(せきさん)の麓(ふもと)、下松(さがりまつ)の辺(へん)へ指向(さしむけ)らる。搦手(からめて)へは佐々木(ささきの)三郎判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)・海東左近将監(かいとうさこんのしやうげん)・長井丹後(たんごの)守(かみ)宗衡(むねひら)・筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)貞知(さだとも)・波多野(はだの)上野前司(かうづけのぜんじ)宣道(のぶみち)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)に、美濃(みの)・尾張(をはり)・丹波(たんば)・但馬(たじま)の勢(せい)をさしそへて七千余騎、大津、松本を経(へ)て、唐崎(からさき)の松の辺(へん)まで寄懸(よせかけ)たり。坂本には兼(かね)てより相図(あひづ)を指(さし)たる事なれば、妙法院(めうほふゐん)・大塔宮(おほたふのみや)両門主(もんじゆ)、宵(よひ)より八王子(はちわうじ)へ御上(おんあがり)あ(つ)て、御旗(おんはた)を被揚たるに、御門徒(ごもんと)の護正院(ごしやうゐん)の僧都(そうづ)祐全(いうぜん)・妙光坊(めうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)玄尊(げんそん)を始(はじめ)として、三百騎五百騎此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参りける程に、一夜(いちや)の間(あひだ)に御勢(おんせい)六千余騎に成(なり)にけり。天台座主(てんだいのざす)を始(はじめ)て解脱同相(げだつどうさう)の御衣(おんころも)を脱給(ぬぎたまひ)て、堅甲利兵(けんかふりへい)の御貌(おんかたち)に替(かは)る。垂跡和光(すゐじやくわくわう)の砌(みぎ)り忽(たちまち)に変(へんじ)て、勇士守禦(しゆぎよ)の場(ば)と成(なり)ぬれば、神慮(しんりよ)も何(いか)が有(あ)らんと計(はか)り難(かたく)ぞ覚(おぼえ)たる。去程(さるほど)に、六波羅(ろくはら)勢(ぜい)已(すで)に戸津(とづ)の宿辺(しゆくのへん)まで寄(よせ)たりと坂本の内(うち)騒動(さうだう)しければ、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんしゆうゐん)・中坊(なかのばうの)勝行房(しようぎやうばう)・早雄(はやりを)の同宿共(どうしゆくども)、取(とる)物も取(とり)あへず唐崎(からさき)の浜へ出合(いであひ)げる。其(その)勢皆かち立(だち)にて而(しか)も三百人には過(すぎ)ざりけり。海東(かいとう)是(これ)を見て、「敵(てき)は小勢也(こぜいなり)けるぞ、後陣(ごぢん)の勢(せい)の重(かさ)ならぬ前(さき)に懸散(かけちら)さでは叶(かなふ)まじ。つゞけや者共(ものども)。」と云侭(いふまま)に、三尺四寸の太刀(たち)を抜(ぬい)て、鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖をさしかざし、敵のうず巻(まい)て扣(ひか)へたる真中(まんなか)へ懸入(かけいり)、敵三人(さんにん)切(きり)ふせ、波打際(なみうちぎは)に扣(ひか)へて続(つづ)く御方(みかた)をぞ待(まち)たりける。岡本房(をかもとばう)の幡磨(はりまの)竪者(りつしや)快実(くわいじつ)遥(はるか)に是(これ)を見て、前(まへ)につき双(ならべ)たる持楯(もちだて)一帖(でふ)岸破(かつぱ)と蹈倒(ふみたふ)し、に尺八寸の小長刀(こなぎなた)水車(みづぐるま)に回(まは)して躍(をど)り懸(かか)る。海東(かいとう)是(これ)を弓手(ゆんで)にうけ、胄(かぶと)の鉢(はち)を真二(まつぷたつ)に打破(うちわら)んと、隻手打(かたてうち)に打(うち)けるが、打外(うちはづ)して、袖の冠板(かふりいた)より菱縫(ひしぬひ)の板まで、片筋(かたすぢ)かいに懸(かけ)ず切(きつ)て落(おと)す。二(に)の太刀(たち)を余(あま)りに強く切(きら)んとて弓手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を踏(ふみ)をり、已(すで)に馬より落(おち)んとしけるが、乗直(のりなほ)りける処を、快実(くわいじつ)長刀(なぎなた)の柄(え)を取延(とりのべ)、内甲(うちかぶと)へ鋒(きつさ)き上(あがり)に、二(ふた)つ三(み)つすき間(ま)もなく入(いれ)たりけるに、海東あやまたず喉(のど)ぶゑを突(つか)れて馬より真倒(まつさかさま)に落(おち)にけり。快実軈(やが)て海東が上巻(あげまき)に乗懸(のりかか)り、鬢(びん)の髪(かみ)を掴(つかん)で引懸(ひきかけ)て、頚かき切(きつ)て長刀に貫(つらぬ)き、武家の太将一人討取(うちと)りたり、物始(ものはじめ)よし、と悦(こころう)で、あざ笑(わらう)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に何者とは知(しら)ず見物衆(けんぶつしゆ)の中(なか)より、年十五六計(ばかり)なる小児(こちご)の髪(かみ)唐輪(からわ)に上(あげ)たるが、麹塵(きぢん)の筒丸(どうまろ)に、大口(おほくち)のそば高く取り、金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)を抜(ぬい)て快実に走懸(はしりかか)り、甲(かぶと)の鉢をしたゝかに三打四打(みうちようち)ぞ打(うち)たりける。快実屹(きつ)と振帰(ふりかへつ)て是(これ)を見るに、齢(よはひ)二八計(じはちばかり)なる小児(こちご)の、大眉(おほまゆ)に鉄漿黒(かねくろ)也。是程(これほど)の小児(こちご)を討留(うちとめ)たらんは、法師(ほつし)の身に取(とつ)ては情無(なさけな)し。打(う)たじとすれば、走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)手繁(てしげ)く切回(きりまは)りける間、よし/\さらば長刀(なぎなた)の柄(え)にて太刀を打落(うちおとし)て、組止(くみとど)めんとしける処を、比叡辻(へいつぢ)の者共(ものども)が田(た)の畔(くろ)に立渡(たちわたつ)て射ける横矢(よこや)に、此児(このちご)胸板(むないた)をつと被射抜て、矢庭(やには)に伏(ふし)て死(し)にけり。後(のち)に誰(たれ)ぞと尋(たづぬ)れば、海東が嫡子(ちやくし)幸若丸(かうわかまろ)と云(いひ)ける小児、父が留置(とどめおき)けるに依(よつ)て軍(いくさ)の伴(とも)をばせざりけるが、猶も覚束(おぼつか)なくや思(おもひ)けん、見物衆(けんぶつしゆ)に紛(まぎれ)て跡に付(つい)て来(きたり)ける也。幸若稚(をさな)しと云へ共(ども)武士(ぶし)の家に生(うまれ)たる故(ゆゑ)にや、父が討(うた)れけるを見て、同(おなじ)く戦場(せんぢやう)に打死(うちじに)して名を残(のこし)けるこそ哀(あはれ)なれ。海東が郎等(らうとう)是(これ)を見て、「二人(ににん)の主(しゆう)を目の前(まへ)に討(うた)せ、剰(あまつさ)へ頚を敵(てき)に取(とら)せて、生(いき)て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共(ものども)轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸入(かけいり)、主(しゆう)の死骸(しがい)を枕にして討死(うちじに)せんと相争(あひあらそ)ふ。快実是(これ)を見てから/\と打笑(うちわらう)て、「心得(こころえ)ぬ物(もの)哉(かな)。御辺達(ごへんたち)は敵(てき)の首(くび)をこそ取らんずるに、御方(みかた)の首(くび)をほしがるは武家(ぶけ)自滅(じめつ)の瑞相(ずゐさう)顕(あらは)れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭(いふまま)に、持(もち)たる海東が首(くび)を敵(てき)の中(なか)へがはと投懸(なげかけ)、坂本様(さかもとやう)の拝(をが)み切(きり)、八方を払(はらう)て火を散(ちら)す。三十六騎の者共(ものども)、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立(たて)かねたる。佐々木(ささきの)三郎判官時信後(うしろ)に引(ひか)へて、「御方(みかた)討(うた)すな、つゞけや。」と下知(げぢ)しければ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)、三百余騎呼(をめい)て懸(かか)る。快実既(すで)に討(うた)れぬと見へける処に、桂林房(けいりんばう)の悪讚岐(あくさぬき)・中房(なかのばう)の小相摸(こさがみ)・勝行房(しようぎやうばう)の侍従(じじゆう)竪者(りつしや)定快(ぢやうくわい)・金蓮房(こんれんばう)の伯耆(はうき)直源(ぢきげん)、四人左右より渡合(わたりあう)て、鋒(きつさき)を指合(さしあはせ)て切(きつ)て回(まは)る。讚岐と直源と同じ処にて打(うた)れにければ、後陣(ごぢん)の衆徒(しゆと)五十(ごじふ)余人(よにん)連(つれ)て又討(うつ)て懸(かか)る。唐崎(からさき)の浜と申(まうす)は東は湖(みづうみ)にて、其汀(そのみぎは)崩(くづれ)たり。西は深田(ふけた)にて馬の足も立(たた)ず、平沙(へいさ)渺々(べうべう)として道せばし。後(うしろ)へ取(とり)まはさんとするも叶(かなは)ず、中(なか)に取篭(とりこめ)んとするも叶ず。されば衆徒(しゆと)も寄手(よせて)も互に面(おもて)に立(たつ)たる者計(ばかり)戦(たたかう)て、後陣の勢(せい)はいたづらに見物(けんぶつ)してぞ磬(ひか)へたる。已(すで)に唐崎(からさき)に軍(いくさ)始(はじま)りたりと聞へければ、御門徒(ごもんと)の勢(せい)三千余騎、白井(しろゐ)の前(まへ)を今路(いまみち)へ向ふ。本院(ほんゐん)の衆徒(しゆと)七千余人(よにん)、三宮(さんのみや)林(はやし)を下降(おりくだ)る。和仁(わに)・堅田(かただ)の者共(ものども)は、小舟(こぶね)三百余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、敵(てき)の後(うしろ)を遮(さへぎら)んと、大津をさして漕回(こぎまは)す。六波羅勢(ろくはらぜい)是(これ)を見て、叶はじとや思(おもひ)けん、志賀の炎魔堂(えんまだう)の前(まへ)を横切(よこきり)に、今路に懸(かかつ)て引帰(ひきかへ)す。衆徒(しゆと)は案内者(あんないしや)なれば、此彼(ここかしこ)の逼々(つまりつまり)に落合(おちあう)て散々(さんざん)に射る。武士(ぶし)は皆無案内(ぶあんない)なれば、堀峪(ほりがけ)とも云(いは)ず馬を馳倒(はせたふ)して引(ひき)かねける間(あひだ)、後陣(ごじん)に引(ひき)ける海東(かいとう)が若党(わかたう)八騎・波多野(はたの)が郎等(らうとう)十三騎・真野(まのの)入道父子(ふし)二人(ににん)・平井(ひらゐ)九郎主従(しゆうじゆう)二騎谷底(たにそこ)にして討(うた)れにけり。佐々木(ささきの)判官も馬を射させて乗(のり)がへを待程(まつほど)に、大敵(たいてき)左右(さいう)より取巻(とりまい)て既(すで)に討(うた)れぬとみへけるを、名を惜(をし)み命(いのち)を軽(かろ)んずる若党共(わかたうども)、帰合(かへしあはせ)々々所々(しよしよ)にて討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に合(あ)ひ、白昼(はくちう)に京(きやう)へ引帰(ひきかへ)す。此比(このころ)迄は天下久(ひさしく)静(しづか)にして、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は敢(あへ)て耳にも触(ふれ)ざりしに、俄(にわか)なる不思議出来(いでき)ぬれば、人皆あはて騒(さわい)で、天地(てんち)も只今打返(うちかへ)す様(やう)に、沙汰せぬ処も無(なか)りけり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御幸六波羅(ろくはらにごかうの)事(こと) S0209
世上(せじやう)乱(みだれ)たる時節(をりふし)なれば、野心(やしん)の者共(ものども)の取進(とりまゐら)する事もやとて、昨日(きのふ)二十七日の巳刻(みのこく)に、持明院本院(ぢみやうゐんほんゐん)・春宮(とうぐう)両御所(りやうごしよ)、六条(ろくでう)殿(どの)より、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)へ御幸(ごかう)なる。供奉(ぐぶ)の人人には、今出川(いまでがはの)前右大臣(さきのうだいじん)兼季公(かねすゑこう)・三条(さんでうの)大納言通顕(みちあき)・西園寺(さいをんじの)大納言公宗(きんむね)・日野(ひのの)前(さきの)中納言資名(すけな)・防城(ばうじやうの)宰相(さいしやう)経顕(つねあき)・日野(ひのの)宰相資明(すけあきら)、皆衣冠(いくわん)にて御車(おんくるま)の前後(ぜんご)に相順(あひしたが)ふ。其外(そのほか)の北面(ほくめん)・諸司(しよし)・格勤(かくご)は、大略(たいりやく)狩衣(かりぎぬ)の下(した)に腹巻(はらまき)を着映(きかかやか)したるもあり。洛中(らくちゆう)須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して、六軍(りくぐん)翠花(すゐくわ)を警固(けいご)し奉る。見聞耳目(けんもんじぼく)を驚かせり。
○主上(しゆしやう)臨幸(りんかう)依非実事山門変儀(へんぎの)事(こと)付紀信(きしんが)事(こと) S0210
山門の大衆(だいしゆ)唐崎の合戦に打勝(うちかつ)て、事始(ことはじめ)よしと喜合(よろこびあへ)る事斜(なのめ)ならず。爰(ここ)に西塔(さいたふ)を皇居(くわうきよ)に被定る条、本院面目無(めんぼくなき)に似(にた)り。寿永(じゆえい)の古(いにし)へ、後白川院(ごしらかはのゐん)山門を御憑有(おんたのみあり)し時も、先(まづ)横川(よかは)へ御登山(ごとうざん)有(あり)しか共(ども)、軈(やが)て東塔(とうたふ)の南谷(みなみたに)、円融坊(ゑんゆうばう)へこそ御移(おんうつり)有(あり)しか。且(かつう)は先蹤(ぜんじよう)也、且(かつう)は吉例(きちれい)也。早く臨幸(りんかう)を本院へ可成奉と、西塔院(さいたふゐん)へ触(ふれ)送る。西塔(さいたふ)の衆徒(しゆと)理(り)にをれて、仙蹕(せんびつ)を促(うながさ)ん為に皇居(くわうきよ)に参列(さんれつ)す。折節(をりふし)深山(みやま)をろし烈(はげしう)して、御簾(ぎよれん)を吹上(ふきあげ)たるより、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉(たてまつり)たれば、主上にてはをわしまさず、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)の、天子(てんし)の袞衣(こんえ)を着(ちやく)し給へるにてぞ有(あり)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見て、「こは何(いか)なる天狗(てんぐ)の所行(しよぎやう)ぞや。」と興(きよう)をさます。其