太平記(国民文庫)


凡例 
使用テキスト 
『太平記 全』(国民文庫刊行会) (流布版本) 翻刻

1. 漢字表記や読みを一部改めました。
2.JISに無い漢字は別の字に置き換えるか、■で表示しました。
3.各章段の頭には原本に○が有りますが、末尾に原本に無い番号を振りました。S+巻数(2桁)+章段(2桁)
4.漢文の返り点や一、二点等を省略しました。
5.各巻巻頭目録は有りません。

2001.06.07 荒山

太平記 目録(国民文庫)

太平記 序

巻第一
後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事
関所停止事
立后事付三位殿御局事
儲王御事
中宮御産御祈事付俊基偽篭居事
無礼講事付玄慧文談事
頼員回忠事
資朝俊基関東下向事付御告文事

巻第二
南都北嶺行幸事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
三人僧徒関東下向事
俊基朝臣再関東下向事
長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
俊基被誅事並助光事
天下怪異事
師賢登山事付唐崎浜合戦事
持明院殿御幸六波羅事
主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事

巻第三
主上御夢事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍事
桜山四郎入道自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事
八歳宮御歌事
一宮並妙法院二品親王御事
俊明極参内事
中宮御歎事
先帝遷幸事
備後三郎高徳事付呉越軍事

巻第五
持明院殿御即位事
宣房卿二君奉公事
中堂新常燈消事
相摸入道弄田楽並闘犬事
時政参篭榎島事
大塔宮熊野落事

巻第六
民部卿三位局御夢想事
楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
正成天王寺未来記披見事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦事付人見本間抜懸事

巻第七
吉野城軍事
千剣破城軍事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀叛事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
三月十二日合戦事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
山徒寄京都事
四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻事付久我畷合戦事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻事
主上々皇御沈落事
越後守仲時已下自害事
主上々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事
千葉屋城寄手敗北事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見事
鎌倉合戦事
赤橋相摸守自害事付本間自害事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
大仏貞直並金沢貞将討死事
信忍自害事
塩田父子自害事
塩飽入道自害事
安東入道自害事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
長崎高重期合戦事
高時並一門以下於東勝寺自害事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸事付新田注進事
正成参兵庫事付還幸事
筑紫合戦事
長門探題降参事
越前牛原地頭自害事
越中守護自害事付怨霊事
金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道事
大内裏造営事付聖廟御事
安鎮国家法事付諸大将恩賞事
千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事
広有射怪鳥事
神泉苑事
兵部卿親王流刑事付驪姫事

巻第十三
竜馬進奏事
藤房卿遁世事
北山殿謀叛事
中前代蜂起事
兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
足利殿東国下向事付時行滅亡事

巻第十四
新田足利確執奏状事
節度使下向事
矢矧鷺坂手超河原闘事
箱根竹下合戦事
官軍引退箱根事
諸国朝敵蜂起事
将軍御進発大渡山崎等合戦事
主上都落事付勅使河原自害事
長年帰洛事付内裏炎上事
将軍入洛事付親光討死事
坂本御皇居並御願書事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢著坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊島河原合戦事
主上自山門還幸事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事
多々良浜合戦事付高駿河守引例事
西国蜂起官軍進発事
新田左中将被責赤松事
児島三郎熊山挙旗事付船坂合戦事
将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事
備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経島合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵事
正成首送故郷事

巻第十七
山攻事付日吉神託事
京都両度軍事
山門牒送南都事
(隆資卿自八幡被寄事)
義貞軍事付長年討死事
江州軍事
自山門還幸事
立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事
瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
十六騎勢入金崎事
金崎船遊事付白魚入船事
金崎城攻事付野中八郎事

巻第十八
先帝潜幸芳野事
高野与根来不和事
瓜生挙旗事
越前府軍並金崎後攻事
瓜生判官老母事付程嬰杵臼事
金崎城落事
春宮還御事付一宮御息所事
比叡山開闢事

巻第十九
光厳院殿重祚御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠事
諸国宮方蜂起事
相摸次郎時行勅免事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事
追奥勢跡道々合戦事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
越後勢越々前事
宸筆勅書被下於義貞事
義貞牒山門同返牒事
八幡炎上事
義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事
義貞夢想事付諸葛孔明事
義貞馬属強事
義貞自害事
義助重集敗軍事
義貞首懸獄門事付勾当内侍事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧事
佐渡判官入道流刑事
法勝寺塔炎上事
先帝崩御事
南帝受禅事
任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
塩冶判官讒死事

巻第二十二
畑六郎左衛門事
義助被参芳野事並隆資卿物語事
佐々木信胤成宮方事
義助予州下向事
義助朝臣病死事付鞆軍事
大館左馬助討死事付篠塚勇力事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
朝儀年中行事事
天竜寺建立事
依山門嗷訴公卿僉議事
天竜寺供養事付大仏供養事
三宅荻野謀叛事付壬生地蔵事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞妖怪事
宮方怨霊会六本杉事付医師評定事
藤井寺合戦事
自伊勢進宝剣事付黄梁夢事
住吉合戦事

巻第二十六
正行参吉野事
四条縄手合戦事付上山討死事
楠正行最後事
芳野炎上事
賀名生皇居事
執事兄弟奢侈事
上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
妙吉侍者事付秦始皇帝事
直冬西国下向事

巻第二十七
天下妖怪事付清水寺炎上事
田楽事付長講見物事
雲景未来記事
左兵衛督欲誅師直事
御所囲事
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事
上杉畠山流罪死刑事
大嘗会事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀叛事
直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事
錦小路殿落南方事
自持明院殿被成院宣事
慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦事付師直怪異事
小清水合戦事付瑞夢事
松岡城周章事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去事付殷紂王事
直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事
薩多山合戦事
慧源禅門逝去事
吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦事
鎌倉合戦事
笛吹峠軍事
八幡合戦事付官軍夜討事
南帝八幡御退失事

巻第三十二
茨宮御位事
無剣璽御即位無例事
山名右衛門左為敵事付武蔵将監自害事
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
山名伊豆守時氏京落事
直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
直冬上洛事付鬼丸鬼切事
神南合戦事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣事
三上皇自芳野御出事
飢人投身事
公家武家栄枯易地事
将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事
畠山道誓上洛事
和田楠軍評定事付諸卿分散事
新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
紀州竜門山軍事
二度紀伊国軍事付住吉楠折事
銀嵩軍事付曹娥精衛事
竜泉寺軍事
平石城軍事付和田夜討事
吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事

巻第三十五
新将軍帰洛事付擬討仁木義長事
京勢重南方発向事付仁木没落事
南方蜂起事付畠山関東下向事
北野通夜物語事付青砥左衛門事
尾張小河東池田事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏叛逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍事
太元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事
神木入洛事付洛中変異事
諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
神木御帰座事
高麗人来朝事
自太元攻日本事
神功皇后攻新羅給事
光厳院禅定法皇行脚御事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時及闘諍事
将軍薨逝事
細河右馬頭自西国上洛事

目録 終



太平記巻第一

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
○後醍醐天皇(ごだいごのてんわう)御治世(ごぢせいの)事付(つけたり)武家(ぶけ)繁昌(はんじやうの)事 S0101
爰(ここ)に本朝人皇(にんわう)の始(はじめ)、神武天皇(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て、武臣(ぶしん)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時と云(いふ)者あり。此(この)時上(かみ)乖君之徳、下(しも)失臣之礼。従之四海大(おほき)に乱(みだれ)て、一日も未安(いまだやすからず)。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)動地、至今四十余年。一人(いちにんとして)而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦(げんりやく)年中に鎌倉の右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)、追討平家而有其功之時、後白河(ごしらかはの)院(ゐん)叡感之余(あまり)に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始(はじめ)て諸国に守護(しゆご)を立(たて)、庄園に地頭(ぢとう)を置(おく)。彼(かの)頼朝の長男左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)、次男右大臣実朝公(さねともこう)、相続(あひつい)で皆征夷将軍の武将に備(そなは)る。是(これ)を号三代将軍。然(しかる)を頼家(よりいへの)卿は為実朝討れ、実朝は頼家(よりいへ)の子為悪禅師公暁討れて、父子(ふし)三代僅(わづか)に四十二年にして而尽(つき)ぬ。其後(そののち)頼朝卿の舅(しうと)、遠江守(とほたふみのかみ)平(たひらの)時政(ときまさの)子息、前陸奥守(さきのむつのかみ)義時、自然に執天下権柄勢漸(やうやく)欲覆四海。此(この)時の大上天皇(だじやうてんわう)は、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)也。武威振下、朝憲(てうけん)廃上事歎思召(なげきおぼしめし)て、義時を亡さんとし給(たまひ)しに、承久の乱出来(いできたつ)て、天下暫(しばらく)も静(しづか)ならず。遂に旌旗(せいき)日に掠(かすめ)て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦(そのたたかひ)未終一日、官軍忽(たちまち)に敗北せしかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)は隠岐国(おきのくに)へ遷(うつ)されさせ給(たまひ)て、義時弥(いよいよ)八荒(はつくわう)を掌(たなごころ)に握る。其(それ)より後(のち)武蔵守(むさしのかみ)泰時(やすとき)・修理亮(しゆりのすけ)時氏(ときうぢ)・武蔵守(むさしのかみ)経時(つねとき)・相摸守(さがみのかみ)時頼・左馬権頭(さまのごんのかみ)時宗・相摸守(さがみのかみ)貞時、相続(あひつい)で七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足(たれ)り、威万人(まんにん)の上に被(かうむる)といへ共(ども)、位(くらゐ)四品(しほん)の際(あひだ)を不越、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を責(せめ)て礼義を正(ただ)す。是(ここ)を以て高しと云(いへ)ども危(あやふ)からず、盈(みて)りと云(いへ)ども溢れず。承久より以来(このかた)、儲王摂家(ちよわうせつけ)の間(あひだ)に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当(あひあた)り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉(まをしくだしたてまつつ)て、征夷将軍と仰(あふい)で、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。同(おなじき)三年に、始(はじめ)て洛中に両人の一族を居(すゑ)て、両六波羅(ろくはら)と号して、西国(さいこく)の沙汰を執行(とりおこなは)せ、京都の警衛に備(そなへ)らる。又永仁(えいにん)元年より、鎮西(ちんぜい)に一人の探題(たんだい)を下(くだ)し、九州の成敗(せいばい)を司(つかさどら)しめ、異賊襲来の守(まもり)を堅(かたう)す。されば一天下、普(あまねく)彼下知(かのげぢ)に不随と云(いふ)処もなく、四海の外(ほか)も、均(ひとし)く其(その)権勢に服せずと云(いふ)者は無(なか)りけり。朝陽(てうやう)不犯ども、残星(ざんせい)光(ひかり)を奪(うばは)る、習(ならひ)なれば、必(かならず)しも、武家より公家(くげ)を蔑(ないがしろに)し奉(たてまつる)としもは無(なけ)れども、所(ところ)には地頭(ぢとう)強(つよう)して、領家(りやうけ)は弱(よわく)、国には守護(しゆご)重(おもう)して、国司(こくし)は軽(かろし)。此(この)故に朝廷は年々(としどし)に衰(おとろへ)、武家は日々(ひび)に盛(さかん)也。因茲代々(だいだい)の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を休(やす)めんが為、近くは朝議の陵廃(りようはい)を歎き思食(おぼしめし)て、東夷(とうい)を亡さばやと、常に叡慮を回(めぐら)されしかども、或(あるひ)は勢(いきほひ)微(び)にして不叶、或は時未到(いまだいたらず)して、黙止(もくしし)給ひける処に、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さきの)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時入道崇鑒(たかときにふだうそうかん)が代(よ)に至(いたつ)て、天地命(めい)を革(あらた)むべき危機云(ここに)顕(あらは)れたり。倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て今を視(みる)に、行跡(かうせき)甚(はなはだ)軽(かろく)して人の嘲(あざけり)を不顧、政道不正して民の弊(つひえ)を不思、唯(ただ)日夜に逸遊(いついう)を事として、前烈(ぜんれつ)を地下(ちか)に羞(はづか)しめ、朝暮(てうぼ)に奇物(きもつ)を翫(もてあそび)て、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす。衛(ゑい)の懿公(いこう)が鶴を乗(の)せし楽(たのしみ)早(はや)尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽(ひき)し恨(うらみ)今に来(きたり)なんとす。見(みる)人眉を顰(ひそ)め、聴(きく)人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す。此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを、相摸守(さがみのかみ)が計(はからひ)として、御年三十一の時、御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉る。御在位(ございゐ)之間(あひだ)、内(うち)には三綱(さんかう)五常(ごじやう)の儀を正(ただしう)して、周公孔子の道に順(したがひ)、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし)の政(まつりごと)不怠給、延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。凡(およそ)諸道の廃(すたれ)たるを興し、一事(いちじ)の善(ぜん)をも被賞しかば、寺社禅律(じしやぜんりつ)の繁昌(はんじやう)、爰(ここ)に時を得、顕密儒道(けんみつじゆだう)の碩才(せきさい)も、皆望(のぞみ)を達せり。誠に天に受(うけ)たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其(その)徳を称じ、其化(そのくわ)に誇らぬ者は無(なか)りけり。
○関所(せきところ)停止(ちやうじの)事 S0102
夫(それ)四境(しきやう)七道の関所(せきところ)は、国(くに)の大禁(たいきん)を知(しら)しめ、時の非常を誡(いましめ)んが為也。然(しかる)に今壟断(ろうだん)の利に依(よつ)て、商売(しやうばい)往来(わうらい)の弊(つひえ)、年貢(ねんぐ)運送の煩(わづらひ)ありとて、大津(おほつ)・葛葉(くずは)の外(ほか)は、悉(ことごと)く所々の新関(しんせき)を止(やめ)らる。又元亨(げんかう)元年の夏、大旱(たいかん)地を枯(からし)て、田服(てんぶく)の外(ほか)百里(ひやくり)の間(あひだ)、空(むなし)く赤土(せきど)のみ有(あつ)て、青苗(せいべう)無し。餓■(がへう)野(や)に満(みち)て、飢人(きにん)地に倒る。此(この)年銭(ぜに)三百を以て、粟(あは)一斗を買(かふ)。君遥(はるか)に天下の飢饉を聞召(きこしめし)て、朕不徳あらば、天予(われ)一人(いちじん)を罪(つみ)すべし。黎民(れいみん)何の咎(とが)有(あり)てか、此災(このわざはひ)に逢(あへ)ると、自(みづから)帝徳(ていとく)の天に背ける事を歎き思召(おぼしめし)て、朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を止(やめ)られて、飢人窮民(きにんきゆうみん)の施行(せぎやう)に引(ひか)れけるこそ難有けれ。是(これ)も猶万民(ばんみん)の飢(うゑ)を助くべきに非ずとて、検非違使(けびゐし)の別当に仰(おほせ)て、当時富祐(ふいう)の輩(ともがら)が、利倍(りばい)の為に畜積(たくはへつめ)る米穀(べいこく)を点検(てんけん)して、二条町(にでうまち)に仮屋(かりや)を建(たて)られ、検使(けんし)自(みづから)断(ことわつ)て、直(あたひ)を定(さだめ)て売(うら)せらる。されば商買(しやうばい)共(とも)に利を得て、人皆九年(きうねん)の畜(たくはへ)有(ある)が如し。訴訟の人出来(しゆつたい)の時、若(もし)下情(しものじやう)上(かみ)に達(たつ)せざる事もやあらんとて、記録所(きろくところ)へ出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、直(ぢき)に訴(うつたへ)を聞召明(きこしめしあきら)め、理非(りひ)を決断(けつだん)せられしかば、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)忽(たちまち)に停(とどまつ)て、刑鞭(けいべん)も朽(くち)はて、諌鼓(かんこ)も撃(うつ)人無(なか)りけり。誠に理世安民(りせいあんみん)の政(まつりごと)、若(もし)機巧(きかう)に付(つい)て是(これ)を見(みれ)ば、命世(めいせい)亜聖(あせい)の才とも称じつべし。惟(ただ)恨(うらむ)らくは斉桓(せいかん)覇(は)を行(おこなひ)、楚人(そひと)弓を遺(わすれ)しに、叡慮少(すこし)き似たる事を。是(これ)則(すなはち)所以草創雖合一天守文不越三載也。
○立后(りつこうの)事付三位殿御局(さんみどのおんつぼねの)事 S0103
文保(ぶんぼう)二年八月三日、後西園寺大政大臣(のちのさいをんじのだいじやうだいじん)実兼公(さねかぬこう)の御女(おんむすめ)、后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなはつ)て、弘徽殿(こうきでん)に入(いら)せ給ふ。此家(このいへ)に女御(にようご)を立(たて)られたる事已(すで)に五代、是(これ)も承久以後、相摸守代々(だいだい)西園寺の家を尊崇(そんそう)せしかば、一家の繁昌恰(あたかも)天下の耳目(じぼく)を驚(おどろか)せり。君も関東の聞へ可然と思食(おぼしめし)て、取分(とりわけ)立后(りつこう)の御沙汰も有(あり)けるにや。御齢(おんよはひ)已に二八(じはち)にして、金鶏障(きんけいしやう)の下(もと)に傅(かしづか)れて、玉楼殿(ぎよくろうでん)の内に入給(いりたま)へば、夭桃(えうたう)の春を傷(いため)る粧(よそほ)ひ、垂柳(すゐりう)の風を含(ふくめ)る御形(おんかたち)、毛■(まうしやう)・西施(せいし)も面(おもて)を恥(はぢ)、絳樹(がうじゆ)・青琴(せいきん)も鏡を掩(おほ)ふ程なれば、君の御覚(おんおぼえ)も定(さだめ)て類(たぐひ)あらじと覚へしに、君恩(くんおん)葉(は)よりも薄かりしかば、一生(いつしやう)空(むなし)く玉顔(ぎよくがん)に近(ちかづ)かせ給はず。深宮(しんきゆう)の中(うち)に向(むかつ)て、春の日の暮難(くれかた)き事を歎き、秋の夜(よ)の長恨(ながきうらみ)に沈ませ給ふ。金屋(きんをく)に人無(なう)して、皎々(かうかう)たる残燈(のこんのともしび)の壁(かべ)に背ける影、薫篭(くんろう)に香(か)消(きえ)て、蕭々(せうせう)たる暗雨(よるのあめ)の窓を打声(うつこゑ)、物毎(ごと)に皆御泪(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書(かき)たりしも、理(ことわり)也と覚(おぼえ)たり。其比(そのころ)安野(あのの)中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。只殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独(ひとり)能(よく)是(ぜ)を致(いたす)のみに非(あら)ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだつ)て、奇(き)を争(あらそひ)しかば、花(はな)の下(もと)の春の遊(あそび)、月の前(まへ)の秋の宴(えんにも)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席(せき)を専(ほしいまま)にし給ふ。是(これ)より君王(くんわう)朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨(せんじ)を下(くだ)されしかば、人(ひと)皆(みな)皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚(おどろき)見る、光彩(くわうさい)の始(はじめ)て門戸(もんこ)に生(な)ることを。此(この)時天の人、男(なん)を生(う)む事を軽(かろん)じて、女(ぢよ)を生む事を重(おもん)ぜり。されば御前(おんまへ)の評定(ひやうぢやう)、雑訴(ざつそ)の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(ごこうじゆ)とだに云(いひ)てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞(しやう)を与(あたへ)、奉行(ぶぎやう)も理(り)有(ある)を非(ひ)とせり。関雎(くわんしよ)は楽而(たのしんで)不淫、哀而(かなしんで)不傷。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱(らん)今に有(あり)ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共(ども)也。
○儲王(ちよわうの)御事(おんこと) S0104
螽斯(しゆうし)の化(くわ)行(おこなは)れて、皇后元妃(げんひ)の外(ほか)、君恩に誇る官女(くわんぢよ)、甚(はなはだ)多かりければ、宮々(みやみや)次第に御誕生(ごたんじやう)有(あつ)て、十六人までぞ御座(おはしま)しける。中(なか)にも第一(だいいちの)宮尊良親王(そんりやうしんわう)は、御子左(みこひだりの)大納言為世(ためよの)卿(きやうの)女(むすめ)、贈従三位(ぞうじゆざんみ)為子(ためこ)の御腹(おんはら)にて御坐(おはせ)しを、吉田(よしだの)内大臣定房公(さだふさこう)養君(やうくん)にし奉(たてまつり)しかば、志学(しがく)の歳(とし)の始(はじめ)より、六義(りくぎ)の道(みち)に長じさせ給へり。されば富緒河(とみのをがは)の清き流(ながれ)を汲(くみ)、浅香山(あさかやま)の故(ふる)き跡を蹈(ふん)で、嘯風弄月(せうふうろうげつ)に御心(こころ)を傷(いたまし)め給ふ。第二(だいにの)宮も同御腹(おなじきおんはら)にてぞ御坐(おはしま)しける。総角(あげまき)の御時(おんとき)より妙法院の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を受(うけ)させ給ふ。是(これ)も瑜伽三密(ゆがさんみつ)の間(あひだ)には、歌道(かだう)数奇(すき)の御翫(おんもてあそび)有(あり)しかば、高祖大師(かうそだいし)の旧業(きうげふ)にも不恥、慈鎮和尚(じちんくわしやう)の風雅にも越(こえ)たり。第三(だいさんの)宮は民部卿(みんぶきやう)三位殿(さんみどの)の御腹(おんはら)也。御幼稚(ごえうち)の時より、利根聡明(りこんそうめい)に御坐(おは)せしかば、君(きみ)御位(おんくらゐ)をば此宮(このみや)に社(こそ)と思食(おぼしめ)したりしかども、御治世(ごぢせい)は大覚寺殿(だいかくじどの)と持明院殿(ぢみやうゐんどの)と、代々(かはるがはる)持(もた)せ給(たまふ)べしと、後嵯峨院(ごさがのゐん)の御時(おんとき)より被定しかば、今度(こんど)の春宮(とうぐう)をば持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御方(おんかた)に立進(たてまゐら)せらる。天下(てんか)の事(こと)小大(なに)となく、関東の計(はからひ)として、叡慮にも任(まかせ)られざりしかば、御元服(げんぶく)の義を改(あらため)られ、梨本(なしもと)の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、承鎮親王(じようちんしんわう)の御門弟(もんてい)と成(なら)せ給ひて、一(いつ)を聞(きい)て十(じふ)を悟(さと)る御器量(きりやう)、世に又類(たぐひ)も無(なか)りしかば、一実円頓(いちじつゑんどん)の花匂(はなのにほひ)を、荊渓(けいけい)の風に薫(くん)じ、三諦即是(さんたいそくぜ)の月の光を、玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)に浸(ひた)せり。されば消(きえ)なんとする法燈(ほつとう)を挑(かか)げ、絶(たえ)なんとする恵命(ゑみやう)を継(つが)んこと、只此門主(このもんしゆ)の御時(おんとき)なるべしと、一山(いつさん)掌(たなごころ)を合(あは)せて悦(よろこび)、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶけ)て仰(あふぎ)奉る。第四の宮も同(おなじき)御腹にてぞをはしける。是(これ)は聖護院二品親王(しやうごゐんにほんしんわう)の御附弟(ふてい)にてをはせしかば、法水(ほつすゐ)を三井(みゐ)の流(ながれ)に汲(くみ)、記■(きべつ)を慈尊(じそん)の暁(あかつき)に期(ご)し給ふ。此外(このほか)儲君(ちよくん)儲王の選(えらび)、竹苑椒庭(ちくゑんせうてい)の備(そなへ)、誠に王業(わうげふ)再興の運(うん)、福祚(ふくそ)長久(ちやうきうの)基(もとゐ)、時を得たりとぞ見へたりける。
○中宮御産(ちゆうぐうごさん)御祈(おんいのり)之事付俊基(としもと)偽(いつはつて)篭居(ろうきよの)事 S0105
元亨(げんかう)二年の春の比(ころ)より、中宮懐姙(くわいにん)の御祈(おんいのり)とて、諸寺(しよじ)・諸山(しよさん)の貴僧・高僧に仰(おほせ)て様々(さまざま)の大法(だいほふ)・秘法を行はせらる。中にも法勝寺(ほつしようじ)の円観上人(ゑんくわんしやうにん)、小野文観僧正(をののもんくわんそうじやう)二人は、別勅(べつちよく)を承(うけ)て、金闕(きんけつ)に壇を構(かまへ)、玉体(ぎよくたい)に近(ちかづ)き奉(たてまつつ)て、肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法・一宿(いつしゆく)五反孔雀経(ごへんくじやくきやう)・七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじやうくわう)・烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子(へんじやうなんし)の法・五大虚空蔵(こくうざう)・六観音・六字訶臨(ろくじかりん)、訶利帝母(かりていも)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんみやう)、金剛童子(こんがうどうじ)の法、護摩(ごまの)煙は内苑(だいゑん)に満(みち)、振鈴(しんれい)の声(おと)は掖殿(えきでん)に響(ひびき)て、何(いか)なる悪魔怨霊(をんりやう)なりとも、障碍(しやうげ)を難成とぞ見へたりける。加様(かやう)に功を積(つみ)、日を重(かさね)て、御祈(おんいのり)の精誠(せいぜい)を尽(つく)されけれども、三年まで曾(かつ)て御産(ごさん)の御事(おんこと)は無(なか)りけり。後(のち)に子細(しさい)を尋(たづぬ)れば、関東調伏(てうぶく)の為に、事を中宮の御産(ごさん)に寄(よせ)て、加様(かやう)に秘法を修(しゆ)せられけると也。是(これ)程の重事(ちようじ)を思食立(おぼしめしたつ)事なれば、諸臣の異見をも窺(うかが)ひ度(たく)思召(おぼしめし)けれども、事多聞(たぶん)に及ばゝ、武家に漏れ聞(きこゆ)る事や有(あら)んと、憚(はばか)り思召(おぼしめさ)れける間(あひだ)、深慮智化(しんりよちくわ)の老臣、近侍(きんじ)の人々にも仰合(おほせあはせ)らるゝ事もなし。只日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・平(へい)宰相(さいしやう)成輔計(なりすけばかり)に、潛(ひそか)に仰合(おほせあはせ)られて、さりぬべき兵(つはもの)を召(めされ)けるに、錦織(にしこり)の判官代(はんぐわんだい)、足助(あすけの)次郎重成(しげなり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(しゆと)、少々勅定(ちよくぢやう)に応じてげり。彼(かの)俊基は累葉(るゐえふ)の儒業を継(つい)で、才学(さいかく)優長成(なり)しかば、顕職(けんしよく)に召仕(めしつかは)れて、官蘭台(らんたい)に至り、職(しよく)々事(しきじ)を司(つかさど)れり。然る間出仕(しゆつし)事繁(ことしげう)して、籌策(ちうさく)に隙(ひま)無(なか)りければ、何(いか)にもして暫(しばらく)篭居して、謀叛(むほん)の計畧を回(めぐら)さんと思(おもひ)ける処に、山門横川(よかは)の衆徒(しゆと)、款状(くわじやう)を捧(ささげ)て、禁庭に訴(うつたふ)る事あり。俊基彼(かの)奏状を披(ひらい)て読申(よみまうさ)れけるが、読誤(よみあやま)りたる体(てい)にて、楞厳院(れうごんゐん)を慢厳院(まんごんゐん)とぞ読(よみ)たりける。座中の諸卿(しよきやう)是(これ)を聞(きい)て目を合(あはせ)て、「相(さう)の字をば、篇(へん)に付(つけ)ても作(つくり)に付(つけ)ても、もくとこそ読(よむ)べかりける。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)てぞ笑はれける。俊基大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(きしよく)にて、面(おもて)を赤(あかめ)て退出す。夫(それ)より恥辱に逢(あひ)て、篭居すと披露(ひろう)して、半年計(ばかり)出仕を止(やめ)、山臥(やまぶし)の形に身を易(かへ)て、大和(やまと)・河内(かはち)に行(ゆい)て、城郭(じやうくわく)に成(なり)ぬべき処々を見置(みおきて)、東国(とうごく)・西国(さいこく)に下(くだつ)て、国の風俗、人(ひと)の分限(ぶんげん)をぞ窺(うかがひ)見られける。
○無礼講(ぶれいかうの)事付玄恵(げんゑ)文談(ぶんだんの)事 S0106
爰(ここ)に美濃国(みののくにの)住人、土岐伯耆(ときはうきの)十郎頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)と云(いふ)者あり。共に清和源氏(せいわげんじ)の後胤(こういん)として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々(さまざま)の縁(えん)を尋(たづね)て、眤(むつ)び近(ちかづ)かれ、朋友の交(まじはり)已(すで)に浅からざりけれども、是(これ)程の一大事を無左右知(しら)せん事、如何(いかん)か有(ある)べからんと思はれければ、猶も能々(よくよく)其(その)心を窺(うかがひ)見ん為に、無礼講(ぶれいかう)と云(いふ)事をぞ始(はじめ)られける。其(その)人数(にんじゆ)には、尹(ゐんの)大納言師賢(もろたか)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・伊達(だての)三位房(さんみばう)游雅(いうが)・聖護院庁(しやうごゐんちやう)の法眼(ほふげん)玄基(げんき)・足助(あすけの)次郎重成(しげなり)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)等也。其交会遊宴(そのかうぐわいいうえん)の体(てい)、見聞耳目(けんもんじぼく)を驚(おどろか)せり。献盃(けんはい)の次第、上下を云はず、男(をのこ)は烏帽子(ゑぼし)を脱(ぬい)で髻(もとどり)を放ち、法師は衣(ころも)を不着して白衣(びやくえ)になり、年十七八なる女(をんな)の、盻形(みめかたち)優(いう)に、膚(はだへ)殊に清らかなるをに十余人(じふよにん)、褊(すずし)の単(ひと)へ計(ばかり)を着せて、酌(しやく)を取(とら)せければ、雪の膚(はだへ)すき通(とほり)て、大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)新(あらた)に水を出(いで)たるに異(こと)ならず。山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)を尽(つく)し、旨酒(ししゆ)泉(いづみ)の如くに湛(たたへ)て、遊戯舞(あそびたはぶれまひ)歌ふ。其間(そのあひだ)には只東夷(とうい)を可亡企(くはだて)の外(ほか)は他事(たじ)なし。其(その)事と無く、常に会交(くわいがう)せば、人の思咎(おもひとが)むる事もや有(あら)んとて、事を文談(ぶんだん)に寄(よせ)んが為に、其比(そのころ)才覚無双(さいかくぶさう)の聞へありける玄恵法印(げんゑほふいん)と云(いふ)文者(ぶんじや)を請(しやう)じて、昌黎文集(しやうれいぶんじふ)の談義(だんぎ)をぞ行(おこなは)せける。彼(かの)法印謀叛(むほん)の企(くはだて)とは夢にも不知、会合の日毎(ひごと)に、其(その)席に臨(のぞん)で玄(げん)を談じ理(り)を折(ひらく)。彼文集(かのぶんじふ)の中に、「昌黎赴潮州」と云(いふ)長篇有り。此処(このところ)に至(いたつ)て、談義を聞(きく)人々、「是(これ)皆不吉(ふきつ)の書(しよ)なりけり。呉子(ごし)・孫子・六韜(りくたう)・三略(さんりやく)なんど社(こそ)、可然当用(たうよう)の文(ぶん)なれ。」とて、昌黎文集の談義を止(やめ)てげり。此韓昌黎(このかんしやうれい)と申(まうす)は、晩唐(ばんたう)の季(すゑ)に出(いで)て、文才(ぶんさい)優長(いうちやう)の人なりけり。詩は杜子美(としみ)・李太白(りたいはく)に肩を双(なら)べ、文章は漢・魏(ぎ)・晋(しん)・宋の間(あひだ)に傑出せり。昌黎が猶子(いうし)韓湘(かんしやう)と云(いふ)者あり。是(これ)は文字をも嗜(たしなま)ず、詩篇にも携(たづさは)らず、只道士(たうじ)の術(じゆつ)を学(まなん)で、無為(ぶゐ)を業(げふ)とし、無事を事(こと)とす。或時(あるとき)昌黎韓湘に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「汝(なんぢ)天地の中(うち)に化生(くわせい)して、仁義の外(ほか)に逍遥(せうえう)す。是(これ)君子の恥(はづる)処、小人の専(もつぱら)とする処也。我(われ)常に汝が為に是(これ)を悲(かなし)むこと切(せつ)也。と教訓しければ、韓湘大(おほき)にあざ笑(わらう)て、「仁義は大道(たいだう)の廃(すたれ)たる処に出(いで)、学教(がつけう)は大偽(たいぎ)の起(おこる)時に盛(さかん)也。吾(われ)無為(ぶゐ)の境(さかひ)に優遊(いういう)して、是非(ぜひ)の外(ほか)に自得(じとく)す。されば真宰(しんさい)の臂(ひぢ)を掣(さい)て、壷中(こちゆう)に天地を蔵(かく)し、造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばう)て、橘裡(きつり)に山川(さんせん)を峙(そばだ)つ。却(かへつ)て悲(かなしむ)らくは、公(こう)の只古人(こじん)の糟粕(さうはく)を甘(あまなつ)て、空(むなし)く一生(いつしやう)を区々(くく)の中(うち)に誤る事を。」と答(こたへ)ければ、昌黎重(かさねて)曰(いはく)、「汝が所言我(われ)未信(いまだしんぜず)、今則(すなはち)造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばふ)事を得てんや。」と問(とふ)に、韓湘答(こたふる)事無(なく)して、前(まへ)に置(おい)たる瑠璃(るり)の盆を打覆(うちうつぶせ)て、軈(やが)て又引仰向(ひきあふの)けたるを見れば、忽(たちまち)に碧玉(へきぎよく)の牡丹(ぼたん)の花(はな)の嬋娟(せんげん)たる一枝(いつし)あり。昌黎(しやうれい)驚(おどろい)て是(これ)を見(みる)に、花(はなの)中に金字(きんじ)に書(かけ)る一聯(いちれん)の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思(おもひ)を成して、是(これ)を読(よう)で一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)するに、句の優美遠長(ゑんちやう)なる体製(ていせい)のみ有(あつ)て、其(その)趣向落着(らくぢやく)の所を難知。手に採(とつ)て是(これ)を見んとすれば、忽然(こつぜん)として消失(きえうせ)ぬ。是(これ)よりしてこそ、韓湘(かんしやうは)仙術(せんじゆつ)の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後(そののち)昌黎仏法(ぶつぽふ)を破(やぶつ)て、儒教(じゆけう)を貴(たつとむ)べき由(よし)、奏状(そうじやう)を奉(たてまつり)ける咎(とが)に依(よつ)て、潮州(てうじう)へ流さる。日暮(くれ)馬泥(なづん)で前途(ぜんと)程(ほど)遠し。遥(はるか)に故郷(こきやう)の方(かた)を顧(かへりみれ)ば、秦嶺に雲横(よこたはつ)て、来(き)つらん方も不覚。悼(いたん)で万仞(ばんじん)の嶮(けはしき)に登らんとすれば、藍関に雪満(みち)て行(ゆく)べき末(すゑ)の路も無し。進退歩(ほ)を失(うしなう)て、頭(かうべ)を回(めぐら)す処に、何(いづく)より来(きた)れるともなく、韓湘悖然(ぼつぜん)として傍(かたはら)にあり。昌黎悦(よろこん)で馬より下(おり)、韓湘が袖を引(ひい)て、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「先年碧玉(へきぎよく)の花(はな)の中に見へたりし一聯(いちれん)の句は、汝我(われ)に予(あらかじめ)左遷(させん)の愁(うれへ)を告知(つげしら)せるなり。今又汝爰(ここ)に来れり。料(はか)り知(しん)ぬ、我(われ)遂(つひ)に謫居(だつきよ)に愁死(しうし)して、帰(かへる)事を得じと。再会期(ご)無(なく)して、遠別(ゑんべつ)今にあり。豈(あに)悲(かなしみ)に堪(たへ)んや。」とて、前(さき)の一聯(いちれん)に句(く)を続(つい)で、八句一首(いつしゆ)と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此(この)詩を袖に入(いれ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)に別(わかれ)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、「痴人(ちにんの)面前(めんぜん)に不説夢」云(いふ)事を。此(この)談義を聞(きき)ける人々の忌思(いみおもひ)けるこそ愚(おろか)なれ。
○頼員(よりかず)回忠(かへりちゆうの)事 S0107
謀反人(むほんにん)の与党(よたう)、土岐(とき)左近蔵人(さこんくらうど)頼員(よりかず)は、六波羅(ろくはら)の奉行(ぶぎやう)斉藤太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)利行(としゆき)が女(むすめ)と嫁(か)して、最愛(さいあい)したりけるが、世中(よのなか)已に乱(みだれ)て、合戦出来(いできた)りなば、千に一(ひとつ)も討死せずと云(いふ)事有(ある)まじと思(おもひ)ける間、兼(かね)て余波(なごり)や惜(をし)かりけん、或夜(あるよ)の寝覚(ねざめ)の物語に、「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り、同流(おなじながれ)を汲(くむ)も、皆是(これ)多生(たしやう)の縁(えん)不浅、況(いはん)や相馴奉(あひなれたてまつつ)て已(すでに)三年(みとせ)に余(あま)れり。等閑(なほざり)ならぬ志(こころざし)の程をば、気色(けしき)に付け、折に触(ふれ)ても思(おもひ)知り給ふらん。去(さ)ても定(さだめ)なきは人間の習(ならひ)、相逢中(あひあふなか)の契(ちぎり)なれば、今若(もし)我(わが)身はかなく成(なり)ぬと聞(きき)給ふ事有(あら)ば、無(なか)らん跡(あと)までも貞女の心を失はで、我後世(わがごせ)を問(とひ)給へ。人間(にんげん)に帰らば、再び夫婦の契(ちぎり)を結び、浄土(じやうど)に生(うま)れば、同蓮(おなじはちす)の台(うてな)に半座(はんざ)を分(わけ)て待(まつ)べし。」と、其(その)事と無くかきくどき、泪(なみだ)を流(ながし)てぞ申(まうし)ける。女つく/゛\と聞(きい)て、「怪(あやし)や何事(なにごと)の侍(はんべる)ぞや。明日(あす)までの契(ちぎり)の程も知らぬ世に、後世(ごせ)までの荒増(あらまし)は、忘(わすれ)んとての情(なさけ)にてこそ侍(はんべ)らめ。さらでは、かゝるべしとも覚(おぼえ)ず。」と、泣恨(なきうらみ)て問(とひ)ければ、男(をとこ)は心(こころ)浅(あさう)して、「さればよ、我(われ)不慮(ふりよ)の勅命を蒙(かうむつ)て、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道無(なく)して、御謀反(ごむほん)に与(くみ)しぬる間、千に一(ひとつ)も命(いのち)の生(いき)んずる事難(かた)し。無端存(ぞんず)る程に、近づく別(わかれ)の悲(かなし)さに、兼(かねて)加様(かやう)に申(まうす)也。此(この)事穴(あな)賢(かしこ)人に知(しら)させ給ふな。」と、能々(よくよく)口をぞ堅めける。彼女性(かのによしやう)心の賢き者也ければ、夙(つと)にをきて、つく/゛\と此(この)事を思ふに、君の御謀叛(ごむほん)事(こと)ならずば、憑(たのみ)たる男(をとこ)忽(たちまち)に誅せらるべし。若(もし)又武家亡(ほろび)なば、我(わが)親類誰かは一人も残るべき。さらば是(これ)を父利行(としゆき)に語(かたつ)て、左近蔵人(さこんくらうど)を回忠(かへりちゆう)の者に成し、是(これ)をも助け、親類をも扶(たす)けばやと思(おもう)て、急ぎ父が許(もと)に行(ゆき)、忍(しのび)やかに此(この)事を有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。斉藤大(おほき)に驚き、軈(やが)て左近蔵人を呼寄(よびよ)せ、「卦(かか)る不思議を承(うけたまは)る、誠にて候やらん。今の世に加様(かやう)の事、思企(おもひくはだて)給はんは、偏(ひとへ)に石(いし)を抱(いだい)て淵(ふち)に入(い)る者にて候べし。若(もし)他人の口より漏(もれ)なば、我等に至(いたる)まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急(いそぎ)御辺(ごへん)の告知(つげしら)せたる由を、六波羅殿(ろくはらどの)に申(まうし)て、共に其咎(そのとが)を遁(のがれ)んと思ふは、何(いかん)か計(はからひ)給ふぞ。」と、問(とひ)ければ、是(これ)程の一大事を、女性(によしやう)に知らする程の心にて、なじかは仰天(ぎやうてん)せざるべき、「此(この)事は同名(どうみやう)頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎二郎が勧(すすめ)に依(よつ)て、同意仕(つかまつり)て候。只兎(と)も角(かく)も、身の咎(とが)を助(たすか)る様(やう)に御計(はからひ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。夜(よ)未明(いまだあけざる)に、斉藤急ぎ六波羅(ろくはら)へ参(さんじ)て、事の子細(しさい)を委(くはし)く告げ申(まうし)ければ、則(すなはち)時(とき)をかへず鎌倉へ早馬(はやむま)を立て、京中(きやうぢゆう)・洛外(らくぐわい)の武士(ぶし)どもを六波羅(ろくはら)へ召集(めしあつめ)て、先(まづ)着到(ちやくたう)をぞ付(つけ)られける。其比(そのころ)摂津国(つのくに)葛葉(くずは)と云(いふ)処に、地下人(ぢげにん)代官(だいくわん)を背(そむき)て合戦(かつせん)に及(およぶ)事あり。彼本所(かのほんじよ)の雑掌(ざつしやう)を、六波羅(ろくはら)の沙汰(さた)として、庄家(しやうけ)にしすへん為に、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人(ざいきやうにん)を催さるゝ由を被披露。是(これ)は謀叛の輩(ともがら)を落さじが為の謀(はかりごと)也。土岐(とき)も多治見も、吾(わが)身の上とは思(おもひ)も寄らず、明日(みやうにち)は葛葉へ向ふべき用意して、皆己(おのれ)が宿所(しゆくしよ)にぞ居たりける。去程(さるほど)に、明(あく)れば元徳(げんとく)元年九月十九日の卯刻(うのこく)に、軍勢雲霞(うんか)の如(ごとく)に六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。小串(こぐし)三郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)範行(のりゆき)・山本九郎時綱(ときつな)、御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、六条河原(かはら)へ打出(ぶちいで)、三千余騎を二手(ふたて)に分(わけ)て、多治見が宿所(しゆくしよ)錦小路高倉(にしきのこうぢたかくら)、土岐(とき)十郎が宿所、三条堀河(ほりかわ)へ寄(よせ)けるが、時綱かくては如何様(いかさま)大事(だいじ)の敵(てき)を打漏(うちもらし)ぬと思(おもひ)けるにや、大勢(おほぜい)をば態(わざ)と三条河原(かはら)に留(とどめ)て、時綱只一騎、中間(ちゆうげん)二人に長刀(なぎなた)持(もた)せて、忍(しのび)やかに土岐が宿所へ馳(はせ)て行き、門前(もんぜん)に馬をば乗捨(のりすて)て、小門(こもん)より内へつと入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の方(かた)を見れば、宿直(とのゐ)しける者よと覚(おぼえ)て、物具(もののぐ)・太刀(たち)・々(かたな)、枕に取散(とりちら)し、高鼾(たかいびき)かきて寝入(ねいり)たり。廐(むやま)の後(うしろ)を回(まはつ)て、何(いづく)にか匿地(くけち)の有(ある)と見れば、後(うしろ)は皆築地(ついぢ)にて、門(もん)より外(ほか)は路も無し。さては心安(こころやす)しと思(おもう)て、客殿(きやくでん)の奥なる二間(ふたま)を颯(さつ)と引(ひき)あけたれば、土岐十郎只今起(おき)あがりたりと覚(おぼえ)て、鬢髪(びんのかみ)を撫揚(なであげ)て結(ゆひ)けるが、山本九郎を屹(きつ)と見て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、立(たて)たる大刀(たち)を取(とり)、傍(そば)なる障子(しやうじ)を一間(ひとま)蹈破(ふみやぶ)り、六間(むま)の客殿(きやくでん)へ跳出(をどりいで)、天井(てんじやう)に大刀(たち)を打付(うちつけ)じと、払切(はらひぎり)にぞ切(きつ)たりける。時綱は態(わざと)敵を広庭(ひろには)へ帯出(おびきいだ)し、透間(すきま)も有らば生虜(いけどら)んと志(こころざし)て、打払(うちはらひ)ては退(しりぞき)、打流(うちなが)しては飛(とび)のき、人交(ひとまぜ)もせず戦(たたかう)て、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)二千余騎、二(に)の関(きど)よりこみ入(いつ)て、同音(どうおん)に時(とき)を作る。土岐十郎久(ひさし)く戦(たたかう)ては、中々(なかなか)生捕(いけどら)れんとや思(おもひ)けん、本(もと)の寝所(ねどころ)へ走帰(はしりかへつ)て、腹(はら)十文字(もんじ)にかき切(きつ)て、北枕(きたまくら)にこそ臥(ふし)たりけれ。中間(なかのま)に寝たりける若党(わかたう)どもゝ、思々(おもひおもひ)に討死(うちじに)して、遁(のが)るゝ者一人も無(なか)りけり。首(くび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、山本九郎は是(これ)より六波羅(ろくはら)へ馳参(はせまゐ)る。多治見が宿所へは、小串(こぐし)三郎左衛門範行(のりゆき)を先(さき)として、三千余騎にて推寄(おしよせ)たり。多治見は終夜(よもすがら)の酒に飲酔(のみゑひ)て、前後(ぜんご)も不知臥(ふし)たりけるが、時(とき)の声に驚(おどろい)て、是(これ)は何事ぞと周障(あわて)騒ぐ。傍(そば)に臥(ふし)たる遊君(いうくん)、物馴(ものなれ)たる女(をんな)也ければ、枕なる鎧(よろひ)取(とつ)て打着(うちき)せ、上帯(うはおび)強く縮(しめ)させて、猶寝入(ねいり)たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六(をがさはらまごろく)、傾城(けいせい)に驚(おどろか)されて、太刀計(ばかり)を取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(はしりい)で、目を磨々(すりすり)四方(しはう)を岐(きつ)と見ければ、車の輪(わ)の旗一流(ひとながれ)、築地(ついぢ)の上(うへ)より見へたり。孫六内へ入(いつ)て、「六波羅(ろくはら)より打手(うつて)の向(むかう)て候(さふらひ)ける。此間(このあひだ)の御謀反(ごむほん)早(はや)顕(あらはれ)たりと覚(おぼえ)候。早(はや)面々(めんめん)太刀の目貫(めぬき)の堪(こら)ゑん程は切合(きりあう)て、腹を切れ。」と呼(よばはつ)て、腹巻(はらまき)取(とつ)て肩になげかけ、廾四差(さい)たる胡■(えびら)と、繁藤(しげどう)の弓とを提(ひつさげ)て、門(もん)の上なる櫓(やぐら)へ走上(はしりあが)り、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつが)ひ、狭間(さま)の板(いた)八文字(もんじ)に排(ひらい)て、「あらこと/゛\しの大勢(おほぜい)や。我等が手柄のほどこそ顕(あらはれ)たれ。抑(そもそも)討手(うつて)の大将は誰(たれ)と申(まうす)人の向(むかは)れて候やらん。近付(ちかづい)て箭(や)一(ひとつ)請(うけ)て御覧候へ。」と云侭(いふまま)に、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、忘るゝ計(ばかり)引(ひき)しぼりて、切(きつ)て放つ。真前(まつさき)に進(すすん)だる狩野下野前司(かののしもづけのぜんじ)が若党に、衣摺(きぬずりの)助房(すけふさ)が胄(かぶと)のまつかう、鉢付(はちつけ)の板(いた)まで、矢先(やさき)白く射通(いとほ)して、馬より倒(さかさま)に射落(いおと)す。是(これ)を始(はじめ)として、鎧(よろひ)の袖・草摺(くさずり)・胄鉢(かぶとのはち)とも不言、指詰(さしつめ)て思様(おもふさま)に射けるに、面(おもて)に立(たつ)たる兵(つはもの)廾四人、矢の下(した)に射て落す。今一筋(ひとすぢ)胡■(えびら)に残(のこり)たる矢を抜(ぬい)て、胡■(えびら)をば櫓の下(した)へからりと投落(なげおと)し、「此(この)矢一(ひとつ)をば冥途(めいど)の旅の用心に持(もつ)べし。」と云(いつ)て腰にさし、「日本一(につぽんいち)の剛者(がうのもの)、謀叛に与(くみ)し自害(じがい)する有様見置(おい)て人に語れ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、太刀の鋒(きつさき)を口に呀(くはへ)て、櫓より倒(さかさま)に飛落(とびおち)て、貫(つらぬかれ)てこそ死(し)にけれ。此間(このあひだ)に多治見を始(はじめ)として、一族若党廾余人物具(もののぐ)ひし/\と堅め、大庭(おほには)に跳出(をどりい)で、門(もん)の関(くわん)の木(き)差(さし)て待懸(まちかけ)たり。寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しと云へども、思切(おもひきつ)たる者どもが、死狂(しにぐるひ)をせんと引篭(ひつこもつ)たるがこはさに、内へ切(きつ)て入(いら)んとする者も無(なか)りける処に、伊藤彦次郎(ひこじらう)父子兄弟(ふしきやうだい)四人(よつたり)、門の扉(とびら)の少し破(やぶれ)たる処より、這(はう)て内へぞ入(いり)たりける。志の程は武(たけ)けれども、待請(まちうけ)たる敵(てき)の中へ、這(はう)て入(いつ)たる事なれば、敵に打違(うちちがふ)るまでも無(なく)て、皆門(もん)の脇(わき)にて討(うた)れにけり。寄手(よせて)是(これ)を見て、弥(いよいよ)近(ちかづ)く者も無(なか)りける間(あひだ)、内より門(もん)の扉(とびら)を推開(おしひらい)て、「討手(うつて)を承(うけたまは)るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉(かな)。早(はや)是(これ)へ御入(いり)候へ。我等(われら)が頭共(くびども)引出物(ひきでもの)に進(まゐら)せん。」と、恥(はぢ)しめてこそ立(たち)たりけれ。寄手共(よせてども)敵にあくまで欺(あざむか)れて、先陣(せんぢん)五百余人(ごひやくよにん)馬を乗放(のりはな)して、歩立(かちだち)に成(なり)、喚(をめい)て庭へこみ入(いる)。楯篭(たてこも)る所の兵(つはもの)ども、とても遁(のがれ)じと思切(おもひきつ)たる事なれば、何(いづく)へか一足(ひとあし)も引(ひく)べき。二十余人(にじふよにん)の者ども、大勢(おほぜい)の中へ乱入(みだれいつ)て、面(おもて)もふらず切(きつ)て廻(まは)る。先駈(さきがけ)の寄手(よせて)五百余人(ごひやくよにん)、散々(さんざん)に切立(きりたて)られて、門(もん)より外(ほか)へ颯(さつ)と引く。されども寄手は大勢(おほぜい)なれば、先陣引けば二陣喚(をめい)て懸入(かけいる)。々々(かけいれ)ば追出(おひいだし)、々々(おひいだ)せば懸入(かけい)り、辰刻(たつのこく)の始(はじめ)より午刻(うまのこく)の終(をはり)まで、火出(いづ)る程こそ戦(たたかひ)けれ。加様(かやう)に大手(おほて)の軍(いくさ)強(つよ)ければ、佐々木判官(はうぐわん)が手者(てのもの)千余人、後(うしろ)へ廻(まはつ)て錦小路(にしきのこうぢ)より、在家(ざいけ)を打破(うちやぶつ)て乱入(みだれい)る。多治見今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、中門(ちゆうもん)に並居(なみゐ)て、二十二人の者ども、互に差違(さしちがへ)々々、算(さん)を散(ちら)せる如く臥(ふし)たりける。追手(おふて)の寄手共(よせてども)が、門(もん)を破(やぶ)りける其間(そのあひだ)に、搦手(からめで)の勢共(せいども)乱入(みだれい)り、首(くび)を取(とつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)帰る。二時計(ふたときばかり)の合戦に、手負死人(ておひしにん)を数(かぞふ)るに、二百七十三人也。
○資朝俊基(すけともとしもと)関東下向(げかうの)事付御告文(ごかうぶんの)事 S0108
土岐(とき)・多治見(たぢみ)討(うた)れて後(のち)、君の御謀叛(ごむほん)次第に隠(かく)れ無(なか)りければ、東使(とうし)長崎四郎左衛門泰光(やすみつ)、南条(なんでうの)次郎左衛門宗直(むねなほ)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、五月十日資朝・俊基両人(りやうにん)を召取(めしとり)奉る。土岐が討(うた)れし時、生虜(いけどり)の者一人も無(なか)りしかば、白状(はくじやう)はよも有らじ、さりとも我等が事は顕(あらは)れじと、無墓憑(たのみ)に油断して、曾(かつ)て其(その)用意も無(なか)りければ、妻子(さいし)東西(とうざい)に逃迷(にげまよ)ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝(ざいはう)は大路(おほち)に引散(ひきちら)されて、馬蹄(ばてい)の塵(ちり)と成(なり)にけり。彼(かの)資朝卿(すけとものきやう)は日野(ひの)の一門にて、職(しよく)大理(だいり)を経(へ)、官(くわんは)中納言に至りしかば、君の御覚(おんおぼ)へも他に異(ことに)して、家の繁昌時(とき)を得たりき。俊基朝臣(あそん)は身(み)儒雅(じゆが)の下(もと)より出(い)で、望(のぞみ)勲業(くんげふ)の上(うへ)に達(たつ)せしかば、同官(どうくわん)も肥馬(ひば)の塵を望み、長者(ちやうじや)も残盃(ざんばい)の冷(れい)に随ふ。宜(むべなる)哉(かな)「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是(これ)孔子の善言(ぜんげん)、魯論(ろろん)に記(き)する処なれば、なじかは違(たがふ)べき。夢の中に楽(たのしみ)尽(つき)て、眼前(がんぜん)の悲(かなしみ)云(ここ)に来れり。彼(かれ)を見是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(り)を知らでも、袖をしぼりゑず。同(おなじき)二十七日、東使(とうし)両人(りやうにん)、資朝・俊基を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、鎌倉へ下着(げちやく)す。此(この)人々は殊更謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)て誅せられぬと覚(おぼえ)しかども、倶(とも)に朝廷の近臣として、才覚(さいかく)優長の人たりしかば、世の譏(そし)り君の御憤(いきどほり)を憚(はばかつ)て、嗷問(がうもん)の沙汰にも不及、只尋常(よのつね)の放召人(はなしめしうど)の如(ごとく)にて、侍所(さぶらひどころ)にぞ預置(あづけおか)れける。七月七日、今夜(こんや)は牽牛(けんぎう)・織女(しよくぢよ)の二星(じせい)、烏鵲橋(うじやくのはし)を渡して、一年の懐抱(くわいばう)を解(とく)夜(よ)なれば、宮人(きゆうじん)の風俗(ならはし)、竹竿(ちくかん)に願糸(ねがひのいと)を懸(か)け、庭前(ていぜん)に嘉菓(かくわ)を列(つらね)て、乞巧奠(きつかうでん)を修(しゆす)る夜(よ)なれ共(ども)、世上(せじやう)騒(さわが)しき時節(をりふし)なれば、詩歌(しいか)を奉る騒人(さうじん)も無く、絃管(げんくわん)を調(しらぶ)る伶倫(れいりん)もなし。適(たまたま)上臥(うへぶし)したる月卿雲客(げつけいうんかく)も、何(なに)と無く世中(よのなか)の乱(みだれ)、又誰身上(たがみのうへ)にか来(きたら)んずらんと、魂(たましひ)を消し肝(きも)を冷(ひや)す時分(をりふし)なれば、皆眉を顰(ひそ)め面(おもて)を低(たれ)てぞ候(さふらひ)ける。夜痛(いたく)深(ふけ)て、「誰か候。」と召(めさ)れければ、「吉田(よしだの)中納言冬房(ふゆふさ)候。」とて御前(おんまへ)に候(こう)す。主上席(せき)を近(ちかづけ)て仰(おほせ)有(あり)けるは、「資朝・俊基が囚(とらは)れし後(のち)、東風(とうふう)猶未静(いまだしづかならず)、中夏(ちゆうか)常に危(あやふき)を蹈(ふ)む。此(この)上に又何(いか)なる沙汰をか致(いたさ)んずらんと、叡慮更に不穏。如何(いかん)して先(まづ)東夷(とうい)を定(しづむ)べき謀(はかりごと)有(あら)ん。」と、勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、冬房謹(つつしん)で申(まうし)けるは、「資朝・俊基が白状(はくじやう)有りとも承(うけたまはり)候はねば、武臣此(この)上の沙汰には及ばじと存(ぞんじ)候へども、近日(このごろ)東夷(とうい)の行事(ふるまひ)、楚忽(そこつ)の義(ぎ)多(おほく)候へば、御油断(ごゆだん)有(ある)まじきにて候。先(まづ)告文(かうぶん)一紙(いつし)を下(くだ)されて、相摸入道(さがみにふだう)が忿(いかり)を静め候(さふらは)ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食(おぼしめさ)れけん、「さらば軈(やが)て冬房書(かけ)。」と仰(おほせ)有(あり)ければ、則(すなはち)御前(おんまへ)にして草案(さうあん)をして、是(これ)を奏覧(そうらん)す。君且(しばらく)叡覧有(あつ)て、御泪(おんなみだ)の告文(かうぶん)にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭(おしのご)はせ給へば、御前(おんまへ)に候(さふらひ)ける老臣、皆悲啼(ひてい)を含まぬは無(なか)りけり。頓(やが)て万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)を勅使として、此告文(このかうぶん)を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介(あいたのじやうのすけ)を以て告文(かうぶん)を請取(うけとつ)て、則(すなはち)披見(ひけん)せんとしけるを、二階堂(にかいだうの)出羽(ではの)入道々蘊(だううん)、堅く諌めて申(まうし)けるは、「天子武臣に対して直(ぢき)に告文(かうぶん)を被下たる事、異国にも我(わが)朝にも未(いまだ)其(その)例を承(うけたまはら)ず。然(しかる)を等閑(なほざり)に披見せられん事、冥見(みやうけん)に付(つい)て其恐(そのおそれ)あり。只文箱(ふんばこ)を啓(ひらか)ずして、勅使に返進(かへしまゐら)せらるべきか。」と、再往(さいわう)申(まうし)けるを、相摸入道、「何(なに)か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行(としゆき)に読進(よみまゐら)せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読(よみ)ける時に、利行俄(にはか)に眩(めくるめき)衄(はなぢ)たりければ、読(よみ)はてずして退出(たいしゆつ)す。其(その)日より喉下(のどのした)に悪瘡(あくさう)出(いで)て、七日(なぬか)が中(うち)に血を吐(はい)て死(し)にけり。時(とき)澆季(げうき)に及(およん)で、道(みち)塗炭(どたん)に落(おち)ぬと云(いへ)ども、君臣(くんしん)上下の礼違(たがふ)則(とき)は、さすが仏神(ぶつじん)の罰も有(あり)けりと、是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、懼恐(おぢおそれ)ぬは無(なか)りけり。「何様(なにさま)資朝・俊基の隠謀(いんぼう)、叡慮より出(いで)し事なれば、縦(たとひ)告文(かうぶん)を下されたりと云(いへ)ども、其(それ)に依るべからず。主上をば遠国(をんごく)へ遷(うつ)し奉(たてまつる)べし。」と、初(はじめ)は評定(ひやうぢやう)一決(いつけつ)してけれども、勅使宣房卿(のぶふさのきやう)の被申趣(おもむき)げにもと覚(おぼゆ)る上、告文(かうぶん)読(よみ)たりし利行、俄に血を吐(はい)て死(しに)たりけるに、諸人(しよにん)皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道(さがみにふだう)も、さすが天慮其憚(そのはばかり)有りけるにや、「御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)は朝議(てうぎ)に任(まか)せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ申(まうす)べきに非(あら)ず。」と、勅答を申(まうし)て、告文(かうぶん)を返進(へんしん)せらる。宣房卿(のぶふさのきやう)則(すなはち)帰洛(きらく)して、此(この)由を奏し申(まうさ)れけるにこそ、宸襟(しんきん)始(はじめ)て解(とけ)て、群臣(ぐんしん)色をば直(なほ)されけれ。去程(さるほど)に俊基朝臣は罪の疑(うたがは)しきを軽(かろん)じて赦免(しやめん)せられ、資朝卿(すけとものきやう)は死罪(しざい)一等を宥(なだ)められて、佐渡国(さどのくに)へぞ流されける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二
○南都北嶺(なんとほくれい)行幸(ぎやうがうの)事(こと) S0201
元徳(げんとく)二年二月四日、行事(ぎやうじ)の弁別当(べんのべつたう)、万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)藤房卿(ふぢふさのきやう)を召(めさ)れて、「来月八日東大寺興福寺(こうふくじ)行幸(ぎやうがう)有(ある)べし、早(はやく)供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触仰(ふれおほ)すべし。」と仰出(おほせいだ)されければ、藤房(ふぢふさ)古(ふるき)を尋(たづね)、例(れい)を考(かんがへ)て、供奉(ぐぶ)の行装(かうさう)、路次(ろし)の行列(かうれつ)を定(さだめ)らる。佐々木(ささきの)備中守(びつちゆうのかみ)廷尉(ていゐ)に成(なつ)て橋を渡(わた)し、四十八箇所(しじふはちかしよの)篝(かがり)、甲胄(かつちう)を帯(たい)し、辻(つじ)々を堅(かた)む。三公(さんこう)九卿(きうけい)相従(あひしたが)ひ、百司千官(はくしせんくわん)列(れつ)を引(ひく)、言語道断(ごんごだうだん)の厳儀(げんぎ)也。東大寺と申(まうす)は聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、閻浮(えんぶ)第一(だいいち)の盧舎那仏(るしやなぶつ)、興福寺と申(まうす)は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうし)尊崇(そんそう)の大伽藍(だいがらん)なれば、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も、皆結縁(けちえん)の御志(おんこころざし)は御坐(おは)せども、一人(いちじん)出給(いでたまふ)事(こと)容易(たやす)からざれば、多年臨幸の儀(ぎ)もなし。此御代(このみよ)に至(いたつ)て、絶(たえ)たるを継(つぎ)、廃(すたれ)たるを興(おこ)して、鳳輦(ほうれん)を廻(めぐら)し給(たまひ)しかば、衆徒(しゆと)歓喜(くわんぎ)の掌(たなごころ)を合(あは)せ、霊仏(れいぶつ)威徳(ゐとく)の光をそふ。されば春日山(かすがやま)の嵐の音も、今日(けふ)よりは万歳(ばんぜい)を呼(よば)ふかと怪(あやし)まれ、北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花(はな)咲(さく)春の陰(かげ)深し。又同(おなじき)月二十七日に、比叡山(ひえいさん)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、大講堂(だいかうだう)供養(くやう)あり。彼(かの)堂と申(まうす)は、深草天皇(ふかくさのてんわう)の御願(ごぐわん)、大日遍照(だいにちへんぜう)の尊像(そんざう)也。中比(なかごろ)造営(ざうえい)の後(のち)、未(いまだ)供養を遂(とげ)ずして、星霜(せいざう)已(すでに)積(つも)りければ、甍(いらか)破(やぶれ)ては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)を焼(たき)、扉(とぼそ)落(おち)ては月常住(じやうぢゆ)の燈(ともしび)を挑(かか)ぐ。されば満山(まんさん)歎(なげい)て年を経(ふ)る処に、忽(たちまち)に修造(しゆざう)の大功を遂(とげ)られ、速(すみやか)に供養の儀式を調(ととの)へ給(たまひ)しかば、一山(いつさん)眉(まゆ)を開(ひら)き、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶ)けり。御導師(おんだうし)は妙法院(めうほふゐんの)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)、咒願(じゆぐわん)は時の座主(ざす)大塔(おほたふの)尊雲(そんうん)法親王(ほふしんわう)にてぞ御座(おは)しける。称揚讚仏(しようやうさんぶつ)の砌(みぎり)には、鷲峯(じゆほう)の花(はな)薫(にほひ)を譲り、歌唄頌徳(かばいじゆとく)の所には、魚山(ぎよさん)の嵐(あらし)響(ひびき)を添(そふ)。伶倫(れいりん)遏雲(あつうん)の曲を奏し、舞童(ぶどう)回雪(くわいせつ)の袖を翻(ひるがへ)せば、百獣も率舞(そつしまひ)、鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)する計(ばかり)也。住吉の神主(かんぬし)、津守(つもり)の国夏(くになつ)大皷(たいこ)の役(やく)にて登山(とうさん)したりけるが、宿坊(しゆくばう)の柱に一首(いつしゆ)の歌をぞ書付(かきつけ)たる。契(ちぎり)あれば此山(このやま)もみつ阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の種(たね)や植剣(うゑけん)是(これ)は伝教大師(でんげうたいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の古(いにしへ)、「我(わが)立(たつ)杣(そま)に冥加(みやうが)あらせ給へ。」と、三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達(ほとけたち)に祈給(いのりたまひ)し故事(こじ)を思(おもう)て、読(よめ)る歌なるべし。抑(そもそも)元亨(げんかう)以後、主(しゆ)愁(うれへ)臣(しん)辱(はづかしめ)られて、天下更(さらに)安(やすき)時なし。折節(をりふし)こそ多かるに、今南都北嶺(なんとほくれい)の行幸、叡願(えいぐわん)何事(なにこと)やらんと尋(たづぬ)れば、近年(きんねん)相摸入道(さがみにふだうの)振舞、日来(ひごろ)の不儀に超過(てうくわ)せり。蛮夷(ばんい)の輩(ともがら)は、武命(ぶめい)に順(したが)ふ者なれば、召(めす)とも勅(ちよく)に応ずべからず。只山門南都の大衆(だいしゆ)を語(かたらひ)て、東夷(とうい)を征罰(せいばつ)せられん為の御謀叛(ごむほん)とぞ聞(きこ)へし。依之大塔(おほたふ)の二品(にほん)親王(しんわう)は、時の貫主(くわんじゆ)にて御坐(おは)せしか共(ども)、今は行学(かうがく)共(とも)に捨(すて)はてさせ給(たまひ)て、朝暮(てうぼ)只武勇の御嗜(たしなみ)の外(ほか)は他事なし。御好(おんこのみ)有故(あるゆゑ)にや依(より)けん、早業(はやわざ)は江都(かうと)が軽捷(けいせふ)にも超(こえ)たれば、七尺(しつせき)の屏風(びやうぶ)未(いまだ)必(かならず)しも高しともせず。打物(うちもの)は子房(しばう)が兵法(ひやうはふ)を得玉(えたま)へば、一巻(いつくわん)の秘書尽(つく)されずと云(いふ)事(こと)なし。天台座主(てんだいのざす)始(はじまつ)て、義真和尚(ぎしんくわしやう)より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)懸(かか)る不思議の門主(もんしゆ)は御坐(おはしま)さず。後(のち)に思合(おもひあは)するにこそ、東夷征罰(とういせいばつ)の為に、御身(おんみ)を習(ならは)されける武芸の道とは知られたれ。
○僧徒(そうと)六波羅(ろくはらへ)召捕(めしとる)事(こと)付為明(ためあきら)詠歌(えいかの)事(こと) S0202
事の漏安(もれやす)きは、禍(わざはひ)を招く媒(なかだち)なれば、大塔宮(おほたふのみや)の御行事(おんふるまひ)、禁裡(きんり)に調伏(てうぶく)の法被行事共(ども)、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「いや/\此君(このきみの)御在位(ございゐ)の程は天下静まるまじ。所詮(しよせん)君をば承久(しようきう)の例(れい)に任(まかせ)て、遠国(をんごく)へ移し奉(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に所(しよ)し奉るべき也。先(まづ)近日(このころ)殊に竜顔(りようがん)に咫尺奉(しせきしたてまつつ)て、当家(たうけ)を調伏(てうぶく)し給ふなる、法勝寺(ほつしようじ)の円観(ゑんくわん)上人・小野(をの)の文観(もんくわん)僧正・南都の知教(ちけう)・教円(けうゑん)・浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正を召取(めしとり)て、子細(しさい)を相尋(あひたづぬ)べし。」と、已(すで)に武命を含(ふくん)で、二階堂下野判官(にかいだうしもつけのはうぐわん)・長井遠江守(ながゐとほたふみのかみ)二人(ににん)、関東より上洛(しやうらく)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)せしかば、「又何(いか)なる荒き沙汰(さた)をか致さんずらん。」と、主上宸襟(しんきん)を悩(なやま)されける所に、五月十一日の暁(あかつき)、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人(さんにん)を六波羅(ろくはら)へ召取(めしとり)奉る。此(この)中に忠円僧正は、顕宗(けんしゆう)の碩徳(せきとく)也しかば、調伏の法行(おこなう)たりと云(いふ)、其人数(そのにんじゆ)には入(い)らざりしかども、是(これ)も此(この)君に近付き奉(たてまつつ)て、山門(さんもん)の講堂(かうだう)供養(くやう)以下(いげ)の事(こと)、万(よろづ)直(ぢき)に申沙汰(まうしさた)せられしかば、衆徒(しゆと)与力(よりき)の事(こと)、此(この)僧正よも存(ぞん)ぜられぬ事は非じとて、同(おなじく)召取(めしとら)れ給(たまひ)にけり。是(これ)のみならず、智教・教円二人(ににん)も、南都より召出(めしいだ)されて、同(おなじく)六波羅(ろくはら)へ出(いで)給ふ。又二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきらの)卿(きやう)は、歌道(かだう)の達者(たつしや)にて、月の夜(よ)雪の朝(あした)、褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)の御会(ごくわい)に召(めさ)れて、宴(えん)に侍(はんべ)る事隙(ひま)無(なか)りしかば、指(さし)たる嫌疑(けんぎ)の人にては無(なか)りしかども、叡慮の趣を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとら)れて、斉藤某(なにがし)に是(これ)を預(あづけ)らる。五人の僧達(そうたち)の事は、元来(もとより)関東へ召下(めしくだ)して、沙汰有(ある)べき事なれば、六波羅(ろくはら)にて尋窮(たづねきはむる)に及ばず。為明(ためあきらの)卿(きやう)の事に於ては、先(まづ)京都にて尋沙汰(たづねさた)有(あつ)て、白状(はくじやう)あらば、関東へ註進(ちゆうしん)すべしとて、検断(けんだん)に仰(おほせ)て、已(すでに)嗷問(がうもん)の沙汰に及(およば)んとす。六波羅(ろくはら)の北の坪(つぼ)に炭をゝこす事(こと)、■湯炉壇(くわくたうろだん)の如(ごとく)にして、其(その)上に青竹を破(わ)りて敷双(しきなら)べ、少(すこし)隙(ひま)をあけゝれば、猛火(みやうくわ)炎(ほのほ)を吐(はい)て、烈(れつ)々たり。朝夕雑色(でうじやくざふしき)左右(さいう)に立双(たちならん)で、両方(りやうばう)の手を引張(ひつばつ)て、其(その)上を歩(あゆま)せ奉(たてまつら)んと、支度(したく)したる有様は、只四重(しぢゆう)五逆(ごぎやく)の罪人(ざいにん)の、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、牛頭馬頭(ごづめづ)の呵責(かしやく)に逢(あふ)らんも、角社(かくこそ)有(あ)らめと覚(おぼ)へて、見(みる)にも肝(きも)は消(きえ)ぬべし。為明(ためあきら)卿(きやう)是(これ)を見給て、「硯(すずり)や有(ある)。」と尋(たづね)られければ、白状(はくじやう)の為かとて、硯(すずり)に料紙(れうし)を取添(とりそへ)て奉りければ、白状(はくじやう)にはあらで、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かか)れける。
思(おもひ)きや我敷嶋(わがしきしま)の道ならで浮世の事を問(とは)るべしとは常葉駿河守(ときはするがのかみ)、此(この)歌を見て感歎(かんたん)肝(きも)に銘(めい)じければ、泪(なみだ)を流して理(り)に伏(ふく)す。東使(とうし)両人も是(これ)を読(よみ)て、諸共(もろとも)に袖を浸(ひた)しければ、為明(ためあきら)は水火(すゐくわ)の責(せめ)を遁(のが)れて、咎(とが)なき人に成(なり)にけり。詩歌(しいか)は朝廷の翫(もてあそぶ)処、弓馬(きゆうば)は武家の嗜(たしな)む道なれば、其慣(そのならはし)未(いまだ)必(かならず)しも、六義(りくぎ)数奇(すき)の道に携(たづさは)らねども、物(ものの)相感(あひかん)ずる事(こと)、皆(みな)自然なれば、此(この)歌一首(いつしゆ)の感(かん)に依(よつ)て、嗷問(がうもん)の責(せめ)を止(や)めける、東夷(とうい)の心中(こころのうち)こそやさしけれ。力をも入(いれ)ずして、天地(あめつち)を動(うごか)し、目にみへぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あはれ)と思はせ、男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさむ)るは歌也と、紀貫之(きのつらゆき)が古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)たりしも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。
○三人(さんにんの)僧徒(そうと)関東下向(げかうの)事(こと) S0203
同年(おなじきとしの)六月八日、東使(とうし)三人(さんにん)の僧達(そうたち)を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、関東に下向す。彼(かの)忠円僧正と申(まうす)は、浄土寺慈勝(じしよう)僧正の門弟として、十題判断(じふだいはんだん)の登科(とうくわ)、一山(いつさん)無双(ぶさう)の碩学(せきがく)也。文観(もんくわん)僧正と申(まうす)は、元(もと)は播磨国(はりまのくに)法華寺(ほつけじ)の住侶(ぢゆりよ)たりしが、壮年(さうねん)の比(ころ)より醍醐寺(だいごじ)に移住(いぢゆう)して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじやり)たりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゆさんみつ)の棟梁(とうりやう)たり。円観上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(さんと)にて御坐(おはし)けるが、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の才(さい)、一山(いつさん)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行兼備(ちぎやうけんび)の誉(ほま)れ、諸寺(しよじ)に人無(なき)が如し。然(しかれ)ども久(ひさしく)山門澆漓(げうり)の風(ふう)に随はゞ、情慢(じやうまん)の幢(はたほこ)高(たかう)して、遂に天魔(てんま)の掌握(しやうあく)の中(うち)に落(おち)ぬべし。不如、公請論場(くしやうろんぢやう)の声誉(せいよ)を捨(すて)て、高祖大師(かうそたいし)の旧規(きうき)に帰(かへら)んにはと、一度(ひとたび)名利(みやうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞(じやくまく)の苔(こけ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)給ふ。初(はじめ)の程は西塔(さいたふ)の黒谷(くろたに)と云(いふ)所に居(きよ)を卜(しめ)て、三衣(さんえ)を荷葉(かえふ)の秋(あき)の霜に重(かさ)ね、一鉢(いつばち)を松華(しようくわ)の朝(あした)の風(かぜ)に任(まかせ)給ひけるが、徳不孤必(かならず)有隣、大明(だいみやう)光(ひかり)を蔵(かくさ)ざりければ、遂に五代聖主の国師(こくし)として、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)の太祖(たいそ)たり。かゝる有智高行(うちかうぎやう)の尊宿(そんしゆく)たりと云へども、時の横災(わうさい)をば遁(のがれ)給はぬにや、又前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)にや依(より)けん。遠蛮(ゑんばん)の囚(とらはれ)と成(なつ)て、逆旅(げきりよ)の月にさすらひ給(たまふ)、不思議なりし事ども也。円観上人計(ばかり)こそ、宗印(そういん)・円照(ゑんせう)・道勝(だうしよう)とて、如影随形(によやうずゐぎやう)の御弟子(おんでし)三人(さんにん)、随逐(ずゐちく)して輿(こし)の前後(ぜんご)に供奉(ぐぶ)しけれ。其外(そのほか)文観僧正・忠円僧正には相随(あひしたがふ)者一人も無(なく)て、怪(あやしげ)なる店馬(てんま)に乗(の)せられて、見馴(みなれ)ぬ武士(ぶし)に打囲(うちかこま)れ、まだ夜(よ)深きに鳥が鳴(なく)東(あづま)の旅に出(いで)給ふ、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。鎌倉(かまくら)までも下(くだ)し着(つ)けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼(かしこ)の宿(しゆく)に着(つい)ても今や限り、此(ここ)の山に休(やす)めば是(これ)や限りと、露の命(いのち)のある程も、心は先(さき)に消(きえ)つべし。昨日(きのふ)も過(すぎ)今日(けふ)も暮(くれ)ぬと行程(ゆくほど)に、我(われ)とは急(いそ)がぬ道なれど、日数(ひかず)積(つも)れば、六月二十四日に鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。円観上人をば佐介(さすけ)越前守(ゑちぜんのかみ)、文観僧正をば佐介遠江守(とほたふみのかみ)、忠円僧正をば足利(あしかが)讚岐守(さぬきのかみ)にぞ預(あづけ)らる。両使帰参(きさん)して、彼(かの)僧達(そうたち)の本尊の形(かたち)、炉壇(ろだん)の様(やう)、画図(ゑづ)に写(うつし)て註進す。俗人(ぞくじん)の見知(みし)るべき事ならねば、佐々目(ささめ)の頼禅(らいぜん)僧正を請(しやう)じ奉(たてまつつ)て、是(これ)を被見せに、「子細(しさい)なき調伏(てうぶく)の法也。」と申されければ、「去(さら)ば此(この)僧達(そうたち)を嗷問(がうもん)せよ。」とて、侍所(さふらひどころ)に渡して、水火(すゐくわ)の責(せめ)をぞ致しける。文観房(もんくわんばう)暫(しばし)が程はいかに問(とは)れけれ共(ども)、落(おち)玉はざりけるが、水問(みづもん)重(かさな)りければ、身も疲(つかれ)心も弱(よわく)なりけるにや、「勅定(ちよくじやう)に依(よつ)て、調伏の法行(おこなう)たりし条子細なし。」と、白状(はくじやう)せられけり。其後(そののち)忠円房を嗷問せんとす。此(この)僧正天性(てんせい)臆病(おくびやう)の人にて、未責(いまだせめざる)先(さき)に、主上(しゆしやう)山門を御語(おんかたら)ひありし事(こと)、大塔(おほたふ)の宮(みや)の御振舞、俊基(としもと)の隠謀(いんぼう)なんど、有(あり)もあらぬ事までも、残所(のこるところ)なく白状(はくじやう)一巻(いつくわん)に載(のせ)られたり。此(この)上は何(なん)の疑(うたがひ)か有(ある)べきなれ共(ども)、同罪(どうざい)の人なれば、閣(さしおく)べきに非(あら)ず。円観上人をも明日(みやうにち)問(とひ)奉るべき評定(ひやうぢやう)ありける。其夜(そのよ)相摸入道(さがみにふだう)の夢に、比叡山の東坂本(ひがしさかもと)より、猿共(さるども)二三千群来(むらがりきたつ)て、此(この)上人を守護(しゆご)し奉る体(てい)にて、並居(なみゐ)たりと見給ふ。夢の告(つげ)只事(ただごと)ならずと思はれければ、未明(びめい)に預人(あづかりうど)の許(もと)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、「上人嗷問(がうもん)の事暫く閣(さしおく)べし。」と被下知処に、預人遮(さへぎつ)て相摸入道(さがみにふだう)の方(かた)に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「上人嗷問の事(こと)、此暁(このあかつき)既(すでに)其(その)沙汰を致(いたし)候はん為に、上人の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て候へば、燭(ともしび)を挑(かかげ)て観法定坐(くわんぽふぢやうざ)せられて候。其(その)御影(おんかげ)後(うしろ)の障子(しやうじ)に移(うつつ)て、不動明王(ふどうみやうわう)の貌(かたち)に見(みえ)させ給(たまひ)候つる間(あひだ)、驚き存(そんじ)て、先(まづ)事(こと)の子細(しさい)を申入(まうしいれ)ん為に、参て候也。」とぞ申(まうし)ける。夢想(むさう)と云(いひ)、示現(じげん)と云(いひ)、只人(ただひと)にあらずとて、嗷問の沙汰を止(やめ)られけり。同(おなじき)七月十三日に、三人(さんにん)の僧達(そうたち)遠流(をんる)の在所(ざいしよ)定(さだまつ)て、文観僧正をば硫黄(いわう)が嶋、忠円僧正をば越後国(ゑちごのくに)へ流さる。円観上人計(ばかり)をば遠流一等を宥(なだめ)て、結城上野(ゆふきかうづけ)入道に預(あづけ)られければ、奥州(あうしう)へ具足(ぐそく)し奉(たてまつり)、長途(ちやうど)の旅にさすらひ給(たまふ)。左遷遠流(させんをんる)と云(いは)ぬ計(ばかり)也。遠蛮(ゑんばん)の外(ほか)に遷(うつ)されさせ給へば、是(これ)も只同じ旅程(りよてい)の思(おもひ)にて、肇法師(でうほふし)が刑戮(けいりく)の中(うち)に苦(くるし)み、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)の火羅国(くわらこく)に流されし、水宿山行(すゐしゆくさんぎやう)の悲(かなしみ)もかくやと思知(おもひしら)れたり。名取川(なとりがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)とて上人一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)給ふ。陸奥(みちのく)のうき名取川流来(ながれき)て沈(しづみ)やはてん瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)時の天災(てんさい)をば、大権(だいごん)の聖者(しやうじや)も遁(のが)れ給はざるにや。昔天竺(てんぢく)の波羅奈国(はらないこく)に、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)し給へる独(ひとり)の沙門(しやもん)をはしけり。一朝(いつてう)の国師(こくし)として四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、天下の人帰依偈仰(きえかつがう)せる事(こと)、恰(あたかも)大聖世尊(だいしやうせそん)の出世成道(しゆつせじやうだう)の如(ごとく)也。或時(あるとき)其国(そのくに)の大王法会(ほふゑ)を行ふべき事有(あつ)て説戒(せつかい)の導師(だうし)に此(この)沙門(しやもん)をぞ請(しやう)ぜられける。沙門(しやもん)則(すなはち)勅命に随(したがつ)て鳳闕(ほうけつ)に参(さん)ぜらる。帝(みかど)折節(をりふし)碁(ご)を被遊ける砌(みぎり)へ、伝奏(てんそう)参(まゐつ)て、沙門(しやもん)参内(さんだい)の由を奏し申(まうし)けるを、遊(あそば)しける碁(ご)に御心(おんこころ)を入(いれ)られて、是(これ)を聞食(きこしめさ)れず、碁(ご)の手(て)に付(つい)て、「截(き)れ。」と仰(おほせ)られけるを、伝奏聞誤(ききあやま)りて、此(この)沙門(しやもん)を刎(きれ)との勅定(ちよくぢやう)ぞと心得て、禁門(きんもん)の外(ほか)に出(いだ)し、則(すなはち)沙門(しやもん)の首(くび)を刎(はね)てけり。帝(みかど)碁をあそばしはてゝ、沙門(しやもん)を御前(おんまへ)へ召(めされ)ければ、典獄(てんごく)の官(くわん)、「勅定に随(したがつ)て首(くび)を刎(はね)たり。」と申す。帝(みかど)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありて、「「行死(かうし)定(さだまつ)て後(のち)三奏(さんそう)す」と云へり。而(しかる)を一言(いちげん)の下(した)に誤(あやまり)を行(おこなう)て、朕(ちん)が不徳(ふとく)をかさぬ。罪大逆(たいぎやく)に同じ。」とて、則(すなはち)伝奏を召出(めしいだ)して三族の罪に行(おこなは)れけり。さて此(この)沙門(しやもん)罪なくして死刑に逢ひ給(たまひ)ぬる事只事(ただごと)にあらず、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)にてをはすらんと思食(おぼしめさ)れければ、帝其故(そのゆゑ)を阿羅漢(あらかん)に問(とひ)給ふ。阿羅漢(あらかん)七日が間(あひだ)、定(ぢやう)に入(いつ)て宿命通(しゆくみやうつう)を得て過現(くわげん)を見給ふに、沙門(しやもん)の前生(ぜんじやう)は耕作(かうさく)を業(げふ)とする田夫(でんぶ)也。帝の前生は水にすむ蛙(かはづ)にてぞ有(あり)ける。此(この)田夫鋤(すき)を取(とり)て春の山田(やまだ)をかへしける時、誤(あやまつ)て鋤のさきにて、蛙(かはづ)の頚をぞ切(きり)たりける。此因果(このいんぐわ)に依(よつ)て、田夫は沙門(しやもん)と生(うま)れ、蛙(かいる)は波羅奈国(はらないこく)の大王と生れ、誤(あやまつ)て又死罪(しざい)を行(おこなは)れけるこそ哀(あはれ)なれ。されば此(この)上人も、何(いか)なる修因感果(しゆいんかんくわ)の理(り)に依(よつて)か、卦(かか)る不慮(ふりよ)の罪に沈給(しづみたまひ)ぬらんと、不思議也し事共(ども)也。
○俊基朝臣(としもとあそん)再(ふたたび)関東下向(げかうの)事(こと) S0204
俊基(としもと)朝臣は、先年(せんねん)土岐(とき)十郎頼貞(よりさだ)が討(うた)れし後、召取(めしとら)れて、鎌倉(かまくら)まで下給(くだりたまひ)しかども、様々(さまざま)に陳(ちん)じ申されし趣(おもむき)、げにもとて赦免(しやめん)せられたりけるが、又今度(このたび)の白状共(はくじやうども)に、専(もつぱら)隠謀の企(くはだて)、彼(かの)朝臣にありと載(のせ)たりければ、七月十一日に又六波羅(ろくはら)へ召取(めしとら)れて関東へ送られ給ふ。再犯(さいほん)不赦法令(はふれい)の定(さだま)る所なれば、何(なに)と陳(ちんず)る共(とも)許されじ、路次(ろし)にて失(うしなは)るゝか鎌倉(かまくら)にて斬(きら)るゝか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじと、思儲(おもひまうけ)てぞ出(いで)られける。落花(らくくわ)の雪に蹈(ふみ)迷ふ、片野(かたの)の春の桜がり、紅葉(もみぢ)の錦を衣(き)て帰(かへる)、嵐の山の秋の暮、一夜(ひとよ)を明(あか)す程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものうき)に、恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅からぬ、我(わが)故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくへ)も知(しら)ず思置(おもひおき)、年久(としひさしく)も住馴(すみなれ)し、九重(ここのへ)の帝都(ていと)をば、今を限(かぎり)と顧(かへりみ)て、思はぬ旅に出(いで)玉ふ、心の中(うち)ぞ哀(あはれ)なる。憂(うき)をば留(とめ)ぬ相坂(あふさか)の、関の清水(しみづ)に袖濡(ぬれ)て、末(すゑ)は山路(やまぢ)を打出(うちで)の浜、沖を遥(はるかに)見渡せば、塩(しほ)ならぬ海にこがれ行(ゆく)、身(み)を浮舟(うきふね)の浮沈(うきしづ)み、駒も轟(とどろ)と踏鳴(ふみなら)す、勢多(せた)の長橋(ながはし)打(うち)渡り、行向(ゆきかふ)人に近江路(あふみぢ)や、世のうねの野に鳴(なく)鶴(つる)も、子を思(おもふ)かと哀(あはれ)也。時雨(しぐれ)もいたく森山(もりやま)の、木下露(このしたつゆ)に袖ぬれて、風に露(つゆ)散(ち)る篠原(しのはら)や、篠(しの)分(わく)る道を過行(すぎゆけ)ば、鏡(かがみ)の山は有(あり)とても、泪(なみだ)に曇(くもり)て見へ分(わか)ず。物を思へば夜間(よのま)にも、老蘇森(おいそのもり)の下草(したくさ)に、駒を止(とどめ)て顧(かへりみ)る、古郷(ふるさと)を雲や隔つらん。番馬(ばんば)、醒井(さめがゐ)、柏原(かしはばら)、不破(ふは)の関屋(せきや)は荒果(あれはて)て、猶(なほ)もる物は秋の雨の、いつか我身(わがみ)の尾張(をはり)なる、熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)伏拝(ふしをが)み、塩干(しほひ)に今や鳴海潟(なるみがた)、傾(かたぶ)く月に道見へて、明(あけ)ぬ暮(くれ)ぬと行(ゆく)道の、末(すゑ)はいづくと遠江(とほたふみ)、浜名(はまな)の橋の夕塩(ゆふしほ)に、引人(ひくひと)も無き捨小船(すてをぶね)、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀(あはれ)と夕暮の、入逢(いりあひ)鳴(なれ)ば今はとて、池田(いけだ)の宿(しゆく)に着(つき)給ふ。元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)の比(ころ)かとよ、重衡(しげひらの)中将(ちゆうじやう)の、東夷(とうい)の為に囚(とらは)れて、此宿(このしゆく)に付給(つきたまひ)しに、「東路(あづまぢ)の丹生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、古郷(ふるさと)いかに恋(こひ)しかるらん。」と、長者(ちやうじや)の女(むすめ)が読(よみ)たりし、其古(そのいにしへ)の哀迄(あはれまで)も、思残(おもひのこ)さぬ泪(なみだ)也。旅館(りよくわん)の燈(ともしび)幽(かすか)にして、鶏鳴(けいめい)暁(あかつき)を催(もよほ)せば、疋馬(ひつば)風に嘶(いば)へて、天竜河を打渡り、小夜(さよ)の中山(なかやま)越行(こえゆけ)ば、白雲(はくうん)路(みち)を埋来(うづみき)て、そことも知(しら)ぬ夕暮に、家郷(かけい)の天(そら)を望(のぞみ)ても、昔(むかし)西行法師(さいぎやうほふし)が、「命(いのち)也けり。」と詠(えいじ)つゝ、二度(ふたたび)越(こえ)し跡(あと)までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける。隙(ひま)行(ゆく)駒(こま)の足はやみ、日(ひ)已(すでに)亭午(ていご)に昇(のぼ)れば、餉(かれひ)進(まゐらす)る程とて、輿(こし)を庭前(ていぜん)に舁止(かきとど)む。轅(ながえ)を叩(たたい)て警固(けいご)の武士(ぶし)を近付(ちかづ)け、宿(しゆく)の名を問(とひ)給ふに、「菊川(きくかは)と申(まうす)也。」と答へければ、承久(しようきう)の合戦の時、院宣(ゐんぜん)書(かき)たりし咎(とが)に依(よつ)て、光親(みつちかの)卿(きやう)関東へ召下(めしくだ)されしが、此宿(このしゆく)にて誅(ちゆう)せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書(かき)たりし、遠き昔の筆の跡、今は我(わが)身の上になり。哀(あはれ)やいとゞ増(まさ)りけん、一首(いつしゆ)の歌を詠(えいじ)て、宿(やど)の柱にぞ書(かか)れける。古(いにしへ)もかゝるためしを菊川の同じ流(ながれ)に身をや沈めん大井河(おほゐがは)を過(すぎ)給へば、都にありし名を聞(きき)て、亀山殿(かめやまどの)の行幸(ぎやうがう)の、嵐の山の花盛(はなざか)り、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟に乗り、詩歌管絃(しいかくわんげん)の宴(えん)に侍(はんべり)し事も、今は二度(ふたたび)見ぬ夜(よ)の夢と成(なり)ぬと思(おもひ)つゞけ給ふ。嶋田(しまだ)、藤枝(ふぢえだ)に懸(かか)りて、岡辺(をかべ)の真葛(まくず)裡枯(うらがれ)て、物かなしき夕暮に、宇都(うつ)の山辺を越行(こえゆけ)ば、蔦楓(つたかへで)いと茂りて道もなし。昔業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)の住所(すみところ)を求(もとむ)とて、東(あづま)の方(かた)に下(くだる)とて、「夢にも人に逢(あは)ぬなりけり。」と読(よみ)たりしも、かくやと思知(おもひしら)れたり。清見潟(きよみがた)を過(すぎ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(とほ)さぬ波の関守(せきもり)に、いとゞ涙を催(もよほ)され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津(おきつ)・神原(かんばら)打過(うちすぎ)て、富士の高峯(たかね)を見給へば、雪の中より立(たつ)煙(けぶり)、上(うへ)なき思(おもひ)に比(くら)べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行(すぎゆけ)ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子(たご)の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返(くるまがへ)し、竹の下道(したみち)行(ゆき)なやむ、足柄山(あしがらやま)の巓(たうげ)より、大磯小磯(おほいそこいそを)直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮(くれ)程に、鎌倉(かまくら)にこそ着玉(つきたまひ)けれ。其(その)日軈(やが)て、南条(なんでう)左衛門高直(たかなほ)請取奉(うけとりたてまつつ)て、諏防(すは)左衛門に預(あづけ)らる。一間(ひとま)なる処に蜘手(くもで)きびしく結(ゆう)て、押篭(おしこめ)奉る有様、只地獄(ぢごく)の罪人(ざいにん)の十王(じふわふ)の庁(ちやう)に渡されて、頚械(くびかせ)手械(てかせ)を入(いれ)られ、罪の軽重(きやうぢゆう)を糺(ただ)すらんも、右(かく)やと思知(おもひしら)れたり。
○長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)意見(いけんの)事(こと)付阿新殿(くまわかどのの)事(こと) S0205
当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の事露顕(ろけん)の後(のち)御位(おんくらゐ)は軈(やが)て持明院殿(ぢみやうゐんどの)へぞ進(まゐ)らんずらんと、近習(きんじふ)の人々青女房(あをにようばう)に至(いたる)まで悦(よろこび)あへる処(ところ)に、土岐(とき)が討れし後(のち)も曾(かつ)て其(その)沙汰もなし。今又俊基(としもと)召下(めしくだ)されぬれ共(ども)、御位(おんくらゐ)の事に付(つけ)ては何(いか)なる沙汰あり共(とも)聞(きこえ)ざりければ、持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(かた)の人々案(あん)に相違して五噫(ごい)を謳(うたふ)者のみ多かりけり。さればとかく申進(まうしすすむ)る人のありけるにや、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より内々(ないない)関東へ御使(つかひ)を下され、「当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の企(くはだて)近日(きんじつ)事(こと)已(すで)に急(きふ)なり。武家速(すみやか)に糾明(きうめい)の沙汰なくば天下の乱(らん)近(ちかき)に有(ある)べし。」と仰(おほせ)られたりければ、相摸入道(さがみにふだう)、「げにも。」と驚(おどろい)て、宗徒(むねと)の一門(いちもん)・並(ならびに)頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)如何(いかん)有(ある)べき。」と各(おのおの)所存(しよぞん)を問(とは)る。然(しかれ)ども或(あるひ)は他に譲(ゆづり)て口を閉(とぢ)、或(あるひ)は己(おのれ)を顧(かへりみ)て言(ことば)を出(いだ)さゞる処(ところ)に、執事(しつじ)長崎入道が子息(しそく)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)高資(たかすけ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「先年(せんねん)土岐十郎が討(うた)れし時、当今(たうぎん)の御位(おんくらゐ)を改(あらため)申さるべかりしを、朝憲(てうけん)に憚(はばかつ)て御沙汰(ごさた)緩(ゆる)かりしに依(よつ)て此(この)事(こと)猶(なほ)未休(いまだやまず)。乱(らん)を撥(はらう)て治(ち)を致(いたす)は武の一徳也。速(すみやか)に当今を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を不返(ふへん)の遠流(をんる)に所(しよ)し奉り、俊基(としもと)・資朝以下(すけともいげ)の乱臣を、一々に誅せらるゝより外(ほか)は、別儀(べちぎ)あるべしとも存(ぞんじ)候はず。」と、憚る処なく申(まうし)けるを、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)暫(しばらく)思案(しあん)して申(まうし)けるは、「此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべく聞へ候へ共(ども)、退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を廻(めぐら)すに、武家権(けん)を執(とつ)て已(すで)に百六十余年、威四海(しかい)に及(および)、運累葉(るゐえふ)を耀(かかやか)すこと更に他事(たじ)なし。唯(ただ)上(かみ)一人(いちじん)を仰奉(あふぎたてまつつ)て、忠貞(ちゆうてい)に私(わたくし)なく、下(しもは)百姓(はくせい)を撫(なで)て仁政(じんせい)に施(ほどこし)ある故(ゆゑ)也。然(しかる)に今(いま)君(きみ)の寵臣(ちようしん)一両人召置(めしおか)れ、御帰衣(ごきえ)の高僧両三人(さんにん)流罪(るざい)に処(しよ)せらるゝ事も、武臣(ぶしん)悪行(あくぎやう)の専一(せんいち)と云(いひ)つべし。此上(このうへ)に又主上を遠所(ゑんしよ)へ遷(うつ)し進(まゐら)せ、天台(てんだいの)座主(ざす)を流罪に行(おこなは)れん事(こと)、天道奢(おごり)を悪(にく)むのみならず、山門争(いかで)か憤(いきどほり)を含まざるべき。神怒(いかり)人背(そむ)かば、武運の危(あやふき)に近(ちかか)るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反(ごむほん)の事君(きみ)縦(たとひ)思食立(おぼしめしたつ)とも、武威盛(さかん)ならん程は与(くみ)し申(まうす)者有(ある)べからず。是(これ)に付(つけ)ても武家弥(いよい)よ慎(つつしん)で勅命に応ぜば、君もなどか思食直(おぼしめしなほ)す事無(なか)らん。かくてぞ国家の泰平(たいへい)、武運の長久にて候はんと存(ぞんず)るは、面々(めんめん)如何(いかん)思食(おぼしめし)候。」と申(まうし)けるを、長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)又自余(じよ)の意見をも不待、以(もつて)の外(ほか)に気色(きしよく)を損じて、重(かさね)て申(まうし)けるは、「文武(ぶんぶの)揆(おもむき)一(ひとつ)也と云へ共(ども)、用捨(ようしや)時(とき)異(ことな)るべし。静(しづか)なる世には文を以て弥(いよいよ)治(をさ)め、乱(みだれ)たる時には武を以(もつて)急に静む。故(ゆゑに)戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈(かんくわ)似無用。事已(すで)に急に当(あた)りたり。武を以て治むべき也。異朝(いてう)には文王・武王、臣として、無道(ぶだう)の君を討(うち)し例(れい)あり。吾朝(わがてう)には義時(よしとき)・泰時(やすとき)、下(しも)として不善(ふぜん)の主(しゆ)を流す例あり。世みな是(これ)を以て当(あた)れりとす。されば古典(こてん)にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事(こと)停滞(ていたい)して武家追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下されなば、後悔(こうくわい)すとも益(えき)有(ある)べからず。只(ただ)速(すみやか)に君を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔(おほたふ)の宮(みや)を硫黄(いわう)が嶋へ流(ながし)奉り、隠謀(いんぼう)の逆臣(げきしん)、資朝(すけとも)・俊基(としもと)を誅せらるゝより外(ほか)の事有(ある)べからず。武家の安泰(あんたい)万世(ばんせい)に及(およぶ)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と、居長高(ゐだけだか)に成(なつ)て申(まうし)ける間、当座(たうざ)の頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)、権勢(けんせい)にや阿(おもねり)けん、又愚案(ぐあん)にや落(おち)けん、皆此義(このぎ)に同(どう)じければ、道蘊(だううん)再往(さいわう)の忠言に及ばず眉(まゆ)を顰(ひそめ)て退出(たいしゆつ)す。さる程に、「君の御謀反(ごむほん)を申勧(まうしすすめ)けるは、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・右少弁(うせうべん)俊基(としもと)・日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)也、各(おのおの)死罪(しざい)に行(おこなは)るべし。」と評定(ひやうぢやう)一途(いちづ)に定(さだまつ)て、「先(まづ)去年(きよねん)より佐渡国(さどのくに)へ流されてをはする資朝卿(すけとものきやう)を斬奉(きりたてまつる)べし。」と、其(その)国(くに)の守護(しゆご)本間山城(ほんまやましろ)入道に被下知。此(この)事(こと)京都に聞へければ、此(この)資朝(すけとも)の子息(しそく)国光(くにみつ)の中納言、其比(そのころ)は阿新殿(くまわかどの)とて歳(とし)十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿(きやう)召人(めしうど)に成玉(なりたまひ)しより、仁和寺辺(にんわじへん)に隠(かくれ)て居(ゐ)られけるが、父誅(ちゆう)せられ給(たまふ)べき由(よし)を聞(きい)て、「今は何事にか命(いのち)を惜(をし)むべき。父と共に斬(きら)れて冥途(めいど)の旅の伴(とも)をもし、又最後(さいご)の御(おん)有様をも見奉るべし。」とて母に御暇(おんいとま)をぞ乞(こは)れける。母御(ははご)頻(しきり)に諌(いさめ)て、「佐渡とやらんは、人も通(かよ)はぬ怖(おそろ)しき嶋とこそ聞(きこゆ)れ。日数(ひかず)を経(ふ)る道なればいかんとしてか下(くだる)べき。其上(そのうへ)汝(なんぢ)にさへ離(はなれ)ては、一日片時(へんし)も命(いのち)存(ながらふ)べしとも覚(おぼ)へず。」と、泣悲(なきかなしみ)て止(とめ)ければ、「よしや伴(ともな)ひ行(ゆく)人(ひと)なくば、何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも身を投(なげ)て死(し)なん。」と申(まうし)ける間、母痛(いたく)止(とめ)ば、又目(め)の前(まへ)に憂別(うきわかれ)も有(あり)ぬべしと思侘(おもひわび)て、力なく今迄只(ただ)一人付副(つきそひ)たる中間(ちゆうげん)を相(あひ)そへられて、遥々(はるばる)と佐渡(さどの)国(くに)へぞ下(くだし)ける。路(みち)遠けれども乗(のる)べき馬(むま)もなければ、はきも習(ならは)ぬ草鞋(わらぢ)に、菅(すげ)の小笠(をがさ)を傾(かたぶけ)て、露(つゆ)分(わけ)わくる越路(こしぢ)の旅(たび)、思(おもひ)やるこそ哀(あはれ)なれ。都を出(いで)て十三日と申(まうす)に、越前の敦賀(つるが)の津(つ)に着(つき)にけり。是(これ)より商人船(あきんどぶね)に乗(のり)て、程なく佐渡(さどの)国(くに)へぞ着(つき)にける。人して右(かう)と云(いふ)べき便(たより)もなければ、自(みづから)本間が館(たち)に致(いたつ)て中門(ちゆうもん)の前(まへ)にぞ立(たつ)たりける。境節(をりふし)僧の有(あり)けるが立出(たちいで)て、「此(この)内への御用(ごよう)にて御立(おんたち)候か。又何(いか)なる用にて候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新殿(くまわかどの)、「是(これ)は日野(ひのの)中納言の一子(いつし)にて候が、近来(このごろ)切られさせ給(たまふ)べしと承(うけたまはつ)て、其(その)最後の様(やう)をも見候はんために都より遥々(はるばる)と尋下(たづねくだり)て候。」と云(いひ)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流しければ、此(この)僧心(こころ)有(あり)ける人也ければ、急(いそ)ぎ此由(このよし)を本間に語るに、本間も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)にや思(おもひ)けん、軈(やが)て此(この)僧を以(もつて)持仏堂(ぢぶつだう)へいざなひ入(いれ)て、蹈皮行纒(たびはばき)解(ぬが)せ足洗(あらう)て、疎(おろそか)ならぬ体(てい)にてぞ置(おき)たりける。阿新殿(くまわかどの)是(これ)をうれしと思(おもふ)に付(つけ)ても、同(おなじく)は父の卿(きやう)を疾(とく)見奉(たてまつら)ばやと云(いひ)けれ共(ども)、今日明日(けふあす)斬らるべき人に是(これ)を見せては、中々(なかなか)よみ路(ぢ)の障(さはり)とも成(なり)ぬべし。又関東(くわんとう)の聞(きこ)へもいかゞ有らんずらんとて、父子(ふし)の対面(たいめん)を許さず、四五町隔(へだたつ)たる処(ところ)に置(おき)たれば、父の卿(きやう)は是(これ)を聞(きき)て、行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ都にいかゞ有らんと、思(おもひ)やるよりも尚(なほ)悲し。子は其方(そなた)を見遣(やり)て、浪路(なみぢ)遥(はるか)に隔(へだ)たりし鄙(ひな)のすまゐを想像(おもひやつ)て、心苦(くるし)く思(おもひ)つる泪(なみだ)は更に数(かず)ならずと、袂(たもと)の乾(かわ)くひまもなし。是(これ)こそ中納言のをはします楼(ろう)の中(うち)よとて見やれば、竹の一村(ひとむら)茂(しげ)りたる処に、堀(ほり)ほり廻(まは)し屏(へい)塗(ぬつ)て、行通(ゆきか)ふ人も稀(まれ)也。情(なさけ)なの本間が心や。父は禁篭(きんろう)せられ子は未(いまだ)稚(をさ)なし。縦(たと)ひ一所(いつしよ)に置(おき)たりとも、何程(なにほど)の怖畏(ふゐ)か有(ある)べきに、対面(たいめん)をだに許さで、まだ同(おなじ)世の中(なか)ながら生(しやう)を隔(へだて)たる如(ごとく)にて、なからん後(のち)の苔の下(した)、思寝(おもひね)に見ん夢ならでは、相看(あひみ)ん事も有(あり)がたしと、互に悲(かなし)む恩愛(おんあい)の、父子(ふし)の道こそ哀(あはれ)なれ。五月二十九日の暮程(くれほど)に、資朝卿(すけとものきやう)を篭(ろう)より出(いだ)し奉(たてまつつ)て、「遥(はるか)に御湯(おんゆ)も召(めさ)れ候はぬに、御行水(おんぎやうずゐ)候へ。」と申せば、早(はや)斬らるべき時に成(なり)けりと思給(おもひたまひ)て、「嗚呼(ああ)うたてしき事かな、我(わが)最後の様(やう)を見ん為に、遥々(はるばる)と尋下(たづねくだつ)たる少者(をさなきもの)を一目(ひとめ)も見ずして、終(はて)ぬる事よ。」と計(ばか)り宣(のたまひ)て、其後(そののち)は曾(かつ)て諸事(しよじ)に付(つけ)て言(ことば)をも出(いだし)給はず。今朝(けさ)迄は気色(きしよく)しほれて、常には泪(なみだ)を押拭(おしのご)ひ給(たまひ)けるが、人間(にんげん)の事に於ては頭燃(づねん)を払ふ如(ごとく)に成(なり)ぬと覚(さとつ)て、只綿密(めんみつ)の工夫(くふう)の外(ほか)は、余念(よねん)有りとも見へ給はず。夜(よ)に入れば輿(こし)さし寄(よせ)て乗(の)せ奉り、爰(ここ)より十町許(ちやうばかり)ある河原(かはら)へ出(いだ)し奉り、輿舁居(かきすゑ)たれば、少(すこし)も臆(おく)したる気色(けしき)もなく、敷皮(しきかは)の上に居直(ゐなほつ)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日(ねんがうつきひ)の下(した)に名字(みやうじ)を書付(かきつけ)て、筆を閣(さしお)き給へば、切手(きりて)後(うしろ)へ回(まは)るとぞ見へし、御首(おんくび)は敷皮(しきかは)の上に落(おち)て質(むくろ)は尚(なほ)坐(ざ)せるが如し。此程(このほど)常(つね)に法談(ほふだん)なんどし給ひける僧来(きたつ)て、葬礼(さうれい)如形取営(とりいとな)み、空(むなし)き骨(こつ)を拾(ひろう)て阿新に奉りければ、阿新是(これ)を一目(ひとめ)見て、取手(とるて)も撓(たゆく)倒伏(たふれふし)、「今生(こんじやう)の対面遂に叶(かなは)ずして、替(かは)れる白骨(はつこつ)を見る事よ。」と泣悲(なきかなしむ)も理(ことわり)也。阿新未(いまだ)幼稚(えうち)なれ共(ども)、けなげなる所存(しよぞん)有(あり)ければ、父の遺骨(ゆゐこつ)をば只一人召仕(めしつかひ)ける中間(ちゆうげん)に持(もた)せて、「先(まづ)我よりさきに高野山(かうやさん)に参(まゐり)て奥の院とかやに収(をさめ)よ。」とて都へ帰(かへ)し上(のぼ)せ、我身(わがみ)は労(いたは)る事有る由にて尚(なほ)本間が館(たち)にぞ留(とどま)りける。是(これ)は本間が情(なさけ)なく、父を今生(こんじやう)にて我(われ)に見せざりつる鬱憤(うつぷん)を散(さん)ぜんと思ふ故(ゆゑ)也。角(かく)て四五日経(へ)ける程に、阿新昼(ひる)は病(やむ)由(よし)にて終日(ひねもす)に臥(ふ)し、夜(よる)は忍(しのび)やかにぬけ出(いで)て、本間が寝処(ねところ)なんど細々(こまごま)に伺(うかがう)て、隙(ひま)あらば彼(かの)入道父子(ふし)が間(あひだ)に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定(おもひさだめ)てぞねらいける。或夜(あるよ)雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく吹(ふい)て、番(とのゐ)する郎等共(らうどうども)も皆遠侍(とほさぶらひ)に臥(ふし)たりければ、今こそ待処(まつところ)の幸(さいはひ)よと思(おもう)て、本間が寝処(ねところ)の方(かた)を忍(しのび)て伺(うかがう)に、本間が運やつよかりけん、今夜(こんや)は常の寝処を替(かへ)て、何(いづ)くに有(あり)とも見へず。又二間(ふたま)なる処に燈(とぼしび)の影の見へけるを、是(これ)は若(もし)本間入道が子息(しそく)にてや有(ある)らん。其(それ)なりとも討(うつ)て恨(うらみ)を散(さん)ぜんと、ぬけ入(いつ)て是(これ)を見るに、其(それ)さへ爰(ここ)には無(なく)して、中納言殿(どの)を斬奉(きりたてまつり)し本間(ほんま)三郎と云(いふ)者ぞ只一人臥(ふし)たりける。よしや是(これ)も時に取(とつ)ては親の敵(かたき)也。山城(やましろ)入道に劣(おと)るまじと思(おもう)て走りかゝらんとするに、我は元来(もとより)太刀(たち)も刀(かたな)も持(もた)ず、只(ただ)人(ひと)の太刀を我物(わがもの)と憑(たのみ)たるに、燈(ともしび)殊に明(あきらか)なれば、立寄(たちよら)ば軈(やが)て驚合(おどろきあ)ふ事もや有(あら)んずらんと危(あやぶん)で、左右(さう)なく寄(より)ゑず。何(いか)がせんと案じ煩(わづらう)て立(たち)たるに、折節(をりふし)夏なれば灯(ともしび)の影を見て、蛾(が)と云(いふ)虫のあまた明障子(あかりしやうじ)に取付(とりつき)たるを、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有れと思(おもう)て障子(しやうじ)を少(すこし)引(ひき)あけたれば、此(この)虫あまた内(うち)へ入(いつ)て軈(やが)て灯(ともしび)を打(うち)けしぬ。今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄(たちよつ)て探(さぐ)るに、太刀も刀(かたな)も枕に有(あつ)て、主(ぬし)はいたく寝入(ねいり)たり。先(まづ)刀を取(とつ)て腰にさし、太刀を抜(ぬい)て心(むな)もとに指当(さしあて)て、寝(ね)たる者を殺(ころす)は死人(しにん)に同(おな)じければ、驚(おどろか)さんと思(おもつ)て、先(まづ)足にて枕をはたとぞ蹴(け)たりける。けられて驚く処を、一(いち)の太刀に臍(ほぞ)の上(うへ)を畳(たたみ)までつとつきとをし、返(かへ)す太刀に喉(のど)ぶゑ指切(さしきつ)て、心閑(しづか)に後(うしろ)の竹原(ささはら)の中(なか)へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通(とほ)されてあつと云(いふ)声に、番衆(ばんしゆ)ども驚騒(おどろきさわい)で、火を燃(とぼ)して是(これ)を見るに、血の付(つき)たるちいさき足跡(あしあと)あり。「さては阿新殿(くまわかどの)のしわざ也。堀の水深ければ、木戸(きど)より外(ほか)へはよも出(いで)じ。さがし出(いだつ)て打殺(うちころ)せ。」とて、手々(てにてに)松明(たいまつ)をとぼし、木の下、草の陰(かげ)まで残処(のこるところ)無(なく)ぞさがしける。阿新は竹原(ささはら)の中に隠れながら、今は何(いづ)くへか遁(のが)るべき。人手(ひとで)に懸(かか)らんよりは、自害(じがい)をせばやと思はれけるが、悪(にく)しと思(おもふ)親の敵(かたき)をば討(うつ)つ、今は何(いかに)もして命(いのち)を全(まつたう)して、君の御用(ごよう)にも立(たち)、父の素意(そい)をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若(もし)やと一(ひと)まど落(おち)て見ばやと思返(おもひかへ)して、堀を飛越(とびこえ)んとしけるが、口(くち)二丈深さ一丈に余(あま)りたる堀なれば、越(こゆ)べき様(やう)も無(なか)りけり。さらば是(これ)を橋にして渡(はたら)んよと思(おもつ)て、堀の上に末(すゑ)なびきたる呉竹(くれたけ)の梢(こずゑ)へさら/\と登(のぼり)たれば、竹の末(すゑ)堀の向(むかひ)へなびき伏(ふし)て、やす/\と堀をば越(こえ)てげり。夜(よ)は未(いまだ)深(ふか)し、湊(みなと)の方(かた)へ行(ゆい)て、舟に乗(のつ)てこそ陸(くが)へは着(つか)めと思(おもう)て、たどるたどる浦の方(かた)へ行程(ゆくほど)に、夜(よ)もはや次第に明離(あけはなれ)て忍(しのぶ)べき道もなければ、身を隠(かく)さんとて日(ひ)を暮(くら)し、麻(あさ)や蓬(よもぎ)の生茂(おひしげり)たる中(なか)に隠れ居たれば、追手共(おひてども)と覚(おぼ)しき者共(ものども)百四五十騎馳散(はせちつ)て、「若(もし)十二三計(ばかり)なる児(ちご)や通りつる。」と、道に行合人毎(ゆきあふひとごと)に問音(とふおと)してぞ過行(すぎゆき)ける。阿新其(その)日は麻の中(なか)にて日を暮(くら)し、夜(よる)になれば湊(みなと)へと心ざして、そことも知(しら)ず行(ゆく)程に、孝行の志(こころざし)を感じて、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)をや回(めぐ)らされけん、年(とし)老(おい)たる山臥(やまぶし)一人行合(ゆきあひ)たり。此児(このちご)の有様を見て痛(いたは)しくや思(おもひ)けん、「是(これ)は何(いづ)くより何(いづく)をさして御渡(おんわた)り候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新事の様(やう)をありの侭(まま)にぞ語りける。山臥(やまぶし)是(これ)を聞(きい)て、我(われ)此(この)人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思(おもひ)ければ、「御心(おんこころ)安く思食(おぼしめさ)れ候へ。湊(みなと)に商人舟共(あきんどぶねども)多(おほく)候へば、乗(の)せ奉(たてまつつ)て越後・越中の方(かた)まで送付(おくりつけ)まいらすべし。」と云(いひ)て、足たゆめば、此児(このちご)を肩に乗(の)せ背(せなか)に負(おう)て、程なく湊にぞ行着(ゆきつき)ける。夜明(よあけ)て便船(びんせん)やあると尋(たづね)けるに、折節(をりふし)湊の内(うち)に舟一艘(いつさう)も無(なか)りけり。如何(いかん)せんと求(もとむ)る処に、遥(はるか)の澳(おき)に乗(のり)うかべたる大船(たいせん)、順風(じゆんぷう)に成(なり)ぬと見て檣(ほばしら)を立(たて)篷(とま)をまく。山臥手を上(あげ)て、「其(その)船是(これ)へ寄(よせ)てたび給へ、便船申さん。」と呼(よばは)りけれ共(ども)、曾(かつ)て耳にも聞入(ききいれ)ず、舟人(ふなうど)声を帆(ほ)に上(あげ)て湊の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。山臥大(おほき)に腹を立(た)て柿(かき)の衣(ころも)の露(つゆ)を結(むすん)で肩にかけ、澳(おき)行(ゆく)舟に立向(たちむかつ)て、いらたか誦珠(じゆず)をさら/\と押揉(おしもみ)て、「一持秘密咒(いちぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)、奉仕修行者(ぶじしゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(いうによばがぼん)と云へり。況(いはんや)多年(たねん)の勤行(ごんぎやう)に於てをや。明王(みやうわう)の本誓(ほんせい)あやまらずば、権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)・天竜夜叉(てんりゆうやしや)・八大龍王(はちだいりゆうわう)、其(その)船此方(こなた)へ漕返(こぎもどし)てたばせ給へ。」と、跳上(をどりあがり)々々肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈りける。行者(ぎやうじや)の祈り神(しん)に通(つう)じて、明王(みやうわう)擁護(おうご)やしたまひけん、澳(おき)の方(かた)より俄(にはか)に悪風(あくふう)吹来(ふききたつ)て、此(この)舟忽(たちまちに)覆(くつかへ)らんとしける間(あひだ)、舟人共(ふなうどども)あはてゝ、「山臥の御房(ごばう)、先(まづ)我等を御助(おんたす)け候へ。」と手を合(あはせ)膝(ひざ)をかゞめ、手々(てにて)に舟を漕(こぎ)もどす。汀(みぎは)近く成(なり)ければ、船頭(せんどう)舟より飛下(とびおり)て、児(ちご)を肩にのせ、山臥の手を引(ひい)て、屋形(やかた)の内(うち)に入(いり)たれば、風は又元(もと)の如(ごとく)に直(なほ)りて、舟は湊を出(いで)にけり。其後(そののち)追手共(おひてども)百四五十騎馳来(はせきた)り、遠浅(とほあさ)に馬を叩(ひかへ)て、「あの舟止(とま)れ。」と招共(まねけども)、舟人(ふなうど)是(これ)を見ぬ由にて、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)たれば、舟は其日(そのひ)の暮程(くれほど)に、越後の府(こう)にぞ着(つき)にける。阿新山臥に助(たすけ)られて、鰐口(わにのくち)の死を遁(のがれ)しも、明王加護(かご)の御誓(おんちかひ)掲焉(けつえん)なりける験(しるし)也。
○俊基(としもと)被誅事並(ならびに)助光(すけみつが)事(こと) S0206
俊基(としもと)朝臣(あそん)は殊更(ことさら)謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、遠国(をんごく)に流すまでも有(ある)べからず、近日(きんじつ)に鎌倉中(かまくらぢゆう)にて斬(きり)奉るべしとぞ被定たる。此(この)人多年の所願(しよぐわん)有(あつ)て、法華経(ほけきやう)を六百部自(みづか)ら読誦(どくじゆ)し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満(みつ)る程の命(いのち)を被相待候て、其後(そののち)兎(と)も角(かく)も被成候へと、頻(しきり)に所望(しよまう)有(あり)ければ、げにも其(それ)程の大願(だいぐわん)を果(はた)させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終(をふ)る程(ほど)僅(わづか)の日数(ひかず)を待暮(まちくら)す、命の程こそ哀(あはれ)なれ。此(この)朝臣の多年(たねん)召仕(めしつかひ)ける青侍(あをさぶらひ)に後藤左衛門(さゑもんの)尉(じよう)助光(すけみつ)と云(いふ)者あり。主(しゆう)の俊基(としもと)召取(めしと)られ給(たまひ)し後(のち)、北方(きたのかた)に付進(つきまゐら)せ嵯峨(さが)の奥に忍(しのび)て候(さふらひ)けるが、俊基(としもと)関東へ被召下給ふ由を聞給(ききたまひ)て、北方(きたのかた)は堪(たへ)ぬ思(おもひ)に伏沈(ふししづみ)て歎悲給(なげきかなしみたまひ)けるを見奉(たてまつる)に、不堪悲して、北(きた)の方(かた)の御文(おんふみ)を給(たまはつ)て、助光忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へぞ下(くだり)ける。今日明日(けふあす)の程と聞へしかば、今は早(はや)斬(きら)れもやし給ひつらんと、行逢(ゆきあふ)人に事の由を問々(とひとひ)、程なく鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。右少弁(うせうべん)俊基(としもと)のをはする傍(あたり)に宿(やど)を借(かり)て、何(いか)なる便(たより)もがな、事の子細(しさい)を申入(まうしいれ)んと伺(うかがひ)けれども、不叶して日を過(すご)しける処に、今日(けふ)こそ京都よりの召人(めしうど)は斬(きら)れ給(たまふ)べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何(いか)がせんと肝(きも)を消し、此彼(ここかしこ)に立(たち)て見聞(けんもん)しければ、俊基(としもと)已(すで)に張輿(はりごし)に乗(の)せられて粧坂(けはひざか)へ出(いで)給ふ。爰(ここ)にて工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)請取(うけとり)て、葛原岡(くずはらがをか)に大幕(おほまく)引(ひい)て、敷皮(しきかは)の上に坐(ざ)し給へり。是(これ)を見ける助光が心中(こころのうち)譬(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。目くれ足もなへて、絶入(たえい)る計(ばかり)に有(あり)けれども、泣々(なくなく)工藤殿(どの)が前(まへ)に進出(すすみいで)て、「是(これ)は右少弁殿(どの)の伺候(しこう)の者にて候が、最後(さいご)の様(やう)見奉(たてまつり)候はん為に遥々(はるばる)と参(まゐり)候。可然は御免(ごめん)を蒙(かうぶつ)て御前(おんまへ)に参り、北方(きたのかた)の御文(おんふみ)をも見参(けんざん)に入(いれ)候はん。」と申(まうし)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流(ながし)ければ、工藤も見るに哀(あはれ)を催(もよほ)されて、不覚(ふかく)の泪(なみだ)せきあへず。「子細候まじ、早(はや)幕の内(うち)へ御参(おんまゐり)候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入(いつ)て御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)く。俊基(としもと)は助光を打見て、「いかにや。」と計(ばかり)宣(のたまひ)て、軈(やが)て泪に咽(むせ)び給ふ。助光も、「北方(きたのかた)の御文(おんふみ)にて候。」とて、御前(おんまへ)に差置(さしおき)たる計(ばかり)にて、是(これ)も涙にくれて、顔をも持(もち)あげず泣(なき)居たり。良(やや)暫(しばら)く有(あつ)て、俊基(としもと)涙を押拭(おしのご)ひ、文を見給へば、「消懸(きえかか)る露の身の置所(おきどころ)なきに付(つけ)ても、何(いか)なる暮(くれ)にか、無世(なきよ)の別(わかれ)と承(うけたまは)り候はんずらんと、心を摧(くだ)く涙の程、御推量(おしはか)りも尚(なほ)浅くなん。」と、詞(ことば)に余(あまり)て思(おもひ)の色深く、黒(くろ)み過(すぐ)るまで書(かか)れたり。俊基(としもと)いとゞ涙にくれて、読(よみ)かね給へる気色(けしき)、見人(みるひと)袖をぬらさぬは無(なか)りけり。「硯(すずり)やある。」と宣(のたま)へば、矢立(やたて)を御前(おんまへ)に指置(さしおけ)ば、硯の中(なか)なる小刀(こがたな)にて鬢(びん)の髪(かみ)を少し押切(おしきつ)て、北方(きたのかた)の文に巻(まき)そへ、引返(ひきかへ)し一筆(ひとふで)書(かい)て助光が手に渡し給へば、助光懐(ふところ)に入(いれ)て泣沈(なきしづみ)たる有様、理(ことわ)りにも過(すぎ)て哀(あはれ)也。工藤左衛門幕(まく)の内に入(いつ)て、「余(あま)りに時の移り候。」と勧(すすむ)れば、俊基(としもと)畳紙(たたうがみ)を取出(とりいだ)し、頚(くび)の回(まは)り押拭(おしのご)ひ、其(その)紙を推開(おしひらい)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣(さしおい)て、鬢(びん)の髪(かみ)を摩(なで)給ふ程こそあれ、太刀(たち)かげ後(うしろ)に光れば、頚は前(まへ)に落(おち)けるを、自(みづか)ら抱(かかへ)て伏(ふし)給ふ。是(これ)を見奉る助光が心の中(うち)、謦(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。さて泣々(なくなく)死骸(しがい)を葬(さう)し奉り、空(むなし)き遺骨(ゆゐこつ)を頚に懸(かけ)、形見(かたみ)の御文(おんふみ)身に副(そへ)て、泣々(なくなく)京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。北方(きたのかた)は助光を待付(まちつけ)て、弁殿(べんどの)の行末(ゆくへ)を聞(きか)ん事の喜(うれ)しさに、人目(ひとめ)も憚(はばから)ず、簾(みす)より外(ほか)に出迎(いでむか)ひ、「いかにや弁殿(どの)は、何比(いつごろ)に御上(おんのぼり)可有との御返事(おんへんじ)ぞ。」と問(とひ)給へば、助光はら/\と泪(なみだ)をこぼして、「はや斬(きら)れさせ給(たまひ)て候。是(これ)こそ今はのきはの御返事(おんへんじ)にて候へ。」とて、鬢(びん)の髪(かみ)と消息(せうそく)とを差(さし)あげて声も惜(をし)まず泣(なき)ければ、北方(きたのかた)は形見(かたみ)の文(ふみ)と白骨(はつこつ)を見給(たまひ)て、内へも入給(いりたまは)ず、縁(えん)に倒伏(たふれふ)し、消入給(きえいりたまひ)ぬと驚く程に見へ給ふ。理(ことわり)なる哉(かな)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り一河(いちが)の流(ながれ)を汲む程も、知(しら)れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残(なごり)を惜(をしむ)習(ならひ)なるに、況(いはん)や連理(れんり)の契(ちぎり)不浅して、十年余(ととせあま)りに成(なり)ぬるに夢より外(ほか)は又も相(あひ)見ぬ、此世(このよ)の外(ほか)の別(わかれ)と聞(きい)て、絶(たえ)入り悲(かなし)み玉ふぞ理(ことわ)りなる。四十九日と申(まうす)に形(かた)の如(ごとく)の仏事(ぶつじ)営(いとなみ)て、北(きた)の方(かた)様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)に身をやつし、柴の扉(とぼそ)の明(あけ)くれは、亡夫(ばうふ)の菩提(ぼだい)をぞ訪(とぶら)ひ玉(たまひ)ける。助光も髻(もとどり)切(きり)て、永く高野山(かうやさん)に閉篭(とぢこもつ)て、偏(ひとへ)に亡君(ばうくん)の後生菩提(ごしやうぼだい)をぞ訪奉(とぶらひたてまつり)ける。夫婦の契(ちぎり)、君臣の儀、無跡(なきあと)迄も留(とどまり)て哀(あはれ)なりし事共(ども)也。
○天下(てんか)怪異(けいの)事(こと) S0207
嘉暦(かりやく)二年の春の比(ころ)南都大乗院(だいじようゐん)禅師房(ぜんじばう)と六方(ろくばう)の大衆(だいしゆ)と、確執(かくしつ)の事有(あつ)て合戦(かつせん)に及ぶ。金堂(こんだう)、講堂(かうだう)、南円(なんゑん)堂(だう)、西金(さいこん)堂(だう)、忽(たちまち)に兵火(ひやうくわ)の余煙(よえん)に焼失(せうしつ)す。又元弘(げんこう)元年、山門東塔(さんもんとうだふ)の北谷(きたたに)より兵火出来(いでき)て、四王院(しわうゐん)、延命(えんめい)院(ゐん)、大講堂(だいかうだう)、法華(ほつけ)堂、常行(じやうぎやう)堂(だう)、一時(じ)に灰燼(くわいじん)と成(なり)ぬ。是等(これら)をこそ、天下の災難(さいなん)を兼(かね)て知(しら)する処の前相(ぜんさう)かと人皆魂(たましひ)を冷(ひや)しけるに、同(おなじき)年の七月三日大地震(ぢしん)有(あつ)て、紀伊(きの)国(くに)千里浜(せんりばま)の遠干潟(とほひがた)、俄に陸地(りくち)になる事二十余町也。又同(おなじき)七日の酉(とり)の刻(こく)に地震有(あつ)て、富士の絶頂(ぜつちやう)崩(くづ)るゝ事数(す)百丈(ひやくぢやう)也と。卜部(うらべ)の宿祢(すくね)、大亀(だいき)を焼(やい)て占(うらな)ひ、陰陽(おんやう)の博士(はかせ)、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。「勘文(かんぶん)の表(おもて)不穏、尤(もつとも)御慎(おんつつしみ)可有。」と密奏(みつそう)す。寺々(てらでら)の火災所々(しよしよ)の地震只事(ただごと)に非ず。今や不思義出来(いでくる)と人々心を驚(おどろか)しける処に、果して其年(そのとし)の八月二十二日、東使(とうし)両人三千余騎にて上洛(しやうらく)すと聞へしかば、何事(なにこと)とは知(しら)ず京(みやこ)に又何(いか)なる事や有(あら)んずらんと、近国(きんごく)の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳集(はせあつま)る。京中(きやうぢゆう)何(なに)となく、以外(もつてのほか)に騒動(さうどう)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)して未(いまだ)文箱(ふばこ)をも開(ひらか)ぬ先(さき)に、何(なに)とかして聞へけん。「今度(このたび)東使(とうし)の上洛(しやうらく)は主上(しゆしやう)を遠国(をんごく)へ遷進(うつしまゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に行奉(おこなひたてまつら)ん為也。」と、山門に披露(ひろう)有(あり)ければ、八月二十四日の夜(よ)に入(いつ)て、大塔宮(おほたふのみや)より潛(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度(こんど)東使上洛の事内々承(うけたまはり)候へば、皇居(くわうきよ)を遠国(をんごく)へ遷(うつし)奉り、尊雲(そんうん)を死罪に行(おこなは)ん為にて候なる。今夜(こんや)急(いそ)ぎ南都(なんと)の方(かた)へ御忍(おんしの)び候べし。城郭未調(いまだととのはず)、官軍(くわんぐん)馳参(はせさん)ぜざる先(さき)に、凶徒(きようと)若(もし)皇居(くわうきよ)に寄来(よせきたら)ば、御方(みかた)防戦(ふせぎたたかふ)に利(り)を失(うしな)ひ候はんか。且(かつう)は京都の敵(てき)を遮(さへぎ)り止(とめ)んが為、又は衆徒(しゆと)の心を見んが為に、近臣(きんしん)を一人、天子の号(がう)を許(ゆるさ)れて山門へ被上せ、臨幸(りんかう)の由を披露(ひろう)候はゞ、敵軍(てきぐん)定(さだめ)て叡山(えいさん)に向(むかつ)て合戦(かつせん)を致し候はん歟(か)。去程(さるほど)ならば衆徒(しゆと)吾山(わがやま)を思故(おもふゆゑ)に、防戦(ふせぎたたかふ)に身命(しんみやう)を軽(かろん)じ候べし。凶徒(きようと)力(ちから)疲(つか)れ合戦数日(すじつ)に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和(やまと)・河内(かはち)の官軍(くわんぐん)を以て却(かへつ)て京都を被攻んに、凶徒の誅戮(ちゆうりく)踵(くびす)を回(めぐら)すべからず。国家の安危(あんき)只(ただ)此(この)一挙(きよ)に可有候也。」と被申たりける間、主上(しゆしやう)只(ただ)あきれさせ玉へる計(ばかり)にて何(なに)の御沙汰(ごさた)にも及(および)玉はず。尹(ゐんの)大納言(だいなごん)師賢(もろかた)・万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・同(おなじき)舎弟(しやてい)季房(すゑふさ)三四人(さんしにん)上臥(うへふし)したるを御前(おんまへ)に召(めさ)れて、「此(この)事(こと)如何(いかん)可有。」と被仰出ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「逆臣(ぎやくしん)君を犯(をか)し奉らんとする時、暫(しばらく)其難(そのなん)を避(さけ)て還(かへつ)て国家を保(たもつ)は、前蹤(ぜんじよう)皆佳例(かれい)にて候。所謂(いはゆる)重耳(ちようじ)は■(てき)に奔(はし)り、大王(だいわう)■(ひん)に行く。共に王業(わうげふ)をなして子孫無窮(しそんぶきゆう)に光(ひかり)を栄(かかやか)し候き。兔角(とかく)の御思案(ごしあん)に及(および)候はゞ、夜(よ)も深候(ふけさふらひ)なん。早(はや)御忍(おんしのび)候へ。」とて、御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を乗(のせ)奉り、下簾(したすだれ)より出絹(だしぎぬを)出(いだ)して女房車(にようばうぐるま)の体(てい)に見せ、主上を扶乗進(たすけのせまゐらせ)て、陽明門(やうめいもん)より成(なし)奉る。御門(ごもん)守護(しゆご)の武士共(ぶしども)御車(おんくるま)を押(おさ)へて、「誰にて御渡(おんわた)り候ぞ。」と問申(とひまうし)ければ、藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)御車(おんくるま)に随(したがつ)て供奉(ぐぶ)したりけるが、「是(これ)は中宮(ちゆうぐう)の夜(よ)に紛(まぎれ)て北山殿(きたやまどの)へ行啓(ぎやうけい)ならせ給ふぞ。」と宣(のたまひ)たりければ、「さては子細(しさい)候はじ。」とて御車(おんくるま)をぞ通(とほ)しける。兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、源(げん)中納言(ちゆうなごん)具行(ともゆき)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、三条河原(さんでうがはら)にて追付(おつつき)奉る。此(ここ)より御車(おんくるま)をば被止、怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(まゐら)せたれども、俄(にはか)の事にて駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)重康(しげやす)・楽人(がくにん)豊原兼秋(とよはらのかねあき)・随身(ずゐじん)秦久武(はだのひさたけ)なんどぞ御輿(おんこし)をば舁(かき)奉りける。供奉の諸卿(しよきやう)皆衣冠(いくわん)を解(ぬい)で折烏帽子(をりゑぼし)に直垂(ひたたれ)を着(ちやく)し、七大寺詣(まうで)する京家(きやうけ)の青侍(あをさぶらひ)なんどの、女性(によしやう)を具足(ぐそく)したる体(てい)に見せて、御輿(おんこし)の前後(ぜんご)にぞ供奉したりける。古津(こづの)石地蔵(いしぢざう)を過(すぎ)させ玉ひける時、夜(よ)は早(はや)若々(ほのぼの)と明(あけ)にけり。此(ここ)にて朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を進め申(まうし)て、先づ南都(なんと)の東南院(とうなんゐん)へ入(いら)せ玉ふ。彼僧正(かのそうじやう)元(もと)より弐(ふたごこ)ろなき忠義を存(そん)ぜしかば、先づ臨幸(りんかう)なりたるをば披露(ひろう)せで衆徒(しゆと)の心を伺聞(うかがひきく)に、西室(にしむろの)顕実(けんじつ)僧正は関東(くわんとう)の一族にて、権勢(けんせい)の門主(もんじゆ)たる間、皆其(その)威にや恐れたりけん、与力(よりき)する衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。かくては南都の皇居(くわうきよ)叶(かなふ)まじとて、翌日(よくじつ)二十六日、和束(わつか)の鷲峯山(じゆぶうせん)へ入(いら)せ玉ふ。此(ここ)は又余(あま)りに山深く里(さと)遠(とほう)して、何事(なにこと)の計畧も叶(かなふ)まじき処なれば、要害(えうがい)に御陣(ごぢん)を召(めさ)るべしとて、同(おなじき)二十七日潛幸(せんかう)の儀式を引(ひき)つくろひ、南都の衆徒(しゆと)少々(せうせう)召具(めしぐ)せられて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なる。
○師賢(もろかた)登山(とうさんの)事(こと)付唐崎浜(からさきはま)合戦(かつせんの)事(こと) S0208
尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)は、主上の内裏(だいり)を御出有(ぎよしゆつあり)し夜(よ)、三条河原(さんでうがはら)迄被供奉たりしを、大塔宮(おほたふのみや)より様々(さまざま)被仰つる子細(しさい)あれば、臨幸(りんかうの)由(よし)にて山門へ登り、衆徒(しゆと)の心をも伺ひ、又勢(せい)をも付(つけ)て合戦を致せと被仰ければ、師賢(もろかた)法勝寺(ほつしやうじ)の前より、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を着(ちやくし)て、腰輿(えうよ)に乗替(のりかへ)て山門の西塔院(さいたふゐん)へ登(のぼり)玉ふ。四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)貞平(さだひら)、皆衣冠(いくわん)正(ただしう)して、供奉(ぐぶ)の体(てい)に相順(あひしたが)ふ。事の儀式誠敷(まことしく)ぞ見へたりける。西塔(さいたふ)の釈迦堂(しやかだう)を皇居(くわうきよ)と被成、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸(りんかう)成(なり)たる由(よし)披露(ひろう)有(あり)ければ、山上(さんじやう)・坂本は申(まうす)に及ばず、大津(おほつ)・松本(まつもと)・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・仰木(あふぎ)・絹河(きぬがは)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者迄も、我前(われさき)にと馳参(はせまゐる)。其勢(そのせい)東西両塔(とうざいりやうたふ)に充満して、雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ見へたりける。懸(かか)りけれども、六波羅(ろくはら)には未(いまだ)曾(かつて)是(これ)を知らず。夜(よ)明(あけ)ければ東使両人(とうしりやうにん)内裏(だいり)へ参(さんじ)て、先づ行幸(ぎやうがう)を六波羅(ろくはら)へ成奉(なしたてまつら)んとて打立(うちたち)ける処に、浄林房(じやうりんばうの)阿闍梨(あじやり)豪誉(がうよ)が許(もと)より、六波羅(ろくはら)へ使者(ししや)を立(た)て、「今夜(こんや)の寅(とら)の刻(こく)に、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸成りたる間、三千の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く馳(はせ)参り候。近江(あふみ)・越前(ゑちぜん)の御勢(おんせい)を待(まち)て、明日(みやうにち)は六波羅(ろくはら)へ被寄べき由評定(ひやうじやう)あり。事の大(おほき)に成り候はぬ先(さき)に、急ぎ東坂本(ひがしさかもと)へ御勢(おんせい)を被向候へ。豪誉後攻仕(ごづめつかまつり)て、主上をば取(とり)奉るべし。」とぞ申(まうし)たりける。両六波羅(りやうろくはら)大(おほき)に驚(おどろい)て先(まづ)内裡(だいり)へ参(さんじ)て見奉るに、主上は御坐無(ござなく)て、只局町(つぼねまちの)女房達(にようばうたち)此彼(ここかしこ)にさしつどひて、鳴(なく)声のみぞしたりける。「さては山門へ落(おち)させ玉(たまひ)たる事子細(しさい)なし。勢(せい)つかぬ前(さき)に山門を攻(せめ)よ。」とて、四十八箇所(しじふはつかしよ)の篝(かがり)に畿内(きない)五箇国(ごかこく)の勢(せい)を差添(さしそへ)て、五千余騎追手(おふて)の寄手(よせて)として、赤山(せきさん)の麓(ふもと)、下松(さがりまつ)の辺(へん)へ指向(さしむけ)らる。搦手(からめて)へは佐々木(ささきの)三郎判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)・海東左近将監(かいとうさこんのしやうげん)・長井丹後(たんごの)守(かみ)宗衡(むねひら)・筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)貞知(さだとも)・波多野(はだの)上野前司(かうづけのぜんじ)宣道(のぶみち)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)に、美濃(みの)・尾張(をはり)・丹波(たんば)・但馬(たじま)の勢(せい)をさしそへて七千余騎、大津、松本を経(へ)て、唐崎(からさき)の松の辺(へん)まで寄懸(よせかけ)たり。坂本には兼(かね)てより相図(あひづ)を指(さし)たる事なれば、妙法院(めうほふゐん)・大塔宮(おほたふのみや)両門主(もんじゆ)、宵(よひ)より八王子(はちわうじ)へ御上(おんあがり)あ(つ)て、御旗(おんはた)を被揚たるに、御門徒(ごもんと)の護正院(ごしやうゐん)の僧都(そうづ)祐全(いうぜん)・妙光坊(めうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)玄尊(げんそん)を始(はじめ)として、三百騎五百騎此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参りける程に、一夜(いちや)の間(あひだ)に御勢(おんせい)六千余騎に成(なり)にけり。天台座主(てんだいのざす)を始(はじめ)て解脱同相(げだつどうさう)の御衣(おんころも)を脱給(ぬぎたまひ)て、堅甲利兵(けんかふりへい)の御貌(おんかたち)に替(かは)る。垂跡和光(すゐじやくわくわう)の砌(みぎ)り忽(たちまち)に変(へんじ)て、勇士守禦(しゆぎよ)の場(ば)と成(なり)ぬれば、神慮(しんりよ)も何(いか)が有(あ)らんと計(はか)り難(かたく)ぞ覚(おぼえ)たる。去程(さるほど)に、六波羅(ろくはら)勢(ぜい)已(すで)に戸津(とづ)の宿辺(しゆくのへん)まで寄(よせ)たりと坂本の内(うち)騒動(さうだう)しければ、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんしゆうゐん)・中坊(なかのばうの)勝行房(しようぎやうばう)・早雄(はやりを)の同宿共(どうしゆくども)、取(とる)物も取(とり)あへず唐崎(からさき)の浜へ出合(いであひ)げる。其(その)勢皆かち立(だち)にて而(しか)も三百人には過(すぎ)ざりけり。海東(かいとう)是(これ)を見て、「敵(てき)は小勢也(こぜいなり)けるぞ、後陣(ごぢん)の勢(せい)の重(かさ)ならぬ前(さき)に懸散(かけちら)さでは叶(かなふ)まじ。つゞけや者共(ものども)。」と云侭(いふまま)に、三尺四寸の太刀(たち)を抜(ぬい)て、鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖をさしかざし、敵のうず巻(まい)て扣(ひか)へたる真中(まんなか)へ懸入(かけいり)、敵三人(さんにん)切(きり)ふせ、波打際(なみうちぎは)に扣(ひか)へて続(つづ)く御方(みかた)をぞ待(まち)たりける。岡本房(をかもとばう)の幡磨(はりまの)竪者(りつしや)快実(くわいじつ)遥(はるか)に是(これ)を見て、前(まへ)につき双(ならべ)たる持楯(もちだて)一帖(でふ)岸破(かつぱ)と蹈倒(ふみたふ)し、に尺八寸の小長刀(こなぎなた)水車(みづぐるま)に回(まは)して躍(をど)り懸(かか)る。海東(かいとう)是(これ)を弓手(ゆんで)にうけ、胄(かぶと)の鉢(はち)を真二(まつぷたつ)に打破(うちわら)んと、隻手打(かたてうち)に打(うち)けるが、打外(うちはづ)して、袖の冠板(かふりいた)より菱縫(ひしぬひ)の板まで、片筋(かたすぢ)かいに懸(かけ)ず切(きつ)て落(おと)す。二(に)の太刀(たち)を余(あま)りに強く切(きら)んとて弓手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を踏(ふみ)をり、已(すで)に馬より落(おち)んとしけるが、乗直(のりなほ)りける処を、快実(くわいじつ)長刀(なぎなた)の柄(え)を取延(とりのべ)、内甲(うちかぶと)へ鋒(きつさ)き上(あがり)に、二(ふた)つ三(み)つすき間(ま)もなく入(いれ)たりけるに、海東あやまたず喉(のど)ぶゑを突(つか)れて馬より真倒(まつさかさま)に落(おち)にけり。快実軈(やが)て海東が上巻(あげまき)に乗懸(のりかか)り、鬢(びん)の髪(かみ)を掴(つかん)で引懸(ひきかけ)て、頚かき切(きつ)て長刀に貫(つらぬ)き、武家の太将一人討取(うちと)りたり、物始(ものはじめ)よし、と悦(こころう)で、あざ笑(わらう)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に何者とは知(しら)ず見物衆(けんぶつしゆ)の中(なか)より、年十五六計(ばかり)なる小児(こちご)の髪(かみ)唐輪(からわ)に上(あげ)たるが、麹塵(きぢん)の筒丸(どうまろ)に、大口(おほくち)のそば高く取り、金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)を抜(ぬい)て快実に走懸(はしりかか)り、甲(かぶと)の鉢をしたゝかに三打四打(みうちようち)ぞ打(うち)たりける。快実屹(きつ)と振帰(ふりかへつ)て是(これ)を見るに、齢(よはひ)二八計(じはちばかり)なる小児(こちご)の、大眉(おほまゆ)に鉄漿黒(かねくろ)也。是程(これほど)の小児(こちご)を討留(うちとめ)たらんは、法師(ほつし)の身に取(とつ)ては情無(なさけな)し。打(う)たじとすれば、走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)手繁(てしげ)く切回(きりまは)りける間、よし/\さらば長刀(なぎなた)の柄(え)にて太刀を打落(うちおとし)て、組止(くみとど)めんとしける処を、比叡辻(へいつぢ)の者共(ものども)が田(た)の畔(くろ)に立渡(たちわたつ)て射ける横矢(よこや)に、此児(このちご)胸板(むないた)をつと被射抜て、矢庭(やには)に伏(ふし)て死(し)にけり。後(のち)に誰(たれ)ぞと尋(たづぬ)れば、海東が嫡子(ちやくし)幸若丸(かうわかまろ)と云(いひ)ける小児、父が留置(とどめおき)けるに依(よつ)て軍(いくさ)の伴(とも)をばせざりけるが、猶も覚束(おぼつか)なくや思(おもひ)けん、見物衆(けんぶつしゆ)に紛(まぎれ)て跡に付(つい)て来(きたり)ける也。幸若稚(をさな)しと云へ共(ども)武士(ぶし)の家に生(うまれ)たる故(ゆゑ)にや、父が討(うた)れけるを見て、同(おなじ)く戦場(せんぢやう)に打死(うちじに)して名を残(のこし)けるこそ哀(あはれ)なれ。海東が郎等(らうとう)是(これ)を見て、「二人(ににん)の主(しゆう)を目の前(まへ)に討(うた)せ、剰(あまつさ)へ頚を敵(てき)に取(とら)せて、生(いき)て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共(ものども)轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸入(かけいり)、主(しゆう)の死骸(しがい)を枕にして討死(うちじに)せんと相争(あひあらそ)ふ。快実是(これ)を見てから/\と打笑(うちわらう)て、「心得(こころえ)ぬ物(もの)哉(かな)。御辺達(ごへんたち)は敵(てき)の首(くび)をこそ取らんずるに、御方(みかた)の首(くび)をほしがるは武家(ぶけ)自滅(じめつ)の瑞相(ずゐさう)顕(あらは)れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭(いふまま)に、持(もち)たる海東が首(くび)を敵(てき)の中(なか)へがはと投懸(なげかけ)、坂本様(さかもとやう)の拝(をが)み切(きり)、八方を払(はらう)て火を散(ちら)す。三十六騎の者共(ものども)、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立(たて)かねたる。佐々木(ささきの)三郎判官時信後(うしろ)に引(ひか)へて、「御方(みかた)討(うた)すな、つゞけや。」と下知(げぢ)しければ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)、三百余騎呼(をめい)て懸(かか)る。快実既(すで)に討(うた)れぬと見へける処に、桂林房(けいりんばう)の悪讚岐(あくさぬき)・中房(なかのばう)の小相摸(こさがみ)・勝行房(しようぎやうばう)の侍従(じじゆう)竪者(りつしや)定快(ぢやうくわい)・金蓮房(こんれんばう)の伯耆(はうき)直源(ぢきげん)、四人左右より渡合(わたりあう)て、鋒(きつさき)を指合(さしあはせ)て切(きつ)て回(まは)る。讚岐と直源と同じ処にて打(うた)れにければ、後陣(ごぢん)の衆徒(しゆと)五十(ごじふ)余人(よにん)連(つれ)て又討(うつ)て懸(かか)る。唐崎(からさき)の浜と申(まうす)は東は湖(みづうみ)にて、其汀(そのみぎは)崩(くづれ)たり。西は深田(ふけた)にて馬の足も立(たた)ず、平沙(へいさ)渺々(べうべう)として道せばし。後(うしろ)へ取(とり)まはさんとするも叶(かなは)ず、中(なか)に取篭(とりこめ)んとするも叶ず。されば衆徒(しゆと)も寄手(よせて)も互に面(おもて)に立(たつ)たる者計(ばかり)戦(たたかう)て、後陣の勢(せい)はいたづらに見物(けんぶつ)してぞ磬(ひか)へたる。已(すで)に唐崎(からさき)に軍(いくさ)始(はじま)りたりと聞へければ、御門徒(ごもんと)の勢(せい)三千余騎、白井(しろゐ)の前(まへ)を今路(いまみち)へ向ふ。本院(ほんゐん)の衆徒(しゆと)七千余人(よにん)、三宮(さんのみや)林(はやし)を下降(おりくだ)る。和仁(わに)・堅田(かただ)の者共(ものども)は、小舟(こぶね)三百余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、敵(てき)の後(うしろ)を遮(さへぎら)んと、大津をさして漕回(こぎまは)す。六波羅勢(ろくはらぜい)是(これ)を見て、叶はじとや思(おもひ)けん、志賀の炎魔堂(えんまだう)の前(まへ)を横切(よこきり)に、今路に懸(かかつ)て引帰(ひきかへ)す。衆徒(しゆと)は案内者(あんないしや)なれば、此彼(ここかしこ)の逼々(つまりつまり)に落合(おちあう)て散々(さんざん)に射る。武士(ぶし)は皆無案内(ぶあんない)なれば、堀峪(ほりがけ)とも云(いは)ず馬を馳倒(はせたふ)して引(ひき)かねける間(あひだ)、後陣(ごじん)に引(ひき)ける海東(かいとう)が若党(わかたう)八騎・波多野(はたの)が郎等(らうとう)十三騎・真野(まのの)入道父子(ふし)二人(ににん)・平井(ひらゐ)九郎主従(しゆうじゆう)二騎谷底(たにそこ)にして討(うた)れにけり。佐々木(ささきの)判官も馬を射させて乗(のり)がへを待程(まつほど)に、大敵(たいてき)左右(さいう)より取巻(とりまい)て既(すで)に討(うた)れぬとみへけるを、名を惜(をし)み命(いのち)を軽(かろ)んずる若党共(わかたうども)、帰合(かへしあはせ)々々所々(しよしよ)にて討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に合(あ)ひ、白昼(はくちう)に京(きやう)へ引帰(ひきかへ)す。此比(このころ)迄は天下久(ひさしく)静(しづか)にして、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は敢(あへ)て耳にも触(ふれ)ざりしに、俄(にわか)なる不思議出来(いでき)ぬれば、人皆あはて騒(さわい)で、天地(てんち)も只今打返(うちかへ)す様(やう)に、沙汰せぬ処も無(なか)りけり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御幸六波羅(ろくはらにごかうの)事(こと) S0209
世上(せじやう)乱(みだれ)たる時節(をりふし)なれば、野心(やしん)の者共(ものども)の取進(とりまゐら)する事もやとて、昨日(きのふ)二十七日の巳刻(みのこく)に、持明院本院(ぢみやうゐんほんゐん)・春宮(とうぐう)両御所(りやうごしよ)、六条(ろくでう)殿(どの)より、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)へ御幸(ごかう)なる。供奉(ぐぶ)の人人には、今出川(いまでがはの)前右大臣(さきのうだいじん)兼季公(かねすゑこう)・三条(さんでうの)大納言通顕(みちあき)・西園寺(さいをんじの)大納言公宗(きんむね)・日野(ひのの)前(さきの)中納言資名(すけな)・防城(ばうじやうの)宰相(さいしやう)経顕(つねあき)・日野(ひのの)宰相資明(すけあきら)、皆衣冠(いくわん)にて御車(おんくるま)の前後(ぜんご)に相順(あひしたが)ふ。其外(そのほか)の北面(ほくめん)・諸司(しよし)・格勤(かくご)は、大略(たいりやく)狩衣(かりぎぬ)の下(した)に腹巻(はらまき)を着映(きかかやか)したるもあり。洛中(らくちゆう)須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して、六軍(りくぐん)翠花(すゐくわ)を警固(けいご)し奉る。見聞耳目(けんもんじぼく)を驚かせり。
○主上(しゆしやう)臨幸(りんかう)依非実事山門変儀(へんぎの)事(こと)付紀信(きしんが)事(こと) S0210
山門の大衆(だいしゆ)唐崎の合戦に打勝(うちかつ)て、事始(ことはじめ)よしと喜合(よろこびあへ)る事斜(なのめ)ならず。爰(ここ)に西塔(さいたふ)を皇居(くわうきよ)に被定る条、本院面目無(めんぼくなき)に似(にた)り。寿永(じゆえい)の古(いにし)へ、後白川院(ごしらかはのゐん)山門を御憑有(おんたのみあり)し時も、先(まづ)横川(よかは)へ御登山(ごとうざん)有(あり)しか共(ども)、軈(やが)て東塔(とうたふ)の南谷(みなみたに)、円融坊(ゑんゆうばう)へこそ御移(おんうつり)有(あり)しか。且(かつう)は先蹤(ぜんじよう)也、且(かつう)は吉例(きちれい)也。早く臨幸(りんかう)を本院へ可成奉と、西塔院(さいたふゐん)へ触(ふれ)送る。西塔(さいたふ)の衆徒(しゆと)理(り)にをれて、仙蹕(せんびつ)を促(うながさ)ん為に皇居(くわうきよ)に参列(さんれつ)す。折節(をりふし)深山(みやま)をろし烈(はげしう)して、御簾(ぎよれん)を吹上(ふきあげ)たるより、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉(たてまつり)たれば、主上にてはをわしまさず、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)の、天子(てんし)の袞衣(こんえ)を着(ちやく)し給へるにてぞ有(あり)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見て、「こは何(いか)なる天狗(てんぐ)の所行(しよぎやう)ぞや。」と興(きよう)をさます。其後よりは、参る大衆(だいしゆ)一人もなし。角(かく)ては山門何(いか)なる野心(やしん)をか存(そん)ぜんずらんと学(おぼ)へければ、其夜(そのよ)の夜半計(やはんばかり)に、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)、忍(しのん)で山門を落(おち)て笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ被参る。去程(さるほど)に上林房阿闍梨(じやうりんばうあじやり)豪誉(がうよ)は、元来(もとより)武家へ心を寄(よせ)しかば、大塔宮(おほたふのみや)の執事(しつじ)、安居院(あぐゐ)の中納言法印(ほふいん)澄俊(ちようしゆん)を生捕(いけどり)て六波羅(ろくはら)へ是(これ)を出(いだ)す。護正院僧都(ごしやうゐんそうづ)猷全(いうぜん)は、御門徒(ごもんと)の中(なか)の大名(だいみやう)にて八王子(はちわうじ)の一の木戸(きど)を堅(かため)たりしかば、角(かく)ては叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、同宿(どうじゆく)手(て)の者引(ひき)つれて、六波羅(ろくはら)へ降参(かうさん)す。是(これ)を始(はじめ)として、独(ひと)り落(おち)二人(ふたり)落(おち)、々行(おちゆき)ける間、今は光林房(くわうりんばうの)律師(りつし)源存(げんそん)・妙光房(めうくわうばう)の小相摸(こさがみ)・中坊(なかのばう)の悪律師(あくりつし)、三四人(さんしにん)より外(ほか)は落止(おちとどま)る衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。妙法院(めうほふゐん)と大塔宮(おほたふのみや)とは、其夜(そのよ)迄尚(なほ)八王子に御坐(ござ)ありけるが、角(かく)ては悪(あしか)りぬべしと、一(ひと)まども落延(おちのび)て、君の御行末(おんゆくへ)をも承(うけたまは)らばやと思召(おぼしめさ)れければ、二十九日の夜半計(やはんばかり)に、八王子に篝火(かがりび)をあまた所(ところ)に焼(たい)て、未(いまだ)大勢(おほぜい)篭(こもり)たる由を見せ、戸津浜(とづのはま)より小舟(をぶね)に召(めさ)れ、落止(おちとま)る所の衆徒(しゆと)三百人計(ばかり)を被召具て、先(まづ)石山(いしやま)へ落(おち)させ給ふ。此(ここ)にて両門主(もんじゆ)一所(いつしよ)へ落(おち)させ給はん事は、計略(けいりやく)遠(とほ)からぬに似たる上(うへ)、妙法院(めうほふゐん)は御行歩(おんぎやうぶ)もかひ/゛\しからねば、只暫(しばらく)此辺(このへん)に御座(ござ)有(ある)べしとて、石山(いしやま)より二人(ににん)引別(ひきわかれ)させ給(たまひ)て、妙法院(めうほふゐん)は笠置(かさぎ)へ超(こえ)させ給へば、大塔宮(おほたふのみや)は十津河(とつがわ)の奥へと志(こころざし)て、先(まづ)南都(なんと)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。さしもやごとなき一山(いつさん)の貫首(くわんじゆ)の位(くらゐ)を捨(すて)て、未(いまだ)習(ならは)せ給はぬ万里漂泊(ばんりへうはく)の旅(たび)に浮(うか)れさせ給へば、医王山王(いわうさんわう)の結縁(けちえん)も是(これ)や限りと名残惜(なごりをし)く、竹園連枝(ちくゑんれんし)の再会(さいくわい)も今は何(いつ)をか可期と、御心細(おんこころぼそく)被思召ければ、互に隔(へだ)たる御影(おんかげ)の隠るゝまでに顧(かへりみ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)へ別(わかれ)させ給ふ、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。抑(そもそも)今度(こんど)主上(しゆしやう)、誠(まこと)に山門へ臨幸不成に依(よつ)て、衆徒(しゆと)の意(こころ)忽(たちまち)に変(へん)ずること、一旦(いつたん)事(こと)ならずと云へ共(ども)、倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あんず)るに、是(これ)叡智(えいち)の不浅る処に出(いで)たり。昔強秦(きやうしん)亡(ほろび)て後、楚(そ)の項羽(かうう)と漢(かんの)高祖(かうそ)と国を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)、軍(いくさ)を挑(いどむ)事(こと)七十余箇度也。其戦(そのたたかひ)の度毎(たびごと)に、項羽(かうう)常に勝(かつ)に乗(のつ)て、高祖(かうそ)甚(はなはだ)苦(くるし)める事多し。或時(あるとき)高祖(かうそ)■陽城(けいやうじやう)に篭(こも)る。項羽(かうう)兵(つはもの)を以て城(じやう)を囲(かこむ)事(こと)数百重(すひやくへ)也。日を経(へ)て城中(じやうちゆう)に粮(かて)尽(つき)て兵(つはもの)疲れければ、高祖(かうそ)戦(たたかは)んとするに力なく、遁(のがれ)んとするに道なし。此(ここ)に高祖(かうそ)の臣(しん)に紀信(きしん)と云(いひ)ける兵(つはもの)、高祖(かうそ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「項羽(かうう)今城(じやう)を囲(かこみ)ぬる事数百重(すひやくへ)、漢已(すで)に食(かて)尽(つき)て士卒(しそつ)又疲(つかれ)たり。若(もし)兵(つはもの)を出(いだ)して戦はゞ、漢必(かならず)楚の為に擒(とりこ)とならん。只敵(てき)を欺(あざむい)て潛(ひそか)に城(じやう)を逃出(のがれいで)んにはしかじ。願(ねがは)くは臣今漢王(かんわう)の諱(いみな)を犯(をか)して楚の陣に降(かう)せん。楚此(ここ)に囲(かこみ)を解(とい)て臣を得ば、漢王(かんわう)速(すみやか)に城(じやう)を出(いで)て重(かさね)て大軍(たいぐん)を起し、却(かへつ)て楚を亡(ほろぼ)し給へ。」と申(まうし)ければ、紀信が忽(たちまち)に楚に降(くだつ)て殺(ころさ)れん事悲しけれ共(ども)、高祖(かうそ)社稷(しやしよく)の為に身を軽(かる)くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別(わかれ)を慕(したひ)ながら紀信が謀(はかりごと)に随(したがひ)給ふ。紀信大(おほき)に悦(よろこう)で、自(みづから)漢王の御衣(ぎよい)を着(ちやく)し、黄屋(くわうをく)の車(くるま)に乗り、左纛(さたう)をつけて、「高祖(かうその)罪(つみ)を謝(しや)して、楚の大王(だいわう)に降(かう)す。」と呼(よばはり)て、城(じやう)の東門(とうもん)より出(いで)たりけり。楚の兵(つはもの)是(これ)を聞(きい)て、四面(しめん)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。軍勢(ぐんぜい)皆万歳(ばんぜい)を唱(となふ)。此間(このあひだ)に高祖(かうそ)三十余騎を従(したが)へて、城(じやう)の西門(さいもん)より出(いで)て成皐(せいかう)へぞ落給(おちたまひ)ける。夜(よ)明(あけ)て後(のち)楚(そ)に降(くだ)る漢王を見れば、高祖(かうそ)には非ず。其臣(そのしん)に紀信(きしん)と云(いふ)者なりけり。項羽(かうう)大(おほき)に忿(いかつ)て、遂(つひ)に紀信を指(さし)殺す。高祖(かうそ)頓(やが)て成皐の兵(つはもの)を率(そつ)して、却(かへつ)て項羽(かうう)を攻む。項羽(かうう)が勢(いきほひ)尽(つき)て後遂に烏江(をうかう)にして討(うた)れしかば、高祖(かうそ)長く漢の王業(わうげふ)を起して天下の主(あるじ)と成(なり)にけり。今主上(しゆしやう)も懸(かかり)し佳例(かれい)を思召(おぼしめし)、師賢(もろかた)も加様(かやう)の忠節(ちゆうせつ)を被存けるにや。彼(かれ)は敵(てき)の囲(かこみ)を解(とか)せん為に偽(いつは)り、是(これ)は敵(てき)の兵(つはもの)を遮(さへぎ)らん為に謀(はか)れり。和漢(わかん)時(とき)異(ことな)れども、君臣(くんしん)体(てい)を合(あはせ)たる、誠(まこと)に千載(せんざい)一遇(ぐう)の忠貞(ちゆうてい)、頃刻変化(きやうこくへんくわ)の智謀(ちぼう)也。


太平記(国民文庫)

太平記巻第三
○主上(しゆしやう)御夢(おんゆめの)事(こと)付楠(くすのきが)事(こと) S0301
元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上笠置(かさぎ)へ臨幸成(なつ)て本堂を皇居(くわうきよ)となさる。始(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は武威に恐れて、参り任(つかふ)る人独(ひとり)も無(なか)りけるが、叡山(えいざん)東坂本(ひがしさかもと)の合戦(かつせん)に、六波羅勢(ろくはらぜい)打負(うちまけ)ぬと聞へければ、当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)を始(はじめ)て、近国の兵共(つはものども)此彼(ここかしこ)より馳参(はせまゐ)る。されども未(いまだ)名ある武士(ぶし)、手勢(てぜい)百騎とも二百騎とも、打(うた)せたる大名は一人(いちにん)も不参。此勢許(このせいばかり)にては、皇居(くわうきよ)の警固(けいご)如何(いかん)有(ある)べからんと、主上思食煩(おぼしめしわづら)はせ給(たまひ)て、少し御(おん)まどろみ有(あり)ける御夢(おんゆめ)に、所(ところ)は紫宸殿(ししんでん)の庭前(ていぜん)と覚へたる地に、大(おほき)なる常盤木(ときはぎ)あり。緑の陰(かげ)茂(しげり)て、南へ指(さし)たる枝(えだ)殊に栄へ蔓(はびこ)れり。其下(そのした)に三公百官位(くらゐ)に依(よつ)て列坐(れつざ)す。南へ向(むき)たる上座(しやうざ)に御坐(ござ)の畳を高く敷(しき)、未(いまだ)坐(ざ)したる人はなし。主上御夢心地(おんゆめここち)に、「誰を設(まう)けん為の座席やらん。」と怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、立(たた)せ給ひたる処に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)二人(ににん)忽然(こつぜん)として来(きたつ)て、主上の御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)き、涙を袖に掛(かけ)て、「一天下の間(あひだ)に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を可被隠所なし。但しあの樹の陰(かげ)に南へ向へる座席あり。是(これ)御為(おんため)に設(まうけ)たる玉■(ぎよくい)にて候へば、暫く此(これ)に御座(ござ)候へ。」と申(まうし)て、童子は遥(はるか)の天に上(あが)り去(さん)ぬと御覧(ごらん)じて、御夢(おんゆめ)はやがて覚(さめ)にけり。主上是(これ)は天の朕(ちん)に告(つげたまへ)る所(ところ)の夢也と思食(おぼしめし)て、文字(もんじ)に付(つけ)て御料簡(ごれうけん)あるに、木(き)に南(みなみ)と書(かき)たるは楠(くすのき)と云(いふ)字也。其陰(そのかげ)に南に向ふて坐(ざ)せよと、二人(ににん)の童子(どうじ)の教へつるは、朕再び南面(なんめん)の徳を治(をさめ)て、天下の士(し)を朝(てう)せしめんずる処(ところ)を、日光月光(につくわうぐわつくわう)の被示けるよと、自(みづか)ら御夢(おんゆめ)を被合て、憑敷(たのもしく)こそ被思食けれ。夜(よ)明(あけ)ければ当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)、成就房(じやうじゆばうの)律師(りつし)を被召、「若(もし)此辺(このへん)に楠と被云武士(ぶし)や有(ある)。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「近き傍(あた)りに、左様(さやう)の名字(みやうじ)付(つき)たる者ありとも、未(いまだ)承(うけたまはり)及(およばず)候。河内国(かはちのくに)金剛山(こんがうせん)の西にこそ、楠多門兵衛(たもんひやうゑ)正成(まさしげ)とて、弓矢取(とつ)て名を得たる者は候なれ。是(これ)は敏達天王(びたつてんわう)四代の孫(そん)、井手左大臣(ゐでのさだいじん)橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の後胤(こういん)たりと云へども、民間(みんかん)に下(くだつ)て年久し。其母(そのはは)若かりし時、志貴(しぎ)の毘沙門(びしやもん)に百日詣(まうで)て、夢想(むさう)を感じて設(まうけ)たる子にて候とて、稚名(をさなな)を多門(たもん)とは申(まうし)候也。」とぞ答へ申(まうし)ける。主上、さては今夜(こんや)の夢の告(つげ)是(これ)也と思食(おぼしめし)て、「頓(やが)て是(これ)を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿(ふぢふさのきやう)勅(ちよく)を奉(うけたまはつ)て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨(せんじ)を帯(たい)して、楠が館(たち)へ行向(ゆきむかつ)て、事の子細(しさい)を演(のべ)られければ、正成弓矢取る身の面目(めんぼく)、何事(なにこと)か是(これ)に過(すぎ)んと思(おもひ)ければ、是非(ぜひ)の思案にも不及、先(まづ)忍(しのび)て笠置(かさぎ)へぞ参(さんじ)ける。主上万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)を以て被仰けるは、「東夷征罰(とういせいばつ)の事(こと)、正成(まさしげ)を被憑思食子細(しさい)有(あつ)て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参(はせまゐ)る条(でう)、叡感(えいかん)不浅処也。抑(そもそも)天下草創(さうさう)の事(こと)、如何(いか)なる謀(はかりごと)を廻(めぐら)してか、勝(かつ)事(こと)を一時(いちじ)に決して太平(たいへい)を四海(しかい)に可被致、所存(しよぞん)を不残可申。」と勅定(ちよくぢやう)有(あり)ければ、正成畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「東夷近日(きんじつ)の大逆(だいぎやく)、只(ただ)天(てん)の譴(せめ)を招(まねき)候上(うへ)は、衰乱の弊(つひ)へに乗(のつ)て天誅(てんちゆう)を被致に、何(なん)の子細か候べき。但(ただし)天下草創(さうさう)の功(こう)は、武略と智謀(ちぼう)とに二(ふたつ)にて候。若(もし)勢(せい)を合(あはせ)て戦はゞ、六十余州の兵(つはもの)を集(あつめ)て武蔵相摸(むさしさがみ)の両国(りやうこく)に対(たい)すとも、勝(かつ)事(こと)を得がたし。若(もし)謀(はかりごと)を以て争はゞ、東夷の武力(ぶりき)只利(り)を摧(くだ)き、堅(かたき)を破る内(うち)を不出。是(これ)欺(あざむ)くに安(やすう)して、怖(おそ)るゝに足(たら)ぬ所也。合戦(かつせん)の習(ならひ)にて候へば、一旦(いつたん)の勝負(しようぶ)をば必(かならず)しも不可被御覧。正成一人(いちにん)未だ生(いき)て有(あり)と被聞召候はゞ、聖運(せいうん)遂に可被開と被思食候へ。」と、頼(たのも)しげに申(まうし)て、正成は河内(かはち)へ帰(かへり)にけり。
○笠置(かさぎ)軍(いくさの)事(こと)付陶山(すやま)小見山(こみやま)夜討(ようちの)事(こと) S0302
去程(さるほど)に主上笠置(かさぎ)に御坐(ござ)有(あつ)て、近国(きんごく)の官軍(くわんぐん)付随(つきしたがひ)奉る由(よし)、京都へ聞へければ、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)又力を得て、六波羅(ろくはら)へ寄(よす)る事もや有(あら)んずらんとて、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)に、近江(あふみ)一国(いつこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て大津(おほつ)へ被向。是(これ)も猶(なほ)小勢(こぜい)にて叶(かな)ふまじき由を申(まうし)ければ、重(かさね)て丹波国(たんばのくに)の住人(ぢゆうにん)、久下(くげ)・長沢の一族等(いちぞくら)を差副(さしそへ)て八百余騎(よき)、大津東西(とうざい)の宿(しゆく)に陣を取る。九月一日六波羅(ろくはら)の両■断(りやうけんだん)、糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)・隅田(すだの)次郎左衛門(じらうざゑもん)、五百余騎(よき)にて宇治の平等院(びやうどういん)へ打出(うちい)で、軍勢(ぐんぜい)の着到(ちやくたう)を着(つく)るに、催促(さいそく)をも不待、諸国の軍勢夜昼(よるひる)引(ひき)も不切馳集(はせあつまつ)て十万余騎(よき)に及べり。既(すで)に明日二日(みやうにちふつか)巳刻(みのこく)に押寄(おしよせ)て、矢合(やあはせ)可有と定(さだ)めたりける其前(そのさき)の日(ひ)、高橋(の)又四郎抜懸(ぬけがけ)して、独り高名(かうみやう)に備(そな)へんとや思(おもひ)けん、纔(わづか)に一族の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を率(そつ)して、笠置(かさぎ)の麓へぞ寄(よせ)たりける。城(しろ)に篭(こも)る所の官軍(くわんぐん)は、さまで大勢(おほぜい)ならずと云へども、勇気未怠(いまだたゆまず)、天下の機(き)を呑(のん)で、回天(くわいてん)の力(ちから)を出(いだ)さんと思へる者共(ものども)なれば、纔(わづか)の小勢(こぜい)を見て、なじかは打(うつ)て懸(かか)らざらん。其(その)勢三千余騎(よき)、木津河(きづがは)の辺(へん)にをり合(あう)て、高橋が勢を取篭(とりこめ)て、一人も余(あま)さじと責(せめ)戦ふ。高橋始(はじめ)の勢(いきほ)ひにも似ず、敵の大勢(おほぜい)を見て、一返(ひとかへし)も不返捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、木津河の逆巻水(さかまくみづ)に被追浸、被討者其数(そのかず)若干(そくばく)也。僅(わづか)に命許(ばかり)を扶(たすか)る者も、馬(むま)物具(もののぐ)を捨(すて)て赤裸(あかはだか)になり、白昼(はくちう)に京都へ逃上(にげのぼ)る。見苦しかりし有様也。是(これ)を悪(にく)しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪(はしづめ)に、一首(いつしゆ)の歌を書(かい)てぞたてたりける。木津川(きづかは)の瀬々(せぜ)の岩浪早ければ懸(かけ)て程なく落(おつ)る高橋高橋が抜懸(ぬけがけ)を聞(きい)て、引(ひか)ば入替(いりかはつ)て高名(かうみやう)せんと、跡(あと)に続(つづ)きたる小早河(こばやがは)も、一度(いちど)に皆被追立一返(ひとかへし)も不返、宇治(うぢ)まで引(ひい)たりと聞へければ、又札(ふだ)を立副(たてそへ)て、懸(かけ)も得ぬ高橋落(おち)て行(ゆく)水に憂名(うきな)を流す小早河(こばやがは)哉(かな)昨日(きのふ)の合戦に、官軍(くわんぐん)打勝(うちかち)ぬと聞へしかば、国々の勢馳(はせ)参りて、難儀(なんぎ)なる事もこそあれ、時日(ときひ)を不可移とて、両検断(りやうけんだん)宇治にて四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、九月二日笠置(かさぎ)の城(しろ)へ発向(はつかう)す。南の手(て)には五畿内(きない)五箇国(ごかこく)の兵(つはもの)を被向。其勢(そのせい)七千六百余騎(よき)、光明山(くわうみやうせん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て搦手(からめて)に向(むかふ)。東の手には、東海道十五箇国(じふごかこく)の内(うち)、伊賀・伊勢(いせ)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢二万五千余騎(よき)、伊賀路(いがぢ)を経(へ)て金剛山越(こんがうせんごえ)に向ふ。北の手には、山陰道(せんいんだう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)一万二千余騎(よき)、梨間(なしま)の宿(しゆく)のはづれより、市野辺山(いちのべやま)の麓を回(まはつ)て、追手(おふて)へ向ふ。西の手には、山陽道(せんやうだう)八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢三万二千余騎(よき)、木津河(きづがは)を上(のぼ)りに、岸の上なる岨道(そばみち)を二手(ふたて)に分(わけ)て推寄(おしよす)る。追手(おふて)搦手(からめて)、都合(つがふ)七万五千余騎(よき)、笠置(かさぎ)の山の四方(しはう)二三里が間(あひだ)は、尺地(せきち)も不残充満(じゆうまん)したり。明(あく)れば九月三日の卯刻(うのこく)に、東西南北(とうざいなんぼく)の寄手(よせて)、相近(あひちかづい)て時(とき)を作る。其(その)声百千の雷(いかづち)の鳴落(なりおつる)が如(ごとく)にして天地(てんち)も動く許(ばかり)也。時の声三度(さんど)揚(あげ)て、矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)を射懸(いかけ)たれども、城(しろ)の中(うち)静(しづま)り還(かへつ)て時の声をも不合、当(たう)の矢をも射ざりけり。彼(かの)笠置(かさぎ)の城(しろ)と申(まうす)は、山高(たかう)して一片(いつぺん)の白雲(はくうん)峯を埋(うづ)み、谷深(ふかう)して万仞(ばんじん)の青岩(せいがん)路を遮(さへぎ)る。攀折(つづらをり)なる道を廻(まはつ)て揚(あが)る事十八町、岩を切(きつ)て堀とし石を畳(たたう)で屏(へい)とせり。されば縦(たと)ひ防(ふせ)ぎ戦ふ者無(なく)とも、輒(たやす)く登る事を得難し。されども城中(じやうちゆう)鳴(なり)を静めて、人ありとも見へざりければ、敵(てき)はや落(おち)たりと心得て、四方(しはう)の寄手(よせて)七万五千余騎(よき)、堀がけとも不謂、葛(くず)のかづらに取付(とりつい)て、岩の上を伝(つたう)て、一(いち)の木戸口(きどぐち)の辺(へん)、二王堂(にわうだう)の前までぞ寄(よせ)たりける。此(ここ)にて一息(ひといき)休めて城(しろ)の中(うち)を屹(きつ)と向上(みあげ)ければ、錦(にしき)の御旗(おんはた)に日月(じつげつ)を金銀(きんぎん)にて打(うつ)て着(つけ)たるが、白日(はくじつ)に耀(かかやい)て光り渡りたる其陰(そのかげ)に、透間(すきま)もなく鎧(よろ)ふたる武者(むしや)三千余人(よにん)、甲(かぶと)の星を耀(かかやか)し、鎧(よろひ)の袖を連(つらね)て、雲霞(うんか)の如くに並居(なみゐ)たり。其外(そのほか)櫓(やぐら)の上(うへ)、さまの陰(かげ)には、射手(いて)と覚(おぼ)しき者共(ものども)、弓の弦(つる)くひしめし、矢束(やたばね)解(とい)て押甘(おしくつろげ)、中差(なかざし)に鼻油(はなあぶら)引(ひい)て待懸(まちかけ)たり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として、敢(あへ)て可攻様(やう)ぞなき。寄手(よせて)一万余騎(よき)是(これ)を見て、前(すす)まんとするも不叶、引(ひか)んとするも不協して、心ならず支(ささへ)たり。良(やや)暫有(しばらくあり)て、木戸の上なる櫓より、矢間(さま)の板を排(おしひらい)て名乗(なのり)けるは、「参河国(みかはくにの)住人(ぢゆうにん)足助(あすけの)次郎重範(しげのり)、忝(かたじけな)くも一天(いつてん)の君にたのまれ進(まゐ)らせて、此(この)城の一の木戸を堅(かた)めたり。前陣(ぜんぢん)に進んだる旗は、美濃(みの)・尾張(をはり)の人々の旗と見るは僻目(ひがめ)か。十善(じふぜん)の君の御座(おはしま)す城(しろ)なれば、六波羅(ろくはら)殿(どの)や御向(おんむか)ひ有(あ)らんずらんと心得て、御儲(おんまうけ)の為に、大和鍛冶(やまとかぢ)のきたうて打(うち)たる鏃(やじり)を少々(せうせう)用意(ようい)仕(つかまつり)て候。一筋(ひとすぢ)受(うけ)て御覧(ごらん)じ候へ。」と云侭(いふまま)に、三人(さんにん)張(ばり)の弓に十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)篦(の)かづきの上まで引(ひき)かけ、暫(しばらく)堅(かた)めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢遥(はるか)なる谷を阻(へだて)て、二町(にちやう)余(あまり)が外(ほか)に扣(ひか)へたる荒尾九郎が鎧(よろひ)の千檀(せんだん)の板(いた)を、右の小脇(こわき)まで篦深(のぶか)にぐさと射込む。一箭(ひとや)なりといへども究竟(くつきやう)の矢坪(やつぼ)なれば、荒尾馬より倒(さかさま)に落(おち)て起(おき)も直(なほ)らで死(しし)けり。舎弟(しやてい)の弥五郎(やごらう)是(これ)を敵に見せじと、矢面(やおもて)に立隠(たちかく)して、楯(たて)のはづれより進出(すすみいで)て云(いひ)けるは、「足助(あすけ)殿(どの)の御弓勢(ごゆんぜい)、日来(ひごろ)承候(うけたまはりさふらひ)し程は無(なか)りけり。此(ここ)を遊ばし候へ。御矢(おんや)一筋受(うけ)て物(もの)の具(ぐ)の実(さね)の程試(こころみ)候はん。」と欺(あざむい)て、弦走(つるばしり)を敲(たたい)てぞ立(たち)たりける。足助是(これ)を聞(きい)て、「此(この)者の云様(いひやう)は、如何様(いかさま)鎧の下(した)に、腹巻(はらまき)か鎖(くさり)歟(か)を重(かさね)て着たれば社(こそ)、前(さき)の矢を見ながら此(ここ)を射よとは敲(たた)くらん。若(もし)鎧の上を射ば、篦(の)摧(くだ)け鏃(やじり)折(をれ)て通らぬ事もこそあれ。甲(かぶと)の真向(まつかう)を射たらんに、などか砕(くだけ)て通らざらん。」と思案して、「胡■(えびら)より金磁頭(かなじんどう)を一(ひと)つ抜出(ぬきいだ)し、鼻油(はなあぶら)引(ひい)て、「さらば一矢(ひとや)仕り候はん。受(うけ)て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、且(しばら)く鎧の高紐(たかひも)をはづして、十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)、前(さき)よりも尚引(ひき)しぼりて、手答(てごた)へ高くはたと射る。思ふ矢坪(やつぼ)を不違、荒尾弥五郎が甲(かぶと)の真向(まつかう)、金物(かなもの)の上(うへ)二寸計(ばかり)射砕(いくだい)て、眉間(みけん)の真中(まんなか)をくつまき責(せめ)て、ぐさと射篭(いこう)だりければ、二言(にごん)とも不云、兄弟(きやうだい)同枕(おなじまくら)に倒重(たふれかさなつ)て死(しし)にけり。是(これ)を軍(いくさ)の始(はじめ)として、追手(おふて)搦手(からめて)城(じやう)の内、をめき叫(さけん)で責(せめ)戦ふ。箭叫(やさけび)の音時(とき)の声且(しばし)も休(やむ)時なければ、大山(たいさん)も崩(くづれ)て海に入り、坤軸(こんぢく)も折(をれ)て忽(たちまち)地に沈(しづ)む歟(か)とぞ覚へし。晩景(ばんげい)に成(なり)ければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)重(かさなつ)て持楯(もちたて)をつきよせつきよせ、木戸口(きどぐち)の辺(へん)まで攻(せめ)たりける処に、爰(ここ)に南都の般若寺(はんにやじ)より巻数(くわんじゆ)持(もち)て参りたりける使(つかひ)、本性房(ほんじやうばう)と云(いふ)大力(だいりき)の律僧(りつそう)の有(あり)けるが、褊衫(へんさん)の袖を結(むすん)で引違(ひきちが)へ、尋常(よのつね)の人の百人しても動(うごか)し難き大磐石(だいばんじやく)を、軽々(かるがる)と脇に挟(はさ)み、鞠(まり)の勢(せい)に引欠々々(ひつかけひつかけ)、二三十つゞけ打(うち)にぞ投(なげ)たりける。数万(すまん)の寄手(よせて)、楯(たて)の板(いた)を微塵(みぢん)に打砕(うちくだ)かるゝのみに非(あら)ず、少(すこし)も此(この)石に当る者、尻居(しりゐ)に被打居ければ、東西(とうざい)の坂に人頽(ひとなだれ)を築(つい)て、馬人弥(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)る。さしも深き谷二(ふたつ)、死人(しにん)にてこそうめたりけれ。されば軍(いくさ)散じて後(のち)までも木津河(きづがは)の流(ながれ)血に成(なつ)て、紅葉(もみぢ)の陰(かげ)を行(ゆく)水の紅(くれなゐ)深きに不異。是(これ)より後(のち)は、寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しといへども、城(しろ)を攻(せめ)んと云(いふ)者一人もなし。只(ただ)城の四方(しはう)を囲(かこ)めて遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。かくて日数(ひかず)を経(へ)ける処に、同(おなじき)月十一日、河内の国より早馬(はやむま)を立(たて)て、「楠兵衛(ひやうゑ)正成(まさしげ)と云(いふ)者、御所方(ごしよがた)に成(なつ)て旗を挙(あぐ)る間、近辺の者共(ものども)、志あるは同心(どうしん)し、志なきは東西(とうざい)に逃隠(にげかく)る。則(すなはち)国中(こくぢゆう)の民屋(みんをく)を追捕(ついふ)して、兵粮(ひやうらう)の為に運取(はこびとり)、己(おのれ)が館(たち)の上なる赤坂山(あかさかやま)に城郭(じやうくわく)を構へ、其勢(そのせい)五百騎にて楯篭(たてこも)り候。御退治(ごたいぢ)延引(えんいん)せば、事(こと)御難儀(おんなんぎ)に及候(およびさふらひ)なん。急ぎ御勢(おんせい)を可被向。」とぞ告申(つげまうし)ける。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)なりと騒ぐ処に、又同(おなじき)十三日の晩景に、備後(びんご)の国より早馬(はやむま)到来(たうらい)して、「桜山(さくらやま)四郎入道、同(おなじき)一族等(ら)御所方(ごしよがた)に参(まゐつ)て旗を揚(あげ)、当国の一宮(いちのみや)を城郭として楯篭(たてこも)る間、近国の逆徒等(げきとら)少々(せうせう)馳加(はせくははつ)て、其勢(そのせい)既(すでに)七百余騎(よき)、国中(こくぢゆう)を打靡(うちなびけ)、剰(あまつさへ)他国へ打越(うちこえ)んと企(くはだ)て候。夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で討手(うつて)を不被下候はゞ、御大事(おんだいじ)出来(いでき)ぬと覚(おぼえ)候。御油断(ごゆだん)不可有。」とぞ告(つげ)たりける。前(まへ)には笠置(かさぎ)の城強(つよう)して、国々の大勢(おほぜい)日夜(にちや)責(せむ)れども未落(いまだおちず)、後(うしろ)には又楠・桜山の逆徒大(おほき)に起(おこつ)て、使者(ししや)日々(ひび)に急(きふ)を告(つぐ)。南蛮西戎(なんばんせいじゆう)は已(すで)に乱(みだれ)ぬ。東夷北狄(とういほくてき)も又如何(いかが)あらんずらんと、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)駿河(するがの)守(かみ)、安き心も無(なか)りければ、日々(ひび)に早馬(はやむま)を打(うた)せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に驚(おどろい)て、「さらばやがて討手を差上(さしのぼ)せよ。」とて、一門他家(たけ)宗徒(むねと)の人々六十三人(ろくじふさんにん)迄ぞ被催ける。大将軍には大仏(おさらぎ)陸奥守(むつのかみ)貞直・同遠江守(とほたふみのかみ)・普恩寺(ふおんじ)相摸守(さがみのかみ)・塩田越前守(ゑちぜんのかみ)・桜田参河(みかはの)守(かみ)・赤橋尾張(をはりの)守(かみ)・江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・糸田左馬頭(さまのかみ)・印具兵庫助(いぐひやうごのすけ)・佐介上総介(さかいかづさのかみ)・名越右馬助(なごやうまのすけ)・金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)・遠江(とほたふみの)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)治時(はるとき)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)、侍大将(さぶらひたいしやう)には、長崎四郎左衛門尉(さゑもんのじよう)、相従(あひしたが)ふ侍(さぶらひ)には、三浦介(みうらのすけ)入道・武田甲斐(かひの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・椎名(しひな)孫八入道・結城上野(ゆふきかうづけの)入道・小山出羽(をやまではの)入道・氏家美作(うぢへみまさかの)守(かみ)・佐竹上総(かづさの)入道・長沼(ながぬま)四郎左衛門入道・土屋安芸権守(つちやあきのごんのかみ)・那須加賀(かがの)権(ごんの)守(かみ)・梶原(かぢはら)上野(かうづけの)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・岩城(いはき)次郎入道・佐野(さのの)安房(あはの)弥太郎(やたらう)・木村次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・相馬(さうま)右衛門次郎・南部(なんぶ)三郎次郎・毛利丹後(たんごの)前司(ぜんじ)、那波(なば)左近(さこんの)太夫将監(たいふしやうげん)・一宮善(いぐせ)民部(みんぶの)太夫(たいふ)・土肥(とひ)佐渡(さどの)前司・宇都宮(うつのみや)安芸(あきの)前司・同肥後(ひごの)権守(ごんのかみ)・葛西(かさいの)三郎兵衛(さぶらうひやうゑの)尉(じよう)・寒河(さんがうの)弥四郎・上野(かうづけの)七郎三郎・大内(おほち)山城(やましろの)前司・長井治部(ぢぶの)少輔(せう)・同備前(びぜんの)太郎・同因幡(いなば)民部(みんぶの)大輔(たいふ)入道・筑後(ちくごの)前司・下総(しもつさの)入道・山城(やましろ)左衛門(さゑもんの)大夫・宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)入道・岩崎弾正左衛門尉(だんしやうさゑもんのじよう)・高久(かうく)同孫三郎・同彦三郎・伊達(だての)入道・田村形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・入江蒲原(いりえかんばら)の一族・横山猪俣(ゐのまた)の両党、此外(このほか)、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・伊豆(いづ)・駿河(するが)・上野(かうづけ)、五箇国(ごかこく)の軍勢(ぐんぜい)、都合(つごふ)二十万七千六百余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、同晦日(おなじきつごもり)、前陣(ぜんぢん)已(すで)に美濃・尾張(をはり)両国に着(つけ)ば、後陣(ごぢん)は猶未(いまだ)高志(たかし)・二村(ふたむら)の峠(たうげ)に支へたり。爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)陶山藤三義高(すやまとうざうよしたか)・小見山(こみやま)次郎某(なにがし)、六波羅(ろくはら)の催促(さいそく)に随(したがつ)て、笠置(かさぎ)の城の寄手(よせて)に加(くははつ)て、河向(かはむかひ)に陣を取(とつ)て居たりけるが、東国の大勢(おほぜい)既(すで)に近江に着(つき)ぬと聞へければ、一族若党共(わかたうども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「御辺達(ごへんたち)如何(いか)が思(おもふ)ぞや、此間(このあひだ)数日(すじつ)の合戦(かつせん)に、石に被打、遠矢(とほや)に当(あたつ)て死(し)ぬる者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。是(これ)皆差(さし)て為出(しいだ)したる事も無(なう)て死(しし)ぬれば、骸骨(がいこつ)未だ乾(かわ)かざるに、名は先立(さきだち)て消去(きえさり)ぬ。同(おなじ)く死(し)ぬる命(いのち)を、人目(ひとめ)に余(あま)る程の軍(いくさ)一度(いちど)して死(しし)たらば、名誉(めいよ)は千載(せんざい)に留(とどまつ)て、恩賞は子孫の家に栄(さかえ)ん。倩(つらつら)平家の乱(らん)より以来(このかた)、大剛(だいがう)の者とて名を古今(ここん)に揚(あげ)たる者共(ものども)を案ずるに、何(いづ)れも其(それ)程の高名(かうみやう)とは不覚(おぼえず)。先(まづ)熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)は、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)を憑(たのみ)し故(ゆゑ)也。梶原平三(かぢはらへいざう)が二度(にど)の懸(かけ)は、源太(げんた)を助(たすけ)ん為なり。佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡しゝは、案内者(あんないじや)のわざ、同(おなじく)四郎高綱(たかつな)が宇治川の先陣は、いけずき故(ゆゑ)也。此等(これら)をだに今の世迄(よまで)語伝(かたりつたへ)て、名を天下の人口(じんこう)に残すぞかし。何(いか)に況(いはん)や日本国(につほんごく)の武士共(ぶしども)が集(あつまつ)て、数日(すじつ)攻(せむ)れども落(おと)し得ぬ此城(このしろ)を、我等が勢許(せいばかり)にて攻落(せめおと)したらんは、名は古今(ここん)の間(あひだ)に双(ならび)なく、忠は万人(ばんにん)の上(うへ)に可立。いざや殿原(とのばら)、今夜(こよひ)の雨風(あめかぜ)の紛(まぎ)れに、城中(じやうちゆう)へ忍入(しのびいつ)て、一夜討(ひとようち)して天下の人に目を覚(さま)させん。」と云(いひ)ければ、五十(ごじふ)余人(よにん)の一族(いちぞく)若党(わかたう)、「最(もつとも)可然。」とぞ同(どう)じける。是(これ)皆千に一(ひとつ)も生(いき)て帰る者あらじと思切(おもひきつ)たる事なれば、兼(かね)ての死(し)に出立(でだち)に、皆曼陀羅(まんだら)を書(かい)てぞ付(つけ)たりける。差縄(さしなは)の十丈(じふぢやう)許(ばかり)長きを二筋(ふたすぢ)、一尺計(ばかり)置(おい)ては結合(むすびあはせ)々々して、其端(そのはし)に熊手(くまで)を結着(ゆひつけ)て持(もた)せたり。是(これ)は岩石(がんせき)などの被登ざらん所をば、木の枝(えだ)岩の廉(かど)に打懸(うちかけ)て、登らん為の支度(したく)也。其夜(そのよ)は九月晦日(つごもり)の事なれば、目指(めざす)とも不知暗き夜(よ)に、雨風(あめかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て面(おもて)を可向様(やう)も無(なか)りけるに、五十(ごじふ)余人(よにん)の者ども、太刀(たち)を背(せなか)に負(おひ)、刀(かたな)を後(うしろ)に差(さい)て、城(しろ)の北に当(あたり)たる石壁(せきへき)の数百丈(すひやくぢやう)聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難(がた)き所よりぞ登りける。二町(にちやう)許(ばかり)は兎角(とかう)して登りつ、其(その)上に一段高き所あり。屏風(びやうぶ)を立(たて)たる如くなる岩石(がんぜき)重(かさなり)て、古松(こしよう)枝(えだ)を垂(たれ)、蒼苔(さうたい)路滑(なめらか)なり。此(ここ)に至(いたり)て人(ひと)皆(みな)如何(いか)んともすべき様(やう)なくして、遥(はるか)に向上(みあげ)て立(たつ)たりける処に、陶山藤三(すやまとうざう)、岩の上をさら/\と走上(はしりのぼつ)て、件(くだん)の差縄を上(うへ)なる木の枝(えだ)に打懸(うちかけ)て、岩の上よりをろしたるに、跡(あと)なる兵共(つはものども)各(おのおの)是(これ)に取付(とりつい)て、第一(だいいち)の難所(なんじよ)をば安々(やすやす)と皆上(のぼ)りてげり。其(それ)より上にはさまでの嶮岨(けんそ)無(なか)りければ、或(あるひ)は葛(くず)の根に取付(とりつき)、或(あるひ)は苔(こけ)の上を爪立(つまだて)て、二時計(ふたときばかり)に辛苦(しんく)して、屏際(へいのきは)まで着(つい)てけり。此(ここ)にて一息(ひといき)休(やすめ)て、各(おのおの)屏を上(のぼ)り超(こえ)、夜廻(よまは)りの通りける迹(あと)に付(つい)て、先(まづ)城(しろ)の中(うち)の案内をぞ見たりける。追手(おふて)の木戸(きど)・西の坂口(さかくち)をば、伊賀・伊勢の兵(つはもの)千余騎(よき)にて堅(かた)めたり。搦手(からめて)に対する東の出屏(だしべい)の口(くち)をば、大和(やまと)・河内(かはち)の勢(せい)五百余騎(よき)にて堅(かため)たり。南の坂、二王堂(にわうだう)の前をば、和泉(いづみ)・紀伊国(きのくに)の勢七百余騎(よき)にて堅(かため)たり。北の口一方(いつぱう)は嶮(けはし)きを被憑けるにや、警固(けいご)の兵(つはもの)をば一人(いちにん)も不被置、只云甲斐(いひかひ)なげなる下部共(しもべども)二三人(にさんにん)、櫓(やぐら)の下(した)に薦(こも)を張(はり)、篝(かがり)を焼(たい)て眠居(ねむりゐ)たり。陶山(すやま)・小見山(こみやま)城(しろ)を廻(まはり)、四方(しはう)の陣をば早見澄(みすま)しつ。皇居(くわうきよ)は何(いづ)くやらんと伺(うかがう)て、本堂(ほんだう)の方(かた)へ行処(ゆくところ)に、或役所(あるやくしよ)の者是(これ)を聞付(ききつけ)て、「夜中(やちゆう)に大勢(おほぜい)の足音して、潛(ひそか)に通(とほる)は怪(あやし)き物哉(かな)、誰人(たれびと)ぞ。」と問(とひ)ければ、陶山吉次(すやまのよしつぐ)取(とり)も敢(あへ)ず、「是(これ)は大和勢(やまとぜい)にて候が、今夜(こよひ)余(あまり)に雨風烈(はげ)しくして、物騒(ものさわ)が〔し〕く候間(あひだ)、夜討(ようち)や忍入(しのびいり)候はんずらんと存候(ぞんじさふらひ)て、夜廻仕(よまはりつかまつり)候也。」と答(こたへ)ければ、「げに。」と云音(いふおと)して、又問(とふ)事(こと)も無(なか)りけり。是(これ)より後(のち)は中々(なかなか)忍(しのび)たる体(てい)も無(なく)して、「面々(めんめん)の御陣(ごぢん)に、御用心(ごようじん)候へ。」と高らかに呼(よば)は(つ)て、閑々(しづしづ)と本堂へ上(あがり)て見れば、是(ここ)ぞ皇居(くわうきよ)と覚(おぼえ)て、蝋燭(らふそく)数多所(あまたところ)に被燃て、振鈴(しんれい)の声幽(かすか)也。衣冠(いくわん)正(ただし)くしたる人、三四人(さんしにん)大床(おほゆか)に伺候(しこう)して、警固(けいご)の武士(ぶし)に、「誰か候。」と被尋ければ、「其(その)国(くに)の某々(なにがしそれがし)。」と名乗(なのつ)て廻廊(くわいらう)にしかと並居(なみゐ)たり。陶山(すやま)皇居(くわうきよ)の様(やう)まで見澄(みすま)して、今はかうと思(おもひ)ければ、鎮守(ちんじゆ)の前にて一礼(いちらい)を致し、本堂の上(うへ)なる峯(みね)へ上(のぼつ)て、人もなき坊(ばう)の有(あり)けるに火を懸(かけ)て同音(どうおん)に時の声を挙ぐ。四方(しはう)の寄手(よせて)是(これ)を聞(きき)、「すはや城中(じやうちゆう)に返忠(かへりちゆう)の者出来(いでき)て、火を懸(かけ)たるは。時の声を合(あは)せよや。」とて追手(おふて)搦手(からめて)七万余騎(よき)、声々(こゑごゑ)に時を合(あはせ)て喚(をめ)き叫ぶ。其(その)声天地を響(ひび)かして、如何なる須弥(しゆみ)の八万由旬(はちまんゆじゆん)なりとも崩(くづれ)ぬべくぞ聞へける。陶山(すやま)が五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、城(しろ)の案内(あんない)は只今委(くはし)く見置(みおき)たり。此役所(ここのやくしよ)に火を懸(かけ)ては彼(かし)こに時の声をあげ、彼(かし)こに時を作(つくつ)ては此櫓(ここのやぐら)に火を懸(かけ)、四角(しかく)八方に走り廻(まはつ)て、其勢(そのせい)城中(じやうちゆう)に充満(みちみち)たる様(やう)に聞へければ、陣々堅(かた)めたる官軍共(くわんぐんども)、城内(しろのうち)に敵(てき)の大勢(おほぜい)攻入(せめいり)たりと心得て、物(もの)の具(ぐ)を脱捨(ぬぎすて)弓矢をかなぐり棄(すて)て、がけ堀とも不謂、倒(たふ)れ転(まろ)びてぞ落行(おちゆき)ける。錦織判官代(にしこりのはんぐわんだい)是(これ)を見て、「膩(きたな)き人々の振舞(ふるまひ)哉(かな)。十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐら)せて、武家(ぶけ)を敵(てき)に受(うく)る程の者共(ものども)が、敵大勢(おほぜい)なればとて、戦(たたか)はで逃(にぐ)る様(やう)やある、いつの為に可惜命(いのち)ぞ。」とて、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、大(おほ)はだぬぎに成(なつ)て戦ひけるが、矢種(やだね)を射尽(つく)し、太刀(たち)を打折(うちをり)ければ、父子(ふし)二人(ににん)並(ならびに)郎等十三人(じふさんにん)、各(おのおの)腹かき切(きつ)て同枕(おなじまくら)に伏(ふし)て死(しに)にけり。
○主上(しゆしやう)御没落笠置事 S0303
去程(さるほど)に類火(るゐくわ)東西(とうざい)より被吹て、余煙(よえん)皇居(くわうきよ)に懸(かか)りければ、主上を始進(はじめまゐら)せて、宮々(みやみや)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、皆歩跣(かちはだし)なる体(てい)にて、何(いづ)くを指(さす)ともなく足に任(まかせ)て落行(おちゆき)給ふ。此(この)人々、始(はじめ)一二町(いちにちやう)が程こそ、主上を扶進(たすけまゐら)せて、前後(ぜんご)に御伴(おんとも)をも被申たりけれ。雨風烈(はげ)しく道闇(くらう)して、敵の時(とき)の声此彼(ここかしこ)に聞へければ、次第〔に〕別々(べちべち)に成(なつ)て、後(のち)には只藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)より外(ほか)は、主上の御手(おんて)を引進(ひきまゐら)する人もなし。悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の天子、玉体(ぎよくたい)を田夫野人(でんぷやじん)の形(かたち)に替(かへ)させ給(たまひ)て、そことも不知迷ひ出(いで)させ玉(たまひ)ける、御有様(おんありさま)こそ浅猿(あさまし)けれ。如何(いか)にもして、夜(よ)の内(うち)に赤坂城(あかさかのしろ)へと御心(おんこころ)許(ばかり)を被尽けれども、仮(かり)にも未(いまだ)習はせ玉(たま)はぬ御歩行(ごほかう)なれば、夢路(ゆめぢ)をたどる御心地(おんここち)して、一足(ひとあし)には休み、二足(ふたあし)には立止(たちとどま)り、昼は道の傍(そば)なる青塚(おをつか)の陰(かげ)に御身(おんみ)を隠(かく)させ玉(たまひ)て、寒草(かんさう)の疎(おろそ)かなるを御座(ござ)の茵(しとね)とし、夜(よる)は人も通はぬ野原(のばら)の露に分迷(わけまよ)はせ玉(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袖(おんそで)をほしあへず。兎角(とかう)して夜昼(よるひる)三日に、山城(やましろ)の多賀郡(たかのこほり)なる有王山(ありわうやま)の麓まで落(おち)させ玉(たまひ)てけり。藤房(ふぢふさ)も季房(すゑふさ)も、三日まで口中(くぢゆう)の食(じき)を断(たち)ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢(あふ)とも逃(にげ)ぬべき心地(ここち)せざりければ、為(せ)ん方無(なう)て、幽谷(いうこく)の岩を枕にて、君臣兄弟(くんしんきやうだい)諸共(もろとも)に、うつゝの夢に伏(ふし)玉ふ。梢(こずゑ)を払ふ松の風を、雨の降(ふる)かと聞食(きこしめし)て、木陰(きのかげ)に立寄(たちよら)せ玉(たまひ)たれば、下露(したつゆ)のはら/\と御袖(おんそで)に懸(かか)りけるを、主上被御覧て、さして行(ゆく)笠置(かさぎ)の山を出(いで)しよりあめが下(した)には隠家(かくれが)もなし藤房(ふぢふさの)卿(きやう)泪(なみだ)を押(おさ)へて、いかにせん憑(たの)む陰(かげ)とて立(たち)よれば猶(なほ)袖ぬらす松の下露山城(やましろの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、深須(みすの)入道・松井蔵人(くらんど)二人(ににん)は、此辺(このへん)の案内者(あんないしや)なりければ、山々(やまやま)峯々(みねみね)無残所捜(さが)しける間、皇居(くわうきよ)隠(かくれ)なく被尋出させ給ふ。主上誠(まこと)に怖(おそろ)しげなる御気色(おんけしき)にて、「汝等(なんぢら)心ある者ならば、天恩を戴(いただい)て私の栄花(えいぐわ)を期(ご)せよ。」と被仰ければ、さしもの深須(みすの)入道俄(にはか)に心変(へん)じて、哀(あはれ)此(この)君を隠奉(かくしたてまつつ)て、義兵(ぎへい)を揚(あげ)ばやと思(おもひ)けれども、迹(あと)につゞける松井が所存(しよぞん)難知かりける間、事(こと)の漏易(もれやす)くして、道の成難(なりがた)からん事を量(はかつ)て、黙止(もだし)けるこそうたてけれ。俄(にはか)の事にて網代輿(あじろのこし)だに無(なか)りければ、張輿(はりごし)の怪(あやし)げなるに扶乗進(たすけのせまゐら)せて、先(まづ)南都の内山(うちやま)へ入(いれ)奉る。其体(そのてい)只殷湯(いんのたう)夏台(かだい)に囚(とらは)れ、越王(ゑつわう)会稽(くわいけい)に降(かう)せし昔の夢に不異。是(これ)を聞(きき)是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云(いふ)事(こと)無(なか)りけり。此(この)時此彼(ここかしこ)にて、被生捕給(たまひ)ける人々には、先(まづ)一宮(いちのみや)中務卿親王(なかつかさのきやうしんわう)・第二(だいにの)宮妙法院(めうほふゐん)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)・峰僧正(みねのそうじやう)春雅(しゆんが)・東南院僧正聖尋(しやうじん)・万里小路(までのこうぢ)大納言宣房(のぶふさ)・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言師賢(もろかた)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきら)・別当左衛門督(べつたうさゑもんのかみ)実世(さねよ)・中納言藤房(ふぢふさ)・宰相(さいしやう)季房(すゑふさ)・平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)・左衛門(さゑもんの)督為明(ためあきら)・左中将(さちゆうじやう)行房(ゆきふさ)・左少将忠顕(ただあき)・源(みなもとの)少将能定(よしさだ)・四条(しでうの)少将隆兼(たかかぬ)・妙法院(めうほふゐんの)執事(しつじ)澄俊(ちようしゆん)法印、北面(ほくめん)・諸家(しよけの)侍共(さぶらひども)には、左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)氏信(うぢのぶ)・右兵衛(うひやうゑの)大夫(たいふ)有清(ありきよ)・対馬(つしまの)兵衛重定(しげさだ)・大夫将監(たいふしやうげん)兼秋(かねあき)・左近(さこんの)将監宗秋(むねあき)・雅楽(うた)兵衛尉(ひやうゑのじよう)則秋(のりあき)・大学助(だいがくのすけ)長明(ながあきら)・足助(あすけの)次郎重範(しげのり)・宮内丞(くないのじよう)能行(よしゆき)・大河原(おほかはら)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)有重(ありしげ)、奈良(なら)法師に、俊増(しゆんぞう)・教密(けうみつ)・行海(ぎやうかい)・志賀良木(しがらきの)治部房(ぢぶばう)円実(ゑんじつ)・近藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)宗光(むねみつ)・国村(くにむら)三郎入道定法(ぢやうほふ)・源(げん)左衛門入道慈願(じぐわん)・奥(おくの)入道如円(じよゑん)・六郎兵衛入道浄円(じやうゑん)、山徒(さんと)には勝行房(しようぎやうばう)定快(ぢやうくわい)・習禅房(しふぜんばう)浄運(じやううん)・乗実房(じようじつばう)実尊(じつそん)、都合(つがふ)六十一人、其所従眷属共(そのしよじゆうけんぞくども)に至(いたる)までは計(かぞふ)るに不遑。或(あるひ)は篭輿(かごこし)に被召、或(あるひは)伝馬(てんま)に被乗て、白昼(はくちう)に京都へ入(いり)給ひければ、其方様(そのかたさま)歟(か)と覚(おぼえ)たる男女(なんによ)街(ちまた)に立並(たちならび)て、人目(ひとめ)をも不憚泣(なき)悲む、浅増(あさまし)かりし分野(ありさま)也。十月二日六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、常葉(ときは)駿河守(するがのかみ)範貞(のりさだ)、三千余騎(よき)にて路(みち)を警固仕(つかまつり)て、主上を宇治の平等院(びやうどうゐん)へ成し奉る。其日(そのひ)関東の両大将京(きやう)へは不入して、すぐに宇治へ参向(まゐりむかう)て、竜顔(りようがん)に謁(えつし)奉り、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を渡し給(たまはつ)て、持明院新帝(ぢみやうゐんしんていへ)可進由を奏聞(そうもん)す。主上藤房(ふぢふさ)を以て被仰出けるは、「三種(さんじゆの)神器は、自古継体君(けいたいのきみ)、位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、自(みづか)ら是(これ)を授(さづけ)る者也。四海(しかい)に威を振ふ逆臣(げきしん)有(あつ)て、暫(しばらく)天下を掌(たなごころ)に握る者ありと云共(いへども)、未(いまだ)此三種(このさんじゆ)の重器(ちようき)を、自(みづから)専(ほしいままに)して新帝(しんてい)に渡し奉る例を不聞。其(その)上内侍所(ないしどころ)をば、笠置(かさぎ)の本堂に捨置(すておき)奉りしかば、定(さだめ)て戦場の灰塵(くわいぢん)にこそ落(おち)させ給ひぬらめ。神璽(しいし)は山中(さんちゆう)に迷(まよひ)し時(とき)木(き)の枝(えだ)に懸置(かけおき)しかば、遂にはよも吾国(わがくに)の守(まもり)と成(なら)せ給はぬ事あらじ。宝剣(はうけん)は、武家の輩(ともがら)若(もし)天罰を顧(かへりみ)ずして、玉体(ぎよくたい)に近付(ちかづき)奉る事あらば、自(みづから)其刃(そのやいば)の上(うへ)に伏(ふ)させ給はんずる為に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を放(はな)たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人(とうしりやうにん)も、六波羅(ろくはら)も言(こと)ば無(なく)して退出す。翌日(よくじつ)竜駕(りようが)を廻(めぐら)して六波羅(ろくはら)へ成進(なしまゐ)らせんとしけるを、前々(さきざき)臨幸の儀式ならでは還幸(くわんかう)成(なる)まじき由を、強(しひ)て被仰出ける間、無力鳳輦(ほうれん)を用意(ようい)し、袞衣(こんい)を調進(てうしん)しける間(あひだ)、三日迄(まで)平等院(びやうどうゐん)に御逗留(ごとうりう)有(あつ)てぞ、六波羅(ろくはら)へは入給(いらせたまひ)ける。日来(ひごろ)の行幸(ぎやうがう)に事替(ことかはつ)て、鳳輦(ほうれん)は数万(すまん)の武士(ぶし)に被打囲、月卿雲客(げつけいうんかく)は怪(あやし)げなる篭(かご)・輿(こし)・伝馬(てんま)に被扶乗て、七条を東(ひんがし)へ河原(かはら)を上(のぼ)りに、六波羅(ろくはら)へと急(いそ)がせ給へば、見る人(ひと)涙(なみだ)を流し、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しむ。悲(かなしい)乎(かな)昨日(きのふ)は紫宸北極(ししんほつきよく)の高(たかき)に坐(ざ)して、百司(ひやくし)礼儀(れいぎ)の妝(よそほひ)を刷(つくろ)ひしに、今は白屋(はくをく)東夷(とうい)の卑(いやし)きに下(くだ)らせ給(たまひ)て、万卒(ばんそつ)守禦(しゆぎよ)の密(きび)しきに御心(おんこころ)を被悩。時(とき)移(うつり)事(こと)去(さり)楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天上(てんじやう)の五衰(ごすゐ)人間(にんげん)の一炊(いつすゐ)、唯(ただ)夢かとのみぞ覚(おぼえ)たる。遠からぬ雲の上の御住居(おんすまゐ)、いつしか思食出(おぼしめしいだ)す御事(おんこと)多き時節(をりふし)、時雨(しぐれ)の音(おと)の一通(ひととほり)、軒端(のきば)の月に過(すぎ)けるを聞食(きこしめし)て、住狎(すみなれ)ぬ板屋(いたや)の軒の村時雨(むらしぐれ)音を聞(きく)にも袖はぬれけり四五日有(あり)て、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)より御琵琶(おんびは)を被進けるに、御文(おんふみ)あり。御覧(ごらん)ずれば、思(おもひ)やれ塵(ちり)のみつもる四(よつ)の絃(を)に払ひもあへずかゝる泪(なみだ)を引返(ひきかへ)して、御返事(おんかへりごと)有(あり)けるに、涙ゆへ半(なかば)の月(つき)は陰(かく)るとも共(とも)に見し夜(よ)の影(かげ)は忘れじ同(おなじき)八日両検断(りやうけんだん)、高橋刑部(ぎやうぶ)左衛門・糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅(ろくはら)に参(さんじ)て、今度(こんど)被生虜給(たまひ)し人々を一人(いちにん)づゝ大名(だいみやう)に被預。一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば佐々木(ささきの)判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)、妙法院(めうほうゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をば長井左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)、源中納言(げんぢゆうなごん)具行(ともゆき)をば筑後前司(ちくごのぜんじ)貞知(さだとも)、東南院(とうなんゐん)僧正をば常陸(ひたちの)前司時朝(ときとも)、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)二人(ににん)をば、主上に近侍(きんじ)し奉るべしとて、放召人(はなちめしうど)の如くにて六波羅(ろくはら)にぞ留(と)め置(おか)れける。同(おなじき)九日三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を、持明院(ぢみやうゐん)の新帝(しんてい)の御方(おんかた)へ被渡。堀河(ほりかは)大納言具親(ともちか)・日野(ひのの)中納言資名(すけな)、是(これ)を請取(うけとり)て長講堂(ちやうがうだう)へ送(おくり)奉る。其御警固(そのおんけいご)には長井弾正蔵人(だんじやうくらんど)・水谷(みづたに)兵衛蔵人・但馬民部大夫(たじまみんぶのたいふ)・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官清高(きよたか)をぞ被置ける。同(おなじき)十三日に、新帝(しんてい)登極(とうきよく)の由にて、長講堂より内裏(だいり)へ入(いら)せ給ふ。供奉(ぐぶ)の諸卿、花(はな)を折(をつ)て行妝(かうさう)を引刷(ひきつくろ)ひ、随兵(ずゐびやう)の武士(ぶし)、甲冑(かつちう)を帯(たい)して非常を誡(いまし)む。いつしか前帝(ぜんてい)奉公の方様(かたさま)には、咎(とが)有(ある)も咎無(なき)も、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんと、事に触(ふれ)て身を危(あやぶ)み心を砕(くだ)けば、当今拝趨(たうぎんはいすう)の人々は、有忠も無忠も、今に栄花(えいぐわ)を開(ひら)きぬと、目を悦(よろこ)ばしめ耳をこやす。子(み)結(むすん)で陰(かげ)を成し、花(はな)落(おち)て枝(えだ)を辞(じ)す。窮達(きゆうたつ)時を替(かへ)栄辱(えいじよく)道を分つ。今に始めぬ憂世(うきよ)なれども、殊更(ことさら)夢と幻(うつつ)とを分兼(わけかね)たりしは此時(このとき)也。
○赤坂城(あかさかのしろ)軍(いくさの)事(こと) S0304
遥々(はるばる)と東国(とうごく)より上(のぼ)りたる大勢共(おほぜいども)、未(いまだ)近江国(あふみのくに)へも入(いら)ざる前(さき)に、笠置(かさぎ)の城(しろ)已(すで)に落(おち)ければ、無念(むねん)の事に思(おもう)て、一人(いちにん)も京都へは不入。或(あるひ)は伊賀・伊勢の山を経(へ)、或(あるひ)は宇治(うぢ)・醍醐(だいご)の道を要(よこぎつ)て、楠(くすのき)兵衛(ひようゑ)正成(まさしげ)が楯篭(たてこもり)たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原(いしかはかはら)を打過(うちすぎ)、城の有様(ありさま)を見遣(みや)れば、俄(にはか)に誘(こしら)へたりと覚(おぼえ)てはか/゛\しく堀をもほらず、僅(わづか)に屏(へい)一重(ひとへ)塗(ぬつ)て、方(はう)一二町(いちにちやう)には過(すぎ)じと覚(おぼえ)たる其内(そのうち)に、櫓(やぐら)二三十が程掻双(かきなら)べたり。是(これ)を見(み)る人毎(ひとごと)に、あな哀(あはれ)の敵(てき)の有様(ありさま)や、此城(このしろ)我等(われら)が片手に載(のせ)て、投(なぐ)るとも投(なげ)つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名(ぶんどりかうみやう)して恩賞に預(あづか)らんと、思はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば寄手(よせて)三十万騎(さんじふまんぎ)の勢共(せいども)、打寄(うちよ)ると均(ひとし)く、馬(むま)を蹈放々々(ふみはなちふみはなち)、堀の中(なか)に飛入(とびいり)、櫓(やぐら)の下(した)に立双(たちならん)で、我前(われさき)に打入(うちいら)んとぞ諍(あらそ)ひける。正成は元来(もとより)策(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐら)し、勝事(かつこと)を千里の外(ほか)に決せんと、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が肺肝(はいかん)の間(あひだ)より流出(るしゆつ)せるが如(ごとき)の者なりければ、究竟(くつきやう)の射手(いて)を二百余人(よにん)城中(じやうちゆう)に篭(こめ)て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠(まさとほ)とに、三百(さんびやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、よその山にぞ置(おき)たりける。寄手(よせて)は是(これ)を思(おもひ)もよらず、心を一片(いつぺん)に取(とり)て、只一揉(ひともみ)に揉落(もみおと)さんと、同時(どうじ)に皆四方(しはう)の切岸(きりぎし)の下(した)に着(つい)たりける処を、櫓(やぐら)の上、さまの陰(かげ)より、指(さし)つめ引(ひき)つめ、鏃(やじり)を支(ささへ)て射ける間、時の程に死人手負(しにんておひ)千余人(よにん)に及べり。東国の勢共(せいども)案(あん)に相違して、「いや/\此城(このしろ)の為体(ていたらく)、一日二日には落(おつ)まじかりけるぞ、暫(しばらく)陣々を取(とつ)て役所(やくしよ)を構(かま)へ、手分(てわけ)をして合戦を致せ。」とて攻口(せめぐち)を少し引退(ひきしりぞ)き、馬(むま)の鞍(くら)を下(おろ)し、物(もの)の具(ぐ)を脱(ぬい)で、皆帷幕(ゐばく)の中(うち)にぞ休居(やすみゐ)たりける。楠(くすのき)七郎・和田五郎、遥(はるか)の山より直下(みおろ)して、時刻(じこく)よしと思(おもひ)ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)を二手(ふたて)に分け、東西(とうざい)の山の木陰(こかげ)より、菊水(きくすゐ)の旗二流(ふたながれ)松の嵐に吹靡(ふきなび)かせ、閑(しづか)に馬(むま)を歩(あゆ)ませ、煙嵐(えんらん)を捲(まい)て押寄(おしよせ)たり。東国の勢(せい)是(これ)を見て、敵(てき)か御方(みかた)かとためらひ怪(あやし)む処に、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、両方(りやうばう)より時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、雲霞(うんか)の如くに靉(たなび)ひたる三十万騎(さんじふまんぎ)が中(なか)へ、魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸入(かけいり)、東西南北へ破(はつ)て通り、四方(しはう)八面(はちめん)を切(きつ)て廻(まは)るに、寄手(よせて)の大勢(おほぜい)あきれて陣を成(なし)かねたり。城中(じやうちゆう)より三(みつ)の木戸(きど)を同時(どうじ)に颯(さつ)と排(ひらい)て、二百余騎(よき)鋒(きつさき)を双(ならべ)て打(うつ)て出(いで)、手崎(てさき)をまわして散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)さしもの大勢(おほぜい)なれども僅(わづか)の敵に驚騒(おどろきさわい)で、或(あるひ)は維(つな)げる馬に乗(のつ)てあをれども進まず。或(あるひ)は弛(はづ)せる弓に矢をはげて射(い)んとすれども不被射。物具(もののぐ)一領(りやう)に二三人(にさんにん)取付(とりつき)、「我がよ人のよ。」と引遇(ひきあひ)ける其間(そのあひだ)に、主(しゆ)被打ども従者(じゆうさ)は不知、親被打共子も不助、蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如く、石川々原(いしかはかはら)へ引退(ひきしりぞ)く。其(その)道五十町が間(あひだ)、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事足の踏所(ふみどころ)もなかりければ、東条一郡(とうでういちぐん)の者共(ものども)は、俄(にはか)に徳(とく)付(つい)てぞ見(みえ)たりける。指(さし)もの東国勢(とうごくぜい)思(おもひ)の外(ほか)にし損(そん)じて、初度(しよど)の合戦(かつせん)に負(まけ)ければ、楠が武畧(ぶりやく)侮(あなど)りにくしとや思(おもひ)けん。吐田(はんだ)・楢原辺(ならばらへん)に各(おのおの)打寄(うちよせ)たれども、軈(やが)て又推寄(おしよせ)んとは不擬。此(ここ)に暫(しばらく)引(ひか)へて、畿内(きない)の案内者(あんないしや)を先(さき)に立(たて)て、後攻(ごづめ)のなき様(やう)に山を苅廻(かりまはり)、家を焼払(やきはらう)て、心易(やす)く城(しろ)を責(せむ)べきなんど評定(ひやうぢやう)ありけるを、本間(ほんま)・渋谷(しぶや)の者共(ものども)の中(なか)に、親被打子被討たる者多かりければ、「命(いのち)生(いき)ては何(なに)かせん、よしや我等が勢許(せいばかり)なりとも、馳向(はせむかう)て打死(うちじに)せん。」と、憤(いきどほ)りける間、諸人(しよにん)皆是(これ)に被励て、我(われ)も我(われ)もと馳向(はせむかひ)けり。彼(かの)赤坂の城(しろ)と申(まうす)は、東(ひがし)一方(いつぱう)こそ山田(やまだ)の畔(くろ)重々(ぢゆうぢゆう)に高(たかく)して、少し難所(なんじよ)の様(やう)なれ、三方(さんぱう)は皆平地(ひらち)に続(つづ)きたるを、堀一重(ひとへ)に屏(へい)一重塗(ぬつ)たれば、如何なる鬼神(きじん)が篭りたり共(とも)、何程(なにほど)の事か可有と寄手(よせて)皆是(これ)を侮(あなど)り、又寄(よす)ると均(ひとし)く、堀の中(なか)、切岸(きりぎし)の下(した)まで攻付(せめつい)て、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て入(いら)んとしけれども、城中(じやうちゆう)には音(おと)もせず、是(これ)は如何様(いかさま)昨日(きのふ)の如く、手負(ておひ)を多く射出(いいだし)て漂(ただよ)ふ処へ、後攻(ごづめ)の勢(せい)を出(いだ)して、揉合(もみあは)せんずるよと心得て、寄手(よせて)十万余騎(よき)を分(わけ)て、後(うしろ)の山へ指向(さしむけ)て、残る二十万騎(にじふまんぎ)稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如く城を取巻(とりまい)てぞ責(せめ)たりける。卦(かかり)けれども城(しろ)の中(うち)よりは、矢の一筋をも不射出更(さらに)人有(あり)とも見へざりければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、四方(しはう)の屏(へい)に手を懸(かけ)、同時(どうじ)に上越(のぼりこえ)んとしける処を、本(もと)より屏(へい)を二重(ふたへ)に塗(ぬつ)て、外(そと)の屏をば切(きつ)て落す様(やう)に拵(こしらへ)たりければ、城(しろ)の中(うち)より、四方(しはう)の屏(へい)の鈎縄(つりなは)を一度(いちど)に切(きつ)て落したりける間、屏に取付(とりつき)たる寄手(よせて)千余人(よにん)、厭(おし)に被打たる様(やう)にて、目許(めばかり)はたらく処を、大木(たいぼく)・大石(たいせき)を抛懸々々(なげかけなげかけ)打(うち)ける間、寄手(よせて)又今日(けふ)の軍(いくさ)にも七百余人(よにん)被討けり。東国の勢共(せいども)、両日(りやうじつ)の合戦に手(て)ごりをして、今は城(しろ)を攻(せめ)んとする者一人(いちにん)もなし。只其近辺(そのきんぺん)に陣々を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。四五日が程は加様(かやう)にて有(あり)けるが、余(あまり)に暗然(あんぜん)として守り居たるも云甲斐(いひがひ)なし。方(はう)四町(しちやう)にだに足(たら)ぬ平城(ひらじやう)に、敵(てき)四五百人篭(こもり)たるを、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)が責(せめ)かねて、遠責(とほぜめ)したる事の浅猿(あさまし)さよなんど、後(のち)までも人に被笑事こそ口惜(くちをし)けれ。前々(さきざき)は早(はや)りのまゝ楯をも不衝、責具足(せめぐそく)をも支度(したく)せで責(せむ)ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度(このたび)は質(てだ)てを替(かへ)て可責とて、面々(めんめん)に持楯(もちたて)をはがせ、其面(そのおもて)にいため皮(がは)を当(あて)て、輒(たやす)く被打破ぬ様(やう)に拵(こしらへ)て、かづきつれてぞ責(せめ)たりける。切岸(きりぎし)の高さ堀(ほり)の深さ幾程(いくほど)もなければ、走懸(はしりかかつ)て屏(へい)に着(つか)ん事は、最(いと)安(やす)く覚(おぼえ)けれ共、是(これ)も又釣屏(つりべい)にてやあらんと危(あやぶ)みて無左右屏には不着、皆堀の中(なか)にをり漬(ひたつ)て、熊手(くまで)を懸(かけ)て屏を引(ひき)ける間、既(すで)に被引破ぬべう見へける処に、城(しろ)の内(うち)より柄(え)の一二丈長き杓(ひしやく)に、熱湯(ねつたう)の湧翻(わきかへ)りたるを酌(くん)で懸(かけ)たりける間、甲(かぶと)の天返(てへん)綿噛(わたがみ)のはづれより、熱湯(あつきゆ)身に徹(とほつ)て焼爛(やけただれ)ければ、寄手(よせて)こらへかねて、楯も熊手(くまで)も打捨(すて)て、ばつと引(ひき)ける見苦しさ、矢庭(やには)に死(しす)るまでこそ無(なけ)れども、或(あるひ)は手足(てあし)を被焼て立(たち)も不揚、或(あるひ)は五体(ごたい)を損(そん)じて病(や)み臥(ふ)す者、二三百人(にさんびやくにん)に及べり。寄手(よせて)質(てだて)を替(かへ)て責(せむ)れば、城(しろ)の中(うち)工(たくみ)を替(かへ)て防ぎける間、今は兔(と)も角(かく)も可為様(やう)なくして、只食責(じぎぜめ)にすべしとぞ被議ける。かゝりし後(のち)は混(ひたす)ら軍(いくさ)をやめて、己(おのれ)が陣々に櫓(やぐら)をかき、逆木(さかもぎ)を引(ひい)て遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。是(これ)にこそ中々(なかなか)城中(じやうちゆう)の兵(つはもの)は、慰(なぐさむ)方もなく機(き)も疲れぬる心地しけれ。楠此城(このしろ)を構(かま)へたる事暫時(ざんじ)の事なりければ、はか/゛\しく兵粮(ひやうろう)なんど用意(ようい)もせざれば、合戦始(はじまつ)て城を被囲たる事(こと)、僅(わづか)に二十日(はつか)余(あま)りに、城中(じやうちゆう)兵粮尽(つき)て、今四五日の食(かて)を残せり。懸(かかり)ければ、正成(まさしげ)諸卒(しよそつ)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此間(このあひだ)数箇度(すかど)の合戦に打勝(かつ)て、敵を亡(ほろぼ)す事数を不知といへども、敵大勢(おほぜい)なれば敢(あへ)て物(もの)の数ともせず、城中既(すでに)食(かて)尽(つき)て助(たすけ)の兵(つはもの)なし。元来(もとより)天下(てんか)の士卒(じそつ)に先立(さきだつ)て、草創(さうさう)の功(こう)を志(こころざし)とする上は、節(せつ)に当り義に臨(のぞん)では、命(いのち)を可惜に非(あら)ず。雖然事(こと)に臨(のぞん)で恐れ、謀(はかりごと)を好(このん)で成すは勇士(ゆうし)のする所(ところ)也。されば暫(しばらく)此城(このしろ)を落(おち)て、正成自害(じがい)したる体(てい)を敵に知(しら)せんと思ふ也。其故(そのゆゑ)は正成自害(じがい)したりと見及(みおよ)ばゞ、東国勢(とうごくぜい)定(さだめ)て悦(よろこび)を成(なし)て可下向。下(くだ)らば正成打(うつ)て出(いで)、又上(のぼ)らば深山(みやま)に引入(ひきいり)、四五度が程東国勢を悩(なやま)したらんに、などか退屈(たいくつ)せざらん。是(これ)身を全(まつたう)して敵を亡(ほろぼ)す計畧也。面々(めんめん)如何(いかん)計(はから)ひ給(たまふ)。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆、「可然。」とぞ同(どう)じける。「さらば。」とて城中(じやうちゆう)に大(おほき)なる穴を二丈許(ばかり)掘(ほり)て、此間(このあひだ)堀の中(なか)に多く討(うた)れて臥(ふし)たる死人(しびと)を二三十人穴の中(なか)に取入(とりいれ)て、其(その)上に炭(すみ)・薪(たきぎ)を積(つん)で雨風(あめかぜ)の吹洒(ふきそそ)ぐ夜(よ)をぞ待(まち)たりける。正成が運や天命に叶(かなひ)けん、吹(ふく)風俄(にはか)に沙(いさご)を挙(あげ)て降(ふる)雨更に篠(しの)を衝(つく)が如し。夜色(やしよく)窈溟(えうめい)として氈城(せんぜい)皆帷幕(ゐばく)を低(た)る。是(これ)ぞ待所(まつところ)の夜(よ)なりければ、城中(じやうちゆう)に人を一人残し留(とどめ)て、「我等落延(おちのび)ん事四五町にも成(なり)ぬらんと思はんずる時、城(しろ)に火を懸(かけ)よ。」と云置(いひおい)て、皆物(もの)の具(ぐ)を脱ぎ、寄手(よせて)に紛(まぎれ)て五人三人(さんにん)別々(べちべち)になり、敵(てき)の役所(やくしよ)の前(まへ)軍勢の枕の上(うへ)を越(こえ)て閑々(しづしづ)と落(おち)けり。正成長崎が厩(むまや)の前(まへ)を通りける時、敵是(これ)を見つけて、「何者なれば御(おん)役所の前を、案内も申さで忍(しのび)やかに通るぞ。」と咎(とが)めれけば、正成、「是(これ)は大将の御内(みうち)の者にて候が、道を踏違(ふみたが)へて候ひける。」と云捨(いひすて)て、足早(あしばや)にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪(あやし)き者なれ、如何様(いかさま)馬盜人(むまぬすびと)と覚(おぼゆ)るぞ。只射殺(いころ)せ。」とて、近々(ちかぢか)と走寄(はしりよつ)て真直中(まつただなか)をぞ射たりける。其(その)矢正成が臂(ひぢ)の懸(かか)りに答(こたへ)て、したゝかに立(たち)ぬと覚へけるが、す膚(はだ)なる身に少(すこし)も不立して、筈(はず)を返して飛翻(とびかへ)る。後(のち)に其矢(そのや)の痕(あと)を見れば、正成が年来(としごろ)信じて奉読観音経(くわんおんきやう)を入(いれ)たりける膚(はだ)の守(まもり)に矢当(あたつ)て、一心称名(いつしんしようみやう)の二句の偈(げ)に、矢崎(やさき)留(とどま)りけるこそ不思議なれ。正成必死(ひつし)の鏃(やじり)に死を遁(のが)れ、二十余町落延(おちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)ければ、約束に不違、早城(はやしろ)の役所共(ども)に火を懸(かけ)たり。寄手(よせて)の軍勢火に驚(おどろい)て、「すはや城(しろ)は落(おち)けるぞ。」とて勝時(かつどき)を作(つくつ)て、「あますな漏(もら)すな。」と騒動(さうどう)す。焼静(やけしづ)まりて後(のち)城中(じやうちゆう)をみれば、大(おほき)なる穴の中(なか)に炭を積(つん)で、焼死(やけしし)たる死骸(しがい)多し。皆是(これ)を見て、「あな哀(あはれ)や、正成はや自害(じがい)をしてけり。敵(てき)ながらも弓矢(ゆみや)取(とつ)て尋常に死(しし)たる者哉(かな)。」と誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。
○桜山(さくらやま)自害(じがいの)事(こと) S0305
去程(さるほど)に桜山(さくらやま)四郎入道(にふだう)は、備後国(びんごのくに)半国許(はんこくばかり)打順(うちしたが)へて、備中(びつちゆう)へや越(こえ)まし、安芸(あき)をや退治(たいぢ)せましと案じける処に、笠置城(かさぎのしろ)も落(おち)させ給ひ、楠(くすのき)も自害したりと聞へければ、一旦(いつたん)の付勢(つきぜい)は皆落失(おちうせ)ぬ。今は身を離(はなれ)ぬ一族、年来(としごろ)の若党(わかたう)二十余人(にじふよにん)ぞ残りける。此比(このごろ)こそあれ、其昔(そのむかし)は武家(ぶけ)権(けん)を執(とつ)て、四海(しかい)九州の内(うち)尺地(せきち)も不残ければ、親(したし)き者も隠し得(え)ず、疎(うとき)はまして不被憑、人手(ひとで)に懸(かか)りて尸(かばね)を曝(さら)さんよりはとて、当国(たうごく)の一宮(いちのみや)へ参り、八歳(はつさい)に成(なり)ける最愛(さいあい)の子と、二十七に成(なり)ける年来(としごろ)の女房とを刺殺(さしころし)て、社壇(しやだん)に火をかけ、己(おのれ)が身も腹掻切(かききつ)て、一族(いちぞく)若党(わかたう)二十三人(にじふさんにん)皆(みな)灰燼(ぐわいじん)と成(なつ)て失(うせ)にけり。抑(そもそも)所(ところ)こそ多かるに、態(わざと)社壇に火を懸(かけ)焼死(やけしし)ける桜山が所存(しよぞん)を如何(いか)にと尋(たづぬ)るに、此(この)入道当社(たうしや)に首(かうべ)を傾(かたぶけ)て、年(とし)久(ひさし)かりけるが、社頭(しやとう)の余(あま)りに破損(はそん)したる事を歎(なげき)て、造営し奉(たてまつ)らんと云(いふ)大願(たいぐわん)を発(おこ)しけるが、事(こと)大営(たいえい)なれば、志(こころざし)のみ有(あり)て力(ちから)なし。今度(こんど)の謀叛(むほん)に与力(よりき)しけるも、専(もつぱら)此大願(このたいぐわん)を遂(とげ)んが為なりけり。されども神(しんは)非礼(ひれい)を享(うけ)給はざりけるにや、所願(しよぐわん)空(むなしく)して打死(うちじに)せんとしけるが、我等此社(このやしろ)を焼払(やきはらひ)たらば、公家(くげ)武家共(とも)に止(や)む事(こと)を不得して如何様(いかさま)造営の沙汰可有。其(その)身は縦(たと)ひ奈落(ならく)の底に堕在(だざい)すとも、此願(このぐわん)をだに成就(じやうじゆ)しなば悲(かなし)むべきに非(あら)ずと、勇猛(ゆうまう)の心を発(おこし)て、社頭(しやとう)にては焼死(やけしし)にける也。倩(つらつら)垂迹和光(すゐじやくわくわう)の悲願(ひぐわん)を思へば、順逆(じゆんぎやく)の二縁(にえん)、何(いづ)れも済度利生(さいどりしやう)の方便(はうべん)なれば、今生(こんじやう)の逆罪(ぎやくざい)を翻(ひるがへ)して当来(たうらい)の値遇(ちぐう)とや成らんと、是(これ)もたのみは不浅ぞ覚へける。


太平記(国民文庫)

太平記巻第四
○笠置(かさぎの)囚人(とらはれびと)死罪(しざい)流刑(るけいの)事(こと)付藤房(ふぢふさ)卿(きやうの)事(こと) S0401
笠置(かさぎの)城(しろ)被攻落刻、被召捕給(たまひ)し人々(ひとびと)の事(こと)、去年(きよねん)は歳末(さいまつ)の計会(けいくわい)に依(よつ)て、暫く被閣ぬ。新玉(あらたま)の年(とし)立回(たちかへぬ)れば、公家(くげ)の朝拝(てうはい)武家(ぶけ)の沙汰(さた)始(はじま)りて後(のち)、東使(とうし)工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道行珍(ぎやうちん)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東(くわんとう)評定(ひやうぢやう)の趣(おもむき)、六波羅(ろくはら)にして被定。山門(さんもん)・南都(なんと)の諸門跡(しよもんぜき)、月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・諸衛(しよゑ)の司等(つかさとう)に至(いたる)迄、依罪軽重、禁獄(きんごく)流罪(るざい)に処(しよ)すれ共(ども)、足助(あすけの)次郎重範(しげのり)をば六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、首(くび)を可刎と被定。万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさきやう)は、子息(しそく)藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)の罪科(ざいくわ)に依(よつ)て、武家に被召捕、是(これ)も如召人にてぞ座(おは)しける。齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に傾(かたぶい)て、万乗(ばんじよう)の聖主は遠嶋(ゑんたう)に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人(ににん)の賢息(けんそく)は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身(わがみ)さへ又楚(そ)の囚人(とらはれびと)と成(なり)給へば、只今まで命(いのち)存(ながらへ)て、浩(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞(みきく)事(こと)の悲しければと、一方(ひとかた)ならぬ思ひに、一首(いつしゆ)の歌をぞ被詠ける。長かれと何(なに)思ひけん世中(よのなか)の憂(うき)を見するは命(いのち)なりけり罪科(ざいくわ)有(ある)もあらざるも、先朝拝趨(せんてうはいすう)の月卿・雲客、或(あるひ)は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞(つうそく)、時の否泰(ひたい)、為夢為幻、時(とき)遷(うつ)り事去(さつ)て哀楽(あいらく)互に相替(あひかは)る。憂(うき)を習(ならひ)の世の中(なか)に、楽(たのし)んでも何かせん、歎(なげい)ても由無(よしなか)るべし。源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆきの)卿(きやう)をば、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはんぐわん)入道道誉(だうよ)、路次(ろし)を警固仕(つかまつり)て鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉る。道にて可被失由(よし)、兼(かね)て告申(つげまうす)人や有(あり)けん、会坂(あふさか)の関(せき)を越(こえ)給ふとて、帰るべき時しなければ是(これ)や此(この)行(ゆく)を限りの会坂の関勢多(せた)の橋(はし)を渡るとて、けふのみと思(おもふ)我身(わがみ)の夢の世を渡る物(もの)かはせたの長橋(ながはし)此卿(このきやう)をば道にて可奉失と、兼(かね)て定(さだめ)し事なれば、近江(あふみ)の柏原(かしはばら)にて切(きり)奉るべき由(よし)、探使(たんし)襲来(しふらい)していらでければ、道誉、中納言殿(どの)の御前(おんまへ)に参り、「何(いか)なる先世(ぜんせ)の宿習(しゆくしふ)によりてか、多(おほく)の人の中(なか)に入道預進(あづかりまゐら)せて、今更(いまさら)加様(かやう)に申(まうし)候へば、且(かつう)は情(なさけ)を不知に相似(あひに)て候へ共(ども)、卦(かか)る身には無力次第にて候。今までは随分(ずゐぶん)天下(てんか)の赦(ゆるし)を待(まち)て、日数(ひかず)を過(すご)し候(さふらひ)つれ共(ども)、関東(くわんとう)より可失進由(よし)、堅く被仰候へば、何事(なにこと)も先世(ぜんせ)のなす所と、思召慰(おぼしめしなぐさ)ませ給(たまひ)候へ。」と申(まうし)もあへず袖を顔に押当(おしあて)しかば、中納言殿(どの)も不覚(ふかく)の泪(なみだ)すゝみけるを、推拭(おしのご)はせ給ひて、「誠(まこと)に其(その)事(こと)に候。此間(このあひだ)の儀をば後世(ごせ)までも難忘こそ候へ。命(いのち)の際(きは)の事は、万乗の君(きみ)既(すで)に外土遠嶋(ぐわいどゑんたう)に御遷幸(ごせんかう)の由聞へ候上(うへ)は、其以下(そのいげ)の事どもは、中々(なかなか)不及力。殊更此(この)程の情(なさけ)の色、誠(まことに)存命(ぞんめい)すとも難謝こそ候へ。」と計(ばかり)にて、其後(そののち)は言(もの)をも被仰ず、硯(すずり)と紙とを取寄(とりよせ)て、御文(おんふみ)細々(こまごま)とあそばして、「便(たより)に付(つけ)て相知(あひし)れる方(かた)へ、遣(やり)て給はれ。」とぞ被仰ける。角(かく)て日(ひ)已(すで)に暮(くれ)ければ、御輿(おんこし)指寄(さしよせ)て乗(の)せ奉り、海道(かいだう)より西なる山際(やまぎは)に、松の一村(ひとむら)ある下(もと)に、御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)たれば、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほら)せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々(しづしづ)と辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某(それがし)と書(かい)て、筆を抛(なげうつ)て手を叉(あざへ)、座(ざ)をなをし給ふとぞ見へし。田児(たごの)六郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、後(うしろ)へ廻(まは)るかと思へば、御首(くび)は前にぞ落(おち)にける。哀(あはれ)と云(いふ)も疎(おろか)なり。入道泣々(なくなく)其遺骸(そのゆゐがい)を煙(けぶり)となし、様々(さまざま)の作善(さぜん)を致してぞ菩提(ぼだい)を奉祈ける。糸惜(いとをしき)哉(かな)、此卿(このきやう)は先帝(せんてい)帥宮(そつのみや)と申(まうし)奉りし比(ころ)より近侍(きんじ)して、朝夕(てうせきの)拝礼(はいれい)不怠、昼夜(ちうや)の勤厚(きんこう)異于他。されば次第に昇進(しようじん)も不滞、君(きみ)の恩寵(おんちよう)も深かりき。今かく失給(うせたまひ)ぬと叡聞(えいぶん)に達せば、いかばかり哀(あはれ)にも思食(おぼしめさ)れんずらんと覚へたり。同(おなじき)二十一日殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)をば大炊御門油小路(おほゐのみかどあぶらのこうぢ)の篝(かがり)、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)秀信(ひでのぶ)召捕(めしとり)て六波羅(ろくはら)へ出(いだ)したりしかば、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比(このごろ)一天(いつてん)の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛(ごむほん)を、御身(おんみ)なんど思立(おもひたち)給はん事(こと)、且(かつう)は無止、且(かつう)は楚忽(そこつ)にこそ覚(おぼえ)て候へ。先帝(せんていを)奪ひ進(まゐら)せん為に、当所(たうしよ)の絵図(ゑづ)なんどまで持廻(もちまは)られ候(さふらひ)ける条、武敵(ぶてき)の至(いた)り重科(ぢゆうくわ)無双、隠謀の企(くはだて)罪責(ざいせき)有余。計(はかりごと)の次第一々に被述候へ。具(つぶさ)に関東(くわんとう)へ可注進。」とぞ宣(のたまひ)ける。法印(ほふいん)返事(へんじ)せられけるは、「普天(ふてん)の下(した)無非王土、率土(そつとの)人無非王民。誰か先帝の宸襟(しんきん)を歎き奉らざらん。人たる者是(これ)を喜(よろこぶ)べきや。叡慮(えいりよ)に代(かはつ)て玉体を奪(うばひ)奉らんと企(くはだつる)事(こと)、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企(くはだつる)事(こと)更(さら)に非楚忽儀。始(はじめ)より叡慮の趣を存知(ぞんぢし)、笠置(かさぎ)の皇居(くわうきよ)へ参内(さんだい)せし条無子細。而(しか)るを白地(あからさま)に出京(しゆつきやう)の蹤(あと)に、城郭無固、官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)の間(あひだ)、無力本意を失へり。其間(そのあひだ)に具行卿(ともゆききやう)相談して、綸旨(りんし)を申下(まうしくだし)、諸国の兵(つはもの)に賦(くばり)し条勿論(もちろん)なり。有程(あるほど)の事は此等(これら)なり。」とぞ返答せられける。依之(これによつて)六波羅(ろくはら)の評定(ひやうぢやう)様々(さまざま)なりけるを、二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道進(すすん)で申(まうし)けるは、「彼罪責(かのざいせき)勿論の上(うへ)は、無是非可被誅けれども、与党(よたう)の人なんど尚尋(たづね)沙汰有(あつ)て重(かさね)て関東(くわんとう)へ可被申かとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、長井右馬助(ながゐうまのすけ)、「此義(このぎ)尤(もつとも)可然候。是(これ)程の大事(だいじ)をば関東(くわんとう)へ被申てこそ。」と申(まうし)ければ、面々(めんめん)の意見一同(いちどう)せしかば、法印(ほふいん)をば五条京極(きやうごく)の篝(かがり)、加賀(かがの)前司(ぜんじ)に預(あづけ)られて禁篭(きんろう)し、重(かさね)て関東(くわんとう)へぞ被注進ける。平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)をば、河越(かはごえ)参河(みかはの)入道円重(ゑんぢゆう)具足(ぐそく)し奉(たてまつり)て、是(これ)も鎌倉(かまくら)へと聞へしが、鎌倉(かまくら)迄も下(くだ)し着(つけ)奉らで相摸(さがみ)の早河尻(はやかはじり)にて奉失。侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきらの)卿(きやう)・別当(べつたう)実世(さねよ)卿(きやう)二人(ににん)をば、赦免(しやめん)の由(よし)にて有(あり)しかども、猶も心ゆるしや無(なか)りけん、波多野(はだの)上野介(かうづけのかみ)宣通(のぶみち)・佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)に被預て、猶(なほ)も本(もと)の宿所(しゆくしよ)へは不帰給。尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)をば下総(しもつさの)国(くに)へ流して、千葉介(ちばのすけ)に被預。此人(このひと)志学(しがく)の年(とし)の昔より、和漢の才(さい)を事として、栄辱(えいじよく)の中(うち)に心を止(と)め不給しかば、今遠流(をんる)の刑に逢へる事(こと)、露計(つゆばかり)も心に懸(かけ)て思はれず。盛唐(せいたうの)詩人杜少陵(とせうりようが)、天宝(てんばう)の末の乱に逢(あう)て、「路経■■(えんよ)双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯(てんがい)の恨(うらみ)を吟(ぎん)じ尽(つく)し、吾朝(わがてう)の歌仙小野篁(をののたかむら)は隠岐(おきの)国(くに)へ被流て、「海原(わたのはら)八十嶋(やそしま)かけて漕出(こぎいで)ぬ」と釣(つり)する海士(あま)に言伝(ことづて)て、旅泊(りよはく)の思(おもひ)を詠ぜらる。是(これ)皆時(とき)の難易(なんい)を知(しり)て可歎を不歎、運の窮達(きゆうたつ)を見て有悲を不悲。況乎(いはんや)「主(しゆ)憂(うれふ)る則(ときんば)臣辱(はづかしめら)る。主辱(はづかしめら)るゝ則(ときんば)臣死(しす)」といへり。縦(たとひ)骨を醢(ししびしほ)にせられ、身を車ざきにせらる共(とも)、可傷道に非(あら)ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠(ふうえい)等閑(なほざり)に日を渡る。今は憂世(うきよ)の望(のぞみ)絶(たえ)ぬれば、有出家志由頻(しきり)に被申けるを、相摸(さがみ)入道(にふだう)子細(しさい)候はじと被許ければ、年(とし)未満強仕、翠(みどり)の髪を剃(そり)落し、桑門人(よすてびと)と成給(なりたまひ)しが、無幾程元弘(げんこう)の乱出来(いでき)し始(はじめ)俄に病に被侵、円寂(ゑんじやく)し給ひけるとかや。東宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)をば常陸(ひたちの)国(くに)へ流して、長沼駿河(ながぬまするがの)守(かみ)に預(あづ)けらる。中納言藤房(ふぢふさ)をば同国(おなじくに)に流して、小田民部大輔(をだみんぶのたいふ)にぞ被預ける。左遷遠流(させんゑんる)の悲(かなしみ)は何(いづ)れも劣らぬ涙なれども、殊に此(この)卿(きやう)の心中(こころのうち)推量(おしはか)るも猶哀(あはれ)也(なり)。近来(このごろ)中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に左衛門佐局(さゑものすけのつぼね)とて容色(ようしよく)世に勝(すぐ)れたる女房(にようばう)御座(おはしま)しけり。去(さんぬる)元享(げんかう)の秋の比(ころ)かとよ、主上北山殿(きたやまどの)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御賀(おんが)の舞(まひ)の有(あり)ける時、堂下(だうか)の立部(りふはう)袖を翻(ひるがへ)し、梨園(りゑん)の弟子(ていし)曲(きよく)を奏せしむ。繁絃急管(はんげんきふくわん)何(いづ)れも金玉(きんぎよく)の声(こゑ)玲瓏(れいろう)たり。此女房(このにようばう)琵琶(びは)の役(やく)に被召、青海波(せいがいは)を弾(だん)ぜしに、間関(かんくわん)たる鴬(うぐひす)の語(かたり)は花下(はなのもと)に滑(なめらかに)、幽咽(いうえつ)せる泉(いづみ)の流(ながれ)は氷の底(そこ)に難(なや)めり。適怨清和(てきゑんせいくわ)節(せつ)に随(したがつ)て移る。四絃(しげん)一声(いつせい)如裂帛。撥(はらつ)ては復(また)挑(かかぐ)、一曲(いつきよく)の清音(せいいん)梁上(りやうじやう)に燕(つばめ)飛(とび)、水中(すゐちゆう)に魚(うを)跳許(をどるばかり)也(なり)。中納言ほのかに是(これ)を見給(みたまひ)しより、人不知思初(おもひそめ)ける心の色、日に副(そひ)て深くのみ成行(なりゆけ)共(ども)、可云知便(たより)も無ければ、心に篭(こめ)て歎明(なげきあか)し思暮(おもひくら)して、三年(みとせ)を過給(すごしたまひ)けるこそ久しけれ。何(いか)なる人目(ひとめ)の紛(まぎ)れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜(ひとよ)の夢の幻(うつつ)、さだかならぬ枕をかはし給(たまひ)にけり。其次(そのつぎ)の夜(よ)の事ぞかし、主上俄(にはか)に笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給ひければ、藤房(ふぢふさ)衣冠(いくわん)を脱(ぬ)ぎ、戎衣(じゆうい)に成(なつ)て供奉(ぐぶ)せんとし給ひけるが、此女房(このにようばう)に廻(めぐ)り逢(あは)ん末の契(ちぎり)も難知、一夜(いちや)の夢の面影(おもかげ)も名残(なごり)有(あり)て、今一度(ひとたび)見もし見へばやと被思ければ、彼(かの)女房の住給(すみたまひ)ける西の対(たい)へ行(ゆき)て見給ふに、時しもこそあれ、今朝(けさ)中宮(ちゆうぐう)の召(めし)有(あつ)て北山殿(きたやまどの)へ参り給(たまひ)ぬと申(まうし)ければ、中納言鬢(びん)の髪(かみ)を少し切(きつ)て、歌を書副(かきそへ)てぞ被置ける。黒髪(くろかみ)の乱(みだれ)ん世まで存(ながら)へば是(これ)を今はの形見(かたみ)とも見よ此(この)女房立帰(たちかへ)り、形見の髪と歌とを見て、読(よみ)ては泣(なき)、々(なき)ては読み、千度百廻(ちたびももたび)巻(まき)返せ共(ども)、心乱(みだれ)てせん方もなし。懸(かか)る涙に文字(もじ)消(きえ)て、いとゞ思(おもひ)に絶兼(たへかね)たり。せめて其(その)人の在所(いますところ)をだに知(しり)たらば、虎(とら)伏(ふす)野辺(のべ)鯨(くぢら)の寄(よる)浦なり共(とも)、あこがれぬべき心地(ここち)しけれ共(ども)、其行末(そのゆくすゑ)何(いづ)く共(とも)不聞定、又逢(あは)ん世の憑(たのみ)もいさや知らねば、余(あま)りの思(おもひ)に堪(たへ)かねて、書置(かきおき)し君が玉章(たまづさ)身に副(そへ)て後(のち)の世までの形(かた)みとやせん先(さき)の歌に一首(いつしゆ)書副(かきそへ)て、形見の髪を袖に入(いれ)、大井河(おほゐがは)の深き淵に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。按察(あぜちの)大納言公敏(きんとしの)卿(きやう)は上総(かづさの)国(くに)、東南院(とうなんゐんの)僧正(そうじやう)聖尋(しやうじん)は下総(しもつさの)国(くに)、峯僧正(みねのそうじやう)俊雅(しゆんが)は対馬(つしまの)国(くに)と聞へしが、俄に其(その)議を改(あらため)て、長門(ながとの)国(くに)へ流され給ふ。第四(だいし)の宮(みや)は但馬(たじまの)国(くに)へ流奉(ながしたてまつり)て、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田判官(おほたのはんぐわん)に預(あづけ)らる。
○八歳宮(はつさいのみや)御歌(おんうたの)事(こと)S0402
第九宮(だいくのみや)は、未(いまだ)御幼稚(ごえうち)に御坐(おはしませ)ばとて、中御門(なかのみかど)中納言宣明(のぶあきら)卿(きやう)に被預、都の内にぞ御坐有(ござあり)ける。此(この)宮(みや)今年(こんねん)は八歳(はつさい)に成(なら)せ給(たまひ)けるが、常の人よりも御心様(おんこころざま)さか/\しく御座(おはしまし)ければ、常は、「主上已(すで)に人も通(かよ)はぬ隠岐(おきの)国(くに)とやらんに被流させ給ふ上(うへ)は、我(われ)独(ひとり)都の内に止(とどま)りても何(なに)かせん。哀(あはれ)我をも君の御座(ござ)あるなる国のあたりへ流し遣(つかは)せかし。せめては外所(よそ)ながらも、御行末(おんゆくすゑ)を承(うけたま)はらん。」と書(かき)くどき打(うち)しほれて、御涙(おんなみだ)更(さら)にせきあへず。「さても君の被押篭御座(ござ)ある白河(しらかは)は、京(みやこ)近き所と聞くに、宣明(のぶあきら)はなど我を具足(ぐそく)して御所(ごしよ)へは参(まゐ)らぬぞ。」と仰有(おほせあり)ければ、宣明卿涙を押(おさ)へて、「皇居(くわうきよ)程近(ほどちか)き所にてだに候はゞ、御伴(おんとも)仕(おんともつかまつり)て参(さん)ぜん事子細(しさい)有(ある)まじく候が、白河(しらかは)と申(まうし)候は都より数百里(すひやくり)を経(へ)て下(くだ)る道にて候。されば能因法師(のういんほつし)が都をば霞(かすみ)と共に出(いで)しかど秋風ぞ吹(ふく)白川(しらかは)の関(せき)と読(よみ)て候(さふらひ)し歌にて、道の遠き程、人を通(とほ)さぬ関ありとは思召知(おぼしめししら)せ給へ。」と被申ければ、宮御泪(おんなみだ)を押(おさ)へさせ給(たまひ)て、暫(しばし)は被仰出事もなし。良(やや)有(あり)て、「さては宣明(のぶあきら)我(われ)を具足(ぐそく)して参(まゐ)らじと思へる故(ゆゑ)に、加様(かやう)に申(まうす)者也(なり)。白川(しらかはの)関読(よみ)とたりしは、全く洛陽(らくやう)渭水(ゐすゐ)の白河には非(あら)ず、此(この)関奥州の名所(めいしよ)也(なり)。近来(このごろ)津守国夏(つもりくになつ)が、是(これ)を本歌(ほんか)にて読(よみ)たりし歌に、東路(あづまぢ)の関迄ゆかぬ白川(しらかは)も日数(ひかず)経(へ)ぬれば秋風ぞ吹(ふく)又最勝寺(さいしようじ)の懸(かかり)の桜枯(かれ)たりしを、植(うゑ)かゆるとて、藤原雅経朝臣(ふぢはらのまさつねあつそん)、馴々(なれなれ)て見しは名残(なごり)の春ぞともなど白川の花(はな)の下陰(したかげ)是(これ)皆(みな)名(な)は同(おなじう)して、所(ところ)は替(かは)れる証歌(しようか)也(なり)。よしや今は心に篭(こめ)て云出(いひいだ)さじ。」と、宣明(のぶあきら)を被恨仰、其後(そののち)よりは書絶(かきたえ)恋しとだに不被仰、万(よろ)づ物憂(ものうき)御気色(おんきしよく)にて、中門(ちゆうもん)に立(たた)せ給へる折節(をりふし)、遠寺(ゑんじ)の晩鐘(ばんしよう)幽(かすか)に聞へければ、つく/゛\と思暮(おもひくら)して入逢(いりあひ)の鐘を聞(きく)にも君ぞ恋しき情(こころ)動于中言(ことば)呈於外、御歌(おんうた)のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比(そのころ)京中(きやうぢゆう)の僧俗男女(なんによ)、是(これ)を畳紙(たたうがみ)・扇(あふぎ)に書付(かきつけ)て、「是(これ)こそ八歳(はつさい)の宮(みや)の御歌(おんうた)よ。」とて、翫(もてあそ)ばぬ人は無(なか)りけり。
○一宮(いちのみや)並(ならびに)妙法院(めうほふゐん)二品親王(にほんしんわうの)御事(おんこと) S0403
三月八日一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば、佐々木(ささきの)大夫判官(たいふはんぐわん)時信(ときのぶ)を路次(ろし)の御警固(おんけいご)にて、土佐(とさ)の畑(はた)へ流し奉る。今までは縦(たとひ)秋刑(しうけい)の下(もと)に死(しし)て、竜門原上(りようもんげんじやう)の苔に埋(うづま)る共(とも)、都のあたりにて、兎(と)も角(かく)もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念(ごきねん)有(あり)けれ共(ども)、昨日(きのふ)既(すでに)先帝(せんてい)をも流し奉りぬと、警固(けいご)の武士共(ぶしども)申合(まうしあ)ひけるを聞召(きこしめし)て、御祈念(ごきねん)の御憑(おんたのみ)もなく、最(いと)心細く思召(おぼしめし)ける処(ところ)に、武士共(もののふども)数多(あまた)参りて、中門(ちゆうもん)に御輿(おんこし)を差寄(さしよ)せたれば、押(おさ)へかねたる御泪(おんなみだ)の中(うち)に、せき留(とむ)る柵(しがらみ)ぞなき泪河(なみだがは)いかに流るゝ浮身(うきみ)なるらん同(おなじき)日、妙法院(めうほふゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をも、長井(ながゐ)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)を御警固(おんけいご)にて讚岐(さぬきの)国(くに)へ流し奉る。昨日(きのふ)は主上御遷幸(ごせんかう)の由を承(うけたまは)り、今日(けふ)は一宮(いちのみや)被流させ給(たまひ)ぬと聞召(きこしめし)、御心(おんこころ)を傷(いた)ましめ給(たまひ)けり。憂名(うきな)も替らぬ同じ道に、而(しか)も別(わかれ)て赴(おもむ)き給(たまふ)、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。初(はじめ)の程こそ別々(べちべち)にて御下(おんくだり)有(あり)けるが、十一日の暮程(くれほど)には、一宮(いちのみや)も妙法院(めいほふゐん)も諸共(もろとも)に兵庫(ひやうご)に着(つか)せ給(たまひ)たりければ、一宮(いちのみや)は是(これ)より御舟(おんふね)にめして、土佐(とさ)の畑(はた)へ可有御下由聞へければ、御文(おんふみ)を参(まゐら)せ玉(たまひ)けるに、今までは同じ宿(やど)りを尋(たづね)来て跡(あと)無(な)き波と聞(きく)ぞ悲(かなし)き一宮(いちのみや)御返事(おんへんじ)、明日(あす)よりは迹(あと)無(な)き波に迷共(まよふとも)通(かよ)ふ心よしるべ共(とも)なれ配所(はいしよ)は共に四国(しこく)と聞(きこ)ゆれば、せめては同(おなじ)国にてもあれかし。事問(こととふ)風の便(たより)にも、憂(うき)を慰(なぐさ)む一節(ひとふし)とも念じ思召(おぼしめし)けるも叶はで、一宮(いちのみや)はたゆたふ波に漕(こが)れ行(ゆく)、身を浮(うき)舟に任(まか)せつゝ、土佐(とさ)の畑(はた)へ赴かせ給へば、有井(ありゐ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)が館(たち)の傍(かたはら)に、一室(いつしつ)を構(かまへ)て置(おき)奉る。彼畑(かのはた)と申(まうす)は、南は山の傍(そば)にて高く、北は海辺(かいへん)にて下(さが)れり、松の下露(したつゆ)扉(とぼそ)に懸(かか)りて、いとゞ御袖(おんそで)の泪(なみだ)を添(そへ)、磯(いそ)打(うつ)波の音御枕(おんまくら)の下(した)に聞へて、是(これ)のみ通ふ故郷(ふるさと)の、夢路(ゆめぢ)も遠く成(なり)にけり。妙法院(めうほふゐん)は是(これ)より引別(ひきわか)れて、備前(びぜんの)国(くに)迄は陸地(くがぢ)を経て、児嶋(こじま)の吹上(ふきあげ)より船に召(めし)て、讚岐(さぬき)の詫間(たくま)に着(つか)せ給ふ。是(これ)も海辺(かいへん)近き処なれば、毒霧(どくむ)御身(おんみ)を侵(をか)して瘴海(しやうかい)の気冷(すさま)じく、漁歌牧笛(ぎよかぼくてき)の夕べの声、嶺雲海月(れいうんかいげつ)の秋の色、総(すべ)て触耳遮眼事の、哀(あはれ)を催(もよほ)し、御涙(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)とならずと云(いふ)事(こと)なし。先皇(せんくわう)をば任承久例に、隠岐(おきの)国(くに)へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉(ないがしろにしたてまつ)る事(こと)、関東(くわんとう)もさすが恐(おそれ)有(あり)とや思(おもひ)けん、此為(このため)に後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子(みこ)を御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉りて、先帝(せんてい)御遷幸(ごせんかう)の宣旨(せんじ)を可被成とぞ計(はから)ひ申(まうし)ける。於天下事に、今は重祚(ちようそ)の御望(おんのぞみ)可有にも非ざれば、遷幸以前(いぜん)に先帝(せんたい)をば法皇(ほふわう)に可奉成とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)を武家より調進(てうしん)したりけれ共(ども)、御法体(ごほつたい)の御事(おんこと)は、暫く有(ある)まじき由を被仰て、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)をも脱(ぬが)せ給はず。毎朝(まいてう)の御行水(おんぎやうずゐ)をめされ、仮(かり)の皇居(くわうきよ)を浄(きよ)めて、石灰(せきくわい)の壇(だん)に準(なぞら)へて、太神宮(たいじんぐう)の御拝(ごはい)有(あり)ければ、天に二(ふたつ)の日(ひ)無(なけ)れども、国に二(ふたり)の王(わう)御座(おはします)心地(ここち)して、武家も持(もち)あつかひてぞ覚へける。是(これ)も叡慮に憑思食(たのみおぼしめす)事(こと)有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)。
○俊明極(しゆんみんき)参内(さんだいの)事(こと) S0404
去元享(さんぬるげんかう)元年の春(はる)の比(ころ)、元朝(げんてう)より俊明極(しゆんみんき)とて、得智(とくち)の禅師(ぜんじ)来朝(らいてう)せり。天子(てんし)直(ぢき)に異朝(いてう)の僧に御相看(ごしやうかん)の事は、前々(さきざき)更(さら)に無(なか)りしか共(ども)、此君(このきみ)禅(ぜん)の宗旨(しゆうし)に傾(かたぶ)かせ給(たまひ)て、諸方(しよはう)参得(さんとく)の御志(おんこころざし)をはせしかば、御法談(ごほふだん)の為に此(この)禅師を禁中(きんちゆう)へぞ被召ける。事の儀式余(あまり)に微々(びび)ならんは、吾朝(わがてう)の可恥とて、三公公卿(くぎやう)も出仕(しゆつし)の妝(よそほ)ひを刷(つくろ)ひ、蘭台金馬(らんだいきんめ)も守禦(しゆぎよ)の備(そなへ)を厳(きびし)くせり。夜半(やはん)に蝋燭(ろつそく)を伝(たて)て禅師被参内。主上紫宸殿(ししんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、玉坐(ぎよくざ)に席を薦(すす)め給ふ。禅師三拝礼(さんはいらい)訖(をはつ)て、香(かう)を拈(ねん)じて万歳(ばんぜい)を祝(しゆく)す。時に勅問(ちよくもん)有(あつ)て曰(いはく)、「桟山航海得々(とくとくとして)来(きたる)。和尚(をしやう)以何度生(どしやう)せん。」禅師答(こたへて)云(いはく)、「以仏法緊要処度生(どしやうせ)ん。」重(かさね)て、曰(いはく)、「正当(しやうたう)恁麼時(いんものとき)奈何(いかん)。」答(こたへて)曰(いはく)、「天上(てんじやう)に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談(ごほふだん)畢(をはつ)て、禅師拝揖(はいいふ)して被退出。翌日(よくじつ)別当実世卿(さねよのきやう)を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此(この)君雖有亢竜悔、二度(ふたたび)帝位(ていゐ)を践(ふま)せ給(たまふ)べき御相(ごさう)有(あり)。」とぞ被申ける。今君為武臣囚(とらはれ)て亢竜(かうりよう)の悔(くい)に合(あは)せ給ひけれ共(ども)、彼(かの)禅師の相(さう)し申(まうし)たりし事なれば、二度(ふたたび)九五(きうご)の帝位を践(ふま)せ給はん事(こと)、無疑思食(おぼしめす)に依(よつ)て、法体(ほつたい)の御事(おんこと)は暫く有(ある)まじき由を、強(しひ)て被仰出けり。
○中宮(ちゆうぐう)御歎(おんなげきの)事(こと) S0405
三月七日、已(すで)に先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜(よ)に紛れて、六波羅(ろくはら)の御所(ごしよ)へ行啓(ぎやうけい)成(なら)せ給(たまひ)、中門(ちゆうもん)に御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)たれば、主上出御(しゆつぎよ)有(あり)て、御車(おんくるま)の簾(すだれ)を被掲(かかげらる)。君は中宮を都に止置(とめおき)奉りて、旅泊(りよはく)の波長汀(ちやうてい)の月に彷徨(さすらひ)給はんずる行末(ゆくすゑ)の事を思召(おぼしめ)し連(つら)ね、中宮は又主上を遥々(はるばる)と遠外(ゑんぐわい)に想像(おもひやり)奉りて、何(なに)の憑(たのみ)の有世(あるよ)共(とも)なく、明(あけ)ぬ長夜(ちやうや)の心迷ひの心地(ここち)し、長襟(ながきものおもひ)にならんと、共に語り尽(つく)させ給はゞ、秋の夜(よ)の千夜(ちよ)を一夜(ひとよ)に準(なぞらふ)共(とも)、猶詞(ことば)残(のこり)て明(あけ)ぬべければ、御心(おんこころ)の中(うち)の憂(う)き程は其言(そのこと)の葉(は)も及ばねば、中々(なかなか)云出(いひいだ)させ給ふ一節(ひとふし)もなし。只御泪(おんなみだ)にのみかきくれて、強顔(つれなく)見へし晨明(ありあけ)も、傾(かたぶ)く迄に成(なり)にけり。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしければ、中宮御車(おんくるま)を廻(めぐ)らして還御(くわんぎよ)成(なり)けるが、御泪(おんなみだ)の中(うち)に、此上(このうへ)の思(おもひ)はあらじつれなさの命(いのち)よさればいつを限りぞと許(ばかり)聞へて、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ながら、帰車(かへるくるま)の別路(わかれぢ)に、廻(めぐ)り逢世(あふよ)の憑(たのみ)なき、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲しけれ。
○先帝(せんてい)遷幸(せんかうの)事(こと) S0406
明(あく)れば三月七日、千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)、小山(をやまの)五郎左衛門、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはうぐわん)入道々誉(だうよ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、路次(ろし)を警固仕(けいごつかまつり)て先帝(せんてい)を隠岐(おきの)国(くに)へ遷(うつ)し奉る。供奉(ぐぶ)の人とては、一条頭大夫(とうだいぶ)行房(ゆきふさ)、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、御仮借(おんかいしやく)は三位殿(さんみどの)御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。其外(そのほか)は皆甲冑(かつちう)を鎧(よろひ)て、弓箭(きゆうせん)帯(たい)せる武士共(ぶしども)、前後左右(ぜんごさいう)に打囲(うちかこみ)奉りて、七条を西へ、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(しも)へ御車(おんくるま)を輾(きし)れば、京中(きやうぢゆう)貴賎男女(きせんなんによ)小路(こうぢ)に立双(たちならび)て、「正(まさ)しき一天(いつてん)の主(あるじ)を、下(しも)として流し奉る事の浅猿(あさまし)さよ。武家の運命(うんめい)今に尽(つき)なん。」と所憚なく云(いふ)声巷(ちまた)に満(みち)て、只赤子(あかご)の母を慕如(したふがごと)く泣悲(なきかなし)みければ、聞(きく)に哀(あはれ)を催(もよほ)して、警固の武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、皆鎧(よろひ)の袖をぞぬらしける。桜井(さくらゐ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)ける時、八幡(やはた)を伏拝(ふしをがみ)御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)させて、二度(ふたたび)帝都(ていと)還幸(くわんかう)の事をぞ御祈念(ごきねん)有(あり)ける。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申(まうす)は、応神天皇(てんわう)の応化(おうげ)百王鎮護(ちんご)の御誓(おんちか)ひ新(あらた)なれば、天子行在(あんざい)の外(ほか)までも、定(さだめ)て擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)をぞ廻(めぐら)さる覧(らん)と、憑敷(たのもしく)こそ思召(おぼしめし)けれ。湊川(みなとがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)時、福原(ふくはら)の京(きやう)を被御覧ても、平相国清盛(へいしやうこくきよもり)が四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎつ)て、平安城(へいあんじやう)を此卑湿(このひしつ)の地に遷(うつ)したりしかば、無幾程亡(ほろび)しも、偏(ひとへ)に上(かみ)を犯さんとせし侈(おごり)の末(すゑ)、果(はた)して天の為に被罰ぞかしと、思食(おぼしめし)慰む端(はし)となりにけり。印南野(いなの)を末に御覧(ごらん)じて、須磨(すま)の浦を過(すぎ)させ給へば、昔源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、朧月夜(おぼろづきよ)に名を立(たて)て此(この)浦に流され、三年(みとせ)の秋を送りしに、波只(ただ)此(ここ)もとに立(たち)し心地(ここち)して、涙落(おつる)共(とも)覚(おぼえ)ぬに、枕は浮許(うくばかり)に成(なり)にけりと、旅寝(たびね)の秋を悲(かなし)みしも、理(ことわり)なりと被思召。明石(あかし)の浦の朝霧に遠く成行(なりゆく)淡路嶋(あはぢしま)、寄来(よせく)る浪も高砂(たかさご)の、尾上(をのへ)の松に吹(ふく)嵐、迹(あと)に幾重(いくへ)の山川(やまかは)を、杉坂(すぎさか)越(こえ)て美作(みまさか)や、久米(くめ)の佐羅山(さらやま)さら/\に、今は有(ある)べき時ならぬに、雲間(くもま)の山に雪見へて、遥(はるか)に遠き峯あり。御警固(おんけいご)の武士(ぶし)を召(めし)て、山の名を御尋(おんたづね)あるに、「是(これ)は伯耆(はうき)の大山(だいせん)と申(まうす)山にて候。」と申(まうし)ければ、暫く御輿(おんこし)を被止、内証甚深(ないしようじんしん)の法施(ほつせ)を奉らせ給ふ。或時(あるとき)は鶏唱(けいしやうに)抹過茅店月、或時(あるとき)は馬蹄(ばていに)踏破板橋霜、行路(かうろ)に日を窮(きは)めければ、都を御出(おんいで)有(あつ)て、十三日と申(まうす)に、出雲(いづも)の見尾(みを)の湊(みなと)に着(つか)せ給ふ。爰(ここ)にて御船(おんふね)を艤(ふなよそひ)して、渡海(とかい)の順風(じゆんぷう)をぞ待(また)れける。
○備後(びんご)三郎高徳(たかのりが)事(こと)付呉越(ごゑつ)軍(いくさの)事(こと) S0407
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くに)に、児嶋(こじま)備後(びんご)三郎高徳(たかのり)と云(いふ)者あり。主上笠置(かさぎ)に御座有(ござあり)し時、御方(みかた)に参(さん)じて揚義兵しが、事未(いまだ)成(ならざる)先(さき)に、笠置(かさぎ)も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失(うしなう)て黙止(もだし)けるが、主上隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまふ)と聞(きい)て、無弐一族共(いちぞくども)を集めて評定(ひやうぢやう)しけるは、「志士(しじ)仁(じん)人(じんは)無求生以(もつて)害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛(ゑい)の懿公(いこう)が北狄(ほくてき)の為に被殺て有(あり)しを見て、其(その)臣に弘演(こうえん)と云(いひ)し者、是(これ)を見るに不忍、自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、懿公(いこう)が肝を己(おのれ)が胸の中(うち)に収め、先君(せんくん)の恩を死後(しご)に報(はうじ)て失(うせ)たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸(りんかう)の路次(ろし)に参り会(あひ)、君を奪取奉(うばひとりたてまつり)て大軍を起し、縦(たと)ひ尸(かばね)を戦場に曝(さら)す共(とも)、名を子孫に伝へん。」と申(まうし)ければ、心ある一族共(いちぞくども)皆此義(このぎ)に同(どう)ず。「さらば路次の難所(なんじよ)に相待(あひまち)て、其隙(そのひま)を可伺。」とて、備前と播磨(はりま)との境(さかひ)なる、舟坂山(ふなさかやま)の嶺(みね)に隠れ臥(ふし)、今や/\とぞ待(まち)たりける。臨幸余(あま)りに遅(おそ)かりければ、人を走らかして是(これ)を見するに、警固(けいご)の武士(ぶし)、山陽道(せんやうだう)を不経、播磨(はりま)の今宿(いまじゆく)より山陰道(せんいんだう)にかゝり、遷幸(せんかう)を成(なし)奉りける間、高徳(たかのり)が支度(したく)相違してけり。さらば美作(みまさか)の杉坂(すぎさか)こそ究竟(くつきやう)の深山(みやま)なれ。此(ここ)にて待奉(まちたてまつら)んとて、三石(みついし)の山より直違(すぢかひ)に、道もなき山の雲を凌(しの)ぎて杉坂へ着(つい)たりければ、主上早(は)や院庄(ゐんのしやう)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと申(まうし)ける間(あひだ)、無力此(これ)より散々(ちりぢり)に成(なり)にけるが、せめても此所存(このしよぞん)を上聞(しやうぶん)に達せばやと思(おもひ)ける間、微服潛行(びふくせんかう)して時分(じぶん)を伺ひけれ共(ども)、可然隙(ひま)も無(なか)りければ、君の御坐(ござ)ある御宿(おんやど)の庭に、大(おほき)なる桜木(さくらぎ)有(あり)けるを押削(おしけづり)て、大文字(おほもじ)に一句の詩(し)をぞ書付(かきつけ)たりける。天莫空勾践(こうせん)。時非無范蠡。御警固(おんけいご)の武士共(ぶしども)、朝(あした)に是(これ)を見付(みつけ)て、「何事(なにこと)を何(いか)なる者が書(かき)たるやらん。」とて、読(よみ)かねて、則(すなはち)上聞(しやうぶん)に達してけり。主上は軈(やが)て詩の心を御覚(さと)り有(あり)て、竜顔(りようがん)殊に御快(おんこころよ)く笑(ゑま)せ給へども、武士共(ぶしども)は敢て其来歴(そのらいれき)を不知、思咎(おもひとがむ)る事も無(なか)りけり。抑(そもそも)此(この)詩の心は、昔異朝(いてう)に呉越(ごゑつ)とてならべる二(ふたつ)の国あり。此両国(このりやうごく)の諸侯(しよこう)皆王道(わうだう)を不行、覇業(はげふ)を務(つとめ)としける間、呉は越を伐(うつ)て取(とら)んとし、越は呉を亡(ほろぼ)して合(あは)せんとす。如此相争(あひあらそふ)事(こと)及累年。呉越互に勝負(しようぶ)を易(か)へしかば、親の敵(てき)となり、子の讎(あだ)と成(なつ)て共に天を戴(いただ)く事を恥(はづ)。周(しう)の季(すゑ)の世に当(あたつ)て、呉国(ごこく)の主(あるじ)をば呉王(ごわう)夫差(ふさ)と云(いひ)、越国(ゑつのくに)の主(あるじ)をば越王(ゑつわう)勾践(こうせん)とぞ申(まうし)ける。或時(あるとき)此(この)越王(ゑつわう)范蠡と云(いふ)大臣を召(めし)て宣(のたま)ひけるは、「呉は是(これ)父祖(ふそ)の敵(てき)也(なり)。我(われ)是(これ)を不討、徒(いたづら)に送年事(こと)、嘲(あざけり)を天下の人に取(とる)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては父祖(ふそ)の尸(かばね)を九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)に羞(はづか)しむる恨(うらみ)あり。然れば我(われ)今(いま)国の兵(つはもの)を召集(めしあつめ)て、自(みづか)ら呉国へ打超(うちこえ)、呉王夫差を亡(ほろぼ)して父祖(ふそ)の恨(うらみ)を散(さん)ぜんと思(おもふ)也(なり)。汝(なんぢ)は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌(いさ)め申(まうし)けるは、「臣窃(ひそか)に事の子細(しさい)を計(はか)るに、今越の力を以て呉を亡(ほろぼ)さん事は頗(すこぶる)以(もつて)可難る。其故(そのゆゑ)は先(まづ)両国の兵(つはもの)を数(かぞ)ふるに呉は二十万騎(にじふまんぎ)越は纔(わづか)に十万騎(じふまんぎ)也(なり)。誠(まこと)に以小を、大(だい)に不敵、是(これ)呉を難亡其一(そのひとつ)也(なり)。次には以時計(はか)るに、春夏(はるなつ)は陽(やう)の時にて忠賞(ちゆうしやう)を行ひ秋冬(あきふゆ)は陰(いん)の時にて刑罰を専(もつぱら)にす。時(とき)今(いま)春(はる)の始(はじめ)也(なり)。是(これ)征伐(せいばつ)を可致時に非(あら)ず。是(これ)呉を難滅其二(そのふたつ)也(なり)。次に賢人(けんじんの)所帰則(すなはち)其(その)国(くに)強(つよし)、臣聞(きく)呉王夫差の臣下(しんか)に伍子胥(ごししよ)と云(いふ)者あり。智(ち)深(ふかう)して人をなつけ、慮(おもんばかり)遠くして主(しゆ)を諌(いさ)む。渠儂(かれ)呉国に有(あら)ん程は呉を亡(ほろぼ)す事可難。是(これ)其三(そのみつ)也(なり)。麒麟(きりん)は角(つの)に肉有(あつ)て猛(たけ)き形(かたち)を不顕、潛竜(せんりよう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちやうらうふく)の天を待(まつ)。君(きみ)呉越(ごゑつ)を合(あはせ)られ、中国(ちゆうごく)に臨(のぞん)で南面にして孤称(こしよう)せんとならば、且(しばら)く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申(まうし)ければ、其(その)時越王(ゑつわう)大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「礼記(らいき)に、父の讎(あた)には共に不戴天いへり、我已(すで)に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞(はづかし)むる所(ところ)に非(あらず)や。是(これ)を以(もつて)兵(つはもの)を集(あつむ)る処に、汝三(みつ)の不可(ふか)を挙(あげ)て我を留(とどむ)る事(こと)、其義(そのぎ)一も道に不協。先(まづ)兵(つはもの)の多少(たせう)を数(かぞ)へて可致戦ば、越は誠(まこと)に呉に難対。而(しか)れ共(ども)軍(いくさ)の勝負(しようぶ)必(かならず)しも不依勢多少、只(ただ)依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易(かは)れり。是(これ)汝(なんぢ)が皆知処(しるところ)也(なり)。今更(さら)に何(なん)ぞ越の小勢(こぜい)を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略(ぶりやく)の不足処の其一(そのひとつ)也(なり)。次(つぎ)に以時軍(いくさ)の勝負を計(はか)らば天下の人皆時(とき)を知れり。誰か軍(いくさ)に不勝。若(もし)春夏は陽(やう)の時にて罰(ばつ)を不行と云はゞ、殷(いん)の湯王(たうわう)の桀(けつ)を討(うち)しも春也(なり)。周(しう)の武王の紂(ちう)を討(うち)しも春也(なり)。されば、「天の時は不如地利に、地(ちの)利は〔不〕如人和に」といへり。而(しか)るに汝今可行征罰時に非(あら)ずと我を諌(いさ)むる、是(これ)汝が知慮(ちりよ)の浅き処の二(ふたつ)也(なり)。次に呉国に伍子胥(ごししよ)が有(あら)ん程は、呉を亡(ほろぼ)す事不可叶と云はゞ、我(われ)遂に父祖の敵(てき)を討(うつ)て恨(うらみ)を泉下(せんか)に報ぜん事有(ある)べからず。只徒(いたづら)に伍子胥(ごししよ)が死せん事を待たば死生(しせい)有命又は老少(らうせう)前後(ぜんご)す。伍子胥(ごししよ)と我と何(いづ)れをか先(さき)としる。此理(このり)を不弁我(われ)征罰を可止や。此(これ)汝が愚(ぐ)の三(みつ)也(なり)。抑(そもそも)我(われ)多日(たじつ)に及(およん)で兵(つはもの)を召(めす)事(こと)呉国(ごこく)へも定(さだめ)て聞へぬらん。事遅怠(ちたい)して却(かへつ)て呉王に被寄なば悔(くゆ)とも不可有益。「先則(さきんずるときは)制人後則(おくるるときは)被人制」といへり。事已(すで)に決(けつ)せり且(しばらく)も不可止。」とて、越王(ゑつわう)十一年二月上旬に、勾践(こうせん)自(みづか)ら十万余騎(よき)の兵(つはもの)を率(そつ)して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差(ふさ)是(これ)を聞(きい)て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎(にじふまんぎの)勢を率(そつ)して、呉と越との境(さかひ)夫枡県(ふせうけん)と云(いふ)所に馳向(はせむか)ひ、後(うしろ)に会稽山(くわいけいざん)を当(あ)て、前に大河(たいが)を隔(へだて)て陣を取る。態(わざ)と敵を計(はから)ん為に三万余騎(よき)を出(いだ)して、十七万騎(じふしちまんぎ)をば陣の後(うしろ)の山陰(やまかげ)に深く隠(かく)してぞ置(おい)たりける。去程(さるほど)に越王(ゑつわう)夫枡県(ふせうけん)に打臨(うちのぞん)で、呉の兵(つはもの)を見給へば、其(その)勢僅(はつか)に二三万騎(にさんまんぎ)には過(すぎ)じと覚へて所々(しよしよ)に磬(ひか)へたり。越王(ゑつわう)是(これ)を見て、思(おもふ)に不似小勢なりけりと蔑(あなどつ)て、十万騎(じふまんぎ)の兵同時(どうじ)に馬を河水(かすゐ)に打入(うちいれ)させ、馬筏(むまいかだ)を組(くん)で打渡(うちわた)す。比(ころ)は二月上旬の事なれば、余寒(よかん)猶(なほ)烈(はげし)くして、河水(かすゐ)氷(こほり)に連(つらな)れり。兵(つはもの)手(て)凍(こごつ)て弓を控(ひく)に不叶。馬は雪に泥(なづん)で懸引(かけひき)も不自在。され共(ども)越王(ゑつわう)責鼓(せめつづみ)を打(うつ)て進まれける間、越の兵我先(われさき)にと双轡懸入(かけい)る。呉国の兵は兼(かね)てより敵(てき)を難所(なんじよ)にをびき入(いれ)て、取篭(とりこめ)て討(うた)んと議(ぎ)したる事なれば、態(わざ)と一軍(ひといくさ)もせで夫椒県(ふせうけん)の陣を引退(ひきしりぞい)て会稽山(くわいけいざん)へ引篭(ひきこも)る。越の兵勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)事(こと)三十(さんじふ)余里(より)、四隊(したい)の陣(ぢん)を一陣に合(あは)せて、左右(さいう)を不顧、馬の息も切るゝ程、思々(おもひおもひ)にぞ追(おう)たりける。日已(すで)に暮(くれ)なんとする時に、呉(の)兵二十万騎(にじふまんぎ)思ふ図(づ)に敵を難所(なんじよ)へをびき入(いれ)て、四方(しはう)の山より打出(うちいで)て、越王(ゑつわう)勾践(こうせん)を中(なか)に取篭(とりこめ)、一人も不漏と責(せめ)戦ふ。越の兵は今朝(こんてう)の軍(いくさ)に遠懸(とほがけ)をして人馬(じんば)共に疲れたる上(うへ)無勢(ぶせい)なりければ、呉の大勢(おほぜい)に被囲、一所(いつしよ)に打寄(うちより)て磬(ひか)へたり。進(すすん)で前(さき)なる敵(てき)に蒐(かか)らんとすれば、敵は嶮岨(けんそ)に支(ささ)へて、鏃(やじり)を調(そろ)へて待懸(まちかけ)たり。引返(ひつかへし)て後(うしろ)なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越(ゑつの)兵(つはもの)疲(つか)れたり。進退(しんだい)此(ここ)に谷(きはまつ)て敗亡(はいばう)已(すで)に極(きはま)れり。され共(ども)越王(ゑつわう)勾践(こうせん)は破堅摧利事(こと)、項王(かうわう)が勢(いきほひ)を呑(のみ)、樊■勇(はんくわいがゆう)にも過(すぎ)たりければ、大勢の中へ懸入(かけいり)、十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶり)、巴(は)の字に追廻(おひめぐ)らす。一所(いつしよ)に合(あう)て三処に別れ、四方(しはう)を払(はらう)て八面(はちめん)に当(あた)る。頃刻(きやうこく)に変化して雖百度戦、越王(ゑつわう)遂に打負(うちまけ)て、七万余騎(よき)討(うた)れにけり。勾践(こうせん)こらへ兼(かね)て会稽山(くわいけいざん)に打上(うちあが)り、越の兵を数(かぞふ)るに打残されたる兵僅(わづか)に三万余騎(よき)也(なり)。其(それ)も半(なか)ば手を負(おう)て悉(ことごとく)箭(や)尽(つき)て鋒(ほこさき)折(をれ)たり。勝負(しようぶ)を呉越に伺(うかがう)て、未だ何方(いづかた)へも不着つる隣国(りんごく)の諸侯(しよこう)、多く呉王の方に馳加(はせくは)はりければ、呉の兵弥(いよいよ)重(かさなつ)て三十万騎(さんじふまんぎ)、会稽山(くわいけいざん)の四面(しめん)を囲(かこむ)事(こと)如稲麻竹葦也(なり)。越王(ゑつわう)帷幕(ゐばく)の内に入り、兵を集めて宣(のたま)ひけるは、「我(われ)運命已(すで)に尽(つき)て今此囲(このかこみ)に逢へり。是(これ)全く非戦咎、天亡我。然れば我(われ)明日(みやうにち)士(し)と共に敵の囲(かこみ)を出(いで)て呉王の陣に懸入(かけい)り、尸(かばね)を軍門に曝(さら)し、恨(うらみ)を再生(さいしやう)に可報。」とて越の重器(ちようき)を積(つん)で、悉(ことごとく)焼捨(やきすて)んとし給ふ。又王■与(わうせきよ)とて、今年(こんねん)八歳(はつさい)に成(なり)給ふ最愛(さいあい)の太子(たいし)、越王(ゑつわう)に随(したがつ)て、同(おなじ)く此(この)陣に座(おはし)けるを呼出(よびいだ)し奉(たてまつつ)て、「汝未(いまだ)幼稚なれば、吾(わが)死(し)に殿(おく)れて、敵に捕(とら)れ、憂目(うきめ)を見ん事も可心憂。若(もし)又我(われ)為敵虜(とらは)れて、我(われ)汝(なんぢ)より先立(さきたた)ば、生前(しやうぜん)の思(おもひ)難忍。不如汝を先立(さきたて)て心安く思切(おもひき)り、明日の軍(いくさ)に討死(うちじに)して、九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)、三途(さんづ)の露の底迄(そこまで)も、父子(ふし)の恩愛(おんあい)を不捨と思ふ也(なり)。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧(すす)め給ふ時に、越王(ゑつわう)の左将軍(さしやうぐん)に、大夫(たいふ)種(しよう)と云(いふ)臣あり。越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「生(しやう)を全(まつた)くして命(いのち)を待(まつ)事(こと)は遠くして難(かた)く、死を軽(かろ)くして節(せつ)に随ふ事は近くして安(やす)し。君暫く越の重器を焼捨(やきすて)、太子を殺す事を止(や)め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王(くんわう)の死を救(すく)ひ、本国(ほんごく)に帰(かへつ)て再び大軍を起(おこ)し、此(この)恥を濯(すすが)んと思ふ。今此(この)山を囲(かこ)んで一陣を張(はら)しむる呉の上(じよう)将軍太宰(たいさい)■(ひ)は臣が古(いにしへ)の朋友也(なり)。久(ひさし)く相馴(あひなれ)て彼(かれ)が心を察せしに、是(これ)誠(まこと)に血気の勇者なりと云へ共(ども)、飽(あく)まで其(その)心に欲有(あつ)て、後(のち)の禍(わざはひ)を不顧。又彼(かの)呉王夫差の行迹(かうせき)を語るを聞(きき)しかば、智浅(あさう)して謀(はかりごと)短く、色に婬(いん)して道に暗し。君臣(くんしん)共に何(いづ)れも欺くに安(やす)き所(ところ)也(なり)。抑(そもそも)今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡(はんれい)が諌めを用ひ不給故(ゆゑ)に非(あら)ずや。願(ねがはく)は君王(くんわう)臣が尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を被許、敗軍(はいぐん)数万(すまん)の死を救ひ給へ。」と諌申(いさめまうし)ければ、越王(ゑつわう)理(り)に折(をれ)て、「「敗軍の将(しやう)は再び不謀」と云へり。自今後(のち)の事は然(しかしながら)大夫(たいふ)種(しよう)に可任。」と宣(のたまひ)て、重器を被焼事を止(やめ)、太子の自害(じがい)をも被止けり。大夫(たいふ)種(しよう)則(すなはち)君の命(めい)を請(うけ)て、冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ旗を巻(まい)て、会稽山(くわいけいざん)より馳下(はせくだ)り、「越王(ゑつわう)勢(いきほ)ひ尽(つき)て、呉の軍門(ぐんもん)に降(くだ)る。」と呼(よばは)りければ、呉の兵三十万騎(さんじふまんぎ)、勝時(かちどき)を作(つくつ)て皆万歳(ばんぜい)を唱(とな)ふ。大夫(たいふ)種(しよう)は則(すなはち)呉の轅門(ゑんもん)に入(いつ)て、「君王の倍臣(ばいしん)、越(ゑつの)勾践(こうせん)の従者(じゆうしや)、小臣種(しよう)慎(つつしん)で呉の上(じやう)将軍の下執事(かしつじ)に属(しよく)す。」と云(いつ)て、膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、太宰(たいさい)■(ひ)が前(まへ)に平伏(へいふく)す。太宰(たいさい)■(ひ)床(ゆか)の上に坐(ざ)し、帷幕(ゐばく)を揚(あげ)させて大夫(たいふ)種(しよう)に謁す。大夫(たいふ)種(しよう)敢(あへ)て平視せず。低面流涙申(まうし)けるは、「寡君(くわくん)勾践(こうせん)運極(きは)まり、勢(いきほひ)尽(つき)て呉の兵に囲(かこま)れぬ。仍(よつて)今(いま)小臣種(しよう)をして、越王(ゑつわう)長く呉王の臣と成(なり)、一畝(いつぽ)の民と成(なら)ん事を請(こは)しむ。願(ねがはく)は先日(せんじつ)の罪を被赦今日(こんにち)の死を助け給へ。将軍若(もし)勾践(こうせん)の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其(その)重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいさう)の妾(せふ)たらしめ、一日(いちにち)の歓娯(くわんご)に可備。若(もし)夫(それ)請(こふ)、所望不叶遂に勾践(こうせん)を罪(つみ)せんとならば、越の重器を焼棄(やきすてて)、士卒(しそつ)の心を一(ひとつ)にして、呉王の堅陣(けんぢん)に懸入(かけいり)、軍門に尸(かばね)を可止。臣平生(へいぜい)将軍と交(まじはり)を結ぶ事膠漆(かうしつ)よりも堅し。生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)只此(この)事(こと)にあり。将軍早く此(この)事(こと)を呉王に奏(そう)して、臣が胸中(きようちゆう)の安否(あんぴ)を存命(ぞんめい)の裏(うち)に知(しら)しめ給へ。」と一度(ひとたび)は忿(いか)り一度(ひとたび)は歎き、言(ことば)を尽(つく)して申(まうし)ければ、太宰(たいさい)■(ひ)顔色(がんしよく)誠(まこと)に解(とけ)て、「事以(もつて)不難、我必(かならず)越王(ゑつわう)の罪をば可申宥。」とて軈(やが)て呉王の陣へぞ参りける。太宰(たいさい)■(ひ)即(すなはち)呉王の玉座(ぎよくざ)に近付(ちかづ)き、事の子細(しさい)を奏(そう)しければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て、「抑(そもそも)呉と越と国を争ひ、兵を挙(あぐ)る事今日(こんにち)のみに非(あら)ず。然るに勾践(こうせん)運窮(きはまつ)て呉の擒(とりこ)となれり。是(これ)天の予(われ)に与へたるに非(あらず)や。汝(なんぢ)是(これ)を乍知勾践(こうせん)が命(いのち)を助けんと請ふ。敢(あへ)て非忠烈之臣。」宣(のたま)ひければ、太宰(たいさい)■(ひ)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣雖不肖、苛(いやしく)も将軍の号(がう)を被許、越の兵と戦(たたかひ)を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝(かつ)事(こと)を快(こころよ)くせり。是(これ)偏(ひとへ)に臣が丹心(たんしん)の功と云(いひ)つべし。為君王の、天下の太平を謀(はか)らんに、豈(あに)一日も尽忠不傾心や。倩(つらつら)計事是非、越王(ゑつわう)戦に負(まけ)て勢(いきほひ)尽(つき)ぬといへ共(ども)、残処(のこるところ)の兵(つはもの)猶(なほ)三万余騎(よき)、皆逞兵鉄騎(ていへいてつき)の勇士也(なり)。呉の兵雖多昨日の軍(いくさ)に功有(あつ)て、自今後(のち)は身を全(まつたう)して賞を貪(むさぼら)ん事を思ふべし。越の兵は小勢(こぜい)なりといへ共(ども)志(こころざし)を一(ひとつ)にして、而(しか)も遁(のが)れぬ所を知れり。「窮鼠(きゆうそ)却(かへつて)噛猫、闘雀(とうじやく)不恐人」といへり。呉越重(かさね)て戦(たたか)はゞ、呉は必(かならず)危(あやふき)に可近る。不如先(まづ)越王(ゑつわう)の命を助け、一畝(いつぽ)の地(ち)を与(あたへ)て呉の下臣(かしん)と成さんには。然(しか)らば君王呉越(ごゑつ)両国(りやうこく)を合(あは)するのみに非(あら)ず。斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・趙(てう)も悉く不朝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。是(これ)根を深くし蔕(ほぞ)を固(かたう)する道也(なり)。」と、理を尽(つくし)て申(まうし)ければ、呉王即(すなはち)欲(よく)に耽(ふけ)る心を逞(たくましう)して、「さらば早(はや)会稽山(くわいけいざん)の囲(かこみ)を解(とい)て勾践(こうせん)を可助。」宣ひける。太宰(たいさい)■(ひ)帰(かへつ)て大夫(たいふ)種(しゆう)に此由(このよし)を語(かた)りければ、大夫(たいふ)種(しよう)大(おほき)に悦(よろこう)で、会稽山(くわいけいざん)に馳(はせ)帰り、越王(ゑつわう)に此旨(このむね)を申せば、士卒皆(みな)色(いろ)を直(なほ)して、「出万死逢一生(いつしやう)、偏(ひとへ)に大夫(たいふ)種(しよう)が智謀(ちぼう)に懸(かか)れり。」と、喜ばぬ人も無(なか)りけり。越王(ゑつわう)已(すで)に降旗(かうき)を被建ければ、会稽(くわいけい)の囲(かこみ)を解(とい)て、呉の兵(つはもの)は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践(こうせん)即(すなはち)太子王■与(わうせきよ)をば、大夫(たいふ)種(しよう)に付(つけ)て本国へ帰し遣(つかは)し、我(わが)身は白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て越の璽綬(じじう)を頚に懸(かけ)、自(みづか)ら呉の下臣(かしん)と称して呉の軍門に降(くだ)り給ふ。斯(かか)りけれ共(ども)、呉王猶(なほ)心ゆるしや無(なか)りけん、「君子(くんし)は不近刑人」とて、勾践(こうせん)に面(おもて)を不見給、剰(あまつさへ)勾践(こうせん)を典獄(てんごく)の官(くわん)に被下、日に行事一駅(えき)駆(く)して、呉の姑蘇城(こそじやう)へ入(いり)給ふ。其(その)有様を見る人、涙の懸(かか)らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着(つき)給へば、即(すなはち)手械(てかせ)足械(あしかせ)を入(いれ)て、土(つち)の楼(ろう)にぞ入(いれ)奉りける。夜(よ)明(あけ)日(ひ)暮(くる)れ共(ども)、月日(つきひ)の光をも見給はねば、一生(いつしやう)溟暗(めいあん)の中(うち)に向(むかつ)て、歳月(としつき)の遷易(うつりかはる)をも知(しり)給はねば、泪(なみだ)の浮ぶ床(とこ)の上(うへ)、さこそは露も深かりけめ。去(さる)程に范蠡(はんれい)越の国に在(あつ)て此(この)事(こと)を聞(きく)に、恨(うらみ)骨髄(こつずゐ)に徹(とほつ)て難忍。哀(あはれ)何(いか)なる事をもして越王(ゑつわう)の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共(もろとも)に謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして、会稽山(くわいけいざん)の恥を雪(きよ)めんと、肺肝(はいかん)を砕(くだい)て思(おもひ)ければ、疲身替形、簀(あじか)に魚(うを)を入(いれ)て自ら是(これ)を荷(にな)ひ、魚(うを)を売(うる)商人(あきんど)の真似(まね)をして、呉国へぞ行(ゆき)たりける。姑蘇城の辺(ほとり)にやすらひて、勾践(こうせん)のをはする処を問(とひ)ければ、或人(あるひと)委(くはし)く教へ知(しら)せけり。范蠡嬉しく思(おもひ)て、彼獄(かのごく)の辺(ほとり)に行(ゆき)たりけれ共(ども)、禁門(きんもん)警固(けいご)隙(ひま)無(なか)りければ、一行(いちがう)の書(しよ)を魚(うを)の腹の中に収(をさめ)て、獄(ごく)の中へぞ擲入(なげいれ)ける。勾践(こうせん)奇(あやし)く覚(おぼ)して、魚の腹を開(ひらい)て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書(かき)たりける。筆の勢(いきほひ)文章の体(てい)、まがふべくもなき范蠡(はんれい)が業(しわ)ざ也(なり)。と見給ひければ、彼(か)れ未だ憂世(うきよ)に存(ながら)へて、為我肺肝(はいかん)を尽(つく)しけりと、其(その)志の程哀(あはれ)にも又憑(たの)もしくも覚へけるにこそ、一日片時(へんし)も生(い)けるを憂(う)しとかこたれし我(わが)身ながらの命(いのち)も、却(かへつ)て惜(をし)くは思はれけれ。斯(かか)りける処に、呉王夫差(ふさ)俄に石淋(せきりん)と云(いふ)病(やまひ)を受(うけ)て、身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に悩乱(なうらん)し、巫覡(ぶげき)祈れ共(ども)無験、医師(いし)治(ぢ)すれ共(ども)不痊、露命(ろめい)已(すで)に危(あやふ)く見(み)へ給(たまひ)ける処に、侘国(たこく)より名医(めいい)来(きたつ)て申(まうし)けるは、「御病(おんやまひ)実(まこと)に雖重医師の術(じゆつ)及(およぶ)まじきに非(あら)ず。石淋(せきりん)の味(あぢはひ)を甞(なめ)て、五味(ごみ)の様(やう)を知(しら)する人あらば、輒(たやす)く可奉療治。」とぞ申(まうし)ける。「さらば誰か此(この)石淋を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)をしらすべき」と問(とふ)に、左右(さいう)の近臣(きんしん)相顧(あひかへりみ)て、是(これ)を甞(なむ)る人更(さら)になし。勾践(こうせん)是(これ)を伝聞(つたへきい)て泪(なみだ)を押へて宣(のたまは)く、「我(われ)会稽(くわいけい)の囲(かこみ)に逢(あひ)し時已(すで)に被罰べかりしを、今に命(いのち)助置(たすけおか)れて天下の赦(ゆるし)を待(まつ)事(こと)、偏(ひとへ)に君王(くんわう)慈慧(じけい)の厚恩(こうおん)也(なり)。我(われ)今是(これ)を以て不報其恩何(いつ)の日をか期(ご)せん。」とて潛(ひそか)に石淋を取(とり)て是(これ)を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)を医師に被知。医師味(あぢはひ)を聞(きい)て加療治、呉王の病(やまひ)忽(たちまち)に平癒(へいゆつ)してげり。呉王大(おほき)に悦(よろこう)で、「人有心助我死、我(われ)何(なん)ぞ是(これ)を謝(しや)する心無(なか)らんや。」とて、越王(ゑつわう)を自楼出(いだ)し奉るのみに非(あら)ず。剰(あまつさへ)越の国を返し与へて、「本国へ返(かへ)り去(さる)べし。」とぞ被宣下ける。爰(ここ)に呉王の臣伍子胥(ごししよ)と申(まうす)者、呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「「天(てんの)与(あたふるを)不取却(かへつ)て得其咎」云へり。此(この)時越の地を不取勾践(こうせん)を返し被遣事(こと)、千里(せんり)の野辺(のべ)に虎を放つが如し。禍(わざはひ)可在近。」申(まうし)けれ共(ども)呉王是(これ)を不聞給、遂に勾践(こうせん)を本国へぞ被返ける。越王(ゑつわう)已(すで)に車(くるま)の轅(ながえ)を廻(めぐら)して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙(かはづ)其(その)数を不知車(くるまの)前(さき)に飛来(とびきたる)。勾践(こうせん)是(これ)を見給(たまひ)て、是(これ)は勇士を得て素懐(そくわい)を可達瑞相(ずゐさう)也(なり)。とて、車より下(おり)て是(これ)を拝(はい)し給ふ。角(かく)て越の国へ帰(かへつ)て住来(すみこし)故宮(こきゆう)を見給へば、いつしか三年(みとせ)に荒(あれ)はて、梟(ふくろふ)鳴松桂枝狐(きつね)蔵蘭菊叢、無払人閑庭(かんてい)に落葉(らくえふ)満(みち)て簫々(せうせう)たり。越王(ゑつわう)免死帰給(かへりたまひ)ぬと聞へしかば、范蠡(はんれい)王子(わうじ)王■与(わうせきよ)を宮中(きゆうちゆう)へ入(いれ)奉りぬ。越王(ゑつわう)の后(きさき)に西施(せいし)と云(いふ)美人座(おはし)けり。容色(ようしよく)勝世嬋娟(せんげん)無類しかば、越王(ゑつわう)殊に寵愛(ちようあい)甚しくして暫くも側(そば)を放れ給はざりき。越王(ゑつわう)捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給(たまひ)たりしが、越王(ゑつわう)帰(かへり)給ふ由を聞(きき)給ひて則(すなはち)後宮(こうきゆう)に帰り参り玉(たま)ふ。年の三年(みとせ)を待(まち)わびて堪(たへ)ぬ思(おもひ)に沈玉(しづみたまひ)ける歎(なげき)の程も呈(あらは)れて、鬢(びん)疎(おろそ)かに膚(はだへ)消(きえ)たる御形(おんかたち)最(いと)わりなくらうたけて、梨花(りくわ)一枝(いつし)春(はるの)雨(あめ)に綻(ほころ)び、喩(たと)へん方も無(なか)りけり。公卿(こうけい)・大夫(たいふ)・文武百司(ぶんぶはくし)、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)集りける間(あひだ)、軽軒(けいけん)馳紫陌塵冠珮(ぐわんぱい)鎗丹■月、堂上(だうじやう)堂下(だうか)如再開花。斯(かか)りける処に自呉国使者(ししや)来れり。越王(ゑつわう)驚(おどろい)て以范蠡事の子細(しさい)を問(とひ)給ふに、使者答曰(こたへていはく)、「我君(わがきみ)呉王大王(だいわう)好婬重色尋美人玉(たま)ふ事天下に普(あまね)し。而(しか)れ共(ども)未だ如西施不見顔色。越王(ゑつわう)出会稽山(くわいけいざん)囲時有一言約。早く彼(かの)西施を呉の後宮(こうきゆう)へ奉傅入、備后妃位。」使(つかひ)也(なり)。越王(ゑつわう)聞之玉(たまひ)て、「我(われ)呉王夫差が陣に降(くだつ)て、忘恥甞石淋助命事(こと)、全(まつたく)保国身を栄(さか)やかさんとには非(あら)ず、只西施(せいし)に為結偕老契なりき。生前(しやうぜん)に一度(ひとたび)別(わかれ)て死して後(のち)期再会、保万乗国何(なに)かせん。されば縦(たと)ひ呉越の会盟(くわいめい)破れて二度(ふたたび)我(われ)為呉成擒共(とも)、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡(はんれい)流涙申(まうし)けるは、「誠(まこと)に君展転(てんてん)の思(おもひ)を計(はか)るに、臣非不悲云へ共(ども)、若(もし)今西施を惜(をしみ)給はゞ、呉越の軍(いくさ)再び破(やぶれ)て呉王又可発兵。去程(さるほど)ならば、越(ゑつの)国(くに)を呉に被合のみに非(あら)ず、西施をも可奪、社稷(しやしよく)をも可被傾。臣倩(つらつら)計(はか)るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮(こうきゆう)に入(いり)給ふ程ならば、呉王是(これ)に迷(まよひ)て失政事非所疑。国(くに)費(つひ)へ民背(そむか)ん時に及(およん)で、起兵被攻呉勝(かつ)事(こと)を立処(たちどころ)に可得つ。是(これ)子孫万歳(しそんばんぜい)に及(およん)で、夫人(ふじん)連理(れんり)の御契(おんちぎり)可久道となるべし。」と、一度(ひとたび)は泣(なき)一度(ひとたび)は諌(いさめ)て尽理申(まうし)ければ、越王(ゑつわう)折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿(をじか)の角(つの)のつかの間(ま)も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼(いとけ)なき太子王■与(わうせきよ)をも不云知思置(おもひおき)、ならはぬ旅に出(いで)玉へば、別(わかれ)を慕(したふ)泪(なみだ)さへ暫(しば)しが程も止(とどま)らで、袂(たもと)の乾(かわ)く隙(ひま)もなし。越王(ゑつわう)は又是(これ)や限(かぎり)の別(わかれ)なる覧(らん)と堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥沈(ふししづみ)て、其方(そなた)の空を遥々(はるばる)と詠(なが)めやり玉へば、遅々(ちち)たる暮山(ぼざん)の雲いとゞ泪(なみだ)の雨となり、虚(むな)しき床(ゆか)に独(ひとり)ねて、夢にも責(せめ)て逢見(あひみ)ばやと欹枕臥(ふし)玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉(なげきたま)ふもげに理(ことわ)りなり。彼(かの)西施(せいし)と申(まうす)は天下第一(だいいち)の美人也(なり)。妝(よそほひ)成(なつ)て一度(ひとたび)笑(ゑめ)ば百(もも)の媚(こび)君(きみ)が眼(まなこ)を迷(まよは)して、漸(やうやく)池上(ちじやう)に無花歟(か)と疑ふ。艷(えん)閉(とぢ)て僅(わづか)に見れば千態(ちぢのすがた)人の心を蕩(とらか)して忽(たちまち)に雲間(くもま)に失月歟(か)と奇(あや)しまる。されば一度(ひとたび)入宮中君王(くんわう)の傍(かたはら)に侍(はんべり)しより、呉王の御心(おんこころ)浮(うか)れて、夜(よる)は終夜(よもすが)ら婬楽(いんらく)をのみ嗜(たしなん)で、世の政(まつりごと)をも不聞、昼(ひる)は尽日(ひねもすに)遊宴(いうえん)をのみ事として、国の危(あやふき)をも不顧。金殿(きんでん)挿雲、四辺(しへん)三百里が間(あひだ)、山河(さんか)を枕の下に直下(みおろし)ても、西施の宴(えん)せし夢の中(うち)に興(きよう)を催さん為なりき。輦路(れんろ)に無花春(はるの)日は、麝臍(じやせい)を埋(うづみ)て履(くつ)を熏(にほは)し、行宮(あんきゆう)に無月夏の夜(よ)は、蛍火(けいくわ)を集(あつめ)て燭(とぼしび)に易(か)ふ。婬乱重日更(さらに)無止時しかば、上(かみ)荒(すさみ)下(しも)廃(すた)るれ共(ども)、佞臣(ねいしん)は阿(おもねつ)て諌(いさめ)せず。呉王(ごわう)万事酔(ゑひて)如忘。伍子胥(ごししよ)見之呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「君不見殷(いんの)紂王(ちうわう)妲妃(だつき)に迷(まよひ)て世を乱り、周(しう)の幽王(いうわう)褒■(はうじ)を愛して国を傾(かたぶけし)事(こと)を。君今西施(せいし)を婬(いん)し給へる事過之。国の傾敗(けいはい)非遠に。願(ねがはく)は君止之給へ。」と侵言顔諌申(いさめまうし)けれ共(ども)、呉王敢(あへ)て不聞給。或時(あるとき)又呉王西施に為宴、召群臣南殿(なんでん)の花(はな)に酔(ゑひ)を勧(すす)め給(たまひ)ける処に、伍子胥(ごししよ)威儀を正(ただ)しくして参(まゐり)たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階(えうかい)を登るとて、其裾(そのもすそ)を高くかゝげたる事恰(あたかも)如渉水時。其怪(そのあやし)き故を問(とふ)に、伍子胥(ごししよ)答申(こたへてまうし)けるは、「此(この)姑蘇台(こそだい)越王(ゑつわう)の為に被亡、草深く露滋(しげ)き地とならん事非遠。臣若(もし)其(それ)迄命(いのち)あらば、住(すみ)こし昔の迹(あと)とて尋見(たづねみ)ん時、さこそは袖より余(あま)る荊棘(けいぎよく)の露も、■々(じやうじやう)として深からんずらめと、行末(ゆくすゑ)の秋を思ふ故(ゆゑ)に身を習はして裙(もすそ)をば揚(あぐ)る也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。忠臣諌(いさめ)を納(いる)れ共(ども)、呉王曾(かつ)て不用給しかば、余(あまり)に諌(いさめ)かねて、よしや身を殺して危(あやふ)きを助けんとや思(おもひ)けん、伍子胥(ごししよ)又或時(あるとき)、只今新(あらた)に砥(と)より出(いで)たる青蛇(せいじや)の剣(けん)を持(もち)て参りたり。抜(ぬい)て呉王の御前(おんまへ)に拉(とりひしい)で申(まうし)けるは、「臣此剣(このけん)を磨(とぐ)事(こと)、退邪払敵為(ため)也(なり)。倩(つらつら)国の傾(かたぶか)んとする其基(そのもとゐ)を尋(たづ)ぬれば、皆西施より出(いで)たり。是(これ)に過(すぎ)たる敵(てき)不可有。願(ねがはく)は刎西施首、社稷(しやしよく)の危(あやふき)を助けん。」と云(いひ)て、牙(きば)を噛(かみ)て立(たつ)たりければ、忠言(ちゆうげん)逆耳時(とき)君不犯非云(いふ)事(こと)なければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て伍子胥(ごししよ)を誅(ちゆう)せんとす。伍子胥(ごししよ)敢(あへ)て是(これ)を不悲。「争(あらそ)い諌(いさ)めて死節是(これ)臣下(しんか)の則(のり)也(なり)。我(われ)正(まさ)に越の兵(つはもの)の手に死なんよりは、寧(むしろ)君王(くんわう)の手に死(しなん)事(こと)恨(うらみ)の中の悦(よろこび)也(なり)。但(ただ)し君王臣が忠諌(ちゆうかん)を忿(いかつ)て吾(われ)に賜死事(こと)、是(これ)天已(すで)に棄君也(なり)。君越王(ゑつわう)の為に滅(ほろぼさ)れて、刑戮(けいりく)の罪に伏(ふくせ)ん事(こと)、三年(みとせ)を不可過。願(ねがはく)は臣が穿両眼呉の東門(とうもん)に掛(かけ)られて、其後(そののち)首(くび)を刎(はね)給へ。一双(いつさう)の眼(まなこ)未枯前(いまだかれざるさき)に、君勾践(こうせん)に被亡て死刑に赴(おもむ)き給はんを見て、一笑(いつせう)を快(こころよ)くせん。」と申(まうし)ければ、呉王弥(いよいよ)忿(いかつ)て即(すなはち)伍子胥(ごししよ)を被誅、穿其両眼呉の東門(とうもんの)幢(はたほこの)上(うへ)にぞ被掛ける。斯(かか)りし後(のち)は君悪(あく)を積(つめ)ども臣敢(あへ)て不献諌、只群臣(ぐんしん)口(くち)を噤(つぐ)み万人(ばんにん)目を以(もつ)てす。范蠡(はんれい)聞之、「時已(すで)に到りぬ。」と悦(よろこう)で、自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)の兵を率(そつ)して、呉国へぞ押寄(おしよせ)ける。呉王夫差(ふさ)は折節(をりふし)晋国(しんのくに)呉を叛(そむく)と聞(きい)て、晋国へ被向たる隙(ひま)なりければ、防ぐ兵(つはもの)一人(いちにん)もなし。范蠡(はんれい)先(まづ)西施を取返(とりかへ)して越王(ゑつわう)の宮(きゆう)へ帰(かへ)し入(いれ)奉り、姑蘇台(こそだい)を焼掃(やきはら)ふ。斉(せい)・楚(そ)の両国(りやうごく)も越王(ゑつわう)に志(こころざし)を通(つう)ぜしかば、三十万騎(さんじふまんぎ)を出(いだ)して范蠡(はんれい)に戮力。呉王聞之先(まづ)晋国の戦(たたかひ)を閣(さしおい)て、呉国へ引返(ひつかへ)し、越に戦(たたかひ)を挑(いどまん)とすれば、前(まへ)には呉(ご)・越(ゑつ)・斉(せい)・楚(そ)の兵(つはもの)如雲霞の、待懸(まちかけ)たり。後(うしろ)には又晋国の強敵(がうてき)乗勝追懸(おつかけ)たり。呉王大敵に前後(ぜんご)を裹(つつま)れて可遁方(かた)も無(なか)りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手(あらて)を入替(いれかへ)て不継息攻(せめ)ける間、呉の兵三万余人(よにん)討(うた)れて僅(わづか)に百騎に成(なり)にけり。呉王自(みづから)相当(あひあた)る事三十二箇度(さんじふにかど)、夜半(やはん)に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山(こそざん)に取上(とりのぼ)り、越王(ゑつわう)に使者(ししや)を立(たて)て曰(いはく)、「君王(くんわう)昔会稽山(くわいけいざん)に苦(くるしみ)し時臣(しん)夫差(ふさ)是(これ)を助(たすけ)たり。願(ねがはく)は吾(われ)今より後(のち)越の下臣(かしん)と成(なつ)て、君王の玉趾(ぎよくし)を戴(いただか)ん。君若(もし)会稽(くわいけい)の恩を不忘、臣が今日(こんにち)の死を救ひ給へ。」と言(ことば)を卑(いやしう)し厚礼降(かう)せん事をぞ被請ける。越王(ゑつわう)聞之古(いにしへ)の我が思ひに、今人(こんじん)の悲(かなし)みさこそと哀(あはれ)に思知給(おもひしりたまひ)ければ、呉王を殺に不忍、救其死思(おもひ)給へり。范蠡(はんれい)聞之、越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て犯面申(まうし)けるは、「伐柯其則(そののり)不遠。会稽(くわいけい)の古(いにしへ)は天越(ゑつ)を呉(ご)に与へたり。而(しかる)を呉王取(とる)事(こと)無(なう)して忽(たちまち)に此害(このがい)に逢(あへ)り。今却(かへつ)て天越(ゑつ)に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢(あふ)べし。君臣共(とも)に肺肝(はいかん)を砕(くだい)て呉を謀(はか)る事二十一年、一朝(いつてう)にして棄(すて)ん事豈(あに)不悲乎(や)。君行非時(ときに)不顧臣の忠(ちゆう)也(なり)。」と云(いひ)て、呉王の使者未(いまだ)帰(かへらざる)前(さき)に、范蠡自(みづから)攻鼓(せめつづみ)を打(うつ)て兵を勧(すす)め、遂に呉王を生捕(いけどつ)て軍門の前に引出(ひきいだ)す。呉王已(すで)に被面縛、呉の東門(とうもん)を過(すぎ)給ふに、忠臣伍子胥(ごししよ)が諌(いさめ)に依(よつ)て、被刎首時、幢(はたほこ)の上(うへ)に掛(かけ)たりし一双(いつさう)の眼(まなこ)、三年(みとせ)まで未枯(いまだかれず)して有(あり)けるが、其眸(そのまなじり)明(あきらか)に開(ひら)け、相見(あひみ)て笑(わら)へる気色(きしよく)なりければ、呉王是(これ)に面(おもて)を見(みゆる)事(こと)さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当(おしあて)て低首過(すぎ)給ふ。数万(すまん)の兵見之涙を流さぬは無(なか)りけり。即(すなはち)呉王を典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)され、会稽山(くわいけいざん)の麓にて遂に首(くび)を刎(はね)奉る。古来(こらい)より俗(ぞく)の諺(ことわざに)曰(いはく)、「会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)むる。」とは此(この)事(こと)を云(いふ)なるべし。自是越王(ゑつわう)呉を合(あは)するのみに非(あら)ず、晉(しん)・楚(そ)・斉(せい)・秦(しん)を平(たひら)げ、覇者(はしや)の盟主(めいしゆ)と成(なり)しかば、其功(そのこう)を賞(しやう)して范蠡(はんれい)を万戸侯(ばんここう)に封(ほう)ぜんとし給ひしか共(ども)、范蠡(はんれい)曾(かつ)て不受其禄(そのろくを)、「大名(たいめい)の下(もと)には久(ひさし)く不可居る、功成(なり)名遂(とげて)而身退(しりぞく)は天の道也(なり)。」とて、遂(つひ)に姓名を替(か)へ陶朱公(たうしゆこう)と呼(よばは)れて、五湖(ごこ)と云(いふ)所(ところ)に身を隠し、世を遁(のがれ)てぞ居たりける。釣(つり)して芦花(ろくわ)の岸に宿(しゆく)すれば、半蓑(はんさ)に雪を止(とど)め、歌(うたうたう)て楓葉(ふうえふ)の陰(かげ)を過(すぐ)れば、孤舟(こしう)に秋を戴(のせ)たり。一蓬(いつぽう)の月(つきは)万頃(ばんきやう)の天、紅塵(こうぢん)の外(ほか)に遊(あそん)で、白頭(はくとう)の翁(おきな)と成(なり)にけり。高徳(たかのり)此(この)事(こと)を思准(おもひなぞ)らへて、一句の詩に千般(せんぱん)の思(おもひ)を述べ、窃(ひそか)に叡聞(えいぶん)にぞ達(たつし)ける。去程(さるほど)に先帝(せんてい)は、出雲(いづも)の三尾(みを)の湊(みなと)に十(じふ)余日(よにち)御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、順風(じゆんぷう)に成(なり)にければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て御艤(ふなよそひ)して、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)、前後左右に漕並(こぎなら)べて、万里(ばんり)の雲に沿(さかのぼる)。時に滄海(さうかい)沈々(ちんちん)として日没西北浪、雲山(うんざん)迢々(でうでう)として月出東南天、漁舟(ぎよしう)の帰る程見へて、一灯(とう)柳岸(りうがん)に幽(かすか)也(なり)。暮(くる)れば芦岸(ろがん)の煙(けぶり)に繋船、明(あく)れば松江(すんがう)の風に揚帆、浪路(なみぢ)に日数(ひかず)を重(かさ)ぬれば、都を御出(おんいで)有(あつ)て後(のち)二十六日と申(まうす)に、御舟(おんふね)隠岐(おき)の国に着(つき)にけり。佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官(はんぐわん)貞清(さだきよ)、府(こふ)の嶋(しま)と云(いふ)所に、黒木(くろき)の御所(ごしよ)を作(つくり)て皇居(くわうきよ)とす。玉■(ぎよくい)に咫尺(しせき)して被召仕ける人とては、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、頭大夫(とうのたいふ)行房(ゆきふさ)、女房(にようばう)には三位殿(さんみどの)の御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。昔の玉楼金殿(ぎよくろうきんでん)に引替(ひきかへ)て、憂(うき)節(ふし)茂(しげ)き竹椽(たけたるき)、涙(なみだ)隙(ひま)なき松の墻(かき)、一夜(ひとよ)を隔(へだつ)る程も可堪忍御心地(おんここち)ならず。■人(けいじん)暁(あかつき)を唱(となへ)し声、警固(けいご)の武士(ぶし)の番(とのゐ)を催(もよほ)す声許(ばか)り、御枕(おんまくら)の上(うへ)に近ければ、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、露まどろませ給はず。萩戸(はぎのと)の明(あく)るを待(まち)し朝政(あさまつりごと)なけれ共(ども)、巫山(ぶざん)の雲雨(うんう)御夢(おんゆめ)に入(いる)時も、誠(まこと)に暁(あかつき)ごとの御勤(おんつとめ)、北辰(ほくしん)の御拝(ごはい)も懈(おこた)らず、今年何(いか)なる年(とし)なれば、百官無罪愁(うれへ)の涙(なんだ)を滴配所月、一人(いちじん)易位宸襟(しんきん)を悩他郷風給(たまふ)らん。天地開闢(てんちかいびやく)より以来(このかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)を不聞。されば掛天日月も、為誰明(あきらか)なる事を不恥。無心草木も悲之花(はな)開(さく)事(こと)を忘(わすれ)つべし。


太平記(国民文庫)

太平記巻第五
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御即位(ごそくゐの)事(こと) S0501
元弘(げんこう)二年三月二十二日に、後伏見院(ごふしみのゐんの)第一(だいいちの)御子(おんこ)、御年(おんとし)十九にして、天子(てんし)の位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。御母(おんはは)は竹内(たけのうちの)左大臣公衡(きんひら)の御娘(むすめ)、後(のち)には広義門院(くわうぎもんゐん)と申(まうせ)し御事(おこと)也(なり)。同(おなじき)年十月二十八日に、河原(かはら)の御禊(おんはらひ)あ(つ)て、十一月十三日に大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。関白は鷹司(たかづかさ)の左大臣冬教(ふゆのり)公(こう)、別当は日野(ひの)中納言資名(すけなの)卿(きやう)にてぞをはしける。いつしか当今奉公(たうぎんほうこう)の人々は、皆一時に望(のぞみ)を達して門前(もんぜん)市(いち)を成(な)し、堂上(だうじやう)花(はな)の如し。中にも梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は、天台座主(てんだいのざす)に成(なら)せ給(たまひ)て、大塔(おほたふ)・梨本(なしもと)の両門迹を合(あは)せて、御管領(ごくわんりやう)有(あり)しかば、御門徒(ごもんと)の大衆(だいしゆ)群集(くんじゆ)して、御拝堂(ごはいだう)の儀式(ぎしき)厳重(げんちよう)也(なり)。加之(しかのみならず)御室(おむろ)の二品(にほん)親王(しんわう)法守(ほふしゆ)、仁和寺(にんわじ)の御門迹(ごもんぜき)に御移(おんうつり)有(あつ)て、東寺一流(とうじいちりう)の法水(ほつすゐ)を湛(たた)へて、北極(ほつきよく)万歳(ばんぜい)の聖運(せいうん)を祈り給ふ。是(これ)皆後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の御子(おんこ)、今上(きんじやう)皇帝の御連枝(ごれんし)也(なり)。
○宣房(のぶふさの)卿(きやう)二君(じくん)奉公(ほうこうの)事(こと) S0502
万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)は、元来(もとより)前朝旧労(ぜんてうきうらう)の寵臣(ちようしん)にてをはせし上(うへ)、子息藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)笠置(かさぎ)の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿(きやう)も罪科(ざいくわ)深き人にて有(ある)べかりしを、賢才(けんさい)の聞へ有(あり)とて、関東(くわんとう)以別儀其罪を宥(なだ)め、当今(たうぎん)に可被召仕之(めしつかはるべきの)由(よし)奏し申す。依之(これによつて)日野(ひのの)中納言資明(すけあきらの)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、此旨(このむね)を被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄(くわんろく)共に進(すすみ)、剰(あまつさへ)汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也(なり)。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也(なり)。」と云(いへ)り。君(きみ)今不義の行(おこなひ)をはして、為武臣被辱給へり。是(これ)臣が予(あらかじめ)依不知処雖不献諌言世人豈(あに)其(その)無罪許(ゆるさん)哉(や)。就中(このなかに)長子(ちやうし)二人(ににん)被処遠流之罪。我(われ)已(すでに)七旬(しちじゆん)の齢(よはひ)に傾(かたぶ)けり。後栄為誰にか期(ご)せん。前非(ぜんぴ)何(なんぞ)又恥(はぢ)ざらんや。二君(じくん)の朝(てう)に仕(つかへ)て辱(はぢ)を衰老(すゐらう)の後(のち)に抱(いだ)かんよりは、伯夷(はくい)が行(かう)を学(まなび)て飢(うゑ)を首陽(しゆやう)の下(もと)に忍ばんには不如。」と、涙を流(ながし)て宣ひければ、資明(すけあきらの)卿(きやう)感涙を押(おさ)へ兼(かね)て暫(しばし)は言(もの)をも宣(のたま)はず。良有(ややあつ)て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已(のみ)也(なり)。」といへり。去(され)ば百里奚(はくりけい)は二(ふたたび)仕秦穆公永(ながく)令致覇業、管夷吾(くわんいごは)翻(かへつて)佐斉桓公、九(ここのたび)令朝諸侯。主(しゆ)無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家(ぶけ)如此許容の上は、賢息(けんそく)二人(ににん)の流罪(るざいをも)争(いかでか)無赦免御沙汰乎(や)、夫(それ)伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせいは)飢(うゑ)て何(なに)の益(えき)か有(あり)し。許由(きよいう)・巣父(さうふ)遁(のがれ)て不足用。抑(そもそも)隠身永(ながく)断来葉之一跡、与仕朝遠(とほく)耀前祖之無窮、是非得失(ぜひとくしつ)有何処乎(や)。与鳥獣同群孔子(こうしの)所不執也(なりと)。」資明(すけあきらの)卿(きやう)理(り)を尽(つく)して被責ければ。宣房卿(のぶふさのきやう)顔色(がんしよく)誠(まこと)に屈伏(くつふく)して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏(ぎ)の曹子建(さうしけん)が詩を献(けん)ぜし表(へう)に書(かき)たりしも、理(ことわり)とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕(さんじ)の勅答をぞ被申ける。
○中堂(ちゆうだう)新常灯(しんじやうとう)消(きゆる)事(こと) S0503
其比(そのころ)都鄙(とひ)の間(あひだ)に、希代(きたい)の不思議共(ふしぎども)多かりけり。山門の根本中堂(こんぽんちゆうだう)の内陣(ないぢん)へ山鳩(やまばと)一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て、新常灯(しんじやうとう)の油錠(あぶらつき)の中に飛入(とびいつ)て、ふためきける間、灯明(とうみやう)忽(たちまち)に消(きえ)にけり。此(この)山鳩、堂中(だうちゆう)の闇(くら)さに行方(ゆきかた)に迷ふて、仏壇(ぶつだん)の上に翅(つばさ)を低(たれ)て居たりける処に、承塵(なげし)の方(かた)より、其(その)色朱(しゆ)を指(さし)たる如くなる鼠狼(いたち)一つ走り出で、此(この)鳩を二(ふた)つながら食殺(くひころし)てぞ失(うせ)にけり。抑(そもそも)此(この)常灯と申(まうす)は、先帝(せんてい)山門へ臨幸(りんかう)成(なり)たりし時、古(いにしへ)桓武(くわんむ)皇帝の自(みづか)ら挑(かかげ)させ給(たまひ)し常燈に準(なぞら)へて、御手(おんて)づから百二十筋(ひやくにじふすぢ)の燈心(とうしん)を束(つか)ね、銀の御錠(おんあぶらつき)に油を入(いれ)て、自(みづから)掻立(かきたて)させ給(たまひ)し燈明(とうみやう)也(なり)。是(これ)偏(ひとへ)に皇統の無窮(ぶきゆう)を耀(かかやか)さん為の御願(ごぐわん)、兼(かね)ては六趣(ろくしゆ)の群類(ぐんるゐ)の暝闇(みやうあん)を照(てら)す、慧光法燈(ゑくわうほふとう)の明(あきらか)なるに、思食準(おぼしめしなぞら)へて被始置し常燈なれば、未来永劫(えいごふ)に至(いたる)迄消(きゆ)る事なかるべきに、鴿鳩(やまばと)の飛来(とびきたり)て打消(うちけし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。其(それ)を玄獺(いたち)の食殺(くひころ)しけるも不思議(ふしぎ)也(なり)。
○相摸(さがみ)入道弄田楽(でんがくをもてあそぶ)並(ならびに)闘犬(とうけんの)事(こと) S0504
又其比(そのころ)洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を弄(もてあそぶ)事(こと)昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是(これ)に着(ぢやく)せり。相摸(さがみ)入道此(この)事(こと)を聞及(ききおよ)び、新座(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽(でんがく)を呼下(よびくだ)して、日夜朝暮(にちやてうぼ)に弄(もてあそぶ)事(こと)無他事。入興(じゆきよう)の余(あまり)に、宗(むね)との大名達に田楽法師(でんがくぼふし)を一人づゝ預(あづけ)て装束(しやうぞく)を飾(かざ)らせける間、是(これ)は誰がし殿(どの)の田楽(でんがく)、彼(かれは)何がし殿(どの)の田楽(でんがく)なんど云(いひ)て、金銀珠玉(きんぎんしゆぎよく)を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨(のぞん)で一曲(いつきよく)を奏(そう)すれば、相摸(さがみ)入道(にふだう)を始(はじめ)として一族(いちぞくの)大名我(われ)劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。是(これ)を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。或夜(あるよ)一献(いつこん)の有(あり)けるに、相摸(さがみ)入道(にふだう)数盃(すはい)を傾(かたむ)け、酔(ゑひ)に和(くわ)して立(たち)て舞(まふ)事(こと)良(やや)久し。若輩(じやくはい)の興(きよう)を勧(すすむ)る舞にてもなし。又狂者(きやうしや)の言(ことば)を巧(たくみ)にする戯(たはむれ)にも非(あら)ず。四十有余(しじふいうよ)の古(ふる)入道、酔狂(すゐきやう)の余(あまり)に舞ふ舞なれば、風情(ふぜい)可有共(とも)覚(おぼえ)ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知(しら)ぬ、新坐(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽共(でんがくども)十(じふ)余人(よにん)、忽然(こつぜん)として坐席(ざせき)に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其(その)興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子(ひやうし)を替(かへ)て歌ふ声を聞けば、「天王寺(てんわうじ)のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。或官女(あるくわんぢよ)此(この)声を聞(きい)て、余(あまり)の面白さに障子(しやうじ)の隙(ひま)より是(これ)を見るに、新坐・本座の田楽共(でんがくども)と見へつる者一人も人(ひと)にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其(その)形(かたち)山伏(やまぶし)の如くなるもあり。異類異形(いるゐいぎやう)の媚者(ばけもの)共が姿を人に変(へん)じたるにてぞ有(あり)ける。官女是(これ)を見て余(あま)りに不思議(ふしぎ)に覚(おぼえ)ければ、人を走(はし)らかして城入道(じやうのにふだう)にぞ告(つげ)たりける。入道取物(とるもの)も取敢(とりあへ)ず、太刀を執(とつ)て其酒宴(そのしゆえん)の席に臨む。中門(ちゆうもん)を荒らかに歩(あゆみ)ける跫(あしおと)を聞(きい)て、化物(ばけもの)は掻消様(かきけすやう)に失(う)せ、相摸(さがみ)入道(にふだう)は前後(ぜんご)も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠(まこと)に天狗(てんぐ)の集(あつま)りけるよと覚(おぼえ)て、踏汚(ふみけが)したる畳(たたみ)の上(うへ)に禽獣(きんじう)の足迹(あしあと)多し。城(じやうの)入道、暫く虚空(こくう)を睨(にらん)で立(たち)たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。良(やや)久(ひさしう)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)驚覚(おどろきさめ)て起(おき)たれ共(ども)、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。後日(ごじつ)に南家(なんけ)の儒者(じゆしや)刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此(この)事(こと)を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云(いふ)悪星(あくしやう)下(くだつ)て災(わざはひ)を成すといへり。而(しか)も天王寺(てんわうじ)は是(これ)仏法最初の霊地(れいち)にて、聖徳太子(しやうとくたいし)自(みづから)日本(につぽん)一州の未来記(みらいき)を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺(てんわうじ)の妖霊星と歌ひけるこそ怪(あや)しけれ。如何様(いかさま)天王寺(てんわうじ)辺(へん)より天下の動乱(どうらん)出来(いでき)て、国家敗亡(はいばう)しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主(こくしゆ)徳を治(をさ)め、武家仁(じん)を施(ほどこ)して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云(いひ)けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成(なり)にけり。彼(かの)仲範実(まこと)に未然(みぜん)の凶(きよう)を鑒(かんがみ)ける博覧の程こそ難有けれ。相摸(さがみ)入道(にふだう)懸(かか)る妖怪(えうくわい)にも不驚、益々(ますます)奇物(きぶつ)を愛する事止(やむ)時なし。或(ある)時庭前(ていぜん)に犬共集(あつまり)て、噛合(かみあ)ひけるを見て、此(この)禅門面白き事に思(おもひ)て、是(これ)を愛する事骨髄(こつずゐ)に入れり。則(すなはち)諸国へ相触(あひふれ)て、或(あるひ)は正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)に募(つの)りて犬を尋(たづね)、或(あるひ)は権門高家(けんもんかうけ)に仰(おほせ)て是(これ)を求(もとめ)ける間、国々の守護(しゆご)国司(こくし)、所々(しよしよ)の一族(いちぞく)大名(だいみやう)、十疋(じつびき)二十疋(にじつびき)飼立(かひたて)て、鎌倉(かまくら)へ引進(ひきまゐら)す。是(これ)を飼(かふ)に魚鳥(ぎよてう)を以てし、是(これ)を維(つな)ぐに金銀を鏤(ちりば)む。其弊(そのつひえ)甚(はなはだ)多し。輿(こし)にのせて路次(ろし)を過(すぐ)る日(ひ)は、道を急ぐ行人(かうじん)も馬(むま)より下(おり)て是(これ)に跪(ひざまづ)き、農(のう)を勤(つとむ)る里民(りみん)も、夫(ぶ)に被取て是(これ)を舁(かき)、如此賞翫(しやうぐわん)不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬(きけん)、鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して四五千疋(しごせんびき)に及べり。月に十二度(じふにど)犬合(いぬあは)せの日とて被定しかば、一族(いちぞく)大名御内外様(みうちとざま)の人々、或(あるひ)は堂上(だうじやう)に坐(ざ)を列ね、或(あるひは)庭前(ていぜん)に膝を屈(くつ)して見物(けんぶつ)す。于時両陣の犬共を、一二百疋(いちにひやつぴき)充(づつ)放(はな)し合せたりければ、入り違ひ追合(おひあう)て、上に成(なり)下に成(なり)、噛合(かみあふ)声天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。心なき人は是(これ)を見て、あら面白や、只戦(たたかひ)に雌雄(しゆう)を決するに不異と思ひ、智ある人は是(これ)を聞(きい)て、あな忌々(いまいま)しや、偏(ひとへ)に郊原(かうげん)に尸(かばね)を争ふに似たりと悲(かなし)めり。見聞(けんもん)の准(なぞら)ふる処、耳目(じぼく)雖異、其前相(そのぜんさう)皆闘諍死亡(とうじやうしばう)の中に存(あつ)て、浅猿(あさま)しかりし挙動(ふるまひ)なり。
○時政(ときまさ)参篭榎嶋事 S0505
時已(すで)に澆季(げうき)に及(およん)で、武家天下の権を執(と)る事(こと)、源平両家の間に落(おち)て度々(どど)に及べり。然(しかれ)ども天道(てんだうは)必(かならず)盈(みてる)を虧(かく)故(ゆゑ)に、或(あるひ)は一代にして滅び、或(あるひ)は一世をも不待して失(うせ)ぬ。今相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家、天下を保つ事已(すで)に九代に及ぶ。此(この)事(こと)有故。昔鎌倉(かまくら)草創(さうさう)の始(はじめ)、北条(ほうでうの)四郎時政(ときまさ)榎嶋(えのしま)に参篭(さんろう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いのり)けり。三七日に当りける夜(よ)、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗(たんごんびれい)なるが、忽然として時政が前(まへ)に来(きたつ)て告(つげ)て曰(いはく)、「汝(なんぢ)が前生(ぜんじやう)は箱根法師(はこねぼふし)也(なり)。六十六(ろくじふろく)部(ぶ)の法華経(ほけきやう)を書冩(しよしや)して、六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の霊地(れいち)に奉納(ほうなふ)したりし善根(ぜんごん)に依(よつ)て、再び此土(このど)に生(うまる)る事を得たり。去(され)ば子孫永く日本(につぽん)の主(あるじ)と成(なつ)て、栄花(えいぐわ)に可誇。但(ただし)其挙動(そのふるまひ)違所(たがふところ)あらば、七代(しちだい)を不可過。吾(わが)所言不審(ふしん)あらば、国々に納(をさめ)し所の霊地(れいち)を見よ。」と云捨(いひすて)て帰(かへり)給ふ。其姿(そのすがた)をみければ、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽(たちまち)に伏長(ふしだけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)の大蛇(だいじや)と成(なつ)て、海中(かいちゆう)に入(いり)にけり。其迹(そのあと)を見(みる)に、大(おほき)なる鱗(いろこ)を三(み)つ落(おと)せり。時政所願成就(しよぐわんじやうじゆ)しぬと喜(よろこび)て、則(すなはち)彼鱗(かのいろこ)を取(とつ)て、旗の文(もん)にぞ押(おし)たりける。今の三鱗形(みついろこがた)の文(もん)是(これ)也(なり)。其後(そののち)弁才天(べんざいてん)の御示現(ごじげん)に任(まかせ)て、国々の霊地へ人を遣(つかは)して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政(ときまさ)を法師の名(な)に替(かへ)て、奉納(ほうなふの)筒(つつ)の上に大法師(だいほつし)時政(じせい)と書(かき)たるこそ不思議(ふしぎ)なれ。されば今相摸(さがみ)入道(にふだう)七代に過(すぎ)て一天下(いちてんが)を保(たもち)けるも、江嶋(えのしま)の弁才天の御利生(ごりしやう)、又は過去の善因に感じてげる故(ゆゑ)也(なり)。今の高時(たかとき)禅門、已(すで)に七代を過(すぎ)、九代に及べり。されば可亡時刻(じこく)到来(たうらい)して、斯(かか)る不思議(ふしぎ)の振舞(ふるまひ)をもせられける歟(か)とぞ覚(おぼえ)ける。
○大塔宮(おほたふのみや)熊野落(くまのおちの)事(こと) S0506
大塔(おほたふの)二品(にほん)親王(しんわう)は、笠置(かさぎ)の城の安否(あんび)を被聞食為に、暫く南都(なんと)の般若寺(はんにやじ)に忍(しのび)て御座有(ござあり)けるが、笠置(かさぎ)の城已(すで)に落(おち)て、主上被囚させ給(たまひ)ぬと聞へしかば、虎の尾を履(ふむ)恐れ御身(おんみ)の上に迫(せまり)て、天地雖広御身(おんみ)を可被蔵所なし。日月雖明長夜(ぢやうや)に迷へる心地(ここち)して、昼は野原(のはら)の草に隠れて、露に臥(ふす)鶉(うづら)の床(とこ)に御涙(おんなみだ)を争ひ、夜(よる)は孤村(こそん)の辻に彳(たたずみ)て、人を尤(とが)むる里の犬に御心(おんこころ)を被悩、何(いづ)くとても御心(おんこころ)安(やす)かるべき所無(なか)りければ、角(かく)ても暫(しばし)はと被思食ける処に、一乗院(いちじようゐん)の候人(こうにん)按察法眼(あぜちのほふげん)好専(かうせん)、如何(いかん)して聞(きき)たりけん、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、未明(びめい)に般若寺(はんにやじ)へぞ寄(よせ)たりける。折節(をりふし)宮(みや)に奉付たる人独(ひとり)も無(なか)りければ一防(ひとふせ)ぎ防(ふせぎ)て落(おち)させ可給様(やう)も無(なか)りける上、透間(すきま)もなく兵(つはもの)既(すで)に寺内(じない)に打入(うちいり)たれば、紛(まぎ)れて御出(おんいで)あるべき方(かた)もなし。さらばよし自害せんと思食(おぼしめし)て、既(すで)に推膚脱(おしはだぬが)せ給(たまひ)たりけるが、事叶(かな)はざらん期(ご)に臨(のぞん)で、腹を切らん事は最(いと)可安。若(もし)やと隠れて見ばやと思食返(おぼしめしかへ)して、仏殿(ぶつでん)の方(かた)を御覧(ごらん)ずるに、人の読懸(よみかけ)て置(おき)たる大般若(だいはんにや)の唐櫃(たうひつ)三(みつ)あり。二(ふたつ)の櫃(ひつ)は未(いまだ)開蓋を、一(ひとつ)の櫃(ひつ)は御経(きやう)を半(なか)ばすぎ取出(とりいだ)して蓋(ふた)をもせざりけり。此(この)蓋を開(あけ)たる櫃(ひつ)の中へ、御身(おんみ)を縮(しじ)めて臥(ふ)させ給ひ、其(その)上に御経を引(ひき)かづきて、隠形(おんぎやう)の呪(じゆ)を御心(おんこころ)の中(うち)に唱(となへ)てぞ坐(おは)しける。若(もし)捜(さが)し被出ば、頓(やが)て突立(つきたて)んと思召(おぼしめし)て氷の如くなる刀(かたな)を抜(ぬい)て、御腹(おんはら)に指当(さしあて)て、兵(つはもの)、「此(ここ)にこそ。」と云(いは)んずる一言(ひとこと)を待(また)せ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中(うち)、推量(おしはか)るも尚可浅。去程(さるほど)に兵(つはもの)仏殿(ぶつでん)に乱入(みだれいつ)て、仏壇(ぶつだん)の下天井(てんじやう)の上迄も無残所捜しけるが、余(あま)りに求(もとめ)かねて、「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。あの大般若(だいはんにや)の櫃(ひつ)を開見(あけてみ)よ。」とて、蓋(ふた)したる櫃二(ふたつ)を開(ひらい)て、御経を取出(とりいだ)し、底を翻(ひるがへ)して見けれどもをはせず。蓋(ふた)開(あき)たる櫃は見るまでも無(なし)とて、兵(つはもの)皆寺中を出去(いでさり)ぬ。宮は不思議(ふしぎ)の御命(いのち)を続(つが)せ給ひ、夢に道行(ゆく)心地して、猶(なほ)櫃(ひつ)の中に座(おは)しけるが、若(もし)兵(つはもの)又立帰り、委(くはし)く捜(さが)す事もや有(あら)んずらんと御思案(ごしあん)有(あつ)て、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃(ひつ)に、入替(いりかは)らせ給(たまひ)てぞ座(おは)しける。案の如く兵共(つはものども)又仏殿に立帰り、「前(さき)に蓋(ふた)の開(あき)たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移(うちうつ)して見けるが、から/\と打笑(うちわらう)て、「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮(おほたふのみや)はいらせ給はで、大唐(だいたう)の玄弉(げんじやう)三蔵こそ坐(おは)しけれ。」と戯(たはぶ)れければ、兵(つはもの)皆(みな)一同に笑(わらう)て門外(もんぐわい)へぞ出(いで)にける。是(これ)偏(ひとへ)に摩利支天(まりしてん)の冥応(みやうおう)、又は十六(じふろく)善神(ぜんしん)の擁護(おうご)に依る命(いのち)也(なり)。と、信心(しんじん)肝(きも)に銘じ感涙(かんるゐ)御袖(おんそで)を湿(うるほ)せり。角(かく)ては南都辺(なんとへん)の御隠家(おんかくれが)暫(しばらく)も難叶ければ、則(すなはち)般若寺を御出(おんいで)在(あり)て、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。御供(おんとも)の衆(しゆ)には、光林房玄尊(くわうりんばうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本(をかもとの)三河房・武蔵房(むさしばう)・村上(むらかみ)彦四郎・片岡八郎・矢田(やだ)彦七・平賀(ひらがの)三郎、彼此(かれこれ)以上九人也(なり)。宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の者迄(まで)も皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おひ)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其(その)中に年長(としちやう)ぜるを先達(せんだち)に作立(つくりたて)、田舎山伏(ゐなかやまぶし)の熊野参詣(くまのさんけい)する体(てい)にぞ見せたりける。此(この)君元(もと)より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内(うち)に長(ひと)とならせ給(たまひ)て、華軒香車(くわけんかうしや)の外(ほか)を出(いで)させ給はぬ御事(おんこと)なれば、御歩行(ごほかう)の長途(ちやうど)は定(さだめ)て叶(かな)はせ給はじと、御伴(おんとも)の人々兼(かね)ては心苦しく思(おもひ)けるに、案(あん)に相違(さうゐ)して、いつ習はせ給ひたる御事(おんこと)ならねども怪しげなる単皮(たび)・脚巾(はばき)・草鞋(わらぢ)を召(めし)て、少しも草臥(くたびれ)たる御気色(きしよく)もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊(ほうへい)、宿々(やどやど)の御勤(つとめ)懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者(だうしや)も、勤修(ごんじゆ)を積める先達(せんだち)も見尤(みとがむ)る事も無(なか)りけり。由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕(こぐ)舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重(いくへ)とも、しらぬ浪路(なみぢ)に鳴千鳥(なくちどり)、紀伊(き)の路(ぢ)の遠山(とほやま)眇々(はるばる)と、藤代(ふぢしろ)の松に掛(かか)れる磯(いそ)の浪(なみ)、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(そと)に見て、月に瑩(みが)ける玉津(たまつ)島、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ぢやうていきよくほ)の旅の路(みち)、心を砕(くだ)く習(ならひ)なるに、雨を含(ふく)める孤村(こそん)の樹(き)、夕(ゆふべ)を送る遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)、哀(あはれ)を催(もよほ)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(わうじ)に着(つき)給ふ。其夜(そのよ)は叢祠(そうし)の露に御袖(おんそで)を片敷(かたしい)て、通夜(よもすがら)祈(いのり)申させ給(たまひ)けるは、南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)三所権現(さんしよごんげん)・満山護法(まんさんのごほふ)・十万の眷属(けんぞく)・八万(はちまん)の金剛童子(こんがうどうじ)、垂迹和光(すゐじやくわくわう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇(やみ)を照(てら)さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再(ふたたび)耀(かかや)く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現(りやうしよごんげん)は是(これ)伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也(なり)。我(わが)君其苗裔(そのべうえい)として朝日(てうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体(ごたい)を地に投(なげ)て一心に誠(まこと)を致(いたし)てぞ祈(いのり)申させ給(たまひ)ける。丹誠(たんぜい)無二(むに)の御勤(つとめ)、感応(かんおう)などかあらざらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被計たり。終夜(よもすがら)の礼拝(らいはい)に御窮屈(きゆうくつ)有(あり)ければ、御肱(おんひぢ)を曲(まげ)て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在(あり)ける御夢(おんゆめ)に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)一人来(きたつ)て、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。是(これ)より十津川(とつがは)の方へ御渡候(わたりさふらひ)て時の至(いたら)んを御待(おんまち)候へかし。両所権現(ごんげん)より案内者(あんないしや)に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。是(これ)権現の御告(つげ)也(なり)。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊(ほうへい)を捧げ、頓(やが)て十津河(とつがは)を尋(たづね)てぞ分入(わけい)らせ給(たまひ)ける。其(その)道の程(ほど)三十(さんじふ)余里(より)が間には絶(たえ)て人里も無(なか)りければ、或(あるひ)は高峯(たかね)の雲に枕を峙(そばだて)て苔(こけ)の筵(むしろ)に袖を敷(しき)、或(あるひ)は岩漏(もる)水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。山路(さんろ)本(もと)より雨無(なう)して、空翠(くうすゐ)常(つね)に衣(ころも)を湿(うるほ)す。向上(かうじやうとみあぐ)れば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削(けづ)り、直下(ちよくかとみおろせ)ば千丈の碧潭(へきだん)藍(あゐ)に染(そ)めり。数日(すじつ)の間(あひだ)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経(へ)させ給へば、御身(おんみ)も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗(あせ)如水。御足(あし)は欠損(かけそん)じて草鞋(わらぢ)皆血(ち)に染(そま)れり。御伴(おんとも)の人々も皆其身(そのみ)鉄石(てつせき)にあらざれば、皆飢疲(うゑつか)れてはか/゛\敷(しく)も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰(おんこし)を推(おし)御手(おんて)を挽(ひい)て、路(みち)の程(ほど)十三日に十津河へぞ着(つか)せ給ひける。宮をばとある辻堂(つじだう)の内に奉置て、御供(おんとも)の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣(くまのさんけい)の山伏共(やまぶしども)道に迷(まよう)て来(きた)れる由を云(いひ)ければ、在家の者共(ものども)哀(あはれみ)を垂(たれ)て、粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)など取出(とりいだ)して其飢(そのうゑ)を相助(あひたす)く。宮にも此等(これら)を進(まゐら)せて二三日は過(すぎ)けり。角(かく)ては始終(しじゆう)如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是(これ)ぞさもある人の家なるらんと覚(おぼ)しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出(いで)たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是(これ)は竹原八郎入道殿(にふだうどの)の甥に、戸野(とのの)兵衛殿(ひやうゑどの)と申(まうす)人の許(もと)にて候。」と云(いひ)ければ、さては是こそ、弓矢取(とつ)てさる者と聞及(ききおよ)ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思(おもひ)ければ、門(もん)の内へ入(いつ)て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者(びやうしや)有(あり)と覚(おぼえ)て、「哀(あは)れ貴(たつと)からん山伏(やまぶし)の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云(いふ)声しけり。玄尊すはや究竟(くきやう)の事こそあれと思(おもひ)ければ、声を高らかに揚(あげ)て、「是(これ)は三重(さんぢゆう)の滝に七日うたれ、那智(なち)に千日篭(こもつ)て三十三所(さんじふさんしよ)の巡礼(じゆんれい)の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共(やまぶしども)、路(みちに)蹈迷(ふみまよう)て此(この)里に出(いで)て候。一夜の宿(やど)を借(かし)一日〔の〕飢(うゑ)をも休め給へ。」と云(いひ)たりければ、内より怪(あや)しげなる下女(けぢよ)一人出合(いであ)ひ、「是(これ)こそ可然仏神(ぶつじん)の御計(おんはから)ひと覚(おぼえ)て候へ。是(これ)の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病(やま)せ給ひ候。祈(いのり)てたばせ給(たまひ)てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)、「我等は夫山伏(ぶやまぶし)にて候間叶(かな)ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじだう)に、足を休(やすめ)て被居て候先達(せんだち)こそ、効験(かうげん)第一(だいいち)の人にて候へ。此様(このやう)を申さんに子細(しさい)候はじ。」と云(いひ)ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其(その)先達の御房(ごばう)、是(これ)へ入進(いれまゐら)せさせ給へ。」と云(いひ)て、喜(よろこび)あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由(このよし)を申(まうし)ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の人皆彼(かれ)が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。宮(みや)病者の伏(ふし)たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持(ごかぢ)あり。千手陀羅尼(せんじゆだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠(おんねんじゆ)を押揉(おしも)ませ給(たまひ)ければ、病者自(みづから)口走(くちばしつ)て、様々(さまざま)の事を云(いひ)ける、誠(まこと)に明王(みやうわう)の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮(しじめ)て戦(わなな)き、五体(ごたい)に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去(たちさり)ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。主(あるじ)の夫(をつと)不斜喜(よろこう)で、「我(われ)畜(たくはへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物(おんひきでもの)迄は叶(かなひ)候まじ。枉(まげ)て十(じふ)余日(よにち)是(これ)に御逗留(ごとうりう)候(さふらひ)て、御足(みあし)を休めさせ給へ。例の山伏(やまぶし)楚忽(そこつ)に忍(しのび)で御逃(おんにげ)候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、恐(おそれ)ながら是(これ)を御質(ごしち)に玉(たまは)らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合(とりあはせ)て皆内にぞ置(おき)たりける。御供の人々、上(うへ)には其気色(そのきしよく)を不顕といへ共、下(した)には皆悦(よろこび)思へる事無限。角(かく)て十(じふ)余日(よにち)を過(すご)させ給(たまひ)けるに、或夜(あるよ)家主(あるじ)の兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)、客殿(きやくでん)に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共(ものがたりども)しける次(ついで)に申(まうし)けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞(きき)及ばせ給(たまひ)たる事も候覧(らん)。誠(まこと)やらん、大塔宮(おほたふのみや)、京都を落(おち)させ給(たまひ)て、熊野(くまの)の方へ趣(おもむか)せ給候(たまひさふらひ)けんなる。三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二(むにの)武家方(ぶけかた)にて候へば、熊野辺(くまのへん)に御忍(おんしのび)あらん事は難成覚(おぼえ)候。哀(あはれ)此(この)里へ御入(おんいり)候へかし。所(ところ)こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共(ども)、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にて十里(じふり)二十里(にじふり)が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上(そのうへ)人の心不偽、弓矢を取(とる)事(こと)世に超(こえ)たり。されば平家の嫡孫(ちやくそん)惟盛(これもり)と申(まうし)ける人も、我等(われら)が先祖(せんぞ)を憑(たのみ)て此(この)所に隠れ、遂に源氏(げんじ)の世に無恙候(さふらひ)けるとこそ承(うけたまはり)候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉(うれ)しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮(おほたふのみや)なんどの、此(この)所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入(いら)せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問(とは)せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申(まうす)にや及び候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂(かぶらさか)・湯浅(ゆあさ)・阿瀬川(あぜがは)・小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津川(なかつがは)・吉野(よしの)十八郷(じふはちがう)の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。其(その)時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくはせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側(そば)に居寄(ゐより)て、「今は何をか隠し可申、あの先達(せんだち)の御房(ごばう)こそ、大塔宮(おほたふのみや)にて御坐(ござ)あれ。」と云(いひ)ければ、此(この)兵衛尚(なほ)も不審気(ふしんげ)にて、彼此(かれこれ)の顔をつく/゛\と守(まぼ)りけるに、片岡八郎・矢田(やだ)彦七、「あら熱(あつ)や。」とて、頭巾(ときん)を脱(ぬい)で側(そば)に指置(さしお)く。実(まこと)の山伏(やまぶし)ならねば、さかやきの迹(あと)隠(かくれ)なし。兵衛是(これ)を見て、「げにも山伏(やまぶし)にては御座(おは)せざりけり。賢(かしこく)ぞ此(この)事(こと)申出(まうしいで)たりける。あな浅猿(あさまし)、此(この)程の振舞(ふるまひ)さこそ尾篭(びろう)に思召候(おぼしめしさふらひ)つらん。」と以外(もつてのほか)に驚(おどろい)て、首(かうべ)を地(ち)に着(つけ)手を束(つか)ね、畳より下(した)に蹲踞(そんこ)せり。俄に黒木(くろぎ)の御所(ごしよ)を作(つくり)て宮(みや)を守護(しゆご)し奉り、四方(しはう)の山々に関(せき)を居(すゑ)、路(みち)を切塞(きりふさい)で、用心(ようじん)密(きび)しくぞ見へたりける。是(これ)も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父(をぢ)竹原八郎入道に此由(このよし)を語(かたり)ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまゐ)らせ、無二の気色に見へければ、御心(おんこころ)安く思召(おぼしめし)て、此(ここ)に半年許(はんねんばかり)御座有(ござあり)ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度(したく)に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成(なら)せ給(たまひ)ければ、竹原八郎入道が息女(そくぢよ)を、夜(よ)るのをとゞへ被召て御覚(おんおぼえ)異他なり。さてこそ家主(あるじ)の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾(かたむ)け、近辺(きんぺん)の郷民共(がうみんども)も次第に帰伏申(きふくまうし)たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。去程(さるほど)に熊野の別当定遍(ぢやうべん)此(この)事(こと)を聞(きい)て、十津河(とつがは)へ寄(よ)せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺(そのへん)の郷民共(がうみんども)の欲心(よくしん)を勧(すすめ)て、宮を他所(たしよ)へ帯(おび)き出し奉らんと相計(あひはかつ)て、道路(だうろ)の辻に札(ふだ)を書(かい)て立(たて)けるは、「大塔宮(おほたふのみや)を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしやう)を恩賞に可被充行由を、関東(くわんとう)の御教書(みげうしよ)有之。其(その)上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫(ろくまんぐわん)を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討(うち)たらん者には五百(ごひやく)貫(くわん)、降人(かうにん)に出(いで)たらん輩(ともがら)には三百(さんびやく)貫(くわん)、何(いづ)れも其(その)日の中(うち)に必(かならず)沙汰し与(あたふ)べし。」と定(さだめ)て、奥に起請文(きしやうもん)の詞(ことば)を載(のせ)て、厳密(げんみつ)の法をぞ出(いだ)しける。夫(それ)移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんがうじやう)の八庄司共(しやうじども)此(この)札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共(ふるまひども)にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此(この)所の御止住(おんすまゐ)、始終(しじゆう)悪(あし)かりなん。吉野(よしの)の方へも御出(おんいで)あらばや。」と被仰けるを、竹原(たけはら)入道、「如何なる事や候べき。」と強(しひ)て留申(とめまうし)ければ、彼(かれ)が心を破(やぶ)られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給(たまひ)ける。結句(けつく)竹原入道が子共(こども)さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討(うち)奉らんとする企(くはだて)在(あり)と聞(きこえ)しかば、宮潛(ひそか)に十津河(とつがは)も出(いで)させ給(たまひ)て、高野(かうや)の方へぞ趣(おもむ)かせ給ひける。其路(そのみち)、小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津河(なかつがは)と云(いふ)敵陣の難所(なんじよ)を経(へ)て通る路なれば、中々(なかなか)敵を打憑(うちたのみ)て見ばやと被思召、先(まづ)芋瀬(いもがせ)の庄司(しやうじ)が許(もと)へ入(いら)せ給ひけり。芋瀬(いもがせ)、宮(みや)をば我館(わがたち)へ入進(いれまゐ)らせずして、側(そば)なる御堂(みだう)に置(おき)奉り、使者(ししや)を以て申(まうし)けるは、「三山(さんざんの)別当定遍(ぢやうべん)武命(ぶめい)を含(ふくん)で、隠謀与党(おんぼうよたう)の輩(ともがら)をば、関東(くわんとう)へ注進仕(ちゆうしんつかまつ)る事にて候へば、此(この)道より無左右通し進(まゐ)らせん事(こと)、後(のち)の罪科陳謝(ちんじや)するに不可有拠候、乍去宮を留進(とめまゐ)らせん事は其(その)恐(おそれ)候へば、御伴(おんとも)の人々の中(うち)に名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人賜(たまはつ)て、武家へ召渡(めしわたし)候歟(か)、不然ば御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、合戦仕(かつせんつかまつつ)て候(さふらひ)つる支証(ししよう)是(これ)にて候と、武家へ可申にて候。此(この)二(ふた)つの間(あひだ)、何(いづ)れも叶(かなふ)まじきとの御意(ぎよい)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕らんずるにて候。」と、誠(まこと)に又予儀(よぎ)もなげにぞ申入(まうしいれ)たりける。宮は此(この)事(こと)何(いづ)れも難議也(なり)。と思召(おぼしめし)て、敢(あへて)御返事(おんへんじ)も無(なか)りけるを、赤松律師則祐(そくいう)進み出(いで)て申(まうし)けるは、「危(あやふ)きを見て命(めい)を致すは士卒(じそつ)の守(まも)る所(ところ)に候。されば紀信(きしん)は詐(いつはつ)て敵に降(くだ)り、魏豹(ぎへう)は留(とどまつ)て城を守る。是(これ)皆主(しゆ)の命(いのち)に代(かは)りて、名を留(とど)めし者にて候はずや。兎(と)ても角(かう)ても彼(かれ)が所存解(とけ)て、御所(ごしよ)を通し可進にてだに候はゞ、則祐(そくいう)御大事(おんだいじ)に代(かはつ)て罷出(まかりいで)候はん事は、子細(しさい)有(ある)まじきにて候。」と申せば、平賀(ひらがの)三郎是を聞(きい)て、「末坐(ばつざ)の意見卒尓(そつじ)の議にて候へ共(ども)、此艱苦(このかんく)の中に付纏(つきまとひ)奉りたる人は、雖一人上の御為(おんため)には、股肱耳目(ここうじぼく)よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬(いもせの)庄司(しやうじ)が申(まうす)所、げにも難被黙止候へば、其(その)安きに就(つけ)て御旗許(おんはたばかり)を被下候はんに、何(なに)の煩(わづらひ)か候べき。戦場(せんぢやう)に馬・物具(もののぐ)を捨(すて)、太刀・刀(かたな)を落して敵に被取事(こと)、さまでの恥ならず。只彼(かれ)が申請(まうしうく)る旨に任(まかせ)て、御旗を被下候へかし。」と申(まうし)ければ、宮げにもと思召(おぼしめし)て、月日を金銀にて打(うつ)て着(つけ)たる錦(にしき)の御旗を、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)にぞ被下ける。角(かく)て宮は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)させ給(たまひ)ぬ。暫有(しばらくあつ)て村上(むらかみ)彦四郎義光(よしてる)、遥(はるか)の迹(あと)にさがり、宮に追着進(おつつきまゐら)せんと急(いそぎ)けるに、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)無端道にて行合(ゆきあひ)ぬ。芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)に持(もた)せたる旗を見れば、宮の御旗也(なり)。村上怪(あやしみ)て事の様(やう)を問(とふ)に、尓々(しかじか)の由(よし)を語る。村上、「こはそも何事(なにこと)ぞや。忝(かたじけなく)も四海(しかい)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す天子の御子(みこ)の、朝敵(てうてき)御追罰(ごつゐばつ)の為に、御門(おんかど)出(いで)ある路次(ろし)に参り合(あう)て、汝等程(なんぢらほど)の大凡下(だいぼんげ)の奴原(やつばら)が、左様(さやう)の事可仕様(やう)やある。」と云(いつ)て、則(すなはち)御旗を引奪(ひきうばう)て取(とり)、剰(あまつさへ)旗持(もち)たる芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)の大(だい)の男(をとこ)を掴(つかん)で、四五丈許(ばかり)ぞ抛(なげ)たりける。其怪力(そのくわいりよく)無比類にや怖(おぢ)たりけん。芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)一言(いちごん)の返事もせざりければ、村上自(みづから)御旗を肩に懸(かけ)て、無程宮に〔奉〕追着。義光(よしてる)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て此様(このやう)を申(まうし)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに打笑(うちわら)はせ給(たまひ)て、「則祐(そくいう)が忠は孟施舎(まうししや)が義を守(まぼ)り、平賀(ひらが)が智は陳丞相(ちんしようじやう)が謀(はかりごと)を得(え)、義光が勇(ゆう)は北宮黝(ほくきゆういう)が勢(いきほひ)を凌(しの)げり。此(この)三傑を以て、我(われ)盍治天下哉(や)。」と被仰けるぞ忝(かたじけな)き。其夜(そのよ)は椎柴垣(しひしばがき)の隙(ひま)あらはなる山がつの庵(いほり)に、御枕(おんまくら)を傾(かたむ)けさせ給(たまひ)て、明(あく)れば小原(をばら)へと志(こころざし)て、薪(たきぎ)負(おう)たる山人(やまうど)の行逢(ゆきあひ)たるに、道の様(やう)を御尋(おんたづね)有(あり)けるに、心なき樵夫迄(きこりまで)も、さすが見知進(みしりまゐら)せてや在(あり)けん、薪(たきぎ)を下(おろ)し地(ち)に跪(ひざまづい)て、「是(これ)より小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)り候はん道には、玉木(たまぎの)庄司殿(しやうじどの)とて、無弐(むに)の武家方(ぶけかた)の人をはしまし候。此(この)人を御語(かたら)ひ候はでは、いくらの大勢(おほぜい)にても其(その)前をば御(おん)通(とほ)り候(さふらひ)ぬと不覚候。恐(おそれ)ある申事(まうしごと)にて候へ共(ども)、先(ま)づ人を一二人(いちににん)御使(おんつかひ)に被遣候(さふらひ)て、彼(かの)人の所存(しよぞん)をも被聞召候へかし。」とぞ申(まうし)ける。宮つく/゛\と聞召(きこしめし)て、「芻蕘(すうぜう)の詞迄(ことばまで)も不捨」と云(いふ)は是(これ)也(なり)。げにも樵夫(きこり)が申(まうす)処さもと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、片岡(かたをか)八郎・矢田彦七二人(ににん)を、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)が許(もと)へ被遣て、「此(この)道を御(おん)通(とほ)り有(ある)べし、道の警固に、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)御使(おんつかひ)に出合(いであつ)て、事の由を聞(きい)て、無返事(ぶへんじ)にて内へ入(いり)けるが、軈(やが)て若党(わかたう)・中間共(ちゆうげんども)に物具(もののぐ)させ、馬に鞍置(くらおき)、事の体(てい)躁(さわが)しげに見へければ、二人(ににん)の御使(おんつかひ)、「いや/\此(この)事(こと)叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰(はしりかへつ)て、此(この)由を申さん。」とて、足早(あしばや)に帰れば、玉置が若党共(わかたうども)五六十人、取太刀許(とりだちばかり)にて追懸(おつかけ)たり。二人(ににん)の者立留(たちとどま)り、小松(こまつ)の二三本(にさんぼん)ありける陰(かげ)より跳出(をどりい)で、真前(まつさき)に進(すすん)だる武者(むしや)の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で刎落(はねおと)させ、返(かへ)す太刀(たち)にて頚打落(うちおと)して、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)してぞ立(たつ)たりける。迹(あと)に続(つづい)て追(おひ)ける者共(ものども)も、是(これ)を見て敢(あへ)て近付(ちかづく)者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋(ふたすぢ)被射付て、今は助(たすか)り難(がたし)と思(おもひ)ければ、「や殿(との)、矢田殿(やだどの)、我はとても手負(ておう)たれば、此(ここ)にて打死(うちじに)せんずるぞ。御辺(ごへん)は急ぎ宮の御方へ走参(はしりまゐり)て、此由(このよし)を申(まうし)て、一(ひと)まども落し進(まゐら)せよ。」と、再往(さいわう)強(しひ)て云(いひ)ければ、矢田も一所(いつしよ)にて打死(うちじに)せんと思(おもひ)けれども、げにも宮に告(つげ)申さゞらんは、却(かへつ)て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩(はうばい)を見捨(みすて)て帰りける心の中(うち)、被推量て哀(あはれ)也(なり)。矢田遥(はるか)に行延(ゆきのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て持(もち)たる人あり。矢田急ぎ走帰(はしりかへつ)て此(この)由を宮に申(まうし)ければ、「さては遁(のが)れぬ道に行迫(ゆきせま)りぬ。運の窮達(きゆうたつ)歎(なげ)くに無詞。」とて、御伴(おんとも)の人々に至(いたる)まで中々(なかなか)騒ぐ気色ぞ無(なか)りける。さればとて此(ここ)に可留に非(あら)ず、行(ゆか)れんずる所まで行(ゆけ)やとて、上下(じやうげ)三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、宮を前(さき)に立進(たてまゐら)せて問々(とひとひ)山路(やまぢ)をぞ越行(こえゆき)ける。既(すで)に中津河(なかつがは)の峠(たうげ)を越(こえ)んとし給(たまひ)ける所に、向(むかう)の山の両の峯に玉置(たまぎ)が勢(せい)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程混冑(ひたかぶと)に鎧(よろう)て、楯を前に進め射手(いて)を左右へ分(わけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。宮是(これ)を御覧(ごらん)じて、玉顔(ぎよくがん)殊に儼(おごそか)に打笑(うちゑ)ませ給(たまひ)て、御手(おんて)の者共(ものども)に向(むかつ)て、「矢種(やだね)の在(あら)んずる程は防矢(ふせぎや)を射よ、心静(しづか)に自害して名を万代(ばんだい)に可貽。但(ただし)各(おのおの)相構(あひかまへ)て、吾(われ)より先(さき)に腹切(きる)事(こと)不可有。吾已(すで)に自害せば、面(おもて)の皮を剥(はぎ)耳鼻(みみはな)を切(きつ)て、誰(たれ)が首(くび)とも見へぬ様(やう)にし成(なし)て捨(すつ)べし。其(その)故は我首(わがくび)を若(もし)獄門(ごくもん)に懸(かけ)て被曝なば、天下に御方(みかた)の志を存(そん)ぜん者は力を失ひ、武家は弥(いよいよ)所恐なかるべし。「死せる孔明(こうめい)生(いけ)る仲達(ちゆうたつ)を走らしむ」と云(いふ)事(こと)あり。されば死して後(のち)までも、威を天下に残(のこ)すを以て良将(りやうしやう)とせり。今はとても遁(のが)れぬ所ぞ、相構(あひかまへ)て人々きたなびれて、敵(てき)に笑はるな。」と被仰ければ、御供(おんとも)の兵(つはもの)共、「何故(なにゆゑ)か、きたなびれ候べき。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)に立(たつ)て、敵の大勢にて責上(せめのぼ)りける坂中(さかなか)の辺(へん)まで下(おり)向ふ。其(その)勢僅(わづか)三十二人(さんじふににん)、是(これ)皆一騎当千(いつきたうせん)の兵(つはもの)とはいへ共(ども)、敵五百(ごひやく)余騎(よき)に打合(うちあう)て、可戦様(やう)は無(なか)りけり。寄手(よせて)は楯を雌羽(めんどりば)につきしとうてかづき襄(あが)り、防ぐ兵(つはもの)は打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして相懸(あひかか)りに近付(ちかづく)所に、北の峯より赤旗(あかはた)三流(みながれ)、松の嵐に翻(ひるがへ)して、其(その)勢六七百騎(ろくしちひやくき)が程懸出(かけいで)たり。其(その)勢次第に近付侭(ちかづくままに)、三手に分(わかつ)て時の声を揚(あげ)て、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)に相向ふ。真前(まつさき)に進(すすん)だる武者大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「紀伊国(きのくに)の住人(ぢゆうにん)野長瀬(のながせの)六郎・同(おなじき)七郎、其(その)勢三千余騎(よき)にて大塔宮(おほたふのみや)の御迎(おんむかひ)に参る所に、忝(かたじけなく)も此(この)君に対(むか)ひ進(まゐら)せて、弓を控(ひき)楯を列(つら)ぬる人は誰(たれ)ぞや。玉置庄司殿(しやうじどの)と見るは僻目(ひがめ)か、只今可滅武家の逆命(ぎやくめい)に随(したがつ)て、即時(そくじ)に運を開かせ可給親王(しんわう)に敵対申(てきたいまうし)ては、一天下(いちてんが)の間(あひだ)何(いづれ)の処にか身を置(おか)んと思ふ。天罰不遠から、是(これ)を鎮(しづめ)ん事我等(われら)が一戦(いつせん)の内にあり。余(あま)すな漏(もら)すな。」と、をめき叫(さけん)でぞ懸(かか)りける。是(これ)を見て玉置が勢五百(ごひやく)余騎(よき)、叶はじとや思(おもひ)けん、楯を捨(すて)旗を巻(まい)て、忽(たちまち)に四角八方へ逃散(にげさん)ず。其(その)後野長瀬(のながせ)兄弟、甲(かぶと)を脱ぎ弓を脇に挟(さしはさみ)て遥(はるか)に畏(かしこま)る。宮の御前(おんまへ)近く被召て、「山中(さんちゆう)の為体(ていたらく)、大儀の計略難叶かるべき間、大和(やまと)・河内(かはち)の方へ打出(うちいで)て勢(せい)を付(つけ)ん為(ために)、令進発之処に、玉置庄司(しやうじ)只今の挙動(ふるまひ)、当手(たうて)の兵万死(ばんし)の内(うち)に一生(いつしやう)をも得難(えがた)しと覚(おぼえ)つるに、不慮(ふりよ)の扶(たすけ)に逢(あふ)事(こと)天運尚(なほ)憑(たのみ)あるに似(に)たり。抑(そもそも)此(この)事(こと)何(なに)として存知(ぞんぢ)たりければ、此(この)戦場に馳合(はせあつ)て、逆徒(げきと)の大軍(たいぐん)をば靡(なびかし)ぬるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、野長瀬畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「昨日(さくじつ)の昼程(ひるほど)に、年(とし)十四五許(ばかり)に候(さふらひ)し童(わらは)の、名をば老松(おいまつ)といへり〔と〕名乗(なのり)て、「大塔宮(おほたふのみや)明日(みやうじつ)十津河(とつがは)を御出(おんいで)有(あつ)て、小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)りあらんずるが、一定(いちぢやう)道にて難(なん)に逢はせ給(たまひ)ぬと覚(おぼゆ)るぞ、志を存(そん)ぜん人は急ぎ御迎(むかひ)に参れ」と触廻(ふれまは)り候(さふらひ)つる間、御使(おんつかひ)ぞと心得て参(まゐつ)て候。」とぞ申(まうし)ける。宮此(この)事(こと)を御思案(ごしあん)あるに、直事(ただこと)に非(あら)ずと思食合(おぼしめしあは)せて、年来(としごろ)御身(おんみ)を放(はな)されざりし膚(はだ)の御守(おんまぼり)を御覧(ごらん)ずるに、其口(そのくち)少(すこ)し開(ひらき)たりける間、弥(いよいよ)怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、則(すなはち)開(ひらき)被御覧ければ、北野天神(きたののてんじん)の御神体(しんたい)を金銅(こんどう)にて被鋳進たる其(その)御眷属(ごけんぞく)、老松(おいまつ)の明神(みやうじん)の御神体、遍身(へんしん)より汗(あせ)かいて、御足(あし)に土(つち)の付(つき)たるぞ不思議(ふしぎ)なる。「さては佳運(かうん)神慮(しんりよ)に叶(かな)へり、逆徒(げきと)の退治(たいぢ)何の疑(うたがひ)か可有。」とて、其(それ)より宮(みや)は、槙野(まきのの)上野房(かうづけばう)聖賢(しやうげん)が拵(こしらへ)たる、槙野(まきの)の城へ御入(おんいり)ありけるが、此(これ)も尚(なほ)分内(ぶんない)狭(せば)くて可悪ると御思案(ごしあん)ありて、吉野(よしの)の大衆(だいしゆ)を語(かたら)はせ給(たまひ)て、安善宝塔(あいぜんはうだふ)を城郭(じやうくわく)に構(かま)へ、岩切通(きりとほ)す吉野河を前に当(あて)て、三千余騎(よき)を随へて楯篭(たてごも)らせ給(たまひ)けるとぞ聞へし。


太平記(国民文庫)

太平記巻第六
○民部卿三位局(みんぶきやうさんみのつぼね)御夢想(ごむさうの)事(こと) S0601
夫(それ)年光(ねんくわう)不停如奔箭下流水、哀楽(あいらく)互(たがひに)替(かはること)似紅栄黄落樹。尓(しか)れば此世中(このよのなか)の有様(ありさま)、只(ただ)夢とやいはん幻(うつつ)とやいはん。憂喜(いうき)共に感ずれば、袂(たもと)の露を催(もよほ)す事雖不始今、去年(きよねん)九月に笠置(かさぎの)城破(やぶ)れて、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまひ)し後(のち)は、百司(はくし)の旧臣(きうしん)悲(かなしみ)を抱(いだい)て所々(しよしよ)に篭居(ろうきよ)し、三千の宮女(きゆうぢよ)涙を流して面々(めんめん)に臥沈(ふししづみ)給ふ有様、誠(まこと)に憂(うき)世(よ)の中(なか)の習(ならひ)と云(いひ)ながら、殊更(ことさら)哀(あはれ)に聞へしは、民部(みんぶ)卿(きやう)三位殿(さんみどのの)御局(さんみどののおつぼね)にて留(とどめ)たり。其(それ)を如何にと申(まうす)に、先朝(せんてう)の御寵愛(ごちようあい)不浅上、大塔(おほたふ)の宮(みやの)御母堂(ごぼだう)にて渡(わたら)せ給(たまひ)しかば、傍(かた)への女御(にようご)・后(きさき)は、花の側(あたり)の深山木(みやまぎ)の色香(いろか)も無(なき)が如く〔也(なり)〕。而るを世間(よのなか)静(しづか)ならざりし後は、万(よろ)づ引替(ひきかへ)たる九重(ここのへ)の内の御住居(おんすまゐ)も不定、荒(あれ)のみ増(まさ)る浪(なみ)の上に、舟(ふね)流したる海士(あま)の心地(ここち)して、寄(よ)る方もなき御思(おんおもひ)の上に打添(うちそひ)て、君は西海(さいかい)の帰らぬ波に浮沈(うきしづ)み、泪(なみだ)無隙(ひまなき)御袖(おんそで)の気色(けしき)と承(うけたまは)りしかば、空(むなしく)傾思於万里之暁月、宮は又南山(なんざん)の道なき雲に踏迷(ふみまよ)はせ給(たまひ)て、狂浮(あこがれ)たる御住居(おんすまゐ)と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方(ひとかた)ならぬ御歎(おんなげき)に、青糸(せいし)の髪疎(おろそか)にして、いつの間(ま)に老(おい)は来(き)ぬらんと被怪、紅玉(こうぎよくの)膚(はだへ)消(きえ)て、今日(けふ)を限(かぎり)の命(いのち)共(とも)がなと思召(おぼしめし)ける御悲(かなしみ)の遣方(やるかた)なさに、年来(としごろ)の御祈(いのり)の師(し)とて、御誦経(おんじゆきやう)・御撫物(おんなでもの)なんど奉りける、北野(きたの)の社僧(しやそう)の坊(ばう)に御坐(おはしま)して、一七日(ひとなぬか)参篭(さんろう)の御志(おんこころざし)ある由(よし)を被仰ければ、此折節(このをりふし)武家の聞(きこえ)も無憚には非(あら)ねども、日来(ひごろ)の御恩(ごおん)も重く、今程(いまほど)の御有様も御痛(おんいたは)しければ、無情は如何(いかが)と思(おもひ)て、拝殿(はいでん)の傍(かたはら)に僅(わづか)なる一間(ひとま)を拵(こしらへ)て、尋常(よのつね)の青女房(なまにようばう)なんどの参篭(さんろう)したる由にて置(おき)奉りけり。哀(あはれ)古(いにし)へならば、錦帳(きんちやう)に妝(よそほひ)を篭(こめ)、紗窓(しやさう)に艶(えん)を閉(とぢ)て、左右の侍女(おもとびと)其数(そのかず)を不知、当(あた)りを輝(かかやかし)て仮傅奉(いつきかしづきたてまつる)べきに、いつしか引替(ひきかへ)たる御忍(おんしのび)の物篭(ものごもり)なれば、都(みやこ)近けれ共(ども)事(こと)問(こととひ)かわす人もなし。只一夜松(ひとよのまつ)の嵐に御夢(おんゆめ)を被覚、主(あるじ)忘れぬ梅(むめ)が香(か)に、昔の春を思召出(おぼしめしいだ)すにも、昌泰(しやうたい)の年(とし)の末(すゑ)に荒人神(あらひとかみ)と成(なら)せ玉ひし、心づくしの御旅宿(おんたびね)までも、今は君の御思(おんおもひ)に擬(なぞら)へ、又は御身(おんみ)の歎(なげき)に被思召知たる、哀(あはれ)の色(いろ)の数々(かずかず)に、御念誦(おんねんじゆ)を暫(しばらく)被止て、御涙(おんなみだ)の内にかくばかり、忘(わすれ)ずは神も哀れと思(おもひ)しれ心づくしの古(いにし)への旅と遊(あそばし)て、少(すこ)し御目睡有(おんまどろみあり)ける其夜(そのよ)の御夢(おんゆめ)に、衣冠(いくわん)正(ただ)しくしたる老翁(らうをう)の、年(とし)八十有余(いうよ)なるが、左の手に梅(むめ)の花を一枝(ひとえだ)持(もち)、右の手に鳩(はと)の杖(つゑ)をつき、最(いと)苦しげなる体(てい)にて、御局(おんつぼね)の臥給(ふしたまひ)たる枕の辺(へん)に立(たち)給へり。御夢心地(おんゆめごこち)に思召(おぼしめし)けるは、篠(ささ)の小篠(をざさ)の一節(ひとふし)も、可問人も覚(おぼえ)ぬ都の外(ほか)の蓬生(よもぎふ)に、怪(あや)しや誰人(たれびと)の道蹈迷(ふみまよ)へるやすらひぞやと御尋(おんたづね)有(あり)ければ、此老翁(このらうをう)世(よ)に哀(あはれ)なる気色(きしよく)にて、云ひ出(いだ)せる詞(こと)は無(なく)て、持(もち)たる梅(むめの)花を御前(おんまへ)に指置(さしおい)て立帰(たちかへり)けり。不思議(ふしぎ)やと思召(おぼしめし)て御覧ずれば、一首(いつしゆ)の歌を短冊(たんざく)にかけり。廻(めぐ)りきて遂(つひ)にすむべき月影(つきかげ)のしばし陰(くもる)を何(なに)歎(なげ)くらん御夢(おんゆめ)覚(さめ)て歌の心を案(あん)じ給(たまふ)に、君(きみ)遂(つひ)に還幸(くわんかう)成(なり)て雲の上に住ませ可給瑞夢(ずゐむ)也(なり)。と、憑敷(たのもしく)思召(おぼしめし)けり。誠(まこと)に彼聖廟(かのせいべう)と申(まうし)奉るは、大慈大悲(だいじだいひ)の本地(ほんぢ)、天満天神(てんまんてんじん)の垂迹(すゐじやく)にて渡らせ給へば、一度(ひとたび)歩(あゆみ)を運(はこ)ぶ人、二世の悉地(しつち)を成就(じやうじゆ)し、僅(わづか)に御名(みな)を唱(となふ)る輩(ともがら)、万事(ばんじ)の所願(しよぐわん)を満足す。況乎(いはんや)千行万行(せんかうばんかう)の紅涙(こうるゐ)を滴尽(しただりつくし)て、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給へば、懇誠(こんぜい)暗(あん)に通じて感応(かんおう)忽(たちまち)に告(つげ)あり。世(よ)既(すでに)澆季(げうき)に雖及、信心誠(しんじんまこと)ある時は霊艦(れいかん)新(あらた)なりと、弥(いよいよ)憑敷(たのもしく)ぞ思食(おぼしめし)ける。
○楠(くすのき)出張天王寺(てんわうじしゆつちやうの)事付隅田(すだ)高橋並(ならびに)宇都宮(うつのみやの)事(こと) S0602
元弘二年三月五日、左近将監(さこんのしやうげん)時益(ときます)、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、両六波羅(りやうろくはら)に被補て、関東(くわんとう)より上洛(しやうらく)す。此(この)三四年は、常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)一人として、両六波羅(りやうろくはら)の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て在(あり)しが、堅く辞(じ)し申(まうし)けるに依(よつ)てとぞ聞へし。楠兵衛正成(まさしげ)は、去年(きよねん)赤坂(あかさか)の城にて自害して、焼死(やけしし)たる真似(まね)をして落(おち)たりしを、実(まこと)と心得て、武家(ぶけ)より、其跡(そのあと)に湯浅孫六(ゆあさまごろく)入道定仏(ぢやうぶつ)を地頭(ぢとう)に居置(すゑおき)たりければ、今は河内(かはちの)国(くに)に於ては殊(こと)なる事あらじと、心安(こころやす)く思(おもひ)ける処に、同(おなじき)四月三日楠五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、俄に湯浅(ゆあさ)が城へ押寄(おしよせ)て、息をも不継責戦(せめたたか)ふ。城中(じやうちゆう)に兵粮(ひやうらう)の用意(ようい)乏(とぼ)しかりけるにや、湯浅が所領紀伊(きの)国(くに)の阿瀬河(あぜがは)より、人夫(にんぶ)五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城へ入(いれ)んとする由(よし)を、楠風(ほのかに)聞(きい)て、兵(つはもの)を道の切所(せつしよ)へ差遣(さしつかはし)、悉(ことごとく)是(これ)を奪取(うばひとり)て其俵(そのたはら)に物具(もののぐ)を入替(いれかへ)て、馬に負(おふ)せ人夫(にんぶ)に持(もた)せて、兵(つはもの)を二三百人(にさんびやくにん)兵士(ひやうじ)の様(やう)に出立(いでたた)せて、城中へ入(いら)んとす。楠が勢是を追散(おひちら)さんとする真似(まね)をして、追(おつ)つ返(かへし)つ同士軍(どしいくさ)をぞしたりける。湯浅入道是(これ)を見て、我兵粮(わがひやうらう)入るゝ兵共(つはものども)が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打(うつ)て出(い)で、そゞろなる敵(てき)の兵共(つはものども)を城中へぞ引入(ひきいれ)ける。楠が勢共(せいども)思(おもひ)の侭に城中に入(いり)すまして、俵(たはら)の中より物具共(もののぐども)取出(とりいだ)し、ひし/\と堅めて、則(すなはち)時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。城の外(ほか)の勢(せい)、同時(どうじ)に木戸(きど)を破(やぶ)り、屏(へい)を越(こえ)て責入(せめいり)ける間、湯浅入道内外(ないげ)の敵に取篭(とりこめ)られて、可戦様(やう)も無(なか)りければ、忽(たちまち)に頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に出づ。楠其(その)勢を合(あは)せて、七百余騎(よき)にて和泉(いづみ)・河内の両国(りやうごく)を靡(なび)けて、大勢に成(なり)ければ、五月十七日(じふしちにち)に先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打(うつ)て出で、渡部(わたなべ)の橋より南(みんなみ)に陣を取る。然間(しかるあひだ)和泉・河内の早馬(はやむま)敷並(しきなみ)を打(うつて)、楠已(すで)に京都へ責上(せめのぼ)る由告(つげ)ければ、洛中の騒動不斜。武士(ぶし)東西に馳散(はせち)りて貴賎(きせん)上下周章(あわつる)事(こと)窮(きはま)りなし。斯(かか)りければ両六波羅(りやうろくはら)には畿内近国(きないきんごく)の勢如雲霞の馳集(はせあつまつ)て、楠今や責上(せめのぼ)ると待(まち)けれ共(ども)、敢(あへ)て其義(そのぎ)もなければ、聞(きく)にも不似、楠小勢(こぜい)にてぞ有覧(あるらん)、此方(こなた)より押寄(おしよせ)て打散(うちちら)せとて、隅田(すだ)・高橋を両六波羅(ろくはら)の軍奉行(いくさぶぎやう)として、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならび)に在京人(ざいきやうにん)、畿内近国(きないきんごく)の勢を合(あは)せて、天王寺(てんわうじ)へ被指向。其(その)勢都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、同(おなじき)二十日京都を立(たつ)て、尼崎(あまがさき)・神崎(かんざき)・柱松(はしらもと)の辺(へん)に陣を取(とり)て、遠篝(とほかがり)を焼(たい)て其夜(そのよ)を遅しと待明(まちあか)す。楠是(これ)を聞(きい)て、二千余騎(よき)を三手に分け、宗(むね)との勢をば住吉・天王寺(てんわうじ)に隠(かくし)て、僅(わづか)に三百騎(さんびやくき)許(ばかり)を渡部(わたなべ)の橋の南(みんなみ)に磬(ひかへ)させ、大篝(おほかがり)二三箇所(にさんかしよ)に焼(たか)せて相向(あひむか)へり。是(これ)は態(わざ)と敵に橋を渡させて、水の深みに追(おひ)はめ、雌雄(しゆう)を一時(いちじ)に決せんが為と也(なり)。去程(さるほど)に明(あく)れば五月二十一日に、六波羅(ろくはら)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、所々(しよしよ)の陣を一所(いつしよ)に合(あは)せ、渡部(わたなべ)の橋まで打臨(うちのぞん)で、河向(かはむかひ)に引(ひか)へたる敵の勢を見渡せば、僅(わづか)に二三百騎(にさんびやくき)には不過、剰(あまつさへ)痩(やせ)たる馬に縄手綱(なはたづな)懸(かけ)たる体(てい)の武者共(むしやども)也(なり)。隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際(ぶんざい)、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無(なか)りけり。此奴原(このやつばら)一々に召捕(めしとつ)て六条河原(ろくでうかはら)に切懸(きりかけ)て、六波羅殿(ろくはらどの)の御感(ぎよかん)に預(あづか)らんと云侭(いふまま)に、隅田(すだ)・高橋人交(ひとまぜ)もせず橋より下(しも)を一文字(いちもんじ)にぞ渡(わたし)ける。五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、我先(われさき)にと馬を進めて、或(あるひ)は橋の上(うへ)を歩(あゆ)ませ或(あるひ)は河瀬(かはせ)を渡して、向(むかひ)の岸に懸驤(かけあが)る。楠(くすのきが)勢是(これ)を見て、遠矢(とほや)少々射捨(いすて)て、一戦(いつせん)もせず天王寺(てんわうじ)の方(かた)へ引退(ひきしりぞ)く。六波羅(ろくはら)の勢是(これ)を見て、勝(かつ)に乗り、人馬(じんば)の息をも不継せ、天王寺(てんわうじ)の北の在家(ざいけ)まで、揉(もみ)に揉(もう)でぞ追(おう)たりける。楠思程(おもふほど)敵の人馬を疲(つか)らかして、二千騎(にせんぎ)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)は天王寺(てんわうじ)の東(ひんがし)より敵を弓手(ゆんで)に請(うけ)て懸出(かけい)づ。一手(ひとて)は西門(さいもん)の石の鳥居より魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸出(かけい)づ。一手は住吉の松(まつの)陰より懸出(かけい)で、鶴翼(かくよく)に立(た)て開合(ひらきあは)す。六波羅(ろくはら)の勢を見合(みあは)すれば、対揚(たいやう)すべき迄(まで)もなき大勢なりけれ共(ども)、陣の張様(はりやう)しどろにて、却(かへつ)て小勢(こぜい)に囲(かこま)れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是(これ)を見て、「敵後(うし)ろに大勢を陰(かく)してたばかりけるぞ。此辺(このあたり)は馬の足立(あしだち)悪(あしう)して叶はじ。広みへ敵を帯(おび)き出(いだ)し、勢(せい)の分際(ぶんざい)を見計(みはから)ふて、懸合々々(かけあはせかけあはせ)勝負を決せよ。」と、下知(げぢ)しければ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、敵に後(うし)ろを被切ぬ先にと、渡部(わたなべ)の橋を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠が勢是(これ)に利(り)を得て、三方(さんばう)より勝時(かちどき)を作(つくつ)て追懸(おつか)くる。橋近く成(なり)ければ、隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、「敵は大勢にては無(なか)りけるぞ、此(ここ)にて不返合大河(たいが)後(うし)ろに在(あつ)て悪(あし)かりぬべし。返せや兵共(つはものども)。」と、馬の足を立直(たてなほ)し/\下知(げぢ)しけれども、大勢の引立(ひきたて)たる事なれば、一返(ひとかへし)も不返、只我先(われさき)にと橋の危(あやふき)をも不云、馳集(はせあつま)りける間、人馬共(じんばとも)に被推落て、水に溺(おぼ)るゝ者不知数、或(あるひは)淵瀬(ふちせ)をも不知渡し懸(かかつ)て死(し)ぬる者も有り、或(あるひ)は岸より馬を馳倒(はせたふし)て其侭(そのまま)被討者も有(あり)。只馬・物具(もののぐ)を脱捨(ぬぎすて)て、逃延(にげのび)んとする者は有れ共(ども)、返合(かへしあは)せて戦はんとする者は無(なか)りけり。而(しか)れば五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、残少(のこりずく)なに被打成て這々(はふはふ)京へぞ上(のぼ)りける。其翌日(そのよくじつ)に何者(なにもの)か仕(し)たりけん、六条河原(ろくでうかはら)に高札(たかふだ)を立(た)て一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。渡部(わたなべ)の水いか許(ばかり)早(はや)ければ高橋落(おち)て隅田(すだ)流るらん京童(きやうわらんべ)の僻(くせ)なれば、此落書(このらくしよ)を歌に作(つくり)て歌ひ、或(あるひ)は語伝(かたりつたへ)て笑ひける間(あひだ)、隅田(すだ)・高橋面目(めんぼく)を失ひ、且(しばらく)は出仕(しゆつし)を逗(とど)め、虚病(きよびやう)してぞ居たりける。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、重(かさね)て寄(よ)せんと被議けり。其比(そのころ)京都余(あまり)に無勢(ぶせい)なりとて関東(くわんとう)より被上たる宇都宮(うつのみや)治部大輔(うつのみやぢぶのたいふ)を呼寄(よびよせ)評定(ひやうぢやう)有(あり)けるは、「合戦(かつせん)の習(なら)ひ運に依(よつ)て雌雄(しゆう)替(かは)る事古(いにし)へより無(なき)に非(あら)ず。然共(しかれども)今度(このたび)南方(なんばう)の軍(いくさ)負(まけ)ぬる事(こと)、偏(ひとへ)に将(しやう)の計(はかりごと)の拙(つたなき)に由(よ)れり。又士卒(じそつ)の臆病(おくびやう)なるが故(ゆゑ)也(なり)。天下(てんがの)嘲哢(てうろう)口を塞(ふさ)ぐに所(ところ)なし。就中に仲時(なかとき)罷上(まかりのぼり)し後(のち)、重(かさね)て御上洛(ごしやうらく)の事は、凶徒(きようと)若(もし)蜂起(ほうき)せば、御向(おんむか)ひ有(あつ)て静謐候(せいひつさふらへ)との為(ため)なり。今の如(ごとき)んば、敗軍の兵を駈集(かりあつめ)て何度(いくたび)むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且(かつう)は天下の一大事(いちだいじ)、此時(このとき)にて候へば、御向候(むかひさふらひ)て御退治(たいぢ)候へかし。」と宣(のたま)ひければ、宇都宮(うつのみや)辞退(じたい)の気色(きしよく)無(なう)して被申けるは、「大軍(たいぐん)已(すで)に利(り)を失(うしなう)て後(のち)、小勢(こぜい)にて罷向(まかりむかひ)候はん事(こと)、如何(いかん)と存(ぞんじ)候へども、関東(くわんとう)を罷出(まかりいで)し始(はじめ)より、加様(かやう)の御大事(おんだいじ)に逢(あう)て命(いのち)を軽(かろ)くせん事を存(ぞんじ)候き。今の時分(じぶん)、必(かならず)しも合戦の勝負(しようぶ)を見所(みるところ)にては候はねば、一人にて候共(とも)、先(まづ)罷向(まかりむかう)て一合戦(ひとかつせん)仕(つかまつ)り、及難儀候はゞ、重(かさねて)御勢(おんせい)をこそ申(まうし)候はめ。」と、誠(まこと)に思定(おもひさだめ)たる体(てい)に見へてぞ帰りける。宇都宮(うつのみや)一人武命(ぶめい)を含(ふくん)で大敵に向(むか)はん事(こと)、命(いのち)を可惜に非ざりければ、態(わざ)と宿所(しゆくしよ)へも不帰、六波羅(ろくはら)より直(すぐ)に、七月十九日(じふくにちの)午刻(うまのこく)に都を出で、天王寺(てんわうじ)へぞ下(くだ)りける。東寺辺(とうじへん)までは主従(しゆじゆう)僅(わづか)に十四五騎が程とみへしが、洛中(らくちゆう)にあらゆる所(ところ)の手者共(てのものども)馳加(はせくはは)りける間、四塚(よつづか)・作道(つくりみち)にては、五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者をば、権門勢家(けんもんせいけ)を不云、乗馬(のりむま)を奪ひ人夫(にんぶ)を駈立(かけた)て通(とほ)りける間、行旅(かうりよ)の往反路(わうへんみち)を曲(ま)げ、閭里(りより)の民屋(みんをく)戸(とぼそ)を閉(と)づ。其夜(そのよ)は柱松(はしらもと)に陣を取(とり)て明(あく)るを待つ。其志(そのこころざし)一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者は無(なか)りけり。去程(さるほど)に河内(かはちの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)和田(わだ)孫三郎此由(このよし)を聞(きい)て、楠が前(まへ)に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「先日(せんじつ)の合戦に負腹(まけばら)を立て京より宇都宮(うつのみや)を向(むけ)候なる。今夜(こよひ)既(すで)に柱松(はしらもと)に着(つい)て候が其勢(そのせい)僅(わづか)に六七百騎(ろくしちひやくき)には過(すぎ)じと聞へ候。先(さき)に隅田(すだ)・高橋が五千(ごせん)余騎(よき)にて向(むかつ)て候(さふらひ)しをだに、我等(われら)僅(わづか)の小勢(こぜい)にて追散(おつちら)して候(さふらひ)しぞかし。其上(そのうへ)今度(このたび)は御方(みかた)勝(かつ)に乗(のつ)て大勢也(なり)。敵は機(き)を失(うしなう)て小勢也(なり)。宇都宮(うつのみや)縦(たと)ひ武勇(ぶゆう)の達人(たつじん)なりとも、何程(なにほど)の事か候べき。今夜(こよひ)逆寄(さかよせ)にして打散(うちちら)して捨候(すてさふらは)ばや。」と云(いひ)けるを、楠暫(しばらく)思案(しあん)して云(いひ)けるは、「合戦の勝負(しようぶ)必(かならず)しも大勢小勢(おほぜいこぜい)に不依、只(ただ)士卒(じそつ)の志(こころざし)を一にするとせざると也(なり)。されば「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」と申す事是(これ)なり。先(まづ)思案(しあん)するに、先度(せんど)の軍(いくさ)に大勢打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)く跡(あと)へ、宇都宮(うつのみや)一人小勢にて相向(あひむか)ふ志(こころざし)、一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者よも候はじ。其上(そのうへ)宇都宮(うつのみや)は坂東一(ばんどういち)の弓矢取(ゆみやとり)也(なり)。紀清両党(きせいりやうたう)の兵(つはもの)、元来(もとより)戦場(せんぢやう)に臨(のぞん)で命を棄(すつ)る事塵芥(ぢんがい)よりも尚(なほ)軽(かる)くす。其兵(そのつはもの)七百余騎(よき)志を一(ひと)つにして戦(たたかひ)を決せば、当手(たうて)の兵(つはもの)縦(たとひ)退(しりぞ)く心なく共(とも)、大半(たいはん)は必(かならず)可被討。天下の事全(まつたく)今般(このたび)の戦(たたかひ)に不可依。行末(ゆくすゑ)遥(はるか)の合戦に、多からぬ御方(みかた)初度(しよど)の軍(いくさ)に被討なば、後日(ごにち)の戦(たたかひ)に誰か力(ちから)を可合。「良将(りやうしやう)は不戦して勝(かつ)」と申(まうす)事(こと)候へば、正成(まさしげ)に於ては、明日態(わざ)と此(この)陣を去(さつ)て引退(ひきしりぞ)き、敵に一面目(ひとめんぼく)在(あ)る様(やう)に思はせ、四五日を経て後(のち)、方々(はうばう)の峯に篝(かがり)を焼(たい)て、一蒸(ひとむし)蒸程(むすほど)ならば、坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)、無程機疲(きつかれ)て、「いや/\長居(ながゐ)しては悪(あし)かりなん。一面目(ひとめんぼく)有(ある)時去来(いざ)や引返(ひきかへ)さん。」と云(いは)ぬ者は候はじ。されば「懸(かく)るも引(ひく)も折(をり)による」とは、加様(かやう)の事を申(まうす)也(なり)。夜(よ)已(すで)に暁天(げうてん)に及べり。敵定(さだめ)て今は近付(ちかづく)らん。去来(いざ)させ給へ。」とて、楠天王寺(てんわうじ)を立(たち)ければ、和田・湯浅(ゆあさ)も諸共(もろとも)に打連(うちつれ)てぞ引(ひき)たりける。夜(よ)明(あけ)ければ、宇都宮(うつのみや)七百余騎(よき)の勢にて天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよ)せ、古宇都(こうづ)の在家(ざいけ)に火を懸け、時(とき)の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺(このあたり)は馬の足立(あしたち)悪(あしう)して、道狭(せば)き間、懸入(かけいる)敵に中(なか)を被破な、後(うし)ろを被裹な。」と下知(げぢ)して、紀清両党(きせいりやうたう)馬の足をそろへて、天王寺(てんわうじ)の東西(とうざい)の口(くち)より懸入(かけいつ)て、二三度(にさんど)まで懸入々々(かけいりかけいり)しけれ共(ども)、敵一人も無(なく)して、焼捨(たきすて)たる篝(かがり)に燈(ともしび)残(のこり)て、夜はほの/゛\と明(あけ)にけり。宇都宮(うつのみや)不戦先(さき)に一勝(ひとかち)したる心地(ここち)して、本堂(ほんだう)の前(まへ)にて馬より下(お)り、上宮太子(じやうぐうたいし)を伏拝(ふしをが)み奉り、是(これ)偏(ひとへ)に武力(ぶりき)の非所致、只然(しかしながら)神明仏陀(しんめいぶつだ)の擁護(おうご)に懸(かか)れりと、信心(しんじん)を傾(かたむ)け歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)を成(な)せり。頓(やが)て京都へ早馬(はやむま)を立(た)て、「天王寺(てんわうじ)の敵をば即時(そくじ)に追落(おひおと)し候(さふらひ)ぬ。」と申(まうし)たりければ、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として、御内外様(みうちとざま)の諸軍勢(しよぐんぜい)に至(いたる)まで、宇都宮(うつのみや)が今度(このたび)の振舞(ふるまひ)抜群(ばつぐん)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。宇都宮(うつのみや)、天王寺(てんわうじ)の敵を輒(たやす)く追散(おつちら)したる心地(ここち)にて、一面目(ひとめんぼく)は有体(あるてい)なれ共(ども)、軈(やが)て続(つづい)て敵の陣へ責入(せめい)らん事も、無勢(ぶぜい)なれば不叶、又誠(まこと)の軍(いくさ)一度(いちど)も不為して引返(ひつかへ)さん事もさすがなれば、進退(しんだい)谷(きはまつ)たる処に、四五日を経(へ)て後(のち)、和田・楠(くすのき)、和泉(いづみ)・河内(かはち)の野伏共(のぶしども)を四五千人駈集(かりあつめ)て、可然兵(つはもの)二三百騎(にさんびやくき)差副(さしそへ)、天王寺(てんわうじ)辺(へん)に遠篝火(とほかがりび)をぞ焼(たか)せける。すはや敵こそ打出(うちいで)たれと騒動(さうどう)して、深行侭(ふけゆくまま)に是(これ)を見れば、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の里(さと)、生駒(いこま)の岳(だけ)に見ゆる火は、晴(はれ)たる夜の星よりも数(しげ)く、藻塩草(もしほぐさ)志城津(しぎづ)の浦、住吉(すみよし)・難波(なんば)の里に焼篝(たくかがり)は、漁舟(ぎよしう)に燃(とぼ)す居去火(いさりび)の、波を焼(たく)かと怪しまる。総(すべ)て大和(やまと)・河内・紀伊(きの)国(くに)にありとある所の山々浦々に、篝(かがり)を焼(たか)ぬ所は無(なか)りけり。其(その)勢幾万騎(いくまんぎ)あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第(しだい)に相近付(あひちかづ)けば、弥(いよいよ)東西南北四維上下(しゆゐじやうげ)に充満(じゆうまん)して、闇夜(あんや)に昼(ひる)を易(かへ)たり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を見て、敵寄来(よせきた)らば一軍(ひといくさ)して、雌雄(しゆう)を一時に決せんと志(こころざ)して、馬の鞍(くら)をも不息、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)をも不解待懸(まちかけ)たれ共(ども)、軍(いくさ)は無(なう)して敵の取廻(とりまは)す勢(いきほ)ひに、勇気疲(つか)れ武力(ぶりき)怠(たゆん)で、哀(あは)れ引退(ひきしりぞ)かばやと思ふ心着(つき)けり。斯(かか)る処に紀清両党(きせいりやうたう)の輩(ともがら)も、「我等(われら)が僅(わづか)の小勢(こぜい)にて此(この)大敵に当(あた)らん事は、始終(しじゆう)如何(いかん)と覚(おぼえ)候。先日(せんじつ)当所(たうしよ)の敵を無事故追落(おひおと)して候(さふらひ)つるを、一面目(ひとめんぼく)にして御上洛(ごしやうらく)候へかし。」と申せば、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じ、七月二十七日(にじふしちにちの)夜半許(やはんばかり)に宇都宮(うつのみや)天王寺(てんわうじ)を引(ひきて)上洛(しやうらく)すれば、翌日(よくじつ)早旦(さうたん)に楠頓(やが)て入替(いりかは)りたり。誠(まこと)に宇都宮(うつのみや)と楠と相戦(あひたたかう)て勝負(しようぶ)を決せば、両虎二龍(りやうこじりゆう)の闘(たたかひ)として、何(いづ)れも死を共(とも)にすべし。されば互に是(これ)を思ひけるにや、一度(ひとたび)は楠引(ひい)て謀(はかりごと)を千里(せんり)の外(ほか)に運(めぐら)し、一度(ひとたび)は宇都宮(うつのみや)退(しりぞい)て名を一戦(いつせん)の後(のち)に不失。是(これ)皆智謀深く、慮(おもんばか)り遠き良将(りやうしやう)なりし故(ゆゑ)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に楠兵衛正成(まさしげ)は、天王寺(てんわうじ)に打出(うちいで)て、威猛(ゐまう)を雖逞、民屋(みんをく)に煩(わづら)ひをも不為して、士卒(じそつ)に礼を厚くしける間、近国(きんごく)は不及申、遐壌遠境(かじやうゑんきやう)の人牧(じんぼく)までも、是(これ)を聞伝(ききつた)へて、我(われ)も我(われ)もと馳加(はせくはは)りける程に、其勢(そのいきほ)ひ漸(やうやく)強大(きやうだい)にして、今は京都よりも、討手(うつて)を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。
○正成(まさしげ)天王寺(てんわうじの)未来記(みらいき)披見(ひけんの)事(こと) S0603 
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉(すみよし)に参詣し、神馬(しんめ)三疋(さんびき)献之。翌日(よくじつ)天王寺(てんわうじ)に詣(まうで)て白鞍(しろくら)置(おい)たる馬、白輻輪(しらぶくりん)の太刀、鎧(よろひ)一両(いちりやう)副(そへ)て引進(ひきまゐら)す。是(これ)は大般若経(だいはんにやきやう)転読(てんどく)の御布施(おんふせ)なり。啓白(けいひやく)事終(ことをはつ)て、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)巻数(くわんじゆ)を捧(ささげ)て来れり。楠則(すなはち)対面して申(まうし)けるは、「正成、不肖(ふせう)の身として、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)て候事(こと)、涯分(がいぶん)を不計に似たりといへ共(ども)、勅命の不軽礼儀を存(ぞん)ずるに依(よつ)て、身命(しんみやう)の危(あやふ)きを忘(わすれ)たり。然(しかる)に両度(りやうど)の合戦聊(いささか)勝(かつ)に乗(のつ)て、諸国の兵不招馳加(はせくはは)れり。是(これ)天の時を与へ、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)を被回歟(か)と覚(おぼえ)候。誠やらん伝承(つたへうけたまは)れば、上宮(じようぐう)太子の当初(そのかみ)、百王治天(ちてん)の安危(あんき)を勘(かんがへ)て、日本(につぽん)一州(いつしう)の未来記(みらいき)を書置(かきおか)せ給(たまひ)て候なる。拝見若(もし)不苦候はゞ、今の時に当(あた)り候はん巻許(まきばかり)、一見仕候(つかまつりさふらは)ばや。」と云(いひ)ければ、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)答(こたへ)て云(いはく)、「太子守屋(もりや)の逆臣(ぎやくしん)を討(うつ)て、始(はじめ)て此寺(このてら)を建(たて)て、仏法を被弘候(さふらひ)し後(のち)、神代(しんだい)より始(はじめ)て、持統(ぢとう)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に至(いたる)までを被記たる書(しよ)三十巻(さんじつくわん)をば、前代旧事本記(ぜんだいくじほんぎ)とて、卜部(うらべ)の宿祢(すくね)是(これ)を相伝(さうでん)して有職(いうしよく)の家を立(たて)候。其外(そのほか)に又一巻(いつくわん)の秘書(ひしよ)を被留て候。是(これ)は持統(ぢとう)天皇(てんわう)以来末世代々(まつせだいだい)の王業(わうげふ)、天下の治乱(ちらん)を被記て候。是(これ)をば輒(たやす)く人の披見(ひけん)する事は候はね共(ども)、以別儀密(ひそか)に見参(げんざん)に入(いれ)候べし。」とて、即(すなはち)秘府(ひふ)の銀鑰(ぎんやく)を開(ひらい)て、金軸(こんぢく)の書(しよ)一巻(いつくわん)を取出(とりいだ)せり。正成悦(よろこび)て則(すなはち)是(これ)を披覧(ひらん)するに、不思議(ふしぎ)の記文(きもん)一段(だん)あり。其文(そのもん)に云(いはく)、当人王九十五代。天下一(ひとたび)乱(みだれて)而主(しゆ)不安。此(この)時東魚(とうぎよ)来(きたつて)呑四海(しかい)。日没西天三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)。西鳥(せいてう)来(きたつて)食東魚を。其後(そののち)海内(かいだい)帰一三年。如■猴(みこうのごとき)者掠天下三十(さんじふ)余年(よねん)。大凶(だいきよう)変(へんじて)帰一元。云云。正成不思議(ふしぎ)に覚へて、能々(よくよく)思案(しあん)して此文(このもん)を考(かんがふ)るに、先帝(せんてい)既(すで)に人王(にんわう)の始(はじめ)より九十五代に当(あた)り給へり。「天下一度(ひとたび)乱(みだれ)て主不安」とあるは是此(これこの)時なるべし。「東魚(とうぎよ)来(きたつ)て呑四海(しかい)」とは逆臣(ぎやくしん)相摸(さがみ)入道の一類(いちるゐ)なるべし。「西鳥(せいてう)食東魚を」とあるは関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)す人可有。「日没西天に」とは、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)」とは、明年(みやうねん)の春(はる)の比(ころ)此(この)君隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、再び帝位に即(つ)かせ可給事なるべしと、文(もん)の心を明(あきらか)に勘(かんがふる)に、天下の反覆(へんふく)久しからじと憑敷(たのもしく)覚(おぼえ)ければ、金作(こがねづくり)の太刀一振(ひとふり)此(この)老僧に与へて、此書(このしよ)をば本(もと)の秘府(ひふ)に納(をさめ)させけり。後(のち)に思合(おもひあは)するに、正成(まさしげ)が勘(かんが)へたる所、更(さら)に一事(いちじ)も不違。是(これ)誠(まこと)に大権聖者(だいごんのしやうじや)の末代(まつだい)を鑒(かんがみ)て記(しる)し置給(おきたまひ)し事なれ共(ども)、文質三統(ぶんしつさんとう)の礼変(れいべん)、少しも違(たが)はざりけるは、不思議(ふしぎ)なりし讖文(しんもん)也(なり)。
○赤松(あかまつ)入道円心(ゑんしん)賜大塔宮令旨事 S0604
其比(そのころ)播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、村上(むらかみ)天皇(てんわう)第七(だいしちの)御子(みこ)具平(ぐへい)親王(しんわう)六代の苗裔(べうえい)、従三位(じゆさんみ)季房(すゑふさ)が末孫(ばつそん)に、赤松(あかまつの)次郎入道円心(ゑんしん)とて弓矢取(とつ)て無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)有り。元来(もとより)其(その)心闊如(くわつじよ)として、人の下風(したて)に立(たた)ん事を思はざりければ、此(この)時絶(たえ)たるを継廃(つぎすたれ)たるを興(おこ)して、名を顕(あらは)し忠を抽(ぬきんで)ばやと思(おもひ)けるに、此(この)二三年大塔宮(おほたふのみや)に属纒奉(つきまとひたてまつり)て、吉野十津川(とつがは)の艱難(かんなん)を経(へ)ける円心が子息(しそく)律師(りつし)則祐(そくいう)、令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。披覧(ひらん)するに、「不日(ふじつ)に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者(は)、恩賞(おんしやう)宜依請」之(の)由(よし)、被戴。委細(いさいの)事書(ことがき)十七(じふしち)箇条の恩裁(おんさいを)被添たり。条々何(いづ)れも家の面目(めんぼく)、世の所望(しよまう)する事なれば、円心不斜悦(よろこう)で、先(まづ)当国佐用庄(さよのしやう)苔縄(こけなは)の山に城を構(かまへ)て、与力(よりき)の輩(ともがら)を相招(あひまね)く。其(その)威漸(やうやく)近国(きんごく)に振(ふる)ひければ、国中の兵共(つはものども)馳集(はせあつまつ)て、無程其(その)勢一千余騎(よき)に成(なり)にけり。只秦(しん)の世已(すで)に傾(かたむか)んとせし弊(つひえ)に乗(のつとつ)て、楚(そ)の陳勝(ちんしよう)が異蒼頭(さうとう)にして大沢(だいたく)に起りしに異ならず。頓(やが)て杉坂(すぎさか)・山(やま)の里(さと)二箇所(にかしよ)に関を居(すゑ)、山陽(せんやう)・山陰(せんいん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぐ。是より西国(さいこく)の道止(とまつ)て、国々の勢上洛(しやうらく)する事を得ざりけり。
○関東(くわんとうの)大勢(おほぜい)上洛(しやうらくの)事(こと) S0605
去程(さるほど)に畿内西国(きないさいこく)の凶徒(きようと)、日を逐(おつ)て蜂起(ほうき)する由(よし)、六波羅(ろくはら)より早馬(はやむま)を立(た)て関東(くわんとう)へ被注進。相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば討手を指遣(さしつかは)せとて、相摸守(さがみのかみ)の一族(いちぞく)、其外(そのほか)東(ひがし)八箇国(はちかこく)の中に、可然大名共(だいみやうども)を催(もよほ)し立(た)て被差上。先(まづ)一族(いちぞく)には、阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)・名越遠江(なごやのとほたふみの)入道・大仏(おさらぎの)前陸奥守(さきのむつのかみ)貞直(さだなほ)・同(おなじき)武蔵(むさしの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・伊具右近(いぐのうこんの)大夫将監・陸奥右馬助(むつのうまのすけ)、外様(とざま)の人々には、千葉大介(ちばのおほすけ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)・小山判官(をやまのはんぐわん)・武田(たけだの)伊豆(いづの)三郎・小笠原(をがさはら)彦五郎・土岐伯耆(ときのはうき)入道・葦名判官(あしなのはんぐわん)・三浦(みうらの)若狭(わかさの)五郎・千田(せんだの)太郎・城太宰大弐(じやうのださいのだいに)入道・佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・同(おなじき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・結城(ゆふきの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・小田常陸前司(をだのひたちのぜんじ)・長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同(おなじき)九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長江(ながえの)弥六左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長沼駿河(ながぬまのするがの)守(かみ)・渋谷(しぶや)遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河(みかはの)入道・工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもん)高景(たかかげ)・狩野(かのの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊東常陸(いとうひたちの)前司・同(おなじき)大和(やまとの)入道・安藤藤内(あんどうとうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・宇佐美摂津(つの)前司・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道・同下野(おなじきしもつけの)判官・同常陸介(おなじきひたちのかみ)・安保(あぶの)左衛門入道・南部(なんぶの)次郎・山城(やましろの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)を始(はじめ)として、宗(むね)との大名(だいみやう)百三十二人(ひやくさんじふににん)、都合(つがふ)其(その)勢三十万七千五百(ごひやく)余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、十月八日先陣(せんぢん)既(すで)に京都に着(つ)けば後陣(ごぢん)は未だ足柄(あしがら)・筥根(はこね)に支(ささ)へたり。是(これ)のみならず河野(かうのの)九郎四国の勢を率(そつ)して、大船(たいせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて尼崎(あまがさき)より襄(あがつ)て下京(しもきやう)に着(つく)。厚東(こうとう)入道・大内介(おほちのすけ)・安芸(あきの)熊谷(くまがえ)、周防(すはう)・長門(ながと)の勢を引具(ひきぐ)して、兵船(ひやうせん)二百余艘(よさう)にて、兵庫(ひやうご)より襄(あがつ)て西(にし)の京(きやう)に着(つく)。甲斐・信濃(しなの)の源氏七千余騎(よき)、中山道(なかせんだう)を経(へ)て東山(ひがしやま)に着(つく)。江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・淡河右京亮(あいかはうきやうのすけ)、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢を率(そつ)して、三万余騎(よき)にて東坂本(ひがしさかもと)を経て上京(かみきやう)に着(つく)。総(そう)じて諸国七道の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳上(はせのぼ)りける間、京白河(しらかは)の家(いへ)々に居余(ゐあま)り、醍醐(だいご)・小栗栖(をぐるす)・日野(ひの)・勧修寺(くわんしゆじ)・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・太秦(うづまさ)の辺(へん)・西山(にしやま)・北山(きたやま)・賀茂(かも)・北野・革堂(かうだう)・河崎(かうさき)・清水(きよみづ)・六角堂の門(もん)の下(した)、鐘楼(しゆろう)の中迄(まで)も、軍勢の宿(やど)らぬ所は無(なか)りけり。日本(につぽん)雖小国是程(これほど)に人の多かりけりと始(はじめ)て驚く許(ばかり)也(なり)。去程(さるほど)に元弘三年正月晦日(つごもり)、諸国の軍勢八十万騎(はちじふまんぎ)を三手(みて)に分(わけ)て、吉野・赤坂・金剛山(こんがうせん)、三(みつ)の城へぞ被向ける。先(まづ)吉野へは二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)を太将として、態(わざ)と他の勢を交(まじ)へず、二万七千余騎(よき)にて、上道(かみみち)・下道(しもみち)・中道(なかみち)より、三手に成(なつ)て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)を大将として、其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、先(まづ)天王寺(てんわうじ)・住吉に陣を張る。金剛山(こんがうせん)へは陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)、搦手(からめで)の大将として、其(その)勢二十万騎(にじふまんぎ)、奈良路(ならぢ)よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)は、別して侍(さぶらひ)大将を承(うけたまはつ)て、大手(おほて)へ向ひけるが、態(わざと)己(おのれ)が勢(せい)の程を人に被知とや思(おもひ)けん。一日引(ひき)さがりてぞ向ひける。其行妝(そのかうさう)見物(けんぶつ)の目をぞ驚(おどろか)しける。先(まづ)旗差(はたさし)、其(その)次に逞しき馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、一様(いちやう)の鎧(よろひ)着(きた)る兵(つはもの)八百(はつぴやく)余騎(よき)、二町(にちやう)計(ばかり)先(さ)き立(だ)てゝ、馬を静めて打(うた)せたり。我(わが)身は其(その)次に纐纈(かうけつ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、精好(せいがう)の大口(おほくち)を張(はら)せ、紫下濃(むらさきすそご)の鎧に、白星(しらぼし)の五枚甲(かぶと)に八竜(はちりゆう)を金(きん)にて打(うつ)て付(つけ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、銀(しろがね)の瑩付(みがきつけ)の脛当(すねあて)に金作(こがねづくり)の太刀に振帯(ふりはい)て、一部黒(いちのへいぐろ)とて、五尺三寸有(あり)ける坂東(ばんどう)一の名馬に塩干潟(しほひがた)の捨小舟(すてをぶね)を金貝(かながひ)に磨(すり)たる鞍を置(おい)て、款冬(やまぶき)色の厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、三十六(さんじふろく)差(さい)たる白磨(しらすり)の銀筈(しろがねはず)の大中黒(おほなかぐろ)の矢に、本滋藤(もとしげどう)の弓の真中(まつなか)握(にぎつ)て、小路(こうぢ)を狭(せば)しと歩(あゆ)ませたり。片小手(かたこて)に腹当(はらあて)して、諸具足(もろぐそく)したる中間(ちゆうげん)五百(ごひやく)余人(よにん)、二行(にがう)に列を引き、馬の前後(ぜんご)に随(したがつ)て、閑(しづか)に路次(ろし)をぞ歩(あゆ)みける。其後(そののち)四五町(しごちやう)引(ひき)さがりて、思々(おもひおもひ)に鎧(よろう)たる兵(つはもの)十万余騎(よき)、甲(かぶと)の星を輝(かかや)かし、鎧の袖を重(かさね)て、沓(くつ)の子(こ)を打(うち)たるが如くに道五六里が程支(ささへ)たり。其勢(そのいきほ)ひ決然(けつぜん)として天地を響(ひび)かし山川(さんせん)を動(うごか)す許(ばかり)也(なり)。此外(このほか)々様(とざま)の大名(だいみやう)五千騎(ごせんぎ)・三千騎、引分々々(ひきわけひきわけ)昼夜(ちうや)十三日迄(まで)、引(ひき)も切らでぞ向ひける。我朝(わがてう)は不及申、唐土(たうど)・天竺(てんぢく)・太元(たいげん)・南蛮(なんばん)も、未(いまだ)是程(これほど)の大軍を発(おこ)す事難有かりし事也(なり)。と思はぬ人こそ無(なか)りけれ。
○赤坂合戦(あかさかかつせんの)事(こと)付人見本間(ひとみほんま)抜懸(ぬけがけの)事(こと) S0606
去程(さるほど)に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)、後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へんが為に、天王寺(てんわうじ)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二月二日午刻(むまのこく)に、可有矢合、於抜懸之輩者(は)、可為罪科之由(よし)をぞ被触ける。爰(ここ)に武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に人見(ひとみ)四郎入道恩阿(おんあ)と云(いふ)者あり。此(この)恩阿、本間(ほんま)九郎資貞(すけさだ)に向(むかつ)て語りけるは、「御方(みかた)の軍勢雲霞(うんか)の如くなれば、敵陣を責落(せめおと)さん事疑(うたがひ)なし。但(ただし)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、関東(くわんとう)天下を治(をさめ)て権を執(と)る事已(すで)に七代に余れり。天道(てんだう)欠盈理(り)遁(のが)るゝ処なし。其上(そのうへ)臣として君を流し奉る積悪(せきあく)、豈(あに)果して其身(そのみ)を滅(ほろぼ)さゞらんや。某(それがし)不肖(ふせう)の身なりと云へ共(ども)、武恩を蒙(かうむつ)て齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に余れり。今日より後(のち)差(さし)たる思出(おもひで)もなき身の、そゞろに長生(ながいき)して武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後(らうご)の恨(うらみ)臨終(りんじゆう)の障(さはり)共(とも)成(なり)ぬべければ、明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に先懸(さきがけ)して、一番に討死して、其(その)名を末代(まつだい)に遺(のこ)さんと存(ぞん)ずる也(なり)。」と語りければ、本間九郎心中(しんちゆう)にはげにもと思(おもひ)ながら、「枝葉(しえふ)の事を宣(のたまふ)者哉(かな)。是(これ)程なる打囲(うちごみ)の軍(いくさ)に、そゞろなる先懸(さきがけ)して討死したりとも、差(さし)て高名(かうみやう)とも云(いは)れまじ。されば只(ただ)某(それがし)は人なみに可振舞也(なり)。」と云(いひ)ければ、人見よにも無興気(ぶきようげ)にて、本堂の方(かた)へ行(ゆき)けるを、本間怪(あやし)み思(おもひ)て、人を付(つけ)て見せければ、矢立(やたて)を取出(とりいだ)して、石の鳥居(とりゐ)に何事(なにこと)とは不知一筆(ひとふで)書付(かきつけ)て、己(おのれ)が宿(やど)へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此(この)者に一定(いちぢやう)明日先懸(さきがけ)せられぬと、心ゆるし無(なか)りければ、まだ宵(よひ)より打立(うちたつ)て、唯(ただ)一騎東条(とうでう)を指(さし)て向(むかひ)けり。石川々原(いしかはかはら)にて夜(よ)を明(あか)すに、朝霞(あさぎり)の晴間(はれま)より、南の方(かた)を見ければ、紺唐綾威(こんのからあやをどし)の鎧に白母衣(しろほろ)懸(かけ)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗(のつ)たる武者(むしや)一騎、赤坂(あかさか)の城へぞ向ひける。何者(なにもの)やらんと馬打寄(うちよ)せて是(これ)を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付(みつけ)て云(いひ)けるは、「夜部(よべ)宣(のたまひ)し事を実(まこと)と思(おもひ)なば、孫(まご)程の人に被出抜まし。」と打笑(うちわらう)てぞ、頻(しきり)に馬を早めける。本間跡(あと)に付(つい)て、「今は互に先(さき)を争ひ申(まうす)に及(およば)ず、一所(いつしよ)にて尸(かばね)を曝(さら)し、冥途(めいど)までも同道(どうだう)申さんずるぞよ。」と云(いひ)ければ、人見、「申(まうす)にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打(うち)けるが、赤坂城の近く成(なり)ければ、二人(ににん)の者共(ものども)馬の鼻を双(ならべ)て懸驤(かけあが)り、堀の際(きは)まで打寄(うちよつ)て、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)弓杖(ゆんづゑ)突(つい)て、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、人見四郎入道恩阿(おんあ)、年(とし)積(つもつ)て七十三、相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだ)、生年(しやうねん)三十七、鎌倉(かまくら)を出(いで)しより軍(いくさ)の先陣を懸(かけ)て、尸(かばね)を戦場に曝(さら)さん事を存じて相向(あひむか)へり。我(われ)と思はん人々は、出合(いであひ)て手なみの程を御覧(ごらん)ぜよ。」と声々(こゑごゑ)に呼(よばはつ)て城を睨(にらん)で引(ひか)へたり。城中(じやうちゆう)の者共(ものども)是(これ)を見て、是(これ)ぞとよ、坂東武者(ばんどうむしや)の風情(ふぜい)とは。只(ただ)是(これ)熊谷(くまがえ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)を伝聞(つたへきい)て、羨敷(うらやましく)思へる者共(ものども)也(なり)。跡(あと)を見るに続く武者もなし。又さまで大名(だいみやう)とも見へず。溢(あふ)れ者の不敵武者(ふてきむしや)に跳(をど)り合(あう)て、命(いのち)失(うしなう)て何かせん。只置(おい)て事の様(やう)を見よ、とて、東西鳴(なり)を静めて返事もせず。人見腹を立(た)て、「早旦(さうたん)より向(むかつ)て名乗れ共(ども)、城より矢の一(ひとつ)をも射出(いいだ)さぬは、臆病(おくびやう)の至(いた)り歟(か)、敵を侮(あなど)る歟(か)、いで其義(そのぎ)ならば手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛下(とびおり)て、堀の上なる細橋(ほそはし)さら/\と走渡(はしりわた)り、二人(ににん)の者共(ものども)出(だ)し屏(べい)の脇に引傍(ひつそう)て、木戸を切落(きりおと)さんとしける間、城中是(これ)に騒(さわい)で、土小間(つちざま)・櫓(やぐら)の上より、雨の降(ふる)が如くに射ける矢、二人(ににん)の者共(ものども)が鎧に、蓑毛(みのけ)の如くにぞ立(たち)たりける。本間も人見も、元(もと)より討死(うちじに)せんと思立(おもひたち)たる事なれば、何かは一足(ひとあし)も可引。命(いのち)を限(かぎり)に二人(ににん)共(とも)に一所(いつしよ)にて被討けり。是(これ)まで付従(つきしたが)ふて最後の十念(じふねん)勧(すす)めつる聖(ひじり)、二人(ににん)が首を乞得(こひえ)て、天王寺(てんわうじ)に持(もち)て帰り、本間が子息(しそく)源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)に始(はじめ)よりの有様(ありさま)を語る。資忠(すけただ)父が首を一目見て、一言(いちごん)をも不出、只涙に咽(むせん)で居たりけるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、鐙を肩に投懸(なげかけ)、馬に鞍置(おい)て只一人打出(うちいで)んとす。聖怪(あやし)み思(おもう)て、鎧の袖を引留(ひきとど)め、「是(これ)はそも如何(いか)なる事にて候ぞ。御親父(ごしんぶ)も此(この)合戦に先懸(さきがけ)して、只名(な)を天下の人に被知と許(ばかり)思召(おぼしめ)さば、父子(ふし)共に打連(うちつれ)てこそ向はせ給ふべけれ共、命(いのち)をば相摸殿(さがみどの)に献(たてまつ)り、恩賞(おんしやう)をば子孫(しそん)の栄花(えいぐわ)に貽(のこ)さんと思召(おぼしめし)ける故(ゆゑ)にこそ、人より先(さき)に討死をばし給(たまふ)らめ。而(しか)るに思ひ篭(こめ)給へる所もなく、又敵陣に懸入(かけいつ)て、父子共(ふしとも)に打死し給ひなば、誰か其跡(そのあと)を継(つ)ぎ誰か其(その)恩賞を可蒙。子孫無窮(ぶきゆう)に栄(さかゆ)るを以(もつ)て、父祖の孝行を呈(あらは)す道とは申(まうす)也(なり)。御悲歎(ごひたん)の余(あま)りに無是非死を共にせんと思召(おぼしめす)は理(ことわり)なれ共(ども)、暫(しばらく)止(とま)らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押(おさ)へて無力着(き)たる鎧を脱置(ぬぎおき)たり。聖(ひじり)さては制止に拘(かかは)りぬと喜しく思て、本間が首(くび)を小袖に裹(つつ)み、葬礼の為に、側(あたり)なる野辺(のべ)へ越(こえ)ける其(その)間に、資忠(すけただ)今は可止人なければ、則(すなはち)打出(うちいで)て、先(まづ)上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)に参り、今生(こんじやう)の栄耀(えいえう)は、今日(けふ)を限りの命(いのち)なれば、祈る所に非(あら)ず、唯(ただ)大悲(だいひ)の弘誓(ぐぜい)の誠(まこと)有らば、父にて候者の討死仕候(つかまつりさふらひ)し戦場(せんぢやう)の同じ苔(こけ)の下(した)に埋(うづも)れて、九品安養(くぼんあんやう)の同台(おなじうてな)に生(むま)るゝ身と成(な)させ給へと、泣々(なくなく)祈念(きねむ)を凝(こら)して泪(なみだ)と共に立出(たちいで)けり。石の鳥居(とりゐ)を過(すぐ)るとて見れば我(わが)父と共に討死しける人見四郎入道が書付(かきつけ)たる歌あり。是(これ)ぞ誠(まこと)に後世(ごせ)までの物語に可留事よと思(おもひ)ければ、右の小指を喰切(くひきつ)て、其(その)血を以て一首(いつしゆ)を側(そば)に書添(かきそへ)て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成(なり)ぬる所にて馬より下(お)り、弓を脇に挟(さしはさん)で城戸(きど)を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼(よばは)りけり。良(やや)暫く在(あつ)て、兵(つはもの)二人(ににん)櫓(やぐら)の小間(さま)より顔を指出(さしいだ)して、「誰人(たれびと)にて御渡(わたり)候哉(や)。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は今朝(こんてう)此(この)城に向(むかつ)て打死(うちじに)して候(さふらひ)つる、本間九郎資貞(すけさだ)が嫡子、源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)と申(まうす)者にて候也(なり)。人の親の子を憶(おも)ふ哀(あはれ)み、心の闇に迷(まよ)ふ習(ならひ)にて候間、共に打死(うちじに)せん事を悲(かなしみ)て、我に不知して、只一人打死(うちじに)しけるにて候。相伴(あひともな)ふ者無(なく)て、中有(ちゆうう)の途(みち)に迷ふ覧(らん)。さこそと被思遣候へば、同(おなじ)く打死仕(つかまつり)て、無迹(なきあと)まで父に孝道を尽(つく)し候(さふらは)ばやと存(ぞん)じて、只一騎相向(あひむかつ)て候也(なり)。城の大将に此由(このよし)を被申候(さふらひ)て、木戸(きど)を被開候へ。父が打死(うちじに)の所にて、同(おなじ)く命(いのち)を止(とど)めて、其望(そののぞみ)を達し候はん。」と、慇懃(いんぎん)に事を請(こ)ひ泪(なみだ)に咽(むせん)でぞ立(たつ)たりける。一の木戸を堅(かた)めたる兵(つはもの)五十(ごじふ)余人(よにん)、其志(そのこころざし)孝行にして、相向(あひむか)ふ処やさしく哀(あはれ)なるを感じて、則(すなはち)木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を引(ひき)のけしかば、資忠(すけただ)馬に打乗り、城中へ懸入(かけいつ)て、五十(ごじふ)余人(よにん)の敵と火を散(ちらし)てぞ切合(きりあひ)ける。遂に父が被討し其迹(そのあと)にて、太刀を口に呀(くはへ)て覆(うつぶ)しに倒(たふれ)て、貫かれてこそ失(うせ)にけれ。惜(をしい)哉(かな)、父の資貞(すけさだ)は、無双(ぶさう)の弓矢取(ゆみやとり)にて国の為に要須(えうしゆ)たり。又子息資忠(すけただ)は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名(えいめい)あり。人見は年(とし)老(おい)齢(よはひ)傾(かたむ)きぬれ共(ども)、義を知(しり)て命(めい)を思ふ事(こと)、時と共に消息(せうそく)す。此(この)三人(さんにん)同時(どうじ)に討死(うちじに)しぬと聞へければ、知(しる)も知(しら)ぬもをしなべて、歎かぬ人は無(なか)りけり。既(すで)に先懸(さきがけ)の兵共(つはものども)、ぬけ/\に赤坂の城へ向(むかつ)て、討死する由披露(ひろう)有(あり)ければ、大将則(すなはち)天王寺(てんわうじ)を打立(うちたつ)て馳向(はせむか)ひけるが、上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)にて馬より下(お)り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木(おいき)の桜朽(くち)ぬとも其(その)名は苔の下(した)に隠(かく)れじと一首(いつしゆ)の歌を書(かい)て、其(その)次に、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)人見(ひとみ)四郎恩阿(おんあ)、生年(しやうねん)七十三、正慶(しやうきやう)二年二月二日、赤坂の城へ向(むかつ)て、武恩を報ぜん為に討死仕畢(つかまつりをはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷(まよふ)らん六(むつ)の街(ちまた)の道しるべせんと書(かい)て、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだが)嫡子(ちやくし)、源内兵衛資忠生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、正慶二年仲春(ちゆうしゆん)二日、父が死骸(しがい)を枕にして、同戦場(おなじせんぢやう)に命(いのち)を止(とど)め畢(をはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此(この)二首の歌に顕(あらは)れて、骨は化(け)して黄壌(くわうじやう)一堆(いつたい)の下(もと)に朽(くち)ぬれど、名は留(とどまつ)て青雲(せいうん)九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑(せきひ)の上に消残(きえのこ)れる三十一字(みそぢひともじ)を見る人、感涙(かんるゐ)を流さぬは無(なか)りけり。去程(さるほど)に阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)、八万(はちまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して、赤坂へ押寄(おしよ)せ、城の四方(しはう)二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霞(うんか)の如くに取巻(とりまい)て、先時(まづとき)の声をぞ揚(あげ)たりける。其音(そのこゑ)山を動(うごか)し地を震(ふる)ふに、蒼涯(さうがい)も忽(たちまち)に可裂。此(この)城三方(さんぱう)は岸(きし)高(たかう)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如し。南の方許(ばかり)こそ平地(ひらち)に継(つづ)ひて、堀を広く深く掘切(ほりきつ)て、岸の額(ひたひ)に屏(へい)を塗(ぬ)り、其(その)上に櫓(やぐら)を掻双(かきなら)べたれば、如何なる大力早態(だいりきはやわざ)なりとも、輒(たやす)く可責様(やう)ぞなき。され共(ども)寄手(よせて)大勢なれば、思侮(おもひあなどつ)て楯にはづれ矢面(やおもて)に進(すすん)で、堀の中へ走り下(おり)て、切岸(きりぎし)を襄(あが)らんとしける処を、屏(へい)の中より究竟(くきやう)の射手共(いてども)、鏃(やじり)を支(ささへ)て思様(おもふやう)に射ける間、軍(いくさ)の度毎(たびごと)に、手負死人(ておひしにん)五百人(ごひやくにん)六百人(ろつぴやくにん)、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、十三日までぞ責(せめ)たりける。され共(ども)城中少(すこし)も不弱見へけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、吉河(きつかはの)八郎と云(いふ)者、大将の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「此(この)城の為体(ていたらく)、力責(ちからせめ)にし候はゞ無左右不可落候。楠此(この)一両年が間、和泉(いづみ)・河内を管領(くわんりやう)して、若干(そこばく)の兵粮(ひやうらう)を取入(とりいれ)て候なれば、兵粮も無左右尽(つき)候まじ。倩(つらつら)思案(しあん)を廻(めぐら)し候に、此(この)城三方(さんぱう)は谷深(ふかう)して地に不継、一方は平地(ひらち)にて而(しか)も山遠く隔(へだた)れり。されば何(いづ)くに水可有とも見へぬに、火矢(ひや)を射れば水弾(みづはじき)にて打消(うちけし)候。近来(このごろ)は雨の降る事も候はぬに、是程(これほど)まで水の卓散(たくさん)に候は、如何様(いかさま)南の山の奥より、地(ち)の底に樋(ひ)を伏(ふせ)て、城中へ水を懸入(かけい)るゝ歟(か)と覚(おぼえ)候。哀(あはれ)人夫(にんぶ)を集めて、山の腰を掘(ほり)きらせて、御覧候へかし。」と申(まうし)ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継(つづ)きたる山の尾を、一文字(いちもんじ)に掘切(ほりきつ)て見れば、案の如く、土(つち)の底に二丈余(あま)りの下に樋(ひ)を伏せて、側(そば)に石を畳(たた)み、上に真木(まき)の瓦(かはら)を覆(ふせ)て、水を十町(じつちよう)余(あまり)の外(ほか)よりぞ懸(かけ)たりける。此揚水(このあげみづ)を被止て後(のち)、城中に水乏(とぼしう)して、軍勢口中(くぢゆう)の渇(かつ)難忍ければ、四五日が程は、草葉(くさば)に置(お)ける朝(あした)の露を嘗め、夜気(やき)に潤(うるほ)へる地(ち)に身を当(あて)て、雨を待(まち)けれ共(ども)雨不降。寄手(よせて)是(これ)に利を得、隙(ひま)なく火矢(ひや)を射ける間、大手の櫓(やぐら)二(ふた)つをば焼落(やきおと)しぬ。城中の兵(つはもの)水を飲まで十二日に成(なり)ければ、今は精力(せいりよく)尽(つき)はてゝ、可防方便(てだて)も無(なか)りけり。死(しに)たる者は再び帰る事なし。去来(いざ)や、とても死なんずる命(いのち)を、各(おのおの)力(ちから)の未だ墜(おち)ぬ先(さき)に打出(うちい)で、敵に指違(さしちが)へ、思様(おもふやう)に打死(うちじに)せんと、城の木戸を開(ひらい)て、同時に打出(うちいで)んとしけるを、城の本人平野将監(しやうげん)入道、高櫓(たかやぐら)より走下(はしりお)り、袖をひかへて云(いひ)けるは、「暫く楚忽(そこつ)の事な仕給(したま)ふそ。今は是程(これほど)に力尽(つ)き喉(のんど)乾(かわい)て疲(つか)れぬれば、思ふ敵に相逢(あひあは)ん事有難(ありがた)し。名もなき人の中間(ちゆうげん)・下部共(しもべども)に被虜て、恥を曝(さら)さん事可心憂。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、吉野・金剛山(こんがうせん)の城、未(いまだ)相支(あひささへ)て勝負(しようぶ)を不決。西国(さいこく)の乱(らん)未だ静まらざるに、今降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)たらん者をば、人に見こらせじとて、討(うつ)事(こと)不可有と存ずる也(なり)。とても叶(かな)はぬ我等なれば、暫(しばらく)事(こと)を謀(はかつ)て降人に成(なり)、命を全(まつたう)して時至らん事を可待。」といへば、諸卒(しよそつ)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其(その)日の討死をば止(や)めてけり。去程(さるほど)に次(つぎの)日軍(いくさ)の最中(さいちゆう)に、平野入道高櫓(たかやぐら)に上(のぼつ)て、「大将の御方(おんかた)へ可申子細(しさい)候。暫く合戦を止(やめ)て、聞食(きこしめし)候へ。」と云(いひ)ければ、大将渋谷(しぶや)十郎を以て、事の様(やう)を尋(たづぬ)るに、平野木戸口(きどくち)に出合(いであつ)て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振(ふる)ひ候(さふらひ)し刻(きざみ)に、一旦(いつたん)の難(なん)を遁れん為に、不心御敵に属(しよく)して候(さふらひ)き。此子細(このしさい)京都に参(さん)じ候(さふらう)て、申入(まうしいれ)候はんと仕(つかまつり)候処に、已(すで)に大勢を以て被押懸申(まうし)候間(あひだ)、弓矢取身(ゆみやとるみ)の習ひにて候へば、一矢(ひとや)仕りたるにて候。其罪科(そのざいくわ)をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に可参候。若(もし)叶(かな)ふまじきとの御定(ごぢやう)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て、尸(かばね)を陣中に曝(さら)すべきにて候。此様(このやう)を具(つぶさ)に被申候へ。」と云(いひ)ければ、大将大(おほき)に喜(よろこび)て、本領安堵(ほんりやうあんど)の御教書(みげうしよ)を成(な)し、殊に功あらん者には、則(すなはち)恩賞を可申沙汰由(よし)返答して、合戦をぞ止(や)めける。城中(じやうちゆう)に篭(こも)る所の兵(つはもの)二百八十二人(にひやくはちじふににん)、明日(みやうにち)死なんずる命(いのち)をも不知、水に渇(かつ)せる難堪さに、皆降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。長崎九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)是(これ)を請取(うけとり)て、先(まづ)降人の法なればとて、物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)を奪取(うばひと)り、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て六波羅(ろくはら)へぞ渡しける。降人の輩(ともがら)、如此ならば只(ただ)討死(うちじに)すべかりける者をと、後悔すれ共(ども)無甲斐。日を経(へ)て京都に着(つき)しかば、六波羅(ろくはら)に誡置(いましめおい)て、合戦の事始(ことはじめ)なれば、軍神(いくさがみ)に祭(まつり)て人に見懲(みごり)させよとて、六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、一人も不残首(くび)を刎(はね)て被懸けり。是(これ)を聞(きき)てぞ、吉野・金剛山(こんがうせん)に篭(こも)りたる兵共(つはものども)も、弥(いよいよ)獅子(しし)の歯嚼(はがみ)をして、降人(かうにん)に出(いで)んと思ふ者は無(なか)りけり。「罪を緩(ゆる)ふするは将の謀(はかりごと)也(なり)。」と云(いふ)事(こと)を知らざりける六波羅(ろくはら)の成敗(せいばい)を、皆(みな)人毎(ひとごとに)押(おし)なべて、悪(あし)かりけりと申(まうせ)しが、幾程(いくほど)も無(なう)して悉(ことごとく)亡(ほろ)びけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。情(なさけ)は人の為ならず。余(あまり)に驕(おごり)を極(きは)めつゝ、雅意(がい)に任(まかせ)て振舞へば、武運も早く尽(つき)にけり。因果(いんぐわ)の道理(だうり)を知るならば、可有心(こころあるべき)事共(ことども)也(なり)。


太平記(国民文庫)

太平記巻第七
○吉野城(よしののじやう)軍(いくさの)事(こと)S0701
元弘三年正月十六日、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)、六万余騎(よき)の勢(せい)にて大塔宮(おほたふのみや)の篭(こも)らせ給へる吉野の城へ押寄(おしよす)る。菜摘河(なつみがは)の川淀(かはよど)より、城の方を向上(みあげ)たれば、嶺には白旗(しらはた)・赤旗・錦(にしき)の旗、深山下風(みやまおろし)に吹(ふき)なびかされて、雲歟(か)花歟(か)と怪(あやし)まる。麓には数千(すせん)の官軍(くわんぐん)、冑(かぶと)の星を耀(かかや)かし鎧の袖を連(つら)ねて、錦繍(きんしう)をしける地の如し。峯(みね)高(たかう)して道細く、山嶮(けはしう)して苔滑(なめらか)なり。されば幾(いく)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)にて責(せむ)る共(とも)、輒(たやす)く落すべしとは見へざりけり。同(おなじき)十八日の卯刻(うのこく)より、両陣互に矢合せして、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたかふ)。官軍(くわんぐん)は物馴(ものなれ)たる案内者(あんないしや)共(ども)なれば、斯(ここ)のつまり彼(かしこ)の難所(なんじよ)に走散(はしりちつ)て、攻合(つめあは)せ開合(ひらきあは)せ散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)は死生不知(ししやうふち)の坂東武士(ばんどうぶし)なれば、親子(おやこ)打(うた)るれ共(ども)不顧、主従(しゆじゆう)滅(ほろぶ)れども不屑、乗越々々(のりこえのりこえ)責近(せめちか)づく。夜昼(よるひる)七日が間息(いき)をも不続相戦(あひたたかふ)に、城中(じやうちゆう)の勢三百(さんびやく)余人(よにん)打(うた)れければ、寄手(よせて)も八百(はつぴやく)余人(よにん)打(うた)れにけり。況乎(いはんや)矢に当(あた)り石に被打、生死(しやうじ)の際(あひだ)を不知者は幾(いく)千万と云(いふ)数(かず)を不知。血は草芥(さうかい)を染(そめ)、尸(かばね)は路径(ろけい)に横(よこた)はれり。され共(ども)城の体(てい)少(すこし)もよわらねば、寄手(よせて)の兵(つはもの)多くは退屈してぞ見へたりける。爰(ここ)に此(この)山の案内者(あんないしや)とて一方へ被向たりける吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、己(おのれ)が手(て)の者を呼寄(よびよせ)て申(まうし)けるは、「東条の大将金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)殿(どの)は、既(すで)に赤坂(あかさか)の城を責落(せめおと)して金剛山(こんがうせん)へ被向たりと聞ゆ。当山(たうざん)の事我等(われら)案内者(あんないしや)たるに依(よつ)て、一方(いつぱう)を承(うけたまはつ)て向ひたる甲斐(かひ)もなく、責落(せめおと)さで数日(すじつ)を送る事こそ遺恨(ゐこん)なれ。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を按(あん)ずるに、此(この)城を大手(おほて)より責(せめ)ば、人のみ被打て落す事有難(ありがた)し。推量(すゐりやう)するに、城の後(うしろ)の山金峯山(きんぶせん)には峻(けはしき)を憑(たのん)で、敵さまで勢(せい)を置(おき)たる事あらじと覚(おぼゆ)るぞ。物馴(ものなれ)たらんずる足軽(あしがる)の兵(つはもの)を百五十人(ひやくごじふにん)すぐつて歩立(かちだち)になし、夜に紛(まぎ)れて金峯山(きんぶせん)より忍び入(いり)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)の上(うへ)にて、夜のほの/゛\と明(あけ)はてん時時(とき)の声を揚(あげ)よ。城の兵(つはもの)鬨音(ときのこゑ)に驚(おどろい)て度(ど)を失(うしな)はん時、大手(おほて)搦手(からめて)三方(さんぱう)より攻上(せめのぼつ)て城を追落(おひおと)し、宮を生捕(いけどり)奉るべし。」とぞ下知(げぢ)しける。さらばとて、案内知(しつ)たる兵百五十人(ひやくごじふにん)をすぐ(ッ)て、其(その)日の暮程(くれほど)より、金峯山(きんぶせん)へ廻(まはつ)て、岩を伝ひ谷を上(のぼ)るに、案の如く山の嶮(けはし)きを憑(たのみ)けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許(ばかり)を結付置(ゆひつけおい)て可防兵一人もなし。百(ひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)、思(おもひ)の侭(まま)に忍入(しのびいつ)て、木の下岩(いは)の陰(かげ)に、弓箭(ゆみや)を臥(ふせ)て、冑(かぶと)を枕にして、夜の明(あく)るをぞ待(まつ)たりける。あい図(づ)の比(ころ)にも成(なり)にければ、大手(おほて)五万(ごまん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て責上(せめのぼ)る。吉野の大衆(だいしゆ)五百(ごひやく)余人(よにん)、責口(せめくち)におり合(あつ)て防(ふせぎ)戦ふ。寄手(よせて)も城の内も、互に命(いのち)を不惜、追上(おひのぼ)せ追下(おひおろ)し、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。卦(かか)る処に金峯山(きんぶせん)より廻(まは)りたる、搦手(からめて)の兵(つはもの)百五十人(ひやくごじふにん)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)よりをり降(くだつ)て、在々所々(ざいざいしよしよ)に火を懸(かけ)て、時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。吉野の大衆(だいしゆ)前後(ぜんご)の敵(てき)を防ぎ兼(かね)て、或(あるひ)は自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ走入(はしりいつ)て死(しす)るも有(あり)、或(あるひ)は向ふ敵に引組(ひつくん)で、指(さし)ちがへて共に死(しす)るもあり。思々(おもひおもひ)に討死をしける程に、大手(おほて)の堀一重(ひとへ)は、死人(しにん)に埋(うま)りて平地(ひらち)になる。去程(さるほど)に、搦手(からめて)の兵(つはもの)、思(おもひ)も寄(よら)ず勝手(かつて)の明神(みやうじん)の前より押寄(おしよせ)て、宮の御坐有(ござあり)ける蔵王堂(ざわうだう)へ打(うつ)て懸(かか)りける間、大塔宮(おほたふのみや)今は遁(のが)れぬ処也(なり)。と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧のまだ巳(み)の刻(こく)なるを、透間(すきま)もなくめされ、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)の緒(を)をしめ、白檀磨(びやくだんみがき)の臑当(すねあて)に、三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に挟(さしはさ)み、劣らぬ兵二十(にじふ)余人(よにん)前後左右(ぜんごさいう)に立(たて)、敵の靉(むらがつ)て引(ひか)へたる中へ走り懸(かか)り、東西を掃(はら)ひ、南北へ追廻(おひまは)し、黒煙(くろけぶり)を立(たて)て切(きつ)て廻(まは)らせ給ふに、寄手(よせて)大勢(おほぜい)也(なり)。と云へ共(ども)、纔(わづか)の小勢に被切立て、木(こ)の葉(は)の風に散(ちる)が如く、四方(しはう)の谷へ颯(さつ)とひく。敵引(ひけ)ば、宮蔵王堂(ざわうだう)の大庭(おほには)に並居(なみゐ)させ給(たまひ)て、大幕(おほまく)打揚(うちあげ)て、最後の御酒宴(ごしゆえん)あり。宮の御鎧(おんよろひ)に立所(たつところ)の矢七筋(しちすぢ)、御頬(おんほう)さき二の御(おん)うで二箇所(にかしよ)つかれさせ給(たまひ)て、血の流るゝ事滝の如し。然(しか)れ共(ども)立(たつ)たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮(しきがは)の上に立(たち)ながら、大盃(おほさかづき)を三度(さんど)傾(かたぶけ)させ給へば、木寺相摸(こでらのさがみ)四尺三寸の太刀の鋒(きつさき)に、敵の頚をさし貫(つらぬい)て、宮の御前(おんまへ)に畏(かしこま)り、「戈■剣戟(くわせんけんげき)をふらす事電光(でんくわう)の如く也(なり)。磐石(ばんじやく)巌(いはほ)を飛(とば)す事春(はる)の雨に相同(あひおな)じ。然りとは云へ共(ども)、天帝(てんてい)の身には近づかで、修羅(しゆら)かれが為に破らる。」と、はやしを揚(あげ)て舞(まひ)たる有様は、漢(かん)・楚(そ)の鴻門(こうもん)に会(くわい)せし時、楚の項伯(かうはく)と項荘とが、剣(けん)を抜(ぬい)て舞(まひ)しに、樊■(はんくわい)庭に立(たち)ながら、帷幕(ゐばく)をかゝげて項王を睨(にらみ)し勢(いきほひ)も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。大手(おほて)の合戦事急也(なり)。と覚(おぼえ)て、敵御方(みかた)の時(とき)の声相交(あひまじは)りて聞へけるが、げにも其戦(そのたたかひ)に自ら相当(あひあた)る事多かりけりと見へて、村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)鎧に立(たつ)処の矢十六(じふろく)筋、枯野(かれの)に残る冬草の、風に臥(ふし)たる如くに折懸(をりかけ)て、宮の御前(おんまへ)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「大手(おほて)の一の木戸(きど)、云甲斐(いふかひ)なく責破(せめやぶ)られつる間、二の木戸に支(ささへ)て数刻(すこく)相戦ひ候つる処に、御所中(ごしよぢゆう)の御酒宴(ごしゆえん)の声、冷(すさまじ)く聞へ候(さふらひ)つるに付(つい)て参(まゐつ)て候。敵既(すで)にかさに取上(とりのぼり)て、御方(みかた)気の疲れ候(さふらひ)ぬれば、此(この)城にて功を立(たて)ん事(こと)、今は叶(かな)はじと覚へ候。未(いまだ)敵の勢を余所(よそ)へ回(まは)し候はぬ前(さき)に、一方より打破(うちやぶつ)て、一歩(ひとまど)落(おち)て可有御覧と存(ぞんじ)候。但(ただし)迹(あと)に残り留(とどまつ)て戦ふ兵(つはもの)なくば、御所(ごしよ)の落(おち)させ給ふ者也(なり)。と心得て、敵何(いづ)く迄もつゞきて追懸進(おつかけまゐら)せつと覚(おぼえ)候へば、恐(おそれ)ある事にて候へ共(ども)、めされて候錦の御鎧直垂(おんよろひひたたれ)と、御物具(おんもののぐ)とを下給(くだしたまはつ)て、御諱(おんいみな)の字(じ)を犯(をか)して敵を欺(あざむ)き、御命(おんいのち)に代り進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)ければ、宮(みや)、「争(いか)でかさる事あるべき、死なば一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かく)もならめ。」と仰(おほせ)られけるを、義光(よしてる)言(こと)ばを荒(あら)らかにして、「かゝる浅猿(あさまし)き御事(おんこと)や候。漢の高祖(かうそ)■陽(けいやう)に囲(かこま)れし時、紀信(きしん)高祖(かうそ)の真似(まね)をして楚を欺(あざむ)かんと乞(こひ)しをば、高祖(かうそ)是(これ)を許し給ひ候はずや。是程(これほど)に云甲斐(いふかひ)なき御所存(ごしよぞん)にて、天下の大事(だいじ)を思食立(おぼしめしたち)ける事こそうたてけれ。はや其御物具(そのおんもののぐ)を脱(ぬが)せ給ひ候へ。」と申(まうし)て、御鎧(おんよろひ)の上帯(うはおび)をとき奉れば、宮げにもとや思食(おぼしめし)けん、御物(おんもの)の具(ぐ)・鎧直垂(よろひひたたれ)まで脱替(ぬぎかへ)させ給ひて、「我(われ)若(もし)生(いき)たらば、汝(なんぢ)が後生(ごしやう)を訪(とぶらふ)べし。共に敵(てき)の手にかゝらば、冥途(めいど)までも同じ岐(ちまた)に伴(ともな)ふべし。」と被仰て、御涙(おんなみだ)を流させ給ひながら、勝手(かつて)の明神(みやうじん)の御前(おんまへ)を南へ向(むかつ)て落させ給へば、義光(よしてる)は二の木戸の高櫓(たかやぐら)に上(あが)り、遥(はるか)に見送り奉(たてまつつ)て、宮の御後影(おんうしろかげ)の幽(かすか)に隔(へだた)らせ給(たまひ)ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓(やぐら)のさまの板を切落(きりおと)して、身をあらはにして、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「天照太神(あまてらすおほみかみの)御子孫(ごしそん)、神武(じんむ)天王(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)第二(だいに)の皇子一品兵部(いつぽんひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)尊仁(そんにん)、逆臣(ぎやくしん)の為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん為に、只今自害する有様見置(みおい)て、汝等が武運忽(たちまち)に尽(つき)て、腹をきらんずる時の手本(てほん)にせよ。」と云侭(いふまま)に、鎧を脱(ぬい)で櫓(やぐら)より下へ投落(なげおと)し、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)の袴許(はかまばかり)に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚(はだ)に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切(かききつ)て、腸(はらわた)掴(つかん)で櫓(やぐら)の板になげつけ、太刀(たち)を口にくわへて、うつ伏(ぶし)に成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。大手(おほて)・搦手(からめて)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「すはや大塔宮(おほたふのみや)の御自害あるは。我先(われさき)に御頚(おんくび)を給(たまは)らん。」とて、四方(しはう)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。其間(そのあひだ)に宮は差違(さしちが)へて、天(てん)の河(かは)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。南より廻(まは)りける吉野の執行(しゆぎやう)が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、多年(たねん)の案内者(あんないしや)なれば、道を要(よこぎ)りかさに廻(まは)りて、打留(うちと)め奉(たてまつら)んと取篭(とりこむ)る。村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)が子息兵衛蔵人(ひやうゑくらうど)義隆(よしたか)は、父が自害しつる時、共に腹を切(きら)んと、二の木戸の櫓(やぐら)の下まで馳来(はせきた)りたりけるを、父大(おほき)に諌(いさめ)て、「父子(ふし)の義(ぎ)はさる事なれ共(ども)、且(しばら)く生(いき)て宮の御先途(ごせんど)を見はて進(まゐら)せよ。」と、庭訓(ていきん)を残しければ、力なく且(しばら)くの命(いのち)を延(のべ)て、宮の御供(おんとも)にぞ候(さふらひ)ける。落行(おちゆく)道の軍(いくさ)、事(こと)既(すで)に急にして、打死(うちじに)せずば、宮落得(おちえ)させ給はじと覚(おぼえ)ければ、義隆(よしたか)只一人蹈留(ふみとどま)りて、追(おつ)てかゝる敵の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)では切(きり)すへ、平頚(ひらくび)切(きつ)ては刎落(はねおと)させ、九折(つづらをり)なる細道(ほそみち)に、五百(ごひやく)余騎(よき)の敵を相受(あひうけ)て、半時許(はんじばかり)ぞ支(ささへ)たる。義隆(よしたか)、節(せつ)、石の如く也(なり)。といへ共(ども)、其(その)身金鉄(きんてつ)ならざれば、敵の取巻(とりまい)て射ける矢に、義隆既(すで)に十(じふ)余箇所(よかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思(おもひ)けん、小竹(こたけ)の一村(ひとむら)有(あり)ける中へ走入(はしりいつ)て、腹掻切(かききつ)て死にけり。村上父子(むらかみふし)が敵を防ぎ、討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、宮は虎口(ここう)に死を御遁(おんのがれ)有(あつ)て、高野山(かうやさん)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、村上が宮の御学(おんまね)をして、腹を切(きつ)たりつるを真実(まんまこと)と心得て、其(その)頚を取(とつ)て京都へ上(のぼ)せ、六波羅(ろくはら)の実検(じつけん)にさらすに、ありもあらぬ者の頚也(なり)。と申(まうし)ける。獄門(ごくもん)にかくるまでもなくて、九原(きうげん)の苔に埋(うづも)れにけり。道蘊(だううん)は吉野の城を攻落(せめおと)したるは、専一(せんいち)の忠戦(ちゆうせん)なれ共(ども)、大塔宮(おほたふのみや)を打漏(うちもら)し奉りぬれば、猶(なほ)安(やす)からず思(おもひ)て、軈(やが)て高野山へ押寄(おしよせ)、大塔(だいたふ)に陣を取(とつ)て、宮の御在所(ございしよ)を尋求(たづねもとめ)けれ共(ども)、一山(いつさん)の衆徒(しゆと)皆心を合(あはせ)て宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨(ふんこつ)甲斐もなくて、千剣破(ちはや)の城へぞ向ひける。
○千剣破(ちはやの)城軍(いくさの)事(こと) S0702
千剣破(ちはやの)城の寄手(よせて)は、前(まへ)の勢八十万騎(はちじふまんぎ)に、又赤坂(あかさか)の勢吉野の勢馳加(はせくははつ)て、百万騎に余(あま)りければ、城の四方(しはう)二三里が間は、見物(けんぶつ)相撲(すまふ)の場(ば)の如く打囲(うちかこん)で、尺寸(せきすん)の地をも余さず充満(みちみち)たり。旌旗(せいき)の風に翻(ひるがへつ)て靡(なび)く気色(けしき)は、秋の野の尾花(をばな)が末(すゑ)よりも繁く、剣戟(けんげき)の日に映(えい)じて耀(かかやき)ける有様(ありさま)は、暁(あかつき)の霜の枯草(かれくさ)に布(しけ)るが如く也(なり)。大軍(たいぐん)の近づく処には、山勢(さんせい)是(これ)が為に動き、時(とき)の声の震(ふる)ふ中には、坤軸(こんぢく)須臾(しゆゆ)に摧(くだ)けたり。此(この)勢にも恐(おそれ)ずして、纔(わづか)に千人に足(たら)ぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み何(いつ)を待(まつ)共(とも)なきに、城中(じやうちゆう)にこらへて防ぎ戦(たたかひ)ける楠が心の程こそ不敵(ふてき)なれ。此(この)城東西(とうざい)は谷深く切(きれ)て人の上(のぼ)るべき様(やう)もなし。南北は金剛山(こんがうせん)につゞきて而(しか)も峯絶(たえ)たり。されども高さ二町(にちやう)許(ばかり)にて、廻(まは)り一里に足(たら)ぬ小城(こしろ)なれば、何程(なにほど)の事か有(ある)べき〔と〕、寄手(よせて)是(これ)を見侮(みあなどつ)て、初(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は向ひ陣をも取(とら)ず、責支度(せめしたく)をも用意(ようい)せず、我先(われさき)にと城の木戸口(きどくち)の辺(へん)までかづきつれてぞ上(あがり)たりける。城中の者共(ものども)少しもさはがず、静まり帰(かへつ)て、高櫓(たかやぐら)の上(うへ)より大石(たいせき)を投(なげ)かけ/\、楯(たて)の板を微塵(みぢん)に打砕(うちくだい)て、漂(ただよ)ふ処を差(さし)つめ/\射ける間(あひだ)、四方(しはう)の坂よりころび落(おち)、落重(おちかさなつ)て手を負(おひ)、死をいたす者、一日が中(うち)に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、軍奉行(いくさぶぎやう)にて有(あり)ければ、手負死人(ておひしにん)の実検(じつけん)をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人(じふににん)、夜昼(よるひる)三日が間(あひだ)筆をも置(おか)ず注(しる)せり。さてこそ、「今より後(のち)は、大将の御許(おんゆるし)なくして、合戦したらんずる輩(ともがら)をば却(かへつ)て罪科に行(おこなは)るべし。」と触(ふれ)られければ、軍勢暫(しばらく)軍(いくさ)を止(やめ)て、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構(かま)へける。爰(ここ)に赤坂の大将金沢右馬助(かなざはうまのすけ)、大仏(おさらぎ)奥州(あうしう)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「前日(ぜんじつ)赤坂を攻落(せめおと)しつる事(こと)、全く士卒(じそつ)の高名(かうみやう)に非(あら)ず。城中の構(かまへ)を推(お)し出(いだ)して、水を留(とめ)て候(さふらひ)しに依(よつ)て、敵程(ほど)なく降参(かうさん)仕候(つかまつりさふらひ)き。是(ここ)を以て此(この)城を見候に、是程(これほど)纔(わづか)なる山の巓(いただき)に用水(ようすゐ)有(ある)べし共覚(おぼえ)候はず。又あげ水なんどをよその山より懸(かく)べき便(たより)も候はぬに、城中に水卓散(たくさん)に有(あり)げに見ゆるは、如何様(いかさま)東の山の麓に流(ながれ)たる渓水(たにみづ)を、夜々(よるよる)汲(くむ)歟(か)と覚(おぼえ)て候。あはれ宗徒(むねと)の人々一両人に仰付(おほせつけ)られて、此(この)水を汲(くま)せぬ様に御計(おんはからひ)候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義(このぎ)可然覚(おぼえ)候。」とて、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)を大将として其(その)勢三千余騎(よき)を指分(さしわけ)て、水の辺(へん)に陣を取(とら)せ、城より人をり下(くだ)りぬべき道々に、逆木(さかもぎ)を引(ひい)てぞ待懸(まちかけ)ける。楠は元来(もとより)勇気智謀相兼(あひかね)たる者なりければ、此(この)城を拵(こしら)へける始(はじめ)用水の便(たより)をみるに、五所(ごしよ)の秘水(ひすゐ)とて、峯(みね)通る山伏(やまぶし)の秘(ひ)して汲(くむ)水此(この)峯に有(あつ)て、滴(しただ)る事一夜に五斛許(こくばかり)也(なり)。此(この)水いかなる旱(ひでり)にもひる事なければ、如形人の口中(こうちゆう)を濡(うるほ)さん事相違あるまじけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)は或(あるひ)は火矢(ひや)を消さん為、又喉(のんど)の乾(かわ)く事繁(しげ)ければ、此(この)水許(ばかり)にては不足(ふそく)なるべしとて、大(おほき)なる木を以て、水舟(みづふね)を二三百(にさんびやく)打(うた)せて、水を湛置(たたへおき)たり。又数百(すひやく)箇所作り双(なら)べたる役所(やくしよ)の軒に継樋(つぎどひ)を懸(かけ)て、雨ふれば、霤(あまだれ)を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土(あかつち)を沈(しづ)めて、水の性(しやう)を損(そん)ぜぬ様(やう)にぞ被拵たりける。此(この)水を以て、縦(たと)ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中(そのうち)に又などかは雨降(ふる)事(こと)無(なか)らんと、了簡(れうけん)しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強(あながち)に此谷水(このたにみづ)を汲(くま)んともせざりけるを、水ふせぎける兵共(つはものども)、夜毎(よごと)に機(き)をつめて、今や/\と待懸(まちかけ)けるが、始(はじめ)の程こそ有(あり)けれ、後(のち)には次第々々に心懈(おこた)り、機緩(ゆるまつ)て、此(この)水をば汲(くま)ざりけるぞとて、用心(ようじん)の体(てい)少し無沙汰(ぶさた)にぞ成(なり)にける。楠是(これ)を見すまして、究竟(くきやう)の射手(いて)をそろへて二三百人(にさんびやくにん)夜に紛(まぎれ)て城よりをろし、まだ篠目(しののめ)の明けはてぬ霞隠(かすみがく)れより押寄せ、水辺(すゐへん)に攻(つめ)て居たる者共(ものども)、二十(にじふ)余人(よにん)切伏(きりふせ)て、透間(すきま)もなく切(きつ)て懸(かか)りける間、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)こらへ兼(かね)て、本(もと)の陣へぞ引(ひか)れける。寄手(よせて)数万(すまん)の軍勢是(これ)を見て、渡り合(あは)せんとひしめけ共(ども)、谷を隔(へだ)て尾を隔(へだて)たる道なれば、輒(たやす)く馳合(はせあは)する兵(つはもの)もなし。兎角(とかく)しける其間(そのあひだ)に、捨置(すておい)たる旗・大幕(おほまく)なんど取持(とりもた)せて、楠が勢、閑(しづか)に城中へぞ引入(ひきいり)ける。其翌日(そのよくじつ)城の大手(おほて)に三本(さんぼん)唐笠(がらかさ)の紋(もん)書(かい)たる旗と、同(おなじ)き文(もん)の幕とを引(ひい)て、「是(これ)こそ皆名越(ながや)殿(どの)より給(たまはり)て候(さふらひ)つる御旗(おんはた)にて候へ、御文付(ごもんつき)て候間(あひだ)他人の為には無用に候。御中(みうち)の人々是(これ)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、被召候へかし。」と云(いつ)て、同音(どうおん)にどつと笑(わらひ)ければ、天下の武士共(ぶしども)是(これ)を見て、「あはれ名越(なごや)殿(どの)の不覚(ふかく)や。」と、口々に云(いは)ぬ者こそ無(なか)りけれ。名越(なごや)一家の人々此(この)事(こと)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、「当手(たうて)の軍勢共(ぐんぜいども)一人も不残、城の木戸(きど)を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之(これによつて)彼(かの)手(て)の兵五千(ごせん)余人(よにん)、思切(おもひきつ)て討共(うてども)射共(いれども)用(もちひ)ず、乗越々々(のりこえのりこえ)城の逆木(さかもぎ)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、切岸(きりぎし)の下迄ぞ攻(せめ)たりける。され共(ども)岸高(たかう)して切立(きりたつ)たれば、矢長(やたけ)に思へ共(ども)のぼり得ず、唯(ただ)徒(いたづら)に城を睨(にらみ)、忿(いかり)を押(おさ)へて息つぎ居たり。此(この)時城の中(うち)より、切岸(きりぎし)の上(うへ)に横(よこた)へて置(おい)たる大木十計(ばかり)切(きつ)て落(おと)し懸(かけ)たりける間、将碁倒(しやうぎたふし)をする如く、寄手(よせて)四五百人(しごひやくにん)圧(おし)に被討て死にけり。是(これ)にちがはんとしどろに成(なつ)て騒ぐ処を、十方の櫓(やぐら)より指落(さしおと)し、思様(おもふやう)に射ける間、五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)残(のこり)すくなに討(うた)れて、其(その)日の軍(いくさ)は果(はて)にけり。誠(まことに)志の程は猛(たけ)けれ共(ども)、唯(ただ)し出(いだ)したる事もなくて、若干(そくばく)討(うた)れにければ、「あはれ恥(はぢ)の上の損(そん)哉(かな)。」と、諸人(しよにん)の口遊(くちずさみ)は猶不止。尋常(よのつね)ならぬ合戦の体(てい)を見て、寄手(よせて)も侮(あなど)りにくゝや思(おもひ)けん、今は始(はじめ)の様(やう)に、勇進(いさみすすん)で攻(せめ)んとする者も無(なか)りけり。長崎(ながさき)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)此(この)有様を見て、「此(この)城を力責(ちからぜめ)にする事は、人の討(うた)るゝ計(ばかり)にて、其(その)功成難(なりがた)し。唯取巻(とりまい)て食責(じきぜめ)にせよ。」と下知(げぢ)して、軍(いくさ)を被止ければ、徒然(とぜん)に皆堪兼(たへかね)て、花の下(もと)の連歌(れんが)し共(ども)を呼下(よびくだ)し、一万句の連歌をぞ始(はじめ)たりける。其(その)初日の発句(ほつく)をば長崎九郎左衛門師宗(もろむね)、さき懸(がけ)てかつ色みせよ山桜(やまざくら)としたりけるを、脇(わき)の句、工藤(くどう)二郎右衛門(じらううゑもんの)尉(じよう)嵐や花のかたきなるらんとぞ付(つけ)たりける。誠(まこと)に両句ともに、詞(ことば)の縁(えん)巧(たくみ)にして句の体(てい)は優(いう)なれども、御方(みかた)をば花になし、敵(てき)を嵐に喩(たと)へければ、禁忌(きんき)也(なり)。ける表事(へうじ)哉(かな)と後(のち)にぞ思ひ知(しら)れける。大将の下知(げぢ)に随(したがひ)て、軍勢皆軍(いくさ)を止(やめ)ければ、慰(なぐさ)む方(かた)や無(なか)りけん、或(あるひ)は碁(ご)・双六(しごろく)を打(うつ)て日を過(すご)し、或(あるひ)は百服茶(ひやつぷくちや)・褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)なんどを翫(もてあそん)で夜(よ)を明(あか)す。是(これ)にこそ城中の兵は中々(なかなか)被悩たる心地(ここち)して、心を遣方(やるかた)も無(なか)りける。少し程(ほど)経(へ)て後(のち)、正成(まさしげ)、「いでさらば、又寄手(よせて)たばかりて居眠(ゐねぶり)さまさん。」とて、芥(あくた)を以て人長(ひとだけ)に人形(にんぎやう)を二三十作(つくつ)て、甲冑(かつちう)をきせ兵杖(ひやうぢやう)を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城の麓に立置(たてお)き、前(まへ)に畳楯(でふだて)をつき双(なら)べ、其後(そのうし)ろにすぐりたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)を交(まじ)へて、夜のほの/゛\と明(あけ)ける霞(かすみ)の下(した)より、同時に時(とき)をどつと作る。四方(しはう)の寄手(よせて)時の声を聞(きい)て、「すはや城の中(うち)より打出(うちいで)たるは、是(これ)こそ敵の運の尽(つく)る処の死狂(しにくるひ)よ。」とて我先(われさき)にとぞ攻合(せめあは)せける。城の兵兼(かね)て巧(たくみ)たる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様(やう)にして大勢(おほぜい)相近(あひちか)づけて、人形許(ばかり)を木(こ)がくれに残し置(おい)て、兵(つはもの)は皆次第々々に城の上へ引上(ひきあが)る。寄手(よせて)人形を実(まこと)の兵(つはもの)ぞと心得て、是(これ)を打(うた)んと相集(あひあつま)る。正成所存(しよぞん)の如く敵をたばかり寄せて、大石(たいせき)を四五十(しごじふ)、一度(いちど)にばつと発(はな)す。一所(いつしよ)に集(あつま)りたる敵三百(さんびやく)余人(よにん)、矢庭(やには)に被討殺、半死半生の者五百(ごひやく)余人(よにん)に及(およべ)り。軍(いくさ)はてゝ是(これ)を見れば、哀(あはれ)大剛(だいがう)の者哉(かな)と覚(おぼえ)て、一足(ひとあし)も引(ひか)ざりつる兵(つはもの)、皆人にはあらで藁(わら)にて作れる人形(にんぎやう)也(なり)。是(これ)を討(うた)んと相集(あひあつまつ)て、石に打(うた)れ矢に当(あたつ)て死せるも高名(かうみやう)ならず、又是(これ)を危(あやぶみ)て進得(すすみえ)ざりつるも臆病の程顕(あらは)れて云甲斐(いふかひ)なし。唯兎(と)にも角(かく)にも万人の物笑ひとぞ成(なり)にける。是(これ)より後(のち)は弥(いよいよ)合戦を止(やめ)ける間、諸国の軍勢唯(ただ)徒(いたづら)に城を守り上(あげ)て居たる計(ばかり)にて、するわざ一(ひとつ)も無(なか)りけり。爰(ここ)に何(いか)なる者か読(よみ)たりけん、一首(いつしゆ)の古歌(こか)を翻案(ほんあん)して、大将の陣の前にぞ立(たて)たりける。余所(よそ)にのみ見てやゝみなん葛城(かづらき)のたかまの山の峯の楠軍(いくさ)も無(なく)てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口(えぐち)・神崎(かんざき)の傾城共(けいせいども)を呼寄(よびよせ)て、様々(さまざま)の遊(あそび)をぞせられける。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道と同兵庫(おなじきひやうごの)助(すけ)とは伯叔甥(をぢをひ)にて御座(おはし)けるが、共に一方の大将にて、責口(せめくち)近く陣を取り、役所(やくしよ)を双(ならべ)てぞ御座(おはし)ける。或時(あるとき)遊君(いうくん)の前にて双六(しごろく)を打(うた)れけるが、賽(さい)の目(め)を論じて聊(いささか)の詞(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯叔甥(をぢをひ)二人(ににん)突違(つきちがへ)てぞ死(しな)れける。両人の郎従共(らうじゆうども)、何の意趣(いしゆ)もなきに、差違(さしちが)へ差違へ、片時(へんし)が間(あひだ)に死(しす)る者二百余人(よにん)に及べり。城の中(うち)より是(これ)を見て、「十善(じふぜん)の君(きみ)に敵をし奉る天罰(てんばつ)に依(よつ)て、自滅(じめつ)する人々の有様見よ。」とぞ咲(わらひ)ける。誠(まこと)に是(これ)直事(ただごと)に非(あら)ず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)歟(か)と覚(おぼえ)て、浅猿(あさまし)かりし珍事(ちんじ)也(なり)。同(おなじき)三月四日関東(くわんとう)より飛脚(ひきやく)到来して、「軍(いくさ)を止(やめ)て徒(いたづら)に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗(むね)との大将達評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、御方(みかた)の向ひ陣と敵の城との際(あひだ)に、高く切立(きりたつ)たる堀に橋を渡して、城へ打(うつ)て入(いら)んとぞ巧(たく)まれける。為之京都より番匠(ばんしやう)を五百(ごひやく)余人(よにん)召下(めしくだ)し、五六八九寸の材木を集(あつめ)て、広さ一丈五尺、長さ二十丈(にじふぢやう)余(あまり)に梯(かけはし)をぞ作らせける。梯(かけはし)既(すで)に作り出(いだ)しければ、大縄(おほつな)を二三千筋(にさんぜんすぢ)付(つけ)て、車木(くるまき)を以て巻立(まきたて)て、城の切岸(きりぎし)の上へぞ倒し懸(かけ)たりける。魯般(ろはん)が雲の梯(かけはし)も角(かく)やと覚(おぼえ)て巧(たくみ)也(なり)。軈(やが)て早(はや)りおの兵共(つはものども)五六千人、橋の上を渡り、我先(われさき)にと前(すすん)だり。あはや此(この)城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、投松明(なげたいまつ)のさきに火を付(つけ)て、橋の上に薪(たきぎ)を積(つめ)るが如くに投集(なげあつめ)て、水弾(みづはじき)を以て油を滝の流るゝ様(やう)に懸(かけ)たりける間、火橋桁(はしげた)に燃付(もえつい)て、渓風(たにかぜ)炎(ほのほ)を吹布(ふきしい)たり。憖(なまじひ)に渡り懸(かか)りたる兵共(つはものども)、前(さき)へ進(すすま)んとすれば、猛火(みやうくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て身を焦(こが)す、帰(かへら)んとすれば後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)前(まへ)の難儀をも不云支(ささへ)たり。そばへ飛(とび)をりんとすれば、谷(たに)深く巌(いはほ)そびへて肝(きもを)冷(ひや)し、如何(いかが)せんと身を揉(もう)で押(おし)あふ程に、橋桁(はしげた)中(なか)より燃折(もえをれ)て、谷底(たにぞこ)へどうど落(おち)ければ、数千(すせん)の兵(つはもの)同時に猛(みやうくわ)の中へ落重(おちかさなつ)て、一人も不残焼死(やけしに)にけり。其(その)有様偏(ひとへ)に八大地獄(はちだいぢごく)の罪人の刀山剣樹(たうざんけんじゆ)につらぬかれ、猛火鉄湯(みやうくわてつたう)に身を焦(こが)す覧(らん)も、角(かく)やと被思知たり。去程(さるほど)に吉野・戸津河(とつがは)・宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)、大塔宮(おほたふのみや)の命(めい)を含(ふくん)で、相集(あひあつま)る事七千余人(よにん)、此(ここ)の峯(みね)彼(かしこ)〔の〕谷(たに)に立隠(たちかくれ)て、千剣破(ちはやの)寄手共(よせてども)の往来(わうらい)の路を差塞(さしふさ)ぐ。依之(これによつて)諸国の兵(つはもの)の兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、人馬(じんば)共に疲(つか)れければ、転漕(てんさう)に怺兼(こらへかね)て百騎・二百騎引(ひい)て帰る処を、案内者(あんないしや)の野伏(のぶし)共、所々のつまり/゛\に待受(まちうけ)て、討留(うちとめ)ける間、日々夜々に討(うた)るゝ者数を知(しら)ず。希有(けう)にして命計(いのちばかり)を助かる者は、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)、衣裳(いしやう)を剥取(はぎとら)れて裸(はだか)なれば、或(あるひ)は破(やれ)たる蓑(みの)を身に纏(まとひ)て、膚計(はだへばかり)を隠(かく)し、或(あるひ)は草の葉(は)を腰に巻(まい)て、恥をあらはせる落人共(おちうどども)、毎日に引(ひき)も切らず十方へ逃散(にげち)る。前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱(ちじよく)也(なり)。されば日本国の武士共(ぶしども)の重代(ぢゆうだい)したる物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)は、皆此(この)時に至(いたつ)て失(うせ)にけり。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道、同(おなじき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)二人(ににん)は、無詮口論して共に死給(しにたまひ)ぬ。其外(そのほか)の軍勢共(ぐんぜいども)、親(おや)は討(うた)るれば子は髻(もとどり)を切(きつ)てうせ、主(しゆ)疵(きず)を被(かうむ)れば、郎従(らうじゆう)助(たすけ)て引帰(ひきかへ)す間、始(はじめ)は八十万騎(はちじふまんぎ)と聞へしか共(ども)、今は纔(わづか)に十万余騎(よき)に成(なり)にけり。
○新田義貞(につたよしさだ)賜綸旨事 S0703
上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)新田(につたの)小太郎義貞(よしさだ)と申(まうす)は、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)十七代の後胤(こういん)、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家(めいか)也(なり)。然共(しかれども)平氏(へいじ)世を執(とつ)て四海(しかい)皆其(その)威に服する時節(をりふし)なれば、無力関東(くわんとう)の催促(さいそく)に随(したがつ)て金剛山(こんがうせん)の搦手(からめて)にぞ被向ける。爰(ここ)に如何なる所存(しよぞん)歟(か)出来(いでき)にけん、或時(あるとき)執事(しつじ)船田(ふなだ)入道義昌(よしまさ)を近づけて宣(のたま)ひける、「古(いにしへ)より源平両家(りやうけ)朝家(てうけ)に仕へて、平氏(へいじ)世を乱(みだ)る時は、源家(げんけ)是(これ)を鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家是(これ)を治(をさ)む。義貞不肖(ふせう)也(なり)。と云へ共(ども)、当家(たうけ)の門■(もんび)として、譜代(ふだい)弓矢(ゆみや)の名を汚(けが)せり。而(しかる)に今相摸(さがみ)入道の行迹(かうせき)を見(みる)に滅亡遠(とほき)に非(あら)ず。我(われ)本国に帰(かへつ)て義兵(ぎへい)を挙(あげ)、先朝(せんてう)の宸襟(しんきん)を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙(かうむ)らでは叶(かなふ)まじ。如何(いかん)して大塔宮(おほたふのみや)の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、此素懐(このそくわい)を可達。」と問給(とひたまひ)ければ、舟田入道畏(かしこまつ)て、「大塔宮(おほたふのみや)は此辺(このへん)の山中に忍(しのび)て御座(ござ)候なれば、義昌(よしまさ)方便(はうべん)を廻(めぐら)して、急(いそい)で令旨(りやうじ)を申出(まうしいだ)し候べし。」と、事安げに領掌申(りやうじやうまうし)て、己(おのれ)が役所へぞ帰(かへり)ける。其翌日(そのよくじつ)舟田(ふなだ)己(おのれ)が若党(わかたう)を三十(さんじふ)余人(よにん)、野伏(のぶし)の質(すがた)に出立(いでたた)せて、夜中に葛城峯(かづらきのみね)へ上(のぼ)せ、我身(わがみ)は落行(おちゆく)勢の真似(まね)をして、朝まだきの霞隠(かすみがくれ)に、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(はんじばかり)どし軍(いくさ)をぞしたりける、宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)是(これ)を見て、御方(みかた)の野伏ぞと心得、力を合(あは)せん為に余所(よそ)の峯よりおり合(あう)て近付(ちかづき)たりける処を、舟田が勢の中に取篭(とりこめ)て、十一人まで生捕(いけどり)てげり。舟田此生捕(このいけどり)どもを解脱(ときゆる)して潛(ひそか)に申(まうし)けるは、「今汝等(なんぢら)をたばかり搦取(からめとり)たる事(こと)、全(まつたく)誅(ちゆう)せん為に非(あら)ず。新田殿(につたどの)本国へ帰(かへつ)て、御旗(はた)を挙(あげ)んとし給ふが、令旨(りやうじ)なくては叶(かなふ)まじければ、汝等に大塔宮(おほたふのみや)の御坐所(ござしよ)を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとり)つる也(なり)。命(いのち)惜(をし)くば案内者(あんないしや)して、此方(こなた)の使をつれて、宮の御座(ござ)あんなる所へ参れ。」と申(まうし)ければ、野伏(のぶし)ども大(おほき)に悦(よろこび)て、「其御意(そのぎよい)にて候はゞ、最(いと)安(やす)かるべき事にて候。此(この)中に一人暫(しばし)の暇(いとま)を給(たまはり)候へ、令旨(りやうじ)を申出(まうしいだし)て進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)て、残り十人をば留置(とめおき)、一人宮の御方(おんかた)へとてぞ参(まゐり)ける。今や/\と相待(あひまつ)処に、一日有(あつ)て令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。開(ひらい)て是(これ)を見(みる)に、令旨(りやうじ)にはあらで、綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)に書(かか)れたり。其詞(そのことばに)云(いはく)、被綸言称敷化理万国者明君徳也(なり)。撥乱鎮四海(しかい)者武臣節也(なり)。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東(くわんとう)征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田(につたの)小太郎殿(こたらうどの)綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)、家の眉目(びぼく)に備(そなへ)つべき綸言(りんげん)なれば、義貞不斜悦(よろこび)て、其翌日(そのあくるひ)より虚病(きよびやう)して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき勢共(せいども)は兎(と)に角(かく)に事を寄(よせ)て国々へ帰(かへり)ぬ。兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道絶(たえ)て、千剣破(ちはや)の寄手(よせて)以外(もつてのほか)に気を失(うしな)へる由聞へければ、又六波羅(ろくはら)より宇都宮(うつのみや)をぞ下(くだ)されける。紀清(きせい)両党千余騎(よき)寄手(よせて)に加(くは)は(ッ)て、未屈(いまだくつせざる)荒手(あらて)なれば、軈(やが)て城の堀の際(きは)まで責上(せめのぼつ)て、夜昼(よるひる)少しも不引退、十(じふ)余日(よにち)までぞ責(せめ)たりける。此(この)時にぞ、屏(へい)の際(きは)なる鹿垣(ししがき)・逆木(さかもぎ)皆被引破て、城も少し防兼(ふせぎかね)たる体(てい)にぞ見へたりける。され共(ども)紀清(きせい)両党の者とても、斑足王(はんぞくわう)の身をもからざれば天をも翔(かけ)り難(がた)し。竜伯公(りゆうはくこう)が力を不得ば山をも擘難(つんざきがた)し。余(あまり)に為方(せんかた)や無(なか)りけん、面(おもて)なる兵には軍(いくさ)をさせて後(うしろ)なる者は手々(てて)に鋤(すき)・鍬(くは)を以て、山を掘倒(ほりたふ)さんとぞ企(くはだて)ける。げにも大手(おほて)の櫓(やぐら)をば、夜昼(よるひる)三日が間に、念(ねむ)なく掘り崩(くづ)してけり。諸人(しよにん)是(これ)を見て、唯(ただ)始(はじめ)より軍(いくさ)を止(やめ)て掘(ほる)べかりける物を、と後悔して、我(われ)も我(われ)もと掘(ほり)けれ共(ども)、廻(まは)り一里に余れる大山なれば左右(さう)なく掘倒(ほりたふ)さるべしとは見へざりけり。
○赤松(あかまつ)蜂起(ほうきの)事(こと) S0704
去程(さるほど)に楠が城強くして、京都は無勢(ぶせい)也(なり)。と聞へしかば、赤松(あかまつ)二郎入道円心(ゑんしん)、播磨国(はりまのくにの)苔縄(こけなは)の城より打(うつ)て出で、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ、山里(やまのさと)・梨原(なしがはら)の間(あひだ)に陣をとる。爰(ここ)に備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すはう)の勢共(せいども)、六波羅(ろくはら)の催促に依(よつ)て上洛(しやうらく)しけるが、三石(みついし)の宿(しゆく)に打集(うちあつまつ)て、山里(やまのさと)の勢を追払(おひはらう)て通(とほら)んとしけるを、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)舟坂山(ふなさかやま)に支(ささへ)て、宗(むね)との敵二十(にじふ)余人(よにん)を生捕(いけどり)てけり。然共(しかれども)赤松(あかまつ)是(これ)を討(うた)せずして、情(なさけ)深(ふか)く相交(あひまじは)りける間、伊東大和(いとうやまとの)二郎其(その)恩を感じて、忽(たちまち)に武家与力(よりき)の志を変じて、官軍(くわんぐん)合体(がつてい)の思(おもひ)をなしければ、先(まづ)己(おのれ)が館(たち)の上なる三石山(みついしやま)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、軈(やが)て熊山(くまやま)へ取上(とりのぼ)りて、義兵を揚(あげ)たるに、備前の守護(しゆご)加治(かぢの)源二郎左衛門(じらうざゑもん)一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、児嶋(こじま)を指(さし)て落(おち)て行(ゆく)。是(これ)より西国(さいこく)の路弥(いよいよ)塞(ふさがつ)て、中国(ちゆうごく)の動乱(どうらん)不斜。西国より上洛(しやうらく)する勢をば、伊東(いとう)に支(ささ)へさせて、後(うしろ)は思(おもひ)も無(なか)りければ、赤松軈(やが)て高田兵庫(ひやうごの)助(すけ)が城を責落(せめおと)して、片時(へんし)も足を不休、山陰道(せんいんだう)を指(さ)して責上(せめのぼ)る。路次の軍勢馳加(はせくははつ)て、無程七千余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)勢にて六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)さん事は案(あん)の内(うち)なれ共(ども)、若(もし)戦(たたか)ひ利(り)を失(うしなふ)事(こと)あらば、引退(ひきしりぞい)て、暫く人馬をも休(やすめ)ん為に、兵庫の北に当(あたつ)て、摩耶(まや)と云(いふ)山寺(やまでら)の有(あり)けるに、先(まづ)城郭を構(かまへ)て、敵を二十里(にじふり)が間に縮(つづ)めたり。
○河野(かうの)謀叛(むほんの)事(こと) S0705
六波羅(ろくはら)には、一方の打手(うつて)にはと被憑ける宇都宮(うつのみや)は千剣破(ちはや)の城へ向ひつ、西国の勢は伊東(いとう)に被支て不上得、今は四国(しこくの)勢を摩耶(まや)の城へは向(むく)べしと被評定ける処に、後(のち)の二月四日、伊予(いよの)国(くに)より早馬(はやむま)を立(たて)て、「土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、宮方(みやかた)に成(なつ)て旗をあげ、当国の勢を相付(あひつけ)て土佐(とさの)国(くに)へ打越(うちこゆ)る処に、去月十二日長門(ながと)の探題(たんだい)上野介(かうづけのすけ)時直(ときなほ)、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて当国へ推渡(おしわた)り、星岡(ほしがをか)にして合戦を致す処に、長門(ながと)・周防(すはう)の勢一戦(いつせん)に打負(うちまけ)て、死人・手負(ておひ)其数(そのかず)を不知。剰(あまつさへ)時直父子(ふし)行方(ゆきかた)を不知云云。其(それ)より後(のち)四国の勢悉(ことごとく)土居・得能に属(しよく)する間、其(その)勢已(すで)に六千余騎(よき)、宇多津(うたつ)・今張(いまばり)の湊(みなと)に舟をそろへ、只今責上(せめのぼら)んと企(くはだて)候也(なり)。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。
○先帝(せんてい)船上(ふなのうへへ)臨幸(りんかうの)事(こと) S0706
畿内(きない)の軍(いくさ)未だ静(しづか)ならざるに、又四国・西国日を追(おつ)て乱(みだれ)ければ、人の心皆薄氷(はくひよう)を履(ふん)で国の危(あやふ)き事深淵(しんえん)に臨(のぞむ)が如し。抑(そもそも)今如斯天下の乱るゝ事は偏(ひとへ)に先帝(せんてい)の宸襟(しんきん)より事興(おこ)れり。若(もし)逆徒(ぎやくと)差(さし)ちがふて奪取奉(うばひとりたてまつら)んとする事もこそあれ、相構(あひかまへ)て能々(よくよく)警固仕(つかまつる)べしと、隠岐(おきの)判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)を催(もよほ)して日番(ひばん)・夜廻(よまはり)隙(ひま)もなく、宮門(きゆうもん)を閉(とぢ)て警固(けいご)し奉る。閏(うるふ)二月下旬(げじゆん)は、佐々木(ささきの)富士名(ふじなの)判官が番(ばん)にて、中門(ちゆうもん)の警固に候(さふらひ)けるが、如何(いか)が思(おもひ)けん、哀(あはれ)此(この)君を取奉(とりたてまつつ)て、謀叛(むほん)を起さばやと思(おもふ)心ぞ付(つき)にける。され共(ども)可申入便(たより)も無(なう)て、案(あん)じ煩(わづら)ひける処に、或夜(あるよ)御前(おんまへ)より官女(くわんぢよ)を以て御盃(おんさかづき)を被下たり。判官是(これ)を給(たまはつ)て、よき便(たより)也(なり)。と思(おもひ)ければ、潛(ひそか)に彼(かの)官女を以て申入(まうしいれ)けるは、「上様(うへさま)には未だ知(しろ)し召(めさ)れ候はずや、楠兵衛正成(まさしげ)金剛山(こんがうせん)に城を構(かまへ)て楯篭候(たてごもりさふらひ)し処に、東国勢百万余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し、去(さんぬる)二月の初(はじめ)より責戦(せめたたかひ)候といへ共(ども)、城は剛(つよう)して寄手(よせて)已(すで)に引色(ひきいろ)に成(なつ)て候。又備前には伊東大和(やまとの)二郎、三石(みついし)と申(まうす)所に城を構(かまへ)て、山陽道(せんやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ候。播磨(はりま)には赤松入道円心(ゑんしん)、宮の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、摂津国(つのくに)まで責上(せめのぼ)り、兵庫(ひやうご)の摩耶(まや)と申(まうす)処に陣を取(とつ)て候。其(その)勢已(すで)に三千余騎(よき)、京を縮(しし)め地を略(りやく)して勢(いきほひ)近国に振ひ候也(なり)。四国には河野(かうの)の一族(いちぞく)に、土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、御方(みかた)に参(まゐつ)て旗を挙(あげ)候処に、長門の探題(たんだい)上野(かうづけの)介時直(ときなほ)、彼(かれ)に打負(うちまけ)て、行方(ゆきかた)を不知落行候(おちゆきさふらひ)し後(のち)、四国の勢悉く土居(どゐ)・得能(とくのう)に属(しよく)し候間、既(すで)に大船(たいせん)をそろへて、是(これ)へ御迎(おんむかひ)に参るべし共(とも)聞へ候。又先(まづ)京都を責(せむ)べし共(とも)披露(ひろう)す。御聖運(せいうん)開(ひらかる)べき時已(すで)に至(いたり)ぬとこそ覚(おぼえ)て候へ。義綱(よしつな)が当番(たうばん)の間に忍(しのび)やかに御出(おんいで)候(さふらひ)て、千波(ちぶり)の湊(みなと)より御舟(おんふね)に被召、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の間、何(いづ)れの浦へも風に任(まかせ)て御舟(おんふね)を被寄、さりぬべからんずる武士(ぶし)を御憑(おんたのみ)候(さふらひ)て、暫(しばら)く御待(まち)候へ。義綱(よしつな)乍恐責進(せめまゐら)せん為に罷向体(まかりむかふてい)にて、軈(やが)て御方(みかた)に参(まゐり)候べし。」とぞ奏(そう)し申(まうし)ける。官女此由(このよし)を申入(まうしいれ)ければ、主上猶(なほ)も彼(かれ)偽(いつはり)てや申覧(まうすらん)と思食(おぼしめさ)れける間、義綱が志の程を能々(よくよく)伺(うかがひ)御覧ぜられん為に、彼(かの)官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余(あま)りて覚(おぼえ)ける上(うへ)、最愛(さいあい)又甚しかりければ、弥(いよいよ)忠烈(ちゆうれつ)の志を顕(あらは)しける。「さらば汝(なんぢ)先(まづ)出雲(いづもの)国(くに)へ越(こえ)て、同心(どうしん)すべき一族(いちぞく)を語(かたらひ)て御迎(おんむかひ)に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則(すなはち)出雲へ渡(わたつ)て塩冶(えんや)判官を語(かたら)ふに、塩冶(えんや)如何(いかが)思(おもひ)けん、義綱をゐこめて置(おい)て、隠岐(おきの)国(くに)へ不帰。主上且(しばら)くは義綱を御待有(まちあり)けるが、余(あまり)に事(こと)滞(とどこほ)りければ、唯(ただ)運(うん)に任(まかせ)て御出(おんいで)有(あら)んと思食(おぼしめし)て、或夜(あるよ)の宵(よひ)の紛(まぎれ)に、三位(さんみ)殿(どの)の御局(おつぼね)の御産(ごさん)の事近付(ちかづき)たりとて、御所(ごしよ)を御出(おんいで)ある由にて、主上其御輿(そのおんこし)にめされ、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣計(ばかり)を召具(めしぐ)して、潛(ひそか)に御所(ごしよ)をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。此体(このてい)にては人の怪(あやし)め申(まうす)べき上(うへ)、駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、御輿(こし)をば被停て、悉(かたじけなく)も十善の天子、自(みづか)ら玉趾(ぎよくし)を草鞋(さうあい)の塵(ちり)に汚(けが)して、自(みづか)ら泥土(でいど)の地を踏(ふま)せ給(たまひ)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。比(ころ)は三月二十三日の事なれば、月待程(まつほど)の暗き夜に、そこ共不知遠き野(の)の道を、たどりて歩(あゆま)せ給へば、今は遥(はるか)に来(き)ぬ覧(らん)と被思食たれば、迹(あと)なる山は未(いまだ)滝(たき)の響(ひびき)の風(ほのか)に聞ゆる程なり。若(もし)追懸進(おつかけまゐら)する事もやある覧(らん)と、恐(おそろ)しく思食(おぼしめし)ければ、一足(ひとあし)も前(さき)へと御心(おんこころ)許(ばかり)は進(すす)め共(ども)、いつ習(なら)はせ給(たまふ)べき道ならねば、夢路(ゆめぢ)をたどる心地(ここち)して、唯(ただ)一所(いつしよ)にのみやすらはせ給へば、こは如何(いかが)せんと思煩(おもひわづら)ひて、忠顕(ただあき)朝臣、御(おん)手を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、今夜(こよひ)いかにもして、湊辺(みなとのへん)までと心遣(やり)給へ共(ども)、心身共(しんしんとも)に疲れ終(はて)て、野径(やけい)の露に徘徊(はいくわい)す。夜いたく深(ふけ)にければ、里遠からぬ鐘(かね)の声(こゑ)の、月に和(くわ)して聞へけるを、道しるべに尋寄(たづねより)て、忠顕(ただあき)朝臣或(ある)家の門を扣(たた)き、「千波(ちぶりの)湊へは何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。」と問(とひ)ければ、内より怪(あやし)げなる男(をのこ)一人出向(いでむかひ)て、主上の御有様(おんありさま)を見進(まゐら)せけるが、心なき田夫野人(でんぶやじん)なれ共(ども)、何となく痛敷(いたはしく)や思進(おもひまゐら)せけん、「千波(ちぶりの)湊へは是(これ)より纔(わづかに)五十町(ごじつちよう)許(ばかり)候へ共(ども)、道(みち)南北へ分れて如何様(いかさま)御迷候(おんまよひさふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、御(おん)道(みち)しるべ仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)て、主上を軽々(かるがる)と負進(おひまゐら)せ、程なく千波(ちぶりの)湊へぞ着(つき)にける。爰(ここ)にて時打(ときうつ)鼓(つづみ)の声を聞けば、夜は未だ五更(ごかう)の初(はじめ)也(なり)。此(この)道(みち)の案内者(あんないしや)仕(つかまつり)たる男(をのこ)、甲斐々々敷(かひがひしく)湊(みなとの)中(うち)を走廻(はしりまはつて)、伯耆(はうき)の国へ漕(こぎ)もどる商人舟(あきんどぶね)の有(あり)けるを、兎角(とかう)語(かたら)ひて、主上を屋形(やかた)の内に乗(の)せ進(まゐら)せ、其後(そののち)暇(いとま)申(まうし)てぞ止(とどま)りける。此男(このをのこ)誠(まこと)に唯人(ただびと)に非ざりけるにや、君(きみ)御一統(ごいつとう)の御時(おんとき)に、尤(もつとも)忠賞(ちゆうしやう)有(ある)べしと国中を被尋けるに、我こそ其(それ)にて候へと申(まうす)者遂(つひ)に無(なか)りけり。夜も已(すで)に明(あけ)ければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を揚(あげ)、湊(みなと)の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。船頭(せんどう)主上の御有様を見奉(たてまつつ)て、唯人(ただびと)にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形(やかた)の前(まへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「加様(かやう)の時御船(おんふね)を仕(つかまつつ)て候こそ、我等が生涯の面目(めんぼく)にて候へ、何(いづ)くの浦へ寄(よせ)よと御定(ごぢやう)に随(したがひ)て、御舟(おんふね)の梶(かぢ)をば仕(つかまつり)候べし。」と申(まうし)て、実(まこと)に他事(たじ)もなげなる気色(きしよく)也(なり)。忠顕(ただあき)朝臣是(これ)を聞き給(たまひ)て、隠(かく)しては中々(なかなか)悪(あし)かりぬと思はれければ、此船頭(このせんどう)を近く呼寄(よびよせ)て、「是程(これほど)に推(お)し当(あて)られぬる上(うへ)は何をか隠(かく)すべき、屋形の中(うち)に御座(ござ)あるこそ、日本国の主(あるじ)、悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君にていらせ給へ。汝等(なんぢら)も定(さだめ)て聞及(ききおよび)ぬらん、去年より隠岐(おきの)判官が館(たち)に被押篭て御座(ござ)ありつるを、忠顕(ただあき)盜出(ぬすみいだ)し進(まゐら)せたる也(なり)。出雲・伯耆(はうき)の間に、何(いづ)くにてもさりぬべからんずる泊(とまり)へ、急ぎ御舟(おんふね)を着(つけ)てをろし進(まゐら)せよ。御運(ごうん)開(ひらけ)ば、必(かならず)汝を侍(さぶらひ)に申成(まうしなし)て、所領一所(しよりやういつしよ)の主(ぬし)に成(なす)べし。」と被仰ければ、船頭(せんどう)実(まこと)に嬉しげなる気色(きしよく)にて、取梶(とりかぢ)・面梶(おもかぢ)取合(とりあは)せて、片帆(かたほ)にかけてぞ馳(はせ)たりける。今は海上(かいじやう)二三十里(にさんじふり)も過(すぎ)ぬらんと思ふ処に、同じ追風(おひかぜ)に帆(ほ)懸(かけ)たる舟十艘計(ばかり)、出雲・伯耆を指(さし)て馳来(はせきた)れり。筑紫舟(つくしぶね)か商人舟(あきんどぶね)かと見れば、さもあらで、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)、主上を追(おひ)奉る舟にてぞ有(あり)ける。船頭是(これ)を見て、「角(かく)ては叶(かなひ)候まじ、是(これ)に御隠れ候へ。」と申(まうし)て、主上と忠顕(ただあき)朝臣とを、舟底(ふなぞこ)にやどし進(まゐら)せて、其(その)上に、あひ物とて乾(ほし)たる魚(うを)の入(いり)たる俵(たはら)を取積(とりつん)で、水手(すゐしゆ)・梶取(かんとり)其上(そのうへ)に立双(たちならん)で、櫓(ろ)をぞ押(おし)たりける。去程(さるほど)に追手(おひて)の舟一艘(いつさう)、御座舟(ござぶね)に追付(おつつい)て、屋形の中(うち)に乗移(のりうつ)り、こゝかしこ捜(さが)しけれ共(ども)、見出(みいだ)し奉らず。「さては此(この)舟には召(めさ)ざりけり。若(もし)あやしき舟や通(とほ)りつる。」と問(とひ)ければ、船頭(せんどう)、「今夜の子(ね)の刻計(こくばかり)に、千波(ちぶりの)湊を出候(いでさふらひ)つる舟にこそ、京上臈(きやうじやうらふ)かと覚(おぼ)しくて、冠(かぶり)とやらん着(き)たる人と、立烏帽子(たてゑぼし)着(き)たる人と、二人(ににん)乗(のら)せ給(たまひ)て候(さふらひ)つる。其(その)舟は今は五六里も先立候(さきだちさふらひ)ぬらん。」と申(まうし)ければ、「さては疑(うたがひ)もなき事也(なり)。早(はや)、舟をおせ。」とて、帆(ほ)を引(ひき)梶(かぢ)を直(なほ)せば、此(この)舟は軈(やが)て隔(へだたり)ぬ。今はかうと心安く覚(おぼえ)て迹(あと)の浪路(なみぢ)を顧(かへりみ)れば、又一里許(ばかり)さがりて、追手(おひて)の舟百余艘(よさう)、御坐船(ござふね)を目に懸(かけ)て、鳥の飛(とぶ)が如くに追懸(おつかけ)たり。船頭(せんどう)是(これ)を見て帆(ほ)の下に櫓(ろ)を立(たて)て、万里(ばんり)を一時(いちじ)に渡らんと声を帆に挙(あげ)て推(おし)けれ共(ども)、時節(をりふし)風たゆみ、塩(しほ)向(むかう)て御舟(おんふね)更に不進。水手(すゐしゆ)・梶取(かんどり)如何(いかが)せんと、あはて騒ぎける間、主上船底(ふなぞこ)より御出(おんいで)有(あつ)て、膚(はだ)の御護(おんまぶり)より、仏舎利(ぶつしやり)を一粒(いちりふ)取出(とりいだ)させ給(たまひ)て、御畳紙(おんたたうがみ)に乗(の)せて、波の上にぞ浮(うけ)られける。竜神(りゆうじん)是(これ)に納受(なふじゆ)やした〔り〕けん、海上(かいじやう)俄(にはか)に風替(かは)りて、御坐船(ござふね)をば東へ吹送(ふきおく)り、追手(おひて)の船をば西へ吹(ふき)もどす。さてこそ主上は虎口(ここう)の難(なん)の御遁有(のがれあり)て、御船(おんふね)は時間(ときのま)に、伯耆(はうき)の国名和湊(なわのみなと)に着(つき)にけり。六条(ろくでうの)少将忠顕朝臣(ただあきあそん)一人先(まづ)舟よりおり給(たまひ)て、「此辺(このへん)には何(いか)なる者か、弓矢取(とつ)て人に被知たる。」と問(とは)れければ、道行(ゆく)人立(たち)やすらひて、「此辺(このへん)には名和(なわの)又太郎長年(ながとし)と申(まうす)者こそ、其身(そのみ)指(さし)て名有(なある)武士(ぶし)にては候はね共(ども)、家(いへ)富(とみ)一族(いちぞく)広(ひろう)して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕(ただあき)朝臣能々(よくよく)其子細(そのしさい)を尋聞(たづねきい)て、軈(やが)て勅使(ちよくし)を立(たて)て被仰けるは、「主上隠岐(おきの)判官が館(たち)を御逃(おんにげ)有(あつ)て、今此湊(このみなと)に御坐有(ござあり)。長年(ながとし)が武勇兼(かね)て上聞(しやうぶん)に達せし間、御憑(おんたのみ)あるべき由を被仰出也(なり)。憑(たの)まれ進(まゐら)せ候べしや否(いなや)、速(すみやか)に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和(なわの)又太郎は、折節(をりふし)一族共(いちぞくども)呼集(よびあつめ)て酒飲(のう)で居たりけるが、此(この)由を聞(きい)て案じ煩(わづらう)たる気色にて、兎(と)も角(かく)も申得(まうしえ)ざりけるを、舎弟(しやてい)小太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)長重(ながしげ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至迄(いたるまで)、人の望(のぞむ)所は名と利との二(ふたつ)也(なり)。我等(われら)悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐらせ)て、尸(かばね)を軍門(ぐんもん)に曝(さら)す共(とも)名を後代(こうだい)に残(のこさ)ん事(こと)、生前(しやうぜん)の思出(おもひで)、死後の名誉たるべし。唯一筋(ひとすぢ)に思定(おもひさだめ)させ給ふより外(ほか)の儀(ぎ)有(ある)べしとも存(ぞんじ)候はず。」と申(まうし)ければ、又太郎を始(はじめ)として当座(たうざ)に候(さふらひ)ける一族共(いちぞくども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆此儀(このぎ)に同(どう)じてけり。「されば頓(やが)て合戦の用意(ようい)候べし。定(さだめ)て追手(おひて)も迹(あと)より懸(かか)り候らん。長重(ながしげ)は主上の御迎(むかひ)に参(まゐつ)て、直(すぐ)に船上山(ふなのうへやま)へ入進(いれまゐら)せん。旁(かたがた)は頓(やが)て打立(うつたつ)て、船上(ふなのうへ)へ御参(ごさん)候べし。」と云捨(いひすて)て、鎧一縮(いつしゆく)して走り出(いで)ければ、一族(いちぞく)五人腹巻(はらまき)取(とつ)て投懸々々(なげかけなげかけ)、皆高紐(たかひぼ)しめて、共に御迎(むかひ)にぞ参じける。俄(にはか)の事にて御輿(こし)なんども無(なか)りければ、長重(ながしげ)着(き)たる鎧(よろひ)の上に荒薦(あらこも)を巻(まい)て、主上を負進(おひまゐら)せ、鳥の飛(とぶ)が如くして舟上(ふなのうへ)へ入(いれ)奉る。長年(ながとし)近辺(きんぺん)の在家(ざいけ)に人を廻(まは)し、「思立(おもひたつ)事(こと)有(あつ)て舟上(ふなのうへ)に兵粮を上(あぐ)る事あり。我倉(わがくら)の内にある所の米穀(べいこく)を、一荷(いつか)持(もつ)て運びたらん者には、銭(ぜに)を五百(ごひやく)づゝ取らすべし。」と触(ふれ)たりける間、十方より人夫(にんぷ)五六千人出来(しゆつらい)して、我(われ)劣らじと持送(もちおく)る。一日が中(うち)に兵粮五千(ごせん)余石(よこく)運びけり。其後(そののち)家中(けちゆう)の財宝(ざいはう)悉(ことごとく)人民(じんみん)百姓に与(あたへ)て、己(おのれ)が館(たち)に火をかけ、其(その)勢百五十騎にて、船上(ふなのうへ)に馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を警固(けいご)仕る。長年(ながとし)が一族(いちぞく)名和(なわの)七郎と云(いひ)ける者、武勇の謀(はかりごと)有(あり)ければ、白布(しらぬの)五百(ごひやく)端(たん)有(あり)けるを旗にこしらへ、松の葉を焼(やい)て煙(けむり)にふすべ、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)の家々の文(もん)を書(かい)て、此(ここ)の木の本(もと)、彼(かしこ)の峯にぞ立置(たておき)ける。此(この)旗共(はたども)峯の嵐に吹(ふか)れて、陣々に翻(ひるがへ)りたる様(さま)、山中(さんちゆう)に大勢(おほぜい)充満(じゆうまん)したりと見へてをびたゝし。
○船上(ふなのうへ)合戦(かつせんの)事(こと) S0707
去程(さるほど)に同(おなじき)二十九日、隠岐(おきの)判官、佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門、其(その)勢三千余騎(よき)にて南北より押寄(おしよせ)たり。此舟上(このふなのうへ)と申(まうす)は、北は大山(だいせん)に継(つづ)き峙(そばだ)ち、三方(さんぱう)は地僻(ちさがり)に、峯に懸(かか)れる白雲(しらくも)腰(こし)を廻(めぐ)れり。俄に拵(こしら)へたる城なれば、未(いまだ)堀の一所(いつしよ)をも不掘、屏(へい)の一重(ひとへ)をも不塗、唯所々(しよしよ)に大木(たいぼく)少々切倒(きりたふ)して、逆木(さかもぎ)にひき、坊舎(ばうしや)の甍(いらか)を破(やぶつ)て、かひ楯(だて)にかける計(ばかり)也(なり)。寄手(よせて)三千余騎(よき)、坂中(さかなか)まで責上(せめのぼつ)て、城中をきつと向上(みあげ)たれば、松柏(しようはく)生茂(おひしげつ)ていと深き木陰(こかげ)に、勢の多少は知(しら)ね共(ども)、家々の旗四五百(ごひやく)流(ながれ)、雲に翻(ひるがへ)り、日に映(えい)じて見へたり。さては早(はや)、近国(きんごく)の勢共(せいども)の悉(ことごとく)馳(はせ)参りたりけり。此(この)勢許(ばかり)にては責難(せめがた)しとや思(おもひ)けん、寄手(よせて)皆心に危(あやしみ)て不進得。城中の勢共(せいども)は、敵(てき)に勢(せい)の分際(ぶんざい)を見へじと、木陰(こかげ)にぬはれ伏(ふし)て、時々(ときどき)射手(いて)を出(いだ)し、遠矢(とほや)を射させて日を暮(くら)す。卦(かか)る所に一方の寄手(よせて)なりける佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、遥(はるか)の麓にひかへて居たりけるが、何方(いづかた)より射る共(とも)しらぬ流矢(ながれや)に、右の眼(まなこ)を射ぬかれて、矢庭(やには)に伏(ふし)て死にけり。依之(これによつて)其(その)手(て)の兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)色を失(うしなう)て軍(いくさ)をもせず。佐渡前司(さどのぜんじ)は八百(はつぴやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ向(むかひ)たりけるが、俄に旗を巻(まき)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参(かうさん)す。隠岐(おきの)判官は猶(なほ)加様(かやう)の事をも不知、搦手(からめて)の勢は、定(さだめ)て今は責近(せめちかづ)きぬらんと心得て、一の木戸口(きどくち)に支(ささへ)て、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、時(とき)移(うつ)るまでぞ責(せめ)たりける。日已(すで)に西山(せいざん)に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降(ふる)事(こと)車軸(しやぢく)の如く、雷(いかづち)の鳴(なる)事(こと)山を崩(くづ)すが如し。寄手(よせて)是(これ)におぢわなゝひて、斯彼(ここかしこ)の木陰(こかげ)に立寄(たちよつ)てむらがり居たる所に、名和(なわ)又太郎長年(ながとし)舎弟(しやてい)太郎左衛門長重(ながしげ)、小次郎長生(ながたか)が、射手(いて)を左右に進めて散々(さんざん)に射させ、敵(てき)の楯(たて)の端(はし)のゆるぐ所を、得たりや賢(かしこ)しと、ぬきつれて打(うつ)てかゝる。大手の寄手(よせて)千余騎(よき)、谷底(たにぞこ)へ皆まくり落されて、己(おのれ)が太刀・長刀(なぎなた)に貫(つらぬか)れて命(いのち)を墜(おと)す者其数(そのかず)を不知。隠岐(おきの)判官計(ばかり)辛(から)き命を助(たすか)りて、小舟(こぶね)一艘(いつさう)に取乗(とりのり)、本国へ逃帰(にげかへ)りけるを、国人いつしか心替(こころがはり)して、津々浦々(つつうらうら)を堅めふせぎける間、波に任(まか)せ風に随(したがひ)て、越前の敦賀(つるが)へ漂(ただよ)ひ寄(より)たりけるが、幾程も無(なく)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の時、江州(がうしう)番馬(ばんば)の辻堂(つじだう)にて、腹掻切(かききつ)て失(うせ)にけり。世澆季(げうき)に成(なり)ぬといへ共(ども)、天理(てんり)未(いま)だ有(あり)けるにや、余(あまり)に君を悩(なやま)し奉りける隠岐(おきの)判官が、三十(さんじふ)余日(よにち)が間に滅(ほろ)びはてゝ、首(くび)を軍門(ぐんもん)の幢(はたほこ)に懸(かけ)られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、船上(ふなのうへ)に御座有(ござあり)と聞へしかば、国々の兵共(つはものども)の馳(はせ)参る事引(ひき)も不切。先(まづ)一番に出雲(いづも)の守護(しゆご)塩谷(えんや)判官高貞(たかさだ)、富士名(ふじなの)判官と打連(うちつれ)、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其後(そののち)浅山(あさやま)二郎八百(はつぴやく)余騎(よき)、金持(かなぢ)の一党(いつたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、大山衆徒(だいせんのしゆと)七百余騎(よき)、都(すべ)て出雲(いづも)・伯耆・因幡(いなば)、三箇国(かこく)の間に、弓矢に携(たづさは)る程の武士共(ぶしども)の参らぬ者は無(なか)りけり。是(これ)のみならず、石見(いはみの)国(くに)には沢(さは)・三角(みすみ)の一族(いちぞく)、安芸(あきの)国(くに)に熊谷(くまがえ)・小早河(こばいかは)、美作(みまさかの)国(くに)には菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)・江見(えみ)・方賀(はが)・渋谷(しぶや)・南三郷(みなみさんがう)、備後(びんごの)国(くに)に江田(えた)・広沢・宮(みや)・三吉(みよし)、備中に新見(にひみ)・成合(なりあひ)・那須(なす)・三村(みむら)・小坂(こさか)・河村・庄(しやう)・真壁(まかべ)、備前に今木(いまぎ)・大富(おほどみの)太郎幸範(よしのり)・和田備後(びんごの)二郎範長(のりなが)・知間(ちまの)二郎親経(ちかつね)・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞(のりさだ)・小嶋(こじま)・中吉(なかぎり)・美濃権(みののごんの)介・和気(わけの)弥次郎季経(すゑつね)・石生(おしこ)彦三郎、此外(このほか)四国九州の兵(つはもの)までも聞伝々々(ききつたへききつたへ)、我前(われさき)にと馳(はせ)参りける間、其(その)勢舟上山(ふなのうへやま)に居余(ゐあま)りて、四方(しはう)の麓二三里は、木の下・草の陰(かげ)までも、人ならずと云(いふ)所は無(なか)りけり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第八
○摩耶(まや)合戦(かつせんの)事(こと)付酒部瀬河(さかべせがは)合戦(かつせんの)事(こと) S0801
先帝(せんてい)已(すで)に船上(ふなのうへ)に着御(ちやくぎよ)成(なつ)て、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)合戦に打負(うちまけ)し後、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)皆馳(はせ)参る由(よし)、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の早馬(はやむま)頻並(しきなみ)に打(うつ)て、六波羅(ろくはら)へ告(つげ)たりければ、事已(すで)に珍事(ちんじ)に及びぬと聞(きく)人色(いろ)を失へり。是(これ)に付(つけ)ても、京(きやう)近き所に敵の足をためさせては叶(かなふ)まじ。先(まづ)摂津国(つのくに)摩耶(まや)の城(じやう)へ押寄(おしよせ)て、赤松(あかまつ)を可退治とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時知(ときとも)に四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、在京人(ざいきやうにん)並(ならびに)三井寺(みゐでら)法師三百(さんびやく)余人(よにん)を相副(あひそへ)て、以上五千(ごせん)余騎(よき)を摩耶(まや)の城(じやう)へぞ被向ける。其(その)勢閏(うるふ)二月五日京都を立(たつ)て、同(おなじき)十一日の卯刻(うのこく)に、摩耶(まや)の城の南の麓(ふもと)、求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)よりぞ寄(よせ)たりける。赤松入道是(これ)を見て、態(わざと)敵を難所(なんじよ)に帯(おび)き寄(よせ)ん為に、足軽(あしがる)の射手(いて)一二百人を麓へ下(おろ)して、遠矢(とほや)少々射させて、城(しろ)へ引上(ひきあが)りけるを、寄手(よせて)勝(かつ)に乗(のつ)て五千(ごせん)余騎(よき)、さしも嶮(けはし)き南の坂を、人馬(じんば)に息も継(つが)せず揉(もみ)に々(もう)でぞ挙(あげ)たりける。此(この)山へ上(のぼ)るに、七曲(ななまがり)とて岨(けはし)く細き路あり。此(この)所に至(いたつ)て、寄手(よせて)少し上(のぼ)りかねて支(ささ)へたりける所を、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)二人(ににん)南の尾崎(をさき)へ下降(おりくだつ)て、矢種(やだね)を不惜散々(さんざん)に射ける間、寄手(よせて)少し射しらまかされて、互(たがひ)に人を楯に成(なし)て其陰(そのかげ)にかくれんと色めきける気色(けしき)を見て、赤松入道子息信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・小寺(こでら)・頓宮(とんぐう)の一党五百(ごひやく)余人(よにん)、鋒(きつさき)を双(ならべ)て大山の崩(くづるる)が如く、二(に)の尾(を)より打(うつ)て出(いで)たりける間、寄手(よせて)跡より引立(ひきたつ)て、「返せ。」と云(いひ)けれ共(ども)、耳にも不聞入、我先(われさき)にと引(ひき)けり。其(その)道或(あるひは)深田(ふけだ)にして馬の蹄(ひづめ)膝(ひざ)を過ぎ、或(あるひは)荊棘(けいぎよく)生繁(おひしげつ)て行く前(さ)き弥(いよいよ)狭(せば)ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便(たよ)りなし。されば城の麓より、武庫河(むこがは)の西の縁(はた)まで道三里が間、人馬上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り死(しし)て行人(かうじん)路(みち)を去敢(さりあへ)ず。向ふ時七千余騎(よき)と聞へし六波羅(ろくはら)の勢、僅(わづか)に千騎(せんぎ)にだにも足(た)らで引返しければ、京中(きやうぢゆう)・六波羅(ろくはら)の周章(しうしやう)不斜(なのめならず)。雖然、敵近国より起(おこつ)て、属順(つきしたが)ひたる勢(せい)さまで多しとも聞へねば、縦(たと)ひ一度(いちど)二度(にど)勝(かつ)に乗る事有(あり)とも、何程の事か可有と、敵の分限(ぶんげん)を推量(おしはかつ)て、引(ひけ)ども機をば不失。斯(かか)る所に、備前(びぜんの)国(くに)の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)も大略(たいりやく)敵に成(なり)ぬと聞へければ、摩耶城(まやのじやう)へ勢(せい)重(かさ)ならぬ前(さき)に討手を下(くだ)せとて、同(おなじき)二十八日、又一万余騎(よき)の勢を被差下。赤松入動是(これ)を聞(きい)て、「勝軍(かちいくさ)の利(りは)、謀(はかりごと)不意(ふい)に出で大敵の気を凌(しのい)で、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して先(さきん)ずるには不如。」とて三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)し、摩耶(まや)の城を出(いで)て、久々智(くくち)・酒部(さかべ)に陣を取(とつ)て待(まち)かけたり。三月十日六波羅勢(ろくはらぜい)、既(すで)に瀬河(せがは)に着(つき)ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有(あら)んずらんとて、赤松すこし油断(ゆだん)して、一村雨(ひとむらさめ)の過(すぎ)けるほど物具(もののぐ)の露をほさんと、僅(わづか)なる在家(ざいけ)にこみ入(いつ)て、雨の晴間(はれま)を待(まち)ける所に、尼崎(ああまがさき)より船を留(とど)めてあがりける阿波(あは)の小笠原(をがさはら)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。赤松纔(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)にて大勢(おほぜい)の中へかけ入り、面(おもて)も不振戦ひけるが、大敵凌(しの)ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子(ふし)六騎にこそ成(なり)にけれ。六騎の兵(つはもの)皆揆(しるし)をかなぐり捨(すて)て、大勢の中へ颯(さつ)と交(まじは)りて懸(かけ)まわりける間、敵是(これ)を知らでや有(あり)けん、又天運の助けにや懸(かか)りけん、何(いづ)れも無恙して、御方(みかた)の勢の小屋野(こやの)の宿(しゆく)の西に、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたる其(その)中へ馳入(はせいつ)て、虎口(ここう)に死を遁(のが)れけり。六波羅勢(ろくはらぜい)は昨日の軍(いくさ)に敵の勇鋭(ゆうえい)を見るに、小勢(こぜい)也(なり)。といへども、欺(あざむ)き難(がた)しと思(おもひ)ければ、瀬河(せがは)の宿(しゆく)に引(ひか)へて進み得ず。赤松は又敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)を集め、殿(おく)れたる勢を待調(まちそろへ)ん為に不懸、互(たがひ)に陣を阻(へだて)て未(いまだ)雌雄(しゆう)を決せず。丁壮(ていさう)そゞろに軍旅(ぐんりよ)につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同(おなじき)十一日赤松三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敵の陣へ押寄(おしよせ)て、先づ事の体(てい)を伺ひ見(みる)に、瀬河(せがは)の宿(しゆく)の東西(とうざい)に、家々の旗二三百(にさんびやく)流(ながれ)、梢の風に翻(ひるがへ)して、其(その)勢二三万騎(にさんまんぎ)も有(あら)んと見へたり。御方(みかた)を是(これ)に合(あは)せば、百にして其(その)一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏(ひとへ)に只討死と志(こころざし)て、筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)範家(のりいへ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)・中山(なかやまの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左〔衛〕門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)、郎等(らうどう)共に七騎にて、竹の陰(かげ)より南の山へ打襄(うちあがつ)て進み出(いで)たり。敵是(これ)を見て、楯の端(はし)少し動(うごい)て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色(けしき)に見へける間、七騎の人々馬より飛下(とびお)り、竹の一村(ひとむら)滋(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とつ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射たりける。瀬川(せがは)の宿(しゆく)の南北三十(さんじふ)余町(よちやう)に、沓(くつ)の子(こ)を打(うつ)たる様(やう)に引(ひか)へたる敵なれば、何(なに)かはゝづるべき。矢比(やころ)近き敵二十五騎、真逆(まつさかさま)に被打落ければ、矢面(やおもて)なる人を楯(たて)にして、馬を射させじと立てかねたり。平野(ひらの)伊勢(いせの)前司(ぜんじ)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・田中・小寺(こてら)・八木(やぎ)・衣笠(きぬがさ)の若者共(わかものども)、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙(えびら)を叩き、勝時(かつどき)を作(つくつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べてぞ懸(かけ)たりける。大軍の靡(なび)く僻(くせ)なれば、六波羅勢(ろくはらぜい)前陣(ぜんぢん)返(かへ)せども後陣(ごぢん)不続、行前(ゆくさき)は狭(せば)し、「閑(しづか)に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等(らうどう)は主(しゆ)を知らで、我前(われさき)にと落行(おちゆき)ける程に、其(その)勢大半(たいはん)討(うた)れて纔(わづか)に京へぞ帰りける。赤松は手負(ておひ)・生捕(いけどり)の頚三百(さんびやく)余、宿河原(しゆくのかはら)に切懸(きりかけ)させて、又摩耶(まや)の城(じやう)へ引返さんとしけるを、円心(ゑんしん)が子息(しそく)帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、進み出(いで)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)は勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)に不如。今度(こんど)寄手(よせて)の名字(みやうじ)を聞(きく)に、京都の勢数(かず)を尽(つく)して向(むかつ)て候なる。此(この)勢共(せいども)今四五日は、長途(ちやうど)の負軍(まけいくさ)にくたびれて、人馬(じんば)ともに物(もの)の用に不可立。臆病神(おくびやうがみ)の覚(さめ)ぬ前(さき)に続(つづ)ひて責(せむ)る物(もの)ならば、などか六波羅(ろくはら)を一戦(いつせん)の中(うち)に責落(せめおと)さでは候べき。是(これ)太公(たいこう)が兵書(ひやうしよ)に出(いで)て、子房(しばう)が心底(しんてい)に秘せし所にて候はずや。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其夜(そのよ)軈(やが)て宿川原(しゆくのかはら)を立(たつ)て、路次(ろし)の在家(ざいけ)に火をかけ、其(その)光を手松(たいまつ)にして、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて責上(せめのぼ)りけり。
○三月十二日合戦(かつせんの)事(こと) S0802
六波羅(ろくはら)には斯(かか)る事とは夢にも知(しら)ず。摩耶(まや)の城(じやう)へは大勢下(くだ)しつれば、敵を責落(せめおと)さん事(こと)、日を過さじと心安く思(おもひ)ける。其左右(そのさう)を今や/\と待(まち)ける所に、寄手(よせて)打負(うちまけ)て逃上(にげのぼ)る由披露(ひろう)有(あつ)て、実説(じつせつ)は未聞。何(なに)とある事やらん、不審(ふしん)端(はし)多き所に、三月十二日申刻計(さるのこくばかり)に、淀(よど)・赤井(あかゐ)・山崎・西岡辺(にしのをかへん)三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)たり。「こは何事ぞ。」と問(とふ)に、「西国の勢已(すで)に三方(さんぱう)より寄(よせ)たり。」とて、京中(きやうぢゆう)上(うへ)を下(した)へ返して騒動す。両六波羅(りやうろくはら)驚ひて、地蔵堂(ぢざうだう)の鐘(かね)を鳴(なら)し洛中(らくちゆう)の勢を被集けれども、宗徒(むねと)の勢(せい)は摩耶(まや)の城より被追立、右往左往(うわうざわう)に逃隠(にげかく)れぬ。其外(そのほか)は奉行(ぶぎやう)・頭人(とうにん)なんど被云て、肥脹(こえふく)れたる者共(ものども)が馬に被舁乗て、四五百騎馳集(はせあつま)りたれ共(ども)、皆只あきれ迷へる計(ばかり)にて、差(さし)たる義勢(ぎせい)も無(なか)りけり。六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、左近(さこんの)将監仲時(なかとき)、「事の体(てい)を見るに、何様(なにさま)坐(ゐ)ながら敵を京都にて相待(あひまた)ん事は、武略(ぶりやく)の足(たら)ざるに似〔た〕り。洛外(ぐわい)に馳向(はせむかつ)て可防。」とて両検断(けんだん)隅田(すだ)・高橋に、在京の武士(ぶし)二万余騎(よき)を相副(あひそへ)て、今在家(いまざいけ)・作道(つくりみち)・西の朱雀(しゆじやか)・西八条辺(へん)へ被差向。是(これ)は此比(このころ)南風(みなみのかぜ)に雪とけて河水(かはみづ)岸(きし)に余(あま)る時なれば、桂河(かつらがは)を阻(へだて)て戦(たたかひ)を致せとの謀(はかりごと)也(なり)。去程(さるほど)に赤松入道円心(ゑんしん)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二(ふたつ)に分(わけ)て、久我縄手(こがなはて)・西の七条より押寄(おしよせ)たり。大手(おほて)の勢桂川(かつらがは)の西の岸に打莅(うちのぞん)で、川向(かはむかひ)なる六波羅勢(ろくはらぜい)を見渡せば、鳥羽(とば)の秋(あき)山風(やまかぜ)に、家家の旗翩翻(へんぼん)として、城南(せいなん)の離宮(りきゆう)の西(さい)門より、作道(つくりみち)・四塚(よつづか)・羅城門(らしやうもん)の東西(とうざい)、々(にし)の七条口まで支(ささ)へて、雲霞(うんか)の如(ごとく)に充満(じゆうまん)したり。されども此(この)勢(せい)は、桂川(かつらがは)を前にして防げと被下知つる其趣(そのおもむき)を守(まもつ)て、川をば誰も越(こえ)ざりけり。寄手(よせて)は又、思(おもひ)の外(ほか)敵大勢なるよと思惟(しゆゐ)して、無左右打(うつ)て懸(かか)らんともせず。只両陣互(たがひ)に川を隔(へだて)て、矢軍(やいくさ)に時をぞ移しける。中(なか)にも帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、馬を踏放(ふみはなし)て歩立(かちたち)になり、矢たばね解(とい)て押(おし)くつろげ、一枚楯(いちまいだて)の陰(かげ)より、引攻々々(ひきつめひきつめ)散々(さんざん)に射けるが、「矢軍許(やいくさばかり)にては勝負(しようぶ)を決すまじかり。」と独言(ひとりごと)して、脱置(ぬぎおい)たる鎧(よろひ)を肩にかけ、胄(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、馬の腹帯(はるび)を堅(かた)めて、只一騎岸(きし)より下(した)に打下(うちおろ)し、手縄(たづな)かいくり渡さんとす。父の入道遥(はるか)に見て馬を打寄(うちよ)せ、面(おもて)に塞(ふさがつ)て制(せい)しけるは、「昔佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡し、足利(あしかが)又太郎が宇治川(うぢがは)を渡(わたし)たるは、兼(かね)てみほじるしを立(たて)て、案内(あんない)を見置き、敵の無勢(ぶせい)を目に懸(かけ)て先(さき)をば懸(かけ)し者也(なり)。河上(かはかみ)の雪消(きえ)水増(まさ)りて、淵瀬(ふちせ)も見へぬ大河(たいが)を、曾(かつ)て案内も知(しら)ずして渡さば可被渡歟(か)。縦(たとひ)馬強(つよ)くして渡る事を得たりとも、あの大勢(おほぜい)の中へ只一騎懸入(かけいり)たらんは、不被討と云(いふ)事(こと)可不有。天下の安危(あんき)必(かならず)しも此(この)一戦(いつせん)に不可限。暫(しばらく)命(いのち)を全(まつたう)して君の御代(ごよ)を待(また)んと思ふ心のなきか。」と、再三(さいさん)強(しひ)て止(とめ)ければ、則祐(そくいう)馬を立直(たてなほ)し、抜(ぬい)たる太刀を収(をさめ)て申(まうし)けるは、「御方(みかた)と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我(われ)と手を不砕とも、運(うん)を合戦の勝負(しようぶ)に任(まかせ)て見候べきを、御方(みかた)は僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)、敵は是(これ)に百倍(ひやくばい)せり。急に戦(たたかひ)を不決して、敵に無勢(ぶせい)の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公(たいこう)が兵道(へいだう)の詞(ことば)に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是(これ)以吾困兵敗敵強陣謀(はかりごと)にて候はぬや。」と云捨(いひすて)て、駿馬(しゆんめ)に鞭を進め、漲(みなぎつ)て流るゝ瀬枕(せまくら)に、逆波(さかなみ)を立(たて)てぞ游(およ)がせける。見之飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・伊東大輔(いとうのたいふ)・川原林(かはらばやしの)二郎・木寺相摸(こでらのさがみ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)、五騎続(つづ)ひて颯(さつ)と打入(うちいれ)たり。宇野と伊東は馬強(つよう)して、一文字に流(ながれ)を截(きつ)て渡る。木寺相摸(こでらのさがみ)は、逆巻(さかまく)水に馬を被放て、胄(かぶと)の手反許(てへんばかり)僅(わづか)に浮(うかん)で見へけるが、波の上をや游(およ)ぎけん、水底(みづのそこ)をや潛(くぐ)りけん、人より前(さき)に渡付(わたりつい)て、川の向(むかう)の流州(ながれす)に、鎧(よろひ)の水瀝(したで)てぞ立(たつ)たりける。彼等(かれら)五人(ごにん)が振舞(ふるまひ)を見て尋常(よのつね)の者ならずとや思(おもひ)けん、六波羅(ろくはら)の二万余騎(よき)、人馬(じんば)東西(とうざい)に僻易(へきえき)して敢(あへ)て懸合(かけあは)せんとする者なし。剰(あまつさへ)楯(たて)の端(はし)しどろに成(なつ)て色めき渡る所を見て、「前懸(さきがけ)の御方(みかた)打(うた)すな。続けや。」とて、信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)真前(まつさき)に進めば、佐用(さよ)・上月(かうつき)の兵(つはもの)三千(さんぜん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と打入(うちいつ)て、馬筏(うまいかだ)に流(ながれ)をせきあげたれば、逆水(さかみづ)岸(きし)に余(あま)り、流(なが)れ十方に分(わかれ)て元(もと)の淵瀬(ふちせ)は、中々(なかなか)に陸地(くがぢ)を行(ゆく)がご〔と〕く也(なり)。三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、向(むかう)の岸に打上(うちあが)り、死を一挙(いつきよ)の中(うち)に軽(かろく)せんと、進み勇める勢(いきほひ)を見て、六波羅勢(ろくはらぜい)叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に、楯を捨て旗を引(ひい)て、作道(つくりみち)を北へ東寺(とうじ)を指(さし)て引(ひく)も有(あり)、竹田川原(たけだがはら)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ落(おつる)もあり。其(その)道二三十町(にさんじつちよう)が間には、捨(すて)たる物具(もののぐ)地に満(みち)て、馬蹄(ばてい)の塵に埋没(まいぼつ)す。去程(さるほど)に西七条の手、高倉(たかくら)少将の子息(しそく)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)の兵共(つはものども)、早(はや)京中へ責入(せめいつ)たりと見へて、大宮(おほみや)・猪熊(ゐのくま)・堀川・油小路(あぶらのこうぢ)の辺(へん)、五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけたり。又八条、九条の間(あひだ)にも、戦(たたかひ)有(あり)と覚へて、汗馬(かんば)東西に馳違(はせちがひ)、時(とき)の声天地を響(ひびか)せり。唯(ただ)大三災(だいさんさい)一時(いちじ)に起(おこつ)て、世界(せかい)悉(ことごとく)却火(ごふくわ)の為に焼失(やけうせ)るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許(やはんばかり)の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時(ときの)声此彼(ここかしこ)に聞へて、勢の多少も軍立(いくさだち)の様(やう)も見分(みわか)ざれば、何(いづ)くへ何(なに)と向(むかう)て軍(いくさ)を可為とも不覚(おぼえず)。京中の勢(せい)は、先(まづ)只六条川原(ろくでうかはら)に馳集(はせあつまつ)て、あきれたる体(てい)にて扣(ひか)へたり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)行幸六波羅事 S0803
日野(ひの)中納言資名(すけな)・同(おなじき)左大弁(さだいべん)宰相資明(すけあきら)二人(ににん)同車(どうじや)して、内裏(だいり)へ参り給(たまひ)たれば、四門(しもん)徒(いたづら)に開(ひらき)、警固(けいご)の武士(ぶし)は一人もなし。主上南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、「誰(たれ)か候。」と御尋(おんたづね)あれども、衛府諸司(ゑふしよし)の官、蘭台金馬(らんたいきんめ)の司(つかさ)も何地(いづち)へか行(ゆき)たりけん、勾当(こうたう)の内侍(ないし)・上童(うへわらは)二人(ににん)より外(ほか)は御前(おんまへ)に候(こう)する者無(なか)りけり。資名(すけな)・資明(すけあきら)二人(ににん)御前(おんまへ)に参じて、「官軍(くわんぐん)戦(たたか)ひ弱くして、逆徒(ぎやくと)不期洛中(らくちゆう)に襲来(おそひきたり)候。加様(かやう)にて御坐(ござ)候はゞ、賊徒(ぞくと)差違(さしちがへ)て御所(ごしよ)中へも乱入(らんにふ)仕候(つかまつりさふらひ)ぬと覚へ候。急ぎ三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を先立(さきだて)て六波羅(ろくはら)へ行幸(ぎやうがう)成(なり)候へ。」と被申ければ、主上軈(やが)て腰輿(えうよ)に被召、二条(にでう)川原(かはら)より六波羅(ろくはら)へ臨幸(りんかう)成る。其後(そののち)堀河(ほりかはの)大納言・三条(さんでうの)源(げん)大納言・鷲尾(わしのをの)中納言・坊城(ばうじやうの)宰相以下(いげ)、月卿雲客(げつけいうんかく)二十(にじふ)余人(よにん)、路次(ろし)に参着(さんちやく)して供奉(ぐぶ)し奉りけり。是(これ)を聞食及(きこしめしおよん)で、院(ゐん)・法皇(ほふわう)・東宮(とうぐう)・皇后(くわうごう)・梶井(かぢゐ)の二品親王(にほんしんわう)まで皆六波羅(ろくはら)へと御幸(ごかう)成る間、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)軍勢の中に交(まじはり)て警蹕(けいひつ)の声頻(しきり)也(なり)ければ、是(これ)さへ六波羅(ろくはら)の仰天(ぎやうてん)一方(ひとかた)ならず。俄に六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)をあけて、仙院(せんゐん)・皇居(くわうきよ)となす。事の体(てい)騒(さわが)しかりし有様也(なり)。軈(やが)て両六波羅(りやうろくはら)は七条河原(しちでうがはら)に打立(うちたつ)て、近付く敵を相待つ。此大勢(このおほぜい)を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼(ここかしこ)に走散(はしりちつ)て、火を懸(かけ)時(とき)の声を作る計(ばかり)にて、同じ陣に扣(ひか)へたり。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を見て、「如何様(いかさま)敵は小勢(こぜい)也(なり)。と覚(おぼゆ)るぞ、向(むかつ)て追散(おつちら)せ。」とて、隅田(すだ)・高橋に三千(さんぜん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て八条口へ被差向。河野(かうのの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・陶山(すやま)次郎に二千余騎(よき)をさし副(そへ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)へ被向けり。陶山(すやま)川野(かうの)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「何ともなき取集(とりあつ)め勢(ぜい)に交(まじはつ)て軍(いくさ)をせば、憖(なまじひ)に足纏(あしまとひ)に成(なつ)て懸引(かけひき)も自在なるまじ。いざや六波羅殿(ろくはらどの)より被差副たる勢をば、八条河原(はつでうがはら)に引(ひか)へさせて時(とき)の声を挙(あ)げさせ、我等(われら)は手勢(てせい)を引勝(ひきすぐつ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東より敵の中へ駈入(かけい)り、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶ)り、弓手妻手(ゆんでめて)にて相付(あひつけ)て、追物(おふもの)射(い)に射てくれ候はん。」と云(いひ)ければ、河野(かうの)、「尤(もつとも)可然。」と同(どう)じて、外様(とざま)の勢二千余騎(よき)をば、塩小路(しほのこうぢ)の道場(だうぢやう)の前へ差遣(さしつかは)し、川野(かうの)が勢三百(さんびやく)余騎(よき)、陶山(すやま)が勢百五十(ひやくごじふ)余騎(よき)は引分(ひきわけ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東へぞ廻(まは)りける。合図(あひづ)の程にも成(なり)ければ、八条川原(はつでうがはら)の勢、鬨(ときの)声を揚(あげ)たるに、敵是(これ)に立合(たてあは)せんと馬を西頭(にしがしら)に立(たて)て相待(あひまつ)処に、陶山(すやま)・川野(かうの)四百余騎(よき)、思(おもひ)も寄らぬ後(うしろ)より、時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、東西南北に懸破(かけやぶつ)て、敵を一所(いつしよ)に不打寄、追立々々(おつたておつたて)責戦(せめたたかふ)。川野(かうの)と陶山(すやま)と、一所(いつしよ)に合(あう)ては両所に分れ、両所に分(わかれ)ては又一所(いつしよ)に合(あひ)、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる歩立(かちたち)の武者、駿馬(しゆんめ)の兵に被懸悩て、討(うた)るゝ者其数(そのかず)を不知。手負(ておひ)を捨(すて)て道を要(よこぎつ)て、散々(ちりぢり)に成(なつ)て引返(ひきかへ)す。陶山(すやま)・川野(かうの)逃(にぐ)る敵には目をも不懸、「西七条辺(へん)の合戦何(なに)と有(あ)らん、無心元。」とて、又七条川原(しちでうがはら)を直違(すぢかひ)に西へ打(うつ)て七条大宮(おほみや)に扣(ひか)へ、朱雀(しゆじやか)の方(かた)を見遣(みやり)ければ、隅田(すだ)・高橋が三千(さんぜん)余騎(よき)、高倉(たかくら)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が二千余騎(よき)に被懸立て、馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。川野(かうの)是(これ)を見て、「角(かく)ては御方(みかた)被打ぬと覚(おぼゆ)るぞ。いざや打(うつ)て懸(かか)らん。」と云(いひ)けるを、陶山(すやま)、「暫(しばし)。」と制(せい)しけり。「其故(そのゆゑ)は此(この)陣の軍(いくさ)未(いまだ)雌雄(しゆう)決(せざる)前(さき)に、力を合(あはせ)て御方(みかた)を助(たすけ)たりとも、隅田(すだ)・高橋が口の悪(にく)さは、我高名(わがかうみやう)にぞ云はんずらん。暫(しばら)く置(おい)て事の様(やう)を御覧(ごらん)ぜよ。敵縦(たと)ひ勝(かつ)に乗(のる)とも何程(なにほど)の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程(さるほど)に隅田(すだ)・高橋が大勢、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が小勢(こぜい)に被追立、返さんとすれ共(ども)不叶、朱雀(しゆじやか)を上(のぼ)りに内野(うちの)を指(さし)て引(ひく)もあり、七条を東へ向(むかつ)て逃(にぐ)るもあり、馬に離(はなれ)たる者は心ならず返合(かへしあはせ)て死(しぬる)もあり。陶山(すやま)是(これ)を見て、「余(あまり)にながめ居て、御方(みかた)の弱り為出(しいだ)したらんも由(よし)なし、いざや今は懸合(かけあは)せん。」といへば、河野(かうの)、「子細(しさい)にや及ぶ。」と云侭(いふまま)に、両勢を一手(ひとて)に成(なし)て大勢の中(なか)へ懸入(かけい)り、時移(うつ)るまでぞ戦ひたる。四武(しぶ)の衝陣(しようぢん)堅(かたき)を砕(くだい)て、百戦の勇力(ゆうりよく)変(へん)に応ぜしかば、寄手(よせて)又此(この)陣の軍(いくさ)にも打負(うちまけ)て、寺戸(てらど)を西へ引返しけり。筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・律師則祐(りつしそくいう)兄弟は、最初(さいしよ)に桂河(かつらがは)を渡しつる時の合戦に、逃(にぐ)る敵を追立(おつたて)て、跡(あと)に続く御方(みかた)の無(なき)をも不知、只主従(しゆじゆう)六騎にて、竹田(たけだ)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじのおほち)へ懸通(かけとほり)、六条河原(ろくでうかはら)へ打出(うちいで)て、六波羅(ろくはら)の館(たち)へ懸入(かけいら)んとぞ待(まつ)たりける。東寺(とうじ)より寄(よせ)つる御方(みかた)、早(はや)打負(うちまけ)て引返(ひきかへ)しけりと覚(おぼえ)て、東西(とうざい)南北に敵より外(ほか)はなし。さらば且(しばら)く敵に紛(まぎれ)てや御方(みかた)を待つと、六騎の人々皆笠符(かさじるし)をかなぐり捨(すて)て、一所(いつしよ)に扣(ひか)へたる処に、隅田(すだ)・高橋打廻(うちまはつ)て、「如何様(いかさま)赤松が勢共(せいども)、尚御方(みかた)に紛(まぎれ)て此(この)中に在(あり)と覚(おぼゆ)るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具(もののぐ)のぬれぬは不可有。其(それ)を験(しる)しにして組討(くみうち)に打て。」と呼(よばは)りける間、貞範(さだのり)も則祐(そくいう)も中々(なかなか)敵に紛(まぎ)れんとせば悪(あし)かりぬべしとて、兄弟・郎等僅(わづか)六騎轡(くつばみ)を双(なら)べわつと呼(をめい)て敵二千騎(にせんぎ)が中(なか)へ懸入(かけい)り、此(ここ)に名乗(なのり)彼(かしこ)に紛(まぎれ)て相戦(あひたたかひ)けり。敵是程(これほど)に小勢(こぜい)なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱(いりみだれ)て、同士打(どしうち)をする事数刻(すごく)也(なり)。大敵を謀(はか)るに勢(いきほ)ひ久(ひさし)からざれば、郎等(らうどう)四騎皆所々(しよしよ)にて被討ぬ。筑前(ちくぜんの)守(かみ)は被押隔ぬ。則祐(そくいう)は只一騎に成(なつ)て、七条を西へ大宮(おほみや)を下(くだ)りに落行(おちゆき)ける所に、印具(いぐの)尾張(をはりの)守(かみ)が郎従(らうじゆう)八騎追懸(おつかけ)て、「敵ながらも優(やさし)く覚へ候者(もの)哉(かな)。誰人(たれひと)にてをはするぞ。御名乗(なのり)候へ。」と云(いひ)ければ、則祐(そくいう)馬を閑(しづか)に打(うつ)て、「身(み)不肖(ふせう)に候へば、名乗申(なのりまうす)とも不可有御存知候。只頚(くび)を取(とつ)て人に被見候へ。」と云侭(いふまま)に、敵近付(ちかづけ)ば返合(かへしあはせ)、敵引(ひけ)ば馬を歩(あゆま)せ、二十(にじふ)余町(よちやう)が間、敵八騎と打連(うちつれ)て心閑(しづか)にぞ落行(おちゆき)ける。西八条の寺の前(まへ)を南へ打出(うちいで)ければ、信濃(しなのの)守(かみ)貞範(さだのり)三百(さんびやく)余騎(よき)、羅城門(らしやうもん)の前なる水の潺(せぜら)きに、馬の足を冷(ひや)して、敗軍(はいぐん)の兵を集(あつめ)んと、旗打立(うちたて)て引(ひか)へたり。則祐(そくいう)是(これ)を見付(みつけ)て、諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳入(はせいり)ければ、追懸(おつかけ)つる八騎の敵共(てきども)、「善き敵と見つる物を、遂(つひ)に打漏(うちもら)しぬる事の不安さよ。」と云(いふ)声(こゑ)聞へて、馬の鼻を引返(ききかへ)しける。暫(しばら)く有れば、七条河原(しちでうがはら)・西朱雀(にししゆじやか)にて被懸散たる兵共(つはものども)、此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、又千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。赤松其(その)兵を東西の小路(こうぢ)より進ませ、七条辺(へん)にて、又時(とき)の声を揚げ(あげ)たりければ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)、六条(ろくでうの)院(ゐん)を後(うしろ)に当(あ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ二時許(ふたときばかり)ぞ責合(せめあひ)たる。角(かく)ては軍(いくさ)の勝負(しようぶ)いつ有(ある)べしとも覚へざりける処に、河野(かうの)と陶山(すやま)とが勢五百(ごひやく)余騎(よき)、大宮(おほみや)を下(くだ)りに打(うつ)て出(いで)、後(うしろ)を裹(つつま)んと廻(まは)りける勢に、後陣を被破て、寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れにければ、赤松わづかの勢に成(なつ)て、山崎を指(さし)て引返(ひつかへ)しけり。河野(かうの)・陶山(すやま)勝(かつ)に乗(のつ)て、作道(つくりみち)の辺(へん)まで追駈(おつかけ)けるが、赤松動(ややも)すれば、取(とつ)て返さんとする勢(いきほひ)を見て、「軍(いくさ)は是(これ)までぞ、さのみ長追(ながおひ)なせそ。」とて、鳥羽殿(とばどの)の前より引返し、虜(いけどり)二十(にじふ)余人(よにん)、首(くび)七十三(しちじふさん)取(とつ)て、鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、朱(あけ)に成(なつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。主上は御簾(ぎよれん)を捲(まか)せて叡覧(えいらん)あり。両六波羅(りやうろくはら)は敷皮(しきかは)に坐(ざ)して、是(これ)を検知(けんち)す。「両人の振舞(ふるまひ)いつもの事なれ共(ども)、殊更(ことさら)今夜(こよひ)の合戦に、旁(かたがた)手を下(くだ)し命(いのち)を捨(すて)給はずば、叶(かなふ)まじとこそ見へて候(さふらひ)つれ。」と、再三(さいさん)感じて被賞翫。其夜(そのよ)軈(やが)て臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、河野(かうのの)九郎をば対馬(つしまの)守(かみ)に被成て御剣(ぎよけん)を被下、陶山(すやまの)二郎をば備中(びつちゆうの)守(かみ)に被成て、寮(れう)の御馬(おんむま)を被下ければ、是(これ)を見聞(みきく)武士(ぶし)、「あはれ弓矢の面目(めんぼく)や。」と、或(あるひ)は羨(うらや)み或(あるひ)は猜(そねん)で、其(その)名天下に被知たり。軍(いくさ)散(さん)じて翌日(よくじつ)に、隅田(すだ)・高橋京中を馳廻(はせまはつ)て、此彼(ここかしこ)の堀(ほり)・溝(みぞ)に倒れ居たる手負死人(ておひしにん)の頚共(くびども)を取集(とりあつめ)て、六条川原(ろくでうかはら)に懸並(かけならべ)たるに、其数(そのかず)八百七十三(はつぴやくしちじふさん)あり。敵是(これ)まで多く被討ざれども、軍(いくさ)もせぬ六波羅勢(ろくはらぜい)ども、「我れ高名(かうみやう)したり。」と云(いは)んとて、洛中(らくちゆう)・辺土(へんど)の在家人(ざいけにん)なんどの頚(くび)仮首(かりくび)にして、様々(さまざま)の名を書付(かきつけ)て出(いだ)したりける頚共(くびども)也(なり)。其(その)中に赤松入道円心(ゑんしん)と、札(ふだ)を付(つけ)たる首(くび)五(いつつ)あり。何(いづ)れも見知(みしり)たる人無(なけ)れば、同じやうにぞ懸(かけ)たりける。京童部(きやうわらんべ)是(これ)を見て、「頚を借(かり)たる人、利子(りこ)を付(つけ)て可返。赤松入道分身(ぶんしん)して、敵の尽(つき)ぬ相(さう)なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。
○禁裡仙洞(きんりせんとう)御修法(みしほの)事(こと)付山崎(やまざき)合戦(かつせんの)事(こと) S0804
此比(このころ)四海(しかい)大(おほき)に乱(みだれ)て、兵火(ひやうくわ)天を掠(かす)めり。聖主■(い)を負(おう)て、春秋無安時、武臣矛(ほこ)を建(たて)て、旌旗(せいき)無閑日。是(これ)以法威逆臣(ぎやくしん)を不鎮ば、静謐(せいひつ)其期(そのご)不可有とて、諸寺諸社(しよじしよしや)に課(おほせ)て、大法(だいほふ)秘法をぞ被修ける。梶井宮(かぢゐのみや)は、聖主(せいしゆ)の連枝(れんし)、山門(さんもん)の座主(ざす)にて御坐(おはしま)しければ、禁裏(きんり)に壇(だん)を立(たて)て、仏眼(ぶつげん)の法を行(おこなは)せ給ふ。裏辻(うらつじ)の慈什(じじふ)僧正は、仙洞(せんとう)にて薬師(やくし)の法を行はる。武家又山門・南都(なんと)・園城寺(をんじやうじ)の衆徒(しゆと)の心を取(とり)、霊鑑(れいかん)の加護(かご)を仰(あふ)がん為に、所々(しよしよ)の庄園(しやうゑん)を寄進(きしん)し、種々の神宝(しんはう)を献(たてまつつ)て、祈祷を被致しか共(ども)、公家(くげ)の政道不正、武家の積悪(せきあく)禍(わざはひ)を招(まね)きしかば、祈(いのる)共(とも)神(しん)不享非礼、語(かたら)へども人不耽利欲にや、只日(ひ)を逐(おつ)て、国々より急を告(つぐ)る事隙(ひま)無(なか)りけり。去(さる)三月十二日の合戦に赤松打負(うちまけ)て、山崎を指(さし)て落行(おちゆき)しを、頓(やが)て追懸(おつかけ)て討手をだに下(くだ)したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依(よつ)て、敗軍(はいぐん)の兵(つはもの)此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、無程大勢に成(なり)ければ、赤松、中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)貞能(さだよし)を取立(とりたて)て聖護院(しやうごゐん)の宮(みや)と号し、山崎・八幡(やはた)に陣を取(とり)、河尻(かはじり)を差塞(さしふさ)ぎ西国往反(わうへん)の道を打止(うちとど)む。依之(これによつて)洛中の商買(しやうばい)止(とどまつ)て士卒(じそつ)皆転漕(てんさう)の助(たすけ)に苦(くるし)めり。両六波羅(りやうろくはら)聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦(くるしむ)る事こそ安からね。去(さる)十二日の合戦の体(てい)を見るに、敵さまで大勢にても無(なか)りける物を、無云甲斐聞懼(ききおぢ)して敵を辺境(へんきやう)の間に閣(さしおく)こそ、武家後代(こうだい)の恥辱(ちじよく)なれ、所詮(しよせん)於今度は官軍(くわんぐん)遮(さへぎつ)て敵陣に押寄(おしよせ)、八幡(やはた)・山崎の両陣を責落(せめおと)し、賊徒(ぞくと)を河に追(おつ)はめ、其首(そのくび)を取(とつ)て六条河原(ろくでうかはら)に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)、五条河原(かはら)に勢揃(せいぞろへ)して、三月十五日の卯刻(うのこく)に、山崎へとぞ向ひける。此(この)勢始(はじめ)は二手に分けたりけるを、久我縄手(こがなはて)は、路細く深田(ふかた)なれば馬の懸引(かけひき)も自在なるまじとて、八条より一手に成(なり)、桂河(かつらがは)を渡り、河嶋(かうしま)の南を経(へ)て、物集女(もずめ)・大原野(おほはらの)の前よりぞ寄(よせ)たりける。赤松是(これ)を聞(きい)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手に分つ。一手には足軽(あしがる)の射手(いて)を勝(すぐつ)て五百(ごひやく)余人(よにん)小塩山(をしほやま)へ廻(まは)す。一手をば野伏(のぶし)に騎馬(きば)の兵を少々交(まじへ)て千(せん)余人(よにん)、狐河(きつねがは)の辺(へん)に引(ひか)へさす。一手をば混(ひた)すら打物(うちもの)の衆(しゆ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を汰(そろへ)て、向日明神(むかふのみやうじん)の後(うしろ)なる松原の陰(かげ)に隠置(かくしお)く。六波羅勢(ろくはらぜい)、敵此(これ)まで可出合とは不思寄、そゞろに深入(ふかいり)して、寺戸(てらど)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、先懸(さきがけ)既(すで)に向日明神(むかふのみやうじん)の前を打過(うちすぎ)ける処に、善峯(よしみね)・岩蔵(いはくら)の上より、足軽(あしがる)の射手(いて)一枚楯(いちまいたて)手々(てんで)に提(ひつさげ)て麓にをり下(さがり)て散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、馬の鼻を双(ならべ)て懸散(かけちら)さんとすれば、山嶮(けはしう)して不上得、広(ひろ)みに帯(おび)き出して打(うた)んとすれば、敵是(これ)を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共(のぶしども)に目を懸(かけ)て、骨を折(をり)ては何かせん。此(ここ)をば打捨(うちすて)て山崎へ打通(うちとほ)れ。」と議(ぎ)して、西岡(にしのをか)を南へ打過(うちすぐ)る処に、坊城(ばうじやう)左衛門五十(ごじふ)余騎(よき)にて、思(おもひ)もよらぬ向日明神(むかふのみやうじん)の小松原(こまつはら)より懸出(かけいで)て、大勢の中(なか)へ切(きつ)て入(いる)。敵を小勢(こぜい)と侮(あなどつ)て、真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木(やぎ)・神沢(かんざは)此彼(ここかしこ)より百騎二百騎、思々(おもひおもひ)に懸出(かけいで)て、魚鱗(ぎよりん)に進み鶴翼(かくよく)に囲(かこま)んとす。是(これ)を見て狐河に引(ひか)へたる勢五百(ごひやく)余騎(よき)、六波羅勢(ろくはらぜい)の跡(あと)を切らんと、縄手(なはて)を伝(つた)ひ道を要(よこぎつ)て打廻(うちまは)るを見て、京勢叶はじとや思(おもひ)けん、捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引返す。片時(へんし)の戦也(なり)ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共(ども)、堀(ほり)・溝(みぞ)・深田(ふかた)に落入(おちいつ)て、馬物具(もののぐ)皆取所(とるところ)もなく膩(よごれ)たれば、白昼(はくちう)に京中を打通(うちとほ)るに、見物しける人毎(ごと)に、「哀(あは)れ、さりとも陶山(すやま)・河野(かうの)を被向たらば、是程(これほど)にきたなき負(まけ)はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去(され)ば京勢此度(このたび)打負(うちまけ)て、向はで京に被残たる河野(かうの)と陶山(すやま)が手柄(てがら)の程、いとゞ名高く成(なり)にけり。
○山徒(ざんと)寄京都事 S0805
京都に合戦始(はじま)りて、官軍(くわんぐん)動(ややも)すれば利(り)を失(うしな)ふ由(よし)、其(その)聞へ有(あり)しかば、大塔宮(おほたふのみや)より牒使(てふし)を被立て、山門の衆徒(しゆと)をぞ被語ける。依之(これによつて)三月二十六日(にじふろくにちに)一山(いつさん)の衆徒(しゆと)大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖(かうそ)大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■(えうげつ)見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海(しかい)方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也(なり)。王事毋■(もろいことなし)。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜん)一同に尤々(もつとももつとも)と同(どう)じて院々谷々(ゐんゐんたにたに)へ帰り、則(すなはち)武家追討(つゐたう)の企(くはだて)の外(ほか)無他事。山門、已(すで)に来(きたる)二十八日六波羅(ろくはら)へ可寄と定(さだめ)ければ、末寺(まつじ)・末社(まつしや)の輩(ともがら)は不及申、所縁(しよえん)に随(したがつ)て近国の兵馳集(はせあつま)る事雲霞(うんか)の如く也(なり)。二十七日(にじふしちにち)大宮(おほみや)の前にて着到(ちやくたう)を付(つけ)けるに、十万六千余騎(よき)と注(ちゆう)せり。大衆(だいしゆ)の習(ならひ)、大早(おほはやり)無極所存なれば、此(この)勢京へ寄(よせ)たらんに、六波羅(ろくはら)よも一たまりもたまらじ、聞落(ききおち)にぞせんずらんと思侮(おもひあなどつ)て、八幡(やはた)・山崎の御方(みかた)にも不牒合して、二十八日の卯刻(うのこく)に、法勝寺(ほつしようじ)にて勢撰(せいぞろ)へ可有と触(ふれ)たりければ、物具(もののぐ)をもせず、兵粮(ひやうらう)をも未だつかはで、或(あるひは)今路(いまみち)より向ひ、或(あるひ)は西坂(にしざか)よりぞをり下(くだ)る。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、思(おもふ)に、山徒(さんと)縦(たとひ)雖大勢、騎馬の兵(つはもの)一人も不可有。此方(こなた)には馬上(ばじやう)の射手(いて)を撰(そろ)へて、三条河原(さんでうがはら)に待受(まちう)けさせて、懸開懸合(かけひらきかけあは)せ、弓手(ゆんで)・妻手(めて)に着(つけ)て追物射(おふものい)に射たらんずるに、山徒(さんと)心は雖武、歩立(かちだち)に力疲(つか)れ、重鎧(おもよろひ)に肩を被引、片時(へんし)が間(ま)に疲(つか)るべし。是(これ)以小砕大、以弱拉剛行(てだて)也(なり)。とて、七千余騎(よき)を七手に分(わけ)て、三条河原(さんでうがはら)の東西に陣を取(とつ)てぞ待懸(まちかけ)たる。大衆斯(かか)るべしとは思(おもひ)もよらず、我前(われさき)に京へ入(いつ)てよからんずる宿(やど)をも取(とり)、財宝(ざいはう)をも管領(くわんりやう)せんと志(こころざし)て、宿札共(やどふだども)を面々(めんめん)に二三十づゝ持(もた)せて、先(まづ)法勝寺(ほつしようじ)へぞ集りける。其(その)勢を見渡せば、今路(いまみち)・西坂(にしざか)・古塔下(ふるたふげ)・八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・下松(さがりまつ)・赤山口(せきさんぐち)に支(ささへ)て、前陣已(すで)に法勝寺・真如堂(しんによだう)に付(つけ)ば後陣(ごぢん)は未(いまだ)山上・坂本(さかもと)に充満(みちみち)たり。甲冑(かつちう)に映(えい)ぜる朝日は、電光(でんくわう)の激(げき)するに不異。旌旗(せいき)を靡(なび)かす山風は、竜蛇(りようじや)の動くに相似(あひに)たり。山上(さんじやう)と洛中(らくちゆう)との勢の多少を見合(みあは)するに、武家の勢(せい)は十にして其(その)一にも不及。「げにも此(この)勢にては輒(たやす)くこそ。」と、六波羅(ろくはら)を直下(みおろし)ける山法師(やまほふし)の心の程を思へば、大様(おほやう)ながらも理(ことわり)也(なり)。去程(さるほど)に前陣の大衆且(しばら)く法勝寺(ほつしようじ)に付(つい)て後陣の勢を待(まち)ける処へ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て時(とき)をどつと作る。大衆時の声に驚(おどろい)て、物具太刀(もののぐたち)よ長刀(なぎなた)よとひしめいて取(とる)物も不取敢、僅(わづか)に千人許(ばかり)にて法勝寺の西門(さいもん)の前に出合(いであひ)、近付く敵に抜(ぬい)て懸(かか)る。武士(ぶし)は兼(かね)てより巧(たく)みたる事なれば、敵の懸(かか)る時は馬を引返(ひきかへし)てばつと引き、敵留(とどま)れば開合(ひらきあは)せて後(うしろ)へ懸廻(かけまは)る。如此六七度が程懸悩(かけなや)ましける間、山徒(さんと)は皆歩立(かちだち)の上(うへ)、重鎧(おもよろひ)に肩を被推て、次第に疲(つかれ)たる体(てい)にぞ見へける。武士は是(これ)に利(り)を得て、射手(いて)を撰(そろへ)て散々(さんざん)に射る。大衆是(これ)に射立(いたて)られて、平場(ひらば)の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、又法勝寺(ほつしようじ)の中へ引篭(ひきこも)らんとしける処を、丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)佐治(さちの)孫五郎と云(いひ)ける兵(つはもの)、西門の前に馬を横たへ、其比(そのころ)会(かつ)てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵(てき)三人(さんにん)不懸筒切(どうぎつ)て、太刀の少(すこし)仰(のつ)たるを門(もん)の扉(とびら)に当(あて)て推直(おしなほ)し、猶も敵を相待(あひまつ)て、西頭(にしがしら)に馬をぞ扣(ひかへ)たる。山徒(さんと)是(これ)を見て、其勢(そのいきほひ)にや辟易(へきえき)しけん。又法勝寺にも敵有(あり)とや思(おもひ)けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向(むかつ)て、真如堂(しんによだう)の前神楽岡(かぐらをか)の後(うしろ)を二(ふたつ)に分れて、只山上(さんじやう)へとのみ引返しける。爰(ここ)に東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智房(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)とて、三塔(さんたふ)名誉(めいよ)の悪僧(あくそう)あり。御方(みかた)の大勢に被引立て、不心北白河(きたしらかは)を指(さし)て引(ひき)けるが、豪鑒豪仙(がうかんがうせん)を呼留(よびとめ)て、「軍(いくさ)の習(ならひ)として、勝(かつ)時もあり負(まくる)時もあり、時の運による事なれば恥(はぢ)にて不恥。雖然今日の合戦の体(てい)、山門(さんもん)の恥辱(ちじよく)天下の嘲哢(てうろう)たるべし。いざや御辺(ごへん)、相共(あひとも)に返(かへ)し合(あはせ)て打死(うちじに)し、二人(ににん)が命(いのち)を捨(すて)て三塔(さんたふ)の恥を雪(きよ)めん。」と云(いひ)ければ、豪仙、「云(いふ)にや及ぶ、尤(もつと)も庶幾(そき)する所也(なり)。」と云(いつ)て、二人(ににん)蹈留(ふみとどまつ)て法勝寺の北の門の前に立並(たちなら)び、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「是程(これほど)に引立(ひきたつ)たる大勢の中より、只二人(ににん)返(かへ)し合(あは)するを以て三塔(さんたふ)一の剛(がう)の者とは可知。其(その)名をば定(さだ)めて聞及(ききおよび)ぬらん、東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智坊(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に、豪鑒・豪仙とて一山(いつさん)に名を知られたる者共(ものども)也(なり)。我(われ)と思はん武士共(ぶしども)、よれや、打物(うちもの)して、自余(じよ)の輩(ともがら)に見物せさせん。」と云侭(いふまま)に、四尺余(あまり)の大長刀(おほなぎなた)水車(みづぐるま)に廻(まは)して、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)火を散(ちら)してぞ切(きつ)たりける。是(これ)を打取(うちと)らんと相近付(あひちかづ)ける武士共(ぶしども)、多く馬の足を被薙、冑(かぶと)の鉢を被破て被討にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、此(ここ)に半時許(はんじばかり)支(ささ)へて戦(たたかひ)けれ共(ども)、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人(ににん)ながら十(じふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を蒙(かうむ)りければ、「今は所存(しよぞん)是(これ)までぞ。いざや冥途(めいど)まで同道(どうだう)せん。」と契(ちぎり)て、鎧(よろひ)脱捨(ぬぎすて)押裸脱(おしはだぬぎ)、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、同じ枕にこそ伏(ふし)たりけれ。是(これ)を見る武士共(ぶしども)、「あはれ日本一(につぽんいち)の剛(がう)の者共(ものども)哉(かな)。」と、惜(をし)まぬ人も無(なか)りけり。前陣の軍(いくさ)破(やぶ)れて引返しければ、後陣(ごじん)の大勢は軍場(いくさば)をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)二人(ににん)が振舞にこそ、山門の名をば揚(あげ)たりけれ。
○四月三日合戦(かつせんの)事(こと)付妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)勇力(ゆうりよくの)事(こと) S0806
去月(きよげつ)十二日赤松合戦無利して引退(ひきしりぞき)し後(のち)は、武家常に勝(かつ)に乗(のつ)て、敵(てき)を討(うつ)事(こと)数千人(すせんにん)也(なり)。といへども、四海(しかい)未静(いまだしづかならず)、剰(あまつさへ)山門又武家に敵(てき)して、大岳(おほだけ)に篝火(かがりび)を焼(た)き、坂本(さかもと)に勢を集めて、尚(なほ)も六波羅(ろくはら)へ可寄と聞へければ、衆徒(しゆと)の心を取らん為に、武家より大庄(たいしやう)十三箇所(じふさんかしよ)、山門へ寄進(きしん)す。其外(そのほか)宗徒(むねと)の衆徒(しゆと)に、便宜(びんぎ)の地を一二箇所(いちにかしよ)充(づつ)祈祷(きたう)の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議(しゆぎ)心心に成(なつ)て武家に心を寄する衆徒も多く出来(いでき)にければ、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の官軍(くわんぐん)は、先度(せんど)京都の合戦に、或(あるひは)被討、或(あるひは)疵(きず)を蒙(かうむ)る者多かりければ、其(その)勢太半(たいはん)減じて今は僅(わづか)に、一万騎(いちまんぎ)に足(た)らざりけり。去(され)ども武家の軍立(いくさだち)、京都の形勢(ありさま)恐るゝに不足と見透(みすか)してげれば、七千余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、四月三日の卯刻(うのこく)に、又京都へ押寄(おしよ)せたり。其(その)一方には、殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)・中院(なかのゐんの)定平(さだひら)を両大将として、伊東・松田・頓宮(とんぐう)・富田(とんだの)判官が一党(いつたう)、並(ならびに)真木(まき)・葛葉(くずは)の溢(あふ)れ者共(ものども)を加へて其(その)勢都合(つがふ)三千(さんぜん)余騎(よき)、伏見(ふしみ)・木幡(こばた)に火を懸(かけ)て、鳥羽(とば)・竹田(たけだ)より推寄(おしよ)する。又一方には、赤松入道円心(ゑんしん)を始(はじめ)として、宇野・柏原(かしはばら)・佐用(さよ)・真嶋(ましま)・得平(とくひら)・衣笠(きぬがさ)、菅家(くわんけ)の一党(いつたう)都合(つがふ)其(その)勢三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)、河嶋(かうしま)・桂(かつら)の里に火を懸(かけ)て、西の七条よりぞ寄(よせ)たりける。両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかつ)て兵皆気を挙(あげ)ける上、其(その)勢を算(かぞ)ふるに、三万騎(さんまんぎ)に余(あま)りける間、敵已(すで)に近付(ちかづき)ぬと告(つげ)けれ共(ども)、仰天(ぎやうてん)の気色(けしき)もなし。六条河原(ろくでうかはら)に勢汰(せいぞろへ)して閑(しづか)に手分(てわけ)をぞせられける。山門(さんもん)今は武家に志(こころざし)を通(つう)ずといへども、又如何なる野心(やしん)をか存(そん)ずらん。非可油断とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)・長井縫殿(ぬひ)秀正(ひでまさ)に三千(さんぜん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、糾河原(ただすかはら)へ被向。去月(きよげつ)十二日の合戦も、其(その)方より勝(かつ)たりしかば吉例(きちれい)也(なり)。とて、河野(かうの)と陶山(すやま)とに五千騎(ごせんぎ)を相副(あひそへ)て法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ被差向。富樫(とがし)・林(はやし)が一族(いちぞく)・島津(しまづ)・小早河(こばいかは)が両勢に、国々の兵六千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、八条東寺辺(とうじへん)へ被指向。厚東(こうとう)加賀(かがの)守(かみ)・加治(かぢの)源太左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・隅田(すだ)・高橋・糟谷(かすや)・土屋(つちや)・小笠原(をがさはら)に七千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、西七条口へ被向。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)をば悪手(あくて)の為に残して、未(いまだ)六波羅(ろくはら)に並居(なみゐ)たり。其(その)日の巳刻(みのこく)より、三方(さんぱう)ながら同時に軍(いくさ)始(はじまつ)て、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたか)ふ。寄手(よせて)は騎馬の兵少(すくなく)して、歩立(かちだち)射手(いて)多ければ、小路々々(こうぢこうぢ)を塞(ふさ)ぎ、鏃(やじり)を調(そろへ)て散々(さんざん)に射る。六波羅勢(ろくはらぜい)は歩立(かちだち)は少(すくなく)して、騎馬の兵多ければ、懸違々々(かけちがひかけちがひ)敵を中(なか)に篭(こ)めんとす。孫子(そんし)が千反(せんぺん)の謀(はかりごと)、呉氏(ごし)が八陣の法、互(たがひ)に知(しり)たる道なれば、共に不被破不被囲、只命(いのち)を際(きは)の戦(たたかひ)にて更に勝負(しようぶ)も無(なか)りけり。終日(ひねもす)戦(たたかつ)て已(すで)に夕陽(せきやう)に及びける時、河野(かうの)と陶山(すやま)と一手に成(なつ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べて懸(かけ)たりけるに、木幡(こはた)の寄手(よせて)足をもためず被懸立て、宇治路(うぢぢ)を指(さし)て引退く。陶山(すやま)・河野(かうの)、逃(にぐ)る敵をば打捨(うちすて)て、竹田(たけだ)河原(かはら)を直違(すぢかひ)に、鳥羽殿(とばどの)の北の門を打廻(うちまは)り、作道(つくりみち)へ懸出(かけいで)て、東寺の前なる寄手(よせて)を取篭(とりこ)めんとす。作道(つくりみち)十八町に充満(じゆうまん)したる寄手(よせて)是(これ)を見て、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、羅城門(らしやうもん)の西を横切(よこぎり)に、寺戸(てらど)を指(さし)て引返す。小早河(こばいかは)は島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)とは東寺の敵に向(むかつ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ戦(たたかひ)けるが、己(おの)が陣の敵を河野(かうの)と陶山(すやま)とに被払て、身方(みかた)の負(まけ)をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢(あう)て、花やかなる一軍(ひといくさ)せん。」と云(いつ)て、西八条を上(のぼ)りに、西朱雀(にししゆじやか)へぞ出(いで)たりける。此(ここ)に赤松入道、究竟(くきやう)の兵を勝(すぐつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりければ、無左右可破様(やう)も無(なか)りなり。されども嶋津・小早河(こばいかは)が横合(よこあひ)に懸(かか)るを見て、戦ひ疲(つか)れたる六波羅勢(ろくはらぜい)力を得て三方(さんぱう)より攻合(せめあは)せける間、赤松が勢、忽(たちまち)に開靡(ひらきなびい)て三所に引(ひか)へたり。爰(ここ)に赤松が勢の中より兵四人進み出(いで)て、数千騎(すせんぎ)引(ひか)へたる敵の中(なか)へ無是非打懸(うつてかか)りけり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として恰(あたかも)樊噌(はんくわい)・項羽(かうう)が忿(いか)れる形(かたち)にも過(すぎ)たり。近付(ちかづく)に随(したがつ)て是(これ)を見れば長(たけ)七尺許(ばかり)なる男(をとこ)の、髭(ひげ)両方へ生(お)ひ分(わかれ)て、眥(まなじり)逆(さましま)に裂(さけ)たるが、鎖(くさり)の上(うへ)に鎧(よろひ)を重(かさね)て着(き)、大立挙(おほたてあげ)の臑当(すねあて)に膝鎧(ひざよろひ)懸(かけ)て、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、五尺余(あま)りの太刀を帯(は)き、八尺余のかなさい棒(ぼう)の八角(はつかく)なるを、手本(てもと)二尺許(ばかり)円(まる)めて、誠(まこと)に軽(かろ)げに提(ひつさ)げたり。数千騎(すせんぎ)扣(ひか)へたる六波羅勢(ろくはらぜい)、彼等(かれら)四人が有様を見て、未(いまだ)戦(たたかはざる)先(さき)に三方(さんぱう)へ分れて引退く。敵を招(まねい)て彼等四人、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)頓宮(とんぐう)又次郎入道・子息(しそく)孫三郎(まごさぶらう)・田中藤(とう)九郎盛兼(もりかぬ)・同舎弟(おなじきしやてい)弥九郎盛泰(もりやす)と云(いふ)者也(なり)。我等(われら)父子(ふし)兄弟、少年の昔より勅勘武敵(ちよくかんぶてき)の身と成りし間、山賊(さんぞく)を業(げふ)として一生(いつしやう)を楽(たのし)めり。然(しかる)に今幸(さいはひ)に此乱(このらん)出来(しゆつたい)して、忝(かたじけな)くも万乗(ばんじよう)の君の御方(みかた)に参(さん)ず。然(しかる)を先度(せんど)の合戦、指(さし)たる軍(いくさ)もせで御方(みかた)の負(まけ)したりし事(こと)、我等(われら)が恥(はぢ)と存(ぞん)ずる間、今日に於ては縦(たとひ)御方(みかた)負(まけ)て引(ひく)とも引(ひく)まじ、敵強くとも其(それ)にもよるまじ、敵の中(なか)を破(はつ)て通(とほ)り六波羅殿(ろくはらどの)に直(ぢき)に対面(たいめん)申さんと存ずるなり。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)是(これ)を聞(きい)て、子息(しそく)二人(ににん)手(て)の者共(ものども)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「日比(ひごろ)聞及(ききおよび)し西国(さいこく)一の大力(だいりき)とは是(これ)なり。彼等を討たん事大勢にては叶(かなふ)まじ。御辺達(ごへんたち)は且(しばら)く外に引(ひか)へて自余(じよ)の敵に可戦。我等(われら)父子(ふし)三人(さんにん)相近付(あひちかづい)て、進(すすん)づ退(しりぞい)つ且(しばら)く悩(なやま)したらんに、などか是(これ)を討たざらん。縦(たとひ)力(ちから)こそ強くとも、身に矢の立(たた)ぬ事不可有。縦(たとひ)走る事早くとも、馬にはよも追(おつ)つかじ。多年稽古(けいこ)の犬笠懸(いぬかさがけ)、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議(ふしぎ)の一軍(ひといくさ)して人に見せん。」と云侭(いふまま)に、唯三騎打(うち)ぬけて四人の敵に相近付(あひちかづ)く。田中藤九郎是(これ)を見て、「其(その)名はいまだ知らねども、猛(たけ)くも思へる志(こころざし)かな、同(おなじく)は御辺(ごへん)を生虜(いけどつ)て、御方(みかた)に成(なし)て軍(いくさ)せさせん。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打振(うちふつ)て、閑(しづか)に歩(あゆ)み近付く。島津も馬を静々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ寄(より)て、矢比(やごろ)に成(なり)ければ、先(まづ)安芸(あきの)前司(ぜんじ)、三人張(さんにんばり)に十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、且(しば)し堅めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢あやまたず、田中が石の頬前(ほうさき)を冑(かぶと)の菱縫(ひしぬひ)の板(いた)へ懸(かけ)て、篦中許(のなかばかり)射通(いとほ)したりける間、急所の痛手(いたて)に弱りて、さしもの大力(だいりき)なれども、目くれて更に進み不得。舎弟(しやていの)弥九郎走寄(はしりよ)り、其(その)矢を抜(ぬい)て打捨(うちすて)、「君の御敵(おんてき)は六波羅(ろくはら)也(なり)。兄(あに)の敵は御辺(ごへん)也(なり)。余(あま)すまじ。」と云侭(いふまま)に、兄が金棒(かなぼう)をゝつ取振(とりふつ)て懸(かか)れば、頓宮(とんぐう)父子(ふし)各五尺二寸の太刀を引側(ひきそば)めて、小躍(こをどり)して続(つづ)ひたり。嶋津元(もと)より物馴(ものなれ)たる馬上(ばじやう)の達者(たつしや)矢継早(やつぎはや)の手きゝなれば、少(すこし)も不騒、田中進(すすん)で懸(かか)れば、あいの鞭(むち)を打(うつ)て、押(おし)もぢりにはたと射(いる)。田中妻手(めて)へ廻(まはれ)ば、弓手(ゆんで)を越(こえ)て丁(ちやう)と射る。西国(さいこく)名誉(めいよ)の打物(うちもの)の上手(じやうず)と、北国(ほくこく)無双(ぶさう)の馬上の達者と、追(おつ)つ返(かへし)つ懸違(かけちが)へ、人交(ひとまぜ)もせず戦ひける。前代未聞(ぜんだいみもん)の見物(けんぶつ)也(なり)。去程(さるほど)に嶋津が矢種(やだね)も尽(つき)て、打物(うちもの)に成らんとしけるを見て、角(かく)ては叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、朱雀(しゆじやか)の地蔵堂(ぢざうだう)より北に引(ひか)へたる小早河(こばいかは)、二百騎にてをめいて懸(かか)りけるに、田中が後(うしろ)なる勢、ばつと引退(ひきしりぞき)ければ、田中兄弟、頓宮父子(はやみふし)、彼此(かれこれ)四人の鎧(よろひ)の透間(すきま)内冑(うちかぶと)に、各(おのおの)矢二三十筋(にさんじふすぢ)被射立て、太刀を逆(さかさま)につきて、皆立(たち)ずくみにぞ死(しに)たりける。見る人聞く人、後までも惜(をし)まぬ者は無(なか)りけり。美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて四条(しでう)猪熊(ゐのくま)まで責入(せめいり)、武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・糟谷(かすや)・高橋が一千(いつせん)余騎(よき)の勢と懸合(かけあつ)て、時移(うつ)るまで戦(たたかひ)けるが、跡(あと)なる御方(みかた)の引退きぬる体(てい)を見て、元来(もとより)引かじとや思(おもひ)けん。又向ふ敵に後(うしろ)を見せじとや恥(はぢ)たりけん。有元菅四郎佐弘(ありもとくわんしらうすけひろ)・同(おなじき)五郎佐光(すけみつ)・同(おなじき)又三郎佐吉(すけよし)兄弟三騎、近付く敵に馳双(はせなら)べ引組(ひつくん)で臥(ふ)したり。佐弘(すけひろ)は今朝の軍(いくさ)に膝口(ひざぐち)を被切て、力弱りたりけるにや、武田(たけだの)七郎に押(おさ)へられて頚(くび)を被掻、佐光(すけみつ)は武田(たけだの)二郎が頚を取る。佐吉(すけよし)は武田(たけだ)が郎等(らうとう)と差違(さしちがへ)て共に死にけり。敵二人(ににん)も共に兄弟、御方(みかた)二人(ににん)も兄弟なれば、死残(しにのこつ)ては何(なに)かせん。いざや共に勝負(しようぶ)せんとて、佐光(すけみつ)と武田(たけだの)七郎と、持(もち)たる頚を両方へ投捨(なげすて)て、又引組(ひつくん)で指違(さしちが)ふ。是(これ)を見て福光(ふくみつの)彦二郎佐長(すけなが)・殖月(うゑつきの)彦五郎重佐(しげすけ)・原田彦三郎佐秀(すけひで)・鷹取(たかとり)彦二郎種佐(たねすけ)同時に馬を引退し、むずと組(くん)ではどうど落(おち)、引組(ひつくん)では指違(さしちが)へ、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)一所(いつしよ)にて皆討(うた)れければ、其(その)陣の軍(いくさ)は破(やぶれ)にけり。播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)長宗(ながむね)と申すは、薩摩(さつまの)氏長(うぢなが)が末(すゑ)にて、力(ちから)人に勝(すぐ)れ器量(きりやう)世に超(こえ)たり。生年(しやうねん)十二の春(はる)の比(ころ)より好(このん)で相撲(すまふ)を取(とり)けるに、日本(につぽん)六十(ろくじふ)余州(よしう)の中には、遂に片手(かたて)にも懸(かか)る者無(なか)りけり。人は類(るゐ)を以て聚(あつま)る習ひなれば、相伴(あひともな)ふ一族(いちぞく)十七人(じふしちにん)、皆是(これ)尋常(よのつね)の人には越(こえ)たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条(ろくでうの)坊門(ばうもん)大宮(おほみや)まで責入(せめいり)たりけるが、東寺(とうじ)・竹田(たけだ)より勝軍(かちいくさ)して帰りける六波羅(ろくはらの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)に被取巻、十七人(じふしちにん)は被打て、孫三郎(まごさぶらう)一人ぞ残(のこり)たりける。「生(いき)て無甲斐命(いのち)なれども、君の御大事(おんだいじ)是(これ)に限るまじ。一人なりとも生残(いきのこつ)て、後の御用(ごよう)にこそ立(たた)め。」と独(ひと)りごとして、只一騎西朱雀(にししゆじやか)を指(さし)て引(ひき)けるを、印具(いぐ)駿河(するがの)守(かみ)の勢五十(ごじふ)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。其(その)中に、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、只一騎馳寄(はせよ)せて、引(ひい)て帰りける妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)に組(くま)んと近付(ちかづい)て、鎧の袖に取着(とりつき)ける処を、孫三郎(まごさぶらう)是(これ)を物ともせず、長肘(ながきひぢ)を指延(さしのべ)て、鎧(よろひの)総角(あげまき)を掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、馬の上(うへ)三町許(ばかり)ぞ行(ゆき)たりける。此(この)武者可然者のにてや有(あり)けん、「あれ討(うた)すな。」とて、五十(ごじふ)余騎(よき)の兵迹(あと)に付(つい)て追(おひ)けるを、孫三郎(まごさぶらう)尻目(しりめ)にはつたと睨(にらん)で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付(ちかづい)てあやまちすな。ほしがらばすは是(これ)取らせん。請取(うけと)れ。」と云(いつ)て、左の手に提(ひつさ)げたる鎧武者(よろひむしや)を、右の手〔に〕取渡(とりわた)して、ゑいと抛(なげ)たりければ、跡(あと)なる馬武者(むまむしや)六騎が上を投越(なげこ)して、深田(ふけた)の泥(どろ)の中(なか)へ見へぬ程こそ打(うち)こうだれ。是(これ)を見て、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、同時に馬を引返し、逸足(いちあし)を出(いだ)してぞ逃(にげ)たりける。赤松入道は、殊更(ことさら)今日(けふ)の軍(いくさ)に、憑切(たのみきつ)たる一族(いちぞく)の兵共(つはものども)も、所々(しよしよ)にて八百(はつぴやく)余騎(よき)被打ければ、気(き)疲(つかれ)力(ちから)落(おち)はてゝ、八幡(やはた)・山崎へ又引返(ひつかへ)しけり。
○主上自(みづから)令修金輪法給(たまふ)事(こと)付千種殿(ちぐさどの)京合戦(かつせんの)事(こと) S0807
京都数箇度(すかど)の合戦に、官軍(くわんぐん)毎度(まいど)打負(うちまけ)て、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の陣も既(すで)に小勢(こぜい)に成りぬと聞へければ、主上(しゆしやう)天下の安危(あんき)如何(いかが)有(あ)らんと宸襟(しんきん)を被悩、船上(ふなのうへ)の皇居(くわうきよ)に壇(だん)を被立、天子自(みづから)金輪(こんりん)の法を行(おこな)はせ給ふ。其(その)七(しち)箇日(かにち)に当りける夜、三光天子(さんくわうてんし)光(ひかり)を並(ならべ)て壇上に現(げん)じ給(たまひ)ければ、御願(ごぐわん)忽(たちまち)に成就(じやうじゆ)しぬと、憑敷(たのもしく)被思召ける。さらばやがて大将を差上(さしのぼ)せて赤松入道に力を合せ、六波羅(ろくはら)を可攻とて、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣を頭(とうの)中将(ちゆうじやう)に成し、山陽(さんやう)・山陰(せんおん)両道の兵の大将として、京都へ被指向。其(その)勢伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)しまで、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)と聞へしが、因幡(いなば)・伯耆(はうき)・出雲(いづも)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・丹後(たんご)・丹波(たんば)・若狭(わかさ)の勢共(せいども)馳加(はせくは)は(ッ)て、程なく二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。又第六の若宮(わかみや)は、元弘の乱(らん)の始(はじめ)、武家に被囚させ給(たまひ)て、但馬(たじまの)国(くに)へ被流させ給ひたりしを、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)取立奉(とりたてたてまつつ)て、近国(きんごく)の勢を相催(あひもよほ)し、則(すなはち)丹波の篠村(しのむら)へ参会(さんくわい)す。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)不斜(なのめならず)悦(よろこん)で、即(すなはち)錦(にしき)の御旗(おんはた)を立(たて)て、此(この)宮(みや)を上将軍(じやうしようぐん)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつつ)て、軍勢催促(さいそく)の令旨(りやうじ)を被成下けり。四月二日、宮、篠村(しのむら)を御立(おんたち)有(あつ)て、西山(にしやま)の峯堂(みねのだう)を御陣に被召、相従(あひしたが)ふ軍勢二十万騎(にじふまんぎ)、谷堂(たにのだう)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・万石大路(まんごくおほみち)・松尾(まつのを)・桂里(かつらのさと)に居余(ゐあまつ)て、半(なかば)は野宿(のじゆく)に充満(みちみち)たり。殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)は、八幡(やはた)に陣を取(とる)。赤松入道円心は山崎に屯(たむろ)を張れり。彼(かの)陣と千種殿(ちぐさどの)の陣と相去(あひさる)事(こと)僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)が程なれば、方々(かたがた)牒(てふ)じ合(あは)せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)我(わが)勢の多(おほき)をや被憑けん。又独(ひとり)高名(かうみやう)にせんとや被思けん、潛(ひそか)に日を定(さだめ)て四月八日の卯刻(うのこく)に六波羅(ろくはら)へぞ被寄ける。あら不思議(ふしぎ)、今日(けふ)は仏生日(ぶつしやうび)とて心あるも心なきも潅仏(くわんぶつ)の水に心を澄(すま)し、供花焼香(くげせうかう)に経(きやう)を翻(ひるがへ)して捨悪修善(しやあくしゆぜん)を事とする習ひなるに、時日(ときひ)こそ多かるに、斎日(さいじつ)にして合戦を始(はじめ)て、天魔波旬(てんまはじゆん)の道を学ばる条難心得と人々舌(した)を翻(ひるがへ)せり。さて敵御方(みかた)の士卒源平(げんぺい)互(たがひ)に交(まじは)れり。無笠符ては同士打(どうしうち)も有(あり)ぬべしとて、白絹(しろききぬ)を一尺づゝ切(きつ)て風と云(いふ)文字を書(かい)て、鎧(よろひ)の袖にぞ付(つけ)させられける。是(これ)は孔子(こうし)の言(ことば)に、「君子(くんし)の徳は風也(なり)。小人の徳は草也(なり)。草に風を加ふる時は不偃と云(いふ)事(こと)なし。」と云(いふ)心なるべし。六波羅(ろくはら)には敵を西に待(まち)ける故(ゆゑ)に、三条(さんでう)より九条まで大宮面(おほみやおもて)に屏(へい)を塗(ぬ)り、櫓(やぐら)を掻(かい)て射手(いて)を上(あげ)て、小路々々(こうぢこうぢ)に兵を千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)扣(ひか)へさせて、魚鱗(ぎよりん)に進み、鶴翼(かくよく)に囲(かこ)まん様(やう)をぞ謀(はか)りける。「寄手(よせて)の大将は誰(た)そ。」と問(とふ)に、「前帝(ぜんてい)第六の若宮(わかみや)、副(ふく)将軍は千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)の朝臣(あそん)。」と聞へければ、「さては軍(いくさ)の成敗(せいはい)心にくからず。源(みなもと)は同流(おなじながれ)也(なり)。といへども、「江南(かうなん)の橘(たちばな)、江北(かうほく)に被移て枳(からたち)と成(なる)」習(ならひ)也(なり)。弓馬(きゆうば)の道を守る武家の輩(ともがら)と、風月の才(さい)を事とする朝廷(てうてい)の臣と闘(たたかひ)を決(けつ)せんに、武家不勝と云(いふ)事(こと)不可有。」と、各(おのおの)勇(いさ)み進(すすん)で、七千余騎(よき)大宮面(おほみやおもて)に打寄(うちよせ)て、寄手(よせて)遅しとぞ待懸(まちかけ)たる。去程(さるほど)に忠顕(ただあき)朝臣、神祇官(じんぎくわん)の前に扣(ひか)へて勢を分(わけ)て、上は大舎人(おほどねり)より下は七条まで、小路(こうぢ)ごとに千(せん)余騎(よき)づゝ指向(さしむけ)て責(せめ)させらる。武士(ぶし)は要害を拵(こしらへ)て射打(いうち)を面(おもて)に立(たて)て、馬武者を後(うしろ)に置(おき)たれば、敵の疼(ひる)む所を見て懸出々々(かけいでかけいで)追立(おつたて)けり。官軍(くわんぐん)は二重(にぢゆう)三重(さんぢゆう)に荒手(あらて)を立(たて)たれば、一陣引けば二陣入替(いりかは)り、二陣打負(うちまく)れば三陣入替(いりかはつ)て、人馬に息を継(つが)せ、煙塵(えんぢん)天を掠(かすめ)て責(せめ)戦ふ。官軍(くわんぐん)も武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、義に依(よつ)て命(いのち)を軽(かろん)じ、名を惜(をしみ)で死を争(あらそ)ひしかば、御方(みかた)を助(たすけ)て進むは有れども、敵に遇(あう)て退くは無(なか)りけり。角(かく)ては何(いつ)可有勝負とも見へざりける処に、但馬(たじま)・丹波の勢共(せいども)の中(なか)より、兼(かね)て京中に忍(しのび)て人を入置(いれおき)たりける間、此彼(ここかしこ)に火を懸(かけ)たり。時節(をりふし)辻風(つじかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、猛煙(みやうえん)後(うしろ)に立覆(たちおほ)ひければ、一陣に支(ささ)へたる武士(ぶし)共、大宮面(おほみやおもて)を引退(ひきしりぞき)て尚(なほ)京中に扣(ひか)へたり。六波羅(ろくはら)是(これ)を聞(きい)て、弱からん方(かた)へ向けんとて用意(ようい)を残し留(とどめ)たる、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・隅田(すだ)・高橋・南部(なんぶ)・下山(しもやま)・河野(かうの)・陶山(すやま)・富樫(とがし)・小早河等(こばいかはに)、五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、一条・二条(にでう)の口へ被向。此荒手(このあらて)に懸合(かけあつ)て、但馬の守護(しゆご)大田三郎左衛門被打にけり。丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)荻野(おぎの)彦六と足立(あだち)三郎は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて四条(しでう)油小路(あぶらのこうぢ)まで責入(せめいり)たりけるを、備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、薬師寺(やくしじの)八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹(たん)・児玉(こだま)が勢共(せいども)、七百(しちひやく)余騎(よき)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)けるが、二条(にでう)の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共(もろとも)に御方(みかた)の負(まけ)して引返す。金持(かなぢ)三郎は七百(しちひやく)余騎(よき)にて、七条東洞院(ひがしのとうゐん)まで責入(せめいり)たりけるが、深手(ふかで)を負(おう)て引(ひき)かねけるを、播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)肥塚(こいづか)が一族(いちぞく)、三百(さんびやく)余騎(よき)が中に取篭(とりこめ)て、出抜(だしぬい)て虜(いけどり)てげり。丹波(たんばの)国(くに)神池(みいけ)の衆徒(しゆと)は、八十(はちじふ)余騎(よき)にて、五条西洞院(にしのとうゐん)まで責入(せめいり)、御方(みかた)の引(ひく)をも知らで戦(たたかひ)けるを、備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、庄(しやうの)三郎・真壁(まかべの)四郎、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取篭(とりこめ)、一人も不余打(うつ)てげり。方々(かたがた)の寄手(よせて)、或(あるひ)は被打或(あるひ)は被破て、皆桂河(かつらがは)の辺(へん)まで引(ひき)たれども、名和(なわの)小次郎と小嶋(こじま)備後(びんごの)三郎とが向ひたりける一条の寄手(よせて)は、未引(いまだひかず)、懸(かけ)つ返(かへし)つ時移(うつ)るまで戦(たたかひ)たり。防(ふせぐ)は陶山(すやま)と河野(かうの)にて、責(せむる)は名和(なわ)と小嶋(こじま)と也(なり)。小島と河野(かうの)とは一族(いちぞく)にて、名和と陶山(すやま)とは知人也(なり)。日比(ひごろ)の詞(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、後日(ごにち)の難(なん)をや思(おもひ)けん、死(しし)ては尸(かばね)を曝(さら)すとも、逃(にげ)て名をば失(うしなは)じと、互(たがひ)に命(いのち)を不惜、をめき叫(さけん)でぞ戦ひける。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)は、内野(うちの)まで被引たりけるが、一条の手尚(なほ)相支(あひささへ)て戦半(たたかひなかば)也(なり)。と聞へしかば、又神祇官(じんぎくわん)の前へ引返して、使を立(たて)て小島と名和とを被喚返けり。彼等(かれら)二人(ににん)、陶山(すやま)と河野(かうの)とに向(むかひ)て、「今日(けふ)已(すで)に日暮候(くれさふらひ)ぬ。後日(ごにち)にこそ又見参(けんざん)に入らめ。」と色代(しきだい)して、両軍ともに引分(ひきわかれ)、各(おのおの)東西へ去(さり)にけり。夕陽(せきやう)に及(およん)で軍(いくさ)散(さん)じければ、千種殿(ちぐさどの)は本陣峯(みね)の堂(だう)に帰(かへつ)て、御方(みかた)の手負打死(ておひうちじに)を被註に、七千人に余(あま)れり。其(その)内に、宗(むね)と憑(たのまれ)たる大田(おほた)・金持(かなぢ)の一族(いちぞく)以下(いげ)、数百人(すひやくにん)被打畢(をはんす)。仍(よつて)一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋(こじま)備後三郎高徳(たかのり)を呼寄(よびよせ)て、「敗軍(はいぐん)の士力(ちから)疲(つかれ)て再び難戦。都(みやこ)近き陣は悪(あし)かりぬと覚(おぼゆ)れば、少し堺(さかひ)を阻(へだて)て陣を取り、重(かさね)て近国の勢を集(あつめ)て、又京都を責(せめ)ばやと思ふは、如何(いか)に計(はから)ふぞ。」と宣(のたま)へば、小嶋三郎不聞敢、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運による事にて候へば、負(まく)るも必(かならず)しも不恥、只引(ひく)まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚(ふかく)とは申(まうす)也(なり)。如何(いか)なれば赤松入道は、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)の勢を以て、三箇度(さんがど)まで京都へ責入(せめいり)、叶(かな)はねば引退(ひきしりぞい)て、遂(つひ)に八幡(やはた)・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢(おんせい)縦(たと)ひ過半(くわはん)被打て候共(とも)、残(のこる)所の兵尚(なほ)六波羅(ろくはら)の勢よりは多かるべし。此(この)御陣後(うしろ)は深山(みやま)にて前は大河也(なり)。敵若(もし)寄来(よせきた)らば、好む所の取手(とりで)なるべし。穴(あな)賢(かしこ)、此(この)御陣を引かんと思食(おぼしめ)す事不可然候。但(ただし)御方(みかた)の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗(のつ)て、敵夜討(ようち)に寄(よ)する事もや候はんずらんと存(ぞんじ)候へば、高徳(たかのり)は七条の橋爪(はしづめ)に陣を取(とつ)て相待(あひまち)候べし。御心安(おんこころやす)からんずる兵共(つはものども)を、四五百騎が程、梅津(うめつ)・法輪(ほふりん)の渡(わたし)へ差向(さしむけ)て、警固(けいご)をさせられ候へ。」と申置(まうしおい)て、則(すなはち)小嶋三郎高徳(たかのり)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿(ちぐさどの)は小嶋に云恥(いひはぢ)しめられて、暫(しばし)は峯(みね)の堂(だう)におはしけるが、「敵若(もし)夜討(ようち)にや寄せんずらん。」と云(いひ)つる言(ことば)に被驚て、弥(いよいよ)臆病心(おくびやうごころ)や付(つき)給ひけん、夜半(やはん)過(すぐ)る程に、宮を御馬(おんむま)に乗(の)せ奉(たてまつつ)て、葉室(はむろ)の前を直違(すぢかひ)に、八幡(やはた)を指(さし)てぞ被落ける。備後(びんごの)三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方(よふけがた)に峯の堂を見遣(みやれ)ば、星の如(ごとく)に耀(かかや)き見へつる篝火(かがりび)次第に数(かず)消(きえ)て、所々(しよしよ)に焼(たき)すさめり。是(これ)はあはれ大将の落(おち)給ひぬるやらんと怪(あやしみ)て、事の様(やう)を見ん為に、葉室大路(はむろおほち)より峯の堂へ上(のぼ)る処に、荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)浄住寺(じやうぢゆうじ)の前に行合(ゆきあひ)て、「大将已(すで)に夜部(よべの)子刻(ねのこく)に落(おち)させ給(たまひ)て候間、無力我等(われら)も丹後(たんご)の方へと志(こころざし)て、罷下(まかりくだり)候也(なり)。いざゝせ給へ、打連(うちつ)れ申さん。」と云(いひ)ければ備後三郎大(おほき)に怒(いかつ)て、「かゝる臆病の人を大将と憑(たの)みけるこそ越度(をちど)なれ。さりながらも、直(ぢき)に事の様(やう)を見ざらんは後難(こうなん)も有(あり)ぬべし。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。高徳(たかのり)は何様(なにさま)峯の堂へ上(のぼつ)て、宮の御跡(おんあと)を奉見て追付(おつつき)可申。」と云(いひ)て、手(て)の者兵をば麓に留(とめ)て只一人、落行(おちゆく)勢の中を押分々々(おしわけおしわけ)、峯(みね)の堂(だう)へぞ上(のぼ)りける。大将のおはしつる本堂へ入(いつ)て見れば、能(よく)遽(あわて)て被落けりと覚へて、錦(にしき)の御旗(おんはた)、鎧直垂(ひたたれ)まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此(この)大将、如何なる堀がけへも落入(おちいつ)て死に給へかし。」と独(ひと)り言(ごと)して、しばらくは尚(なほ)堂(だう)の縁(えん)に歯嚼(はがみ)をして立(たつ)たりけるが、「今はさこそ手(て)の者共(ものども)も待(まち)かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許(おんはたばかり)を巻(まい)て、下人(げにん)に持(もた)せ、急ぎ浄住寺の前へ走(はし)り下(お)り、手(て)の者打連(うちつれ)て馬を早めければ、追分(おひわけ)の宿(しゆく)の辺(へん)にて、荻野(をぎの)彦六にぞ追付(おひつき)ける。荻野は、丹波・丹後(たんご)・出雲・伯耆へ落(おち)ける勢の、篠村(しのむら)・稗田辺(ひえだのへん)に打集(うちあつ)ま(ッ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)有(あり)けるを相伴(あひともなひ)、路次(ろし)の野伏(のぶし)を追払(おひはらう)て、丹波国高山寺(かうせんじ)の城(じやう)にぞ楯篭(たてごも)りける。
○谷堂炎上(たにのだうえんじやうの)事(こと) S0808
千種頭(ちくさのとうの)中将(ちゆうじやう)は西山(にしやま)の陣を落(おち)給ひぬと聞へしかば、翌日(よくじつ)四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下(いげ)浄住寺・松(まつ)の尾(を)・万石大路(まんごくおほち)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)に乱入(みだれいつ)て、仏閣(ぶつかく)神殿を打破(うちやぶ)り、僧坊民屋(そうばうみんをく)を追捕(つひふ)し、財宝(ざいはう)を悉(ことごと)く運取(はこびとつ)て後(のち)、在家(ざいけ)に火を懸(かけ)たれば、時節(をりふし)魔風(まかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、浄住寺・最福寺(さいふくじ)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・三尊院(さんそんゐん)、総(そう)じて堂舎(だうしや)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)、在家(ざいけ)五千(ごせん)余宇(よう)、一時に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、仏像・神体・経論(きやうろん)・聖教(しやうげう)、忽(たちまち)に寂滅(じやくめつ)の煙(けぶり)と立上(たちのぼ)る。彼(かの)谷堂(たにのだう)と申(まうす)は八幡殿(はちまんどの)の嫡男(ちやくなん)対馬(つしまの)守(かみ)義親(よしちか)が嫡孫(ちやくそん)、延朗(えんらう)上人造立(ざうりふ)の霊地(れいち)也(なり)。此(この)上人幼稚(えうち)の昔より、武略累代(ぶりやくるゐだい)の家を離れ、偏(ひとへ)に寂寞無人(じやくまくむにん)の室(むろ)をと給(しめたまひ)し後、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)して、六根清浄(ろくこんしやうじやう)の功徳(くどく)を得給ひしかば、法華読誦(ほつけどくじゆ)の窓の前には、松尾(まつのを)の明神坐列(ざれつ)して耳を傾(かたぶ)け、真言秘密(しんごんひみつ)の扉(とぼそ)の中(うち)には、総角(そうかく)の護法(ごほふ)手を束(つかね)て奉仕(ぶし)し給ふ。かゝる有智高行(いうちかうぎやう)の上人(しやうにん)、草創(さうさう)せられし砌(みぎり)なれば、五百(ごひやく)余歳(よさい)の星霜(せいざう)を経(へ)て、末世澆漓(まつせげうり)の今に至るまで、智水(ちすゐ)流(ながれ)清く、法燈(ほつとう)光(ひかり)明(あきらか)也(なり)。三間四面(さんげんしめん)の輪蔵(りんざう)には、転法輪(てんほふりん)の相(さう)を表(へう)して、七千余巻(よくわん)の経論(きやうろん)を納(をさ)め奉られけり。奇樹怪石(きじゆくわいせき)の池上(ちじやう)には、都卒(とそつ)の内院(ないゐん)を移(うつ)して、四十九院(しじふくゐん)の楼閣(ろうかく)を並ぶ。十二の欄干(らんかん)珠玉(しゆぎよく)天に捧(ささ)げ、五重(ごぢゆう)の塔婆(たふば)金銀月(つき)を引く。恰(あたか)も極楽浄土(ごくらくじやうど)の七宝荘厳(しちはうしやうごん)の有様も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。又浄住寺と申(まうす)は、戒法(かいほふ)流布(るふ)の地、律宗(りつしゆう)作業(さごふ)の砌(みぎり)也(なり)。釈尊(しやくそん)御入滅(ごにふめつ)の刻(きざみ)、金棺(きんくわん)未(いまだ)閉(とぢざる)時、捷疾鬼(せふしつき)と云(いふ)鬼神(きじん)、潛(ひそか)に双林(さうりん)の下(もと)に近付(ちかづい)て、御牙(おんきば)を一(ひとつ)引■(ひつかい)て是(これ)を取る。四衆(ししゆ)の仏弟子(ぶつでし)驚(おどろき)見て、是(これ)を留(とど)めんとし給ひけるに、片時(へんし)が間(ま)に四万由旬(しまんゆじゆん)を飛越(とびこえ)て、須弥(しゆみ)の半(なかば)四天王(してんわう)へ逃上(にげのぼ)る。韋駄天(ゐだてん)追攻(おひつめ)奪取(うばひとり)、是(これ)を得て其(その)後漢土(かんど)の道宣律師(だうせんりつし)に被与。自尓以来(このかた)相承(さうじやう)して我朝(わがてう)に渡(わたり)しを、嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に始(はじめ)て此(この)寺に被奉安置。偉(おほいなる)哉(かな)大聖世尊(だいしやうせそん)滅後(めつご)二千三百(にせんさんびやく)余年(よねん)の已後(いご)、仏肉(ぶつにく)猶(なほ)留(とどまつ)て広く天下に流布(るふ)する事普(あまね)し。かゝる異瑞奇特(いずゐきどく)の大加藍(だいがらん)を無咎して被滅けるは、偏(ひとへ)に武運(ぶうん)の可尽前表(ぜんべう)哉(かな)と、人皆唇(くちびる)を翻(ひるがへし)けるが、果(はた)して幾程(いくほど)も非ざるに、六波羅(ろくはら)皆番馬(ばんば)にて亡(ほろ)び、一類(いちるゐ)悉(ことごと)く鎌倉(かまくら)にて失(う)せける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。「積悪(せきあく)の家には必(かならず)有余殃」とは、加様(かやう)の事をぞ可申と、思はぬ人も無(なか)りけり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第九
○足利殿(あしかがどの)御上洛(ごしやうらくの)事(こと) S0901
先朝(せんてう)船上(ふなのうへ)に御坐(ござ)有(あつ)て、討手を被差上、京都を被責由(よし)、六波羅(ろくはら)の早馬(はやむま)頻(しきり)に打(うつ)て、事既(すで)に難儀に及(およぶ)由(よし)、関東(くわんとう)に聞へければ、相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば重(かさね)て大勢を指上(さしのぼ)せて半(なかば)は京都を警固(けいご)し、宗徒(むねと)は舟上(ふなのうへ)を可責と評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)を大将として、外様(とざま)の大名二十人を被催。其(その)中に足利(あしかが)治部大輔(ぢふのたいふ)高氏(たかうぢ)は、所労(しよらう)の事有(あつ)て、起居(ききよ)未(いまだ)快(こころよからざり)けるを、又上洛(しやうらく)の其数(そのかず)に入(いつ)て、催促(さいそく)度々(どど)に及べり。足利殿(あしかがどの)此(この)事(こと)に依(よつ)て、心中(しんちゆう)に被憤思けるは、「我(われ)父の喪(も)に居(ゐ)て三月を過(すぎ)ざれば、非歎(ひたん)の涙(なんだ)未(いまだ)乾(かわかず)、又病気身を侵(をか)して負薪(ふしん)の憂(うれへ)未(いまだ)休(やまざる)処に、征罰(せいばつ)の役(やく)に随へて、被相催事こそ遺恨(ゐこん)なれ。時移(うつ)り事変(へん)じて貴賎雖易位、彼(かれ)は北条四郎時政(ときまさ)が末孫(ばつそん)也(なり)。人臣に下(くだつ)て年久し。我は源家累葉(げんけるゐえふ)の族(やから)也(なり)。王氏(わうし)を出(いで)て不遠。此(この)理を知(しる)ならば、一度(いちど)は君臣の儀をも可存に、是(これ)までの沙汰(さた)に及(およぶ)事(こと)、偏(ひとへ)に身の不肖(ふせう)による故(ゆゑ)也(なり)。所詮(しよせん)重(かさね)て尚上洛(しやうらく)の催促(さいそく)を加(くはふ)る程ならば、一家(いつけ)を尽(つく)して上洛(しやうらく)し、先帝(せんてい)の御方(みかた)に参(まゐつ)て六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)して、家の安否(あんぴ)を可定者を。」と心中(しんちゆう)に被思立けるをば、人更(さら)に知(しる)事(こと)無(なか)りけり。相摸(さがみ)入道(にふだう)は、可斯事とは不思寄、工藤(くどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)を使にて、「御上洛(ごしやうらく)延引不被心得。」一日の中(うちに)両度までこそ被責けれ。足利殿(あしかがどの)は反逆(はんぎやく)の企(くはだて)、已(すで)に心中(しんちゆう)に被思定てげれば、中々(なかなか)異儀(いぎ)に不及、「不日(ふじつ)に上洛(しやうらく)可仕。」とぞ被返答ける。則(すなはち)夜を日に継(つい)で被打立けるに、御一族(ごいちぞく)・郎従(らうじゆう)は不及申、女性(によしやう)幼稚(えうち)の君達(きんだち)迄も、不残皆可有上洛(しやうらく)と聞へければ、長崎入道円喜(ゑんき)怪(あやし)み思(おもひ)て、急ぎ相摸(さがみ)入道(にふだう)の方に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「誠(まこと)にて候哉覧(やらん)。足利殿(あしかがどの)こそ、御台(みだい)・君達(きんだち)まで皆引具(ひきぐ)し進(まゐら)せて、御上洛(ごしやうらく)候なれ。事の体(てい)怪(あやし)く存(ぞんじ)候。加様(かやう)の時は、御一門(ごいちもん)の疎(おろそ)かならぬ人にだに、御心(おんこころ)被置候べし。況乎(いはんや)源家(げんけ)の貴族として、天下の権柄(けんぺい)を捨(すて)給へる事年久しければ、思召立(おぼしめしたつ)事(こと)もや候覧(らん)。異国より吾朝(わがてう)に至(いたる)まで、世の乱(みだれ)たる時は、覇王(はわう)諸候を集(あつめ)て牲(いけにへ)を殺し血を啜(すすつ)て弐(ふたごこ)ろ無(なか)らん事を盟(ちか)ふ。今の世の起請文(きしやうもん)是(これ)也(なり)。或(あるひ)は又其(その)子を質(しち)に出(いだ)して、野心(やしん)の疑(うたがひ)を散ず。木曾殿(きそどの)の御子(おんこ)、清水冠者(しみづのくわじや)を大将殿(たいしやうどの)の方へ被出き。加様(かやう)の例を存(ぞんじ)候にも、如何様(いかさま)足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)と御台(みだい)とをば、鎌倉(かまくら)に被留申て、一紙(いつし)の起請文を書(かか)せ可被進とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)げにもとや被思けん。頓(やが)て使者を以て被申遣けるは、「東国(とうごく)は未だ世閑(しづか)にて、御心(おんこころ)安かるべきにて候。幼稚(えうち)の御子息(ごしそく)をば、皆鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられ候べし。次に両家(りやうけ)の体(てい)を一にして、水魚(すゐぎよ)の思(おもひ)を被成候上(うへ)、赤橋(あかはし)相州(さうしう)御縁(ごえん)に成(なり)候、彼此(かれこれ)何の不審(ふしん)か候べきなれ共(ども)、諸人(しよにん)の疑(うたがひ)を散(さん)ぜん為にて候へば、乍恐一紙(いつし)の誓言(せいごん)を被留置候はん事(こと)、公私(こうし)に付(つい)て可然こそ存(ぞんじ)候へ。」と、被仰たりければ、足利殿(あしかがどの)、欝胸(うつきよう)弥(いよいよ)深かりけれ共(ども)、憤(いきどほり)を押(おさ)へて気色(きしよく)にも不被出、「是(これ)より御返事(ごへんじ)を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後(そののち)舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)殿(どの)を被呼進て、「此(この)事(こと)可有如何。」と意見を被訪に、且(しばら)く案(あん)じて被申けるは、「今此(この)一大事(いちだいじ)を思食立(おぼしめしたつ)事(こと)、全(まつた)く御身(おんみ)の為に非(あら)ず、只天に代(かはつ)て無道(ぶだう)を誅(ちゆう)し、君は御為(おんため)に不義を退(しりぞけ)んと也(なり)。其(その)上(うへ)誓言(せいごん)は神も不受とこそ申習(まうしなら)はして候へ。設(たと)ひ偽(いつはつ)て起請(きしやう)の詞(ことば)被載候共(とも)、仏神などか忠烈(ちゆうれつ)の志(こころざし)を守らせ給はで候べき。就中(なかんづく)御子息(ごしそく)と御台(みだい)とは、鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられん事(こと)、大儀(たいぎ)の前の少事(せうじ)にて候へば、強(あながち)に御心(おんこころ)を可被煩に非(あら)ず。公達(きんだち)未だ御幼稚(ごえうち)に候へば、自然の事もあらん時は、其(その)為に少々被残置郎従共(らうじゆうども)、何方(いづかた)へも抱拘(だきかか)へて隠し奉り候(さふらひ)なん。御台(みだい)の御事(おんこと)は、又赤橋殿(あかはしどの)とても御坐(おはしまし)候はん程は、何の御痛敷(おんいたはしき)事(こと)か候べき。「大行(たいかう)は不顧細謹」とこそ申(まうし)候へ。此等(これら)程の少事(せうじ)に可有猶予あらず。兎(と)も角(かく)も相摸(さがみ)入道(にふだう)の申さん侭(まま)に随(したがつ)て其(その)不審を令散、御上洛(ごしやうらく)候(さふらひ)て後(のち)、大儀の御計略(ごけいりやく)を可被回とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、足利殿(あしかがどの)此(この)道理に服(ふく)して、御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)と、御台(みだい)赤橋(あかはし)相州(さうしう)の御妹(おんいもうと)とをば、鎌倉(かまくら)に留置(とめおき)奉りて、一紙(いつし)の起請文(きしやうもん)を書(かい)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の方へ被遣。相摸(さがみ)入道(にふだう)是(これ)に不審(ふしん)を散(さん)じて喜悦(きえつ)の思(おもひ)を成し、高氏(たかうぢ)を招請(せうしやう)有(あつ)て、様々(さまざま)賞翫共(しやうぐわんども)有(あり)しに、「御先祖(ごせんぞ)累代(るゐたい)の白旌(しらはた)あり、是(これ)は八幡殿(はちまんどの)より代々(だいだい)の家督(かとく)に伝(つたへ)て被執重宝(ちようはう)にて候(さふらひ)けるを、故頼朝(こよりとも)卿(きやう)の後室(こうしつ)、二位(にゐ)の禅尼(ぜんに)相伝(さうでん)して、当家(たうけ)に今まで所持(しよぢ)候也(なり)。希代(きたい)の重宝と申(まうし)ながら、於他家に、無其詮候歟(か)。是(これ)を今度の餞送(はなむけ)に進(しん)じ候也(なり)。此旌(このはた)をさゝせて、凶徒(きようと)を急ぎ御退治(ごたいぢ)候へ。」とて、錦(にしき)の袋に入(いれ)ながら、自(みづか)ら是(これ)をまいらせらる。其外(そのほか)乗替(のりがへ)の御為(おんため)にとて、飼(かう)たる馬に白鞍(しろくら)置(おい)て十疋(じつびき)、白幅輪(しろぶくりん)の鎧(よろひ)十領(じふりやう)、金作(こがねづくり)の太刀一副(ひとつそへ)て被引たりけり。足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)・吉良(きら)・上杉・仁木(につき)・細川・今河・荒河(あらかは)・以下(いげ)の御一族(ごいちぞく)三十二人(さんじふににん)、高家(かうけ)の一類(いちるゐ)四十三人(しじふさんにん)、都合其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、元弘三年三月二十七日(にじふしちにち)に鎌倉(かまくら)を立(たち)、大手の大将と被定、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)高家(たかいへ)に三日先立(さきだつ)て、四月十六日に京都に着(つき)給ふ。
○山崎攻(せめの)事(こと)付久我畷(くがなはて)合戦(かつせんの)事(こと) S0902
両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかち)ければ、西国(さいこく)の敵恐(おそる)るに不足と欺(あざむ)きながら、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)と被憑たりける結城(ゆふき)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)は、敵に成(なつ)て山崎の勢(せい)に加(くはは)りぬ。其外(そのほか)、国々の勢共(せいども)五騎十騎、或(あるひ)は転漕(てんさう)に疲(つかれ)て国々に帰り、或(あるひ)は時の運を謀(はかつ)て敵に属(しよく)しける間、宮方(みやがた)は負(まく)れ共(ども)勢弥(いよいよ)重(かさな)り、武家は勝(かて)共(ども)兵(つはもの)日々(ひび)に減(げん)ぜり。角(かく)ては如何(いかが)可有と、世を危(あやぶ)む人多かりける処に、足利(あしかが)・名越(なごや)の両勢叉雲霞(うんか)の如く上洛(しやうらく)したりければ、いつしか人の心替(かはつ)て今は何事か可有と、色を直(なほ)して勇合(いさみあ)へり。かゝる処に、足利殿(あしかがどの)は京着(きやうちやく)の翌日(よくじつ)より、伯耆(はうき)の船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を進(まゐら)せて、御方(みかた)に可参由を被申たりければ、君殊(こと)に叡感(えいかん)有(あつ)て、諸国の官軍(くわんぐん)を相催(あひもよほ)し朝敵(てうてき)を可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被成下ける。両六波羅(りやうろくはら)も名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)も、足利殿(あしかがどの)にかゝる企(くはだて)有(あり)とは思(おもひ)も可寄事ならねば、日々(ひび)に参会(さんくわい)して八幡(やはた)・山崎を可被責内談評定(ないだんひやうぢやう)、一々(いちいち)に心底(しんてい)を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也(なり)。人心好悪苦不常。」とは云(いひ)ながら、足利殿(あしかがどの)は代々(だいだい)相州(さうしう)の恩を戴き徳を荷(になつ)て、一家(いつけ)の繁昌恐(おそら)くは天下の肩(かた)を可並も無(なか)りけり。其(その)上(うへ)赤橋(あかはし)前(さきの)相摸守(さがみのかみ)の縁(えん)に成(なつ)て、公達(きんだち)数(あま)た出来給(いできたまひ)ぬれば、此(この)人よも弐(ふたごころ)はおはせじと相摸(さがみ)入道(にふだう)混(ひたすら)に被憑けるも理(ことわり)也(なり)。四月二十七日(にじふしちにち)には八幡(やはた)・山崎の合戦と、兼(かね)てより被定ければ、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)大手の大将として七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、鳥羽(とば)の作道(つくりみち)より被向。足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)は、搦手(からめて)の大将として五千(ごせん)余騎(よき)、西岡(にしのをか)よりぞ被向ける。八幡(やはた)・山崎の官軍(くわんぐん)是(これ)を聞(きい)て、さらば難所(なんじよ)に出合(いであつ)て不慮に戦(たたかひ)を決せしめよとて、千種(ちぐさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて大渡(おほわたり)の橋を打渡り、赤井河原(あかゐかはら)に被扣。結城(ゆふきの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)親光(ちかみつ)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて狐河(きつねがは)の辺(へん)に向ふ。赤松入道円心(ゑんしん)は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて淀(よど)・古河(ふるかは)・久我畷(こがなはて)の南北三箇所(さんかしよ)に陣を張(はる)。是(これ)皆強敵(がうてき)を拉(とりひしぐ)気(き)、天を廻(めぐら)し地を傾(かたむく)と云共(いふとも)、機を解(と)き勢(いきほひ)を被呑とも、今上(いまのぼり)の東国勢一万余騎(よき)に対して可戦とはみへざりけり。足利殿(あしかがどの)は、兼(かね)て内通(ないつう)の子細(しさい)有(あり)けれ共(ども)、若(もし)恃(たばかり)やし給ふ覧(らん)とて、坊門(ばうもんの)少将雅忠(まさただ)朝臣は、寺戸(てらど)と西岡(にしのをか)の野伏共(のぶしども)五六百人(ごろつぴやくにん)駆催(かりもよほ)して、岩蔵辺(いはくらへん)に被向。去程(さるほど)に搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、未明(びめい)に京都を立給(たちたまひ)ぬと披露有(ひろうあり)ければ、大手(おほて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)、「さては早(はや)人に先(さき)を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷(こがなはて)の、馬の足もたゝぬ泥土(でいど)の中へ馬を打入(うちい)れ、我先(われさき)にとぞ進みける。尾張(をはりの)守(かみ)は、元(もと)より気早(きばや)の若武者(わかむしや)なれば、今度の合戦、人の耳目(じもく)を驚(おどろか)す様(やう)にして、名を揚(あげ)んずる者をと、兼(かね)て有増(あらまし)の事なれば、其(その)日(ひ)の馬物(もの)の具(ぐ)・笠符(かさじるし)に至(いたる)まで、当(あた)りを耀(かかや)かして被出立たり。花段子(くわどんす)の濃紅(こきくれなゐ)に染(そめ)たる鎧直垂(よろひひたたれ)に、紫糸(むらさきいと)の鎧金物(よろひかなもの)重(しげ)く打(うつ)たるを、透間(すきま)もなく着下(きくだ)して、白星(しらほし)の五枚甲(ごまいかぶと)の吹返(ふきかへし)に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透(ほりすか)して打(うつ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、当家累代(たうけるゐだいの)重宝(ちようはう)に、鬼丸(おにまる)と云(いひ)ける金作(こがねづくり)の円鞘(まるざや)の太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の太刀を帯(は)き添(そへ)、たかうすべ尾(を)の矢(や)三十六(さんじふろく)指(さい)たるを、筈高(はずだか)に負成(おひなし)、黄瓦毛(きかはらげ)の馬の太く逞(たくまし)きに、三本(さんぼん)唐笠(からかさ)を金具(かながひ)に磨(すつ)たる鞍(くら)を置き、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)の燃立許(もえたつばかり)なるを懸け、朝日(あさひ)の陰に耀(かかやか)して、光渡(ひかりわたつ)てみへたるが、動(ややもすれ)ば軍勢より先(さき)に進出(すすみいで)て、当(あた)りを払(はらつ)て被懸ければ、馬物具(もののぐ)の体(てい)、軍立(いくさたち)の様(やう)、今日の大手の大将は是(これ)なめりと、知(しら)ぬ敵は無(なか)りけり。されば敵も自余(じよ)の葉武者共(はむしやども)には目を不懸、此(ここ)に開(ひら)き合(あは)せ彼(かしこ)に攻合(せめあひ)て、是(これ)一人を打(うた)んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者(うちものたつしや)なれば、近付(ちかづく)敵を切(きつ)て落す。其勢(そのいきほ)ひ参然(さんぜん)たるに辟易(へきえき)して、官軍(くわんぐん)数万(すまん)の士卒(じそつ)、已(すで)に開(ひら)き靡(なび)きぬとぞ見へたりける。爰(ここ)に赤松の一族(いちぞく)に佐用(さよ)佐衛門三郎範家(のりいへ)とて、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、野伏(のぶし)戦(いくさ)に心きゝて、卓宣(たくせん)公(こう)が秘(ひ)せし所を、我物(わがもの)に得たる兵(つはもの)あり。態(わざと)物具(もののぐ)を解(ぬい)で、歩立(かちだち)の射手(いて)に成(なり)、畔(くろ)を伝(つた)ひ、薮(やぶ)を潛(くぐつ)て、とある畔(くろ)の陰(かげ)にぬはれ臥(ふし)、大将に近付(ちかづい)て、一矢(ひとや)ねらはんとぞ待(まつ)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)は、三方(さんぱう)の敵を追(おひ)まくり、鬼丸(おにまる)に着(つき)たる血を笠符(かさじるし)にて推拭(おしのご)ひ、扇(あふぎ)開仕(ひらきつか)ふて、思ふ事もなげに扣(ひか)へたる処を、範家(のりいへ)近々とねらひ寄(よつ)て引(ひき)つめて丁(ちやう)と射る。其(その)矢思ふ矢坪(やつぼ)を不違、尾張(をはりの)守(かみ)が冑(かぶと)の真甲(まつかふ)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)に当(あたつ)て、脳を砕(くだき)骨(ほね)を破(やぶつ)て、頚(くび)の骨のはづれへ、矢さき白く射出(いだし)たりける間、さしもの猛将(まうしやう)なれ共(ども)、此(この)矢一隻に弱(よわつ)て、馬より真倒(まつさかさま)にどうど落(おつ)、範家(のりいへ)箙(えびら)を叩(たたい)て矢呼(やさけび)を成(な)し、「寄手(よせて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)をば、範家が只一矢(ひとや)に射殺(いころ)したるぞ、続けや人々。」と呼(よばは)りければ、引色(ひきいろ)に成(なり)つる官軍共(くわんぐんども)、是(これ)に機を直(なほ)し、三方(さんぱう)より勝時(かつどき)を作(つくつ)て攻合(せめあは)す。尾張(をはりの)守(かみ)の郎従(らうじゆう)七千(しちせん)余騎(よき)、しどろに成(なつ)て引(ひき)けるが、或(あるひ)は大将を打(うた)せて何(いづ)くへか可帰とて、引返(ひつかへし)て討死(うちじに)するもあり。或(あるひ)は深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こうで、叶(かな)はで自害(じがい)するもあり。されば狐河(きつねがは)の端(はた)より鳥羽(とば)の今在家(いまざいけ)まで、其(その)道五十(ごじふ)余町(よちやう)が間には、死人(しにん)尺地(せきぢ)もなく伏(ふし)にけり。
○足利殿(あしかがどの)打越大江山事 S0903
追手(おふて)の合戦は、今朝(こんてう)辰刻(たつのこく)より始ま(ッ)て、馬煙(むまけぶり)東西に靡(なび)き、時(とき)の声天地(てんち)を響(ひび)かして攻合(せめあひ)けれ共(ども)、搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、桂河(かつらがは)の西の端(はた)に下(お)り居て、酒盛(さかもり)してぞおはしける。角(かく)て数刻(すこく)を経(へ)て後、大手の合戦に寄手(よせて)打負(うちまけ)て、大将已(すで)に被討ぬと告(つげ)たりければ、足利殿(あしかがどの)、「さらばいざや山を越(こえ)ん。」とて、各(おのおの)馬に打乗(うちのつ)て、山崎の方を遥(はるか)の余所(よそ)に見捨(みすて)て、丹波路(たんばぢ)を西へ、篠村(しのむら)を指(さし)て馬を早められけり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)中吉(なかぎりの)十郎と、摂津国(つのくに)の住人(ぢゆうにん)に奴可(ぬかの)四郎とは、両陣の手合(てあはせ)に依(よつ)て搦手(からめて)の勢の中に在(あり)けるが、中吉(なかぎりの)十郎大江山(おいのやま)の麓にて、道より上手(うはて)に馬を打挙(うちあげ)て、奴可四郎を呼(よび)のけて云(いひ)けるは、「心得ぬ様(やう)哉(かな)、大手の合戦は火を散(ちらし)て、今朝の辰刻(たつのこく)より始(はじま)りたれば、搦手(からめて)は芝居(しばゐ)の長酒盛(ながさかもり)にてさて休(やみ)ぬ。結句(けつく)名越(なごや)殿(どの)被討給(たまひ)ぬと聞へぬれば、丹波路(たんばぢ)を指(さ)して馬を早め給ふは、此(この)人如何様(いかさま)野心(やしん)を挿給(さしはさみたまふ)歟(か)と覚(おぼゆ)るぞ。さらんに於ては、我等何(いづ)くまでか可相従。いざや是(これ)より引返(ひつかへし)て、六波羅殿(ろくはらどの)に此(この)由を申(まうさ)ん。」と云(いひ)ければ、奴可四郎、「いしくも宣(のたま)ひたり。我(われ)も事の体(てい)怪しくは存じながら、是(これ)も又如何なる配立(はいりふ)かある覧(らん)と、兎角(とかう)案じける間に、早(はや)今日(こんにち)の合戦には迦(はづ)れぬる事こそ安からね。但(ただし)此人(このひと)敵に成給(なりたまひ)ぬと見ながら、只引返(ひつかへ)したらんは、余(あまり)に云甲斐(いふかひ)なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭(いふまま)に、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつがひ)、轟懸(とどろかけ)てかさへ打(うつ)て廻(まは)さんとしけるを、中吉(なかぎり)、「如何なる事ぞ。御辺(ごへん)は物に狂ふか。我等僅(わづか)に二三十騎にて、あの大勢に懸合(かけあひ)て、犬死(いぬじに)したらんは本意歟(か)。嗚呼(をご)の高名はせぬに不如、唯無事故引返(ひつかへし)て、後(のち)の合戦の為に命(いのち)を全(まつたう)したらんこそ、忠義を存(そんじ)たる者也(なり)けりと、後(のち)までの名も留(とど)まらんずれ。」と、再往(さいわう)制止(せいし)ければ、げにもとや思(おもひ)けん、奴可(ぬか