瑠璃光             与謝野晶子 栄華など見も知らざるにおぼつかな捨てんと神に子の誓ふかな 堂の奥天主の前に進むなり代母の被衣わが子の被衣 或時はわれよりよきを知らねども今日子に引かれマリヤを拝す われもまた天主に子をば奉るもの思ひする人に似るなと 母に似ず地獄と云へるところをば幻にだに見も知らぬ人 わりなくも尼君達の歌声に涙流しぬ子の死ねるごと 御堂なるもの皆いみじふらんすのわが長老のやまと言葉も 少女子の祈りの心集まればましてマリヤの御像光る 尼君の黒き衣は身じろぎにそよとも鳴らずいみじかりけれ 尼君の握手を賜ふ広間より涼しき国はあらじとぞ思ふ あぢきなき砂子の花と思ひつつ哀れになりぬ山女郎花 鈴虫を飼ふにふさへる美くしき子の少年のむらさきの帯 めでたかる今日の女王にあらぬごと人に語らんこし方も無し 年月を数へ給へと云ふ人に逢へることのみ昔に変る 心のみ思ひ上りてありしなど昔を云ふはあはれなるかな こし方の華やかならばかへり見て嬉しからまし悲しからまし 一隅の心と云へる暗室が総てとなればあぢきなきかな 水色に灰色の層かさなりしそれも昨日の明るさにして 初めより死ぬ命などもたざりし石のたぐひに変るばかりぞ 一生の大道と云ふところにはあらぬ小径のなつかしきかな はかなさの慰むばかりめでたかる友染どもをもてもこよかし 今日著れば夏より馴れし麻なれど秋の大気に触るるここちす 朝ゆふべ言はん言葉に代へて著る女の衣の美くしきかな 二三人しろき浴衣の人ありて月明のごとすずし山荘 八月の富士の雪解の水湛へ甲斐の谷村を走る川かな (以下甲斐国にて) 末遠き桂の川も富士の嶺の雪解の水の行く道にして をかしけれ浄衣のむれのあと踏みて下の吉田を歩めることも 草高き原のおもてを風吹けばまぼろしの如馬車の現る いみじかる雲に向ひて船出する船津と覚ゆ川口の湖 石門に第一境と書きし人入りつる道をわれも求めん 人間を心におかず山風の騒ぐところに入りぞはてぬる ラバ黒しこれをば山の涙ぞと昔は見けん火なりしなれば 焼石の西湖の根場に船寄りてあはれあはれと身の思はれぬ 見かへれば西湖の磯に寄る泡のほのかに白く続きたるかな つぎつぎに湖水を越えてゆく道のさびしくなりぬ八代の郡 ラバ落ちて欠けたる湖水全きに変ることなく哀れなりけれ 焼石もさびしき時のあるならん同じところに寄りもつどへる 片側に烏黒の泡のたまるなりラバと知れども悲しき湖水 低き木の柵めく門の内側の精進ホテルの山百合の花 輿にして烏帽子が岳を逍遥す身につもりたる憂愁のはて もろしてふ沙羅の花をば手にとればことわりのままくづれけるかな 散るをのみ見て沙羅の木の栄華をば眺めぬことも寂しかりけれ その木とも見ん梢無し雲間より落ちしと云ふにふさはしき沙羅 朝山の清き雫のここちする擬宝珠の花のつづくきりぎし 路やがて遠き信濃の国見ゆる山の背後に移りたるかな 奥山の毒うつぎとて女郎花萩桔梗よりあてなるが立つ 美くしき指紋の如く雪残る信濃の山の見ゆる路かな まだ知らぬ冷たき風の登りくる渓を覗けば見ゆる湖 本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く いと深き水がとどむる影のごと静かなるかな本栖の山は 本栖の湖地にしたたりし大空の藍の匂ひのかんばしきかな 本栖村清水に代へて湖を汲むと云ふなり三十戸ほど 空破れ富士燃ゆるとも本栖湖の青犯されず静かならまし 青木原あまねく陰の色となり信浪の山に雪ぞきらめく わが思ひ及ばぬ山の起き伏しを甲斐と信濃の中に眺むる 甲斐の国霜の中なるむら山の青鈍色のなつかしきかな 上なるは明るく山の底なるは青繻子色の四つのみづうみ そことなく筆触りほどもり上りかつ動かざる青き湖 明眸に勝る色をば作らんと塗りたる山の底のみづうみ 末とげぬはかなごとには似るも無し山の風物重りかにして 湖の烏帽子が岳の背にあるを青雲としてめでぬべきかな 富士川の白き腕は舞ふ雲と千草の底におぼれはててき なつかしき烏帽子が岳の草の肩うつるところに船夫われを待つ 本栖湖は山のあなたとなりにけり青春のまた見がたきがごと くれなゐの毒うつぎをば湖の小舟に置けば美くしきかな 山山を船夫指させど身に沁むは精進の浜のくらき焼石 ほととぎす樹海の波につつまれてうらやはらかく鳴ける黄昏 湖の一ところをば赤くして精進の村に灯のつきにけり 精進村ともし灯つきぬ鶯にうみて夜に入ることを急ぐや 日落つるとともに不思議はかき消えて富士むら山の一つとなりぬ 雲うごく富士ゆゑ心おちゐねば松籟山をいでて眺むる 山を見て愁ふる時に少女来て白き扇をとらせたるかな 大佐より樹海のラバを巧妙に踏みつる馬の話など聞く ほの白き天の川をば見に出でて夜鳥の啼くに逢へる寂しさ いつしかとわが花ごころ根も枯れて旅にこしやと夜の哀れなり 枕上窓のよろひ戸あかつきの樹海の風の末端に鳴る 暁は雲はた水も動かずて死の荘厳のここちこそすれ 白雲のうつるところに小波の動き初めたる朝のみづうみ 湖は杉をうつしてきはやかに孔雀の紋の作らるるかな 潮鳴る音にくらべて寂しけれ樹海の風は一しきりにて 世に知らぬ寂しき風の音立つる樹海を半雲おほひけり 湖をすべてななめに覗きたる撫の林のながき路かな 山高きところなれども地の底に湖畔は似たり精進の夕 白雲は富士の珊瑚の頂を少しくだれるきはに臥床す ほの赤き小舟ばかりの影となり富士のうつれる暮方の水 去る雲も枕さだめて寝る雲もあてに振舞ふ富士の夕ぐれ 富士の嶺の裾野の雲に北海の猟虎の群もまじりてぞ行く たそがれの風に靡くは岩山の蝋石色のつめたき玉簪花 湖の冴えたる上にうち曇る樹海の波をおける寂しさ ほととぎすホテルの裏の花畑に臨める富士は紫にして その昔ラバの流れし日の熱を水は思はずあまりに冷えて こざかしく死をかたどりて焼石のありかくばかり醜くからんや それぞれの中に入日を負ひて立つ松籟山の深き暗色 動かざる愁ひとなりぬ寂しなど思ひし頃に似ざる旅かな 山めづる心の外のこころより朝暮の霧の身にも沁むかな 旅の日の朗らかにして寂しけれ苦しかりしもなつかしきかな われいたく異ることを思はずて富士の麓の湖畔にいねん 朝山の霧のしづくの松が枝にかかるを見れど湖の無し 御空をば引くや大地の引かるるや霧の中なる赤松の綱 藍色の濃霧の中に返の枝はつはつ見えてうぐひすぞ鳴く 包みつる霧よりいのち返されて走りいでくる湖の●(「船」カ?) 限りなく富士より雲のひろごりて人ははかなき物思ひする 二三人うすごろも著て遊ぶなり富士に対する赤松の台 曇れどもなほ真近きは玻璃の質失はぬなり朝山の雲 赤松が七つの条を引きたれば七間ほどの富士と云はまし 富士にある雲のひかりと赤松の精進の山の相てらす昼 日昇りて白き光にしびれ行く湖上の浪の見えわたるかな 自らの若さに飽くを知らねども山の青きに飽く日もあらん さながらの形に富士をつつみたる真白き雲のをかしき夕 うぐひすや富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ 船にさすからかさ重し湖へ富士の雲皆おちんとすらん 川口の湖上の雨に傘させば息づまりきぬ恋のごとくに 雲さわぐ裾野が原に萩の花唐紙の紅の色したる立つ わが目には暗きところの見えずして白くさびしき山中の湖 そこばくの隔りをおき見る水の色は雲より寂しかりけれ 行くところ見がたく霧の迫りきて草の匂ひの立ち迷ふかな 富士の雲つねに流れて束の間も心おちゐぬ山中の湖 から松のところどころに屯する裾野が原に霧くだりきぬ 籠坂の峠に及び見かへれば雲に引かれてなびくみづうみ 雨こぼれ葡萄の色の山の霧うづまくもとの籠坂の路 (以上) ひと本に思ひあまれる紅き花あまたつけたるアマリリスかな 刺しつれば禍の矢と思ひつれ傷の口より薔薇流れ出づ 心をも綾の衣がやはらかにつつむと知りぬ女人と生れ 西方に浄土をもたずいつとなく男の胸に天堂を置く 人の世を浮べる雲といひなすはなまめかしかる教へなるかな 恋しきは近きいにしへ忘れんと涙流すもそのほどのこと 消息に墨のしづくの散るものかささやかなれど魔の形して 愁ひつつめでたきことを思ひつれその世を今になすよしもがな 燃え立つも消え行くことも目に見えぬあてなる恋の焔なるかな 恋すればわれも五彩の円光を負へる仏のここちこそすれ 第一の獅子に乗りたる魔王をば捕虜としたるそののちのこと 黄金の恋のこころが流すなる紅き涙よつきずあれかし 金閣寺北山殿の林泉にいつ忍び入り咲ける野薔薇ぞ 大徳寺唐の格子のあひだより皐月の光させばめでたし ほととぎす踏むにならはぬ白けたる京の御寺の簀子にて聞く 加茂川の夜の灯なんどは数ならず大極殿の柱めでたし 山よりも御所の木立の黒めるがなまめかしけれ西京の夏 故郷を雪ぐもりする一月の末に見捨てて海行かん君 (以下茅野蕭々子との別れに) やるは憂しうまごの世まで帰りこぬ浦島と云ふ人ならねども 身の弱く二とせほどの別れにも怪しきことを歎きとぞする 君見よと烽火を揚げんさかひにもあらず心のうちに忍ばん かへり見をしつつ行けかし此方へは海賊船のごと走せてこよ (以上) 山の水熊の胆とも云ふ味を少し混へて悲しかりけれ なだれすれ雪に当てたる日の鑿のここちよげにも見ゆる昼かな こちたかる丹塗の箱の後ろより蟷螂いでぬ役者のやうに 天の川いつ見え初めんあきつなど飛びかふ空の青き夕ぐれ 暑き日や煉瓦の塀の古りたるに忍草しげれる庭の北がは 七月の夜能の安宅みちのくへ判官おちて涼風ぞ吹く 吹くとなく紅き木の葉に従へる山風ありて霧の晴れ行く 勢につかで花咲く野の百合は野の百合君はわれに従へ 大学に行くなかれなど云ふ人をあらしめぬこそうらみなりけれ 大学は毒舌の罪きはまりて追はるるきはもめでたかりけれ 語らへばゆふべの空に月出でぬ骨牌の王の横顔をして 大路より杏仁水の夕の気ながれよりくるわが白き窓 人と居ていつしか明日のあることを忘るるまでの甘き夜となる 冬の日の倒るる如く落ち行けば空虚に残る裸木と人 初秋や月光荘のおしろいとこころの通ふ夕ぐれの風 いつまでも月光荘のおしろいの香に夢を見る我身ともがな なつかしき秋の山辺のしら雲をおしろい執りて思ふ人かな われに似ずこよなく思ひ上りたる水おしろいの香ぞと覚ゆる ひなげしを分けて出でこしめでたさも忘れ去るべき世のここちする 夏の花漫りに咲くとなげくなりいつより心変りはてけん 散りし罌粟男に負けし形してなほ自らを捨てぬめでたさ 六月や長十郎と云ふ梨の並木に立ちて明きみちかな 時は午路の上には日かげちり畑の土にはひなげしのちる 温室に入ればメロンのかかりたり豊かなれども花に勝らず ありなしの煙の如くゆらめきてかかる葛をくぐる温室 丹の塔を五つの弁が護りたるこころも知らず南国の蘭 たぐひなくな忘れ草の日の澄めり頼むところの深きなるべし 少年の花菱草に蝶の寄り蜂のきたりてうづまきの立つ 丘の上雲母の色の江戸川の見ゆるあたりの一むらの罌粟 隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな をとどしの弥生の末のことを云ふ木草に逢ひてなつかしきかな 白薔薇は真紅の薔薇に気上りしわれの涙に従ひておつ 知りがたきことを究めて薔薇の散り智慧に触れざる雛罌粟も散る 天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花 二三人紅き野薔薇の傘形のあづまやに入りよく笑ふかな ひなげしと遠く異る身となりぬ松戸の丘に倚りて思へば くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし 人の云ふいつはりにだに動きゆく心と見ゆるひなげしの花 雛罌粟はたけなはに燃ゆあはれなり時もところも人も忘れて 浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ 眠れるや覚めて思ふやうまごやし安き心のわがうまごやし 白まじり雲したたりし花と見え菖蒲咲くなり低き畑に 紫のあやめがわれを描くなり若き友をばひなげしの描く 菖蒲よりけしの畑に通ふみちほのかに濡れてなつかしきかな 花園は女の遊ぶところとてわれをまねばぬ一草もなし ことやうに縞萱なびく信州のかの連山の雪をおもへと 夏の日の未の刻もすずしけれ繻子の芝くさ縞萱の帯 むらがれる金鶏草に影と云ふくらきもの無し靡けど寄れど 黒めるは終りに近き罌粟なれど美くしきこと初めに倍す 昨日のあたひを知らぬひなげしの盛りの花と思ひけるかな ひなげしが飲みしめでたき薬をば人も服してその毒に死ぬ ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る うすものの女の友を待ちえたる松戸の丘のひなげしの花 風立てば草の花皆馳するなりわが目の前の五千里ばかり こちたかる黒船に似る実を結び変りはてたる園のえにしだ 酔態の朴の花こそめでたけれいやしき土の二ひろの上 花束を抱けばかよわきひなげしの脚こぼれいでわりなかりけれ 松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝 死なんとも云はで別れし人故に思ひ上りもなくなりにけり (以下有鳥武郎氏を悲みて) 君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はば人怪しまん 書かぬ文字言はぬ言葉も相知れどいかがすべきぞ住む世隔る しみじみとこの六月ほどもの言はでやがて死別の苦に逢へるかな 末つ方隔てを立ててもの云ひき男女のはばかりに由り なつかしき書斎の戸口閉ざされし前にはかなき人の身を泣く 難ずれば泣きうべなひて思ふ時亡きまぼろしの笑むここちする 信濃路の明星の湯に友待てば山風荒れて日の暮れし秋 山荘の終焉の室何故に一目見にけんそのむかしの日 ゆくりなく君と下りし碓氷路をいつしか越えて帰りこぬかな 客中の君が消息山陰の海にもまさりさびしと書ける 赤倉に野尻の湖を見しほどのさかひにせめて君のおはさば わが泣けど君が幻うち笑めり他界の人の言ひがひもなく とこしへの別れと知らず会場のロオランサンの絵の方に来し から松の山を這ひたる亡き人の煙の末のここちする雨 鈍色の空を眺めてある外のいみじきことを知らぬこの頃 (以上) 大地をば愛するものの悲しみを嘲める九月朔日の天 休みなく地震して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街 光明を捨てし都がみづからを焼く焔上げあかくすれども わが立てる土堤の草原大海の波より急にうごくなりけり おぼろげのものと不思議を思はざる心となりて悲しかりけれ わが都火の海となり山の手に残るなかばは焼亡を待つ 凶器をもつてふことはさしおきて天に比するに足らぬ人間 身の生くる幸あるやあらざるやわが唯今の大事とはこれ 地震の夜の草枕をば吹くものは大地が洩らす絶望の息 一瞬にして都焼くもろしてふ心にだにもたとへがたかり 大正の十二年秋帝王のみやことともにわれほろび行く 天地崩ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき 道行くは目ざすところのある如しうづくまる身のあはれならまし 地震の夜半人に親しきこほろぎのよそげに鳴くも寂しかりけれ この夜半に生き残りたる数さぐる怪しき風の人間を吹く 地ほろぶるこの期にいたり泣く涙いささか甘くおもほゆるかな 月もまた危き中を逃れたる一人と見えぬ都焼くる夜 みづからの乱れ心の相をして都の半燃え立ちにけり 誰見ても親はらからのここちすれ地震をさまりて朝に到れば 地震の夜は茅草のごとくろ髪のしとどに濡れて明け行くもかな(ママ) 天地の大動乱の一部をばなさんがために人やふためく 身ゆるがし地の苦悩する悲しさよともに死なんと云はまほしけれ 空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月上りきぬ 天変がもたらすことの何なるを知らぬものなきけしきなるかな 傷負ひし人と柩が絶間なく前わたりする悪夢の二日 われの身に劫火の来り及ばぬを知りつる後に心おちゐず 人あまた死ぬる日にして生きたるは死よりはかなきここちこそすれ なほも地震揺ればちまたを走る人生きとげぬなど思へるも無し 露深き草の中にて粥たうぶ地震に死なざるいみじき我子 都焼く火事をふちどるけうとかるしろがね色の雲におびゆる 死ぬるもの幾万と聞くなげけるは数なきまでの数にこそあらめ 愛憎の極度のものを運命がほしいままにも現せるかな こころをばいまだ知らねど妖雲のたつみの方に盛り上りたる 魔の鳥が火の翅のべ羽ばたきす正目に人の見うべしやこれ 立つと見る家のただちに焼亡す火の泉より火のほとばしり 地震と火のややしづまりて雨降りぬあらぬ姿の都の上に たのみなく拠りどころなく人の身をわが思ふこと極りにけり この都三日三夜燃えてただわれのわななく土を今残すのみ 人の子を地より追はんとするものの力に抗すその群この群 帝王の都の灰となりしのち空行く雲もあはれなるかな ニコライの四壁の上の大空を雲ぞ流るる覗きに寄れば 天変のいと大きなるものに逢ひさらに寂しき心となりぬ 禍ひを与へて心たのしまぬ空のけしきとかつあはれなり あな悲し逆まに地の回転すいかにかならんいかにしてまし きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰 焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡 十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰 わが心旅人よりも哀れなり焼けたるのちの駿河台行き あぢきなきこの焼土に東京の芽のいでんとも思はれぬかな ニコライの塔のかけらにわれ倚りて見る東京の焦土の色 もろもろのもの心よりかき消さる天変うごくこの時に逢ひ 東京の銀座の跡のやけつちの横につらなる地平線かな かくてなほ無限の時をもつことに誇る自然のうとましきかな 焦土よりすでに都の興るとよわれの築くはそれに似ぬかな 病より癒えつつ寂し大いなる水を渡りてこし身のやうに 箱根路の大涌谷の劫風の身に沁む罪をただ一つ持つ 夕ぐれは煙の質の薄とてうしろの山に紛れけるかな 鈴虫がいつこほろぎに変りけん少しものなどわれ思ひけん 高山の秋草の原ゆふやけが紅き縁とりなまめかしけれ はてもなき大地の月夜そことなく浮きただよへる虫の声かな しろがねにいまだ至らず初秋はつりがね草の色といはまし こほろぎが清く寂しく鳴きいでぬ雲の中なる奥山にして あるが中に恋の涙のわれもかうわれの涙の野のわれもかう 松山に蔦の臙脂のひろごりて秋の朝のすずしかりけれ 美くしく我等の前に撒かれたりアポロの符のひなげしの花 昨日を司りたるものありきかく思ふのみ寂しけれども わが上の不思議を見よと思ふ日も愁ふる如く人の云ふかな 手の上の砂に勝らずとく尽きし夏の初めの夕がたの雨 昔より樫の梢に住みなれしさますまことは遠き灯にして 雑草や柄のある星をもてあそぶをかしきものも混りたるかな おりたちて水を灌げる少年のすでに膝まで及ぶ向日葵 秋草の山のぼる馬花を折りかかへて降る浅間の少女 人来り焼けし木立に呉竹を添へぬ生死の絵巻かこれは 夏の夜の紫玉の中に休らへり白鷺のごとうつくしき月 紅玉の重き沓をばうがちたり羽は得がたき宿命と知り 故ありて苦しき人と故ありて楽しき人となりにけるかな 人はいざわれは心の曲線のうつくしさをば悟るといはん 昨日の栄華の屑の身なりとも思ひなさまし寂しきに過ぐ わが生くる乳の如くに思ひつる豆相の山の温泉も崩ゆ 月射すや投げたる網のひろがれるはかなきさまのあはれ東京 初夏のいみじき風にとらへられしらじら散りぬ日の前の雨 故郷の北に向へる窓ありぬ友の祈祷の室のあはれなり 祈祷の室神は知らねどあはれなり友の涙の沁みぬと思へば 淋しけれイエスの弟子の片はしに備りてより愁へぬ友も むさし野の野方の村を踏むと云ふことにはまして身に沁みし路 夏の霧地を這ひ歩き濡らしけん欅の涙つたはりにけん 雨降るや丘低くして滑らかに畑林などつらなる武蔵 信濃にて逢ひつる雨の匂ひして身の濡るるこそ哀れなりけれ 一ところ卯木は刈らず縛めし野方の畑の麦の中みち むさしのの野方の路に雨降りぬ六月いまだ涼しきゆふベ 美しき少女をたたふドン・フアンも光源氏も憎むに足ると 黒髪は哀れなりけり何ごとか異ることに思ひ入りたる うすものはタンゴを踊る細腰に薔薇は真白きたなぞこに見ん 夕立にてまりの花の濡るる見て湯浴ままほしくなりにけるかな あてやかに白き扇の羽ばたけるたそがれ時の内房の縁 黒檀の卓水に似ぬ白鳥は棲まねど手など頬などうつして 湯の街の暗き湯小屋に夕顔の湯浴みてあらばをかしからまし なほ覚めぬ夢見給ふと見ゆるなり藤むらさきのうすものに由り パラソルのめでたき下に居給はで人は車上に移りけるかな うすものや何処の王のかたはらへ行くや芝居の廊のいく人 うす暗き病の洞に自らの身を投げ入れてこし方と断つ 悲しめば病を得ると云ふことに思ひいたらで人のあれかし 病にもうつし心よ無くならで身の若しやと歎かれぞする 病して後の心の知りがたし思ひ入るなど云ふことも無き 氷をば枕に敷けど寒からず病むべかりけりもの思ふ人 病みてより夜と昼との連続のわづらはしけれ常闇となれ いく人におのれ後れて歎くまに先立つ人となりぬべきかな わが常の病室よりも昼明く夜の灯のくらし病院の閨 思へらく山に飽きたる人ならん廃墟の土に隣りて寝るは 焼跡の神田の町の病院のいと不思議なる朝ぼらけかな われ病めは嗅げども触るる匂なし秘密の花にあらぬ薔薇さへ 焼土をすこしならせる病室の前に歪める煉瓦の炉かな 東京も上総もさびし稀にかくもらし給ひぬ鶴所先生 石の床崩れし炉をばロオマかと興じがたしや先生見れば 先生は痛き足のみ歎きます寂しきことはせんなしとして 目開けば先生ましぬこの庭に芍薬の芽をうつさんがため 病する耳が聴くなる騒音とさま変りたるさびしきこころ まばろしに廻廊建ての水荘の目にも見ゆるは何のつづきぞ 筑紫より帰りし友を見ることも病めば悲しきこととなりぬる 紫の揃ひの日傘もたらして友かへれども足立たぬかな 焼けし棕梠黒髪のごと光りつつ筆の形に立ちて雨降る 雨の夜に六番町の使きぬむかしの君がしたまひしごと 花あまた人贈りくる病室にとりたがへても寝るにかあらん ふらんすの煙草とるこの煙草など味ふごとし雨の雑草 その際の手術の室の光景を居合せし子のまた語り出づ そことなく病める湖畔はなまめかし名ある病は限りあれども ニコライも既に廃墟となりぬれば鐘おとづれず病院町に 廓の灯の無果花の木の乳のごと青く濁りて射せる病室 末の子も病しつるが七日してわが枕辺にめでたくも泣く そのかみの広間の高き礎とむかひて寝るがあぢきなきかな 或家の塔ただ一つその外は形ともなきやけあとの土 火事あとの前栽の石ラバに似ず白く悲しくまろがれるかな むらがりて蕗の生ひしも哀れなりありつる火事の焼土なれば 涙盛る小さき器のありと聞く海の姿と思へるものを 今日癒えて病院を去る人見てはうごく心もはかなかりけれ 病院の仮屋の廓を朝踏むも憎き夢とは思はれぬかな 森の木が皆火を噴けりしづかなるところを胸に描けるなれど 階上や八人の中に相思樹の作者をさぐる春の夕かぜ 風吹けば見え隠れすれありしのち東京の灯も船の灯のごと あぢきなし夜に押されて地に近く点る灯がちとなりし東京 かくもわれ低き机によりながら恋をしながら死にてゆかまし 煙草よりうすものの如ひるがへる煙の立ちて愁はしきかな 海のごと花を落せどなほ紅し太陽に似るめでたき椿 鉢の花壺の花みな息づきぬ思ふことをば休めて見れば わが女王太子の宮に入りませるいみじかる夜の春の雪かな ある限り劣りて咲ける花も無しあさましきかな荘園の薔薇 薔薇を嗅ぐ蘇りたるあかつきの大気もこれに似んここちして 心にてほしいままなる恋するはなど罪あらん紅の薔薇 紅薔薇は真白き薔薇が大鳥の夢を見るごと人を思へる たくましき宵の明星いでてきぬ薔薇にくらべて品劣れども 仮にだに寂しきことの混らざる身と思ひなし薔薇とある時 まぼろしの薔薇咲きめぐる日もありて衰へぬなど思はれぬかな 荘園の薔薇を日ごとに送られてうらなつかしき冬ごもりかな 薔薇の花今や終の近づきて限りも知らず甘き香を吐く 岡崎の蒼龍白虎めでたけれ夏の月夜のややふけしほど 玉よりも美くしければ涙ぞと定めぬ夏の山の清水を 桂川水おもむろに動けども船はしたなく流れんとする (以下上野原に遊びて) 空またく山に没してほのぐらき渓間の船の十人の客 桂川富士よりいでて濁流に終るとな見そ雨降るものを 山百合のあまたの蕾水晶のごとかがやける水上の岩 雨の過ぎ斑に濡れし岩を見てさびしくなりぬ川の逍遥 きりぎしの岩半まで影のごと暗くも濡れて山の鳥飛ぶ 山の雨降りとどまれと甲斐の岸相模の岸にうぐひすぞ啼く 峡谷に入りたる船を安からず下に思へばさむし山かぜ 石の根の涼しき紺に身を置ける山の鶺鴒山百合の花 めでたくも隼のごと一瞬に龍門峡をいでしふねかな 船すでに龍門峡をいでつれば広き空より雨降りてきぬ いと広くトロが通へる棧橋の這ひたる末も見がたき河原 幾筋となく川分れあまりにも広く寂しき甲斐の川かな 月見草うす墨色の山を負ひあはれなれども族多く居ぬ 船下り岩殿の山ちかづきぬ少し烈しきしぶきの中に 御前山犬目の奥に遠山を見せんとしつつやみし雲かな 船の先橋板にまで及ぶ日のかつらの川の高き水かさ 雨降るや水と河原の入りまじりはてなく広き山川にして 雨降れば甲斐絹の機の絹糸のうるめる白に似るかつら川 灰色の川の続きにむら山の見え隠れして馬橋を行く きりぎしと言はんばかりに傾きて冷き川の板の仮橋 萩紅し二つの船のある水にいたる河原のとほき山川 山川の真白き浪にまもられて船あてやかにとどまれるかな 朧にも降りみふらずみすなる雨まして大河の上のあやなさ 大河の水彼方をば青く行きささ濁りしてここに渦まく ひたひたと蛇籠に寄りて行く浪のやや常ならで雨船を打つ 針金に引かれて船の通ひたる渡しのあとのほそき継橋 月見草水の難にも逢ふ日かと満船の客あやぶめる時 かつら川彼処に此処にうづまきす三時がほどに濁流となり 日の三時雨に引かれて川浪のわりなくまさり富士おろし吹く 甲斐の雨真白く打たで河原をばうす紫にぼかす寂しさ 水ぐるまいと華やかに夕立の中にめぐりてうぐひすの啼く 河原より華奢を極めて水車めぐると見たる細流もこゆ 十余人つづきて山の路行けば夕立を撒く榛の枝かな 千年の榎の枝に掛けられしやぐらめきたるわが宿屋かな 蝉涼し忍草生ひたる板屋根を百尺低く見て立つ榎の木 虹いでぬ榎の下に否あらずわが甲斐路より相模にわたる 左なる榛の林に玉の輪をかくる紅かな高きに見れば ひぐらしと清水の音と甲斐の雨降りしく音に山暗くなる わが車月のひかりと横雨をこもごも浴びぬ山国を行き (以上) 来し春に興る都と並べましわが楼台は目に見えずとも そくばくの心萎へてある人に春の光よあまねくわたれ 家家が皆何事か思ひたるさま変りたる春も見るかな 思へらく今年は去年に繋がれず飛躍の後に至りしなれば 空晴れて春の初めとなりにけりかにかく去年を忘れましわれ 忘れてはいかなる国の都ともわきまへがたし銀座の春も 阿蘇山のやけ土原をあゆむよりさびし都の八百八町 東京の廃墟を裾に引きたれば愁ひに氷る富士の山かな 富士の山代代木が原の仮小屋のつらなる上に愁ひつゝ立つ 曇るなり冬の心のなほ絡む正月の日と云はまほしけれ 波のごと薄金の尾根うち並び昆布と見ゆる焼けたる樹木 われ故に動く空とは思はねど春日曇りてあはれなるかな 紫の女の襟の中にまでしみとほりくる廃墟のさむさ その日より夢見ることも忘れつれ春よおのれを新しくせよ 黄昏れてうすく仄かに霧降れば旅の空めき悲し東京 ありしのち家低くして海に似る都なれども春の日を抱く 新しく春に逢ひたる花鳥の思ひを染めん百種のころも 今年より孔雀の鳥の緑をば人の少女も羽にすと聞く 宵過ぎし雨をききつつ思ふなり奈落と云へるやはらかき闇 降りつづく雨の世界に身を置くもふさはしきかな悩ましくして 大空も曇り日がちとなりにけり苦しかりつる年のくれ方 春と云ふ時を今より後にこんものとかけても思はれぬかな 或時の恋しかりける燐寸の火の光に似たる冬の日の薔薇 銀杏など少しこぼれてなつかしき薔薇の畑の霜じめりかな ひなげしの花とある日に異らず冬籠りして思へることも 思へらく岳陽楼のきざはしを登りし人も皆おのれのみ 雲上のことと思はじ世の中のいみじきことの第一とせん (東宮の御慶びの日) みくるまの衣のいろめの物語人申すなり花のごとしと 桐の実の黒むところと一筋の溝をはさめる大木の紅葉 美くしきもみぢわが手に重りぬ誰より受くる祝福ならん 東京の廃墟の上にわななきてちる極月のこの朝の雪 天地のもの皆何を思ふらんまだ知らぬまで暗き極月 六道の修羅のさまをばひと目見て筆つけ初めぬそのさかひにて (横浜なる石引氏の震災記の端に) 恐らくはわが墓に来て泣きぬべきかの旅人の消息の文 草も木もすべて怪しきかづらして狂へる日なり三月にして 恋しけれかぶろの菊に似る薔薇の築地に咲きし鎌倉の家 連山の襞の一つに触れも見で浅間の丘に寝るあぢきなさ (以下信濃の旅にて) 浅間湯は筑摩の川の発すると云ふ山つづき松山に湧く 狂ほしく浅間の丘の斜面より吹き立つ風をいかがすべけん 客房の板戸の鳴るにおどろきてわれ温泉の靄に隠るる 山山の雪濃くうすしあまたたび見がたき昼の夢ならんこれ 一月の信濃の旅の明るけれ天がけるとも云はんばかりに 山の日は梓の川の流域の見えわたるまで全く昇りぬ ありと見えやがて跡なくなりぬなり梓の川は遠方にして 浅間橋女鳥羽河原の真しろきは地の白山は天上の白 山国の雲の美くしもろもろの天女の相に馴るるここちす 浴房へ他のこほりを見て通ふ丸木の廓の悲しかりけれ もの云はず泣きつつ夜半の雪降れる長き屋廓の右左かな 雪国の温泉町のあけがたのうす墨色のなつかしきかな 医王山神宮寺にて打つ鐘もないがしろなる渦巻の風 この国と飛騨のさかひに山ももへ重るものを日の歩み入る 連山の穂高と聞けるあたりよりほのかにしらむ朝ぼらけかな 連山のただ横ざまに長きかな地上のちから限りあるため なふれそと筑摩平のへだてたる山の心の知らまほしけれ 安曇野の梓の川のひかること青玉に過ぐ一月にして 冷たしと感ずる山も覚えぬもあらめと雪の山哀れなり 浴泉のものうくなりぬ仙女をば願ふ心もまた捨てにけん 山の名をあまた知りたる宿主人現れつれば日も歩み寄る 山の日はやどやの裏の菜園のえびいろを愛でよき油塗る 蝶が嶽軽げに白し雪厚き穂高の峰のかたはらにして 山は山人は人ぞと山の云ひ人いひぬべきもの足らぬ景 死ぬばかり信濃の国に愛着す雪かがやし山斯くも云ふ きらめくは雲が鎖したる山の顔見んと思へる明星にして 信濃路をめぐれる山の半輪に雪かがやきて月に勝れり 西北のつばくら嶽に極れる山にくらべてひろき空かな 浴泉す雪の中より通ひくるいみじき息をもてはやしつつ 見るよりは山の白雪深からん人のさむさにそれも変らじ 連山の雪にひかれてとどまればやがて浅間もうす雪ぞ降る 安曇野を雪早足に過ぎつれば雪とも見えずほの赤きかな うす雪す上の浅間の湯のまちを横に抱ける赤松の山 白雲の中にてすなる人間苦生きがひありてわれも知るかな 山と水なまめかしかる一章とおのれの章の続かぬ辛さ 温泉が溝川となり柵のもとはしる音をば明方に聞く 白雪と朝のうす黄の日のひかり籠れる襞の並ぶ山かな 朝よりかくれてありし常念の峰雲を出で友遠くきぬ 飽くとなく浴泉の地を転ずるもかねて思はぬ寂しさにして ひと列の蓼の穂のごと赤ばめる安曇平の日の出前かな をやみなく散りかかれども肩濡れず寂しき雪の降れる国かな 山風の急なるにしも追はれつつ筑摩を出でて伊那の野に入る 潮尻の南はなべてなつかしき朽葉のいろの上伊那郡 天龍の大河の芽をば見て過ぎぬ諏訪の岡谷の町のはづれに 天龍は三尋に足らぬ水なれど門川のごと芹の青まず こと成らぬみだれ心のおもむきに諏訪の湖氷せぬ冬 惑へる灯三昧にある灯もありて水は山よりあはれなりけれ 渚には一つの船の裂かれたる半身に似る細き船浮く いさり男も恋に痩せよとつくりけん諏訪の入江の細長き船 人の云ふ非人の湯小屋傾きて川の芥にことならぬかな 温泉が間に人の身を置かず湧きて角間の川に流るる 身はおきて手をひたすなり温泉に馴染みもつかぬ旅心より 浅間より諏訪に来りて夕闇の湖畔を伊那の敏弼と行く 湖をおほふばかりの灯かげあり山の人皆世を楽めり 見るかぎり湖畔の山は美くしき燈火の縄にいましめられぬ 人早く来て住みつきし湖の四里の周囲の七ところの灯 末弱る蓼科おろし旅人は吹けどポプラの靡かざるかな 温し夜の片はしの残りたる諏訪のやどやの浴房の床 駅亭に小雪吹き込むやまかぜもありて我子の車を迭る 旅路より弟の手をとりていぬ丁の年を越えし一の子 子の車去りて七時経ちぬれば都に入りぬ描くまぼろしも 別後にも母はゆたかに浴泉記かかんと思ふいまだ驕れば 山岨の褄形したるしら雪とともにうつくし宵の明星 百合摘むと友のいひつる上諏訪の御堂の山に小雪ちる朝 諏訪山に板石を切る男より勝るとするはただ若さのみ 湖へ茅野と有賀を併せたる幅ある雲の下りてこしかな わが燃ゆるこころと触れね千年をまちて氷の湖を見よ 水城なるかしらの石に旅人の現れぬなど雲のおもふ日 駒が嶽乗鞍が嶽その中の遥かなるにもわれ寂しけれ みづうみの声ききつけし夕闇の諏訪の湖畔の桑畑のみち かたはらに温泉流るる雪の洞作りて夢を見に通はまし 守屋嶽亀甲形にうす雪を置きたる華奢もなつかしきかな 透し見よ守屋の嶽の薄雪はたそがれ前のひと時にのみ 見る限り力張りたる山なれど湖水なれども明日いかならん 熱高き諏訪の温泉のみなもとを恋といはしめ今ひと度は 湖は心安げに生れいではた消えて行く灯をあまたもつ 御手洗の垂氷なれども白玉の燈籠に似てなまめかしけれ 蓼料のいみじき雪をのぞくなり諏訪明神の廻廊の窓 若くして驕る心に見んとせし水晶の滝かかる山かな むつかしく物を思へど温泉の口傾かず止まず走らず (以上)  大正十二年七月より十三年七月に至る一年問の自作からこの一巻を撰びました。此間に富士山麓の湖水に遊び、また南信濃の旅をもし、稀有な大地震にも遇ひました。序に代へて巻頭に載せた詩も此間に作つたものの一部です。旧い親友である山本鼎さんが、また此集にも装幀の図案をして下さつたことを嬉しく思ひます。 (著者) (底本奥付) 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 心の遠景             与謝野晶子 自序 「瑠璃光」を出してから五年目の今日、大正十三年八月以来の歌を取捨し、其中の一千五百首を此の一巻に収めて「心の遠景」と題しました。  芥川寵之介さんが「この次からは一一の歌に題を添へて下さい、読む者のために便利ですからと云はれたので、「成るべくさう致します」とお答へしたのですが、気儘に書いた草稿が入りまじつて居て、自分ながら其の制作の時と順序とを思ひ出せないものが多いので、已むを得ず今度も題を添ヘずに印刷しました。今は故人になられた芥川さんに射して甚だ済まない気がします。  この五年間に、良人や友人に従ひ、私はいろいろの所へ短時日の旅行をしました。近い所では、武蔵の金沢と氷川、相模の三崎と箱根、信濃の諏訪、軽井沢、碓氷、山田温泉、赤倉、野沢温泉、野尻湖、また日光、伊豆の熱海、遠い所では越後、佐渡、陸前の青根温泉、松島、羽後の十和田湖、陸奥の板柳、岩木山、弘前、浅虫、五戸、近江の石山、京都、宇治、大和の奈良、吉野、下野の那須など。従つて此集には其等の旋中の作が多くまじつて居ます。  此集の装幀は、特に木下杢太郎さんが筆を執つて下さいました。勿論私の心では、久しい以前から、大きな兄の一人として尊敬してゐるのですが、木下さんは年から云つて私を姉のやうに親しくして下さるのです。かたじけない事だと思ひます。  私の歌を昔も今も読んで下さる人達に、また此の新しい一巻を寄せ得るに至りました事は、以前にも「草の夢」を出して下さつた日本評論社の鈴木利貞氏の並ならぬ御友情に由ることです。私の感謝を茲に申添へて置きます。   一九二八年五月 わが倚るはすべて人語の聞えこぬところに立てる白樺にして (以下再び赤倉温泉に遊びて) 妙高の山のむらさき草に沁みたそがれ方となりにけるかな 赤倉の山より出づる雲ゆゑにおぼろげなりや北海の門 ほととぎす生ける限りは忘れじと誰に云へるや赤倉の渓 遠きこと他界の如しされど見ゆ野尻の湖は星のたぐひか 妙高を下りし人が彼方過ぐ二つならべる草山のみち 山行きて昔の路に逢へるかな虎杖の葉はやや若くして 斧をもて切るに値す然れども高きいたどり秋に枯れまし 夕焼のくれなゐの雲限りなく乱るる中の美くしき月 深山鳥あしたの虫の音に混り鳴ける方より君かへりきぬ 水内の連山浮きて前山のいまだ眠れる朝ぼらけかな たをやかに香嶽楼の軒に来ぬ朝の光をふくみたる雲 赤倉の大湯の窓の色硝子親しきものと見てのぼる路 赤倉に雲満ちわたる時刻とて草の匂ひもあはれなるかな 上州の温泉に逢ふ約束をすなる男女とあかくらの霧 妙高のふもとの茅萱なびくなり頂にして雲うごくごと 日のかげり緑青いろのしづかなる草山となる越の赤倉 満山の涼しき風となりつれど空の寂しく変りけるかな 朝ゆふべ出でも遊ぶを促してなびく裾野の八月の茅 山に馴れ高田の方にいかづちの鳴るほどのこと事と思はず 湯ぶねにて虹のにはかに立つと云ふ童の声を聞ける赤倉 あたらしき世に逢へるごと涙おつ虹と対する山上の客 あまりにも今のむかしに変らざる赤倉山の夕月夜かな 黄昏に山を歩めば許されぬ神のさかひを行くここちする 西の方容雅の山に多く住むしら雲ここのうす墨の雲 日を負へる妙高が嶽くろがねに通ひたれども涼し山風 ことごとくものに驚く顔したり北に当れる山の背の雲 昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな 温泉に逢ひ友に逢ひ嬉しけれ北の海をば霧隠せども 裾野原山の影よりはなれたる光の中を飛ぶ蜻蛉かな あぢきなし蛾と馬追を一ときに灯にうちつくる妙高おろし 関山の灯は紅くして高田の灯白しいづれも草原のはて 白き雲矢筈の形に並びたりわが風流男の倚る欄のもと (以上) 関川が石のあひだを行く如く行かましものを苦し山踏 (以下関温泉にて) 山頂の関の温泉うまごやし生ひそこばくの馬休らへり 山の馬繋ぐうしろをくぐるには惜しきわが身と思ひけるかな うまごやし食むなる馬の健かに見えその他をば霧のおほへり 雲深き越の国なる関の湯に柄杓をもちて人通ひけり 柴の橋たわむ上をば踏むものか志したる関の湯のため 山の滝一ときなれど中空に自らの身を放つめでたさ 砕けずば地上の玉の飾りにもあまるめでたき妙高の滝 心をば焼く火やうやく衰へぬ身を妙高の滝もて焼かん 傾きし浴舎のうちの樋も朽ちて烈しく落つる黄なる温泉 関の湯の暗き宿屋の二階にて飽くと定めしうぐひすの声 山にあり孤独のいでゆ七八棟家のあれども人遊べども 神奈山関の温泉も忘れめや花いんげんの畑とくろうま 未だ見ぬ山の如くに関の湯を白雲すでに包みたるかな きりぎしの一ところをば水伝ふ奈落のものの涙のやうに 沙羅掛のくれなゐの実の一枝を持ちたる人の過ぐる草原 (以上) 戸隠と黒姫山にいたるみち辻をはさみて古駅に起る (以下三首野尻湖にて) 白くしてこれは冷たき唇ぞ吸はで去らまし野尻の湖水 身に沁むは苦しけれどもそのさまにあまり遠かる野尻の湖水 落日が枕にしたる横雲のなまめかしけれ直江津の海 (以下直江津にて) 赤倉に迎へし朝の日なりしが今見おくるは直江津の磯 北の海名立の岬のむらさきを船はばかりて一かたに寄る 水色の麻を湖畔が著る肩に似る米山の見ゆる磯かな 暗色のなかに一つの灯を抱く郷津の岬とくもる夕月 浜茶屋の屋根より上に二三筋街の端見ゆ北の直江津 大空の思ふがままに任せたる夕の海の色とおぼゆる 海辺とて山より低きことわりに当らず空と近づきにけり 落日が珊瑚のいろを長く引く海に五つの大船の浮く 海に入る夕日は人の終焉にあたるものぞと北国に知る 雪に怖ぢこの八月の風にさへ戸立つる家の多き直江津 雪国の街の軒廊八月のゆふべに踏めばすこしつめたし (以上) 北行きてかたはらに無き寂しさよ筑紫の友の重き足音 (以下新潟にて) 信渡川鴎もとより侮らず千里の羽をつくろひて飛ぶ 新潟や都の華奢にこと変る並木柳のたてよこのみち 北方の海より来るかなしみを防げる町のはての砂丘か 佐渡なるや黒龍江の見ゆるやと惑ひけるかな定かならねば 海は漉く砂丘は白しおぼつかな蜃気楼をば踏むここちする 思ひしに違はぬものもまた悲し今日見る北の越の青海 山の隈佐渡の岬のたたずまひ明日渡らんとすれば目につく 案内者は県の庁を見よと云ふエルサレムをば持たぬ身を知り 夕月を浴びて舞子の上りくる丘の旗亭のおもしろきかな 新潟の富士が樽をば打つ音のをかしけれども富士貴に過ぐ 日の本は六十余州越女の美中にあらはれ風流まさる たねの歌山の霧ほど身に沁むも何のえにしぞ越の船待 身にするは洛陽の衣樽めぐり舞子がするは聞き知らぬ歌 初秋の空にくらべて曇れどもそれよりひろき大江の水 (以上) 越の海船脚はやくなり行けば船江の浜のしろく愁ふる (以下北海の大黒丸船上にて) 船すすみ真珠の色の一線の左右にひろくなりぬ目のはて あたらしき大国丸と云ふ船の床に涙はおとさずもがな 水の線秋のすがたの大海に見え初めしごと白き朝かな 新潟の七十二橋大海のうへに思へばあはれはかなし 大海に縹の色の風の満ち佐渡ながながと横たはるかな 雲の花それは草より寂しけれ佐渡に通へる楼船の窓 海の上佐渡近づきぬ雲などのたぐひにあらで厚き嶋かな 近づきぬ承久の院二十にて移りましつる大海の佐渡 近き世のコルシカの子の王すらも嶋に捨てしは悲しきものを 海和げる斯かる日よしや院の船出でしとするも昔の帆船 はかなめる仔細は知らず白き船笛鳴らすこと短くて止む わが恨み忘れぬ佐渡の二十里の山のおきふしなだらかにして (以上) 加茂の湖金北おろし渡るなり船江の浜にしら波寄らん (以下佐渡にて) 風涼し阿仏の坊のちかひをば継ぎてめでたき層塔のもと こもりくの初瀬の山に聞くよりも身に沁む佐渡の長谷の鶯 われ佐渡の子ならば真野の海を見て悲むことの少なかりけん 清くして慰みがたき入江をば見て人も住む真野の新町 はしたなくなど思はれん承久の世は過ぎ去りて既に久しと 三日の後佐渡を離れて帰るべき身のはばからる真野のみささぎ 君在ます●利の天の一時にあたらじ佐渡の二十余年も    (●はリッシンベン+「刀」) 院の上典侍の御局とことなることもなげきましけん 野撫子浜撫子とことなれり都のいろの真野のなでしこ 都をば忘れんとする人もまた小比叡の山の名を撰びけり 蓮華峯寺龍女の美にも似る堂のひさしに描けり大井の川を 廃堂の彩色に酔ひ極楽鳥吉祥天女はた龍女見ゆ 少しづつ海ひろくなりをかしけれ小木本町の褄先上がり 歎かれぬ小木の童の放胆にはだかとなりて遊べる見れば 眺望す山やはらかく屋根の石まろき湖畔の窓前の佐渡 佐渡に来て文三の君は絵のみ描く八雲御抄のたぐひならまし 中山の峠の洞のみち出でて至りをはりぬ北海のはて 嶋人の朝やけのごと輝ける手よりあがなふのろま人形 青空を道遊山の破門より覗かんとしてしづくに濡れぬ 鉱山の空を箱行く漏刻の音のごとくに正しくならび 世に一つ黄金を欠くは苦しきか山掘る難に値ひすべきか 相川の羽田の浜の砂金より生ひて花咲く月見草かな 潮寄れば千畳岩もひと組の踊の場のみ残して濡るる いつの日か恋より醒めん後の顔これぞと寒き北岸の佐渡 鷲ありて呼びかはすをば二十日ほど前に友見し岩山に来ぬ 岩青し月の国なる渚ぞと船寄せたらばをかしからまし 海に見る無名異焼の常山の竃のあたりも夕焼うつる 天雲は日落ちて後も美くしくその刹那より陸は色無し 小比叡なる古りし御堂の彩色に似るいろいろのめでたき小石 泡のごとさざえの嶋のつながれる海のをちなる紅き落日 北海に住むと思へばうら山の岩つばめだに悲しきものを 見かへれば岸の石垣石の浜石葺屋根もひとつにつづく 落ちてゆく日の唇も吸ひ得べきここち覚ゆる船の上かな 龍宮のいらかの如く紅き石みどりの石の波に透きたる 相川や青野の山の波形のいただきに浮くめでたき月は 相川の羽田本町うら山の高きかたより月のぼりきぬ 踊る時月も引かれて身をひねり波も引かれて音頭の手打つ しら波と遊びつる間に跡あらずなりぬ音頭も御前踊も 桃色の瑪瑙ひろふと云ふ磯も秋の夜露のおけばつめたし 相川や石葺く屋根の鳴くやうにこほろぎの音のあはれなる宵 町暗し春日の岬のきりぎしの角のみ紅く朝日昇らず 佐渡の国何れの産と名のりても島の男女は皆あはれなり かもめらは見知りたらまし横雲のもとにあるべき沿海州を (以上) 落葉松の濃く淡きより南信の山に及べる百の青いろ (以下信濃にて) 白樺は昼降る霧に侵されずから松などは跡方も無し 山の霧螺形をして走れるは泉の口を出でて来にけん いと小し山にただよふ夜の霧の厚き中より出でし蟷螂 円柱霧にあきれて立つほどに霧の彼方の灯のうつりきぬ 窓を打つ霧のしづくに馴れて住む浅間が嶽の高原の家 森蔭の明星の湯を一目見て行かんことをば車思はず そのかみの夕月のみち今朝雨に濡れて歩むもその離れ山 われを見て山の泣けるを疑はず雨に濡れつつ軽井沢行く 信濃路やウラルの山の宝石を売る駅に似る軽井沢かな あはれなる人を囲みて鳴くものか浅間の山のこほろぎの声 草むらはむかしの姿白樺の二たけほどに伸びし山荘 山荘に逢ふ日は悲し誰よりも寂しき人と見え給ふゆゑ 人ならば善知識など云ひぬべき雲のけしきと思ひけるかな 万木が雲を作ればただよへる姿と見ゆる山の雨かな 赤泊寺どまりなど聞きしかど今日は信濃に山の雨見る (以上) 名のみわれ貴なるものとなりはてぬ万寿山など云ふ宮のごと 寂しさを華奢の一つに人好みわれは厭へど逃れえぬかな 過ぎ去れば昨日の遠し今日もまた夢の話となりぬべきかな 庚申の旧作の絵を山人よ今日も見てあり二もとの菊 人界を捨てて出でゆく姿こそなまめかしけれ何の煙も 鴉ども落日の火が残したる炭のここちに身じろがぬかな 不思議をば形にしたる木の如く月夜に葉をば捨つる枝かな 日の射して狐の毛にも似る銀杏まれに青かる極月の空 藤子描く遠山と丘穂のすすきまたも添へたり尾の無き鴉 土くれの何しに枝を上れると見ゆる桐の葉それも動ける 朝より雨くらく降り打ともせは伊豆の温泉のここちす書斎 未曾有なり烈しと時に思ひつつ忘れぬ風は恋にあらねば 落葉ども昔住みつる木の影のうつると知るや暖き庭 蔑しえず師走の末の夕ぐれの白けし空が持てる光も 冬の夜に流るる星の白き尾はすこし久しく光りたるかな 静かなり風の示すに従ひて葉を散らすべき銀杏なれども 帰りきてわが杢太郎わすれしや待ちつるものを煙草の話 うちつけに岳陽楼のたたずまひ一人の云へはうつつ皆消ゆ 年月も生死の線もその中におかぬ夢とてあはれなりけれ 前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋のかたはら しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きしおもひ出 またも身にサン・クルウより船にして巴里へかへる夕ぐれもがな 巴里なる人は何とも云はば云へクリシイの辻なつかしきかな あぢきなし今はうつつにわが見たるヱ゛ルサイユとも思はれずして 旅人はタバランの夜に近く居てものを思ひしブランシユの家 雨の夜にオランピヤより出でてわれ顧みされぬ浦島のごと 森はこれフオンテンブロウ歩めるは見るかげもなき旅人の馬車 二夜三夜ツウルの荘に寝るほどに盛りとなりしコクリコの花 ふるさとに続みちとも思ふかなロアルの川の石橋の上 旅人は心に火をば抱けども投ぐる火あらず火祭の夜に 森の奥バガテルの庭薔薇咲きてよき六月の朝じめりかな 歌の本絵の本たづねいつ立たんセエヌの畔マロニエの下 青根湯の湯守の館の白き倉さて蔵王山かなたは出羽 (以下青根温泉にて) 青根の湯阿武隈川を船渡りして来しと云ふ世のここちする 何ごとも蔵王の山の彼方なる世のこととして思ひ捨てまし 慰みぬ不忘山を前にして語らふと云ふはかなしごとに 碧瑠璃の川の姿すいにしへの奥の太守の青根の浴槽 松島の現れぬなど指させど蜃気楼よりたのまれぬかな 山の奥糸より細き路もがなこれは分くべきしるしだに無し 草はばみ雑木の枝にはばまれていたらん方も知りがたき山 みちのくの柴田郡の濁川どよみて鳴ればなほ哀れなり 濁川悪名をもて足るさまに音も忍ばずおほらかに行く 哀れなり蔵王の渓に発したる濁川をば青根に見れば 立枯の木ならぬは無しその山は物見岩よりかつ低くして こともなく物見岩とは名づくれど都の比叡の十層にあまる 阿武隈も牡鹿の海もほのかなり不忘山のわすれざるほど 男なる烏帽子、川音、青麻山女身にかなふわすれずの山 大海へ川音川の出でて行く安達が原のしら糸のみち 山の笹熊のうしろに鳴る如く我が分けてこし後ろにぞ鳴る 大空も木末も遠くはるかなる臙脂の色の杉の渓かな 青根なる大湯の中に我が倚るは昔伊達衆の倚りし石段 山の西出羽の空の夕焼を思ふひま無く青根は灯置く 青根の湯秋のともしび放てども桃生の海のとらへがたかり ひるのほど見えし幾重の山山は月の光にしたしまぬかな 川上の峨峨の湯泉にいたること思ひ断つべき秋風ぞ吹く 月の落ち川音川のあたりにてこほろぎすだく寒き明方 山にゐてほのかに覚ゆ東海の若きめでたき日輪の息 暁のひがしの海の光れるも青根の秋の一はしのいろ 温泉の移り出づるが速くして物思ふをば許されぬかな その中の青麻の山の歩み寄るけはひ覚ゆる秋の霧かな 虹よりもめでたき朝の横雲は色かはることまた早くして うす色の秋のあしたの根無し雲山に根を置く温泉の雲 夜明けけり山のはざまにいみじかる湖のごと溜る白雲 疎らにも黒きとんぼぞ遊びたる柴田郡のいく山の上 熱高き泉の末もゆくへ無く草に紛れんならはしにして 八月の旅の枕に近く居し赤くら山はここに見えぬか 夕ぐれに弱く寂しくあらかじめ夜寒をなげく山のこほろぎ 黄昏の雲のあひだに山の居ぬもの云ひたらぬ心の如く 朝の日は今海にあり二千尺わが浴槽より低きゆぶねに わが山の泉とおなじ音律をもて降りきたる秋の日光 すすきの穂山のゆぶねにある人のめでたき線にまねびて靡く (以上) みちのくの白石川の洲に立ちてたよりなげなる一むらすすき 仙台の大手の門よ黄ならんと九月の秋のくはだつる頃 松嶋はなべて美くし船にして拾ふばかりの小きもがな (以下松嶋にて) 曇るなり金華山までつづきたる入海の輪のかつ消えぬほど わが船を出でし煙が一隅にしろくのこれる入海の空 経嶋と聞けど我が見て小扇の漂ふごとく見ゆるものかな 松嶋や船の二階を縄により降りて入りたる白鴎の楼 松嶋や秦の万里の城よりもいみじきものの残る海かな 袋解き旅の沙門が喜捨すなる松嶋寺の雨のゆふぐれ 朧ろにも雨に濡れたる松嶋をむらすすきとも眺むる夕 白き船うす黄の船の二つあり松嶋のごと雨ににじまず 松嶋に船ぞ入りくる雨の中雨より白きよきけぶりして 松嶋や五大堂より流したる燈籠めける低きいなづま 八百八嶋こえて汽笛はひびけども船は雄嶋をまだ出でぬかな 行く人の車の用意ならずしてともに眺むる夜の海の霧 夜泊する船の上なる人ごゑはこほろぎよりも寂しかりけり 朝の海十二妃嶋の涙かとおぼゆる紅き潮ながれきぬ (以上) 人の世を楽むことに我が力少し足らずと歎かるるかな 人間の世は楽みて生きぬべきところの如しよそに思へば いみじかるところなれども我れにのみ憂しと分ちて世を見ずもがな ことさらのこと無し堪へずなりしのみ昨日と云へど苦しかりつる 山つつじ若葉する木をたのみつつ添ふと覚ゆる榛名の平 若楓うづを巻くごとさし交す枝の下にて鳴る清水かな 榛しげる百尺下はあらはにて水走るなり岩のあひだを ほととぎすこちたけれどもあはれなる柏林の夕月夜かな 程ちかき松より落ちんなだれにもおびえ給はんみけしきの雛 あしたより雪の降れども花を敷く雛の大路の物見の車 山ざくら炉の親しみを切りはなちにはかに人の恋しかりけれ 水色の夕の空にほのかなる熱をさくらのおくと思ひぬ うぐひすが口動かしてありし夢語れば子等がまねぶ口つき 或朝は風に混りて或朝はあられにまじりむせぶ早川 山山の後ろの空の墨だちぬ雪の降るらん奥の箱根に 底倉や明星嶽がかくしたる海のにほひをつくる温泉 人の来て旅寝を誘ふ言ふままに雲に乗らまし靄に消えまし うす墨に臙脂を混ぜて春の空わが像のごと重く曇れり わが泣けば日の面より降る雨に逢へるが如く人のおどろく 人の子は寂しからずと告げしごと雲早足に過ぐる夕ぐれ 粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな (以下近江にて) 吉備の国和気の郡の友も来ぬいかに明さん近江の月夜 山かげの石山寺の山門とやなぎのなかに霧のまよへる かへり見て彼れ聞き給へなど云はん経声もがな石山の寺 法の燈は不断のものと聞きしかど御堂よ月を掲げたるのみ 石山の観月台に立ちなまし夜の明けんまで弥勒の世まで 湖水より夜霧ほのかに上りきて二更を過ぎぬ観月の台 水に沿ひ月夜を歩む人人の悲しみとなる藻のにほひかな 山はやく月を隠せば大空へ光をはなつ琵琶のみづうみ 比叡の袖比良のたもとの重れる方に向ひて船出してまし 船すでに瀬田のかり橋くぐるなり秋の末なる鳩色の朝 みづうみと云へるつめたきしら玉の盤上にあり秋の旅人 はかなけれ大津の浜をさして来て片時たたず船の出づるも 山城の山の頂見え初めてものの身に沁む船の上かな 竹生嶋思ひかけぬもあはれなりあまりに広き湖を行き いみじかる寺をおかんと思ふ山あまた立つかな湖上に見れば 杉の奥三井の御寺の広庭にこだまを呼べるわれの足音 園城寺もろもろの坊蓬生となりぬる世にもいみじかりけれ 恋人の逢坂山は行かぬなりわが身をおくは索道の船 わが船の小き灯によりゆきあへる索道の般人光り出づ わが十人疏水の洞の幽暗に堪へて如何なる世を見んとする 穂すすきや琵琶の運河をわれは行く前は粟田のうら山にして もみぢ葉に山の方より覗かるる疏水の船にある十人かな 粟の穂のいろに日映る松山の立てる方より秋風ぞ吹く (以上) 木屋町に入ればほどなく月出でぬ彼れも疏水をつたひ来にけん (以下京都にて) 鳳凰の雛の巣と云ふものならん岸勇もまたここに立ち居す 暁の加茂の流の音きけば無きここちする年月のこと なつかしと云はん言葉に過ぎたれば悲むに似ぬ洛中に入り 加茂川の出だし床には立ちたれど水にそぐはず旅人なれば 加茂川の二条の堰の水白し山はおほかた霧の消しつつ 加茂川の東の岸の柳の葉盛りならぬがあはれなりけれ 大君の土御門殿秋かぜに木立そよめくくれ竹まじり (以上) 宇治殿の鳳凰堂の簀子にてながむる山を霧流れ行く (以下宇治にて) 定朝の御仏のごと黄金をふたたび胸に塗るよしもがな 極楽の雲とむかしもおもひけん鳳凰堂の朱のうつる池 胸にあり平等院の須弥壇の螺鈿のあとにくらぶべきこと 限りなく水青くして州の白くかもめの白し宇治橋のもと 法師なる喜撰が嶽に皆ならひつつましやかに重なれる山 滋賀の夜の十幾たりは草まくらもの憂かりけん六人になりぬ 草は先づ十三塔の真白さに露おきわたす月いづる前 (以上) 渓川の冬の音をば聞かんなどいと華やかにわれは願へり 恋ごろも革ごろもより重ければ素肌の上に一つのみ著る フワウストが悪魔の手より得し薬われは許され神よりぞ受く 山山の冬木立よりこちたけれあれちのぎくの枯れたる姿 雪すこし天城おろしの散らすなり下田の海のうす紫に 正月を雪すこし降り岩屋めく温泉に聞ける東海の音 昨日をば人はたしかに持つごとし靄より淡しわれの昨日は こし方を夢ともなさず形ある宝のごとく云ふはわりなし おのれをば既に知ること長ければ戯れをすら哀れとぞ思ふ 唯今も同じ心に泣き出でんことを期しつつ落葉と遊ぶ 常に泣き稀にしづかに思へども同じ姿のはかなき世かな 恋ゆゑに輝く人を目に見つつ虚無の世界は思はずもがな うなだれて祈祷の室に通ひけんその程過ぎて友病癒ゆ 恋人を恐れ初めたるわが友の祈祷の室の低き椅子かな にほやかに女の友の出で入りしその日の戸口後日の落葉 恋とても冬の姿は寂しけれ逢はず疑ひせちにおもへる 甲斐がねをかすめて散りぬ大垂水尾花の台のさくらの紅葉 (以下十五首大垂水にて) しどけなく山をつたへる水に由り山のくづるる大垂水これ 甲州の裏街道のあぢきなし路ともあらず清水つたへば 武蔵より相模に入りて三十歩櫨もみぢ立つ尾花山荘 くさむらや秋の末なるむらさきの野菊に添へる紅玉の蔓 足柄と青根の中に富士を見ぬ日もなつかしき尾花山荘 海ならぬ甲斐の方へと靡く霧さびしき性の山の秋霧 皆青く石老山の此方なる畑のみ黄なりもろこし立てば むさしごえをばなの台に眺望す甲州のあゐ相州の青 すすきの穂分けて相模の奥に見る限り知られぬ甲斐のむら山 そこと云ふきはも定めず色づきぬ雲にならへる行く秋の山 もみぢすれ尾花の渓の杉むらの限りも知らず青きかたはら 日の映る尾花の台の一方の紅葉の中に霧の消え行く 寂しやと思ひて越ゆる山の水あまたたびして灯の見え初めぬ 夜の宿場水車が廻す絹機の音のみするがあはれなるかな 家の前に溢るる水を越えて買ふ浅川駅のつる柿の枝 (以上) 枝なるも椿の花はつながれり少女に由りてなされし如く 裏白の葉にならふやと常磐木も見ゆるばかりのうす雪ぞ降る わが庭の風を抑ふる風ありて木草の形不思議なるとき みづからと人の少女のけぢめなど心におかず鶯ぞ啼く 流れ行く水の上のみ明くして暗きところに立てる梅かな 常春の蓬莱丸に乗る人も忘れぬほどのことを云はまし 牛込もよその港のここちすれ濠を隔てて往ききを見れば 小雪降る春の初めに見し人は花ちる日にもなつかしきかな (竹子の遣しつる帖に) 飯山町信濃に向ふ汽車ありて虚空に鳴れり木がらしの音 飯田町歩廊の土の水だまりかずかず凍るみづうみのごと 菜根のあつ持のが持つ力にも如かずとしつつ夢をつくれる 師走来て皿の白さの世となりぬ少女のごとくおどろかねども 炉を据ゑぬ南信濃の山見ゆるわが家ならばをかしからまし 躁ぐとき冬わかわかし木枯と別れし冬は数ならねども 美くしき浄土の光さし出でぬ友が木彫の拓榴の破れ目 天国の二階ばかりにあれかしと窓仰げるや学院の子等 月ありぬ外濠に沿ふ牛込の霧にうるめる街と離れて 牛込の見附の口の石垣に沿ひてまがれば冬の月無し 一言の別れに云ひも忘れしは冬の月夜の凄からぬこと 風吹くや竹の縄もて巴水をば引く船の音語られしのち 下諏訪の本陣と云ふ湯の宿へ朝の七時に著きて日出でず (以下下諏訪にありて) 湖の赤魚の口のいろしたる守屋が嶽のあかつきの雪 みづうみの魚など売りぬ守屋嶽真白きもとの一筋のみち 雪の山諏訪の湖畔の高浜を地のはてのごと悲しくぞする 木曾の渓さては毛の国越飛騨の雪の間にあらぬ身をおく 夜は暗く温泉の浴槽薄明のさせば湛へぬ竹の葉の色 われ常に氷りて水の響無き聽泉閣にあるごときかな 湯の宿や昔の絵師の客中のこころを聞かん帖などを繰り 冬見れば蜘蛛のいに似る灰色の小枝にさびし落葉松の山 古すすき寒き数とも思はれず砥川の渓の風あらくして 宮の湯の廓の寒さの限り無し炭火運ぶにつづきたれども 宮の湯の二つの山の渓ひろく和田峠見え諏訪の水見ゆ 空の奥和田の峠の端の山饐えし華櫚の黄をしたるかな 山の水ほとばしりつつ氷るなりわれの心と人見ずもがな 天龍の是れは川上細ながき三八船のはかなげに浮く 山かぜの烈しからねば渡るなり諏訪釜口の黒き吊り橋 信濃にて云ふこと無きや天龍よ水は云はぬがならひなれども 諏訪の湖天龍となる釜口の水しづかなり絹のごとくに 釜口の水しづかにて貴なれどまだ天龍の命うまれず 塩尻の峠にすこしおよばねど岡谷にならぶ高き繭倉 繭倉に蚕の繭ならばこもらましわが身のはてを知られずもがな 土凍ててされたる骨に似る坂のあぢきなけれど諏訪湖の青し 花岡に見る八が嶽空晴れて鵠より白く浄らなりけれ 花岡に諏訪の水門の三百戸あてなるものと指ざしぬわれ 連山の乗鞍嶽の横のみをわづかに見れば山越えまほし 岡谷なる諏訪の沼気を引く樋の二ひろ上の蓼科の雪 天龍となりて出づるを急げるはやや濃く光る諏訪の水かな しら玉の背のみ見せたる横嶽はかしらも腰も知るよしの無き 懸樋なるつららの紐も動けかしいと美くしき夕月のもと 重ぬれば心の氷るおそれなし諏訪の宿屋のひろき丹前 富士小くその頂の見ゆるゆゑ信濃をおもふ配所のやうに 氷をば走するは難し恋をしてわれ薄氷を踏みならへども 道のべの鍵湯の鍵のあなたにて児の手のごと鳴る温泉かな 諏訪少女温泉を汲みに通ひ候松風のごと村雨のごと 悲しかる諏訪の天主の石のうへ五丈原より夕風ぞ吹く 上の諏訪柳の浜の夕風ももののとぢめのここちこそすれ 絶えて葉の無き柳をばわが前へ何こらしめに並べたりけん 波だちて諏訪の湖さわぐなり見もならはざる夕月夜かな 大船も寄らんばかりのみづうみの汀さびしき冬の夕ぐれ 暮るる色ゆゆしき諏訪のみづうみを前にす冬の楊柳の列 雲すこし出でしゆふべにわが車柳の浜に急がせてこし 夕には日の見知らざる山の艶うら滑らかに現るるかな 上諏訪のともし灯を負ひわが車走せゆく前の乗鞍が嶽 かずかずの山は一つのものとなりもろもろの灯の現るる頃 三八舶引きていぬべきさましたる湖上の雲を人と眺めぬ 湖を隔つる雲の立ちなびき乗鞍が嶽さびしからまし われは見るゆゆしき雲につつまれてありつる後の乗鞍が嶽 諏訪の水凍らじとしてもがくなりなど斯かる日をわれの見にこし 下諏訪の竹入り渓のうねり路五間は乾き五間は湿る 守屋嶽湖上の座をば誇るなり人の心に山の似ぬかな 女達明日は著かまし諏訪の湖鏡に変るくはだてをせよ すでにして障子あくれば星ありぬ山の蔭なる下諏訪の空 朝などの雪につづける灰色の下界のものに似ざる国かな 信州の山また山のしら雪の見つむる胸と思ひがたかり 雪の色和田の峠の被きたる二ところのみあたたかきかな 人の子は歎かるること多きかな山に絡める雪あるがごと 上諏訪に今日塩尻に車やる恋もいくさもするならねども 塩尻の山のまつげの落葉松のしづくに濡れてなつかしきかな 接吻すわが手におかれ信濃路の塩尻山の草の根の雪 雪を出ですすき漫りになびくなり大空のもと塩尻峠 われ立ちて飛騨のさかひの雪を見る筑摩つづきの塩尻の門 塩尻に国見をしつつ冬の日の寂しき故のあきらかになる 落葉松の二つの林枝透きて煙のごとし諏訪のみづうみ いみじけれつばくら嶽に雪雲のけぶる天地の混沌の景 連山の蝶嶽は唯だ一つのみ一つは空に住めるならまし ジプシイの一人が噛めるしら雪の指より散りて零るる峠 ひんがしは駒が嶽より湖水までつづく傾斜のむらさきにして 駒が嶽諏訪の湖水も編み入れぬ峠のもとの落葉松の森 塩尻の雪の上なる穂すすきはまばろしめきぬ一月にして 身を置けど温泉ならねば報い無しつめたき雪の塩尻の山 旅人は皆雪を敷きふるすすき小楯とすなり穂高おろしに 安曇野は臙脂にひろし信州も雪の満ちたる国ならぬかな 氷敷き足すみやかに去らしめし塩尻峠わすれめやわれ 山にして雑木の枝がふくみつる春は湖水にみなぎれるかな 諏訪の湖飛騨の国にて雄たけびをなすてふ雪も美しく散る 一切の至らぬものを見るに似ず口惜しからず薄雪もまた 正月の五日の夜半にわれ早く愁へぬ友の車の去りて 諏訪の湖よし底の無きみづうみと聞くとも足らじ友とあらずば 友曰く鵞湖の美なるははやく知る下の諏訪なる金吾を知らず 隅に居て金吾の絃の切れしときまぼろしに見し蓼科の雪 隣なる部屋の炬燵の山の脚竹子の見えぬ春の雪ほど わが肩と建御名方の氏の子の嶋田と並ぶ夜のこたつかな 氷解け泉の前の石の膝また美くしき日となりしかな 諏訪の湖見渡すかぎり白くして人の別離にただ今氷る 帰り路の諏訪より茅野へ入る風にもの思はしくなりにけるかな 八が嶽しばし前まで少女にてものも云へりしここちこそすれ 汽車わびし硝煙の舞ふ悪趣へは誰のゆかりに落ちんとすらん 恋もせじ都に入らば吹雪舞ふ飛騨よりこしと云ふべかりけり (以上) 藤子病み去年の弥生にわが居たる病院に行き寝ること五日 家にあり病院にある子と母の隔たるみちに今日は雨降る 小雨の日病院に居て沈丁花にほひよしなど七つの子書く 病める子に一年生にならん日の見えで苦しき夢見ゆるとぞ 絵本ども病める枕をかこむとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室 幸福と云ふもののごと病院の子の思ふらん父母の家 隣室の人病癒え去りぬなど告ぐな大人は悲しきものを S夫人枝垂桜をおくりきぬ京を思ふと云ふことに代へ いと細く香煙のごとあてやかにしだれ桜の枝の重なる 美くしきさくら花咲く枝なれど女の文字のやうに細かり かぐや姫二尺の桜ちらん日は竹の中より現れて来よ 雨降りて若葉の榛のそよぐ時山の底にていかづちの鳴る 湯の靄がうらやはらかに養へる伊香保の榛は草の色する 榛の山大かた終り落葉松の木の下路となりにけるかな 伊香保人春の盛りと思へるは榛の若葉の山おほふ時 しどけなく残れる雪の上に居てせんすべなげに曇る空かな 旅をせで一月あればおちゐざる心と知らば人憎ままし うちつけに海を見に行く約束す銀座を行きて寂しき二月 人送り迎へんいのちありなしを知らぬにあらず寂しけれども 波ひびく旅の枕にゆかりなき夢より醒めて寒き夜半かな 旅をして朝の光のうれしさを身にしみじみとならひ初めぬる 旅人の心を知れる雲もまた山のうしろに隠れけるかな いつ如何に我が云ひしなど忘れねど恋しかりける心変りぬ 空青くおのれはたまた青き日は火をもてものをな語りそ阿蘇 青雲にはては混りて連山の高きところの知がたき春 風寒し大地に春は来ぬれどもいまだ旅寝のここちしぬべし 葉無き木の弓絃の如く鳴る声もをかしきことと思ふ正月 白き路都の春に見んは好し山につづくは白からずあれ 元日のたちゐに我れの思はるる姉いもうとの若き日の顔 しら紙に向へりわれも紛れなき春の初めの心を書かん こし方のめでたきことも春の日は遠山ほどに目の前に浮く 戸の外の秋きの夜明の白さをば知りつつ見たるいにしへの夢 地の上に踊る道化とおちぶれてあぢきなき葉のプラタアヌかな いてふの葉とみに少くなりぬるも寂しき夢のここちこそすれ かの野菊もとより菊の中ならず身に沁むことは立ちまされども なつかしく土潤ひてやがて射す柑子の色の秋の日光 わが前の山の間にありし雲空にかへりて秋風ぞ吹く 山山の間にありて雲に似ず水ともならずものをこそ思へ もの多く薔薇は云へども唯だ目にて人をのみ見る花園の菊 おち葉する木立の奥の日の光初冬こそはいみじかりけれ 林行くすでに心も朽ちはてし落葉降りきて寒き朝かな 昨日をば語りも合はず目を閉ぢて並ぶ落葉は悲しかりけれ うづたかく落葉盛られしかたはらを廻りて遊ぶ少女の雀 こほろぎの昼も鳴く日となりぬるや人も身の痩せ秋も身の痩せ ものの葉の秋に痩せたる梢より細目に落ちて黄なる日光 すすきの穂かりそめと云ふおもむきに山を真白くつつむ秋かな 善心をはた悪心を促すと秋の風をばおそれぬ我れは 水さしが落梅のごとおもしろく硯濡らしぬ山荘の春 (以下十首渋谷の藻風荘にて) よき夢の書庫の口より流れくるところにありてものを思はず 遠き靄近き欅のけぶりをばめづる物見の白き台かな あるじ出で天女と語る台なれど地上の春を眺望すわれ 高き木も大厦もわれを仰ぎ見る物見の台のあたたかきかな かずかずの棚に木立と家をおき下の渋谷はうす靄ぞする 屋上の物見を下り戸を押して入る時おぼゆ人の悲しみ 二かたのくれたけ色の垂れ幕が書斎に引ける三月の春 玉嵌めし蝦夷の刀の重きとはさま変りたる重きうれひぞ 春なれど信濃の霧の夕方に似て暮れゆきぬ西の武蔵野 (以上) 松の雪ひいなの顔と相照すうら珍しき春にもあるかな 春の雪雛の御前の台盤のみさかなとしていささか摘まん 夕明り虚子先生と禅寺のうら山の梅ながめよと待つ (以下三浦三崎に遊びて) 半嶋の灯の怪しめり獅子の猛ゐのこののろさ備へし車 坂の路三崎の町へ矢のごとく車の下りて嶋近づきぬ 昨日の夢に逢ふやと歌舞の嶋椿の御所の中に身を置く 海ふたぎ岬陽楼の夜の客のこころをふたぐ城が嶋かな 入海のこころの其処にあるごとく一ところのみ白波ぞする 燈台の灯は彼方向く水けぶり酔女が浜に立ちも果てずて 山かげの夜の三崎の街よりも暗きところになげく海かな 馴れぬかな信濃の夢を見る人と城が嶋とのさしはさむ閨 岩の上昆布海松房火を焚くと見れば三崎の海人の子にして 石垣の波のあとより五ひろを離れ流転の海の青める 友に告ぐ病はせねど相模にてわれは煙霧に恋を養ふ 朝見ても鈍色がちの城が嶋いつより人に似て病する 南向く三崎の海は夕ぐれも朝もひとしき水浅葱かな 女まで山法師めくすがたして船を下りぬ北風の立てば 嶋にして椿の御所も岩かげの三崎にありと見ればはかなし 菜の花のよろけて立てり灰色の重き余寒の嶋に集り 安房もまた伊豆も波こそ隔てたれ昨日のごとし昔のごとし 土黒き霜どけ路と山ざさのもつれにもつれ嶋長きかな 浜萩の枯れしにすがり松立てり櫛より細き赤羽の崎 赤羽の崎の高きに渚なるすなどりごとを見てうつつなし てんぐさを拾ふ小さき美くしき群を隠せる外海の岩 安房岬に霜ばかりなる波よりて外は大かた曇る海かな 磯に出づ明るき波の行きかよふ赤羽崎の洞のかたはら 濃紫ナポリの嶋の洞を出でこしとも云はぬ是れは勿告藻 船帰る藻くづと混る水仙に云ふことのあるここちすれども 油壺船の影無しおそるるや雲と思ふや髪とおもふや 黒き実のつぶつぶとなる雑木の下は三崎のその油壺 きよらなる松のおち葉を踏みて行く二つに海を分ちたる路 人の云ふ三崎の海の油壺それさへ曇る風のさむしと 松かげは去年のすすきも清らなり名だたる海の青潮の上 油壺外の海よりまぎれくる風ゆゑ縞の現はるるかな 油壺下にくもりて春さむきわれは三浦の松山に立つ 大学の試験所と云ふ一つ家の百尺うへの松のむら立 海ひかり龍舌蘭の葉の末のまだ萎へたる二月の相模 芝原の蜜蜂倉に人の立ち母屋はかすめりふるき水荘 四百年醒めず三浦の入道の眠るところのあたたかきかな 白蘭のごとつややかに富士の見え三浦の霞その下に引く (以上) 天津に諸侯集ふとつたふれどオリンピヤなる話に如かず わが聞きて燕京の人梅氏にも勝らずなりぬ孫文の名は みなしごの宣統帝のいでましぬ支那の芝居の舞台の上に この人はあはれ六根清浄にして言葉のみつつしまぬかな きりぎしは榛の若葉のしづくゆゑ濡れてめでたし臙脂の色に 日の影の向ひの岸の落葉松の林に残り川くらくなる 皐月とて榛と楓の木下みち狭くあやふくなりし渓かな 寂しさと華めかしさを備へたる榛の若葉の山と思ひぬ 伊香保路のみどりの榛を覗くなり下野の山岩代の山 三時して地は落花ゆゑ埋もれぬ烈しき心もつ桜かな こちたかる魂などは無けれども夢見てありぬ春の野の雪 尾の上の雪むらさきに染み行けばさびし二月の夕ぐれの風 天上の夢のつづきを見る如き野辺の雪解の水だまりかな 小雨をば薫物のごとたのしめる園の端なる濃き紅つつじ 木蓮の花びらを立て船ひとつあらはれしかな水平線に 春の月唐紙のやうに破れたる雲のあひだに覗く空かな うつくしき柳の指を見てあればやがて湖畔の月夜となりぬ 春の雪たちまち解けて若やぎて草の間を走るならはし 鴻ほどの雪をおとして気上れる若きめでたき常磐木の枝 枝なるも散りつつあるも光よりさらにいみじき山ざくらかな 苦しけれ思ひ上ると云ふきはに至らぬ人の証ならまし 侮られ少し心のをどりきぬ嬉し薬に似ぬものながら 北南式家か知らず藤原の子の白蓮にわれをとるとよ 雛の顔粉黛つねに新しや紅の単衣は褪せにけれども 市松すらゆかりありとし見そなはす心めでたき雛の大君 文づかひと物見車の並べるを雛の都の大路と呼ばん 雛の棚外はさばかり雪降れど笠をもてるは藤娘のみ エヂフトの朝の雲とも云ひぬべき樺色つつじ長たかく咲く 近づけばあてに小き雛鳥のむらがる如き白つつじかな わりなけれ野方の村の友の来て霜を語れば霜踏ままほし 友なげくことの起りをたづぬればよき妹を得んとせしため 夢よりも幻は濃くそれよりも少しまされり仮の恋人 皆負ひぬ友は尊き天主をば我等は恋を重き荷として 納谷殿の書院なりつるみ寺にて聞きならひつるいにしへの事 一いろの枯野の草となりにけり思ひ出草も忘れな草も あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙のしづくかかれば 落葉寄れ美くしと見んさかしらを云ひ出でぬべき人と思ふな 夕風や隅に植ゑたる呉竹の上のみ動く化鳥のやうに 足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米とわれ 第一の人たりしごと歎くなり病める心は云ひがひも無し 知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず 銀杏葉の風あしがらの遠山の青のおもてに吹かるる夕 石の路長し初めはこし方を今思へるは今のはかなさ 日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花 秋の川雁の声ほど濁りたり染屋の横を流れてくれば 朝まだき萱草色の蛾に逢ひて窓をひらけば暗き霧降る 物思ふ耳に折ふし入り来れば虫むらむらに鳴くここちする 月見草油尽きたる灯のやうに哀れになびく朝風の中 ひるがほの這ひ上りたるここちする正午の月もはかなかりけれ 野の風の秋になりぬとわれ知るや身に沁むことを思ふ続きに 亡き人の生きてまた死ぬ夢ばかり見ればわれ知る病あること 北郊の灯とむらぎえの夜の雪を田端の台の上に見るかな いつまでも昔の今につづくこそはかなかりけれ哀れなりけれ 衰へてだにかなしけれ死ぬことをたやすきものに何思ひけん ひなげしの中に一もと紫の大人の罌粟の立つ朝の畑 わが摘みて板間に置けばとりどりに皆うち背く瓜もはかなし 夕立はなわすれ草の色をして半晴れたる御空より落つ 撫子の乏しく咲ける園なれどうらなつかしき夕風ぞ吹く 身の弱く心も弱し何しかも都のうちを離れ来にけん 森暗く夜に立つ村とすでにわれ知りて住めども病めばはかなし 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな ひるのほど雁来紅をめざましと見しより紅き東京の空 箱根路の渓間の蛍急がねど迷ふかたちのあわただしけれ 哀れなり逢はで心の通ふとはまだ云ひがたき中らひにして 右の人ひだりの人の心にも潜まん影は作らずもがな これは唯だ涙なれども山の滝岩にそそぐと異ならず落つ 地の上の清きこと皆失へる五月雨と云ふ頃の安かり 五月雨の瓦の色に明け暮るる世の中に居て恋し見まほし 人何と世は何ぞとも思へらず三時の食のものうきばかり 朴の花暫く子らの覗くなり星の蕋ぞと教へしやうに 草に居て隅田川をば思ひけり白帆を張れるひるがほのため 思へらく崩るることも盛りなる姿の数のひなげしの花 月光の下には四つの岬あり月をめぐりてむら雲のある 人の園渓あひなどの隈ならでひろきところ住める雑草 春が先づ駆け寄りけらし爆薬の火花をのせて立てる桃かな 散る時はひそかに呼びぞかはすなる桜と云へるあてなる花も 有ることは夕風吹きて花白く漫りに散ると云ふに過ぎねど 波のごと後ろにかへる心なく寄するがままの白き花びら 山吹の二つの岸を巣になしてしろき翅の山川うまる むらさきも青も重なる山を負ひ海に向ひて散るさくらかな 重なれる岬も山もあはくして桜つづけり虹の長さに 大海へ川の続きに誘はれて散りゆく如き山ざくら花 耶蘇の妻サンタマリヤの嫁君は無けれど君に似るここちする (徳富蘇峰先生令夫人に) 流星も縄とびすなる子のやうに優しく見えて河風ぞ吹く 煙草よりまつ毛ばかりの煙立つその灰皿と動くひなげし 飽きはてぬ靴の底縫ふ針たらん草の葉のごと生きてこしかど これなるは忘れし後と云ふ心初めも無しとなすに至らず ことごとく昨日となれば百歳の人もおのれも異ならぬかな いにしへの涙こぼれぬ今日と云ふ時を忘れてわれを忘れて 炉とわれと唯だありなまし用無しや倚らん柱も人の心も 木の下の真白き雪と曇る海二つの夢のここちこそすれ (以下鎌倉の内山英保氏を訪ひて) きさらぎの雪と椿をこもごもに踏むや冬柏山房の路 山荘の倉のあたりの落葉よりすくなく残る春のしら雪 松たかく三昧堂のここちする越山荘のうらやまの倉 鎌倉のたそがれ時となりにけり磯やや遠く梅立てる家 谷谷によどむ煙霞とはだら雪ひとしくなりぬ日の落ちて後 青つづら金線草めきてかたくなに生ふる二月の岩山の路 鎌倉の二月の海の夕風に毛欅の小枝のさわぐ渓かな しら波と雪解の水と流れ合ひゆるく曇れるかまくらの海 鳥さわぎ椿のはなは土に落ちわれは冬柏山房に入る 春の雪波形をしてのこるなり松原の奥なにがしの谷 山上に道士の中の楽みを分たるる夜は忘れてあらん (以上) あかつきに鳥のねぐら近しやと聞く鎌倉のきさらぎの宿 (以下鎌倉の香風園にて) ありし日の獅子王窟にしら梅の香が覚ましたる暁の夢 鎌倉は朝も恋しき思ひ出も海の方より寄り来るかな 一夜寝る旅の思ひの種はひに遠く旅立つ人をこそ思へ 梅立てば常に故園のここちすれ旅馴れし身にあらねどもわれ 雪したる裏ほのかなる黄を見せて立つ梅ありぬ暁の園 くろ髪も鷺の頭になしはてぬ雪の奥にて朝湯の立てば 傘さして渓の雲をば見に出でししるしの路は紫にして あはれにも身の伴へる雪かとて涙こぼれぬ階上の客 雑木山雪噴き出づる泉かと傘傾けてうたがひぬわれ 昨日の値なき身はしら雪のせめてめでたく降りつもれかし のどかなりただ煙草のみ涙のみほろ苦しやと数へられつつ たをやめの採蓮の船現れん池のここちす雪まばらにて なにがしの尼の許よりこしやうに雪を被きて立てる梅かな 山かげの香風園の前栽にみぞれぞ落つる蝋涙のごと かまくらの雪より雨にうつりたる日の小暗さもなつかしきかな 雪の山吹雪の渓のめぐるなりはかなき過去と未来のやうに かなめ山青銅のごとくしづかなり雪のなだれは裾にすれども (以上) 美くしと恋の誠もいつはりも一つのものに見なさるるころ 船の絵を見ても心の動くなり旅行く人と逢ふ日知らねば 愁とて心にひそむことも皆光りて舞へり楽音に由り 楽音が浮ぶる舟にわれありて眺めも入りぬまぼろしの人 わが見るはこし方にのみ限らるる夢にもあらず哀れなるころ 死ぬ日にも四五日前の夢とのみなつかしきまま思ふならまし 三月に春のうつると身に沁みぬときめくことと同じけれども そよ風や白蘭の泡ほのかにも立つと見出づるあけぼのにして 春降るは空より散るにあらずして煙が成れる雪にかあらん 雨のごと続けざまにも落ちずして涙と似たり春の夜の雪 落ちて来て波のしぶきの如く消ぬ春ふる雪のさびしき姿 過ぎし日の冬の雨とも云ひぬべき春の雪をば如何にしてまし 春の雪それより白き家並ぶ町に降れればあぢきなきかな 恋すとも恋ならずとも夢になほ煩ひしこそ哀れなりけれ 蔭ならぬところも蔭もいみじけれ恋の心は紫なれば 物思ひすと云ふほどの唯ごとの唯だならぬ世もわれありしかな 桜咲く盛りの春の静けくてはたなつかしく冷たかりけれ 二本の椿丹塗の反橋を作るところにうぐひすぞ啼く 白蘭は春の流せる涙ぞと知れども春のめでたかりけれ 春雨に濡れつつ町の車馳せ谷中の丘にさくら白き日 長恨歌なりつる世より天の川身にも沁むまで真白くなりぬ 美くしき雛いつくこそ嬉しけれ若き帝の大御代にして 大谷川折れてまた見ず山風の波に代りて騒げるところ (以下日光にて) 白樺の平にいたり湖の国踏み初めしここちこそすれ 一行に絵師のまじりて山を描きわれは山のみ思はざるかな 湖上よりいと鮮かに起りたる男体山はいただき曇る 水のいろ二月ばかりの夕ぐれを深く保てる普陀洛の湖 千鳥飛ぶ傘の骨ほど細く反る桂の枝を透して見れば 雪の山湖上にありて吹く風も消しがたき火を抱きてこしかな まことには帆布の厚さならましと白根に置ける雪を思へる ふためきて板屋楓の花房をおとすゆふべの山の風かな 峰かへで水楢の木の運びこし雲より降りぬ夕ぐれの雨 わが心山のこころに半をば抱かせたれどなかばは反く 強雨かな深山の鳥のもろ声に啼くかと思ふみづうみの音 わが在るは南の湖畔桂立ち甘く苦しく雨もこそ降れ みづうみのくだけて散るに異らぬ雨吹きおろす半月の山 湖に撥の手ありて雨の絃はげしく弾けりいかづちは鳴り 人間のわが難行のはてに無し天狗は持てり宿堂坊を 桂立つ木の間隠の湖へともし灯の矢の落ちてこしかな 灯の見えぬあたりと人の教ふなりあはれ千手の浜を忘れじ 旅をしてげにもと人の聞きぬべきことの外なる涙流るる みづうみの朝の白さに誘はれし閨の寒けれ砂原のごと 見てあれば山の世界の暁も恋ざめのごと白けてぞ行く みづうみの奥に虹立ちその末に遠山なびく朝ぼらけかな 大鳥の虹の片羽のかがやけり宿堂坊と黒檜のなかに 虹多き湖上よ山に這ひたるはうすき緑のから松の虹 山なれど雲井に虹の去り行けば伏したる人の如く寂しき 湖水巻く五月を知れる雑林の臙脂とみどり枯萱と雪 ありなしの男体山の鰭と見え女貌の峰ははかなかりけれ 思へらくあはれ何をば防がんとわれは二荒を前にしたるや 湖畔より足尾におよぶ楢の青白根につづく枯草の路 五月なほをどるこころを持たぬなり女にあらじ大山桜 水涸れて大尻橋も棧道のここちするなり朝霧のなか 朝出でて湯元に入りし友の路これぞと見れば山おろし吹く 馭者の鞭青き湖水を撫でつつも湯元がよひの馬車近づきぬ 葉の出でず狸の毛ほど赤ばめる木のつづきたる山にこしかな 水荘の口は刺木に塞ぎたり馬も娘もさげすみて行く 新しき土となりたるから松のおち葉もさびし奥山の路 白樺の林の清さつめたさに主人の捨てし三つの水荘 湖に二荒の裾の大崎の臨むをきはめさびしくなりぬ 高嶺より白樺の風流れきぬ裾野の馬車に路をゆづれば 男体の山の割目をから松に補ふわざもはかなかりけれ 底青き貝の光のみづうみに今船の居ずものの音無し かすかなる風の音にも耳立つる寂しき山の湖にして 金色のいとかすかなるものなれど人土筆摘むみづうみの岸 土筆つむ友にならはず目に見ても毒うつぎ程めでたからねば つたひ行く雲寒ければうなだるる山のホテルの石楠の垣 わが友は立木の仏拝まずて深山木の名をならひてぞこし みやびかに芽生ひの桂つづきたる渚へ朱の船も寄れかし 午後三時二荒をうつしあますなく広き湖水は憂鬱に落つ 常磐木とから松の斑も稀にして男体の山さびしき五月 湖がくらげのやうに光るなる怪しき国に来て泣けるかな みづうみに夕日の光注がるるところに遠きわが渚かな 日を受けて輝く色も蒲の穂に過ぎず寂しき二荒山かな 山山と湖水巴に身を組みて夜のけしきとなりにけるかな いただきの雲は真白き焔上げ夜ぞ明けてゆく男体の山 山上の天明の色隈のあり千手の浜はむらさきにして 湖の光につきて浮べどもうつつのものに遠き山なみ 男体は枯萱色の山なれどわかき五月の雲ゆききする から松の淡き緑の這ひたればたのまるるかな五月の二荒 褐色の男体山に晶玉の身もて寄るなりしら根と湖水 うぐひすや白根のふもと湯元より友かへりこし湖の宿 日光の奥の華厳に入る路は金色の毛の獅子に乗らまし 白樺は皮を剥がれて痛げなり大名牟遅来ていたはり給へ 目に見れば華厳の滝も涸れはてぬ底の方にて水の鳴れども 山により浄く生きんと三日経れば思はん人もありぬべきかな (以上) 炉を置くとひとしき程の思ひをばわれ身に近くいつ覚えけん 近づきぬ遠のきぬとも聞かずして定かに知るは誰の立所ぞ 椿をば幸ひの木と仰ぎたりおなじこころの童と大人 おち椿くれなゐ染の袖振りてわが手のひらへ移りこよかし 山の池楼船のごとめでたくて高き椿の立つなぎさかな 隣なる白き椿の不思議をば解くすべ知らぬ紅椿かな 地の上の節分至る草木の端に今日よりつらならんわれ 小雨降り畳の上に梅の鉢おくしどけなき春の日となる 去年の萱なびく山をばうとからず眺めてわたる春の日輪 小雪ちり近江の琵琶のみづうみの白さに明けぬ正月の空 わが待ちし人にあらねど元日の昼降る雪のなつかしきかな 正月は松風よりもまろうどの男の袴さやかにぞ鳴る 山の草花の咲けるも咲かざるも獅子頭ほど烈しく動く 山涼しほととぎすとも水鶏ともひぐらしぞとも定めず云へば 樺の木も隣の国のみづうみも真白きものの涼しきゆふべ 水鳥の一つの如し手を打ちて呼ばまほしかる睡蓮の花 うす色も刺青めける斑のあるも皆あはれなりひなげしの花 ひなげしは雨に打たれもはてにけりわれは散らずて思ひ乱るる 雨雲の層厚くしてアカシヤの花蝋のごと白き昼かな 朝より動かぬ草を前に見て変る心をはかなめりわれ 藤のふさ子安の貝の蕾をばつらぬる園の夕月夜かな さわやかに月夜の竹の鳴るものか明るき夢の国作るとて 初夏の雹こぼれきて鈴蘭のシベリア見ゆれヱ゛ランダの下 あけぼのの明り夕のひかりをも重ぬる山の皐月の若葉 行方なくはてぞなりゆく奥箱根大涌谷の業のけむりも (以下箱根にて) 過ぎて行く水の急ぐに宮城野の川よ何しに石多く置く 箱根路の石の欄干も宮城野を過ぎたるあとはありなしにして 空はづかゆふぐれの絵を人見よと光を放つ仙石の渓 暮れはてぬ山と空との間なる素肌のいろの恋しさも無し 風吹けばわれをわれともなさぬなり蒲柳の質の温泉の靄 年尽きて待ちつる春に人の逢ふ夜なれど山は嵐のみする 山風の浴室に入るところよりすこし覗かる大空の星 夜半過ぎぬひらと落ちこんさまも無く思ひ悩める奥山の月 山の湯の湧くところなる小き空下は月夜の仙石の原 冬もなほ歌の律よりはやりかに水おつるなる朝ぼらけかな 渓の底仙石の村月明ののこると見えてほのかに青し 仙石の渓をやうやく越えつれど長尾に遠し有明の月 一月の足柄の奥風猛しうごかぬ山もたのまれぬほど おほけなく日の照り曇り目におかぬ都を出でて旅に寒かり 足柄や渓の刈田はうすらひを結べど寒し笹山にして 笹なびく旧き箱根の裏関所それよりつづく湖尻の路 はだか木の林が被く笹山のおくの箱根の浅みどり色 のろし上げ塔を立つれどかひなしと大涌谷の靄消えにけり 光ある所に置かれ白菜の根のここちする雲をかしけれ 仙石の下湯の絵図を見て立てば長尾越えより馬駆けて出づ 百里行く人の立ち寄る如くして道しるべ読みそれより帰る しら雲の珠の色にもうるみたる箱根の上の一月の空 冠嶽鬚の跡ほど青くして冬の空よりやや濃き日かな 身を置くは半月の輪の北箱根眺むる空も半を越えず 葦毛より山青けれどたてがみの裸林はまことしきかな 氷より鋭き山おろしわれ死なで渓を越えしめ仙石の橋 池の波から松の穂のかたちして一方に寄る風のまにまに 山あひは霧の世となり大空は琥珀に透きてあてなる夕 旅びとの夜を恐るるも皆知りて山に隠るる赤き落日 悲しやと云へば然りとうなづきてまた額上げず山に入りし日 光無きものもめでたし黄昏の青磁の色のむら山を見よ 風荒しもの恐れする耳なんど不覚にもちて山ごもりする まじものが勢を持つ夜なれど廊よこだまは作らざれかし 水の奥二間の障子都にて恋しき時のありぬべきかな いのち無きものより命あるものへ移るけはひす夜半の山風 神山の昼も陰なる胡桃いろ月のもとにはほの白きかな 千粒の朝日を池に拾はまし風の寒きは山のならひぞ 寂しさにうたたねしつつ云ふことよ箱根に入りて山の気を病む 日の雫今は駿河にしたたると見るほどもなく黄昏となる 池やがて雁がね形にこまやかに波を作りて日の暮れて行く わたどのに重なる楼のさまに見ゆ夜の台が嶽灯をば置けかし 雲低く垂るれば原の薄さへ雲つくものと見なさるるかな さして行く姥子の方に青色の追はれて残る雪雲の空 雪雲が負ひつる山を消しつれば遥けくこしと思はずなりぬ 姥子より湯のつたひこし路ぞとも云ふにふさはん路をつたへる 雪雲がわづかに残す三角の空と山ゆゑはかなかりけれ 西の方長尾もあらず目のはては今降る雪のまぼろしの壁 地の上に至りはつるは見えずして烈しく降れる遠方の雪 萱の山うしろにありし雪雲の路立ちふさぐ一瞬にして 旅人に心をおきてすこしづつ寄りこし雪がたけなはに降る 神山と長尾のなかの原打つは潮騒に似て空に湧く雪 萱草と雪にまみれてわれ立つや冠が岳のしたの平に 絶え絶えに続ける路もいたるべし雪に埋れん姥子の温泉 みさかなの芋頭など取り出づる納屋の口過ぎいたる浴房 たぐひなく底澄み透り木の葉浮き木耳光る姥子の岩湯 姥子の湯春の海ほど温めども奴はすすむ細き据風呂 姥子湯の青き洞より出でつれば魚たちまちに人身を享く 通り雪紙巻き去ると云ふよりも速く去りたる奥箱根かな 忽ちに湧き上りたるものなれば富士散りはてんここちこそすれ 姥子の湯古城のごとし九つの藁屋つながり富士と向へる うまやより二階の窓を見上げたる馬うつくしき山の湯の宿 やはらかに姥子の宿をつつみたる灰紫のよき林かな 姥子にてわれの得つるは竹の杖外の三人は木の枝の杖 蘆の湖黒みて見えぬ姥子より雪の山路を踏みて下れば 見るかぎり玳瑁色の萱山の起伏したるみづうみの北 湖尻の船着場にて柑子などあがなふを待つ神山のもと 三つばかり黄なるくだもの手に持ちて人の出でくる船着きの小屋 見かへれば人数足らずと云ひたりし船なりしかど湖岸を出づ 湖を抜けて走れる川の音聞きつつわれも薄の野行く わが路とおなじ方へぞ引かれたる長尾の雪の一筋の路 白き龍長尾の洞に入らんとし尾は仙右の村に隠るる この相模国郡なかば萱草と思ふにいたる半日を行き 遠山の前髪がたの青き尖見ゆあしがらの円山のうへ 国府より役に召されて出づるごと萱野の路を息づきて行く 萱山のいくつを越えて帰りきぬ北足柄のささ山のもと 水上も下もうつくし雪降りて岸より白き川の石かな わが靴の跡より消えんうす雪の山踏むこともなまめかしけれ 沈みつつ黄に輝けり駿河にて丹の色をする夕日ならまし ささの葉と煙霧の色と重なりて遠方人の青山となる 夕ぐれの煙れる山になほ白し指の白さの襞ごとの雪 あきなひに乙女峠をかよひつる薬屋いかに仙石の冬 麓なる寄木細工もこひしけれ仙石原は雪の日となり 氷りたる山田なれども遠く見て咸陽宮の瓦のごとし 麓なる杉は茅花の穂の如し山にわが踏むむら消えの雪 いただきを中の林を人の行きわれは裾野の草にからまる 萱踏まれ藻よりほかなく乱れたる上につもれる箱根路の雪 大川の水音ならば大事なるほどに増しゆく風のいきほひ 大地獄その湯の靄と山の雪夢とうつつの白を並ぶる 帰る朝大涌谷は靄上げず否と云はるるここちこそすれ 廊下にて車の値をばこくめいに説くも佗しや山の別れに (以上) 山あひにわが置きてこし湖のおとには似ざるわたつみの音 (以下五首静浦にて) 松しげる雀が嶋は花笠を被けるごとししら波のうへ 紫の水晶成りも出づるごと濃くなり増さる夕ぐれの国 われわれは昔伊豆より海を見に通ひし人ぞ多比の洞門 洞門を馬に引かれて車入る昔も時にかへりくるかな 妹と背の祈りの机二つ立つところならまし天国の門 (以下娘の山本氏に嫁しけるに) 身にまとふ白き衣が隔てたる世は世なりとも親を忘るな 婚姻の鐘鳴り親はふためきぬものの終めかものの初めか 子は誓ふ神の光を迎へたる御堂のおくの高窓のもと 涙おつミサの終りの歌声の軽くいみじき波に浮きつつ まぼろしのいみじきを描きすすみ出で御堂の男女聖体を受く 二つ寄る帰依の姿よ長老の錦袍うごき燭はまたたく 頼むべき人を我子に与へたる天主を讃めんわが世界より わが七瀬夫が母君をならひなば安く到らんサンタマリヤに 司祭君御子を賜ぶなり羅馬にてわが名ほのかに聞き給ひぬと (以上) 芝草のいとふくよかに臙脂して霜枯れたるはなつかしきかな 冬も来て青き蟷螂きりぎりす炉をめぐりなばをかしからまし 去年は寝ね今は蔵王の此方行くともに九月の中頃の旅 (以下奥羽に遊びて) 遥かなる出羽の庄内ここにして逢ふと云ふ間に別るべき人 錦木の塚を訪ねず雨ふれば恋も知らざる旅人のごと 桜の葉まばらに赤し霧なびく鹿倉の山に倚れる林泉 大湯村米代川の白き瀬に馬のあそべる秋のゆふぐれ 寒国のならひ霰を花にしてあるやと思ふ山かづらかな くれなゐと黄の緒を縒りて行く如き発荷の谷の下紅葉かな とりかぶと発荷の五十六曲に楢かへでよりときめきて立つ 背をかがめ炉に倚り添へる形して人の乗りたる山の馬かな 云はば是れ岸を伝へる船なれど遠く来し身をなど任せけん わがホテル雑賀の木をばくれなゐの旗に代へたり棧橋の口 湖の鱒のうぶやの木の槽に流れ入るなる秋の水おと 湖の生出の山を花畑に割きて住めどもさびしからまし 思ふにはかなはず疾くもうら枯れんさます湖畔の秋の花畑 この岸の風見車のおとなども寂しと聞かん中山の崎 赤き実の雑賀の下に東京の夜の景物のこほろぎの鳴く やすみやの浜に二つの灯のありぬくちなしの実の浮べる如く 九月をば炭火の上に手かざして物思はんと思ひかけきや 子の口へ向へる船を主人より遠眼鏡借りのぞくひと時 夢みつつたどるも醒めて歩むにもかなへる山の湖の路 雑賀の葉くれなゐの実の色に染みわれ先づ散るは哀れなるかな 隣なるみづうみと見ゆ降る雨に花部の山の上じろみつつ 暗き雨底にし沁むやみづうみは平かにして波も無きかな みづうみに岬を持たぬ北の岸さびしきままに雨雲を呼ぶ ほの暗き水のなかより現れて中山崎の泣ける雨かな 桂月の御墓の立ちし蔦の山奥入瀬川もあまぐもの奥 ひねもすの雨にまぎれて湖へ隠れんとする中山の崎 板廊下次第に山の雨に濡れ家せまくなる心ぼそくも 枝すべて嵐の体につながれて逃れがたきかあはれ山の木 山の木も嵐の難に笛を吹く船にならふと哀れなりけれ 湖の色雲の乱れのほどよりはつつましやかに動くなりけれ 山なかば巻き隠されてからうじて岬の残る雨雲のもと 斜めなる花部の山のむらさきのまぎれん方もなき朝かな 鴉より黒き羽ある鶏の出でてあそべるみづうみの宿 桂の木珊瑚ばかりのもみぢして汀に立つは美くしきかな 清しかる湖上の寒さ雲とある星の寒さやこれに似たらん 行きあひぬこれも二三の旅人の身を托したるたななし小舟 岩こごし御前の浜のしら砂につづける神の道なるか是れ 岩せまく木の根の高し龍の身の南祖の坊の住みし中山 目の前におうらなひ場の淵の水たたへたれども卜せで止まん 紫も臙脂も岩の色にしてあはれさびしき水の国かな わが船はおまへが浜の港にて雑賀の木をば仰ぎつつ待つ 岬の木石と親み一草の立つを許さぬそのもとを漕ぐ そのむかしいひがひもなく仙人の酔ひたる嶋の二もと紅葉 近づけば襞やはらかに広がりて船を迎ふる中山の崎 一夜嶋ひと夜の後のいく千とせ冷き水に浮ぶなるらん 一夜嶋同じ朝に忘れしやなほ一人のみ思ふ名なるや 自籠の入江が押しも出だしたる船のここちす愛で痴れなとて 雲ならぬ雨のかたまり穂薄の色のかたまり湖走りくる みちのくの百里のはての湖の船にて雨に逢はんとすらん 中山の崎と生出のあひだなる湖上にありぬ雨雲と船 鱒釣るも我等のあるも朴の葉におほく勝らぬ湖の舟 湖の秋の男のすくへるは絹のうろこをまとひたる魚 たそがれに色有山のさびしきは色あるがため臙脂なるため 天の川湖水の光しら雲の入りも乱れてわりなかりけれ 下つ屋に楼をゆづりて入りつれば頭上に見えぬ船のともし灯 かがり火の燃えつつ三つの獅子舞へり津軽の秋の大農の家 (以下津軽にて) 美くしき夕月篝火わが前のをどりの獅子の金色の角 みやびかに岩木の山の紫に似る袖を振る津軽の獅子は 田楽の笛ひゆうと鳴り深山に獅子の入るなる夕月夜かな 深山は柳の枝にかたどられ舞ひぞ入りくる紫の獅子 都より北の津軽におよびたる松の並木の夕月のみち まばゆかる大和綿と云へる名の林檎の枝にかかる月かな 七八人岩木の川の橋に立ち見たる津軽の夕映のいろ 夕映や十三湖より通ひくる風ひややかに川赤きかな 法師めき顔つつみたる馬の行き裸馬すぎ橋たそがれぬ 客人となりて餌差の追分を津軽に聞けり雁渡るころ 神の代の岩木のさくら寛文の建立の門あかき秋かな 岩木嶺に目屋の平を見て立ちぬ片時のちは霧の隠さん 龍胆も蔦の紅葉もあぢきなき別離のきはの山歩きかな わが友の引きつる草の紅葉をば手にしてやがて別れ行くべき 軒廊や何に捧ぐる火かと見ぬ三つ五つづつ積む林檎とて 名も知らぬ岬に灯などつき初めて悲しき陸奥の麻蒸の夜 船の笛例のこととも思はれず身に沁みわたる山より来れば 燐の虫波の中をば行ききする海の秋こそなまめかしけれ 長安へ続くさまにもあらずして寂し五戸の大路の柳 (以下南部にて) 南部郷五戸の館の丘に立つ十和田の方に日の落つるとて 桂月のいます世ならで今日逢へる蔦の温泉の分れ道かな 秋風の奥なる山をしめやかに濡らして過ぐるおいらせの川 深山木を天に次ぎたる空として重くうつせる奥入瀬の水 岩窟ありすでにたどるをいはやとも水の底ともなしたりし路 焼山を子の大滝にいたるまでまことに人を見ぬ路なりし (以上) 東京へ寝に帰るべき家無しと子ら悲まず母のみ歎く 移り住みやがて都の恋しさに心のうごく秋の夕かぜ 野に住みぬ今は都に反かんと思ひ掟てしはてならずして かずかずの画舫を織れる錦もてわが心をば巻くよしもがな 見て立てば不老の門のうちにある身のここちする錦なりけり 織られしは獅子の巻毛よ春の夜の錦の袍にこれを裁たまし 花鳥を菱形にとりめでたけれ春の夜明のうす黄なる帯 なつかしき黒地の帯よ円をおき都の華奢をその中に置く 那須の奥山ふところの家家が積み重ねたる秋のともし灯 (以下那須温泉にて) 今朝過ぎし那須野に雲の厚くして秋の夕となりし山かな 那須の湯にありとせし人はたありぬ山ははかなき世に似ざるかな 硫黄の黄女郎花にはあらねどもそれらの岩も霧に濡れたる 立ちこめし雲の間に残りたる薄とわれといたどりの草 しらじらと殺生石が与へたる不思議の如く動く雲かな 雲の紗のひろごり薄うら若しまことの賽の河原ならねば 渓ひろく渚の如く白ければ殺生石もつめたからまし 雲払ふわざを備へしうら若き薄に沿ひて危きを行く 家ごとに那須の嶽ほど瓜積めり元湯の渓の片側の町 目じるしの理髪の家は宵よりも朝寒げなり秋の湯の町 楼に見る雲の動かず渓なるは人よりも疾く走り行くかな 板の橋足らぬ半ば秋の水踏みて越ゆれば山がらす逃ぐ 式内の社とおなじかしこさに老いにけるかな三つ葉楓も 山涼し鳥の脚ほどあえかなる薄のなかを雲と歩めば ましぐらに那須へ進みてこし雲の匂ひもまじる花草の原 秋の水赤土山を流るれば音のみ澄みて目に立たぬかな 暁に山ゆきかひし白雲のしづくばかりの小き池かな 山にあり夢もうつつも平かに足るも足らぬも無き世のやうに 霜降れば海に変りて風立ちぬ那須野が原は秋の真昼も 三坪ほど浦嶋草をつくりたる泉の家に路のかへらず 那須の湯の芝居の小屋の口なども洞の如くに雲ゆききする 家高し雲の下をば座頭笛ゆききするなり那須の湯の秋 わが昔前座が原の草に寝て忘るる術を知らざりしかな 草に寝るまぶたの上にありつるが飛びぬと見れば黒き羽の蝶 雷鳥が羽変りなどするやうに山をば白く雲の包めり 那須嶽の夕おろし立つ前座原草の枕を山のゆるさず 前座原二町へだてて臥して云ふ言葉も通ふ山のかこめば 前渓も北山渓も霧湧けば我身よりさへ湧くここちする 重ならば暗き夜ともなるならん白き姿の山の夕ぎり 夕なほ明るき山を下りくればあなぐらめきぬ温泉の町 わが山は雲走り行く道となり冷たき窓となりにけるかな 入りてこし夕の雲の中になほ三味線を弾く隣室の人 軒の上烈しき霧に蜻蛉などしきりに落つれ雨音のごと 湯の裏はかづらの花が月の色してうち掛かりしづくする山 山の夜の雲に混りて入りし蛾のやがても鈍く這ひまはるかな 山の蛾のよりも添ひたる障子開け那須の夜おろし迎へんとする 雲迷ふ那須野を下に見る山の朝の日かげの美くしきかな こほこほとラバを敷きたる道鳴れば恐れを帯ぶるわが上の雲 秋風に牧の仮屋と覚ゆれど母屋を浴槽に作る八幡湯 秋風と物云ふために備はれる八幡の原の温泉ならまし 神などのあてにすずしき手のひらへ置きしさまなる原の温泉 霧探しいかにたどれと云ふことか北湯朝日の温泉の路 風のごと大丸の湯の通ひなる山の男の消え去りし路 しろがねを那須の煙の巻く時はましてはかなき朝霧と見ゆ 朝日嶽鬼のわらはの憎からぬ角ある顔ののぞく高原 黄金の千手のやうに女郎花立ちも咲くなり暗き渓底 悪縁も心引くごと硫黄嗅ぎ那須の奈落の渓つたひ入る 女郎花われもかうなど挿してこし部屋を思ひぬ元湯まで来て 大神を与一の念じたるよりも深く念ずる時の湯の人 山の雨石の置場を打ちしのみ止む世を知らぬ昼の三味線 白を著て北山渓に入り立ちぬ身に沁むことのなほ足らぬごと 霧軽し山の茶亭の白旗の重たげなるはせんすべも無し 水桶へ薄の穂ほど水おとす峠に待ちぬ霧の晴れ間を 橋なれど崩れし家の棟木など渡るに似たり秋の山川 奥の湯のわれは八幡に通ひ行く今年の秋の物好きとして 山主がしるしの柵をおくこともはかなし秋の那須の山踏 われ知りぬ下界と雲の間なる山の温泉はなほしるし無し 秋霧をかすかに吸へり山上の八幡の池の睡蓮のはな 極熱の那須の元湯のあふるるも忘れて吹けり山の秋風 宿宿の灯かげの末に珍文がおどけ語りの小屋の灯もつく 瞽女の吹く笛に這ふなり湯煙が道の中より白く上りて 秋のかぜ那須の七湯が雲とある暁がたにわが心吹く わが肩に霧ぞ加はる恋などの添へるが如く身にも沁むかな (以上) 須坂より山田に入りぬ千曲川豊野の橋の恋しけれども (以下北信に遊びて) 彼を見よ川の底にも橋ありと上の高井の橋より覗く 街道の橋より云はば松川の千尋の底の渓にこしかな 松川はいと哀れなり白樺の木立ばかりに白く濁りて 松川の淀に下り立ち奈落をばきはめしことととりなしぬわれ 湯場の町板敷のごと清らなり月の射せかし雨そそげかし 上州に行く馬車あれど雇はれず飯綱山に向ひてぞ立つ 夕明りげんのしようこを次次に人たづさへて現るる坂 山田湯の草津街道草津をば人のおもはず薬草を摘む 夕明り湯場の宿屋の屋根にあり叩き花火の初まれるころ 明星は山田の湯場の用水のあふるる音を親みて聞く 大湯なる湯じまひの笛夜鴉のあわて出づべき頃に鳴るかな 杓をもち山田の湯場をゆききするともがらとなり涼しき信濃 山田町大湯を中にめぐるなり寂しき時は相も呼ぶべく 連山の白馬の嶽のしら雪も秋にいたれば穂すすきと似る 千曲川船橋いくつ眺めつつさして下りぬ北海のかた 空晴るる日は曇るとよ千曲川さはな愁ひそ人咎むるに さしてこし犬養山は雲立ちて繭ごもりしてさびし湯の町 潮の鳴る如く温泉の山に鳴る信濃の奥に入りておどろく しろき雲通ひ馴れたる路ならんしづかに歩む犬養の山 忘れたる恋の地獄も思ひ出づ石につたへる熱き湯を踏み 内湯には馴染つかざる心より寺湯におりぬ向日葵のみち 山繭を一坪はかり乾す外は焼杭に似る寺の湯のさま 白き馬ただ頭のみ現はして杜鵑の如く涼しげに鳴く 犬養の湯に雨降れば越の国いよいよ近く思ほゆるかな 雨雲を横より見れば華やかにしろがねがちの物にぞありける 傾ける萱の屋廊と青柿を忘れざるべき真湯のみなとや 程よりもふとき薄の刈られずてしるしに残るみなとやの門 提灯を得て犬養の山踏めり恋の闇にはあらぬ闇ゆゑ 野沢湯のたんだら町の中程の灯のあたりにて馬のいななく 御仏の観音山の朝露も思ひみだるるすがたなりけり 町よりも水の流るる筋多き野沢の里を朝歩りきする かずかずの雑木も萩にまじはれば弱げに見ゆる朝露の山 月夜には軒に近づき朝となり雲よりをちに去りし山かな 豆のさや緑の雲のさまをして烹られたるかな麻釜の大湯 火に代ふる熱き泉を人見たり火に代へぬべき心は知らず 家家へ蜘蛛手に引ける湯の管も全からねば白き霧吹く 丈をなす白髪のごと美くしき晒しあけびは編まれずもがな 白き雲流に添ひて動く時山も引かれて行くここちする 二筋の虹のうしろに白き雨舞へり野沢の渓ひろくして こりずまにわれも物など思ひなば悲しからましいかづちのもと いなづまし昔恋しき虹を吐く山のなすことおほむね斯かり 門出でて有明月にわが逢へる路も霧吹く湯どころの町 みなとやの渓の離れに下りつれば蝉に混りてきりぎりす鳴く 夕ぐれの虹をくぐりてわが車いでこし山になほ人の立つ 仮橋を踏めば信濃の秋の風心さだめずゆらゆらと吹く 飯山の下の船戸の仮橋の尽きて夕のうつりけるかな 夕ぐれの国つづきたりわが添ひて上る千曲の水の彼方に 吾嬬の笠法師山のぞくなりくらがりにある旅の車を 先生はいよいよ痩せて居給はんこの山川の出づるところに 山荘は立秋ののち風騒ぎぎぼしのうごく藻の花のごと 身に沁みぬ唯だ耳にして聞く時は蝉の声より弱き秋風 碓氷なる峠にいたり王宮の壁に逢ひたり見晴しの台 頂はさすらひ歩く雲もなくただおほらかに大空曇る 妙義なる山ぎはすこし白くして一天くもる碓氷の峠 雲居たり北信濃にて蓼料をあらはに見なば悲しからまし 山山の地より起りてためらへる中にめでたし妙義の山は 碓氷川東に出づれしらじらと秋の心と云ふかたちして 赤城山かばかり外にはかなげにある日を見んと思ひかけきや うぐひすや旅の半に別れたる友もこひしき碓氷の峠 地の上のありなし山と大きなる浅間を見つつものの思はる 衣などの重なり浪のつづくより山は陰影をば積みてめでたし 水の音ほのかなるかな初秋の雲の音とも云はんばかりに うぐひすは雁の子なるや秋山に白き狭霧を吸ひつつぞ啼く 渓に入り霧積の湯にいたるべき朝の峠の雲と思ひぬ 新しく今朝開きたるうす藍の花のここちすつらなる妙義 東北の信濃の門の大きさよこの碓氷嶺に妙義は対す 山すでに秋となりぬるうら悲し友をわれ置き帰らんとする (以上) 夕立や百合の花粉の色をして小き池の濁りけるかな 口笛を吹きて楽む子の住むは星のあるより遠き世界ぞ 朴の葉の鷹の羽よりひろきをば夕立打ちてここちよきかな 松山の下の一つ家灯を置かで霞に消えぬ春のたそがれ 雪ののち紅梅病めりくちばしのあらば薬をついばませまし 枯芝と幾日消えざるしら雪に飽く紅梅の萎れけるかな 菜園の春の雪をば指さしぬ母鶏のごとふくらめりとて 空あをし鶯●台の階段に雪解の水のうちたまりつつ      (●は「山」+「見」) なまめかし小ごめ桜のちる故に雪を被きしわが桜草 灰色の風ふきめぐるゆふべさへ失はぬかな五月の若さ 洛陽の町の朝かぜゆふかぜに草のにほひのまじる七月 夜明くれば雑草の身にかへり行く月見草かな鳥屋のかたはら そこばくの森がおさへし大地をばゆるがすことのならぬ●蛄の音      (●は「虫」+「惠」) 我子らの眠れる町の夜の空のうす赤くして丘に●蛄鳴く      (●は「虫」+「惠」) 行き行きて大地の中へ沈み行く寂しさ覚ゆ虫の音聞けば 彗星が何をし出でんそれかなど世の滅ぶ日も人の云へかし 岩山の木の下風に露こぼる鏡の肌のつめたさをして こほろぎが銀の糸をば引き出だす月夜の空と思ひけるかな 園丁が天の川をば描きたるむかしの石のみちに蓼咲く あぢきなしあらぬもののみ近く居ぬたとへば白き秋の月など まだ細き笛の管より出でてくる初秋風に過ぎぬなりけり 草ならば蔓いささかものばさずで四五日ありと云ふべき心 その上に秋の心を一つおくわがヱ゛ランダの三段の石 あたらしき秋の光となりにけり夕は同じ水いろながら 遠方の灯のあかりをば負ひながら冷き露を零す草むら われの見る近頃の文短かけれ男の友と分けて云はねど ひぐらしの声に混りて降る雨の涼しき秋の夕まぐれかな とりどりの声を持ちしがはてはては一つになりし夕暮の蝉 むらむらに分れし水は動かずて一筋の水早き多摩川 初秋の水は河原を夕焼が染むるかたへにあはれ冷たし 川しろく長長と見ゆ横山の物見の台の高きあまりに 多摩の川空の銀河にくらぶれは海のごとかりはた白くして 多摩川の関戸の秋の水越えてさびしくなりぬ稲の中道 草木の花無し川は白くともいまだ初秋斯からずもがな 山山のたちども洲かと思はれぬ霧白く降り川ひろくして 都をば去りて三日へぬ寂しとは云はず病す井荻の村に そことなく曇る緑のはかなけれ春の初めの明星が嶽 (以下箱根にて) 芝山は海より角の多けれど日をここちよく載せてあるかな 裂けし山いと哀れなり雲のごとたやすく寄りも合ひがたくして 人立ちて洒勾の川の流域のことなる色を指ざせる山 箱根路に見れば屋かげの雪のごと動かぬ波の白き大磯 大海をわれは星ほど高からでよき程に居て見る箱根かな 鷹の巣に立つ日相模の海くもり磯は象牙の輪のここちする 箱根行く雪を螺鈿にちりばめし神山おろし寒き夕ぐれ 海の方まさに春なりわが山は萱も雑木も霜にまろがる この世には明星嶽を忘るべき山のあらねば箱根にぞこし 芽をなさで赤ばむ枝も翡翠めく枝も幹こそ皆真白けれ 陽炎の逆しまに這ふ岩ありと千条の滝へ橋わたりこし 落つれども恋の涙の滝ならんしづかなるかな鷹の巣の渓 それながら涙と云ふにつつましや鷹の巣山の千行の滝 渓の底日の光には忘られて千条の滝のゆらぐ玉掛く 恋をして春の夕に倚りなまし千条の滝の板のこしかけ あぢきなし蛇骨の川は瀬もあらず淵をもなさず何に流るる さざ波を縦に並らべしきりぎしの千条の滝を夕ぐれに見る 山蔭の千条の滝の前を過ぐ桜ちる夜に似るけはひかな 二三人ホテルヘ分れ入りにけり千条の滝をおとづれし人 鷹の巣の霜なだれには埋れもはてず夕は浴室に立つ 明星の山の腰とも云ひぬべき所に寄れる二三の灯かな 夜に着きて山の顔をば知らぬ友いまだ醒めずて朝霧のぼる 右ひだり弓をつなげる箱根路の日蔭日向を通ひなれたる 山のひだ中に濡れたる紙の色する二筋の寒き朝かな しづかなる夢かな白くいと長し早雲山の氷りたる川 さらしなの田毎の月を石混り氷れる川に見るここちする 上強羅氷る流はあてにしてその川の石いと醜くけれ 川ならぬ時の流れの氷れかしかくの如くに踏みて行かまし 渓川の氷ると云ふは霜ばしら山に立てると多く変らず 杉山は日のひかりこそ煙るなれ強羅の林小枝のけぶる 箱根路は早雲川に橋無くて氷を踏めどあを海の見ゆ 岩木とはひとしなみには見るべしや一夜寝ねつる山荘の壁 夕立を見し窓あれど山荘の名の打たれたる毛欅の見分かず 山の木の小枝が作る網代の目金糸雀の毛の日かげぞおつる 春を待つ深林帯の木が吸へる空の光の甘きみちかな 猟男ども猛に笹踏みこなたには春待つ林ほのかにも鳴る うぐひすの雛を拾ひし春のこと強羅の雨に宿れし世のこと 春を待つ臙脂の色の深林の強羅に住まん鳥と並びて 湯の靄のはかなきものを指さして人の云ふなり早雲地獄 童めく明星が嶽明神の山は三つ四つ子のかみにして 湯の靄を失はじとて抱きたる強羅の林うつくしきかな 山荘の内は寺かと寂しくて石の炉を焚き山を守れる 強羅荘自ら作りおのづから古城となして住むあるじかな 雑木の林の木末むぐらより細やかにしてつづく山荘 御仏の籠り堂とも云ひぬべき板間の炉の火明星が嶽 冬の日は山走るなり道了の炎上の日の奇異のたぐひに 夜の箱根星の無ければ大空も杉の集るところに似たり 疎らなる灯なれど力満ちたれば水の音よりたのまるるかな 灯火がみをつくしをば作るなり海より深き夜の小涌谷 山の湯の朝のきざはしふらんすのマドモアゼルの肱に触れつる 出づるとて昨日の竹の杖とりぬなほうす雪の零れ来よかし 大磯の虎が立てつる供養塔篠より高し冥加あらせ給へ 霜ばしら虎が涙の跡ならば紅ならましを箱根路の冬 湖は空の色より暗くして美くしきこといささか勝る 杉の幹並ぶ彼方に湖水置く月日を置くもこれに及ばじ 舞ふよりも小忌の青摺ひきかくる初めのをかし山の宮姫 箱王が法華経の義を聴きしにも似ずやわれらが御神楽を上ぐ 乱世にも百の坊をば持ちたりし宮にわれのみ御神楽を上ぐ 御神楽の馬の鈴にも似るものか山の宮姫きよらなれども 考ふるごとくに時に小く振る祝少女の鈴のおとかな 何ごとも箱根の宮の神巫の振れる鈴にて終りたりけり 幣風に罪を送りてみやしろのきざはし踏めば降れるうす雪 雪降りてきざはし白しうちつけに神風寒くおもほゆるかな そのむかし折烏帽子被る箱王に騒ぎ立ちけん谷谷の坊 山の土すがるに足らず霰より寄る方なげに見ゆるうす雪 初雪のわづかに白きけはひをば宝物殿の庭に見るかな 山上の蘆の湖消えて行く初めのごとく乾けるなぎさ 鷹の巣の炭のこぼるる細道も旧街道もつめたき箱根 萱野原をとめ長尾のつらなれる仙石恋し神山踏めば 柏木の枯葉よぢれてその木とも見えざる上の白雪の山 かぞふれば正月三日よ山上の箱根の町にわれ車待つ 湖をつたひて人の国へ行く旅に焚く火と思ひつつ倚る 二子山何に化らんこと思ひ崩れ初めつるいで止めよかし 湖の二子の背をば此方して芽吹く林に入りし路かな 竹の葉は空の光に通ひつつ春の近づくまぼろしも見ゆ 湯場の春友の車はいぎりすの少女の荷をば預りて出づ 去年借りし草の枕が心引く宮城野橋に至りけるかな 堂が嶋渓をつたひし友一人無し世は四とせ五とせにして 山の日の折られし如く隠れたり今は大地の温泉に寄らん 落ちし日と云ひがたき日の見がたけれ夕がちなる小涌谷かな 夜の山に車来れば見に出でぬ浦嶋の子の帰るならねど 山の鳥今朝は庇に近く鳴く大使夫人も桃いろを著ん 離れたる大井蒼梧に似る枯木高きところは何ごとかある (以上) 梅の花真白けれども業の火の燃ゆる匂ひと思ひけるかな 誓文のあらぬものともなりはてし日を悲める女の梅花 春の月つながぬ舟のさまをして漂ひ出でぬ梅の林に 梅と見て温室の花泥のごと見ゆるなりけり夕焼の前 そよ風や銀の毛抜がつまむほど白き小さき梅の花びら 人間に恋の奴といふもののありや無しやも知らぬ梅かな 梅の花人のこの世を改めん願ひを持ちて咲き初めにけん わが立てば難を数へてあるやうにひがみ初めたるしら梅の花 まだ解けぬ雪とかたみに背きたるわが夕暮のしら梅の花 朧気に思ふことをば云ひなすに似たる匂ひの梅の花かな 夕月夜湯けぶりのごと斜して白き梅かな山あひの渓 梅の花獄にある苦を知るさまの心も云へり不思議なる香に 鳥のごと青砥の山の常磐木の中に隠れて紅梅の咲く (山下武蔵の金沢にて) 春となり幻の身が形をばあらはすごとき梅の花かな 何ごとも忘れはてたるさまとなり瀬戸の入江にさす潮を待つ 瀬戸の江にかかる板橋中に切れ土橋となりそよぐ春草 哀れにも金沢曇るきりぎしの下になびけるくれ竹の外 遠眼鏡八景の絵図ならびたる昇天山に立ちてはかなし 夕暮に煙るむさしの金沢の入江の外はしら波の立つ 平潟の潮乾きたる夕ぐれに光りてさびし葉がちの椿 平潟の州のそこここに点る灯は船にあらねば笛吹かぬかな 夜の暗し何の刻まで更けぬらん音無き海のかたはらの家 金沢の明くる朝は雨となりみをつくし濡れ山の濡れたる 草よりも弱きけしきとなりにけり雨のむさしの金沢の浦 上げ潮に春の小雨の加りてうごきそめたる平潟の船 三月の雨音立てず金沢の海たなぞこのごと低くして (以上) くろ髪をうなぢはかりにそぎたりしそれよりのちの君の見がたし (二首越川須賀子の死を悼みて) 父母のいますこの世をあとにして天翔けるとも恋しからまし 湯の白し地よりをどりて出づるもの胸より出づるものに似るかな (以下熱海にて) 闇の夜の入江は沖つしら波の立つところよりさびしわりなし 南国の夏のさかりのかたむける海辺に仰ぐ天の川かな 海鳴れば椿の油あがなひし友といへども寂しからまし わがテラス三人の少女白を著て舞へり海へは帰らざれかし いさりをの都にあらでたわやめの寄りて作れる海の火と見ゆ 海のうへ椿しげれる初嶋は枕にすべく美くしきかな 窓鎖さで寝れど天城の頂と今さら何を語るべきわれ 伊豆の雨白き枕を離るれば窓より呼びぬ恋人のごと 芝原に露おき海の大嶋の鬢ぐし形にすずしき夜あけ みづからを中に湯気湧き磯草に小雨けぶれり浴室の外 渚の湯低きところに降る雨とうまおひ虫とこほろぎを聞く 渚湯の屋廊に並ぶ草の坂こほろぎの音と小雨に濡るる 磯の坂萱は葉の濡れ細き穂は小雨に混りおきふしぞする 渚行く大船が吐く煙よりさだかならざる雨に濡れつつ 朝風や紋白蝶の出でてこしホテルの前のきりぎしの草 朝曇り海のあるじの太陽の無き気軽さにうごくしら波 三五人波踏む少女鷺に似ぬ岬のかげの青く落つれば 拍手をばわがくろ髪に送るなり童めきたる伊豆の走り湯 (以上) 友の声流れ附きたる箱のごとゆがめる家の中よりぞする こは人にあらねば涙流さねど慰めがたき廃屋にして 坂の路萩の上なるあしがらの七重の青のうつくきかな 廃屋が草に作れる影に居て語れば思ふわたり鳥かと 山百合の白蝋の燭傾けり箱根は秋にならんとすらん 小田原の裏山の家波形す一昨年建てて一昨年崩えて 七月の中の九日あしがらの山かげ落つる草原に居ぬ 穂を上げぬ薄ゆたかに円ければ松に勝れりうら山の夏 大空の高きは光りむらむらに動ける雲の涼しき日かな 仄白く裾をぼかして夏の雨空より草にたやすく至る 木とは似ず恋の如くに仮初のものと思はれ草哀れなり 雨の中向日葵草と若竹のものに紛れぬつやつやしさよ 山蔭に逢ふも隈なき草原に見るもさびしき雨と思ひぬ あぢきなし草より低き座にあるをしみじみ覚ゆ雨の夕ぐれ 高き草絶えず動けば雨のはて風の初めも知りがたきかな 梅もどき冬の入日に答へたる美くしさをばわが窓に置く 鳩の小屋建てん願ひをあられもなこの冬に持ち子の歩りく庭 恋をする大和魂尽きはてぬ山をたたへん唐詩に擬して (以下武蔵の氷川にて) 甲斐が嶺の大菩薩より発したる若きさかりの上の玉川 ほろ苦く濁れる水をつたふなるむさしの奥の一筋の路 うつし身のまことの胸の痛みさへ知りぬはかなき人の山踏 洞門を肘でかづらほど細やかに伝へる水のかたはらへ行く 山立ちて銀河を隠し天つ星見ゆる限りは玉川に倚る いみじかる二つの川と大空の月の光の落ち合ふところ 玉川は銀の色ほど濁らねど仁原の川に逢ひて愁ふる 渓あひの氷川の町は御社の太皷に満ちて月夜となりぬ 愛宕山人のぼり行く蛍より少しはでなる灯をばたづさへ たかむらの動くが如く川底に立夕波の涼しかりけれ 水の音山をめぐりて幻と云ふおもむきの月夜となりぬ 夜と云ふ色と月ある大空のひかりを分けてながむる峠 山涼し羽黒の神のもちひたる羽団扇のごと夜の木うごきて 渓の橋月の光のしみ入りて夜の冷たけれなめし皮ほど 人間の夢に似るとも思ほへず栃寄の山淡くまろくて 新しき扇をつかふ子もありぬ氷川の森の夜芝居に立ち 川上の鍾乳洞を出でてこしつめたき風に夢のおどろく 月入れど虫のすだけば川原の山のみ明く思はるるかな 大木の胡桃の上にあつまれり甲州の山むらさきにして いただきをきはめしことを友誇る愛宕は恋の山ならなくに 階上の三つの座敷を川のごと長くつづけてうたたねぞする 川越えて水引草を引きてこし友の渡ればゆらぐ吊橋 人の目に見えぬ世界のくらがりへ落つる苦しき棚沢の滝 (以上) いと白く酸き味ひのいなづまの覗く戸口を西北に置く いかづちに紙の障子をとざしつつ草の花よりはかなしとする 雨の中荒地野菊も七月はまだあえかなるしら花にして 南より風を兼ねたるうす墨の風走りきて草の明るし 背の方に額に渦をいかづちの巻く時胸に我子らの寄る 常ならず小豆の音に散り初めし雨にたちまち世の尽きんとす いかづちが虫の音とこそなりにけれ夢のあとより清やかにして 子等出でて焼けたる杉を見に行きぬ井草の夕いかづちのあと 雪解しむ土の匂ひと枯草のくゆる二月の悩ましきかな 二月憂し瓦の色の小鳥来て木づたひ歩く忍術のごと うす煙雪まだらなる庭を経てなびき寄るこそ哀れなりけれ 人といふものをわれ夜の夢にだに見んを厭ひて生きがたくなる この頃の月の姿も知らぬかな優ならぬほど衣を重ねて まろがりて去年の枯草刈りがたし古き思ひに似たるものかな 心より雪解の水の湧き出でて惑はん夢をせめて見なまし わが心根無し草にもあらずしてまたその如しはかなみ行けば ひがし山末の伏見は低くして陶器焼けり竹原のすそ (以下京大和にて) 忘れては明けはてずとも思ふべき霞の京に立つ柳かな 加茂川の井堰よ人の身のうちの胸の如しと鳴れば覚ゆる 青き草真白き石の下行くや上を過ぐるや加茂川の水 浅みどり楓の雲に入りぬなり八瀬の流を越えてきぬれば 若葉しぬ岩の端ほど強からで節をつくれる山松まじり うぐひすは裹頭の僧のゆきかひの絶えたる山の花に居て鳴く 霞めると近江の空の曇れると分るる下に山駕龍いたる みづうみの嶋も近江の山山も曇れば玉の櫛に似るかな 春の雁比叡の根本中堂に逢へるも知らずみづうみも越ゆ 驚けと青からずして琵琶の湖大津の町の眠れるに添ふ 京更けて歌舞練場のかがり火の雫おちんと眺めにぞ行く 菜の花や八幡の神のおはします彼方の岸のあてはかにして 山ざくら春日の坂をわれらのみ古のごと歩む夕ぐれ 御神楽の春日少女の青摺はうたた寝によき綾のひろ袖 御社の軒廊のごと赤きかな小忌のころものしたの袖口 紫の霞の段に置かれたり山もさくらもわかくさ山も 桜咲き煙のさまの池ありぬ奈良の宿屋の高まどの下 山吹のしら花となり零るるや春の夕も冷やかにして 真白くて五月桜のさびしきを延元陵に云へる僧かな 山の杉丸太となりて白きかな吉野法師の落ち矢のやうに 夕ぐれは蔵王堂の朱のとびら閉ぢ立てられてめでたかりけれ 蝋の燭弥勒の像に及ばねど案内の僧にしたがひて行く 吉野山花ちる路のつづくかな龍燈めける宿坊の灯に 竹むらと蔵王堂の見ゆるなり桜は銀の箔に過ぎねど (以上) 信濃路の霧より生ふるものと見しから松なども恋しかりけれ 麻釜湯の湯気より出づる夏雲も涼しき風を作りけらしな 頂はしもつけ花の紅さして浅間の嶽の立ちし夏の夜 ただ子等の楽しき家とつづけかしわが学院の敷石の道 学院の夏休みとて葵のみ赤し罌粟のみひるがへるかな 夕月のある方知らず夏木立銀糸を上に掛けざるも無し ほととぎす残る霧無く紫の山立ちならぶ夕月夜かな ほととぎす赤城の山の夏の炉の向ひに乾すは猿の皮ども ほととぎすあざみの草の葉の形する歌声と思ひけるかな 北海の上より雲の立ち昇るゆゆしき朝のほととぎすかな ほととぎす啼きたる後は山さらに静かなれども思ひ乱るる ほととぎす暗き廊下を踏む音に答ふるばかり幽かにぞ鳴く ほととぎす北の門より出でぬらんみやびやかなる山の夕ぐれ ほととぎす浅間が嶽の焼土の零るる音にうち混り鳴く ほととぎす驚きて鳴く奥山に白樺ならぬ人を見にけん わが立てるテラスの前の海過ぎぬ燈籠のごと光る方船 (以下熱海にて) きりぎしの下は暫く海ならで虫の音ぞする六月の草 大海に向へる窓のひろくしてよりどころなく悲しき温泉 山に咲く柑子の花よこの頃の虫の音ばかり匂ひくるかな (以上) 十の子の泣く声こそは悲しけれ母の泣くよりなほ低くして 子を待ちし心なりきと寂しさを紛らはしても思はるるかな 涙おつ年長けし子が末子よりをさなきことを云ひも出づれば 小半日子とあることの嬉しきも昨日に似ずて哀れなるわれ わが八つの子の養へる薔薇の花紫雲英ばかりのはかなさに咲く 裾野なる草の中よりともし火を備へし家のあらはるるころ 軽井沢駅をかこみてあかつきに月見草立つ山風のなか 町名をば順に数ふる早わざを妹達にをしへしは誰れ 殿馬場の柳二もと三もとなほ有りつるころのわれの学校 人よりも思ひ上れる娘をばなでふ見知らん悲しき教師 月見草高しそれらの中にしてすだき初めたる山の夜の虫 月見草その燐の火の淡くして浅間おろしの烈しき夜かな わが愁ひ月見草よりはかなくて咲くべき夜も持たねならまし 月見草透き通りたる明るさの水に似たるがなつかしきかな かつしかの真間の荘園砂白くすすきまじりの月見草咲く わが路は月見草をば分くれども蓬の香こそ立ち迷ひけれ みちのくの岩木の秋の詠草も悲しきものとなりにけるかな (以下二首故安田秀次郎の君を悲みて) はかなけれ岩木の山の朝霧のたぐひに友のなりはてぬらん ひなげしは醜き畑の土にさへ心の上へ散るごとく落つ プラタヌが放たれしごと葉をひろげ皐月となりぬ洛陽の中 木枯が仕事に就きて夜の十時おち葉の歩く家の床かな 空仰ぎ天文台に何ごとか記るす外なるまぼろしを見る 木草より人の心に至るまで憐むことのすでに終りし 木の葉舞ふわれは心のひるがへる日を思へども是れに似ぬかな ことごとく物を忘れて冬籠りなすにもあらず春に急がず 春来とて羽子をさしたる竹のごと子のうち並ぶ幻を描く 待つとなき旅の宿屋にあれど来る正月に似ぬものの歎かる わが家にあらぬ茶館の隅に居ぬうらはかなしや正月の夢 年明けぬ春の立ちぬと羽子突けりめでたき業を知る少女かな 鴨の鳥鮭山ぐさを狩場かとこちたく置きてわれ何を待つ 西鶴の大坂ならぬ天国のおほさか夢のおほ坂を持つ 若き日の帯の如くにその町もかの町も見ゆ浪華思へば 蔦の身はうち動くともあらずしてくれなゐの葉の奪はるるかな いろいろの菊霜に病む天人の衰ふるより哀れなりけれ 熊蜂が油塗りたる二つの巣あらはになりて冬のあさまし 投げん葉を持たぬ日となり安らかに園の小枝は日を吸へるかな 雪曇りあぢきなき夜にわが噛みし筆を並ぶる杉木立かな むさし野にありや無しやと思ひつる羽子の音こそ響き来にけれ 彗星の夜半に至りて出づるとよ胸を云へるか空を云へるか 夏山のほととぎすだに人の名に啼くと聞きしは誰にかあらん うす墨は燻る煙の色なれば火に近くしてなまめかしけれ 従はぬ心は心いとせめて変りはてぬと人の云へかし 白鷺のごと爪立てて銀杏葉の散りしく路を歩む日の来よ 一もとの銀杏の黄さへ曇りたる寂しき野辺をわたるかりがね 暁にもの思ふこそをかしけれ恋の初めにまなびし如く 少女子とロオランサンの絵を見れど雁ぞ鳴くなる東京の秋 除かれぬ岩の葢さへ忘るるにさても涙の流れこそすれ 草むらに咲けど都の大路をば菊白ければ思はれぞする 美くしく重なる山を御空より見るここちするつり橋の上 (以下山田温泉にて) 彩糸を見ゆる限りの山に掛けわれのみ白き秋の松川 山の風紅葉にあたる日かげをば暫く追ふもなまめかしけれ 人間をはた待たずとも帰雲亭かの頂に行きて寝ねまし 五色の湯板のかこひの内側にうす墨となる秋の夕ぐれ 山の奥紅葉ならざるさかひより雲も湧くとし思はれぬかな 渓の奥俄かに開らけ美くしき水鳥居たり河原の上に 鳳凰が山をおほへる奥信濃山田の湯場の秋に逢ふかな わが友が忘れし杖をとりに行く浴舎の渓の夕ぐれの風 危しと人云ふ滝の裏道をたしかに過ぎぬ恋にあらねば 箱の葢のぞかれしごと暗き山尽きて山田の湯場あらはれぬ 山田湯の夜霧を逐へる灯をめでて在ればいつしか雨降り出でぬ ぬひとりの紅葉のおくに穂薄の山の覗ける朝ぼらけかな 七八ひら黄なる散葉の舞ひ上る渓の底なる板の朽橋 村雨が湯場の大場を降りめぐりしばらくにして山なかば晴る (以上) おち葉にも冬木立にも慰めど悲みとなる人の文がら 羽子の音高き空より云ひかくる言葉と聞えをかしかりけれ ゆるやかに淡雪の矢を放ちくる春の御空と思ひけるかな 美くしく春の境に越えて降るしら雪めでぬ松多き浜 いつしかと門松の背の暗くなり暮れんとすらん元日もまた から松の散葉は霧の降るよりも哀れに目路を隔てこそすれ (軽井沢にて) 秋山の檀山桑火なれども是れは光れるかへでのもみぢ 水晶の煙るに似たり火を噴くと云へる浅間の頂のさま 人と霧莫哀荘のうらに出づ碓氷の渓の水をつたへば 黄菊立ち水の流れの撓つくる二町がおくのなつかしき家 しめやかに秋の光のつつみたる碓氷のふもと莫哀の荘 山桑をうどんげの実と名づけたり先生いかに寂しかりけん 信濃にて冬寵りをばならふ夜の山桑の実はほのかに甘し 初秋の光となりて立ちたりし白き槐樹を五十日して撫づ 山荘の隅の方にて水の鳴り上にかかれる細き月かな 霧迷ふ信濃の山に朝さめて出でてひろへば冷たき朱実 木の葉おち山荘の草枯れてのち日影わりなくあたたかきかな (以上) 自らは飛びぬ流れぬ歩をよみて摘むところぞと人思へども 木の枝と見なして鳥のつたへるも寂しき園の枯草の蔓 落ちし櫨昨日の色はしたれども葉のくせづきて哀れなりけれ 消息す昨日に向きてある窓をくろがねの扉に閉ぢもはてまし 哀れなり加茂の川上水ならぬ靄の歩みと思はれぞする 雨の日の暗さよ夜のつやも無し幽界より運ぶ陰鬱これは 気病して薬を噛める春かなど雨の匂ひの立てば思はる 三月に寒き雨すと恐れ居ぬ人事も其れに少し混へて 雨寒し窓の梢子もまたたきて暗き世界にある三人かな 雨の日よ春誤りて寒きなり恋路に人を死なしむるごと 失へるもののあるごと吹く風にさまよふ雨も哀れなりけれ 白蘭の乳を翅ある子の寄りて吸へる夜明の春のそよ風 靄とけて桜の枝のしづくすれ涙ならねば真白きも好し まぼろしが残せるものと友染のかの端を愛づこの端を愛づ 三月の春の衣をかしこめば桃李遅れて開かんとする そよかぜの姿のうへにくははれる柳の枝の千条の青 手におかば山桜ほど冷たくて薔薇ほど重き思ひならまし 連翹は春の五更のともしびの色をぞまねぶはかなけれども 衣店の絹のあはひに見る顔の皆真白くてうつくしきかな 赤き糸尺ほどなるが山ぶきの枝にかかりて鶯ぞ鳴く 人の子も花とひとしき衣を染め春の悩みをならひ初めてき 大和絵の朝も墨絵の夕にもしづけく散れる山ざくらかな 芍薬は木草を友と知らぬなり卓を守らん身ぞと思へる 大空の広さと草のつづけると人を思ふと皆はても無し 初夏のくもれる朝の味ひに似たる思ひも昔となりぬ 初夏の雨の色より紫のあざやかなれど痩せし矢ぐるま 疑ひを覚えしやうに雛罌粟の花閉ぢそめし日の三時かな 少女達白き衣を著たれども多くものをば云はぬ六月 いな死なじ否死なんとて時あまた捨てつさびしき身の終りかな わが在りし一日片時子のために宜しかりしを疑はぬのみ 身の負はん苦も五十路して尽きぬべしかくおのれこそ許したりけれ 汝が母は生きて持ちつる心ほど暗きところに在りと思ふな 春の雪歌ひ合うべき心をしてところどころに仰ぐ大空 リラ青くまだ咲かぬ日は目を閉ぢてひるの夢見る窓のよろひ戸 折紙の紫雲英二つを卓におき春を思へるかぶろ髪かな 火に倚りてある限りのみ親しくて冬はわが世も狭きなりけり 窓の外銀の酒器ほど黒ずめる春の夕となりにけるかな (以下横浜にて) 渤海の貝のあつものやや冷えぬ春の涙と云ひぬべきほど 金陵の第十三のあつものほ未央の宮のやなぎなりけれ 名を聞けば金陵の酒家わが倚るはうら悲しかる黄暮の窓 (以上) わが前の青濃く淡くまだらなり海と云へども心のやうに (以下鎌倉にて) 鎌倉の駅の広場に輪を描きて迎への車とどまれる春 君の廬は深山の如く暗くして嶋の如くに夕風の打つ 戯れに倦みたる春の夕あらし緩く残りて山をかしけれ 鎌倉の松の中にて廬をむすび都の人をはた思はまし 午後の四時初めて松の間より日射すさびしきあけぼののごと (以上) 堀割の船灯を置かずおぼろ夜の月を忘れず橋越えよとて 忍び来て夢にも春の知らぬまに矢ぐるま草の空色に咲く 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 霧嶋の歌 「霧嶋の歌」の初に  わが九州に遊ぶことは曾て二たびに及びしかど、いまだ肥後より彼方には到ること無かりき。友なる山本実彦ぬしは薩摩の人なり。逢ふたびに鹿児島県の諸勝を語り、殊に自ら生れたる西薩摩なる紫尾山脈の秀麗にして、川内川の明媚なるを誇り給ふ。また筑後の人白仁秋津、薩摩の人万造寺斎、この二人の友が日向、大隅、薩摩を旅して詠みたる歌に、すぐれて身に沁む作多し。其等を読むことに由りて、霧嶋を初め、鹿児島湾、桜嶋、佐多の岬、開聞嶽、揖宿、その他薩摩なる西南の海岸一帯にわたりて、いよいよ我が年久しき思慕の地となりぬ。ましてわが良人は、小学時代を鹿児嶋と加治木とに送りしかば、なつかしき第二の故郷として、四十幾年のあひだ、しばしば夢にも見て、如何で身のいとまあらば再び彼国を訪はんと、常に言へり。  さるに年頃われらのために何くれとまめやかに計り給ふ山本実彦ぬし、またわれらの此心を知りて、かねてより、必ずよき機会を作りて、自ら案内し、故国の諸勝を歴遊せしめんと言はれつ。ことしの夏、つひに其のよき機会は到りて、山本ぬしは、その事しげき時を割きつつ、われらを遠く、かの思慕の地に導き給へり。  ここに半月のあひだ、まだ世の人の多く到らざるさかひに、神神の聖地を拝し、建国の始の史蹟を尋ね、人麻呂、赤人、憶良、業平、小野小町、貫之、和泉式部、西行、芭蕉、蕪村等の吟懐に入らざりし山水景勝の実に浸る悦びを得たるは、われらが一生の中に得たる数なき幸ひの一つなるべし。 「霧嶋の歌」一巻は、この旅中に詠みたるわれら二人の歌を集めぬ。題は斯く附けたれど、歌へる所は県下の各地にわたれり。此集のかく速かに印行せられつるも、また山本ぬしのみなさけに由りぬ。    昭和四年十二月                    与謝野晶子 七月二十二日の夕鹿児島に入る。 大君の薩摩の国に龍王の都つづくと見ゆる海かな さくら嶋わが枕よりやや高く海に置かるる夏の月明 船の笛那覇にむかふと声上げぬ鬼界が嶋の人も訪へかし 城山の薄中にも哀れなり旗を掘るとも人なとがめそ 御仏の浄光明がとこしへに護るならまし南洲の夢 南州は文天祥の死とは似ず洞より出でてほがらかに逝く 何の月幾日はあれどおくつきの年代はみな明治十年 三州の大守の磯の林泉にひぐらしめきて鳴れる水かな 渓川は磯の御館の水門をくぐらんとして白波を上ぐ まだらにもトマトの色を腹に塗る船の通ふは何嶋ならん 西国分 隼人塚はやく御空より馳せくだる日に見るべきものぞ 金屋にわれすまずとも国分なる煙草の棚の下に寝ねまし 乾し煙草棚より垂るる葉をくぐり白き鶏出づ女の童出づ 霧嶋に入る。 日当山花葵より家低くその花赤く湯のもやぞする 車をば妙見の湯の軒に寄せもの云ふ時も靡く霧かな 霧嶋や神代の巻に帰る入る霧と思ひてわれもともなふ 車行く妙見の湯を下に見てたぎつ瀬さらにとどろくところ 人の子が人の世に倦み霧嶋に神を見んため入れる路かな 山の雨牧草の波やはらかにつづくところもしたたかに打つ いつしかとめでたき雨に濡れつつも霧嶋山へ近づきにけり わが車高千穂をさし姶良をば行けど雲より出でぬ高千穂 渓渓の湯の霧しろしきりしまは星の生るる境ならまし 山川を右ひだりして行きつきぬ栄の尾の坂の湯の滝のもと 霜嶋のからくに岳の麓にてわがしたしめる夏の夜の月 霧嶋の栄の尾の前の山の戸はせまれど見ゆる海の月明 雨の止み月左より歩み出で山わかやかに夜嵐ぞ吹く 滝の湯の落つるところに身を置かず人間苦をば積みたりしかな 夏の夜を朝まで月とともにあり霧嶋の山南にひらき 霧嶋の月を見るなり山の気のうごき初めたる暁にして ほととぎす湯の樋の白き月夜よりやがて移りし山のしののめ 雲にある開聞岳を思ふなり栄の尾の上の第一の楼 草まくら大守の借りし座敷のみまだほの暗き山の朝かな おほらかにあるがままなる山と似ず苦しき恋をもてる渓川 岩打ちて霧の生ずる山川の限りも知らずめでたき朝よ 霧嶋はいまだ明けずと云ふ月のあれど目ざめし鶯ぞ啼く 霜嶋の畏き神はさしおきて霧の姿にしたしめるかな 夏寒きからくにおろし友とわれ明礬の湯の坂に別るる 紺青の木蔭をめでてわが友は杖あがなへり水鳴るところ わが友が栄の尾を立ちて入る山は木のいと暗しほととぎす啼く 古りにたる明礬の湯の厨房の横より友の分け入りし山 別れつる友また見えず霧嶋はあはれ太古の深林にして 森を分け山を行きつつはかなけれ人間の子の心ならひに 霧嶋の渓より出づる湯の霧に曇るけしきのさつま潟かな 空といと近きところに湧き出でて渦巻く水のめでたかりけれ 明礬の湯のきよらなり帝王の翡翠の床とくらべて思ふ 道のべのくらき浴舎に囚はれて神のますごといみじき温泉 硫黄渓石の浴槽を段ごとにおくなる華奢の涼しかりけれ 硫黄渓板石坂の二側にうづ巻く青と黄なる湯の霧 高高と杉木立にも這ひ上り山風吹けばなびく葛の葉 さくら嶋そがいみじかる姉妹の山はた多し栄の尾に見れば 開聞は万里の嶋にあらねども見がたし夏の雲のゆききに 牧園へ太皷をどりを見に来よと使きたりぬ瓜を割る時 山に見てむら薄より平たきは牧園村にひろがれる森 硫黄をが得て人帰る月見草をみなへしにも似れどはかなし 目を閉ぢてゆるく浴みす滝の湯に今はおどろく人のあらぬや 月光の裾に薩摩の海引かれほの白きこそあはれなりけれ 滝の湯に皷を打てる温泉の外はおもはぬ夜のまくらかな 霧嶋の半を朝の日にあたへ万木くらしわが栄の尾渓 山の木の三千年の根を踏みて人湖へかよふ路かな 行く路に見知らぬ葉のみ繁れるも神のままなる霧嶋の山 山の路輿丁しばしばいこふなり沙羅の落花のつもる上にも 霧嶋の高き峰をば行く日さへ心あがらずなりにけるかな 風立ちぬからくに岳に続く草うら葉を返しほととぎす啼く 原に出で天馬の馳するいきほひを改めて得しわが輿丁かな 大波の池にしら雲流れ入り山の正午のしづかなりけれ いにしへの霧嶋山をわが行きて青き湖畔に至りけるかな 湖にたたへしものと碧玉とことなるは唯だ動く相のみ 霧嶋の白鳥の山しら雲をつばさとすれど地を捨てぬかな 山山の曇れる玉の色と似ずあざやぎわたるみづうみの青 山の池初めて人の見し時も斯かりけらしな草分けて見る 日の光しろきあられを池に投げ外輪山の草うごく時 いと多く硫黄の色の羽の蝶の飛ぶきりしまの高原の草 御空より真直ぐに白き雲くだるわが山頂の大波の池 湖の龍女の話龍ならでをだまき草となすよしもがな はるばるとからくに岳につづく森それに隣れる夏ぐさの原 山の蝶湖畔の草を離れぬや焼石もまた冷たきがため 原の草えび野あたりの末白くやがて雲ともなるけしきかな 湖をかこめる山の笹原に鳴るはさびしききりしまの風 山上のをだまき草の茎よりもよし細くとも海あらはれよ 霧嶋やつらなりわたる峰峰に似ざる拙き雲消えよかし えび野湯に人たどる路見えずして広く硫黄の黄のつづく原 明星の明さに山の硫黄乾すところもをかし高原の奥 硫黄の黄狐のいろの羽の蝶も吹かれ行くかな高原の風 坂東の殺生石を見し山におもむきの似る原にこしかな 篠原のややまばらにて見分け得つ湖畔の山の猪の足跡 湖水より生るる風は高原へひまを置きつつ流れくるかな 高原の草は髪よりやはらかく風に従ひ渦あまた描く みづうみを離れて山と高原の草ながめつつ信濃おもほゆ 千山の支那の奴の唄声の無きさびしさよ霧嶋の駕籠 霧嶋の獅子児の牙のやはらかにかつ尖りつつ山おろし吹く 王朝の世の富士の嶺の煙ほどくゆるなりけり高千穂の山 霧嶋の高千穂の山高原の草より出でてたかし千尺 白雲の倚る高千穂をながめよと輿丁寝入りぬ薄の中に 神神の近くいまして三千年になり足らひたる霧嶋の山 新燃は二つの耳に聞きぬべし白くいみじき雲うごく音 高千穂を雲去来するかたはらの芭蕉葉いろの若き中山 城ならば尾廊ばかりの高千穂の片はしのなほ雲に隠れず 秋立つや貝のはだへに似る雲のつつめる神の高千穂の山 何ほどの高さと知らずこの山と思ひ上れる心の尺と 病む友に沙羅の落花を拾ひゆく願ひもありて山くだりきぬ ひぐらしが馬行く後に鈴降るや山の中なる三またの辻 人の子の薪の料にあらぬ木の枝さしかはす大神の山 浴泉を霧嶋の神いましめずかしこし此処に心きよまれ 樋の竹が八つの湯滝をおとすなるそのもとに居て物をこそ思へ 月夜よし硫黄の匂ひ散ることも涼しき数のここちこそすれ 楼にわれ一人となりて山に告ぐかかる夕に人恋ひしこと 滝の湯の柱よ痩せて朽ちそめてみをつくしめく温泉の波に 電燈の時に蝕する湯の山にいなづまが引くきぬいとの筋 山の夜やわれも嫦娥の身となりて浴槽の雲を行きもどりする 楽みの尽きしにあらず初めより哀れなる身の草まくらかな 温泉にも隼人の猛きたましひの備はる国の山にこしかな 朝の霧咎むるやうに追ひくるもなまめかしかる山歩きかな 山暴れて杉の木立も靡くなり海は雲よりしろき明方 客房の雲に濡れたる瓦をば哀れと見れば日の昇りきぬ 運ばれぬ山の設けの粟の飯高千穂の嶺の神もませかし 朝山にから芋の酒紹興の味ひすとてすすむるものか 山は晴れ海三日ばかり穂すすきの穂の色をして曇りたるかな 三日四日に山のうぐひす凡人のごと思ひなすあまたし啼けば 華やかに鳴る山川を数しらず脈とするなり若き霧嶋 霧嶋の下の世界もしづかなり遠き青海むらむらの森 うすものの肱より下に雲の波つらなる山の朝ぼらけかな 明方の燭ほのぐらき浴舎をばうかがふ霧はむらさきにして ほととぎす朝霧深くうら山に浴房の灯のなほうつるころ 渓の湯に素肌の水の踊りをばながむる人の三人の素肌 霧嶋の泉の精よ人などの姿となして思ひがたかり 温泉の潮の如く湧きて鳴る南の国のきりしまの山 霧嶋の山踏みをして仙女さび大方すてつわが願ふこと わが身をばいでゆにゆだね霧嶋の霧に心を任せはてぬる 加治木なる五つの峰の波形の女めくこそあはれなりけれ 霧嶋の森林帯の朝の気によみがへりこしはかなしごとよ 薩摩潟嶋も神ある高山も皆みやびかに寄りそへるかな 裾山にさくら嶋をば加へたる遠方見えて雲なかに置く 眉のごと南薩摩の見ゆる日もなほ心引く国分の小嶋 わが前の国分の小嶋消えであれ開聞岳はそむきはつとも 霧嶋をさして入りこし長き路見えずて牧の夏草光る 小ざかしきことを行ふ手など無き山あまた見る朝ぼらけかな 光りをば姿とすなる夏の雲それより山は引き勝れたり 霧嶋は峰多くして蔭の色日なたの色の山のかさなる 湯の中に徴風ありと楽みぬ栄の尾の渓の塩の温泉 霧嶋に神の矢のごと速かりし雨をまた見ず霧のみぞ降る われ一人向ひの山に郭公の鳴くとうなづくくらき浴室 硫黄の香夕月の野の匂ひにも少しかよひてなまめかしけれ 硫黄の湯山のいはほの窪に湧き熱気の中にうぐひすぞ啼く 何ごとか思ひて雲の山を出づ創世紀とは覚えぬものを 黒と黄の硫黄のかびのはだらなる渓をつたへり山風吹く日 ひぐらしの集りて啼くうら山を覗けば松のいく本光る 女湯に渓をのぞくはあらずして男の顔の並べる月夜 塩の湯の浅きところに腹ばへる二人の女奔流と月 夕ぐれに強力のごとたのもしき山おろしこそ吹きいでにけれ わが友の弱き涙の一しづく混りしのちの寒き温泉 霧嶋の山暴れの日の湯のぬるくおほけなけれど涙のごとし 灯の円く鳥の目のごと先づつきぬ海よりこなたわが山のはて 月日をばよそに雲湧く霧嶋の山にありとも告げずあらまし 夕まぐれ乾したる麻の衣たたむ山のあはれをわれ覚えつつ そぞろにも旅人達の出でて踏む夜半の山路の夏草の露 印を組むことと似たれど隼人らの指はなんこの掛け声に開く よろめくや否否さつま踊りなり明礬の湯にありつる隼人 ささで寝る隣の障子ここなるもきよく真白き有明月夜 霧嶋や不覚に渓へとどまりて寝ねし雲さへ匂ふあけぼの 宿の犬馴鹿めきて歩みきぬ栄の尾の渓の朝霧の中 薩摩潟小鼠ほどの美くしき嶋見ゆ霧の厚き朝にも 薩摩潟ほのぼの雲の晴れ行くや息に曇れる鏡の如く さくら嶋現れぬべき吉兆を楼に得て出づ蓬生の台 山の台対する海はさしおきて心ひかるる青よもぎかな 蓬生も霧嶋山に朝湧ける霧をかづけばあてやかにして 栄の尾なる蓬の台に遠く見るさくら嶋こそいみじかりけれ 斜して清き杉むらわが行くは渓をはさめる青すすき路 わが楼に寄せくる如しうち溜まる雲のしら波青波の山 ひぐらしや夕日を含む雲にのみわが目引かるる山のうたたね 霧嶋にあれど子等あるむさし野の家を忘れず都を忘る 二もとの松にとなれる近き灯も美くし山の夕まぐれ時 霧嶋も霧の如くに時流れむかしの夢となりぬべきかな 雲をもて塞とするなりそのむかし神の建てたる霧嶋の城 悲しかる南州の死も霜嶋に寝つつ思へば神話のごとし 身の弱くいと哀れなる心にてうしろにしたるからくにが岳 高千穂の小学校に山の木の百種を育つ生徒のやうに 犬飼の滝もこころの宥められ地軸を衝かず渓流れ行く 余りにも犬飼の滝急にして動く姿と思ひがたかり うぐひすや妙見の湯の板橋の五間は秋の冷たさにして 山川の上をつたへる霧と逢ひわれは冷たきものにときめく 折橋のくちなし咲ける山荘にあり百歩していでゆに通ふ 霧嶋神宮を拝す。 霧嶋の神のやしろの長き路月夜と似たり雨こぼれつつ 遠方に今朝わが出でし山ありて長くましろし大前の道 大神の霧嶋の雨木綿よりも真白き雲の下すなりけり 御社は浄衣の禰宜のますに足る仏法僧よ天竺に去れ 雨降りて仏法僧の羽のごと墨とみどりを流す山かな 国分町に到る。 むら雨と山のあらしの末見せて川波をどる国分郷かな 山に見し国分の小嶋近づけば示すこと無し少女のやうに ほととぎす帳とばりとも云ふやうに煙草の葉をば掛けたる国分 踏まねども苔は冷たし近き世の塔の上層康治の五層 古煙草洞の中にて拾ひたる経の片かといみじかりけれ 再び鹿児嶋に帰る。 次次に姶良郡のむら山のしりぞき入りぬ夕霧のおく 鹿児嶋ヘ夕日を追ひて行くやうに車やるなり加治木の峠 車よりややしりぞきて引潮の夕の波の青きみちかな わが車桜嶋をばめぐりたる海のまにまに円なかば描く 夕ぐれに茉莉の花のにほひする薩摩の海と思ひてつたふ 夕入る祇園の出車の練りしあと三日ばかりなる鹿児嶋の街 さくら嶋曇らん日とてまた消えじ霧嶋が岳見んよしも無し 海上のさくら嶋をば見に出でぬ昨日の山のこひしき時に 夕ぐれは夾竹桃の花かげに海の香通ふ鹿児嶋の家 盛りなる百日紅の威を見るや磯の御舘に千石馬場に 蓮池に住みて夜の犬鳴く時につと声やむる女の蛙 いつはりを糺すやうにも蛙鳴きあしたに見れば蓮咲く池よ 棕梠蘇鉄芭蕉のかたち見ならはず長けし国さへ時に寂しき 船の笛さくら嶋をばとりまきて鳴る鹿児嶋のめでたき正午 桜嶋 嬉しくも身をば矢として達したる桜嶋かと白き船出づ 船つきぬ嶋に上るを許さまし迦具土の神おなじ身なれば 焼石が作るとりでも襞ありて優しき船のもやひたるかな 羽すぼめ鴉の寝ぬるものならであはれ悲しき焼石の嶋 さくら嶋草のかづらの糸引くもただ片はしの焼石にして 嶋をなす縹と臙脂こむらさき翡翠のいろさてかの烏黒 焼石と変りはてたる嶋の身を柳のいろに巻ける海かな 影よりも闇の夜よりもくらきいろ一かたに持つこのさくら嶋 川内に到り、夜鹿児嶋に帰る。 いづくまで川を伝ふやいにしへの薩摩の守の京泊まで 雲うつる一ところのみ乳らくの色に流るる大川の水 いと赤く大河のはての西海に入る日を見つつわが涙おつ 月光に比すべき川の流るるや薩摩の国の川内郷に 限りある湖水にあらで小波の川内川を行くはめでたし 紫尾の山愛の御社の繁みより出でて仰げばむらさきにして 夕より夜の姿にも変り行く高井の山とながき大川 怨むことあらずて身をば投げなまし薩摩の国の川内の川 静かなる高井の山と川に似ずもの狂ほしや火の色の雲 わが立は藺草の生ふる北の岸高井の山のながき南岸 川くらくなりぬ御山の樟の木のにはかに枝を張りたるやうに ゆたかにも満ちたたへつつかつ動く川内川の夕風を愛づ 大川へ乱れ心の灯のうつるたそがれ時となりにけらしな 疎らにも蛍の出でて飛びかへり串木野村の金山のもと 串木野の村のはづれのわが車迫ふ蛍など忘れざらまし 蛍の火身をかはす時しろがねの色となるなり夏の三更 串木野の六月燈に描ける馬最後に見つつ路闇に入る つらなれる山に添ひたる夜の路に逢へば嬉しき六月燈よ 友の家ある方の灯の低き町よ蔓をつたへる花の如くに 葦かびと水やはらかにある方の幽かに明き市来橋かな しかすがに家の平たく立ちならぶ市来の湯場の夏のともし火 いつとなく風の冷たく闇すでに倍となりたる伊集院かな 道たがへ海を隔つる山脈をくぐり出てなばをかしからまし 桜じまうかべる方にすすむ道月のあらねどなつかしきかな 宮の城 川上に都城のあるを疑はず涼しき風に導かれこし 宮の城われより先に深山より雨こしと云ふ一昨日ばかり とどろの瀬水は若さにをどりつつ時の上をは伝はずて飛ぶ 轟きの瀬は川の火ぞ少年はつぶてとなりて焔に遊ぶ とどろの瀬くぐり出で来る船待ちぬわれは危き橋踏みながら 船一つとどろの瀬をば流れ出づいのちを賭けて恋する如く 昨日をば忘れはつべきここちして乗らでやみたる轟きの船 荒磯の波のうなりを山川のとどろきの瀬は立つるものかな 幾筋の川滝となり集りて轟きの瀬にしら雲うまる とどろの瀬さて一方は千人のたむろもすべき真白き河原 船速く波のすだれの上行きぬ川内川の広瀬のゆふべ 橋のもと広瀬の水を行き歩りく川狩人は眼鏡を持ちて 二ひろの船して橋の下くぐり別れこしかな山の都に 夕とて四川省をば出づるごと川内川の船も悲しき をしどりが棧敷を作り見ると云ふ薩摩の国の青き川かな 船を見て早瀬に鮎を釣る人の案山子めけるが云ひ出づること 木の枝に出水の草のかかれども悪夢を忘れはてし川かな 高嶺より独楽鳥の声まろび来ぬ船淵をこえ瀬にかかる時 長き橋船の中なる二三人衣うるほふとかこつ時見ゆ 美くしき世盛り人にくらぶべき川の流るる西薩摩かな 夕ぐれに山崎橋へ船つけて楊子江をばはなれけるかな 市比野温泉 天の川入来のふもと市比野の糊つけごろも竪き夜にして 闇ひろく続ける中の市比野をさぐりて借れる草枕かな 入来より来る車の灯を見つつ旅人の立つ市比野の橋 水鳴れば谷かと思ひ遠き灯の見ゆれば原と思ふ湯場の夜 山川の濁るはさびし市比野の湯場に設くる橋普請とて 大海の種子嶋より目じるしにして船来てふ八重山くもる 川内町に入り、川船にて久見崎に遊ぶ。 その蔭に百たりばかり隠るべき大樟の木の風に鳴る時 川内の川をつたひて大海へ走りしものと見ゆる嶋かな 大海の甑の嶋の見え初めて冷たきかぜのかよふ川船 わが胸に沖の甑の嶋と似て見えがくれする昨日のこと ほの赤き砂のきりぎし負ひて立つ船間の嶋のさびしき百戸 京泊久見崎と立ち大川の門と云はんに過ぎてはるけし 砂山はかりそめもののここちして立ちて語れる身もはかなかり うしろより雷の追ふ砂原にしみ入る雨もあさましきかな いかづちす船間の嶋やくづれまし雨に濡れつつ久見崎を行く 久見崎のうしろにありて降る雨に青いささかも変へざる入江 夕立の過ぎたるあとのうす黄なる空の光のうつる川口 雨あがり松いと明き中にある久見の岬を船のはなるる 久見崎の雨いかづちも忘るなと旅人に云ふこころなるべし 久見崎の沙の斜面を打ちしごと打たざりしごと晴れし雨かな 久見崎の沙丘に立ちてわが船を人ぞ見おくる夕月のごと 久見崎の沙に摘みたる薬草を載せてわが船蓬莱離る たちまちに佩く黄玉のかざりをば海に投げつつ入りし落日 夕まで川内川に画舫をばつらね遊べば日も臙脂塗る われ乗りて西湖の船に擬するなりそれより勝る大川にして 時はやく移り灯おけどいと暗し舞子まじりの川船のうち 船を出で水くらくして星多き川内川をうしろにぞする 池田湖 見るところ先づ開聞の高くして斜めに北の低きみづうみ さざ波は洞の中ほどしづかなる池田の湖の面に遊ぶ 洞門とむら薄ある山にして池田の湖のさざ波を愛づ 湖のさざ波の音荻あしの葉ずれの中に混れるを聞く 湖をめぐる山田にくらぶればさびしき青の波の色かな 吹き出でぬ開聞おろし穂すすきの白き湖畔を目じるしとして 鳥越の洞門に出で湖とまた逢ひがたき路を取るかな 迫平 片はしを迫平に置きて大海の開聞が岳立てるなりけり めでたくもつひに薩摩の南方のひらぎき山の麓にぞこし 松蔭に扇つかひて去るを待つ開聞岳のいささかの雲 しら波の帰らで遊ぶ迫平なる岩なめらかにうつくしきかな 海よりもこれはいと濃き藍にして海より起る開聞が岳 美くしき白き扇を磯に来てひらく迫平の波と思ひぬ しら波の初霜ばかりほのかにてかつ平らかに寄れる海かな 枚聞や撥のかたちに山反りて秋の声をば立てんとすなり しづくしぬ海門岳とむかひたる岬の松の高き枝より 海のうへ佐多の岬に開聞にならふと雲の垂れてこしかな 清らなる迫平の海に波白しあはれ硫黄が嶋曇りつつ 松が技に羅のとばりをばかけんとて寄りくる波と思ひけるかな 硫黄嶋煙のさまの色ながらうつつと見えてはた哀れなり 山川港を過ぐ。 山の路蜃気楼など及ばざるあてやかさもて港あらはる 山川の港はまろくしづかにて絵燈籠ほどうつくしきかな 揖宿温泉に宿る。 湯の宿の小松の垣の下に鳴る船の笛かな揖宿の海 しら波の下に熱沙の隠さるる不思議に逢へり揖宿に釆て 揖宿の宿屋の前を汽船行き牛飼ひも行く白き扇も 揖宿の海先づ天の川と見えのちに銀河の現はれしかな 大隅の山山立ちて半月の形にかこむいぶすきの海 山の襞いかなる渓と知らねども消ゆる夕はうらはかなけれ 人間は燐の蟲よりはかなけれ夜の沙湯にて語らふ見れば 恋の火と云ふものも見し人ながら美くしとする燐の虫の火 船と家灯を備ふれど夏の夜の星のみ照らす沙湯の衾 いさり船燐の虫かと波を行く沙湯の沙の枕上かな 揖宿の渚の熱沙茨踏むここちと似ずてものの悩まし 燐の虫寄る揖宿にわが船の黒潮行きし世など覚ゆる 潟口も魚見が岳につづきたる霧の巻けども見ゆるともし火 天の川南の国の海松房のたぐひと見えて長き空かな 船は皆佐多と薩摩の海峡を出づると無けれ燈の悲しかり 来て立つや沙の身すらも極熱のおもひを持てる揖宿の磯 二三人釣垂るるごとして語る海の宿屋の草築土かな 揖宿の海の渚にひたひたと熱の身を持つしら波の寄る 夜の海の船もはしこくあかつきの船飛ぶごとし隼人の漕げは ひがしより紅き潮のおし寄せぬ揖宿の湯も目に置かぬごと 波もまた自然の礼の正しさを失はぬなり日の昇る時 朝あけの雲に酔ひたるしら帆をばわれは渚の沙山に見る 魚見岳知林が嶋も大嶋もつなげる霧を船分けて出づ 大海に据ゑしおのれの一はしと雲親しげに見る小嶋かな 南国の海水浴にふけりたるわかき男女と金色の雲 波とある人の肌のめでたけれ南国の沙むらさきにして 紅き雲波よりはやく走るなり海のあなたの大隅の空 はだかの子恥しからず海山のいと大きなるものに比べて 沙湯人羊めきてもあまたあるところに近く波のくだくる 火の鳥の住むエジプトを揖宿がむかひの岸に置ける朝かな わが子らが千葉の海辺に見てあらん房州よりも近き大隅 あかつきに雁の列をばかたどりて船の引けるは何網ならん 身に白く沙を巻きたる磯の人念ずるごとし太陽の前 美くしき朝の海をばはばかりて低きところを這ふ汽笛かな 笛鳴らす船に心の動かまし向ひの岸にふるさと持たば 仏相華垂れて花咲く温室は海を越えねど嶋ごこちする 花の房南薩摩の温室に垂るる限りはくれなゐにして 一もとの扇の椰子の上にある南の国の夏のしら雲 阿久根を経て出水に出づ。 田鶴来てふ阿久根の海にむらさめの白き羽振りて下りこしかな 秋の海百歳の嶋うら若き少女の嶋もつらなるものか 階上に矢筈の山を見てくだる公会堂の廊のほし網 哀れなり別れんとする薩摩路の出水ごほりの夜の雨の音 夜となりぬ霧島の灯も揖宿の波に浮きつる燐光も見ゆ 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 満蒙遊記 船中 船室の白と港の山うつる鏡もさびし皐月の七日 うちつけにわが部屋の戸の鳴り出でて心さびしき薄明の船 二日して渡れる海の濁りきぬ大人になりて見し世の如く 大連 ふるさとの夢より若くなつかしき祭の朝のアカシヤの風 アカシヤに風の騒げば山の灯もいさり灯のごと心もとなし 寺児溝の赤土の坂斑らなり汗あぶら皆灰色なれば 青春は泥柳だに持つものと知らざる如し寺児溝に住み 小崗子驢馬に引かれて現れし荷車の外清きもの無し 朝いまだ小路の暗し青玉の耳輪をしたる娘住めども 大釜に高粱の粥煮られたるその横町の耳輪のむすめ 寺児溝に小盗市場勝るなりはかなき人の目をもて見れば 馬車つけば入日の色の繻子を掛く杏楽天の黒檀の椅子 錦著てうたへる顔のほのぐらし胡弓を摺るは師父の漢人 かたはらに楊貴妃の絵の掛かりたる紫檀の牀にものな思ひそ 白き馬わが車をば引きて出づ西園亭のアカシヤの路 馬瀾浦を今日の夕に見たるのち何時の世にまたこの道行かん 星が浦 その中を岬かすかに隔てたりあけぼのの浜たそがれの浜 星の身の変りはてたる岩と聞くそのあたりにもしら波の立つ 蔦かづら夕の浜のしら砂へ導く廊にしづくするかな 黄昏の浜の悲しくあけぼのの浜あはれなり旅人の見て 暗き山いよいよ近くよりそひて華やぎわたる灯の星が浦 豪古かぜ星が浦のみ水いろに残す夕もなつかしきかな ふるさとの東に向ける窓なれど哀れに白したそがれの浜 星が浦夕明りにて見る顔の蒙古に入らば恋しからまし 旅順 亡き魂の生きよ旅順の塔の廊踏めば初めに帰るが如く 円かなる白玉山の塔の廊月の如くに冷たかりけれ われも立ち士の列伝を説くも立つ旅順の山の二百三尺 薔薇の路アカシヤの路くるまして清の王女の逍遥する日 敦煌に掘られし唐の人形も郷愁つくる旅順に見れば 柏木が煙の如く花咲ける上にかさなる渤海の春 金州 常にわが車に添へり金州の驢の細き脚柳あるみち 金州は劉半溝の河原さへ山に引かれてほの赤きかな 赤土の山平らにて頂にあるも羊の寝るごとき寺 廃れたる烽火の台よ心をば云ふにもあらず山に残れる 五月の日琥珀の如き金州の城外を愛づ柳絮もわれも 城外の南金校の先生と馬車をともにす柳絮のちる日 熊岳城 砂白き熊岳河に見る時は死にたる城もうつくしきかな 風立ちぬ車の奴城内のちまきに走り帰りこぬかな 河原ともやなぎ原とも知らぬなりところどころに温泉靄上ぐ 魚の荷も古靴の荷も砂湯なる主も対す青龍の山 熊岳の河の砂原ほのかにも潤ふ朝に飛ぶ柳絮かな 母立ちて望小山に眺めたるその都より遠きわが子ら 砂掘れば人の思ひも及ばざる川の心の熱き湯の湧く 大石橋 愁ふれば車の方へ倚りてきぬ娘娘廟をおける草山 歩めるは娘娘廟のうしろなる野に飼はれたる山羊ら小馬ら 悲しけれ渤海に行き人見んは見ざることより勝るなれども 逃水の不思議を聞けど驚かず満洲の野も恋をするのみ 営口 わが船よ片時のちはいかならん遼河の流濁水にして 逢ひがたき人と遼河の船にあり午後四時の日よ座をば動くな 濁りたる遼河の流逆しまに動き初めけれ潮さして来て 蘆原も遼河の幅におとらざる緑をひろぐ北方の岸 千山 わが乗れる轎におくれて同行の馬来る外は高梁の畑 浅みどり梨のわか葉のそよぐ頃轎して入りぬ千山の渓 ことごとく四十八渓を越えぬまに寂しくなりぬ千山の路 紫丁香香の夕山に満ちわたる中に立ちたる大安禅寺 禅院の日時計の刻傾きてかへり出づべき千山ならず 紫丁香山寺に立つ煩悩のこころもまじるうす色をして なほ白く梨の一木の残りたるいただき近き寺の客房 日の本の法師よりけに節立てる法師に借れる草枕かな 若くして身の破戒をば問はれたる法師のありし土の牢獄 あまたたび目ざめあまたの夢を見ぬ山寺と云ふ処に寝れど 暁の山の法師の経声は支那と云へども悲しかりけれ 片はしも渓の水より冷たけれ支那の御寺のあんペらの床 禅院の朝の勤行はてぬればまた歎かれぬ山上の客 梨の花しろきをつたひ朝風の渓上りくる大安寺かな 朝風や峰づたひしてうぐひすを幽かに聞ける千山の奥 渓せまく轎をもちひずなりしのち身に沁みわたる山の風かな 昇天の龍の跡ある洞に居ぬ通力のなきこの羅漢達 しばらくは山轟きぬ木の枝を陸のいかだと云ふやうに引く 山二日一の輿丁のうた声になびくならひの紫丁香かな 仰ぐ時龍洞見ゆれ岩山に道士の衣の袖口ばかり 日光の陽明門のかたちするものの崩れて人菲を抜く つばくらめ羽うちつけぬ額づける道士も岩の一つと思ひ 屋根白く日のあたりたる木魚庵ただ一つ見えうぐひすぞ啼く 大空が波形をして集れる山とし見ゆれ重りかにして 無量観道士の寺の客堂に入ればたちまち山風おこる 無量観わが捨てがたき思ひをば捨てえし人の青き道服 薪をば抱きたまへる道士にもみちをゆづりてそれたる燕 顔あてに御柳の姿ある道士六朝の書をしたまふと聞く 伴へる支那の奴が指立てぬ時を問へるや恋を問へるや 道士達松風をもて送らんと云ひつる如くうしろより吹く 旅人を風が臼にて摺るごとく思ふ峠の大木のもと 湯崗子 湯崗子君が馬して出でし日もこの夕にも散る柳絮かな 浴泉す奉天省の鞍山のうしろの背のみ見ゆるところに 泥湯をば浴びて菖蒲の花となるあかし無けれは過ぎぬろしや風呂 来ん年もホテルの軒の巣に棲まん燕と似ざる遠き旅人 湯崗子左の窓に入りくるはかぐろき亥の子右は落日 曹達とて砂より白きもの湧けば美くしけれど草無き野かな むらむらに白き曹達の野の上の鞍山にのみ夕焼残る 蓬だにうら安からぬ野の中の温泉の末にしげる蘆かび 燕京のいくさ始まる終りぬと耳さわがしや東三省も 湯崗子蛙なくなる夕ぐれに柳のわたのしのびくる窓 遼陽 柳絮をば混ぜてつばめの渦巻けり中にしたるは白塔にして 白塔の第十三の上層の先づくづるるは悲しかりけれ 温泉の柳絮古城に見し柳絮遼陽県に散るなる柳絮 夕月夜蓬ひに行く子を妨げて綿の如くにまろがる柳絮 白塔の夢の外なる何ごとの夢をもな見そせめて阿片に 釣魚台 目を閉ぢて昔の夢を釣らぬまに釣魚の台を過ぎたる車 恋をする人のみ知らん断崖の釣魚の台のおもしろきこと 安東 安東の灯に降る雨を見て立てばいかづちすなり義州の方に 人ならば統軍亭と九連の台の如きは苦しからまし 尺とりが鴨緑江の三尺に足らぬを示すあしはらの中 江の中の筏いこへる小景に女もまじりなつかしきかな われなげく満ちたるもののめでたさと寂しさをもつ大江の水 水夫の歌聞かぬ大河の寂しけれ船多けれど水ひろくして われはまた北へ行くなり義州てふ日本領にも近づきしかど 五龍背 大江のみなぎるを見し同じ日に行くは温泉の夕月のみち 沙河きよし昨日の雨の流るるとのみ駅長は侮れれども なだらかに事を好まぬ風景へ五龍の山を一つ加ふる 水田あり柳の立てば旅人も晩帰の人のここちこそすれ 医家ありて柑子の皮を乾す窓に蜂の寄るなる温泉の村 支那の人営むと云ふ温泉もあり前房は火に焼けしまま 湯の宿の支那の手代のよく語る蔦の育ちし年月なども 鳳凰山 美くしき鳳凰山は峯多し芭蕉の葉巻むらがるやうに 内蒙古車中 ねぢあやめ地平の線にいたらずて其処さへはては白き砂山 われは今地と云ふものの平らかさ数ふるさまの落日とある をちかたの胡沙に曇れる日ならずてうららかならば悲しからまし 都とは砂漠の空をゆきかへるめでたき雲を見ざるところぞ 曠野なる蒙古の築地一隅に物見つくれど見んものは無し 昨日今日興安嶺を発したる河のみ見れど逢はぬ山かな 鞍山の鉄の砂より暗き雲蒙古の町の上にひろがる いづくとも興安嶺をわれ知らず山おろしのみ渦巻を描く 蒙古野に去年の出水の溜れるは五十年して乾ぬべしと聞く 朝より夕風少し騒ぎ立つころまで乗りぬ蒙古の汽車に ●南  (●はサンズイ+「兆」) 旅人も鳥も頼みし楡枯れてのちになりたる●南の城     (●はサンズイ+「兆」) 蒙古にて十種の穀をこころみに作る畑をば歩む寂しさ いつの日か色ありしもの失ひて形のみなる●南の城     (●はサンズイ+「兆」) 旅人が思ひしさまにやや過ぎて寂し蒙古の●の風     (●はサンズイ+「兆」) ●南の城を出づれは●児河北より来り草みどりする     (●はサンズイ+「兆」) 斉斉哈爾 我身をば中華の貴女の逍遥の車に見出づ夕月のもと 君折りて柳を船にさしたれば嫩江の水都にまさる 嫩江の嶋のやなぎの中分くる月光色の呉夫人の靴 呉夫人の船を青衣の衛府のもの洲につなぐわざあざやかにして 日の色を少しまじへて柳原孔雀の青をつくる夕ぐれ 嫩江を前に正しく横たへて閻浮檀金の日の沈み行く 洲の石に瑪瑙まじれり落輝をばひろふに擬しぬ留園を出で 柳原緑金をして川すでにくらき夕の雁のこゑかな 嫩江の岸水荘のあるじなる将軍が指す春のかりがね 旅人にくれ竹色のうすものを人おくる夜の春のかりがね 留園の蝋の灯かげに歌書きし夜のめぐり来よわれに再び 月夜よし夫人手兵をともなひてわれを送れるちちはるの城 哈爾賓 哈爾賓は帝政の世の夢のごと白き花のみ咲く五月かな 将軍の夜遊のむかし千人の集ひし園にたまれる楡銭 梨の花復活祭をあとにして真白き靴のゆきかよふころ 野の草の花束を売る哈爾賓の街を歩むは温室の花 ろしや少女スンガリイなる青をもて目をばくまどりよく踊るかな 哈爾賓のキタイスカヤの明方の街を車す旅人なれど わが友が露西亜の墓場に読み歩りく名も悲しけれ極東なれば 十字架のななめしたるも燈明を供へし墓も西方の人 おくつきに変らぬ愛を書ける文字故人の読まず旅人の読む 妹脊きて花植うるなるおくつきもその妹脊ほど古りて悲しき 哈爾賓の露西亜の墓場の石だたみ楡の花おく金錆のごと 古馬車の喪服夫人を乗せたるが楡の大路を唯だ一つ行く 東支鉄道車中 しら鷺の羽ばたく程のあえかなる川波立つれ老松の江 沼沢のわかれわかれに白くして清し東の蒙古の月夜 寛城子 二道溝頭道溝も乾きたり寂しき露西亜の駅につづきて マアルシユカ・ナタアシヤなどの冠りもの稀に色めく寛城子かな 吉林 朝風や吉林省に野飼ひする駒なまめかし雁の列より わが汽車はたんぽぽの穂の白きをばつたひて入りぬ土們嶺站 土們嶺梅蘭芳の舞ぎぬの袖のゆきほど長き山かな 松花江星の色してひろきかな吉林城をめぐりゆく時 旅路にて別るる友と来て立ちぬ吉林城の北山の亭 説書生弾き語りする蛇皮線に柏手を送る楡の葉の風 吉林の古著の市の一枚の韈かとばかりわれ哀れなり 筏行く吉林城のかたはらを流るる頃は木の白くして 吉林の龍潭山に蓬をば嗅ぐひと時のなつかしきかな 山さして高麗城のあとと云ふ蔑む如し形よからず 松の実を杖のかしらに人割るも砧めきたる吉林の汽車 そのむかし吉林省に王気立ち清朝の手に崩されし山 わが朝の元禄ごろの髪結ひて吉林の町練るは誰が子ぞ 大きなる川もろともに吉林の城暮れんとす低きところに いにしへの柳条辺も夕月の明りの中にありて寂しき 飲馬浦と云ふ駅の名の読まるるも白き柳絮の明りならまし 野の上の月のありかに霧かかり虚ろのさまの夕月夜かな 長春 降り立ちて伊通の川に洗はるる馬車より城はきたなきものを 城の門あらし立つなり長白の山貨の車あつまる時に 朝陽寺長春城もくづれたる堤も川もおなじ灰いろ 伊通川人多くして橋細しかからずもがな月夜に行かん 文廟のあるべからざるところなり城側は皆菲の香にして 公主嶺 夏雲が楡の大木のなす列にいとよく倣ふ公主嶺かな 公立嶺豚舎に運ぶ水桶の柳絮に追はれ雲雀に突かる 旅人が来て倚る楡の木の下へゆるく寄りくる牧草の波 しづかなり水ここにして分るると云ふ高原の駅のひるすぎ まろき楡円き柳の枝となる羊飼はるる牧場に立てば 青白く楡銭乾けりおち葉より用なげなれどなまめかしけれ 撫順 石炭に琥珀まじれりかかる身も涙を下に抑ふるごとし 撫順なる黒き層をば掘り下ぐれ冬ぐもりするペチカのために 重なれる山は浅葱の繻子の襞渾河は夏のうすものの襞 夕ぐれに波しらじらと掻き立てて九つ遊ぶ瀋水の馬 撫順にて露天掘りする炭のごと得てましものを一切のこと 奉天 畑青し東三省は滅ぶ無し煩らふなかれよき隣人よ その半焦げたる汽車に将軍のもて遊びたる紙牌の白し 宮門の濃き黄の瓦かがやきてかささぎ飛べる奉天府かな 便衣隊現れぬとて走りかふ瀋陽の子もあはれはかなし われは聞く小西門のほのぐらく見ゆる窓にて夢の話を ここちよく朝風吹きぬ屋の上の痩せて尖がれる獅子の口より あざみ咲く土に太宗おはします四辺の殿舎威儀に立てども 松風がたびびとに沿ひ上りきぬ隆恩殿の青玉の床 しら玉の柱なれども手ざはりの土にまさらず年を経たれば 柳絮ちり隆恩門の壁上も大路のごとし車行かねど 牛を引き七夕のごと野を歩む満人見ゆる夕明りかな 夏草のおほひもはてず塚なるは塚のかたちに伸びてはかなし 旅人は独り思はず野も水も雲も愁ひをともにこそすれ 大連に帰り旅順星が浦をば再び訪ふ。 大路なる糸房に見たる軽羅をば掛けてなびけるアカシヤの枝 星が浦山の方にもしら波のひるがへるかなアカシヤ咲きて 窓ひろく波よりきたり波かへる硯の箱の巻絵のやうに 日輪が泳ぎ去りたるのちなれば影よりさびし大海の嶋 すでに我が別れの涙こぼれそめ朧ろになりぬたそがれの浜 初夏の紫玉の色のたそがれの中になびけりアカシヤの花 渤海の塩田に添ふ道を取り訪へば再び悲しき旅順 悲しくもこの世ならざるところより霧の寄せくる旅順口かな わが船を海気か鬼気かおそひ来て目の閉ぢられぬ旅順の瀬戸に 霧かかり冷たきものとなりにけり船も山なる白塔のごと 芳ばしき若葉の風が洗ひたる石の道をば夕ぐれに行く 雨降りて桃源台の赤土の濡れ行く香こそ哀れなりけれ わが心故郷にのみ引かれぬも苦しかりけり旅の船待ち 旅四十日過ぎこし方の入り混りなつかしきこそわりなかりけれ 満州の丹朱ほのかに残るべき旅の心と思ほゆるかな 誤りたる呉夫人の訃報を得たりし時 わがために柳の枝をさしたりし船を夫人も我れも見がたし 嫩江の月夜とおなじ世とも無き世をたちまちに見たまひし君 水荘の嫦娥よすでに天上に帰しつる君をわれ見たりけん 嫩江の洲の柳原分けたらば必ず君を見んここちする 斉斉恰爾を夜半に立ちつる旅人は月見るたびに君をこそ思へ 呉夫人の生死を知らず初めより夢の花ぞと思ひけらしな 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 牡丹集 昭和七年三月十九日石井柏亭先生の生誕五十年の賀莚に詠める 牡丹には風の迫らず雨寄らず九つの門そなはるならん 隅田川青き都の春の日に牡丹を愛でて千歳ましませ あなめでた宇宙の紅を一もとに盛る牡丹ぞと思ひけるかな 白き馬柳の道も来るごとし牡丹を挿してまろうど待てば いみじかる牡丹の花を人も見よ夜さへも日をば望めるごとし 牡丹花はいづくに置かん答ふらく広き王宮柏亭の卓 なつかしく草の中にて生ひたれば蓬の香さへ添ふ牡丹かな 大唐も今日は遠世となさぬなり牡丹と人のめでたきがため 人きたり牡丹に添へて云ふことは皆わが友の春の賀の宴 われありて牡丹に近し心鳴りかく思へどもほの見ゆるのみ 牡丹こそ誰より先きに咲くとなく後れず心ゆたかなりけれ 打つれて朱の牡丹咲く兄弟のめでたきを持つ人の如くに 牡丹より陽気立つ日は大空も地に従へるここちこそすれ めでたけれ牡丹の花は明暗を分ち云ひても紅と紫 大きなる牡丹よ王の都なる南の門と云ひぬべきかな 夕ぐれに牡丹いよいよ紅ければ近く捧げず明星の燭 胡蝶こそ牡丹に眠れ人の子は心をどりて止むべくも無し 五十年を牡丹の中にありしごと友は光と幸ひに満つ わが友が支那の役者のよそほひに似ると云ふべき隈ある牡丹 君の賀に銀の牡丹を描くなり浅間の煙大島の火も くらぶれば牡丹わりなく小さけれ君をことほぐ夜の宴にして しら雲の下りきたりて靡くともなほたぐひなき牡丹ならまし 神の子におん母マリヤ添ひたまふここちす白き二つの牡丹 ことほがん盛りの春に逢ふことも通ふ牡丹と丹青の道 寄る靄に紅紫を分つなり心めでたき牡丹の花は 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 采菊別集 昭和七年十一月廿六日有島生馬氏五十回誕辰の賀莚に詠める。氏に捧ぐる画巻を「采菊集」と名づくるに由りて、これを「采菊別集」と呼びぬ。 至りつる君が五十路をかたどりて盛りを示す菊の花かな 山の菊野菊の外の帝王の都の園のしらぎく君は ひんがしのめでたき君の賀のむしろ花もて設く千秋の菊 菊の花富士の尾上の雪のごと一つぞ咲けるゆたかなる葉に 菊淡く色を分けつつ咲く園になほうす霧の舞へる朝かな 花貴につゆ癖もなく直ぐにして菊が持てるは瑯●の枝      (●はオウヘン+「干」) 高麗の壺に臙脂の菊をさし一人あれども心ときめく かぶろ菊咲く方見れば皆笑みて呼ぶここちする花園の路 おのづからいみじき光身に添ひて秋も白夜を作る菊かな 夕月夜菊花の熱のほのかなる中を行くこそめでたかりけれ 一人づつ五つの階に裾引きて白菊の貴女ある如きかな 菊の酒飲めども尽きぬ杯を南陽県に得てたてまつる この菊は蒼龍に似る枝葉もち鳳凰の毛をその花に附く おんわざに仙家の菊の永久を得ませり今日はおん齢祝ぐ 園のおく今馳せ入りし鳥のごと乱れて咲けりしら花の菊 菊慈童舞台の板をとうと踏みそよろと寄るも菊の色香ぞ 菊の花朝あまた経てととのひぬ人の盛りの五十路のごとく 呉竹の腰のあたりに菊咲きて沙濡れわたるあかつきの庭 一つづつ菊花笠と見ゆるかな美くしき子の被けるがごと 園の朝唐児のやうに紅菊の並ぶところへ寄るもみぢかな 天上とこの世と多く異らぬ証とすべししら菊の花 六尺の菊を露台につらねたり東の海の棚雲のごと この君を天地こぞりことほげる夜なりと相す満堂の菊 一本のいみじき菊にくらぶれば云ふに足らざる星の群かな 降りきて長夜の宴を照らすかな嫦娥の国のしら菊の花 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社 梅花集 昭和八年二月廿六日与謝野寛先生満六十回誕辰の賀莚に詠める 難波津に咲く木の花の道ながら葎繁りき君が行くまで うちつけに云はば詩人に梅似たり五公を凌ぐ花と聞けども 梅立ちて日のさす藁屋蓬莱をこの姿とも思ひけるかな 清らなる梅花浮けたり山房の厨の桶もさかづきのごと 暗きより暗き閨にぞ香の通ふ見えぬ光の添ふ梅ならん 梅の花いとつつましき軽羅かな白と紅とに妙齢を分く 盛りをば人によそへでありがたし千株の中の第一の梅 梅咲きて都の塵と云ふものも有りとしがたくなりにけるかな 一行に月と売茶の山人がしたがひて来る梅の中みち 潮の鳴り月上り来ておごそかに白き夜作る梅のむら立 雪のうへ赤絵の皿のここちして紅梅ひらき日の光満つ 六十年の春たちかへり二月の二十六日梅の花咲く 梅に住む羅浮の仙女も見たりしと君を人云ふ何ごとならん 白梅を見てときめきしその日より老い給はぬも君が年月 草ならば秋風の野にありなまし二月に至り梅は咲けども 湖の洞爺の山の陽炎が梅を巻くなり屏風のやうに 白鈍き紬の色の梅立ちてあたたかげなる人の家かな 一本のここちよげなる紅梅よ輦車の宣旨下りしならん 明王の剣邪を破るとよたぐひしぬべしわが梅の花 家の内たとへばかまど明神のおはすあたりも梅の香となる 梅の花早く咲きつつ衰ふること速からぬ木の交るかな 紅梅を透して見れば池の端孔雀の色す春の夜明に 梅咲けば蕪村思ほゆその人が唐の詩人を思ひし如く 園の池うすらひもして定めなき寒暖の季のしら梅の花 松山の裾しばらくは枯生にて芥の多し梅咲くところ 友として六十年を送りたる君と梅とをわれらことほぐ ほのかにも来るべき日を示しつつ思ひ上がれる梅の花かな 紅梅の横に蔵塗る男居て云はず掛巣が羽羽たきぞする 何れとも白雲台を云ひがたし梅の占むると富士の座なると 仮初に梅もとどまる白波の如し入江の風騒ぎつつ 黄金を伏せたる如き雪なれど蕋のめでたき梅を抱くのみ わが梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと 梅の花微風を蹴る姿すと朝歩きして思ひけるかな 赤土の断崖濡れて梅の花咲ける武相の裏街道よ 月ありてわが茶亭には灯を置けり梅低く咲き梅高く咲く 梅の枝胡弓の棹に似たるをば娘抱けり房州の汽車 白き梅いまだ駝鳥の高さにて離れ立ちたる夕月夜かな 梅咲けば漢宮の女をわれも見る君が描けるは何のまぼろし わが見ても梅清きかな一本に相思を寄する人たらねども 梅の花雪を負ひたり月明のいみじきに過ぐかかる夜明は くれなゐのしだれの枝に風吹けばただ袖とのみ見ゆる梅かな 紅梅の幹きはやかに添へるかなたとへて云へば黒繻子の襟 梅こぼるささやかなれど次次に脱ぎしいくつの衣とおぼゆる 一もとの梅匂ふなり山国の日は橇に乗り遠く去れども 紅梅の開く初めのけしきなど幾春もまた変りなきかな 山裾の若木の梅の三角帆竹原を越え海に出づらん 梅の歌詠む春の夜となりにけれ山の住まひの蘭燈のもと 禅室を出でかまくらの紅梅の盛りに逢へりなにがしの谷 片側に船の並びて夕日さし磯山の梅つたふ道かな 内房の端の板敷梅が香も濡れつつ添へり髪干す人に 春の日の雲溜るほど梅咲きて白き方より山風ぞ吹く 山の梅泉の青を帯びて咲く野のしら梅は明星の色 梅の花氷の屑のここちすれ何故となく濡れて光れば 山房は裂く独活にさへ梅が香の分たれてあるここちこそすれ いと青き海を敷けると天城をば負ふと分れて咲ける梅かな 暁の富士の朱壁のもとに咲く伊豆の山辺のしら梅の花 陽春と冬ごもりとにまたがれる梅花の宴のおもしろきかな 紅梅は雪をぞ著たる宮姫が小忌のころもを上にするごと 伊豆の春梅の林へ入る路の霜に凍りてうぐひすぞ啼く 紅梅が若芽柳を簾としかすめる山とむかふ春かな 梅に寄せ昭和の八とせ春の日に合歓の巻なりぬ百歌 定本与謝野晶子全集 第五巻歌集五 昭和五十六年二月十日第一刷発行 昭和五十七年一月二十日第二刷発行 定価  三千五百円 著者  与謝野晶子 発行者 野間省一 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二-一二-二一     郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇     電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表) 組板  株式会社熊谷印刷 印刷所 多田印刷株式会社 製本所 大製株式会社