舞ごろも
与謝野晶子
『舞ごろも』の初めに
わたくしはこの一冊に主として近作の詩を集めました。それに就いて特に一言を添へて置きたいと思ひます。
さきごろわたくしは『歌の作りやう』一巻を書いてわたくしの短歌を作る心もちを少しばかり述べました。わたくしの詩を作る心もちも歌と同じです。わたくしは無学である上に順応性の非常に鈍い人間ですから、芸術上のどの主義傾向をも知らず、どの先輩の文学論や詩論にも教へられずに居ります。従つてわたくしの詩が世に謂ふ詩と云ふものになつて居るかどうかを知りません。忙しく暮して居るために詩壇に名ある人人の作物と比較して自省する時間をも持ちません。その点に於てわたくしは全く自信を欠いて居ります。
それでわたくしは此集を読んで下さいます人達に斯う云ふことを望みます。わたくしの詩の文学的価値若くは社会的価値を批判して頂くにはまだ余りに早過ぎます。それよりも此集の詩に由つて、わたくしと云ふ一人の無学な女の、浅薄ではあるが真剣な、低調ではあるが能動的な生活の象徴を専ら読んで頂きたいのです。
最近に同じ書肆から出しました散文集『人及び女として』は、わたくしの詩の断片的記述の範囲を越えて居りませんが、此集の詩がわたくしの生活の全的表現のために、わたくしの力一ぱいを出して居ることだけは手ごたへがあります。もとより只今の所わたくしは是だけの力しか出し得ないみじめな境地にあることを深く深く愧ぢて居ります。
わたくしの生活はわたくしの命の焔の舞です。わたくしはこのみづからの命の悲痛、激動、愛執、驚喜の舞のために、恥を越えて無い袖をも振らねはなりません。わたくしは斯うして舞ひながら、兎にも角にも人生解放の公会に馳せ参じる一人の新しい踊子でありたいと思つて居ります。
千九百十六年五月
与謝野晶子
まぼろしが幻として消ぬ薬われのみぞ持つ君のみぞ持つ
女より選ばれ君を男より選びし後のわが世なり是れ
その若さ恋をするなり遊ぶなり物思ひには自らあたる
千よろづの言葉も唯だの一言も云はぬも聞きてかなし女は
おほらかになりぬと聞くも淋しげに見ゆると聞くもはた同じこと
あな恋し琥珀の色の冬の日の中に君あり椿となりて
わが愁これにもとづく理を今は一日も後に知らしめ
なほ姿君が見ん時誰よりも鮮かなれと願はぬ日なし
明日の日に忙しく焦れはた思ふ二十と云ひし年のあとさき
病して三日に一日はこし方の恨めしさをば思ふ身のほど
人の云ふ歎き疲れし身のごとく恋するわれも思ふものかな
なつかしき境にありて君としぬ泣くこともはた戯れごとも
相住みて片恋をすとゆゆしかる大ひがごとを云ふ人となる
天地のいたづらになることよりも愁ふることは君にただごと
いみじくも妬しと云へば彼を今殺さんと云ひ門を出で行く
思ふ子とありのすさびに立ち別れわが片恋に高名となる
君もまた未だまことにかばかりにわれを憎むと知らぬなりけり
ことのさま裏を表に置きかへて思はれて来しわれと思はん
思はれて来し身ならばと云ふことを夢寐に忘れずわれは今日さヘ
恋と云はば恋と云はさん寛容を示し給へど世と共に泣く
かたはらに秤を持てる女居て昔と今の目のみかぞふる
誰ならん世の常事のかたはらに人を忘れん苦行を積むは
その中によしなしごとも見は見つれなつかしきかな忘られぬかな
片恋に涙ながしてあるここち我れのみせめて知れるなりせば
悲みのいみじき身かとわがことを自ら問はる何ならん是れ
柔順なる君は友なりかく云ふにいつはりも無しあはれはかなし
わが生命三日四日の後いかにとも知らぬ時さへ恋しきものを
何ごとも云はぬならひに年ふれば空涙とも人の見るらん
夕ぐれの障子の外に松鳴れば今朝別れこし東京恋し
(以下七首茅が崎にて)
わが子等を鳥のたぐひに思ひつつこの砂山に集ひ来と待つ
朝まだき青羽の鴨の這ひいでぬ厩に似たる海人の家より
この荘は一昨日の客昨夜の客簀子に溢れ春風を愛づ
茅が崎の松の間に四五寸の麦植ゑられて春風ぞ吹く
海風は尖れるものの心地しぬかの病院の風車ゆゑ
砂山にやや風つよし伏して云ふしめやかならず君に似るかな
春の日の明るき方を後ろにし柱ならびぬ人の如くに
正月は馬の蹄の音もよし間近にものの本繰るもよし
正月の炉に寄るここち限りなし一人なりせばさては知らねど
かれのよしこれのよしなど思ふこと癖とならまし正月の後
ささやかに雲立ちのぼる少女子の羽子の板より雲立ちのぼる
正月に紅の帯負はぬこと少し恨めど歌などを書く
正月に恋をつくれば弟が独楽まはしする板の玄関
くろ髪の余り清くて憎き子もわれも突くなる羽子の音かな
友染をなつかしむこと限りなし春の来るため京思ふため
くれなゐの小き杯たまはれば椿の花のここちして取る
一人づつはた二人づつ羽子は突く我等の恋もかからましかば
いみじかる元日の日の昼の風われと君とのほとりに遊ぶ
正月の家と家との間より尾振りて来れば犬もめでたし
都辺の玉を敷くてふ路よりも白くめでたき正月の箸
尋ほどもこの地の上を立ちはなれよろこぶことを正月と云ふ
目のまへに春の来りし喜びの外に唯今何ごとも無し
正月の二日の朝に櫛とりてうらなつかしき黒髪を梳く
うす白き門の口見ゆ元日のわがつれづれに障子明くれは
春立つをよろこぶ人に似る霰少し落せる正月の空
ふさがれて流れざる水わが胸に百年ばかりあるここちする
火の糸も銀糸の筋も見ゆるなり乱れ心地のなつかしきかな
くらき夜の遠方の火事黄の銀杏燃えは燃ゆれど火は火なれども
冬は憂し木立も上の大ぞらも牛の角かと思ふ色する
みぞれすと留めし人とする話少し淋しく哀れになりぬ
雪の日の池の底にも動く魚あるいみじさよ恋に似るかな
思ふ人姿を借りて恋しやと云はしむるごと春の雪降る
汝が群と少し変れどはかなごと云ひ合ふなりと春の雪降る
いく筋の黄の帯のごと日の射しぬ雪解の音の今立ちぬべし
雪の日の門の口より見ゆるなり黒くめでたき馬の前脚
傘さして去にたる人を憎みけりその雪の傘うつくしきため
うぐひすや石の浴槽のここちするましろき閨の春のあけがた
いづくにか悲しき鐘の鳴り出でしここちす春の雲のうごけば
夜のここち重く苦しく朝ごこちきはまりもなく浮き立つ春は
春の日の輝くものとやや近くやや遠く居て病するかな
(以下十八首病床にて)
わが夫子が松の枯れしを切らせ居ぬおのれ病むなる春の夕に
隣なる不開の門の裏見つつ二階に病めばうぐひすの啼く
みづからの病むことをのみ思ふ日は心安しと君に洩せし
よその子の唯だの噂をかばかりに身に沁むと聞く母と知らずも
病をば病と少し知り初めぬこの子死ぬをも死ぬと知るべき
死ぬことを温泉に行き浸るごと思ふと子等に告げて笑ひぬ
かりそめに容貌おとろへたらんなど思はぬきはの病となりぬ
この門を一つくぐらばはてもなく広き心とならんものから
死ぬことも夢のやうなることながら重ぐるしきや恋に比べて
近き日に生命尽くると云ふことをいとおほらかに思へりわれは
風となり雲となりはた水となる自在を得べきわがいく日後
死にてのち忘られざらん思ひ出でよかく願ふ人日に変り行く
姉上に物を賜へと文書くはかなしされども今しばしのみ
夜明がた舌いと乾くまだ斯かる心の苦には逢はずして死ぬ
いともろきそが玩具よりいち早く滅びんものを子等は知らなく
なげくこと多かりしかど死ぬきはに子を思ふことよろづにまさる
死ぬことは大事なれどもわが心眠さも眠しこの昨日今日
こころよく小ごめ桜が銀を延ぶ夕の月に朝のひかりに
地の上のくれなゐの雲天上の雲より盛り久しかりけれ
わが涙大川の色いと青くなりぬと書けばあたたかに落つ
春の夢ながく醒めざる人なれば四月の後も花を思へり
春風に青き柳のうごく時生くるかひあるここちこそすれ
みづからを知ること未だ浅しとて吾を苛む日のみつづきぬ
あはれにも狂ふがごとく遠方の人の心を見てあるこころ
そのゆふべ洗ひし髪も乾きぬとひとりごつ日の幾日つづくぞ
人よりも母のつとめも知れるごと君あらぬ日にふるまふは誰
なほ七日君かへらずと灯にかこち机に語りわびしらに居ぬ
日にあらず夜さへ昼さへわれ照らすいみじきものと今別れ居り
目に見えぬ鬼にさらはれ来しここち君なくてする我家ながら
かりそめに旅して寐ると夜などを安らかに居ん夢は見んとも
かたはらにあれどもそれは隠れ簑被てありとしてかつ淋しけれ
十日ほど人の旅する唯ごとに胸のせまるもあはれはかなし
ひるまへの雨も晴れたる夕方の入日もさびし君西に居て
やすからぬ日にさもあらぬ日のつづき悟りも得せずなほ若きほど
君われを忘れぬことの安けさをわが衰への偸み見するも
ことごとく君の心を占むるよりわれ衰へぬ証得てまし
身の恋に添へて守れど面影は今日の勝らず去年の昨日に
わが恋は外に光らずかがやかず華やぐことのあらぬものから
前わたる風さへ君のここちして二心なきものぞなど聞く
湯に下りぬ一重ざくらの散ることを二人三人に文書ける後
衰ふるものも美くし三十路をばうしろに白き山ざくら散る
うら淋し雨だれほどのひまおきて桜ちるなり今日を初めに
五月雨の来てむせぶなり清水の音羽の山の石のきざはし
咲き散るを心に任すもののごと我れ思ふなり初夏の花
身の中にアマリリスより紅き花咲かせて二人見るとしぞ思ふ
砂山のかたはらの砂撫でられぬまほに物をば思ふと無しに
鋏もて稚児の爪をば切る母のあなあやふやと思ふ初夏
日輪の光のごとき黄菅をばくろ馬の食む快きおと
二尺ほどわれより低きかきつばた菖蒲の花ももろともに待つ
初夏の空の光に従ひて恋のこころの花さうび咲く
いと深く君思ふとき降り止みて更に零るる初夏の雨
夏の花吐息のごとく匂ひくるたそがれまへの広き家かな
朝風や鸚鵡の鳥に似る牡丹草分けて切る小き牡丹
内に咲き外より咲けば初夏の花もくるしや救ひ給へな
木の花のうす紅をして猶にほふ中をいみじき五月風吹く
柳濃くなりぬ御堂の大徳も舞姫たちも袷着てより
余りある思ひと云ふは初夏のそよ風にしも似たるものかな
君見んと心の進むそれのごと春より変る夏の待たれし
このわが世恋しき人と初夏の二つをめでて光あまねし
しやがの花身を雑草として咲けど夏を染むなりうす紫に
初夏や吹くもあほるも扇より勝らぬ風のにくからぬかな
二三本あをき芽をふく木のありて山の心地す初夏の風
初夏のちから頼もし枝ごとに黄金の汗すと見えて芽をふく
ひきがへるのそりと出でて延べし背の土いつぱいに大いなるかな
ひきがへる大事の前に片足を後ろに延べて時を窺ふ
かにかくも皐月は悲しもの思ふ家の小暗さ外の明るさ
物思ふわれに少しの関りも無きさまするがめでたし夏は
園のうち薔薇の門を七つ八つくぐればやがて夕となりぬ
風吹けば烈しくもゆる紅の罌粟身もだへなげく一重白げし
薔薇の花朝朝摘めと咲くことも夏は嬉しや水の鳴れるも
高高と噴水盤を持ち上ぐる真白き童すずしや夕
からたちの花を吹くとき酒倉を覗くここちに風のかんばし
仏蘭西の紅き芍薬それなども喜びとして我の目に見ゆ
ひなげしと矢ぐるまの花朝の靄ロアルの川の清き水おと
ひなげしが置かれし膝の並ぶなるセエヌの船の狭き甲板
旅人の朝の酒宴に罌粟を置くロアルの岸の石の卓かな
睡蓮の花びらの先苦しくも少し尖れりわが心ほど
六月は酒を注ぐや香を撒くや春にまさりて心ときめく
わが部屋に脚長の蚊の来て舞へる皐月の昼に物をこそ思へ
南風ふるき畳の色をして吹き出づる時われあぢきなし
門のうち馬車行きちがふ初夏の若葉の棕梠の夕月夜かな
涙よりいみじきものを貯へしこころの人もほこりかに居ぬ
なにとなく若き芭蕉の葉の肌のうち思はるる朝ぼらけかな
蔵のうち朱塗白木の長持が油紙被る皐月となりぬ
ふるさとのせむしの叔母が縮着る夏いと近し雨がへる鳴く
大空を路とせし君いちはやく破滅を踏みぬかなしきかなや
(以下十五首飛行機に乗れる木村、徳田両中尉の殉難を弔ひて)
うら若き二羽の隼血に染みて啼く音絶えたる二羽の隼
この二人新しき世の死の道を教ふることす誰か及ばん
あなと云ふ一瞬に来ぬ虚無の虚無奈落の奈落しらぬわざはひ
久方の青き空よりわがむくろ埴に投ぐるも大君のため
めでたかる春の光にこの君等何物よりもいたましく死ぬ
地に聞けばいと恐ろしきことながらかの天近く笑みてかみさる
現身のくだけて散るを飛行機のはがねの骨とひとしく語る
若き子が鳥の死ぬごと地に落ちぬかたじけなさよ涙ながるる
吾妹子と春の朝に立ちわかれ空の真昼の十二時に死ぬ
新しき世の犠牲かなし御空行き危きを行きむなしくなりぬ
誰か世に犠牲とはならぬ斯く知れどいたましきかな先立てる君
虚無に裂け奈落に砕くあはれあはれ唯うす白き塵ひぢのごと
もの云ひのさがなき人も知ることのいみじき人も君達に泣く
青空を名残のものと大らかに親も見たまへ妻も見たまへ
(以上)
我にある百とせは皆わかき日と頼みて之を空しくもせじ
太陽のもとに物みな汗かきて力を出だす若き六月
みづからを支ふる力はしけやし夏の木立の如くあらまし
(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第三巻 歌集三
昭和五十五年六月十日 第一刷発行
定価 二千九百円
著者 与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
東京都文京区音羽二−一二−二一
郵便番号一一二 振替 東京八−三九三〇
電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組版 株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社