夏より秋へ
与謝野晶子
上の巻
琴の音に巨鐘のおとのうちまじるこの怪しさも胸のひびきぞ
人の世の掟の上のよきこともはたそれならぬよきこともせん
くろ髪の女の族は疎けれどわが師となりぬ人うらむ時
恋と云ふ紅き下著の上に著るおらんだ染のもの好の夢
御心に突き入りし日のおもひ出のなどか今日さへ溌溂とせる
被けものせんと心のすすむとき猿の頚にも真珠をば掛く
憶病か蛇かくさりか知らねどもまつはる故に涙こぼるる
もの哀れ知れる心は日のうちに春のかぜ吹く秋の風ふく
君故にあまた楽しき時すぐし死ぬ日となりぬ神もかしこし
むかしの日姉とおもひし桜草いもうととして君と培ふ
人人はわが話にてしづまりぬ秋は斯かりと思ふ夜かな
むつかしや何を願へる心ぞや云ひまでもなし思はるること
わが門の二もと柳すこしづつ春めくころのあかつきの雨
わが閏にやがて丁字の匂ふ日の来らむなどと他をおもへども
わがことを人みな賞めてありし時苦しかりしに比ぶればよし
神田川その岸のまち霞まむと病めば都のうちもなつかし
かへらんと更に思はずいにしへに前生の身に君を見ぬ日に
ここちよく分ち能はぬ酔をしぬ目の前のこといにしへのこと
わが息の虚空に散るも嬉しけれ年の明けたる一日二日
あめつちの白地の春に少女子の遣羽子の音金砂子おく
大ぞらにしろがね色の花ぶさの見ゆとも思ふ春の来ること
しろ石もみどりの石も美くしく春日の神の口づけを受く
手弱女がましろに匂ふ手を上げて賞むべき春となりにけらしな
不可思議のよもあらじとて入りも来し女の心の臓ならめ君
鏡には何をとどむる不幸なる女王のゆめと帝王のゆめ
君とまた再会すべき家としてしげるをめづるいちじくの葉よ
二月や怒をおびし丹はなだの雲のうかびて霰ふるかな
清浄につゆよこしまのなきものに彼の日の恋もなりて終りぬ
わが知らぬことに喜ぶ群はなれ再びもとの片隅に行く
わが君を深くうらむは危ふかりかたちのいまだおとろへぬため
くろ髮やまだあざけりの心もて春に会はぬをよろこべる人
青き火に捲かると云はる恋すれば泉下の人の魂に似るらむ
涙しぬ今人のごと恋と云ふ生死のたね蒔きしここちに
何やらの上に載せたる鍋見ゆる秋風の日の君が家かな
紅梅に地獄絵のごと赤黒く入日のさせばいきどほろしき
朝夕かたはらに笑む桜草はたかたはらに泣くさくら草
ほのかにも白きけものの尾を振りぬ動物園の朝靄の中
わが子の目うるみてやがて隠れたる障子のそとに春の雨ふる
人の世は貧しき心もちたるもわれの如きもおなじ恋する
いさかひてはては涙もながしけりこれを寒しと更におもはず
よく知りぬ次の刹那に自らを笑はしむべきありのすさびと
恋をして趣のなき終をばめでざる人のふところの劒
浅みどり柳の枝の中行ける紺のきものの春の夕ぐれ
三月の柳を折りてあまりにも物をかくさぬ風流男を打つ
佐保姫にしら玉姫におないどし去年も今年も来ん年もまた
見ることをあへてせざるはこの人も彼も弱さの同じければぞ
うら庭の千日紅を血まみれの花と忌むなり物に怖れて
いと寒くかなしきままに明るみへすべり入るなり我が朝の夢
わが吐くは瀕死の息と思ふかな白くかぼそく深く苦しく
一人のわれに答ふるものも無し下部の如き面そむけつつ
たゆければ日の仰がれず紫の幕に隠れて又出でずわれ
地をまろぶ落葉にまじりらうたしや山より来る鳥の足音
かにかくに我身や人と異れるこの賑やかさこの寂しさよ
人おもふ涙は紅き絹となりひるがへるなりわが前の炉に
灰色のあはれなる顔する群はうたへる日なく舞へることなし
この君につけて物のみ思はると云ふ下心はかなまず身を
筆をもてあらがひかくす秘言もみなうつくしやこの君のこと
わが涙重きおもひをする日より恋しなど云ふ唯事に落つ
夜となればをはりの近さ知ると云ふ朝は若さを見よとわれ云ふ
硝薬のにほひくすぶるここちしてわが黒髪のここちわろき日
松原の鵠のつばさのさにづらひ日昇るらしも大わたつみに
春の水あふるる音を何よりも悲しとおもふ我に似たれば
少女等が白ちりめんを糸に縫ひつくり出せる驢馬とおもひぬ
わが見し日恋にやらはれ来しと云ふ乞食に君は過ぎざりしかな
ことよろづ若き心にまかす人我等が末ぞあはれならまし
そよ風の春のあかつきとらへ来て我に這はせよ水いろの雲
青柳あなづり初めて目におかぬ三日目の小雨髪に染むかな
恋と云ふ欲のみ生きて自らと云ふたのもしきものは死に行く
花の草しろき紫おなじ程さびしきいろをつくるたそがれ
与へずば奪はんかくと叫びたる荒き力もゆるむ日のきぬ
洒なるか劇毒なるかみづからを生ある限り吸はまほしけれ
ことわりに心ぐるしと思へるは皆外ならぬみづからのこと
うるさしや小鳥の話あかずする客人早く鳥となれかし
大いなる赤き舌吐くこころよき魔を傍らにしてまし夕
磯はまの貝の紋をば見るごとく石の上這ふ春のかげろふ
この君は河に小川の入りたりし恋とことわるそのかみのため
人とする話を避けて与之助がまぼろしつくる山ざくら花
ほのかなる遠山の色うち見つつ思へる時におもふ君きぬ
なほいまだもの落しつる心のみゆめもならはずわが恋の上
ほのじろき李の花に降る雨も見て心燃ゆ人を恋ふれば
西の京浪華の街の思はるる靄の降る日となりにけるかな
いにしへの奈良の御寺の内陣を歩む心地に臘梅を嗅ぐ
恋はしもこの人の世にゆくりなくわがやとひたる船とこそ思へ
久方の日の光よりたふとしと片恋をだに思へるものを
わがつくる諸善諸悪のみなもとをかへすがへすもすこやかにせん
春きたり遠方人に文書くと少女にかへり手ならひぞする
おほらかに大寺めきて煙曳くわが春の日の磁の香炉かな
よろこびぬ浮彫したるきよらなるうす桃色の春の初めを
南風けうとく吹きしのちに降る三月の雨涙のごとし
そのむかし人と恋とに別ありき衰へぬれば相ぞとぶらふ
心いとめでたき人の常なれば女王とよびてあなぐらに居る
いそのかみよくかくろへて書きしにも劣らぬことを思へばぞ書く
自らの心に我れとことわりををしふる時の苦きあぢはひ
険しさとやはらかさとをもてること自らわれをいたましめつつ
いつよりか我やわが身をうとみけんかく思ふ時涙こぼるる
むかしより心の奥に流れたる冷き水につひにおぼるる
水色の寝間著のままにすと通る十畳の間の大鏡かな
初夏の夕ぐれの庭わが前をかずも知られずしら玉はしる
野やしろの石のこまいぬそのもとのあたたかかりし馬ごやしかな
水に居る身ぞとおもへりわが梳ける髪の前なるうす青の雲
ものは皆いづちともなく消ゆるもの忘るるものと知りてはかなし
くれなゐと思へる胸に次色の塔いつの間に建てられにけん
わが心はからざりけるめぐりあひするごと時に馴れぬもの見る
人間のうつくしさをば自らによりて思ひし日も薄れ去る
家のうちうす暗き日もあてやかに白きめでたき雛の顔かな
小ゆるぎの磯のあわびを人くれぬ上巳の雛の大みさかなに
自らのこころの臓は人の飼ふ鳩と思へり生れし日より
若き日の恋ゆゑ書きしものの反古積みかさぬればかくれ家となる
尽くるなき慢心のためおとろへずこの毒酒こそやさしかりけれ
よそほひに仮に建てたる円柱ならずとわれの恋を云はまし
若き人そこはかとなく集りて夜は何かたるわがこと語る
うすものの夏も寒げに見ゆるまで痩せたる人となりにけるかな
死ぬ夢と刺したる夢と逢ふ夢とこれことごとく君に関る
春の宵一人ばかりは悲しげに涙こぼさん人も来よかし
さばかりも恋を頼めるあどなさは呪詛にまさると誰の云ふらん
くろんぼの男と女まじり居るここちす花と葉おほき椿
わが障子あさみどりなる絽を張りぬ白き雨など注がせてまし
あとさきに嶋田に結へる人と我れ雨の後なる水たまり越ゆ
道のべに唯並ぶ木と自らをわが思ふこといつの日よりぞ
われいまだ人を娶りしことあらず君の心をいかで知らまし
あはれにも恋を見ぬ世の天となしいく日ののちに地獄にぞ置く
いささかのゆかりなきこと身を噛みぬこれを妬みと云ふや云はずや
日もすがら石を叩けり我よりも愁はしげなる秋の雨かな
来し方をけものの跡と行くさきを己が路とし見る如しわれ
外にまた似るもの無しと思ひたる高き愁にやや近し秋
真白なる涙をおとす役済みてまぶた開けば春の日となる
わが話きけば心のやはらぐと言ふ酒好の友の白髪
まじものは数行の文字を見入ること久しき時により来りける
われ生きん再び見じとおなじことあまたたび云ふ善人のため
もの云ひてうしろ暗さを心知るこのおもむきの忘られぬかな
つれなくもせせら笑ひの声たてて夜通し爆ぜぬうしや炉の炭
危ふかることし尽せる魔術師を賞め合ふごとしいさかひの後
船の帆の海に浮く如わが欲のいとさやかに命にぞ浮く
なつかしく靄引く朝は切高熕Xの如くにもの深く見ゆ
涙おつ吾れの心にそだちける真白き鳥の羽を振る時
思ふこと半夜にいたり忘れんと道理のままの眠りに就きぬ
自らにへつらふ人にいくばくもことならぬ子のもの諌めする
百日ほど飛行したりしそののちの気落のごとし今癒えぬべし
春寒しわがすがれたる姿をば旅役者ぞとおとしめて泣く
わが子等がおしろいをもて青桐の幹に字かけばうぐひすの啼く
夕風やすみれの海に浮島をつくる少女のまろき撫肩
夢に見ゆ阿片を吸へる赤き間の壁画の中の廓の女
春雨はまじへて降りぬ朱の夢さびしき人のしろがねの夢
尺すぎし萱の若芽のそれよりもかぼそき春の雨に君来ぬ
夜の夢まぼろしのゆめ何ごとも病めばかなしや君あらぬ日に
恋ならぬ交り深しこのことばいと哀れにも初めて思ふ
死ぬとせし目まひごこちのうちにさへ一色ならぬ心ぞと見し
何をする男女ぞわがことか白刃の背もて髪を打たるる
口びるを吸ひに来る時男こそ蛇体をなして空翔るなれ
さびしけれわが許す人われを見て変化のものと思はずなりぬ
楽を約せる人となりたれど日の黒むことそれより起る
心には七八日ほど住はせつあざやかならぬ恋の片はし
おのづから忘草をば人摘まば別れしわれは何となるらん
うつくしく危きことにいどむ群さくらの花に風なわたりそ
梅咲きぬ十五のわれのいひなづけまた見る世なし琴は弾けども
三輪の神アポロオの神おなじことしにくる神のうるはしきかな
とこしへに見る日なきためわれ呼びぬ十の指組みさんたまりやと
月の夜や盥に飼へる金魚の子ほの赤くしてこほろぎの啼く
にくげなき例の心のくせなれば我をも恋ひん人も恋ふらん
消息す憂きは死ぬ程恋しかる同じ心の変らざること
廊などのあまり長きを歩むとき尼のここちす春のくれがた
桜草白きうすでのさかづきに薬をつぎて守るかたはら
山ざくら酒屋の前に積み上げし樽に乗るなる春の日輪
桃色の春かぜの吹くこころより浄らなるなし浮きたるはなし
春の夜の物語よりうすもののうごく如くに心はなりぬ
われさびし有情のものの相よりて生くる世界の中に居ながら
なげかれぬいのちか恋か知らねども終りちかづく心ならひに
朝夕におのれあやふく思へるは病める身よりも病みたる心
前に居て恋のこころをあかしする人形はやも飽きられにけん
そこばくの幻ふせぐ楯として君この人を見つめ給ふか
君の手かよそ人の手かくづしける君のまたなくめで給ふ像
牧の艸パンの神きて大声に笑へる日なり白き雨降る
春寒し今日も男のしなさだめ怠らぬ身の時に泣くごと
しろがねの燭台ひとつ中に立ちしめやかなるは三十路のこころ
若き日はかるはずみごとなるもよし幸ありと多く云へかし
しら鳥の船して銀の河ゆきぬ今日さへ我の威ある心よ
世に怖ぢて思へる事は隠すとも美くしさをばいかがすべきぞ
自らをめでざるまでに到りぬとわれ見え透きそいつはりを云ふ
朝の家われのけはひのなりたりとしるしを上ぐる土のかげろふ
秋の日はさびし切なし部屋の棚あらゆる花をもて飾れども
まぼろしに目に見ゆること少しづつ異りゆくも哀れなるかな
恋人はやぶさかなるを第一の悪とささやきともに笑まへり
春の昼われかへり見て語ることありげに雨の草に降るかな
薄青きかなしみ我す夜ごとにすいつちよの啼く秋の来れば
ここちよく打ちぢれたる髪見えぬ誰にかあらん秋のまぼろし
君がなすものに習ひき恋こそはたやすかりけれ得るも捨つるも
あめつちのうす墨の色春来れば塵も余さず朱に変り行く
おもしろき絵を描きやると子を呼びぬ正月の来てなすことはこれ
庭に来る鳶の頭のはんてんの紺のにほひもよしや正月
わが見つる十七八の正月をよきこととして問ひ給ふかな
何人も幸住むと云ふことをうたがはず立つ春の戸口に
きよらにも薄桃色に眠りたる児のけはひの春の日となる
あけぼのや雀かすめし山烏血をこぼし行くうまごやしかな
触るること甚だ深きにもあらず夢にもあらずこの頃のこと
こころよき秋の日早く来れかし飽ける男のその証見ん
夕ぐれの光に透きて動く人高楼にあり水色を著る
小法師があちこちの房うち叩き声づくりする秋の朝かな
悲しさのこよなき事も知らぬなりわが衰へは何に本づく
くろき雲たちまち散じたるやうに身をもてなすも忘れんがため
忍び妻三日が程をかくまへと云ふ文きたる大つごもりに
梅咲けば雁の羽色の壁などのものぎたなくも見え初むるかな
わが足や踏みて走れるここちよく白雲の散る月の夜の空
人はやく酔ひ給ふかなわが見つる海を語れば恋を語れば
多きより多く恋する心をば路ゆき人にわれの云はんや
おのが身のつながれし綱かみそりをもて切るごとし初秋の風
たぐひなきめでたさなりやわれ一人日の出づるより入るまでを見ぬ
しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に
(以下二首啄木の君を悲しみて)
死ぬまでもうらはかなげにもの云はぬつよき人にて君ありしかな
ものほしへ帆を見に出でし七八歳の男すがたの我を思ひぬ
抱けるは唯ひとつなる恋ながらかひあるさまに生涯を見ん
不覚なる君をば倒し少女子のわれを逃さぬ火の鎌きたる
目に見えぬ不可思議国の手枷をば我れもはめらる若きならひに
こし方の語り難しやいかがせん君こころみに恋をやすめよ
恋の家きづきおこしぬ久方のしら雲の上けぶりの上に
草むらに欝金のひと葉まじりたり透きとほりたる秋風の中
口びるを押しあつるごと桃いろの椿ちりきぬ手のひらの上
恋と云ふ飛行の童まだ知らず岩室に居てくろ髪を撫づ
もの欲しき心も知れる人なりとあさましがれど甲斐のあらなく
桐の木の片側濡れて幹青ききさらぎの雨なつかしきかな
おぼろげに心おかるる我なりと君おもふ日をつくらんは憂し
楽音と秋風と聞きうつそ身のけづらるる如もの思ふわれ
金色の雲のとざせる胸と云ひ恋のおのれを神のごとくす
たらちねの石の御墓に黄なる粉をちらせし椿かなしき椿
夕ぐもは恋のやまひをする人のうはごとに似てうつくしきかな
五月雨かびのにほひのする床に水のおと聞くふるさとの家
懲さんとこぶしを赤くしたる人二人行くなる夕月夜かな
くらがりに縛められて心云ふ安かりし世のあたひ無さなど
わが心たからの櫃にをさめたるものと偽るはふらかしつつ
恋ゆゑに理をうしなひてある人も皆かばかりにものやかなしき
知る子みな懴悔をもたずあやまちはわづかにて止むものと思へり
人群れて黒き林を眺め居し夕の里の目に消えぬかな
うばたまの夜にあかつきに夕暮に哀れなりけり秋の物おと
つむじ風捲きてかたへに運びきぬいと遠やかに思へりしもの
一人のわれを貫き人の世と天とは通ずおもしろきかな
本を読み流行の衣を欲しがりし娘も思ふふるさとのこと
欲しがりしだんだら染もうづまきの模様も旧りぬ忍びて笑ふ
匂ひする春の空より落ちきたり我を照すと思ふ小鏡
俯伏して閨に物書くすざびごとして憎からず黒髪の人
南風吹きあほる日はすさまじき老女の手見ゆ春の日ながら
南宗寺大安寺いと尊かりこれらの寺のあかつきの門
(生れたる地の堺にて)
はかなきは恋することのつたなさの昔も今もことならぬこと
人語る生れながらにめしひなる童子にものををしふる如く
鵠とびぬ波打際の砂ふみて春くることを君と語れば
人来りまたなき彩絵なりと云ふまだはかなかる三十年を
夢に見し人とおなじき恋人を見るごと春は前にひらけぬ
手をのべて三月を呼び口びるを吸へと出してかの四月待つ
雨ののち棕梠の広葉のみどり葉に紅梅うつる春ともなりぬ
波のうへ三月の日の落つるまま紅のさうびの花びらぞ散る
大きなる湿れる都かく思ふ春の夕のわが胸のうち
閨出でて暁ちかきわたつみの潮の音を聞く円柱かな
春と恋力づけよと若き日のわがたましひに目くばせぞする
あてやかに華奢にましろき波をもて水草洗ふあかつきの風
恋ならば自然に寄らむ人一人来よと招くはからくりに似る
わが祖母のこれを初めに寺の門くぐれと撫でしふり分の髪
自らの心のごとくいちじろし金錆色のさびしき胡蝶
春の日もたそがれ時にしたしみぬ二十の人はもののけのため
三味線の一の絃のみかき鳴し時雨通りぬ文書ける時
夜となれば毒水を打つ神ありて身うちの痛むわれとおもひぬ
あら磯に唯ひと目見し白き鳥はた恋の君わが夢はこれ
秒の間もあやまたずして逢ふと云ふ時に来ぬるも人とことなる
翅振りめぐりて飛びぬ黄の銀杏ぬるでの紅葉われも飛ばまし
一人の私物に君見んと欲の進みぬ何となるらん
非常なる罪障によりほのほもて身のつくられし人ならめわれ
あな冷た涙ぞ落つるしら菊は今日の後また独にて見じ
朝となり焔の夢を見る人も青き閨よりよろめきて立つ
すべからぬ事を手はせずしかもなほ持つべからざる心やらはず
初子をば持ちし頃より秋の日を悲しむ癖の附きにけるかな
ふるさとは恋しけれども浦島の筥ならぬかと訪はず七とせ
日出づれば生きものの皆ひんがしを礼拝するも何のゆかりぞ
なつかしき君なき年の春に遇ふこの心より哀れなる無し
しろき羽の小鳩の籠に温室の牡丹を切りてさしぬ早春
恋してふわれの心をこの君は下よりや見し上よりや見し
身のあたり新に心ひくものはなべてあやふしあぢきなきかな
人の云ふ正しからざる恋よりもまさに光を放てるものを
わが小指琴をたたきて歌ふらく紫摩黄金の春とこそなれ
君を恋ひ夢まぼろしの中に居て濡せる筆の書きちらすこと
まぼろしに岩より垂れしお納戸の袂など見ゆ初秋の朝
な蔑しそ心きのふと一昨日とまして此日と同じからんや
あはれにも初恋のごと退きがたしと思ふほどの君と知れども
わが時は失はれたり涙もて築きしものぞすべて流るる
枝にきて野鴉がなけば雨まじり八重のさくらの薄赤く散る
まことには未だ死ぬべき憂ひなく十が一つに髪ほそりけり
いとくらき夢とおぼえてあやしけれ鏡の中のやつれし女
ともすれば世にめでたかる人として引かるる人の恋のなしざま
この人を知りて多くの日を経つること忘れんと思ひ立ちにき
尾を振りて浪を切り去る大いなる魚の姿は無きかわが死に
華やかに初冬の風二側のたかき松をばうごかして行く
まぼろしの力を待てるやうなりしその相月る日たちまちきたる
下町の浪華役者のうはさなど人来てすればうぐひすの啼く
三月のみどりの空の真下なる磯のなぎさの魚の生皮
身に熱をおぼゆる人は生ぐさき血けぶりのごとおもふ春雨
春の雨ばらの芽に降りニコライへ明神の鳩遊びにぞ来る
大いなる濁れる川を赤き帆の船上りきぬ病める夜の夢
みづからの明方よりのおもひごと知れりと床のさくら草云ふ
うらみつつ泣きつつ恋を心をばにび色に染め青色に染め
何ごとを忍び居たりし毛ごろもの一つ足らぬを求め難きを
君が恋やがておのれの血となりて再生の日を早くせしかな
病ゆゑ身のおとろへて見る夢と白さの似たる木蓮の花
つかの間も万人の目のはなれざる身の苦しさに驕慢の湧く
なほおのれ口ごもりがちにもの云ふもうらはかなしや人に交りて
やみがたき苦と楽みを一にしてある生涯のあわただしけれ
木の中の灰色の屋根たそがれにものおもふらし灰色の屋根
罌粟咲きぬさびしき白と火の色とならべてわれを悲しくぞする
百合の花青みて咲けばわが心ほのかに染みぬものの哀れに
夏来ればすべて目を開く鏡見て人に勝るとするもこれより
あさみどり楓の木をば来てゆする夜明の風にまじれり胡蝶
わが子等の青芝走りたづねよる兎の目にも夏の匂ひぬ
わが皐月今年児のため縫ひおろす白き衣のここちよきかな
わが思ふ人にならべて見るものか華奢に艶めく初夏の風
白き砂海にすべりて入る如き夜の遠方の山ほととぎす
ほととぎす夏山の吐く息づかひものもなげなるその息づかひ
ほととぎす暁方近きわが山の上の空をば小車はしる
いなづまの幾筋の火をはるかにも見下す山の夜のほととぎす
ほととぎす既に余さず君とわれかづらの径を湖に行く
ほととぎす夜の黒板を打つものか強き音はたかすかなる音
上敷の新しき香に夏ごころ親しむ夜のほととぎすかな
山に居て細る指などうちながめもの思ふ時ほととぎす啼く
六月は犯せる罪のかなしさのごと雨つづき杜鵑しば啼く
ゆく水も鳴りわななきぬほととぎす啼くとて君に倚りそへる時
ほととぎす半夜を寝ねぬわが癖のこの頃となり人に知られぬ
ほととぎす谷の青葉のくらきをば覗きてありぬ冷き岩に
ほととぎす針金を擦る工夫よと憂き寝覚ゆゑ後言する
船に居て青き水よりいづる月見しここちするうす黄の薔薇
大きなる日の落つるなど見れば憂し思ひ上れるわが心から
世にあるも恩を荷へるここちしぬ女人の身こそはかなかりけれ
われ守る神を忘るる日のありと懴悔をすれば彼もしか云ふ
わが指の白き爪ほど日のおちぬ君と語れるくさむらの蔭
誰れの手か心に来りくまどりぬと云ふばかりの恋物語
恋ゆゑに人屑のごと見下す日われにありとは思ひ及ばじ
憎気なきのこぎりの音うぐひすの声にまじりぬ閨いづる頃
石像のしろき足もと夕ぐれの白き足もと春の足もと
おかれしは泉のもとか火の中かよそよりわれの見まく欲しけれ
春の雨障子あくればわが部屋の煙草のけぶり散りまじるかな
唯の日もいけにへ者の死ぬ時に云ふごときこと思へる人ぞ
心より煙の立つと云ふことを二三日病みて知れる人かな
ここちよくわれよりものの流るるを恋の日に知り春の日に知る
木瓜の花馬のわきばら置きたると石をおもひぬ春の夕ぐれ
かなしくもこの木の質は烏羽玉の夜に花咲き白日に散る
ふと気づく夕とわれの恋仲はみづみづしかり君も及ばず
恋すれば間近にものの色かはるおもむきを知るおもむきに触る
いとにくしさとぞひらめくわが心呼べど呼べども答へぬ心
ひろびろと心の川のかがやける日なりと君に文かく我れは
美くしき言葉断たずば耳貸さん鸚鵡かあらず傍の男
われは憂し生れながらにまぼろしをうちともなへる眼と思ふかな
わが船の寄らんとしつる島消えぬよしやあしやと驚かねども
ちさきもの喜びあひて手を振ると思ふ桜の花の上の雨
咀はれて咲かぬ蕾の残れるをわが胸に見ぬ一つなれども
入日する雲の明りに遠方の塔の尖見え黄ばむひと時
ため息をつくならはしも好しと云ふまた類ひなきなさけ人かな
しめやかに思ひあまれる息をして柳のおくに上りくる月
海見るに白き小舟のただよへる二町がほどを好みぬ我れは
木瓜の花みだりに紅の封蝋を紙にこぼせば恋ごこちする
いみじかる春の世界に寒き洞ひとつ作りてわが心おく
なほおのれ君のためには耳かさん手は君のため琴をとりつつ
遠方の人の恋とも心とも木の芽ほのかに萌え出づるかな
うすものの襞の間に遊ぶ夢見るとおもへり君と語るを
刃よりするどきものを持ちたるが二人寄るをば危くぞ思ふ
たかぶれる心の上に匍ひかかる灰色の靄いかにしてまし
来し方のなげき未来のおそれごと皆持ちながら今をよろこぶ
わが指を噛まんとするや哀れなる女は人を刺すが難さに
み心は青空となりわが指にほぐらす細き絹糸となる
青ざめし鏡の中の人なるか花めく恋を作るおのれか
目に見えぬ疵あまたある心ゆゑ終に恋より離れがたかり
湯気のする軽きふるへのなまめかし裸のわれの身をばめぐりて
くろ髪や前うしろよりめでたかる春の世界ぞわれにもの云ふ
ほつほつと麦の青めるところより風の吹きくるわが湯殿かな
根をはなち針にさしても咲くものは春のさくらと若きこころと
恋と死とくらぶることは苦しけれ誰も病みてはかくまどふらん
わが心いかなる芽をもうち枯すわろき土とも思ひ知りにき
憎からぬ音をも立てて二月のあられ打つなり青桐の幹
雨雲の墨を流せる空の色さむからずして紅梅の散る
しら梅や日の入り果てて後帰るわが門のうち一町がほど
春の昼梯子の口に手を打てばこだまするなり桃色の壁
終りまで唯あさはかに自らをもてはやすより知らぬ身ならん
わが家の石の浴槽に浅みどり柳の枝のうつる春かな
おぼつかなおもはく深きたましひは今日も離れずありやあらずや
一生はさんたまりやの絵のやうに金粉をもてぬられずもがな
あめつちの中に休まず遊事する小きもの美くしきかな
君にまた他人につけて我こころあまりに優しあやまちや見ん
わが歌は皐月におつる雹ならん時をわすれてさむき音かな
思へらく死ぬなどと云ふ唯ごとに代へて許さじその二ごころ
灯ともれば我ぞ出で行くはしきやし君とあるをば息づまるとて
衰へぬものの因果をことのほか驚かぬ子と見ば見えぬらむ
奈落までともに落ちにき天上に翅ならぶると異らねども
うす紅き障子のあかりそのそとに棕梠の葉の鳴り心かなしき
二日三日君を恨みぬ七月のそよ風吹けどなぐさまぬほど
日記をしも初めて附けて君がことわがこと書くを哀れとぞ思ふ
ふと思ふ花市のある広場より古き御寺の塔を見しこと
ある時のよしなしごとを恨む時もてはやすとも聞き給ふかな
身を曲げてうすぐらがりの縁に居ぬ懴悔など云ふこともしてまし
恋すれば日に三度死に三度生くこのおもむきのあわただしさよ
この人は懲し得たりとことほぎぬ心を犬か兎のやうに
水だまりおもちやの赤き金魚浮き雨がへる飛び日の暮れて行く
山の鳩木立の奥に動くとき灰色もいとなつかしきかな
見がたしとアカシヤの葉の射す窓をわが恋ひ居れば夕風ぞ吹く
寒き日も二階の障子あけはなち部屋のまなかにものを思へる
わがしつる傷と思ひしかのことをなつかしむ日となりにけるかな
夏来れば我れ何ものも悲しかる目して見るなり親しきがため
けふの世に歩み入りける日の初めかすかに見ゆるひなげしの花
あなさびし思ふことなしかく歎き文多く書く女となりぬ
悲しくもわれ頼まれぬ性もつとある夜の夢の後におもひき
君と行く四谷見附の土手の草尺ほどとなり小糠雨ふる
草踏みて草履のしめるここちさへ嬉しき夏となりにけるかな
こちたくも本を置きたる戸棚よりさびしさの湧く黄昏の部屋
文書くを四五日ののち怠りぬあぢきなきかなかかるおもひで
焼けて死ぬ身をうたがはず氷さへわれに来れば火のここちしぬ
夏木立青きが上に夕雲のいく色となく下る遠かた
旅すれば国国に吹く風の香もわれ嗅ぎわけぬ哀れなるかな
病める昼起き上りたる間の中に人のあらぬは悲しかりけり
歌詠めと馬に乗りたる使来ぬ湖めぐりかへり来れば
巴里なる踊場の夜の話など男と語るしら砂に居て
恋もすと願へることの中程に交ぜて語れば人皆わらふ
わが閨のましろき麻のふすまより十二時頃の月は出でけん
筆置きて夕立降れば見に出でぬ四谷の濠に並ぶ柳を
あかつきや川にもまさり清らなる草の中なる白き道かな
石竹に水遣る唖の園丁と近くわがある夕月のもと
いとはやく虫の鳴く夜となりにけりこの二日三日あぢきなしわれ
この夏は金蓮などの匍ふ土にすでに虫鳴くかなしきかなや
起きいでて小鯛の網を見る頃の浜の宿屋のしろき電燈
わが閨の白き簾と朝の雲風に吹かれてうらがなしけれ
扇などもてあそびつつもの思ふ秋いと近くなりにけらしな
噴水の白き石見て秋来ぬと都の少女うちもおどろく
うつくしと白き衣の肱ほめぬわが妹は姉をあがめて
たぐひなき悪夢を見つるこの君はやがて覚めずもなりにけるかな
(以下三首前田翠渓の君を弔ひて)
この君は何をたのみし妻か子かかなしけれども一まきの歌
天地もかなしかりけり若き子の死にたる後の歌におもへば
物干へ帆を見にいでし七八歳の男姿のわれをおもひぬ
うつくしき素足の冬の来りけりちらほらと咲く水仙の花
亡き姉の腰のかたちと指先の爪の色のみなほ知れりわれ
あくまでも火は慄へりと炉の前に涙ながして思へるはわれ
あかつきの楼の下なる長き路風と小雨とだんだらに吹く
四辻の易者に行き尋ぬらくおよそこれより衰へぬかと
恋の味酢に似たりとぞひとり居は水のごとくに味の無しとぞ
わが心の臓に通りてまだ覚めず酒も飲手もよきはめでたし
味気なく赤きとんぼを見送りしある夏の日の阪の中ほど
いのちなど更に死ぬまじかくとさへ喜べる身はつねに思へり
われなどがかたへに寄らば涙ぐむ鳥はあらぬか歌ふ小鳥は
思はれておのれありしと知ることの七八年ほどおそかりしかな
をりふしにそぞろなることする病うとましとなしなつかしとなす
われを見てあなめでたやと云ふもあり物を知れるや物を知らぬや
思はると聞きてさながら恋のごと身をふるまふははづかしきかな
三年ほどもて煩らはれありし人何時より君にうち勝ちにけん
うば玉の夜に至れば泣くことを楽みにしぬ少女なりし日
白き火の降るかわれらの恋なるか夕立の雨ここちよきかな
野の道の後に川のあるここちするとささやく月に歩みて
初秋の板の廊下を歩む時山のあはひを行くここちしぬ
ひとり居に秋風吹けば悲しかり濃きくれなゐの窓掛のはし
わが病める小床を置きし畳よりまた寒きものあらじとぞ思ふ
初秋の第一の日と云ふここち俄かに覚え君に文かく
われめでぬ愛と悟をよき程に見せたるものを秋の世として
露おきぬ物思ふ日に隣りたる味気なき日と思ふ秋かな
露おける蓬を踏むと出づる時涙ぐみぬるくろ髪の人
秋風の吹く暮れ方にちぎれ飛ぶ雲とならまし君をわすれて
秋来る今新しく湧きいづる水のあるらし大空にして
わが机旅よりとある消息を二つ三つ置きて秋立ちにけり
みだらにも鶏頭の花土に咲き白犬眠り秋の風吹く
あかつきの鳥の羽音のいとはしくなりつる日より山を降りきぬ
客人の若き男のわらひ声まじるもよしや初秋の風
我友の背高き人と低き人つれ立ちて来ぬ秋風の門
わが歌ふ日となりけらしはしきやし円葉の柳秋風に立つ
桐の葉と松の間に秋の空少し見出でて胸騒ぐかな
ふるさとの海辺の秋の砂の丘くづるる雨のあかつきに降る
乱れ飛ぶ赤あきつより二つ三つ泣くほどのこと思ひ出でにし
夕ぐれの砂の上をば小走りに秋の風行く静心なし
初秋の風に伴ふはなだ色見ゆれ小指のふるるところに
ひるつかた霧晴れたれば見下しぬ梢の下の銀のながれを
何やかや多くの色の染みつきぬ初秋の日の女ごころに
窓に来てありのすさびにさぼてんの絵など描けども冷き日かな
衰へしものならなくにさは何ぞ遊びつかれし一ときの身ぞ
わが恋は巌の中にありとなし見ずてあるべしおとろへぬため
瑠璃色の空に朱を注す点一つわが唇と日と似たるかな
快く諸悪の渦の鳴るを聞け我をば問ふは海を問ふなり
聞くはよし牛の声する蛙居て啼けば雨ふる嶋の消息
秋くれば手に拾ひたる小石にも遠きいのちのあるここちする
二つほど夏の衣を重ね著て秋来と語るうれしきここち
古びぬとこの形なき心さへうちも侮るよからぬ人は
身じろがば刺さんと脅す白刃こそ秋なれ佗しいかにしてまし
桐の葉を散るに先だち朽ちさせぬいとわりなしや秋の長雨
やうやくに足立つ程の歩みざまなしつつ夢の魔の来るかな
はしきやしわが湖の水口を恋とこそ云へ君にながるる
君来ると南の嶋の磯に立つ夢などのなほさかんなるかな
にはかにも我が思へらく秋来る春夏あらじこの秋の後に
秋の日のうす桃いろにかぎろへば赤とんぼとぶ白き蝶とぶ
悲しみぬたそがれ近くなりぬれば秋風光る海辺の街を
ここちよき秋の朝かないとほそき金の筋見ゆわれの心に
旅せんと人の語ると男をば捨てんと云ふと胸に沁むかな
何やらん片手の小指しびれつと人のつぶやく秋の昼かな
黒きもの沈める海を見て立てば心の半呆けもこそすれ
秋の風君見ることのささはり歎ける人が萱の穂を見る
朝の露まばらに白き草原を前にしたるや君を置けるや
こほろぎや夜語ることうす寒しこのおもむきを知れる五人
罌粟色の更紗の切を手ずさびに小口より切る秋の朝かな
はかなげにおのれ見られぬ秋来るとうすお納戸の袷まとへば
わが好む小形の箱の三つ四つを恋しき人ともてあそぶ夜
燈籠に火の点かずなることにより秋の悲しと今もおもひぬ
ましろなる小き杯われよりもきよくめでたき少女なるべし
秋の日は淋しせつなし部屋の棚あらゆるものをもて飾れども
何ものか見むと思はばこともなく白刃のごとく行き通る人
あめつちの秋ほわが倚るまろ柱きよくつめたきこの円柱
日ぐらしが濡色の音を立つる時湯ぞ浴びまほし石の湯槽に
静かなる根葱の色する大海の秋の色こそかなしかりけれ
身のほとり唯だ過ぎて行く風なども慕はしとする若き心ぞ
夜の長し寝起きに何のおもはるるかの軽卒このかるはづみ
水に居る根白き蘆にあらずやと身のおもはれぬ秋の朝風
天つ神猛き心をわれにより伝へしめんと思はざるらし
足らざりと言葉を足してもの云へば恋とひとしき情となりぬ
やがて見ん銀杏の黄をばほのめかす秋のはじめの豆のさやかな
こし方の恋しさも皆そこなはれ憎かるものの多くなりゆく
秋来る窓と机の一尺のはざまにありてものをこそおもへ
夕の日はてなき磯の砂染めて悲しき風の波よりぞ吹く
中の巻
風に咲く紅朝顔のあはれさよ新吉原も秋の来ぬらん
やすみなきあらしの中に棲む鳥とおのれをおもふ君とあること
初秋や雁来紅のちるやうに赤とんぼとぶ夕ぐれの風
湯帷布をば重ね著したるしろき雨ふる朝方のこほろぎの声
いつの日も同じさまなる心をば知れる二人は泣かず別れて
かりそめの文を書く日はあはれにも君を遠しとうち思はぬ日
君は憂し千里の遠に居ながらにわれを放たず耳にもの云ふ
つかの間にいたくも人の衰ふることわり知りぬ君に別れて
子と母と淋しがれるを目の前のことと思はばかへり来よ君
死のころも生きながら著て柩をば四月いでざるわれのおとろへ
海見ればまろび入るべく別れつる日のかなしくもおもかげに立つ
そぞろにも消えもて行くがやうなりと心のさきを書くは誰がこと
夕ばえやはるけき国へわが夢の行くあとのごと海の染まりぬ
来よと云ひ行くべしと書きこの日より初めて夜の往にしここちす
吾妹子が心の下にかへれりと云ふらん人を見にか行くべき
子等おきてかへり見がちに君を追ひ海こゆる日もさはれ疾く来よ
わがこころ下司になりぬと君なくて香油を塗らぬ髪に思ひぬ
生れたる日のごと死ぬる日のごとく今日を思ひてわれ旅に行く
わが泣けば露西亜少女来て肩なでぬアリヨル号の白き船室
恋人に逢はん日遠しふるさとを見ん日知られずいかがすべきぞ
京を見ん七瀬の黒き瞳をも見んこの日の後の旅人の夢
甲板の靴音きけば淋しさも俄に恋のこころと変る
船の上やまとの女あかつきを頼りなげにも歩む甲板
末の子が讃美歌うたふふしまはしあやにく立つる浪の音かな
金色の波もも色の波の山うちかさなりてみづうみ氷る
ここちよき胡地の皐月の厚氷夕日の花のひろく散りしく
犬の子と我子の顔と七つ八つかたへに並べ乳売る女
風吹けば右も左もはて知らぬ水の中なる蘆の葉ひかる
蒙古犬コサツクの顔たそがれの灰ばむ原を追ひくる如し
水づきたる楊の枝もシベリヤの裸足少女もあはれなりけれ
楊の木穂すずき程に末見えてなびく出水の森を今日行く
真向ひの囚人車をば見ぬために伏目をしつつ笛鳴れと待つ
シベリヤに流されて行く囚人の中の少女が著たるくれなゐ
かず知らず静脈のごとうちちがひ氷る小川と鈴蘭の花
夕ぐれは車の卓の肱ぬれぬ胡地のけしきの心ぼそさに
蒙古犬はた駅の人六人程ありと記すも旅はけうとし
やごとなき白銀いろの冬宮かはた亡霊の住める家居か
よこしまに斬らるるここちして入りぬ聖者を描ける王宮の門
三千里わが恋人のかたはらに柳の絮の散る日に来る
下に住む西班牙の子がピヤノをば叩けば起きてくろ髪を梳く
初夏やブロンドの髪くろき髪ざれごとを云ふ石のきざはし
四つ辻の薔薇を積みたる車よりよき香ちるなり初夏の雨
うすものが芝居の廊を歩む時オオトモビルに隠れ行く時
くれなゐの杯に入りあな恋し嬉しなど云ふ細き麦わら
噴水が風に散るなり君が被るましろき絹の風に散るなり
門入りて敷石の道いとながし君と寝んとて夜毎かへれば
翅ある子日曜の日はあまた居ぬリユクサンブルの花の小みちに
君達の尺の帆舟のあやふけれリユクサンブルの噴水のもと
君と行くノオトル・ダムの塔ばかり薄桃色にのこる夕ぐれ
だあだあと声の尻ひく歌うたひ窓下に来ぬものをおもへば
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟
セエヌ川よき船どもにうち向ひ橡の並木の青き呼吸吹く
室の中に素足してある姿など見知れる人は来ても見よかし
泣きて云ふあまりに早くわれの来し天国なれば心おちゐず
またもなく夜の黒地はなまめかし上に灯をおきたをやめを置く
何れぞややつれ姿は旅人のつね恋人は若やぐがつね
大かがみ怪しくわれの香はしとおもほゆるかな灯の匂ふまへ
うす青く夜の明け行くうす青くメルルの鳥の声の明け行く
森の奥薔薇の花のあるかぎり水色の羅を被くたそがれ
木によりて匂へる薔薇秋山の蔦にまさりてはかなき薔薇
物売にわれもならまし初夏のシヤンゼリゼエの青き木のもと
わが小舟雨に濡れつつ白鳥とうち並び行く二時がほど
生きて世にまた見んことの難からば悲しからまし暮れゆく巴里
旅びとの涙なれどもなごやかに流るるものか夜の巴里に
馬車にある芝居がへりの夏の夜身の程よりはくやしからざり
柵に来て番附売がもの言ひぬ芝居の前の夏の夜の月
寺へ行く薔薇いろの頬とすれちがふ石阪道の夏の朝かぜ
(以下十四首仏蘭西南部のツウルにて)
雛罌粟と矢車草とそよ風と田舎少女のしろき紗の帽
うす白き古塔を額に仰ぐ時いにしへの世は知らねどよろし
日の夕ルイ王の子の眠るとて悲しき鐘を打つカセドラル
君とわれロアルの橋を渡る時白楊の香の川風ぞ吹く
美くしき西班牙女よとあな無礼人の妻をばかく呼ぶは誰
あえかなる踊子来りわが前に杯をあぐ灯の海の底
夏川のセエルに臨むよき酒場フツクの荘の雛罌粟の花
「ひたむきに左に走れ御者」と呼ぶ夫人の声も山の夜に好し
月さしぬロアルの河の水上の夫人ピニヨレが石の山荘
饗する家の少女が薪をば捜す岩屋のしろき蝋の灯
歌うたひ舞ふ少女をば石壁にわななきうつす蝋の燭かな
ひなげしを摘みて散らせる石の卓血やこぼれしとふと心冷ゆ
前に引くとばりの如く浅みどりアカシヤの木のゆらぐ夕ぐれ
昼の程おもひ沈むも許すべし夜は人並に気の狂へかし
さま悪しくいたくも物を思ふかな東の嶋に子等を置くとて
しら波の沫のやうなる真珠の輪頚に掛くれば凉風ぞ吹く
長椅子に藤むらさきの靴足袋の艶に横たふ夜明ごろかな
わが背子ほ金の飾りの上沓をまひなひにしぬ夜遊びのあと
あとつけて走る船こそをかしけれ君とわれとの川逍遥に
わが馬車の外に何ある浅みどりプラタンの葉のあかつきの風
巴里なるオペラの前の大海にわれもただよふ夏の夕ぐれ
ふらんすの八月の朝凉しくも靴くくとなる石だたみかな
ましろなる孔雀の少女卓に来て君と物云ふ憎しめでたし
サツフオの啜り泣をば後にして君が手により降るきざはし
西ひがしやうやく知れる心より帷を揚げぬ夕雲のため
目の前に霧のくだるをおもふかな羅をかづきたる君ぞ来ませる
あちこちに焔しきりに燃ゆと見ゆあらず手組める男と女
網戸引くロオヂユの中に席とれる公爵の子の夜のうすもの
はだへよりはだへに吹きてなまめかし芝居の廊の夏のそよ風
容易くもめでたきものを集めたり序幕の前の時のたふとさ
ここちよき淵のごとかり身を投げん舞台の君の眸のくまどり
髪長き新男なるエルナニのいのちを欲しと角吹く角吹く
海峡に灰を撒きたる星ぐもり我を載せたる船流れゆく
ひんがしのはなれ小島に子をおきて泣く女ゆゑさむき船かな
海峡の燈台の灯は明滅すわがおちつかぬ旅のこころに
ゆゆしかる身の果としも思はねど大海に寝て泣く夜となりぬ
海峡の夜風に聞けは旅人のざれたる声もかなしきものを
何れぞや我かたはらに子の無きと子のかたはらに母のあらぬと
星あまた旅の女をとりかこみ寒き息しぬ船を下れば
僧俗のさだかに見えず讃美歌す大英国の君王の寺
王宮のまへの広場を七かへり花と女の馬車ぞ輪を描く
栗毛帽金糸の紐に頤くくるわかき近衛に物言ひてまし
大宮も白鳥の羽も水色に見ゆる夕となりにけるかな
白塔の窓のあかりは烏羽玉のくらがりよりもかなしかりけれ
(倫敦塔にて)
さし過ぎし目にあぢきなしいぎりすは上白みたる桃色の国
埃及の上著を著たる歌女の後ろを歩み灯の国に行く
ジプシイの指鳴る時にくろ髪は膝をはなれて杯をとる
朝にはこの都賞め夕には去なんと泣くも旅のこころぞ
象を降り駱駝を降りて母と喚びその一人だに走りこよかし
花を嗅ぎしげる青木の蔭ふめば夕露の如ものの泣かるる
若やかに青き木のもと此処ゆかんまた新しき夢の路ぞと
手を伸す水の少女か一むらの濃き緑より睡蓮の咲く
恋したる身のおとろへに血を仮せよいく温室の南国の花
水に焚く夏の香炉のけぶりたるうす紫の睡蓮の花
青芝の海を渡りて毛欅の木の島にあるなり人とそよかぜ
恋するや遠き国をば思へるやこのたそがれの睡蓮の花
さびしくも後ろの方の古き城うす黄に光る森の道かな
しづかなる森に向ひて丘めぐりきざはしのごと花薔薇さく
わがあるは落ちたる底か天上かさしも思はれかくしも思ふ
恋するにむつかしきこと何のこる三千里さへ一人にて来し
衰へに目まひ覚えしその朝のその夕にはくれなゐを著る
わが宿のアカシヤの木のうしろなる赤き画室の暮れ残るかな
わが思ひいとせまぐるしふるさとを離れず君と阿子をはなれず
セエヌ川船上る時見馴れたる夕の橋の暗きむらさき
神のごと車を駆りてわれら行く眠りに行くは天ならねども
君とわれ高きに上り橋あまたかかれる水を覗く夕ぐれ
おのづから大路の白き敷石に心さそはれ夕あるきする
率ても行く男の持てる細杖が魔法のごとく街の其処此処
すばしこき車の馬といたはりぬ君があるなる森にいたれば
ことことと敷石を踏むひづめこそ夜の世界の匂ひならまし
わが閨の真紅のあかりそれさへも髪を掴むと病めばおそれぬ
室の中に君が匂ひのただよふと酔ひ癡れをれば夕となりぬ
雨に行く匂ひと色のふりそそぐマロニエの木の若葉する路
午前二時まだ廊の灯の消ぬ前にかへり来ること三日四日つづく
思はると涙を流しため息をよろこびにつく楽みにつく
石として据ゑられしごと我れありぬ日の美くしき朝のきざはし
酒場の地獄の給仕かのこともその日の業も見透かして云ふ
水いろの木の下の椅子うつくしき指もて叩き来よと喚ぶ人
哀れなる香こそただよへ雛罌粟に藍をにじませ野辺の暮るれば
澄める水ほのほ浮けたりこれや何ロダンの作る男と女
鳩となり遠きところへ汝がこころ飛び行きけんと手をとりて聞く
初夏の野に一日居ぬ君とわれ緑と金にかくまはれつつ
一人にて朝はあらん園のうち君がさがしに来たまはんまで
絵の中の飛ぶ天女さへ仇なすとよきは憎みぬありのすさびに
ジプシイの見世物小屋のとりおくれ祭の後の並木とならぶ
箱車やからを載せて見世物師痩馬ひとつ附けしかなしさ
ありふれし恋ざめよりも哀れなり街の祭のあくる日の風
木の蔭に眠りの足らね御者の顔ひとつ見ゆるもなまめかしけれ
ふつつかに鳥のやうなる裳をひろげ花屋の媼が店開くる頃
寒からんモンマルトルの女より文受くる子も秋の朝は
普請場のかこひに貼れるお納戸の広告絵などさむき朝かな
秋風は凱旋門をわらひにか泣きにか来る八つの辻より
かへりみぬシヤンゼリゼエのうづだかき並木の持てる葡萄色の秋
自動車の後ろに高き噴水の立つと思ふがここちよきかな
森に入る白き大道わかき日の恋の心のおもむく如し
ひろくして尽きんともせず森の道涙するまで嫉ましきまで
松の幹泣ける女の目の色すその島かこむ初秋の水
船は皆二十足らずが漕ぎて過ぐ鳥のめうとの浮けるあひだを
浮床を靴のたたけば白き鳥もの云ひに来ぬ何をやらまし
船待の木の腰かけに鳥の毛の帽子がものをおもふ朝かな
手のひらに小雨かかると云ふことにしら玉の歯を見せてわらひぬ
白鳥をもてあそぶため手を打ちぬはた嬉しさのおもひでのため
傘あけてわれかしづきぬ島の人船を上れば銀の雨ふる
しぐれきぬ肱掛椅子の十歩まへ赤き花匍ふアカシヤの木に
離れたるいちじくの屋根彼処なる男女も雨をわぶらん
秋の日の泉の波を染め分けぬ雨と風とが青と白とに
ももいろと臙脂の輪をば花草の置きたる庭も秋の雨ふる
美くしき女ばかりの船めぐり追従をする白鳥のむれ
ロン・シヤンの競馬の家は盲ひたる少女の如く草踏みて立つ
海に似る森をはなれて白楊のまばらに立てる秋の野に出づ
白楊のめでたきことをはてもなく思へる時の秋の風かな
秋の風支那すだれよりセエヌをば覗ける君の薄紺の裾
楼に見るセエヌの底の秋の空わがうれひより冷たかりけれ
馬車ひとつやとひそこなひ背負ふこともとより知らずなめげるかな
川に沿ふ水いろの茶屋白き茶屋井゛オロンの窓ピアノ鳴る窓
曲りたる石のきざはし秋風のよろめきて吹く石のきざはし
(以下二十首フオンテンブロウにて)
唯だあるは金の王座と水晶の曇れる器たび人のわれ
いにしへの君王の閨金色の枕にかよふ秋の初かぜ
うるはしきアンリイ四世の踊場にふたり三人の低き靴音
水晶の燈籠のもと細き手を王に与へて人あゆみけん
年の名も王達の名も忘れずにいふ殿守の寒き声かな
大宮のうしろの水の石垣に桃色を著て肱かくる人
大宮のゴブラン織に秋風の通へば旅のおのれらも泣く
王后ほいまさぬ跡もめでたかり黄金のとばりしら玉の卓
そのかみの后の調度うす紅に光れる殿の窓あかりかな
雲きたり濡れて遊びぬ白楊の木立のなかの円き水盤
大宮の石のきざはし冷たかり踏む旅人の秋のこころに
わが髪もうす紫にしづくしぬ毛欅の木立を風のすぐれば
馬車ひとつ蹄音たてて過ぎ去れば毛欅のあかりの青くひろがる
下草にうす桃色のかげ引きぬ白樺の木とわれの姿と
金を刷り紫を撒く風ありてあかるき秋の森の道かな
下草の赤紫にしら樺のむらむら立ちてうらがなしけれ
浪のごと白楊立ちぬ見るかぎり遠く青める森の海かな
身のほそる我が愁にも似て清し秋の森なるしら樺の技
たそがれは森よりわれを追ふごとし君と踏むべき街の灯のため
海底の砂に横たふ魚の如身の衰へて旅寝するかな
(以下十四首ミユンヘンにて)
眠ることなくて我見る悪しき夢うとましき夢かずまさり行く
欧羅巴の光の中を行きながら飽くこと知らで泣く女われ
青白き天つ日一つわが上を照して寒し外にものなし
子をすてて君に来りしその日より物狂ほしくなりにけるかな
わが心よし狂ふとも恋人よ君が口より教へたまふな
目の白く盲ひたる群の争ひて走るがごときイザル川かな
イザル川白き濁りに渡したる長き橋よりあふぐ夕雲
いかばかりもの思ふらん君が手にわが手はあれど倒れんとしぬ
青き枝こがねの繍をおける枝朱を盛れる枝雨のながるる
其処此処に紅葉の枝を隠したる木深き森の秋のたはぶれ
恋人と世界を歩む旅にしてなどわれ一人さびしかるらん
わが夫子よ君も物憂しかかること云ひはなつまで狂ほしきかな
わが船は白き墓場となりにけり港の端を君が踏む時
さびしげに海に浮べりわが心エトナの火をば猶いだけども
仏蘭西に君をのこして我が船の出づる港の秋の灰色
ゆく先かはたこし方かわが心引くなるもののありか知らずも
飛魚は赤とんぼほど浪こすと云ふ話など疾く語らまし
秋の海われは悲しき喪の国をさして去ぬなり大船にして
秋くれば根も枯れぬらん雛罌粟は夜な夜な船の夢に立てども
南国の木の実を吸へば涙おつ昨日の恋の味に似たれば
四十度の傾斜に悩むわが船に馬太伝読む尼のうとまし
船室の二十四時に間なく聞く浪音よりも尽きぬ恋する
この人はなにを商ふ恋びとの紅き涙としろき涙と
(コロンボにて玉売の土人に)
云ひがたきわりなき涙おつるなり日向の灘の青き潮に
夜明くれば船ぞ港に入ると云ふ恋の心は行方知らずも
舶に寝るいやはての夜のおもひなど哀れなりけり女ごころに
わが船の著くよろこびに父母のよみがへり来ばうれしからまし
ふるさとの和泉の山を内海の霧の中よりのぞくあけがた
泣くは誰れ和田の岬の見ゆるとて満船の人どよむ中より
四十日ほど寝くたれ髪の我がありしうす水色の船室を出づ
めでたかるわが百年の中頃に四十日ありけるしろき船室
涙おつかの登天のここちせしいでたちの日に似ざるものから
水いろの船にかくろひ黒髪の人かへりきぬ捨てられにけん
あはれにも心もとなき遠方にいのちをおける汝が母かへる
味気なく心みだれぬわが手のみ七人の子を撫づる日に逢ひ
マルセエユいとあわてたるここちして相乗したるいやはての馬車
別れ来し港の朝のけしきなど片はし語り涙ながるる
子を思ふ不浄の涙身を流れわれ一人のみ天国を墜つ
家に入り十日になりぬ何せしぞ今日も昨日もはかなさばかり
海こえて恋しき君を見にゆくと人の語れば涙こぼるる
一人居て身のうらめしさまさる時わが黒髪に蛇の生るる
しろがねの甕にささんわが愁銀杏の色の三十路の愁
心より見じ聞かじとて帰りこし国ならなくに事のものうき
阿子と云ふ草やはらかに生ひしげる園生にまろび泣寝すわれは
子を思ひ一人かへるとほめられぬ苦しきことを賞め給ふかな
今さらに我れくやしくも七人の子の母として品のさだまる
ああおのれ末のこの世にふさはざる火の恋をして短命に死ぬ
わがいのち男の恋のそれよりも危きものとかねて思へり
帰る日をさしも急がず船に居しその日のままのむなしき心
心より外にさ云へど已みがたき親のおもひをわれもしにけん
母は今汝をひと目見て足りたれば心かはりぬせんすべもなし
君見んともてる願ひのかなはぬを病と云ふもふるめかしけれ
けうとしやおろそかならぬ恋すると今日知るごとく人の云ふこと
身は痩せぬしら刃の如き別離をばわがおもひ出の中に見るたび
(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第三巻 歌集三
昭和五十五年六月十日 第一刷発行
定価 二千九百円
著者 与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
東京都文京区音羽二−一二−二一
郵便番号一一二 振替 東京八−三九三〇
電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組版 株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社