日本を(長編歴史童話)
  ──ペリー艦隊来航記──

                           鈴木三重吉


  一

 西洋人がはじめて日本といふものゝ名前を聞いたのは、やうやく十三世紀の終りに近い、千二百九十五年ごろのことでした。その年に、伊太利人で、永らく亜細亜に入り込んでゐたマルコポローといふものが欧羅巴へかへつて来ました。欧洲人はこのマルコポローの旅行記の中に、日本について少しばかりかいてある、謎のやうな、いゝ加減な又聞きの話によつて、はじめてジパングといふ名前の下に日本の存在を聞いたのでした。それ以来多くの人々が、その不可思議なジパングに対して色々に興味を持ち出しました。例の千四百九十二年に、コロンブスが亜米利加を発見したのも、実を言へば、大西洋を横断して日本へ来るつもりで出た途中、偶然にあの大陸にぶつかつたのです。彼は今の南米のキユーバ島へはじめて上陸したときには、一図に日本へ着いたものとばかり思つて大喜びをした程でした。
 この大きな発見のために、コロンブスはとう/\日本へは来ずにしまひましたが、それから後も、欧米ではなほいろ/\の人々が、たえず日本について考へてゐました。そのうちに、葡萄牙人、西班牙人、和蘭人、英吉利人たちは印度や支那とどん/\貿易をするやうになり、つゞいて、だん/\に日本とも通商をしようとして互に機会を狙つてをりました。併しそのときの日本は、彼等から見ると、どういふわけでか、外国との交際を絶対に嫌つて、異人種は一さい、入港をさへも許さないといふやうな、極端な禁令を布いてゐました。
 葡萄牙人と西班牙人とは、その中をくゞつてだんだんに関係をつけました。つゞいて英吉利人や和蘭人も上手に接近して来ました。併し間もなく日本は、第一ばんに葡萄牙人と西班牙人とを追ひかへしてしまひ次で英吉利人も、自分から引き上げ、あとには、ただ和蘭人だけが、支那人と共に、僅かに長崎の港で貿易をすることを許されました。それも、全で監禁同様に、たゞ港内の出島といふところに住み得るだけで、そこから外へは一足もふみ出ることが出来ないやうに、きびしく拘束されてゐました。
 さういふ日本に対して、亜米利加人は、一ばんあとから、少くとも自分たちだけは、ぜひとも自由な交際を開かうといふ熱望を持ちはじめました。
 米人はそのころ英吉利や葡萄牙と対抗して、印度と支那とへ商品をさばくことにあせつてゐました。それには、はる/゛\亜弗利加の喜望峰を廻つて出て来るので、往くにもかへるにも、必ず三四箇月といふ日数がかゝりました。ところが、彼等は千八百四十六年に、墨西哥と戦争をした結果、太平洋の沿岸の今のカリフオーニア州を墨西哥から取り上げました。
 かうなつて見ると、支那や印度へ出て行くにも、今までのやうに、わざ/\亜弗利加を廻らないでも、カリフオーニアから、大西洋を横切つて直航すれば、日数もおほよそもとの四分の一で足りるわけになりました。そこへ、たま/\蒸汽船といふものが発明されました。この機関船を使へば、帆走とちがつて、なほ/\早く往復出来る計算です。それについてはまづ第一に石炭が問題でした。おの/\の船が積み得るだけの量では、せい/゛\一週間ぐらゐの航海しか出来ないので、どうしても、途中に補給する場所がなくてはなりません。それには丁度支那との中間にある日本へ、石炭の貯蔵所を作つておけば非常に便利です。
 かういふ、さしあたりの必要から、米人の多くは、どうかして早く日本と、好みを作りたいと思ひました。それ等の人々の中で、それについての実際上の問題を、一ばん熱心に研究したのは、代将官のペリーでした。この人は、さきに墨西哥との戦争中にも、米国艦隊の司令官として非常な働きをした人で、学者としてもいろ/\の方面に通じてをり、種々の意味で、当時の人望の中心になつてゐた人でした。
 実は、亜米利加は、その前に一度、たゞ普通の意味で、日本と交際を開かうとして、ビツドルといふ人を司令官に任じ、二隻の軍艦をよこしたことがありました。併し、日本はその申込を全然拒けて、上陸をさへ許さなかつたので、ビツドルは日本の海上に十日足らず碇泊してゐたゞけで、空しく引き上げて来ました。
併し日本は、今和蘭とは通商をしてをります。だからこちらの出方一つでは、改めてわれ/\とも交際をしない筈はないと、ペリーは考へました。
ついては、彼は順序として、まづ根本に、日本は元来どういふわけで、外国人との交際をあれまで極端に拒んでゐるのか、その理由を究めたいと思ひました。それで葡萄牙人や和蘭人たちが、日本についてかいてゐる本を、集め得るだけ集めて読みあさり、それによつて、第一ばんに日本の歴史と、日本人の性格とを調べました。その結果、これまでいろ/\海外へも発展してゐた日本が、この二百年来急に、あゝいふ引つ込み一方の態度に変つて来たといふことは、どうも日本人の実さいの性格らしいものとは全で不調和な出方のやうに思へました。彼は、その不審を解くために、一たい、これまで日本に接触した外人が、どういふやり方をして来たものかと、それをくはしく調べて見ました。すると、なるほどこれでは、日本が西洋人を、憎みきらふのも無理はないといふ点をどん/\かぞへ上げることが出来ました。
中でも一ばん、その妨害のもとを作つてゐるのは露西亜人のやり口でした。彼等は、日本に属してゐる北方の島々をどん/\奪つてをり、黒龍江の江口なぞへは、いろ/\の防備をして、さも日本をつけ狙つてゐるやうな疑ひを十分日本人に刻みつけてをります。これでは日本が警戒するのも当然です。次には、うつかりしてゐると西洋人は行く/\日本の内政に干渉し出すかも分らないといふやうな恐怖を与へたものもゐます。葡萄牙人が島原の乱のときに、賊徒たちに加担をしたことなぞは、その中の尤よくない一例です。又英吉利の士官なぞは日本の海上で、いろんな許しがたい乱暴を働いてゐます。そのほか、多くの使節たちにしても、めい/\自分の希望をむりにも押し通さうとして日本人を威嚇したり、いろいろ剛慢不遜な言動をしたりした点で、ひどく日本人の反感をそゝつたことが想像されます。つまりすべての外人が、日本人をあまりにひどく見損つてかかつたのが間違ひです。外国の使節たちは、その上に、又一方ではおの/\自分のみが特権を得ようとして、日本に向つてお互に他を悪く言ひ放つので、結局は日本人に、すべての外人について、少なからぬ不安と疑惑とを抱かせることになるのでした。
これに反して、亜米利加だけは、例のビツドルがすなほに引きかへして来た以外に、これまで日本とは何の交渉をもしてゐないし、従つて、まだ一度も日本人に悪い印象を与へた例もない。ペリーは、さういふわれ/\が、十分の礼儀と、温情とをもつて徐々に接近をし、われ/\にはすべての点に微塵も悪意がないことをよく了解させたならば、こちらの目的は必ず遂げられるに相違ないと信じました。
ペリーの見る限りでは、すべて海上権については、亜米利加はいたるところで、いつも英吉利人に先手をつけられてゐます。ぐず/\してゐると、東洋を相手の商業も今に見す/\英吉利に奪はれてしまふ怖れがありました。彼等は、東洋方面で、防備のある港湾は片はしから手に入れようとしてゐます。ことに東印度や支那海では、主要な地点は、こと/゛\く取りつくしてしまひました。もう今では彼等が残してゐるところは、太平洋上の島々と日本の領域とだけに過ぎません。亜米利加は今のうちに、少くとも日本のどこかの地点に、英吉利より先に、足がゝりをつけておかなければ、後になつて悔いても及ばない。ペリーは、それを考へると、本当にいら/\しました。
但しそれ以上に、日本と完全な通商条約を結ぶなぞといふことは、まだとても早急には望むことは出来ないだらうけれど、ともかくさしあたり、捕鯨船や商船の避難所なり、同時に石炭やその他の必要品を補充する場所として、一二の港湾を開放させるだけならば、日本もわけなく聞き入れるだらうとペリーは信じました。
併し万一、日本がそれをもあくまで拒絶するならば、仕方なく、どこか日本に近い南の方に港湾を見つけ、そこを船隊の集合地としておいて、その上で徐々に日本の了解を得ることに努めればよい。ペリーは、かういふ考へから、その準備地点について、琉球に目をつけました。
その時分、琉球は、支那が、自分の属領だと言ひ張つてをりましたが、事実の上では、日本の薩摩藩が支配してゐて、かなりひどい圧制を加へてゐました。ペリーは、この哀れな琉球人に、われ/\の温い情誼を向けてやれば、彼等は喜んで信服して、いろ/\の便宜を与へてくれるに相違ないと思ひました。
 ペリーの熱心な主張は、亜米利加の政府部内にもかなり多くの同感者を得ました。そんなわけで政府も、早速、印度に駐在してゐた、米国艦隊の司令官のアウリツクに命令して、麾下(きか)のプレブルといふ軍艦を日本に送らせ、大体の容子を探つた上で、日本との修交の可否について意見を報告するやうに言ひつけました。その結果、プレブルの艦長グラインは、ぜひ日本と交通を開く必要があるといふことを、力を入れて上申してよこしました。政府はこの問題に関して、次で司令官のアウリツクをよびかへしました。ペリーはそれを機会として、いよ/\正式に、日本と交渉するための艦隊の特派を建議しました。 大統領のミラード・フイルモアは、ペリーの着実さと、綿密な思慮とを十分信用してゐましたので、いよ/\艦隊の派遣を決定すると一しよに、ペリーをその司令官と同時に、日本に向つての特命全権公使に任命しました。
ペリーは早速艦隊の編成にかゝりました。それには、まづ第一ばんに、さきにも言つた墨西哥との戦争のとき、自分の最愛の旗艦であつたミツシツピイ号を選定し、それへ、プリストン号、以下アレガニー、ヴエルモント、バンダリア、マセドニアンの五隻を加へた上、なほ、当時東印度に滞在してゐたサクスハナ、サラトガ、プリマスの三隻をも編入し、そのほかに三隻の武装運送船をつれて行くことにとり極めました。海軍省は、その航海の序でに、東印度と支那との海上を、なるべく広く測量して来る任務をつけ足しました。
艦隊は出来得るかぎり早く出発するやうに命令されました。併し、以上の殆すべての船は、いろ/\の修理のために非常に手間取つて、出発がひどく延び/\になつてしまひました。プリストンの如きは九箇月もかゝつて、やうやく準備が出来上つたので念のため一応試運転をして見ますと、汽罐がひどく不完全で、全然航海に堪へないといふことが分りました。それで代りにポーハタンといふ船を入れることにして、それを又こつ/\手を入れにかゝりました。こんなことで、世間では、政府は日本へ艦隊を出すのを、中止したのではないかと疑つたくらゐです。その間には、セント・ローレンス湾で英吉利との間に漁業権について紛擾がおこり、ペリーは命令によつて、ミツシツピイに坐乗して急行しました。ペリーはその間に、日本派遣艦隊の準備がすつかり出来てゐてくれるやうにと祈つてゐたのですが、かへつて見れば、まだどの船も修理がとゝのはないでごた/\してゐました。
 これではいつまでも果てしがありません。それでペリーは止むを得ず、それ等の船は準備が出来次第あとから追つかけて来させることゝし、一先づ、ミツシツピイだけで出発することの許可を仰ぎました。
ペリーは、それまでに、日本への派遣について、さま/゛\の人たちから、下廻りに乗せてくれだの、便乗を許してくれだのと言つて、うるさい程申込みを受けました。その中には欧羅巴のいろんな国々の科学者、文学者、旅行家なぞも大勢ゐました。彼等は米国艦隊が日本へ出て行くといふうわさをきいてそれ/゛\専門的の研究のために、争つて便乗を申し込んで来たのです。併しペリーは、それ等の人々はもとよりのこと、亜米利加自身の学者たちをも一々ことわつて、たゞ、定められた艦船の乗組員以外には、いかなる人の随伴をも許しませんでした。それは、今度の自分の任務は非常に重大なもので、その一ばんの外交上の目的以外に、ほかのことにかゝはつてゐる余裕がないと見たからです。それにも係はらず、そんな物ずきの人々や学問上の熱心家たちをつれて行つて、その人々の興味を制限するとなると、さま/゛\の不平に包まれるばかりでなく、一方では軍人としての規律のない人がゐては、どんな勝手なことをし出すかも分らないし、そのために、日本人に対して悪感を注ぐやうなことがあつては取りかへしがつきません。ペリーは何よりも第一にその点をひどく怖れたのと、それと並んで後に話すやうな或重大な危険をも感じたからでした。
政府は、ミツシツピイの単独の出発をすぐに許してくれました。それでペリーはいよ/\その船一つでアナポリスといふ港から出て行きました。そのさいには、大統領のフイルモアと、海軍卿のケネデイ以下、政府の主だつた人々やその他の多くの紳士、それ/゛\の夫人たちが来船して、別れの挨拶をかはしました。ミツシツピイ号はその港を出てから、一旦ノーフオークといふ軍港に立ち寄つた上、遂に千八百五十二年──今から丁度七十年前の──十一月二十四日に、いよ/\、日本を目ざして錨を上げました。
ペリーはその際、すべての乗組員にきびしく命令を下して、今後の艦隊のすべての行動と、日本に対する、当面の計画の表はれとについては、内外の新聞や、その他の刊行物への通報を禁止し、なほ家族や、そのほかの人々に出す私信にも、それ等の記述は一さい許さないことにしました。それのみならず、自分自身のためにつける日記や記録も、さしあたり政府そのものゝ所有とし、後に海軍省が許すまでは、決して人に見せることも出来ないやうに、きびしく言ひわたしておきました。
それといふのは、さきに、亜米利加が日本へ艦隊を派遣するといふことが諸外国につたはると、露西亜は、あわてゝ、すぐに日本へ軍艦を送りました。こんなことで、日本に下らない疑惑を与へ、亜米利加が目的としてゐる、平和な交渉に妨害が出来ては困るので、自分の艦隊に関する動静はかたく世間へ秘密にしておく必要を感じたからです。さきに言つたやうに、うるさく申込んで来た便乗者を一々ことわつてしまつたのも、それ等の人たちに対しては、ペリー自身の部下に強制するやうに、手紙の内容を束縛することまでは出来かねます。そこに非常な不安があつたこともかなり大きな理由の一つでした。



ペリーは、やうやくのことで、千八百五十二年、──今から丁度七十年前──の十一月二十四日に、まづさしあたり、ミツシツピイ号一隻だけで、いよいよ日本に向つて出発しました。ペリーが米墨戦争以来最愛の乗艦として誇つてゐたその、ミツシツピイも、今から見れば、噸数も僅千七百噸で速力も八浬内外の、外車のついた小蒸汽船でした。従つて石炭も一週間分より多くは積み込めないので、風向により出来るだけ帆を利用して、少しでも石炭の消失をはぶく方針をとりました。
併し、出立後十日間といふものは、都合わるく南の風がはげしく吹きつゞけて、海はひどい大荒れでした。ペリーは十二の汽罐の中、八つまでに火を入れさせて、その荒れの中をむりに突きとほし、十九日目の十二月十二日の未明に、一とまづ、予定どほり北アフリカのマデイラ島に着きました。そして、三日間そこに碇泊して、石炭や糧食や、そのほかの必要品を補充した上、それから先は北東の貿易風を利用して、どこへも寄港しずに、一気に喜望峰まで帆走するつもりで出帆しましたが、折わるく風は常よりも遥か北方で止つてしまつて、入り代りに今度は反対の南東の貿易風が出て来ました。そのために止むを得ず、途中で、例のナポレオンが流されてゐたセント・ヘレナ島に寄港して、石炭なぞを積み加へ、翌千八百五十三年の一月二十四日にはじめて喜望峰のケイプ・タウンに着きました。
ペリーは、こゝで再び石炭や糧食の補充をつけそれから順次南アフリカの東海面のモリシウス島、印度のセイロン島、シンガポールにそれ/゛\立ちよつて、そのたびに、石炭等を補つた後、同年の四月七日の日没にやうやく支那の香港に投錨しました。
そこには丁度、母国の東洋艦隊の、プリマス号とサラトガ号とが、運送船のサプライ号を率ゐて碇泊してをりました。これはすべて帆前船です。その二つの軍艦が祝砲をうつてミツシツピイを迎へました。ミツシツピイもそれに答へて轟々と礼砲をうちました。ミツシツピイはそこに二十一日間錨を下してゐましたが、次で澳門と広東とへ廻り、再び襖門へ引きかへした上、四月二十八日の夕方に錨を上げて、サプライをつれて上海に向ひ、五月四日に同港に着きました。そこには、二千五百噸のサクスハナ号と、小さなカプリス号との二隻の蒸汽機関の軍艦が待ちうけてをりました。
 ペリーはそのサクスハナを旗艦に更へて移乗し五月二十三日の午後一時に、以上のミツシツピイ、カプリス、サプライの三隻を引きつれて、いよ/\琉球の那覇に向つて出発しました。前にも言つた如く、琉球はそのとき、支那が自分の属領だと言ひはつてをりましたが、事実上では、日本の薩摩藩の圧制の下に屈従してゐました。もし琉球が本当に日本のものだとしたら、ペリーは、いよ/\もう少しで日本の土を踏むことが出来るのでした。
 サクスハナ号は、ぢき後にカプリスを附け、一浬うしろに、サプライを曳いたミツシツピイを率ゐて、徐かに進んで行きました。そのうちに間もなく、小さなカプリスは南西の貿易風にひどく吹きつけられて、だん/\と後になり、サプライを曳いてゐるミツシツピイが、見る/\サクスハナの後に追ひついて来ました。サクスハナはそれを見て、前檣の帆を上げました。さうすると、ミツシツピイは又ずつと後におくれたので、サクスハナは再び速力をゆるめて待ち合せました。サクスハナの汽罐は一時間に一噸の石炭しかたかれないことに制限されてゐましたので本当の速力は、いつもの半分も出せませんでしたが丁度貿易風がたえずしづかに手伝つてくれたので、実さいには一時間七浬のわりで走ることが出来ました。南へ/\と下つて行くので、気候はだん/\にあたゝかくなり、海はたま/\湖水のやうに隠やかでした。ペリーは、この航海中、乗組員に対していろ/\の訓練をしました。二十五日の朝には、琉球に滞在中の心得を言ひわたしました。
 するとその夕方、ミツシツピイ号から、かすかに琉球島が見え出したといふ信号をつたへました。つゞいて、サクスハナの前檣の哨兵からも、同じ報告を得ました。サプライは、今はミツシツピイから放れて単独に帆走してゐました。
 それで夜になると、蒸汽機関を供へたサクスハナと、ミツシツピイとは、ともに速力をゆるめて、サプライ号をおきざりにしないやうに、注意して続航しました。
やがて二十六日の朝になりますと、琉球の島々は二十浬ばかりの前方に、一列に並んであり/\と見え出しました。そのときサクスハナは、やはり一ばん先に走り、ミツシツピイはその後につゞいてゐましたが、サプライ号は、すつかり後れて、例のカプリスと同じやうに、まるで影も見えなくなつてしまひました。
サクスハナとミツシツピイとのまへには、次第々々に丁度英吉利の陸地を見るやうな、うらゝかに青い島々が、一々指し分けられるほどに間近く展開して来ました。午後の三時には、目ざす那覇の市街が湾の奥にはつきりと見えはじめました。サクスハナと、ミツシツピイとは間もなくその湾口を這入つて行きました。
 すると、市街の北の方に突出した丘の上の、或一軒屋で、長い旗竿へひら/\と英吉利の旗をつるし上げました。
後に分つたことですが、その家は英吉利の宣教師のベトルハイムといふ博士の住居だつたのです。彼は、琉球人から、ひどく反対されたにも係はらず、英吉利の士官たちに庇護されて、最早五六年、無理にそこに住みとほしてゐたのでした。琉球へはその間滅多に西洋の船が来なかつたのに、今二隻からの亜米利加の艦隊が勢よく這入つて来たので、ベトルハイムは躍り上るばかりに喜んで大急ぎで祝ひの旗を上げたのでした。
港口に突き出た岬を廻ると、内港の入口へ来ました。港の中には、大きな日本船が、あすここゝに錨を引き上げにかゝつてゐます。さきの一軒家の旗竿の下には、二人の男が立つて、一生けんめいに艦隊の行動を見張つてゐるやうに見えました。試しに望遠鏡をとつて市街を見ますと、白い日傘をさした市民が、ざわ/\と、町々を遁げ迷つてゐるのが手に取るやうに見えました。艦隊は、夕方ごろ、港内に這入つて投錨しました。そこへ丁度サラトガ号が澳門から、通訳のウヰリアム博士を乗せて来着し、並んで錨を下しました。
間もなく急に雨がびしよ/\とふり出しました。その雨の中を、二人の役人らしいものを乗せた船がサクスハナに向つてずん/\漕ぎよせて来ました。それは時間からいふと、艦隊が投錨してから、まだ二時間もたゝない間のことです。二人は甲板へ上つて来て、丁寧に礼をし、赤い色の日本紙にかいた、長い一丈あまりの、手紙らしいものをうや/\しく差出しました。
二人のうち、上役らしい一人は、肉色の芭蕉布で作つただぶ/\の上袍を着、もう一人は、同じ材料の青色の上袍を着てをりました。そして、二人とも青い帯に白い足袋をはき、おの/\、真黄色な長方形の冠を手に持つて控へてゐました。どちらも黒い長い、疎な顎髯を垂れた、色の浅黒い、三十五六から四十前後らしい年輩でした。
お互に言葉が通じないので、ペリーの部下たちには、その二人が何人で、どういふつもりで出て来たのか、さつぱり分りません。それで、ペリーに使はれてゐる一人の支那人をよんで来て、二人がさし出した手紙を読ませて見ますと、二人とも上役の命令で、たゞ、艦隊の無事の到着を祝ふために出て来たまでのことでした。併し、二人のそぶりを見ると、それは表面で、実は疑ひもなく、それとはなしに、こちらの容子や意向を探りに来たのに相違ありませんでした。
ペリーはわざと、会見を拒けて、二人をそのまゝかへしました。
それと入れちがいに、宣教師のベトルハイム博士が小舟に乗つてたづねて来て、全で狂はんばかりに喜びながら、艦隊の入港を祝ひました。
彼はペリーの船室に案内されて、二三時間、ペリーと話をしました、米国の艦隊がこちらへ出て来るといふことは、彼は全然予想さへもしなかつたと語りました。
ベトルハィムが辞し去る際には、ペリーはわざわざボウトを下させて、海岸から三浬近くのところまで見送らせました。



ペリーの艦隊はとう/\琉球の那覇に入港して、何の事変もなく第一夜をあかしました。
その朝七時、土人たちの四艘の小船が漕ぎつけて来ました。その中の一つには昨日出て来た、同じ二人の下役人が乗つてゐました。彼等は犢と山羊と豚を一匹づゝと、そのほかに鶏や野菜や卵を贈りものに持つて来たのですが、ペリーは、さういふ下役人たちと接触したところで何の意味もない点で、彼等を甲板へ上げることも許さず、贈物をも一さい刎ねつけてしまひました。使の役人たちは、しばらく茫然と彳んでゐましたが、やがてこそ/\かへつて行きました。その顔附にはあり/\と、非常な不安と怖れとが包まれてゐました。
丁度そのとき大きな日本船が四五艘ばかり、探偵でもするやうに、わざ/\艦隊のぢき側をとほつてあわたゞしく北の方へ向つて出帆しました。これは怖らく、ペリーたちの来港を日本の本土へ急報するために特派されたのだと思はれました。
第二日目の二十七日もかうして過ぎました。翌日も翌々日も言はゞ休養半分に暮しました。その間にペリーはコンテイ大尉とウヰリアムス通訳とを、那覇の市庁へ派遣して入港の挨拶をさせました。一ばんの上役人は丁重に二人を款待しました。併し彼の贈物がはねかへされたことは少なからず不快に思つてゐるらしく話しました。大尉はそれに対して、すべて亜米利加の軍艦では、代価を払つて買ひ入れる以外に、いかなる場合にも他から品物を受け入れないのが慣例なので、今度のことも決して人の好意を軽蔑したわけではないと弁解しました。
 三十日の午前に、艦へ市庁から使が来ました。琉球の代理王が、今日の午後旗艦を訪問に来るといふ先触れです。ペリーはそれを聞くと、永年この土地に住んでゐる、例の英吉利の宣教師のベトルハイムのところへ人をやつて、その代理王との会見に列席してくれるやうに頼みました。さういふ琉球人の呼吸の分つてゐる人を交へて、出来るだけ打解けた空気を作らうといふ用意でした。それから、水兵たち一同に服を着かへさせたり、その他いろ/\の準準をして待ち受けてゐました。
やがて午後の一時ごろになりますと、粗末な小船が一艘、サクスハナ号へやつて来ました。そして下役人らしい一人が舷門を上つて来て名刺をさし出しました。ウヰリアムス通訳がそれを受取つて読みますと、代理王が来たのです。王はその役人が下りて行くと間もなく、二人の上役人に扶けられて上つて来ました。貴人らしい品格のある、立派な老人です。艦長のブツカナンとウヰリアムス通訳とが舷門に出迎へました。代理王は両手を胸の上に組み合せ、頭を少し下げたまゝ、腰を低くこゞめて礼をしました。そしてウヰリアムスをとほして、本当の王はまだ十二歳の幼年者なので自分が代理王としてすべてを一任されてゐるのだといふことを艦長に告げました。そのあとから更に七八人の役人と、二三十人の従者たちが続々と上つて来ました。そのとき艦では轟々と三発の礼砲を射ちました。役人の中には、その音に愕いて倒れころんだものもゐました。
艦長はそれ等のすべての人を導いて、艦内をすつかり見せて廻りました。代理王をはじめ、多くの人々は、その間何を見ても一寸も感情を顔に出さないで、固く、とりすましてゐましたが、やがて、蒸気汽罐のところへ来ると、すべての人が思はずどぎまぎして、あり/\と大きな怖れと狼狽とを、見せました。
それ等の見物がすんでから、ペリーは王以下を長官室に通して、そこではじめて接見しました。軍楽隊は、王がその室の階段を上るのと一しよに、盛に吹奏をはじめました。王は、それには目も向けず威容を備へて這入つて来ました。ペリーは非常に丁寧に立ち迎へました。そこにはベトルハイム博士も列席してをり、すべてゞ一時間半にわたり、相互にいろ/\の話をして、十分に好意を交換しました。その間には、琉球人に不快を与へるやうな行動は決してしないといふ条件で、乗組員の上陸の許諾も得ました。ペリーは最後に、自分自身が、来る六月の六日に、首里の王宮を訪問をする旨を告げました。
すると代理王はそれに対してすぐに返答をしかねたやうに、上役人たちとこそ/\協議をし出しました。ペリーは代理王の返事を待たないで、同日、必ず訪問する旨をかさねて断言し、なほつけ加へて、その際には、合衆国の使節並びに艦隊の司令長官としての自分に、その地位相当の待遇を与へられたいと要求しました。代理王はその希望だけは十分了解した容子でしたが、併しペリーの訪問を受け入れる入れないの根本の点については、遂に何等の確答もしないまゝでかへつて行きました。
以上の結果、ペリーはその午後すぐに特務隊を上陸させて町の状態を視察させました。隊は、例のベトルハイムの旗竿の建つてゐる岩壁の下ヘボートをつけました。土民たちは、そちこちに立つて、みんなの行動を注視してゐましたが、一同が上つて行くと、みんな段々に遁げ去つてしまひました。やがて広い大通りへ出ますと、多くの土民たちは両側にかたまつて、隊員の通つて行くのをじろ/\見てゐました。隊がそばへ近づくと、一同は雪崩のやうににげ散りますが、又ぢきあとからぞろ/\ついて来ます。その群集の中に、長い顎髯を垂れた、人品のある顔もちよい/\交つてゐました。さういふ人の一人が、やがてみんなに何か言つたと思ひますと、群集は一度にばらばらと遁げ出してしまひ、家々の戸口も次々に閉められて行きました。それから先は通には全く人の影も見えませんでした。隊員たちは町中の家々の、赤い瓦の屋根や、街上にうつさうと茂つてみる樹樹の緑の蔭や、ところ/゛\に見える椰子やバナヽの木を見て、何だか地中海のシシリヤ島へ上つたやうだと話し合ひました。みんなは間もなく那覇での一ばん繁華な場所らしいところへ出ました。どこへ行つても全市中、こと/゛\く、店を閉めて、住民はみんな、ひつそりと隠れてゐました。道ばたに出てゐた露店なぞは、よほど狼狽して遁げ出したと見えて、品物が通りへ放り出されたり、饅頭なぞが、そのまゝ置き去りにしてあつたりしました。隊はしまひに、小山の坂を下りて港へ出ました。あたりには船が少しばかりもやつてゐるだけで、やはり人は一人もゐませんでした。みんなは、かへりには偶然或寺の中へ迷ひこみました。そこには、大きな樹がこんもりと茂つてをり、真中に池がありました。一同がその池のそばで休んでゐますと、一と群の土人がまはりへ寄つて来ました。彼等ははじめは不安さうにじろじろと隊員の顔を見探つてゐましたが、間もなく、或ものは手真似で話しをしかけたりして、次第になじんで来ました。その中には汚らしい婆さんも交つてゐました。
ペリーは間もなくその部隊員から、以上の情況をすつかり聞き取りました。
 これで見ても艦隊の不意の入港が、土民たちにどんなに大きな不安を与へたかゞ察しられました。会見に来た例の代理王や役人たちはペリーが王宮へ出かけて行くといふことを、ひどく怖れたものと見えて、その後さま/゛\の手段をめぐらして、極力、防ぎ止めようとかゝりました。王宮は那覇から少しはなれた、首里といふ市にあるのですが、彼等はペリーの来訪をその首里へでなく、那覇に代へてもらひたい、代理王はそちらで宴会を催した方が便利なので、どうか、いつ/\に臨場をねがひたいと申し込んで来ました。ペリーは、彼等の腹をすぐに見すかして、その宴会への出席を、当日になつて、ていよく断つてしまひました。彼等は、そんなことでもつて、ペリーが王宮へ来るのをせき止めようとしたのです。
 その宴会が流れてしまつたので、役人たちは、その日準備してゐた御馳走をどん/\艦へ運ん来ました。ペリーはそれだけは礼儀上受取ることにしました。そのためにサクスハナの甲板の一部は、忽ち鳥や魚や野菜や果物の料理で一ぱいになりました。
 役人たちは、第一の計略に失敗すると、次には手をかへて、こんなことを言つて来ました。それは王宮では、幼ない王さまの母上で入られる大妃が一年まへから病気でおやすみになつてゐる、その御発病は、英吉利の海軍の一士官が、琉球政府へあてた、英吉利の宰相からの手紙を持つて来たと言つて、無理無体に王宮へ飛び来んで来たのにびつくりされたのがもとであつた。今度貴官がお出で下さるについて、万一にも又大妃が何ごとかに愕かれるやうなことがあると大変なので、首里へお出で下さることは構ひませんが、場所は王宮でなく他の宮殿にしていたゞきたい、幼王もたま/\そちらに移つてゐられるからと、かういふ申出でした。
 
  四
  
 琉球の代理王は、ペリーに対して、最後には、大妃の病気を口実にして、王宮以外の或宮殿へ来てもらひたいと申込んで来ました。ペリーは彼等がこんなにいろ/\の手段をめぐらして、自分たちを、出来るだけ王宮へ入れまいとするのは、つまりは、いつも彼等を監視してゐる、日本政府の廻しものか、又は日本から派遣されてゐる役人たちから、いろんな疑惑をかけられるのが怖しいからではあるまいかと勘づきました。
 併しいづれにしても英吉利の士官の先例もあり、自分たちもその士官が通されたところまでは当然這入らねばならないといふことを、根強く宣言して、代理王たちのその申込をも刎附けてしまひました。
 そのうちに、かねて言ひわたしてある、六月六日が来ました。その日は、夜明けごろには空が大分曇つてをり、風も強くて、天気が危ぶまれましたが、朝になつて、さつと一と雨降りすぎると一しよに、暗い雲がだん/\と開き消えて、からりとした青空が見えて来ました。朝の九時になりますと、用意した艦隊は一せいにボウトを下して、予定の兵員を手早く、泊といふ村へ上陸させました。ペリーは一ばんしまひに、参謀長のアダムス大佐と、サクスハナ艦長ブツカナン、ミツシツピイ艦長レエイ、サラトガの艦長ウオーカーの四将校を従へて上陸しました。
 この日のべリーの乗用としては、艦内でにはか作りにこしらへた轎がはこび上げられてゐました。殆荒木同様の木材で出来るだけいかめしく作り上げ、それを絵具でこて/\に塗り立てゝ、まはりに赤と青との派手な掛布を垂れた、途方もない大きな轎でした。ペリーはそれに乗つて、八人の支那人の苦力に四人づつ交代に担がせ、両側に二人づつの水兵を護衛につけて出発しました。
 一ばん先頭には、一人の大尉が、二門の野砲を指揮して進み、その次に、ウヰリアムス通訳と、宣教師のベトルハイムが加はり、その後には、ミツシツピイ号の軍楽隊をつけた、一少佐の率ゐる水兵の一部隊が進み、その次ぎにペリーの轎が行きました。轎のうしろには、扈従の一少年と支那人の給仕とが、アダムス参謀長たちと一しよにつき従ひ、次に、六人の苦力が、前後を十数名の水兵に護られて、琉球王や、母上の大妃たちに捧げる、さま/゛\の贈物を担いで続き、次にブツカナン以下の艦長と、高級将校、最後に、サクスハナの軍楽隊と水兵の一部隊とが附き随ひました。水兵たちはすべて武装をしてをり、すつかりで二百名以上が数へられました。
 以上の行列は、楽隊の行進曲に歩調を合せて、首里の町まで三十丁ばかりの街道を堂々と練つて行きました。土人たちは家々の前へひし/\と群つて、びく/\したやうに、迎へ送り、見物しました。
 一行は間もなく首里の南の広々した耕地の中へ出て来ました。その豊沃な耕地一帯の青い色と、ぐるりの茂つた丘や並木の緑と、すが/\した土の匂ひとは、久しく海の単調に閉されてゐた兵員たちに、言ふに言はれない爽快と喜びとを与へました。
 そのうちに行列は首里の門につきました。そこには、例の年老いた代理王が、青や赤の、四角な冠をかぶつた、多くの役人と一しよに出迎へに来てをりました。代理王は、挨拶をすますとすぐに、一ばん先に立つて、行列を町の中へ導き入れました。大通りの両側には、高い壁が立つてをり、それがところ/゛\で途切れて、そこに四辻が出来/\してゐました。役人たちは、市民の群衆を追ひ払つて、今言つた四辻/\の、左側の横道へ追ひ入れてゐたので、そこのところの混雑と言つたらありませんでした。部隊員は、街上や家々の容子を見て、琉球人のきれいずきなのにつく/゛\感心しました。ペリーたちでさへも、少くともこんな清潔な市街といふものを、これまで嘗て見たことがありませんでした。
 やがて王宮の門が見えるところまで来ますと、代理王についてゐた一人の上役人が、ウヰリアムス通訳に向つて、まづ一ばんさきに、代理王の邸宅へ寄つてお食事をねがひたい、こゝから遠くもなく、それに、多少御馳走の用意がしてあるからと言ひ出しました。ウヰリアムスは、彼等がその手でもつて、例のやうに王宮へ入れずにごま化さうとするのだといふことをすぐに見破つて、かまはず、どん/\宮門へ向つて進んで行きました。
 代理王たちは、うまくペリーたちを王宮以外へ導き込むつもりでゐたと見えて、王宮の門は固く閉めたまゝにしてありました。彼等はあわてゝ使を立てて、急いでその門を開けさせたりしました。ペリーの部下の水兵たちは、その門の前に止つて堵列しました。ペリーは、それ等の兵の捧銃と奏楽との前を通つて随行者と一しよに王宮へ這入りました。
 ペリーたちが通された部屋は、接待の間らしい広間で、左右に漆塗の椅子が一列に並んでゐました。ペリーと通訳以下の随行員とは、その右側の椅子へ並んでかけ、左側の椅子へは、代理王が顧問の役人三人と一しょに着席し、従者たちが、その後へ立ち並びました。大妃は無論出て来ず、幼年者といはれてゐる王も、終始顔出しをしませんでした。お互の挨拶がすむと、ペリーたちの前にテイブルが運ばれ一ぱいの薄色の茶と煙草と、非常に硬さうな、捻つた菓子が並びました。王宮でのもてなしと言つたらあとにも先にも、たつたこれだけです。これから推しても、役人たちが、ペリーを代理王の邸宅で喰ひ止める計画だつたことが、すつかり見えすいてゐました。
 ペリーは、代理王に向つて、自分は二三日のうちに、艦隊の一部を率ゐて那覇を出発し、十日ばかりして再びかへつて来る旨を告げ、その前後、どちらでも代理王の都合のいゝときに、彼と、三人の顧問役とを旗艦に招待したいと言ひました。代理王は、それを快くうけ入れて、日取りは貴官の命ずるまゝでよいと答へました。ペリーは、それでは艦へかへつた上、改めて御通知すると言ひました。
 その話が終ると、代理王は、数枚の赤い紙切を取り出しました。それと一しよに三人の顧問官は一度に立ち上り、ペリーの前へ二三歩進んで、丁寧にお辞儀をしました。ペリーたちも、一同立ち上つて、答礼をしましたが、併し、その赤い紙切や、先方の敬礼が、何の意味だか全で分りませんでした。次でペリーは用意して来た、大妃と王と、代理王と、三人の顧問たちへの贈物を差し出しました。大妃へのおくり物は、立派な姿見と、仏蘭西製の香水とでした。ペリーは、この外に、艦には、代理王に差し上げるつもりで、いろ/\珍らしいものを取りそろへてゐるので、どうぞそれをもお受けを願ひたいと言ひました。代理王と三人の顧問とは、非常に満足したらしい容子で、又前のやうに丁寧にお梓儀をしました。
 代理王は、そのあとで、どうかこれから自分の邸宅へお出でをねがひ、午餐をさし上げたいと申し出ました。ペリーは早速受諾して、再び行列を作つて立ち向ひました。
 代理王の邸もかなり広々としてゐました。母家の両側には、別室が庭園の中に突き出てゐて、それへ細い廊下が続いてゐました。広間には、きれいな畳がしきつめてあり、真中に四つのテイブルが並んでそのおの/\の両側に三脚づつの椅子が配置されてゐました。
 ペリーはアダムス参謀長と、ブツカナン艦長たちと一しよに右手の一ばん上席の椅子に招ぜられました。向ひ側には代理王たちが坐りました。テイブルの上には、大小さま/゛\の皿が二十以上並んでゐました。
 その料理は、ペリーたちには何だか分らないものが大部分でした。テイブルの隅には箸と、土焼の徳利が置かれ、そのまはりに支那焼の粗末な盃と、無恰好な匙と茶碗とが、一人に四つづつの割当に並べてありました。まづ最初に茶が出て、そのあとから小さな盃が廻され、続いてどん/\いろ/\の料理がはこばれました。料理は十二通りも出ましたがその中に、汁のものが七通りもありました。その汁物は、餅と若い莢豆と葱の白根を煮たものだの、餡を薄い麺の衣で円く包んだ、一見果物のやうなものや、その他、西洋人に取つてはいろ/\珍妙なものばかりでした。
 併し、ペリーたちみんなはそれを礼儀よく食べました。それ等の皿が一つづつ出る間には、盃がたえず廻されて、めい/\自由勝手に飲むやうになつてをり、一寸も儀式張つた窮屈なところがありませんでした。
 ペリーは、それらの料理がをはつたときを見計らつて、立ち上り、琉球王と王母との健康を祝した上琉球人と亜米利加人とが永久に親密であることを祝福すると述べて乾盃しました。それが通訳によつて訳されると、代理王は非常に喜んで、小さい盃を上げて飲み干しました。
 ペリーはその次には代理王と部下の人々との健康を祝ひました。
 代理王は、ペリーとすべての士官と艦隊の健康のために乾盃して答礼をしました。それから又十二通りの料理が出るとのことでした。これは一ばん貴い人をもてなす待遇なのださうでしたが、ペリーたちは、もうこれで十分であるからと丁寧に挨拶して、辞退しました。
 代理王たちは、さつきまでは、何か非常に困つたやうな、心配さうな顔附をしてそは/\してゐましたが、このときはやつと安神したやうに、落ちついた打ちとけた態度に変つて来ました。それは多分さき程までは、日本の密偵かなんかゞ附き纏つてゐて、代理王以下の一々の言動を監視してゐたからではないかと思はれました。

  五

 ペリーは琉球の王宮訪問を無事に果し、代理王とも再び打ちとけた会見をしたので、まづ/\一と安神しました。たゞ、慾をいへば、王や大妃がしまひまで顔を出さなかつたのが少し物足りなく思はれましたが、併し王は実際幼年者であり、又大妃の病気といふことも、実はこしらへごとだつたといふことを、代理王が打ちあけて言つてくれたので、ペリーも満足して引き上げたわけでした。
 全艦隊はペリーのこの最初の成功を聞いてみんなで祝ひ喜びました。
 ペリーは以上の結果から見ても、すべて東洋人に対しては、いつもかういふ風に、こちらも飽くまで虚偽を用ゐない代りに、一たんかうと言ひ出したことは、どんな小さなことでもぐん/\貫きとほすことが肝要である、それで以て自分たちのすべての申出は、決して彼等の常習の、見えすいたかけ引きや手管でもつて覆へされるものでないといふことを、根本に教へてかゝらなければ駄目だと考へました。
 その翌日ペリーは、部下の上級士官と、乗組の宣教師との四人を派遣して、琉球政庁の上役人に饗応の礼を述べさせ、一方には一人の士官と通訳とを那覇の役所の勘定係のところへ送つて、今度艦隊が補給をうけた、すべての品物の代価を支払つて来させました。役人たちは、それ等のものはみんな琉球の習慣によつて、贈物として献じたのだからと言つて、容易に支払を受け入れませんでした。士官はそれをやうやく説き伏せて、すつかり代金を払つてかへりました。
 これなぞも、ペリーは、自から一つの大きな成功だと考へました。従来は、どこの艦船も、みんな向うの言ふなりに、結局いろ/\の物品を無償でもらつてゐたので、相手は、外人に施しものをした気で威張つたり、見下したりするために、それ以上のことについて便宜を得る上に、非常な妨げになつてゐたわけでした。
 ペリーは、それ等の手続きをすました後、六月の九日の朝、ミツシツピイ、サプライの二艦を那覇にのこしたまゝ、サクスハナに坐乗し、サラトガを引きつれて、小笠原群島に向つて出発しました。ペリーが代理王との会見のとき、二三日の後、艦隊の一部を率ゐて、十日ばかり航海をして来ると言つたのは、これを意味してゐたのでした。
 出発のさいにはあとのすべての指揮を、ミツシツピイ艦長のレエイ大佐に托し、留守中も琉球人とは出来るかぎり親密に接触し、乗組員中でも、温和な人の外は一さい上陸させないやうに命じておきました。一寸したことにでも琉球人の感情を悪くして、せつかく、こゝまで開拓して来た交誼へ、寸分でも傷をつけてはつまらないからでした。
 小笠原島への航海は、至つて静穏で、何のさはりもなく到着し、いろ/\の探検をした後、群島の一部にアメリカの殖民地を選定して、六月二十三日の夕方に無事に那覇にかへりました。すると丁度プリマス号も入港してゐたので、ペリーの率ゐる艦隊はすべてゞ五隻になりました。
 ところがかへつて見ると、先の代理王が、ペリーの留守中に不意に免官されて、ほかの人が就任してゐました。ペリーにはどうしてこの更迭を見たのかといふことは、はつきり分りませんでしたが、併し所詮は、どうも自分たちの艦隊の入港と関係があるやうに思はれました。ことによると、自分たちを王宮へ入れたことが非難になつたのかも分らない。ペリーはさう考へると、あの年を取つた、もとの代理王のために気の毒でたまりませんでした。すると、そのうちに前代理王が切腹したといふ風評がつたはり、ペリーも非常に驚きましたが、それはたゞ噂だけで、当人はたしかに生きてゐることを確め得ました。併し、宣教師のベトルハイムが探聞したところによると、前代理王は、家族たちと一しよにどこかへ島流しにされたといふのです。
 ペリーは、それで、かねての約束に従ひ、改めて、今度の代理王と、勘定係の長官以下を、六月二十八日にサクスハナへ招待しました。すると、琉球政庁はそれを快く受諾しました。その上に、今度の代理王になつてから、艦隊に対するすべての対応が一層丁寧になり、いろ/\のことに用意が行き届いて来ました。今度の人は年も遥かに若い人だといひます。それ等の点から推すと、まへの老代理王は別に罪を受けたわけでもないらしく、或は自から進んで若い人に職をゆづつたのではないかとも思はれました。
 招待の当日には、ペリーは三隻のボウトを泊といふ村の入江まで派遣して、来艦する人たちをはこばせました。立派な芭蕉布の着物を着飾り、はでな色の冠をかぶつた人々は、やがて歓迎の軍楽の下に、続々旗艦へ上つて来ました。今度の代理王は尚宏勲といふ名前で、先の代理王の一族だといふことでした。見たところ、四十五六の小柄な人で、顔の色は、来客中のだれよりも一ばん黒く、それに左の目が少し藪睨みでした。
 間もなく一同は宴席へつきました。その日の料理の献立は、艦としては特別に念入りのものばかりで、海亀のスープ、鵞鳥と山羊のカレー煮以下、いろ/\のおいしい御馳走を出しました。酒も、フランスのいろ/\の酒や、ドイツの酒、スコツトランドやアメリカのウヰスキー、マデイラ酒、ポーランドのジンなぞ、船に用意してゐた、あらゆるいゝ酒を出しました。
 琉球人たちは、すつかり、くつろいで、愉快さうに飲んだり食べたりしました。すべてが口に叶つたと見えて、全で腹に底がないかと思ふほど、どんどんつめこむので、相伴の士官たちもびつくりしました。殊に小笠原島から持つて来たバナヽや瓜は、何よりもみんなの気に入つたらしく、或ものは、家へ土産にしたいから、別に少しくれないかといふ、さあどうぞと言つてさし出すと、着物の懐を袋の代りに使つて、そこへどん/\入れこみました。飲みものではシエリーを一ばんにすいて、目を細くし、舌をならしてちび/\嘗めるやうに飲みました。
 生憎、宴会場にあてた船室が少しむし暑かつたゝめに、或人々は酔が廻るにつれて一層凌げなくなつて来たと見えて、冠をぬいでも差支へはないかとたづねました。どうか御任意にといふと、大喜びで冠をぬぎました。するとめい/\のお供のものが後に立つて、主人の頭を猛烈に煽ぎ立てました。
 かういふ、遠慮なしの人々の中で、たつた一人代理王だけは、終始非常に真面目で押しとほし、特に話しかけられる外は一さい無言でゐたばかりでなく、時々目に不安さうな色を見せて、そは/\してゐることさへありました。これは怖らく、まだ職に馴れないために、自分の地位が、絶えず気になるのと、もう一つは、西洋流の宴席の作法に不馴れなために一々の動作にびく/\した点もあつたでせう。それとも、又例の、日本政府からの廻しものゝ監視があるために、今日の来訪から、後で何か面倒なことが持ち上りはしないかと、それを心配してゐるのではないかとも思はれました。
 併し、さういふ代理王も、ペリーが話の序でから、アメリカの草花と野菜との種を捧げたときだけは、麗かな顔を見せて礼を言ひ、それをまいて、大事に育て上げて見ようと挨拶しました。
 かういふ次第で、ともかく、すべての人々は十分歓びをつくして退艦しました。そのさいには、艦は代理王に対して三発の礼砲を発射し、ボウトは再び人々を乗せて入江まで送りとゞけました。
 ペリーは、これで一と通り琉球人との修交を得たものとして、いよ/\日本の本土へ発航する準備にとりかゝりました。何と言つても、琉球人の行動は、すべて日本の権力が束縛してゐる以上、琉球人に向つて、これ以上の要求をしたところで纏るわけもないので、それよりも早く日本と根本の交渉をするのが一ばんでした。
 ペリーはカプリス号を上海の警備に送りました。そして、七月二日の朝、サクスハナとミツシツピイとの二隻の蒸気機関の軍艦と、プリマス、サラトガの二隻の帆前船と、都合四隻の小艦隊を率ゐて、日本に向つて出発しました。日本人が黒船と呼んで驚き騒いだのは、これ等四隻の艦船だつたのです。
 ペリーは最初、アメリカを出て来るときには、十二隻の大艦隊で以て、堂々と日本を訪づれる計劃で、上海へ来て以来は、あとの船の到着を一日/\と待つために、計らず時日を延ばしてゐたのでしたが、いつまでたつても追加の軍艦の来るあてがないので遂に止むを得ず、こんな小艦隊のまゝで立ち向つたのでした。併しペリーは、異常な事変が持ち上らない限り、たゞ自分の来航の目的を達するだけのことならば、これだけの小規模で行つたつて十分間に合ふものと確信してゐました。
 旗艦のサクスハナはサラトガを、ミツシツピイはプリマスを、それ/゛\、綱で引つぱつて進航しました。そして七月七日の夕方には、伊豆の尖端から四十哩のところまで出て来ました。
 
  六

 ペリーの率ゐる四隻の米国艦隊は、千八百五十三年の七月二日(嘉永(かえい)六年五月二十八日)の早朝、琉球の那覇を出発し、七月二日の夕方には伊豆の岬から四十哩の海上まで進んで来ました。併し日本の気候の特長と見えて霧が非常に深いために、陸地は、たゞ海岸の輪廓だけがぼんやりと見えるだけで、それ以上には何物もはつきり目に這入りませんでした。夜中から翌朝の四時までは、断えず艦首を陸地から離して進航しました。
 八日の朝になつても、やはり霧が深くて海岸が見えません。艦隊は風があるにも係はらず、すべて帆を巻き上げて八又は九ノットの速力で走りました。
 やがて相模湾の入口まで来ますと、間もなく段々に霧がうすれて、大島が右手に見え、後には伊豆半島のけはしい側面と、高い山々とが、かすれ/゛\に見え出しました。湾の中には、大きな円錐形の山が、驚くばかりに高く大空に突き出てゐるのが、霧の合間々々に目を引きました。その頂上には、真白い帽子が被さつてゐましたが、それは雲だか雪だか、たしかには見分けが附きませんでした。間近の海上には、大きな帆を上げた漁船がそちこちに動いてゐました。それ等の船は、ペリーの艦隊を見ると、みんな、どん/\遠くへ遁げて行きました。怖らく、はじめて蒸汽船を見てびつくりしたのでせう。そのうちに艦隊は最後までうろ/\してゐた一艘の船に追つつきかけました。すると船は非常に狼狽して、大急ぎで帆を引き下し、死にもの狂ひに櫓をこぎ立てて逃げました。
 それから間もなく相模の岬が前方に現はれて来ました。ペリーは、それと同時に、サクスハナの檣上に信号旗を掲げました。それによつて、四隻の軍艦はいづれもすぐに甲板を取り片づけ、みんなそれ/゛\の部署についた上、大砲には弾をこめて、すつかり戦闘準備をとゝのへました。
 正午近くに、先頭のサクスハナは相模の岬へ来ました。ペリーはそこで一たん停止して、各艦長をサクスハナに集め、いろ/\の訓令を伝へた後、再び進行して、相模の陸地に沿うていよ/\江戸湾へ這入つて行きました。すると、その海岸から二哩ばかりのところへ、ふいに十艘以上の日本船の一隊が出て来て、艦隊に向つて一直線にこぎ進んで来ました。たしかに艦へ来るつもりでしたらうけれどペリーは構はずどん/\進行をつゞけさせたので、彼等は見る/\うちに遠く後にはふり残されてしまひました。蒸汽機関でもつて、風に逆らひながらも、ぐん/\突き進んで行くのですから、日本船なぞがいかにもがいても追つつけるわけはありません。それ等の船には大勢のものがぎつしり乗り組んでをり、どの船にも、文字を記した大きな旗を立てゝゐました。多分日本政府の船だつたに相違ありません。
 この江戸湾だけにはさすがに十分の防備がつくしてある容子で、目のまへの相模方面の山々や出鼻には、方々にいくつもの堡塁があり/\と見えました。併し、艦隊が不意に闖入して来たにも係はらず、それ等の砲台はすべて唖のごとくに沈黙して、しいんとしてゐるのです。安房の海岸はこの半島と向き合つて東の方に延びつらなり、両方から湾口を扼してゐるのですが、そちらの方面には、怖らく砲台は一つもないやうに見えました。
 艦隊はそのまゝどん/\浦賀の港に向つて進みました。その途中に数へ切れないほど浮んでゐた漁船は、艦隊が近づくとみんな大急ぎでばら/\と逃げ退いて、それ/゛\こゝなら安全だと思ふらしいところへ遠のいた後、いづれも櫓の手を休めて、呆然として黒い巨大な艦隊の進行を見すゑてゐます。先頭のサクスハナはたえず鉛錘を下して、水深を測りながら、速力をゆるめて浦賀の岬を廻つて這入つて行きました。あとの軍艦もそれにつゞいて、十分に警戒を加へつゝ徐行しました。
 
  七

 やがて、艦隊が浦賀の町から一哩、或一つの砲台から半哩のところまで来ますと、突然、その砲台から二発の爆声とともに烟が高く中空へ上りました。何か相図の狼煙を上げたのだと思はれます。すると忽ち警備船らしいものゝ一隊が、大急ぎで艦隊を目がけてこぎよつて来ました。ペリーは間もなく信号を上げて、部下の諸艦に投錨を命じました。そして同時に、同じく信号でもつて、たとへ日本人が近づいて来ても、たゞ公用者を、一度に三人以下を限り旗艦に上すことを許す外、その他の艦へは一さい上げてはならないといふことを伝へました。
 それといふのは、これまで来た外国船は、日本人の来訪者を一々甲板に上げて待遇するのを例としてゐましたが、かつてアメリカのコロンブス号が江戸湾に来たときなどは、二三百人といふ大勢が一度にどや/\上り込んで来て、いつまでものんきらしく見物して廻り、最後に下りろと言つても、中々聞かないで困らし抜いたことがあつたからでした。
 諸艦は信号に応じてすぐに錨を下さうとしましたが、そのあたりは水深がなほ二十五尋もあつたので、いづれも、もう少し海岸に近く進んだ後、それ/゛\錨を投げ入れました。それは丁度、去年の十一月二十四日に、母国のノーフオーク軍港を出てから丁度二百六十日目の、午後の五時前後のことでした。
 艦隊が錨を下すと同時に、海岸の砲台から又一発の狼煙を上げました。艦隊は、砲門を浦賀の町と、砲台の全面とに向けて、一列に碇泊しました。それと一しよに日本の警備船が四方八方からうよ/\と取りまいて来ました。
 いづれも艦隊を監視する命令を受けて来たものと見えて、大抵二三十人づつが乗り組んでをり、食料品や飲み水や、夜具のやうなものをいろ/\とつみ込んで、永い間つき纏ふためらしい用意をしてゐました。乗組者はみんなそろつて丈の高い骨組の逞しい男ばかりで、多くは黄黒い体の殆全部を丸出しにしたまゝ、頭には何ものもかむらず、髪は両側だけを長く伸ばして、それを煉油らしいもので固めつけ、頭の頂上の、禿げたところで結んでゐます。おの/\の船で僅か二三人だけが、背中に紋のついた、袖のある、ふは/\した服をつけて、浅い鉢をそりかへらせたやうな恰好の竹細工の帽子を被つてゐるばかりでした。
 そのほか或小船の中には、棒の先に十字形の刃のついた槍を持つてゐるものもありました。これは多分、軍務掛の役人だらうと思はれました。それから一番の上官らしいものは、漆塗の固さうな鉢のやうな帽子の真正面に紋所のついたものを被つてゐます。それ等の紋は、怖らく、その人の階級や地位を区別してゐるものと思はれました。
 それ等の人々が櫓をこぐことの早いのには驚かれました。或特種なかけ声を出して漕ぎ出して来ると見ると、瞬く間に目のまへに近づいて来ます。すべての船には、一本の黒い条を真中にして、その両側に白条を縦に二本引いた、小さな旗を後にたてゝゐます。
 その中の或船は、いきなりサラトガ号に横づけになり、いくら制止しても聞かないで、鎖にすがつて上り込まうとするので、水兵達は遂に槍やピストルでもつて嚇しつけて、やつと防ぎ止めた程でした。
 
  八
 
 さうかうしてゐるうちに、又別の一艘の小舟がサクスハナの艦側へ漕ぎつけて来ました。その中の一人は手紙やうのものを突き出して頻りに上艦をもとめました。併し当番の士官は飽くまで拒絶して上らせませんでした。ところが、その手紙を見ると、フランス語でかいてあるらしいので、試しに読み上げて見させますと、それは外国の船がこゝに碇泊するのは甚危険である。損傷のないうちに早く退去するがよいといふ警告でした。
 それと入りちがひに、今度はかなり上の役人らしいものがサクスハナの側へ来て、梯子を下せと相図をしましたが、艦ではそれをも全然取合ひませんでした。ペリーは支那語の通訳ウヰリアムスと、オランダ語の通訳のボートマンとに命じて、
 「長官は日本の最高の役人の外は、だれとも会はないのだから、どうかおかへり下さい。」と、支那語とオランダ語とでその役人に告げさせました。すると同じ船にゐた一人の男が、「私はオランダ語が話せます。」と、英語ですら/\言ひました。そこでボートマンはその男に向つて英語で話しかけましたが、相手は僅かそれだけの英語が使へたゞけで、あとはオランダ語でべちや/\と喋り出しました。オランダ語は非常に得意と見えて、驚くばかり早口にたゝみかけて聞くので、ボートマンには大部分は、わからなくて答へが出来ませんでした。その男が、この軍艦はアメリカの軍艦でせうね、と言つたりしたところを見ると、ペリーの艦隊の来航のことは、すでに早くから探聞してゐたものと思はれました。彼はしつつこく艦へ上げてくれろと迫りました。ボートマンは、最初に言つたことをくりかへして、
 「この艦隊の司令長官は、アメリカ合衆国の最高の官位にゐる人である。長官と同等の、極めて高位の人との外は、一さい協議はしないのだ。」と言ひ聞かせました。すると、相手は側にゐる一人の役人を指して、
 「この人が浦賀奉行の部下で与力といふ、一ばんの上役である、この人ならば長官と会見するに十分な筈である。」と言ひました。
 「ではなぜ奉行自身が来ないのです。」と聞くと、
 「それは国法によつて禁ぜられてるるからです。奉行は外国船へ出て来ることは絶対に許されないのです。」と答へ、次で、
 「それならば、この与力に相当する人に会見させてくれろ。」と言ひ出しました。
 ペリーはわざと、しばらく時間を引つぱつた後、その要求を容れて、副官のコンテイ大尉を応接員に命じ、与力と、さつきの和蘭語の通訳とを艦長室に通しました。与力は中島三郎助、通訳は堀達之助といふ名前でした。コンテイ大尉は二人を引見してペリーの命令どほり、
 「この艦隊の司令長官は、日本との平和な交際を開くための任務を帯びて、アメリカ政府から派遣された使節で、大統領から日本皇帝に捧げる国書を携へてゐる。国書の交付期日は、いづれ長官から指定される筈であるが、さしあたり、その写しをさし上げるから、相当な役人を艦隊へよこして貰ひたい。」と告げました。それに対して、与力は通訳を通して、
 「日本の国法では、外交上の事柄はすべて一さい長崎で取扱ふことに極めてある。だから、そちらへ行かれた方が早道である。」と答へました。コンテイ大尉は、それに答へて、
 「長官がわざ/\浦賀を選んで来たのはこゝが江戸に最近い港だからである。国書は必ずこの浦賀でお渡しする。どうか適当な礼儀を持つて当地でお受けとりを願ふ。」と告げ、同時に、
 「われ/\はもとより全然平和な修好を目的として来たのであるが、併し、そちらから、寸分でも侮辱がましい態度をとられるならば、われ/\も止むを得ず、相当の手段をとらなければならない。」といふことを、おごそかに言ひ渡した後、
 「第一、あんなに多数の警備船をもつて、艦隊を取りまかせてゐることは、非常な非礼である。早速解散させて貰ひたい。この正当な要求に応じてくれないならば、われ/\は容赦なく武器によつて解決するまでゝある。」と嚇しつけました。
与力はそれを聞くと、急に席を立つて舷門のところへ行き、何か命令を下しました。すると、今まで艦隊を取りまいてゐた何十艘といふ船の大部分が、どん/\海岸へ向つて引き上げました。然しまだあとに幾艘か固まつて残つてゐる船があるので、ペリーは窃かにコンテイ大尉に命じて、嚇かしのために砲をのせたボウトを一隻下させました。すると、それ等の船もこそ/\引上げてしまひ、警備船は遂に一艘の影をも止めなくなりました。

  九
 
 与力の中島と、堀通訳とはそのあとで艦を辞し去りました。中島はその際、
「われ/\には、貴国の国書を受取る受取らないの問題については、何等のお答をする資格もない。明朝われ/\よりも地位の高い人が来て、とかくの御挨拶をするはこびになるでせう。」かう言ひおいて行きました。
 ペリーは、かうしてともかく警備の船をすつかり追ひ退けたことをまづ第一の成功として満足しました。彼は日本人に対しては、すべてかういふ風にどこまでもぴし/\と出て、彼等の下手な手管や虚構を一さい刎ねつけてしまふつもりで来たのでした。これまで日本と関係をつけた外国人は、こちらから低く頼み入つて、交際や通商を求めたゝめに、日本人は威張つて、いろ/\の条件をつけ束縛したのである、自分たちは、これまでの外人の出方とは全然反対に、日本との修交を、寧ろ権利として要求する態度に出よう、そのためには、万一、日本がわれわれの国旗に対して、少しでも威圧や侮辱を加へでもしたら、容赦なく直ちに非常手段を執らなければならない、ペリーはさういふ考へから、手落ちなく戦闘準備をもしてゐました。併しそれはいよ/\止むを得ない場合のことで、無論出来る限り平和に交渉がつくことを望んだのはいふまでもありません。
 それはともかく、与力たちが去つたあとも、警備の船はもうそのまゝ引つ込んだきり、一艘も出ては来ませんでした。併し遠くから一生けんめいに艦隊の行動を監視してゐることは疑ひもありません。正午から夕方までの間には、砲台からは三四度も何かの相図の狼煙を上げました。夜になると陸上の怖れはなほ一層で、海岸一帯はもとより、山々や丘の上まで目のとゞく限り、すつかり篝火をたきつらねて、たえず半鐘を鳴らしながら警戒してゐました。その鐘ははじめは寺院の祈りの鐘かとも思ひましたが、やはり何かの相図らしく、とう/\終夜鳴らし通しに鳴らしました。陸上のさういふ仰々しい騒ぎに対して、海の上は全で山中の湖水のやうにひつそりしたまゝ、何一つ、その沈静を破るやうな出来事も起りませんでした。
 夜の九時に、サクスハナの六十四ポンド砲が時間の号砲を打ちました。それが轟然と、両側の山々に響き渡ると、陸上では非常に驚きあわてたものと見えて、今まで燃え列つてゐた篝火が一度に消されてしまひました。併し、艦隊へはそれなり何の変動も及んでは来ませんでした。そのうちに夜中になると、思ひがけない彗星が、南西の空の、地平線上十五度ばかりのところに突然あらはれて、空一ぱいが丁度光の海のやうに輝きわたりました。軍艦では,檣や甲板上のすべてのものがこと/゛\くその光りを射かへして、全で青火に燃えるやうに照り光りました。そのうちに彗星は一直線に東北に向つて走り、やがて海に落ちて影を亡くしました。それは赤い楔形の尾を引いた、大きな青い火の玉のやうなもので、尾は花火のやうにぱち/\と燃えてゐました。
 ペリーは、その光りを仰ぎながら、昔の人はこんな星を見ると、事業が成功する印だと言つて喜んだものだが、さしあたりわれ/\には、これは、われわれの今度の目的が血を流さずに仕遂げられて、永らく隠しものゝやうに閉ざされてゐた日本人を、文明国民の仲間に引き入れ得る前兆かも分らないと言ひながら、愉快さうに微笑を浮べました。

 一〇
  
 ペリーの艦隊は、夜どほし陸上から仰々しい警戒を受けながら、ともかく、何の事変もなく、浦賀での第一夜をあかしました。
 朝のあかりで見ますと、湾を見下し得る地点にはいたるところに砲台が設けられてゐるのがはつきりと見えました。ペリーたちはそれを一々、くはしく望遠鏡で視察しました。中には、まだ工事の出来上らないのもあり、変更中のもあつて、まだ大砲が一つもすゑつけてないのがいくつもありました。多くの完備した砲台も、大砲はすべて口径の小さなものばかりです。それに非常に滑稽なのは、海岸一たいと、それ等の、すべての砲台にまで、こと/゛\く、胸壁の前面にも内部にも、白条や黒条の這入つた八九丈の巾のある幕が張り渡してあることです。多分虚勢を張つて、おどかすつもりでしたことでせうが、望遠鏡や、フランス製の双眼鏡で見ると、その幕の中もすつかり手に取るやうに見えるのだから笑止です。日本人は怖らくそれには気がつかないでゐるのでせう。
 或幕の中では、真つ赤な服装をした兵士が、いろいろの武器を持つて、そつちこつちへ往つたり来たりしてゐます。その中には、種々まち/\の印のついた旗や、長い棒の先に、提灯をつけたのをかついでゐるものもをりました。海上には、例の昨日からの警護船がぎつしりと並び列なつてをり、海岸には何の意味か、赤い旗が二本、歩哨のやうに立つてをります。
 やがて日が上りました。と、間もなく一艘の小さな船が海岸から漕ぎ出して来て、旗艦サクスハナのぢきそばまで寄つて来ました。乗り込んでゐる二三人のものは、たしかに画工たちであるらしく、軍艦の見取り図を取りに来たものと見えて、みんなでせわしさうに、せつせと写生をして帰つて行きました。
 七時ごろになりますと、今度は、比較的大きな船が二艘訪づれて来ました。その一つには、五六人の役人が乗つてをり、つきそひのオランダ語の通訳を通して、町の最高の役人だから上げてくれと言ふのです。昨日、与力の中島が、奉行は国法上外国船へ来ることは全然出来ないと言つたにも係はらず、浦賀奉行の香山栄左衛門自身が出て来たのでした。(ペリーたちは、間違へてかう記録してゐますが、その当時の奉行は戸田伊豆守で、香山は中島三郎助と同じく、部下の与力といふ役人でした。)
 それはともかく、ペリーははじめから政策として日本政府の大官にでなければ会見しない決心なので、自分自身は引つ込んでゐて、艦長のブツカナンと参謀長のアダムスと副官のコンテイとの三人に命令して奉行を引見させました。奉行は、金銀の糸で縫取りをした、孔雀の羽根のやうにきらびやかな、絹の装束をつけてゐました。
 三人は丁寧に奉行たちを迎へ上げて応接しました。奉行は通訳を通して、
 「持参されてゐる国書は、日本の掟により、浦賀で受取ることは出来ない。長崎へ行かれるより外はありません。」と、それを、くりかへし/\言ひました。三人はそれに対して、長官は国書はぜひ浦賀でおわたしする予定にしてゐる、決して長崎へは行かない。もし日本政府が相当の委員を選定して、すぐに国書を受取る準備をしないならば、長官は止むを得ず、十分の兵員を率ゐて上陸し、自分自身で直接皇帝陛下に奉呈するまでゝあると、宣言しました。
 奉行はそれでは、これから役所へかへり、早速江戸の政府に使を立てゝ指図を仰ぐから、どうか四日間待つてくれと言ひます。こゝからならば、軍艦で一時間もかゝれば江戸の見えるところまで行けるのです。そんな近いところを往復するのに四日はあまりなので、それでは十二日まで三日間の猶予をさし上げるから、それまでに必ず国書受取の期日について確然たる返事をもらひたいものであると答へました。
 そのとき、丁度湾内では、各艦から一捜づつ出したボウトが、頻りに測量をしてゐました。奉行はそれを見て、あの舟は何をしてゐるのかと聞きました。海の測量をしてゐるのだと答へますと、そんなことは国法によつて禁じられてゐる、やめてくれと言ひ出しました。ブツカナンたちは、併しわれ/\は、すべてわれ/\の国法によつて行動してゐるのである、日本人が日本の掟を守らなければならないと同様に、われ/\もわれ/\の掟の命ずることに反く訳にはいかないと言つて刎ねつけてしまひました。
 次で三人は、奉行たちに、ワシントンから用意して来た、大統領の手書と、ペリー長官の特派使節としての信任状とををさめた手函を見せました。奉行たちは、その函の立派なことゝ、中に入れられたものゝ貴重さとには十分感服したらしく見えました。奉行はそのときはじめて、御入用ならばいつでも艦隊の飲料水や糧食を供給すると申し出しました。三人は、別に入用なものはないと答へ、同時に、国書の受取期日の通告を受ける、十二日が来るまでは、これ以上、何も協定をする必要はないから、そのつもりでゐてもらひたいと言ひ渡しました。奉行たちは、よくそれを了解した上、非常に感動した顔附をして辞し去りました。
 奉行が抗議を申込んだ、例の測量隊は、この日の朝から出したもので、いづれも十分に兵員を乗せ、武装も十分とゝのへてゐたのですが、なほ念のため艦砲の着弾距離以外へは乗り出さないやうに、かたく命令されてをり、その上に、万一日本人から襲はれたときに援助を送る準備として、後に見はりのボウトがつけてありました。すべてのボウトは、普通のボウト旗の外に、平和の意味をあらはす白旗を舳に立てゝ各分れ/\に進んで作業をしてゐましたが、やがて艦隊から二哩ばかりのところまで来たとき合図の大砲でよびかへされ、次で再び派出されて午後の三時にすつかり測量ををへてかへりました。
 それ等のボウトの或ものは、向うの海岸のぢき側まで近よりました。すると、そこに設けられてゐる砲台が手に取るやうに見えました。その砲台は、構造にも、さまで手がかゝつてゐない上に、位置も、軍器もまる出しに露はれてゐるので、雑作なく攻撃することが出来るのです。胸壁なぞも、藁の袋に土をつめたものを積み上げたまでのもので、附属した兵舎、倉庫等のすべての建物も悉く木造らしく、備砲も口径の小さなものが二三門すゑられてゐるだけで、併も砲眼がずばぬけて大きいために、砲身が全でむき出しになつてゐるのだから滑稽です。
 ボウトが近づくと、砲台の兵士は、非常な権幕を見せて、どん/\槍や火縄銃を持つて飛び出して来ました。彼等の漆塗の笠や楯や槍の刃が、太陽の光りを射かへしてぎら/\と光るところは、一寸凄まじい感じでした。併し断乎たる抵抗を命ぜられてゐたのでもないと見えて、ボウトが近づくにつれて、のそ/\と砲台の中へかへつてしまひました。
 或一つのボウトを指揮してゐた士官は、遂に海岸から五十間ぐらゐのところまで近よりました。すると砲台の上には、上官らしいものが三人立つてゐるのが見えたので、望遠鏡を向けて見ますと、彼等は急にびつくりしたやうに引つ込んでしまひました。多分、望遠鏡を、片眼でのぞいて何か発射でもする得体の分らない武器だと思つたのでせう。海岸には例の警護船が並んでゐました。間もなくその船の一つから、日本兵が、士官に向つて「かへれ/\」と手真似で言ひました。士官は同じく手真似で自分の近づく方向を示しました。すると、多くの警護船はすぐさま岸をはなれて、ボウトを襲撃でもしさうに非常な勢で近づいて来ましたので、士官は一同に橈を休めさせて小銃の照準を立てさせました。警護船は、あとからなほ幾艘も出て来ましたが、ボウトが、十分武装をしてゐるのを見て躊躇したらしく、いづれも遠くから見はりをしてゐるまゝで、それ以上に追跡しては来ませんでした。
 翌十日は日曜で、各艦では定例の祈祷式を上げました。この朝、横条の這入つた旗を立てた、一艘の小船がサクスハナへ漕ぎ寄つて来ました。その中には聡明な顔附をした、品威のある役人が二三人乗つてをりました。彼等は同伴して来た通訳をとほして、少しお話ししたいことがあるので、ぜひ艦へ上らせていたゞきたいと、礼儀正しく、懇請しました。併し、ペリーは、昨日も、参謀長から、香山栄左衛門に告げさせたとほり、十二日までは、何人とも会ふ要はないので、士官に命じて、丁寧にことわつてかへしました。
 さういふ間にも陸上では一生けんめいに、沿岸の防備にかゝつてをりました。或砲台では、きら/\する楯や、長い槍なぞを持つた兵隊が、ごた/\往き来をする中で縞の布でこしらへた、見かけ倒しの偽せものゝ大砲を運び込んでゐるのもあるし、他の砲台では、備砲を艦隊へ真正面に向け直したりしてをります。夜になると、海岸や丘の上には又どんどん篝火を点し列ねました。

 一一

 三日目の十日の晩も、陸上のさわぎに引きかへて、海上へはやはり何の変動も伝はらず、艦隊は極めて平和に安息日の一夜を送りました。
 翌十一日の早朝、ペリーは、蒸汽艦ミツシツピイの擁護の下に、一隊のボウトを、測量のために江戸湾へ派遣しました。特に、ミツシツピイをつけて出したのは、護衛と同時に、かういふ威力ある軍艦が江戸の近くまで乗り込んで行つたら、日本政府の役人たちもびつくりして、ペリーの要求を入れるかも分らないといふ、嚇かしの意味もあつたのです。ボウトは前日のとほり、各艦から一艘づゝ出し、ベトン中尉が指揮官になつて、長官の命令どほり、艦隊からの信号距離を出ない限り、出来るだけ深く湾内へ這入るつもりで出かけました。
 それを見ると陸上では非常に愕いたらしく、忽ち千人以上の兵がどん/\東海岸へくり出して、大急ぎで船に乗り、どん/\ボウト隊のあとを追つかけて行きました。それから間もなく浦賀奉行の香山栄左衛門があわてゝ軍艦へやつて来ました。彼は表向は、明日国書を──つまり国書の写しのことでせうが──当地でそれを受取つて江戸へ廻すことになつたから、一寸知らせに来ました、と挨拶しましたが、その実は軍艦を江戸湾へ向けたのは何のためか、それを確かめに出て来たので、間もなく本音を出してまともに聞き出しました。ペリーは、コンテイ副官をとほして、それは、もしわれ/\が来航した用件が一度で纏まらない場合には、止むを得ず、もう一度、今度は多数の大艦隊を率ゐて江戸近くの海岸へ来り、直接江戸政府と交渉するつもりなので、その場合の碇泊地を選定しておく必要があるからだと、大きく威嚇してかへらせました。
 出発した測量隊は、やがて、艦隊から十哩、十二哩のところまで進入しました。追跡して来た多数の警護船からは引きかへせ/\と手を振つてよびとめました。その中の三十艘ばかりは、隊の行手を遮るつもりなのか、ボウト隊に平行して真直に進んで来ます。先頭に立つてゐたベトン中尉は、全員に命令して、橈を休めて小銃に着剣させました。併し日本船はそれにもひるまず、なほどん/\進んで来るので、中尉は事変の突発を防ぐために、わざと隊の進路を少しわきへ振り向けておき、一艘のボウトを護衛のミツシツピイ号へ急派しました。ミツシツピイは二哩ばかり後についてゐたのですが、そのボウトからの信号により、急いで隊に追つついて来ました。日本船は、この大きな蒸汽船が近づいたのに怖れて衝突を控えたので、隊はゆう/\と測量を続け、最後に、例のとほり艦隊からの相図の号砲によつて、無事に引きかへして来ました。
 この日も多くの漁船は、艦隊のぐるりを平然と往来しました。彼等はたゞ物珍しさうに、じろ/\と艦を見上げて通りすぎるのみで、一向何の怖れも敵意をも感じてゐない容子でした。艦隊のすべてのものは、日本政府の明日の回答を、気遣ひと興味とを持つて待ち受けてをりました。
 明けると、いよ/\指定された十二日です。その朝九時過ぎに三艘の船が海岸をはなれてサクスハナへ向つて来ました。それ等の船は、これまで見た純日本船とは違つて、どこか欧羅巴式を取つて造つたかと思はれるやうな形をしてをります。その中の一ばん大きな一艘には三十人ばかり、他の小さい二艘にはいづれも十二三人づゝ乗り込んでをりました。間もなく、先頭に立つてゐる一ばん大きな船の胴の間の莚上のに、例の香山栄左衛門が立派な絹布の装束をつけて、通訳や従者と一しよに、坐つてゐるのが見えました。栄左衛門の乗つてゐる船は、他の二艘を、かなり遠いところに残しておいて、ひとりでサクスハナの艦側へ横づけになりました。
 香山は、一等通訳の堀達之助、二等通訳の立石得十郎と共に、すぐに艦上に迎へられ、交渉委員のブツカナン艦長とアダムス参謀長とが対応しました。香山は通訳を通して、貴国の国書は一両日のうちにお受取する筈で、目下、長官と随行員とのために海岸へ接待館を建てゝをります。応接委員も皇帝陛下から特命されてをりますと挨拶しました。(皇帝といふのは将軍のことを、ペリーたちが誤解してゐたのです。或は通訳たちが、将軍を皇帝と訳したのかも分りません。)
 香山はそれに附け足して、
 「そんな次第で国書は受け取りますが、それに対する返答は、当地でさし上げることは出来ません。いづれ長崎へ廻送して支那人又は、和蘭人の手を経ておわたしすることになるでせう。」と言ひました。
 交渉委員は香山に向つて、貴下の言はれるところによると、貴下は第一に、国書の受けわたしについて非常な誤解をしてゐられる、われ/\は、国書をお渡しするまへに、まづ相当の地位の人にその写しをわたし、その後で、日本の最高の官位の人に原本を手わたしするといふことを、かねて貴下にもはつきりと言つておいたのである、国書の原本は、われ/\が承認し得る高官のほかへは決して渡すことは出来ないのであると、重ねて説明した後、長官室へ行つてペリーに、香山の挨拶を報告しました。ペリーは直ちに次のやうな抗議書をかきました。委員はそれを和蘭語に訳させて、しづかに奉行に説き聞かせました。抗議書の内容は、
 「われ/\は絶対に長崎へ行くことは出来ません。返答は、外国人の手を通さないで、直接、日本の官吏から当地で受け取ります。国書は皇帝陛下か、又は外務の上長官以外には何人にも交附することは出来ません。国書は、われ/\の大統領が日本皇帝と日本人とに向つて友情を交換する以外に何等の意味もないのです。その国書が適当の方法で受取られない場合、又は受取つても何の回答をも与へられないときには、われ/\はこれをもつて、われ/\の国家が侮辱されたものと解釈します。従つてその結果いかなることが出来ようともわれ/\には一さい責任はないものとお考へありたい。以上に対する回答は、両三日中に、必ずこの碇泊地点又は、その附近の場所で受け取ることにします。」と、かういふ意味のものでした。
 奉行はそれでは、ともかく、午後再びまゐつて御挨拶をしますと言ひおいて退艦しました。浦賀の奉行役所には、彼以上の役人が出張してゐて、一々交渉の指図をしてゐるらしく、香山はその上役と相談するために帰つたものと思はれます。この会見は三時間にもわたりましたが、相互の応対は極めて平和のうちにはこばれました。香山が辞し去つたのは午後の一時でした。この日は陸上も至つて平静で、砲台でも何等の活動もせず、警護船もみんな海岸に繋がれたまゝでをりました。
 奉行は約束どほり午後再び旗艦へ出て来ました。ペリーはやはり例のとほりに引込んでゐて、ブツカナンとアダムスと、コンテイ副官とに応接を命じました。交渉委員と香山とは次のやうな対話をとりかはしました。
香山「お言葉のやうに、国書の原本と謄本とを別々に受取るとなると、非常な時日を費すわけですが、貴下のお計らひで、同時にお渡し下さるやうにしてはいたゞけませんか。」ブツカナン「それは出来ません。」
香山「最初にはすぐに国書をお渡し下さると仰つた筈ですが、今になつて謄本だけを先にわたすとお言ひになるのはどういふ訳でせう。」
ブツカナン「いゝえ、私ははじめから貴下に同じとほりを申しておきました。謄本と長官の手紙とを、先づお渡しすると申したのです。その謄本と手紙とを受取られる人は、必ず皇帝の信任を受けて来られるのでせうね。」
香山「はい、信任をうけてまゐります。」
ブツカナン「何かその証拠を見せて下さいますか。」
香山「はい証拠を持つてまゐります。」
 こゝでブツカナンとアダムスとはペリーと協議をするために長官室へ行きました。そのあとで、
副官「謄本と長官の手紙とはいつお受取りになるのです。」
通訳「明日か明後日かです。」
副官「接待館はどこにお建てになりました。」
通訳「海岸に。」
副官「こゝから見えますか。」
通訳「いえ、見えません。」
副官「こゝからは見えないのですね。」と再びくりかへして聞きますと、
通訳「山の向う側ですから、ほかのところからならば見えます。」
 このときブツカナンとアダムスとが再び出て来ました。
ブツカナン「たゞ今、長官と相談をしてまゐりましたが、長官のいはれるには、貴下は国書の受けわたしについて全然誤解をしてお出でのやうである。けれどもし貴下が、われ/\の要求するとほりの高官が国書受取委員に任命されてゐるといふ明瞭な証拠を見せて下さるならば、われ/\が先に言つたことは取り消して、貴下の希望どほり、国書の原本と謄本とを、同時におわたしすることにしてもかまひません、長官はかう言つてをられます。」
香山「本来外国の書翰は、長崎で受取る規定になつてゐるのですが、それを特に当地で受け取るのです。その代り委員はたゞそれを受取るだけで、何事も商議をすることは出来ません。」
ブツカナン「いや、たゞ国書を受け取つてさへいたゞけばいゝのです。委員は軍艦へ来られるおつもりですか、それとも陸上でお受取りになりますか。」
香山「陸上で受取ることになりますでせう。」
ブツカナン「それでは、そのまへに、皇帝の信任状をオランダ語に訳して長官の手もとへお送り下さい。」
香山「委員はたゞ国書を受取るだけで、商議する権限は与へられてをりません。」
ブツカナン「いえ、何も商議する必要はありません。たゞ皇帝の捺印ある信任状だけは、ぜひお見せ下さる必要があります。」
香山「それは、相当の捺印ある書状を持つてまゐります。委員は、明日江戸から出張してまゐる筈です。」
ブツカナン「何時に?」
香山「朝の八時に着くはずです。まゐりましたら知らせに上ります。」
ブツカナン「その際には、委員の信任状と、オランダ語に訳した訳本とを必ず御持参下さい。」
香山「承知しました。──それで、大統領の国書に対する皇帝の返事はすぐでなくてはいけませんか。」
ブツカナン「いえ、すぐでなくてもかまひません。」
香山「では、長官は、いつ、その返答を受けとりにお出ででせう?」
ブツカナン「二三箇月の内に、再びこゝへまゐります。」
通訳「委員は、国書を受取りませば、その証拠の受領書をさし上げる筈です。」
ブツカナン「接待館はあまりかけはなれてゐるので、ボウトで行くのに不便ですが、もつと、この碇泊地点に近いところへ移して下さるわけにはいきませんか。長官は、たゞ天幕張りの中でも、又は砲台の中でも満足して会見します。その会見にも長い時間は取りません。」
通訳「接待館はさう遠くはありません。日本の里数で一里近くのところです。」
ブツカナン「貴下の計らひで、もつと近くにして下さることは出来ませんか。」
通訳は香山と相談して、
通訳「奉行は一応取計つて見ようと言はれます。」
ブツカナン「その結果を、明朝知らしてくれませんか。」
通訳「畏りました。」
 協議はこれで終りました。ブツカナンはその後で香山以下を別室に案内して丁重に饗応をしました。その間、栄左衛門も附添の通訳二人も非常に好機嫌で、接待役の士官たちを相手に、垢ぬけた応待を見せました。飲料の中ではウヰスキーとブランデーとが一番気に入つたやうでした。殊に奉行はそれが非常に好物らしく、砂糖を入れては、ぐい/\と飲み干して、しきりに舌をならしました。そして、いろ/\とおしやべりをしました。通訳の一人は、奉行が酔ひはじめたのを見て、
 「ずゐぶん赤くなりましたね。」と、懸念さうに言ひました。併し、奉行は、しまひまで、ちやんと紳士の態度を崩さないで、至極社交的に、自由に談笑しました。
 彼等は語学上では、オランダ語、支那語に上達してゐる以外に、科学やそのほかの一般の智識にも、一ととほり通じてゐるのには、士官たちも内々愕きました。一士官が地球儀を持つて来て見せますと、彼等は早速合衆国に目をつけて、ワシントンとニユーヨークとを指しました。この二つの都会が一方は政治上の首府であり、一方は商業の中心地であることをばちやんと心得てゐる様子でした。それから、英、仏、デンマークその他、欧羅巴の主な国々をも雑作なく見分けました。それから西洋の文明についていろ/\の質問をし、鉄道は山を掘りぬいて架設してあるのか、汽車の機械と汽船の機械とは同じものか、又、地峡を通る運河はまだ出来上らないかなどゝ聞きました。運河といふのは、怖らくパナマ鉄道のことを言つたものらしく、ともかく大西洋と太平洋とを聯絡する工事が進行してゐることをちやんと知つてゐるのでした。 
 やがて饗宴も終り、話もすんだ後、ブツカナンは奉行と通訳とを案内して、艦内をすつかり巡覧させました。甲板に出ますと、士官や水兵たちは、日本人を見たがつて、ぞろ/\と三人のまはりを取りまきました。それでも三人とも少しも狼狽へないで、平和な、しかも威厳のある態度を保持してゐました。三人とも、艦内のすべての構造や、設備を注意深く視察しました。併し、はじめて蒸汽船を見る人としては、機械やその他の仕かけについて一向びつくりしたやうな容子も見せませんでした。中でも蒸汽機関を一番興味を持つて見ましたが、通訳だけは、その機関の原理を全然知らなくもないやうでした。
 彼等は、午後の七時過ぎまで艦にをりました。しまひに、三人とも、いづれも、威厳のある中に、にこ/\と愛嬌ある微笑をもらしながら、一歩ごとに辞儀をして、下りて行きました。
 あとで見ますと、奉行たちは、刀を三本、船室におき忘れて行きました。そのうちの二たふりは、いかにも身分ある人が帯用するらしい刀で、実用よりも寧ろ装飾品らしいこしらへでしたが、引きぬいて見ますと、刀身は、質も鍛へも申分のない立派なもので、全で鏡のやうにきら/\と磨き立てゝありました。鞘は鮫の皮で手際よく作つてあり、純金のかざりがついてをりました。
 艦上では、以上のやうな行きさつがありましたが、その間、長官の命令によつて派出されたボウト隊は、やはり終日忙しく測量と視察とを続けました。
 明けると七月の十三日です。ペリーたちは早朝から、香山が昨日の返事を持つて来るのを、今か/\と待つてをりました。併し彼はとう/\午前中には出て来ませんでした。陸上ではどうしたわけか多数の船が浦賀の町の対岸からどん/\兵隊を乗せて町の方へ運んでをります。その中の一番多きな或船には政府の旗印らしい仰々しい旗を押したてゝゐました。

 一二

 七月十三日には、いよ/\国書受渡しの日取について日本政府からたしかな返事が来る筈なので、ペリーたちは、その日は朝早くから待ちうけてをりましたが、使の香山栄左衛門は、やつと午後の四時になつて、二人の通訳をつれて出て来ました。例により、ブツカナン、アダムス両大佐と、コンテイ大尉とが引見しますと香山は、貴使節への応接委員が、今やうやく江戸から着いたやうなわけで、返事がおくれてすまなかつたといふことを、丁寧に言ひわけをした後、皇帝から発せられた、二人の応接委員の信任状を見せました。そして、貴国の国書は、これ等の委員によつて、明日の午前中にお受けとりすることに極りましたと確言しました。その信任状には、皇帝のだといふ印が押してありました。
 次に香山は、御希望のやうに、接待館を、もつと近くへ移すことを、懇々願つて見ましたが、最早、建物も殆出来上つてゐるために、許しが下りませんでしたと挨拶し、その代り艦隊は使節が上陸される地点への着弾距離以内までお入れになつても差支へありませんと附け足しました。接待館の移転については、どうせ、さういふ返答をするだらうとは、こちらでもかねて予想してゐたことでした。
 その後で香山は、明日使節は、随行員を幾人つれてお出でになるのかとたづねました。ブツカナンたちは、以上のすべてをペリーに伝へました。ペリーは、香山の問ひに対しては、われ/\の習慣上、大統領が直派する使節には、多人数の随行者がつくのが極りであるし、それに今度の場合ははじめて国書を提出するのだから、不穏当でない限り、多くのものを随伴して出向ふだけ、貴国に対して一層の敬意を表するわけにもなるので、出来るだけ多数の士卒を率ゐて上陸するつもりであると答へさせました。
 香山は、それを聞いたのち、明日会見の際には、すべての役員は、特別の大儀式のときにだけ着用する、第一ばんの礼装をして列席する筈ですと、得々として言ひましたが、その言葉のすぐあとでは、ただ困ることは、あなたがたに着席していたゞくのにかういふ肘かけ椅子なぞが日本にないので甚だお気の毒に思つてをりますと、きまり悪さうに言ひながら、自分たちの与へられてゐる応接室の椅子を、羨ましさうに見廻しました。それから、おもてなしをするにも、日本には昨日われ/\がいたゞいたやうなブランデーなぞといふ酒がないので、その点もどうか御勘弁を得たいと、いろ/\饗応の点についても苦心をしてゐるらしくかう言ひました。アダムス参謀長たちはそんな御心配は一さい御無用です、国々によつて、いづれも習慣が違ふのですから、万事あなたがたの礼儀どほりに取運んで下さればよいのです、たゞ、われ/\の使節の席を、日本の最高委員と同等にしてもらひ、以下それ/゛\の随行員も、それと対等の日本の役員と同席につけて下されば十分ですと答へました。
 日本の主席委員は戸田伊豆守といふ高官だといひます。香山は、国書は使節がその伊豆守へ直接におわたしになるか、又、渡されたならばすぐに帰艦されるおつもりか、国書に対する皇帝の返書は、いつ受取りに来られるのかと聞きました。それに対してアダムス参謀長は、ペリーの命をうけて、それ/゛\答へをしました。返書はこのまへにも言つたごとくいづれ二三箇月のうちに、再び来訪して受取るつもりであると答へました。
 以上の会見は、すべてゞ二時間半続きました。ペリーはその間に、急いで、測量ボウトを出して、接待館の附近一帯の模様をくはしく視察させました。万一にも日本人が、使節の上陸について、何か陰謀でもめぐらしてゐるらしい形跡があるならば、それに対して十分の用意をしなければならないからです。ボウトは帰つて来て、接待館の近傍では、多数のものが建築や、造作の持ちはこびにせつせと働いてゐる以外に、別に怪しむべき点もないと報告しました。
 香山は、間もなく、夕方ごろになつて、例のやうに、礼儀正しく一歩ごとにお辞儀をしながら辞し去りました。立つて行くとき一等通訳の堀達之助は、「それでは帰宅いたします。」と、はつきりした英語で言ひました。堀は外国語に対しては非常な才能を持つてゐるやうでした。
 ペリーは、その後ですぐに各艦長を招集して、日本がわざ/\浦賀の町をはなれた、あゝいふ場所へ接待館を作つた意味が、どうもはつきり分らないので、明日の上陸については十分警戒をしなければならないといふことを告げ、そのためには、第一に、明早朝、艦隊の碇泊位置を、接待館の正面の、着弾距離以内へ移すこと、次に、上陸のさいには出来るだけ多数の士卒をくり出すやうに命令しました。
 その晩、接待館では、夜どほし一生けんめいに建築の仕上げにかゝつてゐたと見えて、労働者たちのさう/゛\しい声や、金槌の音なぞが、とう/\夜明け方まで続いて聞えました。その間浦賀の港からはやはり、明日の準備に往来するらしく、多数の警護船が引つきりなしに出這入りしました。
 明けると七月十四日(嘉永六年の六月九日)です。この日は、夜明け前には、霧と雲とが低く陸地一帯にかゝつてゐましたが、やがて日が上るにつれて、それがすつかり消え去つてしまひ、空も麗かに晴れわたりました。浦賀の海岸を見ると、晩のうちに全で見違ふばかりに装飾されてゐました。皇帝の紋らしい、赤い葵の紋を染めた幕が到るところに張り廻され、その上から、派出な色でさまざまの紋をかいた旗や、長い流れ旗なぞがどつさり覗いてをります。その一めんの幕の蔭には兵隊がぎつしりと居列んでゐるのがはつきりと見えました。
 艦隊では早くからすべての準備に取りかゝりました。士官や兵卒は、だれもかれも、こぞつて今日の随行を望んでゐるのですが、あとにも必要な兵員が残らなければならないので、不公平のないやうに、すべて三百幾名の士卒を籤で選び、それを随行員に指定して、それ/゛\大礼服や制服に着換へさせました。
 八時少し前に、蒸汽機関のサクスハナとミツシツピイとは、前後して錨を上げて、黒烟を長く引きながら湾を下り、徐かに、接待館のある、久里浜の前面に移り向ひました。風がないので、帆前船のプリマスとサラトガとは、止むを得ずあとに残つたわけです。
 出かけた二隻の艦隊は、間もなく、浦賀と久里浜とを隔てゝゐる、或一つの岬を廻りました。それと同時にそちらの陸上の準備がすつかり目のまへに見えて来ました。そこにも浦賀と同じやうに、海岸には一面に皇帝の紋の這入つた幕を引き廻し、同じくいろ/\の紋を染めた多くの旗が、九本の高い幟と一しよに、朝日の光の中にきら/\と輝いてをります。九本の幟からは、真赤な巾の広い小旗が長く垂れ下つて、殆ど地面まで届いてをりました。
 それ等のけば/\した旗や幕を背景にして、多数の兵士が列をつくつて並んでをります。これは怖らく日本の兵力の一部分を見せつけて、アメリカ人を威しつけようといふつもりなのでせう。その浜の左手には、ぢき後の丘との間に、屋根の尖つた家がはなれ/゛\に一と群を作つてをります。浜の右手には五六百以上の日本船が、いづれも赤い旗をひるがへして、海岸に沿うて平行に列んでゐます。接待館は海岸から少し引つ込んだところに、三角形の屋根を一段高く三棟並べて立つてをりました。
 それ等のすべての光景は、全で、珍らしい絵を見るやうに華やかで愉快でした。きら/\輝く槍や楯をつらねてゐる兵士たちの隊列さへも、アメリカ人には、寸分の畏怖を与へないばかりか、寧ろ、お祭の飾りのやうな賑やかみを附け加へてをりました。
 間もなく艦隊が接待館の正面の海上に錨を下しますと、例の奉行の香山栄左衛門が二人の通訳をつれて出て来ました。続いて与力の中島三郎助も他の一人の役人と一しよにやつて来ました。当番の士官はそれ等の人々を丁寧に迎へ上げて上甲板へ案内しました。いづれも、これまでの身なりと違つて立派な錦襴の装束をつけてをります。特に中島の如きは、こつてりと化粧をさへしてをりました。併しせつかくの、さういふ装束も、ペリーたちに対しては、却つていつもよりより多くの苦笑をいざなふばかりで、一向何等の嘆賞をも買ひ得ないのは気の毒でした。実のところ、彼等のその外見は、丁度トランプの兵隊をでも見るやうに滑稽でした。
 そのうちに、サクスハナから、ボウト下せの信号が上りました。それから三十分ばかりたちますと、十五艘の大小のボウトが、殆全部の随行員を乗せて出発しました。先頭の大型のボウトには、サクスハナの艦長ブツカナンが乗り込んで指揮を執つてをります。そのボウトの両脇には、香山の乗つてゐる船と、中島の船とが一艘づゝついて案内をして行きます。それ等のボウト隊が、見る/\うちに海岸との中間まで進みますと、サクスハナは、長官の出発の相図として十三発の号砲をうち出しました。その砲声はどゝん/\と、海上と山々とに轟き響きます。長官はその中を、大型のボウトに乗つて進みました。
 そのときサクスハナと、ミツシツピイの両艦では、とくに甲板をすつかり取り片づけ、いざといへばすぐに戦闘に移れるやうに準備が出来てをり、数隻のボウトに、それ/゛\榴弾砲をつみ込んで、万一日本人が上陸員に向つて敵対行為を執るならば、直ちにそのボウトを下して、日本兵の全面へ、榴弾を雨霰のごとくに浴びせかける用意がしてありました。
 使節以下の上陸地点は、入り込んだ浜の、およそ中程あたりのところで、そこには、水際から土俵を突き出して、間に合せの波戸場が造つてありました。ボウトが着くとブツカナン大佐がまづ第一番にその波戸場に上り、続いて百幾名の水兵たちが上陸して波戸場の両脇に、海に面して整列しました。そのあとから又百幾名が上つて来、次に二た組の軍楽隊が上陸して、すべて、三百名近くの士卒が揃ひました。僅これだけの人数ですが、平時としては十分の威力である上に、各人が、日本兵に比べると著しく偉大な体躯をしてゐるので、日本人に向つては、その点だけでもかなりの威圧になつた筈です。
 奉行は、駐屯してゐる日本兵の総員を五千人だと言ひましたが、実際について見ると、明らかに五千よりも遥かに多数です。海岸一帯は勿論、村のはづれから北方の丘の中腹へかけて、公然と集り列んでゐる外に、その列の後に、ずらりと引きわたしてある幕の後にも多くの兵が隠れてゐるのが見えました。併しどの部隊にも秩序らしい秩序がついてゐないところを見ると、あまりよく訓練された兵隊とも思はれません。いづれも普通の日本服を着て、おの/\てん/゛\に槍や刀や火縄銃を持つてをります。その外に村の遥か後方には、予備隊らしい騎兵の大部隊が控へてをりました。それ等の馬には、いづれも、けば/\した馬衣が着せてあるので、丁度お祭の騎者行列を見るやうな遊戯的な美観を添へてゐます。以上のすべての隊列の後には、丘の上といはず麓といはず、どこにもかしこにも土地の人民が蟻のやうに群つて、固くなつて見物してをります。その中には女たちもちよい/\交つてをりました。
 最後にペリー長官が上陸しますと、香山栄左衛門と通訳とが立ち迎へて先導しました。列の一ばん真先には、全艦隊中から選抜した、最力のつよい水兵が二人、それ/゛\合衆国の国旗と軍艦旗とを捧げて進んで行きます。その次には、礼装をした二人の給仕が、大統領の親書と、ペリーの信任状と、ペリーから皇帝に捧げる書簡とを入れた函を持つて続き、ペリーはその後から、丈のずばぬけて高い屈強な黒人を両側に一人づゝ護衛につけて、すべての随行士官を従へて進みました。
 接待館は波戸場からぢきでした。そこまでの通り路の右側には、白い鉢巻をした兵隊が小銃と火付道具とを持つて列んでをり、左側には鳶色の汚ならしい制服に、旧式の火縄銃をかついだ兵が堵列して、長官の護衛に当つてをります。接待館の前には、たしかにヨーロツパで鋳造した、小さな黄銅の大砲が二門すゑてあつて、その側に、普通の兵とは全然ちがつた、異様な服装をした、一群の番兵が附いてをりました。ペリーたちは随員と一しよに、ずんずん館内に導かれました。入口の間は七間四方ぐらゐの、天幕のやうなこしらへで、葵の紋を染めぬいた幕が三方に引きまはしてありました。大急ぎで建てた印に、柱や梁には、いろ/\の符牒の焼印なぞがそのまゝ喰つついてをりました。
 その次の間が、国書受けわたしの儀式の行はれる接待室です。そこは床の一段高い三間四方くらゐの広さの部屋で、畳じきの上に赤い毛氈がしきつめてあり、まはりには、白く葵の紋を抜いた紫色の幕が、入口のところだけ空けて、ぐるりと張りわたされて、そのまへに金の屏風が立て並べてありました。
 長官が随行員たちと一しよに、その接待の間へ這入りますと、左側に腰をかけてゐた三人の役人が立ち上つて低く辞儀をしました。長官と随行の士官とは、右側の椅子へ順々に着席しました。左側の上席には、長官と向ひ合つて、首席委員の戸田伊豆守と、次席の伊藤石見守とが坐りました。伊豆守は怖らく五十前後でせう。容貌のすぐれてきれいな、愛矯のある人物でしたが、石見守の方は、年も十か十五も上らしく、汚ならしい皺だらけの老顔です。どちらも金や銀の糸で縫ひとりをした、非常に立派な錦襴や繻子の装束をつけてをります。二人は長官が這入つて来たときと、後に退出するときとに立ち上つて辞儀をした以外には、まるで銅像の如くに、きちんと姿正しく坐つたまゝ、最後まで身動き一つしませんし、口をも一と口だつて聞きませんでした。
 長官と彼等との中間には朱塗の大きな函がすゑてあります。香山栄左衛門と通訳二人とは、長官たちが席につくと同時に、その函の前に跪坐しました。
 しばらくの間、ペリー以下も日本人側も、すべて一語も発しないで、しいんとおし黙つて坐つてゐましたが、やがて一等通訳の堀がペリー側の和蘭語の通訳ボートマンに向つてはじめて口を切り、われわれの委員には、すでに国書を受取る準備が出来てゐます、おわたし下さる用意は出来てをりますかと聞いた後、上坐の中央に備へられた例の朱塗の函を指して、あれが貴国の国書をお受けするための函です。あの上へおのせ下さるやうにと言ひました。
 長官はそれを聞くと、下坐に控へてゐた二人の給仕たちに向つてうなづきました。給仕たちは、すぐに函を捧げて進み出ました。ペリーの両側について来た、例の黒奴は、その函を受け取つて蓋を開き中の文書を取り出して、それをひろげて文面や印章がすつかり見えるやうにした上、日本側で用意した朱塗の大函の蓋の上におきました。
 次にボートマンは、堀に向つてその国書と信任状との性質を説朗しました。その間香山と堀とは跪いたまゝ頭を下げてをりました。説明がすむと香山は石見守の前に近づいて跪き、石見守から巻いた手紙やうのものを受け取つて、それをペリーのところへ持つて来てやはり跪いて渡しました。通訳のボートマンが、これは何のための手紙かと聞きますと、国書の受取書だと堀は答へました。その大体の文意は「亜米利加合衆国大統領閣下の書翰と、それに添へられた書面とを、確かに受取りました。早速皇帝陛下へ奉呈の手続きをします。元来浦賀は外国との交渉事件を取扱ふ場所でないので、規定のとほり、長崎へ行かれるやうにと、幾度も諭達したのであるけれども、使節は、国書が浦賀で受取られない場合には、使節としての使命を辱め、大統領に対して責任が果せないとのことなので、今回だけは、その苦衷を察し、敢て国法を枉げて以上の書面を当地で受取る次第である。こゝでは、これ以上に何等の協議も饗応をもすることは出来ない。国書をわたされた上は、すぐに艦隊を率ゐて退去されることを希望します。」と、かういふ意味のものでした。
 ペリーはしばらく沈黙した後、ボートマンに命じて、われ/\は二三日のうちに日本を出発して、琉球から広東へ航海し、来年四五月ごろ、再びこちらへ来るつもりであると告げさせました。堀はボートマンに、もう一度言つてくれと言ひます。ボートマンは、再び前のとほりをくりかへして答へました。すると堀は、この次も四艘の軍艦で来るのですかと聞きました。ペリーは、それに対して、今度つれて来たのは艦隊の一部に過ぎません。来年はずつと多数の軍艦を揃へて出て来ます、と答へさせました。
 香山と堀とは辞儀をして立ち上り、国書以下の文書を朱塗の函に入れて紐を結びました。そして、ペリーに向つて、「これですつかりすみました。」と挨拶をし、ペリーたちと、日本委員たちとに対して、代る/゛\辞儀をして部屋を出て行きました。

 一三
 
 問題の国書受渡しも、前述のやうなわけで、僅々三十分足らずのうちに儀式正しく、円満に取りはこばれました。奉行の香山栄左衛門と、通訳の堀達之助が頭を下げて接待室から引き下りますと、ペリー以下も同時に席を立ちました。応接委員の戸田伊豆守、伊藤石見守も、それと一しよに立ち上つて、ペリーたちの一行が部屋を出るまで、相変らず、むつつり押し黙つたまゝ、棒立ちに突つ立つて見送りました。
 ペリー以下は接待館の入口に彳んで、迎へのボウトが来るのを待つてゐました。さうすると香山と通訳が出て来て、ペリーの随員に、何を待つてゐるのかと聞きました。随員はこれ/\でボウトを待つてゐるのだと答へました。話はそれだけで終り、間もなくボウトが来たので、ペリー以下はそれに乗り組みました。
 すべてのボウトは、来がけのときと同じに列を造り、今度は軍楽隊に国歌を吹奏させながら、堂々と引き上げてかへりました。香山と与力の中島三郎助とは、それ/゛\通訳をつれて二艘の船に分乗して送つて来ました。
 ボウトが帰り着きますと、香山、中島以下は、ブツカナン艦長とコンテイ副官とに迎へられて船室に上つて来ました。栄左衛門は、
 「すべてが滞りなくすみまして非常に喜ばしい次第です。」と、にこ/\して挨拶しました。ブツカナンは、それに対して、
 「われ/\はこれ機会として、日本と合衆国とが永久の友邦となることを切望します。」と答へました。なほ、二人の間には次のやうな対話が換はされました。
 「それでいつ御出発になります。」
 「二三日のうちに出帆します。長官はこれまでの碇泊地が不十分なので、江戸湾の中に碇泊所を探しに出かけるつもりでゐます。」
 「出帆までに他のところへお移りになるのですか。」
 「出発の用意が出来るまで、たゞ二三日の間、江戸湾の一地点に碇泊するだけです。」
 「それでは、これを公然のお分れといたしませう。さうすれば再びお邪魔に伺はないですみますから。」
 「いづれ又、数箇月後には再びお目にかゝりませう。長官は、今回は皇帝へ献上するものを何も持つてまゐりませんでしたが、この次にはいろ/\の贈り物を持つてまゐります。蒸汽機関車、つまり鉄道用の機関車もその一つとして奉呈するつもりです。」
 コンテイ副官はそのあとへ附け足して、
 「それから、浦賀から江戸まで通じるやうな、長い電信機をも献上します。それを使へば江戸と浦賀とで、一分間のうちに話しが通じます。」と、言ひました。
栄左衛門「蒸汽機関車は一時間にどのくらゐ走りますか。」
コンテイ「蒸汽だけの力で日本の八里ぐらゐ走ります。合衆国では、一時間十八哩走る快速な河蒸汽船もあります。」
栄左衛門「蒸汽船は最初どこで発明されたのですか。」
コンテイ「フアルトンといふ亜米利加人が、紐育で発明したのです。」
 話はそれですみました。次でブツカナンたちは、香山等に、ついでだから機関の運転を見て行つてはどうかとさそひました。彼等は喜んでそのまゝ艦上にとゞまりました。ブツカナンは、香山たちの乗つて来た二艘の船を綱で艦の後部につながせ、早速錨を上げさせて、もとの碇泊地に向つて引き帰しました。
 
 一四
 
 栄左衛門たちは、それと同時に機関室に案内されました。
一たい日本の役人たちは、どんな珍らしいものを見ても冷然とかまへてゐるのが常ですが、香山たちは運転してゐる機関の各部を興味深さうに詳細に視察して、蒸汽といふものゞ性質と、それによつて機械が動き、車輪が廻転するまでの理屈をやすやすと会得したらしく、代る/゛\いろ/\穿つた質問を発しました。
 彼等はつゞいて、艦内を残らず見て廻りました。そのうちに、香山は、士官が腰につけてゐるピストルに目をつけて、その組立てを見たいから解体して見せてくれと言ひました。一人の士官は、それに応じて構造を見せた後、ためしに海上に向つて発射して見せました。香山等は、六発の弾が、つゞけさまに自動的に飛び出したのにはびつくりしたやうでした。
 すべての見学中、香山はどちらかといへば、寧ろ控へ目にしてついて廻りましたが、中島三郎助は非常にあつかましい出しやばりもので、絶えず騒々しく振るまひ、うるさく物を聞きほじる上に、案内もされないところへづか/\首を突込んで見たりして全で探偵をでも働くやうな、下等な態度を見せました。
 間もなく汽笛がけたゝましく鳴り響きました。艦が浦賀にかへりついた信号です。香山たちは、もつとゆつくり見て廻りたいところを、あまりに早く着いたので、びつくりもし、残念がつて、そは/\と下りて行きました。
 
 一五
 
 彼等が去つたあとで、ペリー以下すべての乗組員は、いづれも、日本委員との会見が平和に片づいたことを、衷心から祝し合ひました。こんなことは文明国相互の間では何でもないことですが、今度の交渉は相手が永らく閉鎖主義を押しとほして来た国なのですから、艦員一同が得意がつたのも無理もないことです。
 今日の国書に対する受領書の中には、「敢て国憲を枉げて」といふ、注意すべき言葉が挟まれてゐました。これはあきらかに、日本がこれまでの対外的態度の誤りを悟つて、今後は一さい下らない偏見を捨て、世界中の国民と平和に修交する、最初の発程を告げてゐるものと見て十分です。永い間頑迷だつた日本人を、それ程の動程まで導き出したことは、世界的にわれ/\が荷ふべき、大きな誇りでなければならない、と、上下のものが、等しく歓喜しました。
 併し、日本人がアメリカ人以下すべての外人に対して、文明的国民らしい完全な交際を開き得るまでには、なほ多少の時日とさま/゛\の刺戟とが必要でさう直ぐにやす/\と解放されさうにも思はれません。それは、戸田が、国書をわたしたらばすぐに帰帆せよと迫つてゐたのでも解ります。但し戸田のさういふ要求なぞはペリーは固より眼中においてはゐませんでした。たま/\、こちらの都合で、両三日中には出発するわけですが、それは絶対に伊豆の強迫に屈従した結果なのではないことを、はつきりと見せつけておく必要から、ペリーは、香山等が立ち去ると間もなく、すぐに全艦隊に出動を命じ、サクスハナと、ミツシツピイとで、それ/゛\、プリマスとサラトガの両帆前船を引いて浦賀を去り、わざとどんどん江戸湾に這入つて、かねてベトン大尉が測量しておいた、浦賀から十哩、海岸から一哩ばかりの海上に停泊地を移しました。
 これは同時に、傲慢不遜な江戸政府に対する威圧にも役立ち、従つて今回の大統領の親書に向つて、慎重な考慮を払はせる点に怖らく少なからぬ利益があるからでした。ペリーはその場所をアメリカ碇泊地と命名しました。
 対岸には、一哩ばかりの間、赤旗をたてた警護船がづらりと列んでをり、砲台には木綿の幕が引きまはしてありました。
 これは、最初だれも、砲台のないところへ、さもあるらしく見せかけるための手段か、それとも虚勢を加へるつもりの子供らしい計略か、又は、戦闘の意志を告げる印かなぞと、いろ/\に考へてゐましたが、後になつて、それはやはり旗や幟と同じやうに、たゞ軍隊の標に過ぎないといふことが分りました。
 警護船の或ものは、艦隊が来たのを見ると少しづゝ動き出して、海岸を往つたり来たりし出しました。併し別に抵抗して来るやうな気色もありません。碇泊地点の水深は、たつぷり十三尋もありました。ペリーたちはそこへ錨を下してしまふと、これでさしあたり予定の行動の一段落を感じました。
 
 一六
 
 ペリーが戸田伊豆守に交附した、アメリカ大統領の親書、信任状、及びペリー自身から皇帝に捧げる書翰、以上三つの文書の内容は、だいたい、次のやうな意味のものでした。
大統領の親書
 日本皇帝陛下。予は予の部下の代将官、マツシユー・シイ・ペリーを特派使節に任じ、この書を陛下に奉呈します。ペリーは今回日本に到着する艦隊の司令長官で、予が代表する合衆国の最高将校の一人です。予は彼を通じて、陛下と陛下の政府に対する予の懇切なる友情を陛下にお伝へします。今回、彼等を貴国に派遣した所以は、予の合衆国と陛下の日本とが永久に好誼を交換し、互に交通貿易を開くことを熱望するためで、それ以外に何等の意味もないことは、もとより言ふまでもありません。合衆国の憲法及法律は、人民に対して、他国の宗教と政治とに妨害を加へることを固く禁止してをります。予は今ペリーを派遣するに際しても、貴国の平和と安寧とのために、特にこの点に十分の注意を捧げるやうに、懇々訓令しておきました。
 合衆国は大西詳と太平洋との中間に位置する共和国で、オレゴン、カリフオーニアの二州は丁度貴国の対岸に当つてをります。蒸汽船によればカリフオーニアを発して僅々十八日で貴国の港湾に着くことが出来ます。
 このカリフオーニアの大州は、年々おほよそ六千弗の金と、以下、銀、水銀、宝石若干とその他多くの産物を上げてゐます。日本も同じく肥沃な国で、種々の貴重な物品を豊富に産出すると同時に、貴国人もわれ/\の人民と同じくいろ/\の技術に長じてゐます。予はこの二つの国が、互に、特有の産出品を交易して、おの/\同等の利便を得るなれば、相互にとり、多大の幸福であると信じます。予は、貴国が従来支那人、和蘭人を除く外、他の外国人とは全然交易を禁じてゐられることは固より承知してをります。併しながら、今は世界中いづれの国もことごとく、あらゆる他の国民と自由に交通貿易を行ひ、相互の利益を増大することに努力してをります。この世界的進歩に伴つて、貴国も在来の制度と習慣とを改革されるのが賢明な処置であらうと思ひます。貴国が現在の制度を設けられたのは、最早、年代としてかなり以前のことで、爾来世界の形勢は全々変りつくしてしまひました。その間には欧羅巴人はわがアメリカの大陸を発見して、続々移住し来り、世界の交通もそのために、非常な勢で開けて来ました。陛下が断然旧制を捨てられ、われ/\アメリカ人と交易を開かれることになれば、貴国に取つても非常な利益と幸福であり得ることは何人も疑ひ得ないことゝ思ひます。
 併し、もし陛下が、陛下の法制を一度に改革されることに不安を感ぜらるゝとせば、仮りに五年、又は十年と年限を定めて交易を試みられ、それによつて利害を研究された後、果して貴国に不利であると見られたならば、再び旧制度に回復されても遅くはないと思ひます。合衆国も他国と条約を結ぶに際してはそれ/゛\或期限を劃し、その契約が相互の便利であると認めた後は、又再ぴ幾年間と限つて継続するといふ方法を執り来つてをります。
 予は次に、左の二点について陛下に熱望します。
 第一は、合衆国の多数の船舶は、毎年、幾回となく支那へ往復します。又、捕鯨船の或ものはしば/\日本の海岸近くまで出猟します、以上のいづれの船も、とき/゛\颶風に出会つて貴国の近海で破船することがあります。予は陛下に対して、もし今後われ/\の船がかゝる不幸を見た際には、本国から迎への船を送るまでの間、貴政府において、それ等の避難民の生命と貨財とを保護して下さることを懇請します。
 第二には、われ/\の使用してゐる蒸汽船は、大洋を遠航するに際して、常に多量の石炭を消費します。又、食料に窮する場合もあります。幸ひ貴国は石炭の多くと、種々の食料品とを十分に産出してをります。予は陛下に向ひ、われ/\の船舶が航行の途中、以上のごとき場合には、日本の一定の港湾に這入つて、石炭と食料と飲料水を積み入れることをお許し下さるやう、切望して止みません、その代償は、金銭を持つてするか、又は、貴国に入用の物品をもつてするとも、それは御任意でよいと思ひます。以上の目的のために貴国の南部地方にわれ/\の船舶の出入し得る一湾港を選定して下されば非常に仕合せです。
 予は最後に、ペリーを通じてアメリカの製産品若干を陛下に奉呈します。固より軽少なものですが、併しいづれも合衆国の製品の標本として見られても差支へないものです。これが予の陛下に対する敬愛の印として役立ち得れば満足です。終りに皇天の恵みの永久に陛下の上に普遍なることを祝福いたします。
 千八百五十二年十一月十三日、ワシントンに於て
   北米合衆国大統領      ミラード・フイルモア親書
   下命により 国務卿  イー・エベレツト親書
   
使節全権委任書
 日本皇帝陛下、予は合衆国海軍代将官マツシユー・ペリーの誠実と才能と、注意の周密とを認定し、全権使節に任命しました。貴国の同等権威ある吏員一名又は数名と会見し、両国の和親、交易、相互の航海、及び、それ等についての両国民の利害に関するすべての約定を商議締結することを命じ、その条約書に親書することを許可しました。それ等の条約は合衆国議会の協賛を経て大統領が最後の認定を与へる筈です。以上の証明として合衆国の印章を捺印します。
  千八百五十二年
  第十一月十三日。ワシントンにて
    北米合衆国大統領   ミラード・フイルモア親書
    下命により国務卿イー・エベレツト親書
    
最後のペリーの書翰は、
 「日本皇帝陛下、小官は、東印度、支那、及日本海に配備されてゐる合衆国海軍の総司令長官で、便宜に応じ、日本政府と協商する全権を与へられてゐるものです。」
 かういふ書き出しで、殆、大統領の書翰と同意味の言葉を長たらしく繰りかへしたものに過ぎません。
 その中で、大統領の国書にない事項は、アメリカの漂流民に対する大統領の懇望に註解して、
 「アメリカ人は日本人に対して衷心から友愛を捧げてゐるのに反して、日本人は、アメリカの人民を仇敵の如くに取扱つてゐます。往年わが船舶、モリソン号、ラゴタ号、ローレンス号に対する日本政府の処置の如きはその最甚しいものです。アメリカ人は基督教諸国の習慣のとほり、自国の海岸に漂着した人々は、いづれの国の人民たると問はず、悉く一やうに慈愛を以て保護してをります。日本人でわれ/\の海岸に流着したものでも、一々その例にもれず、十分の愛護と同情とを与へて来ました。」とかいてゐるのと、そのほかに、
 「実は日本への訪問には、私の幕下の全艦船を率ゐて来るつもりでありましたが、数艘の大軍艦が加はりおくれたので、僅かに小艦四艘を引きつれてまゐりました。明年は、数艘を増加して再び来訪いたします。」と附記した後、
 「ついては、両国民の闘争を防ぐ必要上、われ/\の提出した希望に対し、正実と友愛とを以て応答して下さることを切望いたします。千八百五十三年七月七日、日本近海に於て、蒸汽船サクスハナ号にて。」
とこんな、一種の威嚇の言薬を附け加へてゐるだけの相違です。

 一七
 
 ペリーの艦隊が、浦賀の港を出て、構はず江戸湾へ突入し、所謂アメリカ碇泊地と名づけたところへ投錨しますと、間もなく、例の香山栄左衛門が通訳の堀達之助を引きつれて、あわてゝサクスハナ号へ漕ぎつけて来ました。二人とも、極度の愕きと怒りとでもつて、青くなつて上つて来ました。ブツカナン艦長は二人を穏やかに迎へ入れて使命を聞きとりました。通訳の堀は、
 「どうしてこんなところへ投錨したのです。」と、するどく喰つてかゝりました。ブツカナンは、つまりこゝならば、安全に碇泊が出来るからであると答へました。すると堀は、
 「この近海はこれまですべての外国人が遠慮して一さい這入つて来なかつたところです。もうこれ以上に進入することは全然許しません。長官は、まだ先まで乗り入れるつもりでお出でなのですか。さうでなくば、こゝへはいつまで碇泊するおつもりです。」と問ひつめます。ブツカナンは、
 「来年多数の軍艦を率ゐて来る場合に、浦賀では浪も高く風も強くて、碇泊地としては非常に不適当なので、今後四日間ぐらゐ、この場所に碇泊して、十分とりしらべた上、この湾内に適当な碇泊地を見つけておくつもりなのです。」と答へました。堀は、長官は国書をわたした上はすぐに日本を退去すると約束されたのに、それを破つてこの湾へ入り込まれたのはどういふわけかと聞きます。
 「すぐに日本を退去せよといふのは貴政府の希望に留り、われ/\はわれ/\の任意に行動するのである。これ以上にまだ/\もつと深く這入つて行くつもりである。」と、ブツカナンは明らさまに宣言しました。すると堀は、
 「この湾内一帯の人民は、外国船が近海に来たと聞いただけでも、すでに怖ろしく感情をたかぶらせてをります。もし貴下たちの測量船が、うつかり陸地にでも近附くと、お互にどんな間違を引きおこさないとも限りません。この点からもよく御考慮をねがひたい。」と説き出しました。
 「そんな心配は絶対にありません。第一ボウトは海岸へは近づけないし、且つ根本に、日本人が先に手出しをしない以上は、われ/\は決して平和な行動を破るやうなことはしません。」とブツカナンは本当のとほりを断言しました。
 ところが香山は又話をあとにもどして、うるさく艦隊の退去を要求しました。そして最後に附け加へて、日本政府はアメリカに対して十分の好意を持つてゐること、従つて今回の国書についても丁重に審議するはずであると語り、なほ、この次に来航されるときには、浦賀を協商地に決定する筈だから、その際には浦賀より先へは必ず這入らないやうにしてくれとたのみました。ブツカナンは、
 「われ/\は最初から、貴国に好誼を捧げるため出て来たのです。さういふわれ/\に対して、日本政府が、安全な碇泊地をすら与へないといふのはいかにも不合理ではないでせうか。われ/\の間ではすべての外国人に対して能ふ限りの便宜を与へるのが習慣です。仮りに日本人が来るとしても、われ/\は同じくどの港湾にでも自由に出入を許し、土地をも開放して、全然任意の使用に供へるのです。」と言ひかへしました。すると香山は返答に詰つたものか、それとも、もうこれ以上に退去を強ひるのも非礼だと気づいたのか、ともかくそれきりで何も言はずに黙りこんでしまひました。
 ブツカナンも、それを機会に話を打切つて、二人に手軽な饗応をしました。二人とも大層喜んで、前に並べられたものを非常な食慾をもつてどん/\食べ、ウヰスキーをもぐい/\傾けました。さうしてゐるうちに、日本船が又一艘出て来ました。ブツカナンは、それに乗つて来た役人をもよび入れて、香山たちと一しよにもてなしたので、席上はすつかりにぎやかになりました。並べられたビスケツトやハムや、そのほかいろ/\の皿は見る/\うちに減つてしまひました。中でも通訳の堀は一ばんの上機嫌で、この愉快な酒宴を記念するために、何かもらつて行きたいと言ひ出し、食べあましたパンや、ハムの片を大きな袖の中へどん/\入れこみました。そして最後に又ウヰスキーをがぶ/\飲んだ後、非常に満足した顔をして、みんなと一しよに丁寧に別れを告げ、日ぐれの海上をかへつて行きました。
 翌十五日(嘉永六年六月十日)には、ペリーは、早朝から三艘の測量隊を出して、湾の内部をくはしく測量させました。それ等のボウトが或砲台の前面を廻りますと、その内側は入江になつてゐて、一筋の川が、美しい田野の中をうね/\とくゞつて流れ込んでゐました。川の両岸には、土民の部落がところ/゛\に固つてゐます。展開された田畑が非常によく耕作されてゐるのにはみんな愕きました。
 士官はその川の中ヘボウトを漕ぎ入れさせて見ました。すると土地の人民は、異国人を珍らしがつて、ぞろ/\と岸一ぱいに群がつて来ました。その中の或ものは、にこ/\しながら飲み水や、旨さうに熟した桃なぞを持つて来て歓迎しました。
 近くには警護船が二三艘碇泊してゐました。その船に乗込んでゐる役人たちは、アメリカ人が来たのを喜んで、水兵と煙草を吸ひ附合ひなどして親密さうににこ/\しました。士官の一人は、それ等の役人の好誼に対するお礼の意味で、ピストルを出して射つて見せました。彼等はひどくびつくりしましたが、喜んだことも又非常でした。
 こんなにして打ちとけて接触して見ますと、日本人は、たゞの土民でも応対が至極丁寧ですつかり社交的です。
 さうかうしてゐるうちに、ふと五六人の役人が川岸にあらはれて、土民たちを手真似で追ひ払ひました。群衆は、全で、子供が悪いことでもして逃げて行くやうに、ばら/\とみんな消え去つてしまひました。
 ボウト隊は帰艦して、以上のすべてを、上官に報告しました。それを聞いた上官たちは、それ等の日本人の好意的な態度を喜びました。派遣員たちは、いづれも、日本の景色の美しいことを賞め合つて、全く、見る目もうつとりするやうだと口々に話しました。
 この日の午後、ペリーは、長官旗をミツシツピイに移し、それに坐乗して、十哩ばかり湾内へ這入つて行きました。すると、江戸の港がはつきりと見え品川らしい町も見えましたが、江戸の市街は岬にかくれて見えませんでした。艦が進行を止めた地点から三四哩さきには、又別の岬が突き出てゐて、その上に燈明台かと思はれるやうな塔が立つてをりました。この塔のあるところから、なほ三四哩さきが江戸の港になつてゐるのです。長官は、結局、江戸の首府から十哩以内のところまで乗り入れたわけでした。
 計錘を下させて見ますと、水尋はそこでもなほ二十五尋もあるので、もつと進入しても差支へないのでしたが、長官は、江戸の市民や役人たちに、これ以上に恐怖を与へて、余計な反感を買つてもつまらないと考へて、そのまゝ、引きかへして来ました。
 そのとき近くの砲台には、かなり多くの兵隊が駐屯してゐるのが見えました。
 併し彼等は寸分も抵抗する意志を持たず、たゞ、珍らしい蒸汽船を見物するのだといはないばかりに秩序なくのんきさうに固つて、艦の行動を見てゐるのです。警護船は艦に対する見はりのためらしく、ちよい/\岸をはなれて漕ぎ廻つたりしました。併し遂に艦に向つては一艘も近づいては来ませんでした。
 ペリーのこの往復の留守の間に、碇泊地では、香山栄左衛門と通訳とが、贈物をもつてサクスハナへ来ました。けれども艦隊では、長官の留守中には、日本人は何人でも、上艦させてはならないと禁令されてゐたので、当番の士官は、香山たちにその旨を通じ、贈物も長官に無断で受けとることは出来ない、と言つて拒絶しました。
 香山たちは、それでは、長官がかへられるまで待つてゐると、一旦はさういひましたが、間もなく考へ直して、又出て来るからと言つて引きかへして行きました。
 なほこの日には、指定された十二艘のボウト隊が、終日、碇泊地附近の西海岸を精密に測量しました。
 
 一八
 
 千八百五十三年の七月十五日(嘉永六年六月十日)に、ペリーは、全艦隊を構はず江戸湾に乗り入れて所謂アメリカ碇泊地と名づけた地点に投錨しましたが、翌十六日の朝になると、再び全艦隊を五哩ばかり下方の、浦賀からも丁度五哩ばかり隔つた或小湾に移して、陸地より一哩ばかりの距離をとつて碇泊させました。ペリーはその湾をサクスハナ湾と命名しました。
 そのときサクスハナが、まだ錨を下すか下さないうちに、香山栄左衛門が、堀と、他にもう一人の通訳をつれて出かけて来ました。彼等は一とかゝへの贈物を携へて上つて来て、一昨日提出された国書が、滞りなく江戸政府に届けられたと報告しました。併しその返書については、長崎へ廻すとも何とも言ひません。これは或は、昨日ミツシツピイが江戸の近くまで押しよせたのが効果を奏し、政府が怖れを抱いて、長崎へ廻すことを遠慮したのではないかと思はれました。
 香山たちは、絹布、うちは、漆塗の茶碗、煙草等の贈物を並べて、どうぞ受け納めてくれと言ひます。いづれもたいした値打のものではありませんが、ともかく日本の製品の見本として、アメリカ人には珍しいものばかりで、日本人のすぐれた技術をも十分証拠立て得る品物でした。併しブツカナンたちは、長官の命をうけて、香山がそれと引きかへに長官からの贈物を受け取るならば貰つてもよいと答へました。
 ところが栄左衛門は、日本の国法上、外国から贈物を受けることは固く禁じられてゐるので、折角ながら、それは困ると言ひ張ります。ブツカナンはそれに対して、われ/\の法令では贈物は相互に交換するやうに規定されてるるので、単に貴君の方からのみ貰ひ受けるわけには行かないと反駁しました。すると香山もしまひには、それでは武器以外の品物ならばお受けすると、折れて出ました。
 それでブツカナンは更に長官の命令を仰いで、日本人がさし出した品物よりも遥かに値段の高い五六の品物を取り出させました。栄左衛門は、それを見て、これはいづれもあまりに結構すぎる、且つ、私と通訳とが、体にかくせるやうなものでなくては持つて帰ることは出来ないと言ひました。ブツカナンは、それはいけない、われ/\の贈物が公式に受けとられるのでない限りは、あなたの贈物もおことわりする外はないと言ひました。そんなわけで、結局香山たちは、こちらが与へた品物を悉く受け納めてかへりました。
 それから午後になると栄左衛門は再び通訳をつれて、僅に鶏卵五函と鶏百五十羽を籠に入れて持つて来ました。彼等はいづれもはれ/゛\と気嫌のよい顔をしてゐました。それは多分今朝、長官からの贈物を受取つて帰つても、別段咎めもうけないで済んだからに相違ありません。長官は、鶏をもらつたかへしに、栄左衛門と通訳との細君へ、それ/゛\贈りものをし、ほかに、栄左衛門には、アメリカ産のいろ/\の草や木の種子と、カステラ、ビスケツト、牛肉、洋酒なぞを贈りました。香山や堀たちは、そのあとで愉快さうに艦内を歩きまはり、さも名ごりをしさうな容子を見せました。ブツカナンは彼等のために簡単な御馳走を出させました。
 三人は大喜びで、打ちくつろいで、シヤンペンを飲みました。そして、おの/\少しづつ酔が廻るにつれて、なほ一層打ちとけて快活に談笑しました。香山がアメリカ人に対して非常な好意を持つてゐることは、そのときにも、あり/\と言葉や容子に現はれました。彼は、これで当分あなた方とお別れするのかと思ふと本当に涙が出ますとさへ言ひました。それは上部の辞令ではなく、衷心からアメリカ人を慕つて言つた言葉でした。
 通訳の堀は、香山よりも酒量がつよい上に、すべてに控へ目な紳士でしたが、それでも内心では一寸も気をおかないらしく愉快さうに話しをしました。彼はさゝやくやうな低い調子で、大統領の国書は必ず満足な回答を得るにちがひないといふことや、栄左衛門が、現職から、もつと上の官位に昇進するといふことなぞも漏らしました。
 併し彼等は、外交上のことにかけては極めて鋭敏で、そんな宴席でも、彼等の職分を決して忘れはしませんでした。例へばブツカナン大佐が、艦隊は、いよ/\明日江戸湾を出発する予定であると話しますと、堀は突然、シヤンペンの盃を下において、酒席以外のときのやうに真直目になり、今言はれたことを覚え書にしてくれと要求しました。併し大佐は冷やかに手をふつて断りました。
 やがて彼等はいよ/\かへり支度をしました。彼等は、それまでしば/\艦隊から受けた好遇に対して、言葉をつくして礼を述べ、あなたがたとお別れするのが本当に名残りをしいと言ひながら、士官たちと熱心に握手を交しました。それから甲板に並んでゐた兵員たちにも一々微笑みながらお辞儀をして小船へ下りて行きました。
 甲板から見送つてゐますと、香山は船の茣蓙の上に坐るとすぐに、細君への贈物の函を開かせて、真先にあらはれた洋酒の壜を取り出させ、もどかしさうに口を抜いて、艦上の士官たちの方をふり向いて飲みました。それは、怖らく、彼が最後の別れを惜んで士官たちのために杯を上げたのに相違ありません。たゞそれだけの動作の中にも、彼の誠実は十分に受けとられました。間もなく小船は、だん/\に浦賀の出鼻を廻つてしまひ、感じのよい香山の姿も、博識な、才能のある堀の姿も、すつかり見えなくなつてしまひました。
 こんなわけで、艦隊が浦賀をはなれてかも香山はすべてゞ前後数回訪づれて来ました。彼は、上記のやうに、ブツカナンが出帆の日取りを打ちあけるまでは、出て来るたびに、艦隊はいつまで江戸湾に滞在するかといふことを、頻りに聞きたづねました。そして、そのたびに、日本では、外交上の事柄を決定するのには非常な手間がかゝる、これは日本の政府の従来からの慣例であると言つて、くりかへし注意して行きました。
 ペリーが明日、いよ/\日本を立つことに決心したのは、香山のそれ等の言葉から推定して、回答を得るまで空しく待つてゐることが無駄であると考へたのも一つの理由でした。実際から言つても、大統領が国書中に提議した事項は、日本に取つては非常に重大な問題で、彼等がそれを承認しようとするためには、これまでの法令を根本から覆さなければならない訳なので、審議上、相当の時日がかゝるのも当然です。
 併し、ペリーが引上げて行く、もつと重大な理由は、艦隊の糧食と、炭水との欠乏でした。艦隊にはこの先、一箇月ぐらゐ支へ得るだけの準備しかしてありません。もし日本政府がすべての大名を集めて討議するのを待つたりする間に、ずる/\日数がたつて、遂に回答も得ないうちに、いやでも応でも出帆しなければならないことになると、結局は日本側から附け入れられることになり、折角の使命を果す上に多大の障害を持ち来たすわけになります。ペリーは第一に、その点を怖れたのでした。
 それに加へて、日本の回答は、やはり来年改めて受け取りに来た方が好都合な、もう一つの事情がありました。
 それは、たま/\支那には今大きな内乱が起つてゐて、在留のアメリカ人の生命財産にも或危険が感じられるので、それ等の保護のために、ぜひ軍艦を急派する必要がありました。
 併しその目的で到着すべき筈の軍艦が中々本国から来ないのです。ペリーはもし日本の返書を得るまで滞在するとしたならば、艦隊の威力を保持する必要から、四艘の船のうちを割いて支那に送ることはとても出来ません。
 又、次には、日本政府から、国書に対する返答を得た際に、皇帝に奉呈する贈物を、ベルモントといふ船が持つて来る筈になつてゐるのですが、その船がまだ来ないので、この点からは今すぐ返書をもらつても却つて困るくらゐです。
 以上のやうないろ/\の事情で、ペリーは翌十七日の朝、一応日本を退去することに決定したのでした。それで、十六日中に浦賀の役所へ公式に書面を送り、出立の日取りと、明年再び来訪する旨を通告しておきました。来年改めて多数の軍艦と共に糧食船や石炭船をも引きつれて来て、何等の不安もなしに悠々と滞在する方がどれだけ得策だか分りませんでした。
 十七日の朝はすが/\と晴れたいゝ天気でした。ペリーは、通告どほり、この日の午前にサクスハナにサラトガを引かせ、ミツシツピイにはプリマスを引かせて琉球に向つて抜錨しました。
 
 一九

 七月十七日の朝はすが/\と晴れたいゝ天気でした。ペリーは浦賀(うらが)奉行に通告しておいたとほり、この日の午前に、全艦隊を率ゐて上海に向つて出発しました。 
 来年再び来るのは来るのですが、ともかくこゝで一たん日本の領海から撤退するといふことは、日本人に取つては怖らく当面多少の安神になり得たばかりでなく、四艘の艦隊そのものが、すさまじく浪を衝いて発程する光景それ自身も彼等には珍らしく愉快だつたに相違ありません。浦賀の岬なぞでは、兵隊たちがどん/\と砲台から駆け出して、ぎつしり立ち集つて見てをります。中には丘の上まで走り上るものもあり、艦隊がだん/\と沖合に遠ざかると争つて船で漕ぎ出してまで見物しました。見る/\うちに何百艘といふ船が海上を掩うて動いてゐたやうな有様です。艦隊は間もなく、富士の高い峰を後にして、すつかり大洋の真中へ出てしまひました。
 ペリーたちは、つまり七月八日に浦賀に投錨してから今日までの十日間に、日本政府から、彼等がこれまで、いかなる外国人にも与へたことのない多くの獲得をしたわけでした。その第一は、日本の警護船を艦隊の周囲から全然撤去させたこと、第二は、長崎以外の地点に於て国書を交附し得たこと、第三には、思ふまゝに江戸湾の測量を仕遂げたこと、それから最後には、贈物の公式の交換です。ペリーたちは、それ等を、アメリカ人が成し遂げた第一歩の成功として少なからぬ誇りと満足とを感じました。
 艦隊はかうして日本を離れると間もなく、急にはげしい暴風に襲はれました。蒸汽機関の艦もさんざん揉みまくられて、虫が這ふ程にしか進行が出来ません。ペリーは止むなく、すべての船の一番頂上のマストを取り下ろさせ、大砲も強い太綱でしつかりと縛りつけさせて、心配しながら航海しましたが幸に無事に暴風帯をくゞりぬけて、九日目の七月二十五日に琉球の那覇に着きました。
 ペリーは到着早々、すぐに琉球の政府と商議を開く手はずを極めました。彼は日本でも比較的成功したので、琉球人からもそれに劣らず、種々の利権を取りをさめ得る確信を持つてゐました。併し、日本を訪問中、那覇に残しておいたサプライ号の士官の報告によると、琉球人はアメリカ人に対して相変らずいろ/\の隔意を持ち、上陸しても間諜をつけ廻すことなぞも、これまでと一寸も変らないといふのです。ペリーは今度は上海へ行く途中を立ち寄つたので、ほんの少しの間しか滞在出来ないのですから、琉球の役人たちの例の姑息な手管に引つかゝつて、ぐづ/\時間をつぶしたりすることは出来ません。それでペリーはすぐに士官を派遣して、代理王との会見を申込ませました。すると政府は早速こちらの希望を容れて、二十八日に那覇で会合するといふ通告をよこしました。
 併しペリーはそれより前に、予めこちらの要件を伝へておく方が得策だと考へて、折りかへしアダムス参謀長にウヰリアムス通訳をつけて上陸させ、那覇の首席の役人へまで左記の要求を述べさせました。
 その第一は、石炭の貯蔵庫として六百噸を入れ得るだけの適当な建物を借り入れたいといふことです。それは琉球政府の都合次第で、こちらで琉球人の大工を使つて琉球風に建築してもよいし、又は政府が直接に監督して建てゝくれてもよい、何れにしてもその建物に対して年々相当の家賃を支払ふ、その歩合は会見の際に取り極める。第二は、間諜の問題です。今後もこれまでのやうにアメリカの士官の後に絶えず間諜をつけ纏はすやうであると、遂にはお互に血を流すやうな不祥事が起らないとも限らない。それに対しては全部の責任を琉球政府が負はねばならないのは勿論である、あくまで好誼と正義との下に終始するわれ/\に対して、敵人のごとくに間諜をつけるといふことは根本に貴政府の誤謬である。第三には、市場に於て物品の自由売買を許すこと、及び艦隊の需用品を購入する便宜を開いてもらふこと、第四には、那覇滞在中に病死したサクスハナの給仕のために石碑を建てゝ貰つたことについて答礼を述べ、その費用の支払ひをしたい。 
 以上のことをアダムスは支那語の通訳を通じて申し込みました。町の首席の役人はこれはすべて自分一箇の権限では何とも回答することが出来ないので通訳官から直接に代理王に上申してくれと言ひました。アダムスは、それに対して、貴官はたゞわれわれのこれらの要求を代理王に伝へておいて下さればよいのである。そして正式の会見の際には、代理王には以上のすべてを無条件で賛同される準備をして出席して下さるやうに話しておいて戴きたい、と、かう言ひ渡しました。役人は、分りました御希望の通りに取計ひます。それから会見の時刻と会場とは後に確定したところを御報告しますと答へました。
 翌朝ペリーの副官コンテイ大尉は那覇の官庁を訪問し、代理王との会見は明二十八日の午後二時、那覇の公館で行ふといふ回答を得てかへりました。公館といふのは、官庁の公用に使はれる建物のことださうであり、代理王は正午に首府の「首里」を出発する手筈になつてゐるのだといふことです。
 その日の午後一時半になりますと、尚某といふ一人の王族が小船に乗つてサクスハナにやつて来て接待の準備ももうすつかり出来て、代理王もお出でを待つてゐると伝へました。ペリーはそれで早速アダムス参謀長と、コンテイ副官、ミツシツピイ艦長のレエイ、プリマス艦長ケレイと、その他に十二名の将校を従へて上陸しました。
 すると、一群の琉球の役人が出迎へて会見所へ案内しました。その所謂公館は、海岸からは一哩ばかりのところにあり、首里へ通じてゐる大通りに向つてゐる、小さいながらも綺麗な建物でした。ぐるりには土塀があつて外からは窺へないやうに出来てゐます。那覇の上役人は属僚を従へて入口に立つてゐました。代理王は、奥の間の入口まで進んで来て迎へ入れました。その部屋にはすでに饗応の食卓が並べてありました。その様子は、前の代理王が首里でもてなした宴会のときと殆ど同じやうで、たゞ仕構へがあの時ほど大きくないだけの相違です。儀式もすべて前のときと同様で、ペリーとアダムスは一番上席のテイブルに招ぜられ代理王と那覇の首席役とは、互に向き合つて、その左側のテイブルに着席しました。
 
 二〇
 
 ペリーは、那覇へ帰り着くと同時に、琉球政府に向つて、海岸の適当な地点に石炭庫を建てゝくれること、爾後、米国の士官たちに間諜をつけ廻すことを撤廃すること、それから、アメリカ人に市場で自由に物品を売買することを許してくれること、艦隊の需要の買入れについても便利を与へられたいといふ、数箇条の要求を提出し、その解決のために代理王と会見しました。
 双方がそれ/゛\席に着きますと、まづ一番さきに茶が運ばれました。代理王は、
 「貴官が無事に御帰港になるのをお待ち申してゐました。」と冒頭にお世辞めいた挨拶をしました。琉球側の通訳官は板良敷といふ人で、ウヰリアムス通訳と支那語で会話をするのです。ペリーはそれに応じて、
 「われ/\はこれから一両日の中に、支那に向つて出発する予定である、二三箇月の後には又帰つて来るつもりであるが、今日申入れたことは、ぜひ出発前に解決してもらはなければならない、われ/\の案は単純で且つ正当な事柄にすぎないので、今この場で直ぐに同意して下さるのが当然である。」と切り出しました。すると、代理王は狡猾にも、それについてはぢき後程に返事をしますから、ともかく、まづ御馳走を召し上つて下さいと逃げを張りました。ペリーは、それを遮つて、
 「饗応を受ける受けないは全然余事である、それよりも第一ばんに要件から取り極めたい。只今も申したとほり、至つて簡単な問題で、何等の御考慮をも要しないはずである、われ/\は日本でも、非常に丁重な取扱をうけ、政府とも公式に贈物を交換し国民たちとも親密な交際を開いて来たのである、それと同様に貴国人との間にも永久に好誼を持続したいのが希望である。」と語り、なほ、ウヰリアムスに命じて、浦賀で戸田伊豆守、伊藤石見守と会見したことや、江戸湾を自由に測量したことなぞを手短かに話して聞かせました。代理王は、それでは御帰艦までに必ず御返事をしますからといふので、ペリーもそのまゝ饗応を受けることになりました。
 例によつて、吸物のやうな料理が後から後からと出ましたが、その七皿か八皿目かゞ出た時分に、一人の役人が一通の手紙を代理王の手もとへ届けに来ました。代理王はそれを受け取ると、那覇の首席の役人と、通訳と三人で席を立つて来て、謙譲な態度でその手紙をペリーにさし出しました。封筒には、大きな琉球の印章がおしてあります。ウヰリアムスはペリーの言ひつけに従つて、すぐに封を開きました。支那語で綴つた非常に長たらしい手紙でしたが、つまるところ、その要点は、
 「わが琉球はほんの微弱な小国で、これまでも、いかなる外国人とも、全然没交渉で通して来たのである。従つてわれ/\に取つては、外国人に上陸されることは非常な迷惑である。あの英国の宣教師ベトルハイム博士が、たゞ一人無理に居住してゐるだけでも、どれだけ困つてゐるのか分らない。それだのに、この上、貴国の石炭庫なぞを建てられては、なほ/\困却する。
 第二には貴国士官の上陸ごとに間諜をつけると言はれるけれど、あれは決して間諜ではない。たゞ好意上上陸者のために案内をさせ、且つ人民が妨害を加へないやうに警戒させるために任命した役人である。併し、廃せと言はれるなら今後は一さい随行させないことにする。
 第三は、物品の売買のことであるが、もと/\琉球には産物と言つても茶、生糸、上布ぐらゐの生産にとゞまり、且つそれも殆ど皆、支那や日本へ送り出すので、あとには何物も残らないわけである。又、市場での売買のことは人民の自由勝手で、彼等が店を閉ぢたり、物を売らなかつたりしたところで、それに対しては政府も何とも干渉するわけには行かない。」とかういふ意味の不誠意極まる挨拶です。
 ぺリーは、こんな回答では到底満足することは出来ない、第一、その手紙そのものも受け取るわけには行かないと言つて、代理王につきかへした上、言葉柔らかに、
 「われ/\は決して琉球人に向つて無理なことを強要するのではない、われ/\が交際してゐるすべての国家が当然のことゝして許してくれてをり又支那からも、わけなく同意を得、日本も間もなく容れてくれようとしてゐるだけの、至極単純な公明な要求である、石炭庫を貴政府の手で建築するのが面倒ならばこちらで直接に建てるまでゝある。又、品物の買入についても、われ/\はすでに琉球の土地がいかに肥沃で、産物もいかなるものが、どの程度に出るかをも調査してゐる、われ/\が受取るべき品物に対しては無論相当の代金を支払ふのである以上、われ/\が滞在するためには貴国人民はそれだけ余分の利益を得るわけではないか。」と反問させました。
 併し代理王は、貴官のお申出は中々むづかしい問題ばかりなので、慎重に熟考した上でないと何とも御挨拶が出来かねると言ひ張ります。ペリーは、再びくりかへして、たゞこれだけのわれ/\の要求はわざ/\考へられる要もないくらゐ単純な事柄ではないか、これまでのわれ/\のすべての言動について見られても分るとほり、われ/\は決して琉球人に対して何等の害意をも持つてはゐない、後になつて見れば、もつとよくお分りになるであらうが、われ/\はたゞ、すべての国民がいかなる国民からでもすぐに許され得るだけの、簡単な便利を得たいといふのみであると附け加へ、代理王がわれに対して、何か言はうとするのを取り合はずに、それなり立ち上つて、
 「どうか明日正午までに十分満足な御回答を得たい。もしそれが与へられないならば、小官は直ちに二百名の兵員を上陸させて、問題が解決されるまで、首里の宮殿を占領します。」と、敢然高圧的にかう言ひわたし、士官たちを率ゐてさつさと退出しました。代理王は門口まで見送つて出ました。ペリーはそのまゝ真直にサクスハナへ帰艦しました。
 ペリーは、今度の要求こそは、どこまでも威圧的に押し通さうと決心しました。それで翌日の正午にはアダムス参謀長と、ブツカナン艦長とに、ウヰリアムス通訳をつけて、那覇の政庁に派遺し、首席の役人に向つて、手強く、昨日の回答を迫らせました。
 それと同時にペリーは、この前首里を訪問したときに乗用した、あの轎がどうなつてゐるかと思つて、その轎のしまつてある、泊村の寺へ艦内の一人の大工を見せに出しました、ところが、琉球の役人たちは、その大工の行動を見て顔色をかへて政庁へ報告に行きました。彼等は、それをもつて、てつきり、ペリーが首里を占領するために行進する用意だと思ひ込んでしまつたのです。何でもないつまらないことが、とんだ恐怖を引きおこしたわけで、那覇の政庁では、そのために急に態度をかへてしまひ、首席役人は、もう少しで、自分一人の権限で、ペリーの要求全部を応諾しさうな気色をさへ見せましたが、結局、なほ一度代理王に上告した上、明朝必ず、たしかな返事をさし上げると保証しました。それでアダムス参謀長たちは一たん艦へかへりました。
 翌朝十時になりますと、那覇の首席の役人がサクスハナへ出て来て、政府がとう/\譲歩して、ペリー長官の要求をこと/゛\く許容した旨を報告し、さうなるまでの過程を、こま/゛\と述べ立てました。そして、
 「石炭庫の方は、すでに建築の準備にかゝつてをります。家賃は、一ケ月十弗といふことに決定されました。」
 かう言ひ進んだと思ひますと、彼は急に語調をかへて、
 「併し、石炭を海岸へおくと、土民が盗む怖れがありますが、どうしませう。」と愚にもつかないことを言ひ出します。
 アダムスは、無論石炭は一かたまり亡くなつても、貴政府の責任であると刎ねつけました。するとどこまでも卑劣な役人は今度は又言葉をかへて、
 「どうも琉球は暴風雨がはげしいので、せつかく石炭庫を建てゝもすぐに流されはしないかと思ひますが。」と言ひながらこちらの顔色を窺ひます、こんな風に最早、ちやんとすべてを許可する命令を得て出て来てゐながらも、なほ出来るだけ、こちらを瞞着して、うやむやにして帰らうといふ了見です。琉球人のやり口はすべてこの流儀なのだからたまりません。
 アダムスはそんなことには耳をも貸さないで、第二の市場の開設の問題に話しを移しました。
 すると役人は、これも言葉をにごして、市場を開くことは構ひませんが、女たちが外国人に接近するのを非常に怖れきらふので、結局、甘く行かないでせう、とこんなことをいひます。それでアダムスはこの問題だけには多少譲歩して、那覇の公館で売店を開き、琉球のすべての種類の産物を列べて、アメリカの士卒の希望に従ひ自由に売却さすことに取りきめました。
 役人は、それでは明日開きませうと言ひ出しましたが、その日は日曜で、耶蘇教徒に取つては神聖な安息日であるし、翌日の月曜には、朝の九時に出帆しなければならないので、その朝六時に開いてくれるやうに言ひわたしました。役人は承諾してかへつて行きました。
 そんなわけでペリーの絶対に強固な態度は、とう/\提出したゞけの要求に対して、頑迷な琉球人をすつかり屈伏させてしまひました。

 二一
 
 ペリーの強硬な態度には、琉球政府もとう/\屈服して、間諜の問題、石炭庫、売店等についてのペリーの要求を悉く聞き入れました。
 石炭庫は艦隊が出発する僅か二日前に工事に取りかゝつたのですが、出発の当日には、最早骨組が出来、あと二三日ですつかり出来上るまでに取り運びました。間口十間、奥行八間あまりの建物で、予定どほり五百噸の石炭は十分這入るわけでした。
 それから売店の方は、協定の上、八月一日の朝、艦隊が抜錨するまでの僅かな時間を利用して六時から那覇の公館で開かせました。五艘の軍艦からは、士官や兵卒たちが続々出かけて行きました。会場にはいろんな色の漆で塗つた椀や盆や小箱や、芭蕉布、木綿地、絹の帯地、草履、留針、扇子、漬物、煙草、煙草入など、さま/゛\の産物が並べてあり、通訳の板良敷が、部下の役人と一しよに立ち廻つて、熱心に斡旋をしました。併し彼等役人たちのやり口には、下司な浮浪商人と同じやうないやしさがありました。例へば、みんなが買ひ上げるに従つて、品物がどん/\減つて来ますと彼等は狡猾にも、残りの品物の値段をだん/\にせり上げなぞしました。そんなことで、少し後れて行つたものたちの中には、同一の物品に対して、人の倍近く取られたものもゐます。
 そのうちに間もなく艦隊の出発の合図が聞えたので、残つた士卒も急いで帰艦しました。
 ペリーは、琉球人が、アメリカに対してやうやく捧げかけて来た好情をこの先長く持続し開発して行くためには、やはり絶えず軍艦を碇泊させておくのが得策だと考へて、帆前船のプリマスをそのまゝ那覇に残しておき、サクスハナ、ミツシツピイ、サラトガ、サプライの四隻を率ゐて、その朝の午前八時に、香港に向つて出発しました。
 その航海の二日目の夕方、艦隊は遥か前方に、帆前船が一隻、西南に針路を取つて進んで来るのを見つけました。最初はどこの船だらうと不審に思ひましたが、だん/\接近するにつれて、帆船が、サクスハナの長官旗に対して礼砲を発射したので、ともかくアメリカの船だといふことが分り、間もなく、それは、ペリーが長い間本国から来航するのを待つてゐた部下のバンダリヤ号だと分りました。ペリーは、早速、バンダリヤの艦長に急いで来艦せよといふ信号を揚げ、その船の方へ舵を向けて近づいて行きました。
 やがて相互とも停船しますと、バンダリヤの艦長ポープは、すぐにボウトに乗つて出向いて来ました。彼は長官に、航海の経過を報告し、バンダリヤと同じく、やはりペリーの麾下に加はる筈の、蒸汽機関のポーハタン号も、すでにアメリカから香港に到着して、琉球に廻航する準備をしてゐたと語りました。ペリーは、それでは、艦隊が香港へ着かないうちにポーハタンが出発して、海上で行きちがひになりはしないかと、気づかひながら、バンダリヤをも引きつれて航海をつゞけました。
 蒸汽船のサクスハナとミツシツピイとは、それ/゛\サラトガ、サプライを引いて、八月七日に香港につきました。そのときには、ポーハタンは案のごとく最早琉球に向つて出発したあとだつたので、ペリーも非常に残念に思ひました。船足のおそい、バンダリヤは、後れて八月十五日に着港しました。問題のポーハタンは、一たん琉球へ行き、機械の修理のために、十日ばかり那覇に碇泊した後、八月二十五日に香港にかへつて来ました。
 ペリーの艦隊が入港しますと、広東から来てゐたアメリカの商人たちは、すぐに旗艦へやつて来て同地の革命戦争に伴ふ在留米人の種々の危険を述べ、それ等の人々の生命財産を十分に保護して貰ひたいと要求しました。それでペリーは大急ぎでサプライ号を広東に派遣し、ポーハタンをワンポーアに配置した上、サクスハナ、ミツシツピイ、サラトガ、バンダリヤの主力艦隊を、香港と澳門との間にある、或港に集めて形勢を見てゐました。
 サプライは広東へ着いてからは、昼夜、絶えず艦上に歩哨を立て、又、一方では夜中に突発する事変に備へるために、士官を上陸させて、アメリカ商人の家に滞在させなぞして、注意深く警戒に努めてゐました。
 併し同地も存外平穏で、支那人間には、とき/゛\多少の闘殺も行はれましたが、幸にも外国人に危害の及ぶやうな騒動は全然持ち上りませんでした。
 そのうちに、早くももう十二月が来ました。ペリーは、そろ/\日本へ帰航する手くばりをしなければならなくなりました。今度日本へ行くのには威容上どうしても、今警備にあてゝゐるサプライ、ポーハタンをも引きつれて行かなければならないので、ペリーは、広東のアメリカ商人たちにその事情を話して、同地の警備のためにはクエンといふ小蒸汽船を一箇月五百弗の船料で六箇月間借入れ、それへ有力な武装を施し、艦隊から士官兵員を選抜して乗り組ませて、碇泊させておくことにしました。その指揮官にはミツシツピイのアルフレツド、テイーテイー大尉を任命しました。
 ペリーはそれ等の手配をつけた後、航海の平穏な三月ごろ出発して日本に向ふつもりでをりました。
 ところが、澳門に碇泊してゐたフランスの軍艦のコンスタンチン号が、不意にどこへか出帆して、全然行衛をくらましてしまひました。その船は、目下同地方を旅行中の、駐支那フランス公使ブルボルン夫婦を乗せて、近々に上海へ出発することに確定してゐたのですが、たま/\ヨーロツパから郵便船が着いたので、何か本国から特別の命令書をうけ取つたらしく、急にこつそりと上海以外のどこかへ行つてしまつたのです。ペリーには、コンスタンチンのその行動が、いかにも不審でたまりませんでした。
 すると又丁度それと前後して、ロシアの艦隊の司令官プーチヤチンが、パラス号に座乗し、ほかに、四隻の軍艦を率ゐて、長崎から上海へ這入つて来ました。ペリーは、いろ/\の情報を綜合して、プーチヤチンが、間もなく再び出発して今度は江戸湾に乗り入れる計画をしてゐるものと推定しました。果してさうだとすると、日本に対する何等かの利権を彼等に先取りされないとも限らないし、少くとも、自分たちのこれからの行動に障害や不便やを加へられる怖れが十分あります。かう考へて来ると例のフランスの軍艦の行先もやはり江戸ではないだらうかといふ疑問も起りました。
 そんなわけでともかくペリーはたとへいかに険悪な冬期の天候の中をくゞつても彼等に先手を打たれないまへに、一日も早く江戸に帰航しようと決心しました。併し日本皇帝への献上品を積んで来るはずの運送船レキシントンがまだ着かないのでどうすることも出来ません。ペリーは頻りにその船の来着を待ち焦つてをりました。
 やがて一月になつて、レキシントンがやう/\やつて来ました。幸にロシアの艦隊はまだ上海にぐず/\してゐます。ペリーは大急ぎで入用な物品を積み込み、不用なものは陸上げをして全艦隊の出航準備をとゝのへました。
 その出立の間際に英国の郵便船が着きました。その船で米本国の海軍省から、ペリーへあてた指令書が届きました。それは艦隊中の蒸汽船一隻を割いて、近日赴任する新任支那公使マクレインの使用に宛てよといふ命令なのです。これにはペリーも非常に当惑しました。併し、結局日本政府から確乎たる利権を獲得するまでは、一隻でも艦隊の勢力を割くわけには行かないので、本省の命令はそのまゝほつておくことに極めました。
 日本への献上品はレキシントンが搭積してゐる以外に今着いた郵便船でも運ばれて来ました。ペリーは出発を急ぐので、その後の方の荷物は、広東の商人の手を借りて上海に廻送し、サラトガを同地へ廻して、それを積んだ上、琉球へ来て艦隊に合するやうに命令を与へました。それから船足の遅いサプライ、バンダリヤの二隻と、同じく帆船のマセドニアンといふ船を、琉球に先発させた後、千八百五十四年の一月十四日に、ペリーは、サクスハナに座乗して、ポーハタン、ミツシツピイの二艦と、運送船のレキシントン、サウザンプトンの二隻を率ゐて、香港を出発しました。その五隻のうち蒸汽機関の軍艦三隻は一月二十日に那覇に入港しました。するとマセドニアン、バンダリヤ、サプライはすでに先着してをりましたが、上海から来る筈のサラトガはまだ着いてをりません。最初那覇に残しておいたプリマスは、そのときには偶然上海へ行つてゐました。次で二十四日に、ペリーと一しよに出発した、帆船のレキシントンと、サウザンプトンとが来着しました。
 
 二二
 
 ペリーの艦隊は、日本政府の回答を受取るために再び江戸湾へ向ふ途中、千八百五十五年の一月二十日に、六箇月ぶりで又那覇へ入港したわけですが、今度はペリーたちに対する琉球人の態度がすつかり変つてしまつたので非常に愉快でした。彼等の政府は、これまでとちがつて、艦隊の入用な品物はどんどん供給してくれ、その代金もさつさと受取りますし、人民たちも、すつかりアメリカ人に馴れて来て町筋で出会つても遁げたりかくれたりしなくなりました。婦人たちでさへも、アメリカ人が市場へ這入つて行つても一寸も怖がらないで、平気で店の番をしてゐる程でした。
 ペリーは入港するとすぐに、代理王のところへ使を出して、日本へ出発するまへに、もう一度王宮を訪問して、敬意を表したいといふことを通じておきました。すると、代理王は、例のとほり、王宮へ外国人を入れることを非常に厭がつて、どうか那覇で会見してほしい、那覇ならば、どこでも御希望のところを接待所にあてるからと言つて、言葉を卑くして断つて来ました。併しペリーは、王宮へ出向くのが外交上の当然の礼儀であると言つて刎ねつけた上、当日われ/\上官たちが乗るために馬と轎とを前もつて用意しておいてもらひたいと申込みました。
 代理王は、それでも、どうかして王宮以外のところですまさうとかゝつて、いろ/\見えすいた口実を作つて、しつツこく反対して来ましたが、ペリーがどこまでも前言どほりを言ひはつて聞かないので代理王もとう/\我を折つて、それでは、止むを得ません、王宮へお出で下さるやうにと言つて来ました。
 それでペリーは一月の三日に、士官たちを引きつれ、護衛の部隊を従へて、轎に乗つて、王宮へ出かけました。そして、一応そこで接待された後、又このまへのやうに、更に代理王の私邸へ案内されて、同じやうに盛な饗応を受けました。
 その席上でペリーは代理王に、アメリカの貨幣を少しばかり、琉球の通貨と交換してもらひたいと言ひました。といふのは、元来琉球では日本の貨幣を使つてゐると聞いてゐるのに、どういふわけか、アメリカ人に対しては、その貨幣をすつかり隠すらしく、これまで市場でもたゞの一度も見かけたことがないからです。すると代理王は、琉球には貨幣といふものは全然ありません、たゞ、こちらに住まつてゐる日本人だけが、いくらか本国の貨幣を持つてゐるかも分りませんが、万一持つてゐても、とても手放さないでせうと言ひました。併しそれはやはり例の偽りだらうと思つたので、ペリーは、ともかく五十弗ばかりのお金をわたして、出発前に必ずとりかへてくれと言ひおいて引き上げました。
 その滞在中ペリーは、部下に命令して、琉球の国情や産物等について出来るだけの調査をさせました。さうしてゐるうちに、和蘭の印度総督から手紙が来ました。それには、日本の皇帝が、昨年、アメリカの親書を受け取ると間もなく、薨去されたといふことゝ、それについての日本政府からの伝言がかいてありました。日本政府が長崎の出島の和蘭商館の監督を通じて、印度総督に頼んだものと思はれます。今政府は皇帝の葬儀の問題や、後継者の選定のことなぞで、非常に混雑を極めてゐるので、アメリカの国書に対する回答も急には取り運びかねる、同時に、もしアメリカの艦隊が、ペリー長官の言明のとほり、この三四月に江戸湾へ再訪されるとなると、人民は皇帝の死のために非常に昂奮してゐる際だから、必ずアメリカ人に反抗して思はぬ騒ぎを引きおこすに相違ない、それで、どちらから言つても、ともかく江戸湾への来訪を、しばらく延ばしてもらふやうにアメリカ政府に通告してくれと、かういふ日本の希望だつたからお取りつぎをするとかいてありました。
 ペリーは早速返事を認めて、手紙に対して礼を言ひ、日本皇帝の死去について弔辞を述べた後、日本の執政者はアメリカの意志をよく了解してゐるのでわれ/\がこれからすぐに日本へ行つても、両国々民の親交が傷けられるやうな気づかひは毛頭ないといふことを断言しておきました。
 併し実のところは、ペリーは去年の七月、江戸湾に滞在してゐる間、皇帝の病気のことも全然聞かなかつたし、今にわかに薨去のことを言ひ出すのは、国書への回答を引き延ばさうとするための日本の虚構ではあるまいかと疑つても見ました。併し、もし皇帝の死去が事実であるにしても、それに遠慮して江戸湾へ行くのをさし控へたりすると、日本の回答も、ます/\長引くことになるので、構はず約束どほり出かけることに極めました。尤もかねて提出しておいた要求を日本が直ちにすつかり聞き入れるかどうかは、無論疑問でしたが、併し、いろ/\の意味でのアメリカの利益のために、どうしても日米の関係を開かなければならない、たとへいかなる困難を冒しても、あくまで使命を果しとげるやうに努力しなければならないと、ペリーは固く決心しました。
 で、二月七日には、いよ/\那覇を立つつもりなので、それまでに上海から日本への献上品の一部をつんで来るサラトガが、間違ひなく到着してくれるやうにと、しきりに待つてをりましたが、七日の朝になつてもまだ来ません。ペリーは、それでは或は港外で出会ふかも分らないと考へて、ともかくこのまゝ出かけることにきめました。全部七艘の船のうち帆前船の軍艦のマセドニアンと、バンダリヤと、同じく帆走の運送船レキシントン、サウザンプトンとの四艘は、速力がおそいので、蒸気汽船の軍艦と同時に江戸湾へ乗り込み得るやうに、すでに二月の一日にマセドニアンの艦長アボツトを指揮官として先発させてあるのです。ペリーはそれでサクスハナ、ポーハタン、ミツシツピイの本艦隊を引きつれて出発しました。
 その出発の間ぎはに、琉球政府から、首席役人の尚宏勲、馬良才両人の署名のある手紙が来ました。それは、例の貨幣の交換のことで、要するに、いろいろ取計つて見たけれどもだれも日本の貨幣を持つてゐないので、取り換へることが出来ないといふ断り状です。実さいが、日本と琉球との商売取引は実物交換で貨幣は全然使はないのである、又、日本の国法では、貨幣を国外へ持ち出すことを固く禁止してあるので、在留の日本人も、貨幣は少しも持つてゐないと、かういふいゝ加減なことをかき添へてゐます。ペリーは、その使のものがかへしに来た五十弗の金は、つきかへして受取らなかつたので、使は仕方なしに、その金を持つてかへりました。
 やがて艦隊が港外に出て、しばらく進航してゐますと、間もなく一隻の帆前船が、こちらを目ざして近よつて来ました。それは案のごとくサラトガ号でした。ペリーは日本への贈物を入れた三個の行李を早速サクスハナへ移させ、サラトガを引つぱつて航海をつゞけました。そして二月十一日(嘉永七年一月十四日)に、事なく江戸湾の入口まで来ましたが、折わるく北西の風が非常にはげしくて、湾の内外が大荒れなので、止むなくその晩は伊豆の大島の風蔭に避難して、天候の静まるのを待ちました。
 翌日になりますと、風も止んで平穏な日和になりました。本土の陸地を見ますと、富士山はすつかり真白に雪を被つてをり、あたり一帯の低い山々も頂上には寒さうに雪がつもつてゐます。手近の岸の丘なぞも、この前真つ青だつたのにくらべて、全で別ものゝやうに赤茶けてゐます。甲板へ出ると肌を裂くやうな風が絶えずびゆう/\と吹き通しました。
 艦隊は午前中に出発して、だん/\陸地に近づいて行きますと、相模の鎌倉附近の或海岸に、二艘の帆前船が碇泊してゐるのが見えました。近よつて見ると、それは先発した四艘の内の、マセドニアンとバンダリヤとでした。バンダリヤは艦隊に向つて信号をかゝげ、マセドニアンが坐礁してゐることを知らせました。ペリーは間もなく蒸汽船の力で難なくマセドニアンを引き下しました。
 マセドニアンが坐礁したのは昨日のことで、艦長のアボツトが、江戸湾の入口をとりちがへて、あまりに近く海岸へ進んで来たからでした。それでさまざまに手をつくして見ましたが、船は一寸も動きません。バンダリヤの艦長ポープは、早速錨を投じ、ボートを送つて引き下ろしを手伝ひ、日本人たちも出て来て、いろ/\手を貸してくれましたが、とても駄目なので、最後には手をつかねて、蒸汽機関の艦隊が来着するのを待つてゐたのでした。その間に日本の役人は、江戸湾のアメリカ碇泊地(小柴沖)に碇泊してゐるサウザンプトンへ、わざ/\使を送つて、二艘のアメリカの軍艦のうち一艘が坐礁したといふことを伝へさせたり、そのほか人民たちと協同して、いろ/\と厚意を尽してくれました。
 ペリーはその十二日は、全艦隊をそのまゝそこに碇泊させ、翌十三日の朝出発して、途中で、同じく先着のレキシントンを加へ、七隻一しよに海を圧して江戸湾に向ひました。やがて例の浦賀の前面にさしかゝりますと、やはりこのまへのやうに、筋のついた小旗をたてた何十艘といふ警護船が、どん/\艦隊の検分に出て来ました。各の船には役人が突つ立つてゐます。艦隊は、それ等の船を押し払ひながら、針路もかへず、速力をもゆるめないで、一気に目的の碇泊地に向つて進航しました。
 
 二三
 
 再び日本へ引きかへして来たペリーは、千八百五十四年の二月十三日(嘉永七年一月十五日)に、蒸汽機関のサクスハナ、ポーハタン、ミツシツピイの三隻と、帆船のサラトガ、バンダリヤ、マセドニアン、レキシントンと、以上七隻の艦隊を率ゐて、どん/\江戸湾に突入し、午後の三時に、昨年ちやんと選定しておいた、いはゆる、アメリカ碇泊地(相模の小柴沖)に投錨しました。そこにはすでに帆船のサウザンプトンが先着してゐたので、これで所定の全艦船がすつかり集合し得たわけです。そこは丁度浦賀から十二哩、江戸へ二十哩の地点でした。
 そのとき、すべての船がまだ錨を下しをはらないうちに、もう海岸から二艘の日本の警護船が旗艦のサクスハナを目がけて漕ぎ出して来ました。乗つて来た日本の役人たちは、いきなり上艦したいと申し入れましたが、ペリーは丁度、旗艦をポーハタンに換へようとしてゐたところでしたし、又、第一、このまへからも、自分自身は、日本の下級の役人たちとは絶対に会見しないといふ方針なのですから、アダムス参謀長に命じて、彼等をポーハタンで引見させることにしました。
 ペリーはアダムスに向つて、彼等と会見しても、たゞ日本側の申し立てを聞きとるだけに止めて、こちらからは一さい何等の言質をも与へないやうにと特に注意しておきました。アダムスは、早速ウヰリアムスとボートマンの両通訳と、長官の甥でその秘書官をしてゐる小ペリーを引きつれてポーハタンへ出かけました。警護船もそのあとについて行きました。
 上つて来た日本の役人は、浦賀奉行の部下の組頭といふ役目をしてゐる黒川嘉兵衛といふ上役と、このまへにたび/\応接した通訳の堀達之助、立石得十郎との外に、灰色の服をつけた三人の目附といふ役人と、都合六人です。アダムスたちは、後の三人の役名を文字どほりに解釈して、いつも、じろ/\とすべてに目をつけてゐる探偵だと思ひました。
 アダムスたちはそれ等の人々を丁寧に船室に導き入れました。彼等は席につくと、ペリーが率ゐて来たすべての軍艦の名前を聞き、後からまだ来るかとたづねました。その問答がすむと、黒川は通訳を通して、
 「今回も皇帝の命令で長官と応接するために、特に二人の高官が委員に任命され、浦賀でお待ちしてをりますから、どうか同地まで引きかへしていたゞきたい。」と言ひ出しました。アダムスはそれに対して、
 「長官は、この碇泊地の対岸でならば会見しますが、もし貴国政府がそれに不同意であるならば、全艦隊は止むを得ず江戸まで進出して、同地でお目にかゝるまでゝある。」と、きつぱりと刎ねつけました。彼等は何と思つたのか、それを聞くなり、正式の話をやめて、茶や菓子を食べながら愛想よく雑談をしてかへつて行きました。そのとき、話のついでに、昨年来航した際、終始応特に尽力した、例の香山栄左衛門はどうしてゐるかとたづねますと、あの人は一時病気をしてゐましたが、もうすつかり全快したので、近日又お目にかゝるでせうと答へました。
 翌日、同じ役人たちは再びポーハタンへ出て来ました。アダムスはペリーの命令で、やはり丁重に彼等を迎へ入れました。彼等は、皇帝も非常に温和な人で、外国と闘争するやうな考へは少しも持つてゐない、特にアメリカ人に対しては、すべてのものが十分好誼を捧げるやうにとわざ/\、命令を下してゐるくらゐであると、それをくりかへし話した後、交渉委員は一両日中に長官にお会ひするはずであると述べました。では長官の要求どほり、この向ひの海岸で会見するのかと念をおしますと、いや、場所は鎌倉ですと答へます。昨日は浦賀で会つてくれと言つておきながら、今日は又急に鎌倉だといふのですから、アダムスも少々驚いて、少しつよく詰問しますと、役人たちは全で平然として、
 「それは長官が一方を拒けられた場合の準備に、最初から二つの場所を選んでおいたまでゝある。浦賀がいけないならば鎌倉に決定して貰ひたい。」と押しかぶせるやうに言ひます。アダムスは、鎌倉はこゝから三十二哩もはなれてをり、それにマセドニアンが坐礁した実例によつて見ても碇泊地としては不適当である、それに第一、日本が一たん浦賀を指定しておきながら、今になつて突然場所を換へたについては、何か策略があるに相違ないと考へたので、断乎としてそれを拒け、
 「浦賀も鎌倉も、同じく江戸からあまりに遠いのみならず、両方とも碇泊地として極めて不安全な場所なので、ぜひこの対岸のどの地点かを選んでもらひたい。」と答へました。役人は、それでは、ともかく貴官がまづ浦賀まで下られて、会見の場所を直接われらの委員と御相談下さいと言ひ出しました。
 アダムスはそばにゐた小ペリーに命じて長官の指図を聞いて来させました。それによると、アダムス自身が委員と協議をするのはかまはないが、その相談の場所も、やはりこの附近の海岸でなくてはいけないとのことなので、早速ボートマンに、そのことを和蘭語で堀に話させますと、堀はそれを黒川に伝へました。ところが驚いたことには、黒川は今度は又浦賀にしてくれと言ひ張るのです。アダムスは、早く話をまとめ上げるつもりで、
 「では一たい、貴国委員はどういふわけで長官とこの附近の海岸で会ふことが出来ないのか、その理由を今こゝで一々かいて見せて貰ひたい。それによつてわれ/\の方の考へをも決定しませう。」と言ひますと、得十郎はこれを上役に話し、上役も同意しました。得十郎はしきりに相談した後、彼等の理由として、
 「長官は貴国の国書は浦賀で提出されたのに、なぜその返事を浦賀で受取ることをお拒みになるのです。」と和蘭語で聞きました。アダムスは、それはさきにも言つたとほり、浦賀はあれだけの艦隊を碇泊させるのに場所として甚だ危険だからであると答べました。すると、黒川は、
 「日本政府は全然平和的に交渉するつもりでゐるのだが、ペリー長官のお考へはいかゞです。」と取つて附けたやうなことを心配さうに聞きました。アダムスは、その言葉から推して、日本人は、われ/\の艦隊が、この附近から動くまいとするのは、最後には、江戸に間近いこの場所で戦闘行為にでも移るつもりだからではあるまいかと、その点を非常に怖れてゐるらしく受取りました。
 それでアダムスは、一層言葉を和らげて、このまへにも度々申し上げたとほり、われ/\はたゞ日本と平和の交際を開くのを根本の目的としてゐるのである、われ/\が会見の場所について貴官たちの申し出に反対するのは、外に何等のわけがあるのではない、いくども言ふごとく、浦賀や鎌倉では碇泊が危険だから止むを得ず、この対岸を選んだゞけであると懇々説明しました。すると彼等は、それでは、ともかくわれ/\の高官が、すべての打合せに、当地まで出て来ることになるでせうが、それも少くとも五六日先でないとはこびがつかないでせうから、それまでお待ちを願ひたいと言ひました。アダムスは、その役人は軍艦までお出で下さるのかと聞きかへしますと、それは全然不可能ですと答へました。アダムスは、
 「われ/\の間では、国際上の問題は、すべて首府で協定するのが慣例なので、長官も、最後には多分江戸へ出かけることになるかも分りません。」と威かしました。彼等はそれを聞くと、
 「日本ではそんなことは絶対に許されません。」と語気を強めて反対しました。そしてこれで一応話を切つて、そのあとは遠慮なく茶菓をすゝり、最後に、「先刻申した下相談の場所と時日とは決定次第お知らせします。」と言ひおいて、丁寧にお辞儀をしてかへつて行きました。
 翌十五日の朝、彼等は早くから又ポーハタンヘやつて来て、薪水そのほか、艦隊で御入用の品物は何でもさし上げるから、お言ひつけ下さいと申し出ました。アダムスは、只今のところでは何にも不自由はしてゐないが、いづれ数日中には、鶏卵、野菜、魚類なぞを少々おねがひするかも分らない。併しその際には品物と引きかへに必ず相当の代価を受け取つて貰はなければならない、その点は十分お含みおき下さるやうにと言ひますと、彼等は、いや、お入用のものは、すべて贈りものとしてさし上げるので、決して代金をいたゞく必要はないのですと主張します。アダムスは、それはいけない、艦隊としての規律上、物品を無償で受け入れることは断じて出来ないのであると、くりかへし言ひふくめておきました。かういふ風に珍らしく日本側から進んで、品物の補給を言ひ出して来たのは、われ/\の上陸するのを防がうとする方策にちがひないとアダムスたちは考へました。
 アダムスはその序でに、例の皇帝の死去のことを確めて見ようと思つて、さきに今度来航する途中で、だれか貴国の高位の方が亡くなられたといふ噂を聞いたが、本当かと、遠廻しに探つて見ますと、お言葉のとほりだと言ひます。どんな身分の方ですかとたづねますとたゞ大名ですと答へて、皇帝だといふことは打ちあけません。日本人の態度はすべてかういふ風に外国人には何でも一さい秘密にして、物を聞いても言葉を濁しておくのが手なので、実際の事実をつかむのに、それは骨が折れました。
 
 二四
 
 日本政府は、ペリーが全艦隊を江戸へ僅二十哩の地点まで乗り入れたことに、非常な驚きと不安とを感じたらしく、艦隊が投錨すると同時に、浦賀奉行の部下の上役黒川嘉兵衛以下四人の役人と、通訳の堀達之助、立石得十郎とを旗艦へよこして、貴使節との応接は、このまへと同じく、やはり浦賀でする筈で、すでに交渉委員二名を同地に派出してあるから、すぐにそちらへ引きかへしてくれと要求し、次で会見地を鎌倉に取りかへると言つて来ましたが、三度目には又浦賀に指定がへをして、やかましく廻航を強請します。ともかく何より第一ばんに、艦隊を江戸湾から退去させようと焦つてゐるのが見えすいてゐました。
 アダムス参謀長は、それに対して、浦賀や鎌倉の海は、水深や風波なぞの関係上、多数の艦船の碇泊には非常に危険である、それに、もと/\国際的の協定はすべて首府で行はれるのが当然である、この意味からも、浦賀や鎌倉では、江戸からあまりにかけ離れてゐるので不適当であるといふことを、たんびに、くりかへし説明して、ぜひ現在の碇泊地の対岸附近で会見したいと主張しました。
 すると黒川たちは後にはつく/゛\困つた容子で、それではまづアダムス自身が一応浦賀へ行つて、日本の交渉委員と会つてくれた上、ペリー長官との会見の場所を、直接相談して貰ひたいと言ひ出しました。アダムスはそれもこの対岸でならばお会ひして下相談をしてもよいと同意し、結局附近の海岸のどの地点で、いつ/\会合するといふことを日本側で決定して通告してくれることに話が纏まりました。
 その後も日本の役人と通訳とは、艦隊の挙動を見探らうとするためらしく、毎日、いろ/\の口実を設けて来訪しましたが、二月の十八日になると、彼等は、上記の協定をすつかり覆して、長官との会見地は、やはり浦賀にすると言つて来ました。これでは、いつまでも果てしがつかないので、ペリーは遂にアダムスに命じて、次のやうな意味の通牒を、オランダ語でかゝせて、黒川たちに交附させました。
一、艦隊は船艦が多数であるために、現在の地点にも永く滞在することが出来ないので、更に安全な碇泊地を得るために、もつと江戸近くへ進出する考へである。
二、もし貴政府において、相当の官吏を指命し、貴政府の交渉委員と小官との会見の時日、場所について、アダムス参謀長と現碇泊地附近の海岸で協議する御意向がおありならば、来る二月二十一日の正午までに、その旨御通知を得たい。
三、貴交渉委員の御希望次第で、艦隊は喜んで蒸汽船一隻を派し、浦賀から往復の御乗用に供へる。
四、アダムスとの会見吏員は相当の信任状を持参されることが必要である。又会見当日には、前以て、会見現場への案内者を一人御派遣を乞ふ。
 黒川たちはその書附けを持つてかへつて行きました。その際彼等は、
 「長官は、われ/\の政府が、昨年、オランダ人を介してさし上げた手紙をお受取りになりましたか。」と聞きました。
 このことについては、アダムスは長官から何等の指図をも受けてゐないので、それは私が答へる限りでないと言葉を濁しておきました。
 翌十九日は、こちらに取つては日曜の聖休日であるのもお構ひなしに、黒川たちは、野菜や蜜柑や、鶏卵や、そのほかいろ/\の菓子なぞを贈物に持つて、旗艦のポーハタンへ出て来ました。アダムスは早速、昨日の長官からの通牒を上官にわたしてくれましたかとたづねますと、
 「はい、たしかに渡しました。併し、当方の交渉委員は、貴官との下相談は浦賀ですると言つてをります。」と答へました。アダムスは手を振つて、
 「それは全然だめです。私は長官からの指命により、この附近の海岸以外では断じて会見することは出来ません。」と言ひました。すると役人たちは、
 「併し何とお言ひになつても、貴長官との会見地は、皇帝の命令によつて浦賀に決定されてゐるのですから、今更どうするわけにもまゐりません。」と今度は又逆もどりをして、下相談のことも投げ退けて、しら/゛\しく、こんなことを言ひ放ちました。参謀長もこれには全く呆れて、
 「とにかく昨日の書面に対して、二十一日の正午までに、良好な御回答がない場合には、長官は、止むなく、長官の考へのまゝを実行されるまでのことです。」と、少し嚇かして見ました。それでも彼等は、なほ、長官と浦賀で応対するといふことは、皇帝の命令ですからと、同じことをくりかへしてかへりました。
 その翌日には、彼等は牡蠣を持つてやつて来て、日本の交渉委員から長官へあてた公文書をさし出しました。
 それには、貴使節との会見は、皇帝の命令により、浦賀又は鎌倉の、いづれかで取り行ふ予定ですと、どこまで行つても同じことがかきつけてありました。ペリーはそれに対して、
 「すでに幾回も述べたごとく、われ/\は全然浦賀又は鎌倉へ廻航することは出来ない。提出した国書に対する御回答は、江戸でお受けするつもりである。」といふ返事をかゝせて渡しました。役人たちはそれを幾度もよみかへして互に相談してゐましたが、
 「それでは、これを交渉委員に手わたしいたします。」と言つて、丁寧にお辞儀をしました。アダムスはそのとき、
 「なほ私は明日浦賀へ行つて、貴政府の委員に面会した上、この返書の意味を、くはしく説明して来るつもりです。」と言ひました。すると彼等はにはかに不安さうな顔附をして、
 「それには兵員をいく人つれてお出でになるのです。」と聞きました。大勢の部隊が一どに上陸するのではないかとそれを怖れてゐるらしいので、
 「いや、僅二三人の士官をつれて行くだけです。」と特に穏かにかう言ひますと、彼等は、ほつと安神したやうに、ではそのつもりで準備をしておきますと言ひました。その話しがすんでから、アダムスは、
 「この二十二日の水曜日は、ワシントンの誕生祭ですから艦隊では正午に祝砲を発射します。」と話しますと、通訳は、ワシントンの名前をも疾くに承知してゐる容子で、それを役人たちに通弁しました。すると役人は、大砲の発射を見たいから、当日その場へ列席させていたゞけないかと申し込みました。アダムスは、どうぞお出で下さい、そのせつには夫人がたをも御同伴下さるやうにと喜んでかう言ひますと、役人たちは、何ゆゑか、夫人云々のことを全でからかひにでも言つたやうに、非常にをかしがつて、はツはと笑つてかへつて行きました。
 翌る二十一日の午前になりますと、日本の役人たちは、アダムス参謀長の浦賀上陸のさいの案内役としてポーハタン号へ出て来ました。アダムスはペリー長官から、日本の交渉委員に当てたオランダ語の手紙を受けとり、通訳のボートマンをつれて右の役人たちと一しよに帆船のバンダリヤに乗つて出発しました。そのときには天候も平穏で海も非常に静かでしたが、やがて午後になつて浦賀の近くまで来たと思ふと、急に海がひどく荒れ出して、大きな浪が南西や真正面から、はげしく打ちつけるので、バンダリヤはとう/\浦賀の港に這入ることが出来ず、仕方なしに、ペリーが、嘗て共和岬と命名した、或岬のかげに避難して、翌る朝浦賀に入港しました。
 この日はワシントンの誕生祭なので、バンダリヤも正午に祝砲を放ちました。アダムスはそれがすんでから、両三名の士官をつれて、日本の役人たちと一しよに上陸しました。
 埠頭場には日本の役人たちが大勢で出迎へに来てをりました。案内の役人たちは、アダムスたちの先に立つて、その附近に昨日今日建てたばかりの仮屋に案内し、間口八間、縦六間ばかりの広間に導き入れました。見ると、床一面には非常に立派な柔らかい織物が敷きつめてあり、両側の壁から五六尺はなれたところに、毛織らしい赤い布をかけた、背のたかい椅子がそれ/゛\一列に並べられ、真ん中に縮緬の布をかけたテイブルが一台すゑてありました。
 アダムスたちは導かれて左手の椅子に着席しました。と間もなくきら/\した縫箔模様の衣裳をつけた一人の大名らしい役人が、位の高さうな下役を二人従へて、奥の間から幕を押しあけて出て来ました。それを見ると、浦賀の奉行や与力や、居合せたすべての役人と通訳とが、一せいにうや/\しく下坐をして両手をつき、頭を床につけてこゞまりました。
 大名と二人の従者とは、アダムスと向き合つて、向ふの椅子に着きました。それと同時に、五十人ばかりの兵士が彼等の後から這入つて来て、三人の背後の一と間へ、ならんでひれ伏しました。大名は、端麗な容貌を備へた、いかにも聡明らしい、態度の謙遜な、気品のたかい人物でした。彼は間もなく立ち上つて、アダムスに向つて日本語でお互の会見の歓びを述べました。すべて彼の言葉は日本の通訳がオランダ語に訳し、それを又ボートマンが英語に訳し直すのです。アダムスは大名の挨拶に対して、答辞を述べた後、貴政府から指定された浦賀が、多数の軍艦の碇泊地として全然不適当な理由を話しました。すると大名は、
「私たちは、貴国の国書に対する皇帝の返書を、当地で貴国使節にお渡しするやうに命令されてゐるのです。」と相変らずのことを言ひ出しました。

 二五
 
 アダムス参謀長は通訳のボートマン以下をつれて黒川嘉兵衛たちと一しよに、とう/\バンダリヤ号で浦賀まで出かけて来て、ペリーと日本の政府委員との正式会見の場所の決定について、その委員の一人に向つてぢかに談じつけました。
 応対に出た委員は、黒川たちとは違つて、中央政府でのかなりな上役らしく、聡明な顔つきをした、いかにも気品のたかい、沈着な紳士でした。アダムスは、日本政府が指定した浦賀が艦隊の碇泊地として全然不適当である理由を改めてくりかへし述べました。ボートマンがその英語をオランダ語に直して日本の通訳官につたへ、その通訳が更に日本語で上記の委員に話すのです。委員は、謙遜な態度で、しづかにそれを聞き取つた後、丁寧に礼をして、
 「せつかくのお申出ですが、私どもは、長官と当地でお会ひするやうに命令されてゐるのです。」と相変らず頑固に推し通さうとかゝりました。
 アダムスはそのまゝ一寸話を切つて、自分の名刺をその委員にわたし、その人の名刺を求めました。すると委員は、しばらくお待ちを願ひますと言つて次の間にさがりました。それと同時に、給仕たちが支那焼らしい、きれいな茶碗を漆塗の小さな台にのせてお茶を出しました。間もなく委員が再び出て来て、名刺をくれました。見ると、「林大学頭」と署名してあります。つまり皇帝に直属してゐる最高の学問所の長官といふ意味でせう。なるほど、それだけの権威者らしい立派な人物です。
 アダムスはそこで再び言葉をついで、すべて艦隊を碇泊させる地点としては、これ/\の条件が必要なのであると、それを一々説明した上、
 「かういふわけですからわれ/\は決して浦賀へ引きかへすことは出来ません。なほ、長官からのこの書状を御覧下さい。」と言つて、日本の委員へあてたオランダ語の手紙を渡しました。林と二人の下役とは、その手紙について協議をするために別間へ立つて行きました。その間に、給仕は、今度は菓子や果物や酒なぞを運んで来ました。
 ペリーの手紙の大意は、
 「小官は、貴国とアメリカ合衆国との間に親密な友愛をとり結ぶために派遣されたのである。従つて、小官に対しては、欧米の外交上の慣例によつて、貴政府の所在地で接見されるのが当然である。指定された浦賀は碇泊地として不安全なばかりでなく、あまりに江戸からかけはなれてゐるので、貴国政府への通信、往復にも甚不便である。又、皇帝陛下に奉呈する多数の献上品を持ちはこばれるための便宜からも、ぜひ、出来るだけ江戸に近い地点を選定されることを、そして艦隊の碇泊中、貴政府の高官たちが、機関の運転等を来観されることを熱望するものである。」と、かういふ意味のものでした。
 林たちが席を退いたあとで、日本の通訳は、浦賀は碇泊地として一寸も危険ではない、どうかためしに貴官自身で検分された上、ペリー長官が、艦隊全部をこちらへ移して、当地で会見して下さるやうに取計らつていたゞきたい、さうなれば、明日にもすべてが片づくわけだからと、一生けんめいに頼みます。それでは一応長官に話して見ようと答へてるるところへ、林たちが出て来ました。林は、長官のお手紙は篤と拝見しましたが、政府の他の高官と相談した上でないと、何ともお答へすることが出来ませんと挨拶しました。では、いつ返事をいたゞけるかと問ひつめますと、三日間待つて下されば必ず御回答いたします。林はかう言つて丁寧にお辞儀をして引きさがりました。
 外は風がはげしくて海もひどく荒れ立つてゐます。これではすぐに帰艦も出来ないので、アダムスは随行の士官たちと一しよに、仮館の附近を歩いたりして時間を延ばしました。館の両側には、八尺ぐらゐの高さの木綿の幕がずらりと引き廻してあるので、町の情況や、住民たちの容子なぞは全然見ることも出来ません。たゞ、遠くの丘の上に、男や女や子供たちが群り集つて、珍らしさうに、こちらを見下してゐるのが見えるだけでした。
 そのうちに、風も幾分か静まつたので、アダムスたちはボウトに乗り移りました。日本の役人たちは果物や菓子なぞを、丁寧に紙に包んで、お土産にくれました。艦はその晩も、風波のために、そのまゝ浦賀の湾内に泊つてゐました。

 二六

 翌二十三日の朝になりますと、図らず、例の香山栄左衛門が通訳を従へて、ひよこりと艦へ出て来ました。その人は艦隊が去年来航したときに、はじめから終りまで応接につとめた役人ですが、今度は一寸も顔を出さないので、ひよつとしたら、この前の彼の行動が何かの刑罰にふれて免官でもされたのか又は極刑で「腹きり」でもさせられたのではないかと心配して、先だつても黒川嘉兵衛たちに容子を聞いて見たりしてゐたところでした。香山は病気だつたのと、公用で忙がしかつたのとで、今日までお目にかゝることが出来ませんでしたと言つて、愛想よく再会の喜びを述べました。彼はそれから言葉をついで、彼等の皇帝がどこまでも平和に交渉する考へでゐるといふことを繰りかへして話し、それで、どうか長官が浦賀へ廻航されるやうに、貴官から尽力していたゞきたいと、熱心にたのみました。併しアダムスはそれは全然不可能であると言つて聞き入れませんでした。香山は、ではともかく長官のお手紙に対する返事は、明日お手もとまでお届けしますからと言つて帰つて行きました。
 翌二十四日の早朝、香山は約束どほり長官への返書を持つて来ました。開けて見ますと、林大学頭の署名がしてあり、正月二十七日と、日本風に大陰暦の日附になつてゐました。内容の大意は、
 「貴官が欧米諸国の習慣にならつて、首府で会見したいと言はれるのは一応御尤な話ですが、併し日本には又日本固有の慣例があるために、皇帝はそれに従つて、すでに浦賀に応接館を建造し、われ/\交渉委員をも任命されてゐるのです。どうかその点を御諒察下さつて、皇帝の希望のとほり、浦賀で御会見下されば、われ/\も非常に感謝する次第です。」と、どこまでも浦賀を固持してゐるのです。アダムスは、その手紙を長官にわたすために、早速、バンダリヤ号の碇を上げて、江戸湾にゐる本艦隊に向つて引きかへしました。間もなく江戸湾へ這入つて見ますと、艦隊は湾の遠く奥まで位置を移して、ずらりと一列に列んでゐるのが見えました。
 実は、ペリーは、アダムスが浦賀へ出向いた後で彼が行くには行つても、到底、満足な結果を得て来ることは出来ないにちがひないと睨み、この上は、いよ/\最後の威嚇を実行しようと決心して、アダムスの留守中に、全艦隊を、マストの上から江戸の市街が見えるところまでずん/\乗り入れたのでした。すると、江戸中の市民は非常に驚怖したものと見えて、にはかにぢやん/\と鐘を打ち鳴らして警戒しました。その鐘の音はとう/\夜どほし、手に取るやうに聞えました。
 バンダリヤは翌二十五日の朝、艦隊が神奈川の町先に碇泊してゐるところへはせつけました。アダムスは早速ボウトで旗艦へ上り、例の大学頭の手紙をペリーにわたしました。
 と間もなく香山栄左衛門が出て来ました。彼はアダムスに向つて、長官は浦賀へかへつて下さるかどうかと聞きました。いゝえ、それは断然出来ない話ですと、アダムスはきつぱりと答へました。すると彼は、艦隊では何か入用な品物はありませんかと言ひ出しました。そこで、薪と水とを、少々もらひたいと言ひますと、それはわけもないことです、浦賀でなら、すぐにさし上げますと答へ、それ以外の場所では絶対にさし上げることは出来ませんと附け加へました。アダムスは、艦隊は、決して浦賀へは廻りません。入用な水や薪は、任意のところに上陸して、何等かの手段で勝手に貰ひうけるまでのことですと言ひ放ちました。
 香山は、そこではじめて長官の意志はとても動かせないものと見切りをつけたものと見えます。それに、昨日、艦隊が測量隊を出して、江戸から四五哩の近海を測量させたので、香山等も、長官が最後には直接江戸へ乗りつける考へでゐるものと断定したに相違ありません。香山は以上のアダムスの言葉を聞くと、急に、これまでの、日本政府の主張をすつかりひるがへして、それでは、この碇泊地の対岸の横浜村ではどうでせうと言ひました。
 そこでペリーは念のために、アダムス参謀長と、ブツカナン艦長とに命じて、香山と一しよに、現場の視察をさせました。そこは江戸へも近く、且つ、海岸から一哩のところに安全で便利な投錨地を控えてゐて、上陸にも都合がよく、又、陸上には十分の広場があつて、献上品も、らくに陳列出来るし、どの点からも申分のない場所でした。
 ペリーはその報告によつて、日本の提案に同意し江戸を訪問することは、協議決定の後まで延期する旨を、三月一日附で林大学頭に通告しました。
 これでもつて、永い間ごた/\した会見場の問題もやつときまりがつきました。
 
 二七
 
 ペリーと日本政府の交渉委員との会見地が、やつとのことで横浜村にきまつたので、日本側では大急ぎで応接館の建築にとりかゝりました。神奈川の町先に碇泊してゐるペリーの艦隊からは、大勢の人夫たちが材木をはこんだり、切り組みをしたりしてゐるのがあり/\と見えました。ペリーはボウトを派遣して横浜沖の投錨地点の下検分をさせた後、二月十七日に、全九隻の艦隊を村の真ん前、一哩以内のところへ移して、一列にならべて投錨させました。それと同時に、ブツカナン艦長とアダムス参謀長とは、ペリーの命令をうけて、上陸地の埠頭場のこしらへ方を日本人にをしへるために出かけて行き、応接館の建築の模様をも見てかへりました。
 ところが日本政府はそれを問題にして、三月二日に香山栄左衛門を旗艦へよこしました。アダムス参謀長が応対しますと、香山は、もうこれぎり、会見日までは、一さい貴国人を上陸させないことにしていただきたい、もし又上陸されて、日本人との間に思ひがけない衝突でもおこると大変ですからと、それとなく、アダムスたちの上陸に対して抗議を申しこみました。アダムスはそれに対してこのまへ上陸した当然の意味を話し、もう、あれ以上には何人も上らさないやうに、長官から厳命が出てゐるのだからと答へますと、香山は非常に満足したやうに、丁寧に頭を下げました。
 そのとき参謀長は香山に向つて、この艦隊に一人の日本人が乗り組んでゐることを話し、同人から日本の或知人へおくる手紙をわたして、これを名宛人へ間違ひなく届けてくれるやうにと頼みました。香山は日本人がゐると聞いて非常にびつくりした容子で、手紙はきつと送り届けるが、ともかく一度その日本人に会はせてくれと言ひ出しました。アダムスは、今日は困る、四五日後に改めて出て来てくれと答へてかへしました。
 その日本人といふのは、水兵たちの間ではサンパツチといふ呼び名で通つてゐる若もので、最初、十四人の船乗仲間と一しよに、暴風雨に会つて漂流してゐるところを、アメリカの或商船に救助され、一たんサンフランシスコへ送られた後、一年ばかりたつて、十五人とも、セイント・マリスといふ小さな軍艦で支那まで送りかへされ、そこで更に、東洋艦隊のサラトガ号に移されたわけでした。そのサラトガが、ペリーの麾下に加はつて、去年第一回目に日本へ来るときに、それ等の日本人をそのまゝつれて来るつもりにしてゐたのですが、サンパツチ以外の十四人は、ともかく仮りにも外国へ渡航した以上は、かへれば必ず重罪人として死刑にされてしまふにきまつてゐると言つて、むりに支那に居残り、サンパツチ一人が艦隊に止つて、水夫として勤勉に働いてゐるのです。サンパツチはこれで前後二回、艦隊と一しよに日本へかへつて来たわけですが、上陸すれば命がないと思ひ込んで、一生艦を下りない決心でゐるのでした。
 栄左衛門は約束どほり、中四日おいて三月七日に通訳の中島三郎助をつれて来艦しました。そこでアダムスはサンパツチを彼等の面前へつれ出しますとサンパツチは日本の役人と見るなり、真つ青になつて這ひつくばつたまゝ、怖れちゞまつて、ぶる/\ぶる/\ふるへてゐます。多分こゝで役人たちに引きとられて、首を刎ねられるものと思つたのでせう。アダムスはそのあまりの屈辱を見かねて、
 「これ/\サンパツチ、おきろ。おまへはアメリカの艦隊の乗組員である。少しも怖れる必要はない。」と慰めて起き上らせました。香山は日本語で何をかサンパツチと対談しました。アダムスは、サンパツチがいつまでもびく/\してゐるのが可哀さうなので、間もなくそこ/\に引き下らせてしまひました。(記者註。栄左衛門がこのサンパツチのことを幕府へ上申した書面を見ますと、「着物も洋服を着、頭も五分刈にして全然アメリカ人の風体をしてをります。安芸広島の生れのもので本名は倉蔵、年二十三歳。摂津の大石三郎なるものの持船に乗組んでゐるうち、一名病死し、十五人で漂流中をアメリカ船に救はれ」云々といふ意味の記述をしてをります。)
 その後栄左衛門は、通訳を従へて毎日出て来ました。そのうちに、森山栄之助といふ通訳も、あらたに加はつてやつて来ました。森山は、日本に漂着して取りおさへられてゐた、或アメリカの水夫に習つたとか言つて、少しばかり英語を話しました。
 
 二八
 
 かうしてる間に、対岸の接待館の建築は日一日と進捗して行くので、香山たちとの間には、しぜんと、来る会見日のことなぞが話題に上りました。香山はペリー長官からの請求により、今度ペリーと会見する委員たちの信任状を持つて来ました。それは、林大学頭、井戸対馬守、伊沢美濃守、鵜殿民部少輔といふ四人の名前をかきつらねて、皇帝の印彰を捺した書附でした。ペリーはそのときにも、相変らず自室に引つこもつてゐて、すべてアダムスたちをして応接させてゐたのは言ふまでもありません。
 香山はそのときの話のついでに、
 「日本政府は、もはやアメリカ人をよく理解し、アメリカの威力も十分了解してゐるので、今度の会見には、久里浜のときのやうに多数の兵員をくり出さないやうにお願ひしたい。」と言ひ出しました。
 アダムスは、それには答へをしないで、日本の重要な産物のことに話をうつしました。すると香山は、
 「貴大統領の御書簡中に、日本近海を航行するアメリカの艦船に対して、石炭を支給されたいといふ御希望がありましたが、一たい年々どのくらゐ御入要なのですか。」とたづねました。アダムスは、
 「その額は今はつきりと言ひかねますが、要するに船が寄港するたびに、さしあたり入要な分量だけを補給して下さればいゝわけです。この点については改めて長官から貴方の政府委員にお話があることゝ思ひます。」と答へました。栄左衛門はつけ加へて、
 「日本には石炭はかなり出ますが、それを差上げるのに都合のいゝ港が一つもないので困ります。」と変なことを言ひ出しました。
 「それは日本の南海岸に沿うた港ならばどこでも結構ですが、そのことも、いづれ長官が決定されるはずです。ときに、日本で一ばん上等の石炭はどこから出ます。」
 「産額も一ばん多く、品質も上等なのは九州の石炭です。私は日本中からどれだけの石炭が出るか、はつきり存じませんが、四国からは全然出ません。次に、食料品はどういふ種類のものが御入要ですか。小麦や野菜は長崎にたくさんあります。」
 「すべて、供給して下さるものは何でもお受けします。」
 「さし上げ得るものは今申した外に豚、牛肉、羊、家禽などで、馬鈴薯はありません。」
 「これまでロシア人に石炭をおやりになつたことがありますか。」
 「とき/゛\少しづゝやりました。非常に質がよいと申してをりました。そのうち、見本をお目にかけませう。」
 その日は、こんな対話をして分れました。
 三月四日にサラトガ号が、上海から来着しました。日本への寄贈品を積み込んで、非常に困難な航海をしてたどりついたのです。
 そのうちに日本委員との会見日はいよ/\三月八日(嘉永七年二月十日)といふことに極りました。その二日まへの六日に香山が艦へ出て来て、応接館が、もはやすつかり出来上つたこと、四人の政府委員が松崎道太郎といふ人を加へて、五人に増員されたことを告げ、八日の御上陸の用意は出来てゐるかとたづねました。こちらは、すつかり準備が出来てゐる。当日には正午十二時に出かける手筈になつてゐると答へますと、香山は、では、その日には、案内者を一人よこしますからと言つて、丁寧にお辞儀をしてかへつて行きました。
 やがていよ/\会見の日が来ました。夜があけて見ますと、陸上では大勢の人夫たちが群がつて、一生けんめいに応接館の飾りつけをしてゐました。館の入口の両側には、長い旗竿が一本づゝ立つてゐて、その先から、白地の真ん中に赤い条をつけた、長い長方形の旗が垂れ下つてゐます。尖つた屋根の上には高い竿が突き出てをり、重たさうな長い絹の布が総のやうに吊されてゐます。と、間もなく応接はすつかり幕でもつてとり囲はれて、全で牢屋かなぞのやうに、外が見すかせないやうにされてしまひました。
 ペリーはそれを見て、不審を抱き、早速士官の一人を上陸させて、何ゆゑに応接館を幕でつゝみ隠すのかと、そのわけを尋問させました。すると日本の役人は、それは、一つには人民たちの入りこむのを防ぎ、同時に、貴使節に対して敬意を表するためだと、全で筋みちの立たない弁解をしました。
 そこで士官は、
 「さういふ無意味な敬意の表彰は御撤回をねがひたい。もし飽くまであの囲ひをお取り払ひにならないとなれば、長官は断じて上陸されないから、そのつもりで考慮されたい。」と、手きびしく反対しました。すると役人たちはあわてゝ、相談して、士官の要求どほり、早速、その囲ひものを全部とりはずしてしまひました。
 
 二九
 
 いよ/\会見の当日が来ました。対岸の応接館の附近には、てか/\の漆塗りの笠をかぶり、派手な色の長い袖なし上着を着た、護衛兵らしい小部隊が深紅色の旗や、きら/\した長槍をかざして、そちこちに控へてゐます。両側の広場は、それ/゛\青い竹の組格子で区切られて、その外に、あたりの村々から押しかけた土民たちが、ぎつしり立ちつまつてうよ/\と押し合ひ突きかへしゝてゐます。二三人の役人たちが忙がしくかけ廻つて、人足たちに指図をしたり、群集の雑沓を制止したりしてゐるのも手に取るやうに見えます。村の海岸一帯には、大小さま/゛\の日本船が、舳に総飾りをつけ、ともの方に横線なぞの這入つた四角な小旗をたてゝ玩具のやうに群り並んでゐます。
 そのうちに、はな/゛\しい旗や、けば/\した幕なぞで飾られた、二階づくりになつた一艘の大きな船が、神奈川の町先からゆう/\と漕ぎ出して来ました。それは日本の政府委員を乗せた船で、やがて横浜村の岸近くに着くと、その委員らしい大官たち数人が従者とともに艀に乗り移つて上陸しました。
 ペリーは今度も出来るだけ日本人を威圧する考へから、全艦隊にはほんの少数の係員だけを残して、あとの士官水兵のこと/゛\くを引きつれて上陸することにしました。楽隊も三組とも全部参加するやうに命じ、各員の服装等は、士官は肩章をつけたフロツクコート、そして、いづれも長剣のほかにピストルを携帯すること、水兵は青色のジヤケツトに青色のズボン、白の上着、おの/\小銃、剣、ピストルの武装をすること、音楽隊員も剣とピストルをつけること、その他、すべての随行者も、すべてピストルを携へるやうに命令しました。
 やがて十一時半になりますと、士官、水兵、その他、合計約五百名の部隊が、ブツカナン艦長の指揮の下に、二十七隻のボウトに分乗し、長く一列につらなつて堂々と出発しました。そして全部上陸を終ると、水兵は道路を広くあけて両側に整列し、士官たちは埠頭場のところに集つて、ペリー長官の来着を待ちうけてゐました。
 長官がポーハタン号から大型のボウトに乗り移ると同時に、マセドニアン号から轟々と十七発の礼砲を射ち出しました。長官が上陸しますと、音楽隊はりうりやうと奏楽をはじめました。士官たちは、ペリー以下のあとに扈従しました。日本の護衛兵は館の入口の左右にゐ並んでゐました。役人たちはペリーの一行を案内して館内へ招じ入れました。そのとき艦隊からは、日本の皇帝に対して二十一発の礼砲を、ついで交渉委員長林大学頭に対して十七発の礼砲を放ち、旗艦ポーハタンの檣頭たかく、横線の這入つた日本の国旗を掲げました。
 応接館は、やはり、久里浜のときのと同じやうな設計に出来てゐて、畳の上には赤い布を敷き、窓には油を塗つた紙の障子が建てつけてありました。その油紙を通して、薄いやはらかい光線が広間に射してゐます。三月といへど、まだかなり寒かつたので室内には、ところ/゛\に、漆塗りの台の上に銅の火鉢をのせて配置してありました。まはりの壁には掛けものがかゝつてゐます。その絵は、樹木やさまざまの動物をあらはしたもので、特に鶴をかいた絵が一番多く目につきました。
 ペリーと、士官通訳たちが、向つて左側の上席に着席し、かなり多数の日本の役人たちが右側にかけますと、間もなく次の間から、五人の政府委員が出て来ました。すると、役人たち一同は、いきなり、ぺたりと床の上に平伏してしまひました。
 委員たちはいづれも、きら/\した模様服を着てをり、風采もさすがに立派で、終始、非常に礼儀正しく落ちついてゐました。
 委員長の林大学頭の風貌は、すでにこのまへにも記したとほりです。年は五十四五でせうか。体格もどつしりしてをり、真面目といふよりも、寧ろむつかしい人物らしい顔附きですが、その目差には、非常に深い仁愛さが漂つてゐます。
 次の井戸対馬守は、多分六十ぐらゐでせう。背丈の高い肥え太つた人で、林よりもよほど元気に充ちた顔つきをしてゐます。伊沢美濃守は、五人のうちで一ばん若く、四十の上をいくつも越えないくらゐの大名でした。伊沢は前の二人に比べると、飛びはなれて綺麗な男で、性質も非常に快活らしく、冗談や駄酒落の上手らしい顔付きをしてゐます。後で日本の通訳から聞くと、この人は、外国との交通については、他の同僚よりもずつと寛大な意見を持つてゐるといふことでした。ペリーの部下のアメリカ人は、だれもかれも彼を好きました。怖らく日本人の間でも、同じやうにみんなから好愛されてゐる人でせう。音楽に対して深い趣味があると見えて、いつもアメリカの音楽隊が奏楽をはじめると、手や足をもが/\させて調子を取つたりしました。
 四ばん目の鵜殿民部少輔は大名ではないといふことでした。容貌はまづ普通なみでしたが、顔面が蒙古人流に、ひどく突出してゐました。 その次の松崎道太郎といふのは、どういふ官職の男だか、とう/\判らずじまひでした。これは前にも記したとほり、最近に、後から委員に追加されたもので、ひよツとしたら、他の委員の行動を監視するために特に政府がつけておく探偵ではなかつたのでせうか。彼はすべての協議に出席はしましたが、いつも他の委員からずつと離れて、末席に腰かけてをり、そのそばには一人の書記役のものが坐つて、頭を下げたまゝ、会見の経過を、とき/゛\松崎から何をか注意されつゝ、一々もらさず書き留めるのでした。ともかく松崎は、委員の相談のときにも呼ばれなかつたことも確かであり、いろ/\の点から見て、他の四人の委員よりも、ずつと下の役人であつたやうです。年は六十近く、痩せた背のたかい男で、ひどく黄色味を帯びた、気むづかしい、胃弱的な不愉快な顔附をしてをりました。ひどい近視眼だと見えて、物を見るときには、もと/\不愉快な顔を、一層ゆがめたり、しかめたりしました。アメリカの士官たちは、この男を一ばん不愉快に感じました。
 今度のこの会見について、一ばん主だつて働いた通訳は例の森山栄之助でした。
 五人の委員がペリーたちと対面に着席すると同時に、栄之助は林大学頭の足もとに跪いて指図を待つてゐました。一たい日本人の間には、相手の地位に応じてそれ/゛\礼儀が極つてゐるのだから滑稽です。一ばん最高の皇帝さへも、神の偶像のまへには頭を下げる。それからだん/\に下つて、とう/\農夫に至るまで、おの/\、自分のすぐ上に、ぺこぺこと頭を下げなければならない目上の人を持つてゐるのです。
 だから日本人の礼儀は丁度、子供がする将棋倒しの遊戯と同じです。一ばん端の駒が倒れると、すべての駒が順ぐりにすつかり倒れて行くやうに、次へ/\と目上のまへに平伏するのです。換言すれば、すべての日本人には、主人と家来との地位がたえず転倒して、今人の足下に頭を下げてゐるかと思ふと次の瞬間には人の頭を足下に見下して傲然とかまへてゐるといふことになるのです。
 林は、しばらく無言でゐましたが、やがて栄之助に向つて何か言ひ出しますと、栄之助は、俯伏したまゝ聞いた上、跪いたなりの姿勢で上手に席をすべつて通訳のところへ言つてその言葉をつたへました。ところが、それがオランダ語で話され、更にアメリカの通訳が英語に直すのを聞くと、それはたゞペリー長官以下の機嫌をたづねたゞけの、普通の挨拶に過ぎません。なほつゞいて、さういふたぐひの儀式だけの言葉が、いろ/\と栄之助を仲介に交換されました。その間に、給仕のものが煙草盆や茶や菓子をはこんだりしました。
 林たちはそれがすむと、この上の会談は別室でしたいと言ひ出しました。ペリーはそれに同意して、士官たちと、二名の通訳と、秘書官を従へて、ほかの小さい一と間へ案内されました。
 入口の真ん中に下つてゐる、葵の紋を縫取りした幕を排して這入つて行きますと、林以下の委員たちは、すでに右側に着席してゐました。ペリーたちは左側に並んで腰かけました。かうして、いよ/\談判がはじまる段取りになりましたが、委員たちは、協議をすゝめるのがいかにも心配らしく、一言/\を細心に考へ/\話すのです。
 林はやがて、長く巻いた書きものをペリーに手渡ししました。それはいふまでもなく去年の七月に久里浜で交附した、大統領の親翰に対する日本政府の返書でした。その書面の大体の意味を摘出しますと、
 「貴国政府お申出の条項は、日本の国法に抵触するので、今のところ、早速満足な回答を捧げることは不可能である。無論われ/\としても、旧来の制度を頑固に守りとほすといふことは、甚だしく時勢をわきまへないやり方とは考へるが、それも併し実さい上止むを得ないのである。昨年貴使節が来朝されたときには、前皇帝陛下は不例であつたが、間もなく崩御され、最近に現皇帝陛下が即位せられたのである。そのために、政府ではいろ/\のさし迫つた用件に追はれてゐて、ほかの事に取り係つてゐる閑がない。且つ、現皇帝の即位の際、皇帝はすべての大名及びその他の高官に対して国法への絶対の服従を宣誓させたばかりなので、今たちまちに政府がその国法を変更することは条理として出来ないことである。
 以上のことは、すでに昨年の秋、オランダ船の出帆の機会に、オランダ人にたくして貴政府に通牒しておいたとほりである。最近ロシアの使節も長崎へ来て通商を申し込んだけれど、これも何等の返答をも受けとり得ないでかへつたやうな次第である。
 併し石炭、水、糧食の供給、難破船や罹難民の救助についての貴国政府の御要求は、快く、こと/゛\く認容する。
 なほ、開港の問題は、港湾の選定さへつければ、すぐに準備にとりかゝる都合であるが、実さいの開港を見るまでには今後五箇年の日数を要する見込である。
 石炭は明年、すなはち、千八百五十五年の一月十六日から長崎で供給し得る。その他貴国の船艦の入要物資中、出来得るかぎりのものはすべて供給する。その品目、価格等については、黒川嘉兵衛、森山栄之助に命じて協定せしめる筈である。
 以上のすべてを諒承されるならば、次回の会見において、そのための条約を協議し調印をするであらう。」
と、かういふ意味のものでした。
 ペリーはその書面を受け取つて帰艦しました。書面には森山栄之助の署名だけがしてありました。ペリーは翌日栄之助に向つて、その書面中の日本政府の提議をすべて承諾することを通告し、早速条約の相談に移りたいと申し入れました。但し、右の書面は、森山の署名だけでは効力がない、ぜひ五人の政府委員の調印が必要であると言つて森山にかへしました。ペリーはなほ森山に対して、
 「もし小官が貴国と条約を締結することに成功しないとなると、米国政府は必ず更に多数の軍艦を増派して、飽くまで目的を貫徹するつもりでゐる。小官は貴国へのさういふ煩累をはぶくため、早く穏便に片をつけたい希望である。その条約は合衆国と支那との条約と同じやうにしたならば日本に取つても利益に相違ない。」
 かういふ意味を森山に伝へた後、林大学頭以下、全委員にあてた返書と、イギリス、支那、オランダの各語でかいた、対支那条約の写しとを森山に手渡ししました。
 ペリーはその返書中に、大統領から日本の皇帝にあてた多数の贈りものが来着してゐることを告げ、次には日米の和親条約の締結は日米両国の真の利益である、特に日本の向後永久の平和と幸福とのために絶対に必要である所以を淳々と説き、最後に、小官は貴政府が、わが大統領の提議に対し、満足なる解決を与へらるゝまでは、いつまでもこのまゝ日本に留り、本国へは断じて引きかへさないつもりであると威嚇しておきました。
 その翌々日、例の黒川嘉兵衛が、通訳の森山栄之助をつれて出て来ました。そしてアダムス参謀長と会見して、このまへ返附した書面へ、ちやんと林大学頭以下五人の委員が記名捺印したのをさし出しました。その席上で、参謀長は黒川と協議して、アメリカからの寄贈品は、三月十三日に受け渡しをすることに取り極めました。ついては、その中の、電信機、蒸汽機関なぞは、前以て取りつけの準備をしておかなければならないのだが、と話しますと、黒川は、では、その係りの技術者たちに限り十一日に上陸されても差支へないと許諾しました。それから十三日には、政府委員中の二人が臨場して、品物を受取ることにすると言ひました。
 
 三〇
 
 アダムス参謀長は三月十日に、黒川嘉兵衛と、ポーハタン号で会見して、アメリカの寄贈品の受け渡しの日取りを、十三日にとりきめました。その席上で、アダムスは、黒川に向つて、日本政府はアメリカとの通商に、どこの港を開放するつもりかとたづね、さきに政府が五年後に開港すると申し入れたことについて、五年間の延期はあまりに長すぎる、それに港をきめるにしても、オランダ人たちに対する長崎の出島のやうに、一定の地点から一歩も外へ出さないといふやうな窮屈な制限は、絶対に拒絶すると言ひわたしました。すると黒川は、それ等のことについては、政府委員が、今、頻りに熟考してゐると答へたゞけで、それ以上、問題にふれるのを厭がるやうに見えました。
 アダムスは、そのつぎに、目下、この湾内の測量にかゝつてゐるが、それには、ぜひ海岸へ目標を建てなければならない、それで、無論決して海岸より内へは入り込ませないから、少数の測量員の上陸を許してくれるやうにと申し込みました。黒川は、それは政府委員の指図を仰がなければ確答は出来ないが、たゞ海岸へ目標をたてるだけならば、政府でも異議はないかも知れないと答へ、なほ、
 「万一、アメリカ人が、村の中まで這入られでもして、日本人との間に、不意な間違ひや、さわぎがおこると大変である。それから、もう今後は、江戸に近い方面へは、全然近よつて下さらないやうに。」と言ひ加へました。それから、物品の供給については、港がきまつた上で、品物の交附係と勘定係とを任命し、アメリカの貨幣で支払をうける考へであると話しました。
 その翌日も、アダムス参謀長は、陸上の応接館で黒川と会見しました。そのとき通訳は、今後の上陸について、ペリー長官以下、士官だけは差支へないが、それ以上に、だれでも上陸されるとなると、人民との間に間違ひを引きおこす怖れがあるからと言つて、それとなく、兵員たちの上陸にたいして反対しました。
 
 三一
 
 寄贈品をわたす当の十三日は、何だか朝から天気がはつきりせず、それに海上も多少荒れてゐましたが、品物をつみ込んだ数隻の大型ボウトは、構はず、アボツト艦長の指揮の下に、多数の士官、水兵、軍楽隊をのせたボウトに護られて横浜村の埠頭場へ乗りつけました。日本側では、応接館のそばへ、陳列所を建てゝ用意をしてゐました。アボツト艦長が上陸しますと、香山栄左衛門が四五人の下役と一しよに出迎へて、応接館へ案内しました。
 すると間もなく委員長の林大学頭が出て来て、普通の挨拶をした後、艦長と、艦隊附の通訳官とを別の小さな部屋につれて這入りました。艦長と林とはそこではじめて寄贈品の受けわたしの挨拶を交換しました。ついで委員たちは、いろ/\相談したあげく、艦長に向つて、三月十六日にペリー長官と陸上で会見して、開港問題についての返答をしたいと申し入れました。
 寄贈品は、皇帝へあてたのが四十七点で、その中の重だつたものは、ライフル銃五挺、メーナルド小銃三挺、ピストル二十挺、騎兵軍刀十二口、砲兵軍刀六口、弾薬函二個、衣裳箪笥一個、香料二包、ウヰスキー、葡萄酒、シエリー酒、シヤンペン酒各若干、望遠鏡一個、電信機二組、電線四束、外電信用品一式、機関車、炭水車、客車、レイル等一式、救助船三隻、オーデユボン著「アメリカの鳥類」四巻、同「アメリカの獣類」三巻、柱時計数個、軍艦用大盃十個、アイルランド馬鈴薯八籠、ストーヴ三個、合衆国の秤桝尺度、海図、農産物の種子等です。
 そのほかに、政府委員にあてた、シヤンペン、マラスキノー酒、シエリー酒、ピストル十一挺、香料、茶壷、磁器など、それだけの大貨物がどん/\陸上げされました。その日から士官たちの指図のもとに水兵たちが毎日荷造りをといては陳列しました。日本人側からも手伝ひ人が来て、日除けを作つたり、汽車のレイルを敷く地面をならしたり、電信柱をたてたりして、機敏に働きました。日本の役人たちは機械類の組み立てを、にこ/\と子供のやうに喜んで見守つてゐました。
 電信はドラバー技師の指図で、応接館と、一里ばかり離れた或役場との間に取りつけました。技手が双方から代る/゛\機械を動かしはじめますと、英語、オランダ語、日本語の通信文がどん/\表はれて来ます。日本の役人たちは目を円くして驚いて、毎日いくどとなく、それをねだつては見物しました。
 第二に日本人の興味を引いたのは蒸汽車です。これは機械も車も函も、本物のとほりに完全してゐるのですが、もと/\標本として作つたゞけのものですからやつと五つ六つの子供を乗せれば乗せられるくらゐの小型のものでした。それでも日本の役人たちは、どうしても一度乗つて見ないと得心しません。客車の中へは、無論体が這入らないので、彼等は代る/゛\函車の屋根の上乗りました。列車は、一時間二十五哩の速力で、円形のレイルの上をくる/\走るのです。日本の役人たちが屋根のふちにつかまりながら、寛かな上衣を風にふくらませて、まじめ腐つて運ばれてゐる有様は、ほんたうに滑稽でした。だん/\に速力がますにつれて、役人たちは、一生けんめいにかぢりついて、歯をむき出しながらげら/\笑つてゐましたが、その実は非常に怖かつたものと見えて、大抵のものが体中をぶる/\ふるはせてゐました。汽車は、そんなことには構はず、どん/\跳ね上りながら疾走しました。跳ね上つたのは速力のためばかりでなく、屋根の上の役人たちが、振り蓬落されまいと思つて、がた/\ゆれ/\しがみつくので、よけいにはずみが附くためでした。
 
 三二
 
 日本の役人たちは、それ等の機械なぞをはじめ、すべての品物を、さも物珍らしさうに、一々くはしく見て廻りました。或ものは、それだけでは満足せず、つぎには、士官や下士卒の後について来て、士官の帽子から燕尾服、水兵の帽子、ジヤケツト、ズボンまでも一々ひねくり廻して、布地にさはつたりカラーをいぢつたり、ポケツトへ手を突つ込んで深さを計つたりするのです。そして、おの/\のものが、士官の身についてゐるものを、何か一つくれとねだりました。多くのものは、服のボタンを欲しがりました。そんなものならわけもないので、さあ/\おとりと言ひますと、みんな大喜びで服から切りはなして、さも、貴いものをでも貰つたやうにほく/\喜んで立ち去るのでした。
 彼等は艦へ来た場合でも、上官も従者も、一寸も落ちついてゐないで、そこいら中をきよと/\覗いて廻り、大砲の砲口にさはつたり、小銃をとり上げて見たり、帆綱を引つぱつたり、指先でボウトの寸法をはかつたり、機関室の入口に立つて、わき目もふらずに覗いてゐたりします。そして、だれもかれも同じやうに、筆と墨壷を懐から取り出して、見たものを一々紙の上へ写生するのが癖でした。臨写の器用、不器用に頓着なく、何でもかでも写しとるのです。一たいに絵画なぞには特に趣味を持つてゐると見えて、絵や彫刻なぞを見せると、非常に喜んで長い間飽きずに見入つてゐます。
 いろ/\の点から考へて、日本人は非常に模倣にたけてゐる人種だといふことが分ります。そこは全然支那人と同等です。敏感で融通がきゝ、そして一面甚だ温順な民族です。彼等はその他の性格上、さしあたり欧米人と同じ程度の、高等な文化生活に移り得る望みはないにしても、だん/\に導いて行けば、欧米人の或習俗に引き入れることは、さまで困難ではないと思はれました。
 とにかく彼等は非常に好奇的で、何でもくはしく見調べて行きますが、併しアメリカ人に向つて質問をしかけたり、打ちとけて話し合つたりするやうなことは決してしません。怖らく政府の法令でもつて彼等の制度、風俗、習慣等、すべて日本の実状に関することは一さい外国人に話してはならないと厳禁されてゐるのでせう。これがアメリカ人にとつて、日本についてのくはしい知識を得る上に、どのくらゐ障害を与へたか分りません。
 事実上役人たちは、あらゆる手段をつくして人民たちがアメリカ人に接近するのを阻止しようとしてゐました。艦隊では、野菜なぞの食料や飲料水を日本人から受けとり、陸上では、電信機をかけたり、汽車を動かしたりして、毎日、下役人や、労働の人夫たちと立ち交はる機会がありました。人民たちは役人よりもずつとアメリカ人に親しみを持つてゐるやうに見えました。併し彼等は役人からじろ/\監視されてゐるので、琉球人の場合と同じく、自由にアメリカ人と打ちとけて交際することが出来ないわけでした。
 
 三三
 
 黒川嘉兵衛と通訳の森山栄之助とは、引きつゞき殆ど毎日のやうに艦隊へ出て来て、供給の水や食料品について、何かと打ち合せをして行きました。
 三月十四日のことです。黒川と森山とが、丁度艦を下りようとしてゐるところへ、一人の役人が神奈川の町から大急ぎで漕ぎつけて来て、アメリカ人が一人、神奈川の町を通過して江戸方面へ向つて行つたと、非常に興奮した態度で報告しました。黒川たちも、それを聞くと驚いて、それは根本に日本の国法を裏切るばかりでなく、先般のペリー長官の口約にも戻るわけだと言つて、やかましく抗議を申込みました。そこでアダムス参謀長は、一応ペリーに通告しました。ペリーは直ちに号砲をうたして、士官たちを旗艦に召集し、各艦所属の全員を、すぐに帰艦させるやうに命令しました。ペリーのこの好意深い敏活な処致に対して日本政府は非常に感謝して、翌日はわざ/\謝礼の使をよこしました。
 このさわぎを引きおこしたのは、サクスハナ号のビツテインガーといふ牧師でした。彼は横浜村の海岸を歩いてゐるうちに、つい好奇心にそゝられて、許可されてゐる地域外へ蹈み込んでしまつたのです。横浜を出て、一里ばかり先の神奈川の町まで来ますと、二三人の役人と一人の通訳とが行く手に立ちふさがつて、これから先へ行つてはならない、引きかへせと言ひ迫りましたが、押しのつよいビツテインガーは聞かないでむりに歩きつゞけて川崎まで行きました。さきの役人たちは仕方なく、そこまであとをつけて来ました。川崎へ来ると一と筋の川が流れてゐました。ビツテインガーは、その向う岸へ渡らうとして、船頭をとらへて、金を見せたり、威嚇したりして小舟を出させようとしましたが、いくら言つても船頭は応じません。ビツテインガーは、困つて、どこか徒渉る場所をさがさうとして上流の方へ行きかけました。すると、そこヘポーハタン号から特派された使が来て、ペリー長官の布告をわたしました。ビツテインガーはそれを読んで、止むなく引き上げて来たわけでした。
 併し彼はその冒険でもつて、神奈川といふ比較的大きな町を見物し、寺院や民家の中をも覗いて見、なほその上に、或店でアメリカの貨幣と日本の貨幣を交換して来たりしました。
 ところが日本では貨幣の交換は非常にきびしく禁ぜられてゐて、それを犯したものは重刑に処せられることになつてゐたので、土地の役人たちは非常に困つてゐるといふことでした。役人たちが政府委員に報告した書面を見ますと、
 「そのアメリカ人は通りの一商店に這入つて、日本の貨幣を少し見せてくれと言ひ出したり店のものは最初は躊躇したものゝ、その人があまりに、しつツこく言ふので出して見せると、今度は秤を見せてくれといふ。秤を出すと、アメリカ人は、銀貨を幾枚かとり出して、日本の、金貨のまざつた一とつかみの銭を、同じ目方だけかけ計つて、その銀貨をくれた代りに日本貨幣を取り上げた。商人は、それを持つて行かれては困ると言つてこん/\頼んだけれどアメリカ人は飽くまで頑ばつて、しまひには剣をぬいておどかしまでした。もつとも、それはたゞ冗談にぬいただけで、本気で危害を加へるつもりではなかつたらしい。」
 かういふ風に書きつけてありました。翌日森山はピツテインガーがその商人にわたした、アメリカの銀貨三弗半を持つて来て、とりかへた日本貨幣の金銀貨各六枚と銅銭六枚を返してくれと申し込みましたが、アダムス参謀長は刎ねつけて帰らせました。

 三四
 
 開港問題についての、ペリーと日本政府委員との再度の会見は三月十六日といふことに極りました。ところが、当日はあいにく非常な大暴風雨だつたので、会見は翌日に延ばすことになりました。そのしけの中をくゞつて、ペリーのこの前の要求に対する日本政府委員の回答書が来ました。その内容は、
「お申出でのアメリカの難破船の救護と、艦船への水、石炭、食糧等の供給との二箇条だけはすぐに許諾するけれども、今すぐ、貴国と支那の間に行はれてゐるやうな通商を開くことは全然不可能である。日本国民の感情や習慣は諸外国とちがつてゐるところが多いので、従つて、これまでの法令をにはかに変更するといふことは容易に出来がたい。支那は久しい以前からヨーロツパ等の諸国と交通してゐるのであるが、日本はたゞ最近以来、長崎の一区劃で僅かにオランダ人と支那人とのみに商取引を許してゐるだけの話である。貴国に対しては来年の一月から長崎で炭水、食糧等の必要品を供給すべく、又五年の後には、他の適当な港をも開放する予定である。さうなつた上は、日本近海を通過する貴国の艦船はかなりの便利を得らるゝわけである。」と、このまへと同じことをくりかへしたまでのものでした。
 翌十七日に、ペリーは、秘書官、通訳のほかに二三名の士官を従へて上陸し、日本委員と応接館で会見しました。委員長の林大学頭は、まづ第一ばんに昨日さし出した提案に御同意であるかどうかと切り出しました。ペリーは、長崎は問題ではない、蝦夷の松前と、琉球の那覇との二つの港をおそくとも六十日以内に開港されるやうにと要求しました。日本委員は、長崎の官民は外国人をよく了解してゐるがその他の土地では事情がちがふので相互の接触が円満に行かない怖れがある。且つ他の港を開くにしても、長崎と同様の準備をするには少くとも五年の年月を要するのでと、体よく刎ねつけようとかゝりました。ペリーはそれに対して、
 「長崎は開港場といふよりも、たゞオランダ人たちに対して、或限られた使用にあてられてゐる一種の隔離区域である。われ/\は、オランダ人に加へられてゐる、出島以外に一歩も出られないといふやうな、あんな抑圧には到底堪へしのぶことは出来ない。実をいふとわれ/\は、浦賀か鹿児島かの何れか一つと、さき程指定した、松前、那覇と、ほかにどこか一つと、つまり五つの港を、完全な開港場として提出されることを望んでゐるのであるが、さしあたり、浦賀か鹿児島かの一港と、松前と那覇とを開かれたい。あとの二港は又次の機会に相談する。再びいふが、今のまゝの長崎は、絶対に開港場と認めることは出来ない。」と言葉を強めて宣言しました。
 日本委員はしつツこく長崎を主張しましたが、ペリーはどこまでもそれを拒けて、上にあげた三港を主張しました。すると日本側では、鹿児島や浦賀はとても駄目なので、その代りに、伊豆の下田港を提供しようと言ひ出しました。それから、あとの二港については、琉球は完全な日本の領地ではないのでその方のことは、われ/\の政府で決定する権能がない、又松前も同じわけで、同地の支配者の同意を得なければ全然決定は出来ないのである、と、極めて筋のたゝない口実で遁げ抜けようとしました。
 併しペリーがそんな奸策には全然乗らないので、それでは、松前のことについては、委員間で一応熟議して見るからと言つて、林たち一同は次の部屋へ退きました。
 一時間ばかりたつと彼等は再び着席して、松前の支配者と交渉するとしても、それには少くとも一年の年月がかゝるので、今の際の間には合ひかねると答へました。ペリーは、貴官たちの言はるゝ如く松前が一つの独立国であるのなら、はじめから貴国政府と商議する必要はない、われ/\はこれからすぐに松前に廻航して直接に談判するまでゞあると確言しました。すると日本委員は、松前の問題は三月二十三日に、当方から何等かの返事をするまで、このまゝ保留しておいてもらひたいと言ひ直しました。
 ペリーはそれを承諾し、下田の方は軍艦一二隻を派遣して港内をくはしく測量して見る、その結果、同港がわれ/\の希望にそはないときには、別に本州の南方の適当な港を指定されたいと談じ込み、日本委員も結局同意したので、ペリーは、その日は、それで引き上げました。
 すると間もなく主任通訳の森山栄之助が二人の役人につれられて旗艦へ来て、オランダ語でかいた手紙をわたしました。それは、松前のことは今日の協定のとほり猶予を乞ふ、下田については貴長官の提案を承諾するといふおぼえがきでした。
 そのとき森山は、先日サクスハナ号の牧師が交換してかへつた日本貨幣を返附してくれと頼むので、ペリーはアダムス参謀長に命じて、早速すなほにかへしてやりました。彼等が艦を去らうとするときに長官は参謀長の手を経て、このまへ日本委員に寄贈したやうなピストルや、そのほかに、たいした値打のものではありませんでしたが、ともかくアメリカ製の品物をいろ/\くれてやりました。
 その次に日本の役人たちが来艦した際に、アダムスは、先般、長崎ヘロシアの軍艦が来たらしいが、日本とどういふ交渉があつたかと聞きました。すると役人たちは、
 「来たのは事実ですが、今のところ皇帝は非常に御多忙で、二三年の後でないと、何ごとも協定するわけに行かないので、たゞ炭水、食糧だけの支給をしてかへしました。ロシア人が来航した重な目的の一つは蝦夷との国境を確定することのやうに聞きました。」と答へました。
 二十二日に、ペリーはバンダリヤ、サウザンプトンの二隻を下田港の測量に派遣しました。
 翌二十三日になりますと例の日本政府委員たちがポーハタン号へ来訪して、約束どほり、松前問題の回答書を提出しました。それは日本、支那、オランダの各国語でしたゝめた手紙で、その文面には、
 「北アメリカ合衆国の船艦は、糧食、炭水等の欠亡した際は、蝦夷の函館港で供給されることを認容する。併し同港は極めて遠隔の地方で、準備に時日を要するため、明年七月に開港する。
  嘉永七年二月二十六日
  長官の命により捺印    森山栄之助」
とありました。記入の年月は西暦一八五四年の三月二十四日に当るのです。彼等はつまり松前の代りに函館を提供したわけです。その港ならば松前に近く且つ、良好な港なので、ペリーは異議なく、この提案に同意しました。但し開港の期日は出来るだけ一日でも早めて貰ひたいと希望しておきました。
 ペリーはあれ程強硬だつた日本が、とう/\譲歩に譲歩して函館を開港したことを非常に喜んで、これは、最後には、われ/\の来航の目的のすべてが悉く貫徹される予告であると、幕僚たちに話しました。

 三五
 
 翌二十四日には、日本政府は、アメリカの寄贈品に対する返礼として、公式に、アメリカ政府等へ贈物をしたいからと言つて、長官以下を招待しました。長官が幕僚、通訳官、軍楽隊を従へて上陸しますと、林以下、政府の交渉委員たちは、一同を礼儀厚く応接館に案内しました。室内には、赤い布をかけた棚が幾段にも作られて、その中や床の上へまでかけて、絹の織物、漆器、磁器、金属製の飾物など、さま/゛\の品物がぎつしりとおき並べてありました。いづれも日本人の製作品で、中でも磁器のごときは巧妙な支那人の技術をも凌ぐやうな、すぐれた、立派なものです。それが贈られる宛名で区分して、秩序よく、飾り並べてあるのです。ペリーと、委員との間の普通の挨拶がすむと、林大学頭は、日本語で贈り物の品目と宛名とを声だかく読み上げました。それを通訳の森山がオランダ語に訳し、ペリー側のボートマンが更にそれを英語に訳して聞かせるわけです。
 この式が終ると、委員たちはペリーを次の間へ招じ入れて、日本の金貨幣を二た揃ひと、火縄銃三挺刀剣二ふりをペリーに贈呈しました。この別口の贈りものは無論価格としては何でもないものですが、併しそれ自身は、日本政府がアメリカの代表者をいかに好遇してゐるかの証左として非常に意味深いものでした。第一、貨幣のごときは、特別の法令でもつて、国外へ出すことを絶対に禁止してゐるのです。ペリーがそれ等すべての贈物に対して答礼を述べますと、林は、なほこの外に皇帝から艦隊へ寄贈された品物があると言つて、長官以下を海岸へ案内して行きました。するとそこには藁の袋に入れられた二百包みばかりの米が、すぐに艀へつみ得るばかりに積みかさねてありました。ペリーたちは、その大容積の贈物にはびつくりして、これは何の意味を表はしてゐるのかと尋ねますと、委員たちは、日本の習慣として、皇帝からの下されものには、必ず若干の米が附けられるのが普通なのだと答へました。
 上に言つた貨幣、小銃以外の贈物の名宛と品目とは、
 第一、アメリカ合衆国政府へ。
皇帝から。金地塗硯函、同文庫、同書棚、漆塗机、牝牛の香炉、火鉢、花生け置台附、以上各一箇。盆一と組、花模様縮緬、赤色模様縮緬、無地絹布、以上各五匹。赤絹十匹。
林委員から。漆塗硯函、同文庫、枝珊瑚と銀細工の函、漆塗重函、以上各一箇。漆塗三組台附杯一揃。小函二箇。貝殻百箇入四箱。手函五箇。猪口、匙、螺鈿の杯、台附杯等揃七箱。
第二委員井戸から。漆塗盆二枚入、傘二十本入、棕●箒三十本人、以上各二箱。
第三委員伊沢から。赤絹、無地絹布、以上各一匹。竹細工籠、竹製置台、以上各一箇。人形十三箇入八箱。
第三委員鵜殿から。磁器の猪口二箱。縞縮緬三匹。醤油十瓶入一箱。
第五委員松崎から。花莚一箱。磁器台附猪口三箱。樫炭三十束。
大老から。縞絹物十四匹。
五人の委員から。縞絹物十匹づ。
 第二、ペリー長官へ。皇帝から。漆塗硯函、同文庫各一箇。無地絹布二匹。赤絹、花模様縮緬、友禅縮緬、以上各三匹。
 第三、アダムス参謀長へ。委員から。赤絹、友禅縮緬、各二匹。漆塗椀二十組。
 第四、秘書官ペリー、通訳官、ボートマン、エス・ウヰリアムスの四人へおの/\。委員から。赤絹二匹、友禅縮緬二匹づゝ、漆塗椀十組。
 第五、ゲー、ダンビー、ドレバー、モーロー、ヂエー・ウイリアムスの五人へ、おの/\。委員から。友禅縮麺一匹、漆塗椀十組づゝ。
 第六、全艦隊へ。皇帝から。白米二百俵。鶏三百羽。
 以上。
 ペリーたちは、海岸の米俵を見て再び館へ引きかへさうとしますと、ふと、一隊の大きな赤裸の巨人の群が、づしり/\と地面をふみつけながら近づいて来ました。通訳の言ふところによりますと、彼等は、おの/\、それ/゛\の大名に抱へられてゐる専門の角力家ださうで、すべてゞ二十五人をりました。たゞ、腰のまはりに、総の飾りや、金糸縫ひをした目のさめるやうな厚いきれを下げてゐたりするつきりで、逞しくふくれ上つた釣り合ひの取れない胴躯四肢をすつかり剥き出しにした、驚くばかり背丈のたかい、恐ろしく大きな体格の怪物です。全でむり押しに肥つたやうな恰好で、人間としての自然の形態を失つてをり、人といふよりも、むしろ、肉塊と言つた方が至当なくらゐです。目は長く細くて、一寸見ると、あるかないか分らない程であり、鼻の両はしはふくれ上つて頬の肉の間に没入し、首は胴の上部へ、ぢかにとりつけたやうな外観をしてゐます。それ等の角力家の或一人は小柳とよんで、当代では日本中で双ぶものもない剛力ものだと言ふことでした。
 委員たちは、わざ/\その小柳をぺリーたちの前によびよせて、その筋肉の硬さや、蒲団のやうに、ぶく/\した腹部なぞを、一々触れさはつて見てくれと希望しました。ペリーは微笑を含みながら、ためしに腕を握つて見ますと全く棒のやうに太く固く頸をなでゝ見ますと丁度牛の喉袋のやうに厚い肉がこびりついてゐました。ペリーたちが、その極端に発達した肉体に愕き呆れてゐますと、小柳はさも得意らしく、白い歯を出してから/\とゆすり笑ひをしました。
 委員たちは彼等角力家の腕力を見せるために、さきほどの米俵を、やはり、艀への積入れに便利のいゝほかの地点へ持ちはこばせました。一俵の重量は十五貫以上ですが、彼等の中には一度に二俵をはこび得ないものは一人もゐません。或ものは口へ一俵をくはへて歩き、他のあるものは一俵を両腕でかゝへたまゝ、いくどもとんぼがへりを打つたりして見せました。
 この余興がすむと、委員はペリー以下を案内して再び応接館へかへりました。こゝで本式の角力の取組みを見せるのださうで、ペリーたち一同は、館のまへに用意された、角力場に面して着席しました。ペリーが引きつれて来た軍楽隊は、角力の合間々々に奏楽して興を添えるために集合しました。日本の役人たちの多くは地上に集つて待つてゐます。するとさき程の裸体の角力家たちが角力場へ上つて来て二た組に分れて右と左とへ下りて行きました。間もなく呼出人が、名前をよび上げると、両方から一人づゝ出て来て、場の中央で、二尺ばかり隔てゝ顔をつき合せて踞み合ひました。
 と思ふと再び立上つて、おの/\膝頭をおさへて猛烈に土を蹈みつけ/\します。それから砂をつまんで、いら/\しく後へ投げつけたり、大きな手の平や腋の下へぬりつけたり、奇妙なことをした後再び踞んで睨み合つてゐました。それから又急に立ち上るなり、むづと組みつき、互にねぢり倒さうとして、必死の勢でもみ合ひました。双方とも顔は血をそゝいだやうに真つ赤になり、節くればつた腕や足を突つ張つて、うん/\と狂ひあせるのです。全で野獣の喧嘩のやうに猛烈な野蛮極まる見せ物でした。そのうちに、とう/\一方が、どしんと地ひゞきを打つて倒れました。これで勝負が極つたわけです。呼び出し人は、すぐに他の一対をよび上げました。かういふ調子で、二十五人のものが殆どすつかり上場するまで、その単調な乱暴な闘技がつゞけられました。
 これがわれ/\に対する日本の役人の饗応なのだから呆れたものです。ペリーたちは、それがすむと林以下をアメリカの寄贈品の陳列場に案内して、正式に鉄道の運転や電信の発信受信を見せました。彼等は模型の小機関車の運転を中心から引きつけられて見てゐました。機関士は片手で竈の火を焚きながら、片手で機関を操縦して、どん/\疾走させました。後には日本委員についてゐる一人の書記が函車の屋根の上に乗つてぐる/\廻りました。みんなは汽笛の鳴るたびに、抑へ切れないやうに歓び叫びました。
 多くの役人は、電信の受信なぞも、すでにいくども見てゐるに係はらず、いつも驚異の目を光らせてくりかへし見てゐます。農具類はモーロー博士が一々くはしく説明しました。
 やがてそれ等の陳列品一さいは引渡委員アダムス参謀長から、日本の引受委員松崎道太郎に引きわたしました。そのあとで、一士官は、艦隊から派遣された水兵たちを指揮して、軍楽に合せて練兵をして見せました。日本の委員たちは、その訓練の立派なのにつく/゛\感嘆してゐました。
 これで当初の予定割りどほりすんだので、ペリーは、一応応接館へかへつた上、日本委員を二十七日の午餐に招待する旨を申し入れますと、彼等は喜んで承諾しました。日本からの贈りものは、悉く荷造りをして、サプライ号に積み込みました。
 
 三六
 
 日本政府との贈り物の受け渡しが滞りなくすんだその翌日、通訳の森山栄之助と、その下役の一人とが旗艦へ出て来ました。ペリーは二人を自分の船室に迎へ入れて会見しました。森山は日本政府委員の代理として、昨日の水兵の演習や、電信機、汽車なぞの贈りものに対して丁重に礼をのべた後、実は例の開港問題について、前もつて少しお話しがしたいのですがと切り出しました。併し、ペリーは、その話は非公式にならば聞いておいてもいゝが、貴通訳官を政府委員の代理と認めて正式に対談せよといはれるのならお断りをすると言つて刎ねつけました。すると森山は、それでは、私一箇の雑談として申上げますが、この前公文書によつて、函館の開港は明年の七月以後でないとはこびがつかないと申上げてありますが、その期日を早めて来年三月には、下田港と一しよに開港することになるでせうと言ひました。ペリーはそれに対して、函館へは近々の中に検分に行く予定であるが、併し同港ならば、下検分をしないうち、今でも、同意し得るが、下田の方は、検分がすんだ上でなければ認定するわけに行かないと答へました。すると森山は、これから長崎へ使を出して通訳をよびよせた上、そのものを函館へ派遣して、貴官又は、貴官の代理官と同地で下話をする手筈だから、函館への回航は、それまで、少くとも百日ばかり後にしてもらひたいと言ひました。ペリーは、そんなに長く延ばすわけにはいかない、通訳が必要ならば、これまでしば/\会つてゐる人をだれかつれて行けば足りるではないかと反問しますと、森山は、それ等の通訳はこの土地を動くわけに行かないからだと答へました。
 ペリーは、それなり話を転じて、下田へは今、二隻の軍艦が検分に出かけてゐる、目的の港として適当であるといふ報告が来た場合には、早速同港を開港して貰ひたい、このことについてはいづれ次回の会見の際、文書をもつて貴政府委員に申入れるつもりであるが、なほ、貴官からもあらためて委員にお話しおきをねがひたい、かう言つてこの話は切り上げました。いふまでもなく森山は、委員の命令をうけて、以上のすべての問題に対するペリーの意向を探りに来たのです。
 森山は次で、アメリカの領事代理設定のことに触れ、炭水食料その他の必要品を貴国艦船へ供給する場合に、何も領事の立ち合ひを煩はさずとも、日本の奉行の手で円満に取り計ふことが出来るから、領事の任命はどうか四五年後にして貰ひたいと言ひ出しました。そこでペリーは領事なるものゝ職務をよく説明して聞かせた上、さういふ吏員が駐在してゐるといふことは、つまりは日本のために好都合なわけであると、懇々話しておきました。ペリーは、なほ艦隊が函館へ往くまへに、下田へ石炭五百石を伝馬船につんで用意しておいて貰ひたい、そのほか、こちらから申し出る品物も、勘定書きをそへてとゝのへておいてほしい、代金はすぐに引換にお払ひする、それから、アメリカ人に対して、日本の製品を勝手に買ひ得る特権と、日本政府の指定する、或区域内へは、任意に出入し得るだけの自由を与へられたいと要求しました。森山はそれ等のことについては、別に異議もないらしい容子でしたが、でもそれに対して何も返答をしないまゝ下艦しました。
 
 三七
 
 二十七日はペリーが日本の政府委員と、その属僚たちこと/゛\くを午饗に招待する日でした。旗艦では、手落ちなく饗応の準備をとゝのへ、士官水兵に制服を着せて、定刻が来るのを待つてゐました。ペリーはその機会において日本人たちの待遇上、よい印象を与へようという意味からいろ/\に考慮したわけでした。御馳走の材料としては、かねてから、かういふ場合が来るのを予想して、犢、羊、野禽、家禽などを用意してゐたのです。さういふ特別な材料へ、普通の獣肉、魚、野菜、果物をとりまぜて、腕利きのコツクたちに料理をさせ、船頭や小ものを除く外、七十人近くの来客をもてなす準備が出来てゐるのでした。日本人の間では地位の上下の相違でいろ/\の作法があり、上役人は、決して下のものと同席しないといふことを、ペリーは十分心得てゐたので、宴席も委員のと属僚のとを別にして、委員はペリー自身の船室で、下役人は上甲板の後部で饗応することにしました。甲板のその場所へはきれいなテントを張り、日米両国の国旗なぞで飾りつけをさせました。
 日本政府委員は、旗艦のポーハタン号へ出向く前に、マセドニアン号へ上艦しました。彼等が甲板へ上ると同時に、ミツシツピイ号は十七発の礼砲を発射しました。一行は間もなくマセドニアンから下りて、ポーハタンへ漕ぎよせて来ました。そのときマセドニアン号から轟々と礼砲を打ち出しました。
 ポーハタンでは委員たちを迎へて、まづ艦内の方々を巡覧させました。一同は大砲や、いろ/\の機械を熱心に見て廻りました。試みに機関を運転して見せますと、彼等はそれについていろ/\の質問をしました。その着眼点の気の利いてゐることは、さすが上流の日本人だけあると、士官たちも感心したくらゐです。
 かうしていろ/\の珍らしい器械や設備を十分見せた後、林大学頭以下五人の委員をペリー長官の室に案内し、六十人あまりの随行員を上甲板のテントヘつれて行きました。
 ペリーは艦隊の四人の艦長と、通訳のウヰリアムスと、秘書官の小ペリー(長官の甥)とを日本委員と同席させました。通訳の森山も役柄上特別に、以上の人々の側にすゑたテイブルに着席させました。テイブルの上には、精一ぱいの立派な御馳走が並んでゐます。林だけは、こんな際にもいつもの荘重な態度をくづさないで、控え目がちに、それ/\の皿へ少しづつ手をつけ、すべての酒を少々づゝ試したゞけですが、その他の四人の委員は、非常な上機嫌でどん/\食べ、ぐい/\飲み干しました。
 松崎道太郎一人は、シヤンペンが一ばんうまいと言つてがぶ/\やりましたが、あとの日本人にはマルケー酒が一ばん口に合ふと見えて、いく杯となく飲みかさねて、林をのぞく外、だれもかれもみんな少しの間にぐでん/\に酔つてしまひました。
 後甲板へ廻つた日本人一同は、各艦の士官の接待でシヤンペン、マデイラ、ポンチなぞの酒をさかんに傾けて、すつかり、いゝ機嫌になり、わい/\がや/\と笑ひ、叫び、しやべりまくりながら、ぱくぱくぱく/\と一生けんめいに食ひつゞけました。その叫び声は軍楽隊り合奏のひびきの中を貫いて遠くの方まで聞えたくらゐで、一寸も気をおかない、愉快な宴会でした。だれもかれも飲むのもずゐぶん飲む上に、そのまた食べることゝ言つたら全く愕くばかりです。士官中で名通りの大食家の一人もそれには目を円くしてびつくりしてゐました。彼等は、料理の順序も差別もなく魚肉、鳥肉、獣肉、スープ、果物、罐詰物、焼物、煮物、塩漬、砂糖漬と、何でもかまはず手当り次第にどん/\、食べられるだけ食べこんだ後、なほ皿の中の残りまでも、てんでに、一つもあまさず紙の中へ包み込みました。
 一たい日本人は、習慣としていつも懐に紙をはなさないで持つてゐます。それはいろ/\のことに使はれるもので、物をかきつけたり、ハンカチーフの代りにもなつたり、今のやうに御馳走のあまりの包み紙にもなるわけです。みんなは申し合せたやうにその懐紙を出して前にひろげて、甘いものも、すつぱいものも、脂肪ツけのものも、辛いものもごつちやまぜに入れ込んで持つてかへるのです。これはそれ等の人々が、特に慾ばつてゐるとか、下品であるとかいふ意味ではなく、すべて日本人は人を招いたときでも、招かれたときでも、饗応のために出た食べものは、みんな持ちかへり、持つてかへすのを礼儀としてゐるのです。この前、ペリーたちが応接館でもてなしをうけたときにも、ペリー以下が立ち上りかけると、日本の役人たちは、残りの食べものを紙につゝんで、どうしても持つてかへらなければならないやうに強いたことがありました。
 饗宴が終つたあとで、来客一同を一とところへ集めて余興に黒ん坊の踊りを見せました。それ等の黒ん坊は、水夫の中から選り集めたもので、いづれも黒い顔を一そう黒く化粧をし、いろ/\の服装をしてゐます。その滑稽な仕草には、さすがの林大学頭も、みんなと一しよに笑ひ興じてゐました。
 そのうちに、最早日没近くになつたので、日本人たちはぼつ/\かへり仕度をしました。そのとき、まだ大分酔つてゐた例の松崎は、あふれ出る歓びを押へ切れないやうに、ペリーの頸に両手をかけて、肩章が押しつぶれるのもかまはず、ぐい/\抱きしめながら、「日米同心」「日米同心」といくども日本語でくりかへし叫びました。足もとのしつかりした同僚たちは彼をたすけ抱へて、みんなで、にこ/\喜んで伝馬船へ乗り移りました。彼等の最後の船が旗艦をはなれると同時に、サラトガ号が十七発の礼砲を打ち出しました。

 三八
 
 その翌日ペリーは、条約の締結について打ち合せをする必要上、海岸の例の応接館へ出かけて日本の委員たちと会見しました。委員一同は、昨日の酔ひざまなぞは、一晩の中に忘れたやうに、鹿爪らしい顔をして居並んでをりました。ペリーが着席すると彼等は早速、これが只今下田から届きましたと言つて、一通の手紙をわたしました。それは艦長ポープからの報告書で、日本人に托されて陸から廻つて来たのです。開けて見ますと、下田港は開港場として十分適当な港であると断定してありました。
 それでペリーはすぐその場で下田の開港を認定した上、第二に函館、第三に琉球の那覇をも急いで開放して貰ひたい、それ以外の所要の二港については後に協議することゝして、以上の三港について早速開港条約の調印をしたいと申し入れ、通訳に命じてオランダ語でかいた条約文の草案を読み聞かせて、これを日本の委員に手渡ししました。委員たちは、その条文を慎重に読みしらべた後、上記の三港の開港のことは必ず実施する、併し下田の方も準備の必要上すぐといふわけには行かない、と答へました。ペリーはそれについて、強硬に論戦しました。その結果、下田はすぐに開港する、但し、十箇月後までは、燃料、飲料水、その他、その地で得られる食料品以外の物品は供給しかねるが、それでいゝかといふことになり、その条件で話が纏りました。
 ペリーは次で、下田におけるアメリカ人の特権問題について商議をしましたが、その第一の、アメリカ人が同地に家族と一しよに永住するといふ点は、全然拒絶されてしまひました。第二の下田と函館とにおけるアメリカ人の自由歩行区域は、下田は七里以内函館は五里以内までといふことに極りました。第一の領事設定の問題については、ペリーはそれが両国民に取つて非常に利益がある意味を諄々と話して、どこまでも主張を翻さなかつた結果、とう/\下田へだけおくことになり、条約締結の日から一年又は一年半の後に任命するといふことに極りました。
 その次の二日間、ペリーは日本の政府委員と、幾回も文書をとりかはして、かねてから懸案になつてゐたすべての問題を悉く解決し、条約文の草案を決定しました。双方の通訳官たちは、それを、英語、日本、支那、オランダの四国語でかき上げるために忙しく働きつゞけました。
 三月二十九日に、バンダリヤとサウザンプトンの二艦が、下田から帰つて来て、詳細の報告をしました。
 かうして、条約調印の準備がすつかり出来ました。それで、日本政府と協定の上、ペリーは三月三十一日に随行員を従へて応接館で会見して、イギリス、支那、オランダの各国語でかいた条約書各三通づゝを提出しますと、それと引きかへに日本側からは日本、支那、オランダの三国語で認めたのをペリーにわたし、ペリーと林以下四人の委員との調印をすましました。ペリーはそのあとでアメリカ合衆国の国旗を取り出して、アメリカの日本に対する親交の最上の表象であると言つて林大学頭に贈呈しますと、林は非常に感激して礼を言ひました。なほペリーは特に用意して来た、数多くの贈物を委員全部におくり、随行員とともに招宴の席について、お互に愉快に歓喜して、愉快に祝盃を上げました。
 ペリーもこれでやう/\、来航の目的の大半を円満に果し得たわけでした。条約の全文の意味は次のとほりです。

  日本帝国、アメリカ合衆国和親条約

   嘉永七年三月三日神奈川において調印。安政二年五月五日、下田において批准書交換
   
 アメリカ合衆国と日本帝国との人民の、永久の親交を確保するため、相互に遵守すべき条約を締結すべく合衆国より全権使節マツシユー・カルプレス・ペリーを日本に差遣し、日本皇帝より林大学頭、井戸対馬守、伊沢美濃守、鵜殿民部少輔を全権委員に任命し、左のとほり決定。
第一条 日本と合衆国との人民は永久不変の和親を結び、相互の交誼は場所と人柄とにより変動しないこと。
第二条 伊豆下田及び松前地函館の二港は、日本政府において、アメリカの船艦が炭水、食料、その他の必要品を日本人から支給をうけるため入港することを認容する。但し下田は、条約書の調印と同時に開港し函館は来年三月から開港する。支給する物品の値段書は日本の吏員から提出し、合衆国艦船は金銀の貨幣をもつて支払をする。
第三条 合衆国の船舶が日本の海浜に漂着した際には、日本はその漂民を保護して下田又は函館に送りアメリカの引取者に交附する。物品に対しても同じ手続きをとる。但し日本の漂流民に対しても同様に合衆国が救護するため、お互にそれについての費用は弁償に及ばない。
第四条 日本は、何等の理由の下にも、合衆国の渡来者、漂流者を抑留することは絶対にしない。同時にそれ等のアメリカ人は日本の法令に全然服従すること。
第五条 合衆国の漂流民、及びその他のものは、下田函館に滞留中、長崎における支那人、オランダ人に加へられてゐるごとき、歩行の制限を課せらるゝことなく、下田港では、港内の小島及び、周囲七里までの陸上は自由に往復することを得。函館における歩行区域はそのうち決定すること。
第六条 合衆国人に対する必要の品物の支給、及びその他出来得る限りのことは相互に協議して決定すること。
第七条 日本は合衆国の箇人に対し、下田函館の二港の商店において金銀貨幣をもつて入要の品物を買ひ入れることを認容する。但しその際には日本政府の規定を守ること。又、アメリカ人が交換的に提出する品物を、日本人が好まないときには引き取ること。
第八条 炭水食料その他、必要品の買入れは日本の吏員を通じて取扱ひ、一切私人的取引をしないこと。
第九条 日本政府が、従来禁止して来たことを、他の外国人に許す場合には、アメリカ人にも同様に許可すること。
第十条 合衆国の艦船は、暴風雨その他の、不意の災害に会はない限り、下田、函館以外の土地へはみだりに着陸せざること。
第十一条 両国政府において必要亡認める場合には合衆国の官吏を下田に駐在せしめることを得。但しこの条約調印以後十八箇月以内は実行しないこと。
第十二条 以上の条項は両国人において絶対に厳守すること。この条約は合衆国大統領及び日本皇帝の認定を得たる後、十八箇月以内に批准交換すること。
 嘉永七年三月三日
         林 大学頭        花押
         井戸対馬守        花押
         伊沢美濃守        花押
         鵜殿民部少輔       花押
         マツシュー・カルプレス・ペリー手記
以上。

 三九
 
 ペリーは、日米条約がいよ/\調印ずみになつたので、その他の重要な報告書と一しよに、それをワシントン政府に送り届けるため、アダムス参謀長をサラトガ号に乗せて、太平洋横断の、最近航路をとつて帰国させることにしました。サラトガは三月四日の朝、旗艦ポーハタンに翻る長官旗に対して十三発の礼砲を放ち、永らく一しよに行動した僚艦に分れて、サンドヰツチ群島を目ざして発程しました。ところが、当日は非常に風や浪が荒いので、止むを得ずその晩はアメリカ碇泊地(相模の小柴沖)に避難して、翌日やうやく出発しました。
 サラトガはそれから五月一日にホノルヽに着き、最後にサンフランシスコに入港しました。アダムス参謀長は、そこから汽車に乗つて七月十二日にワシントンに着いたわけでした。
 日本の通訳たちは相変らず、殆毎日のやうに旗艦へ出て来ました。サラトガが出発したその日にも、漆器、磁器、その他、一寸した贈物をもつて出かけて来ました。
 翌日、ペリーは、日本皇帝へおくるための黄銅製のホーウエツチー砲一門と、通訳その他へ届ける支那茶数函をミツシツピイ号から陸上げさせた後、参考のため、附近の粒々を実地に踏査するつもりで三四人の幕僚をつれて上陸しました。そして、例によつて応接館に迎へられて、茶菓の饗応をうけてから、主任通訳の森山栄之助と、数人の役人たちとに伴はれて視察に出かけました。ほんの僅か四五哩の区域内をめぐつて来たのですが、それでも、いくつかの村落を見、多数の住民に接する機会を得ました。艦隊がこの海上へ移つて来たころは、寒さも非常にはげしかつたものですが、だん/\滞在してゐる間に今では気温も華氏の三十五度が六十四度に上つて、すつかり暖くなり、野も畠も、すべての木立も山も谷もすつかり青くなり、家々のまはりなぞには、高さ五六間もある椿の木に、真つ赤な花が累々と開いてゐて、全で絵のやうに綺麗でした。
 ペリーたちが、最初の村へ這入りますと、随行の日本の役人の一人が、急いで先きに行つて、見物に出て来た女子供や男たちを追ひ払ひました。ペリーは出来るだけ多くの人々に会ひ、なるべくさま/゛\の風俗習慣を見ておきたいので、通訳にそのことを話した上、特に、婦人や子供を追ひ払ふのは残酷であると責めますと、栄之助は、いや決して追ひ払つたのではない、女たちは外国人に顔を見られるのをきまり悪がつて、自分で遁げかくれたのであると言ひはりました。併し、それは無論、出たらめの言ひぬけなので、その言葉は信用しがたい、しぜんのまま、みんなの人を見せてくれと言ひ込めました。通訳ももうその上は欺きかねたものと見えて、次の町へ這入つたときには、婦人たちも隠れるに及ばないと指図をしました。それで、そこの町では、子供も大人も女たちも、ぞろ/\集つて、はじめて見るアメリカ人を珍らしさうに迎へ見送りました。
 そのうちにペリーたちは、この町の町長に当る、名主といふ役目のものゝ家へ案内されました。主人の名主はペリー以下を丁重に迎へて、奥まつた一室に導き入れました。間もなく、おかみさんと、主人の妹だといふ婦人とが茶菓をはこんで来て、つゝましく微笑みながらお辞儀をしました。二人とも殆同じやうな、ゆつたりした黒い着物を着、腰の上に極めて巾の広い、厚い帯をくる/\しめてをります。足は裸足のまゝで、何にもはいてはゐません。どちらも肥えふとつて、背丈が低く、いかにも不恰好でしたが、でも、つや/\した黒髪と、黒目がちないき/\した目の潤ひとのために、顔には十分の表情がありました。二人とも、紅い唇の間から真つ黒に染めた歯を見せてゐました。これは日本の習慣として、結婚した婦人は鉄と酒との化合液で黒く歯を染めて、未婚の婦人と区別をつけるのです。その化合液はかなり変な匂ひのするもので衛生上にもよくないに相違ありません。未婚の女でも、婿になる人がきまれば、すぐに歯を染めるものもあるといふことでした。
 名主は次には料理や酒をはこばせて、ペリーたちや、役人通訳一同をもてなしました。おかみさんと主人の妹とは、終始お客のまへにきちんと坐つて、料理を分けたり、銀製の壜に入れた酒を注いだりします。日本の盃は非常に小さいので、すぐに飲み干されてしまひます。そのたびに二人は行儀よくみんなへ順々についで廻るのです。その服装や坐り方もさも窮屈さうですが、それでも一寸も苦痛を感ずる容子もなく、手を動かさないときには、極つて、しづかに頭を下げてお人形のやうにじつとしてゐます。おかみさんの方は特に非常に丁寧な、人柄のいゝ女で、後には小さな子を抱いてつれて来ました。
 その子供は、粗末な着物を着た汚れツ面のきたならしい子で、うそにも可愛いなぞと言はれないいやな奴でした。だれかゞ菓子を一つやると、おかみさんは、ありがたうをおしなさいと言ひます。子供は髪を剃り落した青白い頭を下げて、大人ぶつたお辞儀をしました。すると母親をはじめ、座にゐた女たちは非常に得意さうに褒めそやしました。
 ペリーは、退出する際に、一家の健康を祝するために盃を上げました。そのときには、名主の母親以下、家内中のものがみんな出て来ました。母親はかなりの年寄で、部屋の隅に踞つたまゝ、いくども頭を下げて、ペリーにお礼を言ひました。
 役人たちは群つて来る人民たちに対して、もう何の干渉もしなかつたので、ペリーも彼等の生活なぞについて、短時間ながら、かなり十分に観察することが出来ました。町の住民は役人と商人と労働者との三つの階級に分れてゐるやうに思はれました。その中の下級の人民までが、みんな豊かに満足してくらしてゐるやうで、貧困らしい容子は一寸も見えません。乞食のやうなものには一人も出会ひませんでした。最下級のものもすべて木綿服を心地よささうに着てゐます。その服の形は、上流のものゝにくらべて、少し丈が短いくらゐのもので、あとはすつかり同じ恰好です。すべて下級のものはだれもかれも大抵裸足で歩き、頭にも何にもかぶつてをりません。この階級のものたちは、雨天には、草の茎なぞで編んだ、顔から肩までたれ下る、帽子やうのものをすつぽりとかぶるのですが、上流のものゝ中には油紙で作つた外套を着るものもあります。だれも支那人と同じやうに、降つても照つても、紙製の傘を持つて歩くのです。
 それ等のすべての階級を通じて、だれもかれもみんな、非常に礼儀正しいのには驚かれました。彼等はみんな極度の好奇心をもつてアメリカ人のことを見聞きしようとあせつてゐるやうでしたが、それにも係はらず、出しやばつたり、わめき叫んだりすることもなく、外人に対して少しも不愉快をかけません。彼等の間の秩序はきちんとしてゐて、おの/\が目上のものを畏れ敬ふことは非常でした。
 ペリーはいろ/\の事実から推して、日本の人民は外人に対しても極めて社交的であることを確めました。彼等が外人を排斥するやうに見えるのは、政府が抑圧的に、外人との接触を禁じてゐるからだと思はれました。
 次に著しく目についたことは、日本の社会では、女子が男子から奴隷扱ひをされるやうな傾向が一寸も見えないことです。勿論、女子の位置はクリスト教諸国のやうに男子と同等までには上つてゐませんが、ともかく日本の女たちは、支那やトルコで見るやうに、財産として買はれたり、ひどい労働に駆使されたりするやうなことは絶対になく、各の家庭はいづれも一夫一婦の制度です。この点は日本の社会が、他の東洋人のそれに比べて、はるかに進歩した道徳的な文化社会であることを証拠だてる一つの大きな特色でなければなりません。

 四〇
 
 ペリーは次で、今後は江戸湾の出来るだけ内部を視察するために四月十日に全艦隊に錨を上げさせて神奈川沖の碇泊地を出発しました。日本の通訳たちは、丁度艦隊が動き出さうとするところへかけつけて来て、これからどこへ廻航するのかと聞くので、水深の許す限り江戸の近くまで視察に行くのだと言ひますと、通訳たちは非常におどろいて、そんなことをされては、われ/\一同が命を失ふばかりでなく、日本中の大間題になるからと、しきりに押し止めようとかゝりましたが、ペリーがどうしても聞き入れないので、役人たちは仕方なしに、艦隊の行動を監視するために、そのまゝポーハタン号に同乗して出かけました。
 すべてゞ八隻の艦船のうち、ポーハタンと、ミツシツピイとの二隻の蒸汽船が他の船に先立つてどん/\進入し、江戸の南端の品川の近くまで接近しました。ところが生憎海岸一面に霧が深く立ちこめてゐて、せつかくの江戸の首府もはつきり見定めることが出来ず、たゞ、建物のぎつしり立ちつゞいてゐる、広い都会の大たいの輪廓だけがぼんやり認め得られるだけでした。附近の高台や岬の上なぞには砲台が設けられてゐます。ペリーたちは、市街の中に寺院の屋根が大きくそびえてゐるのをも、最初は堡塁ではないかと思ひました。江戸の前面一帯の海上には、木柵らしいものが立てつらねてあつて、とき/゛\その或一部分を開けては小舟や荷船を出入させてゐました。その柵は埠頭場が浪をかぶるのを防ぐために設けられたのかとも思はれますが、怖らくさうではなく、去年アメリカの艦隊が来て以来、防禦用として急造されたものらしく、万一アメリカ人が暴力をもつて江戸市街に上陸しようとした場合には、こゝでボウトの接近を阻止しようとしたのに相違ありません。併し、実際にはそんな滑稽な設備なぞが何の役に立ちませう。江戸市街を破壊するのには、吃水の浅い軍艦の二三隻を持つて来て遠くから砲撃すれば雑作もないことです。
 いろ/\の事実から察しますと、日本は昨年アメリカの艦隊が来航したときには、あきらかに武力でもつてアメリカ人を威圧しようといふ考へから、大規模の準備をしたものらしく、方々に盛んに防禦工事をしたり、大部隊の兵を、艦隊から見えるやうな場所に配置して虚勢を張つたりしてゐました。ところが、その後政府部内ではアメリカ人に対して兵力で反抗することの可否が論議され、遂に平和に交渉する方針を取つたものと見えて、今度来て見ると、兵力的反抗の意志は一寸も見えず、江戸の附近に作りかけた堡塁の或ものなぞも、火に焼けて破壊されたりしたまゝ工事を中止してゐるのをも見うけました。
 ペリーはポーハタンと、ミツシツピイからボウト隊を下して江戸の前面の海上を測量させにかゝりましたが、退き潮がはげしいので、一寸も進捗しません。ポーハタン等も退き潮にさからつて進んでゐましたが、後には安全に舵を取ることが出来なくなりましたし、又、一方では、この上江戸に接近して、徒らに日本人に不安や恐怖を浴びせるのも不利なので、疲れ切つたボウト隊をよびかへし、船首を転じて引きかへしました。他の艦船は遥か後方に錨を下してゐましたが、それ等の船も続いて下つて来ました。
 その間、艦上にゐた日本の役人たちが心配したことゝ言つたらつく/゛\気の毒なくらゐでした。彼等は、艦隊が江戸の真んまへに碇泊して、かねてからのペリーの希望のとほり直接に江戸政府を訪問するやうなことにでもなると、どんなさわぎが持ち上るかも分らない、その責任はすべてわれ/\に帰するのだからと、しきりにペリーに向つて哀訴しました。
 その点は無論ペリーも十分考慮してゐることなので今言つたやうに、いゝ加減のところで引きかへしたわけです。
 全艦隊は例のアメリカ碇泊地まで下つて、そこへ投錨しました。乗り込んでゐた日本の役人たちは、やつとそこで安神して、ペリーの船室で饗応をうけ愉快に飲んだり食べたりしてかへりました。
 ペリーは最早その上江戸湾に滞在する必要もなくなつたので、さしあたり下田を視察して来ることに極めました。それで、四月十一日にマセドニアンを小笠原群島へ派遣した後、十四日に帆船のサウザンプトンとサプライを、十六日にやはり帆船のバンダリヤとレキシントンとをいづれも下田へ先発させておきました。あとには蒸汽機関のポーハタン、ミツシツピイ、サクスハナの三隻が残つたわけです。
 ペリーは出発前に、二日がゝりで、アメリカ碇泊地の附近にある、かねて、ウエブスター島と命名しておいた島や、その附近の海岸を視察しました。この季節の日本の景色は、実さいいくら見ても飽きないくらゐ美しいもので、それを後に、日本をはなれるのがいかにも残りをしい気がしました。ウエブスター島も非常にきれいなところで、青々と茂つた丘の間に、谷や畑が見え、入り込んだ或浦には造船場があつて、引き上げた日本船を大工たちが忙しさうに修繕したりしてゐました。
 
 四一
 
 ペリーはいよ/\四月十八日の朝四時に全三艦に抜錨させて出発し、午後三時十分に伊豆の下田に入港しました。最初ミツシツピイだけは港外に投錨しましたが、間もなく中に這入つてポーハタンの側へ碇泊しました。バンダリヤ、サウザンプトン、サプライ、レキシントンの四隻はすでに到着して待つてゐました。ペリーがそれ等の船を先に出しておいたのは、いづれか先についた船に港内を検分させて、あとから来る諸艦船のために適当な碇泊場を選定しておかせるためでした。ところが、実際のところ、サウザンプトンは、港内を探査中、測量隊が見のがして行つた暗礁に出会つて、早速そこに浮標を下して目印にしておいたので甘くすんだものゝ、もしその暗礁に気がつかないでゐたら、ポーハタン以下、大きな蒸汽艦の一二隻は必ずそれに衝突するところでした。
 来て見ると、下田は実に自然の良港で、港の位置と言ひ、出入の安全さ、便利さと言ひ、小数の艦船が碇泊するのには、このくらゐいゝところはありません。
 ペリーはその港が開港されることをこの上なく満足に思ひました。町も、堅固につくられた家並が、整然と揃つてゐて、街路が四方に通じてゐます。町の真中に小さな川が流れてをり、その両岸を石垣でたゝみ上げて、小さな木橋が、四箇所にかゝつてゐます。
 街路の巾は二十尺ぐらゐで、一面に砂利と切石とがしきつめてあります。町の清潔なことゝ、衛生上の設備とは、寧ろアメリカの都会よりも進歩してゐるくらゐで水道の筧があり下水溝も備はつてゐて、下水や、汚穢物を、小川に集めて海へ流し出すやうに出来てゐます。或家の棟には網が四方に張りつめてありました。それは烏を追ふためだといふことでしたが、その意味は、烏が不吉な鳥だからといふのかそれとも、烏がいたづらをするからか、その点がはつきり分りませんでした。
 町の店々の戸や窓には、それ/゛\家の名前なぞがかいてありますが、たゞ漠然と家号を記したゞけで営業の種類をはつきりかいたのは稀です。その中でたゞ一軒、オランダ語でかいたオランダ薬の看板を店先に出してゐる家がありました。その薬は日本でよく売れるものと見えて、前に神奈川の町でも同じ看板を見たことがありました。

 四二

 ペリーは下田の港へ這入ると、早速、測量隊に命令して、港内のくはしい測量に取りかゝらせました。
 下田の町は戸数約一千、人口七千ぐらゐのもので、住民の五分の一は商人や、大工なぞだと言ふことですが、あとは、浦賀あたりと同じやうに、役人や、その従者たちなど、所謂不生産的な連中が、わりに多数を占めてゐる容子でした。
 町民たちは、いづれも、これまで艦隊員が接した一般の日本人と同じく、非常に鄭寧で控へ目で、しかも一面には至極快活な親しみ易い人間たちでした。町には到るところに、祖先礼拝の社と、仏教の寺院がいくつとなく建つてゐます。それを見ると、町民たちが、大分信心家であることも想像されました。
 ところが、以上にも係らず、この町について、一つ、ひどく驚かれたことは、町中、諸方に、男女混浴の共同浴場があつて、男も女も、素裸体のまゝ平気で混浴してゐることでした。
 無論、これは日本全たいの習俗ではないに相違なく、日本人自身も、それはたゞ、一部地方の下層社会に見られるだけの習慣だと弁解してゐましたが、ともかくアメリカ人たちは、その乱暴な光景には開いた口がふさがりませんでした。士官たちの或ものはこの事実から推して、日本人の下層社会間でのいろ/\の秩序をさへ疑らうとしたほどでした。
 全艦隊の乗組員は、お互に早く町へ上つて、見物や買物をしようと待つてゐます。ペリーは、特に、この港に滞在中は、部下一同が、せつかくの和親条約の規定を寸分たりとも犯さないやうに、そして、いかなる小さなことにせよ、日本人に対しては絶対に不愉快を与へないやうにして、十分の信用を得るやうにと、くりかへし訓令し、そのためには、どんな小さな命令違反をも、容赦なく徴罰する旨を言ひわたしました。
 すると、入港のぢき翌日、ミツシツピイ号の二人の水兵が、上官の許可を得ないで勝手に町へ上り、酒場をさがしてぶらついてゐたところを見つけられ早速脱走罪に間はれて拘禁されました。
 ペリーは四日目の四月二十一日に、二三の士官を引きつれて上陸し、町の組頭の黒川嘉兵衛を訪問しました。役人たちは相変らず丁重に迎へ入れて茶菓をもてなしなぞしました。例の通訳の森山栄之助、わざ/\こちらまで出張しゐて、一生けんめいに接伴の役にあたりました。ペリーはそこを辞して一と通り町を見物して廻りました。ペリーに取つて一ばん興味を引いたのは神社や寺院の建築で、それへは見かけ次第一々這入つて見物しました。
 すべての士官や水兵たちも、例の条約の特権で、町のぐるり、七里以内の地域は自由に歩き廻れるわけでした。彼等は到るところで町民の群に出会ひました。それ等の人たちは寧ろ、なれ/\しく寄りたかつ来て、士官たちの制服などを、さも珍らしさうに撫で廻して見たり、剣なぞをいぢつたり、目につくいろ/\の物の名前を手真似で聞いたりして子供のやうに、したしみ喜ぶのでした。ところが、役人たちは、人民がアメリカ人に接近するのをひどく怖れ嫌つてゐると見えて、町民たちが群つて来るのを見つけると目の色をかへて追ひちらし/\しました。のみならず後には、士官たちに対して、必ず侍を二三人尾行させて一々の動作を監視させはじめました。通りの左右を見ますと、おの/\の家々は、役人の命令で、一々店を閉め、街上にも人一人通らなくて、町中はまるで疫病にでも荒らされたあとのやうにひつそりしてゐます。郊外の村へ這入つても尾行の侍はやはり目を光らせて、どこまでもついて来るのです。
 ペリーはそれ等の報告を聞くと、非常に怒つて、副官に二人の通訳をそへて上陸させ、黒川に対して手きびしく詰問させました。
 副官は、以上の尾行監視の問題、アメリカ人の前から町民を追ひ払ふこと、商店の閉鎖等のすべての事実をあげて、これ等は、明らかに両国和親条約の精神を裏切るものである、すべて今日限り、撤廃されたい、それでなくば長官は遠慮なく全艦隊を率ゐて江戸に乗りつけ、直接政府の責任を問ふまでゞあると、おどしつけました。すると黒川は、政府は長崎に在留するオランダ人に対しては、常に十二人以上十四人までの尾行をつけてゐるくらゐであると答へ、アメリカの士官たちに間諜をつけることを当りまへのやうに言ひ張りました。そこで副官は、条約の箇条を上げて、われ/\はオランダ人とちがつて、これだけの特権を確保されてゐるのである、さういふわれ/\を敵扱ひにするのはどうしたわけかと突つこみますと、黒川は、空とぼけて、私は、そんな条約が調印されるまへにこちらへ来たので、何事も不案内である、念のため、早速江戸の政府に聞き合はせて条文の真意をたしかめて見るけれど、では、ともかく、今言はれた、貴艦隊員に随行者をつけること、及び商店を鎖すことだけは、早速やめさせませうと、ていよくごまかしました。副官はなほそれ以外に、今後上陸した士官以下が休憩又は在宿するために、下田の寺院のうち、いづれか一つを貸してもらひたい、と申込みました。すると黒川は快くそれを承諾した上、なほ艦隊で入用の食料品も、下田で間に合ふだけのものは、いつでも差上げると言ひそへました。
 
 四三
 
 乗組員は毎日、代る/゛\上陸しましたが、四月二十四日の午後、或一と組の士官たちが、下田の町を通りぬけて、深く村へ這入つて行きますと、ふと後に、日本の侍が二人、こそ/\とついて来るのに気がつきました。士官たちは、また例の尾行かと思つて、別に意にもとめずにゐましたが、とき/゛\それとなくふりかへりして見ますと、二人は、何だか変に人目を怖れるやうに、きよと/\あたり見廻しして、機会があつたら、こちらへ話しでもしかけようとしてゐるやうな容子でした。それで士官たちは試しにわざと立ち止つて、二人の近づいて来るのを待つてゐて見ました。二人とも立派な金欄の袴なぞをはいてをり、容貌や態度動作の上にも、上流の日本人に特有な品位と、典雅なところが備はつてゐますし、たしかに相当身分ある侍だといふことだけは分ります。二人は、又も、じろ/\前後左右を見探つて、あたりにだれも人がゐないのをたしかめた後、一人がつか/\と歩み寄つて来て、或士官の時計の鎖にさはつて見るやうな風をして、手早くその士官のポケツトへ手紙やうのものを投げこみ、自分の口へ手をあてゝ、どうか、このことを口外してくれないやうにと言ふやうに手真似で頼んで、あたふたと立ち去つてしまひました。
 士官たちはその手紙を持ち帰つて、参考のためにと、ペリーの手もとへさし出しました。ペリーが通訳をよんで読ませて見ますと、それは意外にもペリー自身へあてた二通の漢語の手紙で、一つは日本暦の三月四日、一つは同じく三月二十七日の目附になつてゐます。最初の方は、「日本江戸の二人の儒生から、長官閣下に奉呈する」といふ書き出しで、次のやうな意味の要件が認めてありました。
 「われ/\は、浅学、不才、且つ身分も低いもので、閣下の面前へ伺ふのも恥かしいくらゐのものですが、両人とも平素、書物の上で、多少、欧米列国の情勢を窺つてをり、何かの好機会を得て、それ等の諸外国を見学したいものと、常々熱望してゐるのですが、日本の法令では、われ/\の外国への渡航は外国人の入国と等しく、絶対に厳禁されてゐるので、今日まで、どうすることも出来ず苦悶してをりました。ところが、今回貴艦隊が永らく滞在してゐられるにつけて年来の希望もいよ/\押えることが出来ず、ひとへに閣下の御好意におすがりして、ぜひとも素志を貫きたいと考へてゐます。それで、貴艦隊が出帆されるときには、どうかわれ/\をつれてつていたゞきたいものです。艦内ではもとより、すべての御命令を奉じますし、又徒らにお邪魔をしてゐるのが御迷惑でしたら、いかやうの労役にも喜んで従事いたします。どうか、われ/\の意中をお察し下すつて、特にお取入れ下さるやう、伏しておねがひいたします。但し、万一このことが世間へもれますとわれ/\は忽ち捕縛されて、ひどい所刑に会ふのですから、出帆までは極々の秘密にしておいていたゞかねばなりません。閣下よ、どうか、われ/\をお疑ひになることなく、仁愛なるお取計らひをいたゞくやう、くりかへしおねがひいたします。」と、かういふ申し込みなのです。それから二十五日の日附になつてゐるもう一つの方は、
 「われ/\貴艦隊が横浜村に碇泊されてゐる間中どうかして、夜中、漁船に乗つて近づき寄らうと、いろ/\の方法を廻らしましたが、当局の警戒が実にきびしくてどうにも手の出しやうがありません。それで今度貴艦隊が下田へ廻航されたと聞き、直ちにあとを追つてまゐり、小舟に乗つて近づかうと企てましたが、又々失敗に終りました。もし閣下が、われ/\の熱望をお聞き入れ下さるならば、どうか明晩、人が寐入つた後、この附近の海岸で、人家のない、柿崎といふところまでボウトで迎へによこして下さいませんか。二人は小舟に乗つて、そこに待ちうけてをります。」と、かいてありました。ペリーは当の士官たちに向つて、なほ、よく、その両人の風貌や態度なぞを聞き、頸をひねつて、そのまゝにほうつておきました。
 すると、その晩の夜中すぎ、つまり二十五日の午前二時ごろ、海がひどくあれてゐる中を、ミツシツピー号の舷門へ一艘の小さな日本船がこぎつけて来ました。当番の士官が不審におもつて出て見ますと、日本人が二人、あはたゞしく艦梯を上つて来かけます。士官が、何ものかと誰何しますと、中の一人が手真似でもつて「どうか上へあがらせて下さい、私たちは、もう、このまゝ岸へはかへらないのです。」と、非常に興奮した態度を見せながら、もう一人のものに命じて、乗つて来た小舟を流しすてさせようとしかけました。士官はそれを制し止めた上、一応艦長に上告して見ましたが、艦長も、こちらではどうにも取り計らふことが出来ない、あの艦へ行つて交渉されるがいゝと言つて、旗艦を指しをしへました。、二人の日本人はしかたなく、再び小舟に乗つてポーハタン号を目ざして漕ぎ出しました。併し、前にも言つたとほりの荒れかたで、艦側へ漕ぎよるのが中々容易ではありません。二人は死にものぐるひの努力で、やうやくのこと艦梯にとりつきました。そして、二人ともその梯子を上つて行くと見るうちに、偶然浪にさらはれたのか、それとも、二人がわざと放棄したものか、ともかく、二人が乗つて来た小舟は、さつと、いづこへか流れ去つてしまひました。

 四四
 
 こちらの二人は甲板へ上つて、艦長に面会を求めました。艦長は二人の侍が、夜中に突然出て来たことをペリーに報告しますと、ペリーは、通訳に言ひつけて、何のために、わざ/\こんな時間に来艦したのかと、たづねさせました。すると彼等は、礼儀ぶかい態度で、どうか、われ/\をアメリカまでつれてつていたゞきたい、その上で、だん/\にヨーロツパ中をも廻つて見たいつもりです、これはわれ/\二人の永年来の希望だつたのですからと、熱心にたのむのです。つまり、今日の手紙の差出人だつたのです。
 二人は荒れた海上を漕いで来たりして、かなり疲れたらしい容子でした。二人とも服装は旅行用のものと見えて、簡略な作りつけのものを着てゐますが、外貌はもとより、すべての動作と言ひ、今日の手紙にあらはれてゐる教養の程度と言ひ、まぎれもなく立派な身分の紳士であることは疑ふまでもありません。ペリーは二人の来意を聞いて、
「実は小官も、日本人の幾人かを、アメリカへ同伴したいものと、かね/゛\考へてゐるのであるが、今の場合は、さういふわけにも行かない。あなたがた二人に対しても甚だお気の毒であるが、どうも止むを得ない次第である。」と、かういふ意味を伝へさせました。事実、ペリーとしては、たとへ私情はどう動くにせよ、日本に対する根本の信誼上、彼等の政府からの許可を見ないうちは、むやみに二人の希望をとり上げるわけにも行きません。仮りに、内密でこのまゝ艦内においてやるとしたところで、当分この港に滞在してる以上は、もし日本の官憲が、二人のものゝ乗り込んだ証跡を上げて、捜索に来でもすると、甚だ面倒になるので、まづ万全を考へた方が至当なわけでした。
 二人はペリーのその挨拶を聞くと、非常に困惑して、どうかさう言はないでこのまゝおいてくれ、陸へ帰れば、忽ち首が飛んでしまふのだからと、しきりに言つて、たのむのでしたが、艦長は、命令なので仕方なく、言葉柔らかに二人をなだめながら、ボウトを下させました。二人は言葉おだやかに、なほいろ/\と交渉しましたが、いくらもがいても許されないので、とう/\諦めて、しほ/\と下艦しました。ボウトは二人を一ばん近い海岸へ送りとゞけました。
 すると、翌日の午後、通訳の森山栄之助が旗艦へ来て、艦長に面会を求め、昨夜狂人が二人、貴艦隊の、どの艦へか乗りつけたらしいが、何か無礼を働きはしなかつたらうかとたづねました。艦長は、日本人が乗りつけたか、どうかは、はつきり分らないが、併し、別に何もさわぎがおこつたらしい事実もないと、あいまいに答へた後、ときに、その狂人とかは、けつきよく無事に家へ帰つたのかと、それとなく、聞いて見ますと、「はい、かへりました。」と森山は、はつきり返事をしました。
 ペリーは、そのことを聞くと、あの二人の侍がひどい刑罰にでも会ひはしないかと心配して、早速、調停のため、一士官を、町の役人のところへ派遣しました。つまり日本では、一足でも外国へふみ出したものは死刑に処せられることになつてゐるので、昨夜の二人も、何のために艦へ出て来たかといふことが分れば所詮一と問題でした。
 士官はペリーの旨を含んで役人と会見し、われわれは、かりにも、日本人が出て来て乗艦を求めるとしても無論取り上げる筈はない、われ/\一同は何事につけても、日本の法令そのものに違反するやうなことは断じてしないのであるからと語り、ついては、例の二人の狂人とかのことも、けつきよくは何でもない微々たることで、犯罪人として処理されるにも及ぶまいといふことを、それとなく勧告してかへりました。
 要するにこの出来ごとは、教育ある二人の日本人が、知識の追求上、きびしい国法をも犯して海外へ渡航しようとしたので、帰するところ日本人一般の進取の気風、彼等のするどい向上心を表白した、同情すべき行動で、前述のとほりペリーも、日本政府に対する責任から、止むを得ず下船せしめたまでのことですが、士官たちの一部には、又全然ちがつた見解を取り、彼等二人が、そんなに死をまで冒して外国へ渡らうとするなぞといふことは、どうも考へ得られない、怖らく、それは口実で、何か他の目的で、突然出向いて来たものに相違ない、或は、あんな問題をもち出して、艦隊がいかなる応答をするかを──手早くいへば日本人の或ものが海外へ密航を企てる場合に、アメリカ人が、それを幇助するかどうか──つまり日本政府に対するわれ/\の信実を試験しに来たのであらうと、こんな疑ひを抱くものもありました。
 併し、ポーハタンの艦長以下、直接二人に応対したものに取つては、あの二人の紳士の、艦上でのすべての言葉や態度に、そんな詭計がひそんでゐたとは無論考へられるわけもありません。
 すると、それから数日後、その二人の日本人の顔を記憶してゐる一士官が、同僚たちと一しよに下田の郊外をぶら/\歩いてゐるうちに、偶然、或一つの檻のやうな、小さな牢屋のまへに出て来ました。見ると、その中には、例のあの二人の侍が押しこめられてゐました。二人はアメリカの士官が来合せてくれたことを非常に喜び、板片に、次のやうな意味の日本語をかきつけて一士官の手にわたしました。
 「われ/\はとう/\失敗した。すべて敗れたものは直ちに悪人賊子にされてしまふのが常である。われ/\は翼を切られた如くに、こゝに幽閉されてしまつた。アメリカ船へ密行したことが罪を買つたのである。町の役人、長老たちはわれ/\に対してこの上もない侮蔑と乱暴とを加へつゞけてゐる。併しわれ/\には、人として一点も、疚しいところはない。もと/\われ/\は日本にのみ蟄居することに満足できず、広く世界中を巡視して来ようと考へたまでゞある。あゝ、もうすべてをはりだ。われ/\は最早、生命の保全さへ不安である。泣けば嘲られ笑へば罵られる。あゝもう沈黙より外はない。
         イサギ、コーダ
         クワンヅチ、マンヂ
と、最後に名前がかいてありました。
(註。イサギ、クワンヅチ云々と署名されてゐるものゝ、この二人は、例の吉田松陰と、従僕金子重助とだつたのです。)
 その午後、ペリーは士官たちの報告と、以上の、二人の書状の翻訳を聞くと驚いて、ポーハタンの艦長をその牢屋に派遣し、果して、その日本人が、さきの士官が見たごとくいつかの二人にちがひないか、或は、たま/\他の二人の日本人が同じく密航を企てゝ捕縛されたのか、念のため、もう一度とりしらべさせました。すると、牢屋はもう空になつてをり、番人に聞くと、例の二人は、つい今朝までゐたが、さきほど、江戸から命令が来て、同地へ向け護送されたと答へました。彼等が拘留されたのは、日本を脱出するつもりでアメリカ船へ乗りつけたのを発見されたからだとのことで、やはり、昨夜の二紳士に相違なささうでした。ペリーは日本政府が、どうか二人を無事に釈放してくれゝばよいがと思ひましたが、併し、形勢が少し不安なので、又々、部下を下田の役人のところへやつて、あの二人の所刑は、つまり、どの程度ですむのかと間合せて見ました。すると、いや、決して、苛酷なことはしないから、心配してくれないやうにと、回答して来ました。ペリーたちは、つゞまるところその言葉を信ずる以外には、どうするすべもありませんでした。
 
 四五
 
 ペリーの艦隊は、それからなほ引つゞき、五月九日まで、下田に滞在しました。その間の主な出来ごとゝしては、このまへ、士官たちの休憩所、宿泊所として、何れかの寺院を貸りたいと申し込んだのに対して、町の組頭黒川嘉兵衛から、リオセンジ(龍泉寺?)といふ、一ばん大きな寺を提供してくれました。士官たちは、その本堂につゞいた、空家のやうに何にもない、ひろい部屋々々へ、いろ/\の家具を艦から持ち込んで飾りつけ、代る/゛\そこへ集つて談笑したり、後の森の中をぶら/\歩いたりして愉快に閑を消しました。次には、これもこのまへ、手きびしく抗議しておいたにも係はらず、役人たちは、今以て、アメリカの士官等が上陸すると、町筋の店々にこと/゛\く戸を閉じさせたり、間諜を尾行させたりするので又々強硬に談判して、さういふ不法を、一さい止めさせてしまひました。又彼等は、政府から命令が出て、公売所を開くまでは、物品の売買は許されないと言ひ張つて、乗組員たちが個人的に買物をしようとするのをも、拒むので、これも談じつけて、結局、アメリカ人が個々にほしいと思ふものは、店々へ註文さへしておけば、日本の通訳官の手で、一々とり纏めて、艦へ持参してくれ、その支払はアメリカの貨幣ですることに話がきまり、アメリカの銀貨一弗を、日本人の使つてゐる、支那銅貨千六百枚に換算することになりました。町の商人たちは、それ以来喜んでアメリカの貨幣を溜めはじめました。
 次には、ポーハタン号の一水兵が、過つて高いところから落ちて即死したのを、葬る必要から、町役人と交渉して柿崎といふところにアメリカ人の墓地を選定しました。そのほかには、或日士官が三人で銃猟に出かけて、うつかり夜になつたので、通訳の堀達之助に答へた上、町の或寺院へ入つて泊らうとすると町の下役人どもが押しかけて来て退去をせまり、乱暴を働くので、士官は怒つてピストルをつきつけて追ひまくつたといふやうな出来ごともあつて、そのために、艦隊から又黒川へ詰問したりしましたが、そのうちに政府からの訓令もあつたらしく、役人たちも、すつかり態度を改めて、すべてについて非常に好意を捧げてくれるやうになり、食料品、飲料水なども快く供給してくれたりして、お互の感情と接触とが、すつかり平和に円満になつて来ました。
 それからは、五月二日には、さきに小笠原群島へ派遣されたマセドニアン号が、帰港して、おの/\の艦へ、きれいな食用のうみ亀をどつさり分配しました。元来日本では、仏教の影響から肉食が極端に忌みきらはれてゐるので、下田へ来ても、市場には或種の僅かばかりの獣肉しかなく、鶏も非常に少くて、食料品としては、たゞ魚類と野菜としか徴発出来ないのです。乗組員たちは、最早ビスケツトと牛肉の塩漬とに飽き/\してゐた矢先なので、うみ亀が来たといふので、みんな小踊りをして歓びました。
 
 四六
 
 さうかうしてるうちに、例の函館の開港について、同地で日本の役人と会見する時期が近づいて来ました。それでペリーは、五月四日にサクスハナとレキシントンとを琉球へかへし立たせた後、五月六日に船足のおそい帆船のマセドニアン、バンダリヤ、サウザンプトンの三隻を函館に向つて先発させ、運送船のサプライ一隻のみを下田に残して、五月九日に旗艦のポーハタンと、ミツシツピイとで出発しました。
 二隻の蒸汽艦は、それから九日目の十七日の朝九時に、函館に着きました。一同は函館の地形や地位が偶然にも地中海のジブラルタルそつくりなのにびつくりしました。
 両艦隊が錨を下したと思ひますと早速、日本の役人が五六人、旗艦へやつて来ました。ペリーは、日本の政府委員から、一通の書状と、支那文でかいた今度の日米条約書とを、当地の役人に手渡しするやうに頼まれて来たので、早速それをわたしますと、役人たちは、「かういふ条約が調印されたことも、下田の開港のことも今まで全然知らないでゐた、当地で貴官たちと応接する筈の役員もまだ江戸から来着しない、貴艦隊の来港もまるで予告がなかつたので、町民たちは艦を見て非常に怖れさわいでゐる。」などと話しました。ペリーは、明日、部下の士官を代理として上陸させ、貴官たちの上役と会見して、万事協商させるつもりであるから、そのつもりでゐてくれるやうにと伝へておきました。
 翌朝ポーハタンの艦長は、ペリーの命令で、ウヰリアムスとボートマンの両通訳と、長官の秘書「小ペリー」を引きつれて、この地の最高の官吏で、函館奉行といふ役目の遠藤松左衛門を訪問しました。すると奉行は、下役の伊坂健蔵、工藤猛五郎の二人をつれて鄭重に立ち迎へ、立派な広間に案内しました。遠藤は四十前後の、重味のある謙譲な、日本人の代表的紳士でした。部下の二人も、遠藤の前へ出てはペコ/\頭を下げてゐましたが、二人とも、やはり立派な好紳士です。給仕はしきりに出たり這入つたりして、茶菓や煙草などを運びました。奉行たちは全く誠実をこめて艦長以下を待遇しました。 艦長は、われ/\がこのたび来航したのは、去る三月三十一日に神奈川で調印された、すでに御覧のとほりの、条約の規定を実現するためで、具体的にいへば、第一、函館でも、下田と同様に、アメリカ人が町の内外、商店、又は寺院等の公共の建物へは、自由に往来出入し得ること、第二、商店、乃至市場で、乗組員の個人が希望する物品を公開販売すること、それについては、双方の便利上、当座の通貨を決定すること、第三には、長官以下、士官たち及び、艦隊に随行してゐる美術家たちの、休憩又は宿泊所として、寺院なり、住宅なりを三軒だけ選定貸与されること、第四、土地の物産、エゾ全部の珍らしい産物等を、相当代価で艦隊へ提供されること、以上の協定を遂げる目的で来たのである、と告げますと、奉行は、
 「その決定は、役員が江戸から来着するまで待つてもらひたい。何分江戸から当地まではかなりの距離があつて、冬ならば三十七日、夏の日長のときでも三十日はかゝるので、もう少し待つてゐていたゞきたい。打ちあけたところ、われ/\は、貴官たちが持つて来て下された政府からの手紙に命令してあるだけの事実──つまり、貴艦隊を歓迎し、好意をつくして待遇することゝ、艦隊所要の食料品、薪水等を供給すること以外には、何等の権能もないのだから。」と、円満に拒絶しようとかゝりました。それに対して艦長は、「われ/\には滞在日数の予定もあるので、手早く、すべてを貴官との間で片づけてしまひたい」と固執しましたが、結局、奉行の以上の意嚮は明日文書にして長官の手もとにさし出すといふことで分れました。
 その結果、翌る朝になりますと、奉行から次のやうな意味の手紙がペリーへとゞきました。
 「当函館は極めて偏僻の港で、住民も少く、且つ、いづれも無智、未開の人民ばかりである。今回貴艦が入港さるゝや、彼等の多くは全で掠奪者が来襲しでもした如く、やたらにをぢ怖れわれ/\の慰撫をも聞かないで、老幼婦女を率ゐてどん/\内地深く遁げ隠れたやうなわけである。たま/\町に居残つたものも、昨日も御覧だつた如くたゞ戦きちゞかんで、業務も手につかないでゐる。以上を以ても当地の発達の程度を推察して下さるであらう。それに、附近一帯も殆不毛の土地ばかりで、住民の食料その他の必要品も悉く他の地方から供給をうけてゐる次第であり、浦賀や下田等の便利な土地とちがひ品物を希望されても十分に調達することは到底出来さうもない。且つ第一、市場公開のことや、宿泊所の問題も、江戸から指図があるまでは、どうにも取計らふことが出来ない。われ/\は和親条約が締結されたことすら今まで知らないでゐたくらゐで、当地の開港のことについても、江戸政府から、まだ一と言の命令をも受けてゐないのである。われ/\は外交上のことは大小こと/゛\く、領主が更に、江戸政府の指揮をうけてとり行ふのが慣例で、いかなる場合にもそれを犯し破ることは出来ないのである。このことは、貴官においても、すでに横浜、下田等で実見されてゐる筈である。われ/\は、たゞ貴艦隊に対して、鶏、鶏卵、鴨、鰊、その他、当地にある食料品や飲料水等を提供する外に、仮りに、艦隊員の町、村落の見物、商店への出入を許可するけれど、それ以上は、どうか、政府の吏員が来着するまでお待ちをねがひたい。」
と、かういふ挨拶です。なほ奉行は、近日、領主松前家の大官松前勘解由が、領主に代つてペリー長官を訪問する都合であると通知して来ました。

 四七
 
 奉行の手紙の言葉により、艦隊の士官たちは、その日から上陸して、自由に町を歩き、商店や寺をおとづれたり郊外の村々を廻つて来たりしました。もと/\、アメリカ人に好意を持つてゐる奉行は、数回の談判の結果、とう/\例の三軒の宿泊所も提供してくれ、一軒はペリー長官の専用、一軒は士官たち、残りの一軒は美術家たちの使用にあてることになりました。次で、公売所も開かれ、乗組員は、そこへ出かけて、いろ/\の品物を土産用なぞに買ひとりました。そのためには、アメリカの一弗が日本の一分銀三箇、銅銭四千八百枚に換算して流通することになりました。
 こんな風で、アメリカ人は自由に町民たちと接触し、土地にも人にもすつかり馴れてしまひました。町は戸数千戸あまり、人口七千内外といふことでした。
 松前勘解由が来訪するといふ、五月十九日には、ペリーは旗艦を一時ミツシツピイに移して、待ちうけてゐました。勘解由はやがて函館奉行の遠藤松左衛門や、遠藤の部下の伊坂健蔵以下数人を供につれて出て来ました。
 相互の挨拶がすみますと、ペリーは言葉を改めて、
 「この函館には、条約の実行について商議すべき権能者がお出でゞないので、松前侯と直接交渉したいつもりであるが、侯はいつ函館へ出て来られるつもりか。」と切り込みますと、勘解由は、
 「侯はエゾ松前といふところに居住されてゐるのでわざ/\こちらに出向いては来られない。」と答へました。それでは、こちらから出かけて商議することにしようと言ひますと、勘解由は、
 「いや、侯が、松前をはなれることが不可能のため私を代理として派遣されたのである。お話があるならば、私が承る。」と言ひます。それでは、貴官は条約の事項を取りきめるについて、完全な権能を持つてゐるかと念を押しますと、
 「私は、この地方のすべての問題を決定する権力を帯びてゐる。たゞ外交のことだけは、江戸政府の指図がなければ、どうすることも出来ない、これは松前侯にしたところで、私と同様どうにもならないわけである。」と言ひ足しました。これでは、どこまで行つても、結局最初の函館奉行の声明のとほりで、わざ/\勘解由が来てくれたつて、何の足しにもならないわけです。ペリーは困つて、その日はそれなり話を切つてしまひました。
 間もなく勘解由たちは、辞し去らうとしましたが、丁度そのとき、急に風が出て、浪が非常に荒くなつたので、船を出すことが出来なくなりました。ペリーは、その風が凪ぐまでの間、彼等に艦内を隈なく見物させた上、種々の御馳走を出してもてなしたので、みんなは大喜びで帰つて行きました。
 翌日ペリーは、答礼として陸上に勘解由を訪問しました。そのとき勘解由は松前侯の代理者たる委任状を出して見せました。ペリーは再び、彼を全権委員として、条約に許されてゐる特権問題を商議することを熱心に要求しましたが、勘解由は、それだけは、あくまで拒絶しました。ペリーは、とう/\仕方なしに、肝甚なその問題は、下田へ帰航の上、林大学頭以下の政府委員と協商することに決心し、その旨を勘解由に告げて退出しました。
 
 四八
 
 例の、ポーハタン等に先だつて下田を出帆した三隻の帆船も、無事に着港しました。ペリーは五月二十日に、その中のサウザンプトンに錨を上げさせて、函館から七十哩ばかりはなれた、エゾの南西端のエンダーモー港の探険に向はせました。ペリーの本艦隊は間もなく下田に帰る手順なので、サウザンプトンには、エンダーモーの探査ををはつたら、直接下田へ廻航するやうに命じておきました。
 サウザンプトンはその日の夕方五時頃に、噴火湾の南端まで来ましたが、間もなく風がばつたり止つたので、全然帆走することが出来なくなり、翌朝まで海上に仮泊しました。その日は非常な濃霧でしたがかまはず出発して、陸地に沿うて走りつゞけ、夜の七時に、或村落を見出して、その前面に投錨しました。すると、夜がふけるにつれてだん/\と霧がはれて来て、三哩ばかり先の海岸に、数艘の伝馬船が碇泊してゐるのが、はつきり見えて来ました。ところが、しばらくすると又霧が立ちこめて、翌る日もその翌る日も、全で行手が見えなくて、とう/\そこに六日も碇泊してゐました。
 そのあげく二十七日の夜明けになつてはじめて、霧はところ/゛\から切れ出して、朝になると拭つた如くに晴れわたり、対岸の綺麗な景色が画のやうに眼前にひらけて来ました。見ると、ところ/゛\の谷合ひに、こゝかしこと、少しづゝ人家が固まつてゐました。
 船はその朝、勢よく抜錨して順風を利用しつゝ、一時間九哩の速力で進行をつゞけました。するとやがて前面に大きな湾があらはれて来ました。所謂、噴火湾で、ぐるりには山巓に白雪を被つた高い連峰がづらりと聳えつゞいてをり、北東の方に、二つの噴火山があつて、盛に濃い黒煙を吐いてゐます。山巓の雪は太陽の光りを受けて銀のやうにきら/\と光つてゐました。
 やがてオラソンといふ小島の横手を過ぎ、エンダーモーの海峡にかゝりました。このオラソン島へはかつてエゾ近海へ来航した、アメリカの或軍艦が、一人の水夫の死骸を埋めたことがありました。サウザンプトンは、その日の夕方、エンダーモーの海岸へついて錨を下しました。
 海岸にはたゞ僅かばかりの人家がちらほら見えてをり、その近くの丘に砲台が設けられてゐるのが目にとまりました。船がつくと、日本人の役人が二人小舟をアイヌ人に漕がせてやつて来ました。役人は艦へ上ると、米と水と木片とを出して見せ、その三つのうちにどれか入用のものがあるかと手真似で聞きます。艦では、魚、野菜、鶏、鶏卵があれば買ひ入れたいといふ意味を通じますと、二人はうなづいて帰つて行きました。それから再び出て来ましたが持つて来たものを見ますと、薬草の根のやうなものがたつた一と束と鶏三羽だけで、「これ以上には何にもない、魚も不漁でとれなかつたので一匹もない。」と言ひわけをしました。
 翌朝測量隊は附近一帯の測量にとりかゝりました。土地の住民は、大部分アイヌ人ださうでしたが彼等はサウザンプトンの艦影を見るなり、おどろき慄へて、ありつたけの家財を背負つて、山の中へ深く遁げ込んでしまつたといふことで、あとには僅か数人の日本の役人が、残つてゐるのみださうでした。それ等の日本人は、サウザンプトンが滞在してゐる間、たび/\艦へ出て来て、もてなしを受けなぞして、すつかり、親密になつてしまひました。
 エンダーモーに滞在中、何よりも珍らしかつた出来ごとは、或夜中に、附近の或火山が突然爆発して炎々たる大火柱が大空に吹き上り、陸も海上も真昼のやうに明るくなつた瞬間で、それは一寸言葉に尽せない大偉観でした。例の噴火湾の二火山はたゞ烟をはくだけでしたが、今度の火山は、爆発後もどん/\火焔を噴きました。サウザンプトンはそのうちに測量もすつかり果たしたので、日本の役人に別れを告げて、下田に向つて帰帆しました。

 四九
 
 函館に碇泊中の、ポーハタン以下三隻の艦隊員たちは、交互に町へ上つて頻繁に町民たちと接触しました。又一方では、函館奉行の遠藤松左衛門は、部下の役人をつれて、しば/\旗艦へ出て来て、そのたびに、饗応をうけたり、又は、特に午餐に招待されたりしました。そのたんびには、艦内での珍らしいものを、一々見て行つたりするやうなわけで、日米人の間にだん/\と親密の度合が加はつて来ました。
 ペリーは六月十五日までにはぜひ下田へ帰りたいので、五月三十一日が来ると、まづ、帆船のマセドニアンを同地に向つて出発させ、同じく帆船のバンダリヤには、日本海を通つて、ぢかに上海へ廻航するやうに言ひつけて抜錨させました。ペリーは、かうして滞在してゐる間も、例の江戸政府からの派遣委員の来着を、それとなく待つてゐたのですが、もう五月も今日ぎりといふのにまだやつて来ないので出発の都合上、かなりじれつたく思ひました。
 すると翌六月一日の朝、町の役所から、日本、支那、オランダの各国語でかいた手紙が来ました。読んで見ますと、
 「只今、政府の役人の平山謙次郎以下が、樺太に派遣されて出張の途中来港中である。平山は貴長官にお会ひして行きたいといふのであるが、いつ御訪問したらいゝか」といふ聞き合せでした。ペリーは早速ベント副官を送つて、いつでも御任意のときにポーハタンへ来艦してくれるやうにと挨拶させますと、では今日午後一時にといふ返答だつたので、ペリーは適当な時間を見計つて、迎へのボウトに副官をのせてさし向けました。
 副官は奉行所へ出かけて、長官の命令で、迎へに来た旨を通じますと、唯今食事中だからとの挨拶でした。それから、とう/\一時間以上も、がまんして待つてゐますと、問題の役人らしい一人が、供をつれてやつと出て来ました。ところが、彼はボウトの方へは来ないで、ふとそこいらの建物へ這入りこんで、威張つたらしく腰を下し、悠然と茶をのみ煙草をふかしはじめました。副官は、もういよ/\時間がせまりましたが、と、丁寧にかう言ひますと、相手は、たゞ鷹揚にうなづいたきり、落ちつき払つて相変らず、ぷかり/\吹かしてゐます。ベントたちはこれまで、かなり多くの日本人に出会ひましたが、こんな、尊大ぶつた、不遜な男を見かけたのははじめてです。ベントは、あんまりだと思つたので最後に、
 「では、もうボウトを引きかへします。これに便乗なさるなら御同行するが、それでなくば、あなたがたの方で任意に来艦される外はない。但し、会見の時間はもう過ぎてしまつたので、出て来られても長官はお会ひになるかどうか疑問です。その点はお含みおき下さるやうに。」と言ひますと、役人は、たゞ一と言、「同行者を待ち合せ中なので、」と答へたなり平然とすましてゐます。ベントはボウトに乗り込んで引つかへして来ました。すると途中で、伝令のボウトに出会ひました。伝令の士官は、「何か相当の理由のない限りは、徒らに役人を待つに及ばない。もう引き上げてかへれ。」といふ、ペリーの命令を伝へに来たところでした。
 ベントがすべてをペリーに報告しますと、ペリーは考へて、後ほど、再び他のボウトを出す準備を命じました。すると丁度そのとき、日本の役人が舷門を上つて来ました。ペリーはベントに言ひつけて、どういふ理由で時間におくれて来られたのかと、たづねさせますと、長官への土産物を少しばかり買ひとゝのへるのに手間取つたからとの答へでした。ペリーはそれを信実とみとめて会見することゝし、長官室へ案内させました。当の木下は艦隊の通訳を通じてペリーと手短かに挨拶を交換しました。そこへ給仕たちが饗応の馳走をはこんで来ました。ペリーは木下が函館のことについては何等の権能を持つてゐないといふのを聞いて、例の協定問題には触れないで、たゞ社交的な談話をとりかはしました。ペリーは艦隊に対する函館の官民の礼譲と好意とに非常に満足してゐる旨を語り「併し、たゞ一つ、まだわれ/\に対して何をか危倶されてゐるところがあると見えて、われ/\が町を通ると、家々ではあわてゝ婦人たちを隠すやうであるが、あれだけは甚だ不愉快である。」と言ひますと、木下は「いや、それは函館ばかりに限つたことではない、日本の女たちは見慣れない外国人を見ると、半は恥かしがつて引つこんでしまふのが常で、決してほかに意味があるのではない。又その習慣は今にはかに打破さすわけにも行かない。」と弁明しました。

 五〇
 
 この会見の翌日、ペリーは、奉行所を訪問して最後の分れを告げ、贈物をも交換して、翌六月三日の明け方に、下田に向つて出発しました。ところが函館の湾口を出ると、外は非常に霧が深いので、止むを得ず両艦とも午後になるまで湾外に碇泊した後、再び抜錨しました。そして六月五日には、伊豆の大島の噴煙が遠くに見えて来、つゞいて本土の陸地もうす/\見えて来ましたが、急に又天候が変つて、雨と霧とが深くなつて来たので、丁度一昼夜おくれて、六月七日の正午に下田へ帰着しました。函館からのこの航海中には、べつに変つたこともなくたゞ一度、鯨の大群を見かけたのと、黒潮が凄じい勢で東に向つて流れてゐるのを見たゞけでした。
 両艦が投錨すると、間もなく日本の役人が旗艦へ来て、丁寧に長官の帰航を歓迎する旨を述べ、政府委員が江戸から来着してゐると告げて帰りました。
 ペリーは、残りの問題を片づけて、早く日本を立ちたいので、早速副官を町役人のところへ派遣して委員との会見を申込ませました。その結果、翌八日の正午に、或寺院で会合することに極りました。翌日ペリーは随行員たちをつれて出席しました。日本側の委員長林大学頭は、今度追加任命された都築駿河守、竹内誠太郎の両委員を紹介し、下田港が今回政府の直轄区域に編入され、伊沢美濃守と都築とが奉行に、黒川嘉兵衛、外一名が副奉行に任命された旨を告げました。それで下田の区域をはつきり分らせるために町の周囲の境界へ柵をつけたいと思ふが御異存はないか。アメリカ人は、その境界内は自由に歩行されていゝし、柵外へ出られる際には役人の詰所で許可を得られゝばいゝわけで、それもいつでも、雑作なく、お許しするのであるからと、かういふことを言ひ出しました。ペリーはそれに対して下田の境界を作る作らないの問題は貴政府の御任意で、われ/\が干渉すべき限りではないが、われわれがそこを通過するのに改めて許可を仰ぐ理由はない、われ/\はすでに、町から七里以内の間は自由に出入する特権を与へられてゐるのだからと、強硬に反対して撤回させ、なほ境界線の設定には、念のため部下の士官を三人立ち会はせることにしました。
 次で問題は函館での自由歩行区域のとりきめに移りました。これは日本側では、函館の市内だけに制限しようとかゝり、ペリーは、やはり下田同様七里までは認可されるのが当然であると主張して、容易に議論が纏らないので、止むなく懸案として次回まで延ばすことにし、その次の日本側で提出した横浜に葬つてあるアメリカの一水夫の死体を下田に改葬することゝ、ペリーが要求した、下田へ日本の港務官と水先案内人を置くことを、お互に承認し、それでこの日は散会しました。
 その翌日の会見では、函館の限界のことが再びくりかへされましたが、又しても未決定にをはり、長官以下一同は、丁寧な饗応をうけて帰艦しました。その席上、日本委員は支那の革命や、ロシアとトルコとの戦争について、いろ/\質問し、長官の意見を聞きとりました。
 商議はとう/\十七日まで毎日つゞいて行はれ、結局、ペリーと委員との間に、十二箇条の協約が円満にとり結ばれました。その主な箇条は、アメリカ人は日本の兵営、箇人の住宅以外、すべての商店、寺院等へ自由に出入し得ること、下田、柿崎、外一箇処にアメリカ人の上陸地点を定めること、下田の龍泉寺、柿崎のヨクセン寺をアメリカ人の休憩所にあてること、今後はオランダ語の通訳が不在の場合を除くほかは支那語を、両国政府間の公用語として使用しないこと、港務官一名、水先案内人二名設置のこと、アメリカ人が個人的に物品を買入れようとするには、その品目と代価と自分の姓名とを記入してさし出せば品物は係りの役人の手もとに廻され、そこで金と引きかへに渡されること、狩猟は一さい禁止のこと、函館では自由歩行区域を五里以内とすること等でした。

 五一

 ペリーは以上でやつと問題の全部を解決して、いよ/\出発の準備にとりかゝりました。副官は命令を受けて役所へ出かけ、艦隊で買入れた品物の総計算をさせました。町役人は、艦隊員のために公売所を開いて、商人に、いろ/\の土産物を売らせました。ペリーは幕僚や兵隊を引きつれて政府委員たちへ告別の訪問をし、相互にいろ/\最後の贈物を交換しました。委員からアメリカの大統領へおくられたものゝ中に、三匹の狆がゐました。その狆は無事にアメリカヘつれかへられ、二匹は大分長く生きてゐました。ペリーも二匹もらひましたが、一ぴきは航海の途中で死に、向うへついたのは、たつた一ぴきだけでした。
 艦隊が出帆する二三日前、通訳の森山栄之助が五六人の役人と一しよにポーハタン号へ出向いて来て艦隊に乗り組んでゐる、例の日本人のサンパツチ(倉蔵)を引き渡してくれと申し込みました。ベント副官は、それにサンパツチ自身の自由意志から、このまゝ日本へとゞまりたいといふのならば無論当方に異議のある筈もないが、それにしても、貴政府が公文書をもつて、サンパツチがこれまで国外に流浪してゐたり、外国の艦船に乗込んだりしてゐたことについては全然何等の所罰を加へず、自由に釈放する旨の誓約をわれ/\に提出されない以上は断じて取り計らふことは出来ないと告げました。すると森山以下は、貴官たちは、倉蔵が下艦でもすればすぐに残酷な刑罰にでも会ふやうに邪推されるのは甚だをかしい、われ/\は貴官に向つて、倉蔵に対しては決して所刑を加へないこと、彼を望みどほりのところへかへしてやることを固く保証しますと確言しました。それで副官は試しにサンパツチを呼び出して彼の意嚮を聞かして見ることにしました。サンパツチは日本の役人の前へつれ出されると、このまへのやうに又ばたりと両膝をついて、うづくまり、頭を床につけて、怖れ縮まつて、ぶる/\ふるへつゞけてゐます。べントは「立て。」と命令しました。アメリカの国旗の下に保護されてゐる人間が、しかも彼自身の上官の面前で、こんな卑屈千万な態度を見せる理由がないと、ベントは内心ひどく憤慨して、むりやりに引きおこしました。森山たちは、サンパツチに向つて、言葉を和げて、こん/\と説きつけたやうでしたが、サンパツチは、艦を下りたら命はないものと思ひ込んでゐるので、何といはれても聞きませんでした。
 サンパツチは人が好くて勤勉であるため、仲間の水夫たちから、みんなに可愛がられてをりました。中でも、ゴーブルといふ、信仰心の深い一水夫は特に彼を哀れがつて、これから先、アメリカへ行つても立派に通用するだけの、教育のある、クリスチヤン教徒に仕立て上げるつもりで、熱心に指導してゐたのです。彼は、とう/\、アメリカまで行き、ニユーヨークの田舎の、ゴーブルの家におちついて、死ぬまで二人でそこでくらしました。
 ペリーは下田を出発する前に再び旗艦をポーハタンから、ミツシツピイに移しました。例の、エゾのエソダーモー港から直航して来たサウザンプトンは、すでに、十日に到着しましたが、函館を出発したマセドニアンも十一日には帰着してゐました。それへ、三日以来この地に碇泊してゐたサプライを加へて、すべてゞ五隻の全艦隊は、下田の港外へ出て、いつでも出発し得る用意をしてゐました。
 そこへ森山栄之助が、土産用にと、いろんな博物の標本なぞをもつて、二三の役人と一しよに、ペリーへ告別に来ました。一同は船室に案内されて、ペリー以下と一しよに、親しく最後の談笑をかはし、並べられた御馳走を食べました。そのとき一士官が下田で買つた日本の磔の画を見せますと、森山はそのほかの日本の刑罰のことをもくはしく話して聞かせました。やがて彼等は、本当にしみ/゛\別れを惜んでかへつて行きました。
 その翌日、下田の奉行は、ペリーとの協定によつて任命した、一名の港務官と、水先案内者三名とを艦隊へよこして、ペリーに会はせました。ペリーはその人たちの任命に満足して、港務官へは望遠鏡を一箇与へ、これをいつも望楼に備へつけておくやうに、そして貴君が辞職する際には後任者に渡すやうにと告げ、次に、水先案内者には、上等の外套を一着づゝと、小さなアメリカの海軍旗を二たふりづゝ渡して、この旗を案内船に建てゝおき、アメリカ船が港外に見えたら、すぐに案内に出かけるやうに言いわたしておきました。
 五隻の全艦隊は、その翌日、千八百五十四年の六月二十八日の朝、一せいに錨を上げて出発しかけました。ところが、そのとき急に風が南に変つたので帆前船のマセドニアンとサプライとは再び錨を下しました。ペリーは、この二隻には、風位や天候のきまるのを待つて出帆して、台湾の基隆へ直航してそこで艦隊と落ち合ふやうに命令し、ポーハタンに残り一隻の帆船サウザンプトンを引かせて、三隻で立つて行きました。翌日二十九日にはマセドニアンもサプライも出発しました。これでアメリカの艦船はのこらず日本を退去したわけです。
 ペリーはそれから七月一日に琉球の那覇に入港しました。そして十一日まで琉球の官憲と協商し、那覇での糧食、炭水の補給のこと、同港のぐるりの自由歩行の件以下、いろ/\の問題を解決して、とう/\、日本と締結したのと殆同様の条約をとり結ぶことに成功しました。それで十四日には役人たちを招待して告別の宴を開き、十七日に抜錨して香港へ向ひました。
 ペリーはこゝで、ポーハタンとマセドニアンとの二隻の艦隊の司令権を部下の高級将校に委任し、そのほかの艦船には、すべて本国へ帰還を命じた後、香港在留の官民や、艦隊の乗組員たちに見送られてベント副官と一しよに、イギリスの郵便汽船ヒンドスタン号に便乗しました。そして千八百五十五年一月十二日に、二年と二箇月ぶりで無事にニユーヨークに帰着し、すべての復命を終りました。
 それから三月二十三日に、旗艦のミツシツピイがブルークラインの軍港に帰り着きました。ペリーはその翌日再び旗艦に坐乗して、正式に長官旗を引き下して下艦したわけです。

1『赤い鳥』(赤い鳥社、大正一一年二月-一四年三月)
2 同右