日本を(長編歴史童話)
──ペリー艦隊来航記──
鈴木三重吉
一
西洋人がはじめて日本といふものゝ名前を聞いたのは、やうやく十三世紀の終りに近い、千二百九十五年ごろのことでした。その年に、伊太利(イタリー)人で、永らく亜細亜(アジア)に入り込んでゐたマルコポローといふものが欧羅巴(ヨーロッパ)へかへつて来ました。欧洲人はこのマルコポローの旅行記の中に、日本について少しばかりかいてある、謎(なぞ)のやうな、いゝ加減な又聞(またぎ)きの話によつて、はじめてジパング(Zipangu)といふ名前の下(もと)に日本の存在を聞いたのでした。それ以来多くの人々が、その不可思議なジパングに対して色々に興味を持ち出しました。例の千四百九十二年に、コロンブスが亜米利加(アメリカ)を発見したのも、実を言へば、大西洋を横断して日本へ来るつもりで出た途中、偶然にあの大陸にぶつかつたのです。彼は今の南米のキユーバ島へはじめて上陸したときには、一図(づ)に日本へ着いたものとばかり思つて大喜びをした程でした。
この大きな発見のために、コロンブスはとう/\日本へは来ずにしまひましたが、それから後(のち)も、欧米ではなほいろ/\の人々が、たえず日本について考へてゐました。そのうちに、葡萄牙(ポルトガル)人、西班牙(スペイン)人、和蘭(オランダ)人、英吉利(イギリス)人たちは印度(インド)や支那(しな)とどん/\貿易をするやうになり、つゞいて、だん/\に日本とも通商をしようとして互(たがひ)に機会を狙(ねら)つてをりました。併(しか)しそのときの日本は、彼等(ら)から見ると、どういふわけでか、外国との交際を絶対に嫌(きら)つて、異人種は一さい、入港をさへも許さないといふやうな、極端な禁令を布(し)いてゐました。
葡萄牙人と西班牙人とは、その中をくゞつてだんだんに関係をつけました。つゞいて英吉利人や和蘭人も上手に接近して来ました。併し間もなく日本は、第一ばんに葡萄牙人と西班牙人とを追ひかへしてしまひ次で英吉利人も、自分から引き上げ、あとには、ただ和蘭人だけが、支那人と共に、僅(わづ)かに長崎(ながさき)の港で貿易をすることを許されました。それも、全(まる)で監禁同様に、たゞ港内の出島(でじま)といふところに住み得るだけで、そこから外へは一足もふみ出ることが出来ないやうに、きびしく拘束されてゐました。
さういふ日本に対して、亜米利加人は、一ばんあとから、少くとも自分たちだけは、ぜひとも自由な交際を開かうといふ熱望を持ちはじめました。
米人はそのころ英吉利や葡萄牙と対抗して、印度と支那とへ商品をさばくことにあせつてゐました。それには、はる/゛\亜弗利加(アフリカ)の喜望峰(きばうほう)を廻(まは)つて出て来るので、往(い)くにもかへるにも、必ず三四箇月といふ日数がかゝりました。ところが、彼等は千八百四十六年に、墨西哥(メキシコ)と戦争をした結果、太平洋の沿岸の今のカリフオーニア州を墨西哥から取り上げました。
かうなつて見ると、支那や印度へ出て行くにも、今までのやうに、わざ/\亜弗利加を廻らないでも、カリフオーニアから、大西洋を横切つて直航すれば、日数もおほよそもとの四分の一で足りるわけになりました。そこへ、たま/\蒸汽船といふものが発明されました。この機関船を使へば、帆走とちがつて、なほ/\早く往復出来る計算です。それについてはまづ第一に石炭が問題でした。おの/\の船が積み得るだけの量では、せい/゛\一週間ぐらゐの航海しか出来ないので、どうしても、途中に補給する場所がなくてはなりません。それには丁度(ちやうど)支那との中間にある日本へ、石炭の貯蔵所を作つておけば非常に便利です。
かういふ、さしあたりの必要から、米人の多くは、どうかして早く日本と、好(よし)みを作りたいと思ひました。それ等の人々の中で、それについての実際上の問題を、一ばん熱心に研究したのは、代将官のペリーでした。この人は、さきに墨西哥との戦争中にも、米国艦隊の司令官として非常な働きをした人で、学者としてもいろ/\の方面に通じてをり、種々の意味で、当時の人望の中心になつてゐた人でした。
実は、亜米利加は、その前に一度、たゞ普通の意味で、日本と交際を開かうとして、ビツドルといふ人を司令官に任じ、二隻の軍艦をよこしたことがありました。併し、日本はその申込(まうしこみ)を全然拒(しりぞ)けて、上陸をさへ許さなかつたので、ビツドルは日本の海上に十日足らず碇泊(ていはく)してゐたゞけで、空(むな)しく引き上げて来ました。
併し日本は、今和蘭とは通商をしてをります。だからこちらの出方一つでは、改めてわれ/\とも交際をしない筈(はず)はないと、ペリーは考へました。
ついては、彼は順序として、まづ根本に、日本は元来どういふわけで、外国人との交際をあれまで極端に拒んでゐるのか、その理由を究めたいと思ひました。それで葡萄牙人や和蘭人たちが、日本についてかいてゐる本を、集め得るだけ集めて読みあさり、それによつて、第一ばんに日本の歴史と、日本人の性格とを調べました。その結果、これまでいろ/\海外へも発展してゐた日本が、この二百年来急に、あゝいふ引つ込み一方の態度に変つて来たといふことは、どうも日本人の実さいの性格らしいものとは全(まる)で不調和な出方のやうに思へました。彼は、その不審を解くために、一たい、これまで日本に接触した外人が、どういふやり方をして来たものかと、それをくはしく調べて見ました。すると、なるほどこれでは、日本が西洋人を、憎みきらふのも無理はないといふ点をどん/\かぞへ上げることが出来ました。
中でも一ばん、その妨害のもとを作つてゐるのは露西亜(ロシア)人のやり口でした。彼等は、日本に属してゐる北方の島々をどん/\奪つてをり、黒龍江(こくりゆうかう)の江口なぞへは、いろ/\の防備をして、さも日本をつけ狙つてゐるやうな疑ひを十分日本人に刻みつけてをります。これでは日本が警戒するのも当然です。次には、うつかりしてゐると西洋人は行く/\日本の内政に干渉し出すかも分らないといふやうな恐怖を与へたものもゐます。葡萄牙人が島原(しまばら)の乱のときに、賊徒たちに加担をしたことなぞは、その中の尤(もつとも)よくない一例です。又英吉利の士官なぞは日本の海上で、いろんな許しがたい乱暴を働いてゐます。そのほか、多くの使節たちにしても、めい/\自分の希望をむりにも押し通さうとして日本人を威嚇(ゐかく)したり、いろいろ剛慢不遜(がうまんふそん)な言動をしたりした点で、ひどく日本人の反感をそゝつたことが想像されます。つまりすべての外人が、日本人をあまりにひどく見損つてかかつたのが間違ひです。外国の使節たちは、その上に、又一方ではおの/\自分のみが特権を得ようとして、日本に向つてお互に他を悪く言ひ放つので、結局は日本人に、すべての外人について、少なからぬ不安と疑惑とを抱かせることになるのでした。
これに反して、亜米利加だけは、例のビツドルがすなほに引きかへして来た以外に、これまで日本とは何の交渉をもしてゐないし、従つて、まだ一度も日本人に悪い印象を与へた例もない。ペリーは、さういふわれ/\が、十分の礼儀と、温情とをもつて徐々に接近をし、われ/\にはすべての点に微塵(みぢん)も悪意がないことをよく了解させたならば、こちらの目的は必ず遂げられるに相違ないと信じました。
ペリーの見る限りでは、すべて海上権については、亜米利加はいたるところで、いつも英吉利人に先手をつけられてゐます。ぐず/\してゐると、東洋を相手の商業も今に見す/\英吉利に奪はれてしまふ怖(おそ)れがありました。彼等は、東洋方面で、防備のある港湾は片はしから手に入れようとしてゐます。ことに東印度や支那海では、主要な地点は、こと/゛\く取りつくしてしまひました。もう今では彼等が残してゐるところは、太平洋上の島々と日本の領域とだけに過ぎません。亜米利加は今のうちに、少くとも日本のどこかの地点に、英吉利より先に、足がゝりをつけておかなければ、後になつて悔いても及ばない。ペリーは、それを考へると、本当にいら/\しました。
但(ただ)しそれ以上に、日本と完全な通商条約を結ぶなぞといふことは、まだとても早急には望むことは出来ないだらうけれど、ともかくさしあたり、捕鯨船や商船の避難所なり、同時に石炭やその他の必要品を補充する場所として、一二の港湾を開放させるだけならば、日本もわけなく聞き入れるだらうとペリーは信じました。
併し万一、日本がそれをもあくまで拒絶するならば、仕方なく、どこか日本に近い南の方に港湾を見つけ、そこを船隊の集合地としておいて、その上で徐々に日本の了解を得ることに努めればよい。ペリーは、かういふ考へから、その準備地点について、琉球(りうきう)に目をつけました。
その時分、琉球は、支那が、自分の属領だと言ひ張つてをりましたが、事実の上では、日本の薩摩(さつま)藩が支配してゐて、かなりひどい圧制を加へてゐました。ペリーは、この哀れな琉球人に、われ/\の温い情誼(じやうぎ)を向けてやれば、彼等は喜んで信服して、いろ/\の便宜を与へてくれるに相違ないと思ひました。
ペリーの熱心な主張は、亜米利加の政府部内にもかなり多くの同感者を得ました。そんなわけで政府も、早速、印度に駐在してゐた、米国艦隊の司令官のアウリツクに命令して、麾下(きか)のプレブルといふ軍艦を日本に送らせ、大体の容子を探つた上で、日本との修交の可否について意見を報告するやうに言ひつけました。その結果、プレブルの艦長グラインは、ぜひ日本と交通を開く必要があるといふことを、力を入れて上申してよこしました。政府はこの問題に関して、次で司令官のアウリツクをよびかへしました。ペリーはそれを機会として、いよ/\正式に、日本と交渉するための艦隊の特派を建議しました。
大統領のミラード・フイルモアは、ペリーの着実さと、綿密な思慮とを十分信用してゐましたので、いよ/\艦隊の派遣を決定すると一しよに、ペリーをその司令官と同時に、日本に向つての特命全権公使に任命しました。
ペリーは早速艦隊の編成にかゝりました。それには、まづ第一ばんに、さきにも言つた墨西哥との戦争のとき、自分の最愛の旗艦であつたミツシツピイ号を選定し、それへ、プリストン号、以下アレガニー、ヴエルモント、バンダリア、マセドニアンの五隻を加へた上、なほ、当時東印度に滞在してゐたサクスハナ、サラトガ、プリマスの三隻をも編入し、そのほかに三隻の武装運送船をつれて行くことにとり極(き)めました。海軍省は、その航海の序(つい)でに、東印度と支那との海上を、なるべく広く測量して来る任務をつけ足しました。
艦隊は出来得るかぎり早く出発するやうに命令されました。併し、以上の殆(ほとんど)すべての船は、いろ/\の修理のために非常に手間取つて、出発がひどく延び/\になつてしまひました。プリストンの如(ごと)きは九箇月もかゝつて、やうやく準備が出来上つたので念のため一応試運転をして見ますと、汽罐(きくわん)がひどく不完全で、全然航海に堪(た)へないといふことが分りました。それで代りにポーハタンといふ船を入れることにして、それを又こつ/\手を入れにかゝりました。こんなことで、世間では、政府は日本へ艦隊を出すのを、中止したのではないかと疑つたくらゐです。その間には、セント・ローレンス湾で英吉利との間に漁業権について紛擾(ふんぜう)がおこり、ペリーは命令によつて、ミツシツピイに坐乗(ざじやう)して急行しました。ペリーはその間に、日本派遣艦隊の準備がすつかり出来てゐてくれるやうにと祈つてゐたのですが、かへつて見れば、まだどの船も修理がとゝのはないでごた/\してゐました。
これではいつまでも果てしがありません。それでペリーは止(や)むを得ず、それ等の船は準備が出来次第あとから追つかけて来させることゝし、一先(ま)づ、ミツシツピイだけで出発することの許可を仰ぎました。
ペリーは、それまでに、日本への派遣について、さま/゛\の人たちから、下廻(したまは)りに乗せてくれだの、便乗を許してくれだのと言つて、うるさい程申込みを受けました。その中には欧羅巴のいろんな国々の科学者、文学者、旅行家なぞも大勢ゐました。彼等は米国艦隊が日本へ出て行くといふうわさをきいてそれ/゛\専門的の研究のために、争(あらそ)つて便乗を申し込んで来たのです。併しペリーは、それ等の人々はもとよりのこと、亜米利加自身の学者たちをも一々ことわつて、たゞ、定められた艦船の乗組員以外には、いかなる人の随伴をも許しませんでした。それは、今度の自分の任務は非常に重大なもので、その一ばんの外交上の目的以外に、ほかのことにかゝはつてゐる余裕がないと見たからです。それにも係(かか)はらず、そんな物ずきの人々や学問上の熱心家たちをつれて行つて、その人々の興味を制限するとなると、さま/゛\の不平に包まれるばかりでなく、一方では軍人としての規律のない人がゐては、どんな勝手なことをし出すかも分らないし、そのために、日本人に対して悪感を注ぐやうなことがあつては取りかへしがつきません。ペリーは何よりも第一にその点をひどく怖れたのと、それと並んで後に話すやうな或(ある)重大な危険をも感じたからでした。
政府は、ミツシツピイの単独の出発をすぐに許してくれました。それでペリーはいよ/\その船一つでアナポリスといふ港から出て行きました。そのさいには、大統領のフイルモアと、海軍卿(きやう)のケネデイ以下、政府の主だつた人々やその他の多くの紳士、それ/゛\の夫人たちが来船して、別れの挨拶(あいさつ)をかはしました。ミツシツピイ号はその港を出てから、一旦ノーフオークといふ軍港に立ち寄つた上、遂(つひ)に千八百五十二年──今から丁度七十年前の──十一月二十四日に、いよ/\、日本を目ざして錨(いかり)を上げました。
ペリーはその際、すべての乗組員にきびしく命令を下して、今後の艦隊のすべての行動と、日本に対する、当面の計画の表はれとについては、内外の新聞や、その他の刊行物への通報を禁止し、なほ家族や、そのほかの人々に出す私信にも、それ等の記述は一さい許さないことにしました。それのみならず、自分自身のためにつける日記や記録も、さしあたり政府そのものゝ所有とし、後に海軍省が許すまでは、決して人に見せることも出来ないやうに、きびしく言ひわたしておきました。
それといふのは、さきに、亜米利加が日本へ艦隊を派遣するといふことが諸外国につたはると、露西亜は、あわてゝ、すぐに日本へ軍艦を送りました。こんなことで、日本に下らない疑惑を与へ、亜米利加が目的としてゐる、平和な交渉に妨害が出来ては困るので、自分の艦隊に関する動静はかたく世間へ秘密にしておく必要を感じたからです。さきに言つたやうに、うるさく申込んで来た便乗者を一々ことわつてしまつたのも、それ等の人たちに対しては、ペリー自身の部下に強制するやうに、手紙の内容を束縛することまでは出来かねます。そこに非常な不安があつたこともかなり大きな理由の一つでした。
二
ペリーは、やうやくのことで、千八百五十二年、──今から丁度(ちやうど)七十年前──の十一月二十四日に、まづさしあたり、ミツシツピイ号一隻だけで、いよいよ日本に向つて出発しました。ペリーが米墨(べいぼく)戦争以来最愛の乗艦として誇つてゐたその、ミツシツピイも、今から見れば、噸数(とんすう)も僅(わづか)千七百噸で速力も八浬(ノツト)内外の、外車(そとぐるま)のついた小蒸汽船でした。従つて石炭も一週間分より多くは積み込めないので、風向(かぜむき)により出来るだけ帆を利用して、少しでも石炭の消失をはぶく方針をとりました。
併(しか)し、出立後十日間といふものは、都合わるく南の風がはげしく吹きつゞけて、海はひどい大荒れでした。ペリーは十二の汽罐(きくわん)の中、八つまでに火を入れさせて、その荒れの中をむりに突きとほし、十九日目の十二月十二日の未明に、一とまづ、予定どほり北アフリカのマデイラ島に着きました。そして、三日間そこに碇泊(ていはく)して、石炭や糧食や、そのほかの必要品を補充した上、それから先は北東の貿易風を利用して、どこへも寄港しずに、一気に喜望峰(きばうほう)まで帆走するつもりで出帆しましたが、折わるく風は常よりも遥(はる)か北方で止つてしまつて、入り代りに今度は反対の南東の貿易風が出て来ました。そのために止(や)むを得ず、途中で、例のナポレオンが流されてゐたセント・ヘレナ島に寄港して、石炭なぞを積み加へ、翌千八百五十三年の一月二十四日にはじめて喜望峰のケイプ・タウンに着きました。
ペリーは、こゝで再び石炭や糧食の補充をつけそれから順次南アフリカの東海面のモリシウス島、印度(インド)のセイロン島、シンガポールにそれ/゛\立ちよつて、そのたびに、石炭等(とう)を補つた後、同年の四月七日の日没にやうやく支那(しな)の香港(ホンコン)に投錨(とうべう)しました。
そこには丁度、母国の東洋艦隊の、プリマス号とサラトガ号とが、運送船のサプライ号を率ゐて碇泊してをりました。これはすべて帆前船です。その二つの軍艦が祝砲をうつてミツシツピイを迎へました。ミツシツピイもそれに答へて轟々(がうがう)と礼砲をうちました。ミツシツピイはそこに二十一日間錨(いかり)を下してゐましたが、次(つい)で澳門(マカオ)と広東(カントン)とへ廻(まは)り、再び襖門へ引きかへした上、四月二十八日の夕方に錨を上げて、サプライをつれて上海(シヤンハイ)に向ひ、五月四日に同港に着きました。そこには、二千五百噸(とん)のサクスハナ号と、小さなカプリス号との二隻の蒸汽機関の軍艦が待ちうけてをりました。
ペリーはそのサクスハナを旗艦に更(か)へて移乗し五月二十三日の午後一時に、以上のミツシツピイ、カプリス、サプライの三隻を引きつれて、いよ/\琉球(りうきう)の那覇(なは)に向つて出発しました。前にも言つた如(ごと)く、琉球はそのとき、支那が自分の属領だと言ひはつてをりましたが、事実上では、日本の薩摩(さつま)藩の圧制の下(もと)に屈従してゐました。もし琉球が本当に日本のものだとしたら、ペリーは、いよ/\もう少しで日本の土を踏むことが出来るのでした。
サクスハナ号は、ぢき後(うしろ)にカプリスを附け、一浬(ノツト)うしろに、サプライを曳(ひ)いたミツシツピイを率ゐて、徐(しづ)かに進んで行きました。そのうちに間もなく、小さなカプリスは南西の貿易風にひどく吹きつけられて、だん/\と後になり、サプライを曳いてゐるミツシツピイが、見る/\サクスハナの後に追ひついて来ました。サクスハナはそれを見て、前檣(ぜんしやう)の帆を上げました。さうすると、ミツシツピイは又(また)ずつと後におくれたので、サクスハナは再び速力をゆるめて待ち合せました。サクスハナの汽罐は一時間に一噸(とん)の石炭しかたかれないことに制限されてゐましたので本当の速力は、いつもの半分も出せませんでしたが丁度貿易風がたえずしづかに手伝つてくれたので、実さいには一時間七浬(ノツト)のわりで走ることが出来ました。南へ/\と下(さが)つて行くので、気候はだん/\にあたゝかくなり、海はたま/\湖水のやうに隠やかでした。ペリーは、この航海中、乗組員に対していろ/\の訓練をしました。二十五日の朝には、琉球に滞在中の心得を言ひわたしました。
するとその夕方、ミツシツピイ号から、かすかに琉球島が見え出したといふ信号をつたへました。つゞいて、サクスハナの前檣の哨兵(せうへい)からも、同じ報告を得ました。サプライは、今はミツシツピイから放れて単独に帆走してゐました。
それで夜になると、蒸汽機関を供へたサクスハナと、ミツシツピイとは、ともに速力をゆるめて、サプライ号をおきざりにしないやうに、注意して続航しました。
やがて二十六日の朝になりますと、琉球の島々は二十浬(ノツト)ばかりの前方に、一列に並んであり/\と見え出しました。そのときサクスハナは、やはり一ばん先に走り、ミツシツピイはその後につゞいてゐましたが、サプライ号は、すつかり後(おく)れて、例のカプリスと同じやうに、まるで影も見えなくなつてしまひました。
サクスハナとミツシツピイとのまへには、次第々々に丁度英吉利(イギリス)の陸地を見るやうな、うらゝかに青い島々が、一々指(ゆびさ)し分けられるほどに間近く展開して来ました。午後の三時には、目ざす那覇(なは)の市街が湾の奥にはつきりと見えはじめました。サクスハナと、ミツシツピイとは間もなくその湾口を這入(はひ)つて行きました。
すると、市街の北の方に突出(つきだ)した丘の上の、或(ある)一軒屋で、長い旗竿(はたざを)へひら/\と英吉利の旗をつるし上げました。
後に分つたことですが、その家(うち)は英吉利の宣教師のベトルハイムといふ博士の住居(すまひ)だつたのです。彼は、琉球人から、ひどく反対されたにも係(かか)はらず、英吉利の士官たちに庇護されて、最早(もはや)五六年、無理にそこに住みとほしてゐたのでした。琉球へはその間滅多に西洋の船が来なかつたのに、今二隻からの亜米利加の艦隊が勢(いきほひ)よく這入つて来たので、ベトルハイムは躍り上るばかりに喜んで大急ぎで祝ひの旗を上げたのでした。
港口に突き出た岬(みさき)を廻(まは)ると、内港の入口へ来ました。港の中には、大きな日本船が、あすここゝに錨を引き上げにかゝつてゐます。さきの一軒家の旗竿の下には、二人の男が立つて、一生けんめいに艦隊の行動を見張つてゐるやうに見えました。試しに望遠鏡をとつて市街を見ますと、白い日傘(ひがさ)をさした市民が、ざわ/\と、町々を遁(に)げ迷つてゐるのが手に取るやうに見えました。艦隊は、夕方ごろ、港内に這入つて投錨しました。そこへ丁度サラトガ号が澳門(マカオ)から、通訳のウヰリアム博士を乗せて来着し、並んで錨を下しました。
間もなく急に雨がびしよ/\とふり出しました。その雨の中を、二人の役人らしいものを乗せた船がサクスハナに向つてずん/\漕(こ)ぎよせて来ました。それは時間からいふと、艦隊が投錨してから、まだ二時間もたゝない間のことです。二人は甲板へ上つて来て、丁寧に礼をし、赤い色の日本紙にかいた、長い一丈あまりの、手紙らしいものをうや/\しく差出しました。
二人のうち、上役らしい一人は、肉色の芭蕉布(ばせうふ)で作つただぶ/\の上袍(うはぎ)を着、もう一人は、同じ材料の青色の上袍(うはぎ)を着てをりました。そして、二人とも青い帯に白い足袋をはき、おの/\、真黄色(まつきいろ)な長方形の冠を手に持つて控へてゐました。どちらも黒い長い、疎(まばら)な顎髯(あごひげ)を垂れた、色の浅黒い、三十五六から四十前後らしい年輩でした。
お互(たがひ)に言葉が通じないので、ペリーの部下たちには、その二人が何人(なにびと)で、どういふつもりで出て来たのか、さつぱり分りません。それで、ペリーに使はれてゐる一人の支那人をよんで来て、二人がさし出した手紙を読ませて見ますと、二人とも上役の命令で、たゞ、艦隊の無事の到着を祝ふために出て来たまでのことでした。併(しか)し、二人のそぶりを見ると、それは表面で、実は疑ひもなく、それとはなしに、こちらの容子や意向を探りに来たのに相違ありませんでした。
ペリーはわざと、会見を拒(しりぞ)けて、二人をそのまゝかへしました。
それと入れちがいに、宣教師のベトルハイム博士が小舟に乗つてたづねて来て、全(まる)で狂はんばかりに喜びながら、艦隊の入港を祝ひました。
彼はペリーの船室に案内されて、二三時間、ペリーと話をしました、米国の艦隊がこちらへ出て来るといふことは、彼は全然予想さへもしなかつたと語りました。
ベトルハィムが辞し去る際には、ペリーはわざわざボウトを下させて、海岸から三浬(ノツト)近くのところまで見送らせました。
三
ペリーの艦隊はとう/\琉球(りうきう)の那覇(なは)に入港して、何の事変もなく第一夜をあかしました。
その朝七時、土人たちの四艘(さう)の小船(こぶね)が漕(こ)ぎつけて来ました。その中(うち)の一つには昨日出て来た、同じ二人の下役人が乗つてゐました。彼等(ら)は犢(こうし)と山羊(やぎ)と豚を一匹づゝと、そのほかに鶏や野菜や卵を贈りものに持つて来たのですが、ペリーは、さういふ下役人たちと接触したところで何の意味もない点で、彼等を甲板へ上げることも許さず、贈物をも一さい刎(は)ねつけてしまひました。使(つかひ)の役人たちは、しばらく茫然(ばうぜん)と彳(たたづ)んでゐましたが、やがてこそ/\かへつて行きました。その顔附(かほつき)にはあり/\と、非常な不安と怖(おそ)れとが包まれてゐました。
丁度(ちやうど)そのとき大きな日本船が四五艘ばかり、探偵(たんてい)でもするやうに、わざ/\艦隊のぢき側(そば)をとほつてあわたゞしく北の方へ向つて出帆しました。これは怖らく、ペリーたちの来港を日本の本土へ急報するために特派されたのだと思はれました。
第二日目の二十七日もかうして過ぎました。翌日も翌々日も言はゞ休養半分に暮しました。その間にペリーはコンテイ大尉とウヰリアムス通訳とを、那覇の市庁へ派遣して入港の挨拶(あいさつ)をさせました。一ばんの上役人は丁重に二人を款待(くわんたい)しました。併(しか)し彼の贈物がはねかへされたことは少なからず不快に思つてゐるらしく話しました。大尉はそれに対して、すべて亜米利加(アメリカ)の軍艦では、代価を払つて買ひ入れる以外に、いかなる場合にも他から品物を受け入れないのが慣例なので、今度のことも決して人の好意を軽蔑(けいべつ)したわけではないと弁解しました。
三十日の午前に、艦へ市庁から使(つかひ)が来ました。琉球の代理王が、今日の午後旗艦を訪問に来るといふ先触れです。ペリーはそれを聞くと、永年この土地に住んでゐる、例の英吉利(イギリス)の宣教師のベトルハイムのところへ人をやつて、その代理王との会見に列席してくれるやうに頼みました。さういふ琉球人の呼吸の分つてゐる人を交へて、出来るだけ打解けた空気を作らうといふ用意でした。それから、水兵たち一同に服を着かへさせたり、その他いろ/\の準準をして待ち受けてゐました。
やがて午後の一時ごろになりますと、粗末な小船が一艘、サクスハナ号へやつて来ました。そして下役人らしい一人が舷門(げんもん)を上つて来て名刺をさし出しました。ウヰリアムス通訳がそれを受取つて読みますと、代理王が来たのです。王はその役人が下りて行くと間もなく、二人の上役人に扶(たす)けられて上(あが)つて来ました。貴人らしい品格のある、立派な老人です。艦長のブツカナンとウヰリアムス通訳とが舷門(げんもん)に出迎へました。代理王は両手を胸の上に組み合せ、頭(かしら)を少し下げたまゝ、腰を低くこゞめて礼をしました。そしてウヰリアムスをとほして、本当の王はまだ十二歳の幼年者なので自分が代理王としてすべてを一任されてゐるのだといふことを艦長に告げました。そのあとから更に七八人の役人と、二三十人の従者たちが続々と上つて来ました。そのとき艦では轟々(がうがう)と三発の礼砲を射(う)ちました。役人の中には、その音に愕(おどろ)いて倒れころんだものもゐました。
艦長はそれ等のすべての人を導いて、艦内をすつかり見せて廻(まは)りました。代理王をはじめ、多くの人々は、その間何を見ても一寸(ちつと)も感情を顔に出さないで、固く、とりすましてゐましたが、やがて、蒸気汽罐(きくわん)のところへ来ると、すべての人が思はずどぎまぎして、あり/\と大きな怖れと狼狽(らうばい)とを、見せました。
それ等の見物がすんでから、ペリーは王以下を長官室に通して、そこではじめて接見しました。軍楽隊は、王がその室の階段を上るのと一しよに、盛(さかん)に吹奏をはじめました。王は、それには目も向けず威容を備へて這入(はひ)つて来ました。ペリーは非常に丁寧に立ち迎へました。そこにはベトルハイム博士も列席してをり、すべてゞ一時間半にわたり、相互にいろ/\の話をして、十分に好意を交換しました。その間には、琉球人に不快を与へるやうな行動は決してしないといふ条件で、乗組員の上陸の許諾も得ました。ペリーは最後に、自分自身が、来(きた)る六月の六日に、首里(しゆり)の王宮を訪問をする旨(むね)を告げました。
すると代理王はそれに対してすぐに返答をしかねたやうに、上役人たちとこそ/\協議をし出しました。ペリーは代理王の返事を待たないで、同日、必ず訪問する旨をかさねて断言し、なほつけ加へて、その際には、合衆国の使節並びに艦隊の司令長官としての自分に、その地位相当の待遇を与へられたいと要求しました。代理王はその希望だけは十分了解した容子でしたが、併しペリーの訪問を受け入れる入れないの根本の点については、遂(つひ)に何等(なんら)の確答もしないまゝでかへつて行きました。
以上の結果、ペリーはその午後すぐに特務隊を上陸させて町の状態を視察させました。隊は、例のベトルハイムの旗竿(はたざを)の建つてゐる岩壁の下ヘボートをつけました。土民たちは、そちこちに立つて、みんなの行動を注視してゐましたが、一同が上(あが)つて行くと、みんな段々に遁(に)げ去つてしまひました。やがて広い大通りへ出ますと、多くの土民たちは両側にかたまつて、隊員の通つて行くのをじろ/\見てゐました。隊がそばへ近づくと、一同は雪崩のやうににげ散りますが、又(また)ぢきあとからぞろ/\ついて来ます。その群集の中に、長い顎髯(あごひげ)を垂れた、人品のある顔もちよい/\交つてゐました。さういふ人の一人が、やがてみんなに何か言つたと思ひますと、群集は一度にばらばらと遁(に)げ出してしまひ、家々の戸口も次々に閉められて行きました。それから先は通(とほり)には全く人の影も見えませんでした。隊員たちは町中の家々の、赤い瓦の屋根や、街上にうつさうと茂つてみる樹樹の緑の蔭や、ところ/゛\に見える椰子(やし)やバナヽの木を見て、何だか地中海のシシリヤ島へ上つたやうだと話し合ひました。みんなは間もなく那覇での一ばん繁華な場所らしいところへ出ました。どこへ行つても全市中、こと/゛\く、店を閉めて、住民はみんな、ひつそりと隠れてゐました。道ばたに出てゐた露店なぞは、よほど狼狽(らうばい)して遁(に)げ出したと見えて、品物が通りへ放り出されたり、饅頭(まんぢゆう)なぞが、そのまゝ置き去りにしてあつたりしました。隊はしまひに、小山の坂を下りて港へ出ました。あたりには船が少しばかりもやつてゐるだけで、やはり人は一人もゐませんでした。みんなは、かへりには偶然或(ある)寺の中へ迷ひこみました。そこには、大きな樹がこんもりと茂つてをり、真中(まんなか)に池がありました。一同がその池のそばで休んでゐますと、一と群(むれ)の土人がまはりへ寄つて来ました。彼等ははじめは不安さうにじろじろと隊員の顔を見探つてゐましたが、間もなく、或ものは手真似(てまね)で話しをしかけたりして、次第になじんで来ました。その中には汚らしい婆(ばあ)さんも交つてゐました。
ペリーは間もなくその部隊員から、以上の情況をすつかり聞き取りました。
これで見ても艦隊の不意の入港が、土民たちにどんなに大きな不安を与へたかゞ察しられました。会見に来た例の代理王や役人たちはペリーが王宮へ出かけて行くといふことを、ひどく怖れたものと見えて、その後さま/゛\の手段をめぐらして、極力、防ぎ止めようとかゝりました。王宮は那覇から少しはなれた、首里(しゆり)といふ市(まち)にあるのですが、彼等はペリーの来訪をその首里へでなく、那覇に代へてもらひたい、代理王はそちらで宴会を催した方が便利なので、どうか、いつ/\に臨場をねがひたいと申し込んで来ました。ペリーは、彼等の腹をすぐに見すかして、その宴会への出席を、当日になつて、ていよく断つてしまひました。彼等は、そんなことでもつて、ペリーが王宮へ来るのをせき止めようとしたのです。
その宴会が流れてしまつたので、役人たちは、その日準備してゐた御馳走(ごちそう)をどん/\艦へ運ん来ました。ペリーはそれだけは礼儀上受取ることにしました。そのためにサクスハナの甲板の一部は、忽(たちま)ち鳥や魚や野菜や果物の料理で一ぱいになりました。
役人たちは、第一の計略に失敗すると、次には手をかへて、こんなことを言つて来ました。それは王宮では、幼ない王さまの母上で入られる大妃が一年まへから病気でおやすみになつてゐる、その御発病は、英吉利の海軍の一士官が、琉球政府へあてた、英吉利の宰相からの手紙を持つて来たと言つて、無理無体に王宮へ飛び来んで来たのにびつくりされたのがもとであつた。今度貴官がお出(い)で下さるについて、万一にも又大妃が何ごとかに愕(おどろ)かれるやうなことがあると大変なので、首里へお出で下さることは構ひませんが、場所は王宮でなく他の宮殿にしていたゞきたい、幼王もたま/\そちらに移つてゐられるからと、かういふ申出(まうしで)でした。
四
琉球(りうきう)の代理王は、ペリーに対して、最後には、大妃の病気を口実にして、王宮以外の或(ある)宮殿へ来てもらひたいと申込んで来ました。ペリーは彼等(ら)がこんなにいろ/\の手段をめぐらして、自分たちを、出来るだけ王宮へ入れまいとするのは、つまりは、いつも彼等を監視してゐる、日本政府の廻(まは)しものか、又(また)は日本から派遣されてゐる役人たちから、いろんな疑惑をかけられるのが怖(おそろ)しいからではあるまいかと勘づきました。
併(しか)しいづれにしても英吉利(イギリス)の士官の先例もあり、自分たちもその士官が通されたところまでは当然這入(はひ)らねばならないといふことを、根強く宣言して、代理王たちのその申込(まうしこみ)をも刎附(はねつ)けてしまひました。
そのうちに、かねて言ひわたしてある、六月六日が来ました。その日は、夜明けごろには空が大分曇つてをり、風も強くて、天気が危ぶまれましたが、朝になつて、さつと一と雨降りすぎると一しよに、暗い雲がだん/\と開き消えて、からりとした青空が見えて来ました。朝の九時になりますと、用意した艦隊は一せいにボウトを下して、予定の兵員を手早く、泊(とまり)といふ村へ上陸させました。ペリーは一ばんしまひに、参謀長のアダムス大佐と、サクスハナ艦長ブツカナン、ミツシツピイ艦長レエイ、サラトガの艦長ウオーカーの四将校を従へて上陸しました。
この日のべリーの乗用としては、艦内でにはか作りにこしらへた轎(こし)がはこび上げられてゐました。殆(ほとんど)荒木(あらき)同様の木材で出来るだけいかめしく作り上げ、それを絵具でこて/\に塗り立てゝ、まはりに赤と青との派手な掛布(かけぬの)を垂れた、途方もない大きな轎でした。ペリーはそれに乗つて、八人の支那(しな)人の苦力(クリー)に四人づつ交代に担がせ、両側に二人づつの水兵を護衛につけて出発しました。
一ばん先頭には、一人の大尉が、二門の野砲を指揮して進み、その次に、ウヰリアムス通訳と、宣教師のベトルハイムが加はり、その後には、ミツシツピイ号の軍楽隊をつけた、一少佐の率ゐる水兵の一部隊が進み、その次ぎにペリーの轎が行きました。轎のうしろには、扈従(こじゆう)の一少年と支那人の給仕とが、アダムス参謀長たちと一しよにつき従ひ、次に、六人の苦力(クリー)が、前後を十数名の水兵に護(まも)られて、琉球王や、母上の大妃たちに捧(ささ)げる、さま/゛\の贈物を担いで続き、次にブツカナン以下の艦長と、高級将校、最後に、サクスハナの軍楽隊と水兵の一部隊とが附(つ)き随(したが)ひました。水兵たちはすべて武装をしてをり、すつかりで二百名以上が数へられました。
以上の行列は、楽隊の行進曲に歩調を合せて、首里(しゆり)の町まで三十丁ばかりの街道を堂々と練つて行きました。土人たちは家々の前へひし/\と群(むらが)つて、びく/\したやうに、迎へ送り、見物しました。
一行は間もなく首里の南の広々した耕地の中へ出て来ました。その豊沃(ほうよく)な耕地一帯の青い色と、ぐるりの茂つた丘や並木の緑と、すが/\した土の匂(にほ)ひとは、久しく海の単調に閉されてゐた兵員たちに、言ふに言はれない爽快(さうくわい)と喜びとを与へました。
そのうちに行列は首里の門につきました。そこには、例の年老いた代理王が、青や赤の、四角な冠をかぶつた、多くの役人と一しよに出迎へに来てをりました。代理王は、挨拶(あいさつ)をすますとすぐに、一ばん先に立つて、行列を町の中へ導き入れました。大通りの両側には、高い壁が立つてをり、それがところ/゛\で途切れて、そこに四辻(よつつぢ)が出来/\してゐました。役人たちは、市民の群衆を追ひ払つて、今言つた四辻/\の、左側の横道へ追ひ入れてゐたので、そこのところの混雑と言つたらありませんでした。部隊員は、街上や家々の容子を見て、琉球人のきれいずきなのにつく/゛\感心しました。ペリーたちでさへも、少くともこんな清潔な市街といふものを、これまで嘗(かつ)て見たことがありませんでした。
やがて王宮の門が見えるところまで来ますと、代理王についてゐた一人の上役人が、ウヰリアムス通訳に向つて、まづ一ばんさきに、代理王の邸宅(ていたく)へ寄つてお食事をねがひたい、こゝから遠くもなく、それに、多少御馳走(ごちそう)の用意がしてあるからと言ひ出しました。ウヰリアムスは、彼等がその手でもつて、例のやうに王宮へ入れずにごま化さうとするのだといふことをすぐに見破つて、かまはず、どん/\宮門へ向つて進んで行きました。
代理王たちは、うまくペリーたちを王宮以外へ導き込むつもりでゐたと見えて、王宮の門は固く閉めたまゝにしてありました。彼等はあわてゝ使(つかひ)を立てて、急いでその門を開けさせたりしました。ペリーの部下の水兵たちは、その門の前に止つて堵列(とれつ)しました。ペリーは、それ等の兵の捧銃(ほうじゆう)と奏楽との前を通つて随行者と一しよに王宮へ這入りました。
ペリーたちが通された部屋は、接待の間らしい広間で、左右に漆塗(うるしぬり)の椅子(いす)が一列に並んでゐました。ペリーと通訳以下の随行員とは、その右側の椅子へ並んでかけ、左側の椅子へは、代理王が顧問の役人三人と一しょに着席し、従者たちが、その後(うしろ)へ立ち並びました。大妃は無論出て来ず、幼年者といはれてゐる王も、終始顔出しをしませんでした。お互(たがひ)の挨拶がすむと、ペリーたちの前にテイブルが運ばれ一ぱいの薄色の茶と煙草(たばこ)と、非常に硬さうな、捻(ひね)つた菓子が並びました。王宮でのもてなしと言つたらあとにも先にも、たつたこれだけです。これから推しても、役人たちが、ペリーを代理王の邸宅で喰(く)ひ止める計画だつたことが、すつかり見えすいてゐました。
ペリーは、代理王に向つて、自分は二三日のうちに、艦隊の一部を率ゐて那覇を出発し、十日ばかりして再びかへつて来る旨(むね)を告げ、その前後、どちらでも代理王の都合のいゝときに、彼と、三人の顧問役とを旗艦に招待したいと言ひました。代理王は、それを快くうけ入れて、日取りは貴官の命ずるまゝでよいと答へました。ペリーは、それでは艦へかへつた上、改めて御通知すると言ひました。
その話が終ると、代理王は、数枚の赤い紙切を取り出しました。それと一しよに三人の顧問官は一度に立ち上り、ペリーの前へ二三歩進んで、丁寧にお辞儀をしました。ペリーたちも、一同立ち上つて、答礼をしましたが、併し、その赤い紙切や、先方の敬礼が、何の意味だか全(まる)で分りませんでした。次でペリーは用意して来た、大妃と王と、代理王と、三人の顧問たちへの贈物を差し出しました。大妃へのおくり物は、立派な姿見と、仏蘭西(フランス)製の香水とでした。ペリーは、この外に、艦には、代理王に差し上げるつもりで、いろ/\珍らしいものを取りそろへてゐるので、どうぞそれをもお受けを願ひたいと言ひました。代理王と三人の顧問とは、非常に満足したらしい容子で、又前のやうに丁寧にお梓儀をしました。
代理王は、そのあとで、どうかこれから自分の邸宅へお出(い)でをねがひ、午餐(ごさん)をさし上げたいと申し出ました。ペリーは早速受諾して、再び行列を作つて立ち向ひました。
代理王の邸(やしき)もかなり広々としてゐました。母家の両側には、別室が庭園の中に突き出てゐて、それへ細い廊下が続いてゐました。広間には、きれいな畳がしきつめてあり、真中(まんなか)に四つのテイブルが並んでそのおの/\の両側に三脚づつの椅子が配置されてゐました。
ペリーはアダムス参謀長と、ブツカナン艦長たちと一しよに右手の一ばん上席の椅子に招ぜられました。向ひ側には代理王たちが坐(すわ)りました。テイブルの上には、大小さま/゛\の皿(さら)が二十以上並んでゐました。
その料理は、ペリーたちには何だか分らないものが大部分でした。テイブルの隅(すみ)には箸(はし)と、土焼の徳利(とつくり)が置かれ、そのまはりに支那(しな)焼の粗末な盃(さかづき)と、無恰好(ぶかつかう)な匙(さぢ)と茶碗(ちやわん)とが、一人に四つづつの割当に並べてありました。まづ最初に茶が出て、そのあとから小さな盃が廻され、続いてどん/\いろ/\の料理がはこばれました。料理は十二通りも出ましたがその中に、汁(つゆ)のものが七通りもありました。その汁物(つゆもの)は、餅(もち)と若い莢豆(さやまめ)と葱(ねぎ)の白根(しらね)を煮たものだの、餡(あん)を薄い麺(めん)の衣で円く包んだ、一見果物のやうなものや、その他、西洋人に取つてはいろ/\珍妙なものばかりでした。
併し、ペリーたちみんなはそれを礼儀よく食べました。それ等の皿が一つづつ出る間には、盃(さかづき)がたえず廻されて、めい/\自由勝手に飲むやうになつてをり、一寸(ちつと)も儀式張つた窮屈なところがありませんでした。
ペリーは、それらの料理がをはつたときを見計らつて、立ち上り、琉球王と王母との健康を祝した上琉球人と亜米利加(アメリカ)人とが永久に親密であることを祝福すると述べて乾盃(かんぱい)しました。それが通訳によつて訳されると、代理王は非常に喜んで、小さい盃を上げて飲み干しました。
ペリーはその次には代理王と部下の人々との健康を祝ひました。
代理王は、ペリーとすべての士官と艦隊の健康のために乾盃して答礼をしました。それから又十二通りの料理が出るとのことでした。これは一ばん貴い人をもてなす待遇なのださうでしたが、ペリーたちは、もうこれで十分であるからと丁寧に挨拶して、辞退しました。
代理王たちは、さつきまでは、何か非常に困つたやうな、心配さうな顔附(かほつき)をしてそは/\してゐましたが、このときはやつと安神したやうに、落ちついた打ちとけた態度に変つて来ました。それは多分さき程までは、日本の密偵(みつてい)かなんかゞ附(つ)き纏(まと)つてゐて、代理王以下の一々の言動を監視してゐたからではないかと思はれました。
五
ペリーは琉球(りうきう)の王宮訪問を無事に果し、代理王とも再び打ちとけた会見をしたので、まづ/\一と安神しました。たゞ、慾(よく)をいへば、王や大妃がしまひまで顔を出さなかつたのが少し物足りなく思はれましたが、併(しか)し王は実際幼年者であり、又(また)大妃の病気といふことも、実はこしらへごとだつたといふことを、代理王が打ちあけて言つてくれたので、ペリーも満足して引き上げたわけでした。
全艦隊はペリーのこの最初の成功を聞いてみんなで祝ひ喜びました。
ペリーは以上の結果から見ても、すべて東洋人に対しては、いつもかういふ風に、こちらも飽くまで虚偽を用ゐない代りに、一たんかうと言ひ出したことは、どんな小さなことでもぐん/\貫きとほすことが肝要である、それで以(もつ)て自分たちのすべての申出(まうしで)は、決して彼等(ら)の常習の、見えすいたかけ引きや手管(てくだ)でもつて覆へされるものでないといふことを、根本に教へてかゝらなければ駄目(だめ)だと考へました。
その翌日ペリーは、部下の上級士官と、乗組の宣教師との四人を派遣して、琉球政庁の上役人に饗応(きやうおう)の礼を述べさせ、一方には一人の士官と通訳とを那覇(なは)の役所の勘定係のところへ送つて、今度艦隊が補給をうけた、すべての品物の代価を支払つて来させました。役人たちは、それ等のものはみんな琉球の習慣によつて、贈物として献じたのだからと言つて、容易に支払を受け入れませんでした。士官はそれをやうやく説き伏せて、すつかり代金を払つてかへりました。
これなぞも、ペリーは、自から一つの大きな成功だと考へました。従来は、どこの艦船も、みんな向うの言ふなりに、結局いろ/\の物品を無償でもらつてゐたので、相手は、外人に施しものをした気で威張つたり、見下したりするために、それ以上のことについて便宜を得る上に、非常な妨げになつてゐたわけでした。
ペリーは、それ等の手続きをすました後、六月の九日の朝、ミツシツピイ、サプライの二艦を那覇にのこしたまゝ、サクスハナに坐乗(ざじよう)し、サラトガを引きつれて、小笠原(をがさはら)群島に向つて出発しました。ペリーが代理王との会見のとき、二三日の後(のち)、艦隊の一部を率ゐて、十日ばかり航海をして来ると言つたのは、これを意味してゐたのでした。
出発のさいにはあとのすべての指揮を、ミツシツピイ艦長のレエイ大佐に托し、留守中も琉球人とは出来るかぎり親密に接触し、乗組員中でも、温和な人の外は一さい上陸させないやうに命じておきました。一寸(ちよつと)したことにでも琉球人の感情を悪くして、せつかく、こゝまで開拓して来た交誼(かうぎ)へ、寸分でも傷をつけてはつまらないからでした。
小笠原島への航海は、至つて静穏で、何のさはりもなく到着し、いろ/\の探検をした後(のち)、群島の一部にアメリカの殖民地を選定して、六月二十三日の夕方に無事に那覇にかへりました。すると丁度(ちやうど)プリマス号も入港してゐたので、ペリーの率ゐる艦隊はすべてゞ五隻になりました。
ところがかへつて見ると、先の代理王が、ペリーの留守中に不意に免官されて、ほかの人が就任してゐました。ペリーにはどうしてこの更迭を見たのかといふことは、はつきり分りませんでしたが、併し所詮(しよせん)は、どうも自分たちの艦隊の入港と関係があるやうに思はれました。ことによると、自分たちを王宮へ入れたことが非難になつたのかも分らない。ペリーはさう考へると、あの年を取つた、もとの代理王のために気の毒でたまりませんでした。すると、そのうちに前代理王が切腹したといふ風評がつたはり、ペリーも非常に驚きましたが、それはたゞ噂(うはさ)だけで、当人はたしかに生きてゐることを確め得ました。併し、宣教師のベトルハイムが探聞したところによると、前代理王は、家族たちと一しよにどこかへ島流しにされたといふのです。
ペリーは、それで、かねての約束に従ひ、改めて、今度の代理王と、勘定係の長官以下を、六月二十八日にサクスハナへ招待しました。すると、琉球政庁はそれを快く受諾しました。その上に、今度の代理王になつてから、艦隊に対するすべての対応が一層丁寧になり、いろ/\のことに用意が行き届いて来ました。今度の人は年も遥(はる)かに若い人だといひます。それ等の点から推すと、まへの老代理王は別に罪を受けたわけでもないらしく、或(あるひ)は自から進んで若い人に職をゆづつたのではないかとも思はれました。
招待の当日には、ペリーは三隻のボウトを泊(とまり)といふ村の入江まで派遣して、来艦する人たちをはこばせました。立派な芭蕉布(ばせうふ)の着物を着飾り、はでな色の冠をかぶつた人々は、やがて歓迎の軍楽の下(もと)に、続々旗艦へ上つて来ました。今度の代理王は尚宏勲(しやうくわうくん)といふ名前で、先の代理王の一族だといふことでした。見たところ、四十五六の小柄な人で、顔の色は、来客中のだれよりも一ばん黒く、それに左の目が少し藪睨(やぶにら)みでした。
間もなく一同は宴席へつきました。その日の料理の献立は、艦としては特別に念入りのものばかりで、海亀(うみがめ)のスープ、鵞鳥(がてう)と山羊(やぎ)のカレー煮以下、いろ/\のおいしい御馳走(ごちそう)を出しました。酒も、フランスのいろ/\の酒や、ドイツの酒、スコツトランドやアメリカのウヰスキー、マデイラ酒、ポーランドのジンなぞ、船に用意してゐた、あらゆるいゝ酒を出しました。
琉球人たちは、すつかり、くつろいで、愉快さうに飲んだり食べたりしました。すべてが口に叶(かな)つたと見えて、全(まる)で腹に底がないかと思ふほど、どんどんつめこむので、相伴の士官たちもびつくりしました。殊に小笠原島から持つて来たバナヽや瓜(うり)は、何よりもみんなの気に入つたらしく、或(ある)ものは、家(うち)へ土産にしたいから、別に少しくれないかといふ、さあどうぞと言つてさし出すと、着物の懐を袋の代りに使つて、そこへどん/\入れこみました。飲みものではシエリーを一ばんにすいて、目を細くし、舌をならしてちび/\嘗(な)めるやうに飲みました。
生憎(あいにく)、宴会場にあてた船室が少しむし暑かつたゝめに、或人々は酔が廻(まは)るにつれて一層凌(しの)げなくなつて来たと見えて、冠をぬいでも差支(さしつか)へはないかとたづねました。どうか御任意にといふと、大喜びで冠をぬぎました。するとめい/\のお供のものが後(うしろ)に立つて、主人の頭を猛烈に煽(あふ)ぎ立てました。
かういふ、遠慮なしの人々の中で、たつた一人代理王だけは、終始非常に真面目で押しとほし、特に話しかけられる外は一さい無言でゐたばかりでなく、時々目に不安さうな色を見せて、そは/\してゐることさへありました。これは怖(おそ)らく、まだ職に馴(な)れないために、自分の地位が、絶えず気になるのと、もう一つは、西洋流の宴席の作法に不馴(ふな)れなために一々の動作にびく/\した点もあつたでせう。それとも、又例の、日本政府からの廻しものゝ監視があるために、今日の来訪から、後で何か面倒なことが持ち上りはしないかと、それを心配してゐるのではないかとも思はれました。
併し、さういふ代理王も、ペリーが話の序(つい)でから、アメリカの草花と野菜との種を捧(ささ)げたときだけは、麗(うらら)かな顔を見せて礼を言ひ、それをまいて、大事に育て上げて見ようと挨拶(あいさつ)しました。
かういふ次第で、ともかく、すべての人々は十分歓(よろこ)びをつくして退艦しました。そのさいには、艦は代理王に対して三発の礼砲を発射し、ボウトは再び人々を乗せて入江まで送りとゞけました。
ペリーは、これで一と通り琉球人との修交を得たものとして、いよ/\日本の本土へ発航する準備にとりかゝりました。何と言つても、琉球人の行動は、すべて日本の権力が束縛してゐる以上、琉球人に向つて、これ以上の要求をしたところで纏(まとま)るわけもないので、それよりも早く日本と根本の交渉をするのが一ばんでした。
ペリーはカプリス号を上海(シヤンハイ)の警備に送りました。そして、七月二日の朝、サクスハナとミツシツピイとの二隻の蒸気機関の軍艦と、プリマス、サラトガの二隻の帆前船と、都合四隻の小艦隊を率ゐて、日本に向つて出発しました。日本人が黒船と呼んで驚き騒いだのは、これ等四隻の艦船だつたのです。
ペリーは最初、アメリカを出て来るときには、十二隻の大艦隊で以(もつ)て、堂々と日本を訪づれる計劃(けいくわく)で、上海(シヤンハイ)へ来て以来は、あとの船の到着を一日/\と待つために、計らず時日を延ばしてゐたのでしたが、いつまでたつても追加の軍艦の来るあてがないので遂(つひ)に止(や)むを得ず、こんな小艦隊のまゝで立ち向つたのでした。併しペリーは、異常な事変が持ち上らない限り、たゞ自分の来航の目的を達するだけのことならば、これだけの小規模で行つたつて十分間に合ふものと確信してゐました。
旗艦のサクスハナはサラトガを、ミツシツピイはプリマスを、それ/゛\、綱で引つぱつて進航しました。そして七月七日の夕方には、伊豆(いづ)の尖端(せんたん)から四十哩(マイル)のところまで出て来ました。
六
ペリーの率ゐる四隻の米国艦隊は、千八百五十三年の七月二日(嘉永(かえい)六年五月二十八日)の早朝、琉球(りうきう)の那覇(なは)を出発し、七月二日(ママ)の夕方には伊豆(いづ)の岬(みさき)から四十哩(マイル)の海上まで進んで来ました。併(しか)し日本の気候の特長と見えて霧が非常に深いために、陸地は、たゞ海岸の輪廓だけがぼんやりと見えるだけで、それ以上には何物もはつきり目に這入(はひ)りませんでした。夜中から翌朝の四時までは、断えず艦首を陸地から離して進航しました。
八日の朝になつても、やはり霧が深くて海岸が見えません。艦隊は風があるにも係(かか)はらず、すべて帆を巻き上げて八又(また)は九ノットの速力で走りました。
やがて相模(さがみ)湾の入口まで来ますと、間もなく段々に霧がうすれて、大島(おほしま)が右手に見え、後(うしろ)には伊豆半島のけはしい側面と、高い山々とが、かすれ/゛\に見え出しました。湾の中には、大きな円錐形(ゑんすゐけい)の山が、驚くばかりに高く大空に突き出てゐるのが、霧の合間々々に目を引きました。その頂上には、真白(まつしろ)い帽子が被(かぶ)さつてゐましたが、それは雲だか雪だか、たしかには見分けが附(つ)きませんでした。間近の海上には、大きな帆を上げた漁船がそちこちに動いてゐました。それ等(ら)の船は、ペリーの艦隊を見ると、みんな、どん/\遠くへ遁(に)げて行きました。怖(おそ)らく、はじめて蒸汽船を見てびつくりしたのでせう。そのうちに艦隊は最後までうろ/\してゐた一艘(さう)の船に追つつきかけました。すると船は非常に狼狽(らうばい)して、大急ぎで帆を引き下し、死にもの狂ひに櫓(ろ)をこぎ立てて逃げました。
それから間もなく相模の岬が前方に現はれて来ました。ペリーは、それと同時に、サクスハナの檣上(しやうじやう)に信号旗を掲げました。それによつて、四隻の軍艦はいづれもすぐに甲板を取り片づけ、みんなそれ/゛\の部署についた上、大砲には弾をこめて、すつかり戦闘準備をとゝのへました。
正午近くに、先頭のサクスハナは相模の岬へ来ました。ペリーはそこで一たん停止して、各艦長をサクスハナに集め、いろ/\の訓令を伝へた後、再び進行して、相模の陸地に沿うていよ/\江戸(えど)湾へ這入つて行きました。すると、その海岸から二哩(マイル)ばかりのところへ、ふいに十艘以上の日本船の一隊が出て来て、艦隊に向つて一直線にこぎ進んで来ました。たしかに艦へ来るつもりでしたらうけれどペリーは構はずどん/\進行をつゞけさせたので、彼等は見る/\うちに遠く後(うしろ)にはふり残されてしまひました。蒸汽機関でもつて、風に逆らひながらも、ぐん/\突き進んで行くのですから、日本船なぞがいかにもがいても追つつけるわけはありません。それ等の船には大勢のものがぎつしり乗り組んでをり、どの船にも、文字を記した大きな旗を立てゝゐました。多分日本政府の船だつたに相違ありません。
この江戸湾だけにはさすがに十分の防備がつくしてある容子で、目のまへの相模方面の山々や出鼻には、方々にいくつもの堡塁(ほるゐ)があり/\と見えました。併し、艦隊が不意に闖入(ちんにふ)して来たにも係はらず、それ等の砲台はすべて唖(おし)のごとくに沈黙して、しいんとしてゐるのです。安房(あは)の海岸はこの半島と向き合つて東の方に延びつらなり、両方から湾口を扼(やく)してゐるのですが、そちらの方面には、怖(おそ)らく砲台は一つもないやうに見えました。
艦隊はそのまゝどん/\浦賀(うらが)の港に向つて進みました。その途中に数へ切れないほど浮んでゐた漁船は、艦隊が近づくとみんな大急ぎでばら/\と逃げ退いて、それ/゛\こゝなら安全だと思ふらしいところへ遠のいた後、いづれも櫓の手を休めて、呆然(ばうぜん)として黒い巨大な艦隊の進行を見すゑてゐます。先頭のサクスハナはたえず鉛錘(えんすゐ)を下して、水深を測りながら、速力をゆるめて浦賀の岬を廻(まは)つて這入つて行きました。あとの軍艦もそれにつゞいて、十分に警戒を加へつゝ徐行しました。
七
やがて、艦隊が浦賀(うらが)の町から一哩(マイル)、或(ある)一つの砲台から半哩のところまで来ますと、突然、その砲台から二発の爆声とともに烟(けむり)が高く中空へ上りました。何か相図(あひづ)の狼煙(のろし)を上げたのだと思はれます。すると忽(たちま)ち警備船らしいものゝ一隊が、大急ぎで艦隊を目がけてこぎよつて来ました。ペリーは間もなく信号を上げて、部下の諸艦に投錨(とうべう)を命じました。そして同時に、同じく信号でもつて、たとへ日本人が近づいて来ても、たゞ公用者を、一度に三人以下を限り旗艦に上(のぼ)すことを許す外、その他の艦へは一さい上げてはならないといふことを伝へました。
それといふのは、これまで来た外国船は、日本人の来訪者を一々甲板に上げて待遇するのを例としてゐましたが、かつてアメリカのコロンブス号が江戸(えど)湾に来たときなどは、二三百人といふ大勢が一度にどや/\上り込んで来て、いつまでものんきらしく見物して廻(まは)り、最後に下りろと言つても、中々聞かないで困らし抜いたことがあつたからでした。
諸艦は信号に応じてすぐに錨(いかり)を下さうとしましたが、そのあたりは水深がなほ二十五尋(ひろ)もあつたので、いづれも、もう少し海岸に近く進んだ後、それ/゛\錨を投げ入れました。それは丁度(ちやうど)、去年の十一月二十四日に、母国のノーフオーク軍港を出てから丁度二百六十日目の、午後の五時前後のことでした。
艦隊が錨を下すと同時に、海岸の砲台から又(また)一発の狼煙を上げました。艦隊は、砲門を浦賀の町と、砲台の全面とに向けて、一列に碇泊(ていはく)しました。それと一しよに日本の警備船が四方八方からうよ/\と取りまいて来ました。
いづれも艦隊を監視する命令を受けて来たものと見えて、大抵二三十人づつが乗り組んでをり、食料品や飲み水や、夜具のやうなものをいろ/\とつみ込んで、永い間つき纏(まと)ふためらしい用意をしてゐました。乗組者はみんなそろつて丈の高い骨組の逞(たくま)しい男ばかりで、多くは黄黒い体の殆(ほとんど)全部を丸出しにしたまゝ、頭(かしら)には何ものもかむらず、髪は両側だけを長く伸ばして、それを煉油(ねりあぶら)らしいもので固めつけ、頭の頂上の、禿(は)げたところで結んでゐます。おの/\の船で僅(わづ)か二三人だけが、背中に紋のついた、袖(そで)のある、ふは/\した服をつけて、浅い鉢(はち)をそりかへらせたやうな恰好(かつかう)の竹細工の帽子を被(かむ)つてゐるばかりでした。
そのほか或(ある)小船(こぶね)の中には、棒の先に十字形の刃のついた槍(やり)を持つてゐるものもありました。これは多分、軍務掛の役人だらうと思はれました。それから一番の上官らしいものは、漆塗(うるしぬり)の固さうな鉢(はち)のやうな帽子の真正面に紋所のついたものを被(かぶ)つてゐます。それ等(ら)の紋は、怖(おそ)らく、その人の階級や地位を区別してゐるものと思はれました。
それ等の人々が櫓(ろ)をこぐことの早いのには驚かれました。或特種なかけ声を出して漕ぎ出して来ると見ると、瞬く間に目のまへに近づいて来ます。すべての船には、一本の黒い条(すぢ)を真中(まんなか)にして、その両側に白条(しろすぢ)を縦に二本引いた、小さな旗を後(うしろ)にたてゝゐます。
その中の或船は、いきなりサラトガ号に横づけになり、いくら制止しても聞かないで、鎖にすがつて上(あが)り込まうとするので、水兵達は遂(つひ)に槍(やり)やピストルでもつて嚇(おど)しつけて、やつと防ぎ止めた程でした。
八
さうかうしてゐるうちに、又(また)別の一艘(さう)の小舟(こふね)がサクスハナの艦側へ漕(こ)ぎつけて来ました。その中の一人は手紙やうのものを突き出して頻(しき)りに上艦をもとめました。併(しか)し当番の士官は飽くまで拒絶して上(あが)らせませんでした。ところが、その手紙を見ると、フランス語でかいてあるらしいので、試しに読み上げて見させますと、それは外国の船がこゝに碇泊(ていはく)するのは甚(はなはだ)危険である。損傷のないうちに早く退去するがよいといふ警告でした。
それと入りちがひに、今度はかなり上の役人らしいものがサクスハナの側(そば)へ来て、梯子(はしご)を下せと相図(あひづ)をしましたが、艦ではそれをも全然取合ひませんでした。ペリーは支那(しな)語の通訳ウヰリアムスと、オランダ語の通訳のボートマンとに命じて、
「長官は日本の最高の役人の外は、だれとも会はないのだから、どうかおかへり下さい。」と、支那語とオランダ語とでその役人に告げさせました。すると同じ船にゐた一人の男が、「私(わたし)はオランダ語が話せます。」と、英語ですら/\言ひました。そこでボートマンはその男に向つて英語で話しかけましたが、相手は僅(わづ)かそれだけの英語が使へたゞけで、あとはオランダ語でべちや/\と喋(しやべ)り出しました。オランダ語は非常に得意と見えて、驚くばかり早口にたゝみかけて聞くので、ボートマンには大部分は、わからなくて答へが出来ませんでした。その男が、この軍艦はアメリカの軍艦でせうね、と言つたりしたところを見ると、ペリーの艦隊の来航のことは、すでに早くから探聞してゐたものと思はれました。彼はしつつこく艦へ上げてくれろと迫りました。ボートマンは、最初に言つたことをくりかへして、
「この艦隊の司令長官は、アメリカ合衆国の最高の官位にゐる人である。長官と同等の、極めて高位の人との外は、一さい協議はしないのだ。」と言ひ聞かせました。すると、相手は側にゐる一人の役人を指(ゆびさ)して、
「この人が浦賀(うらが)奉行の部下で与力(よりき)といふ、一ばんの上役である、この人ならば長官と会見するに十分な筈(はず)である。」と言ひました。
「ではなぜ奉行自身が来ないのです。」と聞くと、
「それは国法によつて禁ぜられてるるからです。奉行は外国船へ出て来ることは絶対に許されないのです。」と答へ、次で、
「それならば、この与力に相当する人に会見させてくれろ。」と言ひ出しました。
ペリーはわざと、しばらく時間を引つぱつた後、その要求を容(い)れて、副官のコンテイ大尉を応接員に命じ、与力と、さつきの和蘭(オランダ)語の通訳とを艦長室に通しました。与力は中島(なかじま)三郎助(らうすけ)、通訳は堀達之助(ほりたつのすけ)といふ名前でした。コンテイ大尉は二人を引見してペリーの命令どほり、
「この艦隊の司令長官は、日本との平和な交際を開くための任務を帯びて、アメリカ政府から派遣された使節で、大統領から日本皇帝に捧(ささ)げる国書を携へてゐる。国書の交付期日は、いづれ長官から指定される筈であるが、さしあたり、その写しをさし上げるから、相当な役人を艦隊へよこして貰(もら)ひたい。」と告げました。それに対して、与力は通訳を通して、
「日本の国法では、外交上の事柄はすべて一さい長崎(ながさき)で取扱ふことに極(き)めてある。だから、そちらへ行かれた方が早道である。」と答へました。コンテイ大尉は、それに答へて、
「長官がわざ/\浦賀を選んで来たのはこゝが江戸(えど)に最(もつとも)近い港だからである。国書は必ずこの浦賀でお渡しする。どうか適当な礼儀を持つて当地でお受けとりを願ふ。」と告げ、同時に、
「われ/\はもとより全然平和な修好を目的として来たのであるが、併し、そちらから、寸分でも侮辱がましい態度をとられるならば、われ/\も止(や)むを得ず、相当の手段をとらなければならない。」といふことを、おごそかに言ひ渡した後、
「第一、あんなに多数の警備船をもつて、艦隊を取りまかせてゐることは、非常な非礼である。早速解散させて貰ひたい。この正当な要求に応じてくれないならば、われ/\は容赦なく武器によつて解決するまでゝある。」と嚇(おど)しつけました。
与力はそれを聞くと、急に席を立つて舷門(げんもん)のところへ行き、何か命令を下しました。すると、今まで艦隊を取りまいてゐた何十艘といふ船の大部分が、どん/\海岸へ向つて引き上げました。然(しか)しまだあとに幾艘か固まつて残つてゐる船があるので、ペリーは窃(ひそ)かにコンテイ大尉に命じて、嚇かしのために砲をのせたボウトを一隻下させました。すると、それ等(ら)の船もこそ/\引上げてしまひ、警備船は遂(つひ)に一艘の影をも止(とど)めなくなりました。
九
与力(よりき)の中島(なかじま)と、堀(ほり)通訳とはそのあとで艦を辞し去りました。中島はその際、
「われ/\には、貴国の国書を受取る受取らないの問題については、何等(なんら)のお答をする資格もない。明朝われ/\よりも地位の高い人が来て、とかくの御挨拶(ごあいさつ)をするはこびになるでせう。」かう言ひおいて行きました。
ペリーは、かうしてともかく警備の船をすつかり追ひ退(の)けたことをまづ第一の成功として満足しました。彼は日本人に対しては、すべてかういふ風にどこまでもぴし/\と出て、彼等の下手な手管や虚構を一さい刎(は)ねつけてしまふつもりで来たのでした。これまで日本と関係をつけた外国人は、こちらから低く頼み入つて、交際や通商を求めたゝめに、日本人は威張つて、いろ/\の条件をつけ束縛したのである、自分たちは、これまでの外人の出方とは全然反対に、日本との修交を、寧(むし)ろ権利として要求する態度に出よう、そのためには、万一、日本がわれわれの国旗に対して、少しでも威圧や侮辱を加へでもしたら、容赦なく直ちに非常手段を執らなければならない、ペリーはさういふ考へから、手落ちなく戦闘準備をもしてゐました。併(しか)しそれはいよ/\止(や)むを得ない場合のことで、無論出来る限り平和に交渉がつくことを望んだのはいふまでもありません。
それはともかく、与力たちが去つたあとも、警備の船はもうそのまゝ引つ込んだきり、一艘(さう)も出ては来ませんでした。併し遠くから一生けんめいに艦隊の行動を監視してゐることは疑ひもありません。正午から夕方までの間には、砲台からは三四度も何かの相図(あひづ)の狼煙(のろし)を上げました。夜になると陸上の怖(おそ)れはなほ一層で、海岸一帯はもとより、山々や丘の上まで目のとゞく限り、すつかり篝火(かがりび)をたきつらねて、たえず半鐘を鳴らしながら警戒してゐました。その鐘ははじめは寺院の祈りの鐘かとも思ひましたが、やはり何かの相図らしく、とう/\終夜鳴らし通しに鳴らしました。陸上のさういふ仰々しい騒ぎに対して、海の上は全(まる)で山中の湖水のやうにひつそりしたまゝ、何一つ、その沈静を破るやうな出来事も起りませんでした。
夜の九時に、サクスハナの六十四ポンド砲が時間の号砲を打ちました。それが轟然(がうぜん)と、両側の山々に響き渡ると、陸上では非常に驚きあわてたものと見えて、今まで燃え列(つらな)つてゐた篝火(かがりび)が一度に消されてしまひました。併し、艦隊へはそれなり何の変動も及んでは来ませんでした。そのうちに夜中になると、思ひがけない彗星(すゐせい)が、南西の空の、地平線上十五度ばかりのところに突然あらはれて、空一ぱいが丁度(ちやうど)光の海のやうに輝きわたりました。軍艦では,檣(マスト)や甲板上のすべてのものがこと/゛\くその光りを射かへして、全(まる)で青火に燃えるやうに照り光りました。そのうちに彗星は一直線に東北に向つて走り、やがて海に落ちて影を亡くしました。それは赤い楔形(くさびがた)の尾を引いた、大きな青い火の玉のやうなもので、尾は花火のやうにぱち/\と燃えてゐました。
ペリーは、その光りを仰ぎながら、昔の人はこんな星を見ると、事業が成功する印だと言つて喜んだものだが、さしあたりわれ/\には、これは、われわれの今度の目的が血を流さずに仕遂(しと)げられて、永らく隠しものゝやうに閉ざされてゐた日本人を、文明国民の仲間に引き入れ得る前兆かも分らないと言ひながら、愉快さうに微笑を浮べました。
一〇
ペリーの艦隊は、夜どほし陸上から仰々しい警戒を受けながら、ともかく、何の事変もなく、浦賀(うらが)での第一夜をあかしました。
朝のあかりで見ますと、湾を見下(みおろ)し得る地点にはいたるところに砲台が設けられてゐるのがはつきりと見えました。ペリーたちはそれを一々、くはしく望遠鏡で視察しました。中には、まだ工事の出来上らないのもあり、変更中のもあつて、まだ大砲が一つもすゑつけてないのがいくつもありました。多くの完備した砲台も、大砲はすべて口径の小さなものばかりです。それに非常に滑稽(こつけい)なのは、海岸一たいと、それ等(ら)の、すべての砲台にまで、こと/゛\く、胸壁の前面にも内部にも、白条(しろすぢ)や黒条(くろすぢ)の這入(はひ)つた八九丈の巾(はば)のある幕が張り渡してあることです。多分虚勢を張つて、おどかすつもりでしたことでせうが、望遠鏡や、フランス製の双眼鏡で見ると、その幕の中もすつかり手に取るやうに見えるのだから笑止です。日本人は怖(おそ)らくそれには気がつかないでゐるのでせう。
或(ある)幕の中では、真つ赤な服装をした兵士が、いろいろの武器を持つて、そつちこつちへ往(い)つたり来たりしてゐます。その中には、種々まち/\の印のついた旗や、長い棒の先に、提灯(ちやうちん)をつけたのをかついでゐるものもをりました。海上には、例の昨日からの警護船がぎつしりと並び列なつてをり、海岸には何の意味か、赤い旗が二本、歩哨(ほせう)のやうに立つてをります。
やがて日が上(あが)りました。と、間もなく一艘(さう)の小さな船が海岸から漕(こ)ぎ出して来て、旗艦サクスハナのぢきそばまで寄つて来ました。乗り込んでゐる二三人のものは、たしかに画工たちであるらしく、軍艦の見取り図を取りに来たものと見えて、みんなでせわしさうに、せつせと写生をして帰つて行きました。
七時ごろになりますと、今度は、比較的大きな船が二艘訪づれて来ました。その一つには、五六人の役人が乗つてをり、つきそひのオランダ語の通訳を通して、町の最高の役人だから上げてくれと言ふのです。昨日、与力(よりき)の中島(なかじま)が、奉行は国法上外国船へ来ることは全然出来ないと言つたにも係(かか)はらず、浦賀奉行の香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)自身が出て来たのでした。(ペリーたちは、間違へてかう記録してゐますが、その当時の奉行は戸田伊豆守(とだいづのかみ)で、香山は中島三郎助と同じく、部下の与力といふ役人でした。)
それはともかく、ペリーははじめから政策として日本政府の大官にでなければ会見しない決心なので、自分自身は引つ込んでゐて、艦長のブツカナンと参謀長のアダムスと副官のコンテイとの三人に命令して奉行を引見させました。奉行は、金銀の糸で縫取りをした、孔雀(くじやく)の羽根のやうにきらびやかな、絹の装束をつけてゐました。
三人は丁寧に奉行たちを迎へ上げて応接しました。奉行は通訳を通して、
「持参されてゐる国書は、日本の掟(おきて)により、浦賀で受取ることは出来ない。長崎(ながさき)へ行かれるより外はありません。」と、それを、くりかへし/\言ひました。三人はそれに対して、長官は国書はぜひ浦賀でおわたしする予定にしてゐる、決して長崎へは行かない。もし日本政府が相当の委員を選定して、すぐに国書を受取る準備をしないならば、長官は止(や)むを得ず、十分の兵員を率ゐて上陸し、自分自身で直接皇帝陛下に奉呈するまでゝあると、宣言しました。
奉行はそれでは、これから役所へかへり、早速江戸(えど)の政府に使(つかひ)を立てゝ指図を仰ぐから、どうか四日間待つてくれと言ひます。こゝからならば、軍艦で一時間もかゝれば江戸の見えるところまで行けるのです。そんな近いところを往復するのに四日はあまりなので、それでは十二日まで三日間の猶予をさし上げるから、それまでに必ず国書受取の期日について確然たる返事をもらひたいものであると答へました。
そのとき、丁度(ちやうど)湾内では、各艦から一捜づつ出したボウトが、頻(しき)りに測量をしてゐました。奉行はそれを見て、あの舟は何をしてゐるのかと聞きました。海の測量をしてゐるのだと答へますと、そんなことは国法によつて禁じられてゐる、やめてくれと言ひ出しました。ブツカナンたちは、併(しか)しわれ/\は、すべてわれ/\の国法によつて行動してゐるのである、日本人が日本の掟を守らなければならないと同様に、われ/\もわれ/\の掟の命ずることに反(そむ)く訳にはいかないと言つて刎(は)ねつけてしまひました。
次で三人は、奉行たちに、ワシントンから用意して来た、大統領の手書(しゆしよ)と、ペリー長官の特派使節としての信任状とををさめた手函(てばこ)を見せました。奉行たちは、その函の立派なことゝ、中に入れられたものゝ貴重さとには十分感服したらしく見えました。奉行はそのときはじめて、御入用ならばいつでも艦隊の飲料水や糧食を供給すると申し出しました。三人は、別に入用なものはないと答へ、同時に、国書の受取期日の通告を受ける、十二日が来るまでは、これ以上、何も協定をする必要はないから、そのつもりでゐてもらひたいと言ひ渡しました。奉行たちは、よくそれを了解した上、非常に感動した顔附(かほつき)をして辞し去りました。
奉行が抗議を申込んだ、例の測量隊は、この日の朝から出したもので、いづれも十分に兵員を乗せ、武装も十分とゝのへてゐたのですが、なほ念のため艦砲の着弾距離以外へは乗り出さないやうに、かたく命令されてをり、その上に、万一日本人から襲はれたときに援助を送る準備として、後(うしろ)に見はりのボウトがつけてありました。すべてのボウトは、普通のボウト旗の外に、平和の意味をあらはす白旗を舳(みよし)に立てゝ各(おのおの)分れ/\に進んで作業をしてゐましたが、やがて艦隊から二哩(マイル)ばかりのところまで来たとき合図の大砲でよびかへされ、次で再び派出されて午後の三時にすつかり測量ををへてかへりました。
それ等のボウトの或ものは、向うの海岸のぢき側(そば)まで近よりました。すると、そこに設けられてゐる砲台が手に取るやうに見えました。その砲台は、構造にも、さまで手がかゝつてゐない上に、位置も、軍器もまる出しに露(あら)はれてゐるので、雑作なく攻撃することが出来るのです。胸壁なぞも、藁(わら)の袋に土をつめたものを積み上げたまでのもので、附属した兵舎、倉庫等(とう)のすべての建物も悉(ことごと)く木造らしく、備砲も口径の小さなものが二三門すゑられてゐるだけで、併も砲眼がずばぬけて大きいために、砲身が全(まる)でむき出しになつてゐるのだから滑稽(こつけい)です。
ボウトが近づくと、砲台の兵士は、非常な権幕を見せて、どん/\槍(やり)や火縄銃(ひなはじゆう)を持つて飛び出して来ました。彼等の漆塗(うるしぬり)の笠(かさ)や楯(たて)や槍の刃が、太陽の光りを射かへしてぎら/\と光るところは、一寸(ちよつと)凄(すさ)まじい感じでした。併し断乎たる抵抗を命ぜられてゐたのでもないと見えて、ボウトが近づくにつれて、のそ/\と砲台の中へかへつてしまひました。
或一つのボウトを指揮してゐた士官は、遂(つひ)に海岸から五十間ぐらゐのところまで近よりました。すると砲台の上には、上官らしいものが三人立つてゐるのが見えたので、望遠鏡を向けて見ますと、彼等は急にびつくりしたやうに引つ込んでしまひました。多分、望遠鏡を、片眼(かため)でのぞいて何か発射でもする得体の分らない武器だと思つたのでせう。海岸には例の警護船が並んでゐました。間もなくその船の一つから、日本兵が、士官に向つて「かへれ/\」と手真似(てまね)で言ひました。士官は同じく手真似で自分の近づく方向を示しました。すると、多くの警護船はすぐさま岸をはなれて、ボウトを襲撃でもしさうに非常な勢(いきほひ)で近づいて来ましたので、士官は一同に橈(オール)を休めさせて小銃の照準を立てさせました。警護船は、あとからなほ幾艘(いくさう)も出て来ましたが、ボウトが、十分武装をしてゐるのを見て躊躇(ちうちよ)したらしく、いづれも遠くから見はりをしてゐるまゝで、それ以上に追跡しては来ませんでした。
翌十日は日曜で、各艦では定例の祈祷式(きたうしき)を上げました。この朝、横条の這入つた旗を立てた、一艘の小船(こふね)がサクスハナへ漕ぎ寄つて来ました。その中には聡明(そうめい)な顔附(かほつき)をした、品威のある役人が二三人乗つてをりました。彼等は同伴して来た通訳をとほして、少しお話ししたいことがあるので、ぜひ艦へ上らせていたゞきたいと、礼儀正しく、懇請しました。併し、ペリーは、昨日も、参謀長から、香山栄左衛門に告げさせたとほり、十二日までは、何人(なんびと)とも会ふ要はないので、士官に命じて、丁寧にことわつてかへしました。
さういふ間にも陸上では一生けんめいに、沿岸の防備にかゝつてをりました。或砲台では、きら/\する楯や、長い槍なぞを持つた兵隊が、ごた/\往(ゆ)き来をする中で縞(しま)の布(きれ)でこしらへた、見かけ倒しの偽せものゝ大砲を運び込んでゐるのもあるし、他の砲台では、備砲を艦隊へ真正面に向け直したりしてをります。夜になると、海岸や丘の上には又(また)どんどん篝火(かがりび)を点(とぼ)し列(つら)ねました。
一一
三日目の十日の晩も、陸上のさわぎに引きかへて、海上へはやはり何の変動も伝はらず、艦隊は極めて平和に安息日の一夜を送りました。
翌十一日の早朝、ペリーは、蒸汽艦ミツシツピイの擁護の下(もと)に、一隊のボウトを、測量のために江戸(えど)湾へ派遣しました。特に、ミツシツピイをつけて出したのは、護衛と同時に、かういふ威力ある軍艦が江戸の近くまで乗り込んで行つたら、日本政府の役人たちもびつくりして、ペリーの要求を入れるかも分らないといふ、嚇(おど)かしの意味もあつたのです。ボウトは前日のとほり、各艦から一艘(さう)づゝ出し、ベトン中尉が指揮官になつて、長官の命令どほり、艦隊からの信号距離を出ない限り、出来るだけ深く湾内へ這入(はひ)るつもりで出かけました。
それを見ると陸上では非常に愕(おどろ)いたらしく、忽(たちま)ち千人以上の兵がどん/\東海岸へくり出して、大急ぎで船に乗り、どん/\ボウト隊のあとを追つかけて行きました。それから間もなく浦賀(うらが)奉行の香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)があわてゝ軍艦へやつて来ました。彼は表向は、明日国書を──つまり国書の写しのことでせうが──当地でそれを受取つて江戸へ廻(まは)すことになつたから、一寸(ちよつと)知らせに来ました、と挨拶(あいさつ)しましたが、その実は軍艦を江戸湾へ向けたのは何のためか、それを確かめに出て来たので、間もなく本音を出してまともに聞き出しました。ペリーは、コンテイ副官をとほして、それは、もしわれ/\が来航した用件が一度で纏(まと)まらない場合には、止(や)むを得ず、もう一度、今度は多数の大艦隊を率ゐて江戸近くの海岸へ来(きた)り、直接江戸政府と交渉するつもりなので、その場合の碇泊地(ていはくち)を選定しておく必要があるからだと、大きく威嚇してかへらせました。
出発した測量隊は、やがて、艦隊から十哩(マイル)、十二哩のところまで進入しました。追跡して来た多数の警護船からは引きかへせ/\と手を振つてよびとめました。その中の三十艘ばかりは、隊の行手を遮(さへぎ)るつもりなのか、ボウト隊に平行して真直(まつすぐ)に進んで来ます。先頭に立つてゐたベトン中尉は、全員に命令して、橈(オール)を休めて小銃に着剣させました。併(しか)し日本船はそれにもひるまず、なほどん/\進んで来るので、中尉は事変の突発を防ぐために、わざと隊の進路を少しわきへ振り向けておき、一艘のボウトを護衛のミツシツピイ号へ急派しました。ミツシツピイは二哩(マイル)ばかり後についてゐたのですが、そのボウトからの信号により、急いで隊に追つついて来ました。日本船は、この大きな蒸汽船が近づいたのに怖(おそ)れて衝突を控えたので、隊はゆう/\と測量を続け、最後に、例のとほり艦隊からの相図(あひづ)の号砲によつて、無事に引きかへして来ました。
この日も多くの漁船は、艦隊のぐるりを平然と往来しました。彼等(ら)はたゞ物珍しさうに、じろ/\と艦を見上げて通りすぎるのみで、一向何の怖れも敵意をも感じてゐない容子でした。艦隊のすべてのものは、日本政府の明日の回答を、気遣ひと興味とを持つて待ち受けてをりました。
明けると、いよ/\指定された十二日です。その朝九時過ぎに三艘の船が海岸をはなれてサクスハナへ向つて来ました。それ等の船は、これまで見た純日本船とは違つて、どこか欧羅巴(ヨーロツパ)式を取つて造つたかと思はれるやうな形をしてをります。その中の一ばん大きな一艘には三十人ばかり、他(ほか)の小さい二艘にはいづれも十二三人づゝ乗り込んでをりました。間もなく、先頭に立つてゐる一ばん大きな船の胴の間の莚(むしろ)上のに、例の香山栄左衛門が立派な絹布(けんぷ)の装束をつけて、通訳や従者と一しよに、坐(すわ)つてゐるのが見えました。栄左衛門の乗つてゐる船は、他の二艘を、かなり遠いところに残しておいて、ひとりでサクスハナの艦側へ横づけになりました。
香山は、一等通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)、二等通訳の立石(たていし)得(とく)十郎(らう)と共に、すぐに艦上に迎へられ、交渉委員のブツカナン艦長とアダムス参謀長とが対応しました。香山は通訳を通して、貴国の国書は一両日のうちにお受取する筈(はず)で、目下、長官と随行員とのために海岸へ接待館を建てゝをります。応接委員も皇帝陛下から特命されてをりますと挨拶しました。(皇帝といふのは将軍のことを、ペリーたちが誤解してゐたのです。或(あるひ)は通訳たちが、将軍を皇帝と訳したのかも分りません。)
香山はそれに附け足して、
「そんな次第で国書は受け取りますが、それに対する返答は、当地でさし上げることは出来ません。いづれ長崎へ廻送(くわいさう)して支那(しな)人又(また)は、和蘭(オランダ)人の手を経ておわたしすることになるでせう。」と言ひました。
交渉委員は香山に向つて、貴下の言はれるところによると、貴下は第一に、国書の受けわたしについて非常な誤解をしてゐられる、われ/\は、国書をお渡しするまへに、まづ相当の地位の人にその写しをわたし、その後で、日本の最高の官位の人に原本を手わたしするといふことを、かねて貴下にもはつきりと言つておいたのである、国書の原本は、われ/\が承認し得る高官のほかへは決して渡すことは出来ないのであると、重ねて説明した後、長官室へ行つてペリーに、香山の挨拶を報告しました。ペリーは直ちに次のやうな抗議書をかきました。委員はそれを和蘭語に訳させて、しづかに奉行に説き聞かせました。抗議書の内容は、
「われ/\は絶対に長崎へ行くことは出来ません。返答は、外国人の手を通さないで、直接、日本の官吏から当地で受け取ります。国書は皇帝陛下か、又は外務の上長官(じやうちやうくわん)以外には何人にも交附することは出来ません。国書は、われ/\の大統領が日本皇帝と日本人とに向つて友情を交換する以外に何等(なんら)の意味もないのです。その国書が適当の方法で受取られない場合、又は受取つても何の回答をも与へられないときには、われ/\はこれをもつて、われ/\の国家が侮辱されたものと解釈します。従つてその結果いかなることが出来ようともわれ/\には一さい責任はないものとお考へありたい。以上に対する回答は、両三日中に、必ずこの碇泊地点又は、その附近の場所で受け取ることにします。」と、かういふ意味のものでした。
奉行はそれでは、ともかく、午後再びまゐつて御挨拶をしますと言ひおいて退艦しました。浦賀の奉行役所には、彼以上の役人が出張してゐて、一々交渉の指図をしてゐるらしく、香山はその上役と相談するために帰つたものと思はれます。この会見は三時間にもわたりましたが、相互の応対は極めて平和のうちにはこばれました。香山が辞し去つたのは午後の一時でした。この日は陸上も至つて平静で、砲台でも何等の活動もせず、警護船もみんな海岸に繋(つな)がれたまゝでをりました。
奉行は約束どほり午後再び旗艦へ出て来ました。ペリーはやはり例のとほりに引込んでゐて、ブツカナンとアダムスと、コンテイ副官とに応接を命じました。交渉委員と香山とは次のやうな対話をとりかはしました。
香山「お言葉のやうに、国書の原本と謄本とを別々に受取るとなると、非常な時日を費すわけですが、貴下のお計らひで、同時にお渡し下さるやうにしてはいたゞけませんか。」ブツカナン「それは出来ません。」
香山「最初にはすぐに国書をお渡し下さると仰(おつしや)つた筈ですが、今になつて謄本だけを先にわたすとお言ひになるのはどういふ訳でせう。」
ブツカナン「いゝえ、私(わたし)ははじめから貴下に同じとほりを申しておきました。謄本と長官の手紙とを、先(ま)づお渡しすると申したのです。その謄本と手紙とを受取られる人は、必ず皇帝の信任を受けて来られるのでせうね。」
香山「はい、信任をうけてまゐります。」
ブツカナン「何かその証拠を見せて下さいますか。」
香山「はい証拠を持つてまゐります。」
こゝでブツカナンとアダムスとはペリーと協議をするために長官室へ行きました。そのあとで、
副官「謄本と長官の手紙とはいつお受取りになるのです。」
通訳「明日か明後日かです。」
副官「接待館はどこにお建てになりました。」
通訳「海岸に。」
副官「こゝから見えますか。」
通訳「いえ、見えません。」
副官「こゝからは見えないのですね。」と再びくりかへして聞きますと、
通訳「山の向う側ですから、ほかのところからならば見えます。」
このときブツカナンとアダムスとが再び出て来ました。
ブツカナン「たゞ今、長官と相談をしてまゐりましたが、長官のいはれるには、貴下は国書の受けわたしについて全然誤解をしてお出(い)でのやうである。けれどもし貴下が、われ/\の要求するとほりの高官が国書受取委員に任命されてゐるといふ明瞭(めいれう)な証拠を見せて下さるならば、われ/\が先に言つたことは取り消して、貴下の希望どほり、国書の原本と謄本とを、同時におわたしすることにしてもかまひません、長官はかう言つてをられます。」
香山「本来外国の書翰(しよかん)は、長崎で受取る規定になつてゐるのですが、それを特に当地で受け取るのです。その代り委員はたゞそれを受取るだけで、何事も商議をすることは出来ません。」
ブツカナン「いや、たゞ国書を受け取つてさへいたゞけばいゝのです。委員は軍艦へ来られるおつもりですか、それとも陸上でお受取りになりますか。」
香山「陸上で受取ることになりますでせう。」
ブツカナン「それでは、そのまへに、皇帝の信任状をオランダ語に訳して長官の手もとへお送り下さい。」
香山「委員はたゞ国書を受取るだけで、商議する権限は与へられてをりません。」
ブツカナン「いえ、何も商議する必要はありません。たゞ皇帝の捺印ある信任状だけは、ぜひお見せ下さる必要があります。」
香山「それは、相当の捺印(なついん)ある書状を持つてまゐります。委員は、明日江戸から出張してまゐる筈です。」
ブツカナン「何時に?」
香山「朝の八時に着くはずです。まゐりましたら知らせに上ります。」
ブツカナン「その際には、委員の信任状と、オランダ語に訳した訳本とを必ず御持参下さい。」
香山「承知しました。──それで、大統領の国書に対する皇帝の返事はすぐでなくてはいけませんか。」
ブツカナン「いえ、すぐでなくてもかまひません。」
香山「では、長官は、いつ、その返答を受けとりにお出ででせう?」
ブツカナン「二三箇月の内に、再びこゝへまゐります。」
通訳「委員は、国書を受取りませば、その証拠の受領書をさし上げる筈です。」
ブツカナン「接待館はあまりかけはなれてゐるので、ボウトで行くのに不便ですが、もつと、この碇泊地点に近いところへ移して下さるわけにはいきませんか。長官は、たゞ天幕(テント)張りの中でも、又は砲台の中でも満足して会見します。その会見にも長い時間は取りません。」
通訳「接待館はさう遠くはありません。日本の里数で一里近くのところです。」
ブツカナン「貴下の計らひで、もつと近くにして下さることは出来ませんか。」
通訳は香山と相談して、
通訳「奉行は一応取計つて見ようと言はれます。」
ブツカナン「その結果を、明朝知らしてくれませんか。」
通訳「畏(かしこま)りました。」
協議はこれで終りました。ブツカナンはその後で香山以下を別室に案内して丁重に饗応(きやうおう)をしました。その間、栄左衛門も附添(つきそひ)の通訳二人も非常に好機嫌(かうきげん)で、接待役の士官たちを相手に、垢(あか)ぬけた応待を見せました。飲料の中(うち)ではウヰスキーとブランデーとが一番気に入つたやうでした。殊に奉行はそれが非常に好物らしく、砂糖を入れては、ぐい/\と飲み干して、しきりに舌をならしました。そして、いろ/\とおしやべりをしました。通訳の一人は、奉行が酔ひはじめたのを見て、
「ずゐぶん赤くなりましたね。」と、懸念さうに言ひました。併し、奉行は、しまひまで、ちやんと紳士の態度を崩さないで、至極社交的に、自由に談笑しました。
彼等は語学上では、オランダ語、支那語に上達してゐる以外に、科学やそのほかの一般の智識(ちしき)にも、一ととほり通じてゐるのには、士官たちも内々愕(おどろ)きました。一士官が地球儀を持つて来て見せますと、彼等は早速合衆国に目をつけて、ワシントンとニユーヨークとを指(ゆびさ)しました。この二つの都会が一方は政治上の首府であり、一方は商業の中心地であることをばちやんと心得てゐる様子でした。それから、英、仏、デンマークその他、欧羅巴の主な国々をも雑作なく見分けました。それから西洋の文明についていろ/\の質問をし、鉄道は山を掘りぬいて架設してあるのか、汽車の機械と汽船の機械とは同じものか、又、地峡を通る運河はまだ出来上らないかなどゝ聞きました。運河といふのは、怖らくパナマ鉄道のことを言つたものらしく、ともかく大西洋と太平洋とを聯絡(れんらく)する工事が進行してゐることをちやんと知つてゐるのでした。
やがて饗宴も終り、話もすんだ後、ブツカナンは奉行と通訳とを案内して、艦内をすつかり巡覧させました。甲板に出ますと、士官や水兵たちは、日本人を見たがつて、ぞろ/\と三人のまはりを取りまきました。それでも三人とも少しも狼狽(うろた)へないで、平和な、しかも威厳のある態度を保持してゐました。三人とも、艦内のすべての構造や、設備を注意深く視察しました。併し、はじめて蒸汽船を見る人としては、機械やその他の仕かけについて一向びつくりしたやうな容子も見せませんでした。中でも蒸汽機関を一番興味を持つて見ましたが、通訳だけは、その機関の原理を全然知らなくもないやうでした。
彼等は、午後の七時過ぎまで艦にをりました。しまひに、三人とも、いづれも、威厳のある中(うち)に、にこ/\と愛嬌(あいけう)ある微笑をもらしながら、一歩ごとに辞儀をして、下りて行きました。
あとで見ますと、奉行たちは、刀を三本、船室におき忘れて行きました。そのうちの二たふりは、いかにも身分ある人が帯用するらしい刀で、実用よりも寧(むし)ろ装飾品らしいこしらへでしたが、引きぬいて見ますと、刀身は、質も鍛へも申分のない立派なもので、全(まる)で鏡のやうにきら/\と磨(みが)き立てゝありました。鞘(さや)は鮫(さめ)の皮で手際よく作つてあり、純金のかざりがついてをりました。
艦上では、以上のやうな行きさつがありましたが、その間、長官の命令によつて派出されたボウト隊は、やはり終日忙(せは)しく測量と視察とを続けました。
明けると七月の十三日です。ペリーたちは早朝から、香山が昨日の返事を持つて来るのを、今か/\と待つてをりました。併し彼はとう/\午前中には出て来ませんでした。陸上ではどうしたわけか多数の船が浦賀の町の対岸からどん/\兵隊を乗せて町の方へ運んでをります。その中の一番多きな或(ある)船には政府の旗印らしい仰々しい旗を押したてゝゐました。
一二
七月十三日には、いよ/\国書受渡しの日取について日本政府からたしかな返事が来る筈(はず)なので、ペリーたちは、その日は朝早くから待ちうけてをりましたが、使(つかひ)の香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)は、やつと午後の四時になつて、二人の通訳をつれて出て来ました。例により、ブツカナン、アダムス両大佐と、コンテイ大尉とが引見しますと香山は、貴使節への応接委員が、今やうやく江戸(えど)から着いたやうなわけで、返事がおくれてすまなかつたといふことを、丁寧に言ひわけをした後、皇帝(将軍のこと)から発せられた、二人の応接委員の信任状を見せました。そして、貴国の国書は、これ等(ら)の委員によつて、明日の午前中にお受けとりすることに極(きま)りましたと確言しました。その信任状には、皇帝のだといふ印が押してありました。
次に香山は、御希望のやうに、接待館を、もつと近くへ移すことを、懇々願つて見ましたが、最早、建物も殆(ほとんど)出来上つてゐるために、許しが下(さが)りませんでしたと挨拶し、その代り艦隊は使節が上陸される地点への着弾距離以内までお入れになつても差支(さしつか)へありませんと附(つ)け足しました。接待館の移転については、どうせ、さういふ返答をするだらうとは、こちらでもかねて予想してゐたことでした。
その後で香山は、明日使節は、随行員を幾人(いくたり)つれてお出(い)でになるのかとたづねました。ブツカナンたちは、以上のすべてをペリーに伝へました。ペリーは、香山の問ひに対しては、われ/\の習慣上、大統領が直派する使節には、多人数の随行者がつくのが極りであるし、それに今度の場合ははじめて国書を提出するのだから、不穏当でない限り、多くのものを随伴して出向ふだけ、貴国に対して一層の敬意を表するわけにもなるので、出来るだけ多数の士卒を率ゐて上陸するつもりであると答へさせました。
香山は、それを聞いたのち、明日会見の際には、すべての役員は、特別の大儀式のときにだけ着用する、第一ばんの礼装をして列席する筈ですと、得々として言ひましたが、その言葉のすぐあとでは、ただ困ることは、あなたがたに着席していたゞくのにかういふ肘(ひぢ)かけ椅子(いす)なぞが日本にないので甚(はなは)だお気の毒に思つてをりますと、きまり悪さうに言ひながら、自分たちの与へられてゐる応接室の椅子を、羨(うらや)ましさうに見廻(みまは)しました。それから、おもてなしをするにも、日本には昨日われ/\がいたゞいたやうなブランデーなぞといふ酒がないので、その点もどうか御勘弁を得たいと、いろ/\饗応(きやうおう)の点についても苦心をしてゐるらしくかう言ひました。アダムス参謀長たちはそんな御心配は一さい御無用です、国々によつて、いづれも習慣が違ふのですから、万事あなたがたの礼儀どほりに取運んで下さればよいのです、たゞ、われ/\の使節の席を、日本の最高委員と同等にしてもらひ、以下それ/゛\の随行員も、それと対等の日本の役員と同席につけて下されば十分ですと答へました。
日本の主席委員は戸田伊豆守(とだいづみのかみ)といふ高官だといひます。香山は、国書は使節がその伊豆守へ直接におわたしになるか、又(また)、渡されたならばすぐに帰艦されるおつもりか、国書に対する皇帝の返書は、いつ受取りに来られるのかと聞きました。それに対してアダムス参謀長は、ペリーの命をうけて、それ/゛\答へをしました。返書はこのまへにも言つたごとくいづれ二三箇月のうちに、再び来訪して受取るつもりであると答へました。
以上の会見は、すべてゞ二時間半続きました。ペリーはその間に、急いで、測量ボウトを出して、接待館の附近一帯の模様をくはしく視察させました。万一にも日本人が、使節の上陸について、何か陰謀でもめぐらしてゐるらしい形跡があるならば、それに対して十分の用意をしなければならないからです。ボウトは帰つて来て、接待館の近傍では、多数のものが建築や、造作の持ちはこびにせつせと働いてゐる以外に、別に怪しむべき点もないと報告しました。
香山は、間もなく、夕方ごろになつて、例のやうに、礼儀正しく一歩ごとにお辞儀をしながら辞し去りました。立つて行くとき一等通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)は、「それでは帰宅いたします。」と、はつきりした英語で言ひました。堀は外国語に対しては非常な才能を持つてゐるやうでした。
ペリーは、その後ですぐに各艦長を招集して、日本がわざ/\浦賀(うらが)の町をはなれた、あゝいふ場所へ接待館を作つた意味が、どうもはつきり分らないので、明日の上陸については十分警戒をしなければならないといふことを告げ、そのためには、第一に、明早朝、艦隊の碇泊(ていはく)位置を、接待館の正面の、着弾距離以内へ移すこと、次に、上陸のさいには出来るだけ多数の士卒をくり出すやうに命令しました。
その晩、接待館では、夜どほし一生けんめいに建築の仕上げにかゝつてゐたと見えて、労働者たちのさう/゛\しい声や、金槌(かなづち)の音なぞが、とう/\夜明け方まで続いて聞えました。その間浦賀の港からはやはり、明日の準備に往来するらしく、多数の警護船が引つきりなしに出這入(ではひ)りしました。
明けると七月十四日(嘉永(かえい)六年の六月九日)です。この日は、夜明け前には、霧と雲とが低く陸地一帯にかゝつてゐましたが、やがて日が上るにつれて、それがすつかり消え去つてしまひ、空も麗(うらら)かに晴れわたりました。浦賀の海岸を見ると、晩のうちに全(まる)で見違ふばかりに装飾されてゐました。皇帝の紋らしい、赤い葵(あふひ)の紋を染めた幕が到るところに張り廻され、その上から、派出(はで)な色でさまざまの紋をかいた旗や、長い流れ旗なぞがどつさり覗(のぞ)いてをります。その一めんの幕の蔭(かげ)には兵隊がぎつしりと居列(ゐなら)んでゐるのがはつきりと見えました。
艦隊では早くからすべての準備に取りかゝりました。士官や兵卒は、だれもかれも、こぞつて今日の随行を望んでゐるのですが、あとにも必要な兵員が残らなければならないので、不公平のないやうに、すべて三百幾名の士卒を籤(くじ)で選び、それを随行員に指定して、それ/゛\大礼服や制服に着換へさせました。
八時少し前に、蒸汽機関のサクスハナとミツシツピイとは、前後して錨(いかり)を上げて、黒烟(こくえん)を長く引きながら湾を下り、徐(しづ)かに、接待館のある、久里浜(くりがはま)の前面に移り向ひました。風がないので、帆前船のプリマスとサラトガとは、止(や)むを得ずあとに残つたわけです。
出かけた二隻の艦隊は、間もなく、浦賀と久里浜とを隔てゝゐる、或(ある)一つの岬(みさき)を廻りました。それと同時にそちらの陸上の準備がすつかり目のまへに見えて来ました。そこにも浦賀と同じやうに、海岸には一面に皇帝の紋の這入つた幕を引き廻し、同じくいろ/\の紋を染めた多くの旗が、九本の高い幟(のぼり)と一しよに、朝日の光の中にきら/\と輝いてをります。九本の幟からは、真赤(まつか)な巾(はば)の広い小旗が長く垂れ下つて、殆(ほとん)ど地面まで届いてをりました。
それ等のけば/\した旗や幕を背景にして、多数の兵士が列をつくつて並んでをります。これは怖(おそ)らく日本の兵力の一部分を見せつけて、アメリカ人を威(おど)しつけようといふつもりなのでせう。その浜の左手には、ぢき後(うしろ)の丘との間に、屋根の尖(とが)つた家がはなれ/゛\に一と群を作つてをります。浜の右手には五六百以上の日本船が、いづれも赤い旗をひるがへして、海岸に沿うて平行に列んでゐます。接待館は海岸から少し引つ込んだところに、三角形の屋根を一段高く三棟(むね)並べて立つてをりました。
それ等のすべての光景は、全(まる)で、珍らしい絵を見るやうに華やかで愉快でした。きら/\輝く槍(やり)や楯(たて)をつらねてゐる兵士たちの隊列さへも、アメリカ人には、寸分の畏怖(いふ)を与へないばかりか、寧(むし)ろ、お祭の飾りのやうな賑(にぎ)やかみを附け加へてをりました。
間もなく艦隊が接待館の正面の海上に錨(いかり)を下しますと、例の奉行の香山栄左衛門が二人の通訳をつれて出て来ました。続いて与力(よりき)の中島(なかじま)三郎助(らうすけ)も他の一人の役人と一しよにやつて来ました。当番の士官はそれ等の人々を丁寧に迎へ上げて上甲板へ案内しました。いづれも、これまでの身なりと違つて立派な錦襴(きんらん)の装束をつけてをります。特に中島の如(ごと)きは、こつてりと化粧をさへしてをりました。併(しか)しせつかくの、さういふ装束も、ペリーたちに対しては、却(かへ)つていつもよりより多くの苦笑をいざなふばかりで、一向何等(なんら)の嘆賞をも買ひ得ないのは気の毒でした。実のところ、彼等のその外見は、丁度(ちやうど)トランプの兵隊をでも見るやうに滑稽(こつけい)でした。
そのうちに、サクスハナから、ボウト下(おろ)せの信号が上りました。それから三十分ばかりたちますと、十五艘(さう)の大小のボウトが、殆(ほとんど)全部の随行員を乗せて出発しました。先頭の大型のボウトには、サクスハナの艦長ブツカナンが乗り込んで指揮を執つてをります。そのボウトの両脇(りやうわき)には、香山の乗つてゐる船と、中島の船とが一艘づゝついて案内をして行きます。それ等のボウト隊が、見る/\うちに海岸との中間まで進みますと、サクスハナは、長官の出発の相図(あひづ)として十三発の号砲をうち出しました。その砲声はどゝん/\と、海上と山々とに轟(とどろ)き響きます。長官はその中を、大型のボウトに乗つて進みました。
そのときサクスハナと、ミツシツピイの両艦では、とくに甲板をすつかり取り片づけ、いざといへばすぐに戦闘に移れるやうに準備が出来てをり、数隻のボウトに、それ/゛\榴弾砲(りうだんはう)をつみ込んで、万一日本人が上陸員に向つて敵対行為を執るならば、直ちにそのボウトを下して、日本兵の全面へ、榴弾を雨霰(あめあられ)のごとくに浴びせかける用意がしてありました。
使節以下の上陸地点は、入り込んだ浜の、およそ中程あたりのところで、そこには、水際から土俵(どへう)を突き出して、間に合せの波戸場(はとば)が造つてありました。ボウトが着くとブツカナン大佐がまづ第一番にその波戸場に上り、続いて百幾名の水兵たちが上陸して波戸場の両脇(りやうわき)に、海に面して整列しました。そのあとから又百幾名が上つて来、次に二た組の軍楽隊が上陸して、すべて、三百名近くの士卒が揃(そろ)ひました。僅(わづか)これだけの人数ですが、平時としては十分の威力である上に、各人が、日本兵に比べると著しく偉大な体躯(たいく)をしてゐるので、日本人に向つては、その点だけでもかなりの威圧になつた筈です。
奉行は、駐屯(ちゆうとん)してゐる日本兵の総員を五千人だと言ひましたが、実際について見ると、明らかに五千よりも遥(はる)かに多数です。海岸一帯は勿論(もちろん)、村のはづれから北方の丘の中腹へかけて、公然と集り列んでゐる外に、その列の後(うしろ)に、ずらりと引きわたしてある幕の後にも多くの兵が隠れてゐるのが見えました。併しどの部隊にも秩序らしい秩序がついてゐないところを見ると、あまりよく訓練された兵隊とも思はれません。いづれも普通の日本服を着て、おの/\てん/゛\に槍や刀や火縄銃(ひなはじゆう)を持つてをります。その外に村の遥か後方には、予備隊らしい騎兵の大部隊が控へてをりました。それ等の馬には、いづれも、けば/\した馬衣が着せてあるので、丁度(ちやうど)お祭の騎者行列を見るやうな遊戯的な美観を添へてゐます。以上のすべての隊列の後(うしろ)には、丘の上といはず麓(ふもと)といはず、どこにもかしこにも土地の人民が蟻(あり)のやうに群つて、固くなつて見物してをります。その中には女たちもちよい/\交つてをりました。
最後にペリー長官が上陸しますと、香山栄左衛門と通訳とが立ち迎へて先導しました。列の一ばん真先(まつさき)には、全艦隊中から選抜した、最(もつとも)力のつよい水兵が二人、それ/゛\合衆国の国旗と軍艦旗とを捧(ささ)げて進んで行きます。その次には、礼装をした二人の給仕が、大統領の親書と、ペリーの信任状と、ペリーから皇帝に捧げる書簡とを入れた函(はこ)を持つて続き、ペリーはその後から、丈のずばぬけて高い屈強な黒人(くろんぼ)を両側に一人づゝ護衛につけて、すべての随行士官を従へて進みました。
接待館は波戸場からぢきでした。そこまでの通り路(みち)の右側には、白い鉢巻(はちまき)をした兵隊が小銃と火付(ひつけ)道具とを持つて列んでをり、左側には鳶色(とびいろ)の汚ならしい制服に、旧式の火縄銃をかついだ兵が堵列(とれつ)して、長官の護衛に当つてをります。接待館の前には、たしかにヨーロツパで鋳造した、小さな黄銅の大砲が二門すゑてあつて、その側(そば)に、普通の兵とは全然ちがつた、異様な服装をした、一群(むれ)の番兵が附いてをりました。ペリーたちは随員と一しよに、ずんずん館内に導かれました。入口の間は七間四方ぐらゐの、天幕(テント)のやうなこしらへで、葵の紋を染めぬいた幕が三方に引きまはしてありました。大急ぎで建てた印に、柱や梁(うつばり)には、いろ/\の符牒(ふてう)の焼印なぞがそのまゝ喰(く)つついてをりました。
その次の間が、国書受けわたしの儀式の行はれる接待室です。そこは床の一段高い三間四方くらゐの広さの部屋で、畳じきの上に赤い毛氈(もうせん)がしきつめてあり、まはりには、白く葵の紋を抜いた紫色の幕が、入口のところだけ空けて、ぐるりと張りわたされて、そのまへに金の屏風(びやうぶ)が立て並べてありました。
長官が随行員たちと一しよに、その接待の間へ這入りますと、左側に腰をかけてゐた三人の役人が立ち上つて低く辞儀をしました。長官と随行の士官とは、右側の椅子へ順々に着席しました。左側の上席には、長官と向ひ合つて、首席委員の戸田伊豆守と、次席の伊藤石見守(いとういはみのかみ)とが坐(すは)りました。伊豆守は怖(おそ)らく五十前後でせう。容貌(ようばう)のすぐれてきれいな、愛矯(あいけう)のある人物でしたが、石見守の方は、年も十か十五も上らしく、汚ならしい皺(しわ)だらけの老顔です。どちらも金や銀の糸で縫ひとりをした、非常に立派な錦襴(きんらん)や繻子(しゆす)の装束をつけてをります。二人は長官が這入つて来たときと、後に退出するときとに立ち上つて辞儀をした以外には、まるで銅像の如くに、きちんと姿正しく坐つたまゝ、最後まで身動き一つしませんし、口をも一と口だつて聞きませんでした。
長官と彼等との中間には朱塗(しゆぬり)の大きな函がすゑてあります。香山栄左衛門と通訳二人とは、長官たちが席につくと同時に、その函の前に跪坐(きざ)しました。
しばらくの間、ペリー以下も日本人側も、すべて一語も発しないで、しいんとおし黙つて坐つてゐましたが、やがて一等通訳の堀がペリー側の和蘭語の通訳ボートマンに向つてはじめて口を切り、われわれの委員には、すでに国書を受取る準備が出来てゐます、おわたし下さる用意は出来てをりますかと聞いた後、上坐(じようざ)の中央に備へられた例の朱塗の函を指(ゆびさ)して、あれが貴国の国書をお受けするための函です。あの上へおのせ下さるやうにと言ひました。
長官はそれを聞くと、下坐(しもざ)に控へてゐた二人の給仕たちに向つてうなづきました。給仕たちは、すぐに函を捧(ささ)げて進み出ました。ペリーの両側について来た、例の黒奴(くろんぼ)は、その函を受け取つて蓋(ふた)を開き中の文書を取り出して、それをひろげて文面や印章がすつかり見えるやうにした上、日本側で用意した朱塗の大函の蓋の上におきました。
次にボートマンは、堀に向つてその国書と信任状との性質を説朗しました。その間香山と堀とは跪(ひざまづ)いたまゝ頭(かしら)を下げてをりました。説明がすむと香山は石見守の前に近づいて跪き、石見守から巻いた手紙やうのものを受け取つて、それをペリーのところへ持つて来てやはり跪いて渡しました。通訳のボートマンが、これは何のための手紙かと聞きますと、国書の受取書だと堀は答へました。その大体の文意は「亜米利加(アメリカ)合衆国大統領閣下の書翰(しよかん)と、それに添へられた書面とを、確かに受取りました。早速皇帝陛下へ奉呈の手続きをします。元来浦賀は外国との交渉事件を取扱ふ場所でないので、規定のとほり、長崎(ながさき)へ行かれるやうにと、幾度も諭達したのであるけれども、使節は、国書が浦賀で受取られない場合には、使節としての使命を辱め、大統領に対して責任が果せないとのことなので、今回だけは、その苦衷を察し、敢(あへ)て国法を枉(ま)げて以上の書面を当地で受取る次第である。こゝでは、これ以上に何等(なんら)の協議も饗応をもすることは出来ない。国書をわたされた上は、すぐに艦隊を率ゐて退去されることを希望します。」と、かういふ意味のものでした。
ペリーはしばらく沈黙した後、ボートマンに命じて、われ/\は二三日のうちに日本を出発して、琉球(りうきう)から広東(カントン)へ航海し、来年四五月ごろ、再びこちらへ来るつもりであると告げさせました。堀はボートマンに、もう一度言つてくれと言ひます。ボートマンは、再び前のとほりをくりかへして答へました。すると堀は、この次も四艘の軍艦で来るのですかと聞きました。ペリーは、それに対して、今度つれて来たのは艦隊の一部に過ぎません。来年はずつと多数の軍艦を揃へて出て来ます、と答へさせました。
香山と堀とは辞儀をして立ち上り、国書以下の文書を朱塗の函に入れて紐(ひも)を結びました。そして、ペリーに向つて、「これですつかりすみました。」と挨拶をし、ペリーたちと、日本委員たちとに対して、代る/゛\辞儀をして部屋を出て行きました。
一三
問題の国書受渡しも、前述のやうなわけで、僅々(きんきん)三十分足らずのうちに儀式正しく、円満に取りはこばれました。奉行の香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)と、通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)が頭(かしら)を下げて接待室から引き下りますと、ペリー以下も同時に席を立ちました。応接委員の戸田伊豆守(とだいづみのかみ)、伊藤石見守(いとういはみのかみ)も、それと一しよに立ち上つて、ペリーたちの一行が部屋を出るまで、相変らず、むつつり押し黙つたまゝ、棒立ちに突つ立つて見送りました。
ペリー以下は接待館の入口に彳(たたず)んで、迎へのボウトが来るのを待つてゐました。さうすると香山と通訳が出て来て、ペリーの随員に、何を待つてゐるのかと聞きました。随員はこれ/\でボウトを待つてゐるのだと答へました。話はそれだけで終り、間もなくボウトが来たので、ペリー以下はそれに乗り組みました。
すべてのボウトは、来がけのときと同じに列を造り、今度は軍楽隊に国歌を吹奏させながら、堂々と引き上げてかへりました。香山と与力の中島(なかじま)三郎助(らうすけ)とは、それ/゛\通訳をつれて二艘(さう)の船に分乗して送つて来ました。
ボウトが帰り着きますと、香山、中島以下は、ブツカナン艦長とコンテイ副官とに迎へられて船室に上つて来ました。栄左衛門は、
「すべてが滞りなくすみまして非常に喜ばしい次第です。」と、にこ/\して挨拶(あいさつ)しました。ブツカナンは、それに対して、
「われ/\はこれ機会として、日本と合衆国とが永久の友邦となることを切望します。」と答へました。なほ、二人の間には次のやうな対話が換(か)はされました。
「それでいつ御出発になります。」
「二三日のうちに出帆します。長官はこれまでの碇泊地(ていはくち)が不十分なので、江戸(えど)湾の中に碇泊所を探しに出かけるつもりでゐます。」
「出帆までに他(ほか)のところへお移りになるのですか。」
「出発の用意が出来るまで、たゞ二三日の間、江戸湾の一地点に碇泊するだけです。」
「それでは、これを公然のお分れといたしませう。さうすれば再びお邪魔に伺はないですみますから。」
「いづれ又(また)、数箇月後には再びお目にかゝりませう。長官は、今回は皇帝へ献上するものを何も持つてまゐりませんでしたが、この次にはいろ/\の贈り物を持つてまゐります。蒸汽機関車、つまり鉄道用の機関車もその一つとして奉呈するつもりです。」
コンテイ副官はそのあとへ附(つ)け足して、
「それから、浦賀から江戸まで通じるやうな、長い電信機をも献上します。それを使へば江戸と浦賀(うらが)とで、一分間のうちに話しが通じます。」と、言ひました。
栄左衛門「蒸汽機関車は一時間にどのくらゐ走りますか。」
コンテイ「蒸汽だけの力で日本の八里ぐらゐ走ります。合衆国では、一時間十八哩(マイル)走る快速な河蒸汽船もあります。」
栄左衛門「蒸汽船は最初どこで発明されたのですか。」
コンテイ「フアルトンといふ亜米利加(アメリカ)人が、紐育(ニユーヨーク)で発明したのです。」
話はそれですみました。次でブツカナンたちは、香山等(ら)に、ついでだから機関の運転を見て行つてはどうかとさそひました。彼等は喜んでそのまゝ艦上にとゞまりました。ブツカナンは、香山たちの乗つて来た二艘(さう)の船を綱で艦の後部につながせ、早速錨(いかり)を上げさせて、もとの碇泊地に向つて引き帰しました。
一四
栄左衛門(えいざゑもん)たちは、それと同時に機関室に案内されました。
一たい日本の役人たちは、どんな珍らしいものを見ても冷然とかまへてゐるのが常ですが、香山(かやま)たちは運転してゐる機関の各部を興味深さうに詳細に視察して、蒸汽といふものゞ性質と、それによつて機械が動き、車輪が廻転(くわいてん)するまでの理屈をやすやすと会得したらしく、代る/゛\いろ/\穿(うが)つた質問を発しました。
彼等(ら)はつゞいて、艦内を残らず見て廻(まは)りました。そのうちに、香山は、士官が腰につけてゐるピストルに目をつけて、その組立てを見たいから解体して見せてくれと言ひました。一人の士官は、それに応じて構造を見せた後、ためしに海上に向つて発射して見せました。香山等は、六発の弾が、つゞけさまに自動的に飛び出したのにはびつくりしたやうでした。
すべての見学中、香山はどちらかといへば、寧(むし)ろ控へ目にしてついて廻りましたが、中島(なかじま)三郎助(らうすけ)は非常にあつかましい出しやばりもので、絶えず騒々しく振るまひ、うるさく物を聞きほじる上に、案内もされないところへづか/\首を突込んで見たりして全(まる)で探偵(たんてい)をでも働くやうな、下等な態度を見せました。
間もなく汽笛がけたゝましく鳴り響きました。艦が浦賀(うらが)にかへりついた信号です。香山たちは、もつとゆつくり見て廻りたいところを、あまりに早く着いたので、びつくりもし、残念がつて、そは/\と下りて行きました。
一五
彼等(ら)が去つたあとで、ペリー以下すべての乗組員は、いづれも、日本委員との会見が平和に片づいたことを、衷心から祝し合ひました。こんなことは文明国相互の間では何でもないことですが、今度の交渉は相手が永らく閉鎖主義を押しとほして来た国なのですから、艦員一同が得意がつたのも無理もないことです。
今日の国書に対する受領書の中には、「敢(あへ)て国憲を枉げて」といふ、注意すべき言葉が挟(はさ)まれてゐました。これはあきらかに、日本がこれまでの対外的態度の誤りを悟つて、今後は一さい下らない偏見を捨て、世界中の国民と平和に修交する、最初の発程を告げてゐるものと見て十分です。永い間頑迷(ぐわんめい)だつた日本人を、それ程の動程まで導き出したことは、世界的にわれ/\が荷(にな)ふべき、大きな誇りでなければならない、と、上下(じやうか)のものが、等しく歓喜しました。
併(しか)し、日本人がアメリカ人以下すべての外人に対して、文明的国民らしい完全な交際を開き得るまでには、なほ多少の時日とさま/゛\の刺戟(しげき)とが必要でさう直ぐにやす/\と解放されさうにも思はれません。それは、戸田(とだ)が、国書をわたしたらばすぐに帰帆せよと迫つてゐたのでも解ります。但(ただ)し戸田のさういふ要求なぞはペリーは固(もと)より眼中においてはゐませんでした。たま/\、こちらの都合で、両三日中には出発するわけですが、それは絶対に伊豆の強迫に屈従した結果なのではないことを、はつきりと見せつけておく必要から、ペリーは、香山(かやま)等が立ち去ると間もなく、すぐに全艦隊に出動を命じ、サクスハナと、ミツシツピイとで、それ/゛\、プリマスとサラトガの両帆前船を引いて浦賀(うらが)を去り、わざとどんどん江戸(えど)湾に這入(はひ)つて、かねてベトン大尉が測量しておいた、浦賀から十哩(マイル)、海岸から一哩ばかりの海上に停泊地(ていはくち)を移しました。
これは同時に、傲慢不遜(ごうまんふそん)な江戸政府に対する威圧にも役立ち、従つて今回の大統領の親書に向つて、慎重な考慮を払はせる点に怖(おそ)らく少なからぬ利益があるからでした。ペリーはその場所をアメリカ碇泊地と命名しました。
対岸には、一哩(マイル)ばかりの間、赤旗をたてた警護船がづらりと列(なら)んでをり、砲台には木綿の幕が引きまはしてありました。
これは、最初だれも、砲台のないところへ、さもあるらしく見せかけるための手段か、それとも虚勢を加へるつもりの子供らしい計略か、又(また)は、戦闘の意志を告げる印かなぞと、いろ/\に考へてゐましたが、後になつて、それはやはり旗や幟(のぼり)と同じやうに、たゞ軍隊の標(しるし)に過ぎないといふことが分りました。
警護船の或(ある)ものは、艦隊が来たのを見ると少しづゝ動き出して、海岸を往(い)つたり来たりし出しました。併し別に抵抗して来るやうな気色もありません。碇泊地点の水深は、たつぷり十三尋(ひろ)もありました。ペリーたちはそこへ錨(いかり)を下してしまふと、これでさしあたり予定の行動の一段落を感じました。
一六
ペリーが戸田伊豆守(とだいづのかみ)に交附した、アメリカ大統領の親書、信任状、及びペリー自身から皇帝に捧(ささ)げる書翰(しよかん)、以上三つの文書の内容は、だいたい、次のやうな意味のものでした。
(一)大統領の親書
日本皇帝陛下。予は予の部下の代将官(コムモドア)、マツシユー・シイ・ペリーを特派使節に任じ、この書を陛下に奉呈します。ペリーは今回日本に到着する艦隊の司令長官で、予が代表する合衆国の最高将校の一人です。予は彼を通じて、陛下と陛下の政府に対する予の懇切なる友情を陛下にお伝へします。今回、彼等(ら)を貴国に派遣した所以(ゆゑん)は、予の合衆国と陛下の日本とが永久に好誼(かうぎ)を交換し、互(たがひ)に交通貿易を開くことを熱望するためで、それ以外に何等の意味もないことは、もとより言ふまでもありません。合衆国の憲法及法律は、人民に対して、他国の宗教と政治とに妨害を加へることを固く禁止してをります。予は今ペリーを派遣するに際しても、貴国の平和と安寧とのために、特にこの点に十分の注意を捧(ささ)げるやうに、懇々訓令しておきました。
合衆国は大西詳と太平洋との中間に位置する共和国で、オレゴン、カリフオーニアの二州は丁度貴国の対岸に当つてをります。蒸汽船によればカリフオーニアを発して僅々(きんきん)十八日で貴国の港湾に着くことが出来ます。
このカリフオーニアの大州は、年々おほよそ六千弗(ドル)の金と、以下、銀、水銀、宝石若干とその他多くの産物を上げてゐます。日本も同じく肥沃(ひよく)な国で、種々の貴重な物品を豊富に産出すると同時に、貴国人もわれ/\の人民と同じくいろ/\の技術に長じてゐます。予はこの二つの国が、互に、特有の産出品を交易して、おの/\同等の利便を得るなれば、相互にとり、多大の幸福であると信じます。予は、貴国が従来支那(しな)人、和蘭(オランダ)人を除く外、他の外国人とは全然交易を禁じてゐられることは固(もと)より承知してをります。併(しか)しながら、今は世界中いづれの国もことごとく、あらゆる他の国民と自由に交通貿易を行ひ、相互の利益を増大することに努力してをります。この世界的進歩に伴つて、貴国も在来の制度と習慣とを改革されるのが賢明な処置であらうと思ひます。貴国が現在の制度を設けられたのは、最早(もはや)、年代としてかなり以前のことで、爾来(じらい)世界の形勢は全々変りつくしてしまひました。その間には欧羅巴(ヨーロツパ)人はわがアメリカの大陸を発見して、続々移住し来り、世界の交通もそのために、非常な勢(いきほひ)で開けて来ました。陛下が断然旧制を捨てられ、われ/\アメリカ人と交易を開かれることになれば、貴国に取つても非常な利益と幸福であり得ることは何人も疑ひ得ないことゝ思ひます。
併し、もし陛下が、陛下の法制を一度に改革されることに不安を感ぜらるゝとせば、仮りに五年、又(また)は十年と年限を定めて交易を試みられ、それによつて利害を研究された後、果して貴国に不利であると見られたならば、再び旧制度に回復されても遅くはないと思ひます。合衆国も他国と条約を結ぶに際してはそれ/゛\或(ある)期限を劃し、その契約が相互の便利であると認めた後は、又再ぴ幾年間と限つて継続するといふ方法を執り来つてをります。
予は次に、左の二点について陛下に熱望します。
第一は、合衆国の多数の船舶は、毎年、幾回となく支那へ往復します。又、捕鯨船の或ものはしば/\日本の海岸近くまで出猟します、以上のいづれの船も、とき/゛\颶風(ぐふう)に出会つて貴国の近海で破船することがあります。予は陛下に対して、もし今後われ/\の船がかゝる不幸を見た際には、本国から迎への船を送るまでの間、貴政府において、それ等の避難民の生命と貨財とを保護して下さることを懇請します。
第二には、われ/\の使用してゐる蒸汽船は、大洋を遠航するに際して、常に多量の石炭を消費します。又、食料に窮する場合もあります。幸ひ貴国は石炭の多くと、種々の食料品とを十分に産出してをります。予は陛下に向ひ、われ/\の船舶が航行の途中、以上のごとき場合には、日本の一定の港湾に這入(はひ)つて、石炭と食料と飲料水を積み入れることをお許し下さるやう、切望して止(や)みません、その代償は、金銭を持つてするか、又は、貴国に入用の物品をもつてするとも、それは御任意でよいと思ひます。以上の目的のために貴国の南部地方にわれ/\の船舶の出入し得る一湾港を選定して下されば非常に仕合せです。
予は最後に、ペリーを通じてアメリカの製産品若干を陛下に奉呈します。固より軽少なものですが、併しいづれも合衆国の製品の標本として見られても差支(さしつか)へないものです。これが予の陛下に対する敬愛の印として役立ち得れば満足です。終りに皇天の恵みの永久に陛下の上に普遍なることを祝福いたします。
千八百五十二年十一月十三日、ワシントンに於(おい)て
北米合衆国大統領 ミラード・フイルモア親書
下命により 国務卿(きやう) イー・エベレツト親書
(二)使節全権委任書
日本皇帝陛下、予は合衆国海軍代将官(コムモドア)マツシユー・ペリーの誠実と才能と、注意の周密とを認定し、全権使節に任命しました。貴国の同等権威ある吏員一名又は数名と会見し、両国の和親、交易、相互の航海、及び、それ等についての両国民の利害に関するすべての約定を商議締結することを命じ、その条約書に親書することを許可しました。それ等の条約は合衆国議会の協賛を経て大統領が最後の認定を与へる筈(はず)です。以上の証明として合衆国の印章を捺印(なついん)します。
千八百五十二年(北米合衆国建国七十七年)
第十一月十三日。ワシントンにて
北米合衆国大統領 ミラード・フイルモア親書
下命により国務卿(きやう)イー・エベレツト親書
(三)最後のペリーの書翰は、
「日本皇帝陛下、小官は、東印度(ひがしインド)、支那、及(および)日本海に配備されてゐる合衆国海軍の総司令長官で、便宜に応じ、日本政府と協商する全権を与へられてゐるものです。」
かういふ書き出しで、殆(ほとんど)、大統領の書翰と同意味の言葉を長たらしく繰りかへしたものに過ぎません。
その中で、大統領の国書にない事項は、アメリカの漂流民に対する大統領の懇望に註解(ちゆうかい)して、
「アメリカ人は日本人に対して衷心から友愛を捧(ささ)げてゐるのに反して、日本人は、アメリカの人民を仇敵(きうてき)の如(ごと)くに取扱つてゐます。往年わが船舶、モリソン号、ラゴタ号、ローレンス号に対する日本政府の処置の如きはその最甚(もつともはなはだ)しいものです。アメリカ人は基督(キリスト)教諸国の習慣のとほり、自国の海岸に漂着した人々は、いづれの国の人民たると問はず、悉(ことごと)く一やうに慈愛を以(もつ)て保護してをります。日本人でわれ/\の海岸に流着したものでも、一々その例にもれず、十分の愛護と同情とを与へて来ました。」とかいてゐるのと、そのほかに、
「実は日本への訪問には、私の幕下の全艦船を率ゐて来るつもりでありましたが、数艘(すうさう)の大軍艦が加はりおくれたので、僅(わづ)かに小艦四艘を引きつれてまゐりました。明年は、数艘を増加して再び来訪いたします。」と附記した後、
「ついては、両国民の闘争を防ぐ必要上、われ/\の提出した希望に対し、正実と友愛とを以て応答して下さることを切望いたします。千八百五十三年七月七日、日本近海に於(おい)て、蒸汽船サクスハナ号にて。」
とこんな、一種の威嚇の言薬を附け加へてゐるだけの相違です。
一七
ペリーの艦隊が、浦賀(うらが)の港を出て、構はず江戸(えど)湾へ突入し、所謂(いはゆる)アメリカ碇泊地(ていはくち)と名づけたところへ投錨(とうべう)しますと、間もなく、例の香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)が通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)を引きつれて、あわてゝサクスハナ号へ漕(こ)ぎつけて来ました。二人とも、極度の愕(おどろ)きと怒りとでもつて、青くなつて上つて来ました。ブツカナン艦長は二人を穏やかに迎へ入れて使命を聞きとりました。通訳の堀は、
「どうしてこんなところへ投錨したのです。」と、するどく喰(く)つてかゝりました。ブツカナンは、つまりこゝならば、安全に碇泊が出来るからであると答へました。すると堀は、
「この近海はこれまですべての外国人が遠慮して一さい這入(はひ)つて来なかつたところです。もうこれ以上に進入することは全然許しません。長官は、まだ先まで乗り入れるつもりでお出(い)でなのですか。さうでなくば、こゝへはいつまで碇泊するおつもりです。」と問ひつめます。ブツカナンは、
「来年多数の軍艦を率ゐて来る場合に、浦賀では浪(なみ)も高く風も強くて、碇泊地としては非常に不適当なので、今後四日間ぐらゐ、この場所に碇泊して、十分とりしらべた上、この湾内に適当な碇泊地を見つけておくつもりなのです。」と答へました。堀は、長官は国書をわたした上はすぐに日本を退去すると約束されたのに、それを破つてこの湾へ入り込まれたのはどういふわけかと聞きます。
「すぐに日本を退去せよといふのは貴政府の希望に留(とど)り、われ/\はわれ/\の任意に行動するのである。これ以上にまだ/\もつと深く這入つて行くつもりである。」と、ブツカナンは明らさまに宣言しました。すると堀は、
「この湾内一帯の人民は、外国船が近海に来たと聞いただけでも、すでに怖(おそ)ろしく感情をたかぶらせてをります。もし貴下たちの測量船が、うつかり陸地にでも近附(ちかづ)くと、お互(たがひ)にどんな間違(まちがひ)を引きおこさないとも限りません。この点からもよく御考慮をねがひたい。」と説き出しました。
「そんな心配は絶対にありません。第一ボウトは海岸へは近づけないし、且(か)つ根本に、日本人が先に手出しをしない以上は、われ/\は決して平和な行動を破るやうなことはしません。」とブツカナンは本当のとほりを断言しました。
ところが香山は又(また)話をあとにもどして、うるさく艦隊の退去を要求しました。そして最後に附(つ)け加へて、日本政府はアメリカに対して十分の好意を持つてゐること、従つて今回の国書についても丁重に審議するはずであると語り、なほ、この次に来航されるときには、浦賀を協商地に決定する筈(はづ)だから、その際には浦賀より先へは必ず這入らないやうにしてくれとたのみました。ブツカナンは、
「われ/\は最初から、貴国に好誼(かうぎ)を捧(ささ)げるため出て来たのです。さういふわれ/\に対して、日本政府が、安全な碇泊地をすら与へないといふのはいかにも不合理ではないでせうか。われ/\の間ではすべての外国人に対して能(あた)ふ限りの便宜を与へるのが習慣です。仮りに日本人が来るとしても、われ/\は同じくどの港湾にでも自由に出入を許し、土地をも開放して、全然任意の使用に供へるのです。」と言ひかへしました。すると香山は返答に詰つたものか、それとも、もうこれ以上に退去を強ひるのも非礼だと気づいたのか、ともかくそれきりで何も言はずに黙りこんでしまひました。
ブツカナンも、それを機会に話を打切つて、二人に手軽な饗応(きやうおう)をしました。二人とも大層喜んで、前に並べられたものを非常な食慾(しよくよく)をもつてどん/\食べ、ウヰスキーをもぐい/\傾けました。さうしてゐるうちに、日本船が又一艘(さう)出て来ました。ブツカナンは、それに乗つて来た役人をもよび入れて、香山たちと一しよにもてなしたので、席上はすつかりにぎやかになりました。並べられたビスケツトやハムや、そのほかいろ/\の皿(さら)は見る/\うちに減つてしまひました。中でも通訳の堀は一ばんの上機嫌で、この愉快な酒宴(さかもり)を記念するために、何かもらつて行きたいと言ひ出し、食べあましたパンや、ハムの片(きれ)を大きな袖(そで)の中へどん/\入れこみました。そして最後に又ウヰスキーをがぶ/\飲んだ後、非常に満足した顔をして、みんなと一しよに丁寧に別れを告げ、日ぐれの海上をかへつて行きました。
翌十五日(嘉永(かえい)六年六月十日)には、ペリーは、早朝から三艘の測量隊を出して、湾の内部をくはしく測量させました。それ等(ら)のボウトが或(ある)砲台の前面を廻(まは)りますと、その内側は入江になつてゐて、一筋の川が、美しい田野の中をうね/\とくゞつて流れ込んでゐました。川の両岸には、土民の部落がところ/゛\に固つてゐます。展開された田畑が非常によく耕作されてゐるのにはみんな愕(おどろ)きました。
士官はその川の中ヘボウトを漕ぎ入れさせて見ました。すると土地の人民は、異国人を珍らしがつて、ぞろ/\と岸一ぱいに群がつて来ました。その中の或ものは、にこ/\しながら飲み水や、旨(うま)さうに熟した桃なぞを持つて来て歓迎しました。
近くには警護船が二三艘碇泊してゐました。その船に乗込んでゐる役人たちは、アメリカ人が来たのを喜んで、水兵と煙草(たばこ)を吸ひ附合ひなどして親密さうににこ/\しました。士官の一人は、それ等の役人の好誼に対するお礼の意味で、ピストルを出して射(う)つて見せました。彼等はひどくびつくりしましたが、喜んだことも又非常でした。
こんなにして打ちとけて接触して見ますと、日本人は、たゞの土民でも応対が至極丁寧ですつかり社交的です。
さうかうしてゐるうちに、ふと五六人の役人が川岸(かし)にあらはれて、土民たちを手真似(てまね)で追ひ払ひました。群衆は、全(まる)で、子供が悪いことでもして逃げて行くやうに、ばら/\とみんな消え去つてしまひました。
ボウト隊は帰艦して、以上のすべてを、上官に報告しました。それを聞いた上官たちは、それ等の日本人の好意的な態度を喜びました。派遣員たちは、いづれも、日本の景色の美しいことを賞(ほ)め合つて、全く、見る目もうつとりするやうだと口々に話しました。
この日の午後、ペリーは、長官旗をミツシツピイに移し、それに坐乗(ざじよう)して、十哩(マイル)ばかり湾内へ這入つて行きました。すると、江戸の港がはつきりと見え品川(しながは)らしい町も見えましたが、江戸の市街は岬(みさき)にかくれて見えませんでした。艦が進行を止(とど)めた地点から三四哩さきには、又別の岬が突き出てゐて、その上に燈明台かと思はれるやうな塔が立つてをりました。この塔のあるところから、なほ三四哩さきが江戸の港になつてゐるのです。長官は、結局、江戸の首府から十哩以内のところまで乗り入れたわけでした。
計錘を下させて見ますと、水尋はそこでもなほ二十五尋(ひろ)もあるので、もつと進入しても差支(さしつか)へないのでしたが、長官は、江戸の市民や役人たちに、これ以上に恐怖を与へて、余計な反感を買つてもつまらないと考へて、そのまゝ、引きかへして来ました。
そのとき近くの砲台には、かなり多くの兵隊が駐屯(ちゆうとん)してゐるのが見えました。
併(しか)し彼等は寸分も抵抗する意志を持たず、たゞ、珍らしい蒸汽船を見物するのだといはないばかりに秩序なくのんきさうに固つて、艦の行動を見てゐるのです。警護船は艦に対する見はりのためらしく、ちよい/\岸をはなれて漕ぎ廻(まは)つたりしました。併し遂(つひ)に艦に向つては一艘も近づいては来ませんでした。
ペリーのこの往復の留守の間に、碇泊地では、香山栄左衛門と通訳とが、贈物をもつてサクスハナへ来ました。けれども艦隊では、長官の留守中には、日本人は何人(なんびと)でも、上艦させてはならないと禁令されてゐたので、当番の士官は、香山たちにその旨(むね)を通じ、贈物も長官に無断で受けとることは出来ない、と言つて拒絶しました。
香山たちは、それでは、長官がかへられるまで待つてゐると、一旦(たん)はさういひましたが、間もなく考へ直して、又出て来るからと言つて引きかへして行きました。
なほこの日には、指定された十二艘のボウト隊が、終日、碇泊地附近の西海岸を精密に測量しました。
一八
千八百五十三年の七月十五日(嘉永(かえい)六年六月十日)に、ペリーは、全艦隊を構はず江戸(えど)湾に乗り入れて所謂(いはゆる)アメリカ碇泊地(ていはくち)と名づけた地点に投錨(とうべう)しましたが、翌十六日の朝になると、再び全艦隊を五哩(マイル)ばかり下方の、浦賀(うらが)からも丁度(ちやうど)五哩ばかり隔つた或(ある)小湾に移して、陸地より一哩ばかりの距離をとつて碇泊させました。ペリーはその湾をサクスハナ湾と命名しました。
そのときサクスハナが、まだ錨(いかり)を下すか下さないうちに、香山栄左衛門(かやまえいざゑもん)が、堀(ほり)と、他(ほか)にもう一人の通訳をつれて出かけて来ました。彼等(ら)は一とかゝへの贈物を携(たづさ)へて上つて来て、一昨日提出された国書が、滞りなく江戸政府に届けられたと報告しました。併(しか)しその返書については、長崎へ廻(まは)すとも何とも言ひません。これは或(あるひ)は、昨日ミツシツピイが江戸の近くまで押しよせたのが効果を奏し、政府が怖れを抱いて、長崎へ廻すことを遠慮したのではないかと思はれました。
香山たちは、絹布、うちは、漆塗(うるしぬり)の茶碗(ちやわん)、煙草等(たばことう)の贈物を並べて、どうぞ受け納めてくれと言ひます。いづれもたいした値打のものではありませんが、ともかく日本の製品の見本として、アメリカ人には珍しいものばかりで、日本人のすぐれた技術をも十分証拠立て得る品物でした。併しブツカナンたちは、長官の命をうけて、香山がそれと引きかへに長官からの贈物を受け取るならば貰(もら)つてもよいと答へました。
ところが栄左衛門は、日本の国法上、外国から贈物を受けることは固く禁じられてゐるので、折角ながら、それは困ると言ひ張ります。ブツカナンはそれに対して、われ/\の法令では贈物は相互に交換するやうに規定されてるるので、単に貴君(あなた)の方からのみ貰ひ受けるわけには行かないと反駁(はんばく)しました。すると香山もしまひには、それでは武器以外の品物ならばお受けすると、折れて出ました。
それでブツカナンは更に長官の命令を仰いで、日本人がさし出した品物よりも遥(はる)かに値段の高い五六の品物を取り出させました。栄左衛門は、それを見て、これはいづれもあまりに結構すぎる、且(か)つ、私(わたし)と通訳とが、体にかくせるやうなものでなくては持つて帰ることは出来ないと言ひました。ブツカナンは、それはいけない、われ/\の贈物が公式に受けとられるのでない限りは、あなたの贈物もおことわりする外はないと言ひました。そんなわけで、結局香山たちは、こちらが与へた品物を悉(ことごと)く受け納めてかへりました。
それから午後になると栄左衛門は再び通訳をつれて、僅(わづか)に鶏卵五函(はこ)と鶏百五十羽を籠(かご)に入れて持つて来ました。彼等はいづれもはれ/゛\と気嫌(きげん)のよい顔をしてゐました。それは多分今朝、長官からの贈物を受取つて帰つても、別段咎(とが)めもうけないで済んだからに相違ありません。長官は、鶏をもらつたかへしに、栄左衛門と通訳との細君へ、それ/゛\贈りものをし、ほかに、栄左衛門には、アメリカ産のいろ/\の草や木の種子(たね)と、カステラ、ビスケツト、牛肉、洋酒なぞを贈りました。香山や堀たちは、そのあとで愉快さうに艦内を歩きまはり、さも名ごりをしさうな容子を見せました。ブツカナンは彼等のために簡単な御馳走(ごちそう)を出させました。
三人は大喜びで、打ちくつろいで、シヤンペンを飲みました。そして、おの/\少しづつ酔が廻るにつれて、なほ一層打ちとけて快活に談笑しました。香山がアメリカ人に対して非常な好意を持つてゐることは、そのときにも、あり/\と言葉や容子に現はれました。彼は、これで当分あなた方とお別れするのかと思ふと本当に涙が出ますとさへ言ひました。それは上部(うはべ)の辞令ではなく、衷心からアメリカ人を慕つて言つた言葉でした。
通訳の堀は、香山よりも酒量がつよい上に、すべてに控へ目な紳士でしたが、それでも内心では一寸(ちつと)も気をおかないらしく愉快さうに話しをしました。彼はさゝやくやうな低い調子で、大統領の国書は必ず満足な回答を得るにちがひないといふことや、栄左衛門が、現職から、もつと上の官位に昇進するといふことなぞも漏らしました。
併し彼等は、外交上のことにかけては極めて鋭敏で、そんな宴席でも、彼等の職分を決して忘れはしませんでした。例へばブツカナン大佐が、艦隊は、いよ/\明日江戸湾を出発する予定であると話しますと、堀は突然、シヤンペンの盃(さかづき)を下において、酒席以外のときのやうに真直目(まじめ)になり、今言はれたことを覚え書にしてくれと要求しました。併し大佐は冷やかに手をふつて断りました。
やがて彼等はいよ/\かへり支度をしました。彼等は、それまでしば/\艦隊から受けた好遇に対して、言葉をつくして礼を述べ、あなたがたとお別れするのが本当に名残りをしいと言ひながら、士官たちと熱心に握手を交しました。それから甲板に並んでゐた兵員たちにも一々微笑(ほほゑ)みながらお辞儀をして小船(こぶね)へ下りて行きました。
甲板から見送つてゐますと、香山は船の茣蓙(ござ)の上に坐(すわ)るとすぐに、細君への贈物の函を開かせて、真先(まつさき)にあらはれた洋酒の壜(びん)を取り出させ、もどかしさうに口を抜いて、艦上の士官たちの方をふり向いて飲みました。それは、怖(おそ)らく、彼が最後の別れを惜んで士官たちのために杯を上げたのに相違ありません。たゞそれだけの動作の中(うち)にも、彼の誠実は十分に受けとられました。間もなく小船は、だん/\に浦賀の出鼻を廻つてしまひ、感じのよい香山の姿も、博識な、才能のある堀の姿も、すつかり見えなくなつてしまひました。
こんなわけで、艦隊が浦賀をはなれてかも香山はすべてゞ前後数回訪づれて来ました。彼は、上記のやうに、ブツカナンが出帆の日取りを打ちあけるまでは、出て来るたびに、艦隊はいつまで江戸湾に滞在するかといふことを、頻(しき)りに聞きたづねました。そして、そのたびに、日本では、外交上の事柄を決定するのには非常な手間がかゝる、これは日本の政府の従来からの慣例であると言つて、くりかへし注意して行きました。
ペリーが明日、いよ/\日本を立つことに決心したのは、香山のそれ等の言葉から推定して、回答を得るまで空(むな)しく待つてゐることが無駄(むだ)であると考へたのも一つの理由でした。実際から言つても、大統領が国書中に提議した事項は、日本に取つては非常に重大な問題で、彼等がそれを承認しようとするためには、これまでの法令を根本から覆さなければならない訳なので、審議上、相当の時日がかゝるのも当然です。
併し、ペリーが引上げて行く、もつと重大な理由は、艦隊の糧食と、炭水との欠乏でした。艦隊にはこの先、一箇月ぐらゐ支へ得るだけの準備しかしてありません。もし日本政府がすべての大名を集めて討議するのを待つたりする間に、ずる/\日数がたつて、遂(つひ)に回答も得ないうちに、いやでも応でも出帆しなければならないことになると、結局は日本側から附(つ)け入れられることになり、折角の使命を果す上に多大の障害を持ち来たすわけになります。ペリーは第一に、その点を怖れたのでした。
それに加へて、日本の回答は、やはり来年改めて受け取りに来た方が好都合な、もう一つの事情がありました。
それは、たま/\支那には今大きな内乱が起つてゐて、在留のアメリカ人の生命財産にも或危険が感じられるので、それ等の保護のために、ぜひ軍艦を急派する必要がありました。
併しその目的で到着すべき筈(はず)の軍艦が中々本国から来ないのです。ペリーはもし日本の返書を得るまで滞在するとしたならば、艦隊の威力を保持する必要から、四艘の船のうちを割(さ)いて支那に送ることはとても出来ません。
又(また)、次には、日本政府から、国書に対する返答を得た際に、皇帝に奉呈する贈物を、ベルモントといふ船が持つて来る筈になつてゐるのですが、その船がまだ来ないので、この点からは今すぐ返書をもらつても却(かへ)つて困るくらゐです。
以上のやうないろ/\の事情で、ペリーは翌十七日の朝、一応日本を退去することに決定したのでした。それで、十六日中に浦賀の役所へ公式に書面を送り、出立の日取りと、明年再び来訪する旨(むね)を通告しておきました。来年改めて多数の軍艦と共に糧食船や石炭船をも引きつれて来て、何等(なんら)の不安もなしに悠々(いういう)と滞在する方がどれだけ得策だか分りませんでした。
十七日の朝はすが/\と晴れたいゝ天気でした。ペリーは、通告どほり、この日の午前にサクスハナにサラトガを引かせ、ミツシツピイにはプリマスを引かせて琉球(りうきう)に向つて抜錨(ばつべう)しました。
一九
七月十七日の朝はすが/\と晴れたいゝ天気でした。ペリーは浦賀(うらが)奉行に通告しておいたとほり、この日の午前に、全艦隊を率ゐて上海(シヤンハイ)に向つて出発しました。
来年再び来るのは来るのですが、ともかくこゝで一たん日本の領海から撤退するといふことは、日本人に取つては怖らく当面多少の安神になり得たばかりでなく、四艘(さう)の艦隊そのものが、すさまじく浪(なみ)を衝(つ)いて発程する光景それ自身も彼等(ら)には珍らしく愉快だつたに相違ありません。浦賀の岬(みさき)なぞでは、兵隊たちがどん/\と砲台から駆け出して、ぎつしり立ち集つて見てをります。中には丘の上まで走り上(あが)るものもあり、艦隊がだん/\と沖合に遠ざかると争つて船で漕ぎ出してまで見物しました。見る/\うちに何百艘といふ船が海上を掩(おほ)うて動いてゐたやうな有様です。艦隊は間もなく、富士の高い峰を後にして、すつかり大洋の真中(まんなか)へ出てしまひました。
ペリーたちは、つまり七月八日に浦賀に投錨(とうべう)してから今日までの十日間に、日本政府から、彼等がこれまで、いかなる外国人にも与へたことのない多くの獲得をしたわけでした。その第一は、日本の警護船を艦隊の周囲から全然撤去させたこと、第二は、長崎(ながさき)以外の地点に於(おい)て国書を交附し得たこと、第三には、思ふまゝに江戸(えど)湾の測量を仕遂げたこと、それから最後には、贈物の公式の交換です。ペリーたちは、それ等を、アメリカ人が成し遂げた第一歩の成功として少なからぬ誇りと満足とを感じました。
艦隊はかうして日本を離れると間もなく、急にはげしい暴風に襲はれました。蒸汽機関の艦もさんざん揉(も)みまくられて、虫が這(は)ふ程にしか進行が出来ません。ペリーは止(や)むなく、すべての船の一番頂上のマストを取り下ろさせ、大砲も強い太綱でしつかりと縛りつけさせて、心配しながら航海しましたが幸(さいはひ)に無事に暴風帯をくゞりぬけて、九日目の七月二十五日に琉球(りうきう)の那覇(なは)に着きました。
ペリーは到着早々、すぐに琉球の政府と商議を開く手はずを極(き)めました。彼は日本でも比較的成功したので、琉球人からもそれに劣らず、種々の利権を取りをさめ得る確信を持つてゐました。併(しか)し、日本を訪問中、那覇に残しておいたサプライ号の士官の報告によると、琉球人はアメリカ人に対して相変らずいろ/\の隔意を持ち、上陸しても間諜(かんてふ)をつけ廻(まは)すことなぞも、これまでと一寸(ちつと)も変らないといふのです。ペリーは今度は上海へ行く途中を立ち寄つたので、ほんの少しの間しか滞在出来ないのですから、琉球の役人たちの例の姑息(こそく)な手管に引つかゝつて、ぐづ/\時間をつぶしたりすることは出来ません。それでペリーはすぐに士官を派遣して、代理王との会見を申込ませました。すると政府は早速こちらの希望を容(い)れて、二十八日に那覇で会合するといふ通告をよこしました。
併しペリーはそれより前に、予(あらかじ)めこちらの要件を伝へておく方が得策だと考へて、折りかへしアダムス参謀長にウヰリアムス通訳をつけて上陸させ、那覇の首席の役人へまで左記の要求を述べさせました。
その第一は、石炭の貯蔵庫として六百噸(トン)を入れ得るだけの適当な建物を借り入れたいといふことです。それは琉球政府の都合次第で、こちらで琉球人の大工を使つて琉球風に建築してもよいし、又(また)は政府が直接に監督して建てゝくれてもよい、何(いづ)れにしてもその建物に対して年々相当の家賃を支払ふ、その歩合は会見の際に取り極(き)める。第二は、間諜の問題です。今後もこれまでのやうにアメリカの士官の後(うしろ)に絶えず間諜をつけ纏(まと)はすやうであると、遂(つひ)にはお互(たがひ)に血を流すやうな不祥事が起らないとも限らない。それに対しては全部の責任を琉球政府が負はねばならないのは勿論(もちろん)である、あくまで好誼(かうぎ)と正義との下(もと)に終始するわれ/\に対して、敵人のごとくに間諜をつけるといふことは根本に貴政府の誤謬(ごびう)である。第三には、市場に於て物品の自由売買を許すこと、及び艦隊の需用品を購入する便宜を開いてもらふこと、第四には、那覇滞在中に病死したサクスハナの給仕のために石碑を建てゝ貰(もら)つたことについて答礼を述べ、その費用の支払ひをしたい。
以上のことをアダムスは支那(しな)語の通訳を通じて申し込みました。町の首席の役人はこれはすべて自分一箇(こ)の権限では何とも回答することが出来ないので通訳官から直接に代理王に上申してくれと言ひました。アダムスは、それに対して、貴官はたゞわれわれのこれらの要求を代理王に伝へておいて下さればよいのである。そして正式の会見の際には、代理王には以上のすべてを無条件で賛同される準備をして出席して下さるやうに話しておいて戴(いただ)きたい、と、かう言ひ渡しました。役人は、分りました御希望の通りに取計ひます。それから会見の時刻と会場とは後に確定したところを御報告しますと答へました。
翌朝ペリーの副官コンテイ大尉は那覇の官庁を訪問し、代理王との会見は明二十八日の午後二時、那覇の公館で行ふといふ回答を得てかへりました。公館といふのは、官庁の公用に使はれる建物のことださうであり、代理王は正午に首府の「首里(しゆり)」を出発する手筈(てはず)になつてゐるのだといふことです。
その日の午後一時半になりますと、尚某(しやうなにがし)といふ一人の王族が小船に乗つてサクスハナにやつて来て接待の準備ももうすつかり出来て、代理王もお出(い)でを待つてゐると伝へました。ペリーはそれで早速アダムス参謀長と、コンテイ副官、ミツシツピイ艦長のレエイ、プリマス艦長ケレイと、その他に十二名の将校を従へて上陸しました。
すると、一群(むれ)の琉球の役人が出迎へて会見所へ案内しました。その所謂(いはゆる)公館は、海岸からは一哩(マイル)ばかりのところにあり、首里へ通じてゐる大通りに向つてゐる、小さいながらも綺麗(きれい)な建物でした。ぐるりには土塀(どべい)があつて外からは窺(うかが)へないやうに出来てゐます。那覇の上役人は属僚を従へて入口に立つてゐました。代理王は、奥の間の入口まで進んで来て迎へ入れました。その部屋にはすでに饗応(きやうおう)の食卓が並べてありました。その様子は、前の代理王が首里でもてなした宴会のときと殆(ほとん)ど同じやうで、たゞ仕構へがあの時ほど大きくないだけの相違です。儀式もすべて前のときと同様で、ペリーとアダムスは一番上席のテイブルに招ぜられ代理王と那覇の首席役とは、互に向き合つて、その左側のテイブルに着席しました。
二〇
ペリーは、那覇(なは)へ帰り着くと同時に、琉球(りうきう)政府に向つて、海岸の適当な地点に石炭庫を建てゝくれること、爾後(じご)、米国の士官たちに間諜(かんてふ)をつけ廻(まは)すことを撤廃すること、それから、アメリカ人に市場で自由に物品を売買することを許してくれること、艦隊の需要の買入れについても便利を与へられたいといふ、数箇条の要求を提出し、その解決のために代理王と会見しました。
双方がそれ/゛\席に着きますと、まづ一番さきに茶が運ばれました。代理王は、
「貴官が無事に御帰港になるのをお待ち申してゐました。」と冒頭にお世辞めいた挨拶(あいさつ)をしました。琉球側の通訳官は板良敷(いたらしき)といふ人で、ウヰリアムス通訳と支那(しな)語で会話をするのです。ペリーはそれに応じて、
「われ/\はこれから一両日の中(うち)に、支那に向つて出発する予定である、二三箇月の後には又(また)帰つて来るつもりであるが、今日申入れたことは、ぜひ出発前に解決してもらはなければならない、われ/\の案は単純で且(か)つ正当な事柄にすぎないので、今この場で直ぐに同意して下さるのが当然である。」と切り出しました。すると、代理王は狡猾(かうくわつ)にも、それについてはぢき後程に返事をしますから、ともかく、まづ御馳走(ごちそう)を召し上つて下さいと逃げを張りました。ペリーは、それを遮(さへぎ)つて、
「饗応(きやうおう)を受ける受けないは全然余事である、それよりも第一ばんに要件から取り極(き)めたい。只今(ただいま)も申したとほり、至つて簡単な問題で、何等(なんら)の御考慮をも要しないはずである、われ/\は日本でも、非常に丁重な取扱(とりあつかひ)をうけ、政府とも公式に贈物を交換し国民たちとも親密な交際を開いて来たのである、それと同様に貴国人との間にも永久に好誼(かうぎ)を持続したいのが希望である。」と語り、なほ、ウヰリアムスに命じて、浦賀(うらが)で戸田伊豆守(とだいづみのかみ)、伊藤石見守(いとういはみのかみ)と会見したことや、江戸(えど)湾を自由に測量したことなぞを手短かに話して聞かせました。代理王は、それでは御帰艦までに必ず御返事をしますからといふので、ペリーもそのまゝ饗応を受けることになりました。
例によつて、吸物のやうな料理が後から後からと出ましたが、その七皿(さら)か八皿目かゞ出た時分に、一人の役人が一通の手紙を代理王の手もとへ届けに来ました。代理王はそれを受け取ると、那覇の首席の役人と、通訳と三人で席を立つて来て、謙譲な態度でその手紙をペリーにさし出しました。封筒には、大きな琉球の印章がおしてあります。ウヰリアムスはペリーの言ひつけに従つて、すぐに封を開きました。支那語で綴(つづ)つた非常に長たらしい手紙でしたが、つまるところ、その要点は、
「わが琉球はほんの微弱な小国で、これまでも、いかなる外国人とも、全然没交渉で通して来たのである。従つてわれ/\に取つては、外国人に上陸されることは非常な迷惑である。あの英国の宣教師ベトルハイム博士が、たゞ一人無理に居住してゐるだけでも、どれだけ困つてゐるのか分らない。それだのに、この上、貴国の石炭庫なぞを建てられては、なほ/\困却する。
第二には貴国士官の上陸ごとに間諜をつけると言はれるけれど、あれは決して間諜ではない。たゞ好意上上陸者のために案内をさせ、且(か)つ人民が妨害を加へないやうに警戒させるために任命した役人である。併(しか)し、廃(よ)せと言はれるなら今後は一さい随行させないことにする。
第三は、物品の売買のことであるが、もと/\琉球には産物と言つても茶、生糸、上布ぐらゐの生産にとゞまり、且つそれも殆(ほとん)ど皆(みんな)、支那や日本へ送り出すので、あとには何物も残らないわけである。又、市場での売買のことは