木下利玄全歌集


   木下利玄略年譜

明治十九年  一歳
一月一日、岡山県賀陽郡(現今は吉備郡となる)足守町に生る。木下利永の二男。
明治二十三年 五歳
十一月、伯父子爵木下利恭の養嗣子となり父母に別れて東京に来り、神田区神保町の邸に入る。
明治二十四年 六歳
四月、麹町区富士見町富士見町小学校幼稚園入園。
明治二十五年 七歳
四谷区坂町に移転。四月、学習院初等科に入学。母故郷にて長逝す。
明治三十年  十二歳
学習院初等科卒業、中等科へ入学、目白の塾に以後六年間募らす。
明治三十一年 十三歳
佐佐木信綱氏の門に入る。
明治三十四年 十六歳
二月発行の竹柏園集第一編に「折にふれて」五首をのせられたり。
明治三十五年 十七歳
五月刊行の竹柏園集第二編に「春風春水」二十一首をのせられたり。
明治三十六年 十八歳
学習院中等科を卒へ、同院高等科に入学。始めて郷里へ帰省す。
明治三十八年 二十歳
春、帰省す。
明治三十九年 二十一歳
春、実父故郷にて逝く。四月、学習院高等科卒業、夏、会津より山越え新潟へ出て、佐渡に遊ぶ。六月刊行の「あけぼの」(竹柏園選集)に「春雨小傘」をのせたり。九月、東京帝国大学文科に入学。秋、東京市外柏木へ移転。十一月発行の竹柏園選集「玉川集」に六首出づ。
明治四十一年 二十三歳
四月刊行の竹柏園選集「玉琴」に「欝金香」五十三首を掲げられたり。
明治四十三年 二十五歳
「白樺」同人となる。
明治四十四年 二十六歳
五月十五日、横尾照子と結婚。七月、東京帝国大学文科卒業。
大正元年   二十七歳
八月六日、長男利公生れ、同月十日死す。九月、目白中学国文講師に就任。
大正二年   二十八歳
夏、仙台に近き青根温泉、峨々温泉に遊ぶ。
大正三年   二十九歳
三月三日、次男二郎生る。同月、第一歌集「銀」を洛陽堂より出版す。
大正四年   三十歳
夏、箱根仙石原に独り遊び、「作歌の本道に出でたり」と自任せる「萱山」の作の成る機縁を得たり。十一月、今上陛下御即位の大典に参列の為め京都へ赴く。十二月五日、二郎死す。
大正五年   三十一歳
三月、目白中学の教職を辞す。六月、妻と大旅行を始む。六月初め東京を出て、熱田、伊勢、鳥羽、奈良、京都を経、但馬の城の崎温泉に夏三月を滞在し、近傍久美浜等を訪ふ。又瀬戸日和山に遊び夏日輝く日本海を見てインスピレーションを感ず。九月末より伯耆を経て出雲に入り王造に淹留一ケ月。其間大社、美保関等へ遊ぶ。十一月、石見に入り、志学温泉、有福温泉を経て浜田。十二月初旬津和野より中国山脈を越え、周防山口町に出で、汽車にて下関へ、海峡をわたり年末九州別府に着く。
大正六年   三十二歳
別府仮寓。四月、北九州、五月、南九州旅行。六月二十九日長女夏子生る。十月中旬、帰京。十一月、妻の母と宮島、岩国、耶馬渓を経て、道後温泉にゆき、夏子病むの報に接し、急ぎ別府へ帰る。十二月四日、夏子死す。一旦帰京し、年末に兵庫県住吉に赴き仮寓す。
大正七年   三十三歳
住吉仮寓中、しば/\奈良、京都、有馬等に遊ぶ。
大正八年   三十四歳
正月、和歌の浦に遊ぶ。初旬、住吉を引払ひ上京、春、帰国。上京して柏木本邸を引払ひ相州鎌倉大町へ移住。七月、第二歌集「紅玉」を玄文社より出版す。夏、富士登山。
大正九年   三十五歳
春、肋膜を患ふ。夏、鎌倉名越の新邸に移転。夏より秋まで再び肋膜炎に罹る。
大正十一年  三十七歳
二月二十一日、三男利福生る。春、肺結核にかゝり、爾後病臥をつゞけたり。
大正十二年  三十八歳
九月一日、鎌倉名越自宅にて大震災にあひしが、無事。
大正十三年  三十九歳
十二月、第三歌集「一路」を心の華叢書の一として竹柏会より出版す。其以前「一路」の編纂後疲労極に達せしも更に「紅玉」の改訂及自選歌集「立春」の編纂に着手す。
大正十四年  四十歳
一月に入り、全身に衰弱来りしが、作歌を止めず。中旬以後顔面に水腫いづ。二十七日頃より著しくわるく、二十九日危篤に陥る。二月五目頃小康を得たりしも、十三日胃の麻痺を併発、十五日午後八時十三分死去。十七日名越火葬場にて荼毘に附す。法諡を天章院殿温良利玄大居士といふ。十九日、雪ふる東京芝泉岳寺にて告別式。三月二十一日、分骨を東京谷中墓地に葬る。二十三日、遺骨を郷里足守に捧じ、二十五日、祖先の菩提寺たる足守町の大光寺に葬る。



   木下利玄全歌集 目次(ページ数省略)

明治三十二年
 詠草一首(一首)
明治三十三年
 折々の歌(五首)
 懐旧(一首)
明治三十四年
 犬の子(十一首〉
明治三十五年
 梅(一首)
 詠草(三首)
 浅間山に登る(一首)
明治三十六年
 雑詠(三首)
 帰省(三首)
明治三十七年
 鶯(十三首)
 木曾(一首)
 十津川(二首)
明治三十八年
 春雨小傘(三十六首)
 大島(五首)
明治三十九年
 八つ口(十六首)
明治四十年
 あかり(三十一首)
明治四十一年
 昼顔(十五首)
 利根川に遊ぶ(四首)
明治四十三年
 紐(十一首)
大正元年
 蘂(十七首)
 夕方に(十二首)
 指の傷(十首)
 夏(十六首)
 利公の為めに(三十一首)
 地面(二十三首)
 落葉樹(五十三首)
 粉雪(十首)
 糸くづ(二十一首)
 旅の雪(八首)
大正二年
 肌身(二十首)
 昼間(十八首)
 濁り川(七首)
 みちのくにて(十三首)
大正三年
 土のしめり(八首)
 濡るゝ樹木(八首)
 高原(八首)
 冬山(十四首)
大正四年
 蜜柑の香(三首)
 洛北大原行(十四首)
 亀井戸天神初卯(三首)
 三十間堀(一首)
 雑木の芽(十七首)
 萱山(十七首)
 渓籟(二首)
 二郎に(二十六首)
大正五年
 宵宮の燈籠(十六首)
 雨靄(十一首)
 曇れる川(十首)
 白昼(二十首)
 日のかげり(九首)
 出石より久美浜へ(十九首)
 驟雨(九首)
 草しげり山(十一首)
 草の穂(十一首)
 遠渚(九首)
 月しろ(十八首)
 伯耆三朝温泉(二十二首)
 伯耆の大山(十九首)
 石棺(十一首)
 加賀の潜戸(五十首)
 出雲にて(十首)
 月光(十三首)
 晩帰(六首)
 深夜(十一首)
 冬に入りて(八首)
 折にふれて(九首)
大正六年
 峡の午後(九首)
 磯潮(十四首)
 工場(七首)
 波浪(十三首)
 接骨木の新芽(十一首)
 春日(十三首)
 大きな鳥(四首)
 遠足(二首)
 軍艦碇泊(七首)
 嬰児(一首)
 賀来川(二首)
 神輿(三首)
 日向へ(十一首)
 夏子に(五十五首)
大正七年
 二三月雑詠(十七首)
 どん/\橋(七首)
 東山法然院に詣る(八首)
 奈良晩春(三首)
 大和路(三首)
 葉桜雨(十三首)
 葵祭の日(十二首)
 六甲越(十一首)
 童(八首)
 ●(「谿」の左側+フルトリ)(五首)
 殖林の杉(五首)
 太秦の牛祭(十三首)
 雪晴れ(九首)
大正八年
 春動く(九首)
 春山一路(七首)
 富士山へ上る(四十六首)
 岬(六首)
 観音堂(五首)
 大和の田舎(十二首)
 大和国法起寺(十首)
 晩秋(十首)
 大霜(四首)
 大根畑(十首)
大正九年
 冬日(七首)
大正十年
 春(八首)
 牡丹と芥子(十一首)
大正十一年
 雨後新樹(五首)
 深夜汽笛(三首)
 峡のみち(三首)
 夜道(二首)
 冬来る(六首)
大正十二年
 春光(四首)
 思ひ出(五首)
 新緑(六首)
 初秋(二首)
 地震(四首)
 晩秋初冬(十二首)
大正十三年
 なづな(二首)
 春来る(七首)
 牡丹(七首)
 新樹(一首)
 室内花卉(十五首)
 茶室閑適(三首)
 新秋(六首)
 裏山(四首)
 草の芽(三首)
 菊(三首)
 時雨(四首)
 桜紅葉(二首)
 冬の雨(四首)
 曼珠沙華の歌(十首)
 小春日和(七首)
 折にふれて(二首)
大正十四年
 冬日(一首)
 わが家と繊月光(四首)
 早春花(三首)
 顔見せ芝居(二首)
 紅葉(四首)
 水仙と万両(五首)
補遺
 未定稿(二首)
 旅(一首)
 折にふれて(六首)

目次 終






明治三十二年

   詠草一首
人訪はぬ深山のおくのもみぢ葉はおのが姿をひとりめづらん


明治三十三年

   折々の歌
父母にむかへられしは夢にしてくらきみなとに舟は泊てにけり
あらかりし風は収まり雨はやみていその松ばら月ぞきらめく
をさなどち鬼あそびせし産土の絵馬堂くづれ草おひにけり
道のべに敷かるゝ石もみ仏の像彫れる石もある世なりけり
見渡しの殊によかりし山の上は外国びとの家ぞたちける

   懐旧
月にむかひ君が残しゝ書よみてきえし光をしのぶ夜半かな


明治三十四年

   犬の子
天つ下四方の国内に光みちて東のそらゆ初日さしのぼる
今日つくと聞きにし子らの船つかでみなとの夜風あれまさりゆく
朝日影うららゝかにさして山寺の方丈の梅にうぐひすの鳴く
葉がくれの蝉の声やみて大仏の御顔をてらすゆふづく日かな
滝へゆく細き山みち山道の折れ曲る処百合のはなさく
里の子が濁して去りし枝川のつゝみさびしき月見ぐさかな
ねたる松かたぶける松たてる松一里つらなる磯のみちかな
すゞしければ主人まだこぬ別荘の庭のはす池はすのはなさく
道のべの小川のながれせきとめてあひるかひたり山かげの家
裏まちにうちすてられし犬の子のなく馨さむき冬のあめかな
深かりしさ霧はつひに晴れずして岩のかげ道雨になりにけり


明治三十五年

   梅
湘南に寒さをさけて帰り来ぬ大臣の家の梅さきにけり

   詠草
田を埋めて村ひろがりし村はづれあひる飼ふ家紙をすく家
秋祭昨日はてたる産土の森の梢に百舌なきしきる
かや山に一本たてる大杉の梢てらして月は登りぬ

   浅間山に登る
山もとの沓掛村を夜すぎて狭霧の中をのぼり行くかな


明治三十六年

   雑詠
谷川を中に隔てゝこがれあひし紅葉はちりぬ同じ流れに
かへるさを秋の日あしのとく暮れて百舌がね寒し山かげの道
町はづれ画師すむといふ門椿門のうちとに花こぼれたり

   帰省
幼な覚かすかにある山あらぬ山送りりむかふる畷みちかな
あすたゝん御暇乞と五月雨にぬれて詣づる母のおくつき
遠つみおや治めましけむ吉備の国中つ国ばら麦秀でたり


明治三十七年

   鶯
茶摘むをとめかほよき山城や宇治の春かぜ恋の歌吹く
うす雪は小雨にとけて鴬のさゝなきさむき薮かげの道
おくれては母のあと追ふをさな児のおさげの髪に春の風吹く
をさなどち草花つみし野はなくて鍛冶屋居酒屋町となりにけり
野ら犬の遠声さむきしおき場の枯木にほそし片われの月
春さむき笹子峠の七まがり雨降りいでゝきゞすしば鳴く
縁日の夜のにぎはひよそに見て師の許に行く二人づれ哉
うばのすむ家のわらぶき見ゆれども菜畑麦畑遠き道かな
ふりかへりふりかへり行く巡礼のうせし子に似しうしろかげ哉
この朝げみけしきよくて姫君の窓より見ます連翹の花
大原や野菊花咲くみちのべに京へ行く子か、母と憩へる
春の夜を舞の衣ぬぐまひ姫のたもとゆおつる花の一ひら
ほろ/\と藤ちる雨の夕ぐれを濡れてつきたる姉の文かな

   木曾
庭鳥の声のみ道の霜にさえて人いまだ起きず山かげの村

   十津川
なら林くぬぎの林なら林頬白なきて日はたそがれぬ
尾花かれ石ところ/゛\谷川の流つめたき夕づく日かな


明治三十八年

   春雨小傘
燕とぶ雨後の往来日蔭日なたくつきりせるをよろこびとほる
二人には春雨小傘ちひさくてたもとぬれけり菜の花のみち
雲うすくあかるくなりて鶏なきて五月雨晴れぬ山かげの村
君もわれも小さくなりて蕗のかげに雨やどりせし夢を見し哉
しめやかに卯の花くたしそゝぐ夜を泣きてとつぎし姉の上おもふ
薮かげのくろき朽葉のうづたかき流に落つる紅椿かな
真萩ちるあしたの雨にそぼぬれて友とまうづる妓王妓女の墓
いもうとの小さき歩みいそがせて千代紙かひに行く月夜かな
蛇の目傘お高祖頭巾の藤いろに人うつくしき春の雪かな
寝覚して衾をかくるはたごやのあけ方寒きこほろぎの声
見透しの田舎料理屋昼しづか桃さく庭に番傘を干す
萌えそめて未だやはらかき鬼あざみいつより針の生ひむとすらむ
母君のみ墓まうでの帰り道かたゐに物をめぐみけるかな
薬師みち日はあたゝかに野菊咲きて遠く聞ゆるにはとりの声
真清水のたへなる調きゝながら咲きて散りけりひな菊の花
姥子より湯の香吹きくる夕風に牧場の小草露乱れ散る
くゞり戸の障子のあかりところ/゛\時雨さびしき宵の町哉
野菊一むら水をおほへるいさら川さゝやき細く野は暮れにけり
村はづれ菜畑の中の村芝居囃子にぎはしおぼろ夜の月
御軍のかちを祝ふと御旗たてし町のはづれに富士の高峰見ゆ
旅衣みさゝぎの山の雨に濡れて春もさびしと思ひける哉
大空に白き雲一つ湖の面にそのかげ一つ山の上の秋
雨すぎてやゝやしめりたる庭石に鶺鴒来なく菊日和かな
夜ごと/\なきほそりにしこほろぎの今宵声なく雨しとゞ降る
梅園の梅が香淡きおぼろ夜を艶なる人のうしろ影かな
まな娘みやこの人にとつがせて此秋さびし月のうたげの
今日のこよひ夢にはあらじ二人していでゆの山に夏の月見る
村の子がいたづらがきの人の顔月にさびしき地蔵堂かな
ふるさとの昔の友のたづね来てむかしを語る秋の夜の雨
病む人はしばしねむりてみとり女の毛糸あむ夜を秋の雨降る
畑かへす賤が鄙うたよくきけばやさしき恋の調なりけり
美しき少女に化けて小狐の花のかげ行くおぼろ夜の月
あたらしきはこべ啄ばみ朝日あびて籠のかなりや思ひなげにうたふ
畑にいでゝ朝夕望む秩父山甲斐のむらやま雪ふりにけり
つゝもてる狩人ひとり嫗一人汽車の中さびし朝寒くして
さびれゆくいでゆの宿の秋風に老いたる湯女の物おもひ顔

   大島
伊東より船いまつきて大島の湊にぎはふ夏のあさかぜ
海ぞひのひくき砂山名も知らぬ草の花咲きてあふ人もなし
牛ひきてかへる少女に路とひて島の言葉を又おぼえけり
炭やきの翁の小屋に水こひてなかばはわかぬ物がたりきく
実をつみし少女かへりて夜叉の木の林さびしく日は暮れにけり


明治三十九年

   八つ口
春の雪をんなの人の八つ口の傘をこぼれて匂ふみちわる
三輪の茶屋奈良のはたごや花に遊び花にうかれて此春くれぬ
雨に濡れて旅人あまたつきにけり奈良の宿屋の春の夕ぐれ
一人別れ二人別れて野あそびのかへさ一人帰る朧夜のみち
花野過ぎし十二の秋の寺入にあはれと見つる曼珠沙華の花
くれなゐもうき色と見ぬその門や夾竹桃の夕ぐれの雨
たまり水夾竹桃の花落ちてなほ雨らしき空もよひかな
石だたみ濡れて二人を映しつるそは宵なりき清水の雨
百舌鳥鳴くや公孫樹のもみじ薬師堂秋柏木の朝日和かな
秋晴やうしろすがたの四五人が黄菊畑のはなし声かな
横さまに野菊の上にゆらぎけり梢もりくる秋の夕日の
小さなる傘屋のめぐり傘ほして秋の日たかき村はづれかな
時雨降り早仕舞せる宵町のくゞり障子のともし灯の色
足ひゆる冬の夜寒の店さきにしばらく逢はぬ母おもふ哉
汽笛の声やみに響きてともし火の少なき村に舟はてにけり
落葉やく青き煙のよどみたる林をゆけば雨のおちくる


明治四十年

   あかり
恋ゆゑに人をあやめしたをや女の墓ある寺の紅梅の花
うぐひすの小さき声もこだましぬ霞にねむる東雲の谷
うす霞菜の花寺の鐘が鳴るかねが六つなる六つの在所に
物かげに怖ぢし目高のにげさまにさゝ濁りする春の水哉
やはらかき影をおとして若草の広野すぎゆく空の浮雲
三条や小橋のたもと宵月に吉田へかへる姉とわかれぬ
薮入や江戸橋かへる人の子が欄杆ぞひに水を眺むる
行くまゝに其方恋ひしう木屋町の人を訪なふ朧月夜や
緋の袂涙に褪せてしろき日に愛しきものよ罪ゆるすべし
みじか夜や傘まばらなる朝市のきり雨縫ひて飛ぶ乙鳥
水ぐるま近きひゞきに少しゆれ少しゆれゐる小手鞠の花
春の日の日暮れて戻る傀儡師菜の花道を小唄ながらに
黒き蝶うつくし花を呪ひけりあざみの針に翼やすめて
夕雨に蝶のまらうど来ましたり面わを上げよ山吹の花
足柄はとほくけぶりて相模灘くも南するはつ夏の風
母は子に思ひ絶えよとさとしけりその夜の月は二人てらしぬ
顔と顔よせて行燈の絵を見るや桜ににほふうすあかり哉
神にとへば心に問へとのたまひぬかなし心は罪ありと云ふ
初芝居五座の太鼓は音高く浪華の夢をまだきやぶりぬ
家ごとに引窓つけてあかりとる竹の山崎薮のうへの月
雲見つゝ人をおもひぬ雲消えぬ人きえしかとふと思ひぬる
俯伏して泣き居るわれにつまづきてその人も泣く幻の野や
夕雲や石原みちを泣きながら穢多の子かへる群をはなれて
雨あがり出水の川の橋こえて行く老若がころもがへかな
朝月は小萩の露にしづみけりあかつきやみのこほろぎの声
三条を上る二人に時雨れけり袂あかきが後れがちにて
畑の霜麦の芽●(クサカンムリ+「出」)にかぜあれて朝出の賤が二人さむげに
朝寒の祇園の山路白粉をこぼしゝごともうす雪ふらぬ
風さむき新開町の夕やみに小さき柩の消えて行くかな
冬の日は病み臥す窓に影さして照りぬ曇りぬおぼつかなげに
うしろつきもしやと思ひおもふ間に傘遠ざかるたそがれの雪


明治四十一年

   昼顔
初春や姉に貰へる似顔絵の粂三はうれし人に似たれば
湯の宿や梅咲く庭の宵月のうすき光に君を見し春
肩揚げにかた羽かくれて水紅色の蝶ぞ艶なる友禅模様
をんな坂袖もつれあふ舞姫がかすみに濡るゝ朝詣かな
空もやう気にしてもどる嫂に門の桃散る雨ふくむ風
足音の似ると小窓に燭とればなゝめにひかる春雨の糸
菜の花の畑を前なるかけ茶屋にすが笠ぬぎし京をみな哉
姉の子は人見知りして山吹のかげにかくれぬ故郷の家
親一人子ひとりのみのはつ盆を燈籠さびしき深川の宿
盆踊かへさの雨のかみなりに妬わすれて人をたのみぬ
風絶えてくもる真昼をものうげに虻なく畑のそら豆の花
うす曇遠がみなりをきく野辺の小草がなかの昼顔の花
蓴菜生ふる池をめぐりて奥庭の祠見に行く昼の雨かな
線香のけぶりの糸はあき風にひくくなびきぬ一葉の墓(築地西本願寺)
木犀やはかなかりける初恋の人とあひ見し袖垣おもふ

   利根川に遊ぶ
網に入る鮭のうろこにうそ寒う夕日ひかりぬ船の秋風
月さむき夜頃となりぬ蘆の穂のしろき堤のこほろぎの声
一村の夢おだやかに月ふけて小草の露に虫の音ぞすむ
川風に堤の野菊花ゆれてさむき朝なり鳰鳥のなく


明治四十三年

   紐
結べども桃いろにならぬ愁かなくれなゐの紐白妙の紐
紅薔薇見し眼を移す白百合のそのうす青さ君が頬に見る
如月や電車に遠き山の手のからたち垣に三十三才鳴く
宿の山蜜柑ならびて黄なる実の朝日受け取る技葉の中に
菜の花の黄色小雨にとけあひてほのににじめる昼のあかるみ
二階より君とならびて肩ふれて見下す庭のヒヤシンスかな
舞終へて扇を前に会釈する舞妓が肩の息なつかしむ
灰色に埃かゝれるかなめ垣うるほう雨に矢来を通る
汽船に居て湊の町のわか葉見る陸にも海にも昼の日光る
海荒るゝ前の沈黙雲おもく島山よもぎにほいながるゝ
水引の根をあらひゆく野の水の淀みにうつる秋の夕映え


大正元年

   蘂
鳩起きて軒のとやより挨拶す花壇の芥子は朝風に揺る
薔薇色に雲のにほへば朝の唄鳩のうたひて花壇おとなふ
真中の小さき黄色のさかづきに廿き香もれる水仙の花
花びらの真紅の光沢に強き日を照り返し居る雛芥子の花
愛らしき金のさかづきさし上げて日のひかりくむ花菱草よ
しほらしき野薔薇の花を雨は打つたゝたかれて散るほの白き花
ゆづり葉の新芽かはゆしやはらかき緑もたぐる桃いろの茎
象の肌のけうとさおもふ椿の木技さき重き花のかたまり
黒もじのうす黄の花にやはらかき雨ふりそゝぎ春の暮れ行く
愛に酔ふ雌蕊雄蕊を取りかこむうばらの花をつつむ昼の日
花びらをひろげ疲れしおとろへに牡丹重たく萼をはなゝる
芍薬の黄いろの花粉日にたゞれ香をかぐ人に媚薬吐く
桐の花露のおりくる黎明にうす紫のしとやかさかな
桃の実の肌のやうなるうぶ毛して少年の頬のうひ/\しさよ
金魚草にトンボととまりて金の眼を日にまはす時ドンのとゞろく
真昼野に昼顔咲けりまじ/\と待つものもなき昼顔の花
あつき日を幾日吸ひてつゆ甘く葡萄の熟す深き夏かな

   夕方に
夕方に子供の遊ぶころとなり街にも下る蒼きうす靄
すかされて泣く目をやりし夕空に遠くやさしき月照り居たり
夏来れば築地の朝の好もしさ海の風吹く凌霄花
パラソルに通り雲より雨落ち来甲走りたる声を立てつゝ
むし暑く寝ぐるしき夜も青白うやゝ冷えそめて鳩なく声す
大風の吹き過ぎ行きし遠き音きゝつゝ居れば夜のおそろしさ
はした女が廚の隅に泣いてゐる白き前かけしみ/゛\かなし
泣き止みて頭のいたきたよりなさ幼心地のふとよみがへる
おそろしき夏の闇夜に飛びかひし蛍の燐の記憶かなしも
風邪の後始めて入れる湯上りのつかれに抱かれ物音をきく
寝て見れば寝起のわるさ梅雨時のじめ/\とするもの悩ましさ
梅雨時の執念き湿りしづみ居る廚の隅の生姜のにほひ

   指の傷
わがこゝろかきみだされて胸つまる君が小指の白き包帯
より添へばヨードホルムのうす甘きにほひ皮膚に悩ましく沁む
可愛さのわれなやましむ君がせる指の包帯白くかなしく
風触れず指尖熱き繃帯を君苦にしつゝ寝ねがてにする
なやましき夜の寝ざめに肉体を切に感ずる指の傷かな
指尖に身うちの熱のあつまりてうみ持つ傷の痛むあけ方
繃帯の白きもすこしよごれつゝ憎さもおぼゆ可愛さのはて
君泣けばかの繃帯のよごれめのいよ/\我を吸ひやまぬかな
強き日にさすパラソルの日蔭の柄を握れる指の白き繃帯
指尖の傷の痛みにひゞけつゝ市街の電車のきしるわびしさ

   夏
初夏の真昼の野辺の青草にそのかげおとし立てる樫の木
踏切をよぎれば汽車の遠ひびきレールにきこゆ夏のさみしさ
菊に似し白き小花をおほくつけ夏草しげる汽車みちの堤
駒込の停車場に来ればあはれにも萩のにほへる七月の末
汽車とまり汽車の出で行く停車場のダリヤの花の昼のくたびれ
草堤の茅が根もとに野いばらの白く泣き居る夏の停車場
夏草のにほひの中にたゝずみて物思ひ居れば日のかげろへる
夏草のしげみがなかにうつむける釣鐘草のよそ/\しさよ
白き指に紅のにじみてなまめけるにほやかさもて咲く葵かな
ぐらんとの手植ぎよくらん東京の上野の夏をさびしらに咲く
何の木に咲ける花にや水無月の夕ぐれ君の門ににほへる
うちしめり街のどよめききこえ来る山の手町はかなし夏の夜
茶屋女うちは持つ手の汗ばみの昼のけだるさきり/゛\すなく
恐ろしき黒雲を背に黄に光る向日葵の花見ればなつかし
くろみもつ葉ずゑに紅き花つくる夾竹桃の夏のあはれよ
からみあふ花びらほどくたまゆらにほのかに揺るゝ月見草かな

   利公の為めに
あすなろの高き梢を風わたるわれは涙の目をしばたゝく
愛らしき眼を見はりつゝ息づける苦しき様を見るに堪へかぬ
人皆に見捨てられたる床の上にわがをさな児見が眼をひらきゐる
人目なき処に妻とかくれつゝ泣きくづれなばやすからましを
夏の中にひそめる秋を感じつゝ涙ぞいづる子の死にし後
程もなく秋くることのわびしさと面やつれせし妻しのび泣く
子を失ふ親の悲みそは遠きことゝ思ひしを今日われに来し
待ち居たる九月の末は未だ来ず早くわが子は死にて世になし
脇差のすこしぬきたる刃の上に蓮華ぞうつる凶事ありし室
おとなしき死顔を見れば可愛さに口きかずとも傍に置きたや
顔のう毛腕のうぶ毛の可愛さよいく日の後も眼に残るべく
やはらかくをさなきものゝおごそかに眼つぶりて我より遠し
うけ口のくちびるの色変れるに水をそゝぎて見つめ見つむる
汝が母は看護もせずに別れたり母も子供もかなしかるらむ
人々を力なき目に見まはせし汝がいぢらしさ忘れかねつも
汽車の笛遠くひゞきて夜はふけぬ我が子の傍に通夜して居れば
いとし子のつめたきからだ抱きあげ棺にうつすと頬ずりをする
友禅のをんなのごとき小袖着て嬰児は瓶の底にしづみぬ
父母の涙ぬぐひしハンケチを顔にあてやり棺にをさむ
小さなる笠よ草履よはた杖よ汝が旅姿ゑがくにたへず
人形を相手となしてな泣きそ雨そぼふりて寂しき夜も
安らかにあれかし今はわが力及ばねばたゞそれのみをこそ
木の繁る上野の奥の土しめる谷中の墓地にわが子葬る
墓地の杉蝉はなけどもいとし子は姿も見えず土に入りつゝ
寺の門敷石の上にさくら木の黄なる葉散れり晩夏の日照
子の生れ子の死に行きし夏すぎて世は秋となり物の音すむ
遠方に鍛冶屋かねうつ音すみて秋やゝうごく八月のすゑ
曼珠沙華か黒き土に頭あぐ雨やみ空のすめる夕べに
墓ならぶ谷中の墓地に利公も小さき墓標を立ててねむれり
若き母頭痛むに手を当てゝむかふわが子の墓標の白さ
線香の煙墓標をめぐれるを二人ふりむき去りがてにする(八月―九月)

  地面
天気よき日曜の朝の勧工場日陰つめたく秋を感ずる
ネルに着る袷羽織の甲斐絹裏つめたき光澤のさびし雨の日
わが心森の緑に浸りつゝその言ふことに酔へるさみしさ
橋の影うつれる河の洲に咲ける芹の小花の白のかなしさ
水の音に心撫でられおとなしくあまやかさるゝ流のほとり
遠く行く夜汽車の窓の暗き灯のいくつも過ぎぬ踏切に立つ
何処にか子供の遊ぶ声きこえ樹陰の闇の身じろきもせぬ
膝折りて湿りを持でる土の香をかげば子供の遊びなつかし
をんなの子かごめ/\を声々に唄ふはかなし町の夕闇
少年の記憶かなしも遊びすぎて闇のせまりしぬりごめのかげ
汽笛吹き羅苧屋の車街とほる昼のこころのなごむ土曜白
四十雀頬のおしろいのきはやかに時たま来り庭に遊べる
女の子頬ずりしたし鶏頭の毛糸の手鞠咲き出でにけり
鶏頭の黄いろと赤のびろうどの玉のかはゆき秋の太陽
羽織着る君が素足の冷たさのかはゆさいたみ胸にまつはる
そらしたるまなざし追へば追はれつつしばたたき居るまみのうるほひ
今しがた茶の間の時計十うちぬ廚にあまねき秋の光線
ダリヤ咲くさけばさきたるさみしさに花の瞳の涙ぐみたる
疲れたる光の中にコスモスのあらはに咲ける午後頭痛する
コスモスの花群がりてはつきりと光をはじくつめたき日ぐれ
青き靄灯ともし頃の冷え/\とすこやかなる身の食慾そゝる
菊切れば葉裏にひそむ虫のありうごきもやらぬこの哀れさよ
森の鳥わがかなしみに針さして鳴く声いたし山をあゆめば

   落葉樹
蕎麦の花しら/゛\咲けり山裾の朝日のさゝぬ斜面の畑に
埼玉のとある小村の停車場の柵のダリヤに秋の陽あつし
日光にちかき停車場杉の木の暗きが前にコスモス光る
文挟の停車場の前に一本のあかるき黄色の秋の木立てり
霧の粉空気にまじる林間をつめたき手していそぐ旅人
うち向ふ山の傾斜のしみ/゛\と目にしみ入りてかなしき夕べ
黒き山へ夜の湖水こえ灯の色の月落ち行けり心をのゝく
隣室のサノサ節いとものかなし湖水の岸の朝の旅籠屋
落葉葉落つる前の黄色なる森のあかるみわれらよこぎる
技はなれ枯葉たゞよひ木のもとの大地につきぬなつかしいかな
姉たちの乗り来し俥この宿の帳場の前に並ベるさびしさ
湖じりの山あか/\と入日する湖水をわたる舟の旅びと
子供泣く暮るゝ湖水を渡り行く舟なる乳母のふところに居て
男体の山のくづれのあらはなる土に夕日のさせるあはれさ
男体のうへの青空しろき雲山の秋の日おだやかに暮る
舟上る湖水の岸のいさゝかの畑の野菜をなつかしむかな
瞳吸ふ青き野菜に目をまかせ夕ベつめたき湖ぎはに立つ
白樺のしろき木の肌森を行く夜の旅人のまみにつれまし
月になる夜の山路のつめたきに姉の声などしたしみてきく
夜道行くわれ等の後について来る子供なつかし何処に行くや
ちやうちんに昔噺の情調をなつかしみつゝ夜の旅をする
森の家灯をなつかしみ立ちよれば親子集ひて火をぞ焚きける
夜道するわれ等いとしも樅の木の深林を出で湖添ひを行く
山上の温泉の湧く村の十月の夜の灯にせまる寒き山の気
山の温泉の古旅籠屋の障子のみしろく目に入る朝のさみしさ
旅籠出でゝ山にむかへば冬の息山にかゝれり旅ごゝろ泣く
山の木々沼尻の木々も冬らしくくもれる空の底に並み立つ
山の木々黒き黄色きかさなりてわれ一人を見下すさびしさ
山したひ山に来ぬればふと切に浅草などのしたはしきかな
榧に似しむくつけき木がしほらしき赤き実つけて秋の日に立つ
熊笹のうす黄が纒ふ山の上の濃き藍色の空のするどさ
空の藍山の黄色のくつきりとかたみにせめぎ秋晴に立つ
山火事に焼けたる木立白光る山のうへなるはつ冬のそら
白樺の白き木肌に手をふれて眼を見ひらきぬ秋風をきく
落葉ふむ足をとどめてたゝずめば沈黙ひろがるまた歩み行く
旅人の行く道さきにさゝやきてかなしみをよぶ落葉樹かな
葉も花もすがれ果てたる秋草のなほ立てるあり山の道ばた
しばらくは滝に心を吸はれつゝ秋の日なたにわれ等たゝずむ
うつくしきひだをつくりて流れ行きながれ行く水に愛をおぼゆる
石楠木が蕾の用意早なりて山ふところの日だまりに立つ
落葉松の山をくだりて水ひかる高原に出づやや頭痛する
砂みちに空気草履の内輪なる足跡のこるなつかしさかな
パラソルに秋の日光る眼の痛さやゝ疲れつゝ高原を行く
大いなる斜面に秋の日を受けて男体山の夕ぐれに立つ
男体の樅に紅葉に午後の日の弱まりて行く暮のしづけさ
日光の宿のおばしま軒ちかく山高まれるなつかしさかな
日光を二時間の後われ等去るおもひさびしみ御霊廟を出づ
鹿沼にて姉にわかれし汽車の中のそゞろにさびし野の靄を見る
日光は次第に遠み過ぎ去れる旅のかなしさ野すゑ汽車行く
野原ややなぞへになれり夕月の光たまるを汽車より見やる
寒き夜にかたまりあひて急ぎたる戦場が原の思ひ出かなし
埼玉の小停車場に汽車とまる橙いろのまばらなる灯よ
東京に近づく汽車に日は暮れて埼玉あたり野の灯さびしも(十月)

   粉雪
明治屋のクリスマス飾り灯ともりてきらびやかなり粉雪降り出づ
きげんよくあそびてゐしが女の子たふれころびぬかたき大地に
冬の日は壁と地面の直角に来りたまれりそれがよろしき
学校に初めてわれの入りし時廊下にかなしく自家をおもひき
門口にお鶴人形は膝なでゝめぐみもふかき……とうたひ居しかな
大わた小わた日の暮れ方のうら寒み綿着て飛ぶか悲しい虫よ
夕月にみんなの影のうつり居る地をなつかしみ踏み/\遊ぶ
遅くなれば月きら/\とやさしさのなきも悲しく自家に帰りき
眼さむれば隣の室のはなし声そはわが上にかかはるらしも
目に白く雪の見えつゝ冬くればいよゝしたしき軒ちかき山

   糸くづ
やゝ疲れ膝くづしつゝ窓による顔の上気のにくき女よ
のぼせたる頬の紅のにくゝして君に奪らるゝ我が心かな
腕にからむ紅き縮緬つめたさと重さおもへば君のいとしや
心行きて指尖となりなでゝゐる女のまろくしろきたゝむき
工女たち工場の前の空地にて日の目をみつゝ遊ぶあはれさ
ブリツヂの赤き糸くづ人ふみてなほのこりゐる赤き糸くづ
村だけの心をつくし祭礼する人たちの上に秋空くもる
うき/\と屋台の上に神楽せし人等いぢらし雨降りいでぬ
さゝやかなる八兵衛稲荷の祭礼の二日目の今日も雨が降るなり
菊の中のうす黄の菊と咲き出づるこの草の上もよそにはおもはず
普請場に材木を置く遠ひゞき病みて臥す日は悲しかりけり
庭見れば土にしみ入りしみ入りて冷え/\雨の降り出でしかな
雨雲のひまより夕陽うすくさし今日も暮れ行く臥しつゝ居れば
黒き虻白き八つ手の花に居て何かなせるを臥しつゝ見やる
遅くつきし湯元の宿のくらき灯にわれ等の食べし黒き羊羹(日光の旅を憶ふ四首)
くらき灯にわれ等居群れて冷えし手を火鉢によせし湯元の宿屋
やゝ胸の悪き気もちに仰向きし湖上の舟も今はなつかし
馬返し蔦屋の椽に暮れてよりやすみし時のひもじき気持
敷き居たる野辺の草寝て起きもあへぬそのすなほさもみすてかねつゝ
野は夕日百姓たちは黒土に鍬を打ち入れ打ち入れやまず
黒土をほればひそめる百合の根に冬の日ざしのまつはりに来る

   旅の雪
旅に来るはじめての夜のさびしきに明くれば降れる山里の雪
朝の雪谷間の石につもれるを温泉のガラス戸によりそひて見る
納屋の屋根の昼の雪どけ四十雀いくつも前の木の技になく
向ふ岸の崖の日なたの南天の赤き実よ実よさなむづかりそ
残る雪青白みつゝ浮べるを日くれわびしくうちまもるかな
磯町の床屋によりて髭剃れば鏡にうつり霰ふるなり
去りがてに蜜柑畑をさまよひぬひくゝしげれる緑したしみ
俥走り黄色の蜜柑後になり温泉の町さかる胸つぼらしさ


大正二年

   肌身
西洋の絵紙にて幼馴染みなる空いろばなのみちばたに咲く
太陽はあたゝかにあたゝかに母らしき愛を送れり空色の花に
我が顔を雨後の地面に近づけてほしいまゝにはこべを愛す
子供の頃皿に黄を溶き藍をまぜしかのみどり色にもゆる芽のあり
年上の女の愛に身をつゝみあまゆるおもひ春の夜に触る
春の夜のあまきうるほひこそばゆく指尖に来てくちづけをする
この君のふところぬくきにほひよりわれつゝむらむこの母らしさは
足ひろげ男ををどる彼の女こそこよひのむねをいたがゆくすれ
山王の桜しらみて夕ぐれのものはかなさに我が身のひたる
茶屋女身をすてばちのあゆみぶりさくらしらみてひゆる夕方
赤坂の茶屋に三味なり灯がともり山王の桜はつめたくしらみぬ
人帰りさくらしらみてくるゝなりわが身ひとつはいかにすべけむ
芽ぐむ木にめぐられて立つ木は何も云はねど何か何かそゝらる
高き木の新芽見あぐるわが肌の汗ばみいとし夏の秋波
我が顔に青き光を受けながら薮かげ草の肌身をのぞく
足袋ぬげば春の皮膚と我が素足もつれあふこそわりなかりけれ
つゝましく君は小さき手をあらふ好きなその手がおとなしく濡る
食卓の牡丹の花に見入りつゝ四月二十日の昼とあひみる
そゞろなる浮気娘の襟あしの生えぎはにくむ食卓の藤
思ひつめわがかなしみのほそるなり新芽に靄のひゆる夕方

   昼間
牡丹園のすだれをもれて一ところ入日があたり牡丹黙せり
わが瞳華美にびゝしくとらへつゝおし黙りゐる胴慾な牡丹
本所錦糸堀のたまり水に日暮れ闇はひ風のさむしも
黒い工場とたまり水の間にたそがれの白き道あり人力走りすゝむ
生きものゝ身うちの力そゝのかし青葉の五月の太陽が照る
甲羅虫草の葉ずゑにつるみたり野原の露は昼ぬるみつゝ
核かづき黒土いづるこの芽生えまことにこれは力持てるよ
緑葉の陰に嬰児の足の指ならべみ山すゞ蘭花もちにけり
ほの/\とわがこゝろねのかなしみに咲きつづきたる白き野いばら
夕がたの雨あたゝかく野いばらにぬれそゝぐなりなつかしいかも
目の前の日なたの地に来て砂あびる思へば雀も可愛き小鳥
汽車道の赤土土手の白き花夏が身近にまたよりて来ぬ
窓ぎはのとある工女の二の腕の今日も今日とてふとれるすべなさ
はずみある処女の肌のはねかへす物なくいたみ汗もつ昼間
をんなの春の肌身の汗ばみをむし暑くつゝむ着物のおもみ
淫れ女が着ものしんなり湯上りのからだにつくる昼のこゝろね
見らるゝをひたひに感じうつむけるおぼこむすめのをんならしさよ
いぢらしさ忘れもかねつ泣き居たる浴衣の胸の乳のふくらみ

   濁り川
桐の花雨ふる中を遠く来し常陸の国の停車場に咲く
あづまぢのみちのはてなる祝町のくるわを雨にぬれてゆきすぐ
板の間のくらきに昼の遊女ゐしを見つゝ我が身は行きすぎしなり
雨後の昼を水戸市に入ればひた/\と水にごりみてる路傍の小川
棹にほす子供の着物うつりたる雨後の場末のうす濁り川
公園の梅林の青葉がくれの青き実のその昼われにしたしみしなり
いましがた我が身のありし丘をよそに汽車は汽車とて走せすぎにけり

   みちのくにて
みちのくの一の関より四里入りし畷に日暮れ蛍火をみる
賊住みし窟に近きみちのくの水田の畔に燃ゆるほたる火
みちのくの石原道に日は暮れて揺るゝ俥に蛍とびくる
たそがれのあかるさも消え肌さむみ心つつしみ俥にゆらる
長雨がやみてみたればしみじみと秋はわれらに交りゐたり
今われは何よりもこの山上の楓の肌にしたしめるなり
山深み草木しげる草木がわれにせまり来われにせまり来
障子あくる音かろらかにすみたれば椽の日ざしに心よるかも
こまやかに夕べの冷えが身にそひて初秋の山にさしぐみにけり
夜がくれば「御晩になりした」と云ふ挨拶をとりかはしつつ灯をともすなり
山里のかたまりあへる四五軒が道さしはさみ夜の灯ともせり
なじみつる温泉の村をすてまた知らぬ山めぐる里の夕ぐれに入る
東京を遠く南に感じつゝ白石町をとぼとぼあるく


大正三年

   土のしめり
根ざす地の温みを感じいちはやく空いろ花咲けりみちばた日なたに
夕づける風冷えそめぬみちばたの空いろ小花みなみなつぼむ
冴えかへり雪ふるなべにみちばたの空いろ花は一日とぢたり
充分に太陽にあたり草の萌えふとくのびたりこゝの堤に
草はみなしめれる土にめい/\のかげをおとせり日の夕ぐれに
大きな娘叱られしゆゑ胸のうちにいとしくなりてその指を見る
女の子の赤い蝙蝠傘が青くさの野をゆれゆれて行きつくしけり
ロベリヤの紫いろがしつかりとその位置占めて咲けるくもり日

   濡るゝ樹木
  箱根にて
大いなる青草山に対ひつゝおのづからなるつつしみおぼゆ
湯本みち夜のしめりにほのかにも吾ににほひくる木の花のあり
見上ぐれば端山繁山の上の空たゞにをぐらみ雨は降るなり
雨くらき向ひの繁山高処にて木ぬれに白きは朴の花かも
雨の中に立てる大木技葉より雫つたひて幹くろみ見ゆ
雨そゝぐ青葉の内部の樹の枝にかゝりて咲ける蔓の白花
雨が樹に降りてゐるかもいつまでも後よりあとより降りてゐるかも
一しきり雨くらくなり樫の樹の瑞技揺れをりわびしき事かな

   高原
  榛名
高山のいたやもみぢのかさなれる枝葉仰ぐも根の土ふみて
このみちゆ草原つゞきの萱山の青まろ山を見つゝあゆむも
  青草の山に上る
日かゞやき高原にとほる道遥かに先へ行きし連れのすゝみにぶく見ゆ
みづうみの岸の青山ふもとべをめぐり行きけらし人遠方に見ゆ
みづうみに岸の青山うつりてゐてあそぶ此の日も夕ちかみきぬ
高原に夕日そゝげりうちわたすくさ山かげの尾花しろしも
しみ/゛\と朝の日ざしの土にあり隣家の障子つめたくを見ゆ
  東京に帰りて
この朝けくちそゝぎをれば工場の汽笛の鳴りよ秋ふかみけり

   冬山
さむ空の下をあるきてしたしきは小流土橋渡る音なり
向つ峰の松ははてなき蒼空を背向になしてそびえたるかな
雑木山落葉しつくしこの頃の冬日に光るは椿と青木
底温き落葉の中に常盤樹の芽生そだてるこゝの杜かも
冬空の下に相寄りこんもりと此の杜の樹は枝交へたる
青木の実毎年落ちて生ひけらしこゝの谿間の多くの青木
青木の実赤くなりたり冬さりてかわききりたる山の斜面に
ひえ/゛\と今日は雨降り青木の葉なめらにぬれて今日は雨ふり
裏山の冬木にそゝぐさむ時雨見てゐる程にいやさびしもよ
窓により仰げば見ゆる裏山の尖ほそ冬木はさびしきかもよ
高麗山の松の梢ののどやかにうすかすみせり日は海上に
行きずりの小松が中に鳴きうつる鶲見いでゝひそかにあゆむ
向つ峰の松の林に朝日さし木の間木の間のきらひたり見ゆ
冬山の日なたにをれば木をこれる音こゝろよく峡にとよめり


大正四年

   蜜柑の香
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る
子供ゐてみかんの香せり駄菓子屋の午後日のあたらぬ店の寒けさ
向つ峰の午后の陽見つゝ浅山の谷かげ紅葉折るさむさはも

   洛北大原行
晩秋の一日思ひ立ちて、京都より大原の奥を訪ぬ
おし黙る一人の歩み昼たけて八瀬大橋を渡りけるかも
先づ三千院へ
大原の三千院に行きつきて靴ぬぎたれば汗ばみ冷えつ
小坊主の後より入りつ往生極楽院浄らにつめたみ虔ましもよ
山の堂しゞまの深みに物言ひしあとの幽けさ身を省みる
山もとづたひに寂光院へ
寂光院の床ふむにつべたみそゞろに見る阿波の内侍のはりぼての像
お堂出づれば只今の間に日はかくれ雨の粉ちれり大原の峡に
庵室の障子あけてみれば日はかげり又日は照るも大原の峡に
庵室の障子に午后の日あかるく山の底冷え膝に感ずる
庵室の障子あかるき午后にして茶を汲む尼の頬の紅きこと
寂光院の尼の頬あかき午后にして日は照り雨の粉ちりにけり
峽小田は大方苅られ大原山黄葉残る木々を渡る風あり
女院の山のみさゝぎ夕照れり京都へのかへりをいそぎて拝す
帰るさ
月夜になり昼間あるきし三里のみちつゆけくあかるし俥にてかへる
月夜にゆく道のかたはらの槙林しめらにさやぎて又しづまりつ

   亀井戸天神初卯
堀割の低き堤ゆき冬の宵の心なごみぬ初卯の帰り
宵闇の本所の堀割岸ひくみ水の明りを見つゝ歩むも
雨あとの今宵は寒さもゆるびをり道わるの街を友と通るも

   三十間堀
堀割のよごれてとろき水の揺れ生臭きかも曇天の下に

   雑木の芽
せゝらぎの朽木越ゆるにふくらまり水の面のしわみふるへてゐるも
雨後の黒土にあるひゞわれは生ひ出くる種子の擡げゐるならむ
草山の低き雑木が新芽ふく技のさきさきいのちかへり来
生垣に沿ひて一路のまがれるにわれもまがりて行くこゝろかも
新道のこゝの曲りに人見えずゆくてに白き夕山桜
新道の道はゞひろみやまざくらほのじろみつつ暮れがてぬかも
夕山の新芽にまじるさくらの花明るみながくのこりてゐるも
春山の雑木の花の黄いろきを見あげてわれはふもとゆくかも
昼冷えて新芽に靄のつゆたまる雑木林に道は入りつも
照りとゞまる春の日輪庭の奥に緋木瓜の花が熱に倦める
鉢植の草花のにほひ昼ふかみひそまれるわれにとき/゛\せまる
枳殻のかたくかぐろき刺の根に黄いろの芽あり春たけにけり
この花は受胎のすみしところなり雌蕊の根もとのふくらみを見よ
往来の日ざしをつよみおちちれる紙片まぶし夏ならんとす
夕ぐれの灯まだひからぬ縁日に草花のいろのあざやかに冴ゆ
ふる雨の枝葉つたひてしづくする音この森にこもれり、通る
露じめる田圃の中のぽつゝり灯よくみてをればにぶくうごけり

   萱山
木の花の散るに梢を見あげたりその花のにほひかすかにするも
足たゆく床几にをれば水茶屋の葵の花に日照雨かゝるも
向うの山の大きな斜面彼処には百合咲いてをりはるかなるかも
山独活の花うかび見ゆふか/\とふもと萱原遠ひろき上
まろらなる青萱山のふもと風萱おしなびけ光りはしるも
山百合の咲かんとおもひ萱ふかき土よりいでてふくらむ莟
森の瑞の一樹の白き花ざかりこゝだく蝶の来てまつはれる
山の中の昼はたけなはしんかんたるしゞまをきゝきゝみづからを堪ゆ
山の下湖のすぐそばに灯をとぼしこの村の家はよりそへるかも
さむ/゛\と靄ごもりつゝくれなづむ村里の裏にたぎつ夕川
夕川のたぎちのさむさ磐床に息をふかめてわれ立ちにけり
生一本に夜を日につぎて山河のたぎちのとよみとゞまらぬかも
真黒雲片空寄りにおつかぶさりなゝめなる太陽が萱山射れり
太陽の前に大きくろ雲はだかれば深かや山の光にぶれり
女郎花ふくむ萱山濡れなびき雨は嵐にならんとするも
通り雨とほりをはればいや高く雲のきれめに蒼き空見ゆ
蒼き空雲のきれめに遠きことよ草間の虫はひやゝかになき

   渓籟
日がな日ねもすたぎつ渓河夕さればいよいよたかくとゞろけるかも
宵はやく月かくれたる峰くろみ山河の瀬の高鳴り渡る

   二郎に
  大正四年十二月五日午前二時半、二男二郎逗
  子の寓にて死す、齢一年九箇月、報に接して逗
  子に赴く、此の子は殆その一生を病の為に苦
  しみ通せしなり
この家に吾子死にてありいそぎ来て門入り行かむ力なきかも
今生を執念き病とあらがひて生きん/\となせし吾子はも
いたつきに耐へ耐へて来し吾の子のをさなき力も為るべくなりし
蝋燭の昼まの火立白布とれば眼をとぢ果てし汝が顔はや
着物の下に手をやりてみれば亡せし子の肌には未だぬくみたもてり
あとに残る体温表みて長き間病にたへし子なりしとおもふ
たよりゐる声ききしゆゑ死に近き瞳をあけて母見しか汝は
病もつ一生を終り今こそは吾子は眠りをほしいまゝにせり
あまりに汝が泣きさけび寝ねぬ夜をいかりし事し今はさびしも
開け閉ての戸の音はゞかりあぢ気なし今はさめなん吾子ならなくに
泣きやめてほてりもつ眼に夕靄のつめたさおぼえ戸外に佇む
しん/\と吾子が亡骸つめたさの抱きゐし人ををかしけるとや
吾の子がつめたくなりしと云ふ事を妖言ならできかんと思へや
看護婦も白き衣ぬぎしめやかに吾子につかふる今日しくやしも
ありし事どもかにかくに言ふに感じつのり看護婦泣くも子の枕べに
世にあらば泣きまどはましをあをむけに狭き棺に吾子が臥やせる
谷中の墓どころにて汝が兄とあそべと云へば涙しながる
棺馬車の轍きしみて出でゆけりおくつきにゆく吾が子の門出
葬式の出でゝさびしもかくのみにありける子かと妻に云ひけり
葬はて人おのがじゝかへれども吾子のかへらん時あらめやも
看護婦にながきみとりをねぎらへばわが云ふ事がかなしくて泣かゆ
ふたゝび子どもうしなひしわが妻のはたらける見れば人はさびしき
乳児の寝る熟睡は寝ねず夜毎になやみし子故妻もやつれつ
夜くらし谷中の土に今もかも吾子は掌をくみ眼つぶりてあらむ
抱きすくめ頬ずりすれば児心にさも/\やすらに笑みけるものを
亡き吾子の帽子のうらの汚れみてその夭死をいたいけにおぼゆ


大正五年

   宵宮の燈籠
  奈良春日神社節分
吾嬬はもはぐれぬやうによりそへり宵宮詣での人出のなかに
大木のくろき梢にしきられて星の夜空のせばくしたしも
杉の木に丹塗末社の燈明のはだか灯うつりおほにまたゝく
雨後の宵宮の灯みちわるに粘む土さへにくからなくに
灯あかりにわれらかたまり燈寵の奉納人の名まへをよむも
春日山宵のともし火燈寵の障子にとろりまたたけり見ゆ
燈寵はとぼりそろへり廻廊の青丹匂ひて宵のほどなる
廻廊の廟をひくみ灯あかりに丹ぬりの椽数見ゆるかも
燈籠のいくつのあかりほのぼの丹ぬり柱の円みあかるむ
をろがみて眼をあきにけり燈明の夜宮の奥にいつくしきかも
燈籠にほのあかるめる石だゝみふみ/\あゆみ宵宮をめぐる
春日山宮居のうらの幾あかりにほひしづもるさ夜のしめりに
吾がいなば宵宮の裏のしづもりにいつまでとぼる灯なるらむ
いなまくは愛しみさびしみ燈寵の灯の下をいゆきもとほる
物の隈くらがり退かず燈寵のあかりとろとろとぼりたるかも
灯あかりのほとほととゞかぬくらがりに大木の幹の太太とあり

   雨靄
幹くろくぬれそぼつ木を雨靄の伝はりゆくも峡のをぐらさ
ぬれしとる山樹木伝ふ靄くらく暗やみ雨のたゞちに至る
大降りの雨中に立てる大木の枝葉おもりてしとゞ雫す
夕近み雨いやくらくさむくなれり田圃の簑笠かきくれて見ゆ
雨ふりの日暮れをちかみ雑木山風いちじるく葉裏かへすも
下つ枝は水にひたりて川柳ほつ枝ゆれをり雨の日ぐれを
向うの山の茂りの前をいく時か雨とほりをり今日はわびしも
雨ふれり丹のぬれいろの草花にむかひて端居を久しくするも
四方の山に雲居雨ふり昼ふかし街の温泉にひたりに行かな
蚕をかへる家内をぐらし前庭に薄紅葵ここだも匂ひ
舟とめてわりごひらきをればしづかなり岸の萱生に昼顔は咲き

   曇れる川
水ふえてたひらにおもき大き川岸べゆ見れば敢へてうごける
向う岸の山影ひたる川のいろあをみくもりてうごきのにぶさ
まん/\とおもくくもれる夕べの川にぶく時なくわが前にうごく
幅ひろき街道ひくしまん/\と流れ暮れたるくもり川べに
とつぷりと日のくれはてし河心より舟のきしみのきこえ来るかも
向う岸の山の木鳴りて風いでぬ日ぐれ河原を歩みかへすも
くもり夜を枝川のぼる舟の波水明り揺る岸べにをれば
くもり風日ぐれ葦原はろ/゛\にさやぎ遠さり行方しらずも
葉のさやぎしづまりあへぬ葦原にまたさやりつゝ風流らへり
葦原のそよぎひそけくくもり夜の川風遠く吹き落ちにけり

   白昼
  但馬瀬戸日和山
真下に潮の寄する崖にして萱青々し日中の風
弁当を食べをへにけり浜山の笹に照る日はかぎろひてをり
岩の間に泡うかべたる昼の潮たゆらにぬるみ日はとのぐもる
岩と岩の間に潮のたゆたひて底の砂まで真昼日させり
岩の間に昼潮たゝへきりぎしに萱草咲きてさびしきところ
きりぎしの石間に根ざしのびいでし青茎の上の萱草の花
海のいろふかくよどめりしかすがに上つべとよみ波うごきよる
潮よる荒磯の岩にひそまりて女の採れる心太草
雲通り浜山笹の日のてりのたまゆらかげり波の音さびし
磯の日は今くもりをり崖の上にはびこる葛の葉あまねくあをし
雲通り磯の日くもれり渚近き墓地ににほはし紅葵の花
遊びをへこの磯を去るころほひややうやく渚の巌間潮騒
  但馬竹野浜
わだつみにむかへる心へりくだり沖つ潮騒に眼をみひらけり
磯山の松間ゆ見るもわだつみの真日の下なる潮のうねり
磯山の松の間より眺むれば真日きらめけり浦の八重浪
磯山の笹根ふみしめ瞰せば真下によれる真青深潮
磯山の傾斜急に潮よする渚に及ぶ笹のはびこり
打ちあげし潮退けばすでに迫る後のうねりを磐床まてり
みち潮の大きうねりのあをぐろみ海つ磐床よりとよもすも
この浦に入り来る潮のいやはての此処の巌間にひそかなるかも

   日のかげり
山に入りわがあゆむなべに森林の樹木の幹のいりみだれ見ゆ
山鴉ころ/\のどをならしつゝ梢になけりこれは朴の木
大き雲日をめがけつゝうごくなり目かげをしつゝ峯に立てれば
大き雲に日の入りゆけば山の上の社の松に風のさびしも
くもりつゝ白土今はまぶしからず山の社の松のしづけさ
いりゆける雲がくり日はいまだいでず待つとしもなくいこひてゐるも
日の前にはだかる雲のふち光りうごきにぶきを見つゝいこへり
かぶされる縁ひかり雲うごきにぶしこの日のかげりながくつゞくも
いこひゐてやゝあり傍の矮生の雑木紅葉をあはれがりけり

   出石より久美浜へ
  但馬出石鶴山
松の間の茶屋の筵に大き蟻這ひまはり居る山の日ざかり
日盛りの光みなぎり松の梢の鶴の行ひけざやかに見ゆ
松の梢に山の風鳴れば羽ばたきて巣立たんとする鶴の雛かも
  河梨峠
山かひのわづかの畑のさゝげ豆畑つくり人今日は来ずけり
下りてゐし小禽がたてりまがり来てこの山みちの日陰のよろしさ
  丹後久美浜
心がちに大輪向日葵かたむけりてりきらめける西日へまともに
山あひのこゝまで入りこみ海すめりひくゝ垂れたる松のしづけさ
わが舟の波はよりゆきひそ/\と江のいやはての葦間に入るも
離れ磯小舟日に照りひさしきは畑つくり人上りゐるならむ
入海の潮たひらにくもりをり岸の堤をやゝに遠来し
  小学校生徒遠游
およぎゆかん入江の向うの岸遠しはだかとなれる小学生徒
少年等相ひつれおよぎはじめたり見てゐれば寧ろかなしきろかも
子供ゆゑ褒美なくてはと不憫がり妻が見てゐる遠およぎの列
子供らの遠き游ぎをはげますと教師は舟にて太鼓たゝけり
曇り海太鼓ひゞかず子供等のすなほさかなし敢へておよげり
およげるにちがひなからん子供らの頭見えねど太鼓はきこゆ
子供らはおよぎかへり来護衛船やうやく大きく見えてきたりぬ
  再び河梨峠
杉立つ峯俄かにくもり雨きたり繭煮る村の屋根雫すも
畑坂に通り雨はれ桑の葉の濡れの照りあつしうつむきてのぼる

   驟雨
山かひを木高みしげみにはか雨梢にさやげど未だ地を打たず
牛小屋に急雨よけ入り山桑の立木のしぶき見ぬる一時
ひたぶるに大地うたんとおちかさなり雨ふりしけり向つ峰の前を
軒下の青草束に雨しぶき小屋中しめり肌ひえおぼゆ
急雨きたり昼くらくなる牛小屋ににぶき家畜の足音させゐる
急雨うつこの屋根の下のをぐらさにわがかたはらになける牛はも
にはか雨おとろへきたり山にたつ靄こそ見ゆれ小屋の戸いでむ
急雨さり牛小屋の戸をいづる時裾にちりたる鳳仙花の露
降りに降り急雨霽れたり向つ峰の繁みをわたる霧今は見ゆ

   草しげり山
峰の松真昼の空にくひ入れるくろき蒼さのもつぱらなれや
日ざかりの草しげり山気のつかぬ高みのところに風ひそかなり
話声は谿畑うてる百姓の昼やすみと知りてなつかしむ我は
萱山に這ひはびこれる葛の葉のそよろともせず西日のさかり
道あらぬ草しげり山の急斜面てりさかる西日にきらめけるかも
萱山の大き斜面に西日てれりまつたくわれはさゝやけきかも
すゝき葉の垂葉するどに真西日をはじきかへしてきらめけるかも
すゝき葉のさ青長葉のしげり葉のするどに垂れて風あらずけり
すゝき葉のさ青垂葉のするどなる葉さきにさやり指はきらせじ
すゝき葉の垂葉するどに青々しわれ肩すりて通りけるかも
川堤の篠の新立ち舟をひくみ朝空のすみにぬきんでゝ見ゆ

   草の穂
秋づけば露深小野のせゝらぎのこもらふ水に揺るゝ草の穂
大木の下に朝ゆきふみにけり昨夜の雨の雫のあとを
大木の幹によりそひあふむけば枝葉のすゑを風わたりをり
まろやは手にさやりたれども母の脊に乳児の熟睡はさめざりしかも
梢には夕陽なほありあふむきて松の根方にたたずむ我は
夕ひゆる道となりけり苅草のにほひの中に我家こひしも
太陽の在処雨ふる空にあかるめり松の葉末の露ひかりかも
土より出でのびんとしつゝ低くある曼珠沙華の蕾押し寄りあへり
砂川の底にひそみてぢつとせる小魚のもてるこの保護色はも
保護色にかくれおほせしつもりにて寄り眼の魚の水底にゐる
水底の小魚の眼玉は寄り眼にて生意気なれど可愛くあるも

   遠渚
  因幡浦富より網代へ
蒼海原ふりさけみれば張りきれる一本の線に天とはなれたり
磐床に帆布ほされてすでに午四面の潮の紺青の揺れ
磯岩にほされし帆布へ真上より日は照りたけて十二時近し
陸めがけ風吹き上げて磯山萱なびきつゞけにひたなびきせり
近づける雨雲ひくみ沖くらし遠波がしらいちじるく見ゆ
沖つ浪かきくもり見ゆ海を圧しうごき来る雲すでにか降れる
  但馬香住岡見山
遠渚よる波しろく夕日てりこの巌かげの冷えそめしかも
落日は海に遠くあり光よわく荒磯の岩におよびたるかも
荒磯を山のへだつるこの窪に光たゝふる椿の葉かも

   月しろ
 因幡岩井温泉
堤下の桑の立木にあつかりし日は夕づきてきらめく川水
夏蚕養ふ村の男等夕いでゝたからかにうたへり桑を摘みつみ
枝たわめ桑つむ時に唄うたへる男の顔見ゆ夕日にてりて
夏光おとろへにけりなが/\とわがかげうごく穂をはらむ田に
縁台に寝てあふむけば夜露ふる遠星空がわが真上なり
灯をもてば廊下のてりの足下にひやゝかなれやまだ宵のあさく
山国にて土冷え虫のなくきけば二人の吾子の墓べしのばゆ
人里のいやはての家の戸の前もすぎゆきにけりもつ灯さびしも
この村里ともし灯しめり家々のはなしふけたり星空の下に
小衾を身にそぐはせていをぬればやすらぎおつる長夜のねむり
里の家寝しづまりつゝ山の端は月しろならむ雲しらみたり
山際は月しろとなりさむ/゛\と川音さやけみ夜はくだちけり
  因幡湖山池
湖の上に通り雨降り舟べりのかわきせはしく濡れゆくを見る
この湖の水の面にあたる雨の音しみゝになりつ舟をめぐりて
通り雨水の面にやみて湖の上に夕明り空の蒼くすみたる
漕ぎ入れば湖尻細江岸たかみ舟より見上ぐる犬蓼の花
湖尻の江の水せばみ舟べりに触れて真菰のずれゆく音す
  伯耆東郷池
耳につきて話声あり湖見れば舟の在処は近くあらなくに

   伯耆三朝温泉
はるかなる高峰の松を仰ぎつゝひたすら我は歩みをはこぶ
わが影のうつる日なたの街道をすでに何里かあるきて来たり
山川の夕さりたかく鳴るなべに岸の人里しづまりかへれり
蒼き空今日はするどしきらめかしく山木ゆする風村にしおろす
たそがれのたぎつ瀬近み川床の湯つぼの湯気のしみらに立つも
川原の湯しみ/゛\湧きてゐるならし湛への面に気しみゝなり
夕川の川床の湯にひたらんと着物をぬげば肌身愛しき
山川の川床の湯にひたりゐて遠夕雲に眼をはなちたり
仕事をへつかれいたはる百姓とあたまをならベ外湯に入るも
川原湯を出づるわが身にほのじろくかはたれの明りまとふ愛しさ
村の家の障子の灯影ぼんやりと道にあかるむ夜寒を行くも
話し更け他所よりかへる夜は寒し村の障子の所々のあかるみ
提灯が近づきてみれば小きぎみに児がいそぎをり村と村の間
この寝ぬる朝けに見れば三朝川今朝もけさとてたぎちゐるかも
朝かげの麓をゆけば山はだの草生つゆけく面ひえおぼゆ
山川にわたせる橋にあたる日を踏みわたりけり向うの岸へ
つゆじもは下りにけらしも山川や濡れて旭にあたる巌のいたゞき
朝川のたぎちの水泡あをじろみ巌かげさむくとよみたるかも
巌かげにさむきたぎつ瀬かげをいで旭ににほひつゝ流れさるかも
  三徳山三仏寺
み寺の甍のうしろに立てる峰仰ぐにさやけき茅萱の光
  村の路傍、小高き処に、日露戦役戦死者の墓あり。
戦死者の墓はもかなり古りにけり赤い夕陽に曼珠沙華咲き
戦場に命死にけむその際にこの村里をこひにけむかも

   伯耆の大山
  十月初、伯耆の大山に上り、二泊して麓に下れり。
いこひゐて目はすぐ前をみつめたり秋の陽あつき草むらなるかも
森ふかみ地に落ちきたる硬き実の枝葉にあたる音はやきかも
土にまで矮樹のしげみ突き穿ち硬き木の実の真直に落ち来
のぼり来て旅籠につけばとみに寒し障子にあかきお山の夕陽
人間の稚児の泣く声いた/\し夕さりお山の冷えきびしきに
山の宿夕冷えきびし湯に入れば手足にしみてあゝたまりくる
山の宿夕冷えきびし湯に入れば薪けむたくひもじさおぼゆ
ちぎれ雲走りつくして夕空にとよはた雲のしづかにたかし
大山の峰の木原を遠入日あかくそめゐてきざす夕冷え
大山の木原の上に星さえて夜さむ嵐のさわがしきかも
さむ/゛\ と木原の奥に月ひくゝお山の嵐吹きすさぶかも
大山の弥山に雲はたゝなはりあかつき起きのさむくすがしも
暁の木原の下はしめらへりはるか奥よりせゝらぎきこゆ
径をきる山のせゝらぎすみとほりくらき木原にながれ入りたり
峯ごしに雲はしりしが昼すぎて木原に霧のおもくしふれり
山の霧しばらくふれり木原には雫の音のきこえそめつも
山のきり次第におもくなりまさりやうやくしげき木原の雫
霧雨のおもくし降れば山社板屋根くろく雫してをり
霧の雨山の社のひろ前の苔生にしづみひかりゐるかな

   石棺
  松江にて
往来の日陰の側に花屋あり菊の莟の土間につめたき
朝の冷え未だも退かず裾さむし花屋の土間を占むる菊の香
日のさゝぬ花屋の土間のつめたさに小菊の束のおびたゞしもよ
  玉造にて
遠世人埋めて置きたる石の棺見つけ出されて日の下に在り
曲玉のつくりかけ見れば遠き世の人の心の可愛くおもほゆ
筧よりおちゐる水はかなりふとみ池の深みに徹りつゝ鳴る
やすらけく夕陽あねまき大空に青松山の今日をくれをり
晩秋の日の入りあとの夕あかり松の色今冴え冴え青し
  天長節祝日に子供等どうをたたく。どうは
  ひびき鈍き一種の太鼓にてその形、かなり大
  なり。
棒の上に大きなるどうをどかとのせ力一杯たたく子供等
子供の力むやみにどうをひつぱり行きも一つのどうと並べてたゝく
面白さつのりたかまりどうたゝく子供一斉にさけびたるかも

   加賀の潜戸
  十月二十五日出雲国八束郡加賀浦の潜戸に遊ぶ。
朝日の中御津浦峠にのぼりたるに海眼をうてり紺青のかゞやき
崖下の人家の上に岬ゆもみさきの山へ海張りきれり
崖下の朝凪ぎ浦にむかふ村屋根の瓦に日やゝたけたり
崖下の人家の列にふか/\と真蒼き湾ぞたゝへよりたる
朝なぎの蒼き潮は涯もなし水平線のたかきことかも
浦波の巌かろくうつ朝の凪ぎ底の藻くづに日は徹りたり
崖を脊に朝なぎ海にひたむかひ巌に釣する海人の子等はも
磯曲ありすなはち寄れる蒼潮に揺れゐる舟は釣りせすらしも
崖の縁へ歩み近づきのぞけども見えぬ真下に波はひゞけり
朝凪ぎの磯の日おもて巌が根によれるさざ波きらゝかに見ゆ
滑らなる巌の腹を波のうねゆれとほりゆれとほりすゝみゆくかも
今日の行昼前になりやゝにひもじみちばた野菊の日にあたる花
  大蘆浦
温みつゝ日の透く波の浜におち砂の濁りをたてゝゐるかな
遠浅の浜に寄り来て波ひくし渚の砂に這ひひろがれる
秋半ば稀なる凪ぎの日うらゝに渡り鳥見ゆ磯崎のうへ
舟は沖へうねりは磯へ空の下に行きちがひ行きちがひ浦わ漕ぎ出づ
昼たけて舟ににひらける弁当の握飯真白に日の光りあり
岩鼻を一つめぐれば浦かくれ秋凪ぎ海のふくれうねれり
岩鼻をめぐれば外の海の大あをうねりに舟のりおりす
岩鼻を舟がめぐればあらはれし向ひの磯に波の寄る見ゆ
断崖ゆ裂けくつがへり落ちしまゝ巌つみかさなれり海潮の中に
この日晴れ一天すめりわが舟を揺りてはすぐる蒼うねりかも
うねり浪舟を揺りすぎまなかひにたかまり行けるその真蒼さよ
わが舟を揺りとほりゆくうねり浪断崖の根に打ち揚ぐる見ゆ
底ふかくとよめる海の蒼浪を真日うがち入れり舟ゆのぞくも
うねり浪前にわだかまる巌床をおほひこえつつ磯にむかへり
大き波しばしは見えず巌床ゆいま打ちあげし潮落ち来も
紺青の潮にのれる舟しづか舷たゝくうねりの音す
断崖の最うへに松をいたゞき底つ巌根に波くだけよす
蒼潮に切り立てる崖のしかゝるすぐ下に沿ひわが舟ゆけり
  新潜戸
潮鳴れる洞穴の中をのぞきをれば入り行くうねりにわが舟のめる
洞の底はくらさ深く透る海なればひたすら舟をたのみてゐるも
高く低く舟揺るうねりに心とられおほひかぶされる窟見ることは見つ
洞の内潮の揺れの甚じきに舟にせまりて巌根こゞしも
浪のうねり洞穴のおくに行きづまり巌の壁へ大きくたかまる
外海よりこの洞めがけ入る浪の行きづまりつゝとよみにとよめり
行きづまり窟の奥処うつ波にうつろは千々にひゞきとよめり
巌穴の波鳴の音こと/゛\く人間舟にあつまりとよむ
潜戸の窟いく世経ぬらむ今日もかも波うねり入り鳴りとよみゐし
  旧潜戸
亡き子ろが夜きて積むとふ石の塔しめじめおほし窟の奥に
潜戸の窟しめ/゛\くらし吾子も来て何れの塔を積みにけむかも
吾子の為にかさねし石を洞の奥にのこしては来つ背寂しも
午后の海潮満てるらん往きに見し巌波かつぎはつ/\に見ゆ
波のうねり低まれる時はつ/\に海つ巌床頂き見ゆる
磯遠みひたすら寄れるうしほ波舟のへさきに裂けてちるかも
潮くらき潜戸の洞をくゞり来てかへる大蘆の浜のさやけさ
こゝの浦によらぬ蒸汽歟沖つ辺に煙なびかせぽつゝり見ゆる
磯崎の切り通しに入りひや/゛\し海沿ひ秋陽に歩きつかれつ
遠くあそびしみ/゛\かへる夕冷えに淡色さゆるみちのべ野菊
  佐陀川
生ひよれる真菰の中の川水を発動船ゆきうねらせにけり

   出雲にて
  十一月初美保関に遊ぶ、同行二人。
美保の関にこの夜来り泊り月夜なり山下海しきらゝかに照れり
漁師等が夜深く船を出す声に眼覚めしここは出雲美保の関
船つき場の石だゝみに出でて女の子ら日暮を遊ぶも甲高にうたひ
あそびの輪一人はなれて泣く子あり夕風寒きにあはれにきこゆ
岬うらの湊の街の狭苦しさしたしましもよ時化て夜に入る
  杵築なる友と、山越えして鰐淵寺に紅葉を見る。
里遠く山に入り来て甍葺ける伽藍の屋根仰ぎたふとき思ひす
滝壺のめぐりに紅葉たゞよへり山かげ寒さ身にこたへつゝ
真上の紅葉の山ゆおち来る滝のとばしりのさむざむしかも
  日暮、友と別れて、とある坊に宿る。
山寺の縁の明るみになほゐれば紅葉もかぐろみ暮れてゆくめり
よべとまり心おちゐし山寺の一室の朝の時愛しみかも

   月光
  妻は俥にのせて先へやりつ。我一人後れて
  石州三隅の旅籠に着きしは、暮れはてし後な
  りき。
暮れてゆく道の底びえ目あぐれば月はみ空にあかるみゐたり
さむ/゛\と暮れゆく道を猶あゆみ光りそめたる月を見るかな
山道はさむくさみしく月かゝり冬木の技のまみにつれなき
月あかるく草木まざ/\てらさるゝ道のゆくてに歩みをはこぶ
月をあびみちのべ冬木立てる下われ一人のとほりゆくかも
月あかり林穿たずくらやみにかさこそ音す小さきけものか
戸をしめて月をあびたる家の前を人なつかしく我はとほるも
月あかるく白き往還山にかゝり敷ける冬木のかげ凍みてをり
近よれば冬木の上に月きたり空さす枝のありありと見ゆ
皎々と月冴え光りまさやかに見ゆる裏の山を風渡る音
障子の灯ぼんやりあかし戸外にはいたく冴えたる月のするどさ
旅籠屋の裏の松山月に見ゆ霜夜あらしの松を渡るも
料理屋の二階の灯かげ三味の音寒月の下にいたくさびしも

   晩帰
終日を戸外にはたらき大き足しつとりはこびかへる百姓
苅穂負ひだまりうつむき百姓のやからかへるも夕星いくつ
脊おひたる垂穂のおもみ百姓はたへつゝあゆむ一足ひとあし
百姓の一歩一歩に脊負ひたる垂穂ふさふささやぎさやぐも
畑山夕空かぎるてつペんに猶百姓のくろぐろとゐる
鍬いれし畑のいく畝くろ/゛\と遠夕星の下に暮れをり

   深夜
  石見国温泉津港の宿に泊りたる一夜
何時をまどろみにけむおぎろなき深夜の底にふつと覚めたり
寝しづまる街の遠くの遠くより下駄の音来も地凍てたらむ
冴ゆる夜を刻々ふれる霜ならむ遠き下駄の音枕にきこゆ
遠方の下駄の音来ずやみにけり深夜の地を霜とざすらむ
くゞり戸に深夜はゞかる話ごゑ真面目にひくし内外に人居
一ところ深夜の底に人間の肉声ひくゝかたりあへるも
おほけなく深夜のしゞまかきみだし人間敢へてものをいへるも
声びくにされどもつよく言ひかはす人一途なり夜半の戸口に
つかのまの話の間にも直ちに深夜のしゞまひたとせまるも
くゞり戸の内外の人の去りしよりしづまりかへり更けつゞけたれ
くゞり戸にふけてよりたる人のことを他国のさ夜に愛しまざらめや

   冬に入りて
  石見にて
学校の白壁に熱き冬日かも弁当前の授業闌けつゝ
太陽は山の厚みの彼方なればこの面の草の色のさむさよ
曇り空さむき空気の冴えよどみ白菊の光沢を抑へたるかも
磐床のくぼみにすめるたまり水冬蒼空のさかさまにうつる
石見潟荒磯吹く風へう/\と真向よりわが歩みをはゞむ
  下の関
海峡の落潮疾し市はてゝ寒くむなしき市場より見ゆ
下の関も門司も夕さりどよめけるさ中に疾き瀬戸の落潮
崖に沿ふ港の街の神社境内雀地に下り跳びとびあさる

   折にふれて
草枯るゝこの冬堤に青みたる冬青草は何に何にならむ
尖ほそき冬木の小枝大そらの蒼きにとがり日にてらひたり
風なき昼まを冬木の枝にとべる小禽らの羽音和にしきこゆ
日にてらふ冬木の技を小禽らのなきうつりゐる動きのするどさ
小禽らは冬木の枝のつかまるに程よき枝をなきうつりゐる
麦畑に冬木の小禽身をほそめとびくだりたる捷き羽ばたき
峰上なるかれ草原に夕づく日あかくたもたれかげりおそしも
額にせまりおほどかに暮るゝ山の容山下の人家に夜の灯とぼれり
大き山容をくろみふもとべの地べたにひくき人家の灯かも


大正六年

   峡の午後
昼すぎて日の目に遠き懸崖に仰げばさむき羊歯の簇り
峡ふかく乏しき光保ちつゝ植物の葉のつぶさに青し
峡ふかく光乏しもたゝへたる湿りに飽きて羊歯はゆるがず
峡てらす短かき日あし山隠れ早瀬のたぎちさむくとよめり
早くすでに日が落ちたれば山の峡川床の石のくろ/゛\と見ゆ
容積の大いなる山日をへだて峡の夕寒はやくきびしも
夕渓はいつか暮れゆきせばまれる土肌の冷え全身をおかす
たそがれの峡の小川を渡らんと下り立つ石にたぎち寒しも
夕川のたぎちに濡れてくろき石目にたづたづし下り立ちわたる

   磯潮
  別府
朝の潮ゆたかにみてり築岸の上揺れ波の上り下りすも
築岸の下すぐ深き朝の潮揺れ寄る毎に石間鳴らすも
まさやかに沈透く小石のゆら/\に見え定まらず上とほる波
渚よりなぞへに深き海なれば小石うつ波さのみはよらず
波のうねつゞきとほるに潮の上の岩の頭のかわきあへなく
渚べの小石の濡れに夕づく日ぢつとさしゐて風のつめたさ
夕浜のながき渚の波の音間遠にたゆくくりかへりをり
波の上わたりて冷えし湿り風耳にそよげり夕日の渚
たふれたる波のひゞきの底力ゆたかに夕ベのなぎさとよもす
夕しほのみてる磯わの山の影多くの波にひたりゆらげり
山の容ひたる夕潮とのぐもり光とかげをゆららに綯ふも
海めがけ思ひきり投うる石一個たゆたふ波をぽつつりうがてり
はがね色の湾一面のとがり波西日きらゝに風すさぶかも
とがり波湾一ぱいに騒ぎ立ち磯崎こえて日は傾けり

   工場
  佐賀関製錬所
他事なく働きつゞけ時たけて職工たちは午食ちかしも
かしましき機械の音に耳張りつめ目には見て居り工場内部
工場出ればすでに昼なり構内の真土にま日のかゞよへるかも
工場出て機械の音は遠退けり耳なごやかに風のさやるも
煙突の口ゆもり上る黒けむり日輪の前をよこぎれるかも
日の光土にいぶせくにごりたり煤煙空にひろごりにつゝ
工場裏機械のおもき音ひゞく大地のはだには日がしみてゐる

   波浪
のびあがり倒れんとする潮波蒼々たてる立ちのゆゝしも
大き波たふれんとしてかたむける躊躇の間もひた寄りによる
たふれんたふれんとする波の丈をひた押しにおして来る力はも
波の秀はすでにいさゝか覆へりたれどうねり盛り返へし猶し寄り来も
今まさにたふれんとする潮波ますぐに立てりたふれてしまへよ
大き波うねりのびあがり高みより磯もと揺りたふれ落ちたり
海の波めがけたる磯に遂により力かたむけ倒れとよめり
海の沖ゆうねり押し寄するいきほひのここにきはまり波くつがへる
うねり波たかまりあがり水底めがけ重みまかせに倒れたるかも
海の波磯を間近み覆へりはやりたちさわぎましぐらに寄す
ほしいまゝにのびあがりたる波のおもみ倒れ畳まりとゞろと鳴るも
波の丈遂にくつがへり弾みあがりひしめき寄する荒き潮騒
くだけたる波の白泡いつさんにひろがりつめんときほひ寄せ来も

   接骨木の新芽
朝じめり薮の接骨木芽はおほく皮ぬぎてをりねむごろに見む
もろ向きににはとこの枝ひろがれり新ふと青芽あまねくもちて
にはとこの芽を見て立てばこの道を人の話のきこえて来る
にはとこの新芽ほどけぬその中にその中の芽のたゝまりてゐる
にはとこの芽のひろげもつ対生の柔かき葉に風感じをり
にはとこのこの新芽はもまなかひにあたへられたる青さにあをし
夕さりの光ねむごろにあかるきににはとこの芽のよく/\あをし
夕風のつめたく触るゝにはとこの新芽のそよぎまさにさやけし
夕風のつめたくふるゝにはとこの芽よわが胸にはたらきかくる
にはとこの新芽を嗅げば青くさし実にしみじみにはとこ臭し
にはとこの新ふと青芽日ならべてさやりあひつゝ繁らんとすも

   春日
大地に陽炎粘し春の日のわがみち行きのほとほと倦める
この見ゆる麦生の春日おもくるし稍ひさしくて風醸されぬ
どんよりと春日かすめり桃畑の土のかわきに枝かげ淡く
鍬の刃の土間の石に或はふれ畑のかわきに春日あつしも
街裏の川に出て見れば倉庫の壁夕ましろざの水にうつれり
昼山の松吹く風の音澄めりあかるき道を一人しあゆむ
  速吸、瀬戸
海のいろあをくつめたし甲板の春日のてりにのぼせて居れば
錨下り汽船はぱつたりおともなしすなはち艀近よりきたる
  土々呂港
この浦に今汽船二艘かゝりたり岸べに立ちて心ゆたけき
  黒雲
時ならぬ午後のくらさよ二階より黒雲の此方の木の芽を見るも
黒雲はおつかぶされり片空の日光に射られ雹落ち来る
  菖蒲
かゞまりてわが息づかひしたしもよ菖蒲の花のかさなりて見ゆ
花菖蒲かたき莟は粉しろしはつはつ見ゆる濃むらさきはも

   大きな鳥
大き鳥入りし樹に行き耳すまし梢のけはひをうかゞひにけり
今の鳥はこの樹にゐるにちがひなしひそかに枝葉の中を見上ぐる
この樹は今鳥かくせりとおもひつゝ真下より見る技葉のうらを
重なれる技葉さびしもさきに入りし鳥はこの樹を蓋さりけむ

   遠足
遠足の小学生徒有項天に大手ふり/\往来とほる
子供等は列をはみ出しわき見をしさゞめきやめずひきゐられて行く

   軍艦碇泊
この湾の波の最中に軍艦の入り来て場を占めさ揺ぎもせず
軍艦の鉄のふなべりまみを占め蒼ぐろ波に艀ゆらぐも
胴体を波に深くしづめ軍艦の取りつくしまもなく横たはりゐる
軍艦の八幡ゆるがぬ胴なかをさゞなみうてり湾のしづけさ
近頃は四海波静かなれば軍艦もこの浦に来てどんたくをせり
軍艦の腹のひたれる蒼波をわが艀ゆもうつゝに見たり
水兵はひさしぶりにてふむ地か歩毎におこる靴音よろし

   嬰児
をさなきが枕外して真昼間に熟睡を寝ぬる息づかひはも

  賀来川
川の面に舟ひそけかり下つ瀬の遠き瀬の音をこゝにきゝつゝ
川の面の昼ひそけかり舟の腹ぴた/\たたく小波ひさしも

  神輿
春の日は午すぎにごれり香椎の宮の神輿渡御あり埃をあびて
鎧の下にめりやす股引見えてゐる村人のする祭したしも
西空のよどめるにごりにあか/\と長き春日の太陽なほあり

   日向へ
  五月、一人汽船にて豊後より日向に入る。
岬めぐれば人家かたまれりわが汽船荒磯に沿ひて久しかりしが
岬かげにかたまる村へわが汽船とまり臨みて汽笛を鳴らす
この湊昼餉どきならし海ゆ照る日に光りてあり屋根も若葉も
船着き場と繋りし汽船と真日の下にあひ関れりこのかゝはりを
  土々呂附近
朱欒蜜柑花盛りにて日向路は俥して行くに風香に満てり
こゝら一円朱欒の木々の花ざかり空気澱もりとんろりにほふ
馬車すぎてあげし土ほこり路ばたの野薔薇の花へなびきしづもる
  宮崎に向ふ、凡卅里程なり
日向路の街道埃灰ぼこり馬車にて日ねもす南し南す
  美々津川岸
神武天皇の御腰かけ岩あり天皇もつかれ給ひけむ我らの如くに
神武天皇の御腰かけ岩は道ゆきてわれ等も休むたゞの岩なり
  高鍋附近
馬車とまればとみにひそけしたそがれの野中のせゝらぎ何辺にか鳴り

   夏子に
  大正六年十一月二十九日、呉より道後に着き
  しに、吾子病みて稍わろしとの電報、別府の寓
  よりとどきゐつ。
心配に胸おしせまり温泉の街に遊ぶ人等うとみつ我は
  其夜の不安云ふべくもなし
或は来ん次のたよりをおそれつゝ足音に耳立て安眠しなさぬ
病める子に心はかゝり夢に見つうつゝに思ひ安眠しなさぬ
  翌日昼出づべき別府行の吉野川丸は、遅れて
  夜おそく高浜を出帆す。
船室のあさき眠の覚め勝ちに執念く吾子をおもひぞ吾がする
海の沖のしら/\明けに海人小舟出でゐる中を汽船すゝみをり
黎明の光に向ひ舟こげる漁人の顔を汽船よりみたり
ふなばたに吾子おもひをれば眼に揺れて暁海の波は蒼しも
  十二月一日早朝別府埠頭に着く。夏子妻に
  伴はれて某医院に在り。
久しくてこの子に寄れるに病みたれば面もちまじめにわれを見てをり
いとし子の臥床によりそひその額に手おけば熱しかはゆきものを
泣く力今はなくなり病める子の眼つぶらに吾を見るかも
吾子よ/\くるしからめど力出しこのいたつきをしのぎてくれよ
真夜中を戸外にすさべる風の音わが子よ父はこゝにゐるぞも
  三日朝は大に快かりしに、四日午後吾も妻も
  家に帰りゐし時、俄によろしからずときき、吾
  は直に、入浴中なりし妻もすぐ後より病院に
  走る。
わが妻とぢつと眼をみあはせぬこの吾子も亦今死なんとす
肉身の捨てはてかねし望さへ今は絶えゆき吾子死ぬるなり
脈あらず医師おごそかに声低に三時半なりと云ふ吾子全く死す
金輪際なくなれる子を声かぎりこの世のものゝ呼びにけるかな
婢はまだ息あるにと吾子により医師をいきどほりおろ/\泣くも
おぎろなし子と父母と一心に慕ひあひつつも死にわかれけり
わが妻は吾子の手握り死にてはいや死にてはいやと泣きくるひけり
眼のまはり真紅くなして泣きやめぬ妻のうしろに吾子死にてあり
  吾ひたすらに慰めつ。
わが妻も今は泣きやめしみ/゛\と銀杏が黄なりと云ひにけるかも
泣きやめて心は澄めり向うなる一つ藁家の夕げの煙
はりつめし心はおちてしみ/゛\と向うの煙みつめしかなや
  日暮、数日前、妻が風にあてじと、その顔に布お
  ほひて、病院につれて行きしとおなじ道を、遺
  骸を抱き、吾等つきそひ寓に帰る。星斗天に
  満つ。
吾子の事を可愛がりくれし隣人よその子死なせて今かへり来つ
  朝毎に来る豆腐を鬻ぐ少年の声、今朝は殊更
  さびしく。
吾子のゐぬ寝ざめくるしも甲高にさはな呼びそね物売り童
椽側に亡くなりし子の汚れものこの夕かげをしろくうかべり
この事もすぎ去りにけりと椽先の白菊見つゝ嘆かひにけり
  六日夕荼毘に附す。
いとし子を焼場にやると親さびて好みし着物をきせにけるかも
何事も今は甲斐なき吾子なれば野辺に送らんいとなみするも
まなかひにもとなかゝりし吾子の身を火に焼くものか死にせればとて
  隠亡のひく車の気疎さよ。
黒塗のあやしき車吾子のせて山へ山へと行きにけらずや
隠亡は今火を入ると竈の中の吾子にむかひておらびけらずや
棺の中の吾子の面わをおもひつゝ人のうしろに立ちてゐにけり
燃えとよむ炎の立ちの吾子のゐる棺つゝむをひた目守りつも
夕空に立つ煙突にわが夏子けぶりとなりてなびかひゆくも
吾子一人焼場に残し夜と云ふにわれ等大人はかへらんとする
きぞの夜に吾子の焼かれしあとゞころ未だ小さかりし骨を拾ふも
  十七日、遺骨を携へ、別府を引払ひて、上京の途
  に就く。
海峡の夜浪荒しも船室に骨壺守りて眼をおとし居り
骨壺を網棚に上げ気にかけて時々あふぐその白つゝみ
冬の夜の東京駅に骨つぼの白き包もち下り立ちにけり
  夏子がありし日の追憶。
鼻の上に少し皺よせわが妻のいとしみし子は死にゝけるかも
みごもれる程もおとなしくわが妻に女の童らしと云はれし子はも
乳房ふくみ今まで泣きしまみ上げて乳母をしげしげ見いりし子はも
はゝそばの母に抱かれてふとり身を日毎温泉にひたせし子はも
がら/\を振りあきぬれば振りすさびつむりを打ちて泣きし吾子はも
知らぬ人に抱かれてさへむづかりしめぐしきものよ死にてゆきけり
胸まとふ湿布かふると抱く時しかめし面わは眼に彫られたり
死にたくはなかりけんものを手足冷え息絶えきては生きらるべしや
追ひ行かば何処の隅かにいかくれてある如も吾子をおもほゆるかも
吾子よ吾子よ生きてだにあらばかい抱きいやます/\にいつくしまゝしを
  谷中なる墓どころ。
二歳にて失せたる兄の傍らに一歳の妹を葬けるはや
をさなければ樒の枝にとりそへてよき色花を手向けけるかな
おくつきは並びたれどもうつし世に相ひ逢はざりし吾子三人はや
墓土に水をそゝげばしみ入りつこゝの下なる吾子とこそおもへ
これやこの三人の吾子の墓どころ土のしめりに身をかゞめけり


大正七年

   二三月雑詠
  風の日
なか空に大樹の梢さいなまれ嵐を堪ふるうなりゆゝしも
地上にはしばらく絶ゆる風間にも大樹の梢のうなりやまずも
右左地肌しめれる切通し風すさぶ日にとほらくよしも
  街頭
牛車のつしり重み軋みゆくにつぶれてめりこむ道路の砂利音
埃たつ街をくれば堀割にたぶ/\ゆるゝあをにごり水
風埃り橋に吹き立き日のくれの堀割水の皺めるさむさ
日のくれの冬空映すお濠水風に皺めりさむけし寒けし
  郊外
郊外にかへりて来ればしめり土足うらに応へ心なごめり
ねむり得し浅きまどろみはやめざめ廚の音のいち/\きこゆ
真夜中の軒にかそけく音さする雨の降り出を小床にきくも
外の面には物の濡れゆく音為めり夜半の小床にめざめてをれば
  雪
夜のうちに雪降りつもり庭の面木々まろくたわみ奇にしづもる
昼の雪こもらふ部屋の障子の紙しめらに鳴るをながめてゐるも
宵の雪かつとけてゐる樋の音つく/゛\きけば弾みて鳴れり
  春埃
砂埃より/\立てり往来の春日なゝめに風そよぎいで
  春嵐
場末町新立工場の板塀がなまあたゝかき嵐にぬれたり
葛飾の春田の水にあたゝかき嵐渡りて小浪よる見ゆ

   どん/\橋
  下野国栗野
寒き日の街道を来て里川のどん/\橋を踏みわたりたり
くもり日の川淀くろく殖林の杉の木立のうつりたるかも
松の木の切り倒されてあらはなる向うの峰に対ひていこふも
川向うの秋葉山権現にこの夕幟立ち居り祭あらしも
川向うの山の腹なる権現に太鼓をならす夕静み時
星空に夜の木の梢を仰ぎつゝ通り行きたりその木のもとを
提灯にてらし出さるゝ夜の木の幹まもりつゝ通りて行くも

   東山法然院に詣る
訪なへる春山のみ寺庭きよみひつそり閑として真清水の音
金色の本尊に奉れるさくらの花春しんとしてはなやぐ御堂
須弥壇に捧げしさくらの花明かりほの/゛\白し春の御堂に
対に活けし花立のさくらの間になり弥陀の慈眼のいやしたしまる
み堂静み昼間の蝋の灯現しきに山の真清水音かよひ来も
御仏のお前の板敷つめたきに散華の椿の紅白映れる
焚きたきし幾代の香か御堂内つめたくしづみて物に沁みたる
うらゝなる春日を御堂に念仏きゝ心深きにしづもりにけり

   奈良晩春
春日野の瑠璃空の下杉が枝にむらさき妙なり藤の垂り花
薄雲に春日はかくれ杉が枝に色こまやかなる藤のむらさき
老杉にかゝる藤浪百花の匂ひににほへり風なき春日

   大和路
雑木山松蝉なけり麓のみち日照りをつよみ疲るゝはやし
若葉せるみさゝぎ山に歩きくればじりじり日照りに松蝉なけり
大和路は田圃をひろみ夕あかるしいつまでも白き梨の花かも

   葉桜雨
  四月吉野山に遊ぶ、中千本のあたり已に葉桜
  なり、翌日雨、同行二人
汽車のろく裾山ぞひを行くなべに手のとどくところにも丹躑躅咲ける
たそがれの村ゆ河原におり立てばひろびろ明るし早瀬のたぎち
葉ざくら雨やみ間をぐらく静かなり塔の尾陵の石段を上る
浄らかにみさゝぎどころうちしめれり葉桜雨のやみ間冷えつゝ
葉ざくらよ雨間の雫地をうてり花どき過ぎてかくはしづけき
これやこの雲井の楼霧をふくみ五百技の花の冷えびえ白し
おく山はこのおそ春も冷ゆるなり残れる桜に霧のつゆ凝る
よし野山青杉しみ立つ裏谷ゆ霧をむら濃に吹く嵐かも
みよしのゝうら谷さむく霧しまき繁み立つ杉の梢こぞり鳴る
向つ峰の牟杉むらを襲ふ雨風あし疾みたたなはる見ゆ
み吉野の奥へこゝろざす岨さむみよこぎりあへず霧のしまきを
岨みちの蕨折りためゆきしかば手つめたしも山のさ霧に
路のベゆ木深く飛びし山の鳥しばらくきけど音もこそせね

   葵祭の日
  御所附近にて
行列を待つ人垣の前通る娘は羞ぢらひて丹の頬てらへり
行列の通るま近み人ゆかぬ道路にじりじり朝の日たくる
  馬も額に葵葉をつけられ居り
まなかひの葵うるさみ首ふれる祭の馬がこぽこぽとほる
装束に昼の日映えて祭人われ等の前をしとしと通る
御所車ひつぱる牛は質のよき例の眼してうつとり●(シンニュウ+「黎」)れり
花傘をはこべる人は力み居りゆさ/\揺れて花傘が来る
  糺の森にて
ひろ前の神事のさなか垣外なる駒いななけり厳かしきかも
楢の木の若葉柔かみ午すぎの日を透しつつしなえたるかも
温み風揺れざわめける高き枝に榎の木の花の咲きにてあらずや
雲行きを見上ぐる森の木ぬれには花つけし枝のざわめきてをり
休みてゐる祭の列に午すぎの賀茂の長堤風埃せり
この都にほへる花とさかえけむ代に逢へるごとき葵祭かも

   六甲越
  七月住吉の寓居より朝夕仰げる六甲山を有
  馬に越ゆ、同行三人
山水の崖ゆおち来て道路きりすめるながれをまたぎてゆくも
みちのべの崖の細滝おちきたる力に打たす我が掌を
朝暑くのぼる道けはし日でり空笹生の山の向うに立てり
日ざかりの高原ひろみところ/゛\草の葉かへり鶯きこゆ
雲通りとみにすゞしき高原にいやなきすます鶯きこゆ
岩が根の清水のみ足らひ羊歯の葉にしぶきをかけて猶しいこふも
峰の上笹生に通へる道筋のまぶしさ消えて雲のかげとほる
頂上の笹生が中に曝れくちて丸木の鳥居の立ちのさびしさ
頂上の白山権現の石祠照り下ろす日に小さくし見ゆる
峰の上笹生にくもる真昼の日かな/\高鳴く間近き谷に
うぐひすは鳴きすましをり頂上の笹原照りつ曇りつするも

   童
幼稚園にわが行きたるにをさな児は汗あえにつゝ遊びてゐたり
足ぶみする子供の力寄り集りとゞろ/\と廊下が鳴るも
子等の列わが傍を行くなべに子供のにほひをさせにけらすや
幼稚園昼前にひけうなゐ等は課業の遊戯了へてかへるも
学校の昼は闌けたれ本をよむ子供の声のしみらにきこゆ
大きな子供遊びて居たれ小さな子供歩むわすれてほと/\見惚るゝ
着脹て歩かされゐし女の児ばたんと倒れその儘泣くも
うなゐ児のまろき柔手の指ゑくぼ触れじとするも豈堪へめやも

   ●(「谿」の左側+「隹」)
ふくらみて卵を抱けるめん●(「谿」の左側+「隹」)の眼みすゑて吾うたがへり
卵だきじつとふくらむめん●(「谿」の左側+「隹」)のすゑゐる眼の深きするどさ
卵抱き気たかぶれりめん●(「谿」の左側+「隹」)のこの本能のいつくしきかも
めん●(上記かっこと同じ)の留守のとやにある卵をみて禽のする事をかなしくおもふ
かへるもの凝りつゝあるらしとやの中に卵がある様心をうつも

   殖林の杉
山おほふ青牟杉のしみ立ちをながめてをれば迫り来る如し
山おほふ青牟杉のしみ立ちのこと/゛\く空をさしきほひたり
岨みち右左りよりすぐに殖林の杉みつしり立てりこの厚みはや
殖林の杉ひし/゛\と左右より径さしはさめり吾は通るも
殖林の杉の生ひ立ちのせまるみち一本通るを歩みあゆむ

   太秦の牛祭
  帰りには京へつれなし牛祭
太子前に電車を下りて太秦の夜寒をゆけば虫すだくなり
歩み入る太子堂境内をちこちに灯見えつゝ足もとのくらき
境内の広場のくらさ遠くの灯目あてに歩めば人もこそ行け
秋の夜の戸外をさむけみ着物重ね祭の人出にまじる親しさ
人中にふとふり仰げば星ぞらにて秋の夜祭安くたのしも
篝火は樹々の葉に映りこの夜らの人の心をたのしくそゝる
寺庭の篝のあかりとゞきゆき夜目に青しも高樹の枝葉
円くなれる広場の群集に篝映り今夜の神事のいやまちがたき
牛祭の宵更けそめて地靄下りふところ手する肌の小ぬくさ
この門より牛祭の列出づると聞きその門に向きて待ちくたびれつ
人皆の丈よりぬきんで牛の上にて摩咤羅神すぐるを豈見おとさめや
寺庭の篝のめぐり夜さむ靄あをみたる見え祭もはてつ
人なつかしき夜寒にもあるか祭みると戸外にて更けし着物つゆけく

   雪晴れ
日の出前厚くつもれる雪に向き部屋の障子の明かるしづもり
ひろびろと雪晴れわたり空あをしきららけきかもよ今朝の旭子
大雪のよべ降りしかば家人と朝餉に寄りてしみらにしたし
枝々の雪おつる音あひつげりはやき旭にむかへるこの森
熊笹の雪おとす音ひむがしに真日の上りのやゝに高かり
へだてなきもの云ひかはし街人等雪かきをせり朝日の中に
午に近く雪どけざかりのあたゝかさ廚にものゝ煮ゆる匂ひす
雪どけの水すひ飽ける黒土の湯気まもり居り昼餉に坐り
風の来ぬこの蔵のかげ雪しづかにまひ下りをり見のあたゝけさ


大正八年

   春動く
冴えくもる浅山ぶみのほそきみち雪一しきり笹に音すも
今日もくもる空に秀づる冬木の梢待たねばならぬ春の遠さよ
寒きながら昼は日ぬくむ田圃ゆき今更目につくたんぽぽの萌え
春を浅み日かげればさむき雑木原小禽見うしなひしが再び鳴かず
冬枯の桜木ゆすぶる嵐雨硝子戸ゆ見る今日なまあたゝかく
大き農家わら葺門外の白梅の道までにほひてこの村しづか
空のいろ瑠璃になごめり白梅の咲きみてる梢の枝間々々に
水たまり轍にのこり雨後の道しろくかわき春日まぶしさ
街道を埃立て行く荷車につゞきてあるけば春日あつしも

   春山一路
枸杞の芽の一夜の伸びをのびてゐる青芽つやつや春の朝冷ゆ
木苺の下向く花に顔よせて嗅げばほのけき香に匂ひゐる
松にこもる風の音ありて山路のつまさき上りいくまがりすも
春山の八幡宮は松風や日ねもすならしこの人気なさ
  鎌倉古跡
春日てる大御堂が谷に入りくれば麦畑の鶫殖林へとびぬ
歩き来て北條氏果てし巌穴のひやゝけきからに古おもほゆ
春山を汗ばみ上れり里わには青麦畑に風ひかる見ゆ

   富士山へ上る
傾きて裾野に通る一本の道を自働車走るも富士に真向ひ
いちじるしく大きく見ゆる富士の下に自働車を下り現し身ひくし
山を前に自働車を下り歩みおこす足裏幽けく火山砂鳴る
自働車下り歩めば静けし裾野原夏日澄みやかに野ばら咲くあり
青草に夏日照り澄みひろ/゛\と裾野傾けりそのかたむきを
裾野木原葉のかさなりを深く徹る日にをちこちの草光あり
太郎坊に霧を颪すも昼すぎしこの大き山へ敢へてし上る
地をこめてたゞよひ動く霧の脚麓の傾斜の熔岩濡らす
大霧のしゞまの中をぬれくろむ火山砂踏みのぼりつゞけ居り
富士の麓大霧中のしゞまにし現し身探し笠しづくすも
目の前にて大霧俄かにとぎれたるにま近くなりゐつ富士の頂き
面むけて上りつゞけゐし富士山よりふりかへり見る裾野のひろがり
山腹に立ち見はるかす傾斜の線夕空なゝめに切りてし曳けり
今日とまる七合日の小屋山腹の高きところにて旗ひるがへせり
小屋の中ランプの前にところ狭くわれ等人間夜明けを待つも
岩室の夜冷えて来つたづさへし毛布かつぎて山畏れ寝ぬ
昼の疲れいでしものから寝つかれぬ岩室の床の夜ふけて冷ゆる
岩室出て尿をしたり今宵のわれしみ/゛\いとしも寒さにふるへて
東京横濱空明りするをのぞみゐれば身慄ひつくもお山の夜冷え
都会の空ほの明りせりお山に寝る今宵のわれのかすかにもいとしき
岩室出でて空の真闇にそゝりたてるお山しばし見て灯の下にかへる
岩室の夜更けしづみ地より冷え稲光うつる硝子戸口に
岩室は大地より冷え室人の更けて寝ぬ声さゐさゐきこゆ
地球はめぐりけらしも起きて見れば澄みつかれたる星々の光
真夜すぎて幾時もあらね起きて見ればこの山へ向けて白みきざせり
七合日の夜明けの寒さ寝の足らぬ眼をしばたたき草鞋をはくも
一夜ねし暁の灯の下を出でぬ白みつゝあるお山のさむさ
白みそめし山の石ころみち睡の足らぬ眼にみすゑて上りに上る
山を脊にむき直る前は雲の大海しづみ白めりこのたよりなさ
日の出前の紅み真に受け富士山の東傾れは染まりたるかも
急になれる山に面むかひ足もとに力をいれて岩ふみのぼる
山へとゞく朝日のいろの黄いろきに虎杖の葉のいや緑なり
富士山の大き傾き遂に上り石ころの地にころぶしにけり
眼をはなつこの大傾れを二日かゝり攀ぢきとおもひ足をやすます
眼をはなつこの大傾きをこつ/\と攀ぢつめしかもよ頂上にあり
富士山の頂上なれば登山者どち人間同志のよしみを感ず
頂上に庵する人は岩積みて暗きが中に昼もこもれり
太陽は真上に来り眼の前に富士の頂上を明かに照らす
頂上の石塊しきて下に居れば午の日真に照り我れ山に酔ふ
甲斐の側に白きは雲と見し間もなくはびこりもり上るこの量は如何に
山に酔へる眼をひき入れて我れの前に奈落へ低まる傾れのひろがり
大傾れたよるものなきに足ふみ入れ山酔頭痛堪へたへ下る
太郎坊も通りすぎけり裾野原この日も夕づき何かわびしも
夕日洩るゝ裾野木原に下りきたりくたびれあゆむ平たきみちを
御殿場へいそがす馬車のとゞろきに身をまかせつゝ富士顧す
御殿場より夕不二のぞむ上り来し今日のお山かいつくしきかも

   岬
蒼潮へつたはりきたる波のうねりふくらみの腹崖の根をうつ
崖の根へ波のうねりのふくらみのたつぷりあたり音弾みあり
しわみしわむ波のおもてへおのづから深みに徹るうねりぞきたる
頭上の日かゞやける海草短かき岬の端にわれ一人なる
崖下海午后かげりきて揺れみだれ巌根うつ音間なくしさやぐ
午后になり岬のかげの日かげ海揺れのみだれの藍さむみ見ゆ

   観音堂
堂あゆむわが下駄の音止まればやみ内陣のしじまへ瞳を凝らす
内陣のくらきしゞまの奥処にして廚子の扉の左右ゆ閉ぢたり
堂のうらは建物かげのしめり冷え下りしづみゐる苔生花もち
堂の後日あたることなく本尊のそびら間ぢかみ寒さに浄めり
桜おち葉幹のめぐりの黒土の湿りの上にひぞりてゐるも

   大和の田舎
  冬丘
一むら雲日をかげしたり土白き往還のいろ目にくらくなりつ
うすら冷たき夕日のいろかも野を帰るから車の鳴り空気にひびき
冬丘のゆるき斜面の桃畑交れる枝みなあかみをもてり
冬丘の桃畑ぬけるに肩に押すあかみもつ枝はねかへりなほる
  小泉村慈光院
二三里の冬田越しに見ゆ枯芝に夕陽のあたるわかくさ山が
目路さむき冬田向うの山もとに夕陽を浴びたる大仏殿の屋根
奈良山の夕陽見てをり目路ひろき冬田にのぞみてこの丘のさむさ
寺に泊り風呂に入り居り外は畑霜にいたむ菊のたばねたる見ゆ
この寺にとまることにしてくつろげば大和の田舎の夕ぐれしづか
寺庭の夕静あゆみさむけきに目にとめて見つ白き山茶花
しづかにてくらくなりきつ顔冷たく寺庭歩くに山茶花の白き
大和路の冬の村にきてとまる夜のこのしづかさのしづかすぎたる

   大和国法起寺
  小泉村に泊りし翌日、時雨の中を法起寺三重
  塔を見に行く、塔は飛鳥時代の建築なり
埴岡を時雨にいゆく道のべにくれなゐきはまるぬるでの紅葉
近づきてつく/゛\あふぐ千年経て今日の時雨にぬれゐる塔を
時雨空に見上ぐる塔の層々の甍のぬれの色のさむけさ
時雨降る音耳にありしみ/゛\とおもひを致す遠いにしへに
岡もとの白埴きよみ千年経し三重の塔の立ちのさやけさ
岡本の白埴浄しこの此処にいにしへ人の寺いとなみし
塔の下かわけるたゝきわが傘の雫の跡を印しけるかも
前に堂横に塔あり埴白き境内われ等を容れてしづもる
堂塔に時雨の雨の降りにふり夕ちかみくる今日のわびしさ
法隆寺村は埴土しろみ夕時雨駅まで遠し田圃の畷

   晩秋
  夕陽
秋の西日田圃に照れり郊外電車足穂の上に影を走らす
掛茶屋の秋の真西日菊つくる脊戸へぬけて見れば土のつめたさ
  洛西桂離宮
泉水に公孫樹の黄葉うつりをりひろらのお庭の夕静をめぐる
落葉掃く箒の音は何辺かも築山紅葉の夕冷えの光沢
築山裏淡紅いろ山茶花咲きてをり静けさまとまるこのひとくまに
  京都衣笠村
西空の雲に日かくれつ寺の池冬木うつりて水凝りすめり
西山の上日をかくしゐる雲うごかず夕方空気のつべたさするど
夕かたまけ水こりすめる寺の池紅葉のこれる冬木うつれり
夕闇の妙心寺境内ゆくに大建物くろ/゛\われにのしかゝりゐる
日歿後時経てくらき中空に山門の屋根の反り猶見えをり

   大霜
道ばたの枯かや草におく霜の旭をはじき光るきらきら
日の出頃街道の霜真白にからからつゞく百姓の車
街道の霜に跡つけきびきびしく百姓車が町に出て行く
汽車に寝て三河あたりか大霜に早出の百姓道ゆくが見ゆ

   大根畑
冬空は磨ぎすまされてあり大根畑さ緑さえて遥に対す
武蔵野の黒く柔かき畑土かた太大根葉の下にうづまる
澄みくろみ冬川真水の流ゝるに男洗ひおとす大根の土を
小流れの澄める淀みに近々と物洗ひ場はひくゝなりゐる
かた太の練馬大根ひたさるゝ野川の水はよどめりくろく
濡れ白き大根の光沢にさし弱る冬の夕陽の匂ひやかなり
夕野かへる百姓の引く力車くきやかに積めり濡れ大根を
冬空の西夕焼けてくきやかに富士連山を磨ぎ出しにけり
冬空の西夕焼すつゞきわたる大根畑のさ緑明りて
西空の夕焼けに立つ冬木の枝繁に黒しも大地すでに凍て


大正九年

   冬日
旭たかみやゝにあまねき暖かさみちわる凍土つぶやきとくる
畑みち霜解けの水気土にしみ真昼の冬日のまともにはあつき
おきわたす今朝の大霜日を浴びて野山の光いときらびやか
冬山はぬくとくもあるか裸木のしゞに枝くむ下は日だまり
楢の木の枯葉ふれあふ音すなり冬山日なたは人のぼせしむ
夕寒の空気頬をさす葉をふるへる桐畑の向うの空あかくやけて
風すさぶ外の面をきけば冬木の枝しなふうなりの徹りてきこゆ


大正十年

   春
  雨後
寒あけの雨後おもきくもり空大地の凍てはあまねくとけつ
雨あとの空みづ/\し近く見ゆる山の上の松色古びたる
この頃にて長くなりたる夕日あたりあかくしめらひ見のしづけさや
冬丘の萱生地肌の雨じめり夕日長きに踏みのぼり見つ
  春暖
せゝらぎのこぼ/\こもる落窪をたわみおほへる木いちごの花
嫩芽ふく春山林しづけさをば立ちどまりきゝ立ちどまりきく
  くろ雲
片空へよどむ黒雲に夕日さしおどろおどろしも春の真盛り
片空へよどむ黒雲下びにて正面の夕日に遠光る李花

   牡丹と芥子
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
花びらの匂ひ映りあひくれなゐの牡丹の奥のかゞよひの濃さ
この室のしづもりみだるものもなく床の牡丹のほしいまゝに紅き
花になり紅澄める鉢の牡丹しんとしてをり時ゆくまゝに
床の間のをぐらきに置く鉢の牡丹白牡丹花は底びかりせり
花びらをひろげて大き牡丹花に降り出の雨のぢかにぞあたる
牡丹花の大き花びら萼はなれ低木の下の地に移りたる
低き木の大き牡丹花なくなりてその根の土に花びらぞある
  芥子
のびきれる芥子の太茎たゞ一つのこの真白花を今日ひらきたり
芥子の莟花になり了へ花びらに莟のときの皺のこしゐる
芥子の莟咲きてあらはれし真白の花びらの皺の光りかげりはも


大正十一年

   雨後新樹
夜あがりの瑠璃蒼空を走る雲かろやかにしてこゝだはしるも
雨あがりの天気とみにあつし若葉山いちはやく出て松蝉がなけり
日なた来ていこへばけだるし耳につき松蝉じり/\鳴く山の下
ゆきめぐる楢若葉山下草に洩れ日ちらちら揺れさだまらぬ
日かげれば若葉はくもりこの見ゆる景色の気持とみにしかはりつ

   深夜汽笛
真夜中にひとり目覚めてそのまゝゐるわれに響きとゞろく遠方の汽笛
真夜中のこの夜の更けに鳴る汽笛しばらくとよみて鳴り了ひたり
真夜中に遠方の人の鳴らす汽笛たま/\覚めてわがきくものか

   峡のみち
柿紅葉枝はなるゝありおし黙り一人歩める峡の畑に
この峡にわれ一人なり近くにてほそ/゛\澄めるせゝらぎの音
ふり出でて笹にあたる雨の幽けきに耳すまし歩みわが行く山路

   夜道
夜さむ道向うにきこえそめしせゝらぎに歩みは近より音のところを通る
せゝらぎの音するところに来かゝりしがまた遠退きてわが夜道すも

   冬来る
背戸畑の白菊の花紅みさしあはれことしの秋もいぬめり
雑木林の黄朽葉ぬらすしぐれの雨しづかに降りて音の冷たさ
森の木の幹立深くうづめつゝ日温みたもつ今年の落葉
今年の葉うづたかく散りこの森のどの木の幹にも冬日ぞあたる
このまゝに真冬をとほす常磐木の葉は青ぐろくぢゝむさくあるも
雑木林裸木の枝もつれあひ日を受けてをり冬山これは


大正十二年

   春光
榧の木と接骨木並べり春さりてにはとこ芽ぐみ榧ぢゝむさき
地の上にてわが手ふれゐるこの欅は高みの梢へ芽ぶきつゝあり
庭の面のむらさきつゝじ晩春の夕冷え時を艶やかに冴ゆ
遊びつかれ夕日流らふる椽台にてさくら餅を食めば何かさびしも

   思ひ出
草にゐてわりごひらけば真上より野天の春日握飯を照らす
草にゐて友と弁当つかひをればこの友のことがいや親しもよ
泊る町へ春日夕づき未だつかずだまりこくりて歩く久しさ
とく寝ねばや夕方宿よりあふぎつる彼の高山を明日は越えんに
今日通りし村里野山眼とづればうかび来るかもよ身はつかれ寝て

   新緑
若葉樹の繁り張る枝のやはらかに風ふくみもち揺れの豊けさ
若葉枝のしみゝの奥にかもされゐるこの明るみよ濃やかと云はむ
向山の雑木の若葉風とほり揺れいちじるく夏さりにけり
昼の雨はれんとすなり雲にふくむ真日の光に若葉の明るさ
向山の濡るゝ若葉に雨空の明るみ映り昼はふかしも
嵐いま迫りつゝあり向山は樹々大揺れになり音たゞならぬ

   初秋
雨やみてとみに秋づけり村ゆくに物あらふ流澄み透りたる
雨あとの秋づきしるしいとゞしく心よるもよ土に草木に

   地震
  震災の時──鎌倉にて
地に坐り立木に寄れば矢継早に地震とよみきて地も木もゆらめく
  横浜火災
真綿雲歟盛り上り来る量を見て強ひてうたがはず雲と定めて
  当時われ床に在り
ひた土に床を移せば顔の上に靡かふ萩のみやびかになびく
  二日追浜より飛行機来る
家族等と飛行機見たり羨しくもたのもしくも見つその飛行機を

   晩秋初冬
  菊
白菊は花びらの光沢おのづからかゞやかにして園に臨めり
朝のつゆのつめたき庭に下りたちて菊の花剪れば香のきよみかも
陶壺に黄菊白菊挿したれば花々寄りそひ黄のそばに白
  冬意
雨傘をひらけば音あり冬めきし時雨の中に朝戸出するも
  十一月
からびたる木の葉のそよぎきこゆなり十一月に入り日ざしきらゝか
木々わたる風の音からび鳴く鳥の声するどくしてすでに冬なり
十一月の日かげさむけき午后の風さやさあひつぐ笹の葉の鳴り
向丘の櫟のそばに木の葉日々に黄ばみ鋭き蒼空とかけはなれ見ゆ
  夕寒
日沈みて藍くすみたる夕べ空底なき寒さをたたへたるかも
日の暮のきびしき寒さやゝにゆるび空つゆじめる月夜になりつ
これはこれ櫟の立木枝わかれ細かき梢の冬空させる
  鎌倉の家
この谷戸の紅葉を濡らす夕時雨移り住ひて冬四たびなり


大正十三年

   なづな
鎌倉の山あひ日だまり冬ぬくみ摘むにゆたけき七草なづな
なづななづな切抜き模様を地に敷きてまだき春ありこゝのところに

   春来る
夕つ方降りいでし雨の夜のほどろ眼さめてきけばゆたかにふれり
よべ一夜天つ春雨ゆたかに降り今朝ふかく濡れし土のいろかも
室の内に瓶の梅の花のにほひみち午後あたゝかに天気くもれる
花瓶の梅さかりなり室の内の夕あたゝかさ春かたまけぬ
夕日かげ物になじめりまさしくも甦りたる春のしるしに
  鎌田敬止君に
枕辺に草花鉢あり君が来しきのふの今日と思はざらめや
きのふ君が坐りゐしところ今日の日は畳の上に朝日さしをり

   牡丹
しばらくありて真昼の雲は処かへぬ園の牡丹の咲き澄みゐること
真昼の日園に照りみち牡丹の花光をふくみ咲きあへるかも
くれなゐの牡丹花深みおのづからこもれる光沢の見るほどぞ濃き
夕園の空気のよどみに牡丹の花しづもりたもてりおのも/\に
春ふかく曇れる空ゆこぼれ来て雨の脚光る牡丹の園に
春の曇りいやふかくくなり夕園の牡丹白うきくれなゐしづむ
牡丹の八重の花びら垂れ重り園しづかさにいまだたもてり
  新樹
ふり過ぎし今のひと雨若葉樹の一ぱいに含み大粒零す

   室内花卉
     或人より花を贈られたるに
  牡丹
牡丹の花にむすべる玉は今朝ほどの霧雨のつゆか臈たきかもよ
瓶の牡丹うす紅を匂ふ二花のおのづからもてるけぢめを愛す
艶々の白と紅との牡丹花受け朝鮮の壺のふくらみゆたか
夜の室に牡丹が放つ香をつよみ壺次ぎの間に遠ざけにけり
  芍薬
花を下に嬬がもてこし茎ながの白芍薬に蟻つきてをり
瓶にさす白芍薬に蟻つけり季節の花のこの鮮らしさ
瓶にさす芍薬の花茎長にかたむきかゝりて此方に薫る
瓶にさす白芍薬の花二茎あまりうつくし室内に来て
  薔薇
瓶に挿す白と紅とのばらの花あひよりてあるに白もよく紅もよき
剪花の紅ばら挿せば美々しかる簇りつくれり壺一ぱいに
瓶にさす燕脂紅ばら朱紅のばら見るに心のときめきおぼゆ
この薔薇は鮭の紅みもち匂ひよく西洋花らしさよいかにもしやれたる
鮮らしきばらの剪花朝園の鋏の音をきくこゝちする
壺にさす自薔薇紅ばら花相寄りいやくきやかに映ゆる白と紅
壺の縁へ重みにうつむくばらの花その持つ匂ひをつゝましく匂ふ

   茶室閑適
軒若葉畳にかげするこの室をほの明るとや云はん小ぐらしとや云はん
軒若葉かげする畳に坐りゐて掌の●(ツチヘン+「宛」)ゆ茶を愛しむかも
青芝の上にかげさすとさみづき新芽さしひらき揺れたわやかさ

   新秋
向うの山に夕陽さしをり夏を経ておとろへ見ゆる木々のしづけく
遠き森を夕陽染めをり初秋の村かげり冷えて煙這ひつゝ
何処よりか烟にほひて初秋の夕ぐれかへる道にひもじき
  朝涼
朝涼しみ朝顔の花のいろよさのあなみづみづし一輪一輪
朝涼の静けさに見る目の前の瑠璃あさ顔の輪の大きさ
  ○
手を洗ふ水つめたきに今朝の秋や身を省みて虔しくあり

   裏山
おのづから夕風かよへかそよぎゐる秋萩の花白芙蓉の花
裏山の青萱ぬけいで咲く百合の涼風のむた大きくゆらげり
梅雨晴れの風よろこびて打ちむかふ裏山百合の星形の大花
うら山の青葉低技と脊高百合ゆれちかづきをり風すがやかに

   草の芽
土間よりぢかに立ちたる青太茎春たけなはにしてこの草生ひし
春ふかき大地の温気にかもされて立ち来る草の瑞青太茎
夜べの雨晴れ上りたる真澄み空山の櫟生新芽の白き

   菊
秋暮れて今年もさむし午後はやく日かげる庭の白菊の光り
倒れ伏し土はねかれるやせ菊のもたげし茎のいくつもの蕾
やせ菊の倒れしまゝにもたげたる蕾は匂ふその黄いろさを

   時雨
雲かゝり一時雨来つ今までの日向の菊がぬれてゆれゐる
時雨来て雨だれきこゆ椽先の白菊ぬるゝもしばらくの間
葉より葉へつたふ雫の音久しく軒端ひそけき昼間の時雨
柿もみぢ濡れいろあかく時雨すぎ山家の脊戸は又日和なる

   桜紅葉
西空の夕映えに立つ若木桜直技にのこる葉はもみぢせり
散りのこる桜もみぢの幾ひらの枝に垂れてあり夕さむ/゛\と

   冬の雨
磯の町に冬の雨ふり道の砂濡れてくろめりこころやすきかも
磯たゝく波やはらかに冬の雨しみゝに降りて今日の静かさ
冬の雨磯砂畑にふり入れり青菜のぬれのつべたくぬめらか
磯村の砂に降り沁む冬の雨音しみゝにて心いとまあリ

   曼珠沙華の歌
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる徑
けたたましく百舌鳥が鳴くなり路ばたには曼珠沙華もえてこの里よき里
曼珠沙華の花の群りに午後秋陽秋陽照りきはまりゐてむつつりしづか
  わが故郷にては曼珠沙華を狐ばなと呼ぶ、わ
  れ幼き頃は曼珠沙華の名は知らざりき。
舂ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち
曼珠沙華真赤に咲き立つほそ徑を通りふりむけばそのまま又見ゆ
曼珠沙華毒々しき赤の万燈を草葉の陰よりささげてゐるも
曼珠沙華の中ゆ千も万も咲き彼岸仏の供養をするか
曼珠沙華あやしき赤の薬玉の目もあやに炎ゆ草生のまどはし
曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出るとおもふ大人の今も
町を近みくたびれ歩むみちばたにさいなみ捨てある曼珠沙華の花

   小春日和
障子明くれば音かろらなり小春日和さ庭は寂びて山茶花の花
満開の淡紅色山茶花かつこぼれ芝生匂へる花びらの数
庭芝に山茶花こゝだ落花せりおのおの保つ咲き癖の反り
ゆく秋の夕陽の淡さほの黄ばみしづまりかへれる櫟生の山に
こもり居の昼過ぎくらし窓さきの木犀ぬらすびしよ/\の雨
小春日和紅葉の染めし庭はたゞ小鳥来てゐる囀りばかり
  名月
うろこ雲に月いざよひて縁にさす光うすれぬいまは早寝む

   折にふれて
寂しさを思ひ開きて枕辺の草花鉢を私かに愛づる
夢うつゝに落ちゐし厳しき怖ろしさ覚むればしづけき深夜こほろぎ


大正十四年

   冬日
あたゝかき冬日かげする一むら雲風かさかさと笹生音さす

  わが家と繊月光
早くさせる座敷の夕戸鉢前の山茶花の花をまさびしくせり
暮れのこる寒空の下戸をさせるわが家を見たりこれは又さびし

   紅葉
木の下の毛氈に坐りさし蔽ふもみぢが枝と何ぞしたしき
身近くの一木の楓技ぐみのみやびやかさよもみぢ葉つけて
椽台に帽子を脱ぎて仰ぎ見るその紅葉の木このもみぢの木
紅葉の重なりふかみ夕日かげ透りなづみて紅よりも紅

   水仙と万両
  水仙
冬庭は落葉の後をおちつきてすがしく目に立つ水仙の青
冬庭の荒びし土に水仙は葉に反りうちて萌え立ちてをり
霜しのぐ水仙の葉の萌え立ちは或はよぢれて莟芽抱けり
  万両
嗽ぐ寺の壺庭苔ふかみ万雨の実の赤さもあかき
戸をさしてわが家の姿すげなく見ゆ夕さむ空に繊月懸り
繊月の乏しき光鉢前の山茶花の花に或ひは宿れる

   早春花
山畑の白梅の樹に花満てり夕べ夕べの靄多くなりて
山畑に満開すぎし梅の花黄ばみ目に立つ夕靄ごもり
土間より直かに莟芽もたげつゝこれ等の福寿草の太短かさよ

   顔見せ芝居
早く来て序幕を待てば土間の桝せばきも便りあり菊日和の冷え
引幕に対へる心いとまあり他所見をしつつ茶を飲みてゐるも
大和路へ冬入り来りこの朝け寺にありてみる庭の万両



補遺

   未定稿(二首)
日の前の雨雲うすれ冬菜畑みどりの濡れの萌黄にあかる
  ○
つゝぬけに真夜の寒気にひゞきわたる凍てたる土におこる物音

   旅
大みそか田舎はさすが長閑にてひな歌とほく庭とりのなく─明治三十四年作─

   折にふれて
かけ茶屋のおうなかへりてみ社のもりにさびしき蜩のこゑ
尼寺のせとのあかだなあかだなに一枝のせしあきはぎのはな
村長の病はいえずこのあきのむらの祭のさびしくもあるか
つゝ負ひて畑道かへるかりびとのうしろで寒くさす夕日かな
せきれいの庭石つたふ日あたりのこけぢ静かに山茶花のちる
木枯の寒き大路をよこに折れてこの細道のあたゝかきかな─明治三十四年作─






   編纂後記

 本書は故木下利玄の明治三十一年以降の歌千四百十七首を収めた仝歌集である。即ち「銀」(ニ首九十九首)、「紅玉」(改訂版にして五百十六首)、「一路」(三百五十八首)、「みかんの木」(李青集所載、百九首)の四種の歌集と、「銀」以前及「銀」初期時代の作、即ち「あけぼの」、「竹柏園集第一、第二編」、「玉琴」、「玉川集」、其他当時の「心の花」所載のもの合せて百三十三首、及び「一路」に佚せるとおぼしきものにて死後原稿中より発見せる未定稿二首であつて、「銀」、「紅玉」の字句はいづれも晩年の改訂に従ひ、改訂未決の作はそれぞれ歌の傍に其推敲書入を未定のまゝ六号活字にて並べ収めることにした。
     ○
 編別に於ては従来の四歌集が製作順なるに対し、一々内的生活の記録に照して事件の年代順にし、以て面目一新に努め、利玄の歌に対する批判に新資料を与へんことを期した。唯明治卅八年の記録不足のため明治三十九年六月以前乃至三十七年歳暮の作に属すべき二三の歌の混入せるおそれがあるが、今のところすべなく本文の如く暫定した。更に資料の探究により訂正するつもりである。又死の満一ケ月以前たる大正十五年一月十五日の日記に「けふは紅葉見物の歌を考へた」とあるが、「水仙と万両」の歌五首はいづれも其後の作に属し一月二十五日前後の作てあつて、病中旅を恋ふる面目が見えてゐる。此あたりは其間の消息を伝ふるため故意に製作の順にしたのである。
     ○
 所収の略年譜は大正十五年四月未亡人と共編せるものであつて、日記其他の記録文章によつて編したものであるが、小旅行は煩を厭うて記録しなかつた。故人の友人諸兄の援助によつていよいよ完全なものとしたい念願である。
     ○
 写真は「大正五年八月十一日於但馬城ノ崎東山公園木下利玄」との裏書がある。此の他其後大阪にて撮影せるもの、鎌倉名越の家で写したのもあるが、故人の面目風貌を最もよく伝へたものとして未亡人の推した此の一枚を掲げることにした。
     ○
 本書の出版にあたつては、第一に今病床にある未亡人が力を思ふ。第二に出阪の大体の話をまとめていたゞいた故島木赤彦先生を憶ふ。氏が故人の選んだ助言者としての存在は編者にとつていかばかりの力であつたらう。今本書の出版もまたず三月二十七日長逝されたことは殊に寂寥にたへぬ。諏訪湖の昼の光を遠見つゝ其葬りに列しても之を思つたことである。第三に岩波書店主人岩波茂雄氏及び又々装幀をたまはつた岸田劉生氏に深く感謝する。
     ○
 本書を以て木下利玄歌集の定本とすべく今後も補遺訂正を怠らぬつもりであるから大方諸賢の御援助を特にお願ひしたい。
     ○
 自分は其危篤の病床に故人より出版を委託せられて、その歿後一ケ年あまりの間に、自選歌集「立春」、「改訂紅玉」、歌文集「李青集」の三書を出版し、今や最後の仕事として此全歌集を出版しえた。以て故人に語るいさゝかのよすがを得る如くもおもふものである。
  大正十五年四月命日の朝
       風渡る海棠の蕾ほの紅きを見つゝ
               石  榑   茂






大正十五年七月一日印   刷
大正十五年七月五日第一刷発行

   木下利玄全歌集
   定価二円八十銭

版権所有

著者    木下利玄

   東京市神田区南神保町十六番地
発行者   岩波茂雄

   東京市神田区錦町三丁目十八番地
印刷者   白井赫太郎


発行所 東京市神田区南神保町十六番地
      岩波書店
           電話四谷五八七〇番
           振替東京二六二四○番





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