瑠璃光

            与謝野晶子

栄華など見も知らざるにおぼつかな捨てんと神に子の誓ふかな
堂の奥天主の前に進むなり代母の被衣わが子の被衣
或時はわれよりよきを知らねども今日子に引かれマリヤを拝す
われもまた天主に子をば奉るもの思ひする人に似るなと
母に似ず地獄と云へるところをば幻にだに見も知らぬ人
わりなくも尼君達の歌声に涙流しぬ子の死ねるごと
御堂なるもの皆いみじふらんすのわが長老のやまと言葉も
少女子の祈りの心集まればましてマリヤの御像光る
尼君の黒き衣は身じろぎにそよとも鳴らずいみじかりけれ
尼君の握手を賜ふ広間より涼しき国はあらじとぞ思ふ
あぢきなき砂子の花と思ひつつ哀れになりぬ山女郎花
鈴虫を飼ふにふさへる美くしき子の少年のむらさきの帯
めでたかる今日の女王にあらぬごと人に語らんこし方も無し
年月を数へ給へと云ふ人に逢へることのみ昔に変る
心のみ思ひ上りてありしなど昔を云ふはあはれなるかな
こし方の華やかならばかへり見て嬉しからまし悲しからまし
一隅の心と云へる暗室が総てとなればあぢきなきかな
水色に灰色の層かさなりしそれも昨日の明るさにして
初めより死ぬ命などもたざりし石のたぐひに変るばかりぞ
一生の大道と云ふところにはあらぬ小径のなつかしきかな
はかなさの慰むばかりめでたかる友染どもをもてもこよかし
今日著れば夏より馴れし麻なれど秋の大気に触るるここちす
朝ゆふべ言はん言葉に代へて著る女の衣の美くしきかな
二三人しろき浴衣の人ありて月明のごとすずし山荘
八月の富士の雪解の水湛へ甲斐の谷村を走る川かな
(以下甲斐国にて)
末遠き桂の川も富士の嶺の雪解の水の行く道にして
をかしけれ浄衣のむれのあと踏みて下の吉田を歩めることも
草高き原のおもてを風吹けばまぼろしの如馬車の現る
いみじかる雲に向ひて船出する船津と覚ゆ川口の湖
石門に第一境と書きし人入りつる道をわれも求めん
人間を心におかず山風の騒ぐところに入りぞはてぬる
ラバ黒しこれをば山の涙ぞと昔は見けん火なりしなれば
焼石の西湖の根場に船寄りてあはれあはれと身の思はれぬ
見かへれば西湖の磯に寄る泡のほのかに白く続きたるかな
つぎつぎに湖水を越えてゆく道のさびしくなりぬ八代の郡
ラバ落ちて欠けたる湖水全きに変ることなく哀れなりけれ
焼石もさびしき時のあるならん同じところに寄りもつどへる
片側に烏黒の泡のたまるなりラバと知れども悲しき湖水
低き木の柵めく門の内側の精進ホテルの山百合の花
輿にして烏帽子が岳を逍遥す身につもりたる憂愁のはて
もろしてふ沙羅の花をば手にとればことわりのままくづれけるかな
散るをのみ見て沙羅の木の栄華をば眺めぬことも寂しかりけれ
その木とも見ん梢無し雲間より落ちしと云ふにふさはしき沙羅
朝山の清き雫のここちする擬宝珠の花のつづくきりぎし
路やがて遠き信濃の国見ゆる山の背後に移りたるかな
奥山の毒うつぎとて女郎花萩桔梗よりあてなるが立つ
美くしき指紋の如く雪残る信濃の山の見ゆる路かな
まだ知らぬ冷たき風の登りくる渓を覗けば見ゆる湖
本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く
いと深き水がとどむる影のごと静かなるかな本栖の山は
本栖の湖地にしたたりし大空の藍の匂ひのかんばしきかな
本栖村清水に代へて湖を汲むと云ふなり三十戸ほど
空破れ富士燃ゆるとも本栖湖の青犯されず静かならまし
青木原あまねく陰の色となり信浪の山に雪ぞきらめく
わが思ひ及ばぬ山の起き伏しを甲斐と信濃の中に眺むる
甲斐の国霜の中なるむら山の青鈍色のなつかしきかな
上なるは明るく山の底なるは青繻子色の四つのみづうみ
そことなく筆触りほどもり上りかつ動かざる青き湖
明眸に勝る色をば作らんと塗りたる山の底のみづうみ
末とげぬはかなごとには似るも無し山の風物重りかにして
湖の烏帽子が岳の背にあるを青雲としてめでぬべきかな
富士川の白き腕は舞ふ雲と千草の底におぼれはててき
なつかしき烏帽子が岳の草の肩うつるところに船夫われを待つ
本栖湖は山のあなたとなりにけり青春のまた見がたきがごと
くれなゐの毒うつぎをば湖の小舟に置けば美くしきかな
山山を船夫指させど身に沁むは精進の浜のくらき焼石
ほととぎす樹海の波につつまれてうらやはらかく鳴ける黄昏
湖の一ところをば赤くして精進の村に灯のつきにけり
精進村ともし灯つきぬ鶯にうみて夜に入ることを急ぐや
日落つるとともに不思議はかき消えて富士むら山の一つとなりぬ
雲うごく富士ゆゑ心おちゐねば松籟山をいでて眺むる
山を見て愁ふる時に少女来て白き扇をとらせたるかな
大佐より樹海のラバを巧妙に踏みつる馬の話など聞く
ほの白き天の川をば見に出でて夜鳥の啼くに逢へる寂しさ
いつしかとわが花ごころ根も枯れて旅にこしやと夜の哀れなり
枕上窓のよろひ戸あかつきの樹海の風の末端に鳴る
暁は雲はた水も動かずて死の荘厳のここちこそすれ
白雲のうつるところに小波の動き初めたる朝のみづうみ
湖は杉をうつしてきはやかに孔雀の紋の作らるるかな
潮鳴る音にくらべて寂しけれ樹海の風は一しきりにて
世に知らぬ寂しき風の音立つる樹海を半雲おほひけり
湖をすべてななめに覗きたる撫の林のながき路かな
山高きところなれども地の底に湖畔は似たり精進の夕
白雲は富士の珊瑚の頂を少しくだれるきはに臥床す
ほの赤き小舟ばかりの影となり富士のうつれる暮方の水
去る雲も枕さだめて寝る雲もあてに振舞ふ富士の夕ぐれ
富士の嶺の裾野の雲に北海の猟虎の群もまじりてぞ行く
たそがれの風に靡くは岩山の蝋石色のつめたき玉簪花
湖の冴えたる上にうち曇る樹海の波をおける寂しさ
ほととぎすホテルの裏の花畑に臨める富士は紫にして
その昔ラバの流れし日の熱を水は思はずあまりに冷えて
こざかしく死をかたどりて焼石のありかくばかり醜くからんや
それぞれの中に入日を負ひて立つ松籟山の深き暗色
動かざる愁ひとなりぬ寂しなど思ひし頃に似ざる旅かな
山めづる心の外のこころより朝暮の霧の身にも沁むかな
旅の日の朗らかにして寂しけれ苦しかりしもなつかしきかな
われいたく異ることを思はずて富士の麓の湖畔にいねん
朝山の霧のしづくの松が枝にかかるを見れど湖の無し
御空をば引くや大地の引かるるや霧の中なる赤松の綱
藍色の濃霧の中に返の枝はつはつ見えてうぐひすぞ鳴く
包みつる霧よりいのち返されて走りいでくる湖の●(「船」カ?)
限りなく富士より雲のひろごりて人ははかなき物思ひする
二三人うすごろも著て遊ぶなり富士に対する赤松の台
曇れどもなほ真近きは玻璃の質失はぬなり朝山の雲
赤松が七つの条を引きたれば七間ほどの富士と云はまし
富士にある雲のひかりと赤松の精進の山の相てらす昼
日昇りて白き光にしびれ行く湖上の浪の見えわたるかな
自らの若さに飽くを知らねども山の青きに飽く日もあらん
さながらの形に富士をつつみたる真白き雲のをかしき夕
うぐひすや富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
船にさすからかさ重し湖へ富士の雲皆おちんとすらん
川口の湖上の雨に傘させば息づまりきぬ恋のごとくに
雲さわぐ裾野が原に萩の花唐紙の紅の色したる立つ
わが目には暗きところの見えずして白くさびしき山中の湖
そこばくの隔りをおき見る水の色は雲より寂しかりけれ
行くところ見がたく霧の迫りきて草の匂ひの立ち迷ふかな
富士の雲つねに流れて束の間も心おちゐぬ山中の湖
から松のところどころに屯する裾野が原に霧くだりきぬ
籠坂の峠に及び見かへれば雲に引かれてなびくみづうみ
雨こぼれ葡萄の色の山の霧うづまくもとの籠坂の路
(以上)
ひと本に思ひあまれる紅き花あまたつけたるアマリリスかな
刺しつれば禍の矢と思ひつれ傷の口より薔薇流れ出づ
心をも綾の衣がやはらかにつつむと知りぬ女人と生れ
西方に浄土をもたずいつとなく男の胸に天堂を置く
人の世を浮べる雲といひなすはなまめかしかる教へなるかな
恋しきは近きいにしへ忘れんと涙流すもそのほどのこと
消息に墨のしづくの散るものかささやかなれど魔の形して
愁ひつつめでたきことを思ひつれその世を今になすよしもがな
燃え立つも消え行くことも目に見えぬあてなる恋の焔なるかな
恋すればわれも五彩の円光を負へる仏のここちこそすれ
第一の獅子に乗りたる魔王をば捕虜としたるそののちのこと
黄金の恋のこころが流すなる紅き涙よつきずあれかし
金閣寺北山殿の林泉にいつ忍び入り咲ける野薔薇ぞ
大徳寺唐の格子のあひだより皐月の光させばめでたし
ほととぎす踏むにならはぬ白けたる京の御寺の簀子にて聞く
加茂川の夜の灯なんどは数ならず大極殿の柱めでたし
山よりも御所の木立の黒めるがなまめかしけれ西京の夏
故郷を雪ぐもりする一月の末に見捨てて海行かん君
(以下茅野蕭々子との別れに)
やるは憂しうまごの世まで帰りこぬ浦島と云ふ人ならねども
身の弱く二とせほどの別れにも怪しきことを歎きとぞする
君見よと烽火を揚げんさかひにもあらず心のうちに忍ばん
かへり見をしつつ行けかし此方へは海賊船のごと走せてこよ
(以上)
山の水熊の胆とも云ふ味を少し混へて悲しかりけれ
なだれすれ雪に当てたる日の鑿のここちよげにも見ゆる昼かな
こちたかる丹塗の箱の後ろより蟷螂いでぬ役者のやうに
天の川いつ見え初めんあきつなど飛びかふ空の青き夕ぐれ
暑き日や煉瓦の塀の古りたるに忍草しげれる庭の北がは
七月の夜能の安宅みちのくへ判官おちて涼風ぞ吹く
吹くとなく紅き木の葉に従へる山風ありて霧の晴れ行く
勢につかで花咲く野の百合は野の百合君はわれに従へ
大学に行くなかれなど云ふ人をあらしめぬこそうらみなりけれ
大学は毒舌の罪きはまりて追はるるきはもめでたかりけれ
語らへばゆふべの空に月出でぬ骨牌の王の横顔をして
大路より杏仁水の夕の気ながれよりくるわが白き窓
人と居ていつしか明日のあることを忘るるまでの甘き夜となる
冬の日の倒るる如く落ち行けば空虚に残る裸木と人
初秋や月光荘のおしろいとこころの通ふ夕ぐれの風
いつまでも月光荘のおしろいの香に夢を見る我身ともがな
なつかしき秋の山辺のしら雲をおしろい執りて思ふ人かな
われに似ずこよなく思ひ上りたる水おしろいの香ぞと覚ゆる
ひなげしを分けて出でこしめでたさも忘れ去るべき世のここちする
夏の花漫りに咲くとなげくなりいつより心変りはてけん
散りし罌粟男に負けし形してなほ自らを捨てぬめでたさ
六月や長十郎と云ふ梨の並木に立ちて明きみちかな
時は午路の上には日かげちり畑の土にはひなげしのちる
温室に入ればメロンのかかりたり豊かなれども花に勝らず
ありなしの煙の如くゆらめきてかかる葛をくぐる温室
丹の塔を五つの弁が護りたるこころも知らず南国の蘭
たぐひなくな忘れ草の日の澄めり頼むところの深きなるべし
少年の花菱草に蝶の寄り蜂のきたりてうづまきの立つ
丘の上雲母の色の江戸川の見ゆるあたりの一むらの罌粟
隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな
をとどしの弥生の末のことを云ふ木草に逢ひてなつかしきかな
白薔薇は真紅の薔薇に気上りしわれの涙に従ひておつ
知りがたきことを究めて薔薇の散り智慧に触れざる雛罌粟も散る
天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花
二三人紅き野薔薇の傘形のあづまやに入りよく笑ふかな
ひなげしと遠く異る身となりぬ松戸の丘に倚りて思へば
くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし
人の云ふいつはりにだに動きゆく心と見ゆるひなげしの花
雛罌粟はたけなはに燃ゆあはれなり時もところも人も忘れて
浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ
眠れるや覚めて思ふやうまごやし安き心のわがうまごやし
白まじり雲したたりし花と見え菖蒲咲くなり低き畑に
紫のあやめがわれを描くなり若き友をばひなげしの描く
菖蒲よりけしの畑に通ふみちほのかに濡れてなつかしきかな
花園は女の遊ぶところとてわれをまねばぬ一草もなし
ことやうに縞萱なびく信州のかの連山の雪をおもへと
夏の日の未の刻もすずしけれ繻子の芝くさ縞萱の帯
むらがれる金鶏草に影と云ふくらきもの無し靡けど寄れど
黒めるは終りに近き罌粟なれど美くしきこと初めに倍す
昨日のあたひを知らぬひなげしの盛りの花と思ひけるかな
ひなげしが飲みしめでたき薬をば人も服してその毒に死ぬ
ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る
うすものの女の友を待ちえたる松戸の丘のひなげしの花
風立てば草の花皆馳するなりわが目の前の五千里ばかり
こちたかる黒船に似る実を結び変りはてたる園のえにしだ
酔態の朴の花こそめでたけれいやしき土の二ひろの上
花束を抱けばかよわきひなげしの脚こぼれいでわりなかりけれ
松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝
死なんとも云はで別れし人故に思ひ上りもなくなりにけり
(以下有鳥武郎氏を悲みて)
君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はば人怪しまん
書かぬ文字言はぬ言葉も相知れどいかがすべきぞ住む世隔る
しみじみとこの六月ほどもの言はでやがて死別の苦に逢へるかな
末つ方隔てを立ててもの云ひき男女のはばかりに由り
なつかしき書斎の戸口閉ざされし前にはかなき人の身を泣く
難ずれば泣きうべなひて思ふ時亡きまぼろしの笑むここちする
信濃路の明星の湯に友待てば山風荒れて日の暮れし秋
山荘の終焉の室何故に一目見にけんそのむかしの日
ゆくりなく君と下りし碓氷路をいつしか越えて帰りこぬかな
客中の君が消息山陰の海にもまさりさびしと書ける
赤倉に野尻の湖を見しほどのさかひにせめて君のおはさば
わが泣けど君が幻うち笑めり他界の人の言ひがひもなく
とこしへの別れと知らず会場のロオランサンの絵の方に来し
から松の山を這ひたる亡き人の煙の末のここちする雨
鈍色の空を眺めてある外のいみじきことを知らぬこの頃
(以上)
大地をば愛するものの悲しみを嘲める九月朔日の天
休みなく地震して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街
光明を捨てし都がみづからを焼く焔上げあかくすれども
わが立てる土堤の草原大海の波より急にうごくなりけり
おぼろげのものと不思議を思はざる心となりて悲しかりけれ
わが都火の海となり山の手に残るなかばは焼亡を待つ
凶器をもつてふことはさしおきて天に比するに足らぬ人間
身の生くる幸あるやあらざるやわが唯今の大事とはこれ
地震の夜の草枕をば吹くものは大地が洩らす絶望の息
一瞬にして都焼くもろしてふ心にだにもたとへがたかり
大正の十二年秋帝王のみやことともにわれほろび行く
天地崩ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき
道行くは目ざすところのある如しうづくまる身のあはれならまし
地震の夜半人に親しきこほろぎのよそげに鳴くも寂しかりけれ
この夜半に生き残りたる数さぐる怪しき風の人間を吹く
地ほろぶるこの期にいたり泣く涙いささか甘くおもほゆるかな
月もまた危き中を逃れたる一人と見えぬ都焼くる夜
みづからの乱れ心の相をして都の半燃え立ちにけり
誰見ても親はらからのここちすれ地震をさまりて朝に到れば
地震の夜は茅草のごとくろ髪のしとどに濡れて明け行くもかな(ママ)
天地の大動乱の一部をばなさんがために人やふためく
身ゆるがし地の苦悩する悲しさよともに死なんと云はまほしけれ
空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月上りきぬ
天変がもたらすことの何なるを知らぬものなきけしきなるかな
傷負ひし人と柩が絶間なく前わたりする悪夢の二日
われの身に劫火の来り及ばぬを知りつる後に心おちゐず
人あまた死ぬる日にして生きたるは死よりはかなきここちこそすれ
なほも地震揺ればちまたを走る人生きとげぬなど思へるも無し
露深き草の中にて粥たうぶ地震に死なざるいみじき我子
都焼く火事をふちどるけうとかるしろがね色の雲におびゆる
死ぬるもの幾万と聞くなげけるは数なきまでの数にこそあらめ
愛憎の極度のものを運命がほしいままにも現せるかな
こころをばいまだ知らねど妖雲のたつみの方に盛り上りたる
魔の鳥が火の翅のべ羽ばたきす正目に人の見うべしやこれ
立つと見る家のただちに焼亡す火の泉より火のほとばしり
地震と火のややしづまりて雨降りぬあらぬ姿の都の上に
たのみなく拠りどころなく人の身をわが思ふこと極りにけり
この都三日三夜燃えてただわれのわななく土を今残すのみ
人の子を地より追はんとするものの力に抗すその群この群
帝王の都の灰となりしのち空行く雲もあはれなるかな
ニコライの四壁の上の大空を雲ぞ流るる覗きに寄れば
天変のいと大きなるものに逢ひさらに寂しき心となりぬ
禍ひを与へて心たのしまぬ空のけしきとかつあはれなり
あな悲し逆まに地の回転すいかにかならんいかにしてまし
きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰
焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
わが心旅人よりも哀れなり焼けたるのちの駿河台行き
あぢきなきこの焼土に東京の芽のいでんとも思はれぬかな
ニコライの塔のかけらにわれ倚りて見る東京の焦土の色
もろもろのもの心よりかき消さる天変うごくこの時に逢ひ
東京の銀座の跡のやけつちの横につらなる地平線かな
かくてなほ無限の時をもつことに誇る自然のうとましきかな
焦土よりすでに都の興るとよわれの築くはそれに似ぬかな
病より癒えつつ寂し大いなる水を渡りてこし身のやうに
箱根路の大涌谷の劫風の身に沁む罪をただ一つ持つ
夕ぐれは煙の質の薄とてうしろの山に紛れけるかな
鈴虫がいつこほろぎに変りけん少しものなどわれ思ひけん
高山の秋草の原ゆふやけが紅き縁とりなまめかしけれ
はてもなき大地の月夜そことなく浮きただよへる虫の声かな
しろがねにいまだ至らず初秋はつりがね草の色といはまし
こほろぎが清く寂しく鳴きいでぬ雲の中なる奥山にして
あるが中に恋の涙のわれもかうわれの涙の野のわれもかう
松山に蔦の臙脂のひろごりて秋の朝のすずしかりけれ
美くしく我等の前に撒かれたりアポロの符のひなげしの花
昨日を司りたるものありきかく思ふのみ寂しけれども
わが上の不思議を見よと思ふ日も愁ふる如く人の云ふかな
手の上の砂に勝らずとく尽きし夏の初めの夕がたの雨
昔より樫の梢に住みなれしさますまことは遠き灯にして
雑草や柄のある星をもてあそぶをかしきものも混りたるかな
おりたちて水を灌げる少年のすでに膝まで及ぶ向日葵
秋草の山のぼる馬花を折りかかへて降る浅間の少女
人来り焼けし木立に呉竹を添へぬ生死の絵巻かこれは
夏の夜の紫玉の中に休らへり白鷺のごとうつくしき月
紅玉の重き沓をばうがちたり羽は得がたき宿命と知り
故ありて苦しき人と故ありて楽しき人となりにけるかな
人はいざわれは心の曲線のうつくしさをば悟るといはん
昨日の栄華の屑の身なりとも思ひなさまし寂しきに過ぐ
わが生くる乳の如くに思ひつる豆相の山の温泉も崩ゆ
月射すや投げたる網のひろがれるはかなきさまのあはれ東京
初夏のいみじき風にとらへられしらじら散りぬ日の前の雨
故郷の北に向へる窓ありぬ友の祈祷の室のあはれなり
祈祷の室神は知らねどあはれなり友の涙の沁みぬと思へば
淋しけれイエスの弟子の片はしに備りてより愁へぬ友も
むさし野の野方の村を踏むと云ふことにはまして身に沁みし路
夏の霧地を這ひ歩き濡らしけん欅の涙つたはりにけん
雨降るや丘低くして滑らかに畑林などつらなる武蔵
信濃にて逢ひつる雨の匂ひして身の濡るるこそ哀れなりけれ
一ところ卯木は刈らず縛めし野方の畑の麦の中みち
むさしのの野方の路に雨降りぬ六月いまだ涼しきゆふベ
美しき少女をたたふドン・フアンも光源氏も憎むに足ると
黒髪は哀れなりけり何ごとか異ることに思ひ入りたる
うすものはタンゴを踊る細腰に薔薇は真白きたなぞこに見ん
夕立にてまりの花の濡るる見て湯浴ままほしくなりにけるかな
あてやかに白き扇の羽ばたけるたそがれ時の内房の縁
黒檀の卓水に似ぬ白鳥は棲まねど手など頬などうつして
湯の街の暗き湯小屋に夕顔の湯浴みてあらばをかしからまし
なほ覚めぬ夢見給ふと見ゆるなり藤むらさきのうすものに由り
パラソルのめでたき下に居給はで人は車上に移りけるかな
うすものや何処の王のかたはらへ行くや芝居の廊のいく人
うす暗き病の洞に自らの身を投げ入れてこし方と断つ
悲しめば病を得ると云ふことに思ひいたらで人のあれかし
病にもうつし心よ無くならで身の若しやと歎かれぞする
病して後の心の知りがたし思ひ入るなど云ふことも無き
氷をば枕に敷けど寒からず病むべかりけりもの思ふ人
病みてより夜と昼との連続のわづらはしけれ常闇となれ
いく人におのれ後れて歎くまに先立つ人となりぬべきかな
わが常の病室よりも昼明く夜の灯のくらし病院の閨
思へらく山に飽きたる人ならん廃墟の土に隣りて寝るは
焼跡の神田の町の病院のいと不思議なる朝ぼらけかな
われ病めは嗅げども触るる匂なし秘密の花にあらぬ薔薇さへ
焼土をすこしならせる病室の前に歪める煉瓦の炉かな
東京も上総もさびし稀にかくもらし給ひぬ鶴所先生
石の床崩れし炉をばロオマかと興じがたしや先生見れば
先生は痛き足のみ歎きます寂しきことはせんなしとして
目開けば先生ましぬこの庭に芍薬の芽をうつさんがため
病する耳が聴くなる騒音とさま変りたるさびしきこころ
まばろしに廻廊建ての水荘の目にも見ゆるは何のつづきぞ
筑紫より帰りし友を見ることも病めば悲しきこととなりぬる
紫の揃ひの日傘もたらして友かへれども足立たぬかな
焼けし棕梠黒髪のごと光りつつ筆の形に立ちて雨降る
雨の夜に六番町の使きぬむかしの君がしたまひしごと
花あまた人贈りくる病室にとりたがへても寝るにかあらん
ふらんすの煙草とるこの煙草など味ふごとし雨の雑草
その際の手術の室の光景を居合せし子のまた語り出づ
そことなく病める湖畔はなまめかし名ある病は限りあれども
ニコライも既に廃墟となりぬれば鐘おとづれず病院町に
廓の灯の無果花の木の乳のごと青く濁りて射せる病室
末の子も病しつるが七日してわが枕辺にめでたくも泣く
そのかみの広間の高き礎とむかひて寝るがあぢきなきかな
或家の塔ただ一つその外は形ともなきやけあとの土
火事あとの前栽の石ラバに似ず白く悲しくまろがれるかな
むらがりて蕗の生ひしも哀れなりありつる火事の焼土なれば
涙盛る小さき器のありと聞く海の姿と思へるものを
今日癒えて病院を去る人見てはうごく心もはかなかりけれ
病院の仮屋の廓を朝踏むも憎き夢とは思はれぬかな
森の木が皆火を噴けりしづかなるところを胸に描けるなれど
階上や八人の中に相思樹の作者をさぐる春の夕かぜ
風吹けば見え隠れすれありしのち東京の灯も船の灯のごと
あぢきなし夜に押されて地に近く点る灯がちとなりし東京
かくもわれ低き机によりながら恋をしながら死にてゆかまし
煙草よりうすものの如ひるがへる煙の立ちて愁はしきかな
海のごと花を落せどなほ紅し太陽に似るめでたき椿
鉢の花壺の花みな息づきぬ思ふことをば休めて見れば
わが女王太子の宮に入りませるいみじかる夜の春の雪かな
ある限り劣りて咲ける花も無しあさましきかな荘園の薔薇
薔薇を嗅ぐ蘇りたるあかつきの大気もこれに似んここちして
心にてほしいままなる恋するはなど罪あらん紅の薔薇
紅薔薇は真白き薔薇が大鳥の夢を見るごと人を思へる
たくましき宵の明星いでてきぬ薔薇にくらべて品劣れども
仮にだに寂しきことの混らざる身と思ひなし薔薇とある時
まぼろしの薔薇咲きめぐる日もありて衰へぬなど思はれぬかな
荘園の薔薇を日ごとに送られてうらなつかしき冬ごもりかな
薔薇の花今や終の近づきて限りも知らず甘き香を吐く
岡崎の蒼龍白虎めでたけれ夏の月夜のややふけしほど
玉よりも美くしければ涙ぞと定めぬ夏の山の清水を
桂川水おもむろに動けども船はしたなく流れんとする
(以下上野原に遊びて)
空またく山に没してほのぐらき渓間の船の十人の客
桂川富士よりいでて濁流に終るとな見そ雨降るものを
山百合のあまたの蕾水晶のごとかがやける水上の岩
雨の過ぎ斑に濡れし岩を見てさびしくなりぬ川の逍遥
きりぎしの岩半まで影のごと暗くも濡れて山の鳥飛ぶ
山の雨降りとどまれと甲斐の岸相模の岸にうぐひすぞ啼く
峡谷に入りたる船を安からず下に思へばさむし山かぜ
石の根の涼しき紺に身を置ける山の鶺鴒山百合の花
めでたくも隼のごと一瞬に龍門峡をいでしふねかな
船すでに龍門峡をいでつれば広き空より雨降りてきぬ
いと広くトロが通へる棧橋の這ひたる末も見がたき河原
幾筋となく川分れあまりにも広く寂しき甲斐の川かな
月見草うす墨色の山を負ひあはれなれども族多く居ぬ
船下り岩殿の山ちかづきぬ少し烈しきしぶきの中に
御前山犬目の奥に遠山を見せんとしつつやみし雲かな
船の先橋板にまで及ぶ日のかつらの川の高き水かさ
雨降るや水と河原の入りまじりはてなく広き山川にして
雨降れば甲斐絹の機の絹糸のうるめる白に似るかつら川
灰色の川の続きにむら山の見え隠れして馬橋を行く
きりぎしと言はんばかりに傾きて冷き川の板の仮橋
萩紅し二つの船のある水にいたる河原のとほき山川
山川の真白き浪にまもられて船あてやかにとどまれるかな
朧にも降りみふらずみすなる雨まして大河の上のあやなさ
大河の水彼方をば青く行きささ濁りしてここに渦まく
ひたひたと蛇籠に寄りて行く浪のやや常ならで雨船を打つ
針金に引かれて船の通ひたる渡しのあとのほそき継橋
月見草水の難にも逢ふ日かと満船の客あやぶめる時
かつら川彼処に此処にうづまきす三時がほどに濁流となり
日の三時雨に引かれて川浪のわりなくまさり富士おろし吹く
甲斐の雨真白く打たで河原をばうす紫にぼかす寂しさ
水ぐるまいと華やかに夕立の中にめぐりてうぐひすの啼く
河原より華奢を極めて水車めぐると見たる細流もこゆ
十余人つづきて山の路行けば夕立を撒く榛の枝かな
千年の榎の枝に掛けられしやぐらめきたるわが宿屋かな
蝉涼し忍草生ひたる板屋根を百尺低く見て立つ榎の木
虹いでぬ榎の下に否あらずわが甲斐路より相模にわたる
左なる榛の林に玉の輪をかくる紅かな高きに見れば
ひぐらしと清水の音と甲斐の雨降りしく音に山暗くなる
わが車月のひかりと横雨をこもごも浴びぬ山国を行き
(以上)
来し春に興る都と並べましわが楼台は目に見えずとも
そくばくの心萎へてある人に春の光よあまねくわたれ
家家が皆何事か思ひたるさま変りたる春も見るかな
思へらく今年は去年に繋がれず飛躍の後に至りしなれば
空晴れて春の初めとなりにけりかにかく去年を忘れましわれ
忘れてはいかなる国の都ともわきまへがたし銀座の春も
阿蘇山のやけ土原をあゆむよりさびし都の八百八町
東京の廃墟を裾に引きたれば愁ひに氷る富士の山かな
富士の山代代木が原の仮小屋のつらなる上に愁ひつゝ立つ
曇るなり冬の心のなほ絡む正月の日と云はまほしけれ
波のごと薄金の尾根うち並び昆布と見ゆる焼けたる樹木
われ故に動く空とは思はねど春日曇りてあはれなるかな
紫の女の襟の中にまでしみとほりくる廃墟のさむさ
その日より夢見ることも忘れつれ春よおのれを新しくせよ
黄昏れてうすく仄かに霧降れば旅の空めき悲し東京
ありしのち家低くして海に似る都なれども春の日を抱く
新しく春に逢ひたる花鳥の思ひを染めん百種のころも
今年より孔雀の鳥の緑をば人の少女も羽にすと聞く
宵過ぎし雨をききつつ思ふなり奈落と云へるやはらかき闇
降りつづく雨の世界に身を置くもふさはしきかな悩ましくして
大空も曇り日がちとなりにけり苦しかりつる年のくれ方
春と云ふ時を今より後にこんものとかけても思はれぬかな
或時の恋しかりける燐寸の火の光に似たる冬の日の薔薇
銀杏など少しこぼれてなつかしき薔薇の畑の霜じめりかな
ひなげしの花とある日に異らず冬籠りして思へることも
思へらく岳陽楼のきざはしを登りし人も皆おのれのみ
雲上のことと思はじ世の中のいみじきことの第一とせん
(東宮の御慶びの日)
みくるまの衣のいろめの物語人申すなり花のごとしと
桐の実の黒むところと一筋の溝をはさめる大木の紅葉
美くしきもみぢわが手に重りぬ誰より受くる祝福ならん
東京の廃墟の上にわななきてちる極月のこの朝の雪
天地のもの皆何を思ふらんまだ知らぬまで暗き極月
六道の修羅のさまをばひと目見て筆つけ初めぬそのさかひにて
(横浜なる石引氏の震災記の端に)
恐らくはわが墓に来て泣きぬべきかの旅人の消息の文
草も木もすべて怪しきかづらして狂へる日なり三月にして
恋しけれかぶろの菊に似る薔薇の築地に咲きし鎌倉の家
連山の襞の一つに触れも見で浅間の丘に寝るあぢきなさ
(以下信濃の旅にて)
浅間湯は筑摩の川の発すると云ふ山つづき松山に湧く
狂ほしく浅間の丘の斜面より吹き立つ風をいかがすべけん
客房の板戸の鳴るにおどろきてわれ温泉の靄に隠るる
山山の雪濃くうすしあまたたび見がたき昼の夢ならんこれ
一月の信濃の旅の明るけれ天がけるとも云はんばかりに
山の日は梓の川の流域の見えわたるまで全く昇りぬ
ありと見えやがて跡なくなりぬなり梓の川は遠方にして
浅間橋女鳥羽河原の真しろきは地の白山は天上の白
山国の雲の美くしもろもろの天女の相に馴るるここちす
浴房へ他のこほりを見て通ふ丸木の廓の悲しかりけれ
もの云はず泣きつつ夜半の雪降れる長き屋廓の右左かな
雪国の温泉町のあけがたのうす墨色のなつかしきかな
医王山神宮寺にて打つ鐘もないがしろなる渦巻の風
この国と飛騨のさかひに山ももへ重るものを日の歩み入る
連山の穂高と聞けるあたりよりほのかにしらむ朝ぼらけかな
連山のただ横ざまに長きかな地上のちから限りあるため
なふれそと筑摩平のへだてたる山の心の知らまほしけれ
安曇野の梓の川のひかること青玉に過ぐ一月にして
冷たしと感ずる山も覚えぬもあらめと雪の山哀れなり
浴泉のものうくなりぬ仙女をば願ふ心もまた捨てにけん
山の名をあまた知りたる宿主人現れつれば日も歩み寄る
山の日はやどやの裏の菜園のえびいろを愛でよき油塗る
蝶が嶽軽げに白し雪厚き穂高の峰のかたはらにして
山は山人は人ぞと山の云ひ人いひぬべきもの足らぬ景
死ぬばかり信濃の国に愛着す雪かがやし山斯くも云ふ
きらめくは雲が鎖したる山の顔見んと思へる明星にして
信濃路をめぐれる山の半輪に雪かがやきて月に勝れり
西北のつばくら嶽に極れる山にくらべてひろき空かな
浴泉す雪の中より通ひくるいみじき息をもてはやしつつ
見るよりは山の白雪深からん人のさむさにそれも変らじ
連山の雪にひかれてとどまればやがて浅間もうす雪ぞ降る
安曇野を雪早足に過ぎつれば雪とも見えずほの赤きかな
うす雪す上の浅間の湯のまちを横に抱ける赤松の山
白雲の中にてすなる人間苦生きがひありてわれも知るかな
山と水なまめかしかる一章とおのれの章の続かぬ辛さ
温泉が溝川となり柵のもとはしる音をば明方に聞く
白雪と朝のうす黄の日のひかり籠れる襞の並ぶ山かな
朝よりかくれてありし常念の峰雲を出で友遠くきぬ
飽くとなく浴泉の地を転ずるもかねて思はぬ寂しさにして
ひと列の蓼の穂のごと赤ばめる安曇平の日の出前かな
をやみなく散りかかれども肩濡れず寂しき雪の降れる国かな
山風の急なるにしも追はれつつ筑摩を出でて伊那の野に入る
潮尻の南はなべてなつかしき朽葉のいろの上伊那郡
天龍の大河の芽をば見て過ぎぬ諏訪の岡谷の町のはづれに
天龍は三尋に足らぬ水なれど門川のごと芹の青まず
こと成らぬみだれ心のおもむきに諏訪の湖氷せぬ冬
惑へる灯三昧にある灯もありて水は山よりあはれなりけれ
渚には一つの船の裂かれたる半身に似る細き船浮く
いさり男も恋に痩せよとつくりけん諏訪の入江の細長き船
人の云ふ非人の湯小屋傾きて川の芥にことならぬかな
温泉が間に人の身を置かず湧きて角間の川に流るる
身はおきて手をひたすなり温泉に馴染みもつかぬ旅心より
浅間より諏訪に来りて夕闇の湖畔を伊那の敏弼と行く
湖をおほふばかりの灯かげあり山の人皆世を楽めり
見るかぎり湖畔の山は美くしき燈火の縄にいましめられぬ
人早く来て住みつきし湖の四里の周囲の七ところの灯
末弱る蓼科おろし旅人は吹けどポプラの靡かざるかな
温し夜の片はしの残りたる諏訪のやどやの浴房の床
駅亭に小雪吹き込むやまかぜもありて我子の車を迭る
旅路より弟の手をとりていぬ丁の年を越えし一の子
子の車去りて七時経ちぬれば都に入りぬ描くまぼろしも
別後にも母はゆたかに浴泉記かかんと思ふいまだ驕れば
山岨の褄形したるしら雪とともにうつくし宵の明星
百合摘むと友のいひつる上諏訪の御堂の山に小雪ちる朝
諏訪山に板石を切る男より勝るとするはただ若さのみ
湖へ茅野と有賀を併せたる幅ある雲の下りてこしかな
わが燃ゆるこころと触れね千年をまちて氷の湖を見よ
水城なるかしらの石に旅人の現れぬなど雲のおもふ日
駒が嶽乗鞍が嶽その中の遥かなるにもわれ寂しけれ
みづうみの声ききつけし夕闇の諏訪の湖畔の桑畑のみち
かたはらに温泉流るる雪の洞作りて夢を見に通はまし
守屋嶽亀甲形にうす雪を置きたる華奢もなつかしきかな
透し見よ守屋の嶽の薄雪はたそがれ前のひと時にのみ
見る限り力張りたる山なれど湖水なれども明日いかならん
熱高き諏訪の温泉のみなもとを恋といはしめ今ひと度は
湖は心安げに生れいではた消えて行く灯をあまたもつ
御手洗の垂氷なれども白玉の燈籠に似てなまめかしけれ
蓼料のいみじき雪をのぞくなり諏訪明神の廻廊の窓
若くして驕る心に見んとせし水晶の滝かかる山かな
むつかしく物を思へど温泉の口傾かず止まず走らず
(以上)


 大正十二年七月より十三年七月に至る一年問の自作からこの一巻を撰びました。此間に富士山麓の湖水に遊び、また南信濃の旅をもし、稀有な大地震にも遇ひました。序に代へて巻頭に載せた詩も此間に作つたものの一部です。旧い親友である山本鼎さんが、また此集にも装幀の図案をして下さつたことを嬉しく思ひます。 (著者)


(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第五巻歌集五
昭和五十六年二月十日第一刷発行
昭和五十七年一月二十日第二刷発行
定価  三千五百円
著者  与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
    東京都文京区音羽二-一二-二一
    郵便番号一一二 振替東京八-三九三〇
    電話東京(〇三)九四五-一一一一(大代表)
組板  株式会社熊谷印刷
印刷所 多田印刷株式会社
製本所 大製株式会社