流星の道

            与謝野晶子

自序
 私はここに、大正十一年六月以後満一年間の自作の歌から選んで『流星の道』一巻を編みました。いつまでも歌壇の大勢の外に立つてゐる素人の歌を、かうして出版して下さる書肆があり、同時に愛読して下さる少数の友の絶えないことを、私は嬉しく思ひます。
 私は去年の大震に死を免れ、また此春の病気からも回復しましたが、以前から短命の予感される私は、かう云ふ風に歌ふ時がもう幾年も無い気がします。『流星の道』はやがて小さな個性のはかない記念として永遠の幽闇に消えてしまふでせう。
 附録とした二篇の蕪雑な感想は、近く或る機会に書いたものですが、私の製作の心持を知つて頂きたいために添へました。
  一九二四年五月
                    与謝野晶子



御空より半はつづく明きみち半はくらき流星のみち
恋と云ふ身に沁むことを正月の七日ばかりは思はずもがな
浦島がやうやく老をさとりたるその日の海の白波ぞ立つ
いつとても白き扇を携へぬわが哀れをば憐むやうに
わがおちし奈落の底に燃ゆる火も衰へがたとなりにけるかな
濡れてあり命傾くあかしとは思はれがたき熱き涙に
休みなく時が断つなるこし方のその外にあるこし方の夢
火と香ひ渦巻く中になつかしや恋しやとのみ云ふ病する
この中に身の滅びよと纒はるや真白き花の夢のつる草
風来り白き朝顔ゆらぐなりこだまが持てるくちびるのごと
あわつけき蝉のやうやく三昧に入りて日の落ち山風ぞ吹く
道白しここより流れ入りぬらん森をひたせる蝉の声かな
心より消えしにあらで滑らかに走せ去りしともいひつべきこと
秋の夜に君を思へば虫の音の波やはらかに寄る枕かな
たそがれの砂丘に風の渦巻けば淋しき雲に乗るここちする
人のごと唯一いろの悲しみに埋れてある我身ともがな
ここかしこ雑木の中にまろがれる深山の藤は見て寄りがたし
侮りて皐月がすなる光明の病と呼びぬ罌粟咲くことを
寝ねてわれ夢見ぬ花も無かりけり歎くあまりか驕るあまりか
彼方より牧神が来るとてささめきて覗き合ふなる雛罌粟の腰
わがさまは飽きて心の鈍れるにあらねば時に涙流るる
青春の唯だ一日ののちとして死につくことも安く思はる
何ごとに物ごりしたるかたくなに縦に咲きたる木蓮の花
自らの道を塞ぐに用ひたる手ぞ心ぞと疎むなりけり
何となくうらはかなけれ空見れば正月の日の西に傾く
人住まぬ島にも似たる清らなる白き椿と思ひけるかな
この頃は心に塵の積れるを覗かれじとて世の憚からる
昨日となしつることが明日逢はん世のここちして思ひ乱るる
唯だ一つ夏より秋へ人はこぶ車あゆめり吾妻平
(以下四万に遊びて)
車して十二ケ岳の麓行くさびしかりけり上つ毛の国
吾妻の渓の朝風信濃路に誰ありとしもなけれ恋しき
何とかや四万の名所の渓谷の底に青めるわが涙かな
片側に月忍び入り新湯川きよく痩せたる水となりぬる
しら浪と落合川のくしがたの橋杭見ゆれ柏木のもと
人の子は岸の砂楊に埋もるる新湯の川に月埋もるる
川向ひ船に疲れし相をしてあまたの人の坐せる家かな
家家は燈籠のごと灯の入りていでゆの渓の涼しき夕
砂の湯に隠るるほどの浅はかさもてわが恋は掩はずもがな
四万の里呑まんとしては躊躇へりをかしき空のいなづまの口
越の水信濃の水の落合に近き宿屋の夜のいねがたし
稲妻を山の宿屋の広庭に眺めて秋を待たんとすらん
牛の声ききつつ牛の夢を見ぬものを忘るる山のしるしに
十畳の座敷の壁に赤あきつあまたとまれる山籠りかな
暁や細き流と大きなる樋のならびたる渓の水おと
葛の葉は紫摩山荘の廻廊に似ずはかなげに岩を這ひたる
樋の水は後ろにしたる切崖の朱をうつしつつ零れてぞ行く
四万の湯の龍宮と云ふ浴房のうちに隠れてわが思ふ夢
四万の奥工場のトロの過ぎ去れば蓬の匂ふ山荘の窓
摩耶の峰抱く心となる時も背ける時も山おろし吹く
ちまき巻く日向見少女浴めよと云ひぬ深山に雷鳴る日
あてやかに玉虫の羽の色したるいでゆひろごる昼の浴室
松ありて越の国指す去年寝たる草枕をば知りたるやうに
杉木立杯ほどの白雲の摩耶の峰より散りもこしかな
女郎花葦かびまじり咲く岸に渡りこよとて置ける板橋
跡もなく涙は消ゆれ山川の真白き石は隠すすべなし
何となき草の匂ひに親みて砂湯の人とものいへるわれ
同宿の人の乾したる薬草に心ひかれぬ気の病して
川岸の草むらに居てつつましく三味をさらへぬ馬追虫は
山川の橋また水の樋を宿として冷たさを知らざる蜻蛉
水音の急なる川は陰となり隣の川の真白き月夜
かはほりの羽をもちたる山ありて渓をおほへり月昇れども
おのが路見出でしやうに月影をたのみて水の走る川かな
劫初より地に降りたる流星のすべてを集め川の渦巻く
四萬の奥月夜につづく東雲をめづる里人戸ざさずて寝る
障子より夜中の月のさし入れば川に沈める身のここちする
いちはやく朝を渡るがみやびかに見ゆる新湯の落合の橋
わづかなる菱形をおく空なれどあてに明け行く四万の奥かな
山風は河原の湯よりあらはれし刺青したる神を見て逃ぐ
花売の媼が前の広庭をゆききするまで消えぬ明星
親を追ふ小き馬のあしどりにまねびて走る山川の水
わが部屋へ山の蔭より寄せてきぬ赤きあきつの疎らなる群
水の脈わが見る前に乱れぬと日向見川のことを告げまし
わが心あはれいのちの末日に浴みて安し四万の湯の渓
山水にわれ勝れりといひがたし流れて移ることのなければ
七八人新湯の川の水上に踏みて遊べる水晶の板
椎の木の早瀬の中に流れずてわれを倚らしむ四万の奥山
青空をもたず楓のみどり葉を頂く渓の魚となりぬる
路あらで濡れたる羊歯と岩を踏む行者をわれと思はれぬかな
山風の滝にしたがひ人を吹く境を仮の世ぞと思はず
羊歯しげる渓きはまりて華やかに空より落つる滝を見るかな
山荘の簀子に杉の木の幹に光とどかぬ中空の月
川もまた田畑のやうに区切られてもの思ふらしかの青き水
木を葺きて薪を積めるかたまりと見えつる家も皆灯をばおく
月出でぬ川に向へる岩根湯の廊に裸の人あまた立ち
夜明くればいつしか蝉にけおさるる日向見川の水の音かな
城の垣うつるここちに真白けれ四万の流の水底の石
山の路木立の奥にここちよき黒馬の立つ河原あらはる
人の子が皮はぎたるを白樺のしるしとするはあぢきなきかな
山山の宿屋の廊の下くぐる思ひ上れど月になぞらへ
橋に出で月を見るなり山なれば岩屋の口に立つここちする
石ありて夕となれば川面に白き紋描く乾くと無しに
大空に新湯の町の灯かげをば覗く星あり旅人のごと
角の音が青き箱をばつぎつぎに引きぞ出でくる霧立つ夕
石垣のおいらん草の花ごしに瓜を見分くる湯の街の朝
うち動き流るる相を備へたる楓泉峡の碧色の玉
つぎつぎに狭霧の滝の波の皺いとゆるやかに解けて入る淵
山川の浅瀬なれども渡り得ず冷きことにすでに倦んじて
拾はんと浅瀬の水におり立ちぬ石と思はず星のここちに
天雲の厚きところは日向見の淵の深さに通ひたらまし
ためらはず身を逆しまにしたる木は人にあらねば人の譏らず
象の背に隠るる如く河原なる石の窪湯に人かくれけり
蒸風呂の廃れし床を這ひて出づ山の妖婆の初秋の風
静かなる二十四時の過ぎぬれば帰りくるなり山の端の月
夜の山へ駈け入る馬車の烈しさに速さに倍す四万の夕立
人通ふ路岸河原三段にわかれて鳴けるこほろぎの声
(以上)
枝などの鏡に触れし冷たさを全身に知る秋の来りて
百歳をしてはて給ふ日なりとも慰むべしと思はれぬかな
(以下森先生を悲みて)
日と月の外の光を身に負ひき大人のいませし昨日のこと
おん骸のこれぞと聞けばうなづけり夢の中なるおぼつかなさよ
隔つるは真白き線か金の戸かいないな無なり此処より続く
生きよとも祈る時すら持たずして御仏として今日は額づく
絵に書ける寝釈迦と云へる形より痩せて清らにおはす御仏
限りなきいのちを持ちて居給ふと思ひしならね頼みし如し
君がため裘の衣着る姿より更に心のあはれなりけれ
かかる君見まつりしてふ言種に慰むべしとなさぬなりけり
死と夢の異ることを究めんと痴愚にはあらぬ人の惑へる
おん骸を心にまかせいつまでも守り居たらば何となるべき
大きなる悲しみすれば五月雨もただ灰色の遊びすと見ゆ
願くはあらぬことぞと思はるるこの心のみ唯だ続けかし
何ごとを思ふともなき自らを見出でし暗き殯屋の隅
煙とし君なりませばはかなさをなほ人の身の我等の感ず
煙とは聞けどそれすら日に見えずめでたき君のあはれいやはて
形なき空といへども夕ぐれは亡きみけはひに通ひたるかな
わがために君を惜むと人いはばあらがひがたし心きたなし
これすべてわが私の涙より夜も日も流れ君の惜まる
大人ゆきて三日四日となり涙のみ流るるわれとなりにけるかな
うつだかき書にも似ざる千駄木の淋しき庭に足らひ居ませし
水荘に主人なけれど書読めと翁の云ひしそれもふるごと
(以上)
秋の水麻の綱をば赤土に掛けたる山の下道を行く
(以上大垂水にて)
山あまた奥に重る証をば今日は立てんと雲の思はず
秋寒し不老の山の頂をみづうみのごと白くしたる日
相模川空と寺子の渡場のわれ中ほどの断崖に立つ
あはれにも金錆したる月と見ゆ尾花の渓の霧厚くして
梟は武蔵越をばこえわびて帰らんと啼く月の明りに
大垂水山を二つに割くこともはかなき霧の一瞬のわざ
霧となり尾花の渓の月明に遊ばんことを思ひつつ寝る
朝霧に打てる雁皮草の朱の点をかぞふるさまの朝ありきかな
霧の夜の哀れなりける月に似て青く曇れるいたどりの花
甲斐の山相模の山をあかつきの霧ぞつつめる蜘蛛のいのごと
うぐひすをまねびて山の秋霧のあわつるさまを楽む掛巣
(以上)
なにがしのために泣くとも雨云はずわがごと人を恐るるならん
傷つきし鷲かと見えて転びきぬ坂の上なる欅の影は
わが指とダリヤの影と寝てありぬいみじく白き秋の夜の卓
白蝋の人形めきてあはれなる片破れ月の立てる空かな
肩白く痩せて淋しきパブロバの秋の夕となりにけるかな
パブロバは見えぬ世界に求むる手我等に代り挙ぐと思ひぬ
石仏の顔不思議なりなつかしや恋しやと云ふ人にくらべて
形して心に残るものなしととりなすことのはた淋しけれ
高原のひろきに立てど息づまるここちも覚ゆ人を思へば
ダリヤ咲く疑多くかげ多き心と云へるものの形に
わがことを人の褒むれば溜息のつかるる故も知りがたきかな
目におかぬ人ともわれは云はずしてまがまがしけれおとしめられぬ
旗もちて人の騒げば驚けどわれの怒をおそるるも無し
あぢきなしへりくだれども人知らず思ひ上るはまして見知らず
風の日はいと浅はかに泣く人の面影となる原の穂すすき
疎らなる桜の紅葉上におく淋しき秋の筆ざはりかな
秋晴れて青き潮の中にあるここちすわれも葉を落す木も
東京を少しくもれる夕月のあかりに覗くあまつかりがね
夕風の必ず寒きころとなり旅ごこちする島ごこちする
天国をもとめず安く船形の棺に眠る女王の木乃伊
夢醒めて我身滅ぶと云ふことの味ひに似るものを覚ゆる
円光の全きを負ひて誘はれぬものの哀れにはかなしごとに
山の草女なれども花咲けどくちびるの夢見るものも無し
(以下箱根仙石原にて)
宮城野の焼石河原雨よ降れ乾く心はさもあらばあれ
大空の光が渡る軽さもて山をおほへる秋の穂すずき
白雲の薄となりてとどまれる北の箱根の山あひに来ぬ
心おきわづらひがちに紅葉する北の箱根の仙石の渓
水おつる中に蹄の音もして心得がたき朝ぼらけかな
夜明けぬと掌をば打つ水のもとに走りぬ淋しけれども
客房は屋根ある廊を三方に架してあてたり山泉の上
山の水海の姿をしたるをば囲める廊に身の冷えしかな
飛び立たんさまもしたりし朝の山襞のやうやく濃くなりにけり
薄の毛逆立つことのあはれなり何に恐るる奥の草山
草木の紅葉にひかれ赤ばめる箱根の奥の牧の土かな
足柄の長尾峠に通ふ道馬の手綱のさまにかかれる
山の鳥人声めきてさへづるも箱根の奥のけうとさにして
早川の銚子の口の水音に下界をゆだね遊ぶしら雲
悲しみと同じ藍をば含みたる北の箱根の山の襞かな
冷泉の二三ところに音立てて渇くものなきけしきなれども
風騒ぎ駿河に通ふ薬屋も長尾の峰もすすきにおぼる
女かと富士あはれなり重げなる雲に胸をば巻かれたるゆゑ
富士おろし及ばぬきはの足柄の岩角に居てその駿河見る
たはやすく駿河平を駈け越えて掛巣の入りし三国山かな
岩山のとりかぶとゆゑ青色のまだらに見えし蘆の湖
空はいと高く淋しきところぞと長尾峠に眺めて帰る
萎れたり草もみぢより色深きわれもかうとは見ゆるものから
大空の明るきが故あはれなり山蔭の野の女のすすき
落ちて鳴る水も湛へてうつらざる水も冷き山の暁
早川へ俵石山の細流のそそぐあたりの鳩色もみぢ
早川に湧く薄霧のうへに立つ大涌谷の湯の霧の塔
朝の月わが心より放ちたる鳥のここちすわれのみ見れば
今日踏めば馬酔木の房の実となりて寒きホテルの石の道かな
人と山ともに愁ひの生じきぬ長尾峠を日の越ゆるころ
人切りて木の倒れ行くここちして悲し長尾の山の落日
日の落ちて俄かに来る夕とてせんすべ知らず人も薄も
何の荘なにがしの湯と云ふ点のかすかに残る山のたそがれ
日の見えず長尾の山の頂になほ金色の手は置けれども
山水の渓をつたふが過りて心の隅を犯したるらし
山の夜の黒地に銀の音を引く泉こひしくなりぬべきかな
湯を浴びて仙石原にやや狭く山のせまれるところにぞ寝る
老酒の匂ひも蜜のかんばしき薫りもまじる山の温泉
浴房の床は早瀬か浅川か波のみ多しあたたかくして
台が岳長尾の渓の浮き出づる箱根の奥の月明の幅
夜の山を踏む少年の明星の妬ましきまで美くしきかな
山の水都の雨の音となりわれに眠をあたへんとする
暁の琥珀の色の明星の下を這ふなる霧のふるまひ
紅葉をば先づうすものとして被く箱根の山の十月にして
うす色の毛織の雲の動かざる山の上なる秋の空かな
地に住める黒き苦しき星と見ゆ長尾の山の洞門の口
浴泉のおもむきそれとことかはる仙石原の寒き逍遥
流星が叫びしほどの幽かなる鋭いこゑの奥山の鳥
足柄の山ふところに流れ入る鉛の質の夕ぐれの雲
(以上)
青海をわが心より続きたる恋のさかひと思ひけるかな
星といふ小人の中に美くしき肱のみ見せて寝たる夕月
風涼し雨の車にうち乗りてあわてて秋の走せ入りしかな
軽く吹く秋の風ゆゑ絹の鳴る音に通へどさびしかりけれ
墨の色霧降るたびに東京へ沁み入る如き師走となりぬ
朝明けの霧に曇れる小石川銀杏のたちど盛り上りつつ
濠端の霧なまめかし葉のすこし残る銀杏の河楊めく
隅田川その大橋を踏まましと霧降る朝は思はれぞする
世に飽きぬ真紅の花びらを噛みて仙女にいたらんとする
朝と云ふめでたき時を現はせる樺色の薔薇先づおちにけり
人の身にあるまじきまでたわわなる薔薇と思へどわが心地する
雲よりも薔薇やはらかに崩れ居ぬ二時ののち書斎に入れば
風起り山の方より落葉吹く大地を濁す煙のやうに
木枯や髪うしなへる雑木皆おちばの海にただよへるかな
卓なる白き陶器この中へ落葉何しに身をおきにけん
木の下を遠く離れて疎らなる榛の落葉は浅緑する
しどけなき夕なりけり紅の単衣の紅葉袷のおちば
散る葉見てあまり多かるもの思ひ我身より散る期もたのまれぬ
一枚の紅葉にはかにくつがへり散るなり人も悲しき時に
とこしへに同じ枝には住みがたき身となりぬらしおちばと落葉
漆ちるそれも落葉のならひとて人にすがらずほろほろとちる
落葉憂し生きたる苔にはばまれて石の質なる霜におされて
銀杏の木額と見ゆるところより光の如く四方に葉の散る
わが障子落薬はさみてありぬなど身に沁むことをかたはらに聞く
数知らず御堂の椅子の如くにも落葉並ぶと思ひけるかな
車牛人の小床にあらぬやと落葉の道をおそれつつ踏む
落葉する中を飛ぶ鳥をりふしにあれど木の葉に似ずいやしけれ
からかねの薄き姿の落葉とて仏具と見ゆれ庭に見れども
共に居ておちばのやうにうちとけぬ心をもたば淋しからまし
土の上落葉の中に青き石一つまじるが人の髪めく
人の子の心は濡れて美くしく落葉は濡れてさまあしきかな
落葉踏み冬眠のため行く虫の旅かと思ふあさましくして
海近き海門橋のもとにして流れもあへず朽ちゆく落葉
彼方には丹塗の櫛の落日のありておち葉の墨色に散る
山腹の落葉の襞と見ゆるなり名の何なるや知らぬ裸木
落葉する港の石の路悲し船より出でて来し身ならねど
厚やかに見えつる枝の貫かれ夕風に散るあまたの落葉
僧院は落葉も人も今更に何を云はんとなす如きかな
わが住める門の口をばうかがひし落葉なりけん積れるものは
園のうち落葉してより夕ぐれの歩みよること速くなりにし
象の石落葉と寝ぬる日となりてまことの象のここちするかな
安らかに落葉をかづき眠る石かかる心を時に求むる
上なるは能の役者の廓まち落葉そこよりわが庭に吹く
廓などは落葉の通ふみちとなり山より淋し山の手の家
夕ぐれの落葉丘にいでてこし目のうら淋しうら若き冬の星かな
夕月が孔雀の色を与ヘたり箱根の渓の落葉なれども
うす霧に消え入る落葉夕ぐれの箱根の渓の細き水音
洞門に這ひ入る木の葉何ごとを深く悲しく思ふなるらん
黒みたる塔のかけらのここちする木の葉積れり大寺の庭
しかすがに右左より散りかかる木の葉に逢へば心華やぐ
銀杏こそ黄楊の小櫛の色したれ見てすがすがし落葉なれども
車の輪ゆるく廻るとおちて行く葉のひまびまに見ゆる道かな
銀杏葉をたくはへたれば溝川も人の手箱のここちこそすれ
銀銀杏をここにとどめてうす黄なる筋を月夜に引ける溝川
わが肩に降りくるものも積れるも皆おち葉のみ唯だ落葉のみ
あらはなる刈田の眺め森を巻く落葉の色をいかにしてまし
書斎あり前の庭より二尺ほど低きところに落葉まじりに
霜月の落葉浮き立つ微風のうしろにありぬ宵の明星
御空にも落葉するなる園ありと淋しき雲の浮けば思はる
砂浜に波の寄るより休みなく落葉をおくる二本銀杏
はかなともうら淋しとも落葉をばこの世のものと思はずなりぬ
狐より長く尻尾を引く風の落葉の上を過ぐる夕ぐれ
落葉より頭いだせる土鼠冬に心の馴れでけうとし
物云はぬ落葉と落葉恋人の語らであるに似ずて寒かり
或時の別れざまをばそのままにうなづきて過ぐおちばと落葉
厚やかに丹を塗る柿の落葉をばあまりこちたく拾ひけるかな
くれなゐはひとしけれども日光に比べて重き柿の葉の落つ
あはれにも痩せし木の葉のかたはらへ濡れて桜の葉のおちにけり
断崖に漂ひながらすがるなり海なるおちば虫の巣のごと
陸にある水鳥おち葉あしどりの似てをかしけれ黄昏にして
音聞けば淋し目に見てうら悲し翡翠のおちば琥珀の落葉
法王の御堂に祈る数知らぬくちびるのごと動く落葉
爪ありて地を掻きありくさまをする広葉のおち葉それも淋しき
桐の葉は鼠の尾とも見ゆる尾を清らに上げて土にいこへる
この世界海のさかひは知らねども落葉を見ざる一隅も無し
昨日の危さもなく蜘蛛のいに絞をつくれるうす黄の落葉
美くしく尺の幅もて一筋に落葉並べる坂の中ほど
栗の葉のおち重れど渋色のいまだこちたく残る枝かな
わが園生新たにおつる葉も無くてやうやく淋し霜の降る朝
地におちて赤毛のやうにあさましき紅葉なりしが雨に流るる
後園の冬の朝日のかたよれる所に立ちて葉おとす銀杏
病院の羊が庭に逃げ入りて捕はれし日の落葉のみだれ
月明しこれは闇夜に住み馴れし落葉ならめとあはれなりけれ
くれなゐの繻子を著てちるうるしの葉誰と踊らんことを思ふや
青がちにうち溜りたる落葉かな湖のごと清らかにして
水を行く山の落葉はいとよけれわれかくせんと思ふばかりに
目を伏せて街を歩めば行くところ落葉のみなる世のここちする
春夏をすぐししなれど落葉皆うき年あまたへしものに似る
わづかにもおちとどまれる榛の葉の北斗の如き見て淋しけれ
もろもろの山の落葉に霜降りて一つのものにつづられしかな
わが園のおち葉の中の朱の色はありと見えつつやがて跡なし
灯と鏡明るき空と落葉する庭のさかひの戸口に歎く
近く来て雲の騒ぐと思ひつれ楼の下なる落葉の音
松山に知らぬ木の葉の遊ぶなり鬼の童のさがなきやうに
御社の冬の祭の庭に立つ大湯のかまど思ほゆ落葉
何すとも慰みがたき色したる冬の落葉と思ひけるかな
雪の山聳え地上に落葉する中をうつろと見なす風吹く
夕月夜松の枝より見も知らぬ木の葉おつるもなまめかしけれ
冬が穿く沓かと見れば嘴太き烏なりけり落葉の林
いつしかと一つの路をつくりつつ次次に散る欅の落葉
朝霧の中に人居て落葉焼き奈落の口のここちする渓
地の上の落葉ゆたかになりぬなど見てあり老いし太陽なれば
青白く霜降る朝に魔の目かとけうときものは何のおち葉ぞ
右左見つつ落葉のよりくるをあなあはれとも云はまほしけれ
落葉踏み歩めば京の北山へつづくみちかと思ひけるかな
彗星の光る姿とある刹那見たり銀杏の地におつるみち
見し世とも逢ふべき日とも思はれぬ夢をはこびぬ木の葉ちる音
霜降れば牡蠣の殻よりあはれなる姿となりぬよろづの落葉
木のもとに日がうつすなる影のごとうすらにおけるよき落葉かな
ただ一葉銀杏ちりきぬこの木いまくづるると云ふ兆の如く
その中に供奴ほど反かへる落葉見いでて人と笑ひぬ
地の相ははた限りあり落葉もて淋しきことのいやはてとする
何歎き何思ふとも云ひがたし人の盛りの殆どつきて
春と云ふめでたき心育てこし昨日を思ふ元旦にして
物思ひすこし作れば万歳の来てそしるなり春の初めは
寒牡丹はた紅梅も正月の少女となりぬささやかなれど
内房に浅き緑の羊歯の葉をとり入れし夜の雪の音かな
柱なる羊歯をながめて神代をばさらに思はず人を思へる
ゆづり葉に雪すこしづつ溜れるを白鳥の巣と云はまほしけれ
子等けふも伊太利亜の絵の聖母より若くいみじき親と思へる
ほのかにも春の愁ひといふものをすでに覚えてをかし正月
あらかじめ憂き春ぞとも定め得ずこころおちゐず初春の人
皷より笛のはやしにうつりたる霰ののちの初春の雨
土に降る雪と知れどもくちびるに消え入る如し二月にして
わが誘ひわが招きたるここちする春の山べのあかつきの雲
初春の日の生れくる薔薇色の雲あり山の低きところに
山の雲日を含みたるひんがしの空をほのかに映すなりけり
雲の花丹もくれなゐも紫も夜明の山のいただきに咲く
人間が手をもて建てし塔ゆゑにいみじかりけれ悲しかりけれ
夢と云ふものにもあらじ苦しかる境に夜毎人を見ること
いかづちがわが住む家を一めぐりすれは心のいそぐ消息
風に添ひ雲のやうにも靡けかし木立こちたくあへぐ悲しさ
伊豆の奥天城の山を夜越えぬ淋しきことに馴れはてぬれば
(南伊豆に遊びて)
洞の道出でて来つれど山暗く空といへども光無きかな
片側の長き渓川夕月がながす涙のここちこそすれ
わが涙うちに凍らず流れけり南の伊豆へ着きししるしに
南方の天城の裾の河津湯に見る月なれど淋しかりけれ
飛び飛びに離れし石の段ありて大湯に人のさざめく月夜
月やがて河津の川に溺れぬと暗きをなげく山の浴房
あなぐら湯ワ゛ンサンヌなる死の門のその彼方にも置きぬべきかな
あなぐら湯天城が投ぐる夜嵐にゆらぐと無けれ心細かり
何避けてあなぐらの湯のをぐらきにわれを置くとも知りがたきかな
河津川月の光にさらされて石より白き板の橋かな
烈しかる天城おろしの身に沁むと河津の川の泣けば渡らず
川曲りところどころの輝ける上の河津のひろき渓かな
桜貝など云ふ貝のうす紅の肌を夜明の空に見る山
対岸の林の中を更に行く河津の川はしら雲のごと
屋根ごしに天城の渓のしづくちるかかる夜明にまだ馴れぬかな
下河津谷津の海辺にかへりみぬ撒攬色にけぶる天城を
朝あらし河津の水の川下の谷津の浜橋馬先づわたる
潮風に人ほど心つかふらん谷津の浜松葉の少なけれ
半身を天城おろしに任せつつ谷津の湯ぶねにあるあぢきなさ
月光が天城おろしに雹となりやがてつもりぬ谷津の渓間に
手綱よく締めよ左に馬おけと馬子の訓へをわれも湯に読む
堂守が堂を通ふにふさはしき廊を行くなり谷津の湯の宿
いたるべき温泉のため気上るもはかなかりけり切崖のみち
路ひらけ稲生沢川下田見ゆ春のものとてうす紫に
藤原の湯ののどかなり夜となれどただ肱まげて昼寝るごとし
日の射せば椿油のとろとろと寄りもくるかな温泉の波
藤原の理髪の家の前の土馬車を待つ間に夕霜のおく
山風が馬車の後ろに湯の靄を投ぐると知りぬ月の明りに
山に居て港に来れば海と云ふ低き世界もうつくしきかな
海限るかの防波堤故もなくめでたきものに喪のしるしおく
船多く帆柱の綱みそらより降る雨のごと見ゆる海かな
天城山まことに雲の凍りたるつららと知りぬ頂にして
自らの車がたぐる紐と見ゆ天城の渓のうねうねの道
地の底のつららの根など見も知らぬ不思議に逢ひし洞の道かな
鎌倉の尼にあらねば修禅寺滅罪の輪のこころえがたし
山上の指月殿とは君がある真如の世をばをしふるところ
湯どころの人さいなまれ生れたる稚児も路傍の湯の獄にゐる
山風や能の舞台のいほりよりささやかに立つ最明寺かな
滑らかに青をのべたる大空と離れて乾く一月の山
火事跡の長岡の湯の低き床夜半に踏むこそあはれなりけれ
白き根を引く草のごとわが足の重し浴槽の中に遊べば
(以上)
雪と云ふ他界のものの勢ひにけおされぬらんはかなかりけれ
立ちいでし水晶台の夕ぐれも淋しかりけれ黄昏の雪
ことごとくものを捨てたる形する葉蘭の雪のたなごころかな
放たれて落つる身ぞとも覚えぬは翅をもてる暁の雪
天の雪手とり肩組み降りくればわれ哀れにも心ふためく
雪の朝遠きところの近やかに見えてもわれはもの足らぬかな
大空を横にぼかして降る雪のあてやかなれど寒き明方
わが軒の東の側の雪ほどの涙流して語る日もがな
いたるべき処も過去も薔薇をもて今日は埋めて君と酔はまし
(以下五首大正十二年二月廿六日作)
五十年の寿は南山にあたらねど東海に似る歌をもつ君
幻術に由りこの君の五十の賀現れ出でしここちこそすれ
きさらぎの末の六日に賀をまゐる椿の花を杯として
幸ひを与へらるるや与ふるや知りがたきまま夜の明けぬべし
後には伊豆の比加根の山ならぬ悲しきものも負へる旅人
(以下熱海にて)
春雨の降り埋めたるホテルかな熱海のみちの切崖のみち
夕暮の曇れる海に向ひたるテラスの椅子の乏しかりけれ
ながながと削がれし山は紅けれど曙に似ず黄昏に似ず
わが踏むは椿の色の毛氈の床よりつづく白ききざはし
清らなる真白き部屋も生れたる初めのわれに返さざるかな
大方の空うち曇り入海に紅のにじめるさびしき夕
傘おもく錦の帯のここちすれ廓の口より湯にくだり行く
花の木のほの白きをば見つつ行く渚の坂のたそがれの雨
湯に下る梢の坂に逢ふ雨のさまことなりて寒き夕ぐれ
わが濡るる春雨に似ず騒しく波立つ海も近き路かな
紅梅に蘇枋まじれるかたまりは雨の外なるここちこそすれ
魂の消ゆる愉楽は温泉先づ感ずるごとし靄立つ見れば
いつしかも浴泉戒と云ふものを心に立てし人なりしかど
女湯も海豚のあるに隣りたるここちおぼゆれ海近くして
やはらかく雲とあるべき身なれども石に与へぬ泉湧くため
灯の置かれ温泉流るるその外の一切のもの見えぬ浴室
雨の夜の伊豆の渚の湯の小屋のうすぐらきこそ悲しかりけれ
唯一人温泉にあれは念ずるに似ると我身のうとまれにけり
わがあるは波斯模様の灯のつけるホテルの下の渚の浴槽
故もなく暗き浴舎を立ちいでしことの嬉しき雨の夕暮
旅人の寒き思ひと一つらに云ひなしがたき歎きをぞする
窓掛を引けば二つの目を閉ぢしわが姿かとあはれなる部屋
雨の音波の響もきこえこぬ客室に寝て鳴る心かな
わづかなる半島の灯も大海をなつかしやかに抱く手となる
旅すれど憂しよそ人の日記などを読みつづくるに異らずして
網代岬魚見が岬と重れるシユワルサロンの朝の横顔
東海の藍に添ひたる陸の襞熱海と云ふも網代と云ふも
伊豆の海仙高フ画の都府棲の柱の石に似たる船置く
青海をわが裾に引く裳の如く見るはテラスに続きたるため
海鳴るやホテルの庭の芝山の尽くるところは断崖にして
ふくらみし帆のここちする芝山をいでて踏めども物の思はる
湯の立たず白く空しき浴房を恐れて逃ぐる女の鴎
羽かはし二つ飛べるは見がたかり波の上なる鴎の世にも
笛鳴らし菖蒲の色の夢を見る伊豆の港に船ぞ入りくる
渓深き二つの山を繋ぎたる橋より海の大島も見ゆ
大空を見るごと海に馴れてなほ足らはぬ人は哀れなるかな
頂を今日は網代の奥に見る天城の渓の雪消えぬらん
おぼつかな夢を見よとも醒めよとも暁に鳴る春の海かな
熱海なる大湯の湯口雲吐かず思ひ入りたる一時にして
噴泉は眠れる時もめでたしとわが心から見なす人かな
山桜花の咲き散り陽春はすでに涙す熱海に来れば
店店に島の油の並びたる熱海の街の山ざくら花
(以上)
チユウリツプ花の大きく咲く年と人の語れば下にうなづく
うぐひすは皐月に聞くがなまめかし身もうす色の衣など着て
王義之の石刷の字のここちしていでて眺むる初夏の雨
今もなほいまだ云ふべきこと知らで逢へる初めのここちこそすれ
白藤はまばらなるこそ嬉しけれ星座を近く見るここちして
われ苦したぐひもあらず美くしき雛罌粟の死を目の前に見て
学院のテラスの薔薇の花咲けば鵠の羽かげにあるここちする
散る時も開く初めのときめきを失はぬなり雛罌粟の花
春の月その眉刷毛に額をばはかせましとて家いでてきぬ
異なるは苦しき時とうら安き時を並べてもてることのみ
思ふことかつて無かりし人かとも惑ふばかりにうつけはててき
朝ごとに桜の枝の痩せ行くは病ならねど身に沁みぬわれ
目を病みぬこれより後を思はじとする心こそ悲しかりけれ
雲の峠ありとあらゆる蝉の身に熱の発して鳴き出づるころ
先づ告げん春の初めの人として思へることも変らぬことを
暁の雲ほどわが頬染みぬらん正月の炉のかたはらにして
何ぞともわが金堂の御仏の名をいひがたくなりにけるかな
わがいのち預けられたる庫なれどわれ世の中の黴の香に飽く
三月や歌舞伎芝居の茶屋場など思ひて啼けるうぐひすの声
ものいひて活くるしるしをわれ知れど物云ふことの辛きこの頃
天を見て泣けど天ゆゑ泣かずして離れがたかる地のために泣く
よしあしはさしおき男女より離れて夏の木立とあらん
わが心澄むてふきはに少しづつ近づきながら物思ひする
洞門を出づれば馬の跳るなり青海の波うごくに並び
至るべきところにあらぬ世を見せて醒めたる夢と思ひなさまし
なつかしや文を給はず恨めしやなど云ふはても淋しからまし
われの死と薔薇ことごとく落ちん日のありうべくして無き心地する
いと小き橋より下に万木の若葉こもれる渓の朝かな
馬車の雨荷のかたはらの旅人の身には及ばず雨に濡れ行く
(静浦にて)
馬車の雨次第に我身濡れ行けば他界に移る旅ごこちする
小雨降る馬蹄の形の青海の彼方は天城ここは松原
むら雨の過ぎて濡れたる磯の道奥山よりも静かなりけれ
浮びてははかなきものと見ゆれどもわがたけ磯の船に勝らず
われは行く駿河の国の東端につづく冷き洞門の道
石白くほの明りしてわが身には過分を感ず洞門の道
洞門と隣れる家に僧の来て鐘打ち鳴らす多比の夕ぐれ
口野潤伊豆に続ける路踏みて限りも知らずなつかしきかな
多比の浦石の欄干にわれ倚りて天城を見れど他念にからる
海に沿ふ高きところもはた低き路にも続く青石の欄
近けれど下の半を海の靄巻きて天城のほのかなるかな
夕暮に多比より友等かへりきぬ白鷺丸の真白きに乗り
十余人夕食の卓に集ひたり鷲津の山は藍がちとなり
越しがたきくろがねの輪のここちすれ沼津に続く長き松原
松原はいさり火の浮き星いづる海にまねばず空にならはず
ほの暗き離宮の裏の松原としら波の寄る渚の見ゆる
艫を皆ひとしく上げて波に浮くことを念ずる砂山の船
磯近く臙脂ほのかに混りたる海のまたなくなつかしき朝
伊豆の方天城の山の半をば雲もち去りぬ曇ると無しに
晴れし日も曇れる朝も楽しげに島うかびたりいかにしてまし
ふらんすをいたりやに行く海の道これぞと思ふ馬車の客皆
わが馬車は富士の左の緑金の線をかしこみ退きて行く
羅をば脱ぐサロメの舞にならふ富士馬車の口より見て動く富士
引き続き江の浦を行く八つの馬車物見の人となるものかわれ
獅子浜の柑子の花の下くぐる馬車に身を置くかりそめの如
あぢきなし我手にとれば乾網はうすものならで鎖にぞ似る
富士の嶺も海も不思議のふくろより出でつるものの心地する朝
ふつつかに船夫が扱ふ船もまた彼方の岸によりゆくものを
石がちに道も岬も白くして船より見るはさびし江の浦
船に居て身を何ぞとも思はざるおのれのさまも哀れなるかな
船の人はしけに移る危しと皆いふこともことと思はず
(以上)
葉の茂り楓の枝があさましき簔の形をするにいたりぬ
月近く寄り砂山を抱く夜もそぞろ覚えて海こひしけれ
凋落の淋しき味を思ふこと頻りなれどもいまだ得ぬかな
青きものゆふ月こころ海のうへ藤の下かげ消息の紙
柏木も楓の枝も人を呼ぶ怪しき森となりにけるかな
少年の矢車草がわが方をまともに見たるたそがれの部屋
花を撒く心を撒くと云ふことの行ひがたきことわりを知り
初夏は海また山の思はれぬ人は見ねども出るここちして
柏の葉皐月の肌をやはらかに押すとし見えてなつかしきかな
身の末の皐月と知りて快さつゆそこなはず文多く書く
白金の糸のやうにも森の木をしかと繋げる夏の月光
七月の夜能の安宅陸奥へ判官落ちて涼風ぞ吹く
切崖の上と下とに男居てものいひかはす夕月夜かな
われの名に太陽を三つ重ねたる親ありしかど淋し末の日
また見ん日ありあらずやと云ひつるも命の末にまだ遠き頃
翅無き人にありては難けれど遠き路無し我等別れて
(古堀口氏送りて)


絵巻のために

源氏物語

桐壼
紫の輝く花と日の光おもひ合はではあらじとぞ思ふ
帚木
中川の皐月の水に人似たり語ればむせび寄ればわななく
空蝉
うつせみの我が薄ごろも風流男に馴れて寝るやとあぢきなき頃
夕顔
憂き夜の悪夢とともになつかしき夢も跡なく消えにけるかな
若紫
春の野のうらわか草に親みていとおほどかに恋もなりぬる
末摘花
革ごろも上に着たれば我妹子は聞くことの皆身に沁まぬらし
紅葉賀
青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども
花宴
春の夜の靄に酔ひたる月ならん手枕かしぬわが仮臥に

恨めしと人を目におくことも是れ身の衰へに外ならぬかな

五十鈴川神のさかひへ逃れきぬ思ひ上りし人の身のはて
花散里
橘も恋の愁ひも散りかへば香をなつかしみ杜鵑鳴く
須磨
人恋ふる涙と忘れ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ
明石
わりなくも別れがたしと白玉の涙を流す琴の絃かな
澪標
みをつくし逢はんと祈る幣帛もわれのみ神に奉るらん
蓬生
道もなき蓬を分けて君ぞ来し誰にも勝る身の心地する
関屋
逢坂は関の清水も恋人の熱き涙もながるるところ
絵合
逢ひがたき斎の女王と思ひにき更にはるかになり行くものを
松風
あぢきなき松の風かな泣けば泣き小琴をとれば同じ音を弾く
薄雲
桜ちる春の夕のうす雲の涙となりておつる心地に
朝顔
自らをあるか無きかの朝顔と云ひなす人の忘られぬかな
乙女
雁鳴くや列を離れて唯だ一つ初恋をする少年の如
玉蔓
火の国に生ひ出でたれば云ふことの皆恥しく頬の染まるわれ
初音
若やかに鶯ぞ鳴く初春の衣配られし一人のごとく
胡蝶
盛りなる御代の后に金の蝶しろがねの鳥花たてまつる

身に沁みて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きて飛ぶ
常夏
露置きてくれなゐいとど深けれど思ひ悩める撫子の花
篝火
大きなる檀の下に美くしく篝火もえて涼かぜぞ吹く
野分
けざやかにめでたき人ぞいましたる野分が開くる絵巻の奥に
行幸
雪ちるや日より畏くめでたさも上なき君の玉のおん輿
藤袴
むらさきの藤袴をば見よと云ふ二人泣きたき心地覚えて
真木柱
恋しさも悲しきことも知らぬなり真木の柱にならまほしけれ
梅が枝
天地に春新しく来りけり光源氏のみむすめのため
藤の裏葉
藤ばなのもとの根ざしは知らねども思ひかはせる白と紫
若菜上
涙こそ人を頼めどこぼれけれ心にまさりはかなかるらん
若菜下
二ごころ誰先づもちて淋しくも悲しき世をば作り初めけん
柏木
死ぬ日にも罪報など知る際の涙に似ざる火のしづく落つ
横笛
亡き人の手馴の笛に寄りも来し夢のゆくへの寒き夜半かな
鈴虫
鈴むしは釈迦牟尼仏の御弟子の君のためにと秋を浄むる
夕霧
つま戸より清き男の出づる頃後夜の律師のまうのぼる頃
御法
なほ春の真白き花と見ゆれども共に死ぬまで悲しかりけり

大空の日の光さへ尽くる日の漸く近き心地こそすれ
匂宮
春の日の光の名残花園に匂ひ薫るとおもほゆるかな
紅梅
鴬も来よやとばかり紅梅の花のあるじはのどやかに待つ
竹川
姫達は常少女にて春ごとに花あらそひをくり返せかし
橋姫
しめやかに心の濡れぬ河霧の立ち舞ふ家はあはれなるかな
椎が本
暁の月涙のごとく真白けれ御寺の鐘の水わたる時
総角
心をば火の思ひもて焼かましと思ひき身をば煙にぞする
さわらび
早蕨の歌を法師す君のごとよき言葉をば知らぬめでたさ
宿木
おふけなき大みむすめを古の人に似よとも思ひけるかな
東屋
朝霧の中を来つればわが袖に君がはなだの色うつりけり
浮舟
何よりも危きものとかねて見し小舟の上に自らを置く
蜻蛉
一時は目に見しものを蜻蛉のあるかなきかを知らぬ果敢なさ
手習
覚めがたか夢の半かあなかしこ法の御山に程近く居る
夢の浮橋
蛍だにそれとよそへて眺めつれ君が車の灯の過ぎて行く


栄華物語

さまざまのよろこびするにふさはしき藤氏のをのこ藤氏の女
業平にすこし勝れる帥殿の見はてぬ夢を載せ行く車
鳳凰の声かと笛の響くなり若き后のかたはらにして
悲しくも産屋のとばりそのままに命をとざす戸となりしかな
土御門京極殿の秋の日にしろき栄華の初花の咲く
君天へ行幸ましつれ石蔭の煙と聞くは悲しけれども
君王を家に迎ふる楽の声なほいくそたび立たんとすらん
日のおまし夜のおとどもつかのまに真白き灰となりにけるかな
道雅がいつきの宮に恋すると神はとがめず人の咎むる
大殿の御女ならぬ后なし楊家の女とて召さんものかは
法成寺御堂のうちにほのめくは羅綾錦繍珠玉黄金
平安の京の宮人けざやかに三笠の山をもてはやすかな
御仏の玉のうてなは人によりなされぬ蓮は一人開けど
いちはやく勝つはかしこく譲れるはみやびやかなる駒くらべかな
平安の万寿二年となりにけり大后いと華奢にまします
人の世は願ひ住むべきところにもあらずと座主は怪しきこと云ふ
御船浮く淀の川波青きこと今日に初まるここちこそすれ
加茂の神北野の神も恋人の名も念じつつ射手は弓引く
日の蝕し月のほろべばふぢ衣重ねて著ると歎く女房
天地のもの塵だにも恋しさを誘はぬは無し君かへりこよ
大沢のあやめの根より黒髪を褒むべかりけり五月の節に


平家物語

たぐひなき賢人来り親とよぶ浄海こそはめでたかりけれ
三千の裹頭の法師山を出づこれは王法興隆のため
しら雲と潮の煙と妄執のうづまく島の春夏秋冬
首打ちて善知識ぞと仇云ふ若きいのちに代へんことかは
西海の青にも似たる山分けて阿●の花摘む日となりしかな
   ●は「門」+「伽」



(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第四巻 歌集四
昭和五十五年十月十日 第一刷発行
昭和五十七年一月二十日 第二刷発行
定価三千五百円
著者  与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
    東京都文京区音羽二-一二-二一
    郵便番号一一二 振替東京八−三九三○
    電話東京(〇三)九四五−一一一一(大代表)
組板  信毎書籍印刷
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製本所 大製株式会社