朱葉集

          与謝野晶子

何すやと遠方に居て知ることもこの世ばかりのことに終るな
よろこびの前夜に同じときめきは斯かれど常にはなれぬ人ぞ
つれなしと云ふ力をば無頼児のごとく思ふもわろきあやまり
情をば宝のやうに思ふこと覚えずとても今日はあらまし
草むらのうらがれしをば見るやうに瓶の薔薇見ゆおもひなしらし
黄昏は恋をしたれば汝をめぐる光を断つと脅す如こし
いくばくの本心もなくはかなしやなど云ひし日の時になつかし
ひとひらの銀杏の葉にも隠されむうつそみならば歎かざらまし
天つ神もしくはわれのいにしへが姿を見せて慰めに来よ
男めき堅きひびきす東京にわが寝るころの夜をわたる鐘
恋をする人はいかにぞ秋の夜は絵なども心しみじみと引く
そのかみの二十にてせしそら頼み笑みて思ふも人わろしわれ
巻き遣れと手紙の上に櫛おちぬわりなき無理を思ふ櫛かな
蝶となり鳥とならむとあけくれに逢ふすべをのみ思ひくらせし
この君に初恋の子と思はれて抱かるること混るならぬか
わが死ぬを一人にあらで二人にも待たれてあるや思ひ上れど
はしためが蜥蜴走ると人呼ぶも悲しくきこゆわが朝の閨
君は君おのれはおのれ君が見し初恋人もまたその如し
おんまへの三人四人の中にある勝れし人も志寄る
思ひにき言葉に為しも能はざる初めのはじめその初めより
秋の夜の澄みし清さと自らとはなれぬここちする日となりぬ
簀子の日もの思ふ時頬にあつるたなごころほど暖くして
ともすれば涙のおつることにより練らぬ心をはかなみぬわれ
香木の朽ちし香ひを立つるなり黒き茸も白ききのこも
いと多く肥えて短きしめぢ居しかの朱の氈目に見ゆわれは
白き砂こころに置けるうたがひのかげのやうにも浜松をおく
紀の国の粉河の寺の巡礼が歌ひし声に似たる風吹く
何ごとによらず心は貫くと云へどわれにも秋は身に沁む
秋風は泉に衣を揉むごとく芙蓉の花をもてあそぶかな
君きたり触れなば散らむ髪よりもはかなきさまの心知らゆな
紅の菊やはらかきかたまりをつくる日となり君に文書く
身の皮のかゆきに似たり妬むとも云ふをはばかるこのごろのこと
軒ながく斜めに垂れて月の夜は地の底にあるここちするかな
あつものの匂ひののぼるかたはらに居て夢も見ぬ幻も見ぬ
このごろのいちじろきこと何ならむ鏡を見ねば顔は知らずも
なつかしき薄紅の菊たそがれとなりてわがごと痩せにけるかな
手ぶくろを脱ぐ時しろき涙おつ悲しきことのとぢめのやうに
二つなき全きものをとらんとすもとより君のおん心より
わが帯の風に吹かるる次の室も悲しきものか人を思へば
大ぞらは菱形をしてゆらぐなり恋しと泣ける涙のまへに
夢を今近きところへ掻きよせむと思ふも若き力持てばぞ
善人も超人も皆悪としてわれを見るてふこのごろのゆめ
散りてまた男の恋の燐の火は一つのものとなりにけるかな
秋の灯や君と別れし夜に提げしからかさのことふと思ひ出づ
綱とりて飛ぶたはぶれを子等すれば蜻蛉めくとよろこぶわれは
押へたる赤きとんぼの羽ばたきぬ恋かと思ふ手ざはりをして
ついと去りついと近づく赤とんぼ憎き男の赤とんぼかな
蜻蛉などはかなけれども目に立たぬ恋つくるより少しまされり
空樽の中より出でし大やんま雲に入る時夕風ぞ吹く
目のさとき赤とんぼかな逸楽に飽きたる人と遊ばむと来ぬ
自らを障子の中に置きなれぬ白けし秋の雲を見じとて
いく人か心にかろく触れゆきぬ草のあたりをゆく水のごと
ゆめわれに道の分れ目見たりなど青き面して語り給ふな
酒の香をなつかしとして思ふかなしら菊の花白き朝かな
おん心門より外に居ることを知るとも告げずものをこそ思へ
わがことを判じよと云ふ人に似るはかなきさまの蝶ぞ寄りこし
哀れにも板のきれより用なげに思へるさまの紅の菊かな
白き雲遠方ならで此処へこよ汝れもよれかし橋のてすりに
悲みもめしひなりけり秋風に面をさらすわが飼ふめしひ
寒げなる筵の上に手をかさね瞽女ぞいませる心覗けば
いとせめて鏡が髪をうつさずばいかに淋しき夕ならまし
よきひとは苦き味ともなすならめ濃き酢くらへる心地すわれは
わが素足別れに踏めばはかなげに弱げに泣きぬ秋の廊下も
ことごとく形をもてるものならばとしも白刃の上におもへる
よろしけれ初めて秋といふここちうはべに少し感ずるここち
ありしのちまた珍しき懴悔をば聞くやと耳のやすからぬかな
平らなる道に倦むともなすごとしものの半は男忘るる
くちびるの鏡にあるは自らの吸ふならねどもなつかしきかな
清浄にして正しかる恋ながら古ごとを持つ君がなすゆゑ
いにしへを忘れぬ悪を人なしぬ忘れやすかる男の中に
その家へ何処をいかに行きつらむ祓へをさせむ八百八町
ある男深夜の家に帰りしと書けば長しや桐壷よりも
髪をいとめで癡れつつぞわれ思ふ鳥となりても清らならまし
うしろより嵐を負へるここちもちて人を妬めばこころよろしも
なつかしき君の初めて憎かりしその思ひ出も大事とぞする
ただ髪の一尺ばかり長かりき思はれしことわれに優らず
傘の骨一すぢ折れてあぢきなし恋の姿をかざすならねど
若き日はきらびやかさの勝れたりとのみわれさへ思ひけらしな
わが指が弾きし木の実三つ上の寺の息子がはぢきし木の実
冷くも熱きものともなし給へあなこの人もかく云ふものか
わが髪と全く変れるくろ髪が喉巻く夢を見る夜もありぬ
いろいろの小き鳥に孵化りなばうれしからましこの銀杏の実
三言ほど責めたるのちに階上へ漂ふごとく一人こしかな
わが心低きところに置きならひあらばこれさへ忍ぶなるらむ
われ倦めば恋しゆかしと思はるる能なきさまにうたたねぞする
ひたすらに頼みつるまに神さびぬ君わかやげと疑ひをせむ
翅あるものの去ぬより早けれどみにくしと聞くふるまひはせじ
もの脅すけうとき性のこの君は周防の山を見むとてぞ行く
歓楽に次ぐ何物を見たりけむ地獄ならずばよしとせよかし
幼き日船より塔を見つること二十の夏に君を見しこと
居て歎き立ちてつぶやくこのはては大地を走りののしりぬべき
源氏をば十二三にて読みしのち思はれじとぞ見つれ男を
恋人の数ほど木の実まゐらむと言葉だくみすありのすさびに
いまするは銀の身体になる病なるやと思ふあけがたのわれ
草庵のこほろぎよりもしはがれし加茂川千鳥一羽のみ啼く
白き猫しのび足するめでたさよ笛などとりて吹きもやらまし
十月の明るき空をとぶ飛んぼ恋する人のながむるとんぼ
灰色の砂になげける白鳥か畳の上に人を待てるか
秋の雨朝より降りぬきざはしを降り行く白き足もとをして
菊咲きてまだらになりぬ早くよりもみぢしつるもまじる草むら
山びこを呼びに行かんと春秋の分ちも知らず山を恋ひし身
青桐は耳あるごとし遠方に風の起るとふためくごとし
風吹けば山のやうなる大木のうるしの紅葉目に見ゆるかな
叔母達と小豆を選りしかたはらにしら菊咲きし家のおもひで
竹の椅子つめたしと云ふ何ならぬことに涙のおつる夜かな
霜の降る大地を思ひわが涙零るるものか夜のつくゑに
晴れわたる星の夜空の下にして刺青のごと立てる杉かな
片恋に相思の恋の次ぐことを掟と思ふわれはわれから
大ぞらへ魚みな上る夜のさまと月ある水の見えもこそすれ
黒檀の箱にをさめしわが抜毛墓かと思ふ時のあるかな
われにさへ大徳めきし綿あつき衣の着らるる冬はあさまし
娘にて蔵と座敷の中庭におつる銀杏をながめつる秋
ふるさとの田舎の栗鼠の啼く頃にかへりし人ともの云はで寝る
わが心七重の機の紋織ると君が外よりしらせ給はく
しどけなく沼より秋の水おつる水門に行きわが鵞鳥啼く
ゆくりなく能の舞台の天人の舞目にうかび止めぬ妬みを
錆びし釜二つ三つ門に置かれたる上を飛ぶなり銀のとんぼは
君と行く四条小橋の川端に牡蠣うづだかしあは雪のごと
貝がらを家家なりとうちならべ子と居る縁に秋の風吹く
白芙蓉きよらなること洗ひ米はた月しろにたとへつべかり
あさましと人の上にて云ふ時に雲のやうなる悲みは来る
優しさと冷たさをしも兼ねしわれかの秋風のごとくなるわれ
王宮の鏡の室より生れこし秋風めぐるこのたをやめを
秋と云ふ生ものの牙夕風の中より見えて淋しかりけり
からす瓜風にふるへば思はれぬ高く尖れる屋根に鳴る鐘
身にかかり君にかかはるここちする秋の山辺の石がちの路
萩の花斜めなる地に咲けるをばほそぼそ秋の風来り吹く
何れぞや力足らざる恋するや下司の欲なく逢はむとせぬや
しろがねの一艘の船うかび出でゆきもどりすれ秋のこころに
仮の身も水また雲のいにしへにいささかかへるここちす秋は
秋はよし籠に木の実の盛らるると軒まで霧のくだり来ぬると
在るはこれ蜂蜜いろの秋風とましろの花と恋ざめごころ
われのみは秋の風より匂嗅ぐ涙をながしうちふるへつつ
水いろの秋のみそらを行くとんぼめでたく清したをやめのごと
秋風や厚織物のごとくなる梢より落つ白楊の葉は
秋風は蝋に似る手をさし出しぬ共にうらまむ共に泣かむと
君を置き遠に去らむと心云ふ魔性の秋の夕ぐれの風
恋すると自らわれを欺くや善を遂げつとなせるたぐひに
秋の薔薇さびしと云ひて一つ摘み恋しとかこち一つ摘むかな
無限なる幸われに備はると欺きにけむ夢見てや居し
ただ一語君ためしつと思へるもまこと過りわきがたし今
せつなかる愛欲おぼゆ手に触れしおのれの髪のやはらかさより
落日はつよき力をうち忘れ女のごとく恋のみに燃ゆ
山よりも海よりもはた人住まぬ島よりわれの不思議なるかな
思ひ出づや紫苑一もと大ぞらの雲より高く立ちし草むら
思ふこと尽きずなど云ふ人の顔見ゆる空より雨こぼれきぬ
なでしこの野に咲くごとく仄かなる紅も見ゆ今のこころに
いと高く穂上ぐる芒大ぞらの雲の心を覗けるすすき
その心なげく時にもよく合ひぬ恋せばいかに哀れなりけむ
ある時は男のこころ責めそしる戯れごとに涙ながるる
自らを待ち伏せしたるものなりと驚けど猶何と知らなく
くやしむか悲むかわれ何れとも知らぬ思ひ出わくがわりなし
白麻のしとねに寝れば秋風に抱かれて臥すここちこそすれ
夜など取る果物の甘さかぎりなし涙ながれぬ秋の女は
われ思ふ心遂げつと思ふこと二人似たらば嬉しからまし
もろこしを刈る音にわれ聞きほれぬ憎き男がまた首掻かる
手を借らん肩に倚らんと云ふごとく九月に入ればこほろぎの鳴く
あさましく心と心撃ちあへるさまにしづかになびく秋草
草むらを塔のごとくに見する風吹く夕ぐれは淋しかりけり
こざかしくかの日記などの影の如おのれの見ゆる淋しき日かな
この君に一の恋人たらむこと重きことかや軽きことかや
歎くこと止まぬ癖とぞ病とぞ侮るもわれ涙のひまに
夕ぐれの風の下より香の立ちぬ秋さく薔薇もわりなかりけれ
唯だひと日長く語りしそればかり人間の世はまた後もなし
死ぬばかり刺さんばかりに物思ひしつつ秋草分けて歩みき
囚人のさかひにあらず石棺に眠るめでたき女王なりけり
人を見てやるせなしとも云ふことぞかく思ふにも恋しき昔
夕風や岩のくぼなる草かづらさと舞ひ上り波に鳥鳴く
次郎作が悪あばかると口口に云へども知らずわれは何すと
山の草水噴き揚るかたはらにあぢきなしやと空を見るかな
穴倉に住みし日のごと青空をまた美くしと見る日あらぬか
夜の長し脚をとられしきりぎりす閻魔こほろぎおかまこほろぎ
若き日は孔雀白鳥翅をばささげものとしわれをいつきし
恋をもてめでたき生命彫刻すかくこそ思へわれは今日さへ
平俗の群に過ぎぬが云ふことも身に泌みぬとてわれ歎くらく
手を振りてな泣きそと云ふこのかたち別るる日にも見るにかあらむ
後ろより蔵塗りながら物云ひし叔父など見ゆるみそはぎの花
萱の葉のかたちに習ふ人かとも自ら笑ふおもひ痩せつつ
木の箱に烙印を押す従兄をば見つつ弾くなる昼の三味線
人恋し油の浮ける秋雨の水だまりなどあはれなる時
もろこしの紅の葉なびく畑こそ秋の空よりなまめかしけれ
あなあはれ初秋の夜の雲間よりいなづま走るおほわだつみへ
秋立ちぬ子のことよりも立ちまさりしみじみ思ふこと持つわれは
短剣を帯びたる人がなすところそぐはず恋よわれの仇よ
椅子なども一つのものを愛づる癖秋となりてはいちじろく附く
自らはあら描のまま置かれたる画のここちすれ初秋の来て
魂を前の世界にその前の世に遊ばせぬわれと居ながら
初めの日敗れて走りこしとしぬ唯だたはぶれに逃ぐる遊びを
西京の友禅描きに売りなましまぼろしとのみ遊ぶ男を
何時までか此処にとどまるかく問ふは旅の人にも人なさぬこと
金の戸もしろがねの戸も玉の戸も鎖せば柩となりぬわが家
白き鳥木立の奥に隠れたる空に浴みをなさんとぞ行く
うす絹に似る風吹くと眺むらんかく思ふのみ遠方なれば
われ恋に思ひふけると人に見ゆこの切なさもさるものか猶
三日降りて池をあふれし雨水に水草めきて立てる蓼かな
秋と云ふ薄水色に濃き紅の条つけ遊ぶわが心もて
物好きになし出づること此頃は君おどろかずわれ楽まず
君居ざる目に見えもせぬことにより疲るるわれを街に見よかし
自らを朽ち行くものと知らざるやはた思へるやおぼつかなわれ
こほろぎの鳴く夜となりぬ大寺の石の廻廊踏みに行かまし
少女にて琴を前にし思ひにき秋の哀れも恋のあはれも
ふるさとの大盥めく海なども秋風今や吹きわたるらん
秋風は柳の木をば倒せどもなほ女めき哀れなるかな
布をもてくろ髪を巻き湯にありぬ物は思はぬ男のやうに
災厄のさらば降れと云ふ如く白樺立てるかなしき山よ
柄のあれは板屋紅葉も桐の葉も舞子の傘に拾ひおかまし
地の底か雲の間か恋人に囚はれたるかものの見えなく
変らずと云ひがたしてふことをなほ君のみ今日も知り給ふかな
石に匍ふ蔓を引きつつ見たる空きはまりもなく紅かりしかな
ただ少し君を離れてもの思ひしつと云ふなりわが死刑囚
夕月夜花びらよりも軽げなるしら波かかる岩をわれ行く
野分風焼けたる鉄のごときもの交りて花のいたいたしけれ
秋風や尼の姿に似寄りたる淋しき雲の舞へる夕ぐれ
線香が槍のやうなる灰のせてわれと対へる秋の雨の日
桔硬咲く襟つきにくき人のごと女姿の少年のごと
いやはてに吐息をつきぬ慰みし慰まざるにかかはりもなく
鼠いろ痛き紺青それにすら君いまさずば染まらざりけむ
秋くれば夜毎めでたき夢を見ぬ妬心の人も悪心の子も
市が谷の見附通りに古靴をつくらふ人も諦めぬらん
白雲の走りありけるあけがたに醜く慄ふ紐鶏頭よ
まぼろしにわが若き日の紅き帯威のあるものの姿するかな
玉多くもちひ過ぐして妬まれぬ皆わが身より湧くものながら
こほろぎや男女の文がらの多きが中に埋もれて聞く
大船の帆を巻き上ぐる音などのここちよき夜となりにけるかな
白き船砂にすわりて海の鳥舞へりし磯を忘れかねつも
天の川白き夜ぞらにかひな上げふれて涼しくなりし手のひら
山行きぬ栗の毬踏みあさましやむづかしやなど涙ぐみつつ
旅人がうら淋しかる大音に呼びかはし行くかつらぎの秋
秋風は家畜小屋より転び出で餌欲しと追ひぬ白き尾を振り
よくまろぶ水晶の玉転ばざる水晶の玉秋風とわれ
世に知らぬ浪費者たりしここちすれ何事により思ふなるらん
戯れて言ひ過ぎをして小半日わびしがれるもなほ若きため
蓼噛みぬ若くめでたく死なんなどもの語めく心起れば
日のうちになほ暑きこと少しあり身の汗ばむとなつかしき頃
わが心思ひ止むべきことならぬこと一つ交ぜて悔ゆるとか泣く
物思ふかたへに置くは桃色とみどりと黄金の翅したる鳥
この人が街を歩めば顔のぞく歌は思はずものを思ふに
われ一人蚊帳をくぐれば鐘鳴りぬ浄土めきたる秋の閨かな
新しく湧き上りたる恋のごと雁来紅の立つはめでたし
葉の白く光れる肉と見ゆるとき血の点となり椿はなさく
やみかたき恨みに黒くむしばめる心なれども顔はいとよし
野の池の心もとなき皺に咲く薄あゐいろの水草の花
妹は水を覗きて水草におのが瞳の奥をのぞかる
わが心層あるごとし恋しさとうらめしさより成れるならねど
こほろぎの鳴きて話をとどめたり思出ごとはもたざるも無し
延次郎の幟なびかぬ南座はすさまじきかな円山のもと
かたよりて夏をめでたる心など十年へだててなつかしきかな
わが横にいたくくづほれ歎くものありとこほろぎとりなして鳴く
何ごともいたく遅れてこの日まで衰へざりといつはらずわれ
手のひらへ落ちし雨にも口あてぬものなつかしき折の夕ぐれ
雨降ればわれの若さに寂しさの入りくる門を見るここちする
手さぐりに恋しき人の肩などを求むと見ゆる秋の雨かな
月見草雨に濡るるがいたげやと庭を見さして夕より寝し
夕立の雨ぞ降りこし上つ毛の野に飼ふ馬の走りかふごと
夏の雨乾き初めて人思ふなつかしささへ薄らぎて行く
ひるがへる葉の間より白き浜見ゆるへちまの夏の雨かな
わか萱にもの云ふほどの雨ながら腹立たしやと雨がへる鳴く
しらじらと刺繍のおかれしここちする秋近き日の園の雨かな
わが恋は夕月夜をば行くに似る素肌に着けしうすものに似る
恨みさへ云はま欲しきをすべて云ふ気のふれたらむ後も忘るな
わが日記今日も昨日もとりいでて倦ましめぬこそ悲しかりけれ
ひと色にあらで斑あるを思へかし男の恋を愛でんとならば
ふれがたき心なれどもおのれのみやや近づきて哀れとぞ見る
女の子唖の手振りをすることに飽く時降りぬ夕立の雨
闇に来てふなばたの灯を島と見しその夜の次の海の朝かな
雑草の萎えし緑のここちする女とわれを人ごとに見る
物拝む教にこれは帰依したる人らしわれに涙し給ふ
京の山水無月に来てかりそめに住むはかりごとなす凉しさよ
子等のため傷つけられし白樺も青桐も立つ夕立の中
もも色の紐のはしなどまぼろしに見ると云ひしは誰にかあるらん
天地に不可思議の無しわが心君の塞ぎて君に流れず
夕風は床の下なる古鉄に変らぬ紺のかたびらを吹く
風吹けばはなればなれに花うごくつりがね草はあぢきなきかな
はかなげに秣の納屋の戸の鳴りぬ山よりぞ吹く八月の風
下賀茂の森のぬけ路つゆ草が水車の音にわななける路
この二人祭の日とぞ思ふことあまり多かる日おくりぞする
東京は地獄の火など思はるる明るき夏の夜となりしかな
こころにも花を刺繍しぬうすものの衣をめづる夏の女は
朝顔はわがありし日の姿より少しさびしき水色に咲く
少女子は夏の夜明の蔓草の蔓のいきほひ持たざるもなし
くろぐろと鉄をよそほひ生りいでし茄子を打ちぬあけがたの雨
砂山の夕ぐれの風髪吹きてくろ雲ぞ湧くわがうしろより
わが指の今朝しも触れてなげきけり畳の上のましろき秋に
ゆるみなく恋ふるにこそは苦しけれよしなく小き思出もなほ
女には懴悔を聞きて更に得る病ありとは知らざりしかな
初めには恋を一つと定め得ぬ君なりしかどわが前に泣く
たぐひなき思はれ人と世に知られ時にはわれもさもやと見しを
天上と地獄を持ちし疑にまさらす君が懴悔のあとは
この日より人ことごとく忘れむと初めて君はなすごとしあな
ことごとく人忘れむと君云へば身もやらはるるここちこそすれ
この君は七世生きても知らぬほど憂き思ひせしことに懴悔す
君がする懴悔によりて救はれしものなしわれも君も悲しき
かにかくも懴悔に君は泣けよかしわれに劣らぬ十幾年を
懴悔して心にものの消え去ると思ふ幼き人にもあるかな
君のみが恋人なりとわれ云はる長き懴悔を聞けるしるしに
その中にはづかにわれも思はれて初めをつくり今日懴悔聞く
など君の初恋人を得たる日のよろこびのみを忘れぬやわれ
われと棲みなほ十余年御心におかれしものは無みしかねつも
われよりもひたと心に抱かれて来しを思へば許しがたけれ
われなどが懴悔のまへにあることも定めなき世の一つとや思ふ
われ苦し思ひくづほれはかなしと起居に云ふをおきてざるため
今にして思へば旅の国なりき家ぞ墓ぞとたのみしものを
懴悔聞き今たちかへり華めかん身となりぬとも思はれぬかな
思はれて来しと云ふにも違ひたり思はれざりと云ふも違へり
世の常の子に身を比べ恥ありやなしやとまどふその二心ゆゑ
さばかりにはづかしめられ侮られおとしめられて後懴悔きく
その懴悔咀ひにひとし聞きてより夜も日も涙ながるるわれは
その心二三にされて痛しかし懴悔されても懴悔されでも
かにかくも君は君のみ知る世界われはわれのみ見つる日を持つ
線を引く君責むること終りたりこれより身をば歎かんばかり
こし方の十余年をば懴悔すと云ひ給ふをばいかがすべきぞ
こよなしとわれしかすがにこし方も今日の日も見ゆ行末も見ゆ
かなしくもあらがふ力持たぬごと夜の海に来て船に身を置く
船ゆれて紅茶の椀の匙鳴れはわがすすり泣聞くここちする
翅負ひて天を舞ふべき日は来ずて夜の船室にわななくかわれ
船室は海の底にも似たりけり夜の更け行けば目上ぐるもなし
あぢきなし知らぬ男の息近し八畳ほどの夜の船室
風立てば人うち転ぶけうとさが枕上なりわが夜の船
小さなる夜の汽船にあるここち忘れむ世なきここちこそすれ
船室にうら安げなる顔なしとうちも思ふが慰めなるや
海の上夜明に近しつつましく毛布をかづくS夫人かな
勝浦の青き港に船入ると知る刹那にもわれは悲しき
わが船の汽笛にちるもはかなけれ紀の勝浦のあけぼのの雲
旅人のねくたれ髪に棧橋の夜明の風はあてぬ白刃を
この人は金の木の実のなる国へ追はれてこしや逃れてこしや
大神の伊勢に隣りて山青き常世の国の蓬莱に来ぬ
畑々の柑子をへだて海を見るいみじきこの日身にめぐりきぬ
わが恋も悲しくなりぬ紀の国の王子が浜の砂浜に来て
千穂の峰朝な朝なの顔のぞきな泣きそと云ふ階上の窓
隣家へ柑子買はんと声かくる牧師の家の春の夕ぐれ
熊野にて雨の降る日に唯だ一人柑子を食めばあぢきなきかな
教会のかがりどゝなり雨の日にピヤノを叩く細き指先
遥かにもこしとぞ思ふ天の世のものと柑子の山の光れば
川の船熊野の宮の木立よりいで来るわれを迎ふる日来ぬ
あかつきの熊野の山の片はしと黒髪うつる船ばたの水
み熊野の白き河原を踏みながらなほ人の子はものの思はる
船浮きぬ君が心の寒きゆゑ世をはなるると云ふかたちして
わが身こそ順礼となりみくまのの船にあるなれ人に知らゆな
熊野川君を忘れむわがはての身をおかましと思ふ岩かな
冷やかに涙のごとく石走る浅瀬の波の身にしみぬわれ
熊野川船のあゆみの遅々としてよしなしごとに涙こばるる
山をよし水をきよしと思ふよりつねに先立つ君とわがこと
みくまのの山きはだちて青き日の水に船浮けものを思へる
那智の山熊野のみ山天そそる下に来りて君を恋ふらく
わが小指絹をなぶれるそれよりも軽くいかだを流す水かな
熊野の子猿の族にあらねども岩にぞ眠る五六人居て
紀の国の大河の色のかなしけれわが渡りこしわたつみよりも
いにしへの帝王達もよぢにけむ路糸のごと山を這ふかな
わが恋のそのかみの日も思はるるみくまの川の水浅葱かな
空くらく山と川とのいちじろく青きあたりの一もと椿
遠き人心変らばわが船に石まろびこよ山崩れこよ
わが船はいとよく涙うち流す人ばかり居てものがたりめく
旅人を河原の鴉見騒ぎぬ能野の路の春の夕ぐれ
わが船はやがて流れて城のごと帆ばしら立てる川口に来ぬ
百艘の船はあれどもほのかなる灯も見がたくてうぐひすぞ啼く
五六十灯のおかれざる船ありて歎きをすらし川口の波
静かなる熊野の山と水のぞく小き空は黒く塗らまし
うぐひすや百艘の船とどまれる洞にひとしき山かげに啼く
ほの白き河原の見ゆる木の間よりかなしきはなし春の夕に
熊野路の黒き家並も磯に立つ波もかなしや旅の女に
ふもとより頂に来て千年を経しとぞ思ふ山のしづけさ
遠方の磯□胡粉を置く波のいみじく見えて日のくれて行く
恋をして心にものを思ふごと河原の小舎を這ふ煙かな
河原には小家おかれぬ鳥来り砂に生みたる卵のやうに
雨多き熊野に来り日も夜もしみじみものの思はるるかな
紫の水晶のごと身の見えぬくらき座敷の七月の朝
恥しらぬ醜きものは浴びに来す七八人居る泉の夕
あかつきの夢の筋など思ひつつ板敷に居て水の音きく
語らへば若萱の葉のきはやかに凉しくなびき夕露ぞ降る
いたましく石と土との乾きたる道踏む時も面かげの見ゆ
友どちは言葉多きもはかなしと目上げて云ふも皆恋しけれ
紅の砂水いろの砂黄金の砂行けど踏めどもかなし旅人
船を追ふ白鳥のためかろく打つ時はわが手ももの語めく
何時となく君が心は定まりて百年ほどは動かじと見ゆ
はやもわれ白金の世のかたはしを踏みに来つるか若き日を出て
加茂の水二条あたりの凉しかる薄墨色の橋の下かな
ふるさとの鍋鋳る人も戸に出でてかはほり飛ぶを見る頃の風
この眠さ堪へがたしなど云ふ人の座にあることもなまめかしけれ
いと赤き新嘉坡の火の木などおもかげ見ゆる夏の夕ぐれ
夏痩の手の指などを見てかこつ時夕立の降りいでしかな
青柳葉はいとしげくなりゆけど痩せたる人の思ひ出さる
加茂川の水を導く石組みぬ源氏の君とわが聴かんため
撫子の花にてありしここちしぬかの四五人の友と居しこと
白扇さとあきしかなその昔君に見られし心のやうに
白き桶三つ四つ置かれ切なげにかなかな鳴ける夏木立かな
海の月松をみにくく節多くかなしく見せて日のくれて行く
小き犬かたはらに来て膝折りぬ大島の灯のまたたけるまへ
小き子らお伽話の神のごと云ふうれしさよ貝がらやれば
青けぶり白き煙とつらなりて上る空より日ぐらしの鳴く
われのみの君なりけりと云ひありくこの貪欲も変らざれかし
書くことを許さざる文禁制の心づかひを君すみそかに
巴里にて楊のわたのちりかひし初夏の日の風来り吹く
風と罌粟あやふげに見え抱き合ふさまに思はれ哀れなるかな
われ倦みぬ日輪に似る恋に似る鋭き遊びあらはしてまし
わが心おもきに過ぐるここちしぬ飛行もすべき恋をしながら
わざはひも幸も皆くつがへす子も憂きは憂し嬉しきは好し
その心きはめて堅し恨めども泣けども讃ふわが見ぬ人を
かくばかりめでたき人もおぞものの浦安の里のがれあへずも
夏の風土間の隅には尖りたる酒瓶ひとつ置かれたるかな
この暑さよきに譬へば第一の日のくちづけに痺れたる身か
全身を口びるのごと吸ふ波をややうとましく思へる夕
白やかにはなればなれに降る雨は男のごとし夏の夕に
なほ君に尋ねがたかること一つ二つ三つあることもはかなし
水色の蚊帳の縫目をうち見つつさびしと聞ける朝の雨かな
今年児の短き髪も垢づきぬ夏の病はくるしあくどし
海の上つりがね草の袋よりやや赤ばみて夕立ぞ降る
夏の日の夕立まへの大空のしづかならぬが身にしみぬわれ
わが妬みただ粗がきの筋ばかり告げつる日より病となりぬ
さくらんぼ足もとに居ぬ君と乗る馬車の床なる火のさくらんぼ
青玉の耳輪に似たる葉を附けし金蓮草に朝露ぞ置く
黄金の魚水より人をうかがふと見るおもだかの二つ三つかな
白雲が水噴き上ぐるさましたる御空のものと夕ぐれの風
夏くれば野の白百合もさんざしもあつき香をもてものを云ふなり
蔵の屋根汗もにじみてうち並び海に風なし青きふるさと
山行けば靄の中よりあらはるる角ある木ども髪負ふ木ども
おのれより出でて咲くとはすでに今日思はぬ人とひなげしの花
そくそくと麦刈る音すなつかしや見まくほしやとわが思ふ時
ひなげしは卓に置く時もの云ひぬ滝のごとくに涙ながると
やがてわが身のすみずみに沁みゆきぬ毒の薬か君の懴悔か
逢はむこと思とまりて自らを愛でむととりしわが鏡かな
君恋ふるこの大事にも遊びごとするここちこそいりまじりけれ
君がする懴悔のかげにわらふべき人あり悲しさやに見ゆるも
心など手にとり上げて眺めなばいかに涙のながれむわれは
よきことの筋にいといとからき筋うちまじるかなこし方おもへば
わが愁うす黄の光さす中に蜻蛉となりて舞へる夕ぐれ
かの君は全くあらぬとあれどなき人の喪服をかさね着ぞする
たちばなの匂へばものの身にしみぬ生きがひのある心地とともに
わが庭の萱草の葉のなびくをば見る夕ぐれは箱根しのばゆ
あぢきなく物に倚りつつ文かきぬ水無月の風われ見ずて吹く
起きいでて若きみどりをよろこべば鳥吹かれ来ぬ山のあらしに
身は皿に置かれしものの心地する夏の初めの露台の夕
なやましやきちがひつくる風ならん茴香に吹き牡丹に吹くは
薔薇咲きて夜目にも白し君をわれ夢のさかひに待つここちする
身を海に投げんとしたるおもひでの何としたるやここちよく湧く
みじか夜は稚児めきて明くころころと蛙鳴くなる枕上かな
掛鏡萌黄の単衣着て立てば白あやめめく顔のうつれる
夏山の小き渓の水鳴りぬものにおぢたる少女のやうに
初夏や耳には聞かぬ轟きのうづまくもとのひなげしの花
六月の木立とがれりためらはず伸びたるものはここちよきかな
美くしき小き魚の遊ぶごと金盞花咲く一坪ばかり
水だまり五月の雨にくだけたる薔薇を浮けぬ白鳥のごと
初恋の終り果敢なし唯今に似ずと語れど刺さまほしけれ
わが心なほ初夏の花のごと若し妬さもかなしさも湧く
撫子の花畑つくり初夏をよろこぶ人も人のうらめし
自らを白き罌粟よりいでて吹く夕の風とおもひけるかな
川ばたのむさし野と云ふ宿に寝て舞子の下駄の音も聞かまし
生ける世にさらに見じてふひがごとを思へるごとし君もおのれも
ゆくりなく心の上に落ちこしやその人まさにわが手とりしや
あかしやに柔き芽をはこび来る二月の雨の白き足もと
からたちの垣根も濡るるここちするべに紫の春の夕ぐも
葛飾の植木屋来り土を打つ鍬のましろききさらぎの春
人住まぬ隣の家の芝草のきたなく青みそよ風ぞ吹く
とけ合はぬ絵の具のごとき雲ありて春の夕はものの思はる
自らのものに見入りし顔のごと思ふ小き桜草かな
お台場の菫を摘みし夕ぐれに見し雲に似るこはき雲湧く
思ふことなげに美くし否あらずもの思はんと持てる若さぞ
東京の春の靄いと深くなり夜など悩まし堀ばたの道
病むよりも淋しき恋をなすよりも哀れにちれり山ざくら花
かの女その男みな真をば戯れごとの如く扱ふ
われよりも青白みたる手を見せて語る話の身にしみぬ皆
遠近に羽子の音きくうたたねは蓬来などにあるここちする
常磐木の苔づける幹うちならぶ門の中なる春のそよ風
元朝や金の色なる薔薇の花目には見えねど数しらず咲く
早春の匂ひうち散るここちするゆききの人の沓の音かな
山川のなほきはやかに寒き色なす正月の紅梅の花
遠きより船につまれてこし心地する正月の床かざりかな
人間とあることよりも嬉しげに春降る雪とものを云へる木
しづかなる雨もよひなる正月に底ひもしらぬ白き梅咲く
家なるも外なる音も元日は皆なつかしと思ひぬるかな
目もあやに金色の水流れきぬ第一の日の春の太陽
梅の花むらさきの芽をふく木立それらの森のほのぼの夜明く
正月やしもばしらさへいつしかと春のものなるここちして踏む
元日の夜の更けてゆくしめやかさかたみに思ふひと二人かな
七人の子ぞうちつどふ正月にすでに桃李の風きたり吹く
わが家の素瓶の酒にすこし似る匂ひも立つる元日の雨
よそ人を美くしくなしいつかしくなしてわが足る思ひなりこれ
灰掻けば灰の鳴るまで静かなるけうとき炉あり人は知らねど
冬の来ぬ炉を置くごとく温室の花をば据ゑてわれは物書く
袋より横に逆さに出づるなる人形が来てふためく母は
黄水仙わが手に取れる毒水の杯を出で咲きにける夢
巴里なる五階住居にはるかなる底の路次踏む君があしおと
水仙と清き男の唇と炉に燃ゆる火のぼかしの模様
たそがれは恋をしたれば汝をめぐる光を断つと脅すごと来し
もとめ得し洞の口より大空を見たるただちに飛ぶを願ひし
いつまでか抗ふ力あるならん気を高くもち弱き身をもち
ほのかにも瓦の濡れし屋根を見て冬の初めを悲むわれは
君とあるこの趣に別るる日それより後の世やはあるべき
奥山の巌窟をいでて来りし子羽振りかはす天なる人と
墓のごとつらなるものは何ならんなべて男のこころの中に
危さの附きし心と自らをなすかたはらに笑へる嫉妬
初めより目に見えぬもの消え去りしこの驚きに勝るものなし
山蕗の花さびしと更に云はずしてまばらに黄をば摺れる岩山
寒げにも薄墨色の海布のくづのある渚見て雁のわたりぬ
もの投ぐることなまめかし夕ぐれに二階がほどの窓よりするは
やがてわれ君の憎しと身ぶるひぬ雨の中より風起るごと
しみじみと濡るる心もつかの間に匂ひやかなるまぼろしを描く
冬来り河原の石も人妻のこころのごとくとがり行くかな
自らの着ふくだみたる近き山落葉の後に痩せ痩せて立つ
牢獄と恋を思はず美くしく円き柱にわれはつながる
稚児のごとこころよげにもふくらみて水仙の葉の抜け出でし土
うつくしく黒き豹とも見ゆる髪見つつ倚るなる夜の火桶かな
何故かすくはれがたく敗れたる人のここちし霜を見るわれ
冬木立思ひ上れる人々の集まれるごと立てり夕日に
わが靴ををかしき程に滑らせて芝居へ送る道の敷石
十二月粘土が指をよごすよりわびしき雨の降れるひねもす
御仏の円光に似る水仙よ亡き親めきてこひしき花よ
夕雲の中へ隣の竹棹の端はしたなくいでて寒かり
枝のまま枯れたる菊に雪降れりあぢきなさなど紛れつる頃
さばかりのめでたき帝いましける世もこの日よりいにしへとなる
(以下二首巴里にて明治天皇の崩御を悲みて)
五六人よその都に語ること哀れなりけり諒闇のひと
かしこかる御代の初めの宣命を待てる心のすがすがしけれ
(以下大正四年十一月の御大典の頃)
南庭の万歳旛のくれなゐの錦に天つ日のうつる時
あなめでた南殿の母屋に天上の装ひしたる高御座据ゑ
むらさきと金色をもて限りなき高き天位のかたはしを見す
日の本の大民衆のこころもて儀式のつかさつかふまつれよ
大宮の南の庭の白砂に万歳旛のたかくそびやぐ
万歳の歓声おこる日のいでてやがてぞ起るそよ風のごと
万歳は式部兵部の人人にえやは劣ると挙ぐべき声ぞ
いませかし長五百秋をすめらぎはみかどの中の大帝にて
この日よし王者を祝ひまつるとて地軸にひびく砲の音する
見るはこれ卜定されし小忌の人花の中なる百合と云はまし
悠紀の民主基の国人御穂まゐるわが聖帝と神神のため
あな恋し小忌の青摺なつかしき日かけのかづらかかる冠
悠紀の殿主基の殿よりみあかしの洩るるを思ふかしこき今宵
あなかしこ廻立殿の御廊を神代ごこちに御傘さぶらふ
大君と神神の御饌膳屋に調ずるさまのものの音かな
美くしと御代の初めの言ぐさにすべく五節の舞姫まゐる
さかりなる御代の五節の舞姫は天の子等よりめでたかりけれ
なつかしき国栖人きたり大神のすゑの帝のおん前に舞ふ
よろこびの袖ひるがへる国民の心を申す袖ひるがへる
いにしへも今もめでたきためしには白菊をもてかざしにぞする
めでたくも清し少女の作りたる大御食をもて御代の初まる


(底本奥付)
定本与謝野晶子全集
第三巻 歌集三
昭和五十五年六月十日 第一刷発行
定価  二千九百円
著者  与謝野晶子
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社
    東京都文京区音羽二−一二−二一
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