山へよする

               竹久夢二


序の歌

 伊藤Y子
わたつみの沖に火もゆる火の国に我あり誰そや思はれ人は
摩訶不思議噂の生みし我といふ魔性の女いくたりかすむ
 茅野雅子
ほれぼれと涙ながして歌ふらむ恋のよろこび恋のかなしみ
うつくしき夢の奥よりこぼれ来し雫の玉の歌にかもあらむ
 与謝野晶子
あたり皆臙脂に染まり行く如しいと悩ましと語り給へば
誰よりも若くめでたき身を持ちて物思ふ子は罪に問はまし


山へよする


新春
あかねさす紅の振袖新春の街の巷に逢へる子やたれ
追羽根のきみがたちまふ緋鹿子のやつくちよりぞ春の雪ふる
柳屋の小さんが顔をこそばゆく風わたるらし大江戸の春
温室
黒髪の匂ほのかに身はうつゝシネリヤの花ベコニアの花
露けきに引かばこぼれむ温室の淡紅のベコニアの花
絵筆とる君が横顔クリスチナ・ロセチが妻に似ると思へり
桃樹園
こは恋か娘心の物怖かこはさはかくも泣くものならば
ひた泣くを恋と知らばやうばたまの黒髪いたみ慰めかねつ
涙ともいづれ雨ともけぢめなく濡れてさまよふ二人なりしか


果実篇
「青麦の青きをわけてはる/゛\と逢ひに来る
子とおもへば哀し」これはその頃詠んた歌で
ある。そのやうに青い麦畑の中を、下町の方
から通つて来た。空は低く、遅咲きの山桜の
花片が、麦畑の畦に残んの雪のやうに散つて
ゐた。
窓から見てゐると、女は息をきらしながら、
わざとゆつくり近づいて来た。
画室へ入つて来ると、足袋をぬいて、汗ばむ
だ踵を拭いた。
あの子はそれから後もいつもさうした。


白玉のうれはしき子を抱きたればわつと哀しくなりにけるかな
「過ちか」「いな/\いまは身も霊も捧げしものを忘れたまふな」
あゝ五月おもはれの子はおとなしく隣の部屋に衣ずれをきく
なつかしき娘とばかり思ひしをいつか哀しき恋人となる
なやましく暮れゆく春のこゝろとて花もわつさり散りゆきにけむ
ゆく春のけぬがにも花のちりしきてそよらと紅の帯やときけむ
仇情かけまじものと盟ひしはまことかなしきあきらめと知る
何かしてふつと涙のうかみくれスウヰトピイをつまむとせしに
「何故にかくも寂しき面して妾を見たまふ逢ひつるものを」
サンタ・マリヤ
サンタマリアこの子とこしへ君に似て清くさみしく処女ならしめ
ニコライのホオルに入りて相擁きサンタ・マリヤを拝みにけり
 温室拾遺
温室の雛ベコニアは淡紅の露もたわわにいまさかりなり
松の内
  「淡紅色鹿子をかけて島田にあげましたけれ
  ど、誰に逢へるのでもないのてす。鏡のまへ
  で泣いてゐます」とのたよりに。

うば玉の黒髪さへも解きがてにむつがるきみを忍ぶ黄昏
人伝のあはれやきみは身もほそり絵筆も文も焼かれぬといふ
港屋懐古
「来はきつれあまり寝顔のうれしさに覚しかねしをとがめたまふな」
雪ふかくつもりつればと凍えし手をわれにあづけぬいま来し人は
かたはらにしづかにあるもものいふもいはぬもよけれわが妻なれば
わが窓のプラタナの葉の散りしくを朝な夕なに見むとおもへや
吾が髪を細きさ指にあそびつゝもの言ふ子はもあが妻なれば
わが問ふに答へもやらず袂より手紙いだせし人なりしかな
伏せし眼の睫毛のひまのつぶら眼の露ふかきほどの言の葉もがも
「妬まるゝ身はなほ嬉し白き手のこの猟人をいましむる身は」
「わがゆきて鈴は引けども空鳴りのいでずば人にまた逢はめやも」
父が家へきみをおくるとたちいづる戸のもはいまし春のくれがた
慌しき旅客
  焦慮と不安とに胸を閉されつゝ、車窓に身を
  凭せて眼は野にやれど山を望めど、眼に見ゆ
  るは黒髪の子がある夜ある時の姿なりき。
野も山も森も小川もけぢめなくひたに走れる旅とおもへや
逢ひにゆく旅にしあれど慰まずわが乗る汽車のやまず走るも
夜をこめて山の峡をましぐらにわがわびしさはきはまりにけり
東京駅ホテル六十九番
春風のおとづれよりもたをやかに扉を入る子の美しさかな
たをやかに春の柳のなびくかと君を抱けばしづごゝろなし
これはこれ旅寝の夢にこがれつるわが少女かと黒髪をなづ
「このまゝにミイラとなりてはてむもの大天地のいま覆へれ」
帰らねばならぬ家なり娘なり帯をしめつゝなげく君かな
「夜の室に君と寂寥と残しおきかへるこの身をとがめたまふな」
指折りて別るゝ日をば数ふなりいぢらしき子よ逢ひしばかりに
隅田川雨景
  幌をふかくおろした俥は、柳橋を渡つて柳光
  亭の玄関でとまつた。
一蝶もかゝる寂しき夕暮の隅田の川の雨やきゝけむ
帯むすぶひとのけはひを身にしめて岸の柳に眼をやりしかな
「むすぼれて帯の解けねば好き事の君にあるべしあらばいかにせむ」
青き船
  京にありし日、日記のはしに書きとめし歌反
  古なり高台寺畔のかりの住居に、思ふはおし
  のがこと、おしのを待ちつゝ住みわびし三年
  がほどは、げに憂きことしげかりき。
青き船波の彼方に愁ひつゝゆきてかへらぬ君とこそおもへ
ひとりなる君を都へ残しおき何とて海へいそぐ心ぞ
これやこの恋は再びすまじうぞ泣かまほしさにあゆむ野の道
硝子戸にふつと映りしわが顔の久なりしかなぢつと見つむる
たんなたら紫野ゆき嵯峨野ゆき酔へど歌はぬ男なりけり
加茂葵祭二首
しんづしづ階廊くだる勅使みむと扇かざしぬ思はれびとは
びようろうと笙篳篥の音きけば我世寂しく人の恋しく
せきあへずせきあへず流るゝ加茂川の水の心をひとはしらなく
ぴか一の祇園の桜舞姫の金の扇にいさぎよく散れ
逢状をいだせし人を待つ宵かをかしき唄を酔うてうたへる
島原道中三首
春の日はいまし逝くらむ島原の胡蝶太夫に花散りかゝる
島原の昼の郭のさんざめき春の日脚をしばしとゞめよ
玉織のあけの踵のうすじめり花弁よりもなやましきかな
抒情小景
しんしんと日の照る畑のまんなかに小犬とふたり遊ぶべかりき
恋人は路をよこぎる●(「堰」の左側がムシヘン)蜒をも憎まずぢつと涙たゝふるすくすくと枝さしのべし川楊生きて相見む夏きにけらし
なやましく夜の露台に身をなげて今宵かも待つ夏は来にけり
これやこのよりどころなき魂が風にふかるゝ岸の青柳
木津川の河原の小石ぬらすほど夕かたまけて春の雨ふる
たちわかれ近江の国の湖に波さわぐなり旅寝しぬれば
東京愛慕
わが恋はかくもはかなし西河岸の一石橋も見ずかなりなむ
黒谷の身をきる鐘のなりいづる夕かたまけて恋はすべなし
音羽山清水寺の朝詣御籖をひけばまた凶と出る
花道の蝶花形の提燈に灯をいるゝころぞ都こひしき
築地なるルカ病院の窓の灯を数へつゝゆきし夏は来りぬ
堀どめの水に映りし星よりもなほ遥かなる君とこそおもへ
ウインナの白き卓よりほのかなる腕をいつかまのあたり見む
夏来ればかの並蔵の白壁にかげろふ飛ぶをまたかへり見む
幾夜かもあけ六つの鐘きゝつらむ薄命の子を思寝にして
思出を悲しきものに誰ぞやせし一石橋のしるべ石はも
竹糸哀傷
寂しさが身をおとしめて唄ひ女のうたになみだをながす夕暮
みづからをおとしいやしめあざわらひ楊家の子等と踊る佗しさ
とぼ/\と何をもとむる心ぞや夜としなれば行きて帰らぬ
ほんのりと今日も夕となりにけりあまき涙を湛へしまゝに
袖枕つひうたゝねのはかなさにまどろむひまもあくる夏の夜
まどろまぬ夜のあけがたはいとせめて夢にも見むと枕かたしく
夏の夜のかりねの床の夢のまにたつ浮名とも思はざりしに
大阪より
並蔵の奥の細道かたことゝ三味線弾のいぬるたそがれ
大阪の難波新地の春の雪人形遣のお泣きやるものを
ある宵の道頓堀の人中を佗しげにゆく我を見出でぬ
愁人山行
山見れば山はも寂し海見れば海はも悲し人間なれば
汝が生れし甲斐はも哀し瑠璃色の葡萄の眼より涙こぼるる
馬の鈴しやんらしやんらとさかりゆく心さぶしとたよりに書かむ
富士川の水際にたてば名なし草うすむらさきにこぼるゝものを
あまさかる乗鞍嶽の雲ゆわけほがら/\にいづる太陽
富士川やたが吹きすさぶ笛の音ぞれいろうとして身は秋にいる
秋の夜は息をひそめてひつそりと忍びて泣くや草のゆるゝは
都をば遠くさかりて来つる山山見れば山は哀しかりけり
山国ははや秋風の立ちそめぬ吾が思ふ子にさやりあらすな
青頭巾ふかくかむりて去にけむ秋に追はれし人形遣は
秋風に追はれて山の町下る人形遣の青頭巾かな
逢坂を越えて
さしよりて手を挈るよりぞすべをなみ幾山河を越えて来し子に
越えて来し逢坂山はむらきの色こきほどの言の葉もがな
石山のかの水楼の欄干に言葉もなくて袖をかさねぬ
この年月求めしものをいまこゝに妹が眸のうちに見るかな
新しき身のをのゝきとおどろきをいまぞおぼゆる妹を抱きて
「五月なり思出たまふことあらむ」言葉のたくみ憎ききみかな
瀬多川の瀬々にしく波ゆた/\に妹としあれば小舟ゆらぐも
父が家をのがれて遠く来つる子はわが小夜床にやすく眠れる
相倚れどなほうれしさのきはまりて泣かまほしさを何といふらむ
瀬多川の大堰の堰はとどむともかひくぐりつつ水は逢ふなり
里居
  加州白山の峯つゞき薬王山の山合に、湯涌と
  いふ温泉場あり。金沢の城下より五里の山道、
  都の人のゆくところならねば、数戸の人家も
  夕は早く戸を鎖ざし、湯治の客も、近き在所
  の畑に出でゝ働くべくもなき老人が多し。寂
  しくはあれど、山のたゞ(ママ)ずまひ雲のゆきかひ、
  朝夕眺めても飽くことを知らず。山には山の
  木の実みのり、畑には好める野菜ゆたかなり。
  たま/\城下より酒買ひて音づるゝ旧友を加
  へ妹が都ぶりの爪弾きに、旧歓うたゝ懐しか
  れど、敢へて傷まず。
  枕の下をゆく瀬の音に寝つかれぬ宵々は、更
  けて小暗き浴室に下り、蟋蟀をきゝし佗しさ
  さへ、いまはなか/\に懐しく哀傷かぎりな
  し。
湯涌なる山ふところの小春日に眼閉ぢ死なむときみのいふなり
谷深き片山里をゆくときも妹としあれば都わすれつ
ふるさとの山の峡間の細径を汝が辿りけむ姿ほのみゆ
吾がためにつくるコヽアの匂ひより里居の朝の秋立ちにけり
野守等が朝のいらへをして過ぐる女房ぶりもなれし頃かな
妹がため通草をひくとたちよれば袖も袂も露にぬれつゝ
鱗雲空を掩ひてわたる時人間の子等は山路を越えぬ
斑猫の導くまゝにいざなはれをかしきまゝに山路越えきぬ
山がつが木を伐る音の丁々と谷をわたりてひびくなりけり
木の実よりなほあたらしく若き野の草よりかろくよりそへるもの
ゆく秋の渓の沈黙のきはまりてしづかにも我等脣をよす
さや/\に葉ずれの音の涼しさをそがひにききて我等抱けり
さにづらふ木洩れ日のいろの紅の帯解きがてにきく山鳩の声
住吉詣
住吉の華表の上の初日出よく拝みね新妻なれば
住吉のかの反橋を渉るときつれなき人に吾をしてける
有馬山
有馬笠笠に姿はつゝめどもわが恋妻は人も知りきや
有馬川瀬々にうく波ゆら/\にあやふく心きみにのりつゝ
醍醐の春
さし乗りの俥をさして野守等が高笑ふらし醍醐路の春
山科の木幡の道をさし乗りの俥羞らふ君なりしかな
岩根ふみこごしき宇治の山ゆけど妹としあれば岩もしらなくに


屋上庭園
  過去の悲しい経験を、未来の生活の上におい
  て考へることは堪へられない。痛ましい性の
  遺伝を自分の内に見ることは悲しい。すべて
  を振捨てゝ創造へ急ぐ、裸形の二人の足に、
  吁、眼に見えぬ鎖がついてゐる。忘却の穴へ、
  過ぎた二人の日記は埋めたが、どこからか闇
  に覆面した記憶の悪婆が迫つて来る。
身のうちに未知の世界を見ることを歓びとする悲しみとする
君のうちにわが歓びも悲しみもありと知る夜の尊き礼拝
黒きものふつと心をかすめつゝ見返りがちにあざみわらふも
はつたりと見まじきものに行逢ひぬ夢なりしかば手にもとられず
悲しみが席をゆづりし歓びをしばらくありて知りし侘しさ
つゝましく心のそばに寄添へる悪性ものを刺しもかねつゝ
憎しみがとはにふたりをつなぐとはわけて男の知らざりしかな
過ぎし日を今にかへさんすべをなみ手は手をとれど心泣くなり
ありし日の少女のごときはぢらひを眼に見する子よ何を思へる
許せ子よ昨日と今日をひとつ身にまして女の耐ふることかは
永遠の猶太人
  二人は追はれた永遠の猶太人のやうに、街の
  片かげをとめてさまようた。
  「何故そんなに俯むいてお歩きなさるの?
  あなたがさうしてお日様に見放されたやうに
  してお歩きになると、私までが、たよりなく
  なつて了ひますわ。
  あたし達はこれからなんですわ。
  あなたは、勇気はおあんなさるし技倆はおあ
  んなさるしほんとに何だつて思通りになりま
  すよ。
  お寒いのでしたら、三味線を焼いてその火で
  温りませう。
  涙で絵具を溶きませう。
  絵具がなくなつたら、私の血で描きませう。
  枕には私の腕を。
  そして、あつい接吻がお腹のたしにでもなる
  のだつたら……」
自棄の涙しづかに頬をつたふなり力足らざるわれと知る時
やはらかにあまき涙もうかむなり白玉の子を袖に抱けば
現身はゆくへもわかぬかなしみの涙の海のなかにただよふ
それまではたゞそれまでは健かに生きむとおもへば涙ながるゝ
寄添へよ野辺の草よりやはらかく春の雨よりいとこまやかに
そのかみの少女の日よりあたらしくやはらかきもの心におぼゆる
あはれみが恋の寝椅子によりそふをうれしとぞおもひかなしとぞおもふ
自画像
  彼等は、自分を悪党だと思つてゐる。
  彼女等は、自分を善良な人間だと思つてゐる。
  どちらでも好い。だが、どちらでもいけない。
  自分のうちにはもつと別なものがある。それ
  が自分を育て、そして勇気を与へる。その精
  進を忘れまいために。
悲しみしあとのつゝましさ選まれしわれを大切にせむと思へり
晴やかな朝かな何か身のうちに尊きものを感じてあゆむ
たまきはる命ひかりて金色の身はうつゝとも街をゆくなり
真裸の身内をわたるこんじきの朝の風に涙こぼるゝ
こゝはしも汝がとこしへの故郷ぞ涙ぬぐひてふかく寄添へ
女ともたゞひとりなる人間の霊ゆゑに身はあやまたず
別府より
さにづらふ紅の手絡し新妻は別府の山に吾をまつとこそ
旅の身はかなしきものをわが妻のまして恋ひつゝ吾を待つらむに
そのかみの少女のごとき羞ひを十日見ざれば眼に見するひと
夕闇に月草の花開くかときみのゑまひを久にして見る
吾を見むと病をおしてきつる妹吾を見てしかばまた病みぬ妹は
旅の夜に氷をわると吾があれば遠方にして船の笛鳴る
小夜ふけていづらへむかふ船ならむけたゝましくも笛の鳴れるは
  つばくら多く北より来り、海を越えて南へ向へり。
いでゝ見よかのつばくらの夫婦づれ今日はうれしき鹿島だちすも
人間の妻は病みたれ手を支へ空ゆく鳥を羨みにたれ
仇の手へ一駅毎に近ける汽車としきかばさもこそ泣かめ
汽車はいま汝がこがれし宮島の岸をすぐるにふかく眠れる
入院
  いまはこの事実を叙事的に書く余裕を持た
  ぬ。たよりない女は売られて行つたのである。
朝夕を共にせしものをこの家によしや死ぬともあらむといへど
病院より籠が来つるといふ声に布団の袖をかぶりて泣ける
吊籠に添うて歩めばとく/\と妹が涙の音のきこゆる
「など死なむ君へ債を酬いずば売られしまゝになど死ぬべけむ」
など死なむ悲しきことを言ふなかれ生くることのみが正しき証ぞ
父がまへに事のもとすゑつばらかに証さむとするいぢらしさはも
やゝこしきねたみそねみのなかにしてしみじみ生くる美しさ見よ
つゝましくかしこき命いたはりて好き日を見むと手をとりて泣く
憤りの心もいつかなごむなり腕まかせて寝ぬる君見れば
  病床のたよりに「名を惜んで下さい。彼等は
  彼等、私等は私等、交る時のない平行線で厶
  います。大切な大切なものを彼等のために費
  すのは惜う厶います。あたしは静かになれま
  した。どうぞ心おきなうあなたのお仕事大切
  にして下さい。逢ひたいけれど……しの」と
  ありしに。
赦しやらむ卑しきものは赦しやらむ彼等も等しく土になるもの
「春は来ぬ今年は誰と羽根追はむ」細りし指を数へつゝいふ
病室の隅におかれし塗下駄のさはこそやさしきみをまてるに
縁ありて江戸紫の駒下駄をはいて逢ふ夜はいつの春ぞも
君おきて吾が外国へ何をかもたゞにしたひてゆかじとぞおもふ
  彼は人々の運命を恐るべきことを知らない。
  彼はすべてのものに掛値をつける。だから彼
  は人の心を値切る。彼の妻をも値切る。だか
  ら彼は彼の妻に不信をおいてゐる。彼はまた
  人生を値切る。そして、彼の寿命をさへ値切
  るのだ。
贋金の指環をひさぐ男よりすこしまさりて身をも売るなり
品下るわけて女のクラーカは恋を芝居のごとく思へり
みだらなる話を好むかの女食うて笑うて泣いてあるらむ
東京行
秋立てばつまはめをつれふるさとへ渡り鳥さへかへるならひを
さだめなき旅に枕をかさねつゝいまはた遠くおきてかへるも
かたはらにありし日にさへ寂しさをせんすべもなくかこちしものを
あめつちにわがひとりなる妻おきてさすがに旅へいづる心の
うつし世に妻とよびはた夫とよぶもかりそめならぬ運命とぞ知る
送る人送らるゝ人打寄りてこゝろ/\にたゝずむ停車場
東京駅
ふるさとへ帰る心できたものをながれてくればやはり寂しい
親と子が知らぬ他国へきたやうに悄然と下りる広い停車場
親と子がある寒い日に東京へ下りたと書けば詩のやうだけれど
街を歩く心持
  灯ともし夜になると無闇と人が懐かしく、明
  るい所明るい所ととめて歩いたその夜の心持
  ちではない。
  オピアム・イタアのやみがたき誘惑と不安に
  似たものが、群集を厭ひながら、なほ街を歩
  かせる。それは何であらう。
風がひとりふけし巷を走るなり風にさそはれてあゆむ心が
ひそやかに我にしたがふ影のありその影ゆゑにやまず走れる
ほつかりと電気つきしにおどろきぬ何とて我の泣きゐたりけむ
涙もてパンを裂きたるふたりなりかく言ひ得るを歓びとせよ
  いかなることぞ、今年東京の街路樹は悉く青
  葉をつけたり。
冬ながら銀座の柳芽をはりて五月に似るとことづてにせむ
銀座なる街の柳は芽ぐむとも昔の人にまた逢はめやも
生れきて妻とよびはた夫とよぶもかりそめならぬ尊ふとき運命
まれに来るこの歓びは何ならむかならずともに欺かるゝな
  帝劇にて勘弥のロミオをみる。
わがロミオ墓穴くだる心持にて病室の戸を入りにけるかな
鎌倉河岸
足ひとり鎌倉河岸をあゆむなり眼には見まじきものを見るなり
昼日中一石橋にたちつくし何を眺むる男なるらむ
誰に逢ふあてもなければ仁丹の広告燈をながめゐにけむ
灰色の室
隣室のおろしや人の夜啼きにも馴れそめし宿の暗き壁かな
ひとすぢに君が心へゆく道の白き土ともたまづさをまく
風吹かば八坂の塔の風鐸のかららと鳴るを妹きくらむか
八十街の銀座の街をゆくときも吾は妹おもふわが妹なれば
久なりし一石橋をゆく人の誰としらばやゆきすぎにけむ
セレナアド第一版をなつかしみ小さき旅へいでしもこのころ
服のまゝ転寝をする癖のつきぬ寂しき癖のつきしものかな
あきらめ
ほんとうの事を言ふからいけないのだ、でたらめを言へ口から出まかせに
銭金で女を売買することはポルネシア島の事ではなかつた
心の中へぽかんと大きな穴があき、そこから寂莫が湧いてくるなり
どうせ成るやうにしか成らぬとあきらめてもあきらめられず
「時がすべてを解決してくれるよ」と親しい友は言つて呉れるが
掌を開けて見たけれど何もなし、たしか持つてゐたつもりなりしに
新聞の欄外までもみんな読みしが、面白きこともなし転寝をする


愛児篇

この一篇を、ちこへ。お前はすぐこれが読め
るやうになるであらう。

  子を置きて夜慌しく旅へいでしことありき。
否みつゝあきらめがてにだせし手を放さじものと脣へあつ
スペインのお伽噺の王子さへ泣きしものをとせきあぐる子よ
汝よりもいとしきものゝ世にありと思ひしる日の汝のいとしさ
いとしさといぢらしさとを隔てつゝ秤らむとする父を憎むな
やがて汝が玩具欲りせぬやうになり母なき責を父にやたづねむ
愛児を家にのこしていづる夜の夜霧ぞふかく家をつゝめる
「はや帰りてよ」かく言ひながらいだす手の柔かきかもなんとすべけむ
泣くなかれはや帰りきて添寝してマルコの話またせうづもの
いとほしき汝をのこしてなが父はいとしきものに逢ひにゆくぞも
すや/\と眠れる吾子をさまさじと忍び足してパヽやゆきけむ
ひとすぢのレールは哀し子をおきてましぐらに走るレールは哀し
別れの手いなみしときのむづかりも新しく胸によみがへる朝
  汽車H市を過ぐる頃夜明けぬ。広重の山の端
  に、冬枯れのミレーの耕地見えそめ、離愁き
  はまりなし。
ぽつつりと野末にひとつ消えのこる朝の灯よ汝も目さめつらむを
朝の床傍に父のあらざればむづかりてあらむ泣いてやあらむ
食卓の朝の祈祷もおぼつかな寂しき様を父はおもへる
浅草遊覧図
  加賀の温泉にゐた時も、別府の海水浴へいつ
  た時もまた、京都で病気した時も、「浅草へ
  往うよ」とよくパヽにせがんだ。そんな時に
  は、「あゝよし/\、今にね」と言ふと「い
  まにはいや、さあでなくちや」お前はさう言
  つては、パヽを困らせたが、今日こそさあ、
  浅草へ来たよ。三年振りだ。お前も嬉しいか
  パヽも嬉しい。
さあこゝが観音様だ豪勢な提灯を見よまた鳩を見よ
提灯は昔ながらにぶら/\とかうしてゐても過せる世かも
豆をやれ、うんとこさ鳩に豆をやれ、お前のやうな小鳩にもやれ
どれもこれもみんな可愛いゝ鳩の子だ。そちは可愛いゝ人間の子だ
あれとこれがほんに夫婦であらうもの口をよせつゝよりそへるはや
寄添へよ。天下晴れての夫婦者、人間のやうに遠慮をするな
鳩の婆よ、お前も屋根からおりといで、たべたらそこでゆつくりお休み
さめ/゛\と観音堂の暗がりに憐を乞へる母と子も見た
花屋敷
奥山の菊人形はいまもかも輪廻のごとくやまず廻れる
亀八の造人形の七福神は笑つては居れどどれも悲しい
亀八はなほ恙なく世にありや、かゝる悲しき人形造りの
あやつりの手振あやしき媼等もよる年波に死にやはてけむ
おどけたる機械ピアノの音をひそめ正直爺にまた逢はめやも
●(ケモノヘン+「非」)々を見てふつと可笑しくなりにけりあの●(ケモノヘン+「非」)々のごとよく嫉む人活動のすれて消えゆくフヰルムよりもつと果敢ない恋とすべきか
山がらも夫は妻をつれ山の巣へ帰つたであらう。彼等に幸あれ
芸が身を助けたものやら山がらは行方もしらず死んだものやら
江川玉乗
まはれ/\とても逢はれる身ではなし。赤い手鞠よ青い手よ
あはやいま千番に一番の鐘合の渡る浮世の鬼とも知らばや
「これとても人間のことに候へばやりそこないは幾重にも御用捨」
サアカス
サアカスの馬乗りの児が叱られて泣く/\柿を喰ひにけらずや
踊り子の玉虫色の肌着よりシンガポオルの風は吹くなり
サアカスの子になりたしと思ふなよ父はまづしくつれなかれども
十二階
浅草の十二階より見渡せば御代は聖代文明開化
何故の涙ときくや汝も見よ。上州の山、甲州の山
東京百美人の写真ももはやなしいまは流行らずなりしものかも
メリイゴオランド
浅草のメリイゴオランドこそをかしけれ親と子が乗りてやまずめぐるも
これやこの因果はめぐる小車の木の馬に乗りて廻る人間
添寝
大将になることをやめて、パヽのやうな絵かきにならむとこの子は言ふはや
大きくなれたゞ健やかに大きくなれ。それより外には何も言へない
クリスマスにならば鉄砲を買つてやらむと約束せし、パヽを忘れよ
歌へ歌へ力一杯声を出せ、なんでも一杯にやるのが好いのだ
唄一つ力一杯歌はずにパヽの経てきた道は寂しい
「はやくパヽのやうになりたいと思ふかや」「うん」といふ子のいぢらしさはや
いはれなき腹立しさに叱る子の泣くまじとする悲しき顔はも


歌時計
ちんからと歌時計のなりいづれば眼閉ぢしまゝに笑まふ吾児はや


「人間は神様が作つたのね、パヽ」
「さうだ」
「ぢや神様は誰が作つたの?」
「パヽは知らない」
                    『山へよする』完

  後記
「山へよする」一篇は、千九百十四年十月より千九百十八年十二月まで五年間に渉るHEとSHEとの恋の記述である。また彼等の愛の祈りである。大方は最近数週日の間に書いたもので、挿絵はある読者のために書き添へたもので、ある感覚の説明に過ぎない。この本の為めに、序の歌を恵まれた伊藤・茅野・興謝野三夫人のあつい心添へに感謝の念を捧げつゝ千九百十八年十二月二十五日夜
                    東京中野にて



竹久夢二文学館
第7巻
歌集
万田務監修
1993年12月15日 初版第1刷発行
発行者 高野義夫
発行所 日本図書センター
〒112 東京都文京区大塚3-4-13 電話03-3947-9387
制作 オフィスコヤマ
装幀 成田克彦
印刷・製本 亜細亜印刷/関製本
定価3,800円(本体3,690円)
ISBN4-8205-9278-5 C0391 P3800E(第7巻)
ISBN4-8205-9271-5 C0391 P38000E(セット)