太平記


巻 第一

後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事

 神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の御代に相模守平高時といふ武士がゐた。此人の時代から天下は乱れに乱れて、戦争の続くこと四十年にも余り、其間に一人の長生きをする者もなく、人々は皆身の置き所もない有様であつた。事の起りを原(たづ)ねると、それは元暦年間に後白河天皇が鎌倉の右大将源頼朝を、平家討滅の功によつて、六十六箇国(一)の総追捕使(二)に補任せられた事に始まつてゐる。これ以来武家が追々と勢力を得て、天下の実権を握るやうになつた。源氏は僅かに三代で滅びたが、頼朝の舅にあたる遠江守平時政の子孫が其後を引き請け、時政の子の義時の時から其勢力が愈々盛んになつて来た。そこで時の太上天皇(三)であらせられた後鳥羽院は、此義時を亡ぼさうとせられ、遂に承久の乱となつたが、不幸にも官軍は敗北し、畏れ多くも後鳥羽院は隠岐の国へ遷幸せさせ給うたので、義時は遂に天下を己が掌中に収めてしまつた。
 其後、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時と、七代の間武家政治が続いたが、其徳望はよく人民を撫し、権勢に驕らず、謙譲で、仁恩を施し、礼儀を正しくする等の善政を行つて、鎌倉幕府の基礎を固めた。承久の乱後は、皇太子或は摂政家等の中から、治世安民にすぐれてゐられる貴族を一人鎌倉に御下りを願つて征夷将軍(四)と仰ぎ、一同は礼を厚くして之に御仕へ申したり、又京都に両六波羅、鎮西に探題を置いたり、内治外防に意を用ひた為め、天下の人々は皆其権勢に服従してゐた。
 所が時政より九代目の高時に至つて、暴政を行つて人民を疲弊せしめ、権勢に驕つて遊惰の限りをつくし、見る人聞く人皆眉を顰め、悪口を云はぬ者はないといふ有様であつた。此時の帝、後醍醐天皇は御年三十一の時御位に即かせられ、御在位の間三綱五常(五)の道を正し、一切の政を忽かせになされず御精励遊ばされたので、天下の万民は皆御高徳に悦服した。凡て諸道の廃れたものは興し、一善事をも嘗めさせられた為め、神社寺院は繁昌し、仏道儒道の大学者達も其望みを達する事が出来た。誠に又となき聖主、明君であられると、御徳化を称へ奉らぬ者がない有様であつた。

関所停止の事

 各地の関所は、元来国の禁制を知らしめ、非常の時に備へる為めであつたが、今では通行の旅人から税金を取り立てゝ通商の妨げをなし、年貢運送に煩ひがあるといふので、後醍醐天皇は大津、葛葉の二筒所以外は関所をやめられた。
 又元亨元年の夏に大旱魃があり、畿内畿外とも土地は赤焼(あかやけ)となり、田には一もとの青苗もなく、餓死する者が相尋ぐ有様であつた。天皇はこれを聞召されて、「朕が不徳ならば朕一人を罪せよ。何の咎があつて人民は斯る災ひに遭ふのか。」とおつしやられ、御自身で御朝食をやめられ、飢ゑ苦んでゐる者に施しをされたが、それでも尚万民の飢ゑは救へないと、検非違使(六)の別当に仰せて、裕福な者の蓄へてゐる米を売らせたりせられた。その為め商賈は互に利益を得て、人々は皆多くの蓄へがあるやうになつた。
 又訴訟人の出た時に、下々の有様が御自身に通じない事があつてはと、天皇み親ら記録所へ出御あらせられ、直々に訴へをお聞きになり、理非を決断されたので、国内の訴へは直ちになくなり、刑鞭(七)は朽ち、諌鼓(八)を撃つ人もなかつた。誠に治世安民の政治にたけさせられた、立派な明君と称へ申すべきである。
 
立石の事附三位殿御局の事

 文保二年八月三日に後の西園寺太政大臣実兼公の御娘藤原禧子が后妃の御位につかれた。此家から女御(九)を立てられた事は既に五代で、一家の繁昌は天下の人々を驚かした。
 此方は御歳十六で宮殿に上られたが、桃の花が春の陽になまめくやうな御顔、しだれ柳が風になぶられるやうな御姿、東西古今に比類のない絶世の美人であられた故、定めて天皇の御寵愛も深からうと思はれたが、其御情は木の葉よりも薄く、一生をお側近くへ参る事もなく、宮殿の奥深くに明け暮れ恨み欺いてゐられた。
 その頃安野中将公廉の娘で三位の局といふ女房(一〇)が中宮(一一)にゐた。天皇は其方を一目御覧になられてから他に比べる者もない程の御寵愛ぶりで、直ちに准后(一二)の勅をお下しになられた。
 
儲王の御事

 天皇には次々と宮が御誕生になり、十六人もあられた。中でも第一の宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の娘為子の御腹であられたが、吉田内大臣定房公が御育て申したから十五の御歳から和歌の道にすぐれてゐられた。第二の宮も同じ腹からお産まれになり、幼時から妙法院といふ寺に入(はい)られて仏教を学ばれた。仏道に励まれる傍和歌の道をも修められ、風雅にも長じてゐられた。第三の宮は、民部卿三位殿の御腹で、御幼少から賢くいらせられたから、天皇は御位を此方に御譲りにならうと考へられたが、御治世の事は、後嵯峨院の御代から大覚寺殿(一三)と持明院殿(一四)とが代る代る遊ばされる事に定められた為め、今度の皇太子は持明院殿の方を御立て申した。国事は一切北條氏の計らひで定められ、天皇の御考へ通りにはならなかつたから、此宮は御元服の儀を改められ、梨本の寺に入(はい)つて承鎮親王の御弟子となられたが、一を聞いて十を知る程のすぐれた御性質であられた故、天台宗の奥義を究め、深くその教を会得遊ばされた。そこで衰へかけた天台宗を興し、絶え/゛\となつてゐる仏教の命脉をつなぐは此御門主の時だと、一山の僧徒は合掌して仰ぎ奉つた。第四の宮も同じ腹であられたが、此方は聖護院二品親王の御弟子であつたから、三井寺で仏教をお学びになられた。此外多くの皇子が皆立派な方々であり、皇室の御固めは愈々確かで、王業再興の御運の開ける時機が来たやうに見受けられた。

中宮御産御祈りの事附俊基偽つて籠居の事

 元享二年の春頃から、中宮(一五)禧子の御懐妊の御祈りだと云つて、諸所の寺々から名高い僧達を呼んで秘法を行はせられたが、翌元享三年まで一向御産の御様子は拝されなかつた。これは中宮の御産にことよせて北條氏を滅す為めの呪ひのお祈りであつたといふことである。
 かほどの重大事を思ひ立たれたのであるから、臣下の意見をも一わたり聞きたく思召されたが、若し北條氏の方へ謀が漏れてはとの御心配から、有徳深慮の老臣にも側近の侍者達にもお話しにはならなかつた。唯だ日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔だけに内々御相談があり、相当数の兵士をお集めになつた所、錦織の判官代足助次郎重成、奈良及び叡山の僧侶達が少しばかり詔に應じて来た。
 俊基は家代々の儒学を継ぎ、其の才智学問は人に優れてゐた為め、抜擢せられて弁官(一六)に列し、蔵人(一七)をつとめてゐた。所が御用が多くて、謀をめぐらす暇がないので、何とかして暫くの間籠居し、心ゆくばかり謀叛の計略を進めたいものだと考へてゐた所、比叡山横川の僧侶が願書を奉つて宮中へ訴へ事をした。俊基は其願書を披いて読んだが、わざと読み誤つた風を装ひ、楞厳院を慢厳院と読み上げたので、一座の公卿達は目を見合せ、手を叩いて笑つた。俊基は顔を赤くして、恥入つた様子で退出した。それ以来恥をかいたから籠居をすると言ひ触らして、半年ほど勤めに出ず、山伏の姿に身をやつして大和や河内の国に行き、城となりさうな所を見定め、又東国西国にも行き、其国々の人気、風土や武士の様子等を内々調べた。
 
 
無礼講の事附玄慧文談の事
  
 美濃の国の住人に土岐伯耆十郎頼員、多治見四郎次郎国長といふ者があつた。二人共清和源氏の流れを汲み、武勇の評判が高かつたから、日野資朝卿は色々の縁故をたどつて彼等に近づき、友達としての交りも深くなつてはゐたが、北條氏を滅ぼさうといふ一大密謀を容易に知らせるのは考へ物だ、猶よく其心を探つてみようと、無礼講といふものを作つた。それに入つた人々は、尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長などである。其集會遊宴の有様は見聞きする者を驚かした。身分の上下なしに酒を酌み交はし、男は烏帽子を脱ぎ髷を切つて散髪とし、法師は法衣をつけずに白衣となり、年頃十七八の顔、姿の美くしい、特に皮膚のすべ/\した二十人余りの女に、生絹の単物だけを着せて酌をさせたから、雪のやうな白い肌が透き通つて見え、丁度大液池の水面に莟を破りたての蓮の花のやうであつた。料理は山海の珍味を尽く集め、旨い酒を泉のやうに湛へて遊び、戯れ、舞ひ、歌つた。そして其遊びの間々に、北條氏を滅ぼす計略が廻らされた。
 目的のない、理由の立たぬ、こんな集會を何時も開いてゐては人が怪み咎めるであらうと、文学談にことよせる為め其頃才智学問に於ては並ぶ者がないといふ評判の学者玄慧法印を招き、『昌黎文集』の講義を行はせた。玄慧法印は謀叛の企てとは夢にも知らず、会合の日毎に會場へ来て深淵な学を説き、道理を明して行つた。此『昌黎文集(一八)』の中に『昌黎潮州に赴く』といふ長篇があるが、此処まで来ると講義を聞いてゐた人々は「これ(一九)は縁起の悪い書物であつた。呉子、孫子、六韜三略などが、今日に必要な書物だ」と云つて、『昌黎文集』の講義を止めてしまつた。
 
頼員回忠の事
  
 これら謀叛人の仲間である土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行である齋藤太郎左衛門利行の娘を娶つて深く愛してゐたが、其妻に心をひかれて謀叛の事を打明けた。妻は驚いてそれを父の齋藤利行に知らした為め、計画は一切北條方に漏れてしまつた。六波羅では直ちに軍勢を集め、他の事に云ひふらして油断せしめ、元徳元年九月十九日の未明に、小串三郎左衛門尉範行、山本九郎時綱の二人を討手の大将として、三千余騎の軍勢を二手に分け、多治見国長、土岐頼員の宿所へ討ち寄せた。
 時綱は態と大勢の兵を三条河原に止め、召使の者二人に長刀を持たせ、己れ唯一人で土岐の宿所に忍び入り、客殿の奥の間をさつと引きあけると、土岐十郎は今起き上つた所と見え、髪を結つてゐたが、山本九郎を鋭く睨み、「心得た」と云ひさま、立てかけてあつた太刀を取り、側の唐紙を蹴破つて客殿の方へ跳り出で、天井に太刀を打ち当てないやう横払ひに切りつけた。時網はわざと敵を広庭へ誘ひ出し、隙があつたら生捕らうと、相手の太刀を打ち払つては退き、受け流しては飛びのき、人を交へず戦ひつつ、後方をふり返り見ると、後詰の軍勢二千余騎は一度にどつと鬨の声を上げ、第二の門から乱れ入つて来た。土岐十郎は長く戦つては却つて生捕られると思つたか、元の寝間へ走り帰り、腹十文字にかき切つて、頭を北に伏し倒れた。中の間に寝てゐた若武者連も思ひ思ひに討死をして逃げ出す者は一人もなかつた。山本九郎は土岐十郎の首を取り、太刀先に突き通し、六波羅をさして馳せつけた。
 多治見の宿所へは小串三郎左衛門範行を真先に三千余騎で押し寄せた。多治見は夜通し酒を飲んで酔ひつぶれ、前後も知らずに寝てゐたが、鬨の声に驚いて目を覚し、こりや何事だと騒ぎ廻つた。
 小笠原孫六は太刀だけ持つて中門まで走り出で、あたりを見廻すと、土塀の上から車の輪のついた旗が一本見えてゐた。孫六は内へ飛び込んで、
「六波羅から討手の軍勢がやつてきた。此間の御謀叛が早くも露顕いたしたと見えまする。さあ各々方、太刀の続く限り切り合つて腹を切られよ。」
と、大声に叫び立て腹巻(二〇)をとつて急いでひつかけ、二十四本差したる胡●(「たけかんむり」+「禄」)(二一)と重籐(二二)の弓を提げて、門の上の櫓にかけ上り、中差(二三)の尖矢をとつてつがへ、櫓の窓板を一ぱいに開いて、
「まあ、何たる仰山な軍勢だ。拙者の手並を見せてやらう。一体討手の大将は何奴だ。近づいて矢を一本うけてみられい。」
と云ひさま、十二束三伏(二四)の大矢をカ一ぱい引きしぼつて打ちはなし、真先に進んできた狩野下野前司の若侍、衣摺助房の兜の真正面を鉢附(二五)の板まで射通して、馬から倒(さかさま)に射落した。
 多治見を始め一族の者、若武者ら、二十余人は、甲冑にしつかりと身を堅め、大庭に跳りだして、門の閂(かんぬき)をさして待つてゐた。寄手の先陣五百余人は、皆馬から下り、徒歩となつて鬨の声を上げつつ庭へ乱れ入つてきた。庭にたてこもつてゐる兵士達はどうせ逃げられないと決死の覚悟をしてゐるから、一歩も後へは退かない。大勢の敵の中へ乱れ入つてわき目もふらず切りまくつたので、先駆けの寄手の軍勢五百余人は散々に切り立てられ、門の外へどつと逃げだした。けれども寄手は大勢故、先陣の者が退くと、二陣の者がわつとかけ込む。かけ込めば追ひ出し、追ひ出せば又新手がかけ込み、朝の八時から正午頃まで火の出るやうに烈しく戦つた。かく表門の軍勢が強くて打ち破れない為め、佐々木判官の手下千余人は後へ廻つて錦小路から近在の民家を打ち壊して乱れ入つた。多治見はこれを見て、もはや終りであると思ひ定めたのであらう、二十二人の人々と中門に並び、互にさし違へて算木を倒したやうに死に果てた。
 表門の寄手の者が門を破つてゐる間に、裏門の軍勢が乱れ入つて皆の首を取り、六波羅へと馳せ帰つて行つた。四時間ほどの合戦の間に、傷ついた者、死んだ者が、合せて二百七十三人もあつた。

資朝俊基関東下向の事附御告文の事

 土岐、多治見が討たれて後、天皇の御謀叛が段々露はれて来たので、鎌倉の使者長崎四郎左衛門泰光、南條次郎左衛門宗直の二人が上京して、五月十日に資朝、俊基の両人を召捕つた。土岐が討たれた時は、生捕りになつた者は一人もなかつたから白状する者はまさかあるまい、それにつけても自分らの謀叛の事はあらはれないだらうと、たよりない事を頼みとして油断し、一向何の用意もしてなかつたので、妻子らは東西に逃げ廻つても身を隠す処がなく、財産宝物は道に引き出され、馬の足に蹴散らされてしまつた。
 五月二十七日に鎌倉の使者両人は資朝、俊基を引連れて鎌倉へ下り着いた。これらの二人は謀叛の首魁だから、直ぐ殺されるだらうと思ひの外、二人共朝廷の重臣であり、且つ才智学問もすぐれてゐたので、北條方では世間の悪口や天皇の御怒りを心配し、拷問にもかけず、唯だ普通の罪人と同じやうに取扱つて、侍所(二六)へ預けて置いた。
 七月七日は七夕祭を行ふ夜であるが、世の中が騒がしい折なので、詩歌を唄ふ文人も、音楽をかなでる楽人もない。丁度御殿の宿直にあたつてゐた公卿達も、気味の悪い世の中の有様を見て、何時自分らの身の上に変りが起らないものでもないと、憂ひ怖れてゐた折なので、皆心配げに思ひ沈み、首垂れて侍つてゐた。ひどく夜が更けてから、天皇が、「誰れかをらぬか。」とお呼びになられたので、「吉田中納言冬房が居ります。」と御前に参ると、天皇は冬房をお側近く召されて「資朝、俊基が捕へられた後も、鎌倉は尚静まらず、都は常に危険にさらされてゐる。この上又どんな事をされるかわからないと思ふと心配でならぬ。何とかして第一に鎌倉方をおだやかにさす工夫はあるまいか。」
と、お問ひになられたので、冬房は畏まつて、
「資朝、俊基の二人共、白状したといふ事を聞きませんから、武臣達もこれ以上は何もすまいと存じますが、近頃の鎌倉方は、軽はずみな行ひが多うござります故、決して御油断はなりません。何よりも告文(二七)を一枚鎌倉へお下しになつて、高時の怒りを静めさせられては如何でございませう。」
と申し上げた所、天皇ももつともな事だと思召されたのか、「では冬房、お前すぐ書け。」と仰せられた。そこで冬房は御前で下書きをして、それを御覧に入れた。天皇は暫く御覧になつてゐられたが、御涙がはら/\と其告文の上にこぼれたので、御袖でそれをお拭ひになられた。御前に侍つてゐた老臣達も、皆悲嘆の涙にくれた。
 やがて万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を鎌倉へお下しになられた。北條高時は秋田城介に云ひつけて告文を受け取り、披いて見ようとしたのを二階堂出羽入道道蘊が強く諫めて申すには、
「天皇が武臣に向つて直接に告文をお下しになられた事は、外国にも我国にもまだ其例がございません。若し不用意に御覧になられたならば、必ず神仏のたたりがございませう。文箱を開かないで、そのまま勅使にお返しなさるがよい。」
と再三申したのを、高時は、「何のかまふことがあるものか。」と云つて、斎藤太郎左衛門利行に読ませた。所が「わが心に偽りのない事は天つ神が御存知だ。」と記(しる)された所まで読み進むと、利行は急に目まひを起し、鼻血が出た為め、読み終らないで引き退つた。其日から利行は喉の下に悪性の腫物が出て、七日の後には血を吐いて死んでしまつた。軽薄な末世とはいへ、人道は地に堕ちたとはいへ、君臣上下の礼にそむく時は、立所に神仏の罰が当ると、此事を聞き伝へた人々で、おぢ恐れない者は一人もなかつた。
 高時もさすがに天つ神の御心を恐れたのか、「御治世の事は朝廷の御相談に御任せ申してある以上、武家で何かと御干渉申し上ぐべきではございません。」とお答へして、告文をお返し申した。宣房公は直ぐ都に帰り、此事を申し上げた所、天皇は始めて御顔色をやはらげられ、多くの臣下達も亦安堵の色をあらはした。
 やがて俊基は微罪として放免され、資朝は死罪のところ一等を減じて、佐渡の国へ流される事になつた。


(一)日本全国。
(二)犯人の追捕検断等を司る役。
(三)天皇が御位を下られた後の御称号。
(四)四夷を征伐する大将軍。
(五)三綱は君臣、父子、夫婦の道。五常は仁義礼智信。
(六)非違を検断する官吏、別当は其長官。
(七)罪人を打つ鞭。
(八)君を諫めんとする者の打つ鼓。
(九)三位以上の女官。
(一〇)女官。
(一一)皇后の御所。
(一二)太皇太后、皇太后、皇后の三宮に准じた待遇を受ける者。
(一三)亀山上皇の御血筋の方。
(一四)後深草上皇の御血筋の方。
(一五)皇后と同資格の皇妃。
(一六)太政官の判官。
(一七)天皇に供奉して、宮中に於ける一切の事を司る役。
(一八)韓昌黎即ち韓退之の文集。
(一九)韓昌黎が天子に諌言を申し上げた罪で潮州へ流され、雪のふろ山路に道を見失つて悲んでゐる時、かつて此事を予知せしめようとした甥の韓湘が現はれ、昌黎は其甥の手をとつて、二度とお前に会ふこともあるまいと悲みつつ詩を作つて渡し、泣く/\西東に別れたといふ事が書いてあるので、それを縁起が悪いと云つたのである。
(二〇)前から巻いて背で合せる無袖の鎧。
(二一)矢を盛つて背に負ふ具。
(二二)黒塗の下地に籐を幾箇所にも巻いた弓。
(二三)箙にさした上差以外の矢。上差には鏑矢をさし、中差には尖矢をさす。
(二四)矢の長さを計る詞で、片手一握が一束で、指一本の幅が一伏である。
(二五)兜の鉢に附いてゐる錏(しころ)の第一枚の板。
(二六)兵刑を掌る役所。
(二七)天皇が臣下に告げられる文。


巻 第二
  
南都北嶺行幸の事

 元徳二年三月八日に天皇は東大寺、興福寺に行幸あらせられ、又同月二十七日には比叡山へ行幸遊ばされた。
 元亨以後、武家の勢力強く、廷臣は辱められ、天皇は御憂鬱の生活を続けさせられ、天下には不安の空気が漂つてゐた。さうした時にこそ行幸の御機会は多かつたらうに、今日の場合、奈良や比叡山への行幸は、一体どのやうな御願(ごぐわん)があつてかと、探つて見ると、近頃北條高時の行ひが常規を逸して、不義、無道に陥つたのみならず、武臣は鎌倉の命令にこそ従へ、天皇からお召しを蒙つても応じようとしない。そこで比叡山と奈良の僧侶達を味方につけて、鎌倉方を征伐されようとする御謀叛だと申す事であつた。大塔宮二品親王は当時の貫主(一)であられたが、其為めに修行や学問は打ち捨てゝ、朝夕武芸の御錬磨に余念がなかつた。元来武術がお好きであつた故(せゐ)もあらうが、早業、打物の秘術奥義をきはめられた。最初の天台座主(二)義真和尚以来百代余りの間、こんな不思議な門主(三)は一人もゐられなかつたが、これも鎌倉方を征伐する為めの御修練であつたと、後では思ひ合はされた。
 
僧徒六波羅へ召捕の事附為明詠歌の事
  
 大塔宮の御行動や、宮中での北条氏の呪詛やが、すべて鎌倉方へ知れわたつた為め、北条高時は大に怒り、
「この天皇が御位にゐらせられる間は、天下は静まるまい。承久の乱の例に習つて天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を死罪に処し奉らねばならぬ。それには先づ、天皇の側近に奉仕して北條家を呪ふ祈りをしてゐる法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の知教、教円、浄土寺の忠円僧正を召捕つて、精しく聞き糺すがよい。」
と考へ、二階堂下野判官と長井遠江守との二人を鎌倉から京都へ上らせ、五月十一日の明方に法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正の三人を六波羅へ召捕つた。それのみでなく奈良の知教、教円の二人も、呼び出されて六波羅へ出頭した。
 又二條の中将為明卿は歌道の達人で、月の夜雪の朝に行はれる褒貶(四)の歌合の御會に常に召されてゐたので、別に疑はしい人物ではないが、天皇の御心をさぐらうとする目的で召捕り、残虐きはまる火炙りの拷問にかけようとした。為明卿はそれを見て、「硯はないか。」と問はれたので、白状する為めかと思つて、硯に紙を添へてさし出したら、白状ではなくて、すら/\と一首の歌を書きつけた。
  思ひきやわが敷島の道ならで
    うき世のことを問はるべしとは
(歌意──思ひがけないことだ、自分の知つてゐる歌道の事ではなく、何も知らないうき世の事を聞かれようとは。)
 常葉駿河守は此歌を見て感じ入り、涙を流して其尤もな道理に服した。鎌倉の二人の使者も之を読んで、共に涙で袖をぬらした。これが為め為明卿は拷問の責苦を免れて、青天白日の身となつた。

三人の僧徒関東下向の事

 六月八日に鎌倉の使者は忠円僧正、文観僧正、円観上人の三人を護つて鎌倉へ下つた。
 円観上人には、宗印、円照、道勝といつて、何時も影のやうにお側についてゐた三人の弟子がつき随ひ、輿の前後についてゐた。文観僧正と忠円僧正とには従者が一人もなく、伝馬(五)に乗せられ、見慣れない武士に取り囲まれて、夜の中に関東への旅に出られた、其心中は誠に哀れだ。鎌倉へ着く前、途中で殺されるだらうといふ噂があつたから、行きつく宿毎に今を限りの身と思ひ、休らふ山の峠毎に之が最後かとなげき、はかない命のまだある間から心は既に消え入つてゐた。昨日も過ぎ、今日も暮れて、急ぐ旅ではなかつたが、行き行く中に日数が積つて、六月二十四日に鎌倉へ着いた。
 三人はそれぞれ拷問にかけられた。文観僧正は却々白状されなかつたが、度重なる水責めに身も疲れ心も弱つてか、勅命で北條氏を呪ふ祈りをした事を白状せられた。其次に、忠円僧正を拷問しようとした所、此人は生れつき臆病で、まだ責めない先に、天皇が比叡山の僧侶を誘つて味方とせられた事、大塔官の御行動、俊基の陰謀、等々、ありもしない事までも一切白状してしまつた。又円観上人をも拷問しようとしたが、色々不思議な現れがあつた為め、これは普通(ただ)の人ではないと、それを取り止める事にした。
 七月十三日には三人の僧達の遠流(六)の場所が定まり、文観僧正は硫黄が島へ、忠円僧正は越後の国へ流された。円観上人だけは遠流一等を滅ぜられて、結城上野入道に預けられる事になり、結城の居国である奥州に向つて、長い旅路をさすらひ行かれた。

俊基朝臣再び関東下向の事

 俊基朝臣は先年召捕られた時には、色々と申し開きして赦されたが、今度再び僧達の白状によつて召捕られ、鎌倉へ送られる事になつた。自分では途中で殺されるか、鎌倉で斬られるか、二つの中の一つと決心して出かけられた。
 雪かと見紛ふ落花に路を踏み迷ふ春の交野の桜狩や、紅葉の錦を身につけて帰り行く嵐山の秋の暮に、たゞ一夜を明すのさへ、旅寝といへば物憂いものであるのに、恩愛の契り浅からぬ妻や子供を、どう成り行くか末の事は分らぬままに故郷に残し置き、長年住み馴れた都も今日が見をさめと、振返り/\思ひがけない旅に出られる心の中は哀れの限りである。
 逢坂の関へかかつたが、関といふのは名ばかりで、わが心にわだかまる此憂さをとどめてはくれぬばかりか、滴る清水に袖がぬれて、涙ながらに山路を過ぐれば打出の浜、浜に出て琵琶湖の沖を遙かに見渡すと、水上に浮き沈みする浮舟の如き我身の今の有様が思ひ合される。馬もとどろに踏みならす勢多の長橋を渡り、行き交ふ人に近江路を過ぎて、世をうねの野(七)に鳴く鶴の声を聞くと、子を思ふ親心に身がつまされて哀れである。時雨の森山(八)の木の下露に袖をぬらし、風に露散る篠原(九)の篠かき分けて道を行くと、行く手に鏡(一〇)の山は聳えてゐるが、涙で曇つてそれと見分けられない。物を思ふと一夜の中にも老蘇(一一)の森の下草に馬をとどめて、振返り見る故郷は雲に隔てられてゐる。番場、醒井、柏原を過ぎて、不破の関所へ来たが、荒れはてた関所を守(も)るのは秋の雨のみである。やがては我身の尾張の国へ入り、熱田神宮を伏し拝んで、折からの潮干に鳴海潟にかかると、西に傾く月明りに道がほのかに照し出されてゐる。日を重ねて行く道の、末は何処かと遠江(とほつあふみ)の国の、浜名の橋から見渡す夕べの海に、引く人もない捨小舟の如く、沈みはてた今の我身を、誰れが同情して哀れだなどと夕暮の鐘が鳴ると、今日は此処までと池田の宿に留まられた。元暦元年頃の事、重衡中将が囚へられて此宿へ着いた時、「東路の埴土生の小屋のいぶせきに故郷いかに恋しかるらむ」と長者の娘が詠んだといふ故事までも思出されて、俊基朝臣は涙をしぼられた。
 旅館の燈の光がうすれ、鶏の声が暁を告げるとやがて出発。吹く風に勇む馬は噺きつつ天龍河を渡り、小夜の中山(一二)を越えて行くと、白雲が幾重にも立つて、何処が道ともわからぬ夕碁に、故郷の空を望み見るにつけ、昔西行法師が「命なりけり(一三)」と歌つて、二度も此山を越えた事を羨しく思はざるを得なかつた。
 時間の経つのは早いもので、日は早や正午になつたから、食事をさし上げようとて輿を止めた。俊基卿は輿の長柄を叩いて警固の武士を呼び、宿の名を問はれたら、「菊川と申します」と答へた。菊川は承久の合戦に、院宜を書いた咎で関東へ召し下された光親卿が殺された処であるが、其時、
  昔南陽県菊水(むかしなんやうけんのきくすゐ)。 汲下流而延齢(かりうをくんでよはひをのべ)。
  今東海道菊河(いまとうかいだうのきくがは)。  宿西岸而終命(せいがんにやどつていのちををふ)。
と書かれた光親卿の故事を、今我身が繰返してゐることを悲しく思つて、俊基朝臣は一首の歌を宿の柱に書きつけられた。
  いにしへもかかるためしをきく川の
     おなじ流れに身をやしづめむ
(歌意──昔もあつたと聞いてゐる例の通り、此菊川に同じ運命の身を沈めるのか。)
 大井河を過ぎる時、都にもある同名の川を思ひ出し、亀山殿(一四)の行幸や嵐山の花盛りなどに、龍頭鷁首の舟(一五)を泛べて、詩歌管絃の宴に侍つた事が、今はもう二度と見られぬ夢のやうに考へられた。島田、藤枝にかかつて、岡部(一六)の真葛のうら枯れた物悲しい夕暮に宇都の山を越えると、蔦や楓が茂り合つて道もないほどだ。昔、業平の中将が住家を求めて関東に下られ、「夢にも人に逢はぬなりけり(一七)」と此処で詠まれた心持もこんなであつたらうと思ひ合される。清見潟を通ると、せめて夢にでも都へ帰りたいと思つてゐるのに、其夢をさへ此処の波音は高くて結ばしてくれぬ。彼方に見えるのは三穂が崎、奥津、神原を過ぎて、富士の高嶺が眼に入ると、雪の中から立ち昇つてゐる煙が今の我身のはてしない物思ひと較べられ、晴れゆく霞に松の見える浮島が原を過ぎ行くと、潮干の浅瀬に船が浮いてゐる。甲斐々々しく立ち働いてゐる田子の浦を過ぎて、浮世はめぐる車返し(一八)を行き、竹の下(一九)を歩みなやみつつ足柄山にかかり、其頂から大磯小磯を見下して、袖にも波は小余綾(こゆるぎ)(二〇)の磯を過ぎ、別に急ぐ旅でもないが、日数重なつて七月二十六日の夕方に
鎌倉へ着かれた。

長崎新左衛門尉意見の事附阿新殿の事
  
 後醍醐天皇の御謀叛が露顕した後、御位は持明院殿の方へ来るであらうと、其侍臣達や年若い女房達までも悦び合つたが、そんな様子は更に見えなかつた。そこで色々申し進める者があつたからでもあらう、持明院殿から内々鎌倉へ御使を立てられ、
「後醍醐天皇の御謀叛の企ては、近頃一日を争ふ場合となつてゐる。武家の方で急ぎ方策を講じないと、天下はまもなく乱れるであらう。」
と仰せられたので、北條高時は一族の者及び評定衆を集めて、それについての各自の考へを述べさせた。一同が返事を躊躇してゐる間に、執事長崎入道の子、新左衛門尉高資が、「速かに後醍醐天皇を遠国へ御遷し申し、大塔官はお帰りになれぬやうな場所へお流し申し、俊基、資朝らの乱臣は殺してしまふより外に道がないと思ひます。」
と無遠慮に云つたのを、二階堂出羽入道道蘊(だううん)は暫く考へた後、
「武家が政をとつてから百六十年、代々富み栄えて、其威光が天下に行き渡つてゐるのは、偏へに上、天皇を仰ぎ奉つて忠義をつくし、下、百姓を労る仁政を行つて、心にすこしの私がなかつたからである。然るに天皇を遠国へ遷し奉り、大塔宮を流罪に行はれようとする。さやうの事は神の怒りを買ふのみならず、比叡山の僧侶達を憤らするに相違ない。神怒り人背かば、武家の運命はそこに尽きるであらう。君々たらずとも臣々たらざるべからずといふ事がある。たとへ天皇が御謀叛を思ひ立たれても、武家の威光が盛んであれば御身方申す者はあるまい。若し武家が益々慎んで勅命に従つたならば、天皇も御心を飜されぬ事はあるまい。かうして始めて国家は泰平となり、武家も亦た永く繁栄すると思ふ。」と云つた。之をきいて長崎新左衛門尉は大に怒り、
「文武の道は一つであるといつても、其取捨選択は時によつて異つてゐる。ぐづ/\してゐて武家追罰の宣旨(二一)を下されたなら後悔しても追ひつかぬ。今は一時も早く天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を硫黄が島へお流しして、資朝俊基を殺されるより外に方法はない。さうしてこそ始めて武家の安泰が後世までも続くと考へられまする。」
と伸び上つて云ひ立てたので、其場の者も皆之に賛意を表した。道蘊は押切つて再度の忠告をする勇気もなく、顔をしかめて出て行つた。
 さて「天皇の御謀叛をおすすめ申したのは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝である。これらの人々は殺すべきである。」と相談が定まり、「先づ去年から佐渡国へ流されてゐる資朝卿を斬らう」と、佐渡国の守護本間山城入道に其命を下した。
 此事が京都へ知れたから、資朝の子で、其頃は阿新殿(くまわかどの)といつて、歳が十三であつた国光の中納言は、「かうなつては何で命が惜からう、父と一所に斬られて冥途の旅のお供もし、又最後の御様子をも見とどけよう」と、心をきめて母に御暇を願つた。母も仕方なく、今まで唯だ一人附き添つてゐた召使を附けて、遥々佐渡国へ行かしめた。
 やがて佐渡へ着いたが、誰れと云つて頼る人もないので、みづから本間の屋敷へ行つた所、本間も哀れに思つて丁寧にもてなしたが、今日明日の中に斬られる人に会はせては、却つて死に行く人の心残りとならうし、又鎌倉へ聞えもよくあるまいと、四五町離れた処に置いて、父子の対面を許さなかつた。それと聞いて、父子は各々悲歎の中に日を送つたが、五月二十九日の夜、遙々たづねて来た我子を一目見る事も許されずに、資朝卿は斬られてしまつた。
 阿新は父の遺骨を一目見るなり、其場に倒れ伏し、
「生前に御対面が叶はず、今かうした白骨に御目にかかることは、誠に無念でございます」と声を立てて泣き悲んだ。
 阿新はまだ幼なかつたが、心のしつかりした子であつたから、父の遺骨を召使に持せて、自分より先に都へ帰し、自分は病気だと云ひ立てて本間の屋敷にとどまつてゐた。これは情なくもこの世で父に会はさなかつた本間に恨みを晴らさうと考へたからである。かうして阿新は四五日の間昼間は病気の風を装つて終日寝てをり、夜になるとこつそりとぬけ出して、本間の寝間等を詳しく調べ、隙があつたら入道父子の中どちらかの一人をさし殺して腹を切らうと決心して覘つてゐた。
 或夜雨風が烈しくて、宿直の家来達が皆遠侍(二二)で寝てゐるの見すまし、今夜こそは待つてゐたよい日であると、阿薪は本間の寝間をこつそり覗いて見た所、本間の運が強かつたのか、今夜は何時もと寝間を変へて、何処にゐるかわからなかつた。又二間(二三)の部屋に燈のついてゐるのが見えたので、もしや本間の子が寝てゐるのではなからうか、それでも討ち取つて恨みを晴さうと、忍び入つて見ると、其子も其処には居らず、父資朝を斬つた本間三郎といふ者が唯だ一人で寝てゐた。縦令小者でも親の敵だ、考へやうによつては山城入道と同じ事だと、走りかからうとしたが、自分は始めから太刀も刀も持つてはゐない、唯だ人の太刀を頼りとしてゐるのに、燈が赤々とついて居り、近寄れば驚いて起出すかも知れないから、容易くは近寄れない。どうしようかと考へあぐんで立つてゐたが、丁度夏の事で燈の彰を慕ふ蛾がたくさん障子にとまつてゐるのに気づき、さてさて善い機会だと、障子を少しあけたら、其蛾は続々中へ入り、間もなく燈を消してしまつた。かうなればもう大丈夫だと、阿新丸は喜んで、本間三郎の枕元に近寄つて探ると、太刀も刀も枕辺にあつて、本人はぐう/\寝入つてゐる。先づ刀を取つて腰にさし、太刀を抜いて胸元にさしつけ、寝てゐる者を殺すのは死人を殺すのも同じだから、驚かしてやらうと思ひ、足で枕をぱつと蹴とばした。蹴られて驚く処を最初の太刀で臍の上を畳まで透れとつきさし、返す太刀で喉笛を切り、落付いて後方の竹原の中へかくれた。本間三郎が最初の太刀で胸をつきさゝれた時、あつと云つた声に驚き騒いで、宿直の者が火を点して見ると、血のついた小さい足跡がついてゐた。「さては阿新殿のしわざ。堀の水は深いから、門より外へはまさかに出まい、さがし出して打ち殺せ」と云つて、手に手に松明をともし、木の下、草の蔭までも隈なく探した。阿新は竹原の中に隠れながら、今となつては何処へ逃げる事も出来ない。人に殺されるよりも自分で死なうと考へたが、既に憎いと思ふ親の敵を討ち終せたのだから、今は何とかして命を長らへ、天皇の御役にも立ち、又父の年来の志をも遂げさすのが忠臣孝子の道だ。若しかしたら助かるかも知れぬ、一応逃げのびて見ようと思ひ直して、堀を飛び越えようとしたが、口二丈、深さ一丈以上もある堀、とても越えられさうにもなかつた。ではこれを橋にして渡つてやらうと、堀の上に先の垂れてゐる呉竹へするすると登つたら、竹の梢が向岸へ垂れ下つて、楽々と堀が越えられた。
 まだ夜更けであるのを幸、湊へ行つて船に乗らうと、たど/\海岸の方へ行く中、夜は段々に明けてきた。こつそり行くべき道もないので、身を隠さうと麻や蓬の茂り合つた中に隠れてゐた所、追手と思はれる者達の百四五十騎が四方に走り廻つて、
「若しや十二三歳位の子供は通らなかつたか。」
と、道で出合ふ人毎に聞いてゐる声がした。阿新は其日は麻の中で過し、夜になると湊の方へ当(あて)もなく行く中、其孝心に感じて神仏が守護されたものか、年とつた一人の山伏に行き合つた。山伏は阿新の様子を見て可愛さうで堪らず、
「あなたは何処から何処へおいでになるのか。」
と問うた。阿新は事の次第をありのまゝに話した所、山伏は聞き終つて、若し此子を自分が助けなかつたなら、直ぐひどい目に逢ふに決つてゐると思つて、声を和らげ、
「御安心なさい、湊には商人船が沢山居るから、お乗せ申して越後、越中までお送り申します。」と云つて、足の疲れた阿新を、肩に乗せたり、背負つたりして、間もなく湊へついた。

俊基誅せらるる事附助光が事

 俊基朝臣は特に謀叛の張本人であるから、近く鎌倉で斬られる事に定められた。此俊基が長年召使つてゐた青侍(二四)に後藤左衛門尉助光といふ者があつた。此助光が俊基の北の方の文を持つて、こつそりと鎌倉へ下り、何とかして俊基に会はうとしたが、それも出来ずに日を過す中、いよ/\斬られるといふ事を聞いたので、心を決して役人に願ひ出た所、許されて漸く対面することが出来たので、北の方の文を手渡した。俊基は泣く泣く鬢の髪を少し切り取り北の方の文に巻きそへ、一筆書いて助光に渡された。助光は俊基の御最後を見とどけてから、その遺骨を首にかけ、形見の御文を身につけて京都へ帰り、北の方に前後の有様を申上げた所、北の方は又となく歎き悲まれ、遂に尼になつて亡夫の菩提を弔はれた。助光も亦髪を切つて僧となり、永く高野山に閉ぢ籠つて亡き主君の後を弔つた。

天下怪異の事

 嘉暦二年の春頃から寺々に火災があり、又地震が頻々として処々に起つたから、人々は皆ただ事ではないと思つてゐた所、其年の八月二十二日に鎌倉の使者が三千余騎で上京した。まだ使者がついたばかりなのに、どこから聞いたものか、「今度の使者の上京は天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮をお殺し申す為めだ」といふ知らせが比叡山へ届いたので、八月二十四日の夜、大塔宮はこつそりと天皇にお使を出されて、
「今度鎌倉から使者の上京した事情を内々聞きますと、天皇を遠国へお遷し申し、私を殺さうとする為めださうでございます。今夜急いで奈良の方へお忍び下さい、城がまへが十分出来ず、味方の軍勢もまだ集つて来ない前に、賊共が若し皇居に攻め寄せて来たら、身方が如何に防ぎ戦つても敗北は必定です。一つには京都に居る敵の追跡を遮り止める為め、二つには僧侶達の心をためしてみる為めに、近臣の一人を天子と呼んで比叡山へ上らせ、臨幸のやうに云ひ広めたならば、敵はきつと比叡山に向つて合戦いたしませう。さうなれば僧侶達は自分の山を思ふ故、身命を惜まず防戦いたします。賊共が力疲れ、合戦が五六日も続けば、伊賀、伊勢、大和、河内の官軍をひきゐて、反対に京都を攻め立てさせます。かうすれば賊共の全滅はまたたく間です。国家の安危は唯だ此一挙に在ると思はれます。」と申されたので、天皇は唯だあきれさせるばかりであられたが、尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、其弟季房ら、三四人の宮中に宿直してゐた者を御前へ召し出され、御相談の結果、御親らは三種の神器を捧持して御車に乗られ、下簾(二五)から出絹(だしぎぬ)(二六)を出して女房車のやうに見せかけ、陽明門から出御遊ばされた。
 かうして天皇は奈良の東南院へ入らせられた。其処の僧正は忠義の志が厚かつたから、臨幸を秘して僧侶達の心をさぐつて見た所、西室の顕実僧正は鎌倉の一族である上に、権勢のある門主であつたから、其威光に恐れたものか、御身方する僧侶達は一人もなかつた。こんな有様では奈良の御駐輦は覚束ないと、翌二十六日に和束(わつか)の鷲峯山へ御入りなされたが、此処は又余りに山深く、人里が遠い事とて、何の計略も出来難い所であつたから、同じ二十七日、御忍びの行幸の儀式を取られ、奈良の僧侶達を少しばかり召し具せられて、笠置の石室(いはや)へ臨幸遊ばされた。

師賢登山の事附唐崎濱合戦の事
  
 尹大納言師賢卿は、天皇の御召物をつけ、天皇の御輿に乗り、比叡山の西塔院へ登られ、西塔の釈迦堂を皇居と定め、天皇は比叡山を御頼みあつて臨幸遊ばされたと云ひ触れさせたから、山上、坂本は申すに及ばず、諸処の者が吾先きにと御身方に馳せ参じた。
 六波羅ではまだ此事を知らなかつたが、浄林房阿闍梨豪誉の所から、天皇が比叡山へ臨幸せられ、三千の僧侶が明日は六波羅へ攻め寄せるといふ噂である。急いで東坂本へ軍勢をお出しなされと云つて来たので、両六波羅では大いに驚き、畿内五筒国の軍勢五千余騎を大手の寄手として、赤山の麓、下松の辺までさし向け、搦手へは佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝らに美濃、尾張、丹波、但馬の軍勢を添へ、七千余騎で大津、松本を経て唐崎の松の辺まで攻め寄せた。
 坂本の方でもかねがね打ち合してあつたので、大塔宮、妙法院の御二人は宵から八王子(二七)へ御上りになつて、御旗を上げ合図をされたので、此処彼処より馳せ集つた軍勢が一夜の中に六千余騎となつた。大塔宮を始め皆解脱同相の衣(二八)を脱ぎ捨てゝ甲冑に身を固め、手々に武器を執つて立つたから、垂跡和光(二九)の庭は忽ち変つて勇士守禦の場となつた。其中六波羅の軍勢が近づいたといふしらせに、勇み立つた男達は取る物も取りあヘず唐崎の浜へ押し出し、岡本房の播磨の竪者(りつしや)快実を先頭に、六波羅に討ち入つて火花を散らして切りまくつた。
 唐崎の濱は、東は琵琶湖で汀が崩れてをり、西は深田で馬の足も立たず、平つたい砂原のひろぴろとした場所で道が狭く、寄手も僧侶達も互に第一線にある者ばかりで戦ひ、後陣の軍勢はどうする事も出来ず、唯だ見物して控へてゐた。
 さて唐崎で戦が始まつたといふので、御門徒の軍勢三千余騎は白井の前を今路へ向ひ、本院の僧侶達七千余人は三宮林(さんのみやばやし)を下り、和仁(わに)、堅田の者共は小船三百余艘に乗つて、敵の背後を遮断しようと、大津をさして漕ぎ始めた。六波羅の軍勢はこれを見て、かなはぬと思つたか、志賀の閻魔堂の前を横切り、今路の方まで引返して行つた。
 
主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事
  
 比叡山の僧侶達は唐崎の合戦に勝つて喜び合ひ、西塔の皇居を本院へお遷し申さうと、西塔の者共は行幸を促す為め皇居に参列した。折柄の深山おろしに吹上げられた御簾の中には龍顔が拝せられず、天皇の御衣を著けた尹大納言師賢が控へてゐられたので、僧侶達はあきれ、それ以後は誰れ一人御身方となる者もなかつた。そこで尹大納言帥賢、四條中納言隆資、二條中将為明の三人は其夜半にこつそりと比叡山を逃げ出し、笠置の石室へ行かれた。僧侶達も亦六波羅へ降参する者、逃げ出す者、四分五裂して、今は三四百人しか止まつてゐる者がなくなつた。
 妙法院と大塔宮とは其夜まで八王子にゐられたが、一先づ逃げ延びて天皇の御行方を聞かうと思召され、二十九日の夜半に戸津の浜から小舟に乗られ、止まつてゐた僧達三百人程を召しつれて、先づ石山へ逃げられた。此処で御二人はお別れになり、妙法院は笠置へ行かれ、大塔宮は十津河の奥へと志し、先づ奈良の方へお逃げになられた。


 (一)(二)比叡山延暦寺の首座の僧職。
 (三)法親王の住職。
 (四)歌の良否を批評して定める歌合。
 (五)公役の駅馬。
 (六)流罪三等(近流、中流、遠流)の中の一。
 (七)(八)(九)(一〇)(一一)近江国にある地名。
 (一二)遠江国にある山。
 (一三)「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさ夜の中山」(新古今集)。
 (一四)京都郊外。
 (一五)龍の頭や鷁の首を船首に取りつけた快遊船。
 (一六)駿河国の地名。
 (一七)「駿河なる宇都の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」(伊勢物語)。
 (一八)(一九)駿河国の地名。
 (二〇)相模国の地名。
 (二一)天皇の御下しになる公文書。
 (一三)中門の傍にあつて番をする侍の居る所。
 (二三)「間」は柱と柱との間。柱間の二つある部屋。
 (二四)年若くて未熟な侍。
 (二五)牛車の簾の中にかけ、外へたれた帳。
 (二六)生絹の裾を濃く染めて簾の外へ出し垂らしたきれ。
 (二七)比叡山の東の小山の上に在る。
 (二八)生死を離れた表示の袈裟。
 (二九)仏が光を和げて神と現はれて衆生を利益する姿。


巻 第三

主上御夢の事附楠の事
 
 元弘元年八月二十七日、天皇は笠置寺へ臨幸あり、本堂を皇居とせられた。比叡山東坂本の合戦で六波羅の軍勢が負けたといふ事が知れて来たので、近国の兵士が此処彼処から笠置へ馳せ集つて来たけれども、名高い武士で手下の軍勢を百騎なり二百騎なり引連れた大名はまだ一人も来なかつた。此軍勢では皇居の警固だけもおぼつかないと、天皇は御心配の中にとろ/\と御眠りになつたところ、紫宸殿の庭前に似た所に、大きな常磐木があつて緑の葉がよく匂ひ、南へさし出た枝は特に繁り蔓つてゐた。其下に三公(一)百官達が位の順序に列坐し、南へ向いた一段高い所には、畳を高く敷いた御座があつて、まだ誰れも坐つてゐない。「はて、誰れをもてなす為めであらう。」と天皇は怪しく思して立つてゐられた処へ、鬟(二)を結つた二人の子供がひよつく現はれ、天皇の御前に跪いて涙を流し、「広い国中に少しの間さへ御身を隠される所もございません。しかしあの樹の蔭に南向きの座席がございます。これは陛下の御為めに作つた玉座でございますから、暫くの間ここにおいでになつていたゞきたい。」と云つて、子供は天へ上つてしまつた夢を見られた。御夢はまもなく覚めた。
 天皇はこれを天つ神が御自分にお告げになる夢だと考へられ、文字の上から色々御思案あつた所、木に南を結びつければ楠といふ字である。其蔭に南を向いた御座があり、それに坐れと二人の子供の教へたのは、御自分が再び天子の徳を治めて、天下の士を朝廷に伺候せしめる事を示されたものであると、御自分で夢判断を遊ばされて、いと心丈夫に思召された。夜が明けると、寺の衆徒、成就房の律師を呼び出されて、「此辺に楠といふ武士はゐないか。」とお尋ねになられた。「この近くにそんな者のゐることは聞きませんが、河内国金剛山の西には楠多門兵衛正成と云つて、名高い武士が住んで居りまする。」とお答へ申し上げたところ、今夜の夢のお告げは正しくそれだと思召して、天皇は「すぐ其者を呼べ」といひつけられたので、藤房卿は勅命を承り、急いで楠正成を呼び出された。正成は武士たる者の此上もない名誉だと思つて、とかうの思案もせず、こつそりと笠置へ来た。天皇は藤房卿をして、
「北條氏の征伐について、仔細あつて正成を頼まれ、勅使を立てられた処、すぐさま馳せつけてきた事は誠に感じ入る。一体如何なる謀をめぐらせば、勝を一時に決して天下を太平にする事が出来るか。それについての考へを残らず申してみよ。」
といふ仰せを伝へさせられた所、正成が畏つて申上げるには、
「近頃北条氏の大逆が天の怒りに触れましたからには、これに天誅を加へられるのは何の仔細もございません。しかし天下の平定には武略と智謀との二つが必要でございます。若し武力のみに頼り、正面から軍勢を合せて戦つたならば、日本国中の兵を集めても、武蔵、相模、二国の兵に勝つ事は出来ません。若し謀を以て戦つたならば、関東方の武力は唯だ利を摧き、堅を破るに過ぎないものです、これは欺き易く、怖るるには足りません。勝敗は合戦の習はしでございますから、一時の勝敗に重きを置かれてはいけません。此正成がまだ生きてゐるとお聞きになられたなら、御運はきつと開けるものと思召されたうございます。」
と力強く申上げて河内へ帰つていつた。

置軍の事附陶山小見山夜討の事

 天皇が笠置においでになり、近国の官軍が御身方に参つてゐるといふ事が京都へ知れたので、九月一日六波羅の両検断(三)は宇治の平等院へ押し出して軍勢を集め、明二日には笠置へ攻め寄せる準備をした。所が高橋又四郎といふ者があつて、抜けがけの功名をしようと、僅か三百余騎ばかりを率ゐて笠置の麓へ押し寄せたが、忽ちの内に攻め敗られ、それに続いた小早川の軍勢も亦一度に追ひ立てられてしまつた。
 そこで両検断は宇治で軍勢を四手に分け、手筈を定めて、九月二日、笠置の城に向つて出発した。其軍勢は合せて七万五千余騎にも上り、笠置の山の四方二三里の間は少しの隙間もなく兵士で充ち満ちてゐた。一夜明けて九月三日朝六時、東西南北の寄手は互ひに近づいて鬨の声を上げた。其声は百千もの雷が一時に鳴り落ちたやうで、天地も動くかと思はれた。鬨の声を三度上げ、矢合(四)をして鏑矢を射かけたが、城の中は静まり返つて鬨の声も合さず、答の矢も射かけず、人が居るとは見えなかつたので、敵はもはや逃げてしまつたものと考へ、寄手の軍勢は二王堂の前まで攻め寄せ、其処から城の中を見上げると、鎧兜に身をかためた三千余人の武士達手の軍勢一万余騎はこれをみて、進む事も退く事も出来ず、仕方なく踏みとどまつて暫くの間は睨み合つてゐたが、やがて城中より足助次郎重範が名乗を上げて、一番矢に荒尾九郎兄弟を射倒したのを手始めに、大手搦手の寄手、城の中の軍勢達は互ひに喚き叫んで攻め戦つた。
 寄手の軍勢は追ひ立てられて一合戦の後には、城を攻めようと云ふ者は一人もなく、唯だ城の四方を囲んで遠攻めにした。遠攻めに日を送つてゐる処へ、同月十一日河内国から急使がきて、楠兵衛正成と云ふ者が宮方につき、兵を挙げて赤坂山に立籠つたと告げた。これは一大事だと騒いでゐる処へ、亦同月十三日の夕方に備後の国から急使が到着して、桜山四郎入道が同じく宮方について兵を挙げたと告げ知らした。目の前では笠置の城が強く、諸国の大軍勢で日毎夜毎攻め立てゝも落城しないのに、後では楠、桜山らの宮方が兵を起して、急を告げる使者が毎日々々櫛の歯を引くが如くに六波羅に着いた。六波羅の北方(きたかた)駿河守は安き心もなく、日々急使を鎌倉に立てて東国の軍勢の援けを乞うた。北條高時は大いに驚いて、「すぐさま討手の軍勢を差向けよ」との命令。
 二十万七千六百余騎の軍勢が九月二十日に鎌倉を出発した。
 こゝに備中の国の住人で、陶山藤三義高、小見山次郎某(なにがし)といふ二人が笠置城の寄手に加はつてゐたが、関東の大軍がもはや近江に着いたと云ふ事をきいて一族の者共を集め、
「お前達はどう思ふか、此間からの合戦に死ぬる者は数知れずあるが、皆これといふ功名も立てずに死ぬのである。同じ死ぬる命なら目ざましい合戦をして死ねば、名誉は長く残り、子孫は栄えよう。まして日本中の武士が集つて五日攻めても落す事の出来ぬ此城を、我々の軍勢丈で攻め落せば名は古今に双ぶ者なく、忠義は万人の上に輝くであらう。さあ今夜の雨風に紛れて城中へ忍び込み一夜討をかけて天下の人々を驚かさう。」
と云ふと、一族五十余人の者共は「よからう」と、賛成した。
 其夜は九月晦日の事とて、物のあやめもわからぬ暗闇である上、風雨が烈しく吹いて面を上げる事も出来ない中を、五十余人の者共は背に太刀を負ひ、後に刀を差して、城の北に聳えてゐる数百丈の石壁、鳥も翔りにくいやうな所を登つて行つた。岩角をよぢ、木の根にすがり、四時ほどの間苦労に苦労をして塀の側まで辿り着き、皆塀をのりこえて、先づ城中の様子を見定めた。皇居は何処であらうと、探り/\本堂の方へ行く所を咎められたが、陶山吉次が夜廻りの者(五)だと偽つた為め免れられたのを幸(さいはひ)、其後は却つて大びらに、「それぞれの御陣に御用心下さい」と高声に呼びながら通り過ぎ、静かな本堂へ上つてみると、これこそ皇居らしく、蝋燭を多く燈し、振鈴の声が幽に聞えて来た。陶山は皇居の様子を見定めて、本堂の上にある峯に上り、人の居ない僧舎があつたのに火をつけて、一度にどつと鬨の声を上げた。四方の寄手の軍勢はこれを聞いて、それ城中に裏切者が出たと、口々に鬨の声を合せて喚き叫んだ。陶山の率ゐる五十余人の兵士は今詳しく城内の様子を見て置いた事とて、此処の役所に火をつけては彼処で鬨の声を上げ、彼処で鬨の声をあげては此処の櫓に火をつけるなど、四方八方に走り廻つて、三面六臂の働きをしたので、其軍勢が城中に充ち満ちてゐるやうに見えた。そこで陣所陣所を堅めてゐた官軍は、城中に敵の大軍が攻め入つたと考へ、鎧兜を脱ぎ捨て、弓矢を放り出して、崖、堀の区別もなく、転びながら逃げて行つた。錦織判官代はこれを見て、
「何たる見苦しさだ。天皇の身方について、武士を敵として引き受ける程の者が、敵が大勢だからとて、戦はずに逃げる法があるか。何時(いつ)のために惜む命なんだ。」と云つて、向つて来る敵に打ちかかり打ちかかり、大肌脱ぎとなつて戦つたが、矢を射つくし、太刀を折つてしまつたので、父子二人に家来十三人は、各々腹をかき切つて、同じ枕に伏して死んだ。

主上笠置を御没落の事

 笠置城の火災の為め、天皇を始め奉り、宮々、卿相(六)、雲客(七)は、皆跣のまゝ足に任して、何処といふ的(あて)もなく逃げて行かれた。暫く行く内段々に別れ別れとなり、後には唯だ藤房季房の二人より外には天皇の御手をお引き申す人もなくなつた。
 畏れ多くも天皇は御姿を賤しき農民の姿に変へさせられ、目指す的もなくたゞさまよひ歩(ある)かれた。其御有様は誠にあさましい事であつた。何とかして夜の中に赤坂城まで行きたいと、御心のみはあせらせたが、慣れられぬ御歩行の事とて、夢路を辿るやうな御心地で、一足行つては休まれ、二足歩んでは立どまられ、昼は道の辺の荒塚の蔭に御身を隠し、粗末な柏草を御座の敷物とし、夜は人も通らぬ野原の露をかき分けかき分け彷ひ行かれる事とて、薄い絹の御袖は乾くひまもなかつた。このやうにして夜昼三日の後に山城国多賀郡にある有王山の麓まで逃げ延びられたが、藤房季房も三日間何も食べない為め、足はだるく身体は疲れて、今はもう、どのやうな目にあつても逃げようといふ心持になれなかつたので、深い谷の岩を枕として、君臣兄弟が共にうたた寝の夢を結ばれた。
 梢を鳴らす松風の音を雨が降るかとお聞きになつて、木蔭へ立寄られると、下露がはら/\と御袖にかかつた。天皇はそれを御覧ぜられ、
  さして行く笠置の山を出でしより
    あめが下にはかくれがもなし
(歌意──あてにしてゐた笠置の山を逃れ出てからは、天下に身を隠す所がない。「さして行く」は「指す」に笠を「さす」を云ひ懸けたもの。「あめが下」のあめは天と雨とを云ひ懸けたもの。)
と詠ぜられたので、藤房卿は涙をおさへて、
  いかにせむ憑む蔭とて立ちよれば
    なほ袖ぬらす松のしたつゆ
(歌意──頼りとして立寄つた木蔭でさへ、松の下露に袖がぬれる。真に頼りとする所のない世の中だ。どうしようにもいたし方がない。)
とお答へ申した。
 やがて天皇は賊軍の為め見出されて、十月二日に宇治の平等院へ行幸遊ばされた。其日鎌倉の使者、大仏貞直、金澤貞将の両大将が宇治へ来て天皇に拝謁し、三種の神器を持明院の新帝(八)へ御渡し下さるやう申上げた。天皇は藤房を通じて、
「三種の神器は古より世継の君が天皇の御位につかせられる時、天皇自ら授け奉るものである。此三種の宝器を臣下の分際で勝手に新帝へお渡し申す例はまだ聞いたことがない。其上神鏡は笠置の本堂へ捨て置かれたから、きつと戦場の灰となつてゐるであらう。神璽は山中でさまよつた時木の枝へ懸けて置いたから、いつまでも我国の守となるであらう。宝剣は武士の輩が若しも天罰を考へず御体に近づき申すやうな事があつたならば、御手づから其刀の上に伏せさせられようと、片時も玉体からお放しにならない。」
と仰せられたので、鎌倉の使者両人も、六波羅の役人も、申上ぐべき言葉がなくて退出した。
 天皇は三日の間平等院に御逗留の後、六波羅へ行幸遊ばされて、同月九日に三種の神器を持明院の新帝へ御渡しになられた。同月十三日には新帝御即位の儀があつた。
 
赤坂城軍の事

 遙々関東から攻上つて来た大軍は、まだ近江の国へもはいらない中に笠置の城が落ちたので、皆楠兵衛正成の立籠る赤坂城に向つた。
 石川河原を過ぎて城の有様を窺ふと、急拵へと見えて十分に堀もほらず、僅に塀を一重めぐらした一二町四方足らずの狭い場所へ、櫓が二三十立ちならんでゐる。此有様を見た人々は、
「何といふ可哀さうな有様ぢや。こんな域は我々の片手にのせて、投げても投げられろだらう。何か不思議な事が起つて、せめて一日でも楠に持ちこたへさしたいものだ、分捕して功名を立て、褒美にあづからう。」
と思はぬ者はなかつた。で、寄手三十万騎の軍勢は、攻め寄せると共に皆同じく馬を走らせ走らせ、堀の中へ飛入り、櫓の下に並び立つて、我先きに攻め入らうと争つた。
 正成は元来智謀の人であつたから、よりすぐりの勝れた射手二百余人を城中に置き、弟の七郎と和田五郎正遠とに三百余騎をつけてよその山に備へて置いた。寄手はそんな事とは少しも知らず、唯だ一揉みに揉み落さうと、一度に四方の崖の下まで押し寄せた処を、櫓の下や狭間(九)の陰から鏃を揃へて絶え間もなく射かけたから、一時の間に千余人の死傷者を出した。関東勢は当(あて)がはづれて、
「いや/\此の様子では、一日や二日に城は落ちないぞ、暫くの間陣所々々を取り、役所を設け、手分をして戦へ。」
と云つて、攻口を少し退き、馬の鞍をおろし、甲胃を脱いで、皆幕の中で休んでゐた。楠七郎、和田五郎の二人は遠くの山からこれを見下して、「よい頃だ」と、三百余騎を二手に分け、東西の山の木蔭から菊水の旗を二本松吹く風になびかせて、静かに馬を歩ませつつ、煙、靄をまき起して攻め込んだ。関東勢はこれを見て敵か身方かと怪しみ、ぐづ/\してゐる処へ、三百余騎の軍勢が両方から鬨の声をどつと上げて、雲霞のやうに群つてゐる三十万騎の中へ魚鱗懸りの陣(一〇)をつくつて攻め入り、東西南北に割り込み、四方八方に斬つて廻つたから、寄手の大軍はぼんやりして陣を作る事も出来なかつた。又城中では三つの門を一度に開き、二百余騎が鋒を並べて打つていで、弓をひきしぼりひきしぼり残る隈なく射かけたので、さしもに大軍の寄手も僅の敵に驚いて、つないである馬に乗つてあふり立てたり、弦をはづした弓に矢を番へて射ようとしたり、又一つの甲冑に二三人も縋りついて、「俺のだ、人のだ」と引張り合つてゐる間に、主人が殺されても家来は知らず、親が討たれても子は助けず、蜘昧の子を散らすやうに石川河原へ引退いた。
 関東勢は最初の合戦に負けたので、楠の武力侮り難いと思つたか、吐田(はんだ)楢原(ならはら)あたりまで押寄せたが、それから先きには進まうとする模様もなく、其処に暫く留つて、土地の様子をよく知つた者を先頭に立てゝ、後詰(ごづめ)のないやうに山を刈り、人家を焼き払ひ、安心して城を攻めようなどと相談してゐたが、本間、渋谷の手下の者に、親が討たれたり、子が討たれたりした者が多かつたから、「生きながらへてどうしよう、縦へ我々の軍勢だけでも、馳せ向つて討死しよう。」といきり立つたので、皆これに励まされ、我も我もと馳せ向つた。今度も亦押寄せると同時に堀の中や崖の下まで攻め込み、逆茂木(一一)を取りのけて進み入らうとしたが、城中には物音一つしない、これはきつと昨日のやうに、弓の上手にたくさん射かけさして浮足立つた処へ後詰の軍勢を出して攻めるつもりだらうと考へ、寄手は十万余騎を分けて後の山へ向はしめ、残る二十万騎は群をなして城を取巻いて攻めたてた。それでも城中からは一本の矢も射ず、人が居さうにも見えなかつたので、寄手は益々調子づき、四方の塀に手をかけて跳り越えようとした処を、もと/\塀は二重に作り、外の塀は切つて落すやうに拵へてあつたので、城中では四方の塀の釣縄を一度に切り落したから、塀に取りついてゐた寄手千余人はその下敷となり、目ばかり動かしてゐる所へ大木、大石を投げつけ投げつけ打ち下したので、寄手は又今日の合戦にも七百余人討たれてしまつた。
 関東勢は二日の合戦に懲り懲りして、今はもう城を攻めようとする者が一人もなく、近くに陣をとつて遠攻にしてゐたが、余り引込み思案に守つてゐるのも意気地がない。四町四方にも足りない平城(一二)に四五百人の敵が立籠つてゐるのを、関東八箇国の軍勢が攻めかねて、見苦しくも遠攻にしたなどと、後々まで人に笑はれるのは残念だ。前には気が勇み立つてゐた為め楯も持たず、攻め道具も用意せずに攻めたからこそ失敗したのだ。今度は手段を変へて攻めようと、皆一人々々持楯(一三)をもち、其表面にいため皮(一四)をつけて容易に討たれぬやうに作り、それをかざして攻めたてた。崖の高さも堀の深さもいくらもないから、走りかかつて塀にとりつく事はわけないと思つたが、此塀も亦釣塀ではなからうかと危んで、容易にはとりつかず、皆堀の中におりて水につかり、熊手を塀にかけて引張つたので、将に引破られさうになつた時、城中から柄の一二丈もある長い杓に熱湯の沸き立つてゐるのを酌んで浴せかけた為め、兜の天辺の穴や鎧の肩の所から熱湯がさしこみ、身体が焼け爛れて、寄手の者は我慢が出来ず、楯も熊手も打捨てゝ、見苦しくもぱつと逃げ散つた。いきなり死ぬる程ではないが、或は手足を焼かれて立ち上れず、或は身体中を焼かれて病気になる者などが、二三百人も出た。
 寄手が手段を変へて攻めると、城中でも亦工夫を変へて防ぎ、今はもうどうしようもなくて兵糧攻めにしようと相談した。其後は一切戦をやめて、自分の陣所に櫓を立て逆茂木を作つて遠攻にした。楠が此城を作つたのはほんの少しの間の事で、十分に兵糧を用意してゐなかつたので、合戦が始まり城を囲まれてから、まだ二十日余りにしかならないが、城中の兵糧はもはや尽きて、今はもう四五日分を残すのみとなつた。
 そこで正成は家来を集めて、敵に自害したやうに見せかけ、暫くの間この城を逃げようと云つて、城中に大きな穴を二丈ほど堀りさげ、堀の中で討たれてゐる死人二三十人穴の中に入れ、炭や薪を積んで雨風の吹きつける夜を待つてゐた。やがて待ち設けてゐた雨風の夜がやつて来たので、城中に一人だけ残し、一同は四五町逃げたと思はれる頃城に火をつけよと命じ置き、皆寄手の軍勢の中へ紛れ込んで、五人或は三人づつ別々になつて逃げて行つた。正成は二十町余り逃げのぴてから、後を振返ると、約束に違はず城の役所々々から火が揚つてゐた。寄手の軍勢は火を見て驚き、勝鬨を上げて押しよせた。焼け静まつて後城中を見ると、大きな穴の中に焼け死んだ死骸がたくさんあつた。皆これを見て、「ああ可哀想に、正成は到頭自害した。敵ながらも立派な武士の死方だ。」
と誉めない者はなかつた。

桜山自害の事

 さて桜山四郎入道は備後国を半ば従へ、これから備中へ攻めて出ようか、安芸を退治しようかと考へてゐた処へ、笠置の城も落ち、楠も自害をしたといふ事が知れて来たので、一度は附き従つた軍勢も皆逃げてしまひ、今は身を離れぬ一族の者に長年仕へてゐる家来達を併せて、二十余人が残つてゐるのみとなつた。そこで桜山は人に殺されて死骸をさらすくらゐなら、自害した方がよいと、其国の一宮へ参詣をして、八歳になつた愛子と二十七歳になつた女房とをさし殺し、社殿に火をつけ、自分も腹を切つて、一族家来二十三人と共に、灰となつて失せた。


(一 )太政大臣、左大臣、右大臣。
(二)頭の眞中を左右へ分けて両角を結んだ髪。
(三)巡察、警備、検罪等をつとめる職で、事ある時は在京の兵士を率ゐて軍陣に臨み、軍兵の到着を記す。
(四)戦の始まる時互ひに矢を射合はす開戦の合図。
(五)夜中巡回して非常を警める番兵。
(六)朝政に参與する高官。
(七)宮中の殿上に昇る事を許された人即ち殿上人。
(八)光厳院。
(九)城壁の窓。
(一〇)魚の鱗のやうに縦隊に馬を立て並べる陣法。
(一一)木枝を鹿角のやうに組んで垣となし、敵兵の進出を妨げるもの。
(一二)平地にある城。
(一三)手に持つて進む楯。
(一四)膠の水に革を浸し打ち固めて乾したもの。


巻 第四

笠置の囚人死罪流刑の事附藤房卿の事

 笠置の城が攻め落された時召捕られた人々の処分は、元弘二年正月六波羅で定められた。比叡山、奈良の諸門跡(一)、月卿(二)、雲客、諸衛の司(三)等に至るまで、罪の軽量によつて或は禁獄(四)或は流罪に処せられた。足助次郎重範は六條河原で首を斬られることに定まり、万里小路大納言宣房卿は子の藤房季房二人に座して捕へられ、七十歳の老体を囚人の如くに取扱はれた。
 罪のあるなしにかゝはらず、後醍醐天皇に御仕へ申した公卿殿上人達は、或は出勤をさしとめられて隠遁し、或は官職をやめられて飢渇の憂をいだく等、運不運、塞不塞のうつりかはりは、抑々夢といはうか幻と云はうか。
 源中納言具行卿は、佐々木佐渡判官入道道誉が道中の警固をして鎌倉へ下し奉つたが、途中近江の柏原で斬られてしまはれた。
 又同月二十一日に法印良忠を大炊御門油小路の警備兵である小串五郎兵衛尉秀信が召捕つて六波羅へさし出したので、六波羅では色々取調べたが、其処分については意見がまち/\となつた為め、此法印を五條京極の警備兵である加賀前司に預け、取調べの結果を鎌倉へ再び報告する事とした。
 中宰相成輔は河越三河入道円重(ゑんぢう)がお連れ申して、鎌倉へ下し奉るといふ事であつたが、鎌倉ヘまでは下し奉らず、相模の早河尻で斬られてしまはれた。
 侍従中納言公明、別当実世卿のお二人は、赦免になられるといふ事であつたが、安心が出来なかつたものか、波多野上野介宣通、佐々木三郎左衛門尉の二人に頂けて、邸へはお帰し申さなかつた。
 尹大納言師賢卿を下総の国へ流し、千葉介に預けられた。此方は後に僧となつて仏門に帰依されたが、まもなく急病でお亡くなりになつたといふ事である。
 東宮大進(とうぐうだいしん)李房(すえふさ)を常陸の国へ流して長沼駿河守に預けられ、中納言藤房も同じく常陸の国へ流して小田民部大輔に預けられた。
 藤房卿は、中宮にいられた左衛門佐局といふ勝れて美しい女房に、ひそかに思ひを寄せてゐられたが、それと云ひ伝へる方法もなく、心に秘めては嘆き明し思ひ暮して、三年間も過された。所がどうした人目の紛れであつたか浅い契りを結ばれ、一夜の夢とも幻ともつかぬ枕をおかはしになられた。其次の夜、天皇が俄に笠置へ落ちさせられた為め、藤房卿も御供仕らうとしたが、今一度其女房に会ひたいものと、西の対へ行かれた所、折柄北山殿へ参られたといふ事であつた故、鬢の髪を少しばかり切りそれに歌を書きそへて置いて来られた。女房は後で其形見の髪と歌とを見て泣き悲しみ、余りの思ひに堪へかねて、哀れにも大井河へ身を投げてしまつた。
 按察大納言公敏卿は上総の国へ、東南院僧正聖尋は下総の国へ、峯僧正俊雅は長門の国へ、それぞれ流された外、第四の宮は但馬の国へお流し申して、其国の守護である太田判官に預けさせられた。
 
八歳の宮御歌の事

 第九の宮は今年八歳であられたから、中御門中納言宣明卿に預けられて京都にいらせられた。所が常に父君であられる後醍醐天皇を恋ひ慕はれ、万事につけ悲しいい御様子であられた。或日中門(五)にお立ちになつてゐられる時、遠寺の鐘がかすかに聞えてきたので、
  つくづくと思ひ暮していりあひの
    鐘をきくにも君ぞこひしき
 (歌意──君の御事を一日中しみじみと思ひ暮したが、夕方になつて入相の鐘をきくと、尚一層恋しく思はれる。)
と詠まれた。
 其頃京中の僧侶といはず、俗人といはず、男といはず、女と云はず、この歌を畳紙や扇に書きつけて、「八歳の宮の御歌だ」と賞翫せぬ者はなかつた。
 
一宮並妙法院二品親王の御事
 
 三月一日に一の宮の中務卿親王を佐々木判官時信が御警固申して、土佐の国の畑へお流し申した。又同じ日に妙法院二品親王をも長井左近大夫将監高広が御警固を承つて讃岐の国へ流し奉つた。
 配流の地も共に四国であるといふ事であつたから、せめて同じ国であつてくれ、風の便りにでも御物語をして、悲しみを慰める助けにもしようと思ひ願はれたが、其甲斐もなく、一の宮は漂ふ波に漕がれ行く浮船に身を任せて、土佐の国の畑へお着きになり、有井三郎左衛門尉の屋敷の側に設けられた一室にお入りになつた。妙法院は備前の国まで陸路を来られ、児島の吹上から乗船せられて讃岐の詫間にお着きになられた。
 承久の乱の例に習つて後醍醐天皇を隠岐の国へお遷し申す事は定まつたが、臣下の分際で天皇をないがしろにし奉る事を、北條氏もさすがに畏れ多いと思つたのか、後伏見院の第一の御子(六)を御位にお即け申して、後醍醐天皇御遷幸の宣旨を下されるやうに取り計らつた。

俊明極(しゆんみんき)参内(さんだい)の事
  
 元享元年の頃、元の国から俊明極と云ふ禅師が来朝した。天皇が直接外国の僧に人相を見させられるといふ故事はなかつたが、後醍醐天皇は御法談の為め此禅師を宮中へお召しになり、御法談が終ると禅師は会釈をして退出した。其翌日別当実世卿を勅使として禅師号を下された時、禅師は勅使に向つて、
「此天皇は高貴の極、敗亡の悔に遭はれるが、二度帝位におつき遊ばされる御相がある。」と申上げた。それ故囚はれの御身となられた今も、二度帝位に陞られる事を確信され、当分の間法師姿にはなられないと仰せ出された。

中宮御歎きの事
  
 三月七日に後醍醐天皇はいよ/\隠岐の国へお遷りになられるといふ事であつたから、中宮(七)は夜に紛れて六波羅の御所へ行啓遊ばされ、中門へ御車を寄せられると、天皇が御出ましになり、御車の簾をかゝげて御対面遊ばされた。天皇は中宮を都へ残して旅に出られた後の事を思ひ続けられ、中宮は又遠い所へ行かれる天皇の御事を想像して歎き悲しまれた。夜明け近くなつて中宮は還御になられたが、再びめぐり逢はれる事のおぼつかなさに、伏し沈まれた御心中は推しはかるだに誠に悲しいものであつた。
 
先帝遷幸の事

 三月七日に、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉らが、五百余騎で道中の御警固を承つて、後醍醐天皇を隠岐の国へ遷しまいらせた。お供と云つては、一條頭大夫行房、六條少将忠顕、それに御世話役の三位殿御局の三人だけであつた。其外は甲冑を着け、弓矢を持つた武士達が、前後左右をお囲み申してゐるばかりで、七條を西へ、東洞院を下へ、御車をきしらせ行かれたから、貴賤男女を問はず、多くの人々が立ち並んで、丁度赤子が母を慕ふやうに泣き悲しんだ。
 かくて日を重ねられ、都をお出ましになつてから十三日目に、出雲の見尾の湊にお着きになり、こゝで御船を用意し、渡海のため順風の時をお待ちになられた。
 
備後三郎高徳が事
  
 其頃備前国に児島備後三郎高徳といふ者があつた。天皇が笠置にお在(ま)しの時、御身方となつて義兵を挙げたが、まだ成功しない前に笠置も落され、楠正成も自害したといふ噂が立つたので、がつかりしてひかへてゐたが、天皇が隠岐国へ遷幸遊ばされると聞いて、二心のない一族の者を集めて相談するには、
「志士とか仁人とか云はれる者が、命を惜がつて人道をつくさぬといふ事はない。命を投げ出して当然つくすべき事を眼前にみながら、それを実行しないのは勇気のない為めだ。吾々は臨幸の御途筋へ出て、天皇をお奪ひ申して大軍を起し、縦へ死骸は戦場へさらしても名誉を子孫に伝へようではないか。」
と云つた所、心ある一族共は皆其意見に賛成した。「それでは御途筋の難所に待ち受けて、隙を覘ふことにしよう」と、備前と播磨の国境である船坂山の頂上に隠れて、今か/\と御通過を待つてゐた。臨幸が余りに遅かつたので、使を走らして様子をさぐらすと、警固の武士達は山陽道を通らず、播磨の今宿から山陰道に入つたいふ事であつた。高徳の第一の計画は全くはづれたが、次ぎは美作の杉坂こそ最も適当な深山である、そこでお待ち申さうと、三石の山から斜に道もない山の雲を凌いで杉坂へ来てみると、天皇は早や院荘(ゐんのしやう)へお入りになつたといふ事であつたから、仕方なく一族の者は此処で散り散りになつた。高徳はせめて此覚悟だけでも天皇の御耳に入れたいものと、賤しい服装に身をやつし、忍んで御跡を追ひつゝ適当な時機を覘つてゐたが、なか/\さうした隙がありさうにもなかつたので、お泊りになつてゐられろ宿の庭に大きな櫻の木のあつたのを削つて、大きな文字で
  天莫空勾践(てんこうせんをむなしうするなし)。 時非無范蠡(とき はんれいなきにあらず)。(八)
といふ一句の詩を書きつけた。
 御警固の武士共は、翌朝これを見つけたが、読みかねて、「何事を誰れが書いたのだらう。」と、事の次第を天皇に申し上げた。天皇はすぐさま詩の意味をおさとりになつて、晴れやかな御顔にほほ笑みを含まれたが、武士共は一向そのいはれを知らず、別に咎め立てもしなかつた。


(一)一門派の教義を師弟相伝し、其本寺に嗣住して法系を持続する者。
(二)朝政に参与する高官。卿相。公卿。
(三〕各衛府の役人即ち百官。
(四〕獄中におしこめておく事。
(五)寝殿と外門との間にある門。
(六)光厳院。
(七)藤原禧子。
(八)昔支那で、呉越の二国が争つてゐた時、越王の勾践は代々呉にいぢめられてゐた恨みを晴さうと、忠臣范蠡がとめるのも聞き入れず、大軍を率ゐて呉の国へ向ひ、会稽山の戦に敗れて生捕となつた。勾践は牢屋の中でひどい苦しみを辛棒し、范蠡は国にゐて難儀しつつ再び呉を攻め亡す謀を廻らして、会稽山の敗戦の恥をそそいだといふ事にことよせて、高徳が自分の心持を述べたのである。即ち天皇を勾践に、自分を范蠡に擬して、天皇に御安心下さるやうにと云つたものである。


巻 第五
  
持明院殿御即位の事
  
 元弘二年三月二十二日、後伏見天皇の第一の御子光厳院が、御歳十九で天子の御位につかせられた。御母は竹林院左大臣公衡の御娘で、後に広義門院と申された方である。同年十月二十八日河原の御禊ひの儀(一)を、又十一月十三日には大嘗會の儀(二)を執り行はせられた。
 
宣房卿二君奉公の事
  
 万里小路大納言宣房卿は、元来後醍醐天皇が寵愛せられた方である上、息子の藤房季房の二人は笠置城で生捕られて流し者にされたのであるから、父宣房卿も罪深い筈であるのに、才智にたけてゐるといふので、北條氏は特に其罪を許して、今上天皇にお召使ひになられるやうにと申上げた。そこで日野中納言資明卿を勅使として、宣房卿に其事を仰せになられたが、宣房卿は二君にお仕へして老衰の身に辱めを受けるよりも飢渇に甘んじた方がよいと云はれたのを、資明卿が色々と道理をつくして説き伏せたので、宣房卿も遂に屈服し、お仕へ申すやうお答へ申し上げた。
 
中堂の新常燈消ゆる事

 其頃、比叡山の根本中堂の内陣(三)へ山鳩が一番ひ舞ひ込んで、新常燈の油盞(あぶらつき)の中へ飛び入り、燈明を消してしまつた。其鳩を又一匹の鼬が走り出て二羽共に食ひ殺して逃げてしまつた。此常燈は後醍醐天皇が臨幸遊ばされた時、昔桓武天皇が御自身で挑げられた常燈に習はれ、皇室を何時何時までも栄えさせようとする御願を以つて、御自身で燈心を束ねられ、銀の御油盞に油を入れて掻き立てさせられた燈明である。それを山鳩が飛びこんで消したのは不思議であるが、其山鳩を鼬が食ひ殺したのも亦た不思議な事である。

相模入道田楽を弄ぶ竝闘犬の事
  
 また其頃京都では田楽(四)といふ遊びがはやつて、貴賤を問はず誰れも彼れも其遊びをしてゐた。北條高時はこれをきいて、新座本座(五)の田楽を呼びよせて、毎日毎夜遊び戯れてゐた。
 或夜酒宴を開いて、高時は酒を飲み、酔にまかせて立上り、暫くの間舞つてゐた。四十余りの年とつた入道が酔つたまぎれに舞ふ舞のことだから、面白い筈もないのに、何処から来たともわからぬ新座本座の田楽達が十余人、ひよつくりと其酒宴の席に現れて、歌ひつつ舞つたが、其面白さはなみなみでなかつた。少したつて調子をかへて歌ふ声をきくと、「天王寺の妖霊星(えうれいぼし)を見ばや」と囃し立ててゐた。或侍女が其声をきいて、余りの面白さに障子の隙間からのぞいて見ると、新座本座の田楽達らしい者は一人も居らず、嘴が鳶(とび)のやうに曲つたものや、身体に羽根の生へた山伏のやうなものや、変な形の化物共が人間の姿をしてゐるのであつた。侍女はこれを見て余りに不思議に思つたので、使を走らして城入道時顕に此事を知らした。時顕は驚いてとるものもとりあへず太刀を握つて駆けつけて来た。中門を荒々しく歩く足音をきいて、化物はかき消すやうに見えなくなつてしまひ、高時は前後も知らず酔ひつぶれて寝てゐた。燈をつけさして酒宴の席を見ると、誠に天狗が集つてゐたものらしく、蹈み汚した畳の上に禽獣の足跡がたくさんついてゐた。時顕は暫くの間空を睨んで立つてゐたが、一向眼につく者もなかつた。少ししてから高時は驚き目ざめて起き上つたが、ぼんやりとしてゐて何事があつたのかまるで知らなかつた。
 高時はこんな妖怪には驚かず、ますます変な物を愛して際限がなかつた。或時庭前に犬が集り噛み合つてゐるのを見て面白がり、これを愛するやうになつた。即ち諸国へ触れを出して、年貢として犬を納めさせたり、権門高家に云ひつけては犬を求めたりしたので、国々の守護や大名達が、十匹二十匹と飼つては鎌倉へ送りとどけて来た。鎌倉では此犬に魚や鳥を食はし、金銀をちりばめた鎖で繋いで置いた為め、無駄な費用が嵩んだ。又此犬を乗物にのせて道を通る時は、急ぎの用で行く人も馬から下りて跪いて礼をせねばならず、耕作にいそしむ百姓も人夫に当てられて其の乗物を舁かねばならぬといふ風に、非常に大切にしたので、肥え太つて、美しく着飾つた犬が鎌倉中に充ち満ちて、其数は四五千匹を計へた。一箇月に十二日を定めて、犬合戦をさせたので、其日は一族、大名、御内外様(六)の家来達が、或は屋内に竝び、或は庭前に坐つて見物した。時には両陣の犬を一二百匹づつも放ち出して戦はした為め、互に入り乱れて追ひかけ合ひ、上になり下になりして噛み合ふ声が天に響き地をゆるがす程であつた。考へのない人々はこれを見て、あゝ面白い、人間が戦場で勝負を決するのと同じだといひ、考へのある人は、あゝ嫌な事だ、野良犬が野外で死骸を奪ひ合ふやうなものだと悲しんだ。
 
時政江島に参籠の事
  
 昔北條四郎時政が江島に参籠して子孫の繁昌を祈つた時、三七日の夜、赤い袴に青い裏の着物を著た美しい女房が現れて、お前の前生は箱根法師(七)である。前生の善根(八)で子孫は長く日本の主となつて栄華をつくすであらう。然し行ひが悪ければ七代以上は続かないぞ、と云つて帰り去つた。時政が其姿を見送ると、忽ち大蛇になつて海中へ入つたが、其の跡に大きな鱗が三つ落ちてゐた。時政はそれを取つて旗の紋とした、今の三鱗の紋が即ちそれである。北條氏は七代を過ぎても尚天下の権を握つて居る。今の高時は九代目であるが、いよいよ亡ぶべき時が来たので、不思議な行ひをするのではないかと思はれる。
 
大塔宮熊野落ちの事
  
 大塔宮二品親王は笠置の城の様子をお知りになりたいばかりに、暫くの間奈良の般若寺に隠れてゐられたが、笠置の城は既に落ちて、天皇は囚はれの御身となられた事を聞かれ、虎の尾をふむやうな危険さが御身に迫り、広い天地に御身を隠される処さへもなく、日月は明るいけれども御心は常に暗く、昼は野原に隠れて草叢に置く露に御涙を争ひ、夜は人里離れた村の辻に佇んで、人をとがめて吠える犬に御心を驚かされ、何時も何処でも安心される時処はなかつたが、今少しの辛棒と、缺乏と艱難を怺へてゐられる処へ、一乗院の候人(九)である按察法眼好専が、どこから聞いたものか五百余騎を引連れて、夜明け前に般若寺へ押寄せてきた。
 折悪しく宮にお附き申してゐる者は誰れもゐなかつた為め、一防ぎ戦つてお逃げになるといふことも出来なかつた上、兵士が早や隙間もない程に寺の中へ入つて来たので、敵の目を晦まして逃げ出されるわけにも行かなかつた。よし自害しようと決心せられて早や膚をお脱ぎになられたが、腹を切るのはやさしいことだ、いつでも出来る。若しかすると助かるかも知れぬ、隠れてみようとお考へ直しになつて、仏殿の方を御覧になると、誰れかが読みかけたまゝさし置いた大般若の唐櫃(一〇)が三つある。二つの櫃はまだ蓋を開けてなかつたが、一つの櫃はお経を半分以上も取出して蓋もしてなかつた。此蓋の開けてある櫃の中へ御身体を小さくしてうつ伏しにお入りになり、其上にお経をひきかぶせて、隠形の呪文(一一)を御心の中で唱へてゐれらた。若し捜し出されたらそれまでだ、直さま突き立てるまでのことだと、氷の刃を御腹に当てがはれ、兵共が「やあ此処においでになる」といふ一言をお待ちになつてゐられた。其の御心中はいくら御察し申上げても深過ぎることはない。其の中、兵共が仏殿に乱入してきて、仏壇の下や天井の上まで残る隈なく捜したが、見出しかねて、「あれこそは怪しい。あの大般若の櫃を開けて見よ。」と云つて、蓋のしてある二つの櫃を開けて、お経を取出し、底をひつくり返して見たがいらせられない。蓋の開いてゐる櫃は見るまでもないと云つて、兵等は皆寺から出て行つた。大塔宮は不思議な御命拾ひをなさつて、夢心地でまだ櫃の中にゐられたが、若し又兵が引返してきて詳しく捜すやうな事があるかも知れないと、今度は兵共が見て行つた櫃の中へ御身を忍ばせられた。豫期した通り兵共は又仏殿に引き返して、
「先刻(さつき)、蓋の開いてゐたのを見なかつたのが気懸りだ。」
とお経を皆取り出して見たが、からからと打ち笑つて、
「大般若の櫃の中をよくよく捜したが、大塔宮はおいでにならないで、大唐(一二)の玄奘三蔵がおいでになつた。」
と一人が冗談を云つた。皆の者も一斉に笑つて、どや/\と門の外へ出て行つた。
 こんな有様で、奈良辺りに御隠家を見出す事も出来ないので、宮はまもなく般若寺を出られ、熊野の方へお逃げになつた。御供の者は、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎ら、合せて九人であつた。宮を始めとして御供の者まで、皆柿の衣(一三)を着て、笈(一四)を掛け、頭巾(一五)を前下りに冠り、其中の年長者を先達に作り立てゝ、田舎山伏が熊野へ参詣する風に見せかけた。此大塔宮は皇居の中に人とならせ、御車に召さぬ限りは御外出なされた事がないから、長途の御歩行は御無理であらうと、御供の人々は前前からお気の毒に思つてゐたが、案に相違して極めて御けなげに、何時御習ひになつたといふ事もないが、怪しげな足袋、脚絆、草鞋をおはきになつて、少しもお疲れになつた御様子もなく、神社々々への御奉幣は勿論、宿々での御勤行も怠られなかつたので、途中で行き逢つた修行者も、修行をつんだ先達も少しもあやしまなかつた。
 由良の港を見渡すと、沖漕ぐ船の梶を絶えて、浦の濱ゆふ(一六)は幾重とも知らぬ浪路に千鳥が鳴く。紀伊路の遠山は渺々と、薄紫の藤代の松には磯の浪がかゝつてゐる。和歌、吹上の景色をよそに見て過ぎると、月に瑩(みが)いた玉津島へさしかゝる。其美しさもさる事ながら今度の旗は場合が異(ちが)ふ。長汀曲浦を縫うてゆくと、自ら心が千々に砕けるが、孤村の樹が雨を含み、遠寺の鐘が夕べを送るのを見聞すると、一層切実な旅愁を覚える。其時ちやうど大塔宮は切目の王子へ着かれた。
 其夜は叢祠の露に御袖を片敷いて、「逆臣が直ちに亡んで、朝廷が再び栄えますやうに」と、夜通し五体を地に投げての一心不乱のお祈りが、神に通じない筈はない。宮の御心には神慮のほどもそれと推し測られるやうに感じられたが、夜通しの礼拝で疲れられ、御肱を曲げて枕とせられた間もなく、うと/\と眠りに入られた。と、鬟を結つた童子が一人現はれて、
 「熊野三山の間はまだ人心が不和であるから、大義を成される事はむづかしい。これから十津河の方へおいでになつて、時機の来るのをお待ち下さい。私が御案内いたしませう。」と云つたかと思ふと、それで御夢は覚め果てた。これは権現のお告げだ、誠に心強い事だと思召され、夜明け前に御悦びの御幣を捧げられて、すぐ十津河の方へお進みになつた。
 其道程三百里の間には全く人里がなかつたから、或時は高山の雲に枕を欹(そばだ)て、苔の寝床に袖を片敷いて寝ね、或時は岩間に落つる僅かの水に渇を医し、朽ちかけた橋を渡つて心を冷した。山路では雨が降らずとも、樹々の間から起る湿気に着物が濡れる。見上げると、絶壁は刀で削りとつたやうに聳え、見下すと谷底は藍で染めたやうに水を湛へてゐる。数日間はこんな嶮しい山道をお通りになつた為め、御身体が疲れて汗が水のやうに流れた。御足は傷ついて破れ草鞋は血に染つた。御供の人々とて、鉄石の身ではないから、皆飢ゑ疲れてはか/゛\しくは歩き得なかつたが、宮の御腰を押し、御手を引いて、十三日目に漸く十津河へお着きになられた。
 十津河では、戸野兵衛及び其叔父竹原八郎入道らの義心によつて、大塔宮は安らかな日を送られたが、やがて熊野の別当定遍に知られて、其奸計のため御身が危険に瀕したので、又こつそりと十津河を逃げ出され、高野山の方へおいでになられた。其途中はすべて敵地であるから、反対に敵を頼んで見ようと、先づ芋瀬の荘司の所へおいでになられた。芋瀬は宮に向ひ、鎌倉へ申し開きの為め、御供の中で名前の相当知れてゐる人を一人二人頂いて鎌倉へ渡すか、又は御紋のついてゐる御旗を合戦をしたといふ証拠に頂きたいと申上げた。宮は致し方なく御旗を渡して、其処を通過なされた。所が後れた御供の一人、村上彦四郎義光が宮に追ひ著かうと急いで来る途中、芋瀬の荘司が御旗を頂いてくるのに出会ひ、其理(そのわけ)をきいて大に怒り、御旗を奪取つて肩にかけ、あたふたと宮に追ひついた。
 宮はかうして御苦難を嘗めさせつゝ行かれる中、玉置の荘司のきぴしい反抗に遭つたので、御供の人々と玉置の軍勢を相手に一戦し、然る後心静かに自害をしようと決心して立ち向はれた。其時、紀伊の国の野長瀬六郎、同七郎が三千余騎を率ゐて宮の御迎へに参り、玉置の軍勢をわけもなく攻め敗つたので、大塔宮は危い御命拾ひを為された。
 そこから宮は無事に大和の槇野上野房聖賢が拵へた槇野城へおはいりになられたが、こゝも土地が狭くて都合が悪いので、遂に吉野の僧侶達を御味方に引き入れられ、吉野川を前にひかへ、岩切り通す(一七)愛善宝塔を城構へにして、三千余騎の兵を随へ、そこにお立籠りになつてゐると云ひ伝へられた。


(一)帝が身を浄められる儀式、賀茂川原で執り行はれる。
(二〕悠基主基の両殿で天神地祇を祭られる儀式、即位の御時に行はれる。
(三)本尊を安置する奥殿。
(四)鎌倉時代から室町時代にかけて行はれた遊芸。
(五)二つ共田楽の家元の名。
(六)御内は元々からの家来。外様は或機会に外から入つてきた家来。
(七)箱根権現に仕へる僧。
(八)よい応報を受くべき所行。
(九)門跡家に使はれる人。
(一〇)大般若経を入れた脚のある櫃。
(一一)摩利支天経の中にある身を隠す呪文。
(一二)大唐と大塔との発音が似てゐるので洒落て云つたもの。玄奘三蔵は大般若経六百巻の飜訳者。
(一三)柿色で無紋の衣。
(一四)行脚僧らが仏具、衣類、食器などを入れて背に負ひ歩くつづら様の箱。
(一五)修験者の冠るもの。
(一六)海辺に生ずる万年青のやうな植物。
(一七)「さゆる夜は氷るも早し吉野河岩切り通す水の白河」(新拾遺集)。

巻 第六

民部卿三位局御夢想の事

 去年の九月に笠置の城が落ち、後醍醐天皇が隠岐の国へ遷幸遊された後は、此天皇に御仕へ申してゐた多くの役人達は悲しみを抱いてあちらこちらへ引き籠り、又多くの女官達も涙を流してめいめいに泣き沈んでゐた。それは世の習ひとは云へ、誠に哀れな有様であつた。中でも哀れを留めたのは民部卿三位殿の御局であつた。何故ならば、此御局は後醍醐天皇の御寵愛が深かつた上、大塔宮の御母君でもあられたので、他の女官達は此御方に較べると、花の側の深山木の色も香もないものに過ぎなかつた。それだのに世の中が乱れてからは、万事変つてきて、宮中にも定まつた御住居がなく、荒れ狂ふ波の上に船を浮べた海人のやうな心地で、頼りない御物思ひに日月を重ねられた。天皇が西海の浪遠く身を沈めさせられ、御袖の乾く間もなく歎き悲しんでゐられる御様子をお聞きになつては、暁の月に向つて思ひを遠く西の空に馳せられ、又大塔宮が南方の道もない山奥で雲の中にとぢこめられ、心の落着かぬ御生活を営んでゐられることをお聞きになつても、御文をさへお遺はしになる事も出来ない有様である。天皇を思ひ、大塔宮を思ひまゐらせて、なみ/\ならぬ御歎きの為めに、美しい黒髪はうすれ、紅玉のやうな御膚の色もあせて、何時の間に年とつたかと怪まれる程に老いこまれてしまつた。
 あまりの悲しさに御局は北野神社へ参籠せられたが、或夜の御夢に、衣冠をきちんと着けた八十歳余りの老人が、左の手に梅の花を一枝持ち、右の手に鳩を刻んだ杖をついて、いと苦しげに御局のおやすみになつてゐる枕元に立ち現れた。御局は御夢心地で、誰れも訪ねてくる筈のない此土地へ、不思議なこと、道に迷つてたたずんでいられるのはどなたかとお尋ねになられた所、此老人は誠に悲しさうな様子で、一言も物を言はず、持つてゐた梅の花を御局の前に置いて帰つて行つた。御局は不思議に思はれて、其梅を御覧になると、一首の歌を書いた短冊がついてゐた。
  廻りきてつひにすむべき月影の
    しばしくもるを何なげくらむ
 (歌意──廻り廻つてきて、しまひには美しく澄む筈の月影が、一寸の間曇つたからとて、何をそんなに歎く事があらう。)
 御夢が覚めて後歌の意味をお考へになり、これはやがて天皇が御還幸になつて、再び宮中にお住まひになられるといふめでたい兆(しるし)だと其夢を判ぜられ、いと力強い事に思召された。
 
楠天王寺に出張りの事附隅田高橋竝宇都宮が事
  
 楠兵衛正成が自害したやうに見せかけて、赤坂城を逃げたのを真実と思ひ、鎌倉方では其跡へ湯浅孫六入道定仏を地頭に置いて安心してゐた所、元弘二年四月三日楠正成は五百余騎を引き連れて、不意に湯浅の城へ攻め寄せ、息も継がせず攻め立てゝ攻め落し、其湯浅の軍勢を併せた七百余騎で和泉河内の両国を打ち従へ、今は雲霞の如き大軍となつたので、五月十七日に住吉天王寺辺へ押寄せ、渡部の橋から南に陣を取つた。
 それと知つて京都では大いに驚き、隅田、高橋を軍兵監督に任じ、五千余騎をつけて天王寺へさし向けた。隅田、高橋は遙に楠の軍勢を望んで、それが小勢である上、如何にも弱々しさうなので、すつかり侮つて一気に撃ち滅ぼさうと、勝を焦つて攻め込んだ為め、正成の計略にかかつてまたたく間に打ち破られ、残り少くなつた軍勢は、辛うじて京都へ逃げ帰つて来た。
 両六波羅ではこれをきいて安心が出来ず、其頃鎌倉から援軍として上京してゐた宇都宮治部大輔を招いて、楠の軍勢を打ち平げて呉れるやう頼み込んだ所、宇都宮はすぐさま引き受けて自分の宿所へは帰らず、そのまま六波羅から直に天王寺へと向つた。始めの内は主従併せて僅に十四五騎であつたが、四塚(よつゞか)作道では五百余騎となつた。それらは誰れ一人生きて帰らうと思ふ者もなかつた。所がこれを聞いた河内国の和田孫三郎は、楠正成に向つて、
「たとへ宇都宮がどれ程の武勇の達人であつても、大した事はありますまい、今夜逆襲をして打ち破りませう。」
といふのを、正成は制してしばらく考へ、
「合戦の勝敗は何も大軍小軍によつて決せらるるものではない。前の合戦に大軍が負けて退いた後へ、宇都宮が一人小軍勢で攻めよせて来るからには、まさか生きて帰らうと思つてはゐまい。其上宇都宮は東国一の立派な武士である。又それに従ふ紀氏、清原氏の兵共は、もと/\戦場で生命を捨てる事を何とも思はない人達である。そんな兵士が七百余騎も心を一つに合して決戦すれば、身方の大半は必ず討たれるであらう。天下の大事は今度の合戦のみで決せられるものではない。前途の遠い合戦に多くもない身方が最初の合戦で討たれたならば、後の戦ひには誰れの力を合して戦はう、良将は戦はずして勝つといふ事がある。正成は明日わざと此陣を捨てゝ退却し、敵に面目の立つやうに思はせ、四五日経(た)つてから方々の山で篝火を焼いたならば、彼等は必ず長居は危瞼だ、面目の立つてゐる間に引き返さうといふであらう。諺に進むも退くも折(をり)によるとは、このやうな場合を云ふのである。あゝ明け方近くなつた、敵はきつと押寄せてくるだらう。さあ立てよ。」
と云つて、天王寺を退いたから、和田、湯浅らも一所に引き上げた。
 夜が明けると、宇都宮は七百余騎の軍勢で天王寺へ押し寄せ、古宇都(こうづ)の民家へ火をつけて鬨の声を上げたが、敵は居ない事とて誰れも出て来ない。紀氏、清原氏の軍勢は馬の足を揃へて天王寺の東西の口から攻め入つて、二三度も攻め入り攻め入りしたが、敵は一人も居らず、夜はほのぼのと明けはなれた。
 宇都宮は戦はないで一勝ちした心地で、大いに喜び、直ぐさま京都へ急使を出して、「天王寺の敵を立所に追ひ払つた。」と報告したので、六波羅では皆宇都宮を誉めぬ者はなかつた。
 四五日たつて後、楠、和田らは和泉、河内の野武士達を四五千人集め、それにちやんとした兵士を二三百騎つけて、天王寺附近に遠篝火を焚かせた。宇都宮の軍勢はそれを見て、敵が攻めて来たと騒いだが、夜の更け行くまゝに、秋篠や外山の里、生駒の山に見える火は晴れた夜の星よりも多く、又志城津(しきつ)の浦や住吉(すみよし)難波(なには)の里で焚く篝火は、波を焼く漁火かと怪しまれ、其軍勢は何万騎あるか分らない程である。こんな有様で三晩すぎ、火が段々近づいて来たので、油断なく待ちかまへてゐた宇都宮は、勇気疲れ、武力挫けて、今の中に退却しようかと思ふ心が起つて来た。そこへ紀氏、清原氏らもそれを勧めたので、意見は忽ち一致し、七月二十七日の夜半に、宇都宮は天王寺を退いて京都へ上つたので、翌日の早朝に楠は入れかはつて天王寺を占領した。若し宇都宮と楠とが勝負を決したならば、互角の戦、二人共一所に死んだであらう。それをちやんと知つてゐて、一度は楠が退き、一度は宇都宮が退いた。かうした見透かしは才智深謀にたけた良将でなければ出来ることでないと、ニ人を誉めぬ者はなかつた。

正成天王寺の未来記披見の事
  
 元弘二年八月四日、楠兵衛正成は天王寺に御詣りをして、白鞍(一)をつけた馬と白覆輪の太刀(二)とに鎧を一重ねそへて寄進した。これは大般若経の転讀(三)の御布施(四)である。言上を終つて寺僧が巻数(五)を捧げてきた。そこで正成は対面をして、「昔聖徳太子の御時、日本一国の未来記を書き置かれたといふ事であるが、若し拝見が願へるならば、今の時代に当つてゐる巻だけを一見致したいものです。」
と云つた所、寺僧は、
「これは容易に人に見せられないものだが、其許に限りこつそり御目にかけませう。」と云つて、金軸の書一巻を取出した。正成は悦んでそれを見ると、明年の春頃、後醍醐天皇が隠岐国から還幸、再び帝位に陞られると想像し得べき記事があつた。正成は文意をよく考へて、天下の騒乱はもう長くないと、金作りの太刀(六)一振を老僧に與へて、其書を元の所へしまはせた。

赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事
  
 其頃播磨国の住人に、村上天皇の第七の御子具平親王から六代目の従三位季房の末孫に、赤松次郎入道円心と云つて、武勇双びなき勇士があつた。其円心の所へ、此二三年来、大塔宮のお供をして、吉野や十津河で苦しんで来た息子の律師則裕が、親王の命令書を捧持して来た。披いてみると、「直に忠義の兵を挙げ、軍勢を引き連れて、北條氏を討ち滅ぼせ。其功績あれば恩賞は望みにまかせる」と書かれてあつた。円心は大に悦んで、先づ播磨の佐用荘苔縄の山に城を作り、加担者を招き、其威勢が段々附近の国々を風靡したので、国中の兵士が馳せ集つてきて、まもなく一千余騎の大軍となつた。
 
関東の大勢上洛の事

 畿内西国に兵を上げる者が段々多く現はれて来た事を、六波羅から急使で鎌倉へ知らしたので、北條高時は大いに驚き、直ぐ討手をやれと云つて、一族の者や関東八箇国の中で有名な大名達を召集して打ち向はせた。先づ一族の阿曾弾正少弼、名越遠江守、大仏(おさらぎ)前陸奥守貞直らを始めとして重だつた大名百三十二人、其軍勢すべてで三十万七千五百余騎は、九月二十日に鎌倉を立つて、十月八日に先頭が京都へ着いた。そればかりでなく河野九郎は四国の軍勢を引連れて大船三百艘に乗り、尼崎より上陸して下京に着き、厚東入道、大内介、安芸熊谷らは周防長門の軍勢を引連れて兵船二百余艘に乗り、兵庫より上陸して西の京に着き、甲斐信濃の源氏七千余騎は中山道を通つて東山へ着き、江馬越前守、淡河右京亮(あはかはうきやうのすけ)は北陸道七箇国の軍勢を引連れ、三万余騎で東坂本を通つて上京に着くなど、凡て諸国七道の軍勢が我も我もと馳せ上つてきたので、京都中は到る処軍勢の屯営でないのはなかつた。
 さて元弘三年正月末日に、諸国の軍勢八十万騎を三手に分けて、吉野、赤坂、金剛山の三つの城へ向はせた。先づ吉野へは二階堂出羽入道蘊を大将として他の軍勢を交へず、二万七千余騎を三手に分けて向つた。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其軍勢八万余騎は天王寺住吉へ陣を張つた。金剛山へは陸奥右馬助が搦手の大将となつて、其軍勢二十万騎で奈良路から向ひ、長崎悪四郎左衛門尉は特別に侍大将(七)を仰せつかつて大手へ向つたが、わざと自分の軍勢の有様を人に知られようと思つたものか、一日おくれて出發した。

赤坂合戦の事附人見本間抜懸の事
  
 赤坂の城へ向つた阿曾弾正少弼は、天王寺に二日留つて軍勢を整へ、二月二日の正午頃から戦を始める手筈を定め、それ迄に抜懸をした者は処罰するといふ触れを出した。
 ここに武蔵の国の住人に、人見四郎入道恩阿といふ者があつた。此恩阿が本間九郎資貞に向つて、
「明日の合戦には先懸をして、第一番に討死して、後の世までも名を遺さうと思ふ。」と語つた所、本間九郎は心中ではもつともだと思ひながら、口では、
「これ位の戦に、先懸をして討死しても、大した手柄ともいへまい。」
といつたので、人見は事の外に不機嫌で、本堂の方へ行つたが、本間が人に後をつけさして見た所、矢立を取出して石の鳥居へ何か一筆書きつけて、自分の宿へ帰つて行つた。本間九郎は人見が明日は必ず先懸をするだらうと、きつと夜の中から立ち出でゝ、唯一人で東条をさして行つた。石川河原で夜明けを待ち、朝霧をすかして南の方をみると、紺の唐綾縅の鎧(八)に白母衣(九)を懸けて鹿毛の馬(一〇)に乗つた武士が一騎赤坂の城の方へ向つて行つた。何者だらうと馬を近寄せてみると、人見四郎入道であつた。人見は本間を見つけて云ふには、
「昨夜の貴公の言葉を真実と思つたなら、孫程年の違ふ貴公に拙者は出し抜かれてゐたらう。」
と笑ひながら馬を早めた。本間は後から追ひかけて、
「今は互に先を争ふに及ばない。一所に討死をして冥途までお伴を仕らう。」
といふと、人見は、「言はずと知れた事だ。」と返事をして、後になり先になり話をしながら進んで行つた。やがて赤坂城近くなつたので、二人の者は馬の鼻を双べてかけ上り、堀の際まで押寄せて鐙を踏ん張り、弓杖をついて、大声に名乗を上げた。
「武蔵の国の住人、人見四郎入道恩阿、今年七十三歳、相模の国の住人、本間九郎資貞、年三十七歳、鎌倉を出て以来軍の先懸をして戦場に死骸を曝さうと思つて来た。我と思はん人々は出で合つて、手並の程を御覧ぜよ。」
と口々に呼び上げて、城を睨んで立つてゐた。城中の者共はこれを見て、
「これだ、坂東武者のやり口(くち)は。後を見ても続く者はない、又さまでの大名とも思はれない。乱暴者(あぶれもの)の不敵武者(ふてきむしや)に組み合つて、命を捨てたとて何になる。打捨(うつちや)らかして置いて様子を見よう。」
と物音をひそめて、返事もしなかつた。人見は腹を立てて、
「早朝から来て名乗を上げるのに、城から矢の一本も射出さないのは、臆病の為めか、敵を馬鹿にしての事か。よし、それなら我々の腕前を見せてやらう。」
と馬から飛び下り、堀の上の細橋をさら/\と走り渡つて、出張つた塀の脇に沿うて進み、戸口を切り落さうとしたので、城中の兵共(つはものども)は騒ぎ出し、城壁の矢間や櫓の上から雨の降るやうに射かけた矢が、二人の鎧へ蓑の毛のやうに立つた。本間も人見ももと/\討死の決心をしてゐる事とて、どうして一歩も退かない。命限り戦つて二人共一所に討死をしてしまつた。これを聞いた本間の息子源内兵衛資忠(げんないびやうゑすけたゞ)は泣き悲しんで、父のお供をしようと、又唯だ一人で赤坂城へ向ひ、遂に父の討たれた場所で討死をした。
 さて阿曾弾正少弼は八万余騎の軍勢を引き連れて赤坂へ押し寄せ、城の四方二十余町の間を雲霞の如き大軍で取巻いて、鬨の声を上げた。其声は山を動かし、地を震はし、大空の果も破れるかと思はれる程であつた。此赤坂城はもと/\要害の所にあつて、如何なる大力早技の者でも容易には攻め落せさうにもなかつたが、寄手は大軍であるので、敵を馬鹿にして、楯も持たず、敵の矢のくる正面を進んで、堀の中へ飛び込み、崖を上らうとする処を、城中では堀の内から選(よ)り勝(すぐ)りの弓上手達が、思ふ存分に射かけたので、戦の度毎に手負や死人が五百人六百人と出ない事はなかつた。それでもひるまず、新手の軍勢を入れかへ入れかへ、十三日までひた攻めに攻め立てた。けれども城中には、少しも弱つた様子が見えなかつた。
 此時播磨国の吉河八郎といふ者が、大将阿曾の前へきて、
「此城は三方が谷、一方が平地で、どこに水のあらう筈もないのに、火矢を射れば水弾きで消す。これはきつと南の山奥から地の底に樋を通して城中へ水を引き入れてゐるに相違ない。人夫を集めて山の腰を掘らせて見ようではありませんか。」
と申したので、大将は人夫を集めて、城に続いた山の裾を掘らせて見ると、思つた通り地下二丈余りの処に樋を通し、十町余りの外から水を取つてゐた。此水をとめられてからは城中では水が乏しく兵共(つはものども)は口中の渇きに堪へず、草の葉に置く朝露をなめたり、夜気に湿つた地に身を横たへたりして、四五日の間はともかくも凌いだが、待つてゐる雨はなか/\降らなかつた。寄手はこれにつけこんで、絶間もなく火矢を射かけたので、表門の櫓は二つも焼かれてしまつた。
 城中の兵は十二日間も水を飲まなかつたので、自ら力が尽き、今は防ぎ戦ふ手段もなくなつてしまつた。どうせ死ぬる命だ、まだ力のある間に打ち出して敵と刺し違へて討死をしようと、城の門を開いて打ち出さうとした所を、城の大将平野将監入道がとどめて、「はやまつてはいけない。かう疲れた力では、適当な敵と渡り合ふ事もむつかしい。吉野、金剛山の城はまだ勝負が決せず、西国の乱も静まらない今日、我々が降参するとしたらどうなるだらう。我々を殺せば他の者が懲りて、今後は降参する者がなくならう。今、我々が降参しても、決して殺すやうな事はあるまいから、暫くの間敵に降参して、時機の来るのを待たうではないか。」と云つたので、皆其意見に賛成し、其日の討死はやめてしまつた。翌日平野入道は敵将渋谷十郎を通じて降参を申入れ、城中の兵二百八十二人と共に城を出た。長崎九郎左衛門尉は之を請け取つて、甲冑太刀等を奪ひ取り、縛り上げて六波羅へ送つた。六波羅では合戦の始めであるから、血祭にして人のみせしめにしようと、六條河原へ引き出して一人も残らず首を切り落して獄門にかけた。


(一)銀を張つた鞍。
(二)銀で鞘の縁を覆ううた太刀。
(三)経巻を処々省いて読む事。
(四)僧に與へる品物。
(五)経巻の目録を記した書き物。
(六)金具を黄金で作つた太刀。
(七)侍で一軍の大将たる者。侍は七位以上の貴人に祇候するもの。
(八)紺色の唐綾で札を縅した鎧。
(九)銀を張つた母衣。母衣は矢を防ぐ為めに背に負ふもの。
(一〇)茶色で鹿の如き毛色の馬。

巻 第七

吉野の城軍の事
  
 元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊は六万余騎の軍勢で、大塔宮が立籠つてゐられる吉野の城へ押し寄せた。菜摘川のよどみから城の方を見上げると、山の上には白旗、赤旗、錦の御旗が、奥山から吹きおろす風に飜つて雲か花かと見あやまる程であつた。麓には数千の官軍が兜の星をかがやかせ、鎧の袖を並べて居ならび、刺繍をした錦のやうに土地が見えた。山が高い上に、道は細く嶮しく、苔が生へて、すべ/\してゐたので、何十万騎の軍勢で攻めようとも、容易く攻め落されさうには見えなかつた。
 十八日の朝六時頃から南軍は互に矢合せをして、新手の軍勢を入替へ/\攻め戦つた。官軍は土地の様子をよく知つてゐる者達故、此処の行きつまり、彼処の嶮所を走り廻つて、追ひかけ、攻め立て、散り、群がつて、無茶苦茶に射た。寄手も亦た生死を気にかけない坂東武者であるから、親や子が討たれても互ひにかへりみもせず、主人や家来が討たれてもものともせず、死骸を乗越え乗越え攻め近づき、昼夜七日間を休みもせずに戦ひ合つたので、城中の軍勢は三百余人討たれ、寄手も亦八百余人討たれた。まして矢に当つたり石で打たれたりして、生死の分らぬ者は数へきれない程で、血は草木を染め、骸は路を哩めつくした。けれども城中は少しも弱つた様子がなかつたので、寄手の兵士達は大部分飽いて来たやうであつた。
 所が寄手の案内者である吉野の執行(一)、岩菊丸が土地慣れた百五十人の兵を選み、危険をおかして城の後の金峯山によぢ登り、防ぐ兵の居ないのを幸ひに忍び込み、城中の兵が大手の敵と必死になつて戦つてゐる処へ、鬨の声を上げて攻め込んだ為め、城中の兵は前後の敵を防ぎかねて、腹を切つたり、刺し違へたりして、思ひ思ひに討死をした。
 搦手の敵が思ひがけなく勝手の明神の前から押し寄せて、大塔宮がおいでになる蔵王堂へ攻めかゝつて来たので、大塔宮はもはやこれまでと決死の覚悟をせられ、赤地の錦の鎧直垂(二)に、緋縅の鎧(三)のまだ新しいのをしやんとおつけになり、龍頭の兜(四)の緒をしめ、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、すぐれた兵二十余人を前後左右に従へ、群がる敵の中へ走り込み、東西南北に追ひ払ひ、追ひ廻し、黒煙を立てゝ斫り廻られたので、寄手は大軍ではあつたが、纔の軍兵に切りまくられ、木の葉が風に散るやうに、四方の谷へさつと引き退いた。
 敵が退くと宮は蔵王堂の大庭へ大幕を引かせて、最後の御酒宴を張られた。其処へ村上彦四郎義光が鎧にさんざん矢を受けたまま馳せつけて、
「おそれ多い事でございますが、お召になつていられる錦の御鎧直垂と甲胃とを私が頂き、御名を冒し奉つて敵を欺き、御身代りになりたうございます。」
と申上げて、御鎧の上帯(五)をお解き申したので、宮は涙をお流しになり、勝手の明神の前を南へ向つてお逃げになられた。
 義光は二の門の高櫓に上つてお見送り申し上げ、宮の御後姿が遙に遠くなられたのを見定め、今はこれまでと、櫓の窓の板を切り落し、敵前に身を現はして大声に名乗を上げた。「天照大神の御子孫、神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の第二の皇子、一品兵部卿親王尊仁、賊の為めに亡ぼされ、恨を黄泉で返さん為めに今こゝに自害をする。此有様をよく見届け置いて、汝等の武運が直ぐさま尽きて、腹を切らうとする時の手本にせよ。」と云ひも終らず、鎧を脱いで櫓より投げ落し、錦の直垂だけとなり、練貫(六)の二重小袖をぬぎ、白く美しい肌に刀をつき立てて左から右へ腹一文字にかき切つて、腸をつかみ出し、櫓の板に投げつけて、太刀を口に啣(くは)へ、うつぶしとなつて死んでしまつた。
 これを見て敵共が騒いでゐる間に、宮は天河(あまのがは)へ逃げ延びられた。
 村上彦四郎の子の兵衛蔵人義隆は宮の御供をしてゐたが、逃げ行く道に危険が迫つたので、一人踏み留まり、追つて来る敵を切り立て、薙ぎ伏せ、五百騎を相手に半時ほどの間防ぎとめて後、腹かき切つて死んだ。其間に宮は虎口を脱せられて、高野山へ落ち行かれた。
 
千剣破城軍の事
  
 千剣破城の寄手は最初の軍勢八十万騎に、赤坂の軍勢、吉野の軍勢が加つて、総数百万騎以上にもなつたが、此大軍にも恐(お)ぢず、千人にも足らぬ小軍勢で、誰れを頼りにするといふ事もなく、又助けを待つといふのでもなく、城にかゝつて防ぎ戦つた楠正成の心は実に大胆不敵なものであつた。
此城は、東西が深い谷で、人の登るべき術もなく、南北は金剛山続きで、嶮しい峯が聳えてゐる。けれども高さは二町ばかり、廻りは一里もない小城であるから、大した事はあるまいと、寄手は見るから侮つて、初め一二日は向陣(七)も取らず、攻め支度も用意せず、先を争つて城の門の辺まで楯をかついで攻め上つた。城中の兵は少しもあわてず、音も立てずにゐたが、やがて高櫓の上から大石を投げかけて、楯の板を滅茶々々に砕いてしまひ、動揺する処を絶え間もなく射かけたので、敵は四方の坂から転がり落ち、重なり合つて負傷をしたり死んだりする者が、一日中に五六千人も出た。で寄手は其後暫くの間戦をやめて、己れの陣所々々を構へた。
 やがて赤坂城を攻めた阿曽弾正の意見によつて、寄手の大将達は名越越前守を大将として三千余騎の軍勢をつけ、城の東の山の麓を流れてゐる谷川の辺に陣を取らせ、城から水汲みに来る人の通りさうな道々に逆茂木をつくつて待つてゐた。正成は元来勇気と智謀とを持つた人であるから、此城を作つた最初から水利を考へ、城中には多量の水が用意してあつたので、強ひて此谷川の水を汲みにゆく必要もなかつた。水を守つてゐた敵兵達は今来るか今来るかと、毎夜油断もなく待つてゐたが、城中からは一人も来ないので自づと心が弛み、段々用心を怠るやうになつてゐた。正成はこれを見定めて、よりすぐりの弓上手二三百人を、夜に紛れて城から出し、日の昇りきらない中に押し寄せて、水辺に番をして居た者二十余人を斬り倒し、隙間もなく切り込んだので、名越越前守はたまりかねて、本の陣へ引き退いた。楠の軍勢は捨ててあつた旗や大幕を持つて、静に城中へ引き上げたが、其翌日城の表門に三本傘の紋のついた旗と何じ紋のある幕とを拡げ、
「これは皆名越殿から頂いた御旗であるが、御紋附きは他人には無用であるから、御身方の方々は此処へ来てお持ち帰り下さい。」
と云つて一度にどつと笑つたので、それを聞いた天下の武士達は、
「さて/\名越殿は不面目な事をされたものだ。」
と云はぬ者はなかつた。名越一家の人々は之を聞いて大に怒り、越前守は、
「当家の兵は一人も残らず、城門を枕に討死せよ。」
といふ命令を出したので、彼れの手下五千余人は必死となつて戦ひ、討たれても射られてもびくともせず、死骸を乗り越え/\、城の逆茂木を取りのけて、崖の下まで攻め込んだが、崖は高い上に切り立てたやうになつてゐるので、心は焦つても登る事が出来ず、唯だ城を睨んで、怒りをおさへて息づいて居た。此時城中では、崖の上に横たへて置いた大木を、十本ばかり切つて落したから、寄手四五百人はそれに圧しつぶされた。大木を避けようと入り乱れて騒いでゐる処を、あちらこちらの櫓から思ふ存分に射かけたので、五千余人の兵共は残り少なに討ち取られて、其日の戦は終つた。
 長崎四郎左衛門尉は其有様を見て、
「此城を力づくで攻め落さうとすれば、人が討たれるばかりだ、成功はしない。取巻いて兵糧攻めにせよ。」
と命令して、戦を止めさせてしまつた。其為め寄手の軍勢は退屈にたまりかねて、連歌を始めたり、棊や双六を打つたり、茶の湯や歌合をしたりして日を過してゐた。これには城中の兵も困つたが、正成は、
「よし、それなら又寄手をだまして眼をさましてやらう。」
と人間の大きさの藁人形(わらにんぎやう)を二三十作り、それに甲冑をきせ、武器を持たせて、夜中に城の麓に立て置き、其前に畳楯(八)を立てならべ、其後に選り抜いた兵士五百人を交へておいて、夜の明けかけの霧のたてこめてゐる中から、一時にどつと鬨の声を上げた。四方の寄手は鬨の声をきいて、
「それ、城中から打つて出たぞ。」
と先を争つて攻め合つた。城兵は前々から仕組んだ事であるから、矢を少し射かけて戦ふやうに見せかけ、大軍を近づけておいて人形のみを残し、段々に城の中へ引返して行つた。寄手は人形を本当の兵だと思ひ、これを討たうと集つて来た。正成は考へ通りに敵をだまして近寄らせ、大石を四五十、一度にどつと投げ落した。其為め一所に集つてゐた敵三百余人はいきなり打殺され、半死半生の者が五百余人も出た。戦がすんでこれを見ると、誠に強い勇者と見えて一歩も退かなかつた兵士は、皆人ではなくて藁人形であつた。これを討たうと集つて来て、石に打たれ矢に中つて死んだ所で功とはならず、又恐ろしがつて進み得なかつた者も我心の臆病さが知れてなさけない。どちらにしても多くの人の物笑ひとなつた。
 同じ年の三月四日に鎌倉の使者が来て、「戦をやめて無駄に日を送る事はまかりならぬ。」といふ下知を伝へたので、寄手の重立つた大将達は集つて相談をなし、身方の陣所と敵の城との間にある深い堀に橋を渡して城へ攻め込まうと考へた。其為め京都から大エを五百余人も召し出し、五六寸或は八九寸の材木を集め、広さ一丈五尺、長さ二十丈以上もある梯(はしご)を作らせた。梯がいよいよ出来上つたので、大綱を二三千筋つけ、車で其綱を巻いて城の崖の上へ倒し懸けた。軈て心のはやり勇んだ兵士五六千人が橋の上を渡り、先を争つて進んで行つた。かうなつては此城も今に攻め落されるだらうと思はれた。と、其時、楠は前から用意がしてあつたものか、投松明の先に火をつけて橋の上に投げ集め、水弾(みづはじ)きで油を瀧のやうにふりかけたので、火は橋桁に燃えつき、谷風に炎を吹きあほられて、なまなかに渡りかかつた兵士達は、前へ行かうとすると猛火が盛んに燃えてゐて身を焦し、後へ引返さうとすると後の者が前の苦しさも知らずに大勢押しかけるし、側へ飛び下りようとすると、谷が深く、岩が聳え立つてゐて思ひ切れない。どうしようかと身をもがいて押し合つてゐる中に、橋桁は真中から燃え折れて谷底へどつと落ちたので、数千の兵も亦た重なり合つて落ち、一人も残らず死んでしまつた。
 其中に吉野、十津河、宇多、内郡の野武士達が、大塔宮の命令に従つて七千余人も集つて来た。それらが彼方此方の山や谷に隠れてゐて、千剣破城の寄手の往来する路を塞いでしまつた為め、諸国の兵糧はまたたく間に絶えてしまひ、人も馬も共に疲れたので、百騎、二百騎とちりぢりに退いて、帰郷する者が相尋(つ)いで現はれ、始め八十万騎といはれた大軍も、今は纔かに十万余騎になつてしまつた。

新田義貞に綸旨を賜ふ事
  
 上野国の新田小太郎義貞は、八幡太郎義家の十七代目の子孫で、源氏の正統であつたが、平氏が天下の権力をとり、国内は皆其威光に服従してゐた時だつたので、致方なく鎌倉の催促に随つて金剛山の搦手に向つてゐた。けれども本国へ帰つて忠義の旗上げをしたいと考へ、何とかして大塔宮の令旨(九)を頂きたいと、或日執事の船田入道義昌に相談した。船田入道は野武士を語らつて、うまく大塔宮の令旨を手に入れた。義貞がそれを開いてみると、令旨ではなく綸旨(一〇)の文章に書かれてあつたので、一方ならず悦び、其翌日から偽つて病気と云ひ立て、急いで本国に帰つて、旗上げの準備に着手した。

赤松蜂起の事

 赤松二郎入道円心は播磨国苔縄城から攻めて出で、山陽山陰の道を塞いで、山里梨原の間に陣をとつた。所が備前、備中、備後、安芸、周防の軍勢が、六波羅の催促で上京しようと攻め上つて来て三石の宿に集り、山里の軍勢を追ひ払つて通らうとしたのを、赤松筑前守が船坂山で防ぎとめ、重立つた敵二十余人を生捕にしたが、それを殺さず、情をかけてやつた為め、伊東大和二郎は其恩に感じて官軍に身方し、三石山に城を作つて義兵を上げたので、西国の路は益々塞り、中国は一方ならず動乱した。西国から上京する軍勢は伊東に防がせておいて、赤松は高田兵庫助の城を攻め落し、束(つか)の間(ま)も休まず山陽道を目ざして攻め上り、途中の軍勢を合して七千余騎となつたので、兵庫の北にある摩耶山の寺を城に構へて、六波羅との距離を僅か二十里ほどに縮めた。
 
河野謀叛の事

 六波羅では、四国の軍勢を摩耶の城へ向けようと相談してゐる所へ、伊豫国から急使が来て、「土居二郎、得能彌三郎が宮方に附いて旗上げしたので、長門の探題(一一)上野介時直が伊豫へ渡り、星岡で合戦をしたが、長門周防勢は一戦で負け、時直父子は行方不明である。其後四国の兵共は皆土居、得能に従つたので、其軍勢は六千余騎となり、今京都へ攻め上らうとしてゐる。御用心あれ。」と告げ知らした。
 
先帝船上へ臨幸の事
  
 諸国に官軍が起ると、隠岐では後醍醐天皇の御警固が一層厳しくなつた。閏二月の下旬には、佐々木富士名判官義綱が警固の番に当つた。此人は天皇をお助け申して謀叛を起したいと思つてゐたので、或夜こつそりと女官を通じて諸国の官軍の様子を申上げ、我が当番の間にそつとお逃げになつて、千波(ちぶり)の湊から御船に召され、出雲か伯耆の港へ御上陸あつて、頼りになりさうな武士を頼られ、暫くお待ち下さらば、恐れ多い事ではございますが、私がお攻め申すやうな様子に見せかけて御身方に参りませうと申上げた。そこで天皇は、「ではお前が先づ出雲の国へ行つて、身方になる者を集めて迎へに来い。」と仰せられたので、佐々木は出雲へ行つて塩谷判官に相談した所、塩谷は佐々木を押し籠めて置いて、隠岐の国へ帰なかつた。
 天皇はしばらくお待ちになつてゐたが、義綱の帰りが余りに遅いので、運を天に任せて逃げて見ようと考へられ、或夜闇に紛れて、三位殿の御局が御産の為めに御所を出られると触れさせ、天皇は局の御乗物にのられ、六條少将忠顕朝臣だけをお供に、そつと御所を既出せられた。途中で乗物をお捨てになり、折柄三月二十三日の月の出の遅い暗夜に、あやめもわかぬ野道を辿り辿られる事であるから、もう大分来たらうと心では思はれるが、まだ後の山の瀧の音がかすかに聞える程しか距つてゐなかつた。若し追手の来るやうな事があつてはと、恐ろしい思ひをせられながら、一足でも先へ進まうと御心のみは焦られても、慣れさせぬ御歩行の事とて、夢路を辿る御心持で、同じ場所にのみ休んでゐられた。これではいけないと、忠顕朝臣は御手を引いたり、御腰を押したりして、今夜中に何とかして湊の辺まで行きつきたいと、心は焦つても足がいふことをきかず、身も心も疲れはてゝ、唯だ野道の露に濡れるばかりであつた。
 其中、忠顕朝臣は一軒家を見出し、湊へ行く道を尋ねた所、内から出て来た賎しげな男が、天皇の御有様をしげ/\と見上げ奉つて、御いたはしく思つたものか、「私が御案内いたしませう」と、天皇を軽々と負背ひ奉つて、間もなく千波(ちぶり)の湊へ着いた。此男は湊の中をまめ/\しく走り廻つて、伯耆の国へ帰る商人船をさがし出し、天皇を屋形の中へお入れ申して後、御暇乞ひをして帰つて行つた。
 夜が明けると船頭は纜をといて帆を上げ、湊の外へ漕ぎ出した。船頭は天皇の御有様を御見上げ申して、凡人ではないと思つたものか、屋形の前に畏つて、
「かういふ折に船にお乗り下さつた事は、私共の一生涯の誉れでございます、何処の湊へでも、着けと仰せ下さる処に梶を向けまする。」
と云つて、真心をこめた様子であつた。忠顕朝臣はこれを聞いて、隠しては却つてよくなからうと、船頭を側近くへ呼び寄せて、
「何を隠さう、屋形の中においでになるのは、畏れ多くも日本国の主たる天皇陛下であらせられる。お前達も豫て聞いてゐたらうが、去年以来隠岐判官の屋敷に押し籠められてゐられたのを、我が盗み出してお連れ申したのである。出雲伯耆の間で、よいと思ふ湊へ急いで船を着けてもらひたい。」
といはれたので、船頭は嬉しさうな面持で、取梶面梶(一二)を取り合せ、斜に風を受けるやうに帆を傾けて走らせた。
 所が隠岐判官清高の船が十艘ばかり、天皇の御後を追つて漕ぎよせて来た。船頭達は、「これは敵はない、どうぞお隠れ下さいませ。」と、天皇と忠顕朝臣とを船底へお隠し申し、其上へ乾魚(ほしうを)の入(はい)つてゐる俵を積み重ね、水夫や船頭達が其上に竝んで●(「舟」へん+「虜」)を押した。やがて追手が追ひついて、御座船の屋形の中へ乗り移り、彼処此処と捜したが、お見つけ申す事が出来なかつた。
「さては此船でなかつたか。お前達は怪しい船を見なかつたか。」
と尋ねたので、船頭は、
「今夜子の刻(一三)に千波(ちぶり)の湊を出ました船に、京都の公卿衆と思はれる人が二人乗つてゐましたが、其船はもう五六里も先へ行つたでせう。」
と答へると、追手の人達は、「それだ/\、早く走らせ。」、と云つて遠ざかつて行つた。もう安心だと思つて後を見ると、又一里程後から、追手の船が百艘余り御座船を目がけて飛鳥の如くに追ひかけて来る。船頭はこれを見て帆の下に●(「舟」へん+「虜」)(ろ)をつけ、一気に渡らうと懸声勇ましく漕ぎだしたが、生憎風が弱り、御座船は潮に逆つて一向前へ進まない。水夫や船頭がどうしようかとあわて騒いでゐると、天皇が船底からお出ましになり、膚につけてゐられる御守の中から御舎利(一四)を一粒取出され、御畳紙(一五)に載せて波の上へ浮べられた所、風向が俄に変つて御座船を東の方へ吹き送り、追手の船を西の方へ吹きもどした。そして御船は間もなく伯耆の国の名和の湊へ着いた。
 忠顕朝臣は船から下りて、
「この辺の武士では誰れが有名か。」
と問はれた所、道行く人が立ちどまつて、
「名和又太郎長年といふ者が居ります。大した武士ではありませぬが、家は富み、一族は栄え、恐ろしく考へ深い男でございます。」
と語つた。忠顕は尚詳しくきいて、直ぐさま勅使を立て、
「天皇は隠岐判官の屋敷を御逃げになり、今此湊へお着きになつた。長年の武勇は前々からお聞きになつてゐられたので、お頼り遊ばすやうに仰せ出された。御身方になるかならぬか、直ぐさま御返答申し上げよ。」
と云ひ送られた。名和又太郎は丁度一族の者を集めて酒を飲んでゐたが、勅使を受けて何とも決心しかねてゐたのを、弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「此場に臨んで何をぐづ/\なされます、天皇にお身方する外にどんな道がありますか」といつたので、又太郎を始め一座の面々は皆其意見に賛成した。長重は直ぐさま鎧をつけ、一ゆすりゆすつて、天皇を御迎へに走り出た。急の事とて御乗物もなかつたので、長重は着てゐる鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負ひ奉り、飛鳥の如く船上山へお上し申し、附近の軍勢を集めて立籠つた。

船上合戦の事
  
 さる程に隠岐判官と佐々木弾正左衛門尉とは、二千余騎の軍勢を引き連れて、船上山の南北から押寄せた。船上山は要害でこそあれ、急拵への城なので、堀も塀も何もなかつた。所が寄手は立て竝べられた四五百の旗を見て恐れを生じ、容易に進まうとはしなかつた。其中、佐々木弾正左衛門尉は流矢に中つて即死し、八百余騎を引連れて搦手へ向つた佐渡前司は降参をしてしまつた。それを知らない隠岐判官は、一の門に押寄せて攻め立てゝゐたが、俄に暴風雨が起つて一同の恐れをののいてゐる所を、城の軍勢に攻めまくられて全滅してしまつた。唯だ隠岐判官だけは、命からがら逃げ出して行つた。
 天皇が隠岐国から還幸されて、船上山に御在(おまし)になられる事が知れ渡ると、諸国の軍勢は引ききりなしに馳せ集り、遠くは九州四国からも、兵士が先を争つて集つて来た。


(一)一寺の事務を司る役。
(二)大将の鎧の下に着る直垂。
(三)緋に染めた革て縅した鎧。
(四)兜の眞向に龍の頭を作つたもの。
(五〕鎧の上に結ぶ帯。
(六)生糸をたて糸、練糸をよこ糸にして織つた絹布。
(七)敵に向つて構へた陣。
(八)蝶番をして畳むやうに作つた楯。
(九)親王の命令書。
(一〇)天子の詔の趣旨。
(一一)政務訴訟及び外寇の防禦を掌る役。
(一二)取梶は船の舳を左へ向ける時の梶の取り方、面梶は右へ向ける時の梶の取り方。(一三)夜の十二時。
(一四)仏の霊骨。
(一五)畳んで懐中した紙。


巻 第八
  
摩耶合戦の事附酒部瀬河合戦の事
  
 六波羅では先づ摂津国摩耶の城を攻めて赤松を亡ぼさうと、佐々木判官時信、常陸前司時知に、京都にゐる軍勢及び三井寺の法師らを率ゐ、五千余騎でそこに向はしめた。赤松入道はこれを見て、わざと敵を山路の嶮しい処へ誘ひ込み、一戦で攻め破つてしまつた。寄手の大軍は僅に千騎足らずの小勢となつて逃げ帰つたので、六波羅では一方ならずあわて、今度は一万騎の軍勢をさしむけた。赤松入道はかくと聞いて、三千余騎を引き連れて摩耶の城を出で、久々知(くヽち)、酒部(さかべ)に陣を布いて待ちかまへてゐた。
 赤松は幾分油断して、俄雨にぬれた甲冑を乾さうと民家へ入り込んで居る所へ、尼崎から上陸した阿波の小笠原の軍勢が押寄せて来たので、必死となつて戦つたが、たゞ父子六騎となつてしまひ、大軍の中を漸く切りぬけて逃げ出して来た。そこで敗軍の士卒を集め、後から来る軍勢を待つて陣容を整へ、三千余騎で瀬河の宿に陣を取つてゐる敵の中へ攻め込み、これを打破つた。戦ひ勝つて摩耶の城へ引返さうとしたのを、円心の子の帥律師則祐が、
「敗戦に疲れた敵を追撃して、一気に六波羅を攻め落しては如何。」
と云ひ立てたので、一同は之に賛成し、其夜直ちに宿河原を出発し、途中の民家に火をつけて其光を松明(たいまつ)とし、逃げ行く敵を追ひかけ/\都に攻め上つた。

三月十二日合戦の事
  
 六波羅ではそんな事とは夢にも知らず、摩耶へは大軍をさし向けたから、まもなく落城するだらうと、其報告を今か今かと待つてゐた所へ、寄手が負けて逃げ上つて来るといふ知らせ。偽(うそ)か眞(まこと)か、真相が更にわからず、どんな様子であらうと怪しんでゐると、三月十二日の午後四時頃、淀、赤井、山崎、西岡辺り三十余箇所に火の手があがつた。「こりや何事だ」と問ふと、「西国の軍勢が三方から攻め寄せて来た。」といふので、京都中は大騒ぎとなり、六波羅では隅田、高橋に、京都にゐる武士二万余騎をつけてさし向け、桂川を隔てて防ぎ戦はしめた。
 さて赤松入道は三千余騎を率ゐて、桂川の西岸から六波羅軍を見渡すと、案外にも大軍なので、容易(たやす)くは攻め込まず、両軍は川を挟んで矢戦に時を過した。所が帥律師則祐は、矢戦では勝負が決しないと、いきなり馬を川に乗り入れようとしたので、父入道は其危険を説いて、之をとどめたが、則祐は、
「小勢で大軍に向ふ時は、身方の無勢を見すかされない中に、早く敵の不意を撃つて、其陣営を乱さなくてはならぬ。」
と云ひ捨てゝ馬に鞭をあて、漲る早瀬へ波を逆立てゝ乗り入れた。これを見て飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、河原林二郎、木寺相模、宇野能登守国頼の五騎も続いて乗り入れ、やがて向岸に渡りついた。此有様を見て尋常の者ではないと思つたか、六波羅の二万余騎は、しりごみして戦はうとする者がなかつた。其処へ、「先駆の身方を殺すな。」と、信濃守範資、筑前守貞範を先頭に、三千余騎が一度にどつと攻め込んだので、六波羅勢は戦はない前に楯を捨て旗を巻いて退却し、またたくひまに総くづれとなつてしまつた。

持明院殿六渡羅に行幸の事
  
 赤松の軍勢が京都になだれ込み、御所も今は危険だといふので、光厳院は三種の神器を捧持して、二十余人の公卿殿上人らを随へ、二條河原から六波羅へ臨幸遊ばされた。これをお聞きになられて、後伏見院、花園法皇、皇太子、皇后宮、梶井二品親王まで、皆な六波羅へお入りになつた。これにも六波羅では一方ならず驚き、急に六波羅の北の方をあけて、其処を仙院皇居(一)に擬し奉つた。
 さて六波羅の軍勢は七條河原で敵の近づくのを待つてゐたが、敵は小勢なりと見てとつて、隅田、高橋、及び河野九郎左衛門尉、陶山次郎に、それぞれ軍勢をつけて攻め向はしめた。やがて河野、陶山のすばらしい働きによつて、さすがの赤松勢もさんざんに打破られ、散り散りになつて退却したが、暫くして敗軍の兵を集め整へてみた所、又千余騎となつたので、七條辺まで攻め進んできたが、ここでも亦河野、陶山の軍勢に打破られ、僅かの軍勢となつて山崎さして退却した。河野、陶山は勝に乗じて追ひかけたが、「長追ひは無用」と、鳥羽殿の前から引返して、六波羅へ馳せ帰つた。其(その)目覚(めざま)しい働きを賞め称へ、其夜臨時の宣下(二)があつて、河野九郎を対馬守に補して御剣を賜ひ、陶山次郎を備中守に補して馬寮に飼育した御馬を賜はつた。
 
禁裏仙洞御修法の事附山崎合戦の事
  
 此頃天下は乱れに乱れて戦火の絶間なく、光厳院は御皇居さへ定まらず、年中安らかな御時とてはなく、又武士は武器を執つて戦場に馳駆し、静かな日とては一日もなかつた。今はもう法威の力を以て逆臣を鎮圧する以外、静謐を期する道があるまいと、諸社寺に命じて大法秘法を行はしめられ、宮中でも武家でも共にお祈りをしたが、元来、公家の政治が正しくなく、武家の積悪が招いた禍であつたから、いくら祈つても其効果はなかつた。
 赤松は其後山崎八幡に陣をとつて、段々と兵士の馳せ集まるのを待つてゐた。六波羅では其事を知つて、五千余騎の軍勢を五條河原に集め、三月十五日の朝六時頃山崎へさし向けたが、再び赤松の計略にかかつて、またたく間に打破られ、散々な有様で京都へ逃げ帰つた。

山徒京都に寄する事
  
 大塔宮から御身方をせよとの書をうけて、比叡山の僧侶達は一山挙つて武家を討伐すべき決議をなし、三月二十八日に六波羅に攻め寄せる手筈を定めたので、近国の者も馳せ集つて、総勢十万八千余騎の大軍となつた。此大軍に早合点した僧侶達は、六波羅勢を馬鹿にして、甲胃もつけず、兵糧も持たず、ひたぶるに京都をさして山を下つた。
 六波羅ではこれを聞いて僧侶の油断につけこむ謀を立て、七千余騎の軍勢を七手に分け、三條河原の東西に陣を取つて待ちかまへてゐた。そんな事とは知らぬ僧侶達は、先を争つて攻めかかつた所、まんまと六波羅勢の計略に乗つて三方から攻めまくられ、堪りかねて山上へ逃げ帰つてしまつた。
 ここに東塔(三)の南谷(みなみたに)善智房(ぜんちばう)の同宿゛豪鑒(がうかん)、豪仙(がうせん)といふ三塔(四)に名高いあばれ坊主があつたが、身方の退却を歯がゆく思ひ、二人で蹈み留まつて大声に名乗を上げ、四尺余りの大長刀を水車のやうに振廻し、飛びかかり飛びかかつて切りまくり、これを討取らうと近づいた武士達は大部分馬の足を薙ぎ倒され、兜の鉢を破られて討死した。彼等二人は半時程の間敵を引きうけて戦つたが、それに続いて進む者は一人もなく、二人共十余箇所の疵を受けたので、「もうおしまひだ。」と鎧を脱ぎ捨て、肌ぬぎとなつて、腹十文字に掻き切つて果てた。

四月三日合戦の事附妻鹿孫三郎勇力の事

 八幡山崎の赤松勢は先きの京都の合戦で、或は討たれ、或は疵をうけて、其軍勢は一万騎足らずとなつたが、六波羅の軍容、京都の形勢、共に恐るゝに足らないと見たので、七千余騎を二手に分け、四月三日に又京都へ攻め寄せた。六波羅には三万騎以上の軍勢がゐるので、少しも驚かず、それぞれ手分けをして、其日の朝十時頃から三方同時に戦を始め、一日中互に攻めつ攻められつしたが、勝負が決(きま)らぬ中に日が暮れたので、河野、陶山の軍勢は一団となつて攻め込んだ。其為め先づ木幡の寄手が打破られ、尋(つ)いで東寺の前の寄手も攻め立てられて退却した。唯だ赤松入道だけは選りすぐつた三千余騎の兵を引き連れ、三方から攻めかゝる六波羅勢を相手として容易に破られさうにもなかつた。
 こゝに赤松勢の中から頓首(はみや)又次郎入道、其子、孫三郎、田中藤九郎盛兼、同じく弟の彌九郎盛泰といふ物凄い大兵の武士四人が、決死の覚悟を表はして進み出で、数千騎の敵の中へ攻めかかつた。これをみて六波羅勢からぬけ出した島津安芸前司父子三人は、四人の者に近附き、前者は金棒、後者は弓を取り、西国に名高い打物(五)の名人と北国に双ぷ者のない馬上の達人とが追ひつ追はれつ、人も交へず戦つた有様は、実に前代未聞の見物であつた。その中に田中兄弟、頓首(はみや)父子は大勢の敵に射立てられ、各々二三十本の矢をうけて皆討死をしてしまつた。播磨国の妻鹿(めじか)孫三郎長宗は力人にすぐれ、体格も亦素晴らしくすぐれてゐた。十二歳の頃からよく相撲を取つたが、日本中に其片手にもかなふ者がなかつた。此人に従ふ一族十七人の者が又並々ならず勝(すぐ)れてゐた為め、他の手の軍勢は交へず、一族の者のみで六條坊門大宮まで攻め入つたが、三千余騎の六波羅勢に取りまかれて、十七人は討死し、孫三郎一人が残り、唯一騎で退く所を印具(いぐ)駿河守の軍勢五十余騎が追ひかけ、其中から二十歳位の若武者が唯だ一騎駆け寄つて、退き帰る妻鹿孫三郎に組まうと近づき、鎧の袖に取著いたのを、孫三郎は物の数ともせず、長い肘を差し延べて鎧の総角(六)を掴み、宙にぷらさげて馬上を三町ほど走つたので、五十余騎の者は、
「あれ討たすな。」と追ひかけて来た。孫三郎はそれを睨みつけて、
「敵も敵によるぞ、一騎だからといつて我に近よつて怪我をするな。ほしければこれをやらう、うけ取れ。」
と云つて、左の手にさげてゐた鎧武者を右の手に持ちかへて、えいと放り投げた所、後の馬武者六騎の上を飛び越えて深田の泥の中へ見えぬ程深く打ち込んだ。これを見た五十余騎の者達は一度に馬を引返し、大急ぎで逃げ去つた。
 さて赤松入道は今日の戦で、特に力頼みとしきつてゐた一族の兵士が、あちらこちらで八百余騎も討たれた為め、がつかりして八幡山崎へ又引返した。

主上自ら金輪の法を修せしめ給ふ事附千種殿京合戦の事
  
 京都の合戦には何時も官軍が負け、八幡山崎の陣ももはや小勢になつたといふので、後醍醐天皇は天下の安否を気づかはれ御心を痛めさせ給うて、船上山の皇居の中に壇を作り、天皇御身づから金輪の法(七)を行はせられた。其七日目の夜に、三光(八)と天子光とが並んで壇上に現はれ給ふたので、御願は直ぐさま成就するとカ強く思召された。
 そこで大将をさし向け、赤松入道と力を合せて六波羅を攻めようと、六條少将忠顕朝臣を頭中将(九)に任じ、山陽山陰両道の兵の大将として京都へ差し向けられた。其軍勢は追々に加つて、まもなく二十万七千余騎となつた。其上第六の若宮が但馬国から近国の軍勢を駆り集めて馳せ加はられたので、頭中将は一方ならず悦び、錦の御旗を押し立てて此官を上将軍として仰ぎ奉り、四月二日に西山の峯の堂に御陣をしかれた。
 千種頭中将忠顕朝臣は其多勢を頼んでか、又は一人で功を立てようと思つてか、八幡山崎の官軍としめし合せもせず、四月八日にこつそりと京都へ押し寄せた。六波羅では十分に準備をして、七千余騎を大宮面に配し、そこに陣を敷いて寄手の来るのを待ちかまへてゐた。
 官軍は二重三重にかまへ、一陣退けば二陣と、次々に入替つて休む間もなく攻め戦ひ、何時勝負が決するとも見えなかつたが、やがて京都勢の中へ忍び込んでゐた官軍が、敵の陣中へ火をつけたので、敵の第一陣は大宮面から引き揚げた。そこで六波羅では用意に残しておいた佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早河らに五千余騎をつけてさし向けた。此新手に官軍は攻めたてられ、あちらこちらで敗戦して、桂川の辺まで退いて来た。唯だ名和小次郎と児島備後三郎とが向つてゐた一條の寄手だけは退かず、追ひつ追はれつ戦つてゐた。防ぐ者は陶山と河野であり、攻める者は名和と児島である。児島は河野と親戚であり、名和と陶山は友人であつた為め、互に命を惜まず戦ひ合つてゐたが、頭中将は此児島と名和とを呼び返したので、二人は陶山と河野に挨拶して、後日を約して引き分れた。
 千種殿は本陣峯堂(みねのだう)に帰つたが、児島三郎高徳に其戦法の拙さを辱かしめられ、且つ夜討があるかも知れぬとおどかされて、益々をぢけづき、取るものも取りあへず、大あわてで八幡をさして逃げ出して行つた。児島三郎はかくと知つて腹を立て、「ああ、此大将は堀か崖かへ落ちて死ねばよい。」と獨語しつゝ歯がみをしてゐたが、致し方なく、荻野彦六朝忠らの勇士と共に落ちて行つた。
 
谷堂炎上の事

 千種頭中将が西山の陣を逃げられたといふので、翌四月九日、京都中の軍勢は谷堂(たにだう)、峯堂(みねだう)以下、浄住寺(じやうぢうじ)、松尾、万石大路(まんこくおほぢ)、葉室、衣笠に乱入して、仏閣神殿を破壊し、僧舎民家に押し入つて財宝をすべて運び取つて後、民家に火をつけたので、折柄の烈風に吹きあふられ、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、二尊院、等々総て三百余の寺院、五千余戸の民家が一時に灰となつてしまひ、仏像、御本体、経巻等もまたたく間に煙となつてしまつた。


(一)上皇及び法皇の御所。
(二)定期の任官式以外に、臨時に官職に任ずる旨の宣旨を下される事。
(三)比叡山三塔の一。
(四)比叡山の三塔即ち東塔、西塔、横川。
(五)太刀長刀の類。
(六)太い組緒で総を太く長くしたもの。
(七)天台宗の修法の一。
(八)日、月、星。
(九)蔵人頭で近衛中将を兼任するもの。

巻 第九

足利殿御上洛の事

 後醍醐天皇が船上山にゐられて、討手を京都に向けられるといふ事を、六波羅の急使が度々鎌倉へ知らしてきた。北條高時は大いに驚いて再び大軍を発し、半分は京都を警護し、重立つた者は船上山を攻める手筈を決め、名越尾張守を大将として外様の大名二十人を召集した。
 足利治部大輔高氏は、病気がまだ全快してゐないのに、上京の人数の中に加へられ、度々催促を受けた為め心中腹を立て、此上尚上京を催促されたら、一家を挙げて京都へ上り、後醍醐天皇の御身方となつて六波羅を攻め落さうと、人知れず決心してゐた。高時はそんな事とも知らず、一日に二度も上京を催促したので、足利高氏は一族郎党は勿論、女子供までつれて上京しようとしたのを、長崎入道円喜が怪しんで高時に耳打ちをした。そこで高時は、
「東国はまだ平和で安心だから幼い御子達は鎌倉へ置いて行かれた方がよい。又両家の交りは極めて深い上に赤橋相州の御親戚だから、何も怪しむ所はないが、諸人の疑ひを晴らす為め、誓書を一枚書いて置いて頂きたい。」
と云つてやつた。これを聞いて高氏は益々不快に思ひ、其事を弟の兵部大輔に相談した所、弟は大事の前の小事であるから、一時を偽つて誓書も差出し、又御子息と御台とを鎌倉へ残し置いて上京なされた方がよいと勧めたので、高氏は息子の千寿王と御台である赤橋相州の妹とを鎌倉に留め置き、一枚の誓書を書いて高時に送つた。高時はそれで疑を晴らして喜び、高氏に色々の贈物をした。
 さて足利兄弟は吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下の一族三十二人で、三千余騎の軍勢を引き連れ、元弘三年三月二十七日、大手の大将として、鎌倉を出発し、四月十六日に京都へ着いた。
 
山崎攻めの事附久我畷合戦の事

 六波羅では度々の合戦に勝つて、西国の敵恐るるに足らずと頭から侮つてゐたが、頼りにしてゐた結城九郎左衛門尉は敵になつて山崎勢へ加はり、其外にも五騎或は十騎と、或は帰国したり、或は敵についたりする者が出て来たので、官軍は負けても軍勢が増し、六波羅は勝つても兵士が一日々々と減つて行つた。
 足利高氏は京都に着いた翌日、伯耆の船上山へこつそりと使を出し、御身方につくやう申し上げたので、後醍醐天皇は非常に御喜びになり、諸国の官軍を集めて朝敵を亡ぼせといふ輪旨を下された。両六波羅も名越尾張守もそんな事は少しも知らず、四月二十七日には八幡山崎勢と合戦する手筈が決つてゐたので、名越尾張守は大手の大将、足利治部大輔高氏は搦手の大将として攻め寄せた。八幡山崎の官軍はこれを聞いて、よし、其儀ならば要害の地で出合ひ、不意に勝負を決してやらうと、千種頭中将忠顕朝臣、結城九郎左衛門親光、赤松入道円心らは、それぞれ受持の場所に進んで陣を取つてゐた。
 さて搦手の大将足利高氏は、夜明け前に京都を出たと云ひ触らしたので、大手の大将名越尾張守は、「しまつた、先がけをされた」と、久我畷の馬の足も立たぬ泥土の中へ馬を乗り入れ乗り入れ、先を争つて進んで行つた。尾張守は血気の若武者である上、今度の合戦には人を驚かして名を上げようと予期してゐたので、其日は特に立派に装ひ、辺りを光り輝かして進み出た為め、敵もあれこそは大将らしい、あの大将一人を討たうと、此処彼処で揉み合つたが、鎧がよいので裏まで貫く矢もなく、打物の名人であるから、近づく敵は切り殺された。其勢に辟易して、官軍はもはや退くかとさへ思はれた。其時、赤松の一族の佐用左衛門範家といふ強弓の矢続早(やつぎばや)、歩立(かちだち)の射手になつて、畔の陰に隠れ伏してゐたのが、三方の敵を追ひまくつて一休みしてゐる尾張守の近くに覘ひより、ひきしぼつてはなした矢が、覘ひはづれず尾張守の眉間にあたつて、骨を砕いて脳を射ぬいた為め、さしもの猛将も此矢一本で馬から真逆様に倒れ落ちた。大将を討たれた軍勢は、またたく間に攻め破られてしまつた。
 
足利殿大江山を打越え給ふ事

 搦手の大将足利高氏は桂川の西岸で酒宴を開いてゐたが、大手の合戦で寄手が負け、大将名越尾張守が討死したと聞いて、起上つて馬に跨つた。けれども、山崎の方へは行かず、丹波路を西へ、篠村をさして馬を早めた。
 所が此軍勢の中にゐた備前国の中吉十郎と摂津国の奴可四郎の二人は、大江山の麓にさしかかる頃から、高氏の行ひに疑ひを懐き、「此人はどうも野心を起したらしい、我々は附いて行くべきではない。」と大江山から引返して、事の次第を六波羅に報告した。六波羅では一番頼りにしてゐた人に背(そむ)かれたので、誰れも皆心細い思ひをした。
 
足利殿篠村に着御則ち国人馳せ参る事
  
 さて足利高氏は篠村に陣をとつて、近国の兵を集めた所、久下彌三郎時重が二百五十騎を率ゐて馳せ加つたのを最初に、諸所の兵士が残らず集つて来たので、篠村の軍勢はまもなく二万三千余騎となつた。
 六波羅ではこれをきいて、
「今度の合戦はいよ/\天下分け目の合戦だ。若し万一にも身方が負けたら、天皇、上皇を奉じて関東へ下り、鎌倉に都を立てゝ再び大軍を起さう。」
と相談し、去る三月以来北の方を御所につくり、天皇、上皇の行幸を仰ぎ奉つたが、親王、国母、皇后、女院、北政所(一)、三台(二)、九卿(三)、槐棘(四)、三家(五)の臣をはじめ、文武百官、竹園(六)門徒の大衆、北面以下の侍(七)、女房達まで先を争つて六波羅に入つた為め、京都中は俄にさびれてしまつた。
光厳院はかうした天下の大乱は御自身が天子の徳に背かれた故であると、罪を御一身にお引き受けになつて、事の外歎き悲しまれ、一途に謹慎してゐられた。
 官軍は五月七日に京都へ攻め寄せる方略が定まつてゐたので、篠原、八幡、山崎の官軍の各先陣は宵の中から陣をかまへ、篝火を焼いて待つてゐた。
 六波羅勢は籠の中に取りこめられた鳥の如く、四方に敵をうけて驚きあわて、堀を掘り、塀を築き、櫓を立て、準備はをさ/\怠りなかつたが、天下分け目の一戦に進取の策を立て得ず、尻込みして小城に立て籠らうとしたのは、誠に悲しむべき作戦であつた。
 
高氏願書を篠村八幡宮に籠めらるる事
  
 明くれば五月七日の朝四時頃、足利治部大輔高氏は二万五千余騎を引き具して篠村宿を出発した。此宿の南方に何神ともわからぬ社があつたのを、高氏は折柄来合せた巫女に、「これは何神をお祭りした社だ。」と聞くと、「篠村の新八幡と申します」と答へたので、それでは我家の守護神であると、鎧の引合(八)から矢立の硯を取出し、筆を持つて一枚の祈願書を書き、声高らかに読み上げて、戦勝の加護を祈つた、やがて全軍勇みに勇んで、京都を指して馳せ向つた。

六波羅攻めの事
  
 六波羅では六万余騎を三手に分け、一手は神祇官の前で足利勢を、一手は東寺にさし向けて赤松勢を、又一手は伏見で千種勢をそれぞれ防がせ、朝の十時頃から大手搦手同時に戦を始めた。馬の蹴上げる塵煙は南北に靡き、鬨の声は天地をとどろかせた。
 内野へは陶山と河野とが向つたので、敵も身方もたやすくは駈け入らず、互に矢戦に時を過してゐた所、官軍の中から櫨匂(九)の鎧に、薄紫の母衣をかけた武士が、唯だ一騎敵の前へ進み出て大声に、
「我こそは足利殿の身方の設楽五郎左衛門尉と云ふ者である。六波羅殿の身方で腕に自信のある者があるならば、駈け合つてわが腕前を御覚ぜよ。」
と名乗を上げた。と、六波羅勢の中からは五十余りの老武者が馬を静かに歩ませて、大声に名乗を上げた。
「我は斎藤伊予房玄基といふ者である。今日の合戦は敵にも身方にも大事な合戦、命は決して惜くない。生残つた人があつたら、我忠義のはたらきを子孫に語り伝へよ。」
 互ひに馬を走り寄せ、鎧の袖と袖とを引合つて、むずと組み合ひ、どつと馬からころげ落ちた。設楽は力が強かつたから、やがて上になつて斎藤の首を取つた。斎藤もすばやい男だつたので、下から突き上げて三刀刺し、死後まで互ひに組み合つた手を放さなかつた。
 又源氏の陣から敵前に向ひ、半町ほど馬を走らして出た一騎の武士が大声で、
「我は足利殿の御身方で大高二郎重成といふ者である。先日来度々の合戦に功を立てたといふ陶山備中守、河野対馬守は居られぬか。」
と名乗を上げて控へてゐた。折柄陶山は他の手に向ひ、河野対馬守がゐるだけだつたが、大高に言葉をかけられたので、「通治はここだ」と云ひつゝ大高に近づいた。これを見て河野対馬守の養子で今年十六歳の七郎通遠が、父を討たすまいと其前に立ち塞がり、大高と馬を並べて組みついた。大高は河野七郎の総角(一〇)を掴んで宙にぷら下げ、差し出しておいて片手打の下切に切り落した。対馬守は可愛い養子を目の前で殺されて、命はもはや惜しくはない、大高に組まうと馳せ出す所へ、これを見た河野の家来達が主人を討たすまいと、三百余騎でわめき立てゝ攻め込んだ。源氏も亦大高を討たすまいと、一千余騎でわめき立てて攻めかかつたので、源平互ひに入乱れ黒煙を立てて攻め戦つた。源平両軍共此処を大事と入りかはり立ちかはり、追ひつ追はれつ攻め合つたが大軍の源氏の為め平氏は遂に戦ひ負けて、六波羅へ退却した。
 東寺へは赤松入道円心が押し寄せた。楼門近くまで来た時、信濃守範資が「誰かあの木戸、逆茂木をたたき壊せ。」と命令したので、三百余騎の兵共が走り出したが、皆堀を渡りかねて思案にくれてゐた。播磨国の妻鹿孫三郎長宗はこれを見て馬から飛び下り、弓を堀の中へさし入れて水の深さをはかつた所、弦をかけた上の端の方だけが残つたので、「これなら自分の脊は立つ」と、五尺三寸の太刀を抜いて肩にかけ、貫(つらぬき)(一一)を脱ぎすてて、かつぱと飛びこんだが、水は胸板の上へもとどかなかつた。後からきた武部七郎はこれを見て、「堀は浅いぞ」と身の丈五尺にも足らぬ小男が、いきなり飛び込んだので、水は頭の上にまで来た。長宗はこれを振返つて、「俺の総角につかまつてあがれ」と云つたので、武部七郎は妻鹿の鎧の上帯を踏んで肩にのり上り、一飛びとんで向ひの岸に着いた。妻鹿はから/\と笑つて、「貴公は俺を橋として渡つたのだな。いざ其塀をたたき壊さう。」と云ひつつ岸から上へ飛び上り、塀柱の四五寸ばかりあるのに手をかけて、えいや/\と引いたので、一二丈も積み上げた山のやうな揚土が壁と一緒に崩れ落ちて、塀はたちまち平地となつた。これを見て三百余箇所の櫓から、絶間なく射かける敵の矢は雨よりも烈しかつたので、長宗は高櫓の下へ走り込み、両金剛の前に太刀をさかさまについて、歯がみをしながら立ちはだかつた。其有様は、どちらを仁王、どちらを孫三郎と、見分けがつかない程であつた。そこへ大勢の敵が攻めかかつて来たので、「あれ討たすな」と赤松入道円心以下の兵三千余騎が、太刀を抜き並べて攻めこんだ為め、六波羅の軍勢一万余騎は、縦横に攻め破られ七條河原へ追ひ出されてしまつた。かうして竹田の合戦や、木幡、伏見の合戦で負けた軍勢は、散り/\ばら/\に六波羅の城へ逃げ籠つた。
 官軍は遠巻に六波羅を取り巻いたが、六波羅は一致して打つて出る力もなく、唯だあきれて逃げ仕度をするばかりであつた。
 光厳院を始め奉り、上皇、女院、皇后、公卿、殿上人はまだ合戦といふものを見られた事がないので、鬨の声や矢のうなりに恐れをののかせられて、今にも息の絶え入りさうな御様子であられた。それを御見受申すにつけても、両六波羅は勇気を失ひ、たゞぼんやりしてゐるのみであつた。

主上上皇御沈落の事

 糟谷三郎宗秋は六波羅殿に向ひ、
「身方の軍勢は段々に逃げ出して、今は千騎にも足らぬ程となりました。此軍勢では大敵を防ぐ事は出来さうにもありませぬ。此上は唯だ天皇、上皇をお連れ申して関東へお下りになる外はございません。」
と、何度も/\申上げたので、両六波羅も其気になり、其事を天皇上皇にも申上げ、南六波羅方の左近将監時益は行幸の前駆として既に出発したのに、北六波羅方の越後守仲時は妻子との別れを惜んでぐづ/\してゐたので、側の者がせき立てると、泣く/\馬に乗つて立ち出でた。苦集滅道(くずめぢ)(一二)の辺まで来た時、四方から射る野武士の矢に、左近将監時益が頚を射られて馬から真逆様に落ちた。糟谷七郎は馬から飛び下りて、泣く/\主人の首を切り、道の傍の田の中へ深く隠して後、自ら腹をかき切つて主人の死骸の上に重なつて死んだ。御乗物が四宮河原を過ぎさせられる時、「落人が行くぞ。」といふ声がして、雨の降るやうに矢が飛んで来たので、皇太子を始め御供の公卿達は、別れ/\にあちらこちらへ逃げ延びられた。五月の短い夜はまだ明けず、道も暗いので、天皇は杉の木蔭で暫くお休みになつて居られると、何処から飛んで来たともわからぬ流矢が左の御肱に立つた。畏れ多くも天皇が賤しき者の矢に傷つけさせられるとは、誠に浅ましい情ない世の中である。
 ぼつ/\夜が明け始めて、朝霧の中から北の山を見渡すと、野武士らしい者が五六百人、楯を立て、弓をかまへて待ちうけてゐた。行幸の先駆の中にゐた備前国の中吉彌八が、六騎の兵と共にこれを追ひ散らしたので、漸く道が開け、其日は篠原の宿にお着きになられた。此処からは御乗物に召され、武士達が俄に輿舁人夫となつて、御乗物の前後を御守り申した。
 天台座主梶井二品親王はここまで御供をせられたが、ここでお別れになつて鈴鹿山を越え、伊勢の神官を頼つてお出でになつた。

越後守仲時己下自害の事
  
 六波羅が関東へ落ちて行くといふ事が伝はると、近在の山賊、強盗、無頼漢らが、一夜の中に二三千人も集り、後醍醐天皇の第五の皇子が伊吹山の麓に隠れてゐられたのを大将と仰ぎ奉り、錦の御旗を立てゝ、東山道第一の要害である番馬の宿の、東に当る小山の峯に陣をとつて待ちかまへてゐた。
 越後守仲時は後陣に佐々木判官時信を据ゑ、前陣は糟谷三郎に守らせて、御乗物を警固しつゝ番馬峠にさしかかつた所、数千の敵がこれを遮つたから、糟谷三郎は一気に敵を打破つたが、後方には尚大軍がゐるので、どうする事も出来ず、麓の辻堂で後陣の来るのを待合した。所が後陣の佐々木判官時信は、六波羅殿が野武士に取りかこまれて一人残らず討たれてしまつたと聞いて途中から引返し、敵に降参して京都へ上つてしまつたので、越後守仲時はもはや之までと自害をしてしまつた。尋いで糟谷三郎宗秋以下四百三十二人の者も皆腹を切つたので、天皇は其有様を御覧になり、余りの事に恐れ驚かれ、唯あきれられるばかりであつた。

主上上皇五宮の為に囚はれ給ふ事附資名卿出家の事
  
 五の宮の官軍は、其日、天皇上皇を奉じて、先づ長光寺へ入れ奉り、そこで三種神器並に玄象(一三)、下濃(一四)、二間(一五)の御本尊を皆御親ら五の宮へお渡しになられた。
 日野大納言資名卿は特に光厳院の御気に入りであつたから、どのやうな憂き目に會はされるかも知れないと、身を危んで出家を思ひ立ち、其辺の辻堂にゐた行脚の僧に頼んで、髪を剃らうとした。其時、資名卿が僧に、「出家の時には何とかいふ四句の偈を唱へるではないか。」といはれた所、此僧はそれを知らなかつたと見え、口から出任せに「汝是畜生発菩提心(なんぢはこれちくしやうほつぼだいしん)」と唱へた。三河守友俊も此処で出家をしようと髪を洗つてゐたが、これを聞いて、「いくら命が惜くてする出家でも、汝はこれ畜生と唱へられては情ない。」と笑ひ興じた。
 
千剣破城寄手敗北の事
  
 昨夜六波羅が攻め落されて、天皇上皇は皆関東へお逃げになられたことが、翌日の正午頃千剣破城へ知れたので、城中の兵は悦び勇み、寄手は不安な心細い思ひをした。遅くなつてはかなはないと、十日の朝早く千剣破城の寄手十万余騎は奈良の方へ退却した。前には野武士が待ち伏せ、後からは敵が烈しく追ひかけて来たので、寄手はあわてゝ逃げ騒ぎ、討死をする者が数知れずあつた。


(一)摂政、関白の妻が宜旨をうけて称する称呼。
(二)太政大臣、左大臣、右大臣。
(三)支那にある九卿に相当する我国の公卿。
(四)公卿。
(五)閑院、花山院、中院。
(六)親王。
(七)院の守備兵。
(八)鎧の右脇で前後を合せる合せ目。
(九)袖草摺の上方は黄赤の色糸で、下方は漸次に黄、薄黄色の糸で縅した鎧。
(一〇)鎧の後に下つたあげまき結びの紐。
(一一)足に穿く一種の武具で皮製のもの。
(一二)京都東山清水寺の南、清閑寺の側。
(一三)累代の宝物たる琵琶の名器。
(一四)琵琶の名器。
(一五)二間は清涼殿にある南北の二間で、南の間へ御講等の時に障子によつて御本尊をかける。其本尊を正観音とするものと十一面観音とするものとの二説がある。
(一六)「流転三界中。恩愛不能断。棄恩入無為。真実報恩者。」

巻 第十
  
千寿王殿大蔵谷を落ちらるる事
  
 足利治部大輔高氏が敵になつたといふ事は、まだ鎌倉へは知らせがなかつた。所が高氏の二男千寿王は、元弘三年五月二日の夜半に、大蔵谷を逃げ出して行方不明となつた。鎌倉では大騒ぎをしたが、京都の様子がわからないので、長崎勘解由左衛門入道と諏訪木工左衛門入道とを使に出した。二人は途中で六波羅からの急使に会ひ、「名越は討死をし足利は宮方に附いた。」といふ事を聞いて引き返して来た。
 高氏の長男竹若は伊豆の御山にゐたが、伯父の宰相法印良遍と山伏姿に身をやつして上京しようとする処を途中で二人の使者に出会ひ、宰相法印は仕方がなく馬の上で腹を切つて自害をした。そこで長崎は竹若をこつそりと刺し殺して鎌倉へ急いだ。

新田義貞謀叛の事附天狗越後勢を催す事
 
 新田太郎義貞は去る三月十一日、後醍醐天皇の綸旨を頂いて以来、本国で謀叛の準備をしてゐた所、京都へさし向ける軍勢の兵糧を集める為め、北條高時の使が新田の領地へ来て、其処の有福者をせめたてたので、義貞は腹を立てゝ其の使を斬つてしまつた。これを聞いた高時はひどく怒つて、武蔵上野両国の軍勢に、
「新田太郎義貞及び弟の脇屋次郎義助を討ち亡ぼせ。」と命令した。
 義貞は一族の者と相談をして五月八日の朝六時頃、生品明神の前で旗上げをして、綸旨を披いて三度拝んだ後、笠懸野へ打つて出た。其時の軍勢は僅か百五十騎に過ぎなかつたが、其日の夕方に二千騎程の越後勢が馳せ加はつたので、義貞は悦び勇んで、
「此事は前々から計画してゐたものゝ、こんなに早く運ばうとは思つてゐなかつた。然るに突然決心すべき事件が起り、貴方へお知らせする間さへなかつたのに、どうしてそれを感づかれたか。」
と越後勢に問はれると、大井田遠江守は、
「いゝや、去る五日、御使だと云つて、一人の天狗山伏が、越後一国内を一日中に触れ廻つたので、急いで駆けつけた次第です。遠境の者はきつと明日参りませう。今しばらくお待ち下さい。」
と云つて、人馬に息をつがせた。ちやうどそこへ、越後、甲斐、信濃の源氏勢五千余騎が馳せ集つて来た。九日は武蔵国へ乗出した所、紀五左衛門が足利高氏の子千寿王を連れて二百騎ばかりで加り、次いで上野、下野、常陸、上総の軍勢が追々に集つて、其日の夕方には総勢が二十万七千余騎と註せられた。
 鎌倉では金澤武蔵守に五万余騎をそへて下河辺へ、又櫻田治部大輔貞国を大将として、長崎二郎高重らに六万余騎を授けて入間河へさし向けた。
 十一日に義貞の軍勢は難なく入間河を渡り、鬨の声を上げて、櫻田、長崎勢の中へ攻め込み、三十余度まで戦を合せたが、其日は三里ほど退いて入間河に陣を取つた。鎌倉勢も亦三里退いて久米河に陣を取り、共に夜の明けるのを待つてゐた。翌日は両軍互に攻め寄り、一歩も退かず戦つたが、源氏は討たれる者少く、平氏は討たれる者多く、桜田、長崎の軍勢は分倍(ぶばい)へ退却した。源氏勢も亦一休みする為め、久米河に陣をとつて東の空の白むのを待つてゐた。所が櫻田、長崎らが負けて退いたといふので、北條高時は弟の四郎左近大夫入道慧性を大将として、再び十万余騎の軍勢を繰り出し、十五日の夜半に分倍へ着いた。義貞は敵に新手の大軍が加はつたとは知らず、十五日の夜明け前に分倍へ押し寄せて烈しく戦つたが、新手の大軍に攻め立てられ、戦ひ敗れて遂に掘金へ引き退いた。
 
三浦大多和合戦意見の事
  
 こんな有様で、義貞もどうしようかと思案に暮れてゐる所へ、三浦大多和平六左衛門義勝が相模の国の軍勢六千余騎を引き連れて、十五日の夕方に義貞の陣に馳せ加つたので、義貞は悦んで合戦の意見を問うた所、平六左衛門は、
「昨日こつそりと人をやつて敵陣の様子をさぐらせました所、其大将達は皆心おごつて油断をして居るさうです。明日の合戦に、拙者は新手ですから、一方の先陣を引きうけ、敵を一攻め攻め立てませう。必ず勝つて見せます。」
と答へたので、義貞は其意見に従つた。
 明けて五月十六日の朝四時頃、三浦は真先に分倍河原へ押し寄せて、敵に十分油断をさせて置き、義貞以下の総軍勢が三方から鬨の声を上げて一時に攻め立てたので、敵は散り散りになつて鎌倉へ逃げ退いた。
 鎌倉では今、大敵と戦つて悩んでゐる眞最中なのに、六波羅が落ちたといふ知らせがあつたので、皆あきれはてゝぼんやりしてしまつた。
 
鎌倉合戦の事
 
 義貞は度々の合戦に勝つた為め、追々と軍勢がふえ六十万七千余騎となつた。そこでこれを三手に分け、一方では大館二郎宗氏、江田三郎行義を大将として、十万余騎で極楽寺の切通へ出向かしめ、他方では堀口三郎貞満、大島讃岐守守之を大将に、十万余騎をつけて巨福呂坂へさし遺はし、残る一方では義貞、義助が五十万七千余騎を引き連れて仮粧坂へ向ひ、五十余箇所に火をつけて三方から攻めかゝつたので、人々は驚きあわてゝ逃げ迷つた。
 鎌倉方でも相模左馬助高成、城式部大輔景氏、丹波左近大夫将監時守を大将として、兵を三手に分け、金澤越後左近大夫将監、大仏陸奥守貞直、赤橋前相模守盛時が各手の大将となつてそれぞれの場所を固め、朝の十時頃から合戦を始めて、昼夜休まず攻め戦つた。寄手は大軍で新手を入替へ/\攻め立てたが、鎌倉方は防ぎ場がなく、悪戦苦闘して僅かに崩壊を支へてゐた。三方で上げる鬨の声、敵身方の放つ矢のうなり、天に響き地を動かす中を、縦横に攻め防ぎ、前後に当り、左右を守り、或は組合つて勝負をするもの、或は刺違へて共に死ぬる者等々、万人死つくして一人残り、百陣破れ去つて一陣となつても、尚何時終るともわからぬ激戦であつた。

赤橋相模守自害の事附本間自害の事

 赤橋相模守は洲崎へ向ひ一日一夜の間に六十五度も切り合つたので、家来は大半討死して、今は三百余騎を残すのみになつてしまつた。其処で赤橋は侍大将の南條左衛門高直に向つて、
「拙者は足利高氏と縁戚だから、若し退けば高時殿を始め北條一門の人々は、さてはと疑ひをかけるであらう。守る陣を退き、疑ひの中に生き永らへて何にならう。」
と云つて、腹十文字にかき切つた。これを見た南條をはじめ同志の侍九十余人は皆重なり合つて腹を切つた。
 本間山城左衛門は大仏奥州貞直の家来で、久しい間咎を蒙つて引き籠つてゐたが、極楽寺の切通が破れて敵が攻め入つて来ると聞き、百余人の家来を引き連れて極柴寺坂に向ひ、寄手の大将大館二郎宗氏の陣にわけ入つて、其大軍を追ひ散らし、宗氏に組まうとひた進みに進んだ。所が宗氏は本間の家来と引組んで刺違へたので、本間は馬から飛び下り、其首を取つて貞直の陣に馳せつけ、主人に対面してから腹掻き切つて死んだ。

稲村崎干潟となる事
  
 極楽寺の切通で大館二郎宗氏が本間に討たれ、其軍勢は片瀬腰越まで退いたといふので、新田義貞は勇兵二万騎余りを引き連れて、二十一日の夜半頃、片瀬腰越を廻つて極楽寺坂へ出て来た。残月の光りに敵の陣を見渡すと、北は切通まで山が高く聳えて、嶮しい路へ門を作り、楯を立て竝べて、五六万の兵が陣を竝べてゐる。南は稲村崎で砂濱の路の狭い上に、波打際まで逆茂木を立て、海上は四五町沖まで大船を竝べて櫓を作り、横から射かけようと構へてゐろ。義貞は成程此処の寄手が負けたのは無理でないと、馬から下りて兜を脱ぎ、海の上を遙かに伏し拝んで、海の神に、
「日本開闢の主、伊勢の天照太神はもと大日如来で、龍神(一)に身をかへてお現れになつたと伝へ聞いてゐる。其御子孫たる我君後醍醐天皇は、久しく不忠の臣の為めに西国の浪に漂はされてゐらせられる。義貞は今臣道をつくす為めに、武器を取つて敵地へ押し寄せましたが、志す所は唯だ天皇の御徳化をお助け申し、人民に安泰の生活を送らしめようとする事のみである。願はくば内海外海(二)の八部(三)の龍神、我忠義を御覧あつて、海潮を遠くへ退け、我軍の為に道を開かせ給へ。」と誠意をこめてお祈りをした後、腰に佩いてゐた黄金作りの太刀を抜いて海中へ投げ込んだ。龍神は其願を聴き入れたものか、其夜月の入る頃、これまで嘗て干た事のない稲村崎が俄に二十余町も干上つて、砂原が広々と開け、横矢を射かけようと待ち構へてゐた五六千の兵船は、潮と共に退いて沖の方遠くに浮き漂された。全く不思議だ、こんな不思議な事はあるものでない。
 義貞はこれを見て喜び勇み、六万余騎の軍勢を引きつれて鎌倉の中へ攻め入つた。
 
鎌倉兵火の事附長崎父子武勇の事
  
 さて新田勢は二十箇所へ火をつけて、猛火の間から突撃乱入し、驚きあわてる敵を追ひつめ追ひつめ斫り伏せた。北條高時は屋敷の近くに火の手が揚つた為め、千余騎を引き連れて葛西谷に退いたので、諸大将の兵共で東勝寺の中は一ぱいになつた。
 長崎三郎左衛門入道思元と其息子勘解由左衛門為基とは、始め極楽寺の切通へ向つたが、やがて父子二人の手元の軍勢六百余騎を選りぬいて小町口ヘさし向け、其処の敵を追ひ散らした。これが為め父子は別れ/\になつたが、勘解由左衛門為基は僅に二十余騎を従へて、敵の大軍の中に攻め入り、あちらこちらへ追ひ散らかし蹴散らかして、今日を最後と花々しい戦を戦つた。敵身方共に其働き振りに驚いたが、其後は全く生死不明である。
 
大仏貞直竝金沢貞将討死の事
  
 大仏陸奥守貞直は由井浜の合戦で三百余騎に討ちなされ、剰へ前後を敵に囲まれたので、重立つた家来三十余人は世もはや末だと思つたか、一同竝んで腹を切つてしまつた。貞直はこれを見て最後の一戦をしようと、二百余騎を従へて、敵軍中に突入し、思ふ存分戦ひ抜いて引上げてみると、人数は僅か六十余騎しかなかつたので、もうかうなつては、木葉武者の敵と戦つても無益だと、脇屋義助の軍勢の真中へかけ入つて、一人も残らず討死をしてしまつた。
 金沢武蔵守貞将も山内の合戦で七箇所の疵をうけ、高時の居る東勝寺へ帰つて来た。高時は一方ならず感謝をして、両探題職に任ずる下し文を渡し相模守とした。貞将は其下し文を受け取つて鎧の合せ目に入れ、再び大軍の中へかけ入つて、遂に討死をしてしまつた。

信忍自害の事

 普恩寺前相模入道信忍(しんにん)は、仮粧坂の合戦で其部下が大半討たれ、僅か二十余騎となつたので、一同刃を並べて自害をしたが、其時息子の越後守仲時が六波羅を逃げ出し、江州番馬で腹を切つた事を想ひ出し、其最期の有様を胸に描いて悲しさ遣る方なく、一首の歌を詠んで御堂の柱へ血で書きつけたといはれる。

塩田父子自害の事
  
 塩田陸奥入道道祐(だういう)は息子の民部大輔俊時が、親に自害を勧める為め、目の前で腹を切つたのを見て、一つには子の菩提を祈り、一つには死後の我冥福をも祈らうと、其死骸に向つて、常に誦(すん)じてゐた持経の紐を解き、経文の要所々々を誦み上げてゐた。やがて法華経の五の巻を終らうとした時、外で防いでゐた家来連は皆討たれ、敵が近づいて来たといふので、左の手にお経を握り、右の手で刀を抜き、腹を十文字に掻き切つて失せた。

塩飽人道自害の事
  
 塩飽(しはく)新左近入道(しんさこんのにふだう)聖遠(しやうえん)は長男の三郎左衛門忠頼を呼んで、暫く何処かへ身を隠し、僧侶にでもなつて我が亡き後を弔ひ、一生を安楽に暮せよと諭したが、忠頼はそれを聞き入れずに自害をしてしまつた。其弟の塩飽四郎が又続いて腹を切らうとしたのを入道はおし留め、自ら手を組合せ頸をさし出して四郎に討たせた。四郎は父の頸を打ち落すと、其太刀で自分の腹を突き貫いて死んでしまつた。

安東入道自害の事
  
 安東左衛門入道聖秀(しやうしう)は新田義貞の御台(きたのかた)の伯父であつたが、生き残つた家来百余騎と共に、高時の屋敷の焼跡で腹を切らうとしてゐた所へ、義貞の御台(きたのかた)から手紙が来て、逃げてくるやう勧めて来た。
 聖秀は手紙を見て憤り、それで刀を握つて切腹した。

亀寿殿信濃へ落さしむる事附左近大夫偽つて奥州へ落つる事
  
 北條高時の弟四郎左近大夫入道の家来諏訪三郎盛高は、左近大夫の命(めい)をうけて高時の次男亀寿を隠し逃がさうと、扇谷にゐる高時の愛人二位の局の所へ来て、「高時殿が最後に一目見たいとの仰せだからお迎へに参りました。五大院右衛門宗繁がお隠まひ申した兄の万寿殿も、敵に追ひつめられて既に御最後を遂げられました。もうこれがこの世のお別れです。」と言巧みに偽つて、泣き悲む二位の局を後に、ひきさらふやうに亀寿を連れ出し、信濃国へお供申して匿つた。
 また四郎左近大夫入道は、家来に屋敷で自害をして、火をつけさせ、自分もそこで自害をしたやうに見せかけて、二人の忠義な家来を連れ、こつそり奥州の方へ逃げて行つて隠れた。
 
長崎次郎高重最後の合戦の事
  
 長崎次郎高重は八十余箇所の合戦に百五十騎に討ちなされたが、四方八方の敵を打ち破り切り伏せて、やつと北條高時の居る葛西谷に帰り、涙を流して、
「生きての御対面は今日が最後でございます。今一度敵の中へかけ入つて、思ふ存分の合戦をして、又引返して参つて、冥途の御伴をいたしまする。」
と云ひ残して、東勝寺を出で、百五十騎の兵を前後に従へ、笠符(かさじるし)を捨てゝ静に馬を歩ませ、義貞と組合つて勝負を決しようと、敵の陣中へ紛れこんだ。折角義貞と半町ばかりの処まで近づいたが、由良新左衛門に見出されたので、致方なく群がる敵を蹴散らし切り立て、主従八騎となつても尚ほあきらめず、義貞兄弟を目がけて駆け廻り、近づく敵を手当り次第に打ち払つたが、大軍に遮られてどうにも近づく事が出来ず、葛西谷へ空しく引き返して来た。

高時竝一門以下東勝寺に於て自害の事

さて高重は走り廻つて、「さあ方々御自害あれ。高重が真先に手本を見せ参らさう。」と云ひ終るや、杯に三度酒を傾け、摂津刑部大夫道準の前に杯を置いて、左の小脇に刀を突き立て、右のわき腹まで切目長く掻き切り、腸をさぐり出して、道準の前にうつ伏しとなつた。道準も次いで腹を切つた。続く諏訪入道直性は落着いて杯をとり、三度傾けて高時の前に置き、十文字に腹を掻き切つて、やがて刀を抜きとり、それを高時の前に置いた。長崎入道円喜は此時まで高時の行ひを気づかふ様子で、まだ腹も切らなかつた所、今年十五歳になる孫の長崎新右衛門が祖父の前に畏つて、
「先祖の名を高める事が子孫の者の孝行である故、神仏三宝(四)もきつと許して下さるでせう。」
と、祖父円喜の肱の関節を二刀つき刺し、其刀で自分の腹を切つて、祖父を引き倒して其上に俯伏しとなつた。此若者の勇ましい振舞に刺戟せられて、高時もやう/\腹を切つた為め、城入道も続いて腹を切つた。之を見て一座の人々も、或は腹を切り、或は自分で自分の頸を切り落すなど、皆思ひ/\の最期を遂げた。
 此処で一所に死んだ者は八百七十余人といひ伝へるが、此外かくと伝へ聞いて自害をした者が鎌倉中では六千余人もあつた。武士道とは何と男らしいものだ、美だ、善だ、眞だ、人間の最高道徳だ。あゝ、しかし、此日、元弘三年五月二十二日、北條氏九代の繁昌はかうして、一時に滅亡してしまつた。


(一)海の神。
(二)須彌山の周囲に八海がある、内七海、外一海。
(三)天、龍、夜羅、乾闥婆、修羅、迦楼羅、緊那羅、摩●(「目」へん+「隹」)羅の八つ。
(四)仏、法、僧。

巻 第十一

五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事
  
 五大院右衛門尉宗繁は北條高時に重恩を受けたのみならず、高時の長男相模太郎邦時は自分の妹の腹に出来た子であつたから、縁戚でもあり、且つ主人でもあつた。いづれにしても五大院に二心はあるまいと、深く信頼したものか、高時は、
「此邦時をお前に預けるから、何とかして隠まつて置いて、時機が来たなら引き立てゝ、俺の恨みを晴らしてくれ。」
と云つた処、宗繁は「承知しました。」と引き受けて、鎌倉の合戦最中に降参をして出た。二三日の後北條氏は亡びてしまつたので、五大院右衛門は相模太郎を助ける為めに折角助つた自分の命を失はうよりも、此人のありかを敵に告げて二心なきを示し、領地の一所も貰ひ受けて安楽に暮したいものだと、或夜相模太郎に向つて、
「どうして知つたものか、船田入道が明日此処へ押し寄せる準備をしてゐるさうでございます。急いで伊豆の御山の方へお逃げ下さい。私もお供を致したいが、一家の者が皆逃げ出したのでは、船田入道もそれと気づいて、何処までも尋ね探しませうから、わざとお供は致しません。」と真実らしく云ひ立てたので、相模太郎も成程と思ひ、五月二十七日の夜半にこつそり鎌倉を逃げ出し、泣く泣く伊豆の御山をさして、足の続くかぎり逃げ延びた。
 五大院右衛門は相模太郎をだまして出発させた後、急いで船田入道の所へ行き、「相模太郎殿のありかを聞き出しましたから、それを詳しくお知らせします。其恩賞として一生暮らして行けるだけの領地を下さるやう御推薦にあづかりたい。」
と云つた。船田は五大院と共に相模太郎の逃げて行く道を塞いで待ち伏せてゐた。五月二十八日の夜明け頃、相模太郎は相模河を渡らうと、岸上に立つて渡守の来るのを待つてゐたのを見出し、直ちに生捕つて、鎌倉へ連れ来り、其翌日こつそりと首を切つてしまつた。
 此五大院右衛門の行ひを極悪無道だとして、義貞は其首を斬らうとしたところ、それを知つた宗繁は風を食つて逃げ出し、後には乞食のやうな風態でさまよひ、遂に飢死をしたといひ伝へられる。

諸将早馬を船上に進らせらるる事
  
 京都からは五月十二日に千種頭中将忠顕朝臣、足利治部大輔高氏、赤松入道円心らが次々に急使を出して、六波羅がもはや落ちた事を船上山の後醍醐天皇にお知らせ申した。そこで公卿達は御還幸あらせらるべきか否かと評定したが、御還幸はまだ危険だと云ふ意見に一致したので、後醍醐天皇は其吉凶を占はせられた所、御還幸あらせられてもいゝと云ふ占ひであつたから、二十三日に伯耆の船上山を御出発あらせられた。
 御道筋の旅装束は常とは異り、頭大夫行房、勘解由次官光守の二人が衣冠でお供をせられただけで、他の月卿雲客、衛府(一)、諸司の助は皆軍服で前後に従つた。全軍の兵士は皆甲冑をつけ弓矢を持つて、前後三十余里の間続いた。塩谷判官高貞は千余騎を引きつれて、一日先に立つて前陣をつとめ、朝山太郎は一日おくれて、五百余騎で後陣を承つた。金持大和守は錦の御旗を捧持して御左に従ひ、伯耆守長年は帯剣の役を承つて御右に副ひ奉つた。

書写山行幸の事附新田注進の事
  
 五月二十七日には播磨国の書写山に行幸あり、老僧一人を召されて説明をお聞きになりつゝ、諸堂を御巡礼遊ばされた。
 又二十八日には法華山へ行幸あつて、、諸堂へ御参詣遊ばされた。其後は御乗物を早められて、晦日には兵庫の福厳寺といふ寺にお着きになり、そこで暫く御休憩になつてゐられる所へ、赤松入道父子四人が五百余騎を引き連れてお迎へに参つた。天皇は御顔も晴れやかに、
「天下の回復は全くお前達の善戦によるものだ。褒美は望み通りにとらするぞ。」と御感深く仰せ出され、取敢へず禁門の警固に任ぜられた。此寺には一日御逗留あらせて、お供の行列や還幸の儀式の準備をしてゐたが、其日の正午頃、兵を徴する檄文を首にかけた三騎の急使が門前まで乗りつけて、天皇の御前に其檄文を捧げた。公卿達が驚いて披いてみると、新田小太郎義貞の所から、北條高時を始め其一族家来達を誅戮して、関東はもはや静謐になつた事を告げ知らして来たものであつた。

正成兵庫へ参る事附還幸の事
  
 兵庫に一日御逗留の後、六月二日御乗物を進めてゐられる所へ、楠多門兵衛正成が七千余騎でお迎へに参つた。其軍勢は特に勇ましく見えた。天皇は御簾を高く捲かせて、御側近く正成を召され、
「王道の直ちに回復した功は、唯々お前の忠戦によるものである。」
といと御感深く仰せ出されたので、正成は脆づいて、
「これ全く我君の御盛徳によることで、微臣らの尺寸の謀では、とても強敵の囲みを出る事が出来ません。」
と言慎ましやかに、功を辞して謙遜した。兵庫御出発以来、正成は前陣を承つて、畿内の軍勢七千除騎を引きつれて先駆をなし、六月五日の夕方に東寺まで臨幸になられた。
 明くれば六月六日、東寺から二條の宮殿へ還幸遊ばされたが、其日先づ臨時の宣下があつて、足利治部大輔高氏を治部卿に、弟の兵部大輔直義を左馬頭に任じた。千種頭中将忠顕朝臣は帯剣の役で、御乗物の前に供奉してゐたが、まだ/\大事な時であるからと、剣を持つた兵五百人を二列に行進させた。高氏、直義の二人は御乗物の後に従つたが、衛府の官であるといふので、騎馬の兵五千余騎が甲冑をつけて後に続いた。其次には宇都宮が五百余騎、佐々木判官が七百余騎、土居得能が二千余騎で従ひ、此外正成、長年、円心、結城、長沼、塩谷以下の諸国の大名が、或は五百騎、或は三百騎で、各々の旗の下に一軍勢々々々づゝ分れ、御車を中にして従ひ、粛々として小路を進んで行つた。見物の貴賤が衢に満ちて、広大な帝徳を称へ奉つた。
 
筑紫合戦の事
  
 京都、鎌倉は高氏、義貞の武功で静まつた。北上は筑紫へ討手を下されて、九州の探題英時を攻めようと、二條大納言師基卿を大宰府の長官に任じ、正に西下せしめられようとした六月七日に、菊地、少弐、大伴の許から急使が同時に京都へ着いて、九州の朝敵はすべて退散した事を申し上げた。其合戦の様子を後で詳しく聞くと、天皇がまだ船上山においでになられた時、少弐入道妙慧、大伴入道具簡、菊池入道寂阿の三人が心を合せ、御身方となる事を天皇に申し上げ、綸旨と錦の御旗を賜はつた。所が少弐と大伴とは天下の形勢を窺つて菊池との約束に背いた為め、菊池入道は大いに怒つて、唯一人百五十騎の軍勢を引きつれて、元弘三年三月十三日に探題英時の屋敷に攻めよせ、将にこれを討ち亡ぼさうとした所へ、少弐、大伴が六千余騎を率ゐて探題の身方をしたので、菊池は長男の肥後守武重を後々の為めに逃がしやり、自分は立所に討死をしてしまつた。
 所が五月七日に両六波羅が攻め落され、千剣破城の寄手も奈良まで退いたといふ事を聞いて、少弐入道は大いに驚き、自分で探題を討ち亡して身の罪を遁れようと考へ、大伴入道を誘つて、五月二十五日に七千余騎の軍兵を探題英時の屋敷へ差向け、瞬く間に討ち亡してしまつた。

長門の探題降参の事
  
 長門の探題遠江守時直は、京都の合戦で身方が苦戦してゐる事を聞き、六波羅を助けようと百余艘の船を仕立てゝ海上を北上したが、阿波の鳴門で京都も鎌倉も討ち亡ぼされた事を知り、九州の探題と一所にならうと、船首を回して筑紫に向ひ、赤間関まで来て見ると、筑紫の探題英時も昨日既に亡ぼされてしまつたといふので、家来達も段々逃げ失せて、僅か五十余人の手勢となり、海上を彼方此方とうろついて、どこに上陸するといふ目当もなかつたが、せめて妻子の行方なりと聞いて、心おきなく討たれたいものだと、家来を一人上陸さして、少弐、島津の陣へ降参を申し入れた。やがて笠置の合戦の時、筑前の国へお流されになつてゐた後醍醐天皇の御母方の御親戚であられる峯の僧正俊雅の前に召し出され、此僧正の情ある計らひで、天皇の御許しを得た上、命をつなぐ頼りの領地まで賜はつたが、まもなく病気に罹つて亡くなつてしまつた。

越前の牛原地頭自害の事
  
 淡河右京亮時治は京都の合戦の最中に北国を鎮撫しようと、越前の国へ下つて大野郡牛原といふ所にゐたが、其内六波羅が没落したといふので、其軍勢はまたたくまに逃げてしまひ、妻子親戚の外は従ふ者もなくなつた。其処へ平泉寺の僧侶達が七千余騎で、五月十二日に攻め寄せて来たので、二十人ほどゐた家来に敵を防がせ、近所に僧のゐたのを招いて、女房子供まで皆髪を剃り落させ、後生菩提の営みをした後、五つと六つとになる二人の子供を鎧唐櫃に容れ、二人の乳母に前後を舁かせ、鎌倉河へ沈めよと云ひつけて送り出した。母の女房も亦同じ淵へ身を投げようと、唐櫃につきそつて歩いて行つた。やがて唐櫃を河岸の上に据ゑ、蓋を開けて二人の子供を乳母が一人づゝ抱いて淵の底へ飛び込んだので、母親も続いて身を投げ、同じ淵へ沈んでしまつた。
 其後時治も自害をした。

越中の守護自害の事附怨霊の事
  
 越中の守護名越遠江守時有、弟の修理亮有公、甥の兵庫助貞持の三人は、出羽越後の官軍が北陸道を通つて京都へ攻め上るといふ事をきいて、途中でこれを防がうと、越中の二塚に陣を取つて、近国の軍勢を召集してゐた。すると、六波羅が既に攻め落された事が知れたので、馳せ集つた能登越中の兵士は放生津まで退き、反対に守護の陣へ押寄せようと企てた。此有様を見て、今までついてゐた家来達もまたたく間に逃げ去つてしまひ、僅に七十九人となつた。五月十七日の正午頃敵は一万余騎で攻め寄せてくるといふので、敵の近づかぬ中に女や子供を船にのせて沖へ沈め、自身は城の中で自害をしようと、しばらくの間婦人達と悲しい別れを惜しんでゐた。いよいよ敵も近附いたので、女房子供達は泣く泣く船に乗つて沖の方へ漕ぎ出した。城に残つた七十九人の者共は女房子供が順々に沈んで行くのを見とどけた後、同時に腹を掻き切つて死んでしまつた。
 其亡魂が今尚此処に留まつて、夫婦執着の妄念(まうねん)を遺したものか、近頃越後から上る船頭が此海岸を通つた時、男女が三人づつ海上に現れ、互に近づかうとした刹那、俄に起つた猛火に邪魔されて近づき得ず、女はやがて浪の底に沈み、男は二塚の方へ行き、かき消すやうに失せたのを見たといふ事である。げに、妄念は罪深いものだ。

金剛山の寄手等誅せらるる事附佐介貞俊が事
  
 金剛山から引返した平氏は尚奈良にとどまつて帝都を攻める企てがあるとの噂に、中院中将定平を大将として五万余騎を大和路へ差向け、楠兵衛正成に二万余騎をそへて河内国から搦手へ向はした。所が其残兵五万余騎は、或は官軍に身方し、或は降参をして、追々頭数が減つて来たので、名うての大名らは最後の一戦も試みず、見苦しくも般若寺で出家をして、僧侶の姿になつて降参を申し出た。其面々は阿曽弾正少弼時治、大仏右馬助貞直、江馬遠江守、作蘊介安芸守を始め、長崎四郎左衛門尉、二階堂出羽入道道蘊以下、五十余人の腰抜武士であつた。
 けれども七月九日、阿曽弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守、及び長崎四郎左衛門尉ら十五人は阿彌陀峯で殺されてしまひ、二階堂出羽入道道蘊だけは其才智を惜まれて死罪を許されたが、又陰謀を企てゝゐるといふので、同年の秋の末遂に死刑に処せられた。
 佐介右京亮貞俊は北條高時に恨みを持ち、憤を懐きつゝ金剛山の寄手の中にゐたが、千種頭中将が綸旨を與へ、身方になれと勧めたので、去る五月の始めに千剣破城から降参をして京都へ来てゐた。其内平氏一門の者が滅亡すると、京都には身の置き所もなく、阿波国へ流されて、一人の従者さへなきわびしい生活をしてゐたが、関東方の者は縦へ降参しても、胸中に野心を懐いてゐるから斬り殺してしまふ方がよいといふ事になり、貞俊も亦た召捕られた。貞俊は故郷に残して置いた妻子に会はず死ぬるのを残念に思ひ、最後の念仏を勧めた僧に、常に身を離さず持つてゐた腰の刀と一首の歌とを、妻子の所へとどけてくれと頼んでから討たれた。
 僧は其形見の太刀と歌とを彼れの妻に渡したが、妻はひどく悲しんで、其形見の太刀で胸をついて、自害をしてしまつた。


(一)衛府は宮城の警備等を掌つた役所。諸司は諸官庁。助は次官。


巻 第十二

公家一統政道の事
  
 後醍醐天皇が還幸せられて後、光厳院を廃(や)めて、其建てられた正慶の年号を棄て、元通りに元弘の年号を用ひられる事になつた。其三年の六月三日、大塔宮が志貴の毘沙門堂にゐられる事がわかつたので、諸国の兵共は先を争つて馳せ集り、其軍勢は天下の半に過ぐる程の大軍となつた。宮は御入京遊ばされず、諸国の兵を集めて楯を作らせたり、鏃を研がせたりして、合戦の御用意おさ/\怠りないといふ事を聞いて、京都にゐる武士達は皆不安がつてゐた。そこで天皇は右大弁宰相清忠を勅使として、
「天下はもはや静まつたのに、何故武器を調(とゝの)へたり、兵士を集めたりせられるか。又天下が乱れてゐた時には敵を防ぐ為めに、剃髪染衣の姿を一時俗体に変へられたけれども、世の中が静まつた今日では最早其必要がない。速く僧の姿にかへつて寺を治められたい。」
と仰せられた。宮は清忠を近くへ呼び寄せ、
「今天下が一時静まつて、人民が安泰に暮らされるのは、一に天皇の御稜威と寡人の謀とによるのである。それに何ぞや足利治部大輔高氏は、唯だ一度の戦功で思ふ存分の振舞をしようとしてゐる。彼れの勢力がまだ十分固まらない内に討ち亡さなければ、彼れは第二の北條高時とならう。それ故、私は兵を集め武器を磨くのである。これは私の罪ではない。又逆賊は思ひがけなく速く亡んで、天下が穏かになりはなつたが、其仲間は身を隠してゐて隙を覘つてゐる。此際、上朝廷に威厳がなかつたならば、下々の者は必ず驕りたかぶるであらう。今日の政治は文武両道に由らなければならぬ。若し私が髪を剃り落して僧侶の姿となり、勇猛な将軍としての威光を捨てたならば、誰れが朝廷の武力を維持するか。一体我が比叡山の奥に住んで一寺を守るのと、大将軍となつて天下を静めるのと、どちらが国の為めに大切であらう。此両條を直ぐさま御許し下さるやうに、天皇に申し上げて呉れ。」と御答へして清忠を帰された。
 清忠卿は帰京して、早速其事を申上げた所、天皇は詳しくお聞きになつて、
「高氏にどれだけの不忠な行ひがあつて、それを討たうと云ふのか。罪のない者を討つのはよくない。二つの願ひの中、将軍になる事は差支へないが、高氏を討つ企てはやめるべきだ。」
と裁断せられ、征夷大将軍の宣旨をお下しになつた。そこで宮のお怒りもやはらいだと見えて、六月十七日志貴を御出発になり、二十三日に御入京遊ばされた。其行装は天下の壮観であつた。
 其後妙法院宮は讃岐国から、万里小路中納言藤房卿は常陸国から、それ/゛\入京せられたのを手始めに、総て後醍醐天皇が笠置へお逃げになられた時、官位をやめさせられた人々とか、死罪や流刑にせられた者の子孫とかが、彼方此方から呼び出されて、長い間満たされなかつた志を一時に達する事が出来た。これが為め今まで武力を誇つてゐた武士達は何時の間にか公卿の奉公人となり、公卿が天下の実権を執つて、諸国の地頭や武士達は皆召使か掃除人のやうな有様になつた。これでは仕方がない、何か思ひがけぬ事が起つて、武士が又天下の実権を執る世の中になればよいなどと思ふ者が多かつた。
 八月三日から武士に行賞せられる事になつたが、任命された上卿(一)は公平な処置を執る事が出来なかつたので、次々に人を替へたが、却々巧くまとまらなかつた。
 又色々の訴へをさばく為め、郁芳門の左右の脇に決断所を造り、一月に六度の日を定めて裁判をしたが、これ亦統一がなく、紛乱に紛乱をかさねた。
 所が七月の初めから御病気であつた中宮が、八月二日におかくれになり、十一月三日には皇太子も崩御遊ばされたので、これは唯事ではない、亡くなつた武士の怨霊のしわざであらうと、其怨霊を鎮め、祟りを止める為めに、四つの大寺(二)に云ひつけて大蔵経五千三巻を一日中に書き写させ、法勝寺で供養を遊ばされた。
 
大内裏造営の事
  
 元弘三年正月十二日、公卿達は相談の結果、天皇に「今の宮城は僅に四町四方である為め、境界が狭くて礼儀を正すに十分でない、四方へ二町づつ広げて宮殿を造られたとはいへ、昔の皇居には到底及ばない。此際大内裏を造られては如何」と申上げ、安芸周防の二国を料国(三)とせられ、日本国中の地頭、武家の所領の得分の二十分の一を徴収して、其費用に充てられることに定まつた。
 戦争の直後で、世の中はまだ十分静まらず、国は疲れ、民は苦しんでゐるのに、遮二無二大内裏を造られるといふことで、我国では未だ曾て一度も用ひた事のない紙幣を造つたり、諸国の地頭や武家の所領に課役をかけたりする事は、神慮にも違ひ、驕慢の端緒ともならうと、眉を顰める者が少くなかつた。

安鎮国家の法の事附諸大将恩賞の事
  
 元弘三年の春頃、平氏の一族である規矩掃部助高政、糸田左近大夫将監貞義が筑紫に現れて、仲間の生き残りや所々の逆賊を集めて国を乱さうと計つた。又河内国の賊徒は佐々目憲法僧正を大将として飯盛山に城を造り、伊予国には赤橋駿河守の子の駿河太郎重時がゐて立烏帽子峯に城を造り、近辺の私領地を奪ひとつて知行してゐた。此等の逆賊は武力の上に仏法の威力を加へない限りは、容易に退治する事が出来まいと、俄に紫宸殿の皇居に壇を作り、竹内慈厳僧正を召し出されて、天下安鎮の祈りを行はせられた。此祈りを行ふ時は、甲冑の武士が四門を警固し、内弁(四)、外弁(五)、近衛の人々は階に竝び、楽人が音楽を奏する前に、武士達が南庭(六)の左右に竝んで剣を抜いて四方を鎮める儀典を行つた。此祈りのききめの為めか、諸国の賊は忽ちの間に攻め亡ぼされてしまつた。
 やがて筑紫の少弐、大友、菊池、松浦を始め、新田左馬助、弟兵庫助、其他国々の武士達が一人も残らず上京して来た。そこで大功のあつた人々の恩賞を先にしようと、足利冶部大輔高氏に武蔵、常陸、下総の三筒国、弟の左馬頭直義に遠江国、新田左馬介義貞に上野、播磨の二国、子の義顕に越後国、弟の兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津、河内の二国、名和伯耆守長年に因幡、伯耆の二国をそれぞれ知行せしめられた。唯だあれほど忠義のあつた赤松入道円心には佐用荘一所しか下されなかつたのは不釣合であつた。
 
千種殿竝文観僧正奢侈の事
  
 千種頭中将忠顕朝臣は故六條の内府有房公の孫であつたから、文字の道を修めるべきであつたのに、二十歳頃から笠懸(七)や犬追物(八)を好み、博奕や淫乱を事とせられたので、夙に父の有忠卿から勘当せられてゐた。けれども此方は一時の栄華を極められる過去の因縁があつたものか、天皇が隠岐へ御遷幸の時に供奉したり、又六波羅の討手として上つて来たりした功労によつて、大国三筒国と闕所(九)数十箇所とを頂いたので、身に過ぎる程の朝廷の恩を受け、其奢りは見る人々を驚かした。
 しかしこれは俗人の事であるから、殊更に云ひ立てる程でもないが、彼の文観僧正の振舞を伝へ聞くと、誠に不思議である。一度名誉利欲の世界を離れ、もはや三密瑜伽(一〇)の道に入られた甲斐もなく、唯だ利欲や名聞ばかりを追ひ、観念定坐の勤めはまるで忘れてしまつたやうな有様であつた。何の必要があるといふでもないのに、財宝を倉に積み蓄へて貧窮の者を助けず、一方には武器を集め、士卒の勢を盛んにしてゐた。又媚び諛(へつら)つて交を結ぶ者には、功労がなくても褒美を与へたりしたので、文観僧正の手の者と云つて、仲間をつくり臂を張る者が洛中に充ち、其数は彼是五六百人もあつた。
 
広有怪鳥を射る事
 
 元弘三年七月に建武と年号を改められた。其年の秋頃から紫宸殿の上に怪鳥が現はれて、「いつまで、いつまで」と鳴いてゐた。其声は雲に響くかと思はれるほど高く、人々は眠りを覚まされ、聞く者は誰れしも嫌ひ恐れぬはなかつた。そこで公卿達は相談をして、源氏の人々の中に誰れか射落す者はないかと尋ねたが、射はづしたら生涯の恥だとでも思つたのか、私が射落さうと申出る者がなかつた。
[では上北面の侍の中に、誰れか自信のある者がないか。」とお尋ねになつた所、「二条関白左大臣殿が召かゝへてゐられる隠岐次郎左衛門広有と云ふ者ならやりとげませう。」
と申上げたので、直ぐさま広有を呼び出された。広有は詔を承つて鈴間(一二)の辺にひかへてゐたが、此鳥が若し蚊の睫(まつげ)に巣くふといふ蟯螟(せうめい)のやうに小さくて矢も立たぬか、又は大空の外に翔り飛ぶものならば致方もないけれど、目に見える程の鳥で、矢の立つものであるならば、どんな事があつても射外しはすまいと思つたので、直ぐさま御受をした。
 さて広有は召使に持たせてゐた弓矢を取り寄せ、孫廂の陰に匿れて此鳥の有様をそつとみると、八月十七夜の月がよく晴れて、大空は明るいのに、御所の上だけに黒雲がかかつてゐて、其あたりでしきりに鳴き立てる。鳴く時は口から火炎を吐き出すらしく、声と同時に稲光りがして、其光が御簾の中までさし徹した。広有は此鳥の居る所をよく見とどけておいて、弓を張り、弦をしぼり、鏑矢(かぶらや)を番へて立ち向つた。
 天皇は紫宸殿へお出ましになつて御覧になられ、文武百官の人々もどうなる事かと固唾を呑み、手を握りしめて之を見てゐた。広有は二人張の弓に十二束二伏の矢を番へ、きりきりと引きしぼつて容易には放さず、鳥の鳴くのを待つてゐた。鳥は何時もより飛び下つて、紫宸殿の上二十丈程の所で鳴いたのを聞き澄して後、弦音高くひやうと放つた。鏑矢は紫宸殿の上を鳴り響かし、雲の間に手答へして、何かは知らず、大磐石の落ちるやうな音がして、仁寿殿の軒の上から竹台の前へ落ちてきた。見物一同の感心する声は、半時程の間どよめいて静まらなかつた。
 松明を高くかゝげさして之を御覚になると、頭は人のやうで身体は蛇の形である。嘴の先が曲つて、歯が鋸のやうに生へてゐた。両方の足には長い距(けづめ)があつて、剣のやうに鋭くなつてゐる。羽先を延べて見ると、長さは一丈六尺あつた。天皇はひどく御感心遊ばされて、其夜すぐさま広有を五位に任ぜられ、翌日因幡国の大荘二箇所を賜つた。これは武士の名誉であり、又後々までの語り草でもあつた。
 
神泉苑の事
  
 戦争の済んだ後までも、妖しい物の怪は引続き禍ひをした。それを銷すのには真言秘密の法による外はないと、俄に神泉苑を修造遊ばされた。
 神泉苑は龍王を請じた雨乞の霊場であるが、建保頃から荒び始め、承久の乱後は穢らはしい男女が出入りするのさへ制止する事もなく、牛馬は遠慮もなく水草を求めて往来する有様であつた。それを龍王が怒つてゐるのだから、早く修理をしなければならぬ、修理が出来れば龍王の怒りも解けて、自然に国土はうまく治まるといふのが修理の動機であつた。
 
兵部卿親王流刑の事
  
 兵部卿親王は征夷将軍の職に在られたが、足利冶部高氏を討ち亡ぼされようと、強弓を射る者や大太刀を使ひこなす者を召しかゝへられ、兵を集め、武術を磨かせられてゐた。それは官軍が六波羅を攻落した時、殿法印の手の者が京中の土蔵を破つて財宝等を取り出したので、高氏はそれらの人々を捕へ、二十余人の首を斬つて六條河原へ懸け、其高札に、「大塔宮の家来殿法印良忠の手の者共が、昼強盗を働いた為めに切つた。」
と書いた、それを兵部卿親王がきかれて御怒りになつたのである。
 親王は高氏を討たうものと、内々諸国へ令旨を廻して、兵士を集めてゐられた。高氏は其事をきいて秘に継母であられる准后にとり入り、
「兵部卿親王は帝位を奪ひ奉らうとして、諸国の兵を集めてゐられます。其証拠は明らかでございます。」
とて、国々へ廻し下された令旨を御覧に入れたので、天皇はひどく御怒りになられ、「宮を流罪にせよ」と、欺いて呼び出され、捕り奉つて馬場殴へお押籠め申し上げた。やがて五月三日足利直義にお渡しになられたので、直義は数百騎の軍勢で途中を警固し、鎌倉へ下し奉つて、二階堂の谷に土牢をつくり、其中へ御入れ申してしまつた。


(一)宮中に公事ある時の奉行の主役。
(二)東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺。
(三)用度の料に充てた国。
(四)承明門内で諸事を弁ずる第一の大臣。
(五)門外で諸事を弁ずる第二の大臣。
(六)紫宸殿の前庭。
(七)射場に笠をかけ遠矢を騎射すること。
(八)騎射の一。犬を追ひかけ蟇目の矢で馬上から射て勝敗をきめるもの。
(九)所有者のなき土地。
(一〇)三密は身、口、意の秘密。瑜伽は相応の義で、行者の身、口、意の三密が能く如来の三密と相応して離れぬ事。それが即身成仏の義を成ずる事に云ふので、三密相応の行を修める道。
(一一)院の御所を守護する武士で、上下があつた。
(一二)清涼殿の中にある間、鈴をかけたるより云ふ。
(一三)母屋の周囲の廂の間の外に更に添へた板廂。
(一四)一人が押し撓めて、一人が弦をかける弓。
(一五)今の一時間。


巻 第十三

龍馬進奏の事
  
 佐々木塩冶判官高貞の許から、龍馬だと云つて、月毛の馬の四尺三寸ほどのものを献上した。其姿形は如何にも普通の馬とは違ひ、骨格逞しく、筋太く、しかも肥えてはをらず、頸は鶏のやうで、須彌(一)の髪は膝の下まであり、背は龍のやうで四十二のつむじ毛を巻いて背筋へつらなつてある。二つの耳は竹をそいだやうに真直に天を指し、両方の眼は鈴をつけたやうで地に向つてゐる。
 朝の六時頃に出雲の富田を出発して、夕方の六時頃に京都へ着いた、其道のりは七十六里であるが、乗つてゐるのに少しも動揺をせず、まるで坐つてゐるやうであつた、けれどもつむじ風が顔に吹きつけて堪へられない程であつたと言上した。そこで左馬寮へ預けられ、朝は御所の池で水を與へ、夕方には立派な厩で秣を與へた。其頃天下一の馬乗と云ふ評判の高かつた本間孫四郎を呼び出して乗らせた所、勇んでおどり上る有様がなみ/\でなかつた。四足を縮めると双六盤の上にも立つが、一鞭当てると十丈もある堀さへ楽々と飛び越えた。誠に天馬でない限りこのやうな駿足は珍らしいと、天皇は此上もなく御感心遊ばされた。
 或時天皇は洞院の相国(二)に向つて、
「我御代になつて、求めもしないのに此馬が現れたといふ事は、其吉凶如何(いかゞ)であらうか。」
と御尋ねになられたので、相国は、
「これは全く聖徳による事と信じます。それでなくて天がどうしてこんなよい前兆を下しませう。昔支那で虞舜の世には鳳凰が現れ、孔子の時には麒麟が出たといふ事でございますが、陛下の御代に天馬が現れたのは、それらを超えてよい前兆でございます。此龍馬が来た事は、仏法及び政道の繁昌、皇位長久のめでたい兆(しるし)に相違ございません。」と申上げたので、天皇を始め一座の人々も皆その説に感心し、喜び合はない者はなかつた。
 暫くたつて万里小路中納言藤房卿が来られたので、天皇は藤房卿に向つて天馬の吉凶をお問ひになられた。と、藤房卿は、
「天馬が我国に来た事を、私は吉事とは思ひませぬ。支那ではこれを捨てた時は栄え、愛した時は衰へたといふ例がございます。大乱の後、民は尚ほ疲れ苦しんで居り、天下は決して安らかになつて居りません。臣たる者は御諌め申すべき時であります。然るに群臣は皆媚びへつらつて、公平な政治が行はれず、無私な恩賞が施されないのに、大内裏の造営をすると云つては諸国の地頭に税を課するなど、誠に以て悲しむべき事でございます。何卒奇物の御もてあそぴを止められて、仁政をおしき遊ばされるやうにお願ひいたします。」「
と、至誠を披瀝して御諌め申上げた。

藤房卿遁世の事

 其後藤房卿は何度も御諌め申したが、一向用ひられないので、「臣としての道は十分に尽した。此上は身を退く外はない。」と決心して居られた。
 三月十一日は岩清水八幡宮へ行幸の日である。藤房卿はこれが最後のお供だと思つたので、供奉の役人達が驚く程に殊更着飾り、四囲を圧して出で立たれた。
 御神拝は、一日で終つた。藤房卿は辞職をする為めに参内し、天真に御目にかゝる好機會は今日をはづしては、何時あるとも知れないと思はれたので、それとなく御前に侍つて、龍逢比干(三)が諌死した事、伯夷叔齊の清い行ひについて、夜通し御話申上げ、明け方近く退出せられると、皇居の月も涙に曇つてかすかであつた。宮中の陣(五)の前から車は家へ返し、一人の侍を召しつれて北山の岩蔵といふ所へ行かれた。ここで不二房といふ僧を戒師(六)に招き、遂に長年の役人生活をやめ、僧の姿とおなりになつた。
 天皇は此事をお聞き遊ばされて、非常に驚かれ、「そのありかを急いで探し出し、又政道を輔佐してくれるやうに伝へよ」と、父の宣房卿に仰せられたので、宣房卿は泣く泣く車を飛ばして岩蔵へ尋ねて行かれた所、中納言入道は其朝まで此処にゐられたが、此処は都に近いから俗人達が訪問して来ようと、岩蔵をさへ嫌はれて、何処といふ当もなく、足にまかせて出て行かれた後だつたので、宣房卿は致し方なく、涙を流しつゝ都へお帰りになつた。

北山殿の謀叛の事

 北條氏と特別の関係があつた西園寺公宗卿は、故高時の弟四郎左近大夫入道を還俗せしめ、刑部少輔時興と名を替へさせて、諸国の軍勢を集め、謀叛の計画を進めてゐた。先づ時興を京都の大将、其甥の相模次郎時行を関東の大将、又名越太郎時兼を北国の大将として、各々合図を定めて後、公宗卿は俄に湯殿を作り、そこへ一枚の板を蹈むと落ちるやうにしかけておいて、天皇に、
「北山の紅葉御覧の為め、御臨幸遊ばされたい」と申上げた。そこで天皇は翌日正午頃行事あるべき由を仰せ出されたが、其夜うと/\とせられた所、一人の女が来て、
「明日の行幸はおやめになられたがよい。」
と申上げたので、天皇は、
「お前は何処から来た。」
とお尋ねになると、
「神泉苑の辺に長年住んでゐる者でございます。」
とお答へして帰つて行つた。
 御夢覚めて、天皇は怪しい事に思はれたが、決定してゐる臨幸を今更取りやめる事は出来ぬと、御乗物を進めさせられた。然し夢のお告げがあやしいと先づ神泉苑へ行幸遊ばされ、龍神に御手向けなされた所、池水が俄に変つて、風も吹かないのに白浪が立つて、盛んに岸へ打ちつけた。天皇はこれを御覧になつて、いよ/\夢のお告げを怪しく思はれ、暫くの間御乗物をとめて御考へになつていられた所へ、竹林院の中納言公重卿が騒けつけて来て、
「西園寺大納言公宗卿が謀叛の企てをしてゐると告げた者がございます。」
と申上げたので、夢の知らせといひ、池水の変化といひ、成程様子がありさうだと、其儘還幸遊ばされた。
 やがて西園寺大納言公宗卿を召捕り、伯耆守長年に命じて出雲国へ流される事に定まつた。其夜、公宗卿の奥方は、泣く泣く忍んでおとづれて、御対面になつた。大納言は御懐胎の奥方に生れる子供の事をたのみ、形見の品々を御渡しになられた。其中長年が甲冑をつけた二三百人の武士をつれて、大納言をうけ取りに来た為め、奥方は竹垣の中へ隠れて御覧になつてゐると、いよいよ御乗物にのられようとする時、中院の中将定平朝臣が長年に向つて「早く」と云はれたので、長年は大納言に走りかかり、鬢の髪をつかんでうつ伏しに引き倒し、腰の刀を抜いて御首を切り落してしまつた。
 其後奥方は仁和寺の傍に小さい住家をさがし出して移り住み、丁度大納言の百箇日の日に無事に若君を御産み落しになり、母君の手一つで大切に育て上げられた。

中前代蜂起の事

 朝敵の余党がまだ/\東国にゐたので、鎌倉に探題を置かねばなるまいと、今上天皇の第八の宮を征夷将軍になし奉つて鎌倉へ下され、足利左馬頭直義に其執権として東国の政を司らせた。
 名越太郎時兼はまもなく六千余騎となり、相模次郎時行は五万余騎となつたので、時行は其軍勢をひきつれて鎌倉へ攻め上つた。直義は急な事とて用意の兵も少かつた為め、将軍の宮をおつれ申して、七月十六日の暁に鎌倉を逃げ出してしまつた。

兵部卿宮薨御の事

 左馬頭直義は山の内を通り過ぎる時、淵辺伊賀守を近く呼んで、
「身方が無勢の為め、一度は鎌倉を引退いたが、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を集めて、又鎌倉へ押し寄せたならば、相模次郎時行を滅すには手間がいらぬ。それよりも我家にとつて、常に邪魔となるのは兵部卿親王である。此方を死罪に行へといふ天皇の御許しはないが、此序にお殺し申さうと思ふ。お前は急いで薬師堂谷へ馳せ帰り、宮を刺殺し申せ。」と命令したので、淵辺は山の内から主従七騎で引返し、宮のゐられる牢の御所へ来て、暗い牢の中で、朝になつたのも御存知なく燈をかかげて御経をよんでゐられる宮に、淵辺がお迎へに参つたと申上げて、御乗物を庭へ置いたのを御覧になつて、
「お前は私を殺さうとする使であらう、よしよし。」
と仰せになり、淵辺の太刀を奪ひ取らうと走りかゝられたので、淵辺は持つてゐた太刀を取り直し、御膝の所を強く打ち奉つた。宮は半年程の間牢の中に屈んでゐられたので、御足の働きも十分でなかつたと見え、御心はます/\猛くあられたが、うつ伏しに打ち倒されて、起き上らうとせられた所を、淵辺が御胸の上にのりかゝつて、腰の刀を抜いて御頸を斬らうとしたら、宮は御頸を縮めて刀の尖をしつかりとおくはへになられた。淵辺はカが強かつたので、刀を奪はれまいと引合つてゐた所、刀の鋒が一寸あまりも折れてしまつた。淵辺は其刀を投げ捨てゝ脇差の刀を抜き、先づ御胸元の辺を二刀刺した。刺されて宮の少しお弱りになられた所を、お髪を掴んで引上げ、御首をかき落した。淵辺は牢の前に走り出て、明るい所で御首をみると、喰ひ切られた刀の鋒がまだ御口の中に残つて居り、御眼は生きてゐる人のやうであつた。淵辺はこれをみて側の薮の中へ投げ捨てゝ置いて帰つた。
 宮の御世話をする為め、御前につかへてゐた南の御方は此有様を見て、恐ろしさと悲しさとに身がすくみ、手足も立たない有様であつたが、やがて心を取り直して、薮の中に捨てられた御首を取上げた所、御膚は尚ほあたたかく、御眼もまだ塞いでゐられず、元のまゝの御顔色であつたから、若しや夢ではなからうか、夢ならば覚めてくれと、泣き悲しまれた。やがて此御方は御髪を剃り落されて、泣く/\京都へ上つて行かれた。

足利殿東国下向の事附時行滅亡の事
  
 鎌倉を逃げ出した足利直義は、途中駿河国の入江荘の地頭入江左衛門尉春倫の好意で、矢矧宿に陣を取つて、京都へ急使を立てた。
 京都では足利宰相高氏を討手に向ける事に決定し、勅使を立てて此事を高氏に仰せ出された所、高氏は征夷将軍の位と関東八箇国の管領とをお許し下された上、直ちに軍勢の恩賞を行ふ事に差支へがないならば、直ぐさま朝敵を退治致しませうとお答へ申上げた。天皇はこれを無造作にお許しになられたが、征夷将軍の位は関東が静まつたならば、其功によつて與へよう、関東八箇国の管領となる事は大体差支へないとおつしやられて、綸旨をお下しになられた。其上恐れ多い事に天皇の御諱の一字を下されて、高氏の「高」を「尊」の字に改めさせられた。
 そこで尊氏は直ぐさま関東へ下り、弟の直義と一所になつて、五万余騎で鎌倉へ向ひ、途中で迎へ討たうとしてゐた相模次郎時行の軍勢を攻め破り、またたく間に関東は平定した。


(一)鬣。
(二〕大臣。
(三)龍逢は夏紂の桀王を諫めて斬られ、此干は殷の紂王を諫めて斬られた。
(四)殷の兄弟の忠臣。
(五)衛士の詰所。
(六)授戒の法師。


巻 第十四
  
新田足利確執奏状の事
  
 足利宰相尊氏は相模次郎時行を亡ぼし、関東が静まつたからといつて、まだ宣旨も頂かないのに勝手に足利征夷将軍と名乗つてゐた。又関東八箇国の管領となる事は天皇から御許しを得てゐると、今度箱根、相模河の合戦の時忠義のあつた人々に恩賞を與へ、以前新田義貞の一族の人々が頂いてゐた関東の領地をすべて取り上げ、これを自分の一族の者や家来達に分け與へた。義貞はこれを聞いて怒り、其代りに自分の領地である越後、上野、駿河、播磨等にある足利一族の領地を取り上げて、自分の家来達に與へたので、新田と足利とは、ここに確執を生ずるに至つた。
 所が今度尊氏は、相模次郎時行を亡ぼして関東を平らげてから、謀叛の企てをしてゐろといふ噂が天皇の御耳に入つたので、天皇はひどくお怒りになられて、公卿達と御相談の結果、関東へ人をやつて様子を聞き糺さうとしてゐられた所へ、尊氏から新田義貞を討ち亡ぼしたいといふ奏状を捧げた。これを聞いて義貞も亦、尊氏の弟直義は兵部卿親王をお殺し申した上、天下を奪はうとしてゐる、この際是非尊氏を討ち亡ぼしたいといふ奏状を奉つた。
 そこで天皇は公卿達を集めて御相談をせられた所、坊門宰相清忠が、
「今少しの間待つて、関東の噂が事実か否かを確め、然る後に尊氏の罪を定めるべきである。」
と申上げたので、皆それに賛成した。其処へちやうど大塔宮の御世話をしてゐた南の御方が鎌倉から帰つて来られ、宮の最後の有様を目に見るやうに申上げた。又四国や西国の者から、足利尊氏が下した軍勢催促の教書(一)数十通を御覧に入れたので、いよ/\尊氏の謀叛は疑ふ余地がないと、一の宮中務卿親王を関東の管領に任命せられ、新田左兵衛督義貞を大将軍と定め、諸国の大名達をそれに副へて、足利討伐に向はしめられる事になつた。

節度使下向の事

 新田左兵衛督義貞は朝敵追伐の宣旨を賜はつて、兵をひき連れて宮中に参内した。宮中では中儀(二)の節會を行はれて、義貞に節刀(三)を下された。義貞はそれをうけて二條河原へ押し出し、尊氏の宿所である二條高倉へ軍勢を向け、鬨の声を三度あげ、鏑矢を三本射させて、中門の柱を切り落した。これは嘉承年間義親追伐の例によつたものだといはれる。
 さて義貞は一の宮中津卿親王を戴き、弟の脇屋右衛門佐義助を始め、源氏の一族及び他家の大名達六万七千余騎を東海道より、又一万余騎を東山道より、同時に鎌倉へ攻め寄せようと勇み立つて京都を出発した。
 鎌倉では左馬頭直義を始め、仁木、細川、高、上杉らの人々が尊氏に向ひ、
「敵に要害の地を通過されては、如何に防戦しても勝てますまい、急いで矢矧、薩●(「つちへん」+「垂」)山の辺へ馳せ向つて防ぎませう。」
と云つた所、尊氏は、
「百分は長年の望みであつた征夷将軍の職につき、位は従上三品となつた。これは自分のわづかな功による事ではあるが、天皇の厚恩でないものはない。恩を受けてそれを忘れるのは人の道ではない。今天皇が御怒りになられた理由は、兵部卿親王をお殺し申した事と、諸国へ軍勢召集の教書を出した事との二つである。この二つはどちらも尊氏のした事ではない。此事を詳しく申しひらきをしたならば、御怒りも必ず解けるであらう。貴殿達はとにかく各々身の処置をつけられよ。尊氏は天皇に向ひ弓を引き矢を放つ事はしない。それでも尚罪の御許しがないならば、出家して天皇に対し不忠の考へを持つてゐない事を、子孫の為に証明するつもりだ。」
と、顔色を変へて云ひ放ち、内へ入つてしまつた。
 かうして一二日過ぎた所へ、新田の軍勢が三河、遠江まで近づいたといふので、上杉、細川らは左馬頭直義の所へ行き、長相談の結果、尊氏は鎌倉へ残して置き、直義を大将として打ち向ふ事に決した。其処で直義は二十万七千余騎の軍勢をひきつれて十一月二十日に鎌倉を出発し、二十四日に三河国矢矧の東の宿に到着した。

矢矧、鷺坂、手越河原闘ひの事
  
 新田左兵衛督義貞は脇屋右衛門佐義助と共に、六万余騎で矢矧河に押寄せ、敵を欺き近づけて置いて打ち破つた。足利方は其夜の中に矢矧を退いて鷺坂に陣を取つたが、勝につけこんで追跡してきた官軍の為め、此鷺坂も直ぐさま攻め破られてしまつた。そこで此処をも退いて左馬頭直義の兵二万余騎の新手を加へ手越に陣を取つた。義貞は逃げ行く敵を追ひかけ、手越河原で敵の軍勢に夜討をかけて攻め破り、尚逃げ行く敵を追ひかけて伊豆の府まで押し寄せた。足利方の軍勢は度々の合戦に破れ続けて、鎌倉へ逃げ帰つてきた。
 足利左馬頭直義は鎌倉へ帰つて合戦の様子を告げようと、将軍尊氏の屋敷へきてみると、四門は閉めきつてあつて、人は誰れも居ない。荒々しく門をたたいて、「誰れも居らぬか」と問うた所、須賀左衛門が出てきて、
「将軍は矢矧の合戦の事をお聞きになつて以来、建長寺へおはいりになり、出家をせられようと云はれたのを、皆でおとどめ申しておきました。本結は切られたが、まだ僧侶の姿にはなつてをられません。」
と申上げた。これを聞いた直義を始め高、上杉の人々は驚いて色々と相談の結果、贋の綸旨十通余りを作り、それに足利一門の者はたとへ遁世して出家したものでも、さがし出して殺せよと書き、直義がそれを持つて建長寺へ行き、尊氏にこれを見せて、出家を思ひとどまり、足利一族の没落を助けてくれるやうにと頼んだ所、尊氏は其綸旨を見て、「それでは仕方がない。尊氏も貴殿達と共に武士の道に進み、義貞と一所に死なう。」と云つて、法衣を脱ぎすて、錦の直垂を着けた。これで今迄の敗戦に萎れてゐた兵士も元気をとりもどし、一日もたたない内に三十万騎の軍勢が馳せ集つてきた。

箱根竹下合戦の事
  
 左馬頭直義は箱根路を防ぎ、将軍足利尊氏は竹下へ向ふといふ手筈が定められた。新田勢は伊豆の府を出発して今夜野七里山七里を越すと云ふ事であつたから、足利勢はわづかの軍勢で竹下へ向つてゐた。やがて夜が明けると、尊氏は十八万騎をひきつれて竹下へ着き、直義は六万余騎で箱根峠へ着いた。
 官軍は竹下へは、中務卿親王に公卿殿上人をはじめ、脇屋右衛門佐義助を副将として、七千余騎で搦手の軍勢として立ち向ひ、箱根路へは新田義貞を始め重立つた一族の者二十余人に国々の大名三十余人を合せ、都合七万余騎で大手の軍勢として立ち向つた。大手搦手、敵身方、共に鬨の声を上げて山川をゆるがし天地をとどろかし、わめき叫んで攻め戦つた。菊池肥後守武重は箱根の戦の先がけをして足利勢の三千余騎を遠く頂の方へ追ひ立てゝ一休みしてゐた。これを見て身方の軍勢は、一軍づゝ陣を取つては攻め上り攻め上りしてわめき戦ひ、又大将義貞が一段高い所で諸軍勢の振舞を見てゐるので、皆勇み進んで戦つたから、足利勢は防ぎかねて退却した。
 竹下へ向はれた中務卿親王の軍勢は、五百余騎で錦の御旗を先に立てゝ押し寄せたが、一度に攻めかかつてきた敵を真上にうけて、一たまりもなく一戦もせずに引き退いた。これを見た副将の脇屋義助は七千余騎を一軍として馬の頭を並べて攻め入つたが、敵は少しもひるまず、東西南北、四方八方に攻め合ひ、一人も退かず互ひに討ちつ討たれつして戦つた。脇屋義助の子で今年十三歳の式部大輔は、敵身方が引き分れた時、どうして紛れたか敵の中へ残つてしまつた。この人は幼いが敏捷な人であつたので、笠符(かさじるし)を投げすて、髪を乱して、敵に見知られぬやうにと落着いてゐた。父の義助はそれを知らず、討死をしたか生捕られたか、二者の中一つに定まつてゐる、子の生死を知らないでどうしようと、敵の大軍中に攻め入つた。それを見て義助の兵三百余騎もつづいて攻め入り、敵を追ひ散らしてしまつた。式部大輔義治は父の軍勢と見て引返し、馬を走らして父の陣中へかけ入つた。義助はこれを見て、死んだ者が生きかへつたやうに悦び、暫くの間人馬を休めようと、又元の陣へ引返した。
 さて新手を入れかへて戦はうとした所、千余騎で後に控へてゐた大友左近将監、佐々木塩谷判官の二人が、足利勢に加つて官軍に向ひ射かけ始めたので、官軍はたまりかねて佐野原へ引き退き、ここにも止まり得ず、伊豆の府でも防ぎきれず、搦手の寄手三百余騎は東海道を西の方へと先を争つて逃げて行つた。

官軍箱填を引退く事

 箱根路の合戦は官軍が戦ふ度に勝ち、漸く持ちこたへてゐる直義を追ひ散らして、鎌倉へ攻め入るのももう直ぐだと勇み立つてゐた処へ、搦手の合戦に官軍が皆敗けて追ひ散らされたといふので、これまで勇み立つてゐた軍勢は忽ち先を争つて逃げ出し、立錐の余地もなく満ち/\てゐた箱根山の陣も、見る/\中に人影がなくなつてしまつた。義貞は仕方なく百騎程の軍勢で箱根山の陣を引き退き、途中であちらこちらに退いてゐる身方の軍勢を集め、行手を遮る敵を攻め破り攻め破り、道を開いて、負傷者を助け合ひ、おくれた者を待合はして、十二月十四日の夕方に天龍河の東の宿へ着いた。丁度雨の降つた後で河水が岸まで浸してゐたので、俄に民家を壊して浮橋を渡し、数万騎の軍勢を一日の中に渡してしまつた。逃げ腰となつた軍勢の常として、今一戦をしようと思ふ者もなく、矢矧で一日逗留してゐる間に昨日まで二万騎もあつた軍勢は、めいめいに四方へ逃げ散らばつて十分の一にも足りなくなつてしまつた。義貞は宇都宮治部大輔を始め諸大将の意見に従ひ、都遠い処に長居をしてゐるのはよくないと、其日に天龍河を出発して尾張国まで退いた。
 
諸国の朝敵蜂起の事
  
 十二月十一日讃岐から高松三郎頼重が京都へ急使を出して、
「足利の一族である細川卿律師定禅が兵を挙げ、頼重一族の者は戦ひ敗れて討死してしまつた為め、敵の軍勢は三千余騎となり、近日中に京都へ攻め上らうとして居る。」と知らして来た。又備前国の児島三郎高徳の許からも急使が来て、
「佐々木三郎左衛門尉信胤、田井新左衛門尉信高らが、細川卿律師定禅の誘ひに同意して福山城へ立籠つたので、其国の目代(四)が攻めようとしたが、国中の軍勢は追々賊に身方をしたので、備前国の守護や武家達が集つて攻めたが、官軍は負けて退き、其後賊に身方する者多く、官軍は全く没落してしまつた。」
と告げた。更に又丹波国からは、碓井(うすゐ)丹波守盛景が急使を立てゝ、
「久下(くげ)彌三郎時重、波々伯部(はゝかべ)次郎左衛門尉、中沢三郎入道らが、守護の屋敷へ押寄せ、身方は負けたので、赤松入道円心に使を出して援けを頼んだら、円心は野心を抱いてゐるのか返答もせず、其上将軍の教書だと云ふものを国中に廻して、軍勢を集めて居るといふ噂である。」
と知らし、能登石動山(いするぎさん)の僧侶達からも急使が来て、
「越中の守護普門(ふもん)蔵人利清を始め、井上、野尻、長澤、波多野の者共が謀叛を企て、国司の中院少将定清は当山に立籠つたが、賊の為めに攻め破られて討死を遂げ、寺は焼けてしまつた。」
と知らして来た。
 此他、加賀に富樫介、越前に尾張守高経の家来、伊予に河野対馬入道、長門に厚東一族、安芸に熊谷、周防に大内介の一類、備後に江田、弘沢、宮、三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部、小幡ら、日本国中残る所もなく朝敵が起つたといふ報告があつたので、天皇を始め朝廷の官人達は皆驚いてしまつた。
 そこで匹他九郎(ひきたのくらう)を勅使として、尾張に滞つてゐた新田義貞に、急いで上京せよとの大御心を伝へた。義貞は詳しい事情を聞いて勅使と一所に尾張国を出発して上京した。

将軍御進発大渡山崎等合戦の事
  
 足利尊氏は八十万騎の軍勢を引きつれて美濃尾張へ着いた。四国の敵も近づき、山陰道の敵は大江山へ懸つたといふ事が知れたので、義貞は軍勢の手分けをして、勢多へは伯耆守長年に出雲、伯耆、因幡の軍勢二千騎をつけてさし向け、宇治へは楠判官正成に大和、河内、和泉、紀伊の軍勢五千余騎をそへてさし向け、山崎へは脇屋右衛門佐を大将として洞院按察大納言、文観僧正らの七千余騎をさし向け、大渡は新田左兵衛督義貞を総大将として里見、鳥山、山名、桃井らの兵一万余騎で固めた。
 足利尊氏は正月七日に近江国伊岐洲(いきす)の社に立籠つてゐた山法師成願坊を攻め破つて、八日に八幡の山下に陣を取つた。細川卿律師定禅は四国中国の軍勢をひき連れて、正月七日に播磨の大蔵谷に着いた。ここで赤松信濃守範資の兵を合し、総勢二万三千余騎となり、正月八日に芥河の宿に陣を取つた。久下彌三郎時重、波々伯部二郎左衛門為光、酒井六郎貞信らは、但馬丹後の軍勢を合せて六千余騎をひき連れ、二條大納言殿が西山の峯堂に陣を取つてゐたのを攻め破つて、正月八日の夜半に大江山の峠に篝火をたいて陣をしいた。
 京都に残つてゐた新田一族の軍勢は、大江山の敵を追ひ払はうと、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎で正月八日の朝早く桂河を渡り、朝霞に紛れて大江山へ押し寄せ、またたく間にここの敵を追ひ散らしてしまつた。
 尊氏は八十万騎の軍勢で大渡の西の橋の袂に押し寄せ、筏を作つて河を渡らうとしたが、河の底に打つてゐる杙の為めに渡る事が出来ず、橋桁を伝つて渡らうとしたが、中途で折れて果さず、河を前にして攻めかねてゐた。
 山崎の合戦では播磨の紀氏の軍勢が抜けがけをして一番に攻め寄せたが、官軍の為めわけもなく追ひ立てられ、二番には坂東坂西の兵共が二千余騎で押し寄せた。城中では大将脇屋右衛門佐義助及び宇都宮美濃将監泰藤の軍勢二千余騎で打ち出し、互に追ひつ追はれつして半時程の間攻め戦ひ、まだ勝負の決せぬ中に、四国の大将細川卿律師定禅が六万余騎、赤松信濃守範資が二千余騎をそれぞれにひきつれ、二手に分れて押し寄せたので、官軍は引返して城の中へ立籠つた。寄手は調子に乗つて何処までも攻め入つて来たので、官軍の兵士は先を争つて降参をした。城中の官軍はそれに力を落して防ぎきれず、大渡の軍勢と一所になるつもりで逃げ出したので、山崎の陣は散々に破られてしまつた。
 新田義貞は、
「此分では、敵は皇居に乱入するかも知れない。天皇を先づ比叡山へ御遷し申し上げてから、安心して戦はう。」
と大渡を捨てゝ京都へ帰つた。義貞義助が一軍となつて退くと、細川卿律師定禅が六万余騎で追ひかけて来た。それを途中で新田越後守義顕が引返して防ぎ、義貞が皇居へ行つたらうと思はれる頃を見はからつて、敵の大軍の中へ攻め入り、四方八方に切りまくり、重傷を全身にうけて、半死半生の姿でやつと京都へ帰つて来た。

主上都落ちの事附勅使河原自害の事
  
 山崎、大渡の官軍が敗れたといふので、天皇は三種神器を御身につけ、武士に御乗物の前後を舁せて、比叡山へ行幸遊ばされようとした。其処ヘ吉田内大臣定房公が車を飛ばして駆けつけ、御所の中をあちらこちらと見て廻られた所、明星、日の札(五)、二間の御本尊などが捨てられてあつた。内大臣は落着いてそれらを若侍に持たせて天皇に従つた。供奉の者は三四人の公卿が衣冠を正してゐる外は、皆甲冑を着け武器を持つてゐた。又義貞、義助を始め、一族の者、諸国の大名の軍勢二万余騎が、御乗物の後を守つて東坂本へと馬を早めた。
 信濃国の住人勅使河原丹三郎は大渡の軍勢の中にゐたが、宇治も山崎も破れ、天皇はもはや何処へとも知らずお逃げになられたと云ひ伝へられたので、不義の逆臣には従はないと、三條河原から父子三騎で引返し、鳥羽の作路羅城門(らじやうもん)の辺(あたり)で腹かき切つて死んでしまつた。

長年帰洛の事附内裏炎上の事
  
 名和伯耆守長年は勢多を守つてゐたが、山崎の官軍が破れ、天皇は東坂本へお逃げになられたと聞いて、今一度御所へ伺はないで、このまま直ぐ坂本へ逃げて行つては、後日難儀がふりかかつて来るであらうと、三百余騎の軍勢をひき連れて、群がる敵を打ち破り打ち破り、百騎ほどとなつて十日の夕方に京都へ帰り、御所の置石の辺で馬から下り、兜をぬいで南庭にひざまづいた。天皇が東坂本へ臨幸遊ばされて、数刻後の事であつたから、四門はすべて閉ぢ、宮殿は音もなくさびれてゐた。もう人々が乱入したと見えて、あたりがかき乱されてゐた。長年は其有様をつくづくと見て、さしも勇猛な武士の心にも物の哀れが感ぜられたか、両眼から溢れ落つる涙が鎧の袖をぬらした。やがて敵の鬨の声が近づいたので、陽明門の前から馬にのつて、北白川を東の方へ、今路越(いまぢごえ)にさしかゝり、東坂本へと落ちて行つた。
 其後四国西国の軍勢が京都へ乱入して、行幸の御供をしてゐる人々の家や、屋敷々々に火をつけたので、つむじ風が烈しく吹き起り、諸所の御殿、御所を焼き、猛火は皇居に燃え移つて、さしも立派な大宮殿も一時の間に灰となつてしまつた。

将軍入洛の事附親光討死の事
  
 正月十一日、足利尊氏は八十万騎をひきつれて京都へ入つた。
 結城太田判官親光は後醍醐天皇の御信頼があつく、行幸の御供をしようとしたが、こんな風では出世もはかばかしくはあるまいと考へ、何とかして尊氏を討ちはたさうと、わざと京都に止まつて、尊氏に降参を申し入れた。尊氏は之を聞いて誠の降参ではなく、自分を欺かうとしてゐるものだと見破り、詳しい様子を聞かせる為めに、大友左近将監を遣はした。親光は大友の話振りで、尊氏に心中を見破られた事を知り、不意に太刀を抜いて大友をさし殺し、一族の者十七騎と共に大友の軍勢の中に攻め入り、敵と取り組んで、刺し違へ刺し違へして討死してしまつた。

坂本御皇居竝御願書の事

 天皇は東坂本に臨幸遊ばされ、大宮の彼岸所(六)においでになられたが、御身方に来る僧侶は一人もないので、僧侶まで心変りをしたかと御心配になられてゐた所へ、藤本房英憲僧都が来て、言葉もなく大床(七)の上に畏つて涙を流した。天皇は御手づから御筆を取つて御願文をものせられ、「これを大宮の神殿に納めよ。」と仰せられたので、英憲は右方権禰宜行親を通してこれを納め奉つた。
 暫くすると、円宗院法印定宗が五百余人をひき連れて御身方に参つた。天皇はひどく悦ばれて大床へお呼び出しになられた所、定宗は天皇に御安心遊ばされるやう申上げて、二十一箇所の彼岸所は勿論、坂本、戸津、比叡辻などの坊舎や家々に札をはつて諸軍勢の宿所に充てた。其後諸坊の僧侶達が次々と御身方に集り、軈て一山三千の僧侶達が皆甲冑をつけて馳せ集つてきた。又官軍の兵粮にと云つて、金銭米穀をたくさん積んで来たりしたので、敗軍の兵士達は皆力強い思ひをした。


(一)将軍の下し文。
(二)宮中の儀式に大中小とあつて、元日の宴、新嘗祭の如きは中儀である。
(三)将軍が勅命を受けて征討に出る時、天皇より賜りし刀。
(四)国司の不在の時、代理して事務を扱ふ役。
(五)毎日の役人(殿上人)の当番の名を記した札、日給の簡とも云ふ。
(六)中方の衆が会合して法談し、衆を勧めて涅槃の岸に到らしめる所。
(七)広縁。


巻 第十五

園城寺戒壇の事
 
 比叡山の僧侶達は二心なく後醍醐天皇を護衛して、北国や奥州の軍勢が到着するのを待つてゐるといふ事を聞いて、足利尊氏は多くの軍勢が義貞に集まらぬ前に東坂本を攻めようと、細川卿律師定禅、同刑部少輔、及び陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へさし遣はした。此三井寺は何時も比叡山に敵対するので、尊氏はここの僧侶達には二心があるまいと信頼した為めである。そこで僧侶達が若し忠義をつくしたならば、戒壇(一)造営の事について武家は特に力添へをしてやらうといふ教書を下した。
 此園城寺の戒壇は、以前に勅許を得、文武家の支持をも得て取り立てられたが、比叡山の僧侶達が党をくんで訴へた為め戦争になり、度々火災にかかつたものである。其確執は三井寺の開祖である智証大師の御弟子と慈覚大師の御弟子とが仲違ひをした事に始まり、其後代々争ひつづけて来たので、三井寺は機会あれば戒壇の事を天皇に申上げて其望みを達しようとし、比叡山は又其度に党をくんで訴へるのを例として、無理矢理にそれを取り除けようとした。
 今、足利尊氏が僧侶達を身方に引入れよう為め、比叡山の怒りも顧みず軽卒にも勝手に教書を下したので、これこそ法滅の因縁だと、驚きあきれぬ者はなかつた。

奥州勢坂本に著く事
  
 先に義貞が討手の大将を仰せつかつて関東へ向つた時、奥州の国司北畠中納言顕家卿へ合図の時を違へず攻め合せよといふ綸旨を下されたが、大軍を集めるのが容易でない上、途中の戦ひに日数を重ねたので、鎌倉の合戦には間に合はなかつた。けれども鎌倉へ入つて見ると、尊氏は早や箱根竹下の合戦に勝つて上京したので、其後を追つて上京しようと、途中で諸所の軍勢を集め、五万余騎を以て、昼夜休みなく前進を続け、正月十二日に近江の愛智河(えちがは)の宿につき、急使を出して坂本へ其事を申上げたので、天皇を始め奉り、士卒達は皆喜び、道場坊の助註記(ぢよちうき)祐覚(いうかく)に仰せつけられて、湖上の船七百余艘を集め、志那浜(しなのはま)から一日の中に全軍を渡してしまつた。

三井寺合戦の事
  
 東国の軍勢も坂本に着いたので、顕家卿や義貞や、其他重立つた人々が会合して合戦の相談をした。一同の者は大館左馬助の意見に従ひ、今夜の中に志賀唐崎の辺まで打つて出で、明日の夜明け前に三井寺へ攻め寄せようと、諸大将に云ひ渡して、宵の中からそれぞれ準備をして待つてゐた。
 三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守は京都へ使を走らして、東国の軍勢が坂本へ着き、明日攻め寄せてくるとの事故、急ぎ援軍を出されたいと三度までも云ひ送つたが、尊氏は東国勢を馬鹿にして少しも驚かず、三井寺へは一人もさし向けてやらなかつた。
 夜明け近くなると、源中納言顕家は二万余騎、新田左兵衛督義貞は三万余騎、脇屋、堀口らは一万五千余騎で押し寄せ、大津の西の浦、松本の宿に火をつけて鬨の声を上げた。三井寺の軍勢も用意してゐた事とて、盛んに応戦した。寄手は一番に千葉介、二番に顕家卿、三番には結城上野入道、伊達、信夫などの軍勢と入れ替り入れ替り城中へ攻め入つたが、皆討たれて引き退いた。勝につけこんだ敵は六万余騎を二手に分けて濱辺へまで攻め出して来た。そこで身方は三万余騎を一隊として敵に当り、攻め破り、追ひ散らして、逃げ行く敵に追ひすがり、城中へ攻め入らうとしたが、三井寺の僧兵に防がれて其目的を達しなかつた。城中では木戸を下し、堀の橋を落してしまつた。
 義助はこれを見て、
「粟生、篠塚は居らぬか。あの木戸を打ち破れ、畑、亙理は居らぬか、切り込め。」と命令した。粟生、篠塚の二人はこれを聞いて走り出し、堀の側の塚の上に大卒塔婆が二本あつたのを難なく引きぬき、向岸へ倒しかけて橋とした。又畑六郎左衛門、亙理新左衛門の二人は、
「貴公達は橋渡(二)の判官になられい。我々は合戦をしよう。」
と戯れて、橋を走り渡り、堀の上の逆茂木を取りのけて、木戸の側までやつて来た。此処を防いでゐた兵共は三方の土矢間から槍や長刀を差出し差出し突き立てたのを、亙理新左衛門は十六本も奪ひ取つて捨てた。畑六郎左衛門はこれを見て、
「のけよ亙理殿、其塀を引きくづして、人々にたやすく合戦をさせよう。」
と云ひつつ走り寄つて右の足を昂げ、木戸の関の木を踏み折つてしまつた。かうして一の木戸を打破つた新田の軍勢三万余騎は、城の中へなだれ込んで合図の火を上げた。これを見て比叡山の僧侶二万余人は、搦手から堂舎仏閣に火をつけては、わめき叫んで攻め込んだ。火は東西南北に燃え拡がり、もはやかなはないと思つたか、三井寺の僧侶達は皆猛火の中で腹を切つて果てた。まして方角のわからぬ四国西国の兵共は火の中に逃げまどひ、此処彼処で自害をした。

建武二年正月十六日合戦の事
  
 三井寺の敵をわけなく攻め落したので、顕家卿は一先づ坂本へ引き返された。そこで義貞も坂本へ帰らうとしたが、船田長門守経政の意見に従ひ、三万余騎の軍勢で逃げて行く敵を追ひかけた。逃げる敵は大軍で遅く、追ふ身方は小勢で早かつた為め、山階(やましな)辺で追ひついたが道が広くて敵が容易に引き返して来られる所では、そんなにひどく追はず、遠くから矢を射かけ射かけ鬨の声を上げるばかりであつたが、道が狭くなつたり、敵の行先が嶮しい山路になつたりすると、烈しく追ひ立て、休みなく射落し、切り伏せたので、敵は一度も引き返す事が出来ず、先を争つて逃げて行つた。
 尊氏は三井寺で合戦が始まつたと聞き、援軍を出さうと三條河原で勢ぞろひをしてゐる所へ、はや四五万騎の軍勢が逃げてきた。追ひかけてきた新田左兵衛督は二万三千余騎を三手に分け、一手は将軍塚の上へあげ、一手は真如堂の前から出し、一手は法勝寺を後に二條河原へ出して置いて、合図の煙を上げた。義貞自身は花頂山に上つて敵の陣を見廻してから、互ひに知合つてゐる侍五十騎づつを一団とした二千余騎を敵中へ紛れ入らしめ、合図が始まると直ぐ敵の陣中をかけ廻らさせる計略を立てた。
尊氏はそんな事とは知らず、
「新田はいつも平野の戦を好むと聞いてゐたが、山を後にして一向仕懸けて来ないのは、小勢を敵に見せまいとしてゐるに違ひない。師泰、将軍塚の上の敵を追ひ散らせ。」と命令した。師泰は二万余騎をひきつれ、二手に分れて攻め上つたが、此処には脇屋、堀口らがゐて、攻め上る敵を、大山の崩れかかるが如く、真逆様に攻め下したので、師泰の軍勢は一たまりもなく五條河原へ退却した。搦手で戦が始まると、大手でもそれに應じて鬨の声を上げた。即ち官軍の二万余騎と尊氏の八十万騎とが入れ替り入れ替り戦ひ合つた。
 寄手は小勢ではあるが、心が一つに合つてゐて、攻め込む時は一度にさつとかかつて敵を追ひまくり、退く時は負傷者を中に守つて静に退いた。京勢は大軍ではあるが人の心が一致せず、攻め込む時も揃はず、退く時も助け合はず、思ひ/\に闘つた為めに、六十余度の合戦は何時も官軍の勝ちであつた。けれども尊氏方は多勢故、討たれても軍勢はへらず、逃げても遠逃げはせず、唯だ一所に支へてゐた。其時、最初敵中へ紛れ込んでゐた官軍が、尊氏の前後左右から起つて乱れ合つて戦つた為め、いづれが敵いづれが身方とも分らず、同士打を始めたので、高、上杉らは山崎へ、尊氏、吉良、仁木、細川らは丹波路へ逃げて行つた。官軍は勝につけ込んでいよいよ烈しく追ひかけたので、尊氏は途中で三度も自害をしかけたが、日が暮れて官軍は桂河から引返した為め、暫くの間松尾葉室の間で休息して、渇をいやした。
 細川卿律師定禅は四国の軍勢に向ひ、
「今日の敗戦は三井寺の合戦に負けた事が原因だが、それは我々の責任だから、人の嘲りは到底まぬがれない。此上は他の軍勢を交へず、我々だけで花々しい一戦をして、天下の人々の悪口をやめさしたい。今から北白河へ廻つて、下松にゐる赤松筑前守と一所になり、新田の軍勢と一戦して見よう。」
と云つて、伊予、讃岐の軍勢の中から三百余騎を選り出して北白河へ廻り、糺の森の前で三百余騎を十方に向け、下松、薮里、静原、松崎など、三十余箇所に火をつけておいて、一條から三條の間の三箇所で鬨の声を上げた。官軍は京、白河の間に分散し、一所に集つた軍勢が少なかつたので、義貞、義助は一戦で負け、坂本をさして引き返して行つた。

正月二十七日合戦の事
  
 去年搦手の東山道より鎌倉へ攻め下つた大智院宮の軍勢は、竹下箱根の合戦に合図が違つて逢へなかつたが、諸国の軍勢を加へて大軍となつたので鎌倉に向つた所、新田は負けて引返し、尊氏がそれを追つて上京し、其後奥州の顕家卿も亦尊氏の後を追つて攻め上つたといふ事だつたので、又々、其後を追つて上り、二万余騎の軍勢は正月二十日の夕方に東坂本へ到着した。官軍はそれに力を得て、二十七日に合戦をしようと相談をきめた。
 其日になると、楠、結城、名和は三千余騎で下松に、顕家卿は三万余騎で山科に、洞院左衛門督は二万余騎で赤山に、又比叡山の僧侶一万余騎は鹿谷に、新田左兵衛督兄弟は二万余騎で北白河に、それぞれ陣を取り、大手搦手の軍勢合せて十万三千騎は、皆宵の中から押寄せてゐたが、敵に知られないやうにと篝火はわざと焚かなかつた。
 さて気の早い僧侶達は先づ抜け懸けをして、神楽岡の宇都宮紀清両党の陣へ攻め寄せ、互ひに入れ替り立ち替り烈しく戦ひ合つたが、僧侶達は遂にこれを攻め破り、宇都宮勢は退いて二條の軍勢に加はつた。
 又楠判官、結城入道、名和伯耆守は三千余騎で糺の森の前から押し寄せ、出雲路の辺へ火をかけた。ここでは上杉伊豆守、畠山修理大夫、足利尾張守らが五万余騎で防いだが、楠の謀に悩まされ、わづか五百余騎の軍勢に攻め立てられて五條河原へ引き退いた。
 奥州の国司顕家卿は二万余騎で粟田口から押寄せ、東大路に火をつけた。尊氏はこれを見て、自ら五十万騎をひきつれて馳せ向ひ、追ひつ追はれつ、入れ替り入れ替り烈しく戦つたが、両軍共に戦ひ疲れて一休みしてゐる所へ、新田義貞、脇屋義助らが三万余騎を三手に分けて、二條河原に雲霞の如く集つてゐる敵の眞中を真横に通り、敵の後を絶たうと京中へ攻め込んだ。敵はこれを見てあわて騒ぎ、四方八方へ逃げ出したので、義貞はわざと鎧をぬぎかへ、馬を乗り替へ、唯だ一人敵の中へ攻め入り攻め入り尊氏をさがしたが、遂に見出す事が出来なかつた。其内日も暮れたので、楠判官の意見に従ひ逃げ行く敵を長追ひせず、そのまゝ坂本へ引き返した。
 尊氏は今度も丹波路へ退かうと、寺戸の辺まで来た所、京都の中には敵が一人も残つてゐないと聞いて、再び京都へひきかへしてきた。

将軍都落ちの事附薬師丸帰京の事

 楠正成は比叡山へ帰り、翌朝律僧二三十人を作り立てゝ京へ下し、此処彼処の戦場で死骸をさがさせた。足利勢は不思議に思つて其理由を問ふと、此僧達は悲しみの涙を押へて、「昨日の合戦に新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠判官殿以下重立つた人々が七人も討死されたので、供養の為めに其死骸を探して居ります。」
と答へた。又同日の夜半頃、楠正成は下男達に松明二三千を並べ燃させて、小原、鞍馬の方へ下らした。京都の軍勢達はこれをみて、
「さてこそ、比叡山の敵は大将を討たれて今夜方々へ逃げて行くらしい。」と告げたので、尊氏は、
「それでは逃がさぬ様に方々へ軍勢をさし向けよ。」
と、鞍馬路、小原口、勢多、宇治、嵯峨、仁和寺等へ、それぞれ軍勢をさし向けて固めさせた。これが為め京都にゐた大軍は半ば減じ、其上残つてゐる兵士達は油断して用心することを怠つてゐた。
 さて官軍は宵から西坂を下り、八瀬、薮里、鷺森、下松に陣を取り、諸大将は皆一つになつて二條河原へ押寄せ、あちらこちらの民家に火をつけ、三箇所で鬨の声を上げた。
 京都の軍勢は敵が押寄せて来ようとは夢にも思はなかつたので、あわて騒いで、丹波路を指して逃げる者もあれば、山崎に向つて逃げる者もあり、又僧となるものもあり、官軍はさう遠くまでは追はないのに、後から逃げてくる身方を追ひかけてくる敵だと考へ、久我畷、桂河の辺では、自害をした者が数へ切れない程あつた。
 尊氏は丹波の篠村を通り、内藤三郎左衛門入道道勝の屋敷へ着いた。やがて兵庫湊河に逃げ集つた軍勢から丹波へ急使を出して尊氏を迎へたので、尊氏は二月二日に丹波を立つて摂津ヘ着いた。
 此時熊野山の別当四郎法橋道有の子孫で、薬師丸といふ稚児姿の者がお供をしてゐたのを、尊氏は呼び出して、
「今度京都の合戦に何時も敗れたのは、尊氏が朝敵である為めである。それ故何とかして持明院殿の院宣を賜つて合戦をしたいと思つてゐる。お前は日野中納言に縁故があると聞いてゐる、これから京都へ帰つて院宣のお下渡しを御願ひしてみよ。」
と云はれたので、薬師丸は承知して京都へ上つて行つた。

大樹摂津国豊島河原合戦の事
  
 尊氏が湊河に着くと、方々から軍勢が集つてきて、間もなく二十万騎にもなつたが、湊河の宿でぐづ/\と三日も逗留してゐる間に、宇都宮を始め多くの軍勢が官軍に降参して義貞についた為め、官軍はいよ/\大軍になつた。
 二月五日に顕家卿と義貞とは十万余騎で京都を出発し、摂津国の芥河に着いた。尊氏はこれを聞いて弟の左馬頭に十六万騎をつけて攻め上らした。両軍は二月六日に豊島河原で行き合ひ、互ひに入れ替り入れ替り烈しく戦つたが勝負がつかず、其日一日は戦ひ暮した。所がおくれて馳せつけてきた楠正成は、合戦の様子を見て、正面からは攻めかゝらず、神崎を廻つて浜の南から攻め寄せたので、左馬頭の兵は終日の合戦に戦ひ疲かれた上、敵に後ろを囲まれまいとの懸念もあつた為め、一戦もせずに兵庫をさして引き揚げた。
 義貞はこれを追駈けて西宮へ着くと、直義は湊河に陣をとつてこれを防いだ。そこへ大友、厚東、大内介が足利方へ、伊予の土居、得能が官軍方へ、それぞれ船を漕ぎつけて加つたので、お互ひに新手の軍勢を先立てて又烈しく戦ひ合つたが、左馬頭は攻め破られて兵庫へ退却した。
 尊氏は何度戦つても攻め破られたので、もはや疲れた様子が見えた。そこで大友の意見に従ひ其船に乗つて逃げ出し、筑紫をさして海上に漂ひ出たので、義貞は花々しく京都へ凱旋して来た。
 
主上山門より還幸の事
  
 逆賊が京都を逃げて行つたので、二月二日に天皇は比叡山より還幸遊ばされて、花山院を皇居と定められた。同じ月の八日には義貞が豊島、打出の合戦に勝つて京都へ帰つて来た。其度々の合戦の模様を天皇は特に御感心遊ばされ、臨時の式を挙げて義貞を左近衛中将に任ぜられ、義助を右衛門佐に任ぜられた。又建武の年号は朝廷の為め不吉であると云ふので、二月二十五日に延元と改められた。

賀茂の神主改補の事
  
 賀茂の神主職貞久を罷めて、尊氏はそれに基久を任命したが、今度また天下の政治が覆つたので、朝廷の命令として元の貞久が復活させられた。
 此事は今度に限つたわけでなく、天下の乱の為め、基久貞久は両院の御治世の変る度に常にかへられ、三四年の間に三度も改められたので、基久は遂に世をはかなみ、一首の歌を詠み残して、出家遁世の身となつてしまつた。
 

(一)戒を授受する壇場。
(二)行幸の時検非違使の判官が浮橋を作つて渡したので此称あり。


巻 第十六
  
将軍筑紫へ御開きの事
  
 建武二年二月八日に兵庫を逃げ出した尊氏の軍勢は、散り/゛\ばら/゛\になつて、今は高、上杉、仁木、畠山、吉良、石堂の人々と、武蔵、相模の軍勢とが従ふばかり、筑前国多々良浜の湊に着いた日は、五百人にも足りない人数になつてゐた。
 其処へ宗像大宮司が使をさし向けて迎へに来たので、尊氏は宗像の屋敷へはいり、翌日少弐入道妙慧の所へ南遠江守宗継、豊田彌三郎光顕の二人を使として、頼りにしてゐる旨を云つてやつたので、少弐入道は直ぐさま長男の太郎頼尚に三百騎を添へて行かしめた。

少弐菊池と合戦の事附宗応蔵主が事
  
 菊池掃部助武俊は元から官軍方であつたが、少弐が尊氏に身方すると聞いて、途中で討ち取らうと水木の渡しへ馳せつけ、少弐太郎の軍勢を大半討ちとつた。菊池は最初の合戦に勝つて悦び、其軍勢をひきつれて少弐入道妙慧が立籠つてゐる内山の城へ押し寄せたが、城は要害の場所にあるので、新手を入れ替へ入れ替へ数日間攻め立てたが落ちなかつた。所が少弐の一族の中に裏切者が現はれたので、妙慧は腹を掻き切つてしまつた。
 此少弐の末の子に宗応蔵主といふ僧があつたが、父の死を弔うて、骸を火葬に附した。そして其火葬の火の中へ飛び込んで、自分も同じく死んでしまつた。
 
多々良濱合戟の事附高駿河守例を引く事
  
 少弐の城を攻め落した菊池は、大軍を擁して多々良浜へ攻め寄せた。尊氏は香椎宮に上つて敵の軍勢を見廻し、無理な戦をして名もない者に討たれるよりも腹を切らう、と云ひ出したのを左馬頭直義が堅く諌めて、合戦の勝敗は大勢小勢によるものではない。先づ直義が馳せ向つて一戦して見ませうと、云ひ捨てゝ立ち出たので、仁木、細川、高、大高、南、上杉、畠山、其他の軍勢二百五十騎がこれに従つた。
 敵身方の軍勢が互ひに近づいた所へ、菊池の兵が唯だ一騎抜けがけして来たのを、眞先に進んでゐた曾我左衛門、白石彦太郎、八木岡五郎の三人がいきなり討ち取つたので、これに元気を得た軍勢は心を一つにして敵の大軍の中へ斬込んだ。それが為め、菊池の大軍はわづかな軍勢に攻め立てられて、多々良浜の遠干潟を二十余町も引き退いた。又搦手へ廻つた松浦、神田の兵達は、三百騎にも足りない足利勢を二三万騎にも見て俄に降参してしまつた。菊池はこれを見て、急いで肥後の国へ引返して行つた。尊氏は一色太郎入道道獻、仁木四郎次郎義長の二人をさし向けて、菊池の城を攻めさした所、一日も持ちこたへられず、深山の奥へ逃げこんでしまつた。
 其後各所の官軍を次々に攻め滅したので、九州、壱岐、対馬はすべて尊氏につき従ふ事となつた。
 松浦、神田の兵共は足利の小勢を大軍と見て降参したといふので、尊氏は上杉の人々に向ひ、「松浦、神田が一戦もせずに降参したのは、何か野心を懐いてゐての仕業かも知れない。殊に身方の小勢を大軍と見た事は疑はしい。各々方決して油断をしてはならぬ。」と云つた所、高駿河守が進み出て、人の心中の知りがたい事は天よりも高く地よりも厚いとは云ふが、こんな重大な時には、余り人の心を疑つては大功が成就しない。身方の軍勢が大軍に見えたといふのは、決して例のない事でもないと、日本や支那の例を引いて話し、これは全く我々の武運が天の心に叶つたのであると説いたので、尊氏を始め一同は互ひに喜び合つた。

西国蜂起官軍進発の事

 筑紫へ逃げのびた尊氏の追討を、義貞がぐづ/゛\して躊躇(ためら)つてゐる中に、丹波国では久下、長澤、荻野、波々伯部の手の者が、仁木左京大夫頼章を大将として高山寺の城に立籠り、播磨国では赤松入道円心が白旗峯に城を作つて討手の軍勢を待ちうけ、美作では菅家(かんけ)、江見(えみ)、弘戸(ひろと)の人々、備前では田井、飽浦、内藤、頓宮(はやみ)、松田、福林寺の人々、備中では庄、真壁、陶山、成合、新見、多地部の人々が起り、これより西の備後、安芸、周防、長門は勿論、四国、九州も凡て尊氏の身方となつてしまつた。京都ではこれをきいて、東国が敵になられては叶はないと、北畠源中納言顕家卿を鎮守府将軍として奥州へ下された。新田左中将義貞には十六筒国の管領をお許しになり、尊氏追討の宣旨をお下しになられた。義貞は天皇の命をうけて、先づ江田兵部大輔行義、大館左馬助氏明の二人に二千余騎をつけて播磨国へ差し向け、二人は三月六日に書写坂本へ着き、そこへ押寄せた赤松の軍勢を先づ打ち破つた。
 
新田左中将赤松を攻めらるる事
  
 義貞は五万余騎をひきつれて京都を出発し、行く/\諸所の兵士を併せて六万余騎となつた。そこで赤松の城を攻め落さうと、斑鳩(いかるが)の宿まで押寄せた時、赤松円心は宵貞に使を出して、
「播磨の守護職に補せられる綸旨に御辞状を副へて賜はつたならば、元の如く御身方になつて忠義を尽したい。」
と申し出たので、義貞は京都へ急使を立てて、守護職補任の綸旨を下されるやうにとりなした。所が其使の往復の間に、円心はすつかり城を造り上げて、
「此国の守護国司は将軍尊氏殿から頂いてゐます。手の裏を覆(かへ)すやうな綸旨が何にならう。」
と嘲弄して綸旨を返して来たので、義貞は、
「よし、其考へならば、縦へここで数ケ月を費しても、城を攻め落さずには置けない。」と、六万騎の軍勢で白旗の城を百重千重に取囲み、五十余日の間、夜昼休みなく攻め立てたが、城はなか/\堅固で落ちなかつた。そこで脇屋右衛門佐の意見に従ひ、軍勢を分けて宇都宮菊池ととに二万余騎をつけ、伊東大和守、頓宮六郎の二人を案内役として、船坂山へさし向け、其処の敵にあたらせた所、船坂山は山陽第一の要害地故、皆攻め上りかねて、山を見上げて日を過すのみであつた。

児島三郎熊山に旗を挙ぐる事附船坂合戦の事
  
 備前国の児島三郎高徳は、去年の冬、細川卿律師が四国から攻上つた時、備前備中の数箇度の戦に負け、山林に身を隠してゐたが、官軍が船坂山を越えかねてゐると聞き、こつそり使を新田の所へ出して、手筈を打合せ、合図を定めて置いて、四月十七日の夜半頃、自分の屋敷へ火をつけ、近辺にゐた親類の者共と二百余騎で、熊山に立籠つて兵を挙げた。予想通り三石船坂の賊兵は先づ熊山へと押寄せてきた。其敵を防いで高徳は一日中戦ひ暮し、わざと時を過してゐた。所が夜になつて思ひもよらぬ所から敵が攻めこんで来たので、僅かの軍勢で其敵と烈しく戦つてゐる中、高徳は内兜を突かれて馬から落ちた。それが重傷である上、馬から落ちる時馬に胸板を強く踏まれて息が絶えてゐたのを、父の備後守範長が元気づけたので漸く息を吹き返した。そこで一同は敵を追ひ散らし、暫くは両軍共に守り合つて戦もしなかつた。
 合図の日になると新田勢は三手に分れて、船坂の前後へ嶮しい道を分けて進み、東西に火をつけ鬨の声を上げて攻め入つた。城中では大半の兵を熊山へさし向けた後の事とて、驚きあわてて逃げ廻り、逃げ場を失つた者は其処此処で自害をしたり、生捕られたりした。其数は実に夥しかつた。
 さて船坂を攻め落した江田兵部大輔は美作国へ攻め入り、奈義、能仙、菩提寺の諸城を落し、脇屋右衛門佐義助は三石の城を攻めた。又大江田式部大輔は備中国へ押寄せ、福山城に陣を取つた。
 
将軍筑紫より御上洛の事附瑞夢の事
 
 多々良浜の合戦の後は、九州一円尊氏に従はない者はなかつたが、中国には敵が充満し、東国には身方が少かつたので、たやすく京都へ攻め上る事は出来まいと、春の敗北に懲りて皆恐れてゐた所へ、赤松入道の三男則祐律師が筑紫へ馳せつけ上京を勧めたので、尊氏は仁木四郎次郎義長を大将として大友、少弐の二人を九州へ残し、四月二十六日に太宰府を出発し、急いで上京の途についた。五月一日には安芸の厳島へ立ち寄つて三日間参籠をした。其最終の日に京都から下向した三宝院の僧正賢俊が持明院殿から下された院宣を奉つた。尊氏はこれを拝覧して悦び、四国中国の軍勢を加へて五日に厳島を出発し、鞆の浦からは左馬頭直義を大将に、二十万騎の軍勢を分けて陸路を進ましめ、尊氏は一族の者、高、上杉らの一類をひきつれ、兵船七千五百余艘を漕ぎ並べて海路を進んだ。
 鞆の浦を出発する時に一つの不思議な事があつた。尊氏が屋形の中で一寸の間うと/\としてゐると、南方から光り輝いた観世音菩薩が飛んで来られて、船の舳へ立たれ、眷属の二十八部衆が各々矢や武器を持つてそれをお守りした。尊氏は夢がさめて見ると、山鳩が一羽船の屋形の上にゐた。これは観世音がお守り下さつて、勝戦をする夢のお告げだと、杉原(一)の紙を短冊の広さに切らせ、自ら観世音菩薩と書いて船の帆柱毎につけさせた。

備後福山合戦の事
  
 五月十五日の宵から、左馬頭直義は三十万騎の軍勢で、官軍の立籠る福山城を取囲んで攻め立てた。城中の大将大江田式部大輔はよく防いだが、衆寡敵せず、四百余騎に討ちなされた軍勢を集め、一方を打ち破つて五月十八日の朝早く三石の宿へ落ちて行つた。
 脇屋右衛門佐は三石から新田左中将に使を出して、福山合戦の様子を詳しく報告した所、義貞は西国の戦を止め、急いで摂津国まで引き退き、京都を後にして合戦をしようと云つて来たので、官軍は皆三石をすてて退いた。
 和田備後守範長、息子の三郎高徳は、西川尻に陣をとつてゐたが、福山城が落ちたと聞いて三石へ馳せつけた所、脇屋は播磨へ退いた後だつたので、三石の南の山路を夜通しに越えて、佐越(さごし)の浦まで出てきた。息子の高徳は此前の合戦で受けた傷がまだ癒えてゐないので、目がくらんで馬に乗る事が出来ない、佐越の近くに知合の僧のあつたのを探し出して預けてゐる間に、赤松入道円心がこれを聞きつけて、三百余騎をさし向けて那波辺で待伏せしてゐた。備後守は赤松勢と山陰で出合ひ、八十三騎の者が三百余騎の中へ懸け入つて、浜路を東へと逃げて行つた。赤松の軍勢は附近の野武士達を誘つて散々に射かけたので、備後守は那波から阿禰陀が宿での間に十八度も戦つて、主従は僅かに六騎に討ちなされた。備後守は或辻堂の前で馬を駐め、
「範長の討死すべき時が来た。今はもう遁れる事が出来ない。」
と云つて、馬から飛び下り、辻堂の中へ走りこんで念仏を唱へ、腹一文字に掻き切つて其刀を口にくはへ、うつぶしになつて死んでしまつた。

新田殿兵庫を引かるる事
 
 新田左中将義貞は備前美作の軍勢を待つて陣容を整へようと、賀古川の西にある岡に陣をとつて二日間逗留してゐた。丁度五月雨が降り続いて河の水が増したので、馬の弱い軍勢や負傷者達を段々に渡して行つたが、水は一晩の中に減じ、又備前美作の軍勢も馳せつけたので、馬筏(二)を組んで六万余騎を一度に渡してしまつた。
 然し義貞の軍勢は足利兄弟の上京ときいて段々に逃げ失せ、五月十三日に兵庫へ着いた時は、二万騎にも足りない程になつてしまつた。

正成兵庫に下向の事

 尊氏、直義は大軍を率ゐてゐるから、義貞は要害の地で戦はうと兵庫まで退いた旨を、急使を立てゝ皇居へ御報告申上げたので、天皇は一方ならず驚かれて楠判官正成を呼び、「急いで兵庫へ下り、義貞と力を合せて合戦をせよ」と仰せ出された。そこで正成は畏まつて、天皇は比叡山へ行幸になり、義貞を呼び返して、尊氏を京都へ入らせ置き、四方から攻め立てゝこれを滅ぼさうといふ謀を申上げたが、坊門宰相清忠の反対によつて其謀が用ひられず、五月十五日、京都を出発して五百余騎で兵庫へ下つた。
 正成は心中、これが最後の合戦であると思つたので、今年十一歳になる長男の正行を櫻井の宿から河内に帰すことに決め、さて正行に向つていふには、
「獅子は子を産んで三日たつと、数千丈の石壁から其子を投げ落す。其子に獅子の意気込みがあるならば、教へなくとも跳ね返つて死ぬる事はないといふ。ましてお前はもはや十歳を過ぎてゐる。一言耳に留まつたならば、父の此誡めに違つてはならぬ。今度の合戦は天下の分れ目、今生(こんじやう)でお前の顔を見るのはこれが最後だと思ふ。正成がもはや討死をしたと聞いたならば、天下は必ず尊氏のものとなつたと考へてよい。ではあるが暫しの命を惜んで多年の忠義を失ひ、降参するやうな事があつてはならぬ。一族の者や若武者達が一人でも生き残つてゐる間は、金剛山に立籠り、敵が攻め寄せて来たならば、命を養由(三)の矢さきに託し、義を紀信(四)の忠に比べよ。これがお前の第一の孝行だ。」
と、泣く/\云ひきかせて、各々東西に別れた。
 正成は兵庫に着いて、新田左中将と対面した。義貞は天皇の御考への模様を尋ね問ひ、正成は自分の考へと天皇の仰せとを詳しく話し、夜通しの物語に数杯を傾け興じた。

兵庫海陸寄手の事
  
 五月二十五日の朝八時頃、沖の霞の晴間から、広々とした海面十四五里の間を漕ぎ連ねて夥しい兵船が近づき、陸路は須磨の上野と鹿松岡(しかまつのをか)、鵯越の方から五六百本の旗をさし並べて雲霞の如き大軍が攻め寄せて来た。海上の兵船、陸路の軍勢は聞きしにもまさる大軍であつたが、義貞、正成は少しも恐れる様子がなく、静かに手分けをして、一方、脇屋右衛門義助を大将に五千余騎を経島へ、他方、大館左馬頭氏明を大将に、三千余騎を燈爐堂の南の浜へ、又一方、楠判官正成がわざと他の軍勢を交へず、七百余騎で湊川の西の宿に控へて、陸路の敵に向つた。左中将義貞は総大将であるから、三万五千余騎で和田御崎に幕をひかせて控へてゐた。さて海上陸路の両陣は互ひに攻め寄せてきて、先づ沖の船から太鼓を鳴らして鬨の声を上げると、陸路の敵がそれをひきとつて声を合した。之に対して官軍の軍勢が、又鬨の声を上げた。

本間孫四郎遠矢の事
 
 新田、足利の両大将が互ひに近よつて未だ戦ひを始めない間に、新田勢の中から本間孫四郎重氏が唯だ一人進みいで、敵身方の共に見まもつてゐる中で、波の上に下りた●(「舟」へん+「鳥」)(みさご)が魚をくはへて沖の方へ飛んで行くのを、鏑矢をつがへて見事に射落した。本間はわざと生きたまゝを射落さうと思ひ、片羽を切つたばかりであつた為め、鏑は大内介の船の帆柱に立ち、●(「舟」へん+「鳥」)は大友の船の屋形の上へ落ちかゝつた。
 これを見た尊氏は名字を承りたいと問はした所、本間はこの矢で名字を御覧あれと、三人張の弓に十五束三伏の矢をつがへて遠矢に射た。其矢は六町余りを越えて、尊氏の船と双んでゐた佐々木筑前守の船の屋形に乗つてゐた兵の鎧の草摺(五)を裏まで通して突き立つた。尊氏が其矢を取りよせてみると、相模国住人本間孫四郎重氏と小刀の先で書いてあつた。
 本間は扇を上げて沖の方をさし招き、
「合戦最中の事故矢の一本さへ惜しまれる。其矢を此方へ射返して下されい。」
と云つたので、尊氏は、佐々木筑前守顕信に、それを射返さしめようとした。佐々木は固く辞退をしたが許されず、自分の船にかへつて、弓の弦をくひしめ、将に射返さうとした所へ何といふ出しやばりの馬鹿者だ、讃岐の軍勢の中から鏑矢を一本射た者があつた。其矢はしかし二町も射とどかず、波の上へ落ちてしまつたので、本間の軍勢ではしばしの間笑ひやまなかつた。そこで佐々木は遠矢をやめてしまつた。

経島合戦の事
  
 遠矢を射そこなつて敵身方に笑はれた者は、船一艘に二百余人も乗込んで経島へ漕ぎよせ、磯に飛び下りて攻めかゝつたが、脇屋右衛門佐の軍勢は一人も残らずそれを討ち取つてしまつた。細川卿律師はこれを見て、
「続く者がなかつた為めに討たしてしまつた。下場(おりば)の良い所へ船をつけて、馬を追ひ下し追ひ下し打つて上れ。」
と命令したので、四国の兵船七百余艘は紺部(こんべ)(六)の浜から上らうと、磯に沿つてのぽつて行つた。兵庫島の三箇所にゐた官軍は、船の敵を上げまいと漕ぎ行く船について海岸を東へと進んだ為め、新田左中将と楠との間は遠く離れ、兵庫島の船著場には防ぐ軍勢もなかつたので、九州中国の兵船六十余艘は和田御崎へ漕ぎよせて上陸してしまつた。

正成兄弟討死の事

 楠正成は弟の正季に向ひ、
「敵が前後を遮つて、身方は陣を隔てられてしまつた。今はもう逃げる事が出来ない。さあ、前の敵を一散らし追ひまくつて、後の敵と戦はう。」
と云ふと、正季も「さう致しませう」と答へて、七百余騎を前後に立てゝ大軍の中へ攻め入つた。左馬頭の兵はこれを取り囲んで討たうとしたが、正成、正季は東西南北に追ひ散らして烈しく攻め立て、二人は左馬頭に近づき、組んで討ち取らうと、七度出合つて七度分れた。左馬頭の軍勢五十万騎は、楠の小勢に攻め立てられて須磨の上野の方へと引き返した。直義は危ふく討たれようとしたのを、家来に助けられて漸くに逃げのびた。
 尊氏は此有様を見て、「新手を入れ替へて直義を討たすな。」と命令したので、吉良、石堂、高、上杉らの人々が六千余騎で湊河の東に出で、正成の後を遮らうと取りまいた。正成、正季は取つてかへして、今度は此敵に向ひ、烈しく攻め戦つた為め、軍勢は追々討たれてわづかに七十三騎となつてしまつた。これだけの軍勢でも攻め破つて逃げようと思へば逃げられたのに、正成は京都を出た時からこれが最後だと決心してゐたので一足も退かず、もはや戦ひ疲れたので、湊河の北に一村の民家のある中へ走り込んで、腹を切らうと、鎧を脱いで身体を見ると、斬傷を十一箇所も受けてゐた。七十二人の人々も皆傷を受けてゐない者はなかつた。やがて楠の一族の者十三人と家来の者六十余人は客間へ二列に竝び、念仏を十ペんばかり同時に唱へて、一度に腹を切つた。
 正成は上座にゐて弟の正季に向ひ、
「死際の心一つで、次の世に善くも悪くも生れるといふが、九界(七)の中お前は何に生れかはりたいと思ふか。」
と問うた所、正季は笑ひながら、
「七度同じ人間に生れてきて朝敵を滅したいと思ひます。」
と答へたので、正成は事の外うれしさうな様子で、
「罪深い願ひだがわしもさう思ふ。さあ、それでは生れかはつて此望みを達する事にしよう。」
と契つて、兄弟互に刺し違へ、同じ枕に死んでしまつた。

新田殿湊河合戦の事

 楠が討死したので、尊氏と直義とは一所になつて、新田左中将に攻めかゝつた。義貞はこれを見て、生田の森を後にして四万余騎の軍勢を三手に分け、三方に敵をうけた。二手の軍勢は入れ替り立ち替り烈しく戦ひ合つたので、暫くの間東西に分かれて人馬の息休めをしてゐた。これを見てゐた義貞は、もはや自分の出るべき時だと二万三千余騎を左右に従へて、尊氏の三十万騎に正面から向ひ、両軍共に命を惜しまず攻め戦つたが、官軍は小勢の為め大軍に攻め立てられ、わづかに五千余騎となつて生田の森の東から丹波路をさして逃げて行つた。
 義貞は追ひかけてくる敵に馬を射倒され、求塚で馬から下りて乗かへの馬を待つてゐたが、身方はそれに気がつかなかつた。敵はこれを見て取囲んで討ち取らうとしたが、近づく事が出来ず、ぐるりから遠矢を射かけたので、義貞は矢を十六本も切り落した。小山田太郎高家は遠くの山上からこの有様をみて馳せつけ、自分の馬に義貞を乗せ、迫ひかけてくる敵を支へ、大軍に取囲まれて遂に討死をした。其間に義貞は身方の軍勢の中へ馳せ入つて危ふい命を助つた。

小山田太郎高家青麦を刈る事

 小山田は義貞を自分の馬に乗せ、敵に囲まれて討死をしたが、元をたゞせば僅かの人情に惹かれたのであつた。去年義貞が西国の討手を承つて播磨へ到着した時、兵は多く、糧が少かつたので、若し軍に掟を作らなかつたならば、諸卒の乱暴が絶えないであらうと、一粒でも刈りとり、一民家でも掠め取つた者は、直ぐさま斬り捨てるといふ事を大礼に書いて道の辻々へ立てさせた。
 所が高家(たかいへ)は敵陣の近くへ行き、青麦を刈らせて帰つてきたので、侍所(八)の長濱六郎左衛門尉は高家を呼び出し、仕方なくこれを斬らうとした。義貞はこれをきいて、
「まさか青麦の為めに身を亡ぼさうとは思ふまい、敵陣であると考へ違ひをしたか、兵糧を得る方法がなくなつて、重い掟を忘れたか、二者の中のどちらかであらう。彼れの役所を見よ。」と使をやつて調べさした所、食物の類は一粒もなかつた。使者が此事を義貞に告げると義貞はひどく恥じて、
「高家が掟を犯したのは戦の為に罪を忘れたのである。士卒が先に疲れるといふ事は大将の恥だ。勇士は失つてはならず、法も亦乱してはならぬ。」
と、田の持主には小袖を二重(かさね)與へ、高家には兵糧十石を添へて帰した。
 高家は此情に感激していよ/\忠義の心を深め、大将に代つて討死をしたのであつた。
 
聖主又山門へ臨幸の事
  
 宮軍の総大将が僅かに六千余騎となつて京都へ帰つて来たから、京都では大騒ぎをして、五月十九日に天皇は三種の神器を先に立て比叡山へ臨幸遊ばされた。今度は公家にも武家にも御供をする者が多かつた。摂政関白を始め、外記(九)、史(一〇)、官人(一一)、北面(一二)、瀧口(一三)、官僧、官女ら、我も我もとお供をした。武家では義貞、義顕の父子、脇屋義助らを始め、都合六万余騎の軍勢が御乗物の前後を囲んで今路越に落ちて行かれた。
 
持明院、本院、東寺に潜幸の事
  
 持明院の法皇(一四)、本院(一五)、新院(一六)、春宮(一七)の方々も皆比叡山御幸遊ばされることになり、太田判官全職(たけもと)がお供をしてゐた。ところが本院は、先頃尊氏に院宣を下されたので、二度御治世を遊ばされるやうな事もあらうかと、北白川の辺から俄に御病気だと云ひ立てられ、御乗物を法勝寺の塔の前に舁き据えさせて、わざと時間を過してゐられた。全職はさう何時までも待つてゐられないので、お供の人々に急いで比叡山へお供をして来いと云ひ残して、法皇、新院、春宮を先に東坂本へ御送り申した。本院は全職が引返して来てはと恐しく思はれ、日野中納言資名と三条中将実継とを連れられ、急いで東寺へおいでになられた。尊氏は一方ならず悦び、東寺の本堂を皇居と定めた。これは確かに尊氏の運の開ける瑞兆だと人々は囁き合つた。
 
日本朝敵の事
  
  日本開闢の始めより、先づ神武天皇の御代に於ける紀伊国名草郡の蜘蛛を第一に、天智天皇の御代の藤原千方、朱雀天皇の御代の将門、其他、大石山丸、大山王子(一八)、大伴真鳥、守屋大臣(一九)、蘇我入鹿、豊浦大臣、山田石川左大臣、長屋右大臣(二一)、豊成(二二)、伊予親王(二三)、氷上川継、橘逸勢、文屋宮田、恵美押勝、井上皇后(二四)、早良太子(二五)、大友皇子、藤原仲成、天慶の純友、康和の義親(二六)、宇治悪左府(二七)、六条判官為義、悪右衛問督信頼、安倍貞任、宗任、清原武衡、家衡、平相国清盛、木曾冠者義仲、阿佐原八郎為頼、時政九代の後胤たる高時法師に至るまで、朝敵となつて天皇の御心を悩まし、仁義を乱した者は、いづれも皆刑罰に苦しめられ、屍を獄門に曝さぬはない。それ故尊氏もこの春、関東八箇国の大軍をひきつれて上京したが朝敵であつた為め度々の合戦に負け、九州を指して逃げて行つた。今度は前非を悔いて一方の皇統を立て、院宣を賜つて行動したから、威勢の上に一つの理由がついて、大功は直ぐさま成就するであらうと、人々は皆さゝやき合つた。
 さて東寺が院の皇居となつたので、四方の壁を城郭の構へにつくり、尊氏、直義は共に此寺に立籠つた。

正成が首故郷へ送る事

 湊川で討死をした楠判官の首を六条河原にかけた所、去る春にもにせ首をかけたので、これも亦にせ首であらうと云ふ者が多かつた。
 其後尊氏は楠の首をとりよせ、
「公事にも私事にも、長い間交つた旧い友達だ、哀れな事をした。後に残つた妻子達もさぞかし顔を見たく思ふであらう。」
と云つて、郷里へ送つてやつた。
 楠の後室は、正成が兵庫へ出発する時、色々と誡めを残した上、今度の合戦には必ず討死をするからといつて、正行を留めて行つたのであるから、出て行かれた時が最後の別れだと、前々から考へてゐたものゝ、さて、面(まのあた)り御首(しるし)を見ると、如何にも正成に相違はないが、目はつむり、色は失せ、変り果てゝゐる有様に胸が一杯になり、悲しみと歎きの涙がとめどもなく流れた。今年十一歳になつた正行は、父の顔が生前とは似ても似つかないものになつてゐるのを見、又母のやるせなげな歎きの有様を見て、流れる涙を袖でおさへ、持仏堂の方へ立つて行つた。母は怪しんで妻戸の方から行つてみると、父が兵庫へ行く時形見に残した菊水の刀を抜いて右手に持ち、袴の腰を押し下げて自害をしようとしてゐた。母ほ急いで走り寄り、正行の腕に取りつき、涙を流して云ふには、
「栴檀は二葉より芳はしと昔から云はれてゐる。お前は幼くても父正成の子であるならば、これ位の道理がわからぬ事はあるまい。幼心にもよくよく事の有様を考へて見よ、亡き父が兵庫へ行く時、お前を桜井の宿から帰したのは、父の亡き跡を弔へといふのでもなく、又腹を切れと云ふのでもない。自分はたとへ武運がつき戦場で討死をしても、天皇が何処々々においでになると聞いたならば、生き残つた一族の者や若侍らを扶持しておいて、今一度軍勢を集めて戦を起し、朝敵を滅して皇位を護り奉れと云ふ意味であつたのです。其遺言を詳しく承つて、此母に話して聞かせたお前が、それを何時の間に忘れてしまつたのです。こんな有様では、父の名を汚すのみか、天皇の御役に立つ事も出来ますまい。」と抜いた刀を奪ひとつて、泣く/\諌め止めたので、正行は腹を切る事が出来ず、礼盤(二九)の上から泣き倒れ、母と共に歎き合つた。


(一)紙の名、奉書紙の類。
(二)馬を繋ぎ合して先立て、川を渡る事。
(三)支那の楚の国の将、弓の名人。命を惜むなといふ事にたとへたもの。
(四)漢の高祖の忠臣で、高祖の命にかはつて死んだ人。義を重んじて忠義をつくせよといふ事にたとへたもの。
(五)腰の辺に垂れた短い裾。
(六)今の神戸。
(七)地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩の九つ。
(八)兵刑を司る役所。
(九)今の書記官。
(一〇)記録を司る役。
(一一)太政官の役人。
(一二)院の御所の武士。
(一三)宮中の武官。
(一四)後伏見院。
(一五)花園院。
(一六)光厳院。
(一七)豊仁親王、後の光明院。
(一八)應神帝の第二子大山守。
(一九)物部守屋。
(二〇)蘇我蝦夷。
(二一)高市皇子の子、天武帝の孫。
(二二)藤原武智麿の子、藤原仲麿の兄。
(二三)桓武帝の第二子。
(二四)聖武帝の皇女、光仁帝の皇后。
(二五)光仁帝の皇子。
(二六)八幡太郎義家の長男。
(二七)左大臣藤原頼長。
(二八)甲斐の人、小笠原の流。
(二九)仏前にある礼拝の臺座。


巻 第十七

山門攻めの事附日吉神託の事

 天皇は二度比叡山へ臨幸遊ばされ、全山の僧侶は春の勝戦の時に習つて、二心なく天皇をお護り申し、北国、奥州の軍勢を待つてゐるといふ噂であつた。そこで尊氏は左馬頭、高、上杉の人人と東寺に會合して相談した所、合戦が延び延びになつて、義貞の軍勢が多くなつてはかなはない、軍勢の少い間に攻め立てようと、六月二日、四方の手分けを定め、大手搦手合せて五十万騎の軍勢を比叡山へさし向けた。大手へは吉長、石堂、渋河、畠山を大将として五万余騎、搦手へは仁木、細川、今川、荒川を大将として八万余騎、又西坂本へは高豊前守師重、高土佐守、高伊予守、南部、岩松、桃井らを大将として三十万騎で押し寄せた。比叡山では道々の警固もせず、木戸や逆茂木の構へもしてなかつたので、さしも嶮しい山路も攻め上らぬ所はなかつた。丁度其時は、新田左兵衛督を始め、千葉、宇都宮、土居、得能の人々まで皆東坂本に集まつてゐて、山上には一人の兵もゐなかつたから、西坂から押し寄せる大軍が躊躇なく四明嶽まで攻め上つたならば、山上も坂本も防ぐ方法がなく、一度にやぶれてしまつたらうに、俄に朝霧が立ちこめてすぐ前さへ見分けのつかぬ程だつたので、前陣で上げる身方の鬨の声を敵が防ぐ叫声と聞き誤つて、後陣の大軍は続かず、徒らに時を過した。其処へ大宮で会合してゐた僧侶達が帰山して、必死になつて防いだ為め、寄手は攻めかゝる事が出来ず、お互ひに遠矢を射合つて其日は無駄に暮れてしまつた。
 西坂で戦が始まつたらしく、鬨の声が山に響いて聞えたから、志賀、唐崎の寄手十万余騎は東坂本へ押し寄せて鬨の声を上げ、敵の陣を見渡した所、新田義貞の陣屋を始め、宇都宮、千葉、河野らの陣屋に、それ/゛\の旗が飜つて、兵共が物々しくかまへてゐるので、寄手は其勢におされて近づく事が出来ず、大津、唐崎、志賀などに三百余箇所の陣を取つて遠攻めにした。
 六月六日、大手搦手の寄手は手筈を定めて、夜明けに先づ搦手の寄手二十万騎が二手に分れて攻め上り、道々の官軍を打ち破り打ち破り、大嶽まで攻め上つた。そこで比叡山の院々では西坂が攻め破られたとて、早鐘をついて大騒ぎをしてゐた。さて寄手の中から江田源八泰氏と名乗る者が唯だ一人真先に上つて来たのを、杉本の山神大夫定範(ぢやうはん)といふ僧が進み出て、他人を交へず二人だけで戦ひ、火花を散らして斬り合つたが、やがて二人は組合ひ、引き組んだまゝで数十丈の谷底へ上になり下になりして転がり落ちてしまつた。他の僧侶達も皆向ふ敵に走りかゝり、命をすてゝ防ぎ戦つたので、寄手の大軍は進みかね、四明嶽の頂はもう三町といふ所で一休みしてゐた。所が何者かが大講堂の鐘を鳴らして、危急を告げたので、横川に向ひつゝあつた宇都宮が五百余騎で駆けつけ、又皇居を守つて東坂本にゐた新田左中将義貞も、六千余騎をひき連れて四明嶽へ馳せ上り、真逆様に懸け立てられたので、二十万騎の寄手は皆谷底へ攻め落されてしまつた。義貞は東坂本を差し置いて大嶽に陣を取つてゐたので、搦手の寄手は大手の寄手に使を出して其事を告げた為め、大手では十八万騎を三手に分けて東坂本へ押し寄せた。城中では義貞の弟脇屋右衛門佐義助を大将に、諸国の軍勢が控へてゐたが、三方の寄手八十万騎が近づいて鬨の声を上げると、城中の兵六万余騎もこれに應へて鬨の声を上げた。寄手の軍勢は大軍ではあるが、城中の兵にきびしく防がれて、遠攻め、矢戦の外はしなかつたので、はかばかしい戦闘の展開はなかつた。
 同月十六日、熊野の八荘司(一)達は五百余騎で上京して西坂へ向ひ、傍若無人に力自慢などをしてゐた。六月十七日の朝八時頃、其八荘司の五百余人を先に立てゝ、二十万騎の大軍が攻め上つて来た。官軍方の強弓の名人である本間孫四郎、相馬四郎左衛門の二人は義貞の前にゐたが、熊野の人々の攻め上つて来るのを見下して、我々二人が立ち向つて、二矢射かけて奴等の肝をつぶしませうと、静に座席を立ち上つたと思ふと、大弓を張つて十五束三伏の矢をつがへ、八荘司の中の大力者らしき荒武者が真先に進んで来るのを本間が射倒し、次いで進んでくる仁王を作り損つたやうな大男の武士を相馬が射殺した。熊野勢の五百余人はこの矢二本を見たゞけで、進む事も退く事も出来ず、皆背を屈めて立ちすくんでしまつた。本間と相馬はやがて高声に名乗りを上げたが、二十万騎の敵軍は追ふ者もないのに、先を争つて引返して行つた。
 こんな有様で人々が皆攻めあぐんでゐた所へ、比叡山の僧侶で金輪院の律師光澄から、少納言隆賢といふ者を使として、高豊前守の所へ、裏切をして身方にならうと云つて来た。高豊前守は悦び勇んで夜討に慣れてゐる五百余人の兵を選び出して隆賢につけ、六月十八日の夕闇に乗じ、四明嶽の頂へ上らせた。隆賢は多年の案内者であり、官軍の陣所などもよく知つてゐる筈なのに、どうしたものか道に迷ひ、迷ひ歩いてゐる中に夜が明けて官軍に見出され、軍勢は皆討たれ、隆賢は生捕られて間もなく斬られた。
 其頃大師の御廟の修造の為め、多くの材木が山上に引上げられてあつたので、櫓の桂や矢間の板にしようと、それを坂中へ運んで行つた。ちやうど其日、般若院の法印の所で召使つてゐた童が、俄に物狂はしくなつて色々の事を口走つてゐたが、
「我に大八王子(二)の権現がおつきになつた。」
とか、
「此御廟の材木は急いで元の処へ返せ。」
とか云つた。僧侶達はこれを怪んで色々の事を問うて見た所、其童は一々立派に答へたので、僧侶達もそれを信用し、山門の安否、戦の勝負を問うた所、此物つきの童は涙を流して、
「悲しい事には、今後朝廷の威光は長らく衰へ、公卿は賊徒の手下となり、天皇は帝都を去られる。誠に浅ましい事だ。見よ人々、明日の午の刻頃には早尾(三)の大行事を差向けて、逆賊を四方へ退けてみせるぞ。我が比叡山にはもはや何も恐れるものがない。其材木を元の処へ運び返せ。」
と託宣した。しかし明日の午の刻に敵が退散するといふ事は、余りに急で本当とも思はれない。先づ明日の様子を見てから天皇に申上げようと、其日は天皇に申上げる事を取り止めた。
 比叡山では西坂に戦があれば本院の鐘をつき、東坂本に合戦があれば生源寺の鐘を鳴らさうと定めてゐた。所が六月二十日の早朝に早尾の神社の猿達がたくさん集つて来て、生源寺の鐘を東西両塔に響き渡る程に撞いたので、諸方の官軍達は合図の鐘が鳴ると皆攻め口に馳せ向つて防ぎ戦つた。寄手の軍勢は之を見て、おや山から逆寄せだとあわて騒いだ。官軍はそれにつけこみ、門を開いて急に攻め出した蔑め、寄手の大軍は忽ち攻め破られ、なだれを打つて逃げて行つた。寄手の大将高豊前守は生捕られ、新田左中将の前に引き出されたが、やがて唐崎の浜で首を刎られてしまつた。
 さて今日の合戦の結果を見ると、昨日の託宣が真実らしいと、一同は身の毛もよ立つばかりであつた。
 
京都両度軍の事

 比叡山の寄手は攻め破られて、四方へ逃げ散つた為め、京都は一時ひどく手薄であつたが、官軍が追撃して来なかつた為め、追々と兵士が集つて来ていつの間にやら大軍になつた。さうとは知らず、比叡山の官軍は、京都がまだ手薄であるものと考へ、十万余騎を二手に分けて攻め寄せたが、尊氏の計略にかゝり、一戦に打破られて又山上へ引き返して行つた。
 其後は暫く合戦もなかつたが、二條大納言師基卿が北国から三千余騎をひきつれて東坂本へ到着したので、これに力を得た官軍は、謀を定めて京都を攻めようとしたが、誰れか其謀を尊氏に内通した為め、五條河原に向つた官軍の一手は一戦で敗け、他方面に向つた新田左中将兄弟は十重二十重に敵に囲まれた。然し義貞の兵は一気に其囲みを衝いて、一人も討たれず比叡山へ引返した。

山門の牒南都に送る事

 官軍の再度の敗戦に、比叡山の僧侶達は心がはりするかも知れないと、天皇はいたく大御心を悩まされて、色々と僧侶達を優遇された。全山三千の僧侶達は大講堂の大庭に会合して、
「天下は総て天皇の領土である。たとへ僧侶であつても、此危急に際しては何で忠義をつくさずに居られよう。殊に比叡山は天皇の御氏寺である故に、かく朝廷の危急をお助け申すのである。又南都の寺々は摂関を始め重臣の氏寺であるから、当然藤原氏一門の窮苦を救ふべきである。早く東大寺、興福寺へ牒を送つて義戦に力を協してくれるよう申込まう。」と相談一決して、奈良へ牒状を送つた。
 奈良ではそれを見て、比叡山に身方する旨の返牒を送つてきた。奈良が比叡山に身方をしたと聞いて、畿内近国の兵士達も皆比叡山に身方をして力を協さうとする者が多く、各々京都の四方に陣をとつて道を塞いだ為め、京都では国々からの運送の道が絶え、兵糧に窮した兵達は、民家に押入つて衣裳をはぎ取り、食物を奪つた。
 比叡山の官軍が強くなつたといふので、国々の軍勢も多く官軍に身方する事になり、引き切りなしに東坂本へ集つて来た。そこで今一度京都へ攻め寄せて、決戦を試みようと合図を定め、大将新田義貞は参内して天皇に拝謁し、決心の程を上奏して御前を退り、軍勢をひきつれて戦場へ向つた。

隆資卿八幡より寄せらるる事
  
 東坂本の官軍が合図の時刻を待ちうけてゐた所へ、敵が欺いて火をつけたものか、北白河に火の手が上つたので、八幡の官軍は合戦が始つたものと考へ、合図の時刻も待たず、四條中納言隆資卿は三千余騎を率ゐて、東寺の南大門へ押し寄せた。東寺の軍勢は皆北白河辺へ出て、比叡山の官軍を防いでゐたので、南武蔵守師直の軍勢五百余騎が作道まで馳せ出したが、忽ち射立てられて出塀(だしべい)の上の高櫓あ一つ攻め落され、城中は大騒ぎをしてゐた。其処へ土岐伯耆入道存孝の息子悪源太が駆けつけ、尊氏と父の命(めい)をうけ、唯だ一騎で大勢の敵を目指してかけ出し、またゝく間に大軍を追ひ散らしたので、高武蔵守師直、越後守師泰の軍勢が盛り返して追ひかけ、官軍の大軍は元の八幡へ逃げ返つて行つた。

義貞軍の事附長年討死の事
  
 一方の寄手が敗れたとも知らず、合図の時刻が来たと、大手の大将新田義貞、脇屋義助は二万余騎をひきつれて三方から攻め寄せた。名将義貞も度々の合戦に負けて、今度こそは恥を雪がうと、勢ひ込んだ有様はもの凄いばかりであつた。朝廷両統の御運も、新田、足利二氏の葛藤も、唯今日のこの合戦で定まるものと、息をこらさぬ者はなかつた。
 さて合戦は六條大宮から始つて、尊氏の二十万騎と義貞の二万騎とは入り乱れて攻め戦ひ、義貞は敵を追ひ散らし追ひ散らし、東寺の小門の前に押寄せ、一度に鬨の声を上げた。義貞は始めから今日の戦には尊氏と一人同志の決戦をしようと覚悟してゐたから、自ら陣頭に現はれて、
「矢を一つ受けてみられよ」と高声に名乗を上げた。矢は尊氏の近くに立つた。これを見て尊氏も、「我れの軍を起したのは、君を傾け奉らうと思つたからではない。たゞ義貞に会つて憤りを散じたいと思つた為めであつた。彼れと一人同志の決戦は勿論我れの悦びとする所だ。其門を開け、打つて出よう」と云つたのを、上杉伊豆守が思ひもよらぬ事だと押しとどめた。其処へ土岐弾正少弼頼遠が五條大宮の敵を追ひ散らして、鬨の声を上げたので、今まで追ひ立てられてゐた足利勢が、彼方此方から馳せ集つて来て、義貞の軍勢を取り囲んでしまつた。義貞は今日を最後と決心して、大敵の中へ攻め入り、四方八方に追ひ散らして三條河原へ出たが、身方の軍勢とはひどく懸け離れてしまつた。
 又名和伯耆守長年は二百余騎で大宮に引き返して戦ひ、自ら後の門を閉めて退路を断ち、一人も残らず討死をしてしまつた。そこで三十万騎の敵軍はわづかに生き残つてゐる義貞の軍勢を真中に取囲んでしまつた。義貞も覚悟を定めた様子で一足も退かず、討死をしようとした所へ、天皇から賜はつた御衣を切つて笠符につけた兵達が、あちらこちらから馳せつけてきて、戦ひ疲れた敵の大軍を息もつかせず追ひ立てたので、さすがの敵も堪へかねて、京都の中へ引き退いた為め、義貞、義助らは危ふい命を助かり、坂本へ引き返してきた。

江州軍の事

 合図の違ひから官軍が又しても京都の合戦に敗れたので、兵数がひどく滅つた上、奈良の僧侶達にまで裏切られてしまつた。剰へ北国路は足利尾張守高経が塞ぎ、近江国には小笠原信濃守が陣を取つて往き来を止めた為め、官軍は飢に苦しむ事となつた。そこで先づ江州の敵を退治しようと、比叡山の僧侶達が替る替る攻め立てたが、何時も小笠原の軍勢に打ち破られてしまつた。其処へ佐々木佐渡判官道誉が偽つて降参をなし、近江の守護に任命して下さるならば、これを平らげて官軍の力といたしませうと申し出たのを、天皇も義貞も偽りとは知らずお許しになつた所、道誉はやがて近江へ渡り、其国を支配して坂本を遠攻めにした為め、天皇は脇屋右衛門佐を大将に二千余騎を江州へ差向けられたが、散々に攻め破られ、此日も亦官軍はわづかの軍勢となつて坂本へ逃げ帰つてきた。

山門より還幸の事

 尊氏はこつそりと天皇に使を出して、自分は全く君に向つて謀叛を企てたのではなく、唯だ義貞の一類を亡ぼして、後々の讒臣のこらしめにしようと思つたゞけである。私の罪を哀れに思召し、京都へ御還幸の上、再び御即位遊ばされるやうにと、伝教大師勧請(四)の起請文を副へて申し上げた。天皇はこれを御覧になつて、告文のある上はまさか偽りではなからうと、側近の元老や重臣にも御相談遊ばされず、近く還幸しようと、尊氏に云つてやられた。
 さて還幸の儀も秘かに定まり、天皇は其時を待つてゐられた。義貞は其事を少しも知らずにゐたが、洞院左衛門督実世卿の所から、
「唯今天皇は京都へ還幸遊ばされると、お供の人を集めてゐられます。御存知ですか。」と云つて来たので、義貞はそんな事はあるまい、何かの聞き違ひであらうと、つゆ驚く様子もなかつた。然るに堀口美濃守貞満は御様子を見て参りませうと、皇居へ馳せつけた所、今にも還幸せられる御様子であつたから、貞満は御前へ出て御乗物の長柄に取りつき、涙を流してお諌め申し上げたので、天皇を始め奉りお供の人々も皆な其道理に従ひ、忠義に感じて深くうなだれた。

儲君を立て義貞に著けらるる事附鬼切日吉へ進ぜらるる事
  
 暫くたつて義貞は父子兄弟三人で、三千余騎の兵をひきつれて参内した。天皇は義貞義助をお側近く召され、御涙を流されて、
「天運に恵まれず、時機の到来しない中に、兵は疲れ勢は衰へたので、仮りに尊氏と和睦して、時の来るのを待たうと、還幸に同意したまでのことである。此事は前以て内々知らせたいと思つたが、余りに拡がつては却つて困る事があらうと、わざと黙つてゐたのである。越前国には身方の者がゐる故、先づ彼処に下つて北国を打ち従へ、再び大軍を起して天下の守りとなつてもらひたい。然し朕が京都へ行けば、お前は朝敵の名を被るであらうから、皇太子に天子の位を譲り、お前につけて北国へ下さう。天下の事は大小となくお前が取計つて、朕に代つて此君を輔佐してもらひたい。お前が早く謀をめぐらして、朕を救出しに来るのを待つてゐよう。」
と仰せられたので、人々は皆首を垂れて鎧の袖をぬらした。九日は受禅の儀(五)や還幸の準備に暮れ、夜更けてから新田左中将は、こつそりと日吉の大宮権現に参詣し、「願はくば再び大軍を起して朝敵を亡ぼすカを與へ給へ、又不幸にして命ある中に望を達せられぬならば、子孫の中に必ず大軍を起す者が出来ますやうに」と、真心をこめて祈り、代々家に伝はつてゐる重宝、鬼切といふ太刀を奉納した。

義貞北国落ちの事

 明くれば十月十日の朝十時頃、天皇は腰輿(六)に乗られて、今路を西へと還幸遊ばされ、皇太子は良馬に召されて戸津を北へと行啓あらせられた。還幸のお供をして京都へ行く人々には、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定、侍従中納言公明、坊門宰相清忠らをはじめ、武家では大館左馬頭氏明、江田兵部少輔行義、宇都宮治部大輔公綱ら七百余騎の軍勢があつた。
 行啓のお供をして北国へ行つた人々は、一宮中務卿親王、洞院左衛門督実世、同少将定世を始め、武士らは新田左中将義貞、息子の越後守義顕、脇屋右衛門佐義助、同息子の式部大輔義治、堀口美濃守貞満らに率ゐられた七千余騎の軍勢で、案内者を先に立てゝ御馬に従つた。
 此外、妙法院宮は御船にのられて遠江国へ、阿曾宮は山伏の姿になつて吉野の奥へお忍びになられ、又四條中納言隆資卿は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ隠れた。

還幸供奉の人々禁殺せらるる事
  
 法勝寺の辺まで還幸遊ばされると、左馬頭直義が五百余騎をつれてお迎へに参り、第一に三種の神器を今上天皇の方へお渡し下さるやうにと申上げたので、天皇は前々から御用意の代品をお渡しになられた。其後は天皇を花山院へお入れ申して、四方の門を閉ぢ、警固の者を置き、降参した武士達は一人づつ大名達に預けて囚人のやうな取扱ひをした。十余日を過ぎてから菊池肥後守は警固の隙を盗んで本国へ逃げ帰り、宇都宮は出家の姿になつて日を過し、本間孫四部は六條河原で首を斬られた。又比叡山の僧侶道場坊助註記祐覚は山徒の張本人であるといふので、十二月二十九日に阿彌陀峯で斬られてしまつた。
 以上の外、比叡山からお供をして来た公卿達は、どうやら死罪だけは許されたが、官を奪はれ任を解かれて、居ても居なくても同じやうな身の上となつてしまつた。
 
北国下向勢凍死の事
  
 同月十一日、義貞は七千余騎で塩津(しほつ)海津(かいづ)に着いたが、それから七里半の山中を、越前の守護尾張守高経が大軍で塞いでゐるといふ噂なので、そこから道をかへて木目峠を越えた。北国の常として十月の始めから高い山々には雪が降るが、今年は例年よりも寒さが早く、風まじりに降る山路の雪が甲冑に洒ぎ、士卒達は道を見失ひ、山路の夜に宿もなく、木の下、岩の陰に縮まつて寝た。三百騎で後陣に打つた河野、土居、得能は道を見失つて、塩津の北で敵と戦つたが、馬も兵も凍えて自由がきかず、皆自害をして死んでしまつた。千葉介貞胤も五百余騎で進んだが、降る雪に道を踏み迷つて敵の陣中へ出たので、一所に集り自害をしようとしたが、尾張守高経の勧めで不本意ながら降参して、高経の軍に属する事になつた。
 同月十三日、義貞は敦賀の港につくと、気比彌三郎大夫が出迎へ、皇太子、一宮、総大将父子兄弟を先づ第一に金崎へ入れ奉り、他の軍勢は港の民家に宿所を割りあてゝ、長途の旅の疲れを休めさせた。此多数の軍勢が一所に集つてゐてはよくないと、一日そこに逗留した後、大将達を国々の城へ分け、総大将義貞は皇太子、一宮にお附き申して金崎城にとどまり、息子の越後守義顕は越後国へ、脇屋義助は瓜生の袖山城へ、それぞれにさし向けられた。

瓜生判官心変りの事附義鑑房義治を蔵す事

 同月十四日に義助義顕は三千余騎で敦賀港を立つて袖山に向つた。瓜生判官保、弟の兵庫助重、弾正左衛門照の兄弟三人は、色々とこれをもてなしてゐた所へ、足利尾張守の所からこつそりと使を出し、先帝の出されたものだと云つて、義貞の一類を追伐せよといふ綸旨を送つてきた。瓜生判官は元来深い考へのある者ではなかつた為め、尊氏が謀(たくら)んだとは知らず、忽ち心変りして袖山城へ立籠つた。所が判官の弟に義鑑房といふ禅僧があつて、義助義顕の所へきて、
「兄の保は愚者(おろかもの)で、尊氏から送られた綸旨を誠のものと思ひ、謀叛の心を起しました。私が武士なら刺し違へて死ぬところだが、僧侶であるのは如何にも残念でございます。けれども保だとて、事の次第がわかつたなら、必ず御身方に参らうと存じます。若し御幼稚の御子様がたくさん御ありなら、一人をここへお留になりますやうお願ひします。私はどのやうにしてもお隠(かく)まひ申し置き、時機を得たら旗上げをして、金崎の後詰をいたしませう。」
と涙を流して云つた。義助義顕はそれを聞いて、まさか偽は云ふまいと疑ひの心も起さず、脇屋右衛門佐の息子で、今年十三歳になる、式部大輔義治と云つて、一方ならず可愛がつてゐた者を義鑑房へ預けた。
 翌朝義助義顕は軍勢を揃へてみた所、何時の間に逃げて行つたものか、僅かに二百五十騎しかなかつたので、これでは越後国まで行く事は出来ぬ、金崎へ引返さうと敦賀港まで帰つて来たが、此処の今庄九郎入道浄慶が近辺の野武士を集めて、其行手を遮つた。然し浄慶は、義顕の義心、由良越前守光氏の忠義に感じて、一同を無事に通してしまつた。

十六騎の勢金崎に入る事
  
 浄慶との問答がむづかしくなつたのを聞いて、二百五十騎あつた軍勢は何処ともなく逃げ出し、僅かに十六騎となつてしまつた。金崎の様子を問ふと、諸国の軍勢が二三万騎で城を取り囲んでゐるといふ事であつたから、どうしようと説がまち/\になつたが、粟生左衛門の説に従つて、翌日の夜明けに十六騎の人々が敵陣の後から、「二万余騎にて後詰を仕る、城中の人々お出向ひなされよ。」と口々に叫び、鬨の声を上げて大軍の中へ攻め込んだ為め、金崎を取りまいてゐた寄手三万余騎は、あわて騒いで攻口をさつと引き退いた。城中の軍勢はこれにつけこんで打つて出たので、さすがの大軍達も大あわてにあわて、十方へ逃げ散つてしまつた。
 
金崎船遊びの事附白魚船に入る事
  
 かく城を取り囲んでゐた敵は、一時の謀に破れて退散し、今は近辺に一人の敵もなくなつたので、城中の人々は此上もなく悦び合つた。
 十月二十日の明方、江山の雪が晴上つたので、旅中の御心を慰め奉る為め、港々の船を集めて浮べ、雪中の景に興じられた。皇太子と一宮とは御琵琶、洞院左衛門実世卿は琴、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打物(七)をそれぞれに奏でられた為め、心ない魚までも感動して、跳ね上つて御舟の中へ飛び込んで来た。これを見て実世卿は「支那にも例があることで、これは戦に勝つといふめでたい前兆だ。」と、早速料理して皇太子に参らせた。
 
金崎城攻むる事附野中八郎が事
  
 杣山から引き返した十六騎の小勢に、金崎の寄手の大軍が負けた事が知れたので、尊氏は大いに怒つて再び大軍をさし向けた。その軍勢は六万余騎で、海陸から城の四方を取り囲んだが、金崎城は三方が海、一方が深い谷をへだてた山となつてゐるので、容易に近づく事が出来なかつた。
 小笠原信濃守はこれをみて、選り抜きの兵士八百人を選び、東の山の麓から楯をかついで攻め上らしめた。城中の兵はこれをみて三百余人がこの門を開いて一度に打つていで、互ひに近づいて一足も退かず烈しく攻め戦つたが、小笠原の兵は遂に攻め立てられて退いて行つた。そこで今度は船で攻めようと、小船百余艘で崖の下に漕ぎつけ、出塀(だしべい)に取り着かうとした所を、城兵二百余人が抜き連れて攻めて出た為め、寄手は真逆様に落され、先を争つて船に逃げこんでしまつた。
 中村六郎といふ者は、重傷をうけて船に乗りおくれ、磯に立つて船を招いたが、助けようとする者がなかつた。これをみて播磨国の住人野中八郎貞国は、船を漕ぎもどして中村を助けようと云つたが、誰れも賛成する者がなかつたので、貞国は大いに怒り、●(「舟」へん+「虜」)を奪つて自ら漕ぎ戻し、唯だ一人で船から飛び下り、中村の方へ歩みよつてきた。城兵はこれをみて、十二三人で中村の後から走りかかつたが、貞国は少しも驚かず、長刀の石づきで向ふ敵の一人を薙ぎ倒し、其首を取つて鋒にさし中村を肩へかつぎ、落着いて船に乗つたので、敵も身方も其働きを誉めぬ者はなかつた。


(一)熊野にある八箇の荘の役人。
(二)山王二十社の中の八王子権現。
(三)早尾は不動明王、大行事は毘沙門天を祀る。
(四)神仏を分祀する事。
(五)皇位を譲られて受ける事。
(六)腰の辺で舁く手輿。
(七)鼓太鼓の類。


巻 第十八

先帝吉野へ潜幸の事

 天皇は尊氏の偽りの詞を御信頼になり、山門から還幸あらせられたところ、畏くも花山院へ押籠め奉つて、一人だにお側近くに仕へるものはなかつた。天皇は国中の様子を尋ね聞かれる御手段もなくて、世の中をいと頼りなく思召され、花山天皇の例に習つて出家しようかと思ひ煩つてゐられた処へ、刑部大輔景繁が唯だ一人で伺候し、ひそかに諸国の官軍の様子を申上げた上、近日中、夜に紛れて大和の方へ臨幸遊ばされ、吉野十津川の辺に皇居を定めて、諸国へ綸旨を御下しになられるやうに御すゝめ申上げた。天皇はこれを聞かれて、
「明夜必ず寮(一)の御馬を用意して、東の小門の辺で待つて居れ。」
と仰せいだされた。
 さて合図の時が来ると、天皇は築地の崩れから女房の姿で忍びいでられたので、景繁は用意してゐた寮の御馬にお乗せ申し、三種の神器は自らかついで、夜の間に大和路へかゝり、梨間宿(なしまのしゆく)まで逃げのびられたが、白昼この有様で奈良を通られては怪しむ人もあらうと、粗末な張輿(二)にお乗せかへ申し上げた。心ばかりは急いでも足は進まず、其日の夕方に内山までお着きになられたが、此処らまでは敵が追ひかけてくるかも知れない、今夜中に何とかして吉野までお連れ申したいと又寮の御馬にお乗せ申したが、八月二十八日の夜の事故、道が暗くて進めさうにもなかつた。所が俄に春日山の上から金峯山の頂へ光物が飛び渡るらしく、松明のやうな光りが夜通し天地を照らしたので、行く道は自ら明かに見え、まもなく夜明けに大和の国の賀名生(かなふ)といふ所までお逃れになられた。此処には皇居に定めるやうな所もなかつたので、吉野の僧侶達を身方に誘ひ入れようと、景繁が吉野へ行つて吉水法印に此事を申し入れると、全山の僧侶を誘ひ集め、蔵王堂に会合して相談した結果、御身方申し上げることに決し、三百余人の僧侶達が甲冑をつけて御迎へに参つた。此外、楠帯刀正行、和田次郎らを始め、諸国の人々が引き切りもなく馳せ集つた。此雲霞の如き大軍に前後を衛らせつゝ、天皇はやがて吉野へ臨幸遊ばされた。

高野根来と不和の事

 後醍醐天皇が花山院を忍び出られて、吉野へひそかに行幸せられた為め、近国の軍勢達は勿論の事、諸寺諸社の僧侶神官までも皆天皇の御徳を慕ひ、或は軍用金を作り、或は御祷をしてゐたのに、根来の僧侶達だけは一人も吉野へやつて来なかつた。之は必ずしも武家に身方をして朝廷に背き奉るといふわけではなく、後醍醐天皇が高野山を崇敬せられ、諸所の領地を寄進して、色々の御立願を遊ばされたといふ事を聞き、片意地な心を起しただけの事である。何故かといふに、根来と高野とは前々より仲違ひをして居り、久しきに亙つて葛藤が続けられて来たからである。
 
瓜生旗を挙ぐる事
  
 亙新左衛門といふ者が、櫛川の島崎から金崎へ游ぎつき、吉野の天皇から下された綸旨をとどけてきた。城中の人々は驚いて開いてみると、天皇はひそかに吉野へ臨幸遊ばされ、近国の武士達が多く馳せ集つたから、やがて京都を攻められるといふ事が書いてあつた。城中の兵士達は始めて此事を知つてひどく悦び合つた。
 瓜生判官保は足利尾張守高経について金崎の攻め口にゐたが、弟の兵庫助重、弾正左衛門照、義鑑房の三人は杣山城にゐて、脇屋右衛門佐の息子式部大輔義治を大将に兵を奉げようと計画してゐた。兄の判官は之れをきいて、宇都宮美濃将監と天野民部大輔とを誘ひ、共に杣山城に帰つてきて、十一月八日に義治を大将に押し立てゝ兵を挙げた。所があちらこちらから軍勢が集つて来て、まもなく千余騎となつた。
 越後守師泰はかくと聞いて、能登、加賀、越中、三箇国の軍勢六千余騎を差し向けたが、瓜生の謀にかゝり、一戦で討ち破られてしまつた。或は討死をし、或は生捕られ、又やつとの事で逃げのびた者も、甲冑を脱ぎ捨て、弓矢を失はぬ者はなかつた。
 
越前府の軍附金崎後攻の事
  
 如何にもして杣山の軍勢が国中に拡がるのを防がねばならぬと、尾張守高軽は三千余騎をひきつれて越前の府へ帰つて行つた。瓜生はこれを聞いて、直ぐさま三千余騎で押寄せ、一日一夜攻め戦つて、高経の立籠る新善光寺城を攻め落してしまつた。それ以来義治の勢は追々盛んになつて、諸国の僧侶、地頭らが集つて来たけれども、義治は皇太子を始め一族の人々の立籠つてゐる金崎城の苦しみを思ひやると、ぢつとしてゐることが出来なかつた。そこで金崎の後詰をしようと、兵を集めて、正月十一日に里見伊賀守を大将として敦賀に向つた。所が敵は敦賀から二十余町程東に当る要害の土地へ、今川駿河守を大将に二万余騎を差向けて防禦の陣を敷いてゐた。夜が明けると、官軍は第一に宇都宮の紀清両党、第二には瓜生、天野、斉藤、小野寺らの軍勢が、次々に駿河守の陣へ攻め込んだが、敵の新手の為め攻め立てられて退却した。里見伊賀守は僅かの軍勢で踏みとどまり、敵の大軍に取り囲まれて、瓜生、義鑑房の二人と共に、三人一所に討死をしてしまつた。

爪生判官老母が事

 さて敗軍の兵士達は杣山へ帰り、負傷者や死人の数を調べた所、里見伊賀守、瓜生兄弟、甥の七郎の外、討死をした者が五十三人、傷を受けた者が五百余人もあつた。子は父を失ひ、弟は兄に死におくれて、泣き悲しむ声が家々に充ち満ちてゐたが、瓜生判官の老母尼公は一向悲しむ様子もなく、大将義治の前に進み、
「此度敦賀へ向つた者共が、不面目にも里見殿を討死させました。さぞかし残念に思はれる事でせう、御心中御察し申し上げます。然しこれを見ながら、判官兄弟が皆無事に帰つて参りましたならば、尚一層はかなくもあり、お慰め申す方法もございませんでしたが、判官の伯父甥二人の者が里見殿の御供をして残りの弟三人が大将の御為に生き残りました事は、歎きの中の悦びと存じます。元々上の御為に此一大事を思ひ立ちました以上、百千の甥子達が討たれましても、歎き悲しむことはございません。」
と涙を流し流し酌を取つて、一献お進め申したので、元気を失つてゐた軍勢達も、別れを歎いてゐた人々も、愁へを忘れて勇気を振ひ起した。

金崎城落つる事

 金崎城では瓜生の後詰を命がけで待つてゐたが、判官は戦ひ敗れ、其軍勢は討たれてしまつたと聞いて、皆心細い思ひをしてゐた。一日一日と兵糧は乏しくなつて行くので、馬を毎日二匹づつ刺殺して朝夕の食に当てヽゐた。そこで人々の勧めに従ひ、新田義貞、脇屋義助、洞院実世は河島維頼を案内者として、三月五日の夜半こつそり城を抜け出して、杣山城へ逃げて行つた。
 金崎ではもう馬も皆食ひつくし、十日程断食をしてゐたので、軍勢達は今はもう手足を動かす事も出来なくなつてしまつた。寄手の軍勢はこれを見破つて、三月六日の朝六時頃大手搦手の十万余騎が烈しく攻め立てゝきたが、城中の兵は太刀を使ひ弓を引く力もない有様だつたので、寄手は二の門まで攻め込んできた。新田越後守義顕は一宮の御前に進み、「合戦の様子では、もはやこれまでと思はれます。我々は武士として名を惜む家に生まれました故、快く自害を致さうと思ひます。上様はたとへ敵の中へおいでになられても、まさか御失ひ申す事はございますまいから、このまゝ此処にいらせられるのがよいと思ひます。」
と申上げた所、一宮は何時よりも心地よげに笑はれて、
「天皇が京都へ還幸遊ばされた時、我を元首の将とし、お前を股肱の臣とせられた。股肱がなくては元首は保つ事が出来ない。それ故自害をしようと思ふが、一体自害はどうすればよいのか、教へてくれ。」
と仰せられたので、義顕は感涙を押へ、
「このやうにするものでございます。」
と云ひ終るや否や、刀を抜いて逆手に持ち直し、左の脇に突立て、右のあばら骨二三枚へかけて掻き切り、刀を抜いて宮の御前に置き、俯伏してしまつた。一宮はやがて其刀を取上げて御覧になると、柄口にひどく血がついてぬる/\してゐたので、御衣の袖で刀の柄をきり/\と巻かれ、雪のやうに白い御膚を出し、御胸の辺に突立てゝ義顕の枕の上へうつぶしになられた。これを見て重立つた人々や庭上の兵共も皆思ひ/\に腹を切り、刺違へて、重なり合つて死んでしまつた。
 気比大宮司太郎は皇太子を小舟に御乗せ申し、綱を自分の褌に結びつけ、海上三十余町を泳いで蕪木浦へお着け申し、粗末な漁夫の家にお預け申して、
「此方はやがて日本国の主とならせられる御方である。何とかして杣山城へお連れ申してくれ。」と云ひきかせ置いて、金崎へ引き返し、自ら自分の首を斬り落してしまつた。
 土岐阿波守、粟生左衛門、矢島七郎の三人は船田長門守と共に海岸の岩穴にかくれてゐて不思議な命を助かり、又由良、長浜を始め生き残りの城兵五十余人は、三の門から大軍の中へ攻め出して、皆それぞれに討死をしてしまつた。
 
春宮還御の事附一宮御息所の事

 皇太子を蕪木浦から御連れ申して来た足利尾張守は、去る夜金崎で討死をした新田一族の首を実検したところ、死んだのは越後守義顕、里見大炊頭義氏の二人だけで、義貞や義助のそれが見出されなかつたので、皇太子の御前に参つて、
「義貞、義助二人の死骸が見つかりませぬが、如何いたしたのでございませう。」とお尋ね申した所、皇太子は、
「義貞、義助の二人は、昨日の夕方確かに自害したが、それを家来達が役所の内で火葬にすると云つてゐたやうだ。」
と仰せられたので、「さては死骸のないのも無理はない」と、詳しく探しもせず、又杣山には大した敵もゐないから、其中に降参すろであらうと、そのまゝにして置いた。
 やがて新田越後守義顕並に一族の者三人、其他重立つた人々の首七つを持たし、皇太子を張輿にお乗せ申して、京都へ送り奉つた。京都へお還りになると、まもなく牢の御所を造つて皇太子を押籠め奉り、一宮の御首は禅林寺の夢窓国師の所へ送られ、御喪礼の儀を執り行はれた。
 さて一宮の御息所の御歎きは、申すも畏き程限りないものであつた。いよ/\夢窓国師が喪礼を行はれると聞かれて、余りの悲しさに御車に助けのせられ、禅林寺の辺までお出ましになると、今しも式が行はれるらしく、夕の空に立上る煙が松吹く風に心細く靡いてゐた。死別の悲しさは誰れしも同じことであるが、宮のやうに尊い御身を御自ら剣に害はれた御事は誠に例のない悲しみ故、御最後の御有様を想像し奉つたりすると、一層哀れが深くなつて、今こゝで御命を終つて、同じ墓地の露と消えたい御心地がせられて、御息所は何時々々までもお帰りになられず、悲しみに伏し沈んでゐられた。其御心の中は誠に御気の毒に堪へない。
 行きて旧居の跡を訪はれると、故宮にかゝる月影が御心を傷ましめ、帰つて淋しき御閨に入られると、後宮を吹く風の音に御夢が破られる。見るもの聞くもの、御歎きの種ならぬはなく、一日一日と悲しみが深まつて行つたので、まもなく御息所は御病気になられ、宮の御中陰(三)さへ終らない中に、お亡くなりになられた。
 
比叡山開闢の事
  
 金崎城が攻め落されてからは、天下は悉く武家の手に帰し、尊氏の命に随はない者はなくなつた。諸所方々に官軍の城がある間は、比叡山の僧侶が又何を仕でかさないとも限らぬと、其機嫌をとる為め色々の好遇をしたが、天下がもはや武家の威光に帰した今となつては、比叡山を三井寺の末寺にしようか、或は其土地を取上げて僧侶を追ひ出し、其跡を軍勢に與へることにしようかなどと、高、上杉の人々が尊氏の前で相談をしてゐた所へ、北小路の玄慧法印が来合せたので、早速呼び入れて、「有つて無益のものは比叡山、無い方がましなのは山法師であるが、一体これはどうすればよからうか」と尋ねた所、法印は「以ての外の事だ」と、比叡山開創以来の歴史を語つて、其功徳の大きなこと、なくてはならぬ寺であることを、言葉をつくして説きさとしたので、尊氏、直義を始め、高、上杉の人々も、そんなわけでは比叡山を亡ぼすことが出来ないと、却つてこれを信仰するやうになつた。


(一)馬寮に飼育する馬。
(二)畳表で張つた輿。
(三)人の死後の四十九日間をいふ。


巻 第十九

光巌院殿重祚の御事

 建武三年六月十日に光厳太上天皇が重祚せられた。
 将軍尊氏に宣旨を下されたのも、亦東寺へ潜幸遊ばされて、武家に威光を加へられたのも、皆な此君の御手柄であるから、其御恩報じに、多少異議があつたにも拘はらず、尊氏が一途に御計らひ申し上げたのであつた。
 
本朝の将軍補任兄弟其の例なき事

 同年十月三日に年号を延元と改め、其十一月五日の任官式に、足利宰相尊氏は上席十一人の人々を越えて正三位に上り、大納言に任じ、征夷蒋軍の職に補された。弟の左馬頭直義は五人を越えて四品の位となり、宰相に任ぜられ、日本の副将軍となつた。兄弟が同時に揃つて征夷将軍の職についた事は我国ではまだ前例がないと、其家来達は皆おごりたかぷるやうになつた。
 
新田義貞越前府の城を落す事
  
 新田義貞、脇屋義助の二人は金崎城没落の後、杣山の麓にある爪生の屋敷にゐたが、国々へこつそりと使を出して軍勢を集めた所、あちらこちらで時機を待つてゐた兵達がしのび/\に馳せ集つて来て、彼れ是れ三千余騎となつた。これをきいて尊氏は足利尾張守高経、弟の伊予守の二人を大将として、越前の府へ大軍を下した。府は大軍であり、杣山は要害である為め、かうして五六ケ月を経ても、お互ひに城へも府へも近づき得ず、両陣の境へ兵を出し合つて小競合をするに過ぎなかつた。其処へ加賀国の敷地伊豆守、山岸新左衛門、上木平九郎らが畑六郎左衛門尉時能を身方に誘つて、足利方の津葉五郎が立籠つてゐる大聖寺城を攻め落し、又平泉寺の僧侶達も大部分官軍に身方をして、三峯の僧侶から杣山へ、大将を一人賜りたいと云つて来たので、脇屋義助に五百余騎をつけて差し遣はした。尾張守高経は府中に立籠つて、勝敗を決するやうな合戦もなくて年が新まり、やがて二月も中旬となつて、寒さが段々衰へてきた。そこで脇屋義助は何処か要害の土地はなからうかと、僅に百五十騎で鯖江の宿へ打つて出た。これを知つて尾張守の副将細川出羽守は五百余騎を率ゐて、鯖江の宿を取り巻いた。脇屋は前後を敵に囲まれてこれでは逃げ出す事が出来ぬと、覚悟をきめて一軍心を一つにして敵に当り、七八度も遭つては開き、遭つては離れして、攻め立てた為め、細川の五百余騎はわづかの軍勢に攻め立てられて退却した。脇屋勢は附近の民家二十余箇所に火をかけて身方に合戦を知らしたので、四方から馳せ集つてきた身方の軍勢は、またゝく間に敵を攻め破り、追ひ散らし、逃げるを追ひかけ追ひかけ、前後左右に入り乱れて、半時程の間命の限り戦ひ合つた。やがて敵は府中をさして引返して行つたが、義貞は隙間もなく追ひすがつて、猶予を與へず攻め立てた為め、敵は府の城へ入る事も出来ず、四方へ逃げ散つてしまつた。

金崎の東宮竝将軍宮御隠れの事

 義貞、義助が杣山に兵を挙げ、尾張守は府中を逃げ出し、城は陥つたといふ事を聞いて、直義は烈火の如く怒り、
「これは皇太子が彼等を助ける為め、金崎で腹を切つたと申されたのを誠と思つた為めだ。此宮をこのまゝにして置いては、如何なる御企てをなさるかも知れぬ、鴆毒を差上げて御殺し申せ。」と命令したので、御兄弟の将軍宮(二)と一所に押籠められてゐた皇太子の所へ、お薬だと云つて鴆毒を持参した。皇太子はそれを毒と知られつつ、とても遁れられる命ではないと、将軍宮と共々に七日の間それをお飲みになられた。皇太子は其翌日から御病気になられ、四月十三日の夕方御心閑かにおかくれ遊ばされた。将軍宮は二十日程の後黄疸といふ御病気にかかり、これも遂におなくなりになつた。

諸国の宮方蜂起の事
  
 先帝が三種神器を奉じて吉野へ潜幸せられ、義貞が数万騎をひきつれて越前の国へ打つて出たときいて、先に比叡山から降参にでた大館左馬助氏明は伊予国へ逃げ、土居、得能の息子らに対面して四国を討ち随へようとし、江田兵部大輔行義も丹波国へ出て、足立、本庄らと高山寺に立籠り、金谷治部大輔経氏は播磨の東條から打つて出て、丹生の山陰に城を造つて山陰の中道を塞いだ。又遠江井介は妙法院宮を押し立てゝ奥の山に立籠り、宇都宮治部大輔入道は紀清両党の五百余騎をひきつれて吉野へ馳せ参じた。

相模次郎時行勅免の事

 北條高時の二男相模次郎時行は、一家の滅亡後、天地の間に身を置く所もなく、此処彼処と隠れ歩いてゐたが、こつそりと吉野へ使を出して、
「父が亡ぼされたのは、自ら招いた罪の報ひですから、自分は決して君をお恨み申すやうなことはございません。たゞ尊氏の行ひは飽くまでも憎んで居りますから、天皇の御許しを得て朝敵誅罰の計略を運らせよ、といふ綸旨を賜はりましたなれば、どこまでも官軍を助けて忠義を竭したいと思ひます。」と申し上げた。天皇は詳しくお聞きになつて、誠にもつともの事だと、恩免の綸旨をお下しになられた。

奥州国司顕家卿上洛竝新田徳寿丸上洛の事
  
 奥州の国司北畠源中納言顕家卿は、天皇が吉野へ潜幸せられ、義貞が北国へ打つて出た事を聞き、軍勢を集めて鎌倉を攻め落さうと、八月十九日に十万余騎で白川の関を出発した。鎌倉の管領足利左馬頭吉詮は此事を知つて、上杉民部大輔、細川阿波守、高大和守に八万余騎を添へ、利根河でこれを防がせた。両軍は各々東西の岸に臨み、水の減ずるのを待つてゐたが、顕家卿は長井斎藤別当実永の意見仁従ひ、河を渡つて攻め入り、忽ち敵を追ひ散らした。足利勢八万騎は四方八方に駆け散らされて、鎌倉へ引返して行つた。
 顕家卿は武蔵の府に六日間逗留して鎌倉の様子をさぐつてゐた。其処へ宇都宮左少将公綱が千余騎で身方に加はり、相模次郎時行も吉野の勅免を蒙り、伊豆国に兵を挙げ、五千余騎で足柄箱根に陣を取つた。又新田左中将義貞の次男徳寿丸も上野の国で兵を挙げ、二万余騎をひきつれて武蔵の国へ押しよせ、入間河に到着した。
 鎌倉では上杉民部大輔、同中務大輔、志和三郎、桃井播磨守、高大和守らの重立つた人々が、大将足利左馬頭義詮の前で、如何にすべきかの相談をつづけてゐた。

奥州勢の跡を追ひて道々合戦の事
  
 大将左馬頭は其時十一歳であつたが、此相談をきいて一同を励まし、討死の決心で鎌倉に立て籠つた。其軍勢は一万余騎に過ぎなかつた。これをきいた顕家卿、新田徳寿丸、相模次郎時行、宇都宮の紀清両党らの軍勢併せて十万余騎は、互に牒し合せ、十二月二十八日鎌倉へ攻め寄せてこれを打ち破つた。其後東国は皆官軍に身方をしたので、顕家卿以下の人々は正月八日に鎌倉を出発して上京した。其軍勢五十万騎は途々の民家で掠奪し、神社仏閣を焼き払ひ、途中の軍勢をも加へて進んだ。
 さて鎌倉の合戦に負けて、方々へ逃げ隠れてゐた上杉、桃井、高の人々は、武蔵相模の軍勢を集めた所、官軍につかなかつた者が三万騎ばかり馳せ集つてきた。それに尚諸所方々の軍勢を加へると、ざつと五万余騎になつたので、顕家卿の勢六十万騎の後を追つて上京した。

青野原軍の事
  
 奥州勢は既に垂井、赤坂辺に着いたが、後から追ひかけてくる鎌倉の軍勢が近づいたときき、先づこれから攻めようと、三里引返して美濃尾張の両国に陣を取つた。後詰の軍勢は八万騎を五手に分け、一番には小笠原信濃守、芳賀清兵衛入道禅可、二番には高大和守、三番には今川五郎入道、三浦新介と順々に攻め込んだが、皆打ち破られて引き退いて来た。四番には上杉民部大輔と同宮内少輔とが、一万余騎をひきつれて青野原へ打つて出た。これには新田徳寿丸と宇都宮の紀清両党との三万余騎が立ち向ひ、互に一歩も退かず、命を的に戦ひ合つたが、上杉は遂に負けて逃げて行つた。五番には桃井播磨守直常と土岐弾正少弼頼遠とが、わざと選りすぐつた鋭兵一千余騎をひきつれて青野原に打つて出た。これには奥州の国司顕家卿と副将軍の春日少将顕信卿とが六万余騎をひきゐて渡り合つた。土岐、桃井らは大軍をおそれず、一手となつてかけ入り、一騎となるまで引くな引くなと励まして戦ひ合つたが、土岐は重傷を受け、桃井は七十六騎となり、戦ひ疲れて引き退いた。
 京都では此事を聞いて驚き、近江美濃の辺に馳せ向つて決戦しようと、高越後守師泰、同播磨守師冬、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、同息子の近江守秀綱を始め、諸国の大名五十三人、其軍勢都合一万騎は、二月四日に京都を出発して、六日の朝早く近江と美濃の境にある黒地川に着き、ここに陣をとつて待つてゐた。
 顕家卿は北国の義貞勢と一手にもならず、黒地をも攻め破らず、俄に士卒を引いて伊勢から吉野へ廻らうと、奈良へ着いて暫く休息の後、部下の意見に従つて京都へ攻め上るべき準備をしてゐた。此事が京都へわかつたので、尊氏は大いに驚き、急いで奈良へ討手を下し、顕家卿を遮り留めよと、相談の上桃井兄弟を選び、これに討手の大将を云ひつけた。桃井直信、同直常兄弟は、其日出発して、奈良に向つた。顕家卿は般若坂に第一陣を張つて防いたが、桃井のよりぬきの兵七百余騎が身を捨てゝ切つて入り、顕家卿の兵も亦た力のかぎり防いだけれど、長旅に疲れてゐた事とて一陣二陣は忽ち打ち破られ、数万騎の兵は散り散りとなり、顕家卿も所在不明になつたといふ事で、桃井兄弟は無事に京都へ帰つて来た。
 かうした次第で、桃井兄弟は誰れよりも重い恩賞にあづかれる事と思ひ外、何の事もなかつたので、心中ひそかに不平を懐いてゐた。其処へ顕家卿の弟春日少将顕信卿が、奈良を逃げ出した敗軍の兵を集めて和泉の境(さかひ)に打つていで、やがて八幡山に陣を取つて京都を窺つた。京都では又大騒ぎをして、討手の大将を差向けようとしたが、進んで出る者がなかつた為め、師直は自ら一家を挙げて打ち向つた。これに刺戟せられて、諸軍勢は先を争つて馳せ加はり、桃井兄弟も私心を捨て、公義に従つて出征した。師直は大軍を率ゐて八幡山を取り囲み、四方からこれを攻め立てた。一日一夜の合戦に桃井兄弟は討死した。師直秘かに思へらく、和泉の境こそは河内に近く、楠和田らの合力も容易だから、先づ之を破らねばならぬと、八幡は遠巻きにして置いて、自らは天王寺方面へ出動した。天王寺には顕家卿が陣を取つて居り、命を捨てゝ防ぎ戦つたが、疲れてゐる上小勢の為め、遂に討ち破られて散り散りとなつてしまつた、顕家卿は大敵の囲みを破つて吉野へ出ようと、僅かに二十余騎で進んだが、五月二十二日に和泉の境に近い安倍野で討死をしてしまはれた。


(一)鴆といふ毒鳥の毛を酒にひたして作る毒薬。
(二)直義が鎌倉へ申し下し参らせた後醍醐天皇の第七の宮成良親王。


巻 第二十

黒丸城(くろまるのしろ)初度軍の事附足羽(あすは)度々軍の事

 新田左中将義貞朝臣は、去る二月初めに越前府中(ふちう)の合戦に打勝ち、次いで国中の敵城七十余箇を瞬く間に攻め落して、其勢ひが又強大となつた。けれども黒丸城はまだ落ちず、足利尾張守高経(たかつね)がそこに拠つてゐるので、これを残して上洛するのは残念だと、義貞は五月二日、自ら六千余騎を率ゐて国府(一)を出発した。黒丸城の手前にある足羽城を先づ攻めようと、波羅密(はらみ)、安居(あご)、河合(かあひ)、春近(はるちか)、江守(えもり)の五箇所へ五千余騎の兵が差向けられた。
 一番には義貞の小舅(こじうと)、一條少将行実(ゆきざね)が五百余騎を率ゐて江守より押寄せたが、黒龍明神(くづれのみやうじん)の前で敵に出逢ひ、戦ひ利あらずして本陣へ引返した。二番には船田長門守政経が五百余騎で安居渡(あごのわたし)から押寄せて、兵士が河を渡らうとしてゐる時、細川出羽守の二百余騎が河向ひに現はれ、高岸の上から散々に射立てたので、漲る浪に人馬は溺れ、ほふ/\の体でこれも引返した。三番には細谷右馬助(ほそやうまのすけ)が、千余騎を率ゐて河合荘(かあひのしやう)から押寄せ、北の端の勝虎城(しようとらがじやう)を取巻いて一気に攻め落さうと堀を越え、塀につかまつてゐる処へ、鹿草(かぐさ)兵庫助の三百余騎が後攻(ごづめ)にまはり、側目(わきめ)も振らずに攻め立てたので、細谷の軍は腹背共に敵に追ひ立てられて本陣へ引返した。かうして足羽の合戦は、もはや寄手の敗北となつた。

越後勢越前に越ゆる事

 越後国には新田の一族が蔓つてゐるので、義貞の上洛と聞いて、それに合体するつもりで、大井田(おゐだ)弾正少弼(せうひつ)、同式部大輔、中條入道、鳥山左京亮、風間(かざま)信濃守、禰津掃部助(ねづのかもんのすけ)、太田瀧口らは総勢二万余騎で、七月三日越後の府を立ち、将に越中国に入らうとした時、其国の守護普門蔵人俊清(かもんくらうどとしきよ)が国境に出てこれを牽制したが、小勢の大半を討たれて松倉城に引籠つた。
 越後勢はそれに頓着なく、直ちに加賀国へ向つたので、富樫介(とがしのすけ)は五百余騎を率ゐて、安宅(あたか)、篠原(しのはら)のあたりで出迎へたが、敵に対抗するほどの軍勢でもないので、二百騎余り討たれて、富樫の軍は那多城(なたのしろ)へ引籠つた。
 越後の勢は両国で二度の合戦に打勝ち、北国の敵恐るゝに足らずと、其儘越前へ打つて出るつもりであつたが、そこから京都までは、多年の兵乱で、国衰へ、民疲れ、どこでも兵粮が得られさうもないので、暫く加賀国に留つて兵粮を用意しようと、今湊宿(いまみなとのしゆく)に十余日間も留まつてゐた。
 其間に滞留軍は、剣(つるぎ)、白山(はくさん)以下所々の神社仏閣を犯し、或は民家に押入つて、手当り次第に資財を掠奪した。昔から霊神怒を為せば災害岐(ちまた)に満つといはれてゐるが、此軍勢の悪行の責めを、若し一人が負ふものとすれば、其総大将義貞朝臣が成功せられる事は覚束ないと、達識の人々は潜に将来を憂へてゐた。

宸筆の勅書義貞に下さるる事

 幾日かの後、越後勢は越前の河合(かあひ)に到着し、義貞の軍勢は益々強大となり、もう足羽城(あすはのしろ)を陥す事は容易であると思はれた。尾張守高経は平城(ひらしろ)に三百余騎で楯籠り、三万余騎の敵兵に四方を囲まれてゐる事とて、いくら守将の元気がよくとも、籠鳥が雲を慕ひ、涸魚が水を求めるやうに、城兵はいつまでとも知らぬ命を自覚して、歎き悲しまぬものはなかつた。
 愈々来る二十一日には黒丸城を攻めようと、義貞勢が準備を進めてゐる処へ、吉野から勅使が立てられて、「義興(よしおき)や顕信(あきのぶ)は疲れ切つた敗軍の兵を率ゐて八幡山に楯籠つてゐるが、洛中の賊徒が全力を竭してこれを攻囲し、城中には巳に食料が乏しく、兵士らは悉く疲労してゐる。たゞ北国軍の上洛が間もないと聞いて、士卒は梅酸(ばいさん)の渇(かつ)(一)を忍んでゐるだけだ。若し進発が延引するならば、官軍の没落は疑ひがない。天下の安危、ただ此一歩に在り。早く其地の合戦を閣(さしお)いて、京都の征戦を専らにせよ。」といふ御宸筆の勅書を下された。
 義貞は勅書を拝見して、これまで源平両家の武臣は、代々大功があつたけれど、親しく御宸筆の勅書を賜はつた例はまだない。これは全く当家の過分の名誉である。此時、君の為めに命を軽しとしなければ、何時其時期があらうと、足羽の攻囲を止めて、先づ京都への進出を急いだ。

義貞山門に牒(てふ)ず同じく返牒の事

 児島(こじま)備後守高徳(たかのり)が、義貞朝臣に向つて云ふには、「先年、京都合戦の時、官軍が此叡山を陥れられたのは、北国の敵に糧道を絶たれたからです。越前、加賀の主なる城々には軍勢を残し、兵粮を運送させて、御身は比叡山に陣を置き、京都を攻められたなら、八幡の官軍が大に力づくことと存じます。然し小勢で山門に上られては衆徒が背くかも知れません。先づ牒状を送つて見られては如何ですか。」で、義貞が「誠に細心で、深いお考へです。では牒状を山門へ送つて見ませう」と云ふと、豫てから心に草案を持つて居たのか、高徳は筆を取つて、
 正四位上行(じやうぎやう)左近衛中将播磨守朝臣義貞牒延暦寺衞。
  早く山門贔屓の一諾を得て、逆臣尊氏直義以下の党類を誅罰し、仏法王法の光栄を致さんと請ふ。
と書きつけた。山門の大衆は、何か不思議があつて早く先帝の御代になれかしと祈つてゐた処へ、此牒が到着したのであるから、一山(いつさん)挙つて悦び合ひ、同年七月二十三日、大講堂に会合して、直ちに義貞へ合同する由の返牒を送つた。
 山門の返牒(へんてう)が越前に届くと、義貞は非常に悦び、直ぐ上洛されようとしたが、如何にも高経が気懸りなので、兵を二手に分け、義貞は三千余騎を率ゐて越前に留り、義助は二万余騎を以て七月二十九日越前の府を立ち、翌日、加賀の湊に着いた。

八幡(やはた)炎上(えんじやう)の事

 将軍は此事を聞いて、「脇屋義助(わきやよしすけ)が、山門と一味して上洛するさうだ。それは一大事だ。八幡の合戦は閣(さしお)いて、急ぎ京都へ帰れ」と高武蔵守に命じた。上洛の命を受けて師直(もろなほ)は進退谷(きはま)り、雨風の夜に乗じて、忍びの名人を八幡山(やはたやま)に遣はし、神殿に火を懸けさせた。よも神殿を焼くまじと、官軍は油断してゐたから、周章て騒いで煙の中に右往左往する。十万余騎の寄手は、これを見て谷々より攻め上り、既に一二の木戸にまで達した。
 城中の官軍に、多田(ただの)の入道の手下で、高木十郎、松山九郎と云ふ知名の兵があつた。高木は心こそ強けれ力が足らず、松山は力こそ勝(すぐ)れたれど心が臆病である。二人は共に同じ関を固めてゐたが、一の関を既に攻め破られ、二の関を辛うじて支へて居た。敵が逆茂木(さかもぎ)を引破つて関を切つて落さうとしても、松山は例の癖で、手足を慄(ふる)ひ戦(わなゝ)かせるだけで、敢て戦はうともしない。高木十郎は、それを見て眼を瞋(いか)らし、腰の刀に手をかけて「敵は四方を攻め囲んで、一人も残すまいと押し寄せて来る。こゝが破られたら、主将を始め我々は一人も生き残るまい。今こそ懸命に戦ふべき時だ。然るに、何ぞや心臆(おく)して、愚図々々してゐる君の様子は、実にあきれ返つて物もいへない。平生百人力だ二百人力だと威張つてゐながら、かゝる場合に懸命の合戦をしない君と、おれは刺し違へて死なう。」と言葉激しく詰め寄つた。松山は其様子を見て、目の前の勝負が敵よりも怖ろしく「ま、暫く待つてくれ。今は公私の一大事、決して命を惜んでゐるわけではない。先づ一戦して敵に一泡吹かせよう。」と、云ふなり早くふらふらと走り立つて、傍にあつた大石の五六人がゝりなのを軽々と提(ひつさ)げて、敵軍の真只中へ十四五程も、大山の崩れるが如くに投げ込んだ。数万の寄手は此大石に打たれて、将棊倒しに谷底へ転び落ち、自ら太刀長刀につき貫かれて命を堕(おと)し、負傷した者数千人とも知れなかつた。かうして間もなく攻め落されさうに見えた八幡城が思ひの外に持ち堪(こた)へたので、松山の力は高木の身にあるのだと、笑はない者はなかつた。
 敦賀に着いた越前勢は、八幡炎上と聞いて数日間、逗留したが、官軍はそれを待ち切れず、六月二十七日の夜半に、八幡山を退去して河内国へ帰つた。まだ聖運が熟しなかつたとでも申さうか、両軍の合図が相違して、敦賀と八幡との官軍が合体出来ず、共に兵を引揚げて帰つたのは、誠に薄運の極みであつた。

義貞重ねて黒丸合戦の事附平泉寺調伏の法

 八幡との合図が相違した上は、心閑かに越前の敵を退治しようと、義貞、義助は河合荘に赴いて、先穽づ足羽城を攻める計画を立てた。
 尾張守高経は、此事を牒知して、「討死を覚悟して城を堅める他はない」と、深田に水を入れて馬の足も立たぬやうにし、路を掘つて穽(おとし)を造り、橋を外(はづ)し、溝を深くして、其内に七つの城を造り構ヘた。
 此足羽城は藤島(ふじしまの)荘と竝んで居り、城郭の半分以上は其荘の中にあるので、平泉寺(へいせんじ)の衆徒が申すには、「藤島荘は当寺と叡山とが多年争論してゐる下地である。当荘を平泉寺に下さるならば、若い者は城に置いて合戦をさせ、年功ある者は陀羅尼(だらに)の扉を閉ぢて御祈祷をさせませう。」と云つたので、尾張守は悦んで藤島荘を平泉寺に附ける教書を下した。衆徒は勇んで、五百余人の若輩を藤島の城に楯籠らせ、宿老五十人に怨敵調伏の法を行はせた。
 
義貞夢想の事附諸葛孔明が事
  
 それから七日目に当る夜、養貞朝臣は不思議な夢を見られた。所は足羽辺と思はれる河岸で、自分と高経とが相対して陣を張つてゐる。まだ合戦をしない中に数日を過したが、白分は俄に長さ三十丈許りの大蛇となつて地上に臥した。高経がそれを見て兵を引き上げ、楯を捨てゝ逃げること数十里にして漸く止まつた。と、夢が覚めた。
 義貞は朝早く起きて、人々に此夢の事を話されると、一同は御目出度い御夢だと声を合したが、斉藤七郎入道道献は垣を阻(へだ)てゝ之を聞き、眉を顰めて潜に云ふには、「これは全く目出度い夢ではない。豫め凶を告げる天の声である。と申すわけは、昔支那に呉の孫権(そんけん)、蜀の劉備、魏の曹操といふ三人の豪傑が居り、支那四百余州を三つに分けて各々其一を保つてゐた。蜀の劉備は南陽山に世を避けてゐた諸葛孔明の賢を知つて、三度まで訪れて之を丞相に任じた。孔明は臥龍と呼ばれ、其徳に天下が靡きさうになつたので、魏の曹操は恐れをなし、今の中に早く蜀を討滅しなければならぬと、司馬仲達(しばちうだつ)に七十万騎を授けて蜀を攻めさせた。仲達の七十万騎は孔明の三十万騎と河を隔てゝ対峙し、五十余日を経ても戦はうとはしなかつた。仲達は孔明の徳が全軍を一心同体にしてゐるから、たとへ戦つても身方に利益は無い。それよりはただ陣を張つて、将卒と労苦を共にしてゐる孔明が疲れて病ひになるのを待つた方がよいと考へたのである。数箇月経つた或夜、両陣の間に客星が落ちて、其光りが火よりも赤かつた。仲達はそれを見て、七日の中に天下の人傑を失ふべき星である。これは孔明の死する前兆だ。魏が蜀を併せるのは遠くないと悦んだが、果して其朝から孔明は病ひに臥し、僅か七日にして死んでしまつた。蜀の副将軍らは魏兵の進撃を恐れ、孔明の死を秘して旗を進め、兵をさしまねいて魏の陣中へ突入した。仲達は一戦をも交へず、馬に鞭つて走る事五十里、嶮岨の処で漸く留まつた。戦済んで後、孔明が死んだ事を知り、蜀の兵は皆仲達に降つた。蜀は間もなく亡びた。此故事を以て、今の御夢を考へるに、事の様(さま)、全く魏呉蜀三国の争ひに似てゐる。龍の姿で水辺に臥されたのは、臥龍(ぐわりよう)と云はれた孔明を表はしたものである。諸君は御夢を目出度いといはれたけれども、道献は強ひて同意しない。」
 之を聞いて、人々は心中では尤もだと思つたが、語(ことば)に憚つて敢て凶だといふ者はなかつた。

義貞の馬属強(つけずま)ひの事
  
 閏(うるふ)七月二日は、足羽の合戦だと触(ふ)れられたので、国中の官軍は義貞の陣河合荘へ馳せ集まつた。其勢は雲霞のやうであつた。大将新田左中将義貞朝臣が赤地の錦の直垂に脇出(わいだて)(三)だけで遠侍(四)の座上に坐られると、脇屋右衛門佐は紺地の直垂に小具足だけで左の一(いち)の座に著(つ)かれる。此外、山名、大館(おほだち)、里見、以下の一族三十余人は、思ひ思ひの鎧兜に色々の太刀、刀、綺麗の限りを尽して束西二行(ぎやう)に並ぶ。外様(とざま)の人々には、宇都宮美濃将監(しやうげん)を初めとして、禰津(ねづ)、風間(かざま)、敷地(しきち)、以下軍勢三万余人、旗竿(はたざを)を引きそばめ/\、膝を折り手を束ねて、堂上庭前に充ち満ちたので、由良、船田に大幕(おほまく)を掲げさせて、大将に遙か目礼して一隊一隊座敷を起つ。巍々(ぎぎ)たる装束、堂々たる礼儀、誠に尊氏卿の天下を奪はん人は、必ず義貞朝臣であらうと、誰れしもさう思はない者はなかつた。
 大将は中門で鎧の上帯を締めさせ、水練栗毛(すゐれんくりげ)とて五尺三寸の大馬に手縄(たづな)打懸けて、門前で乗られようとすると、其馬が俄に進まず、騰(は)ね上り跳(をど)り狂ひ、左右に附いてゐた舎人(とねり)二人は、蹈まれて半死半生になつた。不思議だと思ふ間もなく、足羽河を渡る旗持ちの馬が河中に伏して、旗持ちは水に浸つた。かうした怪事が次々に起つたけれど、巳に進軍を始めた以上は引返すことも出来ないので、危倶の念を懐きながらも一同は前進した。

義貞自害の事
 
 義貞は燈明寺(とうみやうじ)の前で、三万余騎を七手に分けて、七つの城を押し阻(へだ)てゝ対城(むかひじろ)を取(と)られた。豫ての作戦では、前の兵士は城に向つて合戦し、後の足軽は櫓を造り、塀を塗つて、対城を造つてしまつた後、段々に攻め落さうといふ手筈であつたが、平泉寺の衆徒の籠つてゐる藤島城が意外に脆く、間もなく落ちさうに見えたので、数万の寄手はこれに勇気を得て、先づ対城を差置き、塀に取り著き、堀につかつて、喚(をめ)き叫んで攻め戦つた。衆徒も始めは負けさうであつたが、とても遁れられないと観念したものか、急に元気を出して懸命に防いだ。官軍が楯を覆(くつがへ)して入らうとすれば、衆徒は走木(はしりぎ)を出して突き落す。衆徒が橋を渡つて打つて出れば、寄手の官軍は鋒(きつさき)を揃へて斬つて落す。追ひつ追はれつ、入れ替つての戦ひに、時刻が移つて、日は西山(せいざん)に沈まうとする。
 大将義貞は燈明寺の前で負傷者の実検をしてをられたが、藤島の戦ひが存外手強(ごわ)く、動々もすれば官軍が追ひ立てられさうなので、不安を感ぜられたのでもあらう、馬に乗り替へ鎧を著かへて、僅か五十騎の兵を従へ、路を替へて田の畦(あぜ)を伝ひ、藤島の城に向はれた。其時、ちやうど細川出羽守、鹿草(かぐさ)彦太郎の両大将が、藤島城を攻める寄手共を追払はうと、三百余騎で黒丸城を繰り出し、横畷(よこなはて)を廻つて来たのに、義貞がばつたり行き合つた。
 細川方には楯を持つ射手(いて)が多く、深田に走り下りて楯を衝き竝べ、それに鏃(やじり)を支へさせて散々に射たが、義貞方には一人の射手もゐず、楯の一帖もないので、兵士が義貞の矢面に立ち塞がつた。中野藤内左衛門は義貞に目くばせして、「小敵を攻めるのに、大将の手は要りません。」といつたが、義貞はよくも聞かずに、「多数の兵を失つて我れ独り難を免れるのは本意でない。」と駿馬に一鞭あてゝ、敵中に懸け入らうとした。馬は名うての駿足で、一二丈ばかりの堀を容易に越えることが出来たが、五筋までも射中(いあ)てられた矢にひるんで、小溝一つをも越えかねて、屏風を倒すやうに崖下に転んだ。此時義貞は左の足をくぢかれて、起き上らうとされる処へ、白羽(しらは)の矢が一筋、兜の正面の端、眉間(みけん)の真中に立つた。何しろ急所の痛手(いたで)であるから、一矢の為めに目がくらみ、心が迷つたので、義貞はもはや万事休すと、抜いた太刀を左手に取り渡し、自ら首を掻き切つて深泥(しんでい)の中に蔵(かく)し、其上に横(よこたは)つて俯向(うつむ)かれた。
 越中国の住人氏家中務丞(うぢいへなかつかさのじよう)重国(しげくに)は、畦を伝つて走り寄り、其首を取つて鋒(きつさき)に貫き、鎧、太刀、刀を一所に収めて黒丸城に馳せ帰つた。義貞の前で畷を阻(へだ)てゝ戦つてゐた結城(ゆふき)上野介、中野藤内左衛門尉、金持(かねち)太郎左衛門尉らは、馬から飛び下りて義貞の死骸の前に跪き、腹掻き切つて重なり合つて死んだ。此外の四十余騎は皆堀溝の中に射落され、一人の敵をも討ち取る事が出来ずに死んでしまつた。左中将の兵三万余騎はいづれ劣らぬ勇者で、大将の身に代つて死なうと思はぬ者はなかつたけれども、小雨混(まじ)りの夕霧に、誰れが誰れだか分らず、大将が自ら戦つて討死された事を知らなかつた。何といふ運の悪さだ。唯だよそよそしい郎党(らうどう)が主人の馬に乗り替へて、河合を指して引き揚げるのを、数万の官軍は遙かに望んで、大将の跡に従はうと、何の分別もなく思ひ思ひに落ちて行つた。
 漢の高祖は自ら淮南の黥布(げいほ)を討つた時、流矢に当つて未央宮(びやうきう)の裏(うち)に崩ぜられ、斉の宣王(せんわう)は自ら楚の短兵(たんぺい)と戦つた時、干戈(かんくわ)に貫かれて戦場に死なれた。だから咬龍(かうりよう)は常に深淵の中に住む。若し渚に遊べば網や鉤にかゝる愁ひがある。義貞朝臣は君の股肱の臣として、武将の位が備はつてゐたのであるから、其身を慎み、命を全うされたならば、十分大功を樹てらるべきであつたのに、自らさほど重要でもない戦場に出られて、名もなき匹夫の鏑矢に命を喪はれてしまつた。運命とは云ひながら、如何にも惜しい事だ。
 軍(いくさ)が済んでから、氏家中務丞(うぢいへなかつかさのじよう)は、尾張守の前に出て、「重国こそ新田殿の御一族かと思はれる敵の首を取りました。誰れとは名乗らぬから名字は存じませんが、馬、物具(ものゝぐ)の様子、従兵が死骸の前で腹を切つて討死しました様子。それらを観ると常の葉武者(五)ではないと存じます。これが其死人の膚に懸けてゐた護符であります」と、血をまだ洗はぬ首に、土の着いた金欄の守札を副へて差出した。尾張守は其首をしげ/\見て、「なるほど、新田左中将そつくりの顔附だ。若し左中将なら左の眉の上に矢創(きづ)がある。」と自ら鬢櫛(びんぐし)で髪を掻き上げ、血を洗つて土を落して見ると、果して左の眉の上に疵跡があるので、更に帯びてゐられた二振の太刀を調べると、金銀を延べて作つた一振は、銀で金膝纒(はゞき)(六)の上に鬼切といふ文字を●(「さんずい」+「冗」)め、一振は銀脛巾(はゞき)の上に鬼丸といふ文字を●(「さんずい」+「冗」)め、共に源氏重代の重宝であるから、益々怪しく思つて膚の守を開くと、後醍醐天皇の御宸筆で「朝敵征伐事。叡慮所向。偏在義貞武功。選未求他。殊可運早速之計略者也。」とあつたので、さては愈々義貞朝臣の首に相違ないと、葬礼の為めに屍骸を輿に乗せ、時衆(七)八人にかゝせて往生院へ送り、首は朱の唐櫃に入れ、氏家中務を副へて潜に京都に上せられた。
 
義助重ねて敗軍を集むる事
  
 脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸城(いしまるのしろ)に帰つて初めて義貞の死を知り、大将と同じ処で討死しようではないかといはれたが、兵士は皆茫然としてゐるのみか、中には夜の闇に紛れて落ちて行く者もあり、又黒丸城へ降る者などもあつて、昨日までは三万騎を計へた兵数が、一夜の中に二千騎にも足らないほどになつた。こんな有様では、とても北国を押さへる事は出来ないと、三峯城(みつみねのしろ)に河島を籠らせ、杣山城に瓜生を置き、湊城(みなとのしろ)に畑六郎左衛門時能(ときよし)を残されて、閏七月十一日、義助、義治父子は、七百余騎を率ゐて当国の府へ帰られた。
 
義貞の首を獄門(ごくもん)に懸くる事附勾当内侍(こうたうのないし)の事

 新田左中将の首が京都に着くと、朝敵武敵の最なるものとして、大路を渡して獄門に懸けられた。左中将は後醍醐天皇の寵臣で、其武功は一世を蓋はれたから、長い間に其眷愛を受け、恩顧を蒙つた人が幾千万といふ数を知らない。それらの人々は京中に散らばつてゐるので、いたはしい最後の御顔を拝まうと、集つて来た車馬は帰りかねて道に横(よこたは)り、立ちすくんだ男女は岐(ちまた)を埋めて、見上げる眼は涙にうるほひ、声を立てゝ泣き悲しむものさへあつた。中にも哀れなのは左中将の北の臺勾当内侍(こうたうのないし)の局(つぼね)の心の中である。
 局は頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)の女(むすめ)であつた。金屋(八)の内に粧ひを閉ぢ、鶏障(けいしやう)の下に媚びを深くして、二八(九)の春の頃から内侍に召されたが、羅綺(らき)(一〇)にも堪へない姿は、春風に吹き残された一片の花かと疑はれ、紅粉を施した顔(かんばせ)は、秋雲の吐き出した半江の月に似てゐた。さればこそ椒房の三十六宮、五雲の漸くに遶(めぐ)る事を听(いた)み、禁漏(一一)の二十五声、一夜の正に長き事を恨んだ。想ひ回せば建武の初め、天下がまた将に乱れようとした時、新田左中将は常に召されて、内裏の御警固に当つてゐた。秋の或夜、月が澄み、風が冷やかであつた時、勾当内侍は半ば簾(すだれ)を捲上げて、琴を弾じてゐた。左中将は其怨むやうな声に心を引かれて、思はず月下に彷ひ出でたが、何物かに憧憬れてわけもなく心が落着かないので、唐垣(からがき)の陰(かげ)に立隠れて内の様子を窺つた。内侍はそれを気づいて、もの悩ましげに琴弾く手を止めた。夜がいたく更けて、有明の月がさし入るのに、「類(一二)までやはつらからぬ」と詠じて萎れ伏した様子は、折つたら落ちさうな萩の露か、拾つたらば消えさうな玉篠(たましの)の霰か、否それよりも一層艶つぽかつたので、左中将は心も空に帰つて行く途筋も分らず、淑景舎(しげいしや)の傍で一夜を立ち明した。内裏から帰つた後も、幻影が眼の前にちらついて、世の業(わざ)、人の語(ことば)も心に入(はい)らないから、起きるともなく(一三)、寝るともなく、夜を明(あか)し、日を暮して、若し案内してくれる海人(あま)さへあつたら、忘れ草の生へてゐる浦のあたりをでも尋ねて、此恋ひ慕ふ心を忘れたいものだと、深き物思ひに沈まれた。どうにも仕方がないので、媒(なかだち)してくれる人を探し出し、其人に托してただ此恋心の切なさを先方に知らせようと、
  我が袖の涙に宿るかげとだに
    しらで雲居の月やすむうむ
(歌意──自分の袖を濡らした涙に、映る影とさへ知らずに、空の月は澄んでゐるのだらうか。恋ひこがれて泣いてゐる私の心も知らずに、貴女は雲深き九重に住んでゐられるのですか。)
といふ歌を詠んで局に贈られたが、若しかやうの事が叡聞に達しては畏れ多いと、それの方の心配もあつて、誠に哀れげな様子に見えた。ところが使が帰つて来て、手にさへ取らないと云つたので、左中将はがつかりして、まるで生きてゐる心地もしなかつたのに、誰れが申上げたものか、天皇は此事を知られて「田舎者の一徹さに、思ひ詰めたのも尤もだ。」と事の外に憐れませ、御遊(ぎよいう)の次(つい)でに義貞を召され、さて御酒(おほみき)を賜はつて、「勾当内侍を此盃につけて取らせう。」と仰せ出された。左中将は此上もなく悦んで、次の夜、牛車(うしくるま)爽やかに仕立て、勾当内侍の許にかくと案内をさせると、内侍も早や観念して、此頃では誘ふ水(一四)あらばと思つてゐたと見えて、さほど夜の更けぬ中に車の軋る音がして、左中将の中門に轅を差廻すと、侍児が一人二人、妻戸をさし隠してどよめき合つた。左中将は幾年も恋ひ忍んだ末、やつと相逢ふことが出来たので、優曇華(うどんげ)の春待ち得たる心地して、珊瑚(さんご)の枕の上に陽臺の夢が長くさめ、連理の枝の頭(ほとり)に驪山(りざん)の花が自ら濃(こま)やかであつた。
 中将ほどの人の心の迷ひである、誰れも諌める者がなかつたので、前には建武の末、朝敵が西海の波に漂つてゐた時も、中将は此内侍に暫しの別れを悲しんで、征伐に出るのを躊躇し、後には叡山臨幸の時、寄手が大嶽(おほだけ)から追ひ落され、其儘押し寄せたら京都が手に入つたらうものを、中将は此内侍に迷つて、勝ちに乗じ、疲れを攻める作戦に出でなかつた。そして其結果、国は遂に敵の為めに奪はれてしまつた。一たび笑めば能く国を傾くとは、誠に理の深い箴言である。中将が坂本から北国へ落ちられた時は、道中の難儀を慮つて、此内侍を今堅田(いまかただ)といふ所に留め置かれた。かうした場合の別れでなくも、行く者は後を顧みて、頭(かうべ)を家山の雲に回らし、留まる者は末を思うて、涙を天涯の雨にそふのが常である。ましてや中将は行末も頼みない北国に赴かれるのであるから、生きて再びめぐり逢ふ後の契(ちぎ)りは覚束ない。又、内侍は、都に近い海人(あま)の磯屋(いそや)に身を隠されたのであるから、今にも探し出されて捕はれの身となり、憂き名(な)を人に聞かれることがあるかも知れないと、並み並みならず嘆かれた。
 翌年の春、父行房朝臣(ゆきふさあそん)が金崎(かながさき)で討死されたといふ噂さを聞かれてからは、恋しい思ひの上に悲しみの心が添うて、内侍は早や命も欲しくないと嘆き沈ませられたが、たとへさう思つたとて死なれた身ではないのであるから、起(た)つにつけ居るにつけても流れる涙に袖を乾(ほ)しかねて、二年余りは夢のやうに過ぎた。
 中将も越前に下著された日から、迎ひの者を上せたいと思はれたけれども、道も容易でなく、また人の心をも憚かられて、唯だ時々の便りばかりを互ひに生き残つてゐるしるしとして、心ゆかぬ月日を送つてゐられたが、其秋の初めに、今は道中も静かになつたと、迎ひの人を上らせたので、内侍は夜の明けたやうな心持で、先づ杣山(そまやま)まで下り著かれた。
 其時中将は、足羽(あすは)に出向はれ、杣山には誰れもゐなかつたから、其処から輿の轅(ながえ)を進めて、浅津(あさうづ)の橋へかゝられた時、瓜生弾正(うりふだんじやう)左衛門尉が百騎許りを率ゐて行くのにばつたり出逢つた。爪生は馬から飛び下りて、輿の前にひれ伏し、
「これは何処(いづく)へ御渡りになるのでございます。新田殿は昨日の夕方、足羽(あすは)と申す所でお討たれになりました。」
と云ひも終らず、涙をはらはらとこぽすと、内侍は驚きの余り却つて涙も出ず、輿の中に伏し沈んで、
「せめては其方のお討たれになつた野原の草の露の下に、私の身を捨置いて帰つておくれ。さほどの前後はない、一所に死にたうございます。」
と云つて泣き悲しまれたので、
「早く其輿を舁(か)き返せ。」
と急いで杣山へ返された。これが此頃中将殿の住まれた所だといつて、案内されたまゝに色紙を張り散らした障子の内を見ると、何となき手荒みの筆の跡まで、皆な「都へ何時か」と待望の心を書き置かれたものでないのはなかつた。かうした形見を見るにつけても、内侍の心の悲しみは深くなりまさるばかりであつたが、中将が久しくお住みになつた処であるから、爰で中陰(ちういん)の日を過して、亡き御跡を弔はうと思はれた。然るに、間もなく其の辺(あたり)が騒がしくなり、敵が近附いたといふやうな噂さもあつたので、やがて又京都へ送つて、仁和寺(にんなじ)の辺りの静かな宿、そこは荒れ果てゝ主人さへ住まない家に置きまいらせた。都ながらも今は旅心、安き思ひとてはなく、袖はいつも涙に濡れてゐるので、何処かに浮舟の此身を寄せる処がないかと、昔知つた人の行方を尋ねて陽明(やうめい)の辺に行かれる途中に、大勢の人が群がつて、「あゝ哀れだ」、など云ふのを何かと思つて、立留つて見られると、自分が越路(こしぢ)遙かに尋ねて行つて、会はずに帰つて来た其新田左中将義貞の首が、何とまあ獄門(ごくもん)に懸(か)けられて、眼が塞がり、色が変つてゐるではないか。
 内侍の局はそれを二目とは見られずに、土塀の陰に泣き倒れられた。知る人も知らぬ人もそれを見て、涙を流さない者はなかつた。日は巳に暮れたけれども、立帰る心地もしないので、露しげき草の中で泣き崩れてゐられるのを、其辺の道場の僧が見て、「あまりに御気の毒で、お慰め申す言葉もございません。」と請じて内へ誘ひ入れたところ、其夜直ぐ黒髪を剃り下(おろ)して、艶やかな御姿を墨染の衣(ころも)に包まれた。暫くの間は亡き人の面影を身に副へて泣き悲しまれたが、やがて会者定離(ゑしやじやうり)の理(ことわり)に愛別離苦の夢を覚まされてからは、穢土を厭ふ心が日々に募り、浄土を願ふ念が刻々に増つたので、遂に嵯峨の奥、往生院のあたり、とある小庵に朝夕を行ひすましてゐられた。
 
奥州下向の勢(ぜい)難風に逢ふ事
  
 吉野で義貞が北国から攻め上る由を聞かれ、今か今かとそれを待たせられた甲斐もなく、次ぎには足羽で討死の牒状を見させられて、天皇は深く御落胆遊ばされた。其時奥州の住人、結城(ゆふき)上野入道道忠(だうちう)が参内して、
「国司顕家卿が三年の内に二度まで大軍を動かして上洛せられたのは、出羽、奥州の両国が皆国司に従つてゐたからの事でございます。国人の心が変らない中に、宮様を御一人下されましたならば、従ひ奉らぬものはございますまい。奥州五十四郡は日本国の半分にも当り、其兵数も五十万を下りません。此道忠が宮様を擁し奉つて、老人の頭に兜を頂きますならば、重ねて京都に上つて恥を雪ぐのは、一年も経たない中のことゝ存じます。」と申し上げたので、天皇を始め奉り、老臣達も尤もな事と思召され、当年七歳の第八宮(だいはちのみや)義良親王に、春日少将顕信、結城入道道忠を附けて奥州へ下されることになつた。又新田左兵衛佐義興(よしおき)、相模次郎時行の二人にも、東八箇国を討ち平げよとて、武蔵相模の両国へ下向せしめられた。
 陸地には敵兵が満ちてゐて通り難からうと、伊勢の大湊(おほみなと)に船を艤して風を待ち、九月十三日の夜纜(ともづな)を解いて出帆した。兵船はすべて五百余艘、宮の御座船を護つて遠江の天龍灘を過ぎる頃、海風が俄に吹き荒れて、逆捲く波が忽ち天を巻き返した。船は或は檣を吹き折られ、或は舵をうち折られたが、日が暮れるに従つて天候は益々暴く、風向が一向定まらない為めに、船は散り散りばら/\になり、伊豆の大島、女良湊(めらみなと)、亀河、三浦、由比浜など、津々浦々の港に吹き寄せられた。宮の召された御船一艘だけは、廣々とした大洋に吹き放たれて、今にも覆らうとした処、光明赫奕(くわくしやく)たる日輪が現はれて、風が俄に吹き変つて、伊勢国の神風浜へ吹き戻された。

結城入道地獄に墜つる事
  
 中でも結城上野入道の乗つてゐた船は、悪風に吹かれて渺々たる海上に漂ふ事七日七夜、既に大海の底に沈むかと思はれたが、風少し静まつて伊勢の安濃津(あのつ)へ吹き寄せられた。渡海(とかい)の順風を待つて十余日を経る中、入道は重き病に罹つて、もはや快癒の見込みがなくなつたので、看病してゐた僧が枕辺に寄つて、
「今日まではひたすら快方に向はれるのを待つてゐましたが、御病気は重る一方で、御臨終の日ももはや遠くはないと思はれます。よくよく後生(ごしやう)を願はれて、念仏申される声の中に、三尊の来迎を御待ち下さい。だが、今生(こんじやう)では何事を思召されます。御心に懸る事がございますなら、何なりと仰せ置き下さい。御子息の御方へ御伝へ申しませう。」
と云ふと、既に目をつむらうとした入道は、かつぱと跳ね起きてからからと笑ひ、「私は巳に七十歳に及び、身に余る栄華を極めたので、今生には何も思ひ残すことはない。たゞ朝敵を亡ぼすことが出来ないで死ぬのが何時何時までもの妄念となります。それだから息子の大蔵権少輔には、我が後生を弔はうと思ふならば、供仏施僧(くぶつせそう)や称名読経の代りに、朝敵の首を取つて我が墓前に懸け並べて見せよと伝へ下さい。」と云ふのが最後の詞で、刀を抜いて逆手に持ち、歯噛(はがみ)をして死んだ。
 入道が死んだ事を、遠方の事とて、故郷の妻子はまだ知らなかつたが、其頃、入道一家に関係のある律僧が武蔵国から下総国へ下つて行つた。広い野原で日が暮れて泊る宿を探してゐると、山伏が一人出て来て、「さあいらつしやい。此辺の僧を接待してくれる所へお連れ申しませう。」といふので、行脚(あんぎや)の僧は悦んでついて行くと、鉄の塀を囲らし、金銀の楼門が立つてゐて、其額には大放火寺と書いてあつた。内に入つて、夜中過ぎになつた頃、急に月がかき曇り、雨が荒く降つて、電光(いなびかり)がすると共に、数限りもない牛頭(ごづ)、馬頭(めづ)の獄卒が大庭に集まつて来る。烈(れつ)々たる猛火(みやうくわ)が盛んに燃えて、毒蛇が舌を出して焔を吐き、鉄(くろがね)の犬が牙をとぎつゝ吠え怒る。僧は、あゝ恐ろしや、これこそ無間(むけん)地獄であらうと、恐怖に戦きつゝ見てゐると、鬼共が罪人を連れ来り、俎と俎の間に挟んでえいやえいやと押す。紙の如くに押しつぶされた罪人を鉄の串にさし貫き、炎の上で炮(あぶ)り乾して寸分(ずたずた)に切り割り、さて銅の箕の中に入れて簸(ふる)ふと罪人は再び蘇るのであつた。
 僧は恐ろしさの余り、山伏に「あれは一体如何なる罪人ですか」と聞くと、山伏は「あれは奥州の住人結城上野入道(ゆふきかうづけにふだう)と云ふ人です。伊勢国で死んだが、阿鼻(あび)地獄へ落ちたのです。若し貴方が御縁のある方ならば、妻子達に、一日経を書いて供養し、此苦しみを救つてやれと云つておやりなさい。私は入道が上洛する時鎧に名を書いた六道能化(のうげ)の地蔵菩薩です。」と云ひも終らぬ中に、暁を告げる野寺の鐘が松吹く風に響いて聞え、地獄の鉄城は忽ち掻き消すやうに視界から去つた。
 僧は急ぎ奥州へ下つて、入道の子に其話をしたので、大蔵権少輔(おほくらごんのせういう)は七日七日の忌日には経を書いて供養をした。


(一)国府とあるは越前の国府、古くは府中といつた。現在の武生(たけふ)。
(二)梅酸の渇とは、前途に梅林があり、梅の実がなつてゐると聞いて、兵士が渇を医したといふ魏の武帝の故事。
(三)脇立とは鎧の胴の右脇の隙間を塞ぐもの。
(四)遠侍とは中門の際の番侍の詰所。
〔五)葉武者は下つ端武者。
(六)膝纏は鍔元を固める金具。
(七)時衆とは時宗の僧の意。
(八)金屋は立派な御殿の事。
(九)二八とは十六の事。
(一〇)羅綺は共に薄衣。
(一一)禁漏は禁廷の漏刻時計、二十五声は一昼夜の半。
(一二)類までやは云々、「つれなさの類までやはつらからぬ月をもめでじ有明の空」(新古今集)。
(一三)起きる云々、「起きもせず寝もせで夜を明しては春のものとてながめくらしつ」(在原業平)。
(一四)誘ふ水云々、「わびぬれば身をうき草のねを絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」(小野小町)。
(一五)交情の濃かなるを言つたもの。


巻 第二十一
  
天下時勢(じせい)粧(よそほひ)の事
  
 暦応(りやくおう)元年の末、諸国勤王の士は競つて兵を挙げたので、今度こそは天皇の御運も啓(ひら)けようと思はれたが、顕家、義貞は流矢に中つて命を墜し、奥州下向の諸将は難風に吹き流されて行方が知れないといふ有様なので、結城入道の子の大蔵少輔は南朝危しと見て、降人となり、芳賀(はが)兵衛入道禅可(ぜんか)も亦た武家方に附いた。
 けれども新田の一族は、尚ほ各地の城に楯籠つてゐるので、国々に在らせられる宮様は、時節の来るのを偏へに待ち望んでゐられた。其御有様は実においたはしい限りであつた。之に反して高(かう)、上杉の党類は、世の譏(そし)りも知らず顔に侈(おご)りを極め、初めの程こそ朝敵の名を憚つて、事毎に天皇の御思召しをお伺ひしてゐたが、もはや天下が武家のものになると、公家(くげ)はあつても用のないものと、其領地を奪ひ、甚しきに至つては朝廷の御領さへも犯し奉つた。かうして曲水重陽の宴は絶え、白馬踏歌(おをうまたふか)の節会(せちゑ)も行はれず、寂しき禁闕には伺候する者も稀であつた。
 思ひ上つた武士らは公家を見る毎に、長袖垂れた魚板(まないた)烏帽子よと、其言葉を真似たり、指を差して嘲つたりしたので、気の弱い公家達の中には、云ひも習はぬ板東声を使つたり、著も慣れぬ折烏帽子に額を顕はしたりして、ひたすら武士に紛れようとする者が多かつたが、どことなく姿が艶めいて武家とは見えず、さりとて公家ともつかない様子であつた。

佐渡の判官入道流刑(るけい)の事
  
 其頃、時流に乗つて栄耀栄華を極めてゐた佐々木佐渡判官入道道誉(だうよ)の一族若党共が、風流を尽しての小鷹狩の帰りに、妙法院の南庭(なんてい)の紅葉の枝を下郎(しもべ)に折らせた。「門主は恰度其時、御簾(みす)の内から暮れゆく秋の気色(けしき)を眺めてゐられたが、此有様を御覧になつて、それを坊官に制せしめられたところ、下郎は嘲罵して一層大きな枝を折つたので、泊つてゐた御門徒の山法師が承知せず、枝を奪ひ取つて、散々に叩きつけて、門外に追ひ出した。
 かくと聞いて道誉は大に忿り、直ぐさま三百余騎を率ゐて押寄せ、妙法院に火を放つた。折からの烈風に煽られて火は四方に燃え広がり、忽ち堂塔を焼き尽したので、門主は逃げられ、御弟子の若宮は道誉の子の源三判官に、板敷の下に追ひこめられて打ち叩かれさせた。鬨の声が京白河まで響き渡り、兵火が天を焦したので、人々は遽て騒いで上下に馳せ違つたが、やがて鎮まつてから帰つて来た人々は、皆山門が承知しないだらうと噂し合つた。
 山門は果して激怒して公家に訴へたが、彼等は武家に圧せられてなす術(すべ)を知らなかつたので、衆徒は大宮八王子の神輿を根本中堂へ上げ、それを皇居へ担ぎ込まうといふ評議をした。武家でも流石に山門の嗷訴(がうそ)を無視する訳にはゆかず、道誉を流刑に処する事に決し、二十五日、之を上総国山辺郡へ流した。
 道誉には近江の国分寺まで、若党二百余騎が見送りの為めに従つていつた。其者共には皆猿皮を靱(うつぼ)に懸け、猿皮の腰当をさせ、手には鴬籠を持たせた。道中では酒宴を催し、宿々では遊女を弄んだ。其有様が普通の流人(るにん)とは異つて、如何にも美々しく豪勢に見えた。これは全く公家の裁断を軽んじ、山門の法威を嘲る行為であつた。昔から山門の訴へを受けた者は、十年と経たぬ間に其身を滅ぼすと云ふが、結果は其通りで、文和(ぶんわ)三年に道誉の長男源三判官秀綱は堅田で山法師に討たれ、弟の四郎左衛門は大和の内郡で野伏共に殺され、嫡孫近江判官秀詮(ひであきら)、弟次郎左衛門の二人は、摂津の神崎の合戦に宮方に誅せられた。
 
法勝寺(ほつしようじ)の塔炎上の事
  
 康永元年三月二十日、岡崎の在家から俄かに火が出て、一つの小さい火屑が遙かに十余町を飛んで、法勝寺の五重の塔の上に落ちた。暫くは消えもせず、燃えもしないでゐたが、寺中の僧が梯もがなと周章て騒いでゐる中に、檜皮(ひはだ)に火が附き、間もなく燃え上つた。魔風が頻りに吹いて、火は堂、門、廻廊に燃え移り、瞬く中に灰燼となつてしまつた。焼けてゐる最中に、それを外から見てゐると、煙の上に鬼の姿をした者がゐて火を諸堂に吹き懸け、また天狗の形をした者が松明(たいまつ)を振り上げて、塔の一重一重に火をつけてゐたが、金堂の棟木が焼け落ちると共に、一同手を拍つて、どつと笑つて、いづくともなく立去つたが、行先は愛宕(あたご)、大嶽(おほたけ)、金峯山(きんぷせん)であつたらしく、暫くすると花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔が同時に焼けた。あゝもう仏法も王法も、有れども無きが如くになるのか。公家も武家も共に衰微する前兆だと、心ある人々は皆歎き悲しんだ。

先帝崩御の事
  
 延元三年八月九日から、後醍醐天皇は吉野で御病床に臥させられたが、御悩は次第に重らせて、いくら御祈りをしても其験がなく、霊薬を御進め申しても、一向其効果がなかつた。
 かうして玉体は日々に衰へさせ、御臨終の日ももう遠くはないやうに見えたので、大塔忠雲僧正は御枕辺に近づき奉つて、涙を抑へて、
「神路山(かみぢやま)の花が再び開き、石清水(いはしみづ)の流れが遂に澄むべき時が来たなら、仏神は君を見捨て給ふまいから、必ず御平癒遊ばされることと信じて居りましたが、御脈は巳に変らせられたと典薬頭(てんやくのかみ)が驚いて申します。今となつては只だ御位を捨てさせ、悟りに入られる事のみを思召されたい。それにしても経文には、御最後の御一念で三界(一)に生(しやう)を引くと、説かれてありますから、御心に懸かる御事共をすつかり仰せ置かれまして、後生は善き所にお生まれ遊ばさうとの御望みを御心にお懸け遊ばされるやうにお願ひ申します。」
と申し上げたら、主上は苦しさうな御息を吐かせられて、
「妻子珍宝及び王位(二)は、命終る時に臨みて随はざる者なり、といふ仏の金言は、常々朕の諳んじてゐた事であるから、秦の穆公が三良を埋(うづ)め、始皇帝が宝玉を随へたやうな事は、敢て朕の関せざる所である。朕の死後、生々世々に思ひ残す事は、只だ朝敵を悉く亡ぼして天下を泰平にしたいと思ふことだけだ。朕が早世した後は、第七の宮を天子の位に即け奉り、賢士忠臣が事を図り、義貞、義助の忠功を賞して、子孫に不義の行ひがなかつたならば、股肱の臣として天下を鎮めるであらう。此事を思ふからこそ、骨は縦令南山の苔の下に埋(うづま)るとも、魂は常に北闕の天を望んでゐる。若し命に背き、義を軽んずるならば、君も継体の君ではなく、臣も忠烈の臣ではない。」
と、悲痛な御言葉を遺されて、左の御手には法華経の五の巻を持たせ、右の御手には御剣を握らせられて、八月十六日の丑刻(午前二時)に遂にお崩(かく)れになつた。
 何といふ悲しい事だ。天子の位は北斗の如く高く、それを遶る列星のやうに百官が列るけれど、黄泉路の旅に、従ひ奉る臣とては一人もない。南山の地は勢ひ僻(かたよ)り、万卒が雲のやうに集つてゐるけれども、無常の敵を禦(ふせ)ぎ止める兵とては一人もない。これはどうする事も出来ない。唯だ中流に船を覆して一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈(ともしび)が消えて五更の雨に向ふが如くである。心細い行末だ。
 火葬の御礼は、豫て遺勅があつたので、御臨終の形を少しも変へず、御座を正しくして御棺に収め、吉野山の麓、蔵王堂の北東に当る林の奥に円丘を高く築いて、北向きに葬り奉つた。
 寂寞たる空山の裏(うち)、鳥が鳴いて、日は既に暮れた。土墳を見ると悲しく涙が流れるが、涙が尽きても愁ひは尽きない。旧臣后妃は折からさし上る月を眺めて天を恨み、冷やかに吹く夜風に永き別れを惜しんだ。誠に哀れな御事である。

南帝受禅(じゆぜん)の事
  
 同十月三日、大神宮へ奉幣使(ほうへいし)を立てられ、第七の宮が天子の御位に即かせられた。御即位に際しては、様々の大礼が執り行はせられる。新帝受禅の日には、先づ三種の神器を伝へさせ、尋いで即位の御儀があり、其翌年には国都を卜定する行事所始(ぎやうじどころはじめ)や、東の河原に幸(みゆき)せられての御禊(ごけい)や大嘗會やの行はれるのが常である。然しながら、今は雲深き山中の皇居の事とて、どんな準備を整へる事も出来ず、只だ三種の神器を受けさせられただけで、新帝は御位に即かせられた。
 
遺勅(ゆゐちよく)に任せ綸旨(りんし)を成さるゝ事附義助黒丸城を攻め落す事
  
 同じ年の十一月五日に、南朝の羣臣は相議(あひぎ)して、先帝に延喜の帝の御風格があるといふので、後醍醐天皇の諡(おくりな)を奉つた。
 新帝は御幼少に在らせられ、且つ御喪中三年間は政を聞召されないといふ慣はしに従つて、御政務は一切北畠大納言が計はれ、同じ年の十二月、北国の脇屋義助朝臣、筑紫の西征将軍宮(懐良親王)、遠江の井伊城に在らせられる妙法院(宗良親王)、奥州の新国司顕信卿へ、遺勅に従つてそれぞれ忠戦を抽んでられるやう綸旨を下された。
 義助は義貞の後を継ぎ、微力ではあるが、敵に圧倒される程ではなかつたので、全軍力を合はせて一挙に黒丸城を攻め落さうと評定してゐた。其時先帝崩御の由を伝へ聞き、一時落胆はしたものゝ、御遺勅の忝さに感激して、是非とも一戦に勝つて南朝を復興したいと、御国忌の中陰が過ぎるのを、今や遅しと待つてゐた。
 もと新田左中将義貞の部下であつた上木平九郎家光は、此頃将軍方に属して黒丸城に居たが、大将尾張守高経の前に出て、
「此城は先年新田殿に攻められたが、不思議の運で陥らずに済みました。だからと云つて、今度も大丈夫だとは申されません。其訳は、先年此処に押寄せた敵は皆東国西国の兵で、土地不案内の者ばかりだつたから、深田に馬を駆け入れたり、堀溝に堕ちたりして、名将も遂に一命を失はれました。今の場合は其時と異ひ、身方の者が多く敵になりましたから、寄手も城の様子を能く知つて居り、其上畑六郎左衛門と申して日本一の大力の勇士が命を棄てゝ此城に向はうと決心して居ります。恐らく互角の勢で彼れと合戦をする者はございますまい。後攻(ごづめ)もない平城(ひらじよう)に小勢で御籠りになつて、名将が命を失はれるのは残念な事でございます。今夜の中に加賀国へ御退却になつて、京から加勢の来た時、力を合はせて敵を御退治になつても、何の障りもございますまい。」
といつたので、細川出羽守らに至るまで此議に賛成し、尾張守高経は五の城に火をかけて、其光を松明として夜の間に加賀国の富樫城(とがしのしろ)に退却した。畑の謀計で義助は黒丸城を落し、義貞の討たれた恥を雪いだ。

塩冶判官(えんやはうぐわん)讒死(ざんし)の事
  
 北国の宮方が崛起して、尾張守の黒丸城が陥つた事が伝はると、京都は大あわてにあわて騒いだ。やがて援兵を送る評定が開かれ、高上野介師治は大手の大将として、加賀、能登、越中の兵を率ゐて、加賀国を経て、宮腰から越前に向つた。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃、尾張の兵を率ゐ、穴間(あなま)、郡上(ぐんじやう)を経て、大野郡へ向つた。佐々木四郎判官氏頼は江州の兵を率ゐて、木目峠(きのめたうげ)を打越え、敦賀の津から北進した。塩冶判官高貞は海上の大将として、兵船三百艘に出雲、伯耆の兵を満載し、三方の寄手が相近づいた頃、津々浦々から上陸して敵の後(うしろ)を襲はうといふ合図が定められた。
 陸地三方の大将は已に京都を立ち、塩冶も出発の用意をしてゐる最中に、思はぬ事件が突発して高貞は忽ち武蔵守師直の為めに討たれた。高貞が多年連れ添つた女房に師直が懸想して、其為めに理由もなく討たれたのだといふ。
 其頃師直は病気で暫く出仕しないでゐたが、家来共が師直を慰めようと酒宴を設け、芸人を招いて座中の興を催した。真都(しんいち)、覚一(かくいち)検校の二人が平家を演じて、源三位頼政が●(「空」+「鳥」)(ぬえ)を射て年月恋ひ忍んだ菖蒲(あやめ)の前を時の帝から頂いたといふ筋を語つた。
 師直は枕を押しのけ、耳を傾けて聞いてゐたが、平家が終つて、居残つてゐる者共が、「頼政は●(「空」+「鳥」)を射て傾城を賜はつたが、領地か、御引出物を賜はつたのに較べると大きな劣り方だ。」
と云つたのを聞いて、師直は、
「お前らは馬鹿な事を云ふ。師直は菖蒲ほどの美女ならば、国の十箇国や、所領の二三十箇所よりも、女を頂きたいと思ふ。」
といつて一同を辱しめた。元は公家に仕へて羽振りよかつた女で、今は衰へて寄る辺がない儘に、此武蔵守の処へ常に来てゐる侍従(じじう)と云ふのが、垣根越しに此話を聞いて、後の障子を引き開けて笑ひ崩れ、
「まあ、何といふ御心得違ひでございませう。私は菖蒲の前はさほどの美人でなかつたと思ひます。揚貴妃は一度笑めば六宮に顔色なしと申します。縦令千人万人の女房を並べたとて、菖蒲の前が本当に一世の美女であつたら、頼政ともあらう者がそれを何で引きかねませう。それほどの女にさへ十箇国を代へても惜しくないと仰せられるならば、若し先帝の御外戚、早田宮(はやたのみや)の御女(むすめ)、弘徽殿(こきでん)の西臺(にしのだい)なんどを御覧になつたら、日本国、唐土(たうど)、天竺(てんぢく)とでも御替へになる事でございませう。此御方は真に絶世の御容貌です。いつの事であつたか、宮中に御仕へしてゐる公卿達が、桜の咲くのを待ちかねてゐた退屈紛れに、宮中、仙洞の美夫人、女官、更衣達を花に比べられました。其時、桐壷の君を明けやらぬ外(と)山の花に譬へられたが、梨壷の君はいつも臥し沈ませられる御様子がもの悲しいので、玉顔寂寞(三)として涙欄干(らんかん)たりと譬へられました。或は月もうつろふ(四)本(もと)あらの小萩、波も色ある(五)井手(ゐで)の山吹、或は遍昭僧正がわれ落ちにきと人に語るな(六)と戯れた嵯峨野の秋の女郎花、光源氏(ひかるげんじ)の大将が白くさけるはと名を問はれました黄昏時(たそがれどき)の夕顔の花、見るに思ひが牡丹(ふかみぐさ)を初めとして、様々の花に譬へられました。けれども梅は匂ひこそ深けれ枝が優美でない、桜は色が優れてゐるけれども香がない、柳は風を留める緑の糸、露の玉をぬく枝が一際他と異なつて面白いが匂ひもなく花もない。梅の香を桜の色に移して、柳の枝に咲かせてこそ此御容貌にお譬へ出来ませうと、遂に花の譬へに入らなかつたと申しますから、何と申し上げやうもない事でございます。」
と云ひ、障子を閉めて内へ入らうとするのを、師直は目を細くして打笑ひ、
「其宮は何処に御出になる。御年はいくつになられる。」
と問ふと、侍従は立留つて、
「此頃は田舎者の妻になつてゐられるし、御年も盛りを過ぎられましたから、宮中にゐらせられた頃とはまるで御容貌が変つてゐる事と思つてゐましたのに、或日物詣(ものまうで)の帰りに参上して見まいらすると、昔の春待遠(まちどほ)い若木の花の御容子よりも、一層あだつぽくならせられて、在明(ありあけ)の月が一杯に差し入る処で、南向きの御簾を高く捲き上げさせ、琵琶を掻き鳴らされると、はらはらとこぼれかゝつた鬢のほつれからほのかに見えた眉の色、芙蓉の眸(まなじり)、丹花の唇。どんな修行を重ねた聖人でも迷はないではゐられまいと、目も眩むばかりに思はれました。然るに何といふ恨めしい結びの神の御計ひでございませう。どんな女院、御息所(みやすんどころ)としても立派な御方ですが、さうでなくても、せめては天下の権を取る人の妻にでもなればよいのに、其声が塔の鳩の鳴くやうな、出雲の塩冶判官に先帝が下されたので、賤(いや)しい田舎の御栖(すま)ひに身を捨て果てられました。胡国(ここく)の野蛮人に嫁がされた王昭君も、かうであつたらうかと思はれて、お見受けするのも悲しうございます。」と言巧みに物語つた。それを武蔵守は嬉しさうに聞きとれてゐたが、「御話が面白かつたから、何か御贈物を致さう」と、色染めの小袖十重に沈(ぢん)の枕を添へて侍従の前に差出した。侍従は俄に利徳づいた心地がしながら、不思議な贈物だと立ちかねてゐると、武蔵守が近く寄つて来て、
「面白いお話で、師直の病気は立ち所に治りましたが、其代り又た変な病気にとり憑かれました。其美しい女房を何とかして私に媒(なかだち)して下さい。さうして下さつたら、所領なり、家の財宝なり、何でも御望み通りに差上げます。」
と云つた。侍従の局は呆気(あつけ)に取られて、唯だ独りゐられる方ではなし、どうしたらかく/\の次第だと申し出られよう。若しそんな事は云ひ出せないと云つたら命を取られるのは必定だと思つたので、さりげなく、「はい、申して見ませう」と云つて帰つた。
 侍従は二三日の間、ああしようか、かうしようかと、色々暮らしてゐたが、武蔵守から酒肴などを送つて来て、「如何にも御取成しが遅い。」と責め立てた。侍従はもはや断るに断り切れず、遂に彼の女房を訪れて、そつと、
「こんな事を申し上げたら、さぞ卑しい心の女だとお蔑(さげ)すみなされるでせう。本来は聞いたばかりで聞き流しにして置くべき事なのでせうが、実はこんな事があるのです。如何取計ひませう。露程の一寸したかこつけ言で、人の心が慰められましたならば、御子様方の行末の御為めになり、又憑む者のない妾共までも憑む処が出来るわけです。度重なつてこそ阿漕浦(あこぎがうら)(七)に引く網で、人に知られる恐れがありますが、篠の小笹の一節(ふし)に露のかゝるを誰れが知りませう。」
と侍従局は色々かき口説いたけれども、北の臺は「飛んでもない事だ。」と跳ねつけられるばかりなので、其上云ひ寄るすべもなかつた。「後で哀れと思召しても其甲斐がございません。故宮(こみや)に仕へ参らせた御縁と思されて、せめて一言の御返事なりとも。」と恨めしげにいふと、北の臺は佗しく打萎れた御様子で、「さやうな事を申されるものではありません。哀れな方に心が引かれたら、仇(あだ)な浮名が立ちませうぞえ。」といはれた顔は曇つてゐた。
 侍従が帰つて様子を告げると、師直は兼好(けんかう)と云ふ遁世者を呼び寄せ、それに手紙を書かせて、使の者に持たせてやつた。やがて使者が帰つて来て、「御文を手に取らせられたばかりで、見もせずに庭に棄てられました。」と云ふと、師直は忿つて、ちやうど用事で来合はせた薬師寺次郎左衛門公義(きんよし)に相談をした。公義は、「人は皆岩木でないから、どんな女房でも靡かぬ事はありますまい。」といつて、
  返すさへ手や触れけむと思ふにぞ
    わが文ながらうちもおかれず
(歌意──返されてさへあなたの手が触れたと思へば、自分の書いた手紙だが、下にも置かれない。)
と書き、使を出して塩冶の女房に持たせてやつた。女房は歌を見るなり、顔を赭めて中へ入らうとするので、「御返事は」と聞くと、「重きが上の小夜衣」と云はれたと、使が帰つての報告。
 師直は嬉しさうに思案してゐたが、薬師寺を呼んで「衣小袖(きぬこそで)を造つて送れと云ふのだらうが、どんなのが良いかな。」と尋ねた。薬師寺は、「いや、そんな意味ではありません。新古今の十戒の歌に、さなきだに重きが上の小夜衣わがつまならぬつまな重ねそと云ふのがあります。それは人目を憚ると云ふ意味なのです。」と歌の心を繹(と)き聞かせた。
 師直は此後はのべつ幕なしに侍従を呼んで、「主人の一大事に逢つて捨てようと思つた命を、人妻の為めに空しくするのは誠に悲しい事だ。今はの際には必ず侍従殿を連れて、死出の山、三途の河を越えようと思ふ。」と或時は目を瞋(いか)らしておどし、或時は顔を伏せて恨むので、侍従の局も持て余して、もうかうなつては致し方がない、師直に此女房が湯から上つて、化粧しない素顔を見せて愛想をつかさせようと思ひ、「見もしないでの推量は憑(あて)になりません、一目女房を御見せしませう。」といつた。師直はほくそ笑みして、それを今日か明日かと待つてゐた。侍従は北の臺に仕へてゐる女童(わらべ)と約束してあつたので、「今夜こそは良人が御留守で、御臺(みだい)が御湯を使はれます。」と女童から侍従の局の許に知らせて来た。
 で、侍従が其旨を師直に告げ、師直は侍従を案内にして塩冶の邸へ忍び入つた。
 二間(ふたま)(八)の所に身を縮めて垣の隙(すき)から覗いて見ると、女房は今湯から上つたと見えて、紅梅色の鮮かな上に、氷のやうな練貫(九)の小袖の撓々(しを/\)としたのを掻い取つて、濡れ髪長く垂れかゝり、袖の下に焚きこめた香の煙の匂ふのを聞くと、其人が何処にゐるかもわからぬほどに心は茫然となり、巫女廟(ふぢよべう)(一〇)の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎(おろそ)かな心地して、師直は怪しきものに憑かれたやうに、只だわなわなとふるへるばかりであつた。余り長引くと、主人が帰つて来るかも知れないので。侍従は師直の袖を引いて半蔀(はんじとみ)(一一)の外まで出たが、師直は縁の上にひれ伏して、どんなに引立てゝも起き上らず、其儘息が絶えてしまひさうに思はれた。それを侍従が促して、漸くのこと邸に帰らせたが、今は只だ恋の病に臥し沈んで、気が狂つたのかと思はれるほど、寝ても覚めてもあられもない事ばかり云ひ続けてゐるといふ噂を聞いて、侍従は愚図々々してゐては、どんな目に会はされるかも知れないと、恐ろしさに行方を晦ませて片田舎へ逃げ落ちた。これから後は指図する人もないので、師直はどうしようかと嘆いたが、色々思案のまゝ遂に心を決して、塩冶判官が陰謀の企てをしてゐる事を将軍に讒言した。
 塩冶は此事を聞いて、本国に逃げ下つて旗上げをしようと、三月二十七日の暁に鷹狩と見せて家を出で、女房子供は丹波路より落し、自らは播磨路へ落ちていつた。
 武蔵守は此事を塩冶の弟四郎左衛門の密告に依つて知り、驚いて桃井播磨守直常、大平出雲守の二人を呼び寄せ、急いで塩冶の後を追はせた。又山名伊豆守時氏を丹波路に向はせ、女房子供の後を追はせた。塩冶の郎党は追手の懸るのを予期して急ぎに急いだが、女子供を連れてゐるので思ふやうに捗がゆかず、●(▲)(ひ)に燭(ひ)を継いで馳せ下る追手に播磨の陰山で追ひつかれてしまつた。塩治方は北の臺を乗せた輿を小家に舁ぎ入れて奮戦したが、今は既に刀折れ矢尽きてどうすることも出来なかつた。八幡(はちまん)六郎は家の前に立ふさがり、「私は矢のある限り射て防がう、君達は女子供を刺しまいらせて、家に火をかけて腹を切れ、」と呼はつたので、塩冶の一族山城守宗村が内へ走り入り、持つた太刀を取直して、雪よりも清く花よりも美しい女房の胸を突くと、紅の血が流れて、あつと云ふ幽かな声を立てゝ薄衣(うすぎぬ)の下にうつ伏される。五つの幼子は太刀に驚いて泣きながら亡き母に取縋るのを無情にもかき懐き、自分も共に鐔(つば)元まで貫かれて死んだ。他の者も皆な燃え熾る火の中に飛び込んで討死した。
 山陽道を追ひ下つた山名伊豆守は、京都から湊川までを二時ばかりで下り、馬を休めようとそこで留まつた。十四歳になる子息右衛門佐は、気早な者を呼び抜いて、馬の強い者は俺と一所に来いと云ふや否や、馬に打ち乗つて馳せ去つた。其後に続いたのは小林以下の十二騎、十六里を一夜に駆けて夜が明けると、遠方に三十騎許りの騎馬が見えた。塩冶の手の者共であつた。判官の舎弟塩冶六郎は独り踏み止まつて、河を渡つて岸へ懸け上る敵と斬り合ひ、小林左京亮と太刀を合はせたが、右衛門佐に斬つて落された。右衛門佐は生き残つた者を引連れて尚も追つた。此間に塩冶高貞は漸く落ち延びて、三月晦日に出雲国に著いた。
 追手の大将山名伊豆守は、四月一日に三百余騎で屋杉荘に著いた。高貞は佐々布(ささふ)山に陣取つて一戦しようと、馬を早めて行く途中で、丹波路から落ちて来た若党の仲間(ちうげん)の一人に逢つた。彼れは「御臺も公達も皆討たれました。」といふより、腹かき切つて馬から落ちた。高貞これを聞いて「暫くも離れ難いと思ふ妻子。それを失つて何で命を生き長らへよう。七生まで師直の敵となつて、思ひ知らせてやらう。」と馬上で腹を切つて、倒(さかさま)に落ちて死んだ。一人附き添つてゐた木村源三は、馬から飛び下りて、判官の首を取つて鎧直垂に包み、深田の泥中に埋めて後、腹かき切り、腸を手繰(たぐ)り出して判官の首の切口を隠し、自分は其上に折重つて死んだ。
 これから後、師直は悪行が積つて程なく亡びた。人を利する者は天必ず福(さいは)ひし、人を賊(そこな)ふ者は天必ず之を禍ひすとは、真に千載不磨の金言である。


(一)三界 仏界、衆生界(自己以外の一切生物)、己界(自己の一心)の三界。(二)妻子珍宝云々は大集経に出づ。
(三)玉顔寂寞云々は長恨歌中の句。
(四)月もうつらふ云々「吾が宿の本あらの小萩咲しよリ夜な/\月の影ぞうつらふ。」(新古今集)。
(五)波も色ある云々「春深み井出の川波たち返り見てこそ行かめ山吹の花」(拾遺集)。(六)われ落ちにきと云々「名にめでゞ折れるばかりぞ女郎花」の下句。
(七)安漕浦云々は度重なる意の譬。
(八)二間とは柱と柱の間が二つある意。
(九)練貫とは生糸を経、練糸を緯として織つた絹布。
(一〇)巫女廟云々「巫女廟花紅似粉。昭君村柳翠於眉」(朗詠集)。
(一一)半蔀は上下へ上げ下しする戸。



巻 第二十二

畑六郎左衛門が事
  
 さうかうして中に、京都から討手の大軍が攻め下つたので、杣山の城も落され、越前、加賀、能登、越中、若狭五箇国の間には宮方の城は一つもなくなつて、唯だ一つ畑六郎左衛門時能が僅かに二十七人で籠つてゐる鷹巣城(たかのすのしろ)だけが残つてゐた。
 去年杣山城を出た一井兵部小(いちのゐへうぶのせう)輔氏政(うぢまさ)が此城に入つたので、時能の勇力と、氏政の機智とがあつては、たとへ小勢だとて棄て置くわけに行かないと、足利尾張守高経、高上野介師重を両大将として北陸道七箇国の軍勢(ぜい)七千余騎を率ゐ、鷹巣城の四方を千重百重に攻め囲ましめた。畑六郎左衛門は勇力のある武蔵国の住人で、其下には甥の快舜(くわいしゆん)といふ悪僧があり、仲間に悪八郎といふ欠脣(いくぢ)の大力者があつた。又犬獅子(けんじし)といふ不思議な犬がゐて、敵の構へた向城(むかひじろ)に忍入つて、其様子を探つて主人に仔細を知らせた。三人は此犬を案内として縦横に切り廻つたので、三十余箇所の向城にゐる敵は、密かに酒肴を送つて我城を夜討しないやうにと畑に頼まない者はなかつた。
 寄手の中に元新田左中将の侍であつた上木平九郎家光といふ者がゐた。家光は畑と内通してゐるやうに思はれたのを口惜しく思ひ、二月二十七日の早朝に一族を連れて討つて出た。寄手は是を見て、必ず落ちる事情があるに違ひないと、向城三十余箇所の兵七千人が取るものも取り敢へず、岩を伝ひ、木の根に縋りついて嶮しい鷹巣城の坂十八町を一気に攻め上つた。城では静まり返つてゐたが敵が鹿垣(しゝがき)近くに来た時、太刀長刀の鋒を揃へて、声々に名乗り喚いて切つて出た。城中に人なしと油断してゐた敵は大いに驚き、助を求めて一所に寄り集つた処へ、例の悪八郎が八九尺許りの大木を脇に挟み、五六十人がゝりでも押し難い大磐石を易々と転したので、寄手は恐れをなして退いた。
 寄手は山を阻て、川を境として、遠く退いたので、どうしようにも仕方がないが、畑の胸中には此際決戦して、天運を見ようといふ念願が湧いた。そこで城には一井兵部少輔に兵十一人を附けて残し、重だつた者十六人を連れて、十月二十一日の夜半に伊地山(いつちやま)に打上り、中黒の旗二旒を立てゝ寄手遅しと待つてゐると、高経は二十二日の午前六時に三千余騎で押寄せた。畑六郎左衛門は敵が巳に一二町の処まで迫つた時に、金胴(かなどう)の上に緋縅(ひをどし)の鎧の敷目(一)に拵へたのを、草摺長に著下して、鍬形うつた五枚兜の緒を締め、熊野打(二)の頬当に、大立揚(三)の臑当を脇楯の下まで引籠めて、四尺三寸の太刀に三尺六寸の長刀を茎短かに握り、塩津黒といふ五尺三寸ある馬に打ち跨り、劣らぬ兵十六人を前後左右に随へて、「畑将軍此処にあり、尾張守は何処に坐(ましま)すぞ」と呼はつて大勢の中へ駈け入つた。追ひ廻し、懸け乱し、四方八方に暴れ廻つたので、敵の万卒(ばんそつ)は忽ちに散り散りになつて、皆馬の足を立てかねた。尾張守高経、鹿草兵庫助は旌(はた)の下に控へて、「何たる意気地なしだ。敵が縦令鬼神であつても、あれ程の小勢に会つて退却する事があるものか。唯だ馬の足を立寄せて魚鱗(四)に控へ、兵を虎韜(こたう)にして取籠めよ。一人も残さず打留めよ。」と厳しく命令した。三千余騎の兵は大将の此言に力を得て、十六騎の敵を中に取籠めて揉み合つた。畑が乗つた馬は項羽の騅(すゐ)にも劣らぬ駿足なので、鐙の鼻にあてられて転び落ちる者の首を取つては馳せ通り、引返しては颯と破る。従兵もまた似たり寄つたりの勇ましさ。尾張守の兵は到底之に抗し難く見えたので、東西南北に散乱して河向ふに引退いた。
 畑は陣に帰つて兵を集めると、五騎は討たれ、九人は重傷を負うてゐた。特に頼みとした快舜も、七所に重傷を受けて其日の暮に死んでしまつた。畑もまた脛当(すねあて)のはづれ、小手のあまり、切られぬ所とてはなかつた。少々の小疵は気にも懸けなかつたが、障子の板の外(はづ)れから流れて来た白羽の矢一筋に肩先を射られ、漸く抜きに抜いたけれども、鏃(やじり)だけはどうしても抜けず、三日の間苦痛に身を責められて終に喚きつゝ死んだ。此畑は僧法師を殺し、仏閣神社を焼き壊し、悪逆無道であつたので、遂に天罰を蒙つたのであらう、流矢に中つて死んだのは憐れである。
 
義助青野へ参らるる事並隆資物語りの事

 脇屋義助は去る九月十八日、美濃の根尾城(ねをのしろ)に立籠つたが、土岐頼遠、刑部頼康に攻め落されたので、郎党七十三人を連れて、秘かに吉野へ潜入し、義助が参内すると、新帝は玉顔殊に麗はしく、御席を進められて、こゝ五六年間の北征の忠功が、他に擢んでゝゐる事をのみ仰せられ、敗北については一言も仰せ出されなかつた。
「卿が無事で、此処に来た事は、君臣の間を水魚にする忠徳が再び顕はれる兆である。」と仰せられて、御涙をさへ浮べさせられたが、次の日に臨時の宣下(せんげ)があつて、義助に一級を加へられた。否、義助のみではなく、一族随兵に至るまで皆恩賞を賜はつた。
 其頃、殿上に伺候した諸卿が色々話し合はれた際、洞院(とうのゐんの)右大将実世が嘲つていはれるには、
「一体義助には何の勲功がある。彼れは越前の合戦に負けて美濃国に落ち、其国をさへ追ひ落されて身の置き処がなく、やつと吉野へ帰つて参つたのに、恩賞に預かつて官録を進められた事は、誠に不審の至りである。これは昔平維盛が東国の討手に下り、水鳥の羽音に驚いて逃げ上つたのを、清盛入道の計ひで一級を進められたのと同じ事だ。」
と打笑はれた。四条中納言隆資(たかすけ)卿は、黙つて其話を聞いてゐられたが、殿上を退いてからいはれるには、
「此度の事は、陛下の御思召が当然と存じられる。其訳は、義助が北国の合戦に負けたのは、彼れが戦ひに拙かつた為めではなく、主上の御運が未だ到らなかつた為めである。又勅裁の将たる彼れの威光を軽んぜられた事も敗戦の一因である。此間他国の有様を伝へ承るに、大将の挙状(きよじやう)を帯びてゐないのに、士卒が直訴すれば直ぐ勅裁を下され、僅かに吉野へ伺候すれば、それだけで軍用を支へられる。北国の所領を望む者があれば、碌に調べもしないで聖断を下される。之が為めに大将の威光は軽く、士卒が心を恣(ほしいまゝ)にしたので、義助は百戦の利を失つたのである。これは全く戦の罪ではなく、唯だ上(かみ)の御命令の手違ひの為めである。我君には恭くも此由を知し召されてゐるから、今回其賞を重くせられたのである。どうして昔の維盛などと同じからうか。」といはれたので、さしもの大才実世卿も、一言もなく退出せられた。

佐々木信胤(のぶたね)宮方になる事

 かうした処へ伊予国から使が来て、相当の大将を一人急ぎ遺はされたならば忠勤を抽んでたいと奏聞したので、脇屋刑部卿義助朝臣を下される事に決した。然し下向の道は陸も海も皆敵地である、どうして下さうかと僉議(せんぎ)の最中、備後国の住人佐々木飽浦(あくら)三郎左衛門尉信胤が早馬で駈けつけ、「去月二十三日、小豆島(せうどしま)に渡つて義兵を挙げた処、国中の勤王の士が馳せ加はつたので、逆徒を少々打ち従へて京都への船路を差塞(ふさ)ぎました。急ぎ近日中に大将を下向させて頂き度い。」と申したので、諸卿は悦んで、大将進発の道が開けたのは、天運が既に機を得たものであるといひ合つた。
 一体、此信胤は、建武の乱に、細川定禅に身方して備前、備中の両国を平げ、将軍の為めに勲功のある者であるが、それが何故俄に宮方になつたかと云ふと、此頃天下に禍ひなす例の傾城故だとの事である。
 其頃菊亭殿(きくていどの)にお妻(さい)といつて、容貌優れ、上品で、しかも阿娜(あだ)つぽいところのある女房があつた。元来が浮気の性質で、此人と定めた者も無く、慕ひ寄る多くの男の中、誰れに身を任さうかと自分で決しかねてゐた。抑々容易に人の近づけない宮中であるのに、どんな便を得たものか、今の世に肩を並べる者もない高土佐守(かうのとさのかみ)に通ひ馴れて、人知れず思ひ結ぼれた下紐の堰き止め難い中となつた。初めの間は人目を忍んでゐたが、後には余りに度々我家に下つて、宮仕へが段々疎(おろそ)かになつて来た。
 高土佐守には元相馴れて子供を沢山儲けた鎌倉の女房があつた。土佐守が伊勢国の守護になつて下向する時、此女房とお妻(さい)との二人を連れてゆかうと思ひ、元の妻を先づ下した。お妻(さい)は今日明日と云つて容易に立たず、うるささうな様子をさへ見せたので、土佐守は一層思ひが増して、どうしても連れて行くと、三日間下向を延期して色々と云ひ恨んだので、それではといつて夜中に輿さし寄せ、几帳(きちやう)さし隠して扶け乗せられた。土佐守はあまりの嬉しさに、道中少しも休まず、軈て伊勢路に赴いた。
 まだ夜を籠めて逢坂の関の岩角を踏み鳴らし、夕告鳥に送られて、水の辺(ほとり)の粟津野の、露を分けて行くと琵琶の湖(うみ)に出る、其湖の流れの末が河となり、それに架つた勢多の橋を渡ると、田上河(たなかみがは)の朝風に、比良の峯下(ねおろ)しが吹き来つて、さつと奥の簾を吹き揚げた。出絹(だしぎぬ)(五)の中を見ると、年の頃八十ばかりの古尼の、額は皺だらけで、口には歯の一本もないのが、腰を二重に屈(かゞ)めて乗つてゐた。土佐守は驚いて、
「これはきつと古狸か古狐かゞ化けたのであらう。鼻を燻(ふす)べよ。蟇目(ひきめ)で射て見よ」
と云つたので、尼は泣く泣く
「いえ/\、私は化物ではございません。菊亭殿へ年来参つてゐる者ですが、お妻の局から、こんなに都で住みわびてゐるよりは、自分の下る田舎へ往つて暫く心を慰めてはどうかといはれ、嬉しい事に思つて昨日御局へ参りますと、妻戸に寄せられた輿に乗れと仰せられたので、何心なくそれに乗つたのでございます。」
と云つたが、土佐守は承引せず、尼を勢多の橋詰に打捨てゝ、空輿を舁ぎ返して京へ引返した。
 土佐守は菊亭殿に推寄せ、四方の門を閉ぢてお妻(さい)の局を捜したが、どんなに捜しても見つからないので、女の童を捕へて責め問ふと、
「其御方はお通ひになる処が多いから、何処へ行かれたか確と分りませんが、近頃は飽浦(あくら)三郎左衛門とか云ふ人に心を寄せ、人目も憚らぬ仲だと聞いて居ります。」と語つたので、土佐守は烈火の如く怒り、軈て飽浦の宿所へ推寄せて、一討ちに討たうといふ計画を立てた。飽浦はそれを聞いて、とても遁れぬ運命だと、掌を翻して宮方に付いたのであつた。

義助予州へ下向の事

 脇屋刑部卿義助は、暦応(りやくおう)三年四月一日、勅命を受けて、四国西国の大将として伊予国に下向されるとの事であつた。
 吉野へ馳せ集つた兵は五百騎にも足りなかつたが、四国中国には心を通ずる官軍があるから、一日も早く行かうと、未明に吉野を立つて紀伊路にかゝられた。このやうな次手(ついで)でなければ参詣の志は遂げられないと、高野山に詣でゝ二三日逗留せられた。
 院々谷々を拝み廻るに、聞いたよりもなほ貴く思はれる。八葉の峯が空に聳え、千仏の座が雲に横はつてゐる。御影堂からは香煙が窓を漏れ、心細い鈴の声が霧に籠つてもの寂しい。昔滝口入道が住んでゐたといふ庵室の跡を尋ねると、古い板間に苔が生えて、家が荒れても月は漏らない。また昔西行法師が結んで置いた柴の庵の名残りだといふのに立寄ると、掃かない庭に花が散つて、蹈んでも痕のつかない朝の雪の美くしさ。暫くでもかうした霊地に留つて、憂き身の汚れを濯ぎたく思はれたけれども、軍(いくさ)の旅に赴かれることゝてそれも協はず、高野を紀伊路に出で、千里の浜から田辺(たなべ)の宿に著いて、渡海の船を調へしめられた。熊野人が兵船三百艘を調へて淡路へ送ると、宮方の安間(あま)、志宇知(しうち)、小笠原の一族が、それを備前の児島へ送る。此処には佐々木信胤、梶原三郎が居て、多数の大船を艤装して、四月二十三日に伊予国今張浦へ送り着けた。
 大将が下向されたので、宮方は弥(いよ/\)勢ひを得た。当国には武家方の城が十余箇所あつたけれど、戦はぬ先に落ちてしまつたので、今は四国一円悉く宮方となり、末頼母しく思はれた。

義助朝臣病死の事附鞆軍(ともいくさ)の事
  
 かうした状態が持続されたが、同じ年の五月四日に、国府に居られた脇屋義助が俄に病気になつて、わづか七日で没せられた。相従ふ官軍共は、秦の始皇帝が沙丘に崩じて、漢楚が機に乗ずるのを悲しみ、孔明が籌筆(ちうひつ)駅に死んで、呉魏(ごぎ)が便を得るのを愁へたのと同じ心持で、行末の事が俄かに心細く思はれた。
 此訃報が外に伝はつたならば、敵に機先を制せられるだらうと、極めて隠密に葬礼を執り行つたけれども、武家方の細川刑部大輔頼春が此事を聞いて、伊予、讃岐、阿波、淡路の兵七千余騎を以て、河江城(かはえのしろ)の土肥三郎左衛門を攻めた。義助に従つた多年恩顧の兵共は、宮方土肥の応援として、金谷修理大夫(かなやしゆりのだいぶ)経氏(つねうぢ)を大将とし、兵船五百余艘を連ねて海上に浮んだ。かくと聞いて備後の鞆、尾道に船艤(ふなぞゑ)してゐた備後、安芸、周防、長門の武家方は、大船千余艘で押し出た。
 両軍の兵は海中に帆を突き入れ、舷(ふなばた)を叩いて鬨の声を上げる。潮の流るゝまゝ、風の吹くまゝに押合ひ押合ひして相戦ふ。其中に、大館(おほだち)左馬助氏明の執事、岡部出羽守が乗つてゐる船十七艘は、備後の宮(みや)下野守兼信が左右に分けて漕ぎ並んでゐる船四十余艘の中に分け入り、敵の船に乗り移(うつ)り乗り移(うつ)りして、皆引組んで海中へ飛び入つた。備後、安芸、周防の船は皆大船であるから、艫舳(ともへさき)で櫓を大きく掻いて、船を押し進めて散々に射る。伊予、土佐の船は皆小船であるから、逆櫓を立てゝ進退を自由にし、縦横に相当る。両軍の兵は、よし死んで海底の魚腹に葬られるとも、逃げて天下の笑ひものにはなるまいと、一引きも引かずに終日戦ひ暮したが、海上俄に風吹いて、宮方の船は悉く西方に吹きやられ、寄手の船は悉く伊予へ吹き流された。
 宮方の兵は元へ引返さうとしたが、大将金谷修理大夫は、「憑みとした大将軍脇屋義助が没せられたからには、微運の我等には何事も出来ない。命限りの戦ひを致さう。」と、其夜半に鞆へ押寄せた。無勢の城を忽ちに落して意気あがり、三千余騎で押寄せた備後、備中、安芸、周防四箇国の武家方と相戦ふ。互ひに戦ひ屈して十余日を経たが、細川頼春が大館左馬助の籠る世田城(せたのしろ)を攻めると聞いて、土居、得能(とくのう)以下の者は「同じく死ぬならば自分の国に屍を曝さう。」と伊予国へ引返した。細川の軍が大勢だと聞いて、大将頼春と組んで刺し違へようと、集まつた二千余騎の中から、金谷修理大夫経氏を大将とする三百騎を選(すぐ)り、皆一様に曼茶羅(六)を書いて幌(七)に懸け、生きて帰らぬ覚悟の軍(いくさ)に出て行つた。優にやさしく哀れな心懸けだと、之を聞いた者は皆鎧の袖を濡らした。さうかうしてゐる中に、細川刑部大輔は七千余騎を率ゐて千町原(ちまちがはら)に打つて出た。敵陣を見渡すと、ひろぴろとした野原に中黒の旗(はた)一旒が風に靡いて、其下に僅か三百余騎程の勢が控へてゐる。刑部はそれを見て、「屹度勇者を選んで、頼春に組んで、勝負をしようとするのであらう。決心した小勢を一息に討たうとすれば討てない事がある。疲れさせて討てよ。」と旗の前に現はれて閑(しづ)々と進んだ。金谷修理大夫は是を見て、「やあ敵が襲ひかゝつて来るらしい。」と見計ひもせず、総攻めにむずと攻めて、矢を射違へられる距離まで来た。そこで弓矢を投げ棄て、太刀刀を取つて、叫(おめ)き喚びつゝ真黒になつて進んだ。
 細川刑部の馬の廻りには、藤の一族が五百余騎で控へてゐたが、予ての謀であるから左右へ颯(さつ)と分れて控へた。此中に大将が居るとも知らず、それには目も懸けずに裏へ抜け、二陣の敵に懸る。敵は南の山の峯へ颯と引いて上つたので、大した敵でもなかつたと、三陣の敵に打つて懸る。此中には大将がゐるであらうと、中をかけ破つて、引き返し、引組んでは刺し違へ、落ち重なつては首を取る。一歩も引かず戦つたので、宮方は忽ち討死して僅か十七騎になつた。大将金谷経氏以下生き残つた十七騎は、一騎当千の兵で敵に当ること十余箇度、陣を破ること六箇度に及んだが、負傷もせず、疲れた様子もなかつた。敵の大将をどんな者とも知らないので、大した事もない兵に逢つて討死するよりはと、一所に馬を寄せ、馬を引返して、七十余騎の真只中をかけ破つて、備後をさして引いて行つたのは、実に勇ましい光景である。

大館左馬助討死の事附篠塚(しのづか)勇カの事
  
 大将細川頼春は此合戦が終つて後、更に大館左馬助が籠る世田城を攻めようと、八月二十四日早朝に一万余騎を七手に分けて陣取り、夜昼となく三十日まで攻め立てた。
 城の中では主軍とも憑んだ岡部出羽守の一族四十余人が日比澳(ひみのおき)で自害した。其外の勇士は千町原の戦ひで討死したので、力尽きて防ぐ方法もなかつた。九月三日の暁に大館左馬助主従十七騎は一の木戸口に出て、塀に著いてゐた敵兵五百余人を麓へ追ひ下し、一度に腹を切つて枕を並べて死んだ。
 防矢(ふせぎや)を射てゐた兵も是を見て、敵と引組んで刺し違へて死ぬ者もあり、又役所に火をかけて火中に飛び込み、死ぬ者もあつたが、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸を悉く開けて立つた。降人(かうにん)になるのかと思ふとさうではなく、紺糸の鎧に、鍬形打つた兜の緒を締め、四尺三寸ある太刀に、八尺あまりの金棒を脇に挟み、大音揚げて、
「外(よそ)では定めて名を聞いたであらう、今近づいて我を知れ。畠山荘司次郎重忠の六代の孫、武蔵国に育つて、新田殿に一騎当千と憑まれた篠塚伊賀守爰にあり、討つて勲功に預れ。」
と呼ばはつて、百騎許りの敵中へ真直ぐに走り入ると、敵兵は東西に引き退き、道を開いて通した。
「それ討取れ。」と二百余騎が後を追ひかける。篠塚は小歌を口誦(くちづさ)みながら悠々と落ちて行く。敵が「逃すな。」と追ひかけると、篠塚ほ立止つて、
「あゝ御辺達、あまり近寄つて頚と仲違(たが)ひすな。」
とあざ笑つて、例の金棒を打ち振ると、蜘蛛の子を散らすやうに一旦は逃げ、やがてまた集まつて、後から鏃を揃へて射る。
「某(それがし)の鎧には御辺達のへろへろ矢は立つまい、さあ此処を射よ。」
と後を向いて立ち止る。
 何しろ名誉の者であるから、誰れか一人撃ち止める者があるかも知れないと、追つかける二百余騎の敵に六里の道を送られて、其夜半頃に今張浦(いまはりのうら)に着いた。
 これから隠岐島へ落ちよう、船があるかと見ると、敵が乗り棄てゝ船頭ばかり残つてゐる船が沢山ある。これこそ我が物と、鎧を著ながら浪の上を五町ばかり游ぎ、そこにある船にがばと飛び乗つた。船頭梶取は驚いて、「一体何者だ。」と咎めると、
「さう云ふな。自分は宮方の落人(おちうど)、篠塚と云ふ者だ。急いで此船を出して隠岐島へ送つてくれ。」と云つて、二十人余りで繰り立てた碇を易々と引上げ、十四五尋ある檣を軽々と推立てゝ、屋形の内に入り、鼾(いびき)をかきつゝ高枕で寝た。船頭梶取共は、恐れて「あゝ、大したものだ。尋常の為業(しわざ)でない。」と直ぐ順風に帆を揚げて隠岐島に向つた。昔も今も勇士は多いが、こんなのは曾て聞いた事がないと、誉めない者は一人もなかつた。


(一)敷目とは袖草摺に、筋違ひに色を替へて縅した物。
(二〕熊野打は熊野で造つたものだらうといふ。
(三)大立揚は全部鉄製。
(四)魚鱗は布陣の一型式。相連なつて造る陣。
(五)出絹は出衣の意。女房用の車の簾(すだれ)の下から、女房の衣の裾を出して乗ること。
(六)曼茶羅は梵語。聚集と訳する。壇上に諸尊諸徳を聚集して一大法門を成す。(七)幌は背に負うて矢を防ぐもの。


巻 第二十三

大森彦七が事

 暦応三年春の頃、伊予国から不思議な報告が来た。伊予国の住人大森彦七盛長は、建武三年五月、湊川で楠正成に腹を切らせた勇士で、戦後数箇国の恩賞に預つた。一族の者が悦びと誇りとに猿楽の能を催すといふので、彦七も下人に装束を持たせて楽屋へ向つた。山の傍の細道を真直ぐに通つて行くと、年の頃十七八の女が、赤い袴に柳裏(やなぎうら)(一)の五衣(いつゝぎぬ)を著て、折からさし出た月に照されてたゞ一人佇んでゐる。さて其女が彦七に向つて、「案内してくれる者がございません。道を誰れに尋ねませう。」と言つて、打萎れてゐるのを見ると、どんな荒武者でも心を懸けずにはゐられない。彦七は、其美しい姿に牽きつけられて、「こちらが道です、御桟敷(さじき)がなかつたら、ちやうど用意の桟敷があります、それへ御入り下さい。」と心ならずも云ふと、女はにつこり笑つて後について歩んで来る。羅綺(らき)にも堪へぬ姿のしほらしさは、一足も土を踏んだことのない人のやうに見えたので、彦七は見かねて、「余り露が深うございますから、あれまで負うて行つて上げませう。」と前に跪くと、女は少しも遠慮せず、「御迷惑ではございませんか。」といつて、彦七の背によりかかつた。「白玉(二)か何ぞ」と問うた古の伊勢物語の話もかうであつたかと思ひながら、嵐につれて散る花が袖に懸るよりも軽さうに、艶人を背負ひつゝ彦七の蹈む足元はたど/\しく心も浮かれつつ半町ばかり来ると、山陰の月が少し暗い処で、其女房は俄に丈(たけ)八尺ばかりの鬼となり、二つの眼は朱を溶いて鏡の面に洒(そゝ)いだ如く輝き、上下の歯を喰ひ違はせ、口は耳の根元まで割(さ)け、眉は漆で何度も塗つたやうに額を隠し、振分髪の中から五寸ばかりの犢(こうし)の角が鱗をつけて生ひ出てゐる。其重さは大石で上から押されるやうである。彦七が驚いて打棄てようとすると、化物は熊のやうな手で髪を掴み、空に上らうとすろ。むずと組んで深田の中へ転び落ち、「盛長化物を組みとめた。寄れよ者共。」と呼ばゝつた。人々が走り寄つた時には、しかし化物はもう掻き消すやうに消え失せてゐた。
 其夜の猿楽は中止になつたけれども、又吉日を選んで堂の前に舞台を作り、猿楽が進行して半ば頃になると、遥かの海上に装束の唐笠ほどの光物(ひかりもの)が二三百現はれた。海人(あま)の漁火かと見てゐると、それは一羣(むら)の黒雲の中に玉の輿を舁き連ね、恐ろしい鬼形の者が其前後左右に並んでゐる。黒雲の中に電光(いなびかり)が時々閃めいて、舞台の上に覆ひかぶさつてゐる森の梢に止まつた。人々が驚き騒いでゐると、雲の中から大声で、「大森殿に申すべき事があつて、楠正成が参つた。」といふ。彦七は物に恐れぬ男であろので、「楠殿は何用あつて、今此処で盛長を呼ばれるのだ。」と問ふと、楠は、
「正成が存命の間、様々に謀を廻らして相模入道一家を傾け、先帝の御心を安んじ奉らうとしたのに、尊氏卿、直義朝臣が悪心を挟んで遂に天下を傾け奉つた。之が為めに忠臣義士は多く屍を戦場に曝したが、彼等は皆鬼神となつて慎恚の心が止む時もない。正成は彼等と共に天下を覆さうとしてゐるが、それが為めには貪瞋痴(とんしんち)の三毒を表す三つの剣が要る。その一つが御辺(ごへん)の腰に佩んでゐる刀である。此刀さへ我等の物となるならば、尊氏の世を奪ふことは容易である。急いで差出されよ。先帝の勅諚によつて、正成は罷り向つたのだ。早く頂かう。」
と云ひも終らぬ中に、雷が東西に鳴り渡り、今にも落ちるかと思はれた。盛長は刀の柄を砕けるばかりにしつかと握り、「縦令身をずた/\に割かれ、骨を微塵に砕かれようとも、此刀を参らせることは出来ない。早く帰られよ。」と、空を睨んでつゝ立つたので、正成は非常に忿つて、「何とでも言へ。遂には取らう。」と、海上遥かに逃げ去つた。
 かうした次第で、此夜の猿楽も二三番で取止めになつた。其後四五日経つて、雨が一通り降り過ぎて、風が凄じく吹き騒ぎ、稲光(いなびかり)が時々閃めくので、盛長は、「今夜は屹度化物が来るに相違ない。遮つて待たう。」と中間に布皮を敷いて、鎧を着し、二所籐(ふたどころとう)の大弓に、尖り矢を多く抜き散らし、鼻膏(あぶら)を引いて、化物遅しと待つてゐた。案の如く夜中過ぎる頃、澄んでゐた月が俄にかき曇り、一群の黒雲が立ち覆うた。雲の中から声がして、「なんと大森殿は其処に御出でか。先(せん)に仰せ付けられた剣を急ぎ参らせられよ。天皇の仰せによつて、勅使として正成が又参つた。」と云ふので、盛長は、「不審の事をお尋ねする。御辺(ごへん)は六道四生(ろくだうししやう)(三)のどんな処に生れてゐられるか。」と聞くと、正成は庭前の柳の梢近く下りて来て、「我も最後の悪念に引かれて罪が深かつたので、今は千頭王鬼(せんづわうのおに)となつて七頭(づ)の牛に乗つてゐる。御不審であつたら其有様を見せよう。」と松明を十四五同時にはつと振り挙げた。其光について大空を遥かに見上げると、群立つた雲の中に十二人の鬼共が玉の輿を舁いでゐる。楠正成は湊川で合戦した時と少しも違はないで、紺地の鎧直垂に黒糸の鎧を著け、頭の七つある牛に乗つて遥かに引下つた所にゐる。
 此有様は只だ盛長の幻だけに見えて、他人の目には入らなかつたので、盛長が左右の者を顧みて、「あれが見えぬか。」と云はうとすると、風に漂ふ雲のやうに姿は忽ち消え失せて、唯だ楠の声許りが残つた。盛長はこれ程の不思議を見ても心動ぜず、
「縦令如何なる第六天の魔王共が来て云ふとも、此刀は差上げられない、早く帰られよ。此刀は将軍へ差上げるのだ。」
と云ひ捨てゝ、盛長は内へ入つた。と、正成は大いに嘲笑ひ、
「此国が陸続きであつても、道を易々とは通さない。まして海上を通るからには決して通さない。」
とどつと笑つて、西の方を指して飛び去つた。それから盛長は気が狂つて、山を走つたり、河を潜つたりして、乱行が一日も止まず、常に太刀を抜いたり、矢を放つたりするので、一族の者が集まつて盛長を一間に押籠め、武器を持つた者が警戒をしてゐた。
 或夜又雨風が一しきり通つて、電光が頻りに閃めくので、それ又楠が来たと怪しんでゐると、案の定盛長の寝た枕辺の障子を蹈み破つて、数十人の討ち入る音がした。あわてゝ起き上つた警固の者は太刀長刀の鞘を払つて、敵はどこだと見廻しても誰れもゐない。どうした事かと訝つてゐると、天井から毛の生へた、熊の手のやうな長い手を差し下し、盛長の髷を掴んで宙に引提げ、破風口(はふぐち)から出ようとする。盛長は宙(ちう)に提(さ)げられながら、例の刀を抜いて化物の真唯中(まつたゞなか)を三刀刺した。刺されて弱つたところをむづと引組んで、広廂(びさし)の軒の上に転び落ちた。捉へて押しつけ、七刀まで刺すと、化物は急所を刺されたものか、空をさして騰つていつた。
 其次の夜も月が曇り、風が荒れて、どうやら怪しい様子なので、警戒の者が大勢遠侍に集まつて、終夜睡らないやうにと碁双六を打つて遊んでゐた。夜中過ぎに、百人余りの警固の者が同時にあつと云つたと思ふと、皆酒に酔うたやうに頭を垂れて睡つてしまつた。
 只だ一人眠らないで座中にあつた禅僧が、燈火の影から見ると、一匹の大きな山蜘蛛が天井から下りて来て、寝入つた人々の上を這ひ廻り、又天井へ騰つていつた。暫くすると、盛長が俄に驚いて、「よし」と云ひさま、人と組んだ様子で、上になり下になり、揉み合ひ返し合つてゐる。叶はなくなつたものか、「寄れや、者共。」と叫んだので、傍に臥してゐた者共は起き上らうとしたが、或者は髷を柱に結びつけられ、或者は我が足に人の手を結ひつけられてゐる。其中に盛長が「化物を取つて押へたぞ、早く燈を持つて来い。」と呼ばゝつたので、警固の者は漸く起き上り、蝋燭を●(「ひへん」+「▲」)(とも)して見ると、自分が押へられてゐる盛長の膝を持ち挙げようともがいてゐる者がある。大勢が逃がすまいとして圧へると、大きな土器の割れる音がして、眉間から二つに砕けた曝首(さらしくび)が其後に残つてゐた。盛長は吐息をついて、腰を探つて見ると、刀を化物に取られて、鞘ばかりが残つてゐたので、「俺はもはや疫鬼(えきき)に魂を奪はれた。俺の命は物の数でもないが、将軍の御運が心配だ。」と、顔色を変へ、涙を流して、わなわなと慄へた。
 やがて夜が更けて、有明の月が中門に差入つた頃、簾(すだれ)を高く捲き上げて庭を眺めてゐると、空から毬(てまり)のやうな光りのものが叢の中へ落ちた。走り出て見ると、盛長に押し砕かれた首(かうべせ)の残りの半分に、例の刀が柄口までつき貫かれて落ちてゐた。盛長は、「もう来ないだらう。」と云つてゐると、庭の蹴鞠場に、眉太(ぶと)に作り、鉄漿(かね)を黒々と塗つた、大きさ四五尺もあらうと思はれる女の首があつて、乱れ髪を振り挙げて、目もあざやかに打笑ひ、「はづかしや。」といつて後向きになつた。それを見た人々はあつと驚き、驚くと同時に皆倒れ伏した。
 毎夜、夜番を置いて蟇目(ひきめ)の矢を射させ、陰陽師(おんやうし)に符を書かせて門を封じたが、目にも見えない者が来て、其符を取つて棄てる。皆思ひ煩つてゐる処へ、彦七の縁者の禅僧が来て、「今現はれる悪霊共は皆修羅の一族である。大般若経(だいはんにやぎやう)を読んだがよい。」と云つたので、僧共を招待し真読(しんどく)(四)の大般若を日夜六度まで読んだ。五月三日の暮に、導師(だうし)の僧が高座の上で鉦を打鳴らすと、一天俄に掻き曇り、車馬の音が聞え、剣戟の光が輝いたが、やがて闘ひの声も止み、天も晴れて、盛長の狂気は回復した。それ以後正成の亡霊は来なくなつた。天竺の班足王(はんぞくわう)は仁王経の功徳で千王を害する事を止め、我朝の楠正成は大般若講読の功徳で、貪欲、慎恚(しんい)、愚痴の三毒を免れることが出来た。其後、彦七は此刀を天下の霊剣として、左兵衛督直義朝臣に差上げたといふ。

直義病悩に就いて上皇御願書の事

 さうかうしてゐる中、諸国の宮方が段々衰へて、天下は遂に武家の手に帰し、帝都は表面静まつたやうであるけれども、武家は仏神三宝をも敬はず、三公五摂家の所領をも渡さず、政道が正に水火の苦しみに堕ちたので、行末はどうなるだらうと、世間ではとかく噂し合つた。吉野の先帝崩御の後、種々の風聞があつたが、車輪のやうな光物が夜々(よな/\)都を指して飛び渡り、色々の悪相を現したので、不思議だと思ふ間もなく、悪病が家々に満ちて、貴賤共に苦しむ事一通りでなかつた。これは大変だと警戒してゐる中、二月五日の暮頃から直義朝臣が邪気に侵され、身心は悩乱し、五体が苦しさに堪へないので、諸寺の高僧を招いて祈祷を請うた。しかし手を尽しての療治も効果(きゝめ)なく、今は最期と見えたので、平重盛が早世して平家の運が尽きた如く、天下の政道も今後衰へるだらうと歎かぬ者はなかつた。持明院上皇は此由を聞かせられて殊にお嘆きになり、潜に勅使を立てられて八幡宮に様々の御立願(ごりふぐわん)をなされた。
 勅使が帰つて三日も経たぬ中に、直義朝臣は忽ちに平癒したので、皆神徳忝なさに感泣した。しかし吉野の肩を持つ人々は、「徒事を申されるな。神は非礼を享(う)けられないで、正直の頭に宿らうとせられる。偽りの祈願などは聞かれる筈がない。」と云つて嘲つたものもあつた。

土岐頼遠御幸に参り合ひ狼藉を致す事附雲客車より下るる事
  
 同じ年の九月三日は、伏見院の御忌日なので、御仏事を故院(こゐん)の旧跡で執行(とりおこな)はせられる為めに、持明院上皇は伏見殿へ御幸になつたが、種々の御追善に短き秋の日は早や昏れてしまつた。美しい九月初三(しよさん)の夜(よ)の月は、出ると直ぐ雲間に影を消して、大空から落ちてくる雁の声に、伏見の小田も物凄い頃になつたので、松明(たいまつ)をかざして還御になられた。夜がまださほど更けない中に、御車は東の洞院を上つて、五条の辺りをお過ぎになつた。ちやうどそこへ、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春が、比叡(ひえい)の馬場で笠懸(かさがけ)を射て、芝生での大酒に時を過し、酔ひつぶれて帰つて来るのに、樋口東洞院の辻で出会つた。近侍のものが御前に走り散つて、「誰だ、無礼を働くのは、下りられよ。」と大声で叫ぶと、下野判官行春は御幸だと知つて、馬から飛び下りて傍に畏つた。
 土岐頼遠も初めは、御幸だとは知らなかつたが、此頃は勢を得て世を恐れず、我意の儘に振舞つてゐた事とて、騎虎の勢ひ後に引かれず、馬を据ゑて、
「此頃京中で頼遠などを下す者はあるまいと思ふのに、下りよといふはどの馬鹿者だ。」と大声で呼ばゝつたので、前駆(ぜんく)、御随身(みずゐじん)が馳せ散つて、「いくら田舎者でも、狼藉には限りがある。畏れ多醢くも院の御幸であるぞ。」
と声々に呼ばつた。頼遠は酔ひも廻つてゐたらしいが、これを聞いてから/\と打笑ひ、「何院といふか、犬といふか、犬ならば射て落さう。」
といひさま、御車を真中に取籠めて、馬かけ寄せて追物射(おひものい)に射た。
 竹林院中納言公重卿は列の後方にあつたが、衛府の太刀を抜いて馳せ寄り、「こんな惘れた乱暴はない。御車を早く進めよ。」と命令したけれども、牛の●(「革」+「引」)(むながい)を切られ、軛(くびき)も折れ、牛童(うしわらは)共も散り散りに逃げてしまひ、供奉の公卿達もみな打落されて、御車に当る矢をさへ防ぎまゐらす人がなかつた。下簾(したすだれ)はみな撥き落され、三十(みその)輻(六)も少々折れたので、御車は遂に路上に倒れた。真にこの上もない浅ましさだ。
 上皇は唯だ夢心地でいらせられたが、竹林院中納言公重卿が御前に参られると、上皇は、「おゝ公重か。」と許り仰せられ、軈て御涙に咽ばせられた。公重(きんしげ)卿も出る涙を押へて、
「此頃の都の有様は、全く滅茶々々でございます。蛮夷が分(ぶん)を超えて上に擬し、無礼の限りを尽して居ります。然し、日月が尚ほ天にある以上は、必ず御照覧あること疑ひがございません。」
と申上げたので、上皇は御心を稍々慰ませられ、
「朕の聞くところに依れば、五条の天神は君の御出と聞いて、宝殿を下つて御幸の道に畏まられ、宇佐八幡は勅使の度毎に威儀を正して勅答を申されるといふ。然るに武臣の分際で、此乱暴は何事ぢや。いくら末世だとて、衛護(ゑご)の神はましまさないのか。」と仰せられて、袞龍の袖に玉顔を覆はれたので、公重卿も涙にかきくれたが、元気を取返して牛童を少々尋ね出して、泣く泣く還御のお供をした。
 其頃は直義朝臣が尊氏卿に代つて政治を執られてゐたが、此事を伝へ聞いて驚き、「外国にも曾て聞かない狼籍である。若し其罪を論ずれば、之を三族に及ぼすも尚足りない。五刑(けい)(七)に下すもまだ適当とはいへない。直義、彼輩を召出して、車裂きにしようか醢(しゝびしほ)(八)にしようか。」と憤り、且つ恐縮した。
 頼遠と行春とは本国へ逃げ下つた。行春は罪が軽いので、死罪を許して讃岐国に流されたが、頼遠は終に六条河原で首を刎ねられた。意地汚い頼遠は夢●(▲)(むさう)国師を頼んで生命を助からうとしたけれども、其大逆は到底許されなかつた。弟の周済房(しうさいばう)のみは斬られる処を許されて国に下つた。夢●(▲)和尚の態度に慊らぬ者の仕業であらう、天龍寺の脇の壁に
  美味しかりし斎(とき)(九)は夢●(▲)にくらはれて
    周斎(しうさい)ばかり皿に残れる
と云ふ狂歌が書かれてあつた。かうして手柄のあつた頼遠が忽ちに身を失つたので、日月はまだ地に墜ちなかつたと、直義の政道に感ぜぬものはなかつた。
 全く此頃の習俗は不思議で、都人が変じて蛮人になつたとでもいはうか、院や帝の御事を勿体ないとも思はなかつたらしく、頼遠が斬られたと聞いた時、「一体院にさへ馬を下りなければならぬならば、将軍に会つたら土に匍ふだらうか。」と或田舎者が云つたといはれる。何と馬鹿々々しい、惘れた世の中だらう。
 抑々如何なる殿上人であらう。破れた簾から窺ふと、年は四十余りであるが、眉を作り、鉄漿(かね)をつけ、立烏帽子(たてえぼし)を被り、轅(ながえ)のはげた破車(やぶれぐるま)を打つても動かぬ疲れ牛に懸けて、北野の方へ静々と寂しげに通つた。之に引換へ、京中には武士が充満して、権勢並びなき者が幾人とも数へ切れないほどあつた。誰れとは分らないが、肥え太つた逞しい馬に思ひ思ひの鞍を置いて、唐笠(からかさ)に、毛沓(けぐつ)をはき、色々の小袖を脱ぎ下げ、酒を暖めて焼き残した紅葉の枝を、手々に折つて頭に挿し、早歌を唄ひながら大内野の芝生の花を露と共に蹴散らかして二三十騎の士が威風堂々と馬を歩ませてゐた。主人と思はれる馬上の人が此車を見付けて、「やあ、これこそ例の院と云ふ者だ。頼遠でさへこんな恐ろしい者に乗り会つては命を失つた。さあ下りよう。」と一度にさつと馬から下りて、頬被りを外し、笠を脱ぎ、頭を地に著けて畏つた。
 車に乗つてゐる殿上人は、又これを見て、「あゝ大変だ、若しや土岐の一族ではなからうか、院をさへ散々に射まいらせた。こゝで下りねば悪いだらう。」と周章て騒いで、牛をかけたまゝ車から飛び下りたので、車は▲(なまじひ)に先へ駆け行き、其軸に当つて立烏帽子が落ちた。髻(もとゞり)を乱した青陪従(あをばいじう)は片手で髻(もとゞり)を押へ、片手で笏を取直し、騎馬の者の前に跪いて、「やあ、やあ。」と挨拶した。それは全く前代未聞の珍事であつた。其日は殊に聖廟の御縁日で、参詣の客が続いてゐたが、此有様を見て、「実にけしからん世の中だ。路頭の礼は弘安の格式に定められてあるが、それにしても殿上人が武士に対して車から下りて髻を放せとは見えてゐないものを。」と、笑はぬ者がなかつた。


(一)柳裏の五衣とは表白、裏青の五重の衣。
(二)白玉云々「白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」(伊勢物語)。(三)六道四生とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道、胎生、卵生、湿生、化生の四生をいふ。
(四)真読とは通読すること。
(五)●(「革」+「引」)は頭、胸、尾から背に繋げる組緒。
(六)輻は車軸から輪へ差出した木。
(七)五刑とは笞、杖、徒、流、死。
(八)醢は塩漬けの事。
(九)斎とは僧家で食事の称。


巻 第二十四

朝儀年中行事の事

 暦応(りやくおう)と改元せられた頃から、軍事は暫く静まつて、天下は平和に帰つたけれども、京中の貴賤は尚ほ経済上の窮乏を免れなかつた。其理由(わけ)は国司の役所も荘園も本所の管轄ではなく、正税(せいぜい)、官物の運送にも故障があつて、公卿(くげ)は日増しに衰微したので、朝廷の儀式は悉く廃絶し、政道は全く塗炭に堕ちた。
 一体天子は必ず万機の政(まつりごと)を行ひ、四海を治め給ふべき方である。正月の天地四方拝から晦日(みそか)の追儺(ついな)の節会(せちゑ)に到るまで、年中行事は皆代々の聖主賢君が天に受け地に奉じて、世を鎮(しづ)め給ふ枢機であるから、一度も断絶してはならないものであるが、近年は天下の闘乱の為めに、其一事さへも行はれず、浅ましや仏法も神道も朝儀も節会(せちゑ)も無い世の中と成つた。全く以て惘れた事だ。又政道も一事も無いので、天は災ひを下すことを知らない。こんな状態を見たら、天下の罪を一身に帰して自らの心を責めなければならないのに、さうした者が一人もないのは残念である。かの恐るべき悪病や飢饉が年々起つて、万民が苦しみを受けたのは政道失墜の結果である。

天龍寺建立の事

 武家がかうした風に諸国を押取(おしと)る事も、軍用を支へる為めとあらば諦めもつくが、無益な奢りに耽つて身には綺羅を尽し、美女田楽(でんがく)に多くの財を費してゐるのであるから慰めようはない。今や国も人も疲れ果てゝ、飢饉、悪病、盗賊、兵乱が止まない。これは全く天が災ひを降すのではなく、唯だ国に政道がない為めである。
 夢●(▲)国師が直義に云はれるには、「近年の天下の様子を見ると、到底人力を以て天災を除き得ようとは思はれません。これはきつと吉野の先帝の神霊が深く御憤り遊ばして、国土に災ひを下してゐられるのだと存じます。去る六月二十四日の夜、吉野の上皇が鳳輦に召して、亀山の行宮に入御される夢を見ましたが、間もなく崩御になりました。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔を逍遥されますが、西部の霊跡には色々謂(いは)れがございますから、然るべき寺院を御建立なされて、帝の御菩提をお弔ひ遊ばされては如何でございます。さうしたら天下は必ず鎮まると思ひます。」と。将軍も直義も尤もな事に思はれ、夢●(▲)国師を開山として嵯峨に天龍寺を建てられた。康永四年に功を終つたので、五山の第二の列に置かれたが、総じて公家(くげ)の勅願寺、武家の特別の祈祷所として、一千人の僧衆を置かれた。

山門の嗷訴(がうそ)に依つて公卿僉議の事

 同じ年の八月に上皇が天龍寺に臨幸あり、供奉を遂げられることが定まり、国々の大名を召されて、代々の例に任せて其役を仰せ付けられた。これは近頃の一大事であり、其日の洛中の壮観が予期されたので、叡山の大衆は更に大に忿り、夜々の蜂起、谷々の雷動が休まなかつた。あはや天魔の障礙(しやうげ)、法会の違乱は免れまいと見て、三門跡(一)は取り鎮めの為めに登山されたが、若大衆どもは御坊へ押寄せて、やがて山下に追ひ下し奉つた。やがて三塔(二)の僧徒は大講堂の大庭に会合して評議を開いた。其詞は「夫れ王道の盛衰は仏法の邪正にあり。国家の安全は山門(三)の護持(ごぢ)にあり。然るに天龍寺供養の儀、既に勅願の軌則(きそく)を整へ、臨幸の牡観に及ぶ可しといふ。事風聞の如くんば、天聴を驚かし奉つて、疎石(そせき)法師を遠流(をんる)し、天龍寺に於ては犬神人(いぬじんじん)を以て破却せしむべきの由を、公家(くげ)に奏聞し、武家に触訴す可し。裁勅若し猶予に及ばば、早く七社の神輿を頂載して、九重(こゝのへ)の帝闕(ていけつ)に振り奉る可し。」
といふので、三千の大衆は皆之に同意した。七月三日、谷々の宿老は、「天皇の御裁決によつて先例に淮じ、疎石法師の邪法を停廃して其身を遠島に追放し、天龍寺は勅供養の儀を止め、顕密(けんみつ)二教を恢弘して国家護持の精祈を致さん事を請ふる」といふ奏状を捧持して参陳した。
 奏状が内覧(ないらん)に下されて後、諸卿は殿上に参列して如何にすべきかを評議したが、一大事であるので、満座が口を閉じてゐると、坊城(ばうじやう)大納言経顕(つねあき)卿は進み出でゝ、
「先づ山門の申す詞に就いて、篤と事情を考へるに、和漢の例を引いて、禅宗を好む世は必ず亡びない事がないと云ふ条は、愚案(ぐあん)、短才(たんさい)の第一である。夢●(▲)は三代の国師として天下の名僧である。之を漫りに遠島に処し、天龍寺を犬神人に破却せよと云ふ条は、奇怪至極の第二である。山門の罪は決して軽くない。此時若し刑を下さなかつたならば、此後恐らく嗷訴が絶えまい。早く三門跡に尋ねられて衆徒の主謀者を召し出し、断罪流刑にも行はるべきだと存じます。」
と述べられた。成程尤もだと一同が思つてゐる処へ、今度は日野大納言(ひののだいなごん)資明卿(すけあきらきやう)が襟を正して申されるには、
「山門の態度は聊か嗷訴に類してゐるが、退いて考へて見ると、全く理由のないことではないと存じます。其故は、日本の開闢は天台山から起り、王城の鎮護は延暦寺を専らとするから、乱政が朝廷に行はれると山門が之を諌め、邪法が世に興ると衆徒が之を斥ける慣はしで、それは真に伝統の久しいものである。後宇多院の御代に横岳(よこたけの)大広国師が嘉元寺を造られようとした時、山門の訴へに依つて其議を止めさせられたのは其最初の例である。啻に仏法のみに限らず、国家の治乱、四海の安危に至るまで、山門は決してこれを無関係のものとはしてゐない。平相国(へいしやうこく)清盛公が天下の権を執つて、此平安城を福原といふ卑湿(ひしつ)の地に遷した時も、山門は敢て奏状を捧げて遷都の議を遂に止めてしまつた。これらは皆山門の大事ではないが、仏法と王法とは唇歯輔車の関係であるから、山門は常に朝廷に訴へ、朝廷は常に山門の訴を聴かれたのである。一体禅宗の旨とするところのものは宋朝の行儀であり、貴ぶところのものは祖師(そし)の行迹である。然るに今の禅僧の心操法則(ほつそく)(五)は皆これに相違してゐる。其故は、宋朝には西蕃の帝師として、大黒天の法を修(ず)して朝廷の護持をする真言師(しんごんし)があつた。彼れは天下に一人の上(かみ)たるべき約(やく)によつて、如何なる大寺の長老、老年者と雖も、道に行き逢ふ時は膝を屈めて地に跪き、朝廷に参会する時は沓を直して礼を尽すといはれてゐる。然るに我朝ではさうでなく、無行(むかう)短才でも禅僧といへば、法務大僧正、門主(もんしゆ)、貫頂(くわんちやう)の座に均しからんことを想つてゐる。ほんの今先き父母の養育を離れたばかりの新米の小僧でも、兄を超え父を超えようとの心がある。これ先づ仁義礼智信の法にはづれてゐる。其宗旨を説く時は、超仏越祖の手段があるけれども、利に向ふ時は、施主に諂ひ、富人に阿ねることを辞しない。身には五色の衣を飾り、食にはあらゆる珍を尽し、財産を投げて住持を望む様は、誠に法滅の至りと見える。凡そ寺を建てられる事も、人法(にんほふ)繁盛して、僧法相対するならば、僧俗の道備はつて結構な事であるが、宝堂荘厳(しやうごん)に事を寄せ、綺麗厳浄(ごんじやう)を心に好んでも、僧衆が慈悲なく、不正直で、法を持し、人を謗り、徒に月日を過したならば、それを仏法興隆とは申されまい。今日禅宗の容子を見るに、禁裏仙洞が松門茅屋の如くなるに、禅宗は玉楼金殿を瑩(みが)き、卿相雲客は木食草衣なるに、禅僧は珍膳美衣に飽いてゐる。如何に寺を造られようとも、それが人の煩ひ歎きとなつては利益がない。朝廷の衰微は歎いてもなほ余りあることである。これを見て山門が頻りに朝廷に訴へる。之を言ふ者に罪はなく、之を聞く者は誡とする事が出来る。果して然らば山門の訴へは、十分其理由が有ると存ぜられます。」
 議論が二つに分れて、諸卿は是非を弁へかねたので、満座はしばらく鳴りを静めてゐた。稍々あつて三条源(げん)大納言道冬卿が申されるには、
「御両人の議論は天地の如く別個のもので、其間に共通の点があるとも思はれない。縦令山門の申す処が多々あるとしても、要は唯だ正法か邪法かの議論である。果して然りとすれば、禅僧と聖道とを召し合はせて、宗論をさせては如何でせう、さもなければ結着はつきますまい。一体宗論は、印度、支那、本朝、三国共に先例が多い。参朝の余暇に賢愚因縁経(けんぐいんねんぎやう)を開いて見ると、舎衛国(しやゑこく)の大臣須達長者(しゆたつちやうじや)が祇陀太子(ぎだたいし)より祇陀(ぎだ)園を賜はり、祇園精舎(ぎをんしやうじや)を建てようとした時、六師外道(げだう)(六)は波斯匿王(はしのくわう)に参つて、祇陀太子は釈迦の為めに須達に祇陀園を与へて、寺院を建てようとしてゐられます。これは国の疲れ、民の煩ひであるのみならず、世を失ひ、国を亡ぼす前兆でございます。速かに之を停められるやうお願ひしますと訴へたので、波斯匿王は、外道の云ふ処にも理由があり、長者の願ひも亦た棄て難いと、仏弟子と外道とを召出して神力を施させ、勝負によつて可否を決定しようとされましたところ、外道は舎利仏(しやりほつ)に負かされて仏弟子となり、祇園精舎は予定通り建てられる事になりました。又支那に於ては後漢の顕宗皇帝の御代に、仏教が印度より伝来して、帝が之を尊崇されたところ、老荘の道を尊んで虚無自然の理を専らにする道士共が、釈氏の道を伝へる事は内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違ひます。速に法師を流罪にせられよと訴へましたので、道士と法師とを召し合はせて、威徳の勝劣を御覧ぜられたところ、道士が摩騰(まとう)に敗れて、白馬寺が建てられる事になりました。また我朝には、村上天皇の御宇、応和元年に、天台、法相(ほつさう)二宗の大徳者(だいとくしや)、横川慈慧(よかはのじゑ)僧正と、南都の松室貞松房(まつむろのていしようばう)仲算己講(ちうざんいかう)と召して宗(しゆう)論をさせられた。しかし仲算は千手(せんじゆ)観音の化身、慈慧は如意輪観音の変化(へんげ)であつたので、何れを勝劣とも定めかねたといひ伝へます。苟くも天台が禅を非難して邪法だと訴へたからには、禅と天台とを召し合はせれて宗論を致させられるより外に道がございますまい。」
 これら三議の是非は、区々で、互ひに得失があるが、上衆は何れに賛成せられるだらうかと、皆口を閉ぢて考へ込んでゐると、二条関白が申されるには、
「宗派が八つに分れて、末流の道は違つてゐるけれども、本を質せば共に仏説である。其何れを取り何れを捨てるといふ事は出来ない。縦令宗論をするとも、天台は唯受一人の口決(くけつ)(七)であり、禅家は没滋味(もつじみ)(八)を手段とするものであるから、理を明らかにし奥儀を談じても、誰れが之を了解し得よう。宗論は所詮効果のないものである。近年は、何をいつても天下の事は大小となく皆武家の計らひで、天皇の御心の儘にならぬ事が多いから、延暦寺の訴へはどうであらうかと、武家へ御下問になり、奉答に就いて御親裁を仰ぐ事にすればよいかと存じます。」
 諸卿皆此動議に賛成して、其日の議論はそれで終つた。
 将軍と左兵衛督とは山門の奏状を見て、「根拠のない嗷訴は棄て置いて、先づ供養を遂げられたい。」と上奏したので、朝廷では願書を却下せられる事になつた。大衆は全く面目を失つて、すごすごと叡山に帰つていつた。其報告を聞いて三千の大衆は憤り、もうかうなつては致し方がない、嗷訴をしようと、康永四年八月十六日、三社の神輿(しんよ)を根本中堂へ上げ奉つり、翌十七日には、剣(つるぎ)、白山(しらやま)、豊原(とよはら)、平泉寺(へいせんじ)、書写(しよしや)、法花寺(ほつけじ)、多武峯(たぶのみね)などの末寺末社三百七十余箇所へ触(ふ)れ、四箇の大寺へそれ/″\牒状を送つた。牒状は先づ興福寺へ送られたので、興福寺が返事を出す前に始末をつけようと、院司の公卿、藤原氏の雄臣らは、「速かに聖断を下されて、衆徒の鬱訴(うつそ)を宥(なだ)められ、然る上御心安く法会を行はせられたい。」と申上げたので、枉げて院宣を下され、勅願の義を停止せられ、御結縁の為め翌日行幸なされる旨を仰せ出されたので、山門は初めて静まり、神輿は御帰座になつた。

天龍寺供養の事附大仏供養の事

 そこで、天龍寺の供養は武家の沙汰として之を行ひ、其翌日行幸がある事に定められ、八月二十九日、将軍並に左兵衛督が道中の行粧を整へて天龍寺へ参詣せられた。貴賤が路に充ち、僧俗が群をなして、前代未聞の壮観であつた。先づ一番に山名伊豆守時氏が、華やかに鎧を著た五百余騎を率ゐて前行し、二番は随兵で、武田、小笠原、大友以下十二人が、色々の糸毛の鎧(九)に烏帽子を著け、太く逞しい馬に厚総(あつぶさ)(一〇)を飾つて続き、三番は帯刀(たてわき)で、武田伊豆守四郎以下十六人が、染めつぶした色々の直垂に、思ひ/\の太刀を帯びて続いた。其次ぎには正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿が、青蓮花八葉を描いた車の美しいのに、簾を高く捲揚げて、衣冠を正して乗られた。五番は後陣の帯刀(たてわき)で、設楽(しがら)五郎兵衛尉以下十六人、其次には参議三位行兼左兵衛督源朝臣直義、小八葉の車に乗られる。七番には、御剣の役、御沓の役、御調慶の役、御笠の役八人、八番には高武蔵守師直以下五人、九番には後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼以下十人、十番には外様(とざま)の大名五百余騎、直垂著(ひたたれぎ)で随つた。主なる氏族、外様の大名が入り混つて、大宮から西郊(にしのをか)まで透間(すきま)もなく袖を連ねた。行列は無事に寺に著き、尊氏卿、直義朝臣が参堂して其日の法会は滞りなく行はれた。明くれば八月晦日、御結縁(けちえん)の為めに両上皇が御幸になつた。昨日とはまるで様子が違つて、見物の群衆も路に立ちかねた。あれ程騒動した大法会も、国師の導師によつて無事に行ひ納められて、天子の叡願、武家の帰依と、一時に望みが達せられたので、人々は喜びの眉を開いた。
 一体仏を造り、堂を建てることは、勝れた善根(ぜんこん)であるけれども、願主が少しでも驕慢の心を起すと、法会に騒動が起り、仏、法、僧の三宝が永く維持出来ない。昔東大寺を建立された時、廬舎那仏(るしやなぶつ)供養に行基を導師として請ぜられたが、行基は梵僧を請ぜられたいと申上げた。日本には梵僧がゐないのに、どうして行基はそれを導師にする気になつたかと、一同は心配してゐたが、其当日になつて、行基が難波の浦で西方を拝むと、雲に乗つて天竺の波羅門僧正が忽然と現はれられた。此供養は上古にも末代にも曾てない立派なものであつた。供養はすべて斯くあるべきものであるが、天龍寺の供養は、山門が強ひて嗷訴し、遂に勅会を止められるに至つた。これは僧俗共に驕慢の心があつたので、悪魔が災ひしたのであらうと、人々は皆想像したが、果して此寺は二十余年の中に二度まで焼けた。
 
三宅、荻野謀叛の事附壬生地蔵の事
  
 備前国の住人三宅(みやけ)三郎高徳(たかのり)は、新田義助が死んだ後、国に帰つて児島に隠れてゐたが、上野国にをられる新田左衛門佐義治(よしはる)を喚(よ)び、これを大将として旗上げをする計画を立てゝゐた。其頃丹波国の住人荻野彦六朝忠が、将軍を恨んでゐるとの噂があつたので、高徳が密使を出して誘ふと朝忠は悦んでそれに応諾した。即ち両国では日を期して旗上げしようとしたが、此事が忽ち武家方に漏れて山名時氏に攻められ、朝忠は降参した。高徳は大将義治に随うて京に上り、将軍、左兵衛督直義、高、上杉の人々を夜討にしようといふ廻状を諸国に遣はすと、宮方の兵士千余人が次々に馳せ参じた。其兵士を幾手にも分けて各所に隠し、明夜木幡峠(こばたたうげ)に打集まつて夜討をしようといふ前日、諜が漏れて、所司代都筑入道が二百余騎を率ゐて、夜討の案内をしようと忍びの名人の隠れてゐた四条壬生(みぶ)の宿へ未明に押寄せた。楯籠つてゐた兵共は皆命知らずであるから、屋根に上つて、矢のある限り射尽し、腹掻き切つて死んだ。これを聞いて他の兵共は散り散りになり、高徳も義治と共に美濃国へ落ちた。
 此の壬生の民家にゐた兵は皆討たれたのに、武蔵の住人香勾(かうわ)新左衛門高遠のみが只一人、地蔵菩薩の命替りで助かつたのは不思議である。所司代の軍勢が十重二十重に取巻いた時、此高遠一人は敵の中を駆け抜いて壬生の地蔵堂に走り入つた。何処に隠れようかと探してゐると、寺僧と思はれる者が出て来て、「其太刀の替りに此念珠を持ちなさい。」といふので、其いふ儘に長数珠を爪繰つて経を読んでゐると、そこへ寄手の四五十人が駈け込んで来たが、参詣人だと思つて高遠には目もくれなかつた。然るに、今、物を切つたと思はれ、血が鋒に著いてゐた太刀を袖の下に持つてゐる法師が堂の傍に立つてゐるのを見付けて、「それ落人がゐた」と縛つて侍所へ渡した。其次の日、牢に入れて置いた此法師は目を放さずに番してゐたにも拘はらず、日暮の頃にゐなくなつてしまつた。そして其後には芳香が馥郁として留まり、搦め捕つた者には異香が移つて、匂ひが抜けなかつたので、これは唯事ではないと、地蔵堂の戸を開けて本尊を見ると、忝くも地蔵菩薩の御身の所々が鞭のために黒づんで居り、縛(いまし)めた縄が御衣の上に著いてゐた。縛め奉つた三人の者は泣いて其罪を悔い、髪を切つて僧となつた。


(一)三門跡は円融院、青蓮院、妙法院。
(二)三塔は東塔、西塔、横川(よかは)の衆徒。
(三)山門は延暦寺の事。
(四)犬神人は祇園の召使の者。
(五)心操法則は精神と行儀。
(六)六師外道は六人の外道。
(七)唯受一人の口決とは師から弟子へ直接の口授。
(八)没滋味は慈味を没したもの。
(九)糸毛の鎧は糸を隙間なく並べて縅した鎧。
(一〇)厚総は馬具の靼(おしかけ)に飾る多くの糸の総。


巻 第二十五

持明院殿御即位の事附仙洞妖怪の事

 貞和(ぢやうわ)四年十月二十七日、後伏見院の御孫が御年十六で御譲りを受けさせられて、同日宮中で御元服になつた。其十月に行事所始めがあつて、既に斎庁場所(さいちやうぢやうしよ)(一)を作らうとした時、二三歳計りの童の頭(かしら)を斑のある犬が噛(くは)へて、院の御所の南殿の大床の上にゐた。御所侍が箒で打たうとすると、御殿の棟木に上り、西に向つて三声吠えて、掻き消すやうに消え失せた。こんな変事は触穢(しよくえ)にならうから、今年の大嘗会は中止すべきではないかと法家に尋ねられたら、皆、一年の穢れだと云つたが、前大判事明清は、「神道は王道に依つて用を作ると云はれてゐるから、大御心のまゝになさるべきであらう。」と勘へたので、愈々大嘗会を行はれることになり、其旨武家へ院宣を下された。

宮方の怨霊六本杉に会する事附医師評定の事

 仙洞御所の妖怪を稀代の事と思つてゐる矢先き、仁和寺に亦た一つの不思議があつた。嵯峨から京に帰る禅僧が夕立に逢つて、仁和寺の六本杉で雨宿りしてゐる中、とつぷり日が暮れてしまつた。行く先が恐ろしいので、其夜は御堂の傍で明かさうと、本堂の縁ににぢり寄つて心静かに念仏を誦じた。夜が更けわたつて、月が明るく照らしたので、それを透かして見ると愛宕の山、比叡岳の方から四方輿に乗つた者が虚空を漂つて来て、此六木杉の梢に並んだ。空に引いた幔が風に颯と吹上つたので座中を見ると、先帝の御外戚、峯(みね)の僧正春雅(しゆんが)が香の衣(二)に袈裟をかけて、眼は日月のやうに輝き、嘴が鳶のやうに長いのが、水晶の珠数を爪繰つて坐つてゐられる。其次に南都の智教上人、浄土寺の忠円僧正が左右に座に着いてゐられる。又空中から五緒(いつゝを)の車(三)に乗つて下りて来た人を見ると、大塔宮が未だ僧形であらせられた時の御貌(おんかたち)である。峯の僧正が苦しい息をついて、
「さて此世の中をどうすれば又騒がせることが出来ようか。」
と云はれると、忠円僧正が進み出て、
「それは何でもない事です。直義は禁戒を犯さぬといつて、慢心が強うございますから、直義の奥方の腹に大塔宮が男子となつてお生れになれば宜しい。峯の僧正では妙吉侍者(めうきつじしや)に、智教上人は上杉重能に、忠円は武蔵守、越後守の心に入れ替つて、各々邪教を説教させ、主従、兄弟の間が悪くなつて、自づと師直、師泰、上杉、畠山が滅びるやうになればよいではないですか。」
と云つたので、大塔宮を初め、小天狗共に至るまで、「よくも計つたものだ。」と一同興に入つて、幻のやうに消えてしまつた。
 四五日経つて後、直義の北の方が病気になつたので、多くの名医を招いて診察を請うたが、いづれも其病名が分らなかつた。只だ施薬院師嗣成(せやくゐんしつぐなり)のみは禅僧から六本杉の話を聞いてゐたので、其事を思ひ出して、「これは御懐妊です、しかも男の御子です。」といつたところ、他の者は皆な之に反対して、女房が四十になつて始めて懐妊することがあるものかと嘲つた。けれども、六月八日の朝、御安産になり、男子が生れた。

藤井寺合戦の事

 楠帯刀正行は先年父正成が湊川へ下る時、「私は考へる事があるから、今度の合戦には必ず討死するつもりだ。お前は河内へ帰つて、大君が如何にならせられるか、其御様子を最後まで見進らせよ。」と云ひ含められたので、其訓へを深く胸に刻み込んで忘れず、爾後十余年間自分の成長するのを待ちつゝ、討死した家来達の子孫を養つて、いつかは父の敵を滅ぼし、君の御憤りを休め奉らうと、明暮(あけくれ)其事のみを考へてゐた。月日の過ぎるのは早いもので、正行は早や二十五歳になつた。今年はちやうど父の十三年忌(き)に当るので、思ひのまゝに仏事を行ひ、今はもう命も惜しくないと、其勢五百余騎を率ゐて時々住吉や天王寺辺へ打つて出で、中島の尼家を少々焼き払つたりして、京勢が今にも懸つて来るのを心待ちに待つてゐた。其事を耳にして、将軍は細川陸奥守顕氏を大将となし、宇都宮三河入道、佐々木六角判官、長左衛門ら都合三千余騎を河内国へ差し向けた。軍勢は八月十四日の正午に藤井寺へ著いた。此陣から楠の館(たて)(一)は七里ばかり隔つてゐるので、縦令急いだところで明日か明後日でなければ手合はあるまいと、京勢は油断して、甲冑を解いたり、馬の鞍を卸したりして休んでゐると、誉田(ほんだ)八幡宮の後の山陰に、菊水の旗が一旒(ながれ)かすかに見えて、甲冑をつけた兵七百余騎が、悠々と馬を歩ませて寄せて来た。「それ敵が寄せた。馬に鞍置け、甲冑著けよ。」と押合ひ、へし合ひ騒いでゐる処へ、正行は真前に進んで、喚いて駈け入る。大将細川陸奥守は、鎧を肩に懸けたけれどもまだ上帯をも締めず、太刀を帯びる余裕もなささうに見えたので、村田の一族六騎が小具足だけで、誰れの馬とも知れざるに打乗つて、雲霞の如く群り控える敵中へかけ入つて、火花を散らして戦つた。然し身方が続かなかつたので、大勢に取り囲まれて一所に討たれた。其間に大将は甲冑を著け、馬に打乗つて、従兵百余騎で暫く防ぎ戦つた。敵は小勢であり、身方は大勢である。縦令進んで戦はなくても、引退く兵さへなかつたならば、此戦は京勢の勝ちであるのに、四国、中国から駆り集めた葉武者の事とて、前を防いで戦へば後では捨鞭を打つて引くといふ有様なので、大将も猛卒も仕方なく弱卒と同じやうに落ちて行つた。楠軍は勝に乗じて鬨の声を上げ上げ追つ駈け、天王寺渡部の辺で大将が危く見えたので、六角判官舎弟六郎左衛門は引返して敵を支へたが、遂に討たれてしまつた。又赤松信濃守範資、舎弟筑前守の三首余騎、命を名に替へても討死しようと、引返し引返し七八度まで踏み留まつて戦つたが、奈良崎も主従三騎討たれ、粟生田(あふた)小太郎も馬を射られて討死した。しかし、これらの度々の防戦に妨げられて、敵もさまで追はなかつたから、大将も士卒も皆危い命を助つて京へ逃げ帰つた。


伊勢より宝剣を進(たてまつ)る事附黄梁夢(くわうりやうむ)の事

 昔安徳天皇が壇浦で沈めさせられた宝剣が見出されたといつて、今年それを伊勢国から奉つた。伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨(しもつけあじやり)円成(ゑんじやう)ふ山法師があつた。大神宮詣でが千日になつた夜、水垢離をしようとて磯へ来ると、遥かの沖合に光るものがある。目も放さず見守つてゐると、光物は円成の足許に近寄つて来た。恐る/\取上げて見ると、三鈷柄(さんこえ)(五)の剣のやうな恰好で、二尺五六寸位のものであつた。手に提げて大神宮へ持つて行くと、童部(わらんべ)の一人が狂気になつて口走るには、「神代から我国には三種の神器がある。承久以来、武家の権力強く、皇室の御威光が年々衰へさせられたのは、君の御守りとなるべき宝剣が海底に沈んでゐたからであろ。今、天照大神が龍宮に神勅を下されて、宝剣を召し出された。それがあの法師の手にあるものである。」と。円成は其宝剣を錦の嚢に入れ、京に上つて日野前大納言資明卿に差出した。資明卿は、よく実否を確めて奏聞しようと、春日の神殿に納められた。卜部宿禰兼員(うらべのすくねかねかず)は資明卿の命によつて、此剣を平野社の神殿に奉安して祈祷すると、二十一日目の満願の日に、直義朝臣が日輪の上に宝剣の立つた夢を見られた。そこで資明卿は其事を始めて仙洞御所に奏聞せられ、八月十八日早朝に其宝剣を御所にまゐらせられた所、其恩賞として円成は直任(ぢきにん)の僧都になされ、河内国葛葉の関所を賜はつた。
 此頃朝廷にあつて輔弼の任に当つたのは資明卿と勧修寺大納言経顕卿との二人であつたが、経顕卿が院に参つて申されるには、「今回、宝剣の事、直義の夢見で御信用になられた事と拝察しますが、世間には夢幻の如き事が多うございます。昔漢朝に富貴を願ふ者があり、楚国で賢才を求めてゐると聞いて、楚国へ参りましたが、路で疲れて、邯鄲(かんたん)の旅亭で休んで居りますと、呂洞賓(りよとうひん)といふ仙人が此男の心中を夙に看破つて、富貴の夢を見せる枕を一つ貸しました。早速其枕をして寝たところ、楚国に仕へて将相の位に昇り、三十年後楚王の死ぬ時、其第一の姫宮を嫁はされたが、五十一年に夫人は一人の男子を産みました。楚王には御子がなかつたから、此方に王位を嗣がせましたが、三蔵になられた時、洞庭湖に三千余艘の船を双べて三年三月の遊びをせられました。其時夫人は王を抱いて舷に立たせられたが、どうしたものか足踏み外して太子諸共水底に落ちられたので、数万の侍臣が、あれよ、あれよと立ち騒ぎました。其呼声に夢は忽ち覚めました。男が夢中の楽しみを色々と追憶しますと、遥かに天位五十年を経てゐるけれども、実は旅亭の主人が黍を蒸してまだ蒸し上らないほどの少時間でございました。これを邯鄲の夢と申します。かの葛葉の関は年来南都で知行した土地だから、嗷訴のない中に勅裁を以て召し返された方がよいと存じます」と。上皇も此諫言を尤もと思召され、宝剣は平野社の神主卜部兼員に預け、葛葉の関は召し返して元のやうに南都へ付けられる事になつた。円成はほんの黄梁の一夢を見たに過ぎなかつた。
 
住吉合戦の事
  
 去る九月十七日、河内国藤井寺の合戦で、細川顕氏が敗戦して引退いた後、楠帯刀正行は勢に乗じて遂に国境外に進出したけれども、年末は寒気が甚だしいから、兵士が指を堕したり、手を亀(かが)めたりする虞れがあると、武家方ではそれを棄て置いたが、余り延ばしておけば敵に勢力が著くだらうと、十一月二十三日軍評定(いくさひやうぢやう)を聞き、二十五日に、山名伊豆守時氏、細川陸奥守顕氏を両大将として、六千余騎を住吉天王寺へ差向けた。顕氏は去る九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打破られ、天下の物笑ひになつた事を生涯の恥と思つたので、四国の兵士共を召し集めて、「今度の合戦も亦た先度のやうに、負けて帰つたならば、万人の嘲りは一層甚しからう。相構へて面々身命を軽んじ、前回の恥を雪がれよ。」と、励したので、坂東(ばんとう)、坂西(ばんさい)、藤(とう)、橘(きつ)、伴(ばん)の者共、五百騎づつ党を組んで三手に分れ、大旗、小旗、下濃(すそご)(六)の旗を一旒づゝ押し立て、一歩も退(ひ)くまい、討死しようと、神水(七)飲んで出発した。決死の覚悟は実に殊勝だと、見る者はいづれも其態度を賞めた。大手の大将山名伊豆守時氏は、千余騎で住吉に陣を張り、搦手の大将細川陸奥守顕氏は八百余騎で天王寺に陣を取つた。
 楠帯刀正行はかくと聞いて、「敵に足を留めさせて、住吉、天王寺へ城を構へられたら、神仏に向つて弓をひく事になる虞れがある。今の中に押寄せて先づ住吉の敵を追ひ払ひ、唯だ攻めに攻め立て、急に追つかけたならば、天王寺の敵は戦はないで引退くこと必定だ。」と、同じ二十六日の暁に五百余騎を率ゐて館を出で、先づ住吉の敵を追ひ払ふべく、石津(いしづ)の民家に火を放つて、瓜生野の北から押寄せた。山名伊豆守は之を見て、「敵は一方からはまさか寄せまい。手を分けて戦へ。」と、赤松筑前守範貞に摂津、播磨、両国の勢を添へて、八百余騎で浜の方を防がうと、住吉浦の南に陣を取つた。土岐周済房、明智兵庫助、佐々木四郎左衛門は、其勢三千余騎で安部野の東西両所に陣を張つた。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外に四国の兵五千余騎を率ゐて態(わざ)と本陣を離れず、新手と入れ替る為めに天王寺に控へてゐた。大手の大将山名伊豆守、舎弟三河守、原四郎太郎、同四郎次郎、同四郎三郎は千余騎で、今しも馬煙(うまけむり)を挙げて進んで来る先駆(さきがけ)の敵と戦はうと、瓜生野の東に駈け出した。楠帯刀は敵の馬煙を見て、陣は四箇所にありと見たので、多くない我勢を数多に分けたならば、却つて悪からうと、先に五手に分けた二千余騎の勢を唯だ一手に集めて、瓜生野に向つて討つて出た。
 此陣地は東西南北とも野が遠くて、馬が疲れないから、両軍は互ひに射手を進めて、鬨の声を一声挙げると、敵身方の六千余騎一度に颯と駈け合つて思ひ/\に戦ふ。一時間程斫り合つて、互ひに勝鬨をあげ、四五町ほど両方に引分れて敵身方を見渡すと、両軍は過半滅びて、死骸が戦場に充ち満ちてゐる。
 大将山名伊豆守は切創(きりきず)、射創を七箇所まで負はされたので、兵が其前に立ち塞がつて、疵を吸ひ血を拭つてゐる間、少し手を緩めてゐると、楠勢の中から年二十ばかりの若武者が、和田新発意(しんぼち)源秀と名乗つて、洗皮(八)の鎧に大太刀小太刀を二振帯び、六尺余りの長刀を小脇に挟み、悠々と馬を歩ませつゝ、小歌を歌つて進んで来た。其次ぎに又一人、これは法師武者で、身の丈七尺にも余らうと思はれるのが、阿間了願(あまのれうぐわん)と名乗つて唐綾縅(九)の鎧に小太刀を帯び、柄の長さ一丈許りに見える槍を馬の平頸(ひらくび)に副へて、少しも躊躇せず駈けて来た。其勢ひといひ、容子といひ、普通(たゞもの)ではないと見たが、後に続く兵がないので、山名勢は左程驚きもせずに控へてゐる中へ、唯だ二騎で駈け入つて前後左右を突いて廻り、小手の外(はず)れ、臑当(すねあて)の隙、兜の鉢の頂の真中、兜の内側、苟も空いた所を一分も狂はず、出所(たちどころ)に三十六騎を突き落して大将に近づかんと目を配(くば)る。三河守はそれを見て、一騎打ちの勝負はかなはないと思つたのか、「大勢で取り囲め。」と、百四五十騎で横合(一〇)に攻めつける。楠も亦それを見て、「和田討たすな、続け。」と総懸りに懸つて戦ふ。太刀の鐔(つば)音が天に響き、汗馬(かんば)の足音が地を動かす。互ひに、「身方を恥しめて、引くな、進め。」と呼びつゝ退く兵は一人もなかつた。然し大将山名伊豆守は巳に疵を受け、又入れ替る軍勢もないので、徒歩の兵が伊豆守の馬の口を後に引向けて、後陣の身方と一所にならうと、天王寺を指して引退くと、楠は弥々元気づいて、追つかけ追つかけ攻め立てたので、山名三河守、原四郎太郎、同四郎次郎らは返し合はせて討たれてしまつた。二陣に控へた土岐、佐々木は三百余騎で、安部野の南に駈け出て暫く防ぎ戦つたが、此陣も破られて共に天王寺へ引き下つた。
 一陣二陣が此通りであるから、浜の手や、天王寺の軍勢は、「前では両陣が破られ、後には大河がある、敵に橋を落されたら一人も生きては帰れないぞ。先づ橋を警固せよ。」と渡辺を指して退いたが、大勢が靡き立つた時の習ひで一度も返す事が出来ず、行く手の、狭い橋の上を、退くとも云はずに押し合つて通る。山名伊豆守は我身に深傷を受けたばかりではなく、馬の三頭(ず)(一一)を二太刀切られて馬も弱つてゐるのに、敵は更に手を緩めずに追ひ駈ける。今は早や落ち延びられないと観念したものか、橋詰で巳に腹を切らうとしたのを、河村山城守が唯だ一騎返し合せて防ぐ間に、安田弾正が走り寄つて、自分の六尺三寸の太刀を守木(もりき)(一二)となし、鎧著た武者を鎧の上に背負うて橋を渡つたから、守木の太刀にせき落されて、水に溺れる者が数限りなかつた。播磨国の住人小松原刑部左衛門は、主の三河守が討たれたと知つて、唯だ一騎天神松原(てんじんのまつばら)から引返し、向ひ来る敵に矢二筋射懸けて腹を掻き切つた。其外の兵どもは、親が討たれても子は知らず、主が討死しても郎党は助けず、甲冑を脱ぎ捨て、弓を杖に突いて、夜中に京へ逃げ上つた。実に見苦しい有様であつた。


(一)斎庁場所は斎場の場所。
(二)香の衣は黄に薄黒を帯びた色衣。
(三)五緒の車は、簾の辺と編目の糸を覆うた革との間に、二条の風帯を垂れた車。(四)館は城の小いもの。
(五)三鈷は天竺の兵器、銅製で、両端が三叉になつてゐる。
(六)下濃の旗は上方が淡く、下方が濃く染められた旗。
(七)神水は神に供へた水の義。
(八)洗皮の鎧は薄紅色のなめし革で縅した鎧。
(九)唐綾縅は唐綾を細く裁ち重ねて縅した鎧。
(一〇)横合とは横からの攻撃。
(一一)三頭とは尾本の上の所。
(一二)守木は背負つた子を腰かけさせる木。


巻 第二十六
 
正行吉野へ参る事

 安部野の合戦は、十一月二十六日の事であるから、渡辺橋から堰き落された兵五百余人は、楠に助けられて河から引上げられたけれども、秋の霜が肉を破り暁の氷が膚に結んで、命が助かりさうにもなかつたのを、楠は情(なさけ)のある人で、小袖を脱ぎ替へて身を暖めさせたり、薬を与へて疵を治させたり、四五日の間親切に皆をいたはつて、馬に乗る者には馬を与へ、甲冑を失つた者には甲冑を著せ、礼を尽して送り返した。かうされて見ると、敵ながら温情を感せずには居られなくなり、或者は向後心を寄せようと思ひ、或者は其恩を報じよう為めに間もなく彼れの部下となつて、後、四条畷の合戦で勇敢な討死を遂げた。
 さて今年両度の戦に、京勢が脆くも打負けた為め、畿内(きない)(一)は多く宮方に侵し奪はれ、遠国もまた蹶起して反噬の意を示したので、将軍、左兵衛督の周章(あわ)て方は又格別、唯だ熱湯で手を濯ふやうであつた。今は末々の源氏の国々から狩出した田舎勢(ぜい)を向けてゐては、対抗出来さうにもないといふので、執事高武蔵守師直(もろなほ)、越後守師泰の兄弟を両大将として、四国、中国、東山、東海二十余箇国の軍勢をさし向ける事にした。軍勢の手分けが定まつて、まだ一日も経たないのに、越後守師泰は手下の兵三千余騎を率ゐて、十二月十四日の早朝先づ淀(よど)に著いた。此事を聞いて馳せ加はつた人々には、武田甲斐守、長井丹後入道、逸見孫六入道、厚東、宇都宮、赤松、小早川ら、其勢合はせて二万余騎が、淀、羽束師(はつかし)、赤井、大渡の民家に居余(ゐあま)つて、遠近の堂舎仏閣に充ち満ちた。同月二十五日、武蔵守は手勢七千余騎を率ゐて八幡(やはた)に著いた。此隊に馳せ加はつた人々には、細川阿波将監清氏、仁木左京太夫頼章(よりあきら)、今川五郎入道、武田、高、南部、宇都宮、佐々木、六角判官、長、梅田、須々木、宇津木、曾我、多田院、源氏二十三人、外様(とざま)の大名四百三十六人、其勢合せて六万余騎が、八幡、山崎、真木(まき)、葛葉(くづは)、鹿島、神崎、楼井、水無瀬に充満した。
 淀八幡に著いた京勢は雲霞(うんか)の如き大軍だと聞えたので、楠帯刀正行は弟正時を始め一族を打連れて、十二月二十七日吉野の皇居に参り、四条中納言隆資(たかすけ)を通じて申上げるには、
「父正成は繊弱の身を以て大敵の威を砕き、先帝の大御心を休め進らせましたが、後、間もなく天下が乱れて、逆臣が西国から攻め上りましたので、危きを見ては命を捧げようと、前々から覚悟を決めてをりました父は、遂に摂州湊河に於いて討死を致しました。其時正行は十三歳だつたのに、戦場へは連れて行かず、途中から河内へ送り帰し、生き残つた一族を扶け、朝敵を亡して君を御位に即け進らせよといふ遺言を残しました。然るに正行、正時は齢巳に壮年に達しましたから、此度我れと我手を砕いて合戦しなければ、一つには亡父の遺言に背き、一つには交戦の機会を失ひ、云ひ甲斐ないとの謗りを受けることが必定だと存じます。凡夫の身は思ふに任せない習ひ、若し病ひに犯されて若死したならば、君の御為めには不忠の身となり、父の為めには不孝の子となるでせう。それ故今回は、こちらから師泰に挑みかゝつて、身命の限りを尽し合戦致し、彼等の首を正行、正時が取るか、正行、正時の首を彼等に取られるか、二つの中一つを選びたいと存じます。それで今一度此世で君の御顔を拝したさに参内仕りました。」
 言葉のまだ終らない中に、涙が鎧の袖にかゝり、其顔色には義心が顕はれたので、伝奏の隆資卿も直衣(なほし)の袖を涙に濡らされた。
 天皇は南殿の御簾(みす)を高く捲かせられて、玉顔殊に麗(うるは)しく、諸卒を御覧になり、正行を近く召されて、
「先般両度の合戦に勝つて、敵の士気を挫いたので、朕の心はいたく慰められた。代々の武功は返す返すも神妙である。今大敵は全力を尽して攻め来りつゝあるから、今度の合戦こそは天下の安否に関はる重大の場合だ。適度に進退し、機に応じて変化するのが勇士の本意であるから、今度の合戦は素より手を拱(こまね)いてゐるべきではないが、進むべき時に進むのは時を失はざらんが為めであり、退くべき時に退くのは後を全うせんが為めである。朕は汝を股肱と頼んでゐる。慎んで命を全うせよ。」
と仰せ出されたので、正行は頭を地につけてとかうの勅答をせず、たゞこれを最後の参内だと思ひ定めて退出した。正行、正時、和田新発意(しんぼち)、舎弟新兵衛、同紀六左衛門子息二人、野田四郎子息二人、楠将監、西河子息、関地良円以下、今度の戦には一歩も退かず、一処に討死しようと誓つた兵百四十三人は、先帝の御廟に参つて、若し今度の戦が苦戦であつたら、一同は討死仕る覚悟でございますと御暇(いとま)を申し上げて、如意輪堂の壁板に各々名字を過去帳(くわこちやう)(二)代りに書き連ね、其最後に、  帰らじとかねて思へば梓弓
    なき数に入る名をぞとどむる
(歌意──再び帰るまいと予てから覚悟してゐるから、亡き人の数に入る名をこゝに書き止めておく。)
といふ歌を書き留めた上、各々鬢髪を切つて仏殿に投げ入れ、其日に吉野を打ち出でゝ敵陣へと向つた。

四条縄手合戦の事附上山討死の事

 師直、師泰は淀八幡で年を越して、尚ほ諸国の軍勢を待ち揃へた上、河内へ向ふ相談をしたが、楠が、逆寄(さかよ)せの作戦を進め、吉野へ参つてお別れの辞を申し、今日已に河内の往生院に著いたと聞いて、それは捨て置かれないと、師泰は先づ正月二日に淀を立つて、二万余騎で和泉の境浦に陣を取つた。師直も翌三日の朝八幡を立つて、六万余騎で四条に著いた。楠は屹度難所を前に置いて待つであらう、寄せては悪からう、寄せられては便りがあらうと、全軍を五ケ所に分けて鳥雲(てううん)(三)の陣を作り、陰に備へ陽に備へた。白旗党の大衆には県(あがた)下野守を旗頭として、其勢五千余騎が飯盛山(いひもりやま)に打上つて南の高処に控へた。大旗党の大衆には河津、高橋の二人を旗頭として、其勢三千余騎が秋篠(あきしの)の外山(とやま)の峯に打上つて東の高処に控へた。武田伊豆守は千余騎で四条縄手の田の中に馬の駈け場所を前に残して控へた。佐々木佐渡判官入道は二千余騎で生駒の南の山に打上つて、外側に畳楯(でふだて)(四)五百帳を立て並べ、足軽の射手八百人を馬から降して、打つて上る敵があるならば馬の太腹射させて、躊躇する処を真逆(まつさかさま)に駈け落さうと、後には騎馬隊が控へた。大将武蔵守師直は二十余町後(うしろ)に、将軍の御旗の下に輪違(わちがひ)の旗を立てゝ控へた。前後左右には騎馬の兵二万余騎、馬の周囲には徒歩の射手五百人、四方十余町を固めて稲麻(たうま)のやうに入り群れて打囲んだ。手分した各集団が互ひに勇み争つて、陣の張り方が厳重なので、山を抜く項羽の力、日を返す魯陽の勢も、此堅陣に駈け上つて戦へようとは思はれなかつた。
 さて、正月五日の早朝、先づ四条中納言隆資卿が大将となつて、和泉、紀伊両国の野伏(ぶし)二万余人を引き連れて、色々の旗を手々に差上げ、飯盛山に向ひ合つた。これは大旗小旗両党を麓へ下さないで、楠を四条縄手へ進ませようとの謀である。案(あん)の定(ぢやう)大旗小旗の両党は、これを騙(だま)し勢(ぜい)とは知らず、寄手(よせて)であらうと思ひ込み、射手を分け、旗を進めて、坂の途中まで下り来り、嶮岨な処で敵を邀へ討たうと其手筈をしてゐる処ヘ、楠帯刀正行は、舎弟正時、和田新兵衛高家、舎弟新発意賢秀を始め、優秀な兵三千余騎を率ゐて、霞隠れから真直ぐ苦ぐに四条縄手へ押寄せた。先づ斥候(ものみ)の敵を駈け散らし、次いで大将師直に詰寄つて勝負を決しようと、些かも躊躇せずに進んだ。県下野守は白旗党の旗頭として遠くの峯に控へてゐたが、菊水の旗が唯だ一旒(ながれ)、強引(がういん)に武蔵守の陣へ駈け入らうとするのを見て、北の岡から馳せ下つて馬を飛び下り、只今敵が一直線に駈け入らうとする道を一文字に遮ぎり、東西に颯と広がり、徒歩になつて待ち設けた。勇気の盛んな楠勢、たかが徒歩の敵に何で躊躇しよう、三手に分けた前陣の兵五百余騎が、悠々と打つて懸つた。京勢の中(うち)秋山弥次郎、大草三郎左衛門の二人は、真先きに進んで直ちに射倒された。居野七郎がそれを見て、敵を元気づけまいと、秋山が伏し倒れた上をつと飛び越えて、「ここん処を射て御覧。」と鎧の左袖を敲いて小跳りして進んだ。敵が東西から集中させた雨の如き矢にこれも顔面、草摺の端の二箇所を矢深く射られ、刀を倒について、其矢を抜かうと立ち竦んだ所を、和田新発意がつと走り寄つて兜の鉢を強く打つと、打たれて四つ這ひに倒れたところを、和田の手下が走り寄つて其首を掻き切つた。之を戦の手初めとして、楠の騎馬の兵五百余騎と、県の徒歩の兵三百余人とが喚(をめ)き叫んで相戦つたが、眼界開けて平らな田野のことゝて、馬の進退が自由であり、徒歩の兵は散々汗馬に駈け悩まされ、白旗党の三百余騎は殆んど全く討たれ、県下野守も重傷を五箇所まで受けたので、討ち残された兵と共に師直の陣へ引き退いた。二番には、戦ひあぐんだ楠勢を疲労に乗じて討たうと、武田伊豆守が七百余騎で進んだ。楠の二陣の軍勢千余騎は之に応戦し、二手に分れて一人の敵も残すまいと取囲んだ。汗馬東西に馳せ違つて、追ひつ返しつ、旌旗南北に開き分れて、巻きつ巻かれつ、互ひに命を惜しまずに七八度まで揉み合つたが、武田の七百騎が残り少なに討たれた頃は、楠の二陣の勢も大半疵を受けて朱(あけ)に染つて控へた。小旗党の大衆は初めから四条中納言隆資の見せ勢に欺かれ、それに対抗して飯盛山に打上り、大手の合戦を外(よそ)に見下してゐたが、楠の二陣の兵が戦ひ疲れて麓に控へたのを見て、長崎彦九郎資宗、松田左近将監重明、舎弟七郎五郎、子息太郎三郎、須々木備中守高行らは勝れた兵四十八騎を率ゐ、小松原から駈け下りて、山を後に、敵を麓に見下して、駈け合ひ駈け合ひ戦ふので、楠の二陣千余騎は、僅かの敵に遮られて進み得なかつた。佐々木佐渡判官入道道誉は、楠勢の疲れ足を推し量るに、他の敵には目もくれず、大将武蔵守の旗を目的に跳り蒐(かゝ)るつもりらしい、それならば少し遣り過して、後を塞いで討つてやらうと、其勢三千余騎を飯盛山の南の峯に上らせ、旗打立てゝ控へてゐたが、楠の二陣の兵が両度数時間の戦ひに、馬疲れ、兵衰へて、躊躇してゐるのを見澄し、三千余騎を二手に分けて、同時にどつと鬨の声を上げて駈け下つた。楠の二陣の勢(ぜい)は暫く持ち怺へて戦つたが、敵は多勢であり、身方は疲れてゐる。馬強(づよ)な新手に駈け立てられて大半を討たれ、僅かに残つた兵は敵しかねて南を指して退いた。元来が小勢の楠の兵は後陣は既に破られ、残る前陣の兵は僅かに三百騎にも足らないから、一たまりもなく敗滅するだらうと思つてゐると、楠帯刀、和田新発意が未だ討たれないで其中に居り、今日の戦に討死しようと板壁の過去帳に連署した兵百四十三人は、後陣の破れたのを少しも顧みず、犇々(ひし/\)と一所に打集まつて、敵の大将師直は後に控へてゐるだらうと、それを目的にひた進みに進んだ。武蔵守の兵は身方は戦ひ勝つた上敵が小勢であるから、機を逸せずに進んだならば、敵を全滅せしめることが出来ようと、先づ一番に、阿波将監清氏が五百騎で邀撃した。楠勢三百騎は少しも滞らず、総攻めに攻め立てゝ見向きもしないので、細川の兵五十余騎は北を指して引退いた。二番に仁木左京大夫頼章(よりあきら)は楠勢に駈け立てられて、二度と近寄るカがない。三番には千葉介、宇都宮遠江入道、同三河入道の両勢合はせて五百騎が、三度合つて三度分れたが、千葉、宇都宮の兵は大分討たれて引返した。此時和田、楠の軍勢百騎も討ちに討たれて、三筋四筋の矢の立つてゐない者はなかつたが、馬を下つて徒歩となり、其処の田の畔を背にして、胡●(「たけかんむり」+「祿」)(えびら)に入れた弁当を心静かに食べて、元気をつけて並んでゐた。
 これ程に決心した敵を取囲んで討たうとすれば、身方の兵も幾らかは死ぬであらう。唯だ後(うしろ)をあけて逃げるなら逃がせと、数万騎の兵は一処に集つて、敢て取巻く様子を見せなかつた。楠勢は縦令小人数(こにんずう)でも逃げれば逃げられぬ事はないのに、初めから今度の合戦は、師直の首を正行が取つて帰るか、さもなくば、正行の首が六条河原に曝されるだらう。どうぞ、さう御思ひ下さいと、吉野の皇居できつばり申し上げたのだから、其言(ことば)に恥ぢたのか、或は又運命が尽きたのか、和田も楠も足並を揃へて、一歩も後へは退かず、只だ「師直に寄せ合つて、勝負を決せよ。」と声声に呼ばゝり、静かに本陣に歩み寄つた。これを見て、細川讃岐守頼春、今川五郎、高刑部大輔、南、佐々木、長、松山、宇津木、土岐、荻野の面々を初めとして、武蔵守の前後左右に控ヘた究竟の兵共七千余騎は我先に打取らうと喚き叫んで駈け出した。楠は少しも怯(ひる)まず、暫く息を継がうと思へば、一度に颯と並んで、鎧の袖を揺り合はせて、思ふやうに射させ、敵が近づけば同時にはつと立上り、鋒(きつさき)を揃へて跳りかゝつた。一番に駈寄つた南次郎左衛門尉は、馬の両膝を薙ぎ切られて落ちる処を、起き上らない中に討たれてしまつた。二番に劣るまいと駈け入つた松田次郎左衛門は、和田新発意に近寄つて切らうとさし俯むくと、和田新発意は長刀の柄を延べて松田の兜の鉢を打つた。打たれて錏(しころ)を傾けると、こんどは兜の内側を突かれて、馬から倒に落ちて討たれた。此外目の前で切り落される者五十余人、小腕をうち落されて朱(あけ)に染まる者二百余騎、追ひ出で追ひ出で攻められて、とても叶はぬと七千余騎の兵共は散り/″\に退いたが、中には淀八幡を過ぎて、京都まで逃げ帰る者も多かつた。此時若し武蔵守が一足でも退かうものなら、逃げる大勢に引摺られて京都までも追はれたらうに彼れは少しも動揺する色なく、大声を揚げて、「卑怯だ、引返せ、敵は小勢だ、師直はこゝに居る。見給てゝ京都へ逃げる者は、どんな顔して将軍にお目に懸る。運命は天にある。名が惜しくはないか。」と、目を怒らし、切歯(はぎしり)をして、四方に命令したので、恥を知る兵は踏み留まつて、師直の前後に控へた。土岐周済房の部下は皆打散らされ、彼れ自身も膝口を切られて血にまみれ、武蔵守の前を無愛想に引上げるのを師直が屹と睨んで、「何だ、其見苦しさは、日頃の大言にも似ないではないか。」といふと、周済房は「何で見苦しからう。さう思はれるなら、見事討死してお目にかけませう。」と、又馬を引返して敵中に駈け入り、終に討死してしまつた。それを見て雑賀次郎も亦た駈け入つて討死した。
 かうして楠と武蔵守との間は、僅かに半町許りの隔りとなつたので、それ楠が多年の本望を遂げる時が来たと、敵も身方も思つてゐる処へ、上山六郎左衛門が師直の前に馳せ塞り、大音声に「八幡殿より以来源家代々の執権として、武功天下に並びなき高武蔵守師直こゝにあり。」と名乗つて討死した。其隙に、師直は遠く免れたので、楠は哀れ本意を遂げることが出来なかつた。楠は上山を討つて、其首を見ると、肥つた、立派な男である。鎧を見ると輪違(わちがひ)を裾金物に彫り透してある。「これは確かに武蔵守だ。多年の本望を今日は達した。これを見よ人々。」と云つて、其首を宙に投げ上げては手に受け取り、手に受け取つては宙に投げ上げ、手玉に取つて無上に悦んだ。楠の弟次郎は走り寄つて、「さうなさつては、大事の首に傷が付きます。先づ旗の蝉元(せみもと)(五)につけて、敵身方の者に見せませう。」と、太刀の鋒に指貫いて差上げ、よく/\それを見ると、師直の首ではなかつた。「あゝ、これは上山六郎左衛門の首だ。」と云つたので、楠は大いに腹を立て、其首を投げて、「上山六郎左衛門と見るは僻目か。お前は日本一の勇者だ。大君の御為めには無上の朝敵だが、余りにも強い振舞は立派なものだ、他の首と一所には混へまいぞ。」と著た小袖の片袖を千切つて其首を包んで岸の上に置いた。鼻田弥次郎は膝口を射られて立ち竦んでゐたが、此有楼を見聞して、「では師直はまだ討たれなかつたのか。癪な事だ。師直は何処に居るか。」と云ふ声を力に、顔面にからんだ鬢を押しのけ、血眼になつて遠く北の方を見ると、輪違の旗一旒を打立てゝ、立派な老武者を真中に七八十騎の兵が控へてゐる。「あれこそは師直らしい。さあ蒐(かゝ)らう。」といふと、和田新兵衛が鎧の袖を押へて、「私には少し考へがある。余りに勇み懸つて、大事の敵を討ちそこなつてはならぬ。敵は馬武者だし、我々は徒歩だ。追へば敵は逃げるだらう。逃げたら敵は討ち取られない。周囲の状況を考へると、我々が逃げる真似をすれば、敵はいゝ気になつて追つかけて来るに相違ない。敵を近くへ引寄せてから、これこそ師直と思ふ敵の、馬の両膝を薙ぎはらつて切り据ゑ、落ちる処を細頸打落し、心静かに討死しようと思ふがどうだ。」と云ふと、鼻田は勿論、討残された五十余人の兵共は皆それに賛成し、一同楯を背に引かづいて退却する様子を見せた。ところが師直は考へ深い大将で、敵が偽つて退くのを看破して、少しも馬を動かさない。西の田の中に三百騎で控へてゐた高播磨守は、これを見て、一人も逃がすな、皆討ち取れと追つかけた。元来が強い和田、楠の兵とて少しもうろたへず、敵の太刀の鋒が鎧の総角(あげまき)、兜の錏(しころ)の二つ三つに当るほ近づけてから、一度に咄(どつ)と喚いて、磯打つ波が岩に当つて返るやうに引返し、火の出るほど烈しく戦つた。高播磨守の兵共は、引返すほどの隙もないので、立処に五十余人を討たれ、散々に切り立てられて、馬を駈け開(ひら)いて逃げた、本陣を通り過ぎて二十余町後まで。
 
楠正行最後の事
 
 さうかうしてゐる中に、師直と楠との間が一町許りになつた。愈々願ふ敵は近づいたと悦び勇んで、千里を一足に飛び懸らうと、心許りは逸つたけれども、朝の七時から暮の四時まで、三十余度の合戦に息も絶え絶えに疲れたばかりでなく、重かれ軽かれ傷を負はぬ者がなかつたから、馬武者を追ひ攻めて討ち取らう手段はなかつた。しかし、ともかく、敵兵を四方八方へ追ひ散らし、師直は僅か七八十騎で控へてゐるのだから、どうにか出来ぬ事はあるまいと思ふ心を力に、和田、楠、野田、関地良円、河辺石掬(きく)丸は我れ先きにと突進した。余り急激に突進されて、師直が逃腰になつたところを、九州の住人須々木四郎と云ふ強弓(がうきう)引き、三人張(六)の弓に十三束二伏(ふたつぶせ)(七)の矢を番へて、百歩の処に柳葉を立てゝ射外さない射手が、人の解き捨てた箙(えびら)、矢壷(つぼ)、胡●(「たけかんむり」+「祿」)(やなぐひ)を抱きかかへる程集めて、雨の降るやうに的(まと)を狙つて射続けた。一日著暖めた甲冑であるから、中る矢も中る矢も深く立たないのはなかつた。楠次郎は眉間、咽喉笛の端を射られても、矢を抜く程の元気がなかつた。正行は左右の膝口三箇所、右の頬先、左の目尻深く射られて、其矢が冬野の霜に伏したやうに折れ懸つたので、矢すくみに立つて動かれない。其外の三十余人も、悉く矢の三四本射立てられない者はなかつたので、「今はこれまでだ。敵の手に討たれるな。」と楠兄弟が刺し違へて北枕にうつぶしたので、三十二人も思ひ思ひに腹掻き切つて、上へ上へと重なり合つて死んだ。和田新発意はどうして紛れ込んだものか、師直の手勢の中に混つて、武蔵守と刺し違へて死なうとしたが、此程河内から降参した湯浅本宮太郎衛門といふ者が、見知つてゐたから、和田の後へ立廻つて両膝を切つた。倒れる所を走り寄つて頬を斬らうとすると、和田新発意は朱を注いだやうな、大きな限を見張つて、湯浅をきつと睨んだ儘首を取られた。大剛の者に睨まれて湯浅は心が臆(おく)したか、其日から病みついて七日の後に悶死した。大塚掃部助は負傷したものゝ、楠はなほ生き残つてゐる事と思ひ、放れ馬に打乗つて遠くまで逃げ延びたが、やがて和田、楠が討たれたと聞いて、唯だ一騎馳せ帰つて敵の中に駈け入り、思ふ存分切り捲くつて死んだ。
 和田新兵衛正朝(まさとも)は吉野の皇居に参つて、此様子を上奏しようとでも思つたのが、唯だ一人徒歩で、太刀を右脇に寄せ、敵の首一つを左手に提げて、東条の方へと落ちて行つた。と安保(あぶ)肥前守忠実が唯だ一騎で馳せ合つて、「和田、楠の人々は皆自害せられたのに、それを見捨てゝ御辺一人が逃げられるは如何にも情ない。引返されよ。御相手仕らう。」と詞を懸けたので、和田新兵衛は打笑つて、「引返すのは雑作のない事だ。」と四尺六寸の大刀の貝鎬(八)に血の著いたのを打振つて走り懸つた。一騎打の勝負はとても叶はぬと、忠実は馬を一散に駆けさせて引返した。忠実が引返すと、正朝は又落ちてゆき、正朝が落ちて行くと、忠実が又追つ懸けて、一里余りを互ひに討ちもせねば討たれもせずに追ひつ止まりつしてゐる中に、日は已に暮れようとした。そこへちやうど青木次郎、長崎彦九邸の二騎が、箙に矢を少し射残して馳せ来り、新兵衛を駈け退け駈け退け射た矢が、草摺の隙、鎧の引合せ目の下に七筋まで立つたので、新兵衛は遂に忠実に首を取られた。
 此日の合戦に、和田、楠の兄弟四人、一族二十三人、従兵百四十三人は、悉く命を君臣二代の義に献げて、名を古今無双の功に残した。先年奥州の国司顕家卿が、安部野で討たれ、武将新田左中将義貞朝臣が越前で亡びた後は、宮方の城は遠国に少々あるきりで、其勢ひは微々たるものであつたが、唯だ此楠ばかりが都に近い難所に拠つて猛威を逞しくし、両度まで大敵を撃ち退けたので、吉野の天皇は魚が水を得た如き悦びを感ぜられ、京都の敵は虎の山に靠(よりかゝ)る如き虞れをなしたが、和田、楠の一類が忽ちにして亡んだので、聖運は已に傾いたと思ふものが多かつた。

吉野炎上の事
  
 さうかうしてゐる中に、楠の館(たち)を焼き払ひ、吉野の君をも迎へ奉らうと、武蔵守師直は三万余騎の兵を率ゐて吉野の麓へ押寄せた。其軍勢が已に吉野郡(ごほり)に近づいたといふ注進が来たので、四条中納言隆資卿は急いで黒木の御所(九)に参つて、「昨日正行は討たれてしまひました。明日は師直が皇居へ襲来するさうですから、今夜急いで天河の奥、賀名生(あなふ)の辺へ御忍び下さるやうにお願ひ致します。」と申して、三種の神器を内侍典司(ないしのすけ)に取出させ、馬寮の御馬を庭前に引出すと、主上(一〇)は万事夢路を辿られる御心地で黒木の御所をお立出でになられた。女院、皇后、児(ちご)に至るまで取る物も取敢へず、周章て騒ぎ、倒れ迷うて、慣れない道の岩を踏み、重なる山の雲を分けて、吉野の奥深く迷ひ入られた。思へば、此吉野山だとて、決して満足してゐられる所ではない、只だ永年住み馴れたといふだけであるが、これより更に奥深く入つたら、どんなに住みづらいだらう」と先きの事を思ひ遣られると、涙が流れてやまない。主上は勝手の宮(一一)の御前を過ぎさせられた時、寮の御馬から下りさせられて、御涙の中に一首の御歌を遊ばされた。
憑むかひなきにつけても誓ひてし
  勝手の神の名こそをしけれ
(歌意──憑み効がないにつけても、憑ませると誓つた勝手の神の名が惜しい。)
 武蔵守師直はやがて吉野山に押寄せ、三度まで鬨の声を揚げたが、敵は一人もゐないから音もしない。では焼き払へと、皇居並に諸臣の宿所に火を放つた。魔風盛に吹き懸けて、諸堂を始め金剛蔵王の社壇まで一時に灰燼となつた。社壇仏閣を一時に焼き払つた事を誰れが悲しまずに居られよう。かうして主なき宿の花は、唯だ露に泣ける粧ひを添へ、荒れた庭の松までも、風に吟ずる声を潜ませた。抑々天の怒りはどこに落ち着くだらう。此悪行が身に留まつたら師直は忽ちに亡びようと、思はない人はなかつた。

賀名生(あなふ)皇居の事

 和田、楠の一族は皆亡びて、今はたゞ正行の弟正儀(まさのり)だけが生き残つてゐるので、高師泰は石川河原に向城を作つて、互ひに寄せつ寄せられつして合戦の止む隙(ひま)がなかつた。吉野の主上は天河(てんのかは)の奥賀名生に小さい黒木の御所を営まれ、彼の古への唐堯虞舜(たうげうぐしゆん)の質素な様子もかうであつたかと思はれるほどであるが、女院皇后は、柴葺く庵に軒漏る雨を禦ぎかねて、御袖の涙は、乾く隙(ひま)もなく、月卿雲客(げつけいうんかく)は木の下、岩の陰に、松葉を葺き、苔(こけ)の筵(むしろ)を片敷(かたし)いて、身を置く仮りの宿とされると、高峯の嵐が吹き落ちて、夜の衣を裏返しても、露の手枕が寒いので、華かな昔を見せる夢もない。まして其家来達は、暮山(ぼざん)の薪を拾うて雪を戴く膚(はだ)寒く、幽谷の水を掬(むす)んで月を担ふ肩が痩せてゐる。こんな容子では一日片時を生き長(ながら)へる心地はないけれど、さすがに消えぬ露の身の、命があらばと思ふ世に、憑みをかけて生き残つてゐるのであつた。

執事兄弟奢侈の事

 富貴に侈(おご)り、功に驕(おご)つて、終りを慎まないのは人の常である。武蔵守は今度南方の軍に打勝つてから、益々心が奢り、仁義を全く顧みないやうになつた。
 一条今出川に、古御所を直して、棟門(むねもん)、唐門(からもん)を四方に開け、釣殿(つりどの)、渡殿(わたどの)、泉殿(いづみどの)を高く造り並べて公卿の女(むすめ)などで、寄る辺のないのを此処彼処に隠して置いて夜毎に通つた。殊に浅ましかつたのは、二条前(さきの)関白殿の御妹を深宮の中から盗み出して、武蔵五郎といふ男子を生ませられた事である。しかし、これらは尚ほ尋常の事である。越後守師泰の悪行に至つては実に言語道断で、東山の枝橋といふ所に山荘を作らうと、そこの墓を堀り崩した。人夫の五六百人も使つて掘らして見ると、塁(るゐ)々たる五輪の下から苔に朽ちた死骸が出て来たり、●(「くさかんむり」+「千」)々たる断碑の上に雨に消えた人名が現はれたりした。人夫が休む暇もなく使はれてゐるのを見て、「あゝ可哀さうに。」と云つた青侍二人は引き戻されて、熱い日盛りに土を堀り、石を運ぶべくこき使はれた。いや、これらはまだ小事である。今年今川河原に陣取つて近辺を支配してからは、諸寺諸社の所領を取上げ、塔の九輪を鋳潰して鑵子(一二)を造らせたりしたので、諸国の武士は此事を伝へ聞いて皆之に倣ひ、和泉、河内には全い塔婆が一基もなくなつた。唯だ逆臣守屋が再び此世に生れて、仏法を亡ぼさうとするかと怪しまれるばかりであつた。

上杉畠山高家を讒する事附廉頗(れんぱ)藺相如(りんしやうじよ)が事

 此頃、上杉伊豆守重能(しげよし)、畠山大蔵少輔直宗といふ人があつた。短才の癖に官位は人よりも高からんことを思ひ、功は少いのに賞は世に越えんことを望んでゐた。二人は師直、師泰を猜んで、頻りに将軍に讒言した。それは全く高、上杉の両家が権力を争ふから起つた事である。暫く譬を引いて其愚かな事を述べよう。昔支那に卞和(べんくわ)といふ賤しい者があつて、楚山で畑を打つてゐると、周囲一尺余りもある、磨けば玉になる立派な石を得た。そこでそれを楚の武王に献じたが、玉師に磨かせても玉にならなかつたので、不都合だといつて片足を切られた。三年の後武王が崩じたので、再び其子文王に献じたが、やはり玉にならなかつたので又片足を切られた。卞和は尚ほ懲りず、文王の後の成王に献じたところ、成王はそれを磨かせて、車十七輌を照す玉を得たので、照車(せうしや)の玉と名付けて事の外珍重された。此玉は代々天子の宝とせられたが、趙(てう)王の代に秦王がそれをほしがり、どうにかして奪ひ取らうと色々巧んだ。両国会盟(くわいめい)の宴が果てゝ趙王が将に帰らうとすると、秦王は二十万の兵を率ゐて馳せ来り、「卞和の玉と十五城を交換して頂きたい。」と迫つたので、趙王は止むなく承諾して其玉を与へた。ところが秦王はいくら経つても十五城を渡さないので、藺相如(りんしやうじよ)といふ趙王の臣が、一人で乗込んで、其玉を取返した。藺相如は其功により、大禄を与へられて高官に登つたが、趙王の旧臣である廉頗将軍はそれを心よからず思ひ、藺相如が参内する道に、三千余騎を伏せて討ち取らうとした。相如は此様を見て一戦をも交へずに逃げ帰つた。藺相如の兵が廉頗将軍の館へ押寄せようとしてゐると聞いて、相如ははら/\と涙を流して、「両虎相闘つて共に死す時は、一虎其疲れに乗じて之れを咀(か)むといふ。今廉頗と予とは両虎である。戦へば共に死ぬであらう。一虎は秦国である。此理を思へばこそ、予は廉頗と戦はなかつたのである。」と云つた。廉頗はこれを聞いて大に恥ぢ、ひたすら其罪を謝した。これらの二人が並び立つて文武二つながら備はつた政治を行つたから、楚は国家を長く保つたのである。高、上杉の両家が相争つて、共に隙を伺ふのは決して忠臣の道ではない。
 
妙吉侍者の事附秦の始皇帝の事
  
 直義朝臣は禅宗に傾いて夢●(▲)国師の弟子となつたが、国師の相弟子に妙吉侍者(めうきうじしや)といふ僧があつた。夢●(▲)国師を羨しく思つて、仁和寺の志一房(しいちばう)といふ人に稲荷の法を習つて、心に願ふ事は何でも叶はぬものはない。夢●(▲)国師は侍者の様子を見て一大事と思ひ、侍者を直義に勧めた。直義は其僧を一見して一方ならず信仰したが、師直、師泰は、之を軽んじて道で逢つても衣(ころも)を沓の先で蹴るやうに振舞つた。妙吉侍者がそれを面白からず思つてゐるのを知つて、上杉、畠山は師直、師泰を直義に讒言した。妙音侍者も元来憎いと思ふ高家の事であるから、折に触れては悪口を云ひ散らかした。或時直義にお経の講義をして、それが終つて、支那や日本の物語に移つた時、言葉巧みに譬へを取つて高兄弟を罵つた。妙吉侍者が云ふには、「秦の始皇帝に二人の子がありました。兄を扶蘇(ふそ)といひ、弟を胡亥(こがい)と云ひました。扶蘇は始皇の悪政を諌めたので父帝の意に協はず、胡亥は寵愛の后腹(きさきばら)であつたから腹黒い趙高といふ大臣を傍に附けられました。始皇の死後、遺言にも関はらず、趙高は扶蘇を討つて胡亥を位に即け、心の儘に政治を行つたので、天下は忽ち乱れ、高祖(かうそ)が沛(はい)郡に起り、項羽が楚に起りました。趙高は尚ほ飽き足らず胡亥を殺しましたが、自分も遂に始皇帝の孫子嬰(しえい)に殺され、これで秦は全く滅びました。かやうに秦の滅びたのは、趙高の侈りに基づいて居りますが、今武蔵守、越後守の行ひを見ますると、世の中が治まるとは思はれません。殊に惘れました事は、院、国王を何処へでも流し捨てよと云つた事です。一日も早く彼等を討たれて、上杉、畠山を執権になさいませ。」といつたので、直義も次第に心が動いて来た。これが仁和寺の六木杉の梢で所々の天狗共が寄つて、又天下を乱さうといふ計画を立てた事の発端だと恩はれる。

直冬中国下向の事

 先づ中国取鎮めの為めに、将軍の嫡男宮内大輔直冬(くないのたいふたゞふゆ)を備前の国へ下された。此直冬は将軍が若い頃只だ一夜通つた越前の局の腹に出来た子である。初めは将軍も許さなかつたが、紀伊国の宮方が蜂起した時、父子の号を許されて討手の大将となり、今度また直義の計ひで中国の探題(たんだい)になつた。直冬はしばらく備後の鞆にゐて中国の成敗を司つたが、賞罰が厳明で、人心は帰服した。これから多年表面を飾つて、内実は上を犯した師直、師泰兄弟の悪行が愈々明らかになつて来た。


(一)宮城附近の直隷地。
(二)死んだ人の名を書留める帳簿。
(三)鳥雲の陣は、六韜に「凡三軍。処山之高。則為敵所囚。既以彼山。而処必為鳥雲之陣。」とある。
(四)楯の一種。楯には其質、形、用を以て種々の名がある。
(五)蝉本とは旗竿に旗の横木を結び附ける処。
(六)三人張の弓は三人で引き得る強弓。
(七)束、伏は長さを計る単位。束は一握り、四本の指の長さ、普通の矢は十二束である。(八)鎬が脹んで角立ち、貝に似たものをいふ。
(九)黒木の御所とは削らぬ木で造つた御所の意。
(一〇)主上は後村上天皇を指し奉る。
(一一)勝手の宮は吉野山に在る。
(一二)鑵子(くわんす)とは湯を沸す器。


巻 第二十七

天下妖怪の事附清水寺炎上の事

 貞和五年正月の頃から不祥の星が頻りに現れるので、天下に異変があろだらうと、陰陽寮では頻りに其旨を密奏した。どうすればよいかと一同が驚いてゐる中、二月二十六日の夜半に将軍塚がひどく鳴動し、翌二十七日には清水坂から出火して清水寺が焼失した。又六月三日八幡の御殿が鳴動して、神鏑(しんてき)が王城を指して鳴つて行つた。其十日には太白(たいはく)、辰星(しんせい)、歳星(さいせい)の三星が続いて現はれ、閏(うるふ)六月五日には東南と西北とから電光が輝き出て、相戦ふが如き中に異形のものが見えたので、此分では天下は必ず穏かであるまいと人々が話し合つた。

田楽の事附長講見物の事

 今年は不思議な事が続出してゐるが、洛中で過度に田楽を翫ぶ事が行はれてゐるのも其一つだ。六月十一日に、或行脚の僧が四条橋の架設を思ひ立ち、其費用を得ようとして、新座本座(しんざほんざ)の田楽を合はせ、老若(にやく)に分けて能比べをさせた。摂●(「たけかんむり」+「禄」)大臣家、門跡(もんぜき)梶井二品(かぢゐにほん)親王、将軍がこれを興がられたので、それ以下の者は云ふまでもなく、神官僧侶に至るまで我れ劣らじと桟敷を造つた。已に能が進んで、新座の楽屋から八九歳の小児が猿の面を被り、御幣を差上げて紅緑の反橋(そりばし)を出て来たが、高欄に飛び上り、左へ廻り右へ巡つて跳ね返つては上つたのを見て、百余間の桟敷にゐる見物人は総立となり、面白い/\と喚き叫んだ。此時将軍の御桟敷の辺から、練貫の褄高く取上げた美しい女房が、扇で幕を揚げたと見る間に、大きな材木で打ちつけた桟敷が傾いて、あれよ/\といふ中に上下二百四十九間が将棊倒しとなつた。打殺されて死んだ者は無数で、腰膝を打折られたり、手足を打切られたり、自分で抜いた太刀長刀に突き貫かれて血にまみれたり、又は湧した茶の湯に身を焼いて喚き叫んだりする有様は、人々に地獄が此世に出現したかと疑はしめた。
 何しろ、これは唯事でない、きつと天狗などの仕業だらうと思つて、後で聞くと、西塔院(さいたふゐん)釈迦(しやか)堂の堂守が所用で外出の途中、一人の山伏に逢つた。山伏は堂守を田楽に誘つて、将軍の桟敷に入つた。「どうしてこんな虔にゐられよう。」と堂守が云ふと「何、構はない、そこで見物せよ。」と山伏は云つた。人々が興がつて喚いた時、山伏は彼れに、「余り人が気違ひじみてゐるのが癪にさはる、一つ喫驚させて、興を醒ましてやらう。」と云つて座を立ち、桟敷の柱をえいくと押したので、見る/\中に桟敷は天狗倒に逢つた。それが他からは旋風が吹くやうに見えたといはれる。

雲景(うんけい)未来記の事

 其頃、又天下一の不思議な事件が起つた、出羽国羽黒(はぐろ)の山伏雲景といふ者が見物の為めに京都へ上つて、天龍寺を見物しようと西郊(にしのをか)に行く中、一人の山伏に出逢つた。雲景は此山伏に連れられて愛宕(あたご)山の頂上に著いたが、見ると、立派な本堂の裏の、座主(ざす)の宿所と思はれる処に多くの人が衣冠を正し、或は法衣を著けて坐つてゐた。御座の上には、大きな金鵄(とび)の翅(つばさ)を著けた者が坐つてゐた。余りの恐ろしさに、雲景が山伏に訳を問ふと、代々の貴い方達が悪魔王となつて、天下を乱す評定をしてゐるところだと山伏が答へた。一座の長老の山伏が雲景に話し懸けて云ふには、「如何にも今は濁乱の末世で、下(しも)が先づ勝つて上を犯すやうになるが、しかし、上を犯す罪は所詮遁れられない。師直は下剋上で先づ勝つであらう。それから天下は大いに乱れて、父子兄弟が互ひに怨みあひ、政道が全く影を潜めてしまふから、世間は自から静まり難いであらう。」で、雲景は山伏に、貴方は誰れかと訊ねると、私は愛宕山の天狗だと答へた。と、俄かに猛火が燃え上り、座中の客が七顛八倒して苦しむので、雲景も門外へ走り出たが、其時夢が覚めて、大内裏の旧跡の大庭の椋の木の本に、呆然として立つてゐる自分を見出した。宿坊に帰つて考へて見ると、疑ひもなく天狗道に行つたのである。棄て置くべきではないと、細かに書き記して、熊野の牛王(ごわう)の符(ふ)に告文(かうぶん)を書き添へて、伝奏(でんそう)につけて奏上したのであつた。
 
左兵衛督師直を誅せんと欲する事
  
 上杉、畠山が頻に讒言するので、左兵衛督直義は内々師直兄弟を誅すべき謀をめぐらした。大高伊予守、宍戸(しゝど)安芸守の二人を組手とし、他に甲冑を著けた百余人を隠して置いて、師直を召し出された。師直は其事を夢にも知らず、唯だ一人客殿に坐つた。師直の命は今や風を待つ露よりも危く見えたが、此謀を運らした粟飯原(あひばら)下総守清胤(きよたね)が俄に心変りして、挨拶するやうにして屹と目くばせしたので、心の敏(さと)い師直は直ぐ感付いて、一寸外に出る風(ふう)をして馬に乗り、宿所へ帰つた。これから師直は用心厳しく、一族若党数万人を近くの民家に泊らせ、自分は虚病をつかつて出仕しなかつた。師直からの知らせによつて、河内国の石川河原にゐた師泰は急いで京都へ帰つて来た。八月十一日の夜、赤松入道円心は師直に呼ばれて、子息律師則祐(そくいう)、弾正少弼氏範と、七百騎で武蔵守の邸へ赴いた。師直は急いで対面して、「三条殿が理由もなく師直一家を滅ぼさうとなさる。恐れながら今は討手に向つて矢を放たうと思ふ。京都の事は安心であるが、備後においでになる左兵衛佐直冬が屹度中国の兵を率ゐて攻め上られると思ふから、急いで播磨へ下つて山陽、山陰の両道を防いでもらひたい。」と云つて、太刀を引出物として与へた。円心は直ちに承諾して、其夜都を立つて播磨国へ馳せ下つたので、直冬の上洛準備は齟齬した。
 
御所を囲む事
 
 誰れがいつたといふこともなく、洛中にはやがて合戦が始まるといふ噂が立つたが、貞和五年八月十二日の夜から数万騎の兵があちこちへ馳せ違つて、馬の足音、草摺の音が鳴り止む隙(ひま)もなかつた。
 先づ三条殿へ参つた人々は、吉良左京大夫満義(みつよし)、同上総三郎満貞(みつさだ)、石堂中務大輔頼房(よりふさ)、同左馬頭頼直(よりなほ)、大高伊予守重成(しげなり)、宍戸安芸守朝重(ともしげ)らを始めとして、其勢合せて七千余騎が轅門を固めて控へた。執事師直の邸へ駆けつけた人々は、山名伊豆守、今川五郎入道、吉良左京大夫貞経、大島讃岐守盛真、仁木左京大夫頼章、桃井修理亮義盛らを初めとして、一族は云ふまでもなく、畿内近国の兵、恩顧を受けた者共に至るまで、我も我もと馳せ寄つて瞬く間に其勢が五万余騎に達し、一条大路から、今出川(いまでがは)、転法輪(てんぱふりん)、柳が辻、出雲路(いづもぢ)河原へかけて隙間もなく張込んだ。将軍は驚かれて三条殿へ使を立てられたので、左兵衛督は馳せ集つた兵を連れて将軍の御所に参られた。
 明くれば八月十三日の午前六時、師直、子息五郎師夏は、雲霞の如き大軍を率ゐて法成寺(ほふしやうじ)河原に打出でゝ二手に分れ、一手は師直之を率ゐて、将軍の御所の東北を十重二十重に囲んで、三度鬨の声を揚げた。一手は師泰之を率ゐ、七千余騎で搦手に廻つた。四方から火をかけて焼き攻めにするといふ噂が立つたので、兵火の余煙を免れまいと、僧俗男女は東西に逃げ迷つた。
 将軍も左兵衛督も、防戦するのは却つて恥辱であると、小具足だけを著けて、静まり返つてをられた。師直、師泰の擬勢はかほど盛んであつたが、さすがに押寄せかねて、徒に時間が経過した。其中、将軍は須賀壱岐守を使者に立て、師直方へ、「心中に憤る事があるならば、退いて思ふ所を言へ。国家を奪はうとするならば、白刃に我命を止めて、黄泉(くわうせん)に汝の運を見よう。」と仰せ入れられた。師直は、「いや/\そんな大したことではございません。只だ我身に誤りのないことを申し開き、讒者の張本人を戴いて後人の戒めにしたいと思ふだけでございます。」と云つて、一同に旗を下させ、楯を一面に進めて両殿を囲み、兎角の返事を促した。将軍は弥々怒られて、「天下の嘲りに身を替へて討死しよう。」と御小袖といふ鎧を着られたので、堂上堂下の兵は兜の緒をしめて動揺した。直義は言を尽してこれを宥められたので、将軍も怒りを和らげ、上杉、畠山を遠流するに定まつた。師直は悦んで囲を解いて帰つた。

右兵衛佐直冬鎮西没落の事
  
 此後師直の権威は愈々増々重くなつて、中国の探題として鞆(とも)にをられる右兵衛佐直冬を、近国の地頭(ぢとう)御家人(ごけにん)に命じて攻めさせた。直冬朝臣は既に討たれようとしたが、危く遁れて、河尻肥後守の舟で肥後国へ落ちられた。此佐殿(すけどの)は武将の嫡男で、中国の探題として富貴栄耀を極められたが、楽しみ未だ央(なかば)ならずして忽ちに変る身の境遇、心筑紫(つくし)(一)に落潮の、鳴戸にさして行く船の、片帆は雲に遡(さかのぼ)り、茫々として煙水は目路●(「しんにゆう」+「向」)かに横はつてゐる。万里漂泊の愁へ、一葉扁舟(えふへんしう)の憂き思ひに、浪馴衣(なみなれごろも)の袖は朽ちて、涙忘るゝ許りである。曾て尊氏卿は京都の軍(いくさ)に負けて九州へ落ちられたが、間もなく帰洛の喜びを見られた。其事が手近の吉例だと、人々は表面では勇んでゐるけれども、行方も知らぬ白縫の、筑紫に赴く旅であるから、どう慰めようにも仕方がなかつた。九月十三日、名に負ふ月の光りが明らかで、旅情も一入であつたから、直冬は
  梓弓われこそあらめひきつれて
    人にさへうき月を見せつる
(歌意──我一人ならず人にまで、憂き月を見せたことである。)
と詠じられたので、袖を涙に濡らさぬ者はなかつた。

左馬頭義詮上洛の事
  
 さて三条殿は、師直、師泰の憤りが猶解けないので、天下の政務には一切関係せられず、将軍自身は謙譲して之に当られないので、関東から左馬頭義(よし)詮を急いで上京せしめられる事になつた。義詮は十月十四日に鎌倉を立つて、十月二十二日に入京した。師直以下、在京の大名は悉く勢多(せた)まで出迎へた。東国の大名も大抵は見送つて上京して来た。馬、甲冑が綺麗で、誠に人の耳目を驚かした。其善美を尽したのも道理、義詮は将軍の長男で、直義に代つて天下の権を執る為めに上京されたのである。
 
直義朝臣隠遁の事附玄慧法印末期の事
  
 直義は世の交はりを絶つて、細川輔顕の邸へ移られ、貞和五年十二月八日御歳四十二で出家せられた。盛者必衰(じやうしやひつすゐ)の理(ことわり)とはいひながら、まことに情ないことである。錦小路堀河に幽閉(いうへい)閑疎(かんそ)の御住居(すまひ)、垣に苔むし軒(のき)に松古り、雑草煙に籠つて夜月が朧げに照らす軒端に蔦の生ひ繁つた藁屋に座まして、経巻を抛つ隙(ひま)もなく読誦せられた。恰度秋が過ぎて時雨がちな冬が来ると、寂しさ増る簾の外には香炉峯の雪も羨しく、以前の身は儚ない世の夢かと思はれる。思ひもよらなかつた今の境遇である。雪踏み分けて尋ねた小(を)野の山、今更思ひ知られて、訪ふ人もがなと思ふけれども、世を憚つて訪ふ人はなかつた。独清軒(どくせいけん)玄慧(げんゑ)法印は師直の許しを得て時々参り、日本支那の物語などして慰め奉つたが、或時老病に冒されて参られないと云つて来たので、薬を一包送らうと、其包紙に一首の歌を書きつけた。法印はこれを見て泣く/\一首の小詩を作り、それを直義に送つて憂悶の心を慰めた。其後間もなく法印は入寂した。
 
上杉畠山流罪死刑の事
  
 さるほどに、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔直宗は越前国へ流されて、其所領は没収せられ、其邸は破壊せられた。彼等も此分では死罪に行はれるやうな事はよもあるまいと憑(たの)まれたのか、暫くの別れを悲しんで女房子供まで連れて下つたが、慣れぬ旅寝の床の露に、起き伏し袖を濡らし勝であつた。日頃から翫(もてあそ)んでゐた事とて、旅の愁ひを慰めよう為めに、馬鞍にかけた一面の琵琶を旅館の月に弾じると、かの王昭君が「胡角(こかく)一声(せい)霜後夢(さうごのゆめ)。漢宮万里(かんきうばんり)月前腸(げつぜんのちやう)」と悲しんだ胡国の旅が思ひ知られる。嵐の風に関(三)越えて、紅葉(四)を幣(ぬさ)とする手向山、暮れ行く秋との別れまで、身に知られたる哀れにて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂(まさご)の数よりも、思へば多き歎きである。絶えぬ歎きを志賀(しが)の浦、渚によする小波(さゞなみ)が、返るを見るのも羨ましく、七座の神を伏し拝んで、身の行末を祈つても、都に再び帰れるだらうか。此事堅田に引く網の、目にもたまらぬ我涙よ。今津海津(かいづ)を過ぎ行くと、湖水の霧に峙立つて、波間に見える小島がある。あゝこれだ、都良香(みやこよしか)が古へ、三千世界は眼前に尽きぬと詠んだ時、十二因縁は心の裡(うち)に空しといふ下句(しものく)を、弁財天(べんざいてん)がつけられたといふ竹生島はと、遠望して暫く布施(ふせ)を奉つた。焼かぬ塩津(しほつ)を過ぎ行くと、思ひ越路(こしぢ)の秋の風、音は荒血(あらち)の山越えて、浅茅(五)色づく野を行くと、末こそ知られね梓弓、敦賀(つるが)の津にも身を寄せて、袖に浪がかゝるだらうか。厳しく守る武士(もののふ)の、矢田野は何処(いづく)、帰山(かへるやま)、その名を聞いた効(かひ)もない。治承の乱に籠つたといふ、火打(ひうち)が城を見上げると、蝸牛(六)の角の上の三千世界、石火の光の中の一刹那、あはれ儚き浮世よと、今更驚く程である。無常の虎が身を責める、上野原(うへののはら)を過ぎ行くと、今は我ゆゑ騒がしい、月の鼠(七)が根を●(「くちへん」+「歯」)る、壁草(いつまでぐさ)の何時までか、露の命があるだらう。遂には消える水の泡の、流れ留る処とて、江守荘(えもりのしやう)にやう/\著いた。
 当国の守護代細川刑部大輔、八木光勝が一行を受取つて、呆れるほどの柴の庵で、暫くもどうして栖まれようと、見るだけでも物憂い住居に、警固の者を附けて入れて置かれた。気の毒なことである、都ではあれ程気高い薄檜皮(うすひはだ)の屋形の、三葉四葉(みつばよつば)に作り双(なら)べて綺麗なのに、車馬門前に群集し、賓客堂上に充満して、いと花やかに住まれたものを、今はそれに引替へて片田舎に止まつてゐるさへ悲しいのに、竹の編戸(あみど)に松の垣では、時雨も風も防がれず、袂は涙の乾く隙(ひま)もない。如何なる前世の因業でこんな辛い目に逢ふだらうかと、我ながら怨めしくて、あつても効ない命であるのを、師直は猶も不足に思ひ、潜に討手を差下して、上杉、畠山を討てと命令した。八木光勝は江守荘に行つて、「討手がかゝりましたから、夜に紛れて逃げて下さい。」と云ふと、出し抜かれるとは夢にも知り給はず、取る物も取り敢ず、上下五十三人、跣(はだし)になつて加賀の方へ逃げられた。
 時も時、霰交りに降る時雨に顔を打たせつゝ、辿る田面の上は氷つた馬さくり(八)で、蹈めば深泥(しんでい)が膝に上る。簑もなく笠もないので、膚まで濡れ徹(とほ)り、手が亀(かゞま)り足も凍(こゞ)えるのを、男は女の手を引き、親は幼き子を負つて、何処を落ち著く先きとも知らず、唯だ後から討手が懸ると、怖しい心一図に逃げて行く心中は誠に哀れである。八木光勝は予て、「上杉、畠山の人々が流人(るにん)として、逃げて行つたならば討ち止めよ。」と近辺に触れて置いたので、江守、浅生水(あさふづ)、八代荘(やしろのしやう)、安居(あご)、波羅密(はらみ)の辺りにゐた無頼漢(あふれもの)は、大鼓を鳴らし鐘を撞いて、落人がある、打止めよと騒動した。上杉、畠山はこれに驚いて、あわてゝ足羽渡(あすはのわたし)へ行くと、川の橋が引きはづしてあり、後へ帰つて江守へ行くと、浅生水の橋も亦はづしてある。後には敵が充満してゐる。附随つてゐた若党十三人は、主人に自害を勧める為め一度に腹を掻き切つた。畠山大蔵小輔は続いて腹掻き切り、刀を抜いて上杉伊豆守の前に投げ遣り、「これで自害されよ。」と云ひ終るか終らない中に、俯伏しに倒れた。伊豆守、其刀を手に取りながら、女房をつく/″\と見て、袖を顔に押しあてゝ唯ださめ/″\と泣いてゐる間に時を移して、八木光勝の仲間(ちうげん)共に生捕られ、尋いで刺し殺された。其女房は日頃の馴染みいつ忘れるとも思はれず、泣き悲しんで水に身を沈めようとするのを僧に止められ、往生院で髪を剃り落して、夫の亡き跡を弔(とぶら)つたとの事である。
 
大嘗会の事
  
 かねて大礼を年内に行ふといふ評定があり、三月三日を其日と定められたが、障る事があつて其日は行はれなかつた。しかし、さう/\延ばして置くわけに行かないので、愈々遂行する事に決定せられた。一体大礼は大極殿で行はれるものであつたが、大内裏炎上の後は太政官庁(だじやうくわんちやう)で行はれることになつてゐた。内弁(ないべん)は洞院の太政大臣公賢(きんかた)公、外弁(げべん)は三条坊門源大納言家信(いへのぶ)、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆、左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真(きんざね)である。天子諸卿は冠服を著し、諸衛諸陣が大儀に参した。末世とはいひながら、このやうな大儀を行はせられるのは実に有難いことだ。此日は貞(じやう)和五年十二月二十六日。天子即位せられて後、数度の大礼が無事に行はれて、今年は目出度く暮れてしまつた。


(一)心筑紫(つくし)は筑紫に「尽し」を懸けてゐる。
(二)夢かと云々は、在原業平、惟喬のみこを小野に訪れて、「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君を見むとは」(古今集)。
(三)逢坂関。
(四)紅葉云々は「此のたびはぬさも取敢へず手向山紅葉の錦神のまにまに」(古今集)。(五)浅茅云々は「八田(やた)の野(ぬ)の浅茅色づく有乳山(あらちやま)峯の沫雪寒く零るらし」(万葉集)。
(六)蝸牛云々は「蝸牛角上争何事。石火光中寄此身。」(白楽天)から来てゐる。(七)月の鼠云々は、象に追はれて樹根に縋り、空井に下ると、其樹根を黒白二匹の鼠が●(「くちへん」+「歯」)つて居た。仏説譬喩経に出づ。
(八)馬さくり、馬の蹈み荒した泥路。


巻 第二十八

義詮朝臣御政務の事

 貞和六年二月二十七日、改元せられて観応(くわんおう)といふ。上杉、畠山は配所で死罪に行はれ、直義卿は家出して僧形となられたので、将軍の嫡男宰相中将義詮が天下の政治を執り行はれることになつたが、万事は師直、師泰、兄弟の計画であつたから、高家の人々の権勢はちやうど魯の哀公(あいこう)の下に季桓子(きくわんし)が威を振ひ、唐の玄宗の下に揚国忠が驕りを究めたのと違はなかつた。

  太宰少弐直冬を婿とし奉る事
  
 右兵衛佐直冬は、去年の秋備後を落ちて、河尻肥後守幸俊(なりとし)の許に居られたが、それを討てとの将軍の教書が下つたけれど、多分師直の沙汰であらうと、誰れも討たうとする者がなかつた。のみならず、太宰少弐頼尚は何と思つてか此兵衛佐殿を婿にとつて、自分の館に置いたから、九国の外も其催促に随うて命を軽んずる人が多かつた。これが為め、宮方、将軍方、兵衛佐方と、国国は三つに分れたので、世の中の騒乱は一層激しくなり、恰も呉魏蜀(ごぎしよく)の三国が鼎立した戦国時代の初期の如くであつた。
 
三角入道謀叛の事
  
 石見国(いはみのくに)の住人三角入道(みすみのにふだう)は、直冬の命に随つて国中を討ち随へたので、越後守師泰は退治の為めに、六月二十日、京都を立つて石見国に向ひ、七月二十七日の暮方に江河(がうのかは)に著いた。彼方を見ると、佐和善四郎の籠つてゐる城と見えて、青杉、丸屋、鼓崎(つづみがさき)とて、間(あひだ)四五町を隔てた城が三つ、三壺のやうに峙つて麓に大河が流れてゐる。
 城から下りて来た敵三百余騎は、河の対岸に控へてこゝを渡れと招いた。寄手二万余騎は皆河端に臨んで、何処を渡らうかと頻りに物色して見ると、深山(みやま)の雲を分けて流れ出た河であるから、松柏影を水に●(▲)して青山も動く如く、岩石流水を徹して白雪の翻るに似て、こゝこそ渡られると思ふところがない。其中日が暮れかゝつたので、夜になつたら水練の達者を入れて、浅瀬を探らせようと馬を控へてゐると、森小太郎、高橋九郎左衛門は、「敵は渡る身方を防がうとして対岸に控へてゐるのだ。河の案内者は、我に勝る者がない。続け人々。」と唯だ二騎、真先に進んで河を渡る。二人の郎党三百騎、三吉の一族二百騎、一度に颯と馬を入れて対岸に駈け上つた。善四郎の兵は暫く防ぎ戦つたが、後(うしろ)の城に引退いた。寄手が勝に乗じて城に駈け入らうとすると、三つの城から城戸(きど)を開いて同時に打つて出で、前後左右から中に取り籠めて散々に射る。森、高橋、三吉の兵が、重傷を負うて進み得ずにゐるのを見て、越後守が「三吉討たすな、さあ続け。」と命令したので、新手の千余騎が抜き連れて懸る。攻め立てられて敵は城中に退く。寄手は逆茂木(さかもぎ)の際(きは)まで攻め寄せる。折角敵を城中へ追ひ籠めはしたものゝ、城の構へが厳重で、岸が高く切り立つてゐるから、如何にしても打ち入る方法がなく、徒に垣を隔てゝ矢軍(やいくさ)に日を送つた。三吉の兵は夜討をしようと評定して、剛の者足立五郎左衛門以下二十七人を選んだ。八月二十五日、夜のまだ更けぬ先に、城の後の深山から忍び寄つて、薄、刈萱、篠(しの)竹などを切つて鎧のさね頭(がしら)(一)、兜の鉢附の板に確りと差し、竹、草に身を隠して、鼓崎(つづみがざき)の崖の下、巌の陰に腹這つた。枯草を集めて寝てゐた猪、朽木の穴にゐた荒熊が人影に驚いて、城前の篠原を二三十連れ立つて逃げた。城中の兵は夜討と思つて、抛松明(なげたいまつ)を塀の外へ投出し/\したが、「夜討ではない、後の山から熊が逃げるのだ。」と一人が呼ばはつたので、三百騎の兵は熊を追うて麓へ下り、城中には五十余人しか残つてゐなかつた。其中に夜が明けて城戸は開かれた。「進むは今だ、躊躇すべきにあらず。」と二十七人が打入つたので、佐和善四郎は役所に火を懸けて討死し、残つた四十余人は一防ぎもせずに青杉城へ逃げて行つた。熊狩りに出た兵は後へ帰ることもならず、其儘散り散りに逃げ失せた。其後越後守が国中(なか)へ打つて出ると、石見国中三十二箇所の城は、攻められては落ち得まいと、聞(きゝ)落ちに落ちて、唯だ三角入道の籠つた三隅(みすみ)だけが残つた。
 
直冬朝臣蜂起の事附将軍御進発の事
  
 九月二十九日、「河尻肥後守の館にをられる直冬朝臣が蜂起せられた。急ぎ軍勢を差し下されよ。」と肥後国から注進があつた。将軍は注進に驚いて、「誰れを討手に下さうか。」と武蔵守に問はれると、師直は「上様が自らお下りになつて、御退治なさらねば駄目です。どうぞ夜を日に継いで御下りを願ひます。」と無理に勧めたから、都には義詮を残して、十月十三日、征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿は、執事高武蔵守師直を召し連れ、八千余騎の兵を以て先づ中国へと急がれた。

錦小路殿(にしきのこうぢどの)南方に落ち給ふ事
  
 将軍が明日西国へ立たれるといふ前夜、左兵衛督入道慧源(ゑげん)は、石堂右馬助頼房だけを連れて、何処とも知らず落ちられた。様子を知らない慧源家の人々、取別け女性などは、「あゝ浅ましい。何といふ世の中だらう。御馬は厩(うまや)に繋がれてゐるし、御供に行つた人とてもない。徒歩では何処へ逃げさせられよう術もない。これはきつと武蔵守の指図で、今夜潜に殺し奉るのだ。」と大声で泣き悲しんだ。仁木、細川の人々も執事の邸に馳せ集まつて、「錦小路殿が落ちられたからには後の禍が遠からず来る事と思はれます。暫く都に御逗留になつては。」と云ふと、師直、「何の、仰山な事がいるものか。師直が此世にゐる中は、誰れも直義に身方する者はない。首を獄門の木に曝し、骸(かばね)を匹夫の鏃(やじり)に止めるのは必定三日を出まい。」と十月十三日の早朝に都を立つて、将軍を先頭として行く/\兵を集め、十一月十九日に備前の福岡に著いた。こゝで四国、中国の勢を待つたけれど、海上は波荒く、山陰道は雪降り積つて、馳せ参ずる兵が多くなかつた。此分では年が明けてから筑紫へ向ふ外はない。将軍は福岡で徒に日を送つてゐられた。

持明院殿より院宣をなさるる事
  
 左兵衛督入道慧源(直義)は、師直が四国へ下る前に、潜に自分を殺さうとする陰謀があると聞いて、死を遁れる為めに先づ大和国に逃げ、そこの越智伊賀守を頼まれたので、近辺の郷民共は協力して路々を切り塞ぎ、四方に関を据ゑて弐心(ふたごころ)のない事を示した。一日後に石堂頼房以下、心を寄せる者が少々馳せ参つたから、最早誰にも知られて、区々の噂が都鄙(とひ)に広まつた。左兵衛督は何をいつても院宣を蒙らなければ、本望を遂げることが出来ないと、先づ京都へ人を上らせて、院宣を下されるやうにお伺ひすると、何の支障もなく宣下せられたのみならず、望まないのに鎮守府将軍にさへ補せられた。

慧源禅巷南方合体の事附漢楚合戦の事
  
 左兵衛督入道は、仁木、細川、高家の人々に背かれて、うか/\と都を出はしたが、大和、河内、和泉、紀伊の諸国は吉野の王命に随つてゐるから、今更武家に附き従はうとは思はれない。どうしようかと色々苦心してゐると、越智伊賀守が、「こんな状態では全く困ります。今は唯だ吉野殿へ参られて、先非を改め、後の栄達を謀られる外に道がないと存じます。」と云つたので、誠に尤もの次第だと、入道は使を立てゝ奏状を捧げ、降参の由を申し入れられた。諸卿は参内して評定を開かれたが、先づ洞院(とうゐん)左大臣実世(さねよ)公が、
「直義入道の申す事は甚だしき偽である。代々の家来、師直、師泰の為めに都を追はれて、身の置き処が無いところから、天子の威光を借りて自らの宿望を達しようとするものである。二十余年間、上御一人を初め奉り、百司千官の者が、悉く鳳闕の雲を望みながら、空しく飛鳥(ひてう)の翅を殺(そ)がれた状態にあるのは、直義入道の悪逆の為めではないか。然るに、今、幸ひにも軍門に降らうといふ申し出で、これは全く天の与へた好機会である。好機会に乗じて彼れを誅しなければ、後に臍(ほぞ)を噛む悔ひがあらう。唯だ速かに討手を遺して、首を宮門の前に曝されるのが良いと存じます。」
と真先に申された。次に二条関白左大臣殿は暫く思案された末、
「張良の三略の詞に、恵を施し恩を施せば、士力日々に新にして、戦ふ時は風の起るやうだとある。これは自分の罪を謝する者は忠貞を懈(おこた)らず、誠を以て事を竭し、決して弐心(ふたごころ)を懐かないからである。若し直義入道が身方になるならば、君の天下を保たせ給ふこと、これから始まるであらう。唯だ元弘の旧功を捨てられず、官職を復して召使はれる事が何よりも一等よいかと存じます。」
と申された。諫臣両人の異議は互ひに得失があつて、いづれを良、いづれを否と容易に判断が出来なかつた。君も色々御思案になり、列座の諸卿も口を噤まれた処へ、北島准后禅閤(じゆごうぜんかふ)(親房)が喩を引いて云はれるには、
「昔秦の代が傾かうとした時、沛公は沛郡から起り、項羽は楚国から起つた。此二人は、先づ咸陽に入つて秦を滅ぼした者が天下の王になると約束して、東西に分れて攻上つた。そして項羽が函谷関(かんこくくわん)に達した時、沛公は既に咸陽(かんやう)にあつた。沛公に天下に王たらんとする心のある事を知つて、項羽が沛公を撃たうとすると、項羽の季父項伯(かうはく)は予て知己の張艮に其旨を告げて、早く逃げて命を助かれといひやつたので、張良は早速之を沛公に耳打した。沛公は驚いて、項伯を呼んで酒を設け、自分には王たらんとする心のない事を項羽に知らせる事を懇願した。沛公は間もなく項羽に見えて、自分に野心のない事を理を尽して説いたので、項羽の心は漸く釈けた。其後二人は相倉ふことなく、遂に相戦ふに至つたが、沛公の臣陳平(ちんぺい)の謀に乗せられて、項羽は其臣范増(はんざう)を殺した為めに遂に滅びた。沛公が項羽を滅して天下を取るに至つたのは、全く陳平張良の謀の為めで、偽つて項羽と和睦して好機の熟するのを待つたからである。其智謀は今日にも当てはまる。唯だ直義入道の云ふ通りに、先づ同盟なさるならば、きつと君を御位に即け奉つて、天下の政治を君親らなされる日が来るであらう。聖徳普く行き渡つて、士卒悉く帰服するならば、其威忽ち振つて、逆臣らを亡ぼされろに何の仔細もございません。」
と言巧みに申されたので、諸卿も同意せられ、直ぐ勅免の宣旨を下された。


(一)鎧のさね云々。札(さね)は革又は鉄にて造り、札を縅して鎧を造る。
(二)兜の鉢附の板とは、兜の鉢につけた第一の錏の板をいふ。


巻第二十九

宮方京攻めの事

 策が決したので、吉野の朝廷は三条左兵衛督入道慧源(ゑげん)の降参を許された。慧源は大和の越智に留まつてゐられたので、和田、楠を初めとして、大和、河内、和泉、紀伊の宮方は、我も我もと馳せ集まつた。宮方のみならず、武家方、たとへば石河川原の向城にゐた畠山国清の如きさへ、千余騎を率ゐて三条殿に馳せ参つた。風聞が巷に満ちて、宮方の軍勢が已に京都に押寄せるとさへ伝へられたので、京都警護の宰相中将義詮(よしのり)朝臣は、頻りに早馬を立てゝ、備前の福岡に居られる将軍に急を告げられた。将軍は驚いて、遽しく福岡を立つて上京の途につかれた。入道慧源は其事を聞いて、京都に将軍の軍勢が到着しない前に義詮を攻め落さうと、観応二年正月七日(正平六年)、七十余騎で八幡山に陣を取つた。桃井右馬権頭直常は其頃越中の守護であつたが、七千余騎で夜を日に継いで攻め上り、比叡山の東、坂本に到着した。義詮は京都にあつたが、容易ならぬ事として、正月の八日から到著の兵を日々記帳させた。初日は三万騎と註されたが、翌日は一万騎に減つた。翌々日は二千騎になり、十二日の暮には其勢、五百騎足らずと註(しる)された。仁木、細川以下の重だつた人々は、「此小勢ではとても対抗する事が出来ない、京都を開放して将軍を待たう。」と相率ゐて京都を落ちたので、桃井は入れ替りに京都を占領した。

将軍上洛の事附阿保、秋山河原軍(かはらいくさ)の事
  
 義詮は心細くも西国落と決めて、都を出て桂川を渡ると、将軍と師直とが上京するのに会つた。此処で二万余騎を三手に分けて上洛の方策を定めた。桃井は東山を後に、賀茂河を前にして陣を張つた。両軍が未だ戦はずして、互ひに勇気を励ましてゐると、桃井の軍中から身長七尺許り、鬚黒く、血眼(ちまなこ)の男が、緋縅の鎧に五枚兜(一)の緒を締め、鍬形の間に紅(くれなゐ)の扇の月日を出したのを残らず開いて夕陽に耀かし、樫の木の棒の、一丈余りもありさうなのを八角に削つて、両方の端に金具を入れ、それを右の脇に抱へて、白瓦毛の馬の肥えて逞しいのに、白沫かませて、唯だ一騎河原に進み出て、大音声に「戦場に臨む人に、討死しようと思はぬ者はない。しかし今日の合戦に、光政(みつまさ)は特に死を軽んじて、日頃の自慢を尤もと人に云はれようと存ずる。其名が人に知られる自分でもないから、余りに仰々しいやうだが名字を申す。これは清和源氏の後胤で、秋山新蔵人(しんくらんど)光政と申す者である。王氏(わうし)を出て遠からずとは云へ、已に武略の家に生れて、代々唯だ弓矢を把つて高名にならうと志して来たから、幼少の昔より年長の今に至るまで、兵法を弄び嗜んで休む隙(ひま)がない。吾と思はん人々は、名乗つてこれへ出られよ。華々しい打物をして、見物の衆の睡りを醒さう。」と呼ばゝつて、傍(あたり)を払ふばかりの勢で、西頭(にしがしら)に馬を控へた。
 武蔵守方の兵は互に目を見合はせて勝負しようとする者もなかつたが、阿保(あぶ)肥前守忠実(ただざね)といふ兵、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に厚総(あつぶさ)懸けて、唐綾縅(からあやをどし)の鎧龍頭(たつがしら)の兜の緒を締め、四尺六寸の貝鎬(かひしのぎ)の太刀を抜いて鞘を河中へ投げ入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘(しりざや)つけた黄金作りの小太刀を帯び副へて、唯だ一騎大勢の中から駈け出で、「事珍らしくも承る秋山殿の御詞(ことば)、これは執事の御内で、、阿保肥前守忠実と申す者である。幼い昔から東国に住んで、明暮(あけくれ)野山の獣を追ひ、江河(かうが)の魚(さかな)を捕つて、生業としたので、張良の書も、呉(ご)氏、孫(そん)氏が伝へた物も曾て名をさへ聞いた事がない。しかし変化は時に応じ、敵の為めに元気を起すは、勇士の自ら心得る道であるから、元弘、建武以後三百余箇度の合戦に敵を退け身方を助け、強きを破り竪きを砕く事、其数を知らず。白引(すびき)(三)の精兵(せいひやう)、畠水練(はたけすゐれん)の言(ことば)に恐れる人はあるまい。忠実の手柄を試みた後にこそ広言を吐き給へ。)と高声に呼ばゝつて悠々と馬を歩ませた。両陣の兵あれを見よと、戦を止めて拳を握(にぎ)る。数万の見物人は戦場にも関らず走り寄つて、息を凝らしてぢつと見入る。相近づくと阿保と秋山とはにつこり打笑ひ、左に駆け違ひ、右に開き合つて、秋山がはたと打つと、阿保はうけ太刀になつて受け流す。阿保が開いてしとゝ切ると、秋山は棒で打ち返す。三度逢うて三度別れたと見ると、秋山は棒を五尺ばかり切り折られて手元が僅かに残り、阿保は太刀を鐔本(つばもと)から打折られて、帯添(はきぞへ)の小太刀だけが憑みである。武蔵守之を見て、「忠実は力量では叶ふまい、討たすな。秋山を射落せ。」と下知したので、精兵七八人が河原に立並んで雨の降るやうに散々に射る。秋山は木の棒で真中を指して当る矢二十筋まで打落す。忠実は情ある者であるから、今は秋山を討たうともせず、其上身方からの兵を制して、矢面に立ち塞つた。こんな名人をむざ/\と射殺すのは惜しいと、かうした態度に出たのは優にやさしい事である。両人が打退いてから、両軍は戦を交へた。桃井軍は三方から敵に囲まれて、粟田口を東へ山科越(やましなごゑ)に退いたが、其夜は関山に陣取つて大篝を焼いてゐた。

将軍親子御退出の事附井原石窟(いはや)の事

 将軍は桃井との合戦に打勝つたので、八幡(やはた)の敵も馳せ参るだらうと思つてゐた。然るに予期に反して、京都の兵が次々に逃げて八幡の陣に加はつたので、正月十六日の早朝丹波路を西へ逃げられた。名将の一処に集まるは計略の無きに似てゐると、子息宰相中将は二千騎を従へて丹波の井原石龕(ゐはらのいはや)に留まられた。此所は岩高く、峯聳え、四方が嶮岨で、城郭の便も心安いのに、岩龕寺の衆徒が引続き勝軍の祈願をしてくれた。
 
越後守石見より引返す事
  
 三角城を攻める為め、石見に滞陣してゐた越後守師泰は、師直から「摂津、播磨の間に合戦が起り、事態が頗る急である。急ぎ馳せ上れ。」といふ通知を受けて石見国から馳せ上つた。上杉弾正少弼は、将軍が播磨の書写山(しよしやざん)坂本へ逃げ、越後守が石見国を退いたと聞いて、八幡から舟で備後の鞆へ上つたので、中国の兵共は皆之に靡いた。予てから備前に逗まつて、待ち受けてゐた武蔵五郎と会つて、越後守は一所に上洛したと聞いて、上杉は其後を追つたが、越後守の本隊から後れて、龍山(たつやま)の手前にあつた陶山(すやま)の軍を目懸けて、上杉の先駆五百騎が鬨の声を上げた。上杉は陶山と共にあつた河津、高橋の五百騎に懸られて引退いたが、我身に重傷を受けたばかりでなく、討たれた兵は三百余騎に上り、創を受ける者は無数であつた。かうして越後守は備中の合戦に勝つたので、更に美作国の拝和角田(はがつのだ)の軍と戦ひ、それをも打ち破つて、観応二年二月一日に、書写坂本の将軍の陣へ馳せ参じた。
 
光明寺合戦の事附師直怪異の事
  
 八幡(やはた)から石堂右馬権頭を大将として、書写坂本へ五千余騎の兵を向けたが、兵力が足らないので播磨の光明寺に陣取つて、八幡へ援兵の派遣を求めた。之を聞いて今こそ好機会と、将軍は一万余騎を率ゐて光明寺の四方を取巻いた。石堂は城を堅めて光明寺に籠つたので、将軍は引尾(ひきを)に陣を取り、師直は泣尾(なきを)に陣を取つた。城中には命知らずの無頼漢(あふれもの)がゐて、こゝを先途と戦つたから、いつも城方の勝たぬ事はない。赤松律師則祐(そくいう)は七百騎で泣尾へ向つたが、遥かに城を望んで、「敵は少数だ、一攻め攻めて見よ。」と命令したので、浦上七郎兵衛以下嶮しい泣尾の坂を攻め上つて、垣楯(かいだて)の際まで著いた。此時他の者は、どうせ今日明日の中に自づと落ちる城を攻めたとて何になると、徒らに見物をしてゐたので、寄手は一人残らず射伏せられて元の陣へ退いた。合戦には敵を退けたが、何しろ寄手は大軍である、どうしたらよからうかと、石堂、上杉は心配してゐたが、伊勢の愛曾(えそ)が召使つてゐた童が俄に狂つて、「吾に伊勢大神宮乗り移られて、此城守護のために三本杉の上に在らせられる。師直、師泰らがこゝ七日の中に滅びるのを知らないか。あゝ熱い。」と云つて閼伽井の中へ飛び込むと、水が湯のやうに沸き返つた。赤松は此事を伝へ聞いて、此戦は捗々しくないと思つてゐたが、美作(みまさか)に敵が起つたと聞き、光明寺を捨てゝ白旗城に帰つた。寄手は人数が次第に減つてゆくのに気を腐らし、陣中で休んでゐると、無文の白旗一旒が風に随つて飛んで来た。之は八幡大菩薩が擁護の手を加へ給ふ奇瑞である、此旗の落ちた方の軍が勝つのだと、城兵も寄手も共に祈念を凝らしてゐると、それは師直の本陣に落ちた。師直は兜を脱いで左の袖に受け留め、三度礼して委しく見ると、旗ではなくて反古二三十枚を続ぎ合はせ、裏に、「吉野山峯のあらしのはげしきに高き梢の花ぞちりゆく」「限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら霜がれにけり」といふ二首の歌が書いてあつた。師直は傍の人に事の吉凶を問ふと、心中では高家の人々の亡びる兆だと不吉がつたが、口では「めでたい歌でございませう。」と挨拶した。
 
小清水合戦の事附瑞夢の事
  
 其日の暮方に、摂津国の守護赤松信濃守範資が使を立てゝ、「八幡から石堂、畠山、上杉を大将として、七千騎の後援軍が下つて来る。城をさし置いて討手の下向を防がれよ。」と申したが、其後も次々と早馬を打たせて、一日に三度までも使が来た。そこで、将軍も、執事兄弟も一勢に兵庫の湊川へ馳せ向つた。三千騎で播磨の東条にゐた畠山阿波守国清は、これを聞いて湯山(ゆやま)を南へ打越えて小山に陣を取つた。城中の石堂右馬頭、上杉左馬助も光明寺を捨てゝ畠山の軍に加はつた。二月十七日の夜、将軍の勢二万余騎は、御影浜(みかげのはま)に押寄せて、軍を大手(て)搦手(からめて)の二手に分けた。薬師寺次郎左衛門公義(きみよし)は、今度の戦ひは大勢を憑んで味方危しと思つたので、他の勢と間違はれないやうに、絹三幅を長さ五尺に縫ひ合はせて、両方に赤い手を著けた旗を差した。
 石堂右馬頭の陣は、畠山の陣と十余町隔つてゐたが、「打出浜に見える旗三旒は、敵のものか身方のものか見て来い。」と云はれて原三郎左衛門義実が只だ一騎馳せ向つて見ると、三幅(みはば)の小旗に赤い手が著けてある。さては敵だと途中まで引返したが、扇を挙げて身方をさし招き、「浜の南に控へた勢は敵ですぞ。大手の軍は身方の勝ちらしいから、早く懸られよ。」と声を上げて呼んだので、気早な石堂、上杉の兵は、馬の轡を並べて喚いて懸つた。薬師寺の後に控へた執事兄弟の多勢は、まだ矢一つ射懸けられないのに、早くも捨鞭(すてむち)を打つて逃げた。薬師寺は身方の二万余騎が崩れて退いたけれども少しも騒がず、二百五十騎で、石堂、上杉の七百騎を山際まで追ひ捲くつて、身方を待つたが、控へた兵とては一騎もないので、又波打際に控へてゐると、石堂、畠山の兵が「手を著けた旗は薬師寺と見える、一人も残すな。」と追つ懸けた。薬師寺は、打出浜から御影浜まで十六度引返して戦つたが、或は討たれ、或は駆け散らされて、残りが僅か十六騎になつた。今は敵も疲れて追はないので、薬師寺は鎧に立つた矢を少し折つて湊川へ馳せ帰ると、敵の旗さへ見ずに引返した二万騎の兵共は、意気沮喪して只だ逃げる事ばかり考へて、泥に酔つた魚が小水(こみづ)に息づいてゐるのと異らない。これ程に打負くるは只事でないと、色々の経験を語り合ふと、案の定、其前夜武蔵五郎と、河津左衛門とが同じ夢を見た。それは吉野の金剛蔵王権現、小守勝手(かつて)明神、聖徳太子が錦の御旗を靡かせて雲の上に現はれ、高家の一族を空から撃たれる夢であつた。

松岡城周章の事

 小清水の軍(いくさ)に負けて引退く兵二万余騎が、四方四町に足らぬ松岡城へ我も我もと入りこんだので、城中は身動きも出来ない始末だ。重立つた人の外は内へ入つてはならぬと、郎従若党を皆外へ追ひ出して城戸(きど)を閉めたので、これにかこつけて、「憑み甲斐のない執事の振舞。誰れが彼れの為めに討死をしよう。」と面々に呟やいて、打連れ立つて落ちて行く。夜は已に更けて、さしもの城中が静まり返つた。将軍は執事兄弟を召し出して、「身方が唯だ一戦に打ち負けて逃げて行くとは、何といふ腑甲斐なさだ、全く不思議だ。しかし饗庭命鶴(あへばみやうづる)、高橋、海老名(えびな)はよもや落ちてはゐまい。」と問はれると、「いや、それも早や落ちました。」といふ。「では長井治部少輔、佐竹加賀は落ちたか。」「いやそれも皆落ちました。」「では残る軍はどれ程あるか。」「今は身方の軍勢、師直の郎従、赤松の勢を合せても、彼是(かれこれ)五百余騎に過ぎますまい。」と申すと、将軍、「さては世の中も今夜が限りだ。各々其用意をせよ。」とて鎧を脱いで押除け、小具足だけになられた。これを見て、高武蔵守師直、師泰、以下重だつた侍二十三人は、十二間(ま)の客殿に二行に座を列ねて、各々諸天に焼香し、鎧直垂の上(かみ)を取つて拗(な)げ除け、袴許りに掛羅(くわら)(四)懸けて、将軍が御自害になるなら御供申さうと、腰の刀に手をかけて静まり返つて居た。

師直、師泰出家の事附薬師寺遁世の事

 其時、ちやうど、東の城戸(きど)を乱暴に敲く人がある。饗庭命鶴(あへばみやうづる)丸らしい声で、「もう御合体になりましたから、合戦はございません。粗忽に御自害なさいますな。」と呼ばゝつた。急いで城戸を開くと、命鶴は将軍の御前に参つて、「昨夜畠山阿波将監の陣に向つて、御合体の由を申しますと、錦小路殿(直義)も常に其事を仰せられてゐる。執事兄弟の不義だとて、たゞ思ひ知らせようとするまでゞ、執念深く誅伐しようといふ心はない。親にも超えて睦じいのは兄弟の愛だ。子にも劣らずなつかしいのは主従の多年の好(よしみ)だ。縦令合戦はするとも、情ない事をするなと、八幡から賜はつた御文数通を取り出して見せられました。」と申したので、其夜の自害は思ひ留まられた。
 さて三条殿は御兄弟であるから、将軍を憎いとは思召されないが、師直の行ひを憎いと思召されない事はあるまい。頭を延べて降参するならば出家をして参るか、さもなくば将軍を赤松の城へ送り進らせて、師直を四国へ落さうかと相談したが、薬師寺公義(きんよし)は、「たとへ出家しても、三条殿の心が安まり、上杉、畠山一族の憤りが解けるとは思はれません。又将軍が赤松の城へ御入りになる事も、師直が四国へ落ちる事も、決して結構だとは思はれません。たゞ身方の勢力が減じない前に、一戦せられる外道がないと存じます。」といつたけれども、降参出家といふ事に決つたので、公義は涙をはら/\と流して、「運の尽きた人の有様ほど情ないものはない。拙者は憂世を捨てゝ、此人々の後生を弔(とぶら)はう。」と俄に決心して、
  とればうし取らねば人の数ならず
    捨つべきものは弓矢なりけり
(歌意──取れば憂く、取らねば人の数ではない。捨つべきものは弓矢だ。)
と詠んで、自ら髻(もとどり)を剪り、墨染めの衣に身を替へて高野山へ上つた。

師冬自害の事附諏訪五郎が事

 高播磨守師冬は師直の猶子であるが、将軍の三男左馬頭の執事として鎌倉へ下られ、上杉民部大輔(みんぶのたいふ)と共に東国の管領(くわんれい)として、其勢ひは関東八箇国に振つてゐた。師直は兵庫から船で鎌倉に下つて、師冬と一所にならうと思ひ、秘かに兄弟で密議を凝らしてゐると、二十五日の夜中頃に、甲斐国から時宗(じしう)の者が一人やつて来て、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子左衛門歳人(さゑもんのくらんど)と共に謀叛を起して、左馬頭殿を奪ひ奉つたので、師冬は甲斐国へ逃げて州沢城(すざはのしろ)に籠られました。初め敵の祝部(はふり)に属して城を攻めつゝあつた執事の烏帽子子(五)諏訪五郎は、戦ひ半ばに父子の契約を思ひ出し、正義の観念から祝部に別を告げ、城中に入つて共に防ぎ戦つたが、間もなく、城が破られたので、師冬と五郎とは手に手を取つて割腹されました。」と泣く泣く物語つた。憑みに思つてゐた師冬さへ討たれた今日、何処へ逃げて誰れを憑まうといふ的はないと、一同の顔色には心細さが漂つた。命は能く/\棄て難いものと見える。執事兄弟は、命が助かりさへすればと、発心(ほつしん)もしない出家をして、師直入道道常(だうじやう)、師泰入道道勝(だうしよう)といひ、裳(も)なし衣に提鞘(さげざや)(六)さげて降人になつたので、見る人毎に爪弾(つまはじ)きして、出家の功徳(くどく)は大きいから後世(ごせ)の罪は免れるかも知れないが、今生(こんじやう)の命は到底助かるまいと、嘲らぬ人はなかつた。

師直以下誅せらるる事附仁義血気勇者の事
  
 同月二十六日に、将軍御兄弟は合体して上洛せられたので、執事兄弟も、遁世者に紛れて、無常の岐(ちまた)に策(むち)をうつた。折から春雨しめやかに降つて、数万の敵が此処彼処に控へた中を通り過ぎるのであるから、あれだと人に気づかれないやう、蓮の葉笠を打ち傾けて、頻りに顔を袖で隠すけれども、却つて隠れぬ天(あめ)が下、身の狭(せば)いのは誠に哀れである。将軍に離れ奉つては、途中でどんな事が起るかも知れぬと、危ぶみ/\馬を早めて進むのを、上杉、畠山の兵共は路の両側に待つてゐて、それ執事だと、挨拶もせず、将軍との間に馬を打ち入れ打ち入れしたので、心ならずも押し隔てられて、武庫川の辺(ほとり)を過ぎる時は、将軍と執事との間は、河を隔て山を阻てゝ、五十町許りになつてゐた。何といふ哀れさだ。盛衰忽ち地を替へた事。修羅(しゆら)が帝釈(たいしやく)の軍(いくさ)に負けて藕花(ぐうげ)(七)の穴に身を匿し、天人が五衰(八)の日に逢つて歓喜(くわんぎ)の苑(九)にさまよつた時も、かうではなかつたかと思ひ知られる。此人が天下の執事であつた頃は、如何なる大名高家も其笑顔を見て、千鐘の禄(一〇)、万戸の侯を得た如くに悦び、少しでも不快な顔色を見ては薪を負うて焼原を過ぎ、雷(らい)を戴いて大江(かう)を渡るやうに恐れた。まして将軍と打並んで馬を進められる間へ、誰れが割り込んで隔てようとする人があらう。然るに名も分らぬ田舎武士、云ひ甲斐もない若党どもに押し隔てられ/\て、馬ざくりの水を蹴懸けられて衣(ころも)が深泥(しんでい)に汚れたので、つく/″\身を知る雨が止むときなく、涙が袖を濡らし勝ちであつた。執事兄弟が武庫川を打渡つて、小堤の上を過ぎた時、三浦八郎左衛門の中間(ちうげん)二人が走り寄つて、「この遁世者の顔を隠すは何者だ。其笠を脱げ。」と、執事の著られた蓮の葉笠を引切つて捨てると、頬冠りがはづれて片顔が少し見えたので、「あゝ敵だ。願つてもない仕合せだ。」と三浦は悦んで、長刀の柄をとり延べ、胴中を切つて落さうと、右の肩先から左の小脇まで切つたので、鋒(きつさき)下りに切り附けられて、あつといふ処を重ねて二打ち打てば、打たれて執事は馬からどうと落ちた。三浦は馬から飛び下り首を掻き落し、それを長刀の鋒に貫いて差し上げた。越後入道は半町ばかり隔つた処からそれを見て、馬を駆け退けようとしたところを吉江小四郎に討たれ、高豊前五郎以下十四人もそれぞれ討たれた。執事の子息武蔵五郎は生虜(いけど)られて小手高手に縛められ、其日の暮方、「命が惜しいなら僧にでもなられよ。」と云はれたが、最早執事が討たれたと聞いて、今更、誰れの為めに命を惜まう。死出の山三途の大河をも父と一所に越えようと思ふ。急いで首を取られよ。」と敷皮の上に居直つたので、斬手は涙を流して暫らくの間は目も挙げ得なかつたが、遂に西に向ひ十遍ばかり念仏を唱へて首を打落した。一体勇者には仁義の勇と血気の勇との二つがある。仁者は必ず勇あれど、勇者は必ずしも仁あらずと云はれてゐるが、師直の兵は皆血気の勇であつた。


(一)五枚兜とは鉢付の板が五枚ある兜。
(二)白瓦毛は黄に白みの勝つた毛色。
(三)白引の精兵とは口先で強弓を誇る兵。
(四)掛羅は禅宗の袈裟。
(五)父子の契りをして、元服の烏帽子を冠せる者、冠せられる者を烏帽子親、烏帽子子といふ。
(六)提鞘は僧形の者の佩く物。柄も鞘も木製。
(七)藕花の穴とは蓮の茎の穴。
(八)天人の五衰とは天人の臨終に現れる五つの衰。
(九)歓喜苑は、天人が其中に入ると歓喜すると言ふ園。
(一〇)千鐘の禄、一鐘は六斗四升。


巻 第三十

将軍兄弟和睦の事附天狗勢汰(せいぞろへ)の事
  
 志合ふ時は胡越(こえつ)も地を隔てず、ましてや同じ父母の懐抱(くわいはう)を出て浮沈(ふちん)を共にし、一日も傍を離れないのは兄弟である。一旦分離した将軍と高倉殿(直義)とは再び合体せられたので、義詮が丹波から上洛して、三人で睦じく会合せられると、先の仲違ひが馬鹿馬鹿しく思はれて、互ひに言葉少く興なささうにして帰られた。師直、師泰兄弟の首が京都に著いたので、等持(とうじ)寺の長老旨別源(しべつげん)が葬礼を営んだ。昨日まで執事の恩顧を誇つた人は、今日は容子を変へ、顔をそむけて、其人と知られるのを恐れてゐる。将軍兄弟こそ隔てもなく和睦せられたれ、門葉に至つては勢ある者を猜み、自分の威のない事を憤る。石堂、上杉、桃井は将軍に附き従ふものを失はうと願ひ、仁木、細川、土岐、佐々木は、錦小路殿(直義)を笠に着て威張り散らす者を滅ぼさうと思ふ。悪魔はすべてかうした隙を覗ふものであるから、鹿谷(ししがたに)、阿弥陀峯辺には、天狗などの仕業でもあらうか、夜になると何処から馳せ寄るとも知れぬ兵共が、五百騎、三百騎と集まつて勢揃へをする。これを聞いて、将軍方でも高倉殿方でも、討手を向けられるのではないかと、それ/″\其用意をした。仁木、細川、土岐などは、自分の国で本意を遂げようと企んだのか、それぞれ領国へ帰り、赤松則祐(そくいふ)は初めから上洛しないで赤松にゐたが、故兵部卿親王の若宮を吉野から大将に申し下し、近国の軍勢を集めて上洛するといふ噂があり、天下は又三つに分れて、合戦は当分息むまいと、世人は不安感に脅かされてゐた。

高倉殿京都退去の事附殷(いん)の紂(ちう)王の事
  
 七月晦日、石堂、桃井の二人は高倉殿へ参つて、「仁木、細川らは皆国へ下つて謀叛を起します。これは多分、将軍か宰相中将(義詮)かの御指図でせう。此際何らの策もなく京都にゐられる事は危険です。今夜、闇に紛れて他国へ下られては如何でございますか。」と云つたので、禅門(直義)は深く考へもせず、「では下らう。」と御前に居合はせた者を連れて、取る物も取り敢ず夜半に篠峯(しのみね)越に落ちられた。かくと聞いて身内(うち)の者は云ふに及ばず、外様(とざま)の大名や、国々の守護が続々と後を追つたから、今や京都には宮廷の役人の外、人はゐないと思はれた。将軍は此由を義詮から聞かれたけれど、少しも騒がれなかつた。高倉殿が敦賀津(つるがのつ)に著いた時には、兵力は已に六万余騎と註(しる)された。此時直ちに上京すれば、将軍は一戦も出来なかつたらうに、詰らぬ長僉議(せんぎ)をして筋道も立たぬ才学に時を移し、あたら数日を徒らに空費した。高倉殿が無道を誅して、世を鎮めようと計られるのは、南家(なんけ)の儒者藤原有範の進言に依るものだといはれる。彼れは殷の紂王の無道を述べて、羽林(うりん)(義詮)や相公(尊氏)の淫乱に比し、文王の徳を称へて禅門の操持に比し、太公望の事を話して自らをそれに比し、「君若し仁を行つて、無道を亡ぼされんには、何の仔細がございませう。」と説いた。かうした進言を直義の信ぜられたのは全く愚な事である。
 
直義追罰の宣旨御使の事附鴨の社鳴動の事
  
 同年八月十八日、征夷大将軍尊氏卿は、高倉入道左兵衛督追討の書を賜はり、近江国に下つて鏡宿(かがみのしゆく)に陣取つた。都を立つ時は三百騎にも足りなかつたが、佐々木、仁木、土岐が馳せ加はつたので、其勢は一万余騎になつた。高倉入道も九月七日に近江に下つて、八相山(はつさうやま)に陣を取つた。
 其日都では鴨の糺(ただす)の宮神殿が鳴動して、流鏑矢(かぶらや)二筋が空を鳴り響かせて飛んだ。果して其翌日佐々木方の多賀将監と、秋山新蔵人とが合戦して、秋山が討たれたので、桃井は忿つて再び戦はうとしたが、他の大将に異議があつて、越前国へ引返した。高倉禅門は、将軍方へ降参する者が続出するので、桃井の勧めによつて、十月八日越前を立つて北陸道から鎌倉へ下つた。

薩●(「つちへん」+「垂」)山(さつたやま)合戦の事

 八相山の合戦に勝つて上洛した将軍は、十月十三日、重ねて院宣を給はつたので、京都に義詮を残して、自分は鎌倉へ下つた。已に駿河国に著かれたけれども、際立つた軍勢も集まつて来ないから、此儘鎌倉へ押寄せることは思ひも寄らない。一つ要害に陣取つて、軍勢を駆り立てようと、十一月晦日に駿河の薩●(「つちへん」+「垂」)山に陣取つた。従ふ兵は仁木左京大夫頼章以下三千余騎に過ぎない。高倉殿は、宇都宮が薩●(「つちへん」+「垂」)山に駈け付けると聞いて、桃井直常を上野国へ差向け、自らは上杉憲顕を大手の大将、石堂入道を搦手の大将として薩●(「つちへん」+「垂」)山へ向つた。此山は三方が嶮岨、一方が海で、極めて要害の地であるが、取巻く寄手は五十万騎、防ぐ兵士は三千騎、何時まで此山を支へることが出来ようと、多寡を括つて、急に攻め落さうともせず、只だ幾重にも取巻くのみであつた。宇都宮は十九日に利根河を渡つて那和荘(なわのしやう)に著き、桃井播磨守の一万余騎と戦つて之を打破り、武蔵、上野の両国には敵なく、其総勢は三万騎に達した。此宇都宮が後詰(ごづめ)に廻ると聞いて、薩●(「つちへん」+「垂」)山の攻囲軍中には、「後詰の来ない先に攻め落さう。」と云ふものが多かつたけれど、石堂、上杉はそれを許さなかつたので、児玉党の三千騎がもどかしがつて、嶮しい桜野から薩●(「つちへん」+「垂」)山へ攻め寄せた。此坂を守つてゐた今川、南部、羽切の三百騎は石弓(いしゆみ)を多く張つてゐたが、此時一時に切つて落したので、寄手は楯の板もろ共大石に摧(ひし)がれて死ぬ者数知れず、無論戦は敗けになつた。其中、後詰の三万騎が到着して竹下(たけのした)に陣を取つた。又小山判官も宇都宮に力を合はせて七百余騎で古宇津(こうづ)に著いて、焚き続ける篝火の数が多く見えたので、大手搦手五十万騎の寄手は、暫くも忍(こら)へず八方へ落ちて行つた。仁木義長は勝に乗じて伊豆府(いづのこう)にある禅門を攻めると、禅門は防ぎもせずに北条へ逃げ、更に伊豆の御山(みやま)に退いて、どこかへ逃げようか、それとも自害しようかと、思ひ煩つてゐる中に和睦の議があり、将軍から手紙を送られたので降人となり、将軍と共に正月六日の夜鎌倉に帰つた。

慧源禅門逝去の事
  
 此後は高倉殿に附き従ふ侍もなく、牢のやうなあばら家に警固の武士を据ゑられ、悲しい事ばかりが次々に聞えて来るので、今はもう存(なが)らへても仕方がない、と嘆かれたが、間もなく急に死去せられた。それは観応三年二月二十六日の事である。黄疸(わうだん)で急に逝かれたと外では披露したけれども、事実は鴆(ちん)害の為めだと人々は囁き合つた。一昨年の秋は師直が上杉を亡し、去年の春は禅門が師直を誅せられ、今年の春は禅門が敵の為めに毒を呑まされて死んだ。因果とはいひながら哀れである。此禅門は政道をも心に懸け、仁義をも弁へ知られたが、かうした風に自滅せられたのは、さてどのやうな罪の報ひかと考へるに、此禅門が云つた為めに将軍が鎌倉で偽りの請文を残された事に因るか、又は大塔宮を殺し奉り、将軍宮尊良親王を毒害し奉つた事に因田るかであらう。たとへ武勇の家に生れても、慈悲を先とし、業報を恐れねばならぬ。

吉野殿相公羽林と御和睦の事附住吉の松折るる事
  
 足利宰相中将義詮朝臣は、無勢の京都が和田、楠に攻められるのを恐れて、吉野に使者を立てて和睦を請ひ奉つた。諸卿は僉議し合つて、これも直義の如く偽つて申し出たに違ひないが、義詮の云ふ通りに先づ帝都還幸の儀式を催し、然る後に畿内近国の兵を以て義詮を退治し、義貞の子に尊氏を討たせようと、御合体の事を許される旨仰せ出された。
 双方互ひに偽はつてゐるとは知らず、これまで持明院殿に仕へてゐた諸卿は、皆賀名生殿へ参られた。二月二十六日、主上は山中を御出発、瑤輿(一)を先づ東条へ促され、そこで御一泊あらせられ、翌日住吉へ行幸になつた。住吉へ行幸に成つてからちやうど三日目のこと、勅使が神馬を献り、幣を捧げると、瑞籬(たまがき)の前の大きな松が、風もないのに中程から折れて南に倒れた。伊達三位有雅(いうが)は之を聞いて、「此度の御還幸はお危い。」と云つた。次いで閏二月十五日に天王寺へ行幸になつたが、伊勢から国司中院衛門(北畠)顕能が三千余騎を引率して馳せ参られた。同十九日には八幡へ行幸になつて、田中法印の坊を皇居に充てさせられた。赤井大渡(あかゐおほわたり)に関を据ゑて、兵が山上山下に充ち満ちたので、これは合戦の御用意だと京中の噂は穏でなかつた。義詮朝臣は慧鎮(ゑちん)上人を使として、其由を伺はせると、唯だ非常を警戒する為めだとの御答なので、京都の軍勢は出し抜かれるとも知らずに油断してゐると、二十七日の朝八時に、中院東門顕能(あきよし)が、三千余騎で鳥羽から推寄せて、東寺の南、羅城門の東西で旗(二)の手を解き、千種(ちぐさ)少将顕経(あきつね)は唐櫃越(からうとごえ)から推寄せて、西の七条に火を揚げた。和田、楠以下五千余騎は、宵から桂川を打渡つて、まだ夜の明けぬ中に、七条大宮の南北七八町に群立つて鬨の声を上げた。「それ楠が寄せた。」と京中の人々は遽て騒ぐ事一通りでなかつた。細川顕氏(あきうじ)は東寺へ馳せ寄らうとして、七条大宮にゐた楠勢に取囲まれ、顕氏主従は八騎になつて若狭へ逃げた。細川頼春は手勢三百余騎で大宮を下つて進み、六条辺で敵の旗を見て、三千余騎で控へた和田、楠の軍勢に向つた。楠の射手二百余人は屋上から敵を射て、進みかねてゐる処を和田楠の五百余騎が轡を並べて駈け入つた。細川の乗つた馬は、敵の打つ太刀に驚いて弓杖(ゆんづゑ)三杖(みつゑ)(三)ばかり飛んだ。飛ぶ時細川は鞍を離され、真倒(まつさかさま)にどうと落ちた。落ちると同時に三人の敵が切りつけるのを、細川は寝ながら二人を薙ぎて切り据ゑ、起き上らうとする処を和田の中間が走り寄つて、槍の柄をとり延べて喉吭(のどぶえ)を突いて突き倒す。倒れる処を落ち合つて首を和田に取られてしまつた。

相公江州落ちの事

 今は重ねて戦ふ兵もないので、宰相中将義詮朝臣は僅か百四五十騎で近江をさして逃げられた。勢多の橋を焼き落された上、船はこちら岸に一艘もない。敵の旗が見えたら腹を切らうと、義詮朝臣を初めとして皆鎧を脱いで、短刀ばかりで白砂の上に居並んだ。相模国の住人曾我左衛門は、水練の達者であつたから、向う岸に游ぎ著いて、そこにあつた一艘の小舟を奪ひ取り、自ら櫓を推して漕ぎ寄せ、それに大将初め重立つた人々を乗せて渡り、更に三艘の舟を探し出して、百五十騎の兵を渡したが、敵が更に追つて来さうにもないので、一旦棄てた馬や甲冑も渡し終へて、舟蹈み返して突き流し、「これで命は助かつた。」と手を拍つてどつと笑はれた。

持明院殿吉野遷幸の事附梶井宮の事

 敵は都を落ちたけれども、吉野の帝(後村上天皇)は京都へ臨幸にもならず、唯だ北畠入道准后(じゆごう)顕能父子だけが京都に入つて政治を行はれた。二十三日に中院中将具忠(ともただ)を勅使として、都の内裏にあつた三種の神器を八幡に在らせられる吉野の帝へ渡されたが、これは先帝(後醍醐天皇)が似もつかぬ品と取替へて持明院殿へ渡されたものだと、璽(しるし)の御箱を棄てられ、宝剣と御鏡は近習の公卿(くぎやう)に下されて、衛府(ゑふ)の太刀、装束の御鏡となされた。同月二十七日北畠顕能は五百余騎の兵を率ゐて持明院殿へ参り、其辺の辻々門々を警固し、穏かに西の小門から参つて、四条大納言隆蔭卿を以て、「世が鎮まりました上は、皇居を南山に移し進らせよとの勅諚です。」と申上げさせた。両院(四)、主上(五)、東宮は呆れさせられるばかりで、とかうの御言葉(おんことば)も発せられず、御衣の御袂が絞(しぼ)るばかりに御涙に濡れた。新院は御涙を抑へさせられて、「釈門の徒となつて辺鄙(へんぴ)に幽居を卜しようと思ふ。此旨を奏せよ。」と仰出されたが、顕能は御答もせず、御車を二輌差寄せて、「大分時間が経ちました。」と促し奉つたので、本院、新院、主上、東宮は御同車で南の門から出御になつた。さらでだに霞んでゐる花の木の間の月、これが見納めかと思召せば、溢れる御涙にいつよりも朧ろである。女院皇后は、御簾の内、帳の陰に伏し沈んでゐられるので、此処の馬道、彼処の局からは泣き悲む声が洩れて来る。御車を暁の月に輾(きし)らせて、東洞院(ひがしのとうゐん)を下つて行くと、故郷の梢が漸く幽かになつて、東嶺(とうれい)に響く鐘の声が、明け行く雲に横(よこた)はる。鳥羽まで御幸になると、夜は早やほのぼのと明け切つた。此処で御車を駐(とど)めて、粗末な網代輿(あじろごし)に召し替へさせ、日を経て吉野の奥、賀名生といふ所へ御幸になつた。梶井二品親王は此時、天台座主(ざす)であらせられたが、同じく召捕られて金剛山の麓に在らせられた。


(一)瑤輿は玉の輿。
(二)「旗の手を解く」云々は、隠れて進む時は旗を巻き、表に現はれた時は解くを云ふ。(三)弓杖三杖は、弓の長さ三つの意。
(四)両院とは、本院(光厳院)新院(光明院)を指し奉る。
(五)主上は崇光院。


巻 第三十一

新田義兵を起す事

 吉野方と武家方とが合体せられた時は都も田舎も静かであつたが、一度御合体が破れると、又合戦の止む時もなかつた。元弘、建武の後、天下久しく乱れて一日も治らず、心ある者も、心無き者も、どこかの山の奥でもと、身の隠家を求めたけれども、何処(いづこ)も同じ憂き世であるから、何の因業でこんな乱世に生れ逢つて、或は餓鬼道の苦しみを生きながら受け、或は修羅道の奴に死なぬ前(さき)になつたらうと、嘆かぬ人とてはなかつた。
 此時、故新田左中将義貞朝臣の次男、左兵衛佐義興(よしおき)、三男少将義宗、従父兄(いとこ)左衛門佐義治(はる)の三人は、武蔵、上野、信濃、越後の間に居所を定めず身を匿して、時が来たら義兵を起さうと企てゝゐたが、吉野の帝がまだ住吉に在らせられた時、由良入道信阿(しんあ)を勅使として、「早く義兵を挙げよ。」との仰せを下された。よつて、廻文を以て東八箇国を触れ廻ると、同心の一族が八百人に達した。中でも石堂四郎入道は、薩●(「つちへん」+「垂」)(さつた)山の合戦に甲斐ない命を助けられて鎌倉にゐたが、高倉禅門は毒害せられ、誰れか兵を挙げたら協力しようと思つてゐた矢先であるから、新田の内状を受けると、流れに棹だと悦んで同心した。石堂と同じ境遇の三浦介、葦名(あしな)判官らも亦同心した。これらの人々は扇谷(あふぎがやつ)に寄合つて相談し、石堂らは鎌倉に止り、合戦起らば態と馬廻りに控へて将軍を討ち取らうと策を決めた。諸方の合図が決つたので、新田武蔵守義宗、左兵衛佐義治は閏二月八日、手勢八百余騎で西上野(にしかうづけ)に打つて出た。かくと聞いて国々から馳せ集まつた者は、江田、大館、堀口以下、其勢十万余騎、所々に火を懸けて武蔵国へ打ち越える。之が為めに武蔵、上野から早馬を打つて鎌倉へ急を告げる使が櫛の歯を引くやうに続く。軍の人数を問はれると、使者は皆「二十万騎を下らないでせう。」と答へる。一旦安房上総へ立ち退いて、静かに策を練らうと云ふ仁木、細川の説を斥けて、将軍尊氏は敵を邀撃するつもりで、僅か五百騎を率ゐて武蔵国へ下つた。鎌倉から追ひ著いた人々は畠山、岩松、大島以下、其勢すべて八万余騎となつた。明日は愈々矢合せだと定められた夜、石堂禅門は子息右馬頭を呼んで我謀を語ると、右馬頭は非常に機嫌を悪くして、「弓矢の道は弐心あるを恥とする。此陰謀を将軍に告げなければ不忠になります。今生で御目に懸るは今が限りです。」と腹立てゝ将軍の陣へ参つた。父の禅門は急いで三浦介の許に行き、此事を告げると、三浦は驚き、葦名、二階堂らと手勢三千余騎を分け率ゐて、寄手の勢に加はらうと関戸を廻つて落ちて行つた。
 
武蔵野の合戦の事
  
 三浦の合図が手違ひになつたのを、新田武蔵守は夢にも知らず、愈々時刻が来たと、明くれば、閏二月二十日の朝八時、急いで武蔵野の小手差原(こてさしはら)に打ち臨まれた。一方の大将は新田武蔵守義宗、五万余騎を五手に分けて陣を取つた。他方の大将は新田左兵衛佐義興、二万余騎を五手に分けて四方六里に控へた。更に他方の大将は脇屋左衛門佐義治、二万余騎を五手に分けて五箇所に陣を張つた。
 敵が小手差原にゐると聞いて、将軍は十万余騎を五手に分けて、中道から寄せられた。先陣は平一揆(へいいつき)三万余騎、二陣は白旗一揆二万余騎、三陣は鼻一揆、命鶴丸(みやうづるまる)を大将として六千余騎、梅の花を一枝折つて兜の真向に挿いた。四陣は御所一揆三万余騎、五陣は仁木左京大夫頼章(よりあきら)の三千余騎、遥かの後方にあつて馬を下りてゐた。かうして新田、足利両家の軍勢二十万騎が、小手差原に打ち臨んで、敵が三度鬨の声を上げると、身方も三度鬨の声を合はした、其声は上は三十三天(一)までも響き、下は金輪際(二)までも聞えるかと思はれた。先づ一番に新田左兵衛佐と平一揆が駈け合つて、左右へ引退くと両方の討たれた兵は八百余人、二番には脇屋左衛門佐と白旗一揆が、総攻めに攻め合つたが、汗馬の馳せ違ふ音、太刀の鐔音が天に光り地に響いた。七八度戦つて東西に颯つと別れると、討たれた者は五百人に及んだ。三番には饗庭命鶴丸、大将ではあるが当年十八歳の美少年であるから、特に花を挿して立ち出で、花一揆(はないつき)六千余騎の真前に駈け出た。武蔵守之を見て、児玉党を差向けられる。花一揆は皆若武者であるから、向ふ見ずに懸つたが、陣の備へが悪く、将軍の後に控へた陣の中へ、こぼれ落ちて退くので、新手は進む事が出来ない。敵は勝鬨を上げて追つかけるので、少し退(ひ)いて一度に返せといふ下知に、将軍の十万余騎はひた退きに退いて後をも向かない。新田武蔵守、旗より先に進んで、「天下の為めには朝敵である。我れの為めには親の敵である。唯今尊氏の首を取つて軍門に曝さなければ、何時の時をか期すべき。」と他の兵には目も懸けず、唯だ二引両(ふたつぴきりやう)の大旗の退くについて、何処までもと追つ駆けた。退く者も策(むち)を挙げ追ふ者も馬を早めたので、石浜(いしはま)まで四十六里を暫くの間に追ひ著いた。将軍は石浜を打渡る前、已に腹を切らうと、鎧の上帯を切つて投げすて、今しも高紐を放さうとしたが、近習の侍二十騎ばかりが、引返し戦つて討死したので、其間に将軍は急を遁れて対岸へ駆け上る事が出来た。日が既に暮方になつたので、武蔵守は歯噛みして本陣へ引返した。
 新田左兵衛佐と脇屋左衛門とは一所になつて、退く白旗一揆を将軍であらうと追つたが、降参して挨拶する兵に会釈してゐる中に、他の兵は敵を追つて相隔(へだた)り、僅かに三百騎になつた。葦原に隠れてゐた仁木は之を見て、三千余騎を一手に纏めて押寄せた。敵が鶴翼(くわくよく)に開いて取囲まうとすると、義興、義治は魚鱗(ぎよりん)に連つて、轡を並べて真中を駈け破つて、蜘手(くもで)十文字に駈け立てようと喚き懸つたが、仁木は騒がず、千度百度懸かつても一向退かないので、気が疲れて東の方へ落ちて行つた。義興は小手の隙、臑当の端に三ケ所の軽傷を負はれ、義治は太刀を鐔本から打折られて、中間に持たせた長刀を持たれたが、峯がさゝらのやうに切られ、刃は鋸のやうに欠かれてゐた。馬も三ケ所まで切られたので、下りて乗替の馬に乗られると、倒れて直ぐ死んだ。新田武蔵守は小手差原へ帰つたが、義興も義治も東へ退いたと聞いて、其夜急いで笛吹峠の方へ落ちられた。

鎌倉合戦の事

 新田義興、脇屋義治の二人は、僅か二百騎になつて、武蔵守に離れた。身方の軍勢は何処へ退いたか分らない。寄る辺なさに馬から下りて暫く休んでゐられたが、此勢では上野へも帰られまい、一層のこと足利左馬頭と戦つて死なうと、鎌倉をさして進まれた。関戸を過ぎると、五六千騎が西に向つて下るのに逢つた。敵かと覚悟を決めて問ふと、石堂入道と三浦介であつた。二人は手を拍つて悦び、共に鎌倉へ向つた。神奈川に着いて兵粮を使ひ、馬には糠かはせて(三)、三千余騎を二手に分けて大御堂の上から真下へ押寄せた。義興は尼家の端れで敵三騎を切つて落し、大勢の中をつと駆け抜けた時、太刀で手綱のまがりを切られ、切られた手綱は馬の足に蹈まれたので、太刀を左の脇に挟んで、鐙の端にぶら下り左右の手綱を結んだ。敵が三騎、能(よ)い隙だと馳せ寄つて、兜の鉢と総角著(あげまきづけ)(四)とを三打四打強く打つたけれども、義興は少しも騒がず、悠々と手綱を結んで鞍坪(五)に直られると、三騎の敵はぱつと駈け退いて、「あつぱれ大剛の武者だ。」と大声に感嘆して身方の軍中へ駆けて行つた。鎌倉勢は散々に打ち敗られたが、討ち洩らされた左馬頭は南遠江守に護られて石浜へ逃げた。義興、義治は二月十三日の鎌倉の戦に勝つて、暫く八箇国の成敗を見るべき位置に据ゑられた。
 
笛吹峠軍の事
  
 新田武蔵守は石浜で将軍を討ち損ねて、笛吹峠に陣を取つた。これを聞いて、上杉民部大輔らは、先帝の第二の宮上野親王(かうづけのしんわう)(宗良親王)を大将として、総勢二万余騎で馳せつけた。又将軍尊氏が石浜にゐる事を聞いて、そこに馳せ参つた者は、千葉介以下八万余騎で、二月二十五日石浜を立つて、二十八日笛吹峠に押寄せた。其日は一日戦ひ暮らし、明くる日又戦つたが、新田、上杉は打負けて、笛吹峠に退(ひ)き上つた。
 上杉民部大輔の兵に、長尾弾正、根津小次郎といふ大剛の者がゐた。二人は打負けた事を残念に思ひ、敵陣に紛れ込んで将軍を討たうと、二人ながら俄に二引両(ふたつぴきりやう)の笠符をつけ替へた。長尾は乱髪を顔へ颯と振りかけ、根津は刀で額を突き切つて、血を顔に流しかけて人相を変へ、敵の首を鋒に貫いて将軍の陣へ馳せ入つた。「誰れの手の人か。」と問ふと、「将軍方の者であるが、新田の一族の重立つた人々を討ち取つた。首実検の為めに将軍の御前へ参るのだ。」と答へるので、皆「お目出度う。」といつて、咎める者は無かつた。「将軍は何処に御居でになりますか。」と問ふと、ある人が「あそこに控へさせられる。」と指ざし示したので、馬から延び上つて見ると、的山(あづち)程の隔りである。二人は屹と目くばせして、却つて悠々と進むと、まだ将軍の運が尽きなかつたか、「あれは長尾と根津だ。近づけるな。」と呼ばつた者があるので、武蔵、相模の兵が中を隔てゝ左右より馳せ寄る。二人は首を投げ棄て、乱髪を振り上げて、大勢の中を破(わ)つて通る。二人の鋒(きつさき)に廻る敵は、兜の鉢から胸板まで真二つに破られ、腰の番(つが)ひを切つて落されぬ者は一人も無かつた。しかし敵は大勢である。「あゝ運強き足利殿だ。」と大声に嘲つて悠々と本陣へ引上げた。夜に入ると、両陣は退いて、共に篝を焚いた。将軍の陣を見渡すと、四方五六里に及んで、銀河高く澄んだ夜に星を列ねたやうである。笛吹峠を顧みると、月に消え行く蛍火の、山陰にちらほら残るのに異らない。宵の頃は皆心を落著けてゐたが、夜半頃に松明が夥しく将軍方へ行くので、明日の戦もまた敗けかと、上杉民部大輔は篝を焚き棄てゝ信濃へ逃げた。新田武蔵守も暁方に越後へ逃げた。其後は上総、下総の兵も将軍方に附いたので、其軍勢は八十万騎に達した。新田義興と脇屋義治はまだ鎌倉にゐたが、三月四日、鎌倉を退いて国府津山(こぶつやま)の奥に籠つた。
 

八幡合戦の事附官軍夜討の事

 都では去月二十日の合戦に負けて、足利中将殿(義詮)は近江国へ落ちられ、持明院の方々は賀名生に遷幸せられたが、吉野の主上は猶世を危ぶんで、八幡にお留りになつてゐた。公卿は西山、東山、鞍馬の奥と、思ひ/\に逃げ隠れられたので、帝城の九門は禁衛の備へも無く、朝儀大礼の沙汰も行はれず、いたづらに野狐の棲処(すみか)となつてゐた。これは一体どうした世の中なんだと、歎かぬ人は無かつた。宰相中将殿は近江の四十九院にをられたが、東国の合戦に将軍が勝つたと聞いて、雲霞の如くに大兵が附き従つた。で、三月十一日に四十九院を立ち、十七日に都の東寺に陣を召されると、宮方の大将北畠右衛門顕能は都を去つて八幡山の山下に陣を取つた。八幡は此上なき要害の地であるが、尚ほ飽き足らず思つたのか、赤井橋を撤(はづ)して敵の行進を阻み、畿内の官軍七千余騎がそこに楯籠(たてこも)つた。東寺では、どうしようかと色々相談してゐたが、そこへ赤松則祐が宮方を背いて馳せ来つたので、中将殿は龍の水を得、虎の山に拠るが如く、勢ひ俄かに京畿を掩つた。三月二十四日、宰相中将は三万余騎を率ゐて、宇治路を廻つて木津河を打渡り、洞峠(ほらがたうげ)に陣を取つた。
 八幡からは和田五郎と、楠次郎左衛門とを差し向けられたが、楠は今年二十三、和田は十六の若武者であるから、諸卿は危ぶまれたが、和田五郎が参内して、
「親類兄弟は度々の合戦に、皆身を捨てゝ討死致しました。今日の合戦も亦公私の一大事ですから、私共は生死を懸けて合戦致し、敵の大将を一人討ち取らなければ、決して生きて再び御前に参る事はございますまい。」
と申し上げたので、座に列つてゐた公卿連や、国々の兵は、本当に代々の勇士だといつて、ほめ合ひ感じ合つた。
 さうかうしてゐる中に、和田、楠、紀伊国の軍勢三千余騎は荒坂山へ打ち向つて、此処を持ち堪へようと控へたので、細川清氏、同顕氏、土岐大膳大夫、舎弟悪太郎らは、六千余騎で押寄せた。山路嶮しく、峯高く峙つて、進みかねてゐたが、大力の早業で天下に知られた土岐悪五郎が、卯花縅(うのはなをどし)の鎧に鍬形打つた兜を著け、水色の笠符(かさじるし)を吹き流させ、五尺六寸の大太刀抜いて身にひきつけ、射向(いむけ)の袖を振りかざして遥かに遠い山路を唯だ一息にと、莞爾笑つて上つて行く。和田五郎が打見て、「あゝ敵だ。」と突いた楯をがばと投げ棄てゝ、三尺五寸の小長刀を柄短かに取つて打ち合ふ。細川の郎従関左近将監が土岐の脇から走り抜けて和田五郎に打つて懸つた。悪五郎は和田の中間に射られて自害しようとする将監を小脇に挟み、太刀を打振り打振り近づく敵を打彿つて、三町許り逃げた。其後から何処までもと追つ懸けた和田五郎は、恰好の敵を打漏して残念がつてゐると、運が尽きたか悪五郎は、夕立に掘れた片岸(かたぎし)を越えようとする時、土がくわつと崩れて、薬研(やげん)のやうになつた中へ落ちた。落ちた処を、走り寄つた和田五郎、長刀の柄を延ばして二人の敵を討つた。悪五郎を討ちは討つたけれども、寄手は目に余る大軍、勝負が決したわけではない。楠次郎左衛門は夜になつて、八幡へ引返したので、其翌朝、敵は直ぐ入替つて荒坂山に陣取つた。しかし官軍も手出しはせず、寄手も攻め上らないで、たゞ八幡を遠攻めに攻めてゐるばかりであつた。
 四五日経つて、山名右衛門佐師氏(もろうじ)が、出雲、伯耆、因幡、三国の兵を率ゐて上京し、八幡へ押寄せた。四月二十五日、四方の寄手は同時に牒し合せて攻めかゝつた。官軍は高橋の民家から出た怪火の煙に咽んで防戦する事が出来ず、皆八幡の山に引上つた。四方の寄手二万余騎は、直ちに洞峠(ほらがたうげ)に打上つて数十箇所に陣を取り、垣を結うて八幡山を五重六重に取巻いた。細川清氏、顕氏は、真木(まき)、葛(くず)葉を廻つて、陣を如法経塚(によほふきやうづか)の上に張つて攻め立てた。
 五月四日、官軍は夜討に慣れた兵八百人を選(すぐ)つて法性寺(ほふしやうじ)左兵衛督につけた。左兵衛督は笠符を一様に著けさせ、誰れだと問へば、進むと名乗れと約束し、夜半宿院(しゆくゐん)の背後を廻つて如法経塚に押寄せた。一時にどつと鬨の声を上げると、細川の兵三千余人は、暗さは暗し案内はなし、馬は放れ人は騒いで、太刀も抜かれず、弓も引かれず、負傷し、又は討たれた者が無数であつた。一陣が破れたから、残党はひるむだらうと思ひの外、土岐、佐々木、山名、赤松の陣は少しも動揺せず、用心堅固で、夜討する方法もなかつた。こんな塩梅では、何時までも怺へる事が出来まい、和田、楠を河内国へ返して、後詰(ごづめ)をさせようと、二人を潜かに城から出した。八幡では此後詰(ごづめ)を待つてゐたが、和田五郎は俄に病んで死に、楠は今日よ明日よといふばかりで、主上が大敵に囲まれてゐられるのをさほど気にも懸けないらしいのは、何といふ情ない事だ。
 
南帝八幡御退失の事
  
 戦が始まつてから已に五十余日になつた。城中では最早兵糧を食ひ尽し、援兵を待ちようも無い。どうなる事かと囁き合つてゐる中、伊勢の矢野下野守、熊野の湯川荘司(ゆがはのしやうじ)が将軍方に降参した。城の案内を敵に知られたら、逃げようにも逃げる道がない。今夜の中に主上をお逃がせ申さないではと、五月十一日の夜中に主上を寮(れう)の御馬に乗せ進らせ、前後を兵士が打囲んで大和路へ向つた。主上は軍勢と区別のつかないやうに、山本判官が進(まゐ)らせた黄糸の鎧を召して、栗毛の馬に召されてゐるのを、一宮弾正左衛門有種が追ひ駈けて、「然るべき大将と見進らせるが、敵に追ひ立てられて一度も引返されぬとは卑怯だ。」と呼び懸けて、弓杖三杖(ゆんづゑみつゑ)ばかり近づいた。法性寺左兵衛督屹と顧みて、「何と憎い奴原(やつばら)の物の云ひやうだ。我手並のほどを見せてやらう。」と馬より飛んで下り、四尺八寸の太刀で兜の鉢を破(わ)れよとばかり強く打つた。さしもに強い一宮も、尻餅づきに打据ゑられて、目は瞑(くら)み、度胆が抜けたので、心を静めようとして暫く目を塞(ふさ)いでゐる間に主上は遥かにお逃げになられた。古津(こづ)川の端を西に傍うて御馬を早めてゐられると、松田、宮入道らの兵が二三百騎で取囲んだ。八方から雨の降る如く矢を射るので、一時はお遁れになれないかと見えたが、天地神明の加護があつてか、御鎧の袖、草摺に二筋中つた矢も裏までは通さなかつた。左兵衛督はこゝまでも尚ほ離れず唯だ一騎供奉して、後から敵が懸れば引返して迫ひ散らし、敵、前を遮れば駈け破つて主上を御逃がせ申して来たが、何処からとも知らず身方の兵が百騎ばかり、皆中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)をつけて、御馬の前後を護つて、近づく敵を右往左往に追ひ散らして掻き消すやうに消え失せたので、主上は玉体恙なく東条(とうでう)へ逃げさせられた。初め御神鏡の櫃を賜つて持つてゐた人が田の中へ棄てたのを、伯耆太郎左衛門長生(ながなり)(名和長年の弟)が拾うて、自ら担つて来た。それを敵は散々に射たけれども、中へは一筋の矢も通らず、賀名生の御所へ御異変もなく担ぎ入れ奉つた。
 今度京都を攻められようと、住吉天王寺へ行幸になつた時、児島三郎入道志純(しじゆん)(高徳)を召されて、新田の一族に義兵を起せとの御勅書を伝へる為めに関東へ下された。東国の合戦が終つてから、新田義興、同義治は河村城に楯籠り、武蔵守義宗は越後国にゐたが、此由を聞いて感激し、義興、義治は尚ほ東国に止ることゝし、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、吉良満貞、石堂入道らは、東山、東海、北陸の兵を率ゐて二手に分れて上京した。又信濃宮(宗良親王)も信濃を立たれ、伊予からは土居、得能が、兵船に乗つて攻め上つたが、官軍が八幡を退いたと聞いて力を落し、皆自分の国へ引返してしまつた。


(一)三十三天は欲界六天の第二。●(「りつんべん」+「刀」)利天(とうりてん)の事。須弥山の頂、閻浮提の上八万由旬の処にある。
(二)金輪は印度の世界観で、水輪の上にあつて世界をフげる一地層。際は最下部。(三)糠を食はすこと。
(四)総角著は鎧の後で、総角をつける所。
(五)鞍の橋の所。
(六)薬を砕いて粉にする器。


巻 第三十二

茨宮(いばらのみや)御位(おんくらゐ)の事

 持明院の本院、新院、主上、春宮、梶井二品親王まで、皆吉野に囚はれさせて、或は賀名生の奥、或は金剛山の麓にいらせられるので、天台座主(ざす)には承胤親王(しよういんしんわう)をなし奉り、御位には本院(光厳院)の第二の御子、陽禄門院の御腹に生れさせられた今年御十五歳のを即け進らせた。観応三年八月二十七日に践詐あらせられた。

剣璽なくして御即位の例なき事附院の御所炎上の事

 同年九月二十七日改元になつて、年号を文和(ぶんわ)(南朝正平七年)と申し上げた。其年の十月に河原(かはら)の御禊(ごけい)があり、翌月大嘗会を行はせられた。三種の神器がないのに、御即位の大礼はどんなものかと、諸卿に異議を申すものが多かつたが、武家が強ひて申す上は、ともかくも其議に従はうと、大嘗祭を行はせられたと承はる。同年十月二十八日に、国母陽禄門院がおかくれになり、天下は諒闇で、洛中音(ね)をも鳴らさず、物哀れな折柄、同二年二月四日、俄に失火して院の御所持明院殿が炎上した。近年打続いて京中の堂社宮殿が焼け、東山(ひがしやま)、西郊(にしのをか)、京(きやう)、白河(しらかは)は、民家も続かず寺院も稀になつて、盗賊が巷に満ち、往来の道も安からず、貝鐘の声も幽かで、無明(むみやう)の睡りは覚め難く思はれた。

山名右衛門佐敵となる事附武蔵将監自殺の事
  
 山名右衛門佐師氏(もろうじ)は今度八幡の軍(いくさ)に勲功があり、我に勝る恩賞はないと思つたので、若狭国の斎所今積(さいしよいまつみ)を元のやうに充てがはれたいと、佐々木入道道誉に其執奏を頼んだ。で、毎日のやうに山名は彼れの宿所へ行つたけれど、今日は連歌の会だ、明日は茶の会だと云つて一度も会はず、数時間も立たせたり、暮まで待たせたりして、空しく帰す事が度重なつたので、右衛門佐は非常に怒り、「たとへ才は乏しくとも、将軍の一門に列なる身である。礼儀を知つてゐるならば、沓を倒(さかしま)にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び結びでも急いで会ふべき筈なのに、此入道が、かやうに扱ふのは返す返すも恨みだ。今夜の中に都を立つて伯耆へ下り、軈て謀叛を起して天下を覆し、無礼の奴輩に思ひ知らせてやらう。」と独り言を云ひつゝ我宿所へ帰ると、唯だ一騎、文和元年八月二十六日の夜半に伯耆を指して落ちて行つた。父の時氏も亦た之を聞いて忿り、やがて宮方の旗を揚げて近国を従へたので、吉野へ其事を奏上すると、山陰道から攻上るならば、吉野からも官軍を出して、共に京都を攻めようと仰出されたので、時氏は大に悦んで五月七日伯耆国を立つて、三千余騎で丹波路から攻め上つた。予ての約束に基づいて、吉野からは四条大納言隆俊(たかとし)が総大将となつて三千余騎を繰り出したから、南は淀、鳥羽、西は梅津、嵐山までも陣を取らぬ所無く、焚き続ける篝火の光りは幾千万と其数が知られない。此時将軍は鎌倉にをられて、京都は余りにも無勢(ぶぜい)であつたから、宰相中将議詮朝臣は主上に先づ延暦寺の東、坂本へ行幸を請ひ、自分は三千余騎を一処に集めて、鹿谷(ししのたに)を後にして加茂川の西に敵を待つた。
 さるほどに、文和二年六月九日午前六時、南方の官軍三千余騎が、八条、九条の民家に火を懸けて合図の煙を上げたので、山陰道の寄手五千余騎は梅津、桂、仁和寺に火を懸けて、京都の市中に押寄せた。けれども洛中には応戦する兵がなかつたので、一所に打寄せて四条河原に轡を双ベて控へた。敵陣は皆な山に寄つて木蔭に控へてゐるから、兵の多少が分らない。河原に控へてゐた和田、楠は敵を誘き出さうと、射手の兵五百人に、田の畦を歩ませて敵に近づかせた。佐々木五郎左衛門は楠の勢に招かれて、五百余騎で胡●(「たけかんむり」+「禄」)(えびら)を敲き鬨の声を揚げて喚き懸つた。山名の執事小林右京亮が、横から之に懸る。佐々木は余りに手痛く懸られて神楽(かぐら)岡へ引上げる。宮方は意気上り、勇気を鼓して東の方を見ると、土岐の桔梗党が水色の旗を差し上げ、大鍬形を夕陽に輝かせ、魚鱗に連なつて控へてゐたので、小林がそれに駈け合せようとすると、山名右衛門佐は扇を揚げて招き止め、新手の兵千余騎を引勝(すぐ)つて相近づく。土岐も山名もしづしづと馬を歩ませて、一矢射合ふと同時に、互ひに両鐙(あぶみを合はせて駈け入り、敵身方二千余騎、一度に颯と入り乱れて左に逢ひ、右に離れ、一時間許り切り合ふと、馬煙が大空を廻つて、●(「風」へん+「▲」)(つむじかぜ)が塵を吹き立てるに異らない。太刀の鐔音、鬨の声が、大山を崩し、大地を動かして、宮方が打勝つたと誰れにも見えたが、其時鞍の上に人なき放れ馬四五百匹が河から西へ走り出て、山名の兵の鋒に首を貫かれぬものは無かつた。細川清氏は独り勇み戦つたが、将軍方が皆引退いたので、細川も亦四明峯(しめいのみね)へ引上げた。赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)は逃げる敵を追つて北白河を行くと、刃径(はわたり)八寸程の大鉞(まさかり)を振りかたげて近づく敵あらば唯だ一撃に撃ち挫かんと、尻目に敵を睨んで落ち行く武者がある。赤松は遥かに之を見て、はゝあ、これこそ有名な長山(ながやま)遠江守だらう。一つ組んで討たうと近付き、長山が振下す鉞の柄を小脇に挟んで、えいと引いた。引かれて二匹の馬が相近づいたので、鉞を奪はう奪はれまいと引合ふと、鉞は折れて柄の方が長山の手に残つた。長山は赤松の大力に恐れ、馬を早めて逃げ延びた。
 将軍方には討たれた者が多く、僅かに残つた者は負傷し、矢さへ射尽して再び戦へさうもないので、大将義詮朝臣は、日暮れに東坂本へ逃げられた。
 此時、故武蔵守師直の思ひ者の腹に出来た武蔵将監といふ者が、片田舎に隠れてゐたのを阿保(あぶ)忠実、荻野朝忠(ともただ)が大将に取り立て、義詮を助けようと西山の吉峯(よしのみね)にゐたが、十一日の曙に山名の為めに攻められて討死した。

主上義詮没落の事附佐々木秀綱討死の事
  
 義詮朝臣は、予てから東坂本には佐々木秀綱を警固として備へてあるから安心である、此処で諸国の兵を催さうと相談したが、吉野から大慈院の法印を大将の為めに叡山へ呼寄せたとの噂があつたので、同年六月十三日、義詮朝臣は龍駕を奉じて東近江へ逃げられた。
 故堀口美濃守貞満の子掃部助貞祐は、此四五年堅田に隠れてゐたが真野浦(まののうら)に出合つて逃げ行く敵を討たうと、五百余人で立ち向つたので、佐々木近江守秀綱は戦死した。其夜は塩津(しほづ)に瑤輿を止めようとされたが、軍勢が逗留しては災ひがあらうと塩津海津(かいづ)の民は鐘を鳴らし、鬨の声を上げたので、御逗留も出来ず、主上は又輿を召されたが、輿を舁き進らする者が皆逃げ失せたので、細川清氏は馬から下りて徒歩となり、鎧の上に主上を負ひ奉つて塩津山を越えた。これから東は路次の煩ひもなく、やがて美濃の垂井(たるゐ)宿に着いて、そこの長者の家を仮りの皇居とした。

山名伊豆守時氏京落ちの事

 山名右衛門佐師氏は都の敵を易々と攻め落して、心中の憤りが一時に散じた。彼れは軍勢が今少し集まつたら美濃の宰相中将を攻めようと企てゝゐたが、降参する敵もなくまた催促に応ずる兵も稀であつた。殊に出雲、伯耆から上つて来た兵共が、在京に労れて次第に逃げて行つたので、日が経つと全く無勢になつてしまつた。困つた事になつたと内心驚いてゐると、義詮朝臣が宇治勢多から攻め上るとも噂され、又赤松則祐が上洛するとも噂されたので、四方の敵が近づかぬ先に退いた方が良いと、四条少将は官軍を率ゐて吉野へ帰り、山名父子は伯耆の国へ下つた。

直冬吉野殿と合体の事附天竺(てんぢく)震旦(しんたん)物語の事
  
 翌文和二年の春、新田義興、脇屋義治は、共に河村城を逃げて何処にゐるとも分らないので、東国は一先づ安定の状態となり、将軍尊氏は上洛される事になつたので、京都は再び多勢となつた。此上は躇躇はいらぬ、早く山名を攻めようと、義詮を播磨国へ下された。
 山名伊豆守は之を聞いて、九州の人々に背かれて安芸周防の間に漂泊してゐた足利右兵衛佐直冬を招いて、総大将と仰いだ。しかし将軍に敵すれば子として父を譴(せ)める罪があり、天子に向へば臣として君を蔑(ないがしろ)にし奉る恐れがある。若し吉野の勅免を蒙らば二つながら支障がなからうと、直冬は潜に使を立てて、「尊氏卿、義詮朝臣以下の逆徒を退治せよとの綸旨を戴いて、大御心を休め奉りたい。」と上聞したところ、伝奏洞院右大将が頻りに取執(な)したので、直ちに綸旨を下される事になつた。これを聞いて遊和軒朴翁(いうくわけんはくをう)が非難して云ふには、「天下の治乱興滅は皆天理に基づくものであるから、直冬朝臣を大将として京都を攻められる事は恐らく成就しまい。何故かと云ふに、昔天竺に獅子国といふ国があつた。帝は他から后を迎へられ、后の行列が深山を通りかゝつた時、獅子が現れて従者三万人を一人も残らず喰ひ殺してしまつた。獅子が后を啣はへて深山に行くと、俄かに容顔美麗な男子に変じたので、后は其妻となられた。苔深き巌は変じて玉楼金殿となり獅子は化して万乗の君となり、后の物憂かつた心は消えて、三年経つと男子を産まれた。歳十五になつた時、此子は母を背負つて獅子国の王宮に遁れた。親獅子は之を知つて驚き、元の畜類になつて王宮の近くに迫つた。帝は一国を懸けて其獅子を退治させられた。其子は獅子を討つて一国を賜はらうと、矢を放つて親獅子を討つた。諸卿は相談して勅に従ふ功は大きいけれど、父を殺す罪は軽くない。と云つて一度懸けられた賞を与へぬわけにはゆかないと、直ちに其子に一国を下したが、其代り一国の租税を百年間天下の●(「魚」へん+「鐶」の右側)寡孤独の施行として引き去ることに治定せられた。又漢朝の古、帝堯(ていげう)と云ふ聖帝は、太子の丹朱(たんしゆ)に位を譲らず、父母に事へて孝であつた舜に位を譲られた。舜が天下を治められると、国は富み民が豊かで、四海は悉く其恩を仰いだ。孔子も忠臣を求めるには必ず孝子の門に於いてすると云はれた。父の為めに不孝な人がどうして君の為めに忠であり得よう。右兵衛佐直冬は父を亡ぼす為めに君の命(めい)を仮らうとする。君がそれを許されて大将を授けられる事は道でない。山名伊豆守が若し此人を取立てゝ大将とするならば必ず天下の大功を樹てる事は出来まい。」と、果して此言の如き世の中となつた。

直冬上洛の事附鬼丸鬼切の事

 足利直冬を大将として京都を攻めよとの綸旨を下されたので、山名伊豆守時氏、子息師氏は、五千余騎の兵を率ゐて、文和三年十二月十三日伯耆国を立つた。直冬は已に丹波の大江山を越えたといふ注進が来たが、京都の兵は悉く義詮に附けて播磨へ下してあり、京都は全く無勢であつたから、京中での合戦は不利であらうと、尊氏は正月十二日の暮方に主上を奉じて近江の武佐寺(むさでら)へ落ちられた。同月十三日、直冬が都に入ると、越中の桃井、越前の修理大夫高経が三千余騎で上京した。桃井は高倉禅門に附いて望を達しなかつた怨みがあるが、尾張修理大夫高経は、何故俄に敵になつて、将軍の世を傾けようとするのか。それについては、面白い物語がある。先年新田義貞を討つた時、手に入れた源平代々の重宝、鬼丸、鬼切といふ二振の刀を、将軍が特に所望されたが、高経は惜しんで献らず、焼け損じたと云つて他の刀を故意に焼き損じて献つた。此事が後京都に知れ、将軍は忿つてそれ程の恩賞を与へられなかつた。
 一体此鬼丸といふた刀は、北条時政が天下を執つた頃、夜な夜な枕元に現れて時政を悩ませた小鬼の害を除いたもので、高時の代まで平家の嫡家に伝はつてゐたが、建武二年の鎌倉合戦の時義貞の手に移つた。又鬼切と云ふ太刀は、元は清和源氏の先祖摂津守頼光のものであつた。昔大和国宇多郭の大森にゐた鬼を切り、更に多田満仲(ただのまんちう)の手に渡つてから、信濃国戸蔵山(とがくしやま)で鬼を切つたので、鬼切といふ名称を得、其後代々源家の重宝となつたものである。此両剣の事から将軍を啣んで、高経は遂に宮方に附いたのである。

神南(かうない)合戦の事

 将軍は持明院の主上を奉じて近江国四十九院に逃げ止まり、義詮朝臣は西国の敵を支へんが為めに予て播磨の鵤(いかるが)にゐられた。其中、諸国から故旧恩顧の兵共が多く馳せ参じて、武家方の勢力が、再び強盛になつたので、東西の牒使は合図の日を定め、将軍は二月四日に三万余騎を率ゐて東坂本に着き、義詮は七千余騎で同日の早朝、山崎の西、神南の北の峯に陣を取つた。右兵衛佐直冬は、自ら一方の大将となつて尾張修理大夫高経以下六千余騎を率ゐて東(とう)寺を攻(つめ)の城(一)に構へ、其兵が七条から下九条に充満した。他の一手は山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏を大将とした五千余騎、左に河を境として淀、鳥羽、赤井、大渡に陣を取り、河から南には吉野の軍兵三千余騎が八幡の山下に陣を取る。
 神南の義詮朝臣の陣では、西の峯、南の峯、北の峯の三方に分れて陣を固めた。嶮しい山の常として、余所は見えながら麓は見えない。何処の陣へ先づ敵が寄せるであらうかと遠方を望んでゐると、山名左衛門佐を初めとして、出雲、伯耆の軍勢三千余騎が西の峯へ一息に駆け上つて、一度に鬨の声を上げた。二陣の南の峯は細川右馬頭が固めてゐたが、谷深く切れて敵の上る方法がないと思つてゐる処へ、山名伊豆守を先とした二千余騎が、其岨しい山路を曲折して上つて来た。此一陣二陣が忽ちに破れて、山名は弥々(いよ/\)勝ちに乗じて進んだので、峯々の軍勢は戦はないで逃げ出し、大将義詮の陣には僅か百騎許りが残つただけであるが、佐々木入道道誉、赤松律師則祐の二人は少しも落胆せず、敷皮の上に居直つて、「何処へ一足も退きませう。唯だ我等が討死するのを御覧ぜられて後、静かに御自害なさいませ。」と大将を眼前に置いて、益々勇み立つた。大将の陣が無勢になり、四目結(よつめゆひ)の旗が一旒あるのを見て、山名は大いに悦び、「我(われ)の乱を起したのは、唯だ道誉の無礼を憎いと思ふからだ。あの四目結の旗は道誉だ。あいつの首を取つて我に見せよ。」と歯噛(はがみ)をして進んだ。敵が近づいて二町許りとなると、赤松則祐は帷幕(ゐばく)(二)を颯と打挙げて「天下の勝負は此一戦にある。何の為めに命を惜むのだ。名将の御前で確(しか)と討死して、後世の記録に名を止めよ。」と下知したので、「承りました。」と答へて身方の兵は跳り懸つた。山名の軍勢はこれに遮ぎられて進み得ず、両方の谷へなだれを打つて退く。山名右衛門佐は、後の軍勢を麾(さしまね)いて猶駈け入らうと四方を見廻すと、吉野の官軍がわけも無く崩れ落ちて退いたので、もはや矢の尽き気力の疲れた山名の軍勢は、心がいくら猛くても身が叶はず、心ならずも身方に引立てられて山崎を指して引退く。敵は勝に乗じて嶺々谷々から駈け立て、逃げる敵に追ひ縋る。右衛門佐は引返して大勢の中へ駈け入り、面も振らずに戦ふと、左の眼を射られて肝が消えたので、太刀を倒に突いて心を取直さうとする処へ、雨と降る敵の矢が馬の太腹草脇(三)に五筋まで立つたので、小膝を折つてどうと倒れた。馬から下り立つて鎧の草摺畳み上げて、腰の刀を抜いて自害しようとせられるのを、河村弾正が馳せ寄つて、自分の馬に掻き乗せ、戦ひ疲れて岩の上に休んでゐた福間三郎を招いて馬の口をとらせ、河村は追ひ懸る敵に走り懸つて切死に死んだ。山名は流れる血が目に入つて東西も分らず、敵の中へ馳せ入らうとして、「馬廻りは誰れだ、此馬の口を敵に向けよ」と云つたが、福間は「どちらが敵の方でございます。」と身方の方へ馬を引いて退いた。


(一)後攻の城。
(二)帷幕はこゝでは只だ幕の事。
(三)草脇は馬の前胸部。


巻 第三十三

京軍(きやういくさ)の事

 神南の戦に山名が負けたと聞いて、将軍は比叡山を下つて東山に陣取り、仁木頼章(よりあきら)は嵐山に陣取つた。京都から南方は八幡まで宮方の陣となり、東山、西山、山崎、西岡(にしのをか)は皆将軍方の陣となつた。其地域内にある総ての神社仏閣は、役所の垣楯(かいだて)を作る為めに毀され、山林竹木は薪櫓(たきぎやぐら)の料に伐り尽くされた。京都の市中に寄せる敵を見透す為めに、将軍方は東山から出て来て日に夜に京中を焼き払ふ。
 さうかうしてゐる中に、二月八日、細川清氏は千余騎で四条大宮へ押寄せて、北陸道の敵八百余騎と駈け合つて、追ひつ追はれつ終日戦つて、左右へ颯と引退いた。二月十五日の朝は、東山の軍勢が上京(かみぎやう)へ打入つて兵糧を集めると聞いて、苦桃(にがもゝ)兵部大輔、尾張左衛門佐が、五百余騎で東寺を打出て、一条、二条の間を二手に分れて打廻る。これを見て細川清氏、佐々木黒田判官は七百余騎で東山から降りて来る。両軍は六条東洞院(ひがしのどうゐん)を東へ烏丸(からすまる)を西へ、追ひつ返しつ七八度まで揉み合つたが、敵身方互ひに退いて京(きやう)、白川(しらかは)へ帰つた。三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原らは、相集つて七千余騎で、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦ひ、一手は尾張高経と戦つた。寄手は七条大宮、東寺と転戦し、東寺の前に向城(むかひじやう)のやうに蹈み止つたので、東寺に籠る敵は城戸より外へは出ない。かうして京中での合戦は数日に及び、雌雄日に日に替り、今こそ安否に関はる時と見えた。合戦は今までは互角であつたが、山陰道は頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲まれ、東山(とうせん)、北陸の両道は将軍の大勢に塞がれて、兵糧運送が全く杜絶え、且つ将軍の軍勢は日々に強くなる一方なので、右衛門佐直冬朝臣も、これでは到底叶はないと、三月十三日の夜、諸大将と共に東寺、淀、鳥羽の陣を退いて、八幡、住吉、天王寺、境浦へと逃げた。

八幡御託宣の事

 八幡に逃げた直冬朝臣は、「神の託宣によつて軍(いくさ)の吉凶を知らう。」と、様々の幣を奉り、神の御告を待つた。神の御告を知らせる巫女は、「たらちねの親のまもりの神なればこの手向(たむけ)をばうくるものかは」といふ神歌を二三遍詠じたので、諸大将はこれを聞いて、兵衛佐殿を大将として将軍と戦ふ事は不利益だと知つて、各々自分の国へ馳せ帰つた。
 
三上皇吉野より御出での事
  
 官軍は東寺、神南の戦に負けて各々其国へ逃げ帰つたので、京都は頗る平静になつた。先に賀名生の奥に押籠められた持明院の本院、新院、主上、春宮は、延文二年二月、山中から御出になつて京都へ遷幸あらせられた。上皇(光明院)は伏見殿に移らせられたので、参り仕へる公卿は一人も無く、庭上には草が生ひ茂つた。本院は河内の行宮で既に御出家遊ばされ、小倉の麓に庵を結ばせられた。

飢人身を投ぐる事

 世上の有様を見聞きすると誠に恐ろしい。此二十余年の兵乱に宮殿は多く焼け亡びて、纔かに十中の二三しか残つてゐなかつたのに、又今度の東寺合戦の為めに其全部が亡びて、京白川には武士の邸宅の外、一戸の民家すらも残つてゐない。離々たる原上(げんじやう)の草、累々たる白骨、ありし都の跡とも見えなくなつたので、上は大臣の如き貴族から下は女房達に至るまで、大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、遠国に落ち下つて賤しい田夫野人に身を寄せる人もあつた。
 中でも哀れに思はれるのは、或御所の上北面(一)に兵部少輔某(ひやうぶのせうなにがし)と云つて、日頃は富み栄えて、楽みの身に余つたものが、此兵乱の後、財宝は取散らされ、血縁の者は何処とも知れず逃げ失せて、唯だ七歳の女子、九歳の男子、年頃相馴れた女房の三人だけが我身に添つてゐた。都の内には身を置く縁者も無く、路傍に袖を広げて物乞ひすることも流石に出来かねて、思ひ余つて、女房は娘の手を引き、夫は子の手を引いて、泣く/\丹波の方へ落ちて行つた。誰れを憑むともなく、何処へ落ち著くとも分らないので、四五町行つては野原の露に袖を片敷いて泣き明し、一足歩いては木の下草にひれ伏して泣き暮す。唯だ夢路を辿る心地で、十日程して丹波国井原(ゐはら)の岩屋の前を流れる思出(おもひで)河といふ所に行き著いた。疲れて足も立たないやうになつて、母、幼き者は皆川の端(はた)に倒れ伏したので、夫は見かねて、ある家の中門の前に彳(たたず)んで疲れ乞(ごひ)(二)をした。暫くすると、侍中間が出て来て、「疲れ乞するのは、夜討強盗で様子を探る者か、さもなくば宮方の廻文を持ち廻る者かだ。」と手取り足取りして打縛り、二時(ふたとき)ばかり拷問した。それとも知らずに女房子供は夫の帰りを待つてゐると、「あの家に捕へられてゐるのは京家の人と見えるが、今頃はもう責め殺されたであらう。」などと傍を通る人が云ひはやす。母と二人の幼子はそれを聞いて、泣き悲しみ、互ひに手を取合つて、哀れにも思出河の深い淵に身を投げた。兵部少輔はやがて疑ひ晴れて許され、それにも懲りず、又民家に行つて菓子(このみ)など乞ひ集め、先の河端へ帰つて見ると、母子の著けてゐた小草鞋(わらぢ)杖だけがあつて、其人はゐない。周章て騒いで探し歩くと、渡(わたし)から少し下の井堰に母子三人が抱合つて流れ懸つてゐた。引上げて泣き悲しんでも、既に身は冷え、色が変つてゐた、どうすることも出来ないから、又女房と二人の子とを抱きかゝへて、本の淵に飛び入り、一所に死んだ。

公家(くげ)武家栄枯(えいこ)地を易(か)ふる事

 公家(くげ)の人はかやうに困窮してゐるけれども、武家の輩は富貴日頃に百倍して、身には錦繍を纏ひ、食物は八珍(はつちん)を尽した。諸国では守護が地頭(ぢとう)家人(けにん)を郎従の如くに召仕つて一国の成敗をなし、都では在京の大名が茶の会を始め、博奕をなし、田楽(でんがく)、猿楽(さるがう)、傾城、白拍子を玩んで、栄華を極めてゐる。其費(つひ)えは幾万とも知れない、唯黄金を泥に捨て、玉を淵に沈めるに似てゐる。一体これらの人々は、長者の果報があつて、地から物が湧いたのか、天から財(たから)が降つたのか、降つたのでもなく、湧いたのでもない、唯だ寺社本所(ほんしよ)の所領を押へ取り、土民百姓の資財を責め取り、訴訟人の賄賂を取集めたまでのものである。万事の政事を閣(さしお)いて、人の歎きをも知らず、嘲りをも顧みず、久しきに亘つて遊び狂つたのは全く前代未聞の悪事である。

将軍御逝去の事

 同年四月二十日、尊氏卿は背中に癰瘡(ようさう)が出て心地(こゝち)悪しくなられ、種々手当の効もなく、同月二十九日御歳五十四で逝去せられた。中一日おいて、衣笠山(きぬがさやま)の麓等持院(とうじゐん)に葬つた。
 程なく五十日が過ぎたので、日野左中弁忠光朝臣を勅使として、従一位左大臣の官を贈られた。宰相中将義詮朝臣は宣旨を啓(ひら)いて三度拝せられたが、涙をおさへて、  かへるべき道しなければ位山(くらゐやま)
    のぼるにつけてぬるゝ袖かな
と詠ぜられたのを、勅使も哀れに聞かれて奏聞した。君は限りなく御感動遊ばされて、新千載集を撰ばれた時、委細の事書(ことがき)を載せられて哀傷の部に収められた。

新待賢門院附梶井宮御隠れの事
  
 同年四月十八日、吉野の新待賢門女院(後村上帝の御母)が御隠れになられた。国母に在らせられる方だから、主上初め百官が皆な後宮の月に涙を落された。と、又同じ年の五月二日に、梶井(かぢゐ)二品(ぼん)親王が御隠れになつた。山門の悲み、竹園の御嘆きは類ひなきものであつた。
 
崇徳院の御事

 今年の春、筑紫の探題であつた一色直氏(いつしきなほうぢ)、舎弟範光(のりみつ)は、菊池肥後守武光(たけみつ)に打負けて京都へ上つたので、少弐、大友、島津、松浦(まつら)、阿蘇、草野に至るまで、悉く宮方に徒ひ靡いた。これは天下の一大事であると、細川繁氏を伊予守に任じて九国の大将として下された。此人は先づ讃岐国へ下つて軍勢を集めてゐたが、延文四年六月二日、俄に病みついて物狂ひになり、自ら口走つて、「我は崇徳院の御領を落して軍勢の兵糧所に充て行つたので、此通りの重病を受けた。あゝ熱いこらへ切れない、助けてくれよ。」と悲しみ叫んで悶絶した。病みついてから七日目に千騎ばかりの敵が押寄せた。五百余人の兵が之に応戦したが、搦手から寄せたと思はれる兵十余騎、大将細川伊予守の首と家人(けにん)行吉(ゆきよし)掃部助の首とを鋒に貫き、之を高く差し上げると、大手の敵は勝鬨を三声上げて、雲に乗つて白峯(しらみね)の方へ飛び去つた。変化(へんげ)の兵が帰ると、討たれた者も、負傷した者も皆無事であつた。不思議なこともあればあるものだと思つてゐると、伊予守も行吉も暫くして同時に息が絶えた。

菊池合戦の事

 菊池肥後守武光は、畠山治部大輔が楯籠る六笠城(むかさのしろ)を攻めようと、四千余騎を率ゐて十一月十七日、肥後国を立つて日向国へ向つた。菊池に九州を打ち従へられて、心中潔しとしない大友刑部大輔氏時は、菊池を日向国へ遣り過して後、豊後の高崎城に旗を挙げた。菊池は前後に大敵を受けて、人目には籠の鳥、網代(あじろ)の魚の如くに思はれたが、自分は物の数ともせず、畠山の子息民部少輔が籠つた三俣城(みまたのしろ)を昼夜十七日の中に攻め落した。畠山父子は叶はないと思つたか、退いて深山(みやま)の奥へ逃げ籠つたので、菊池は今はこれまでと肥後国へ引返した。
 菊池は更に太宰少弐(だざいのせうに)、阿蘇大宮司を誘つて、大友退治の為めに五千余騎を率ゐて豊後国へ馳せ向つた。此時、少弐が俄に心替りして太宰府に旗を上げたので、阿蘇大宮司はこれに身方した。七月に征西将軍宮(世良親王)を大将として、新田、菊池の一族が太宰府へ押寄せると聞いて、少弐は其勢八千余騎で、高良山(かはらさん)、柳坂、水縄山(みなはやま)の三箇所に陣を取つた。七月十九日、菊池は手勢五千余騎を率ゐて筑後河を打渡り、少弐の陣へ押寄せ、少弐は三十余町退いて大原に陣を取つた。其間には深い沼があつて、菊池が攻めようとしても進めない。両陣は僅かに隔てゝ相対した。八月十六日の夜半に、菊地が先づ三百人を選(すぐ)つて、山を越え水を渡つて、搦手へ廻し、重だつた兵七千余騎を三手に分けて、筑後河端を水音に紛らして嶮岨へ廻つて押寄せた。大手の寄手が近づく頃に、搦手の兵三百人が敵陣へ入つて三処に鬨の声を揚げ、八方に走り散つて敵の陣へ矢を射懸けた。境界の狭い場所に六万余騎の兵が、沓の鋲(べう)を打つたやうに役所を作り並べてゐるので、鬨の声に驚いて何れを敵と見分ける事もなく、此処に寄り合ひ彼処に駈け合つて、喚き叫んで追ひつ返しつ同士打をする事数時間に及んだので、少弐は憑み切つた兵二百余人を同士打に討たれて失つた。一番二番三番の戦に、少弐は嫡子太宰新少弐忠資(ただすけ)以下を討たれたが、菊池方でも宮が負傷せられた。菊池肥後守武光、子息肥後二郎は、宮が負傷せられたのを見て、「何の為めに惜しむ命だ。日頃の契に違はぬならば、我に伴ふ兵は、残らず討死せよ。」と励まして真先に敵中に駈け入つた。敵は菊池を見知つてゐるので、射落さうと鏃を揃へて雨の降るやうに射たけれども、菊池が著てゐる鎧は、此合戦の為めに三人張(三)の精兵に草摺を一枚づゝ射させて通らぬさね(四)を一枚まぜに拵へて縅したものであるから、いくら強弓(つよゆみ)を射ても裏を通す矢は一つもなかつた。馬は射られて倒れるけれども、乗手は少しも創を受けないから、乗り替へては駈け入り、駈け入り、十七度まで戦つた。然るに、菊池は兜を落されて、小鬢を二太刀切られた。それ討たれたといふ間もなく、少弐新左衛門武藤(たけふぢ)と押並んで組んで落ち、少弐の首を取つて鋒に貫き、其兜を取つて打著て、敵の馬に乗り替へ、敵の中へ破つて入つた。少弐今は叶はないと思つたか、太宰府へ引退いて宝万岳(はうまんだけ)へ引上げた。菊池も勝軍(かちいくさ)はしたが、続いて敵に懸らうとはせず、肥後国へ引き返した。其後は敵も身方も皆自分の領地に楯籠つて、中々出て来て戦はなかつた。

新田左兵衛佐義興自害の事

 尊氏卿逝去の後、東国はまだ平穏であつたが、此三四年越後国に城郭を構へてゐた新田義興が、窃に武蔵国に越え漸く勢力を得つゝあつた。其事が鎌倉の管領足利基氏、畠山道誓の耳に入つたので、道誓は、曾て義興の軍中にあつて、功名の高かつた竹沢右京亮を近づけ、謀を運らして義興を討つやうに命じた。竹沢は家に帰ると、早速傾城数十人を呼び寄せて遊び戯れたり、傍輩二三十人を招き集めて博奕を昼夜十余日までもしたりした。其事を知つて畠山は大に忿り、制法を破つた罪に依つて右京亮の所帯を没収し、其身を追ひ出した。之は二人が相談して組み立てた芝居を筋書通り実演したものである。右京亮はそこで義興に同心の書を寄せたが、容易に信用せられなかつたので、人を京都に出して、さる宮の御所から少将殿と申す上臈女房の、年十六七許り、容色の類ひない方を申し下して義興に送つて其歓心を買つたのみならず、手を変へ品を変へて取入ることに心を砕いたので、義興も遂に心置きなく右京亮を思ふやうになつた。右京亮はもう大丈夫だと、宴に義興を招いて亡き者にしようと計つたが、義興は少将の諌めに依つて出る事を止めた。これを聞いた右京亮は、翌夜、少将の局を門へ呼び出し奉つて、刺し殺して堀の中に沈めた。実に痛ましい事だ。都を打ち続いた世の乱れに、荒れ果てた宮の中に住みかねて身を萍(うきくさ)の寄るべとては、此竹沢のみと心中篤く憑まれたのに、何といふ理由も無い、見てさへ心の消える秋の霜(五)の下に伏して、深い淵に沈めさせられた最後の有様を思ひ遣るだけでも哀れで、それと聞く他人の袖さへ涙に萎れた。
 我力では討てないと知つた竹沢は、畠山へ使者を立てゝ、討手を下されたいと願つた。畠山は悦んで、江戸遠江守と其甥下野守とを下した。江戸遠江守は竹沢右京亮を縁にして、「畠山殿は理由なく所領の地を没収せられた。畠山殿を討たう為めに佐殿(すけどの)を大将と仰ぎ度いと存じます。」と義興に申し入れた。義興は外ならぬ竹沢の取りなしだからと信用せられて、十月十日の暁に鎌倉へ急がれた。
 江戸、竹沢は矢口渡(やぐちわたり)の船の底を二所くり抜いて栓をさし、渡の向うには宵から江戸遠江守が甲冑に身を固めた三百余騎を率ゐて木の陰、岩の下に隠れて、仕損じたならば討ち止めようと用意して待つてゐた。後には竹沢右京亮が射手百五十人を選(すぐ)つて、引返されたならば遠矢で射殺さうと巧(たくら)んだ。
 兵衛佐は世良田(せらた)右馬助以下僅かに十三人を引き連れて、更に他人を雑へず、栓をした舟に乗つて、矢口渡に押出られた。そこを三途(さんづ)の大河と気づかれなかつたのがあはれである。此矢口渡は面(おもて)四町に余つて浪強く底が深い。渡守は已に櫓を押して河の半ばに来た時、取外した様子して櫓擢を河に落し入れ、二つの栓を抜いて、二人の水手(すいしゆ)が同時に河に飛び入つて逃げた。これを見て、向ふ岸から兵四五百騎が駈け出して鬨をどつと作ると、後からも鬨を合はせて、「愚かな人々だ。詐(たばか)られるとは知らないのか。あれを見よ。」と嘲つて、箙(えびら)を叩いて笑つた。其中に水が船に湧き入つて腰までも来た時、井弾正(ゐのだんじやう)は兵衛佐殿を抱き奉つて宙に差揚げたので、佐殿、「日本一の不道人どもに、詐られたことの腹立たしさよ。七生まで汝等の為めに恨みを報じよう。」と、腰の刀を抜き、左の脇から右の肋骨まで掻き廻し掻き廻し二刀まで切られると、井弾正は腸(はらわた)を引切つて河中へがばと投げ入れ、己が喉笛二所刺し切つて髪束を掴み、自分の首を後へ圻りつけた、其音が二町許り向ふまで聞えた。他の者も皆首を貫いて河中に飛び入つた。
 江戸遠江守は恩賞を戴いて、其所領地に帰る途中、矢口渡に来ると先の渡守が迎船を出した。河の半ばまで来ると、俄に一天掻き曇つて、浪逆巻き、船が覆つて、水手梶取一人も残らず水中に沈んだ。遠江守は驚いて引返すと、電閃めき雷が鳴り、現れた義興の霊に矢を射られて死んだ。其後は雷火頻りに落ちて家を焼き、渡には夜な夜な光る物が出て、往来の人を悩ますので、近隣の者が集つて義興の霊を神と崇め、新田大明神と申して、其祭礼は今に絶えないといふ。誠に不思議な事である。


(一)上北面は昇殿を許された北面の武士。
(二)疲れ乞とは疲れて物乞ひする事。
(三)三人張とは三人がゝりで引く弓。
(四)さねは「札」と書く、前出。
(五)「秋の霜」とは刀のこと。


巻 第三十四

宰相中将殿に将軍の宣旨を賜はる事

 鎌倉贈左大臣尊氏公が薨ぜられた時、世の危い事は、深淵に臨んで薄氷を踏むやうで、天下が今に覆るだらうと見えたが、新田左兵衛佐義興は武蔵国で討たれ、筑紫の菊池肥後守武光も勢が衰へたので、宮方の人々は、月を望んで暁の雲に逢つた如く、一天朗らかに晴れさせたさの心の儘にならぬ憂き世を嘆いたが、武家方の武士共は、樹を移して春の花を看るが如く、危き中にも待つ事が多くて、今に何か善い事があらうと末を楽んだ。さうかうしてゐる中に、延文三年十二月十八日、宰相中将義詮朝臣は二十九歳で征夷将軍に補せられた。

畠山道誓上洛の事

 思ひの外に世の中は平穏だが両雄は必ず争ふといふから、鎌倉の左馬頭殿(足利基氏)と宰相中将との御仲が不和になりはしないかと、人々は皆な危倶の念を懐いた。畠山道誓はこれを聞いて、左馬頭に、「東国の勢を率ゐて京都へ上り、和田、楠を攻め落して、宰相中将殿の御疑ひを霽らしたいと存じます。」と申したので、左馬頭は快くそれを許した。延文四年十月八日、道誓は舎弟畠山尾張守以下二十万七千余騎を率ゐて上洛した。前後七十余里に亘つて櫛の歯を引く如く、路次に二十日余りの逗留あつて、十一月二十八日の正午に京都に著いた。

和田楠軍(いくさ)評定の事附諸卿分散の事

 其頃吉野の新帝(後村上天皇)は、河内の天野(あまの)といふ処を行宮としてゐられたので、楠左馬頭正儀(まさのり)、和田和泉守正武(まさたけ)の二人は、そこに参つて奏聞するには、「畠山入道道誓が東八箇国の軍勢二十万騎を率ゐて已に京都に著きました。敵の軍勢は雲霞のやうであらうと想像しますが、しかし合戦に於いては、必ず身方の勝かと考へられます。其故如何といふに、敵は天の時、地の利、人の和を三つ共失つて居りますから、縦令百万の勢を併せても恐るゝには足りません。しかし今の皇居は余りに奥ゆかしくございませんから、金剛山(こんがうせん)の奥、観心寺(くわんしんじ)と申す処へ御座を移しまゐらせ、正儀正武は和泉、河内の勢を率ゐて、千剣破(ちはや)、金剛山に引籠り、龍山(りうせん)石川の辺に駈け出で駈け出で、敵を千里の外に追ひ散らして、御運を一時に開き進らせようと存じます。」と無雑作に申上げた。主上を初め進らせて、近侍の公卿に至るまで、皆憑もしく思はれた。それでは皇居を観心寺に移さうと、主上はそこに臨幸になられたが、其時、無用の者は何処へでも暫く遁げて、敵退散の時を待てと仰せ出されたので、摂政関白から女房に到るまで、高野、粉川(こがは)、天河(てんのかは)、吉野、十津(とつ)河の辺へ落ちて行つた。

新将軍南方進発の事附軍勢狼藉の事

 延文四年十二月二十三日、足利新征夷大将軍義詮朝臣は、都を立つて南方の大手に向はれた。其勢七万余騎は、大島、西宮、渡辺、尼崎、鳴尾に居余つて、堂宮(だうみや)の中までも兵が充ち満ちた。畠山道誓は搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎を引率して、翌日午前八時に都を立つて、八幡の山下、葛葉(くずは)に陣を取つた。将軍方は此処に日を過し、彼処に時を送つて、容易に攻めないので、和田、楠は、さらば此方も陣を前に取り、城を後に構へて合戦をしようと、俄に赤坂城を拵へて三百余騎で楯籠つた。福塚、川辺以下の兵は平岩城(ひらいはのしろ)を構へて五百騎で楯籠る。八尾城(やをのしろ)には八百騎、龍泉峯(りうせんのみね)には千余人が楯籠る。寄手は二月十三日、先陣二十万騎を金剛山の西北方、津々(つゝ)山に陣取らせた。敵身方の距離は五十余町で、相対して未だ戦はないのに、寄手の兵は早くも疲れて、神社仏閣に乱入して神宝を奪ひ合つたり、仏像経巻を売つて魚鳥を買つたりした。実に前代未聞の悪行だ。畠山が若しこれを誡めなかつたならば、今度の軍は勿論捗々しくあるまいと、人々はさゝやき合つた。

紀州龍門山(りうもんせん)軍の事

 四条中納言隆俊は紀伊国最初峯(さいしよがみね)に陣取つてをられると聞いて、同年四月三日、畠山道誓の舎弟尾張守義深(よしふか)を大将として、三万余騎をそこに差向けた。此勢は和佐山(わさやま)に上つて三日まで進まず、先づ己が陣を堅くして後に寄せよう算段をしたので、これを欺く為めに宮方の侍大将塩谷伊勢守(しほのやいせのかみ)は、最初峯を退いて龍門山に籠つた。畠山の執事遊佐勘解由(ゆさかげゆ)左衛門これを見て、「それ敵は逃げたぞ。何処までも追つ駈けよ。」と楯の用意もせずに馳せ向つた。岩石重畳して路羊腸たる龍門山の坂中まで来ると、野伏共千余人が峯の東西から、雨の降るやうに散々に射るので、寄手が進退極つて、立ちすくんでゐると、黄瓦毛(きかはらげ)の逞しい馬に跨り、紺糸の鎧のまだ新しいのを着た武者が、塩谷伊勢守と名乗つて真前に進んで来た。引き心地の附いた兵は、手負ひの者を助けようともせず、馬甲冑を捨てゝ、嶮しい篠原を滑るともなく転ぶともなく三十町余りも逃げた。塩谷は余り深く長追ひしたので、続く身方なく敵に討たれた。
 
二度紀伊国軍の事附住吉の楠折るる事
  
 紀伊国の戦に寄手が討たれたので、身方はもはや和佐山の陣を支へ難いといふと、津々山の勢も尼崎の大将も皆色を失つた。紀伊路の向ひ陣が落ちては危険である、何でも敵の懸らない前に新手を加へて尾張守に力をつけなければならぬと、四月十一日、七千余騎を紀伊路へ差し向けた。芳賀(はが)兵衛入道禅可は嫡子伊賀守公頼(きんより)を紀伊路へ向はせたが、二三里程見送つて、涙を流して言ふには、「今度の戦に、若し敵を追ひ落さなければ、生きて二度我に顔を合はせるな。これは円覚寺の長老から戴いた御袈裟だ。これを母衣(ほろ)にかけて後世の悪業を助かれ。」と懐中から七条(一)の袈裟を取出して泣く泣く公頼に与へた。公頼は訓へを受けて合点し、父子双方へ引き別れたが、今生での対面はこれ限りでないかと思ふ、名残が惜まれて、互ひに顧みて頬に涙を流した。さうかうしてゐる中に、芳賀甲賀守は龍門の麓へ打寄せ、打寄せると同時に攻め上つたので、四条中納言隆俊卿は退いて阿瀬河城(あせがはのしろ)へ籠つた。此事を聞召されて、吉野の主上を初め、月卿雲客はいづれも色を失つてゐると、住吉の神主津守(つもり)国久が勘文を以て、今月十二日の正午、当社の神殿鳴動すること久しく、庭前の楠が風も吹かないのに神殿に倒れかゝつたと奏聞した。諸卿は不吉の事だと囁き合つたが、大塔忠雲僧正(おほたふのちううんそうじやう)の説によつて、住吉四所の明神、日吉七社権現を勧請し奉つて、御修法を百日の間引続き行はせられた。

銀嵩(かねがたけ)軍(いくさ)の事附曹娥(そうが)、精衛(せいゑい)の事

 此頃、吉野の将軍宮と申すは、故兵部卿(こひやうぶきやう)親王の御子で、御母は北畠准后(きたばたけじゆんこう)の御妹、吉野の新帝が即位せられて後、間もなく征夷大将軍の宣下を蒙られた。其宮が、今、紀伊国の合戦に四条中納言が打負けて阿瀬城へ落ちた事を聞かれ、御自分で出戦しようと仰せられたので、赤松氏範(うじのり)に吉野十八郷の兵を副へて遣はされることになつた。ところが宮は此軍勢を従へさせられると、急に物狂はしくなられ、吉野の新帝を亡ぼし奉らうといふ逆心を起されたが、本当に不思議なことである。宮は密に此事を義詮朝臣へ牒ぜられ、四月二十五日、賀名生の奥、銀嵩(かねがたけ)といふ山に打上つて御旗を揚げられ、先の皇居賀名生の黒木の内裏を初めとして、其辺の山中に隠れてゐる月卿雲客の宿所々々を焼き払はれた。暫くの間は真実を知る人が無かつたが、愈々御謀叛と知れたので、二条関白殿を大将軍として、千余騎の軍勢を差し向けられた。と、吉野十八郷の者共は皆散り/″\に逃げ失せたので、宮の御勢は僅か五十余騎になつてしまつた。三日三夜戦つて、氏範は数箇所の創を受けたので、降人となつて播州へ帰り、宮は南都の方へ遁げられた。
 昔漢朝に一人の貧者があつた。曹峨といふ娘を連れて他国へ落ちる途中、河を渡らうとして毒蛇に嚥まれた。曹峨が泣き悲しんで神に祈ると、毒蛇は寸々(ずた/\)に切り割られて波上に浮び出た。又発鳩(はつきう)山に精衛と言ふ人があつて、他国からの帰りに船が覆つて海中に沈んだ。故郷にゐた幼い子が、かくと聞いて、紅辺にさすらつて夜昼泣き悲しんだ末、遂に蒼海の底に身を投げた。ところが其魂魄は一羽の鳥になつて波の上を飛び渡り、精衛々々と呼ぶ声が、聞く人に涙を催さしめた。人として鳥獣にも及ばず、男子であつて女子にも及ばないと、此宮の御謀叛を嘲らない者はなかつた。
 
龍泉寺(りうぜんじ)軍(いくさ)の事
  
 和田、楠は龍泉城に千余人を籠め置いたが、寄手が一向攻めようともしないので、龍泉の勢(ぜい)を皆呼び下して、其代りに百人許りの野伏共を見せ勢として籠らせ、此処の木の梢、彼処の弓蔵(ゆみがくし)の外れに旗だけを結びつけて、尚ほ大勢が籠つてゐる様子に擬装した。津々山の寄手はこれを見て攻めようとする者は一人も無く、唯だ徒に旗を見上げるばかりで百五十余日を過した。或時土岐桔梗一揆の中に、生(なま)才覚のある老武者が居り、龍泉城をつくづくと見守つてゐたが、「太公の兵書の塁虚篇(るゐきよのへん)に、其塁上を望むに飛鳥多くして驚かず、上に氛気なきは必ず敵の詐つて偶人を作るを知ると云つてある。此三四日注意して見てゐると、天に飛ぶ鳶、林に帰る鳥が曾て驚かない。屹度大勢が籠つた様子にして、旗許りを立て置いてあるに相違ない。」と云つたので、閏四月二十九日の暁に、桔梗一揆五百余騎は、龍泉の一の城戸(きど)に押寄せて、同音に鬨を作つた。城中の兵は暫く防戦したが、敵の大勢に敵(かな)はないと思つたか、赤坂を指して落ちて行つた。陣々の兵は桔梗一揆が龍泉を攻めると聞いて麓へ打向ふと、城は已に攻め落されてゐた。数万の軍勢は頭を掻いて、「これ程までの小勢とは知らなかつた。」と歯噛みをしても追ひつかなかつた。

平岩城(ひらいはのしろ)軍(いくさ)の事附和田夜討の事

 今川上総介、佐々木六角判官入道崇永(すうえい)、舎弟山内判官は、龍泉の軍に合はなかつた事を無念に思つて、態と他勢を交へずに五百余騎で、同じ日の夕方に平岩城に押寄せた。敵は怺へる事が出来ないで、其日の夜半に金剛山に逃げた。龍泉、平岩の二城が落ちたので八尾城も支へきれず、今は僅かに赤坂城が残つてゐるだけだ。陣々の寄手は一所に集まつて、五月三日の早朝、二十万騎で赤坂城に押寄せて、向城を構へた。楠は思慮が深くて、急に敵に当ることを避けたが、和田は戦ひを先として謀を待たぬ者であつたから、夜討に慣れた兵三百人を選(すぐ)つて、五月八日の夜、結城の向城に忍び寄つて、城戸口で鬨の声を上げた。結城の陣は少しも騒がず、此処を先途と防いだけれども、和田和泉守正武、真前(まつさき)に駈けて切つて入る。相従ふ兵三百人、兜の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合はせ/\勇ましく切り合つて火花を散らした。両軍は互ひに喚き叫んで、一時間許りは切り合つたが、結城の兵に敗色の見えた時、細川相模守が五百余騎で敵の後へ廻つたので、和田は兵数十人を討たれ、とても敵はないと思つたのか、一方の垣楯(かいだて)を蹈み破つて一度にはつと退いた。和田の夜討にも敵陣は一所も退かなかつたので、和田も楠も其夜半に赤坂城に火をかけて金剛山の奥へ入つた。

吉野の御廟耐震の車齢諸国の軍勢濠都に還る事

 南方の皇居は金剛山の奥、観心寺といふ深山であるから、容易に敵の近づける所ではないが、斥候(ものみ)の御警固と恃ませられた龍泉、赤坂は攻め落され、昨日一昨日(をととひ)までの身方が今日は多く御敵となつたと聞召されて、上を初め奉りて、女院、皇后、月卿、雲客は、限りなく懼(お)ぢ恐れさせられた。こゝに二条禅定殿下の候人(こうにん)(二)であつた上北面は、先に妻子を京都へ送り遣はし、我身も今は髻(もとどり)を切つてどんな山林にも世を遁れようと、吉野辺まで来はしたが、多年の奉公を捨てゝ主君に離れ、此境を立去る事が悲しいので、せめて今一度先帝の御廟へ参つて出家の暇を申さうと、唯一人御廟へ参つた。近頃は掃除する人もないと思はれて、荊棘(けいきよく)が道を塞ぎ、古苔が扉を閉ぢてゐる。岩漏る水の流れまでが悲しみを添へる音であるから、終夜円丘の前に畏まつて嘆いてゐると、疲れが出て来て、いつしか目睡(まどろ)んだ。其夢の中に、円丘の中から誠に気高い御声で、「人やある/\。」と召された。すると東西の山の峯から、「俊基、資朝これに候ふ。」と二人が参つた。顔を見ると正しく昔見た姿ではあるが、顔には朱を差し眼が光り耀いて、左右の牙が銀針を立てたやうに上下に生ひ違つて居る。暫くして円丘の石の扉を排く音がしたので、遥かに見上げると、先帝が袞龍の御衣を召され、宝剣を抜いて右の御手に提(ひつさ)げ、玉●(「戸」の下に「衣」)の上に坐してをられる。昔拝んだ龍顔とは異つて、忿れる御眸が逆(さかさま)に裂け、御鬚が左右へ分れてゐる。主上は俊基、資朝を御前近く召されて、「さても君を悩まし、世を乱す逆臣共を、誰れに言ひ付けて罰しよう。」と勅問せられると、俊基、資朝は、「南方の皇居を襲ふ五畿七道の朝敵を正成に、仁木義長を菊池入道に、細川清氏を土居、得能に、畠山入道、舎弟尾張守を新田義興に、それぞれ討伐を申付けましたから、遠からず討ち滅ぼすことでございませう。中にも江戸下野守、同遠江守の二人は殊に悪い奴ですから、龍の口に引据ゑて我手に懸けて切りませう。」と奏聞すると、主上は誠に御心地よげに打笑ませて、御廟の中に入らせられた。と、夢が覚めた。上北面は驚いて吉野から又観心寺に帰り、此由を人々に語つたが、信ずるものは一人も無かつた。しかし敵は観心寺の皇居へは曾て寄せず、五月二十八日、寄手の総大将宰相中将義詮朝臣を初め、畠山、仁木、細川、土岐、佐々木、宇都宮以下五畿七道の兵二十万騎は、我先にと上洛して、各々其国へ下つたので、上北面の夢と思ひ合はせて、仁木、細川、畠山の滅びるのも間がなからうと、夢を疑つた人々も却つてそれを恃みにしてゐた。


(一)袈裟の一種、条七つあり。
(二)門跡に召使はれる者。
(三)玉●(「戸」の下に「衣」)(ぎよくい)とは玉座の事。


巻 第三十五

新将軍帰洛の事附仁木義長を討たんと擬する事

 将軍義詮朝臣が帰洛したので、京中の貴賤は一方ならず悦んだ。其頃畠山入道道誓の宿所に、細川相模守、土岐大膳大夫入道、佐々木佐渡判官入道以下、日々寄り合つて酒宴や茶の会を催したが、互ひに隔心なき様子を見た後、畠山入道は密かに衆に私語して、「今度の戦の主旨は仁木右京大夫義長の分を超えた挙動を鎮めよう為めであつた。彼れの能力は一家をさへ治め得られるとは思はれない。然るに今四箇国の守護職を賜はり、仏神を敬はず、朝夕漁を業と為し、内では将軍の仰せを軽んじて成敗に拘泥しない。一体こんな不忠者に大国を管領させ、それで世の治まる道理があらうか。此次には仁木を退治して宰相中将の世務を助けたならば、故将軍も嬉しく思はれるであらう。方々はどう思はれるか。」と問ふと、細川相模守、土岐善忠、佐々木入道崇永は、皆な仁木に遺恨のある者であるから、這誓に同意した。

京勢重ねて南方発向の事附仁木没落の事

 かうした処へ、和田、楠らが金剛山並に国見から打つて出で、渡辺橋を切つて落して誉田城(ほんだのしろ)を攻めようとしてゐる由を、和泉、河内から早馬を立てゝ京都へ注進して来たので、義詮朝臣は誰れを差し下さうかと周章てたが、聞くと同時に、畠山道誓、細川清氏、土岐善忠、佐々木崇永ら、一揆同心の大名三十余人、其勢都合七千余騎は、公家の催促をも待たず、我先きにと天王寺へ向つた。これは全く南方の蜂起を鎮める為めではなく、唯だ右京大夫義長を亡ぼす為めに軍勢を集める企てであつた。訳も知られず、京都から大勢が下つたので、和田、楠は渡辺でも防がず、誉田城をも攻めず、又金剛山の奥へ引籠つた。京勢は本より敵退治の為めでないから、楠が退いても迫駈けもせず、皆天王寺に集まつて、仁木を討つ謀を運らした。
 唯だの二人でいふ事も、天知る、地知る、我知る、汝知る。況んや大勢集まつて囁く事であるから、どうしてそれが洩れずにゐようか。此陰謀は筒抜のやうに京都に聞えたので、義長は大いに忿つて、其由を宰相中将殿へ急ぎ参つて申すと、義詮は「これは義詮を亡ぼす企てゞあらう。我と君とが一所になつて戦つたならば、誰れが下剋上(げこくじやう)の者共に身方しよう。」と云つたので、義長は悦んで宿所へ帰つた。やがて天王寺の勢が二手に分れて、都へ攻め上るといふ噂が聞えたので、猶子中務少輔頼夏(なかつかさのせうよりなつ)に二千余騎をつけて四条大宮に控へさせ、舎弟弾正少弼に一千余騎をつけて東寺の辺に陣を張らせ、自分は帷幕(ゐばく)の中に策を練つてゐた。若し宰相中将が細川畠山に内通される事があつたら、外様の兵は二心を懐かう、中将殿を取籠めて、近習の者を近づけないやうにしなければならぬと、御屋敷の四方の門を警固して、御内外様(みうちとざま)の人々の中将に近づくのを防いだ。義長が今、武家執事の職にゐて天下の権を司るのは、宛も五更(一)に油乾いて燈(ともしび)将に消えんとする時、一段と光を増すのに似てゐる。さる程に、七月十六日、天王寺の軍勢七千余騎は、先づ山崎に集まつて二手に分れた。一手は細川相模守を大将として、西の七条口から寄せ、一手は畠山、土岐、佐々木を大将として東寺口から寄せよう手筈を定めた。京中はたゞ上を下へと騒ぐばかり。かゝる中にも中将殿は尚ほ仁木に取籠められてゐられたが、佐々木判官入道が忍びやかに小門から参つて「国々の大名が一人も残らず同心して、失はうと謀る義長を抱へられてどうなさる。道誉が只今仁木に対面して軍(いくさ)評定をしてゐる間に、他の小門から御出でなさいませ。馬の用意がしてありますと云つたので、中将は尤もの事に思ひ、道誉が仁木と軍評定をしてゐる中、夜の更けた頃を見計つて、中将は紅梅(二)の小袖に柳裏(三)の絹うちきて、女房の体(てい)で北の小門より出られ、馬に乗つて西山の谷堂(たにだう)の方へ落ちられた。中将が何処かへ落着いたと思はれる頃、道誉は宿所へ帰つた。義長は将軍の御座所に行つて、「夜が明けたら敵が寄せるのでございませう。余りにも久しい御宿籠(おんとのごも)り、御風気は如何でございます。」と申したので、女房達が御寝所へ参つて此由を申さうとすると、夜衣が小袖の上に引つかけてあるばかりで、下に寝てゐる人はない。女房達は周章て騒いで「上は御居でになりません。」と云ふと、義長は大いに忿つて、四方の門を閉し、人を出すなと騒動した。宰相中将殿が仁木の方に居られた時こそ、国々の勢、外様の人々も義長に従つてゐたが、中将殿が落ちられたと聞いては、我も我もと百騎二百騎打連れて寄手方へ付いたので、義長の勢は僅かに三百騎となつた。義長はこれでは叶はないと思つたか、伊勢国へ落ちた。義長が都を落ちたと聞かれて、中将殿も都へ帰り、寄手は一戦もせずに悦び勇んで京都に入つた。

南方蜂起の事附畠山関東下向の事

 京都に同志討ちがあつて天王寺の寄手が引返すと聞えたので、大和、河内、和泉、紀伊国の宮方は時を得たりとばかり、山々峯々に篝を焼き、津々浦々に船を集めた。これを見て京都から置かれた城々の勢は皆退いた。都では仁木右京大夫の落ちた事を悦ばぬ者はなかつたが、畿内遠国の敵が、これに時を得て蜂起すると聞いては、世が又大乱になつたと囁いて憂へずには居られなかつた。其頃、誰れの為業(しわざ)か五条の橋詰に高札を立てゝ、二首の歌を書きつけた者があつた。
  御敵(おんてき)の種を蒔きおく畠山
    うちかへすべき世とは知らずや
  何ほどの豆を蒔きてか畠山
    日本国をば味噌になすらむ
 今度の乱は畠山入道の行ひであると、落書(らくしよ)にも書き、歌にもよみ、湯屋風呂の女童部(わらべ)にまでももてあつかはれたので、畠山は面目なく思つたものか、将軍に暇をも乞はないで、八月四日の夜密に京都を逃げ出して関東に下つた。
 
北野通夜物語の事附青砥左衛門が事

 其頃、日野僧正頼意(らいい)は密かに吉野の山中を出て、聊か宿願の事があつて、北野の聖廟に通夜すると、秋も半ばを過ぎて杉の梢の風の音凄まじく、晨朝(ありあけ)の月が西に傾いて、閑庭(かんてい)の霜に映ずる影の常よりも神さびて物哀れなのに、巻き残した御経を手に持ちながら、燈を明るくして、壁に寄り添つて、折に触れた古歌などを詠じつゝ嘯(うそぶ)いてゐる処へ、これも秋の哀れに催されて、月に心のあこがれた人と思はれるのが、南殿の高欄に寄りかゝつて三人居並んでゐた。一人は関東訛りで、六十許りの遁世者。他の一人は家貧しく、書斎の窓の雪に向つて外典(げてん)(四)の書に心を慰めてゐるらしい色青ざめた殿上人。今一人は何某の律師僧都などと云はれて家を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ませてゐるらしい、細く痩せた法師姿である。初めは連歌をしてゐたが、後には異国本朝の物語になつて、実にもと思はれる事共を語り合つた。先づ儒者と思はれる殿上人が、「元弘より以来、天下大いに乱れて三十余年、今より後もいつ鎮まるとも分らない。これは一体何故と思はれますか。」と云ふと、関東訛りの遁世者は、「世の治まらぬも道理です。昔は民苦(みんく)を問ふ使とて、勅使を国々へ下されて、民の疾苦を問はされました。其訳は君は民を以て体となし、民は食を以て命とする。穀尽くれば民窮し、民窮すれば年貢を備へる事がない。疲馬が鞭を恐れない如く王化を恐れず、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏の科(とが)である。報光寺(時宗)、最勝園寺(貞時)の二代に仕へた青砥(あをとの)左衛門といふ者があつた。権門にも恐れず、理の当る処を具に申して、徳宗領(とくそうりやう)(五)の訴訟に相模守を負かした。平人の文書を掌る役人是を徳として裏山から銭を裹んだ三百貫俵を青砥の庭に転がし入れた。青砥は大いに忿つて是を送り返した。又或時夜に入つて出仕した時、いつも燧(ひうち)袋に入れて持つた銭十文を滑川(なめりがは)に落したのに、驚き周章てゝ人を町家へ走らせ、銭五十文を以て松明十把を買はせ、これを燃して遂に十文の銭を探し出した。後日聞いた人が十文の銭を探すのに五十文の松明を買つたのでは、小利大損だと笑ふと、青砥は眉を顰めて、君達、愚人には、世の費(つひ)えが分らない。銭十文は今求めなかつたならば、滑川の底に沈んで永く失せるであらう。某(それがし)が松明を買はせた五十文の鏡は、商人の家に止まつて永く失はれない。即ち彼此(かれこれ)六十文の銭を一つも失はないことになる。何と天下の利益ではないかと申した。聊かも理に背き、賄賂に耽る事をしないからこそ、天下を無事に保ち得るのである。世間では少し許り礼儀を守り、極信(ごくしん)を立てる人を、延喜式だとか、窮屈(きづまり)の色代だとか笑ひ嘲る。又仏神領に課税して、神慮冥慮に背くことを一向に構はない者がある。これでは世が治まるわけはりません。せめては宮方にこそ、君も久しく艱苦を嘗めて、民の愁へを知し召され、臣下もさすが智慧ある者が多いから、世を治め得る人があらうと奥ゆかしく存じます。」と云ふと、鬢(びん)帽子を被つた殿上人は打ちほゝ笑んで、「何を奥ゆかしく思召されるのでせう。宮方の政道も唯だこれと五十歩百歩です。某も今年の春まで南方に仕へてゐましたが、天下を覆す事も、守文の道も叶ふまいと見透したから、いつそ遁世でもしようと思つて、京都へ出て参つたのです」と語つたので、三人共にから/\と打ち笑つたが、漏箭(ろうせん)(六)頻りに移つて朝になつたので、夜も已に朱(あけ)の瑞籬(みづがき)を出て思ひ思ひに帰つた。これらから考へると、こんな乱世もまた静かになる事があると、憑まれぬ憑みを残して頼意は帰つた。
 
屋張小河(をがは)、東池田が事
  
 さうかうしてゐる中に、小河中務烝(なかつかさのじやう)と土岐東池田(ときのひがしいけだ)とが引合うて、仁木に同心し、尾張の小河荘に城を構へたので、土岐宮内少輔は三千余騎で押寄せた。兵糧が忽ちに尽きて、小河も東池田も降人に出たが、小河は所領を論じた恨みがあつたので、首を刎ねて京都へ送つた。
 石堂刑部卿頼房、仁木三郎は伊賀、伊勢の兵二千余騎の大将となつて、近江国に打越えて、葛木山(かつらぎやま)に陣取つた。国内の兵を集めて、佐々木入道崇永、舎弟山内判官は飯守(いひもり)岡に陣取つてゐたが、仁木三郎は九月二十八日の早朝に、佐々木治部少輔高秀が部下を分けて守つてゐる市原(いちはら)城を攻め落さうと、手勢三百余騎を率ゐて旗を靡かせて進んだ。此勢を見て佐々木入道は、「それ敵は陣を去つて色めき立つた。打立てよ者共。」と兵を集めたが、譜代恩顧の若党三百余騎の外は相従ふものがなかつた。勇健なる佐々木は、今日の軍に負けたならば、弓矢の名は永久に失はれるだらうと、左手の河原に陣取つて、敵の真中を破らうと控へた。佐々木は少しも躊躇せず真中に駈け入つて十文字巴字に駈け散らし、背後にあつた野原で、西頭(にしがしら)に馬を立て直し、人馬に息を継がせると、朱(あけ)になつた放れ馬が無数あつた。蹄の下に切つて落した敵共が算を散らして伏してゐた。残りの兵は深い内貴田井(なだたゐ)を天満山へと志し、左になだれて退くのを追ひ、難所に追ひ駈けられて、矢野下野守、エ藤判官以下、重立つた者五十余人が一所に討たれた。戦終つて十一月一日、彼れの首を都に上せると、六条河原で獄門に懸けられた。昨日までは見馴れ、また詞を交した朋友であるから、都の貴賤は皆な悲しんだ。かうした次第で、仁木義長の手兵三千余騎は多く逃げて、今は五百余騎になつた。義長が如何にも微々たる態になつたので、佐々木、土岐の両人は討手を承つて伊勢へ向つた。義長は一戦にも及ばず長野城に楯籠つたが、城は要害で、対手も容易に近づけないから、徒らに二年の月日が過ぎた。


(一)五更は午前四時。
(二)紅梅の小袖は経が紫、緯が紅。
(三)柳裏とは表が白で、裏が青。
(四)外典とは仏典以外の書。
(五)徳宗領とは北条家の家督代々の領地。
(六)漏箭とは水時計の矢。


巻 第三十六

仁木京兆(けいてう)南方へ参る事附太神宮御託宣の事

 延文六年三月晦日に改元あつて、康安(かうあん)と改められた。仁木右京大夫義長は三年の間大敵に取巻かれて伊勢の長野城(ながののしろ)に籠つてゐたが、軍兵が日に日に逃げて行くのを見て、我力ではとても叶はないと思ひ、潜に吉野朝へ使者を進らせて、身方に参りたい由を申し入れた。諸卿の中には異議も多かつたが、義長が身方に参つたら、伊賀、伊勢両国は官軍に附くばかりでなく、伊勢国司顕能(あきよし)卿の城も心安からうと遂に勅免の綸旨を下された。かくと聞いて武者所(むしやどころ)に伺候してゐる人々は色々と囁き合つて、義長の人物を批評した。悪人だといふ批評の多い中に、一人仁木を贔屓するものがあつて、「此人が伊勢国を管領して在国してゐた時に、太神宮の御領を押領(あふりやう)し、五十鈴川を堰き止めて魚を捕つたので、神官が怒つて榊の朶(えだ)に木綿(ゆふ)を懸けて呪咀したら、七日目に、十歳許りの童(わらんべ)が俄に物狂ひとなつて、我に太神宮が乗り移られた、といつて託宣した。其託宣は、一体汝等が番長の悪行を呪咀するのが分らない。彼れが三生前に義長(ぎちやう)法師と云つた時、五部の大乗(だいじよう)経を書いて此国に納めた為め、其善根によつて彼れは当国を治める事が出来た。然るに今は悪行が心に染んで、頻りに人を悩ましてゐる。過去の善根(ぜんこん)は此世に応へ、今生の悪業は又未来に酬ひると、かきくどいて泣きわめいたが、暫く寝入つた様子で物附(ものつき)は覚めた。これから考へても、義長は相応に故ある人物だ。」といつたので、初め譏つた者共は、「拙者共はそんなことを知らないが、仁木が悪行に於いて天下第一の曲者であることは誰しも認めてゐる。」などと終夜語り明かして暁に宮廷を退いた。
 
大地震並夏雪の事
  
 同年六月十八日の午前十時から十月に至るまで、大地が震動して止む時がなかつた。山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地となつたので、神社仏閣の倒壊し、牛馬人民の死傷したものが幾千万とも其数を知らない。阿波の雪湊(ゆきのみなと)には俄に山のやうな潮が漲り寄せて、民家一千余軒が海底に沈み、人も牛馬も一つ残らず底の藻屑になつた。希代(きだい)の不思議だと思つてゐると、六月二十二日には俄に一天掻き曇り、雪が降つて、寒さは冬至前後と違はない。山路の樵夫(せうふ)、野径の旅人は、皆氷に閉ぢられ、雪に伏して、凍死した者が無数であつた。七月二十四日には阿波の鳴戸が俄に潮が去つて陸地になり、高く峙つた岩の上に胴のまはり二十尋許りの太鼓が顕れ出た。暫しは人も懼れて近づかなかつたが、三四日して近辺(きんぺん)の浦人が数百人集り、大きな撞木を拵へて大鐘を撞くやうにつくと、此太鼓は天に響き地を動かして、六時間ばかり鳴り続けた。其声に山が崩れて谷に答へ、潮が涌いて天に漲つたので、浦人共は肝魂(きもたましひ)も身に副はず、四方八方へ逃げ散つた。其後は近づく人も無かつたが、天へ上つたか、海へ入つたか、潮は元の如くに満ちて、太鼓は見えなくなつた。又八月二十四日の大地震には、大龍が二つ浮び出て天王寺の金堂に入り、四天(一)と戦ふ様子であつたが、二つの龍が去る時に、大地が鳴動して金堂は微塵に砕けた。旧記に載つてゐる所では、開闢以来このやうな不思議はないので、どんな乱世になるのだらうかと、懼(お)ぢ恐れぬ者は一人も無かつた。

天王寺造営の事附京都御祈祷の事

 南朝では、此大地震に諸国七道の大伽藍の破れた様子を調べられると、天王寺の金(こん)堂ほど崩れた堂舎はなく、紀州の山々ほど裂けた土地はないので、これは外の表示ではなからうと、御慎みになつて、様々の御祈りを始められた。即ち般若寺の円海上人が勅を承つて天王寺を造られると様々の不思議があつた。二人して抱き廻すほどの檜木の柱、六七丈もある冠木(かぶき)(二)三百本が、何処からとも知らず難波浦に流れ寄つた。又信濃皮むきで作つた大綱の太さ二尺、長さ三十丈もあるのが十六筋も流れ寄つた。上人は痛く悦んで、軈て轆轤(くるまき)の綱に用ひられた。かうして造営日に新にして綺麗金銀を鏤(ちりば)めた。奇特な事である。
 都では東寺の金堂が一尺二寸南へ動いて、開山弘法大師が南天へ飛び去られた夢を寺僧が見たので、洛中の御慎みであらうと、内裏で種々の法を行はせられた。
 
山名伊豆守美作城を落す事附菊池軍の事
  
 かうした処に、十月十二日、山名伊豆守時氏が出雲、伯耆、因幡三箇国の勢三千余騎を率ゐて美作(みまさか)へ出発した。当国の守護赤松筑前入道世貞(せいてい)は播州に在つて未だ戦はない先に、広戸掃部助(ひろとかもんのすけ)の名木(なぎ)、能仙(のせ)の二城、篠向城(さゝむきのしろ)、大見丈城(だいけんぢやうのしろ)、菩提寺城(ぼだいじのしろ)、小原城(をはらのしろ)、大野城など、八つの城は、一矢をも射ずに降参し、林野(はやしの)、妙見(めうけん)二つの城は二十日余り支へたが、これも敵になつて、今はたゞ一つ残つた倉懸(くらかけ)城に佐用(さよ)美濃守貞久、有元和泉守佐久(すけひさ)が、僅か三百騎で楯籠つてゐたが、後攻(ごづめ)の恃みもなく、食尽き、矢種尽きて力なく、十一月四日遂に城を逃げた。これから山名は山陰道四箇国を併せて其勢が近国に振つたので、世の中はどうなる事かと、危く思はぬ人もなかつた。
 又筑紫では去る七月初めに、征西将軍宮(懐良親王)が新田の一族二千余騎、菊池肥後守武光(たけみつ)の三千余騎を率ゐて博多(はかた)に打つて出で、香椎(かしひ)に陣を取つてゐられるといふ注進が来たので、大友刑部大輔の七千余騎、太宰少弐の五千余騎、宗像(むなかた)大宮司の八百余騎、紀井常陸司の三百余騎、都合二万余騎が一手になつて大手へ向つた。上松浦(かみまつら)、下松浦の一党両勢の兵三千余騎は飯守(いひもり)山に打上つて敵の後へ廻つた。両陣の間は僅かに二十余町を隔てるばかりで、対峙しつゝ徒に二箇月を送つた。菊池の家の子城(じやう)越前守は山伏、禅僧、遁世者らを潜に滞に松浦陣へ遣つて、「内通の者がある。」と云はせたので、陣中ではどうした内通かと危んでゐると、八月六日の暁に、城越前守が千余騎で飯守山へ押寄せ、楯の板を敲いて鬨の声を上げた。敵の謀を誠と信じて、「身方に討たるな、目を賦(くば)れ。」と叫んでゐたが、城兵は我先にと逃げ出したので、寄手は追つ懸け追つ懸けこれを討ち、難なく城を攻め落した。少弐、大友を打散らすのは掌(たなごゝろ)を指すよりも容易いと、菊池、宮の御勢と一手になり、総勢五千余騎で、翌七日正午に香椎の陣へ押寄せた。あゝ逃げたいと予てから思つてゐた少弐、大友の兵共が、どうして一溜りも溜らう、鞭に鐙(あぶみ)を合はせて我先にと逃げて行つた。

秀詮(ひでのり)兄弟討死の事
  
 又同じ年の九月二十八日、摂津国に不慮の事が起つて、京勢若干が討たれた。当国の守護職は故赤松信濃守範資(のりすけ)が、無二の忠戦に依つて将軍から賜はつたが、範資の死後、嫡子大夫判官光範(みつのり)が相続してそれを拝領した。佐々木佐渡判官入道道誉は、将軍に申してそれを我恩賞に賜はり、何の咎もない光範を召し放した。之に憤つて光範が訴訟してゐると聞いて、和田(正武)、楠(正儀)は五百騎を率ゐて渡辺橋を打渡り、天神森に陣取つた。道誉の嫡孫近江判官秀詮(ひでのり)、舎弟次郎左衛門は、千余騎で馳せ向ひ、神崎橋を隔てゝ防戦しようと議したが、守護代吉田肥前房厳覚(げんかく)は「厳覚が命を軽んずる程ならば、一族他門の兵共誰れが見放さう。恩賞が欲しかつたら続け人々。」と広言を吐いて神崎橋を打渡ると、後陣の勢一千余騎も続いて河を越した。こゝで敵の状況を問ふと、「楠はまだ河を越えません、和田の勢だけでは五百騎にも足らないやうに見えました。」と牛飼童部(わらべ)共が語つたので、悠々と馬を飼つてのさのさとしてゐた。和田、楠之を見澄まして、河から西へ下部を四五人遣つて、「南方の敵は西より寄せた。神崎の橋詰を支へなさい。」と呼ばゝらせたので、佐々木判官は両方が深田の道一つを一面に打並んで、本の橋詰へと西頭(にしがしら)にして馬を歩ませて行くと、楠の足軽の野伏三百人が両方の深田に立渡つて鏃を支へ、散々に射た。南方は深田で馬の足も立たない、後から返して広場で戦はうと返す処を和田、楠、橋本、福塚が五百騎を駈並べて追つ懸けた。中津河の橋詰で白江源次が討死し、初のほどは擬勢してゐた吉田肥前は、真前に橋を渡つて逃げたが、続く敵を渡すまいとてか、橋板一間を引落したので、後で渡る身方の兵三百余騎は皆水に陥つて流れた。佐々木兄弟は橋の辺まで落ち延びたが、県(あがた)二郎に恥ぢしめられて引返し、矢庭に討たれた。一時間許りの戦に死んだ京勢二百七十三人、此中二百五十余人は皆河に流れて死んだ。楠は父祖の仁恵を承け継いで、情のある武士であつたから、或は野伏共に生捕られて、面縛(三)せられた敵をも斬らず、或は河より引上げられて、効(かひ)なき命を生きた敵をも禁(いまし)めず、赤裸の者には小袖を著せ、負傷した者には薬を与へて京へ返してやつた。身の恥は悲しいけれど、悦ばぬ者はなかつた。

清氏叛逆の事附相模寺子息元服の事

 これらの出来事をこそ、大地震の験(しるし)に現はれたものと見るべきかと、驚いて聞いてゐる処へ、また京都に希代の事件が起つて、将軍の執事細川相模守清氏、弟左馬助、猶子仁木中務少輔の三人が、共に都を逃げて武家の怨敵となつた。其根元を尋ねると、佐々木佐渡判官入道道誉と細川相模守清氏との間には、内々互ひに怨を啣む事がいくつも重つてゐたといふ。相模守は飽くまで侈(おご)つて、行跡が普通ではなかつたが、仏神を敬ふ心極めて篤く、九つと七つとになる二人の子を八幡(はちまん)で元服させ、大菩薩の烏帽子子(ゑぼしご)にして、兄を八幡六郎、弟を八幡八郎と名づけた。将軍は其事を知つて、「如何にも当家の累祖(るゐそ)伊予守頼義が、三人の子を八幡太郎、加茂次郎、新羅(しんら)三郎と名附けたのに似てゐる。細川は心中に天下を奪はうとする企(くはだ)てを有つてゐはしないか。」と全く見当違ひの考へを抱いた。入道道誉はかくと聞いて、憎い相模守に乗ずべき過失が一つ出来たと独笑ひして、見て見ぬ振りをしてゐた矢先き、鎌倉から上洛した志一(しいち)上人が訪ねて来た。道誉は志一上人から、清氏が依頼した祈願書を見せて貰つたが、それは将軍を呪咀するものであつたので、早速将軍に見せ奉ると、将軍はどうして清氏を討たうかと、佐々木入道道誉に色々相談を持ちかけられた。道誉は俄に病と称して、湯治の為めに湯山(ゆのやま)へ下つた。四五日して相模守は普請の為めに天龍寺へ行つたが、いつになく甲冑つけた兵士三百騎を召し連れてゐた。将軍はこれを聞いて、道誉と相談した事が清氏に知れたと思ひ、九月二十一日の夜半に今熊野に引籠つて軍門を固めると、今川上総守、宇都宮参河入道以下、我も我もと馳せ参つた。俄の事で何事が起つたのかはつきり分らないが、武士は東西に馳せ違ひ、貴賤は四方に逃げ惑ふ。相模守は天龍寺で、事変が我身の上に関係ある事を聞き確め、天龍寺から帰つて、弟の僧●(「王」へん+「與」)侍者(そうよじしや)を今熊野へ進(まゐ)らせて、「洛中の騒動は清氏の身の上に拘はるさうですが、一体罪科は何事でございませう。罪科の実否を定められましたら、首を延べて軍門に参りませう。」と申し入れたけれども、「清氏の多日の陰謀、事已に露顕した上は、兎角(とかう)の沙汰に及ばない。」と将軍は対面もなく、又一言の返事も与ヘられなかつた。相模守は今討手が来るかと、兜の緒を締めて二日まで待つたけれども、一向敵が向つて来ないので、洛中で兵を集めて一戦しようとしたが、考へて見ればそれは狼藉である、陣を去り都を落ちて、猶申し開きをしようと、二十三日の早朝に若狭(わかさ)を指して落ちて行つた。京中では、合戦があるならば民家は一軒も残るまいと、上下万人周章て騒いだが、相模守が無事に都を落ちたので、二十四日、将軍は今熊野から元の館へ帰られた。相模守所属の者が何時しか宿所を替へ、身を隠した有様、昨日の楽しみは今日の夢と、誠に哀れである。有為転変(うゐてんぺん)の世の習ひで、今に始めぬ事ではあるが、不思議といへば不思議である。

頓宮心変りの事附畠山道誓(だうせい)が事
 
 若狭国は相模守が近年管領の国であつて、頓宮四郎左衛門が予てから在国して小浜(をばま)に屈竟(くつきやう)の城を構へてゐた。相模守が此処に落ちつくと、尾張左衛門佐氏頼が討手の大将を承つて、北陸道(ほくりくだう)の勢二千余騎を率ゐて、十月二十九日越前から椿峠(つばきたうげ)に向ふ。相模守之を聞いて、「今度こそは敵を一人も生かして返すまい、自身で出で向はう。」と、城には頓宮を残して大手(おほて)の敵に馳せ向つた。未だ勝敗の決せぬ中、よもや弐心はあるまいと、憑んだ頓宮四郎左衛門が俄に心変りして、旗を挙げ城戸を打つて、寄手の勢を背後から城へ引入れた。相模守に従つた兵は、力尽きて右往左往に落ちて行つた。さしもの勇士清氏も、之では敵はぬと、舎弟左馬助と唯だ二騎打連れて、篠峯越(さゝのみねごゑ)に忍んで都へ紛れ入つた。都を夜通つて天王寺へ落ち著くと、相模守は石堂刑部卿の許へ使者を立て、「身は今讒者の訴へによつて罪なき死罪に行はれようとしてゐます。願はくば天恩を戴いて、軍門に降参する事を許されたい。旧好の故を以て、兎も角も然るべくお取計らひを願ひます。」と言ひ遣はした。やがて恩免(おんめん)の綸旨を下されたので、石堂は限りなく悦んで細川に対面せられた。互ひに言(ことば)はなく、たゞ涙に咽ばれた。暫くして、「世の転変は今に始めぬ事ですが、実に思ひがけない参会、これは多年の本意です。」と挨拶して帰つた。さうかうしてゐる中に、仁木中務少輔は京から伊勢へ落ちて、相模守に従つたと聞え、兵部少輔氏春は京から淡路へ落ちて、相模守に同心して兵船を調へ、やがて境浜(さかひのはま)へ著くだらうと披露があり、一方ならぬ諸国の蜂起に、京都は以ての外に周章てゝ、また乱世になるのではないかと、危まぬ人はなかつた。宰相中将殿は、「縦令近国は起るとも、坂東は静かだから。」と云つて、騒ぐ容子もなかつたが、康安元年十一月十三日、関東から飛脚が来て、「畠山入道道誓、舎弟尾張守が御敵になつて、伊豆国に楯籠りましたので、東国の路は塞つて官軍が催しに応じません。」と注進した。東国、西国、東山道と、一度に兵乱が起つたと、洛中の貴賤は騒ぎ合つた。


(一)四天とは持国、増長、広目、多聞の四天王。
(二)冠木は門の上に渡す木。
(三)面縛とは顔を前にし、手を後に縛る事。


巻 第三十七

清氏、政儀(まさのり)京へ寄する事

 相模守は石堂刑部卿を奏者として、「清氏は不肖の者でございますが、御身方に参りました為めに、四国、東国、山陰(さんおん)、東山に、義兵を挙げるものが現はれました。急ぎ和田、楠以下の官軍に協力せよと仰せ下さい。清氏は真前(まつさき)を仕つて、京都を一日の中に攻め落し、正月以前に臨幸を請ひ奉るやうに致しませう。」と申したので、主上は実にもと思召され、軈て楠を召して、「清氏の申す所は如何であらう。」と仰せられた。正儀は暫く思案して、「故尊氏卿が正月十六日の合戦に打負けて筑紫へ落ちまして以来、朝敵の都を落ちたことは已に五度です。しかも天下の士卒に天子を戴く者が少い為め、官軍は洛中に足を留める事が出来ません。只だ京都を追ひ落すといふだけのことなら、清氏の力を借りるまでもなく、正儀一人の軍勢でも容易に出来ますが、敵に取つて返されて攻められた時に、どの国が官軍の助けになりませう。愚案短才の身には、公議を蔑(さみ)する事もかなひませんから、兎も角も綸言に従ひます。」と理を尽して申されたが、主上を初め奉り、親王、後宮、諸司、諸衛に至るまで、住み慣れた都の恋しさに、後々の難儀などは顧みず、「たとへ一夜でも雲井の花の下に寝て見たい、後は其夜の夢を忍ばうまでだ。」といはれる者が多かつたので、諸卿の僉議は一決して、節分以前に洛中の敵を攻め落すべく兵共を召される事になつた。
 
新将軍京落ちの事
  
 公家(くげ)の大将には、二条殿、四条中納言隆俊(たかとし)卿、武将には石堂刑部卿頼房、細川相模守清氏、和田、楠、湯浅、山本、恩地ら、其総勢二千余騎で、十二月三日、住吉天王寺に勢揃(せいぞろ)へをした。細川兵部少輔氏春は淡路の勢を率ゐて、兵船八十余艘で境の浜へ着いたので、赤松彦五郎範実(のりざね)は、「摂津国兵庫から打立つて直に山崎へ攻め寄せよう。」と合図をした。それを聞いて京中の貴賤は財宝を鞍馬(くらま)、高尾(たかを)へ持ち運ぶやら、蔀(しとみ)、遣戸(やりど)をはづし取るやら、京白河(きやうしらかは)の騒動は一通りでなかつた。宰相中将殿(義詮(よしのり))は六千余騎を以て東寺(とうじ)に陣取り、先づ佐々木高秀を摂津国へ差し下して軍勢を催さしめ、次ぎに今川伊予守を七百余騎で山崎へ差向け、吉良治部大輔、宇都宮三河三郎、黒田判官を大渡(おほわたり)へ向けて、自余の兵千余騎は淀、鳥羽、伏見、竹田に控へさせた。
 同月七日、南方の大将は河を越えて軍評定(いくさひやうじやう)を催したが、細川相模守の作戦に従つて、官軍は中島を打越え、都を指して攻め上つた。忍常寺(にんじやうじ)を過る時、佐々木高秀は矢の一つだに射懸けないでをめ/\と通した。山崎では一戦あらうと予期したが、今川伊予守は一戦も交へないで、鳥羽の秋山へ引退いた。此分では合戦はかばかしからずと、宰相中将は持明院の主上(後光厳院)を警固し奉つて、同じ八日の暁に苦集滅道(くずめぢ)を経て勢多(せた)を通り、近江の武佐寺(むさでら)へ落ちられた。君は船、臣は水。水は能く船を浮べるが、又船を覆す事もある。臣は能く君を保つが、又君を傾くることもある。去々年(をとゝし)の春、清氏は武家の執事として相公(しやうこう)を扶持し奉つたが、今年の冬は、忽ちに武家の敵となつて相公を傾(かたむ)け奉る事になつた、妙なものである。同日の夕景には、南方の官軍はもはや都に打入つて、将軍の邸宅を焼き払つた。佐渡判官入道道誉は都を落ちる時、我宿所(しゆくしよ)を飾り整へて、三石入りばかりの大筒(おほづつ)に酒を湛へ、遁世者二人を留め置いて、「誰れでも此宿所へ来た人に一献進めよ。」と申し置いた。一番に入つたのは楠で、遁世者に出迎へられて、道誉の情籠つた酒を勧められた。尋いで闖入した相模守が、道誉は第一の敵だから、此宿所は毀(こぼ)ち野焼かうと憤つたのを、楠は此情に感じて宥め、一物をも損じなかつたのみならず、寝所に秘蔵の鎧と白幅輪(しろふくりん)(一)の太刀一振とを置いて、道誉に交替して又都を落ちた。例の老獪な博奕うちに出し抜かれて、幾程もなく楠は太刀と鎧とを取られたと笑ふ者も多かつた。

南方の官軍都を落つる事
 
 宮方では今度京の敵を追ひ落すならば、元弘の時の如く、天下の武士が皆附き従ふであらうと思つてゐた。初めて参る武士はなくても仕方がないが、菊地、土居、得能、大内介(おほうちのすけ)、桃井(もゝのゐ)、新田武蔵守、同左衛門佐らが、皆道を塞がれ、或は勢揃ひが出来ず、一人も上洛しないのは物足らなかつた。之に反して諸国の将軍方は、機を得て武佐寺に馳せ集り、都合一万余騎は、十二月二十四日に武佐寺を立ち、同二十六日、先陣が勢多に著いた。丹波路からは仁木三郎が、播磨路からは赤松筑前入道世貞(せいてい)、帥律師則祐(そつのりつしそくいう)が攻め上つた。南方の官軍は、初め、京都へさへ入ればどうにかならうと思つてゐたが、四方の敵が雲霞の如くだと聞いて、二十六日の夕景に、宇治を経て天王寺住吉へ逃げたから、三日後の二十九日に将軍は又京に入つた。

持明院新帝江州より遷幸の事附相州四国に渡る事
  
 主上は尚ほ近江の武佐寺に在して、京都の戦況がどうあらうかと、いたく憂慮してゐられる処へ、庚安元年(正平十六年)十二月二十七日、宰相中将の立てた早馬が、急ぎ遷幸されるやうにと告げたので、君を初め供奉の月卿、雲客は悦ばれ、其翌朝先づ比叡山の東坂本へ行幸あらせ、其処で御越年(をつねん)になつた。小波(なみ)寄せる志賀浦(しがのうら)、荒れて久しい跡であるけれど、昔ながらの花園は、今年を春と待ち顔である。これも都とは思ひながら、慣れぬ旅寝が佗しいので、諸卿は皆な一日も早くと遷幸をお勧め申したが、去年十二月八日都を落ちさせられた折、さらでだに諸寮司(しよれうつかさ)の闕けた離宮、垣も格子も破れ果て、簾も畳もなかつたので、修理を加へてから還幸を誘ひ奉らうと、翌年の春の暮月(ぼげつ)(二)に至るまで、尚ほ坂本に御座あつた。武家へ仰せつけられはしたが、内裏修理は何時完成するとも分らないので、三月十三日ともかくも西園寺の旧邸へ御還幸になり、修理が出来上つてから、四月十九日に元の離宮に還御になられた。細川相模守は無双の勇士だと噂され、大将にさへ任ぜられたが、去年の冬、宰相中将を都から追ひ落して、洛中に威を振つた時にも此人に附く軍勢は少く、幾程もなく官軍が都から退いた後は、河内国にゐたけれども、其旧好を慕つて尋ねて来る人も稀であつた。清氏は為方なしに、若し四国へ渡つたなら、日頃従つた兵が馳せつくこともあらうと、正月十四日に小舟十七艘に乗つて阿波国へ渡つた。

大将を立つペき事附漢楚義帝を立つる事
  
 大将を立てるには道がある。若し大将が其人でなかつたなら、戦に勝つことは出来ない。天下已に定まつて後、文を以て世を治める時は智慧を先とし、仁義を本とするから、今まで敵であつた人をも許容して政道を行はせ、大官を授ける事がある。天下未だ定まらざる時は武を以て世を取らうとするから、功ある人を賞し、咎ある人を罰するが、縦令威勢ある者でも、降人を以て大将とした事はない。此事を南方祗候(しこう)の諸卿は知つてゐるだらうに、先づ高倉左兵衛督入道慧源(ゑげん)に大将の号を授けて、兄の尊氏卿を討たさうとせられたが成功せず、次に直冬(たゞふゆ)に大将の号を許されて、父の将軍を討たしめようとせられたが、これも成功しなかつた。又仁木義長に大将を授けて、世を覆さうとせられたが、結果はやはり善くなかつた。今又細川相模守清氏を大将として、代々の主君宰相中将殿を亡ぼさゝうとされたが、それも出来なかつた。これ唯だ理に当らない大将を立てゝ、或は父兄の道を違へ、或は主従の義に背いたが故に、天の譴を蒙つたのではあるまいか。古から世を取らうとする人は、専ら大将を選んだらしい。昔秦の始皇の世を奪はうとして、陳勝(ちんしよう)、項梁(かうりやう)らが大将となつたが、それぞれ皆滅ぼされた。項羽、高祖は、始皇帝が故なく殺した楚の懐王の子孫、義帝を尋ね出して戦つたので、遂に秦を滅ぼす事が出来た。これを以て思ふに、故新田義貞、義助兄弟は、先帝股肱の臣として武功が天下に双びない。其子息二人は義宗(よしむね)、義治(よしはる)といつて越前国に在られるが、共に武勇の道に於いては父に劣らず、才智も亦た一世に恥ぢない。これらの人々を召して龍顔に咫尺せしめ、武将に委任せられるならば、誰れが其家を軽んじ、旧功を継がないでゐよう。然るにこれらを閤(さしお)いて、降参不義の人を以て大将とせられるならば、吉野の主上が天下を召されることは、千に一つもある筈がない。縦令一時軍に勝たれる事があらうとも、世は又直きに人のものになるであらう。

尾張左衛門佐遁世の事
  
 都には細川相模守が敵になつてからは執事といふ者がない。佐々木佐渡判官入道道誉の婿であるから、傍の人が追従にでも申したのか、尾張大夫入道の子息左衛門殿に越す人はないと云つたので、宰相中将殿も此人を執事職にする事に内々定められた。父の大夫入道は元来当腹(たうぶく)(三)の三男治部大輔義将(よしまさ)を寵愛してゐたので、様々の非を挙げ、種々の咎(とが)を云ひ立てゝ、其器でない事を宰相中将へ申した。中将は、「実(げ)にも子を見ること親に如くものはない。」と云つて、当腹の三男を表面に立てゝ、幼稚の中は父に事務を執り行はせる事にされた。左衛門佐はこれを聞いて、父を恨んだのか、世を憂しと思つたのか、潜に出家して何処(どこ)ともなく迷ひ出たが、遂に道心さむる事なく、往生を遂げられた。
 
身子声聞(しんししやうもん)、一角上人、志賀寺上人
  
 一体煩悩の根元を切り、迷者の絆(きづな)を離れる事は、上古にも末代にもあり得ない事であらうか。昔天竺の身子(しんし)といふ悟道に入つた人が、五波羅密(はらみつ)(四)を成就して残る檀(だん)波羅密を修する時に、隣国から一人の婆羅門(ばらもん)(五)がやつて来た。乞はれるまゝに財宝、眷属(けんぞく)の総てを与へると、「更に汝が眼を穿(くじ)つて我に与へよ。」と乞うた。身子は盲目になるのを悲しんだが、行が空しくなるのを惜んで、自ら二眼をくり抜いて婆羅門に与へた。婆羅門は二つの眼を手に取つて、「肉眼は抜かれゝば●(「さんずい」+「売」)(きたな)いものである。何の役にも立たない。」と地に抛げて蹂み躪(にじ)つた。此時、身子は瞋恚(しんい)の心を起したので、六波羅密の行が一時に破れて破戒の僧になつた。又昔天竺の政羅奈(はらな)国に一人の仙人があつた。小用をする時鹿の──のを見て、淫欲(いんよく)の心があつたので思はず──。それの──草の葉を牝鹿(めじか)が食つて子を生んだ。形は人で、額に一本の角があつたので、一角仙人と云つた。修行の功が積つて、神通(じんつう)力を得たが、或時山路を降つて、濡れた石に滑つて倒れた。仙人は腹を立てゝ、龍王があればこそ雨を降らせ、雨があればこそ我を滑つて倒れしめた。竜王共を押籠めるに如かずと、岩の中に閉ぢ籠めたので、国土に雨降らず大旱魃となつた。君は民の愁へを聞召して、色香を以て通力を失はせようと、三千の宮女中の第一の后(きさき)、扇陀女(せんだによ)に五百人の美人を副へて、一角仙人の草庵に送られた。后は玉の台(うてな)を出て、草の庵に入られたので、袖は涙に乾く間もなかつたけれども、勅命なれば辞する言(ことば)なく、十符(とふ)(六)の菅薦(すがごも)しき忍び、小鹿(をじか)の角(つの)の束の間に、千年の契りをなされた。仙人も岩木ではないから、無上に后に思ひ染んだ。仙人は●(「瑤」の「王」を「女」に替える)欲に染んだので、仙の法尽きて通力失せ、本の肉身となつて亡くなつた。龍神は天に飛び去つて、風雨時に随ひ、農民は耕作を事とするやうになつた。又我朝には志賀寺の上人といふ聖才が在したが、或時草庵を立ち出て、眉に八字の霜を垂れつゝ波の閑かな湖水に向つて心を澄ましてゐられた。そこへちやうど、京極(七)の御息所が志賀の花園の春景色を御覧じて御帰りになり、御車の物見(ものみ)を上げられると、此上人が一目見て、魂を奪はれた。如何にも妄念が去り難く、後生の障りになりさうなので、我心を御息所に打明けて心安く臨終しようと、上人は杖をついて御所へ参り、蹴鞠場の本に一日一夜立つてゐた。御息所は御簾の内から遥かに御覧になつて、上人を召されて心を慰められた。こんな道心堅固な聖人でさへ、遂げ難い発心修行(ほつしんしうぎやう)の道であるのに、家富み、年若き人が浮世の絆を断つて、永く隠遁の身となるのは容易でない。左衛門佐入道の心は本当に殊勝であつた。

畠山入道道誓謀叛の事附揚国忠が事
  
 畠山入道道誓、舎弟尾張守義深(よしふか)、同式部大輔の兄弟三人が、其勢五百余騎で伊豆国に逃げ下り、三津(みつ)、金山(かなやま)、修善寺(しゆぜんじ)の三の城を構ヘて楯籠つたといふので、鎌倉の左馬頭基氏は先づ平一揆の勢三万余騎を差し向けた。其軍勢は伊豆府(いづのこふ)に著いたが、葛山(かつらやま)備中守と平一揆とが所領の事に就いて闘諍を引起し、将に一戦に及ばうとした。畠山は乗ずべき好機会と、逆寄(さかよ)せに伊豆府へ寄せた。寄手の三万騎は、矢一つはかばかしく射出さず、鎌倉指して引退いた。左馬頭は心安からず思ひ、新田田中を大将として二十万騎を差向けた。畠山は此十余年左馬頭を妹婿に取つて、栄耀一門に余るのみならず、執事の職に在つて天下を掌中に握つたから、東八箇国の者共が命に替らうと昵(むつ)び近づいたのを我身の仁徳と心得て、別儀はなくとも、旗をさへ挙げたならば、軍勢の四五千騎は自分に馳せ加はるだらうと憑みに思つてゐたのに、案に相違して余所(よそ)の軍勢は一騎もつかず、相伝譜代(さうでんふだい)の家人、厚恩他に異なる郎従共さへ、日に日に落ち失せて今は戦はれさうにもないので、討手の大勢(たいぜい)が重ねて向ふと聞いて、二の城に火を懸けて修善寺の城へ引籠つた。あゝ夢だ、昨日は海をはかつた大鵬が九霄の雲に搏(はう)つ如く、今日は轍(わだち)に伏す涸魚(こぎよ)が三升の水を求むるに異ならない。「我身がかうならうと知つたら、新田左兵衛佐を無理に撃ちはしなかつたものを。」と畠山は後悔した。早く報ひが来るのを、予て知らなかつたのは愚である。一体畠山入道が、去々年(をととし)東国の勢を催し立て、南方へ発向したのはどういふ企てゞあつたか。事の真相を尋ねると、唯だ揚国忠(やうこくちう)、安禄山が天威を仮つて後に世を奮はうと謀つたのに似て居る。昔唐の玄宗は二人の后に先立たれて、楊貴妃(やうきひ)といふ美人を得た。其兄揚国忠は、后の兄たるに依つて大臣となり、武威を悉にしたが、間もなく安禄山に滅ぼされ、其安禄山も亦粛宗(しゆくそう)に滅ぼされた。抑々天宝の末の世の乱れは、安禄山、揚国忠が天威を仮つて、功に誇り、人を猜んだ為めに起つた。今関東の軍は道誓の陰謀から起つた。其傾廃(けいはい)は全く古と相似て居る。天は驕りを憎み、盈てるものを欠く。其譴(せ)めは脱れる処がない。道誓の運命も自ら憑み難いと見なければならぬ。


(一)白幅輪とは銀で縁を覆うたもの。
(二)暮月とは、其季節の暮れる月。
(三)当腹は今の内室の腹の子。
(四)波羅密とは、生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に至る意。
(五)婆羅門は天竺四姓の上位、梵天に仕へ修行する一族。
(六)十符の菅薦は、十筋の編目に編んだ薦。敷くものだから忍ぶにかけて「しき忍ぷ」といつたのだ。
(七)京極の御息所は藤原時平の女褒子を指す。


巻 第三十八

彗星(すゐせい)客星(きやくせい)の事附湖水乾く事

 康安二年二月、都には彗星、客星が同時に出たので、天文博士共が内裏へ召されて吉凶をトつた。「天下の御慎みでございませう。」と博士一同が勘(かんが)へたので、諸臣は皆色を失つた。誠に天地人の三災が同時に出て来たと思はれた。去年の七月から日々に二三度の地震がまだ止まず、又今年の六月から十一月の初めまで旱魃して五穀が登らず、草木も枯れ萎んだので、鳥が塒(ねぐら)を失ひ、魚が泥に吻(いきつ)くばかりでなく、人民共の餓死する者甚だ多く、其数は知れなかつた。此時近江の湖水は三丈六尺も干(ひ)た。天地の変が既に斯くの如くであるからには、人事の変も亦たあるだらうと思つてゐる処へ、国々から早馬を打つて、宮方が蜂起したといふ報告がしきりである。

諸国宮方蜂起の事附備前軍の事

 山陽道では同年六月三日に、山名伊豆守時氏が五千余騎で、伯耆から美作(みまさか)の院庄(ゐんのしやう)へ打越えて国国へ軍勢を分けて差向けた。先づ一方では時氏子息左衛門佐帥義(もろよし)を大将として、二千余騎が備中、備前へ出発した。一手は備前の仁堀(にのぼり)に陣を取つて敵を待つたが、其国の守護勢、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景(ゆきかげ)らは、皆無勢であるから城に楯籠つて戦はない。一手は多治目(たぢめ)備中楢崎(ならざき)を侍大将として備中の新見(にみ)に打つて出たが、秋庭(あきば)三郎が水も兵糧も十分な松山城へ引入れたので、当国の守護越後守帥秀(もろひで)は戦ふすべなく、備前の徳倉(とくら)城へ引退いたので、国中一人も従ひ附かないものがなかつた。唯だ陶山(すやま)備前守だけが南海(なんかい)の端に添うて小さい城を拵へ、将軍方として残つてゐるだけだつた。備後へは富田(とんだ)判官秀貞の子息弾正少弼直貞が八百余騎で、出雲から直に国中(くになか)へ打出ると、間もなく二千余騎になつた。石見国から足利左兵衛直冬、備後の宮内(みやのうち)へ出て、富田と力を合せて宮下野(みやのしもづけ)入道を攻めようとしたが、禅僧を宮下野の許にやつて降伏を勧めた。入道は使僧を追ひ返して宮内の直冬を攻めたので、直冬の軍は散々に打負けた。冨田はこれに力を落して己が国へ帰つた。但馬国へは、山名左衛門佐、舎弟治部大輔、小林民部丞を侍大将として、大山を経て播磨へ打越えしめようとしたが、但馬国の守護仁木弾正少弼が将軍方として楯籠つた城が落ちないので、宮方の者も他国へ出る事が出来ず、小林の勢だけが播磨へ越えようとした所、但馬の通路を塞がれて丹波へ出た。小林は兵糧に詰つて又伯耆へ引返した。越中では、桃井播磨守直常が信濃国から打越えて、旧好の兵を語ひ、国中を靡かして、加賀国の富樫を攻めようとて出向つた。能登、加賀、越前の兵はかくと聞いて三千余騎で越中国へ越えて、三筒所に陣を取つた。此時能登、加賀の兵三百余騎は打連れて降人となり、隙を見て攻めたので、桃井は井口城へ逃げ籠つた。

九州探題下向の事附李将軍陣中に女を禁ずる事

 筑紫でほ少弐、大友以下、将軍方の勢が菊池に追ひ据ゑられて、其全部が殆んど宮方に統一せられたやうに見えたから、少弐、大友に協力して其勢を盛り返させようと、尾張大夫入道の子息左京大夫氏経(うぢつね)を九州探題(たんだい)として下した。左京大夫は先づ兵庫に下つて、四国、中国の兵を催したが附き従ふ者が少く、僅か二百五十騎で纜(ともづな)を解いた。左京大夫の屋形船を初めとして士卒の小船に至るまで、傾城を十人二十人載せぬ船はなかつた。それを磯で見物してゐた小賢しい遁世者が傍人に、「筑紫九箇国の大敵を滅ぼさうとして討手の大将を承る程の人物が、これ程物を知らないではどうして大功を成す事が出来よう。敵と決戦する時には、兵気(ひやうき)といふものが要る。此兵気が敵の上に覆ひ立つと、戦ひは必ず勝つが、若し陣中に女が多く交つてゐると、陰気が陽気を消すから、兵気が立たない。兵気が立たなければ、縦令大勢でも勝つ事は出来ない。それ故、昔覇陵(はりよう)の李将軍といつた大将、単宇(ぜんう)と戦ひを決しようとした時、高山の上に打上つて見ると、身方の兵気が陰の気に圧(お)されてゐる。これは陣中に女がゐる為めだと推量して探すと、果して女が三千余人も混つてゐた。悉く其女を捕へて水中に沈めたり、或は追ひ払つたりして、又高山に上つて見ると、こんどは兵気が盛に立つて、敵の上に覆ひかぷさつてゐる。そこで兵を進めて戦ふと、敵が四方に逃げ散つて、身方が勝利を得た。智ある大将は総べてかくあるべきに、大敵の国に臨む人が、兵を次にして女を先立てられるのは分らない。」と非難した。果して其言葉通り、高崎城をも支へ切れず、浅ましい姿で上洛したが、面目なく思つたものか、幾程もなく尼崎で出家して、諸国流浪の世捨人となつた。

菊池、大友軍(いくさ)の事

 左京大夫が巳に大友の館に著いたと聞いて、菊池肥後守武光は、菊池彦次郎、城(じやうの)越前守、宇都宮、岩野、鹿子木(かのこぎ)民部大輔、下田帯刀(たてわき)以下勝れた兵五千余騎を引連れて、九月二十三日、豊後国へ出発した。探題左京大夫は、「路次に馳せ向つて戦へ。」と、探題の子息、今年十一歳の松王丸を大将として、太宰少弐舎弟筑後二郎、同新左衛門尉、宗像(むなかた)大宮司、松浦一党、都合七千余騎で筑前国長者原(ちやうじやがはら)に馳せ向ひ、路を遮つて敵を待ち懸けた。同二十七日、菊池彦次郎は長者原に押寄せて戦つたが、岩野、鹿子木大輔、下田帯刀以下、重立つ勇士三百余騎が討たれ、其日の大将菊池彦次郎も三箇所まで疵を受けたので、宮方の軍勢は二十余町引退いた。ところが、城越前守の五百騎が入れ替つて二度目の戦ひが始まると、少弐筑後二郎、同新左衛門尉の二人が共に一所で討たれ、其外若党四百余人も討たれて、探題、少弐、大友の軍勢は散り散りになつた。菊池は已に手合の軍(いくさ)に打勝つたので、探題の勇武恐るゝに足らずと侮つて、菊池肥後守武光(たけみつ)が新手(あらて)の兵三千余騎を率ゐて、舎弟彦次郎の勢に馳せ加はり、豊後府へ出発した。此時でも猶ほ探題、少弐、大友、松浦、宗像の勢は七千余騎あつたが、菊池に気を呑まれて探題と大友とは豊後の高崎城に引籠り、太宰少弐は岡城に楯籠り、大宮司は宗像城に入つて、嶮岨を命と憑んだので、菊池は豊後(ぶんご)の府内(ふない)に陣を取つて、爾後三年間遠攻めにした。


畠山兄弟修禅寺城に楯籠る事附遊佐(ゆさ)入道の事

 筑紫では宮方が蜂起したけれども、東国は間もなく静まつた。去年から畠山入道道誓、舎弟尾張守義深(よしふか)は伊豆の修禅寺に楯籠つて、東八箇国の兵と戦つてゐたが、兵糧尽きて逃げる処もなく皆城中で討死しようとした。其時左馬頭(さまのかみ)殿から使者を以て、降参せよといはれたのを誠と思つて、道誓は禅僧となり、尾張守は伊豆国の守護職還補(くわんぷ)(一)の御教書(みけうしよ)を賜はつて、九月十日に降参した。道誓は伊豆の国府(こふ)に居り、尾張守は鎌倉左馬頭の箱根の陣に参つたが、四五日経つて、九月十八日の夜、稲生(いなふ)平次が密かに訪れて、「降参御免の事は、元来が偽はりであるから、明日は討手を向けられる筈だ。」と囁いた。道誓はそれを聞くと直ぐ、仮初(かりそめ)に出る振りをして、其夜の中に藤沢の道場に逃げた。上人が夜昼となく馬に鞭を当てゝ上洛したのを知る人は更になかつた。箱根にゐた尾張守は或夜時衆(じしう)から此由を聞いて驚き、結城(ゆふき)中務大輔に頼んで、永唐櫃の中に入れられ、夜に紛れて藤沢へ逃げた。
 遊佐入道性阿(せいあ)は主人の落ちてゆく容子をよく知つてゐたけれども、其目的を遂げさせる為めに少しも騒いだ容子をせず、碁、双六などして笑ひ戯れてゐたが、遂に畠山兄弟が逃げたといふ噂が立つたので、禅僧の衣を著て唯だ一人京へ落ちて行つた。漸く湯本(ゆもと)まで逃げて来たが、口の脇の疵を見顕はされて遁れやうもないので、宿屋の中門に走り上つて、自ら吭(のどぶえ)を掻き放ち、返す刀で腹を切つた。
 畠山入道兄弟は甲斐ない命を助つて、七条の道場から南方へ送られた。楠へ降参の綸旨を下されるやうに頼んだが、楠が許容しなかつたので、南都(なんと)山城脇(やましろわき)辺のとある禅院律院、或は木樵の柴の庵、賤人(しづ)の伏屋に、袂の霜を片敷いて夜を重ねる宿もない哀れさ。間もなく二人とも果(はか)なくなつた。
 
細川相模守討死の事附西長尾(にしながを)軍(いくさ)の事
  
 讃岐では細川相模守清氏と細川右馬頭頼之(よりゆき)とが数日戦つたが、清氏が遂に討たれて、四国は無事に静まつた。其軍の様子を聞くと、相模守は先づ四国を打平げて、今一度京都に上つて将軍を亡ぼさうと、境浦から讃岐へ渡つた事が知れると、各地から軍勢が馳せ集つて、間もなく五千余騎になつた。其頃頼之は備中国にゐたが、千余騎を率ゐて讃岐国へ押渡つた。智謀のある頼之は、母の禅尼をして相模守に和睦を申入れて日を経させ、其中に軍勢を調へ、城郭を堅く拵ヘた。相模守の陣は自峯の麓、右馬頭の城は歌津(うたつ)で、其間は僅か二里ばかりである。右馬頭は相模守の兵力を分割させる為め、七月二十三日の朝、新開(しんかい)遠江守真行(さねゆき)に五百騎を副へて、西長尾にゐる宮方の大将中院源(げん)少将の城に向はせると、相模守は案の如く、中院殿を助けよと、千余騎を西長尾城へ差し向けた。新開は元より城を攻める為めではないので、向城を取つて篝を焚き、夜が更けると相模守の城の前、白峯の麓へ押寄せた。予て定めた合図であるから、同二十四日の午前八時、細川右馬頭は五百余騎で搦手へ廻り、二手に分れて鬨の声を挙げた。相模守は己が武勇を憑む人であつたから、寄手の旗を見ると均(ひと)しく、二の城戸(きど)を開かせ、鎧だけを取つて肩に抛げ懸け、馬上で上帯(うはおび)を締め、唯だ一騎で駈け出ると、相従ふ兵三十余騎も、或は頬当てをしてまだ兜を著ず、或は籠手(こて)をつけてまだ鎧を著ず、真前に裹(つゝ)み連(つ)れた敵千余騎の中へ割つて入る。相模守は鞍の前輪に引きつけてねぢ頸にした野木、柿原二人の首を太刀の鋒に貫いて差し上げ、「唐土(もろこし)、天竺(てんぢく)、鬼海(きかい)、大元(たいげん)の事は、遠国だからまだ知らない。我朝秋津島(二)の中に生れて、清氏に勝る手柄の者があると誰れがいふ。敵も他人ではない、卑怯な軍(いくさ)して笑はれるな。」と恥ぢしめて、唯だ一騎で大軍の中へ駈け入つた。備中国の住人陶山(すやま)三郎と備前国の住人伊賀掃部助(かもんのすけ)の二騎が、田中の細道を静々と引いて行くのを、相模守が追ひついて切らうと攻める処を、陶山の中間が相模守の乗つてゐる鬼鹿毛(おにかげ)といふ馬の草脇(くさわき)(三)を突いた。さしもの駿足もー突き突かれると、足を動かす力なく立ち竦んでゐた。相模守は敵の馬を奪はうと、負傷した容子をして右に下り立ち、太刀を倒に突いて立つたのを、真壁(まかべ)孫四郎が馳せ寄つて、一太刀打たうとすると、相模守は走り寄つて馬から引落し、ねぢ頸にしようか、人飛礫(つぶて)に打たうかと、思案する容子で宙に差上げて立つた。伊賀掃部助高光は此時馬をまつしぐらに馳せつけて、むずと組んで引きかつぐ。相模守真壁を右の手に掻い掴んで投げ棄て、掃部助を射向(四)の袖の下に押へて頸を掻かうと、上帯が延びて後に廻つた腰の刀をひき廻した処を、掃部助は組むと均しく抜いた刀で、相模守の鎧の草摺をはねあげ、上様(あげさま)に三刀(みたち)刺し、刺されて弱つたのを押へて首を取つた。さしもの猛将勇士が運尽きて討たれるのを知る人がなかつたから、続いて助ける兵もなかつた。西長尾城へ向けられた左馬助、掃部助兄弟は、途中で新開を打負して白峯城ほ向ふと、落武者二三十騎に行き逢つた。「軍(いくさ)の有様は」と聞くと、皆泣声で、「もはや相模守殿は討死せられました。」と答へる。「それはどうした事だ。」と城を遥かに見上げると、敵は早や入れ替つて、見知らぬ旗が関櫓(きどやぐら)の上に幽かに翻つてゐる。楯籠る城もないので、左馬助、掃部助は逃げて来る軍勢を引き連れて淡路国へ落ちた。けれども淡路にもゐる事が出来ず、更に和泉国へ落ちた。かうして四国は忽ちに静まつて、皆細川右馬頭に靡き従つた。

和田、楠、箕浦(みのうら)次郎左衛門と軍の事

 南方の和田、楠は、相模守と合図を定めて、同時に合戦を始めようと議したのであつたが、七月二十四日に相模守が討たれたと聞いて落胆した。しかし一戦して宮方の気勢を挙げようと、和田、楠は其勢八百余騎を率ゐ、野伏(のぶし)六千余人が神崎の橋詰に打臨んだ。当時摂津国の守護は佐々木入道道誉であつたが、其守護代箕浦(みのうら)次郎左衛門は僅か五百騎で、神崎の橋二三間を焼き落し、敵が河を渡すならば皆射落さうと、鏃(やじり)を揃へて待ち懸けた。八月十六日の夜半に、和田、楠は元の陣に尚ほ控へてゐるやう見せかける為めに、殊更篝を多く焚き続けさせて、そこから二十町ばかり上手の三国(みくに)の渡(わたし)を打渡つて、小屋野(こやの)、富松(とまつ)、河原林(かはらばやし)へ軍勢を差廻して、敵を河へ追ひつめようと取籠めた。京勢は之を夢にも知らず、夜が明けて後を遥かに見渡すと、十余箇所に雲の如く控へた軍勢の旗は皆菊水の紋である。「さては敵は早や河を渡つた。平地の合戦は出来まい、城へ引籠つて戦へ。」と浄光寺(じやうくわうじ)の要害へ引返さうとすると、早や敵と入れ替つたものか、勝鬨を作る声が浄光寺の内に聞えた。これを見て中白(なかしろ)一揆の勢三百余騎は、国人の事とて案内をよく知つて居り、何時の間にか逃げ失せて一騎も残らず、唯だ守護の家人(けにん)五十余騎だけが二筒所に控へてゐた。箕浦次郎左衛門が東を差して逃げると、敵は南方が深田である細堤を断ち切つて、箕浦を打留めようと行先を遮り、取籠める事が度々であつた。しかし箕浦は之を駈け破つては通り、引返しては戦ひ、芥河(あくたがは)右馬允を案内者として都を指して上つた。和田、楠らは唯だ一軍で摂州の敵を追ひ落したが、赤松判官、信濃彦五郎兄弟が猶兵庫の北、多田部城(ただべのしろ)に控へてゐるので、九月十六日、石堂右馬頭、和田、楠は三千余騎で兵庫湊川へ押寄せ、一軒も残らず民家を焼き払つたが、どう思つたものか、楠が兵庫から引返したので、戦は捗々しい発展を見なかつた。都では同年九月晦日(つごもり)改元があり、年号を貞治(ぢやうぢ)といつた。京都から武家の執事尾張入道が大軍を率ゐて討手に下ると聞えたので、和田、楠は又尼崎西宮の陣を引いて、山深き河内国へ帰つていつた。

大元(たいげん)軍(いくさ)の事

 昔孔子は顔淵(がんえん)に曰(のたまは)く、「これを用ひる時は則ち行ひ(五)、これを舎つる時は則ち蔵る。唯だ我と爾とこれあるのみ。」と、いたく顔淵をほめられたので、それを傍で聞いてゐた子路(しろ)が大に忿つて、「子の三軍を行(や)る時は、則ち誰れと与にかせん。」と申したので、孔子は重ねて子路を諌めて「暴虎憑河(ばうこひようが)、死するとも悔いなからん者に吾は与(くみ)せじ。必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成さん者なり。」と云はれた。故に古も今も、敵を滅ぼし国を奪ふ事は、唯だ猛く勇ましいだけでは駄目だ。かねて謀を廻らし、智慮を先としなければならぬ。かの大宋(だいそう)国の四百州一時に亡びて、蒙古に奪はれた事も、西蕃(せいばん)の帝師が謀を廻らしたに依る。今、細川相模守は無双の大力、世に超えた勇士と噂されけれども、細川右馬頭の尺寸(せきすん)(六)の謀に落されて、一日の間に亡びた事を考へると、偏に宋朝の幼帝、帝師の謀に似てゐる。人として遠き慮(おもんばか)りが無い時は必ず近き憂へ有り(七)といふのはこんな事を指したものであらう。


(一)還補とは先の職に還し補する事。
(二)秋津島は日本の異名。
(三)草脇は馬の前胸部。
(四)射向の袖は鎧の左の袖。
(五)これを云々。論語述而篇に出づ。
(六)尺寸とは「僅かな」の意。
(七)人として云々。論語衛霊公篇に出づ。


巻 第三十九

大内介(おほちのすけ)降参の事
  
 大内介は多年宮方として周防、長門の両国を打平げ、何も恐れる者はない筈であるのに、貞治三年の春頃から俄に変心して、領知してゐる両国を恩補(おんぶ)せられて将軍方へ参つた。これが為めに長門国の守護職を召し放された厚東(こうとう)駿河守は筑紫へ押渡り、菊池と一所になつて大内介を攻めようとする。大内介は三千余騎を率ゐて豊後国に押寄せ、菊池と戦つたが二度目の軍(いくさ)に負けて、敵の軍勢に囲まれたので、降を乞うて命を助かり、一旦自分の国へ逃げ帰つた後京都へ上つた。在京の間数万貫の銭貨(せんくわ)、新渡(しんと)の唐物(たうもつ)等を奉行、傾城、猿楽、遁世者に?まで与へたので、此人に増る御用人(一)はあるまいと、まだ会うた事もないのに誉(ほ)めない人はなかつた。世上の毀誉(きよ)は善悪に依らない、人間の善悪の区別は貧富に在りとは、今の時を申すのであらうか。

山名京兆(けいてう)御方(みかた)に参らるる事
  
 山名左京大夫時氏、子息右衛門佐師氏(もろうぢ)は、近年南朝と通じて両度まで都を傾けたが、「道誉の余りにも不本意な振舞(ふるまひ)を思ひ知らせる為めばかりでございました。其の罪を御宥しあつて、近年領知する国々を恩補せられましたら、御身方(おみかた)に参つて忠を致しませう。」と内々申し入れたので、此人が身方に参つたら国々の宮方が力を落すばかりでなく、西国も鎮定するであらうと、因幡(いなば)、伯耆の外、丹波、美作、五箇国の守護職を与へられた。多年旧功の人々は為す術(すべ)なく、時氏父子は栄華の身となつて、時ならぬ春を得た。これを猜んで述懐する者共は、多くの領地を持たうと思つたら、唯だ御敵になるべきだと、口を●(「口」へん+「頻」)めたけれども効(かひ)がなかつた。

仁木京兆降参の事
 
 仁木左京大夫義長には別にこれといふ不義はなかつたが、行ひが余り我儘な為めに諸人から憎まれ、心ならずも御敵になつて伊勢国に逃げ下り、長野城に楯籠つてゐたが、日頃の罪を悔いて降参する由を申し入れたので、此人は元来異常の忠功があるのみならず、降参したら伊賀、伊勢両国も静まるだらうと、其請を許して義長を京都へ返し入れられた。之は勢ひ已に衰へた後の降参であるから、領知する国もなく、従兵も身に添はず、さながら李陵(二)が胡に在るが如く、旧交の友さへ訪ねて来ないから、見る人遠き庭上の花、春独り春の色であり、鞍馬(あんば)稀なる門前の柳、秋独り秋の風があつた。

芳賀(はが)兵衛入道軍(いくさ)の事

 かうした風に、近年は一旦敵になつた人々が皆降参して、貞治改元の後、洛中(らくちう)、西国はいくらか静かになつたが、しかし東国には又不慮の同志軍(いくさ)があつて、民は其生業を楽まない。事の起りは、此三四年先、将軍兄弟の御仲が悪しくなつて合戦の起つた時、上杉民部大輔は故高倉禅門に附き、戦に破れて信濃国へ逃げ下り、尋いで宮方になつた。鎌倉左馬頭基氏は幼少から上杉に育てられた旧好捨て難く思つたので、特に越後国の守護職を与へて上杉を呼び出した。此時芳賀人道禅可(ぜんか)は越後国の守護であつたが、「降参不忠の上杉に思ひ替へられて、忠賞恩補の国を召し上げられるといふ事があるか。」と上杉と越後国で戦ふこと数箇月に及んだ。禅可は遂に打負けて上杉に当国を奪はれたが、上杉が左馬頭の執事になつて鎌倉へ越えると聞いて、是非一戦に及ばうと禅可は上野(かうづけ)の板鼻(いたはな)に陣を取つて待つてゐた。左馬頭は憤つて自ら大軍を率ゐて宇都宮へ寄せた。禅可はこれを聞いて、嫡子伊賀守高貞、次男駿河守に八百騎を副へて武蔵国へ遣した。此軍(ぐん)は六月十七日に苦林野(にがばやしの)に著いた。此戦ひにも芳賀伊賀守は打負けて宇都宮に退いたので、基氏は尚ほ攻め立てようとしたが、宇都宮氏綱が急ぎ参つて、「禅可が已に逐電(ちくでん)致した上は、御軍勢をさし向けられるまでもございますまい。」と申したので、左馬頭も深い慮があつたと見え、翌日鎌倉へ帰られた。思慮ない禅可の合戦の為めに、鎌倉の威勢は却つて弥々重くなつたので、大名一揆の嗷議(がうぎ)はこれから少し止んだ。

神木入洛の事附洛中変異の事

 尾張修理大夫入道道朝(だうてう)は、将軍御兄弟の合戦の時慧源禅門(ゑげんぜんもん)の方に附いて打負けたので、暫く宮方に身を寄せてゐたが、新将軍義詮朝臣から招請(せうじやう)せられたので又将軍方になつて、三男治部大輔義将(よしまさ)を表面に立てゝ執事の職に坐らせ、自分は武家の政治を思ふ儘に振舞つた。越前国は彼れの多年の守護の地で、一国の寺社本所領を二分して家人(けにん)に分け与へた。其中に南都(三)の所領河口荘(かはぐちのしやう)を全部家中の料所にした。此所は毎年維摩会(ゆゐまゑ)の費用に宛てるばかりでなく、一寺の学徒がこれを以て生活費にしてゐた所である。それ故に、春日は早く当荘(しやう)押領(あふりやう)の儀を止められよと公家(くげ)に奏聞したり、武家に訴ヘたりした。しかし、公家の勅裁は下つても人が用ひず、武家の奉書(ほうしよ)は憚つて渡す人がない。これが為めに嗷議(がうぎ)の若者、氏人(うぢびと)の国民(くにたみ)らは春日(かすが)の神木を飾つて、大夫入道道朝の宿所の前に振り捨てたので、勅使が参向して神木を長講堂へ入れ奉つた。此頃国々の守護、所々の大名共で、一人として寺社、本所領を押へて領知(りやうち)しない者はなかつたが、叶はぬ訴訟に退屈して、歎きながら徒らに黙止したので、国々の政治には曲事が多かつたけれども、其人には別に罰がないやうであつた。然るに此人一人が、大社(たいしや)の訴訟に関係して呪咀を負つたのは一体どうしたわけか、恐らく其身の不祥からだと思はれたが、同年十月三日道朝の宿所、七条東洞院(とうゐん)から俄に火が出て、財宝一つも残らず、内厩(うちうまや)の馬までも焼け失せたので、これこそ春日明神の御祟りだと噂せぬ者がなかつた。しかし遣朝はやがて三条高倉に屋形(やかた)を建て、将軍の傍近く仕へる事になると、門前に鞍置(くらおき)馬の止む隙なく、庭上に酒肴を舁ぎ列ねない時はなかつた。一体富貴の家は鬼これを睨むといふ。況んや神訴を負うた人である。行末はどうなろだらうと、才ある人はあやしんだ。

諸大名道朝を讒する事附道誉大原野花の会の事

 一体管領職といふものは、将軍家にも主要の一族であるから、誰れが其職を猜まう。道朝は関東の盛時をも見られた人であり、礼儀規律もさすがに今時の人とは異ふから、立派に武家の世をも治めることが出来ようと思はれたのに、案に相違して諸人の心を裏切る事が多く、終に其身を失はれた。それは偏へに春日大明神の冥慮(みようりよ)だと人々は考へた。佐々木入道道誉が五条橋を渡す奉行を承つて、京中の棟別を取りながら、仕事が大きい為め少し延引したのを励ます為め、道朝は他の力を借らず数日の間に渡した。道誉は面目を失つて、其返報をしようと待つてゐると、貞治五年三月四日、道朝から将軍の御所で花の下の遊宴を触れて来た。道誉は其日態と約を違へて、大原野の花の下で大酒宴を催した。道朝は恨を含んで、道誉の落度を理由にして、近年賜はつた摂州の守護職を改め、同国の旧領多田荘(ただのしやう)を没収した。道誉は鬱憤遣る方なく、諸大名を語らつて将軍に讒したので、道朝は罪なくして討たれる事になつた。将軍は之を慰めて、世間の事は心の儘にならぬものである。暫く越前に下つて機会を待たれよといはれたので、道朝は承引して御前を退いた。然るに越前に著くと彼れは杣山城に籠つて北国を打随へようとしたので、将軍も意外に思はれ、「では討手を下せ。」と、畠山尾張守義深以下七千余騎を差し向け、同年十月から攻めにかかつたが、城は容易に落ちるとも見えなかつた。然るに翌年七月、道朝は俄に病に冒されて逝去したので、子息義将(よしまさ)は将軍に色々愁訴したところ、やがて宥免せられて京都へ召し返され、程なく越中の桃井播磨守直常を退治して、越中の守護職に補せられた。これ以後北国は無事になつた。

神木御帰座の事
  
 大夫入道道朝が都を落ちた後、越前国河口荘(かはぐちのしやう)を南都に返附せられたので、神訴は忽ちに解決して、八月十二日神木が御帰座になつた。其時刻は午前六時と定められたが、其暁から雨が闇く降り、風が暴(あら)かつたので、人々は天の忿りが猶ほ残つてゐると思つたが、其時に臨んで急に雨晴れ風静まつて、天気が事の外に麗はしかつたので、やう/\安心の胸を撫で下した。

高魔人来朝の事

 四十余年の間、本朝は大いに乱れたが、外国も亦た暫くも静かでなかつた。此動乱に事寄せて山路には山賊があり、海上には海賊があつて、浦々島々は多く盗賊に掠奪せられ、駅路(えきろ)には駅屋(うまや)の長もなく、関所には関守(も)る人が替つた。これらの賊徒は、遂に数千艘の船を揃へ、元朝(げんてう)高麗(かうらい)の港々に押寄せて、明州(みやうじう)、福州(ふくじう)の財宝を奪ひ取り、官舎寺院を焼き払つたので、元朝三韓の吏民これを防ぎかねて、浦近い国々数十箇国皆栖む人もなく荒れ果てた。これが為めに高麗国の王から元朝皇帝の勅宣を受けて、牒使十七人が吾国に来朝した。此使は異国の至正(しせい)二十三年八月十三日に高麗を立つて、日本国貞治五年九月二十三日に出雲へ著岸(ちやくがん)した。駅を重ねて京都に著いたが、洛中へは入れないで、天龍寺に置かれた。此時の長老春屋和尚(しゆんをくをしやう)智覚普明国師(ちかくふみやうこくし)は牒状を進奏したが、異国を掠奪するのは四国九州の海賊であるから、帝都から厳刑を加へる由がないといつて、返牒を与へられなかつた。たゞ来献(らいけん)の報酬として鞍馬(くらうま)十匹、鎧二領、白太刀三振、御綾(おんあや)十段、綵絹(さいけん)百段、扇子三百本、国々の奉送使を副へて高麗へ送りつけられた。
 
大元(たいげん)より日本を攻むる事
 
 倩々(つら/\)三余の暇(いとま)に寄つて千古の記する処を看るに、異国から吾朝を攻めた事は、開闢以来已に七箇度に及んだ。殊に文永、弘安、両度の戦ひは、大元国の老皇帝が支那四百州を討ち取つて、勢ひ天地を凌ぐ時であつたから、小国の力で退治し難かつたけれども、容易く大元の兵を亡ぼして吾国が無事であつたのは、唯だこれ尊神(そんじん)霊神(じん)の冥助(みやうじよ)に依つたものである。

神功皇后新羅を攻め給ふ事
  
 昔仲哀天皇の三韓を攻めさせられたが、戦ひ利なくして帰らせられたので、神功皇后が更にこれを伐たせられて、「高麗は我日本の犬なり。」と石壁に書きつけて帰らせられた。これから高麗は我朝に従つて、多年其貢(みつぎ)を献つた。今悪逆の賊徒らが元朝、高麗を奪ひ犯して、牒使を立てさせ、其課(かけもの)を送らせる事、前代未聞の不思議である。此分では、吾朝が却つて異国に奪はれはしないかと怪しまれる程の事である。

光厳院禅定法皇行脚の御事
  
 光厳院禅定法皇は、正平七年の頃南山(かんざん)賀名生(あなふ)の奥から囚(とらはれ)を免れさせられて都へ還御になられた後も、御出家あつて、伏見里の奥、光厳院といふ幽閑の地に住ませられた。こゝとても猶ほ都に近く旧臣が時々参り仕へるのが厭はしく、浮世の事が御耳に触れるのを興の冷めた事に思召されるので、唯だ順覚(じゆんかく)といふ僧一人を御供に行脚の為めとて立ち出でさせられた。先づ西国へと志され、難波浦を過ぎて高野山を御覧にならうと、住吉の遠里小野(をりをの)へ出でさせられた。高野山にお著きになると、其日に奥の院へ御参詣あり、三日まで御通夜(つや)あつて暁に立ち出でられた。御下向は大和路に懸らせられたので、道の便りも好しと、南方の主上の御座ある吉野殿へ入らせられる。此三四年先きまでは、皇統南北に分れて、此処に戦ひ彼処に寇(あだ)したけれども、今は散聖道人(さんじやうだうにん)とならせられて、玉体を麻衣草鞋(まえさうあい)に委し、鸞輿(らんよ)を跣行(せんかう)の徒渉(とせふ)に易へて、遥々と此山中まで分け入らせられたので、伝奏(でんそう)はまだ事の有様を奏しない中に直衣(なほし)の袖を濡らし、主上はまだ御会見なき前に、御涙を流させられた。此処に一日一夜御逗留あつて、色々と御物語を重ねられた。主上が「偖も唯今の御容子、覚めての後の夢、夢の中の迷ひかと覚えます。如何なる御発心(ほつしん)でございましたか。誠に御羨しく存じます。」と申されると、法皇は御涙に咽ばれ、稍々あつて、「正平の季(すゑ)には当山の幽閉に逢つて、両年を過ぎるまで秋刑(しうけい)の罪に胆(きも)を嘗(な)めました。これほどまでに世は憂きものかと初めて驚く許りに思ひましたが、一方の戦士が強ひて我れを本主としましたので、遁れ出る隙もありませんでしたが、天地命を革めて、譲位の儀が出たので、此姿となりました。」と御涙の中に語られると、主上も諸卿も共に涙に御袖をしぼられた。「今は。」と法皇がお帰りにならうとされたので、寮の御馬を進(まゐ)らせたけれども御辞退あり、雪の如き御足に荒々しい草鞋を召されて、立ち出でさせられた。主上は武者所(むしやどころ)まで出御あつて御簾を●(「賽」の「貝」が「衣」)(かゝ)げさせられ、月卿雲客は庭上の外まで送り進らせて、皆涙に立ち濡れた。諸国行脚の後、暫く光厳院に御座あつたが、更に丹波国の山国(やまくに)といふ所へ移られ、破蒲団(はふとん)の上に光陰を送らせられた。けれども翌年の夏頃から俄に御不予とならせられ、遂に七月七日にお崩れになつた。

法皇御葬礼の事

 此時の新院光明院殿も、山門貫首(くわんじゆ)梶井宮も、共に皆禅僧とならせられて伏見殿(ふしみどの)に御座あつたので、急ぎ彼の遷化の山陰へ御下りあつて、御荼毘(だび)の事ども取営ませられて、後の山に葬り奉つた。都とは異つて山の中の御葬礼であるから、唯だ徒に鳥が啼いて挽歌(ばんか)(五)の響きを添へ、松が咽んで哀慟の声を助けるばかりであつた。夢なるかな、往昔(わうじやく)の七夕(たなばた)には長生殿にあつて二星一夜の契りを惜ませられたのに、悲しいかな、当年の今日は幽邃(ゆうすゐ)の地にあつて三界八苦の別れに逢うて、万乗の先王、一山の貫頂(くわんちやう)、山中に棺(ひつぎ)を荷つて御葬送を営ませられやうとは。


(一)御用人は官府の用務を行ふ人。
(二)李陵は匈奴と戦つて捕へられた人。
(三)南都は奈良にある東大、興福二寺をさす。
(四)三余とは冬期、夜分、雨天。
(五)挽歌は柩をひく時歌ふ歌。


巻 第四十

中殿御会(ちうでんぎよくわい)の事

 総じて此君は御治世の間、万づ絶えたるを継ぎ、廃れたるを興される叡慮であつたから、諸事の御遊びに御心をお尽しになつた。中殿(ちうでん)の御会(ぎよくわい)は累世の例であるのに、此御代にまだ其沙汰がなかつたので、つれづれに思召し立たれて、関白殿其外の近臣に御相談あり、三月二十九日に行はせられることに定められ、勅喚(ちよくくわん)(一)の人々に、「花多春友。」の題を賦(くば)られた。其日、関白、征夷大将軍以下殿上に参り、権中納言時光卿が、
  咲(さ)きにほふ雲居の花のもとつ枝に
    百代(もゝよ)の春をなほやちぎらむ
といふ御製を披講(ひかう)した。披講の終つた後、御遊びが始まり、翌日の正午頃目出度く会を終へられた。

左馬頭基氏逝去の事

 今年の春頃から鎌倉の左馬頭基氏が稍々健康を害してゐると噂されたが、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で忽ち逝去せられた。兄弟の愛情は深いものであるが、此死別に至つては特に深く悲まざるを得ない。何故なれば、中将義詮、左馬頭基氏二人の同胞は、二翼両輪の如く相並んで、華夷(二)の鎮撫となられ、どちらが欠けても安定が失はれるからである。然るに、今回関東の柱石が摧けて、之からは幕府の威力が衰へやうと、京都では且つ怖れ、且つ嘆いて、祈祷なども行はれるだらうと噂された。

南禅寺三井寺と確執の事

 同年六月十八日、園城寺(をんじやうじ)の衆徒が蜂起して俄に公武(くぶ)に列訴した。それは、南禅寺造営の為めに建てた新関(しんせき)で、三井寺帰院の児(ちご)を関務(くわんむ)(三)の禅僧が殺害したからである。公方(くばう)の御沙汰は裁許の期がなかつたから、園城寺は●(「疑」の右側が「欠」)状を徒らに抛げられた形で、忿りの中に多くの日数を送つた。

最勝講(さいしようかう)の時闘諍(とうじやう)に及ぶ事

 さるほどに、八月十八日、最勝講を行はうと、南都北嶺に命じて行事の人数を召された。興福寺からは十人、東大寺からは二人、延暦寺からは八人である。園城寺は今度の訴訟に是非の御判決が下されないので、公の御請召に従はれない旨を申したので、四箇寺の中の一寺は除かれた。此時南都北嶺の衆徒らが南庭に於て喧嘩を始め、散々の合戦に及んだ。南都の衆徒は面々に脇差の太刀を抜き連れて切つてかゝつた。山門の大衆は太刀長刀を持つてゐなかつたので、紫宸殿(ししいでん)の大床(おほゆか)の上へ捲上げられたが、光円坊の良覚を始め、重立つ大衆は腰刀(こしがたな)だけで引返して、南都の衆徒の中へ切つて入つた。南庭の白砂(しらす)の上には、衆徒が八人までも骸を並べて斬り伏せられた。主上はこれにも騒がせ給ふ事なく、御静かに血を濯ひ清めさせ、席を改めて最勝講を行はせられた。天下の大会(たいゑ)にこんな不思議な事が出て来たのは不吉の前兆だと、人皆物を待つ心地をした。

将軍薨逝(ごうせい)の事

 かうした処へ、同年九月下旬の頃から、征夷大将軍義詮が身心普通でなく、寝食も十分とれないので、医療に名の知られた程の者を皆召して、様々の治術を施されたが、彼の大聖釈尊が沙羅双樹(さらさうじゆ)の必滅に耆婆(きば)の霊薬も其効がなかつたのは、寔(まこと)に浮世の無常を予め示し置かれたものである。同年十二月七日夜十二時に、御年三十八で忽ち薨逝せられた。歎き悲しんでも其甲斐はない。泣く/\葬礼の儀式を営んで、衣笠山(きぬがさやま)の麓等持院(とうぢゐん)に遷し奉つた。今年は一体どうした年であらう、京都と鎌倉と時を同じくして柳営の連枝、忽ちに同根(どうこん)空しく枯れられようとは。これより後は誰れが武将の器を備へて、四海の乱れを治めるだらうかと、世人は今危惧と憂愁とに其胸を塞がれた。

細川右馬頭西国より上洛の事

 細川右馬頭頼之は其頃西国の成敗を司つて、敵を亡ぼし、人をなつけ、諸事沙汰の塩梅が稍々貞永(ぢやうえい)、貞応(じやうおう)の旧規に似てゐると噂されたので、之を天下の管領職に居らしめ、御幼稚の若君(四)を補佐し奉らせようと、群議一定して、右馬頭頼之を武蔵守に補し、執事職を司らせた。外見内実、誠に人の見た通りだつたので、氏族もこれを重んじ、外様(とざま)も彼れの命を聴き、天下は愈々無為の代となつた。誠にめでたい事共である。


(一)勅命に依つて喚ばれる人。
(二)華夷とは中央と地方とを指す。
(三)関務は通行人から銭を取る役。
(四)若君は後の義満。


(奥付)

昭和十二年十一月十日 印刷
昭和十二年十一月十五日発行
現代語訳国文学全集第十六巻 太平記
著作者 西村真次
発行者 加藤雄策
印刷者 君島 潔




はしがき

 解題に於いて述べた通り、『太平記』には色々の伝本があるにも拘はらず、私はそれらに目をかさず、ひたぶるに流布本から此現代訳を試みることにした。それは流布本こそ、民族的大衆的文学としての『太平記』の最後的な姿、成全的な相を具へたものと信じたからである。
 多くの文学がどちらかといへばwieblichであるのに、『太平記』がmannlichであることを私は喜んでゐる。私は形の麗はしさよりも、心の美くしさを悦ぶものであるが、『太平記』に磅●(「いしへん」+「薄」)してゐる日本的精神は、国家日本を無上の高位におし昂げようとする意欲に燃えてゐる民族理想の一端をあらはしたものであると観ることが出来る点で、我は『太平記』が好きである。唯美的なweiblichな純粋文学とは異つて、壮美的なmannlichな特徴を有つた軍記物語『太平記』を、私が少年の日以来愛読して来たのは此理由からであらう。
 其好きな『太平記』が『現代語訳日本文学全集』の一冊に選ばれ、其現代語訳を私に嘱せられた。忙がしい私がそれを引受けたのには、公的に、私的に、色々の理由があつたが、現代に読み易く、且つ簡単な『太平記』を送る必要のあることを痛感してゐた事と、熱心に計画を実行してゐる谷馨君の熱烈な勧奨に逢つた事とが、私の心を動かした主なる因由であつた。
 現代訳に当つては、森直太郎君と辻森秀英君との援助を煩はした。いくらでも見処がありとしたらそれは両君の功、若しなかつたとしたらそれは私の罪である。両君及び谷君に対して、異つた意義に於いて、それ/゛\感謝の誠意を表したい。

  昭和十二年七月五日
       西村真次


目次

解題…………………………………………………………………………………………一
巻第一……………………………………………………………………………………一五
後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事……………………………………………一五
関所停止の事…………………………………………………………………………一七
立后の事附三位殿御局の事…………………………………………………………一八
儲王の御事……………………………………………………………………………一八
中宮御産御祈りの事附俊基偽つて籠居の事………………………………………二○
無礼講の事附玄慧文談の事…………………………………………………………二一
頼員回忠の事…………………………………………………………………………二二
資朝俊基関東下向の事附御告文の事………………………………………………二五
巻第二……………………………………………………………………………………三二
南都北嶺行幸の事……………………………………………………………………三二
僧徒六波羅へ召捕の事附為明詠歌の事……………………………………………三三
三人の僧徒関東下向の事……………………………………………………………三五
俊基朝臣再び関東下向の事…………………………………………………………三六
長崎新左衛門尉意見の事附阿新殿の事……………………………………………四〇
俊基誅せらるる事附助光が事………………………………………………………四六
天下怪異の事…………………………………………………………………………四六
師賢登山の事附唐崎浜合戦の事……………………………………………………四八
主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事…………………………………五〇
巻第三……………………………………………………………………………………五三
主上御夢の事附楠の事………………………………………………………………五三
笠置軍の事附陶山小見山夜討の事…………………………………………………五六
主上笠置を御没落の事………………………………………………………………六○
赤坂城軍の事…………………………………………………………………………六二
桜山自害の事…………………………………………………………………………六七
巻第四……………………………………………………………………………………七〇
笠置の囚人死罪流刑の事附藤房の事………………………………………………七〇
八歳の宮御歌の事……………………………………………………………………七二
一宮並妙法院二品親王の御事………………………………………………………七三
俊明極参内の事………………………………………………………………………七四
中宮御歎きの事………………………………………………………………………七五
先帝遷幸の事…………………………………………………………………………七五
備後三郎高徳が事……………………………………………………………………七六
巻第五……………………………………………………………………………………八○
持明院殿御即位の事…………………………………………………………………八〇
宣房卿二君奉公の事…………………………………………………………………八〇
中堂の新常燈消ゆる事………………………………………………………………八一
相模入道田楽を弄ぷ並闘犬の事……………………………………………………八二
時政江島参籠の事……………………………………………………………………八四
大塔宮熊野落ちの事…………………………………………………………………八四
巻第六……………………………………………………………………………………九二
民部卿三位局御夢想の事……………………………………………………………九二
楠天王寺に出張の事附隅田高橋並宇都宮が事……………………………………九四
正成天王寺の未来記披見の事………………………………………………………九七
赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事…………………………………………九八
関東の大勢上洛の事…………………………………………………………………九九
赤坂合戦の事附人見本間抜懸の事………………………………………………一〇○
巻第七…………………………………………………………………………………一〇六
吉野の城軍の事……………………………………………………………………一〇六
千剣破城軍の事……………………………………………………………………一〇九
新田義貞に綸旨を賜ふ事…………………………………………………………一一四
赤松蜂起の事………………………………………………………………………一一五
河野謀叛の事………………………………………………………………………一一六
先帝船上へ臨幸の事………………………………………………………………一一六
船上合戦の事………………………………………………………………………一二一
巻第八…………………………………………………………………………………一二四
摩耶合戦の事附酒部瀬河合戦の事………………………………………………一二四
三月十二日合戦の事………………………………………………………………一二五
持明院殿六波羅に行幸の事………………………………………………………一二七
禁裏仙洞御修法の事附山崎合戦の事……………………………………………一二八
山徒京都に寄する事………………………………………………………………一二八
四月三日合戦の事附妻鹿孫三郎勇力の事………………………………………一三〇
主上自ら金輪の法を催せしめ給ふ事附千種殿京合戦の事……………………一三二
谷堂炎上の事………………………………………………………………………一三四
巻第九…………………………………………………………………………………一三六
足利殿御上洛の事…………………………………………………………………一三六
山崎攻めの事附久我畷合戦の事…………………………………………………一三七
足利殿大江山を打越え給ふ事……………………………………………………一三九
足利殿篠村に着御則ち国人馳せ参る事…………………………………………一四〇
高氏願書を篠村八幡宮に籠めらるる事…………………………………………一四一
六波羅攻めの事……………………………………………………………………一四二
主上上皇御●(「さんずい」+「冗」)落の事………………………………一四五
越後守仲時巳下自害の事…………………………………………………………一四七
主上上皇五宮の為に囚はれ給ふ事附資名卿出家の事…………………………一四八
千剣破城寄手敗北の事……………………………………………………………一四九
巻第十…………………………………………………………………………………一五一
千寿王殿大蔵谷を落ちらるる事…………………………………………………一五一
新田義貞謀叛の事附天狗越後勢を催す事………………………………………一五二
三浦大多和合戦意見の事…………………………………………………………一五四
鎌倉合戦の事………………………………………………………………………一五五
赤橋相模守自害の事附本間自害の事……………………………………………一五六
稲村崎干潟となる事………………………………………………………………一五七
鎌倉兵火の事附長崎父子武勇の事………………………………………………一五八
大仏貞直並金沢貞将討死の事……………………………………………………一五九
信忍自害の事………………………………………………………………………一六○
塩田父子自害の事…………………………………………………………………一六〇
塩飽入道自害の事…………………………………………………………………一六一
安東入道自害の事…………………………………………………………………一六一
亀寿殿信濃へ落さしむる事附左近大夫偽つて奥州へ落つる事………………一六二
長崎次郎高重最後の合戦の事……………………………………………………一六二
高時並一門以下東勝寺に於て自害の事…………………………………………一六三
巻第十一………………………………………………………………………………一六六
五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事……………………………………………一六六
諸将早馬を船上に進らせらるる事………………………………………………一六八
書写山行幸の事附新田注進の事…………………………………………………一六九
正成兵庫へ参る事附遷幸の事……………………………………………………一七〇
筑紫合戦の事………………………………………………………………………一七一
長門の探題降参の事………………………………………………………………一七二
越前の牛原地頭自害の事…………………………………………………………一七三
越中の守護自害の事附怨霊の事…………………………………………………一七四
金剛山の寄手等誅せらるる事附佐介貞俊が事…………………………………一七五
巻第十二………………………………………………………………………………一七七
公家一統政道の事…………………………………………………………………一七七
大内裏造営の事……………………………………………………………………一八〇
安鎮国家の法の事附諸将恩賞の事………………………………………………一八一
千種殿並文観僧正奢侈の事………………………………………………………一八二
広有怪鳥を射る事…………………………………………………………………一八三
神泉苑の事…………………………………………………………………………一八五
兵部卿親王流刑の事………………………………………………………………一八六
巻第十三………………………………………………………………………………一八九
龍馬進奏の事………………………………………………………………………一八九
藤房卿遁世の事……………………………………………………………………一九一
北山殿謀叛の事……………………………………………………………………一九二
中前代蜂起の事……………………………………………………………………一九五
兵部卿宮薨後の事…………………………………………………………………一九五
足利殿東国下向の事附時行滅亡の事……………………………………………一九七
巻第十四………………………………………………………………………………一九九
新田足利確執奏状の事……………………………………………………………一九九
節度使下向の事……………………………………………………………………二〇〇
矢矧、鷺坂、手越河原闘ひの事…………………………………………………二○二
箱根竹下合戦の事…………………………………………………………………二〇四
官軍箱根を引退く事………………………………………………………………二〇六
諸国の朝敵蜂起の事………………………………………………………………二〇七
将軍御進発大渡山崎合戦の事……………………………………………………二○八
主上都落ちの事附勅使河原自害の事……………………………………………二一一
長年帰洛の事附内裏炎上の事……………………………………………………二一二
将軍入洛の事附親光討死の事……………………………………………………二一三
坂本御皇居並御願書の事…………………………………………………………二一三
巻第十五………………………………………………………………………………二一六
園城寺戒壇の事……………………………………………………………………二一六
奥州勢坂本に著く事………………………………………………………………二一七
三井寺合戦の事……………………………………………………………………二一八
建武二年正月十六日合戦の事……………………………………………………二二○
正月二十七日合戦の事……………………………………………………………二二三
将軍都落ちの事附薬師丸帰京の事………………………………………………二二五
大樹摂津国豊島河原合戦の事……………………………………………………二二七
主上山門より還幸の事……………………………………………………………二二八
加茂の神主改補の事………………………………………………………………二二八
巻第十六………………………………………………………………………………二三〇
将軍筑紫へ御開きの事……………………………………………………………二三〇
少弐菊池と合戦の事附宗応蔵主が事……………………………………………二三一
多々良浜合戦の事附高駿河守例を引く事………………………………………二三一
西国蜂起官軍進発の事……………………………………………………………二三三
新田左中将赤松を攻めらるる事…………………………………………………二三四
児島三郎熊山に旗を挙ぐる事附船坂合戦の事…………………………………二三五
将軍筑紫より御上洛の事附瑞夢の事……………………………………………二三六
備中の福山合戦の事………………………………………………………………二三七
新田殿兵庫を引かるる事…………………………………………………………二三九
正成兵庫に下向の事………………………………………………………………二三九
兵庫海陸寄手の事…………………………………………………………………二四一
本間孫四郎遠矢の事………………………………………………………………二四二
経島合戦の事………………………………………………………………………二四三
正成兄弟討死の事…………………………………………………………………二四四
新田殿湊川合戦の事………………………………………………………………二四六
小山田太郎高家青麦を刈る事……………………………………………………二四七
聖主又山門へ臨幸の事……………………………………………………………二四八
持明院、本院、東寺に潜幸の事…………………………………………………二四八
日本朝敵の事………………………………………………………………………二四九
正成が首故郷へ送る事……………………………………………………………二五〇
巻第十七………………………………………………………………………………二五五
山門攻めの事附日吉神託の事……………………………………………………二五五
京都両度軍の事……………………………………………………………………二六〇
山門の牒南都に送る事……………………………………………………………二六一
隆資卿八幡より寄せらるる事……………………………………………………二六二
義貞軍の事附長年討死の事………………………………………………………二六三
江州軍の事…………………………………………………………………………二六五
山門より還幸の事…………………………………………………………………二六五
儲君を立て義貞に著けらるる事附鬼切を日吉へ進ぜらるる事………………二六六
義貞北国落ちの事…………………………………………………………………二六八
還幸供奉の人々禁殺せらるる事…………………………………………………二六八
北国下向勢凍死の事………………………………………………………………二六九
瓜生判官心変りの事附義鑑房義治を蔵す事……………………………………二七〇
十六騎の勢金崎に入る事…………………………………………………………二七二
金崎船遊びの事附白魚船に入る事………………………………………………二七二
金崎城攻むる事附野中八郎が事…………………………………………………二七三
巻第十八………………………………………………………………………………二七六
先帝吉野へ潜幸の事………………………………………………………………二七六
高野根来と不和の事………………………………………………………………二七八
瓜生旗を挙ぐる事…………………………………………………………………二七八
越前府の軍附金崎後攻の事………………………………………………………二七九
瓜生判官老母が事…………………………………………………………………二八〇
金崎城落つる事……………………………………………………………………二八一
春宮還御の事附一宮御息所の事…………………………………………………二八三
此叡山開闢の事……………………………………………………………………二八五
巻第十九………………………………………………………………………………二八七
光巌院殿重祚の御事………………………………………………………………二八七
本朝の将軍補任兄弟其の例なき事………………………………………………二八七
新田義貞越前府の城を落す事……………………………………………………二八八
金崎の東宮並将軍宮御隠れの事…………………………………………………二八九
諸国の宮方蜂起の事………………………………………………………………二九〇
相模次郎時行勅免の事……………………………………………………………二九一
奥州国司顕家卿上洛並新田徳寿丸上洛の事……………………………………二九一
奥州勢の跡を追ひて道々合戦の事………………………………………………二九二
青野原軍の事………………………………………………………………………二九三
巻第二十………………………………………………………………………………二九七
黒丸城初度軍の事附足羽度々軍の事……………………………………………二九七
越後勢越前に越ゆる事……………………………………………………………二九八
宸筆の勅書義貞に下さるる事……………………………………………………二九九
義貞山門に牒ず同じく返牒の事…………………………………………………三〇〇
八幡炎上の事………………………………………………………………………三〇一
義貞重ねて黒丸合戦の事附平泉寺調伏の法の事………………………………三〇三
義貞夢想の事附諸葛孔明が事……………………………………………………三〇四
義貞の馬属強ひの事………………………………………………………………三〇六
義貞自害の事………………………………………………………………………三〇七
義助重ねて敗軍を集むる事………………………………………………………三一一
義貞の首を獄門に懸くる事附勾当内侍の事……………………………………三一一
奥州下向の勢難風に逢ふ事………………………………………………………三一八
結城入道地獄に墜つる事…………………………………………………………三一九
巻第二十一……………………………………………………………………………三二四
天下時勢粧の事……………………………………………………………………三二四
佐渡の判官入道流刑の事…………………………………………………………三二五
法勝寺の塔炎上の事………………………………………………………………三二七
南帝受禅の事………………………………………………………………………三三〇
遺勅に任せ綸旨を成さるゝ事附義助黒丸城を攻め落す事……………………三三〇
塩冶判官讒死の事…………………………………………………………………三三二
巻第二十二……………………………………………………………………………三四四
畑六郎左衛門が事…………………………………………………………………三四四
義助吉野へ参らるる事並隆資物語りの事………………………………………三四七
佐々木信胤宮方になる事…………………………………………………………三四九
義助予州へ下向の事………………………………………………………………三五二
義助朝臣病死の事附鞆軍の事……………………………………………………三五三
大館左馬助討死の事附篠塚勇力の事……………………………………………三五六
巻第二十三……………………………………………………………………………三六〇
大森彦七が事………………………………………………………………………三六〇
直義病悩に就いて上皇御願書の事………………………………………………三六七
土岐頼遠御幸に参り合ひ狼藉を致す事附雲客車より下るる事………………三六八
巻第二十四……………………………………………………………………………三七四
朝儀年中行事の事…………………………………………………………………三七四
天龍寺建立の事……………………………………………………………………三七五
山門の嗷訴に依つて公卿僉議の事………………………………………………三七六
天龍寺供養の事附大仏供養の事…………………………………………………三八二
三宅、荻野謀叛の事附壬生地蔵の事……………………………………………三八四
巻第二十五……………………………………………………………………………三八八
持明院殿御即位の事附仙洞妖怪の事……………………………………………三八八
宮方の怨霊六本杉に会する事附医師評定の事…………………………………三八九
藤井寺合戦の事……………………………………………………………………三九〇
伊勢より宝剣を進る事附黄簗夢の事……………………………………………三九三
住吉合戦の事………………………………………………………………………三九五
巻第二十六……………………………………………………………………………四〇一
正行吉野へ参る事…………………………………………………………………四〇一
四条縄手合戦の事附上山討死の事………………………………………………四〇五
楠正行最後の事……………………………………………………………………四一三
吉野炎上の事………………………………………………………………………四一六
賀名生皇居の事……………………………………………………………………四一八
執事兄弟奢侈の事…………………………………………………………………四一八
上杉畠山高家を讒する事附廉頗藺相如が事……………………………………四二○
妙吉侍者の事附始皇帝の事………………………………………………………四二一
直冬中国下向の事…………………………………………………………………四二三
巻第二十七……………………………………………………………………………四二五
天下妖怪の事附清水寺炎上の事…………………………………………………四二五
田楽の事附長講見物の事…………………………………………………………四二六
雪景未来記の事……………………………………………………………………四二七
左兵衛督師直を誅せんと欲する事………………………………………………四二八
御所を囲む事………………………………………………………………………四二九
右兵衛佐直冬鎮西没落の事………………………………………………………四三一
左馬頭議詮上洛の事………………………………………………………………四三二
直義朝臣隠遁の事附玄慧法印末期の事…………………………………………四三三
上杉畠山流罪死刑の事……………………………………………………………四三四
大嘗会の事…………………………………………………………………………四三七
巻第二十八……………………………………………………………………………四三九
義詮朝臣御政務の事………………………………………………………………四三九
太宰少弐直冬を婿とし奉る事……………………………………………………四三九
三角入道謀叛の事…………………………………………………………………四四○
直冬朝臣蜂起の事附将軍御進発の事……………………………………………四四二
錦小路殿南方に落ち給ふ事………………………………………………………四四三
持明院殿より院宣をなさるる事…………………………………………………四四四
慧源禅巷南方合体の事附漢楚合戦の事…………………………………………四四四
巻第二十九……………………………………………………………………………四三九
宮方京攻めの事……………………………………………………………………四三九
将軍上洛の事附阿保、秋山河原軍の事…………………………………………四四九
将軍親子御退出の事附井原石窟の事……………………………………………四五二
越後守石見より引返す事…………………………………………………………四五二
光明寺合戦の事附師直怪異の事…………………………………………………四五三
小清水合戦の事附瑞夢の事………………………………………………………四五五
松岡城周章の事……………………………………………………………………四五六
師直、師泰出家の事附薬師寺遁世の事…………………………………………四五八
師冬自害の事附諏訪五郎が事……………………………………………………四五九
師直以下誅せらるる事附仁義血気勇者の事……………………………………四六〇
巻第三十………………………………………………………………………………四六四
将軍兄弟和睦の事附天狗勢汰の事………………………………………………四六四
高倉殿京都退去の事附殷の紂王の事……………………………………………四六五
直義追罰の宣旨御使の事附鴨の社鳴動の事……………………………………四六六
薩●(「つちへん」+「垂」)山合戦の事……………………………………四六七
慧源禅門逝去の事…………………………………………………………………四六八
吉野殿相公羽林と御和睦の事附住吉の松折るる事……………………………四六九
相公江州落ちの事…………………………………………………………………四七一
持明院殿吉野遷幸の事附梶井宮の事……………………………………………四七二
巻第三十一……………………………………………………………………………四七五
新田義兵を起す事…………………………………………………………………四七五
武蔵野の合戦の事…………………………………………………………………四七七
鎌倉合戦の事………………………………………………………………………四八○
笛吹峠軍の事………………………………………………………………………四八一
八幡合戦の事附官軍夜討の事……………………………………………………四八二
南帝八幡御退失の事………………………………………………………………四八六
巻第三十二……………………………………………………………………………四八九
茨宮御位の事……………‥…‥…‥…‥………………………………………四八九
剣璽なくして御即位の例なき事附御所炎上の事………………………………四八九
山名右衛門佐敵となる事附武蔵将監自殺の事…………………………………四九○
主上義詮没落の事附佐々木秀綱討死の事………………………………………四九三
山名伊豆守時氏京落ちの事………………………………………………………四九四
直冬吉野殿と合体の事附天竺震旦物語の事……………………………………四九五
直冬上洛の事附鬼丸鬼切の事……………………………………………………四九七
神南合戦の事………………………………………………………………………四九八
巻第三十三……………………………………………………………………………五〇二
京軍の事……………………………………………………………………………五〇二
八幡御託宣の事……………………………………………………………………五〇三
三上皇吉野より御出での事………………………………………………………五〇四
飢人身を投ぐる事…………………………………………………………………五〇四
公家武家栄枯地を易ふる事………………………………………………………五〇六
将軍御逝去の事……………………………………………………………………五〇七
新待賢門院附梶井宮御隠れの事…………………………………………………五〇八
崇徳院の御事………………………………………………………………………五〇八
菊池合戦の事………………………………………………………………………五〇九
新田左近衛佐義興自害の事………………………………………………………五一一
巻第三十四……………………………………………………………………………五一六
宰相中将殿に将軍の宣旨を賜はる事……………………………………………五一六
畠山道誓上洛の事…………………………………………………………………五一七
和田楠軍評定の事附諸卿分散の事………………………………………………五一七
新将軍南方進発の事附軍勢狼籍の事……………………………………………五一八
紀州龍門山軍の事…………………………………………………………………五一九
二度紀伊国軍の事附住吉の楠折るる事…………………………………………五二〇
銀嵩軍の事附曹蛾、精衛の事……………………………………………………五二一
龍泉寺軍の事………………………………………………………………………五二三
平石城軍の事附和田夜討の事……………………………………………………五二四
吉野の御廟神霊の事附諸国の軍勢京都に還る事………………………………五二五
巻第三十五……………………………………………………………………………五二八
新将軍帰洛の事附仁木義長を討たんと擬する事………………………………五二八
京勢重ねて南方発向の事附仁木没落の事………………………………………五二九
南方蜂起の事附畠山関東下向の事………………………………………………五三一
北野通夜物語の事附青砥左衛門が事……………………………………………五三二
尾張小河、東池田が事……………………………………………………………五三五
巻第三十六……………………………………………………………………………五三八
仁木京兆南方へ参る事附太神宮御託宣の事……………………………………五三八
大地震並夏雪の事…………………………………………………………………五三九
天王寺造営の事附京都御祈祷の事………………………………………………五四○
山名伊豆守美作城を落す事附菊池軍の事………………………………………五四一
秀詮兄弟討死の事…………………………………………………………………五四三
清氏叛逆の事附相模守子息元服の事……………………………………………五四四
頓宮心変りの事附畠山道誓が事…………………………………………………五四七
巻第三十七……………………………………………………………………………五四九
新将軍京落ちの事…………………………………………………………………五五○
南方の官軍都を落つる事…………………………………………………………五五二
持明院新帝江州より還幸の事附相州四国に渡る事……………………………五五三
大将を立つペき事附漢楚義帝を立つる事………………………………………五五四
尾張左衛門佐遁世の事……………………………………………………………五五五
身子声聞、一角上人、志賀寺上人の事…………………………………………五五六
畠山入道道誓謀叛の事附揚国忠が事……………………………………………五五八
巻第三十八……………………………………………………………………………五六一
彗星客星の事附湖水乾く事………………………………………………………五六一
諸国宮方蜂起の事附備前軍の事…………………………………………………五六二
九州探題下向の事附李将軍陣中に女を禁ずる事………………………………五六三
菊池、大友軍の事…………………………………………………………………五六四
畠山兄弟修禅寺城に楯籠る事附遊佐入道の事…………………………………五六六
細川相模守討死の事附西長尾軍の事……………………………………………五六七
和田、楠、箕浦次郎左衛門と軍の事……………………………………………五七○
大元軍の事…………………………………………………………………………五七一
巻第三十九……………………………………………………………………………五七四
大内介降参の事……………………………………………………………………五七四
山名京兆御方に参らるる事………………………………………………………五七五
仁木京兆降参の事…………………………………………………………………五七五
芳賀兵衛入道軍の事………………………………………………………………五七六
神木入洛の事附洛中変異の事……………………………………………………五七七
諸大名道朝を讒する事附道誉大原野花の会の事………………………………五七九
神木御帰座の事……………………………………………………………………五八〇
高麗人来朝の事……………………………………………………………………五八○
大元より日本を攻むる事…………………………………………………………五八一
神功皇后新羅を攻め給ふ事………………………………………………………五八二
光巌院禅定法皇行脚の御事………………………………………………………五八二
法皇御葬礼の事……………………………………………………………………五八四
巻第四十………………………………………………………………………………五八六
中殿御会の事………………………………………………………………………五八六
左馬頭基氏逝去の事………………………………………………………………五八七
南禅寺三井寺と確執の事…………………………………………………………五八七
最勝講の時闘諍に及ぷ事…………………………………………………………五八八
将軍薨逝の事………………………………………………………………………五八八
細川右馬頭西国より上洛の事……………………………………………………五八九


解題
  
 『太平記』は『平家物語』などゝ、共に、国民の間に最も広く分布し、最も多く愛読されて来た軍記物語である。
 本書の作者に就いては、古来種々の説が行はれてゐるが、未だ定説といふほどのものが出来てゐない。今其数例を挙げて見よう。今川了俊は応永九年に著した『難太平記』に於いて、
『六波羅合戦の時、大将名越うたれしかば、今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと太平記に書たり。かへす/゛\無念の事也。此記の作者は宮方深重の者にて、無案内にて押て如此書たるにや。寔に尾籠のいたりなり。』
と書いて、其作者を宮方即ち吉野朝に属する人であるといつてゐる。又『太平記理尽抄』では、後醍醐天皇をはじめ奉り、万里小路藤房、北畠玄恵、新田義貞、足利尊氏、同直義、赤松則祐らを以て各巻に配し、それらの人々をそれ/゛\の作者に擬してゐるが、元来、此『理尽抄』はあまり信拠し難い書物であるから、『太平記』の作者に関する説も亦た信じ難い。さればといつて、了俊の説も、漠然たる推定の範囲を脱しない。
 次に、これらの説にも増して有名な根拠となる文献は、洞院公定の日記の応安七年五月三日の条に見える次ぎの記事である。
 『伝へ聞く、去る廿八九日の間、小島法師円寂と云々。是近日天下に翫ぶ太平記の作者なり、卑賤の器たりと雖も、名匠の聞あり、無念と謂ふ可し。』
 公定は内大臣実夏の子であり、而して応安七年は『太平記』の内容の最後の年紀である貞治六年から八年後に相当して居り、日記の筆者と其時とを併せ考へると、此記載は、たとへそれが当時の巷説を記したものであつたとしても、先づ信拠してよいものであらう。しかしながら、文中の小島法師は一体どんな人か、其経歴等は一切判明してゐない。従つてこゝから種々の問題が惹起せられる。古くは故星野恒博士の如きは、これを南朝の忠臣児島高徳であらうと云はれたが、それは何らの根拠もない臆説に過ぎなかつた。又近くは藤田徳太郎氏の如きは、これは作者ではなくして、『太平記』を語る物語僧であらうといふ新説を提出してゐる。けれども中世的意識に於いては、語り手は同時に作者でもあつた。要するに、小島法師といふ一遁世者が、『太平記』の作者の一人であつたとの推定は是認せられねばならない。
又別に、一方、作者が叡山に関係の深い人であらうと云ふ推論も行はれてゐるが、これは書中に叡山に関する記事が多く見え、且つ其部分は好意的な筆法を用ひて、常に叡山の肩を持つてゐるからである。これと同時に、他方では禅僧の作であらうとも云はれてゐるが、それは書中に禅的思想が顕著に表はれてゐるからである。これらの説のどちらが正しいかを一概に定める事は容易でない。
 先にちよつと触れて置いた如く、今川了俊は作者を武家方に好意を持たない人であらうと推定したが、これ又容易に決定し難いことで、尊氏、直義らに対する作者の批判にも擁護的な態度が見えてゐる。
 これらは作者の態度が終始一貫してゐないと云ふ事の現はれでもあるが、一つには『太平記』の取扱つてゐる戦乱は極めて複雑なものであり、局面も広く、戦闘の頻度も多く、期間も長く、凡そ五十年に亘つて紛糾が続いたので、記述も自ら錯雑して散漫となり、従つて叙事の中心が動揺したと云ふ事も考へられる。しかし更に根本的な原因は、作者が唯一人でなかつたと云ふ点にある。これに就いては、今川了俊が次ぎの如く語つてゐる。
 『昔等持寺にて法勝寺の恵珍上人、此記を先三十余巻持参し給ひて、錦小路殿の御目にかけられしを、玄恵法印によませられしに、おほく悪ことも、誤も有しかば、仰に云、是は且く見及ぶ中にも、以の外ちがひめおほし、追て書入、又切出すべき事等有。其程不可有外聞之由仰有し。後に中絶也。近代重て書続げり。次でに入筆共を多所望してかゝせければ、人の高名数しらず書り。』
 此記述によると、私達が今日見るところの『太平記』が、一作者によつて一度に書かれたものでないことが知れる。即ち或は小島法師の如き人が、最初に幾巻かの『太平記』を著作し、其後更に幾人かの人が数度に亘つて、それに改訂と増補とを行つて、今日見る様な『太平記』が成立したのであるかも知れない。果して然らば、本書に現はれてゐる思想なり批判なりに統一がなく、往々にして態度に変化のあるのは当然過ぎる当然であらねばならぬ。或部分には叡山関係の記事が多く、他の部分には禅宗に関する記事が著しく、更に吉野朝側に立つて事物を観察するかと思へば、武家方の肩を持つて批判することもあつて、決して其いづれかの一方に偏する事がないと云ふのが却つて見処ではあるまいか。
 次には本書の題名を何故に『太平記』と称したかを一応考へて見よう。これについては、先きに挙げた『太平記理尽抄』には、『此書名を改むる事四度』とあつて、『安危由来記』、『国家治乱記』、『国家太平記』、『天下太平記』といふ順に改められたと云つてゐるが、前記の『公定日記』にも既に『太平記』の書名が見え、了俊も『太平記』といふ名称を用ひてゐるのであるから、『太平記』の書名は早くから使用されてゐたものに相違ない。尤も『理尽抄』が幾度も書名を改めたやうに提唱したのは、乱世の社会を描写した書物に『太平記』の名称を冠してゐるのは奇であるといふ考へから、当初は『安危由来記』と云つたのだなどと推定したのかも知れない。所が『太平記』の取扱つてゐる期間、即ち文保二年乃至貞治六年の五十年間の丁度半に当る貞和二年に、勅撰歌集である『風雅集』の一部が出来た時、本来ならば和歌集の全部が完成して後行はれる筈の紀念の宴、所謂竟宴が、全部の撰が未だ終らない中に宮中に於て催された。これに対して洞院公賢は其日記に『近来天下惣別太平の時分得難き也、仍て今度序並に春上一巻を以て此宴行はる』と述べてゐる。これは天下が太平になるのはいつの事か分らないから、一部の撰の終つたのを機会に先づ竟宴を行ふべきだと云ふ意味で、如何に当代の人が『太平の時分』即ち太平の御代を熱心に待望してゐたかゞうかゞはれるのである。此将来への熱望が書名に撰ばれて、『太平記』と命名されるに至つたことは疑ひがない。本書巻尾に『中夏無為の代に成つて、目出たかりし事共也』とあるのも、かうした期待の実現を悦んだものと考へられる。
 第三には本書の成立に就いて考察する。前述の『難太平記』には、恵珍上人が『此記を先三十余巻持参し給ひて、錦小路殿の御目にかけられしを』とあるが、これは数十巻あつた『太平記』の内、先づ三十余巻を持参したといふのであるから、今日私達の手にする四十巻本と同じものゝやうにも思はれるが、内容的にいへば、玄恵の病没のことは巻二十七にあり、錦小路殿(直義)の毒害せられたことは巻三十に見出されるから、了俊の問題視する『太平記』が全然今日のものと別種のものであつた事は明かである。又前にも述べた如く、『太平記』は幾人も書き、幾度も増補されたものであるが、その一人と思はれる此玄恵が、直義の命によつて読んだと云ふ『太平記』の著作年代を推定すると、それは丁度興国の末年から正平の初めに亘る数年間であると考へられる。其理由として、私は玄恵の没年が正平五年である事、天下が一時静謐になつたのは興国四年頃である事の二つを挙げ、此数年間でなければ『太平記』の成立する時期がないと考へるのである。ところが今日の流布本を見ると、其巻首、『後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事』の条に、
『是より四海大に乱て一日も未だ安からず、狼煙天を翳し、鯨波地を動すこと今に至り四十余年、一人にして春秋に富むを得ず。』
とあるが、此『今に至る四十余年』とは一体何時か、『太平記』の最後である正平二十三年から逆算して四十余年以前は即ち元享年間の事である。又天文本と称する一写本にはこれが四十余年ではなくして、廿余年となつてゐるが、これは元享年間から廿余年後とすると、丁度興国の末年から正平の初めの頃までとなり、今川了俊の示した『太平記』の成立年代に一致してゐる。従つて流布本の四十余年もこれと同様元享年間以後を指し、正平二十三年から文中元年の頃までに書かれた事となる。更に又或写本にはこれを三十余年としてゐるが、同様元享年間から三十余年を下ると、丁度正平十一年頃から同十六年頃に至る間となり、此頃に筆が加つたものとなる。以上の二十年、三十年、四十年の三推定によつて、『太平記』が興国末年から正平初年に一応成立し、次いで正平十一年頃から同十六年頃までの間に一回、正平二十三年から文中元年に至る間に一回、都合二回の増補改訂が行はれたと考へられるのであるが、流布本『太平記』の記事中、最終年代を示すものは、巻三十九の『法皇御葬礼事』の条の宸筆御八講の記事で、それは実に応安三年七月のことである。それには『継体の天子今上皇帝、御手目一字三礼の紺紙金泥の法華経をあそばされて』とあるが、今上とは即ち後光厳院を指し奉るものであり、従つて此記事は、後光厳院の御在位中に成つたものと考へねばならない。而して後光厳院は応安四年三月二十三日に後円融院に御位を譲られたから、流布本『太平記』の成立はそれ以前である筈である。即ち成立年代は限定されて、応安三年七月以降同四年三月までの間となる。今一つ注意すべきことは、巻第三十五の『北野通夜物語事』の条に、『今元弘より以来天下大に乱て三十余年、一日もいまだ静なる事を得ず』との句があるが、元弘の擾乱以来三十余年と云へば、正平十七年頃から建徳二年頃までの間である。先に示した応安の年号は京都朝の年号であつて、応安四年と云へば吉野朝の建徳二年に相当し、其頃が即ち『太平記』の大成した時代であると考へられるのである。
 既に屡々述べた如く、『太平記』は非常に普及したものであり、又幾度も書き改められたものでもあつたから、自ら種々の伝本が出来た。これらの諸本を次々に概観して行くと、古写本の現存するものは案外に少いとは云へ、其数は二十種を越してゐる。其中、神田本と西源院本とは、書写年代が一番古い。神田本はもと神田男爵の所蔵に係り、『神田本太平記』として国書刊行会から刊行された事がある。此書の特色は簡古の趣のある事で、流布本に比して語句に多くの差異があり、『太平記』の原形を私達に偲ばしめる処が多いが、闕巻の多いことが欠点である、今日では二十六巻しか存在してゐない。次に西源院本は京都龍安寺の所蔵で、国宝となつて居り、最近刊行せられた。此方は全部で四十巻あつて、他の諸本に比して割合に書写が正確であり、改竄の形跡も少く、古写本中第一位を占めるものである。其他南都本、内閣文庫本、天文本、天正本、等々、それ/゛\多少特色のある写本もあるが、今はそれらに触れないことにする。これらの諸写本中、巻二十二を闕佚した本は何れも善本で、比較的古写本であるが、これを有する流布本系統の写本は比較的新しいものである。即ち此巻二十二を有する写本は、後人が失はれた一巻を故意に補充しようとして、前後の巻から数章を採り来つて作為したものなのである。
 『太平記』は後醍醐天皇の鎌倉幕府御討伐の御計画から、足利義満が将軍職を継ぎ、細川頼之が管領となつて将軍を補佐する処までを描き、この間には後醍醐天皇の御遷幸、楠木正成、新田義貞、名和長年らの挙兵、鎌倉幕府の没落、建武中興、尊氏の謀叛、湊川合戦、吉野朝の成立、さては後醍醐天皇の崩御、足利氏の内紛、後村上天皇の京都御回復、吉野朝の衰微、等々、凡そ五十年間の治乱興亡の跡を叙述しものであるが、結構の整備し、筋道のよく運んでゐるのは、概して全巻中の前半であつて、時代が下るに従つて内容が次第に複雑紛糾し、後半は全く統一が闕けてゐる。又たとへ軍記物語とは云へ、描写が合戦の事に傾き過ぎて、優美な風流譚や可憐な恋物語などを閑却してゐるので、記事が自ら殺伐となり勝ちであることは欠陥である。又『太平記』の作者は戦敗者の行動をより詳しく写し、且つ宮方に同情した処が多いのであるが、大体には公平な見解を有し、冷静な批判と公正な論議とが試みられてゐる。紛糾混乱した世相の帰する処は、功利的末法的な時勢と、統制を失つた人慾と、悪魔の跋扈とであると観じ、処々に展開する悲惨な流離敗亡の姿を中世的な宿命、因果であるとし、運命は一に神仏の左右する処であると断じてゐる。けれども巻中には、勇武、強剛、壮烈、果敢の気魄が充溢し、男性的な特色がよくあらはされてゐる。のみならず其間には真と善とに憧憬する破邪顕正の理想が標榜せられ、敬神崇仏の思想を強調したり、信念や道義の鼓吹につとめたりして、教訓的動向、宗教的傾向の著しいことは特徴である。殊に注目すべきは、皇室尊崇の思想が全篇を一貫し、幾多の忠臣義士の忠烈な行動を描いて治世の大道、人倫の本義を勧めることを、社会指導精神としてゐたことがうかがはれる。従つて恋愛の如きは之を罪悪として排斥したから、節操ある女性を義烈の婦人として取扱ひ、反対に恋愛に耽溺する女性を卑下し、専ら武勇を宗とすべき武士で女に関係した者は悉く醜名を後世に残すが如き描写を試みた。つまり『太平記』の指導精神は倫理的想念で、其資源を儒教、禅宗、武士道のイデアから獲得し、それらを展開する歴史的事実に結合して活動躍動せしめてゐる。
『太平記』の創作態度は、個人よりも集団の描写に重きを置くと云ふ風であるから、自ら概念的となり、個性の活躍は乏しいけれども、時代の核心を十分に把握して、よく深刻な人生の様相を伝へてゐる。尚古的な思想も著しく、故事先例を引用して古今を対●(「激」の「さんずい」の代わりに「糸」へん)昭応せしめ、比喩などによつて行文を修飾し、和漢混淆の文体を用ひて、絢爛、豪宕の趣味を発揮し、剛壮、堅実なる男性的時代性を表現したところは物凄いばかりである。従つて本書は一面、文学として特殊の地位と価値とを有し、他面、吉野時代の史書としても相当な重力が認められてゐる。
 本書はかうして、読者の興味を誘ふのに十分な内容を有つてゐるが、軍記物語と云ふ本来の性質から、合戦の方法や武士の心得を記すのに苦心した。たとへば乗馬の方法を始め、渡河、攻防、退却の法、陣形等に至るまで、一切の兵術を詳述したところから、兵学書として武人の間に大に愛読されたと云ふのは当然のことである。今川本と称する近衛家所蔵の『太平記』古写本の奥書には、伊豆国主北条早雲が平生『太平記』を愛読し、自ら類本を蒐集して誤写を訂正し、それが完成した後下野の足利学校に送つて学徒に糾明させ、然る上、其本を京都に送つて壬生官務大外記に加点朱引を依頼し、読僻等を書入れさせたといふ事が見えてゐる。甲斐の国主武田氏の一族、武田信懸が、駿河の国主今川氏親から『太平記』を借りて写させた事は著名である。又神田本『太平記』は豊臣秀吉が珍蔵したもので、それが其夫人高台院に伝はり、更に木下利房の手に移つたものであるといはれる。
 本書は其謡物的な性質から、国民の間に普及して一般に愛誦された。最初は物語僧によつて講演せられたが、近世に至つては特に『太平記読』として民衆の間に講釈せられ、今日の講談の起源となつたほど、国民文学としての特色を具へた大衆的な、親炙力に富んだ著作である。
 かうして『太平記』は後世文学に対して著しい影響を与へた。謡曲の『自髭』、『鉢木』、『大塔宮』、『大森彦七』等は、『太平記』に取材したものであるが、舞の本にも新曲、浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』、『神霊矢口渡』等は、同様これから取材されてゐる。其他御伽草子や草双紙類などの中にも太平記物が続出し、其中には題材のみならず部分的ながら文章をそのまゝ使用したものさへもある。更に又『太平記』なる名称を採つて、『碁盤太平記』、『御伽太平記』、『化物太平記』、『東国太平記』、『慶安太平記』などの如きものが沢山現はれ、『太平記』の影響の範囲が如何に広いかを私達に知らしめる。民族的、大衆的創作の威力の強大さを示すものとして、『太平記』は実に代表的作物の一つである。
  昭和十二年六月三十日   西村真次